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2021/02/02

怪談登志男 十三、望見の妖怪

 

   十三、望見の妖怪(もちみのやうくわい)

Motiminoyoukai

[やぶちゃん注:ずっと後の離れた位置にある本篇の挿絵を、国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングして示した。]

 國々、所々にて、さまざまの風俗ある中に、信濃國千町(せんちやう)が沖(おき)、鶴牧(つるまき)の縣(あがた)、松代(まつしろ)の城下には、正月十五日の夜、「望見」とて、爰かしこの蔀(しとみ)のあたり、塀際(へいきは)・門のほとりに、ひとり、ふたりづつ、しのびやかに彳(たゝずみ)、人の家を、のぞき見て、其眼(め)にふるゝ所に從ひ、年中(ねんぢう)の吉凶(きつきやう)をはかり占(うらなふ)、とあり。

 爰に、ある人、用事ありて、紺屋(こんや)町といふ所より、代官町へ通りしに、しのびやかにたゝずみ居たる人、こゝかしこに見ゆれば、

『誠に。今宵は望見とやらん、一とせのよしあしを見るといふなる。さらば、我も見て、通らばや。』

と、思ひて、立寄たるに、門の戶びらに、顏、さし付て、餘念なく見る躰(てい)のもの、あり。

 かしらに、ぼうし、かふむり、羽織(はおり)着(き)たるは、女とも、男とも、いぶかしさに、近く寄て見れば、いとうつくしき女なれば、『いかゞ』と思ひ、立のかんとする袖をひかへ、

「あれ、見給へ。」

と、いふにまかせ、少(すこし)のすき間より、さしのぞけば、淺黃(あさぎ)と白き羽二重(はふたへ)に、「諸行無常是生滅法(しよぐやうむじゃうぜしゃうめつほう)」の四句の偈(げ)、書(かき)て押立、紗(しや)にて張りたる燈籠、ともし立、男女、はしり𢌞るさま、

「これは、いかに。」

といふに、彼女がいふやう、

「是は、足下(そこ)の、ことし、三、四月をこへずして、憂(うれい)を見給はん瑞(ずい)なり。我等(ら)は、おもて村の親の方へ參り候。此町のうち計(ばかり)、通りがてらに望見せんと思ひ候。殿(との)も、いざ、させ給ヘ。」

と、彼男の手をとらへ、はしり行(ゆき)、息も切るゝばかり、五、六町[やぶちゃん注:凡そ五百四十六~六百五十五メートル。]も、おもはず、はしりつる間、

『是は、あるべくもなき、ふるまひかな。』

と心付たる時、うつ伏(ふし)に、ころびたるに、女は、いづち、うせけるや、形も、なし。

 立(たち)あがりて、前後の事をおもふに、さまで放心したる事はなかりしが、

「扨は。いぜんの女は、狐にてありしにや。」

と、あたりを見れば、空は曇(くもり)つれども、月の、最中(もなか)なれば、心のうちに、

『口惜き事。』

とおもひ、立て見、居(い)て見、山のかたちを見るに、淸㙒(きよの)の鞍骨(くらぼね)の城山(しろやま)、みえけり。

「西條(でう)へは行とも、鞍骨の峯(みね)の見ゆる迄、遠くも、來つるものかな。」

と、そろそろと、東へ向て、たどり、なめ澤(ざは)のはた迄出、それより、北にむかひて、漸(やうやう)、どう嶋の道に出たり、とかや。

 「其間、さばかりの道を、手を取て、はしりたらんに、誰か、つかれざるべき。思へば、狐・狸(きつね・たぬき)程、おそろしきものは、なし。」

と、其所の老人の、かたり侍りし。

 

[やぶちゃん注:「望見(もちみ)」こうした占い法があるというのは聴いたことがないが、しかし甚だ腑に落ちる。何故なら、正月十五夜望月というのは、その年のたった一度しかない月の特異点という、総てが初回であってしかも一年で一回ぽっきりの完全に精神的に限定された「晴れ」の時空間であるからであり、その夜に、たまたま覗き見たシークエンスを解釈して何かを占うというのは、民俗社会に遍在する占術法と合致するからである。最も相応するのは「辻占(つじうら)」である。「逢魔が時」(=昼夜が入れ替わるところの境界的特異的時間)に村落の外れにある「辻」(=他界からの別な気が澱み交じり合う辺縁的特異的空間)に出向いて、そこを偶さか通過して行く人々の会話やモノローグなどを聴取して、そこからある予知的内容を読み取る(恣意的選択的なものではなくて偶発的自然的な無作為的聴取対象物を組み合わせる点で超自然的呪術となる)方法である。これは正に、満月という「晴れ」の妖しい冷たい青白い光の中で、偶然に覗いた赤の他人の家の人間という無選択的なその様態から、向後の未来の自分に齎される出来事を占うというのと、何ら変わらぬ相同的呪的システムであるからである。覗きだろうが何だろうが、民俗学的な超自然的な「呪(じゅ)」的システムは枠組みさえ同じであれば、何時でも起動するものだからである。

「信濃國千町(せんちやう)が沖(おき)」以下の現在の松代町を含む広域地名でなくてはならないが、全く分からない。「千」と「沖」とからは、千曲川を基準とした氾濫原の中に形成された古広域地名ではないか? という推理は出来るものの、よく判らない。

「鶴牧(つるまき)の縣(あがた)」同前。以下に見る通り、当時の松代は旧埴科(はにしな)郡であるが、当該旧郡域に「つるまき」に近似する旧村を見出せない。

「松代(まちしろ)の城」信濃国埴科郡海津(現在の長野県長野市松代町松代)にあった松代城(グーグル・マップ・データ)。元は「海津(かいづ)城」「貝津城」「茅津(かやつ)城」であったとも言われ、秀吉によって「待城(まつしろ)」へ改名され、江戸前期に「松城」に改名後、正徳元(一七一一)年に再び幕命により「松代城」と改名している。

「蔀(しとみ)」蔀戸(しとみど)。町屋の前面に嵌め込む横戸。二枚又は三枚からなり、左右の柱の溝に嵌める。昼は外しておく。

「紺屋(こんや)町」旧町名の復活が行われていることから、現行の地図でも確認出来るが、サイト「京都芸術大学通信教育課程 芸術教養学科WEB卒業研究展」の岡沢裕子の論文「城下町松代 歴史をつなぐ水のネットワーク」に添えられた「資料1」の左下にある「長野市歴史的風致維持向上計画 2013」(岡沢氏による加筆有り)の地図が町屋と武家の仲屋敷地区が色分けされていて非常に分かり易く、松代城の南の地図の中央左寄りに東西にあることが判る(現在の復活した町名では方形を成しており、当時の町域とは違うことも判る)。

「代官町」紺屋町のさらに南の岡沢氏の打ったオレンジの丸の下方、水色の丸の左手に認められる。

「諸行無常是生滅法(しよぐやうむじゃうぜしゃうめつほう)」「涅槃経」の頭の部分から「諸行無常」偈と呼ばれる「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅爲樂」の四句の偈の二句。「この世の諸々の万物の事象は、とどまることなく転変し、生まれては、また、消滅する運命を繰り返すだけで、永遠に変わらない恒常なるものは一切存在せず、そこにあるところの人の一生もまた、儚く虚しいものでしかない」ということ。

「足下(そこ)の、ことし、三、四月をこへずして、憂(うれい)を見給はん瑞(ずい)なり」「あなたが、今年、三月(みつき)か四月をも越えることなく、甚だ悲しい目をご覧になる(「死ぬ」の隠語)であろうという兆しです」。

「おもて村」表村という旧村は見当たらないが、先の地図で水色の丸印の南東部に「表柴町」を見出せ、さらに「スタンフォード大学」の旧日本地図の「長野」(大正元年・昭和十二年参謀本部作成)の松代町の市街地の南端の部分に「表組」という地名を打たれてあるのを見出せる。怪しい女の謂いからは、紺屋町及び松代の町屋から一定以上の距離を持った離れた「村」(地方では「村」の代わりに「組」と称するのは現在でも普通に地名として幾らもある)であるから、後者と捉えてよかろう。

「淸㙒(きよの)の鞍骨(くらぼね)の城山(しろやま)」まず、前の「スタンフォード大学」の旧日本地図の「長野」の松代町の東の町外に「淸野村」を認めることが出来る。現在、この地名は残っていないが、小学校その他に「清野」の名を見出せる(グーグル・マップ・データ航空写真)が、その画像を見れば判る通り、ここの南側には丘陵から山塊へえ連なっており、画像を南に下げると、そこに「鞍骨城跡(鞍骨山)」(標高七百九十八メートル)を見出せるのである(国土地理院図も添える。同ピークから東北方向に尾根を下ると、松代町郊外に達するが、その貼り出した尾根のピーク「象山」の南側に「表組」の地名が現在も見出せることが判る)。因みに、紺屋町からこの清野小学校附近までを実測して見ると、二キロメートルほどある。

「西條(でう)」松代町の中に旧西条村が存在した。今も西条小学校の名が残る。紺屋町の真南の、先に挙げた「表組」をも越えた場所である。

「なめ澤(ざは)」不詳。千曲川南岸の沢の名であろう。

「どう嶋」「スタンフォード大学」の旧日本地図の「長野」で見ると、清野村北側の千曲川南岸は「道島」と二箇所に地名が記されてあり、「国土地理院図」では、西方に「道島」、東側に「中道島」とある。ここを北に行くというのは、この男の家は川中島或いは対岸の西寺尾辺りにあったもののようである。]

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