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2021/02/14

怪談登志男卷第四 十八、古城の蟒蛇

 

   十八、古城(こじやう)の蟒蛇(もうじや)

Kojyounomoujiya

[やぶちゃん注:挿絵は底本の国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像をトリミングした。]

 津の國矢田部のこほり花熊(はなくま)の城は、永祿十年、荒木攝津守、家臣野口(のくち)與一兵衞に命じて築(きつき)たる名城なり。神戶(かうべ)村の上にありて、今も其跡、殘れり。

[やぶちゃん注:「花熊城」摂津国八部(やたべ)郡花熊村(現在の兵庫県神戸市中央区花隈町)の元町駅西方にあった花隈城(はなくまじょう)の別名。ここ(グーグル・マップ・データ)。神戸の北部に当たる当該ウィキによれば、永禄一〇(一五六七)年に『織田信長が荒木村重に命じて築かせたと言われているが、この時期信長はまだ入京しておらず』、『摂津に力を及ぼす状況ではなかった。従って』、翌永禄十一年十月に『和田惟政に摂津を任した時に築いたか』、天正二(一五七四)年に『石山本願寺と毛利氏との警戒用に荒木村重に命じて築城したのではないかという説もある。築城には近江の「穴太衆」』(あのうしゅう)『を呼び出し』、『かなりの石垣を使用し』、一『年程度で完成させたと言われている』。天正六(一五七八)年に『村重が信長に反旗を翻したため(有岡城の戦い)、花隈城は荒木方(有岡城)の支城として戦ったが、池田恒興などに攻められ』、天正八(一五八〇)年に『落城した。合戦の功によりこの地を与えられた池田恒興は兵庫城を築城したため、花隈城は廃城となった』とある。

「永祿十年」「丁卯」は「ひのとう」或いは「テイバウ(テイボウ)」。先の伝承に一致。

「荒木攝津守」私の大嫌いな戦国武将荒木村重(天文四(一五三五)年~天正一四(一五八六)年)。後で「荒木彌左衞門」と出るが、村重は「弥介」或いは「弥助」とは名乗っているので、まあ、いいか。

「野口與一兵衞」「花隈城の戦い」の最後の天正八(一五八〇)年七月二日の池田勢の総攻めの緒戦で戦死している。彼は攻勢方の主力兵であった鉄砲傭兵地侍集団であった紀伊雑賀衆と同じ出であった。]

 

 されば、此城内にて、不思議の事ありけり。

 頃は八月半(なかば)過、廣間に詰(つめ)たる荒木彌左衞門、馬𢌞りに深井甚太夫・佐助榎(ゑ)七・關岡(せきおか)市郞治、其外、表小姓・當番の若侍、晝過る頃、西側の障子をはづさせ、或は多門に「眼印(めじるし)の日圭斗(とけい)」・「總曲輪(くるは)の武者走(むしやはしり)」・「見積りの町見(てうけん)」など竊(ひそか)に論じて、當番の鬱氣(うつき)を慰め、何心なく詠(ながめ)居たるに、多門の邊、一同、白氣(はつき)、地中より起り、布(ぬの)をはへたるごとく立出るを見て、各、目を見合[やぶちゃん注:「みあはせ」。]、

「ばらばら」

と座を立、近付寄て見るに、何とも、さだかならず。

 珍らしき事に思ひ、其氣の出所へ間近く寄て見し若侍二人、忽(たちまち)、絕入(せつしゆ)して、白氣は、猶、立登る。

 此由、大將荒木氏の耳に入て、早速、立出、絕入の者の脈をうかゞはしむるに、醫師(いし)、考へて、

「是は、毒氣(どくき)に當たるなり。」

とて、藥を用ひければ、各[やぶちゃん注:「おのおの」。]、蘇生しける。

 荒木、つぐづく、其氣の生ずる所を見て、印(しるし)を付置、十日經て、其所を掘て見るに、大なる穴ありて、此あなの淺深(せんしん)をはからんとするに、始(はしめ)にこりて、立寄者(よるもの)、一人も、なし。

 大將、大に怒りて、自身、穴の邊にすゝみ寄を、渡り徒士(かち)の森四五右衞門、

「此穴の様子、某、見分仕度候[やぶちゃん注:「それがし、けんぶんしたくさふらふ」。]。まづまづ、御ひかへ遊ばさるべし。」

と、小頭[やぶちゃん注:「こがしら」。]を以て、言上(ごんじやう)しければ、荒木、

「けなげなるものかな。望(のぞみ)にまかすべし。」

と、ゆるしければ、勇(いさ)ひ[やぶちゃん注:ママ。下の「悅ひ」(原本)に引かれた「勇み」の誤字であろう。]悅び、九寸五分の懷剱を拜領し、腰に大綱(つな)を付て、穴の内に飛入ぬ。

 主人を始、老若(らうにやうく)の諸士、かたづをのんで控へたり。

 しばらくありて、綱のうごくを、

「すは。」

と、大勢、立寄、引あげたるに、四五右衞門、朱(あけ)になりて、穴の内にて絕(たへ)入たり。

 人々、打寄りて見るに、髮、焦(こかれ)て、正氣なし。

 醫師、此躰(てい)を見るに、是又、

「毒氣に强くあたりたるなり。」

とて、藥を與へ、正氣付て、物いふ事あざやかになりて、大將、其樣子を直(ぢき)に尋とひ給ふ。

 四五右衞門、畏(かしこま)りて其趣を演(の)ぶ。

「まづ、穴の底に至るに、二、三間[やぶちゃん注:三・七~五・四五メートル。]もあらんと思ふ所におよんで、身の暑き事、燒(やく)がごとく、兩眼(がん)、ひらく事、あたはず。

 一つの癖(くせ)物あり。

 下(くだ)し給はりたる懷剱を以て、彼(かれ)が身につき立たりしが、命も今は限りなるかと、苦しく罷成候故[やぶちゃん注:「まかりなりさふらふゆゑ」。]、綱をうごかしたる迄は、慥(たしか)に存て[やぶちゃん注:「ぞんじて」。]候へども、其後、さらに覺えずして、爰に至り候。」

と申す。

「扨は。癖物も少は[やぶちゃん注:「すこしは」。]弱りつらん。」

と、四五右衞門が身を吟味するに、朱(あけ)に染(そま)りたる斗[やぶちゃん注:「ばかり」。]にて、手疵(きず)、少も、なし。

「是も、くせものの血なりけり。其正躰(たい)、見屆(とゞけ)ざるも、いかゞ。」

と、評議、取々なり。

 四五右衞門、又、申けるは、

「迚(とても)の儀に、今一度[やぶちゃん注:「いまひとたび」。]、罷越候て見屆申度[やぶちゃん注:「みとどけまうしたき」。]。」

由。

 荒木氏、大に悅[やぶちゃん注:「よろこび」。]、

「早々、罷むかへ。」

と下知せらる。

 四五右衞門、悅て、此度は、いかなる所存にや、拜領の短刀を懷(ふところ)に納(おさ)め、己(おの)が指料(さしりやう)の脇差(わきざし)を拔(ぬき)もち、飛入らんとするを、久保川伯周(くぼかははくしゆう)といふ良醫、袂(たもと)をひかへ、藥をあたへ、

「毒氣、おかす事、あたはじ。心やすかれ。」

と、見送りぬ。

 四五右衞門は、地中に入に[やぶちゃん注:「いるに」。]、腥(なまくさき)き氣、鼻を衝て[やぶちゃん注:「つきて」。]、堪(たへ)がたく、はじめのごとく、火氣、盛(さかん)なれど、伯周が藥のしるしにや、更に、つゝがなく、眼(め)も、閉(とぢ)ざれば、彌[やぶちゃん注:「いよいよ」。]、勇氣百倍して、あなの底に下りて見るに、癖物、上を下へと、うねり𢌞(まは)りぬ。

「得たり。」

と、悅て、脇差を取直し、

「柄(つか)も通れ。」

と差貫(さしつらぬ)き、腰の綱の半(なかば)を、脇差の柄(つか)と、きつ先(さき)に引むすび、餘る繩を動(うごか)しければ、大勢、聲を懸て、急に引あげたるに、四五右衞門は、いさゝか、毒氣にもあたらず、

「につこ」

と笑て、飛上り、つぶさに言上しければ、城主をはじめ、老若・上下、一同にさゞめき、悅びぬ。

「さらば、癖物を引あぐべし。」

と、人數を倍して、

「ゑい、ゑい。」

聲を上て、漸々(やうやう)と、引上たり。

 重き事、磐石(ばんしやく)のごとく、あたりの土を崩して上りたるを、大將、殊に興(きやう)じ給ひ、

「四五右衞門、仕留(しとめ)よ。」

と、ありければ、はしり寄て、五刀(いつたち)迄、さし通し、

「今は、是までぞ。人々、御覽候ヘ。」

と云。

 上下、打寄て見るに、甚、若しみて、一纏(まとひ)に蟠死(わたかまり)したり。

 凡、引のばしたらば、七、八丈[やぶちゃん注:約二十一~二十四メートル。]もあらんずらん、と、おもふ蟒(うはばみ)なり。

 口を開きて死したるが、箕(み)を二つ合たるやうにてありしとぞ。

 音にのみ聞て、今、目前に見るははじめなれば、誰(たれ)も、皆、肝を消(けし)たり。

 其尸(かばね)は、城外の艮(うしとら)[やぶちゃん注:東北。鬼門。]の萱原(かやはら)に捨(すて)られたり。

 四五右衞門は、徒士(かち)より、當座百石の新地を給(たまは)り、馬𢌞りを勤けるとぞ。

 かゝる勇者なれば、戰塲の武功、かずかずなりけん、傳へ聞ざるぞ、本意[やぶちゃん注:「ほい」。]なけれ。

[やぶちゃん注:「帰ってきたカイダントシオトコ」って感じ。いいね!

「馬𢌞り」(うままはり)は、騎馬の武士で大将の馬の廻りに付き添い、護衛・伝令・決戦時の兵力として用いられた武家の職制。平時にも護衛役を勤め、事務の取次ぎなどの側近として官僚的な職務を果たすこともあった。武芸に秀でたものが集められたエリートであり、親衛隊的な存在であった。

「深井甚太夫」不詳。

「佐助榎(ゑ)七」不詳。

「關岡(せきおか)市郞治」不詳。

「表小姓」対象に側近する奥小姓に対し、中奥(なかおく)に伺候して、儀式時の配膳・役送・雑務を勤めた中奥小姓。

「多門」城の石垣の上に築いた長屋造りの建物。兵器庫と防壁を兼ねた。松永久秀が大和国佐保山に築いた多聞城の形式に由来する呼称という。多聞櫓 (たもんやぐら) 。

「眼印(めじるし)の日圭斗(とけい)」よく判らぬが、籠城や野戦の戦中にあって、太陽の位置を目印に、現在時刻を、ある程度まで正確に読み取る術のことであろう。

「總曲輪(くるは)の武者走(むしやはしり)」不詳。推理するに、「曲輪」は城の内外を土塁・石垣・堀などで区画した防衛区域の名称で、山寨や城郭に於いては複数のそれを持つ。ここの「總(さう)」は砦のそれら総てをひっくるめた謂い。一方、「武者走」(むしゃばしり)は名詞では、城の天守の各層の入側(いりがわ)。又は、城の土手の垣(かき)の内部後背の通路。幅三間の通路で武者が往来するところからかく呼んだから、思うに、これは戦時に於いてそれぞれの曲輪を総て一度に走り抜けて点検・保守・索敵を行う術のことか。

「見積りの町見(てうけん)」歴史的仮名遣は「ちやうけん」が正しい。「町間」とも書き、「ちやうげん」とも読む。特定区域の遠近・高低の距離(町・間・尺)を綿密に事前測量すること。これはまず、戦時に於ける戦法展開に必要不可欠な「見積もり」と判る。

「はへたる」「生(は)えたる」であろう。内部から外面に伸び出でて立ち上がるの意。

「絕入(せつしゆ)」「ぜつじゆ」で、失神すること。

「渡り徒士(かち)」あちこちを渡り歩いては、主人を替えて「渡り奉公」した武士。

「森四五右衞門」不詳。

「小頭」兵や火消などの大きな集団を纏める大頭 (おおがしら) の下に属し、小集団を管理した長。

「九寸五分」「くすんごぶ」狭義には刃の部分の長さが九寸五分(約二十九センチメートル)の短刀で別名「鎧通し」とも呼ぶ実戦用短刀。この場合は荒木村重の護身・装飾用の懐剣であるが、長さはそれに限らずにかく呼んだ。

「朱(あけ)になりて」血だらけになって。

「焦(こかれ)て」焦がして。

「久保川伯周(くぼかははくしゆう)」不詳。

「良醫」「七、老醫妖古狸」に既出既注。]

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