怪談登志男 十五、信田の白狐
十五、信田の白狐(しのだのびやくこ)
[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。]
四(よつ)の海(うみ)、浪(なみ)靜(しつか)に、風、枝をならさねば、「くず」の葉の、うらみなき世にて、民も淳直(すなを)に、各、身過の餘計(よけい)あれば、いとまある日、
「都の名所舊跡を尋ねん。」
と、東武神田を立出しは、高松何某(なにがし)、日ごろ、むつまじく語る友、三人(みたり)、四人(よたり)、連立(つれだち)、京都三條大橋、東詰(つめ)の旅宿にありて、洛中は、いふにおよばす、嵯峨・大原・あたご・くらま・宇治・八幡・醍醐・山崎の邊(へん)まで、日每(こと)に見𢌞り、夫(それ)より、大坂に至り、有馬に遊び、河内に行て、畿内近國(きないきんごく)の靈社・寺院・舊跡・古戰場など尋し間[やぶちゃん注:「あひだ」。]、樣々の物語、色々の事種(ぐさ)ありしを家產(いへづと)にして、歸り來り、近きあたりの町田源兵衞といふ人に、つぶさにはなせし百千々(もゝちゞ)の中に、きはめて怪しき事を、まのあたり見たりし話は、
「和泉國『信田の森』の稻荷の宮居、尋ねん。」
と、かしこに至りし折から、「つぼの石碑(いしふみ)」建(たて)る國の、「赤坊(あかんぼう)」と仇名(あだな)たちし猛者(もさ)共、四、五人、落合(おちあい)、ともに「信田の森」を問へば、何の文左衞門とかやいふ豪富(がうふ)の家の後園(かうゑん)に、垣(かき)、結(ゆひ)廻し、一がまへの木立(こだち)、
「これなん、名高き『信田の森』よ。」
と、おしゆるにまかせ、
「其家にあなひして、宮居を拜せん。」
といへば、今は、屋敷のかまへの内にて、猥(みだ)りに人の入る事をゆるさゞれば、再三、乞(こう)といへども、
「垣の外(そと)より、おがまれよ。」
と、あいそうもなく、門、さして、入ぬ。
ちからおよばで、垣のそともに徘徊して、内の樣子を見るに、宮居の結構・木立の物舊(ふり)たる、神さびたるさま、殊勝(しゆしやう)にて、いとゞ、内へ入、近く拜し奉り度[やぶちゃん注:「たく」。]おぼへたる所に、年の頃、廿斗[やぶちゃん注:「ばかり」。]の、いとうつくしき女の、はゝきもちて、落葉、かき集(あつめ)、朝淸(あさきよめ)する風情、姿・形、凡(たゞ)ならず、下女・はしたものとも見えずして、しかも、かゝる業(わざ)する、いと心得がたく、しばし見やりて居たるが、高松氏、垣の側に立寄、
「我々は東路(あづまじ)の者にて候が、はるばる來りて、舊社拜せん事を願へど、固くいなみて、ゆるし給はず。何とぞ、此門あけて、神拜(しんはい)をとげさせたびてんや。」
と、いへば、女、うちゑみて、
「やさしき旅人(りよじん)にこそあれ。此家の者はいかゞ心得て、かたがたの望には、まかせざりけん、いぶかしき事なれ。いざ、こなたへ。」
と、戶ざしたる門をひらきて、階前(かいせん)を少しヘだてしこなたにて拜させければ、各、禮謝を述(のべ)て、立出れば、元のごとく、門、さしかため、『宮居のかたへゆくよ』と見へしが、かき消(けし)て、うせぬ。
人々、
「こは、ふしぎや。」
と、むねもとゞろく計[やぶちゃん注:「ばかり」。]なるを、同道の猛者どもは、棒、取直(とりなを)し、斜にかまへ、
「今の女郞(ぢよらう)が美目(みめ)も、こゝろも、あんまりよすぎたと思ふたが、扨こそ、扨こそ、よめ申た[やぶちゃん注:「まうした」。]。あれは、かの『戀しくば尋てござれ』と、うたよみをした、『信田の森』の『こんくわい殿』さ、をや、おつかない。」
と、まつ毛(げ)をぬらし、
「皆さま、おさらば、おさらば。御ゑんあらば、又、京都にて出あい申すべい。京は三條のはし詰(づめ)、丸屋善五郞どのが、おらが國の定宿(ぢやうしゆく)、あれで、四、五日、休息して、下ります。」
と、無骨(ぶこつ)がらも、關東ものは、やさしき所のあるものなり。
高松氏も、
「げに、げに。これは、猛者どもが、いふ通り、當社の使者の『白狐』なりけん。あな、たふとや。」
と、おそれみ、おそれみ、かしはで、うちならし、再拜して、かへりしとぞ。
此一件(けん)は、高松氏が直談を、町田源兵衞といふおのこ、一卷に書つゞりし。其大略を玆にしるしぬ。
[やぶちゃん注:最後の「一件(けん)」の読みは判読の自信がない。右頁三行目九字目。下は「无」で「ん」の崩しと見えるので、かく読んだが、上の崩し字が判らぬ。
「信田の白狐」狐と人との異類婚姻伝承として「恨み葛の葉」「信太(信田)妻(しのだづま)」などの呼称で知られる伝承。「葛の葉」は狐の化けた女の名で、後代の人形浄瑠璃及び歌舞伎の「蘆屋道滿大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)」、通称「葛の葉」で知られる。稲荷大明神(宇迦之御魂(うかのみたま))第一の神使とされ、かの最強のゴースト・バスター安倍晴明の母ともされる。私の「宿直草卷四 第十五 狐、人の妻に通ふ事」の「今、思ひいづみの信田(しのだ)の契(ちぎり)」の注でウィキの「葛の葉」を引用して説明してあるので、知らない方はそちらを参照されたい。ロケーションとなる和泉国和泉郡の「信太の森」は現在の大阪府和泉市葛の葉町にある信太森葛葉(しのだのもりくずのは)稲荷神社(グーグル・マップ・データ。以下同じ)附近となり、話に見え隠れする歌は、
戀しくば尋ね來て見よ和泉なる
信太の森のうらみ葛の葉
である。
「四(よつ)の海(うみ)」元は「四方(よも)の海」であるが、通常は転じて「四方の海の内の」意から「世の中・天下」の意で専ら用いられる。
「身過」「みすぎ」。暮らしを立てていくこと、或いは、その手だて。生業(なりわい)。
「餘計(よけい)」ゆとり。
「京都三條大橋、東詰(つめ)」ここ。
「事種(ぐさ)」「ことぐさ」。「言草」とも書く。話の種。
「家產(いへづと)」「家苞」。土産(みやげ)。
『「つぼの石碑(いしふみ)」建(たて)る國』当時の陸奥国。或いはそれがある仙台城に藩庁を置いた仙台藩。「つぼの石碑」は多賀城跡(現在の宮城県多賀城市市川字城前周辺)にある、この当時は征夷大将軍坂上田村麻呂(天平宝字二(七五八)年~弘仁二(八一一)年)が巨石の表面に矢の矢尻で文字を書いたと伝承されていた碑を指す。私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅26 壺の碑』の注を見られたい。
『「赤坊(あかんぼう)」と仇名(あだな)たちし猛者(もさ)』不詳。このような呼ばれ方をされた若年の無頼集団がいた(謂いからすれば、現在の多賀城市附近か仙台藩内でということにあろうか。或いは、京都でそうした半グレの青二才連中を呼んだものか)のかどうかは、私は知らない。但し、小学館「日本国語大辞典」にはそうした意味の記載はない。この謂いは附には落ちる。御存じの方がおられれば、是非、御教授あられたい。
「猛者(もさ)共、四、五人」底本は「共」が『廿』となっている。初めて読んだ時、「幾ら何でも、二十四、五人? これって、連れ多過ぎ!」と口に出して驚いた。原本を見て納得した。にしても、「徳川文芸類聚」第四(怪談小説)の判読者或いは校訂者、レベル、低過ぎだろ!!!
「落合(おちあい)」たまたま道連れになり。
「物舊(ふり)たる」「ものふりたる」で一語。何とも言えず、風情のある感じに古びた様子であること。
「はゝき」「箒」。掃(は)き箒(ぼうき)。
「朝淸(あさきよめ)」一単語。「朝淨め」とも書き、平安中期に既に「あさぎよめ」と濁音でも書く。朝の掃除。
「はしたもの」「端者」。賤しい身分の召使い。
「こんくわい」「吼噦」で狐の鳴き声のオノマトペイアの一つ。「こうこう」「こんこん」に等しい。転じて狐のことも指すようになった。狂言演目(「釣狐(つりぎつね)」の鷺 (さぎ) 流での題名)や江戸時代の地唄に「狐會(こんくわい)」がある。
「まつ毛(げ)をぬらし」睫毛に唾する。夜道を行く際に睫毛を唾で濡らせば、狐狸に化かされることから避けられるという伝承は古くからある。これは狐に化かされる際には、その人はその妖狐に眉毛の数を読まれてしまうからであると信ぜられていたためで、真偽の疑わしいものを「眉唾物」と呼ぶのもこれに由来する。
「和漢三才圖會」(江戸中期の大坂の医師寺島(てらじま)良安によって、明の王圻(おうき)の撰になる「三才圖會」に倣って編せられた類書(百科事典)。全百五巻八十一冊。約三十年の歳月をかけて正徳二(一七一二)年頃(自序が「正徳二年」と記すことからの推測)完成)の巻第十二の「唾(つばき)」の最後にも、『相傳夜行以唾濡睫則避狐狸災亦所以乎』(相ひ傳ふ、「夜行、唾を以つて、睫(まつけ)を濡せば、則ち、狐狸の災ひを避きといふも、亦、所以(ゆゑ)有るか」と記している(所持する原本より起こした)。
「此一件(けん)は、高松氏が直談を、町田源兵衞といふおのこ、一卷に書つゞりし。其大略を玆にしるしぬ」本書では珍しく、採録経緯を記して、実話譚と主張しているが、だったら高松の名を示さないなど、却って不全で成功しているとは言えない。]
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