甲子夜話卷之六 26 誠嶽公、誓詞血判のときの御敎訓
6-26 誠嶽公、誓詞血判のときの御敎訓
誠嶽君【諱、誠信。肥前守。】、淸に謂給ひしは、
「我は御代替の誓詞を、兩度まで、老職の邸にて、爲たり。其時、坐席に小刀を用意してあるが、其小刀にて指を刺せば、出血、こゝろよからずして、血判、あざやかならず。因て、大なる針を能く磨き、懷中して、是にて其事を遂たり。又、豫め、膏藥を懷にし、事、畢れば、乃、これをつけたり。」
と、の給ひたる故に、淸も當御代替の誓詞のときは、誨の如く、針を以て指を刺たるに、快く血出て、血判の表も、恥しからざりし。
其席を退きて、血流、止らざりければ、卽、右を以て、用意したる膏藥を疵口につけたれば、血止りぬ。慈敎、かたじけなきこと也。
■やぶちゃんの呟き
「誠嶽君」(せいがくくん)「諱」(いみな)「誠信」「肥前守」松浦誠信(まつらさねのぶ 正徳二(一七一二)年~安永八(一七七九)年)。肥前国平戸藩第八代藩主。従五位下・肥前守。本書の筆者同第九代藩主静山(本名・清(きよし))の祖父。静山の父は誠信の三男政信で宝暦七(一七五七)年に兄で嫡子であった邦が早逝したため、代わって嫡子となったが、彼も結局、家督を継ぐことなく、明和八(一七七一)年に三十七歳で亡くなってしまったことから、祖父の命によってその長男であった清が嫡子となった。因みに、静山(清)の十一女愛子は中山忠能に嫁し、慶子を産んだが、この慶子は明治天皇の母であるから、静山は実は明治天皇の曾祖父なのである。
「御代替」「おだひがはり」。
「兩度」実子政信に譲るために事前に書き置いのが一度、静山に譲るために二度ということであろう。
「淸も當御代替の誓詞のとき」静山は文化三(一八〇六)年、数え四十七で三男熈(ひろむ)に家督を譲って隠居した。なお、本書はそれから十五年後の文政四(一八二一)年十一月甲子の日(十一月十六日:グレゴリオ暦十二月十日)の夜に執筆を開始したことが、書名の由来とする。
「誨」「をしへ」。
「血流」「けつりゆう」。
「慈敎」「じきやう」。
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