怪談登志男 十六、本所の孝婦 / 怪談登志男卷三~了
十六、本所の孝婦
國豐山回向院(こくぶざんゑかういん)は、念佛三昧一向專修(せんしゆ)の道場、その地、甚、繁華にして、年々諸國よりの開帳、おほくは、此寺内をかりて、いにしへより、嵯峨の釋迦、善光寺の如來をはじめ、靈佛の數々、皆、此地にて、金まふけ、したまひ、別當寺(べつたうじ)僧(そう)迄、黃金(わうごん)のはだへ、こまやかに、各、故鄕へ錦をかざる。
玆に、此寺の門前に年久しく住居する燒餅(やきもち)屋の甚五郞といふもの、あり。一文不通(ふんふつう)の野人なれど、天性(うまれつき)、至孝(しかう)にして正直第一のをのこなり。禮儀作法といふこともしらず、ありの儘なる男なり。
父は五兵衞といひし、遠州向坂(さきさか)とかやいふ所のものにて、まづしき百姓の子なり。若き時、江戶にくだり、いろいろとかせぎけれど、極めて貧賤にして、おなじ里より下りし人の、みな、相應の分限(ぶげん)となれども、五兵衞ひとり、まづしくて、やうやう、兩國ばしの東に、うら店(たな)住ゐ、子ども、五人まで持しが、此養育に、ますます、わびしき暮しなりしに、天の惠(めくみ)にやありけん、兎角して、子共も、皆、生長し、總領をはじめ、みなみな、相應に片(かた)付、少し心もやすんぜしに、妻に別れぬ。
子共、おほけれど、何れの子にも、かゝらず、末(まつ)子の甚五郞が、中にも、やつやつしき住家に起臥(おきふし)しけるが、次第に年より、足・手も、おもふ儘につかゐがたく、世渡る業(わさ)も、勤る事、あたはざりしを、甚五郞、樣々と、かせぎて、父を養ひける。
所の者共、
「斯(かく)ても、あられじ。」
とて、甚五郞に、妻をむかへさせたり。
此女、甚五郞が父に仕へて孝なる事、筆にも、言葉も、およばず。
甚五郞が父は、極(きはめ)て短氣にして、老(おい)ぬるほど、日々に、腹(はら)あしく、怒る事、たえざれど、一向(つく)々々、いとはで、樣々に、すかしなだめ、立居(たちい)起臥に、小兒(せうに)をあつかふごとく、いたはり、いだきかゝへ、日每(ひごと)に洗湯(せんとう)ヘ行ば、手を引つれゆき、風呂に入時は、いだきて入置、湯を汲置て、
「あがらん。」
と、いへば、又、いだき上て、かゝり湯させ、足・手まで、洗ひおはりて、衣類を着せ、手を引て歸り、まづ、茶を汲てあたへ、其儘にて晝も臥(ふす)事をこのめば、枕をあたへ、ふすま、うちかづけ、よく寐入たるを伺ひ、我、世渡りの燒餅など、いとなみて、回向院へ詣(もふで)ぬる人の家土產(いへつと)に賣(うる)といへども、あたりには、今川燒(いまかはやき)など、口かしましく、花をかざりて、賣る中なれば、はかばか敷[やぶちゃん注:「しき」。]あきなひも、なし。
されど、假(かり)にも、渡世のくるしきやうを、父に見せず、夫婦、まめやかに、老父を、いたわる。凡、此娵(よめ)が孝行、其所の者、感ぜずといふもの、なく、
「かゝる孝女をば、公(おゝやけ)にも申て、末の世に名をも殘したき事なり。」
と、いへど、さすが、人の惡事(あくじ)仕たる[やぶちゃん注:「したる」。]噂ほどに、われも、人も、とりどりに沙汰せず、語りもつたへざれば、誰(たれ)ありて、所の長(おさ)たる人の耳にもふれず、況(いはんや)、公(おゝやけ)に申上るよしもなくて、過つる程に、父、五兵衞は、此四とせばかりさきに、死しぬ。
甚五郞夫婦、悲歎して、父が別れをいたみしありさま、見るもの、あはれび、聞もの、己が孝心の薄きを恥(はち)て、是がために感發(かんはつ)して、不孝の非を、あらためたり。
されど、此娵(よめ)が孝は、雪中(せつちう)に筍(たかんな)もほらす、氷(こほり)に臥(ふし)て魚もとむる類(たくい)の、けやけき行跡(ふるまい)ならねば、取あげて、「何樣成孝行なりし」と、いゝ立べき事もなきゆへ、心なき人は孝行とも思はで、過も[やぶちゃん注:「すぐすも」。]理(ことはり)なれど、あした・ゆふべに、志(こゝろさし)を盡(つく)せしさま、氷(ひやう)上に寐(いね)、股(また)を剝(そぐ)のくるしみに、などか、おとらん。
世には、しうと・しうとめに、あらく、あたり、おのが親里へにげ歸り、また、異方(ことかた)に嫁(か)するも、あり。父母を捨、豐後ぶしの食(しよく)あたりして、出奔・心中の不孝者は、恆河(ごうが)の砂(いさご)、大空(おふぞら)の星ほどあれど、孝子・順孫は、たまたま、ありても、惡(あしき)人が憎(にくみ)嫌らひ、つい、何(なん)のかのと云消(いゝけ)して仕𢌞(しま)ふ故に、其名を發(はつ)し、人の鑑(かゝみ)となること、かたし。
此甚五郞が女房は、今、存生(そんしやう)にて、しかも其所の人、善(よき)人は、隨分、ほめ、惡人(あしきひと)も、さすがに恥(はぢ)て、あしくは、いはず。
去年、寬延辰(たつ)[やぶちゃん注:寛延元年戊辰(つちのえたつ)。一七四八年。本書は寛延三(一七五〇)年に江戸で板行だから、実に二年前の直近となる。]の夏、所の人、あつまり、傾き倒(たおれ)し家を、こぼち、新(あらた)に建(たて)てあたへしも、夫婦が孝を感じてぞ、各(おのおの)、ちからを、あはせける。
甚五郞が兄は、ゆへありて、遁世して、父に歎きをかけ、其外の女子共も、あるひは死し、又は、父が心にそぶきし中に、ひとり、無骨の野人ながら、甚五郞は父を養ひ、月々の墓參りも、おこたらず。
然れども、甚五郞は、父子(おやこ)の事なり。尤、かくあるべき筈(はづ)なり。
女房は、たゞ、娵(よめ)といふばかりなれば、世間なみにて過るとも、誰(たれ)か、にくみ、うとんずべきに、一町の人は勿論、隣町(りんちやう)にしも、人の感ずる程に、しうとに仕(つか)へし女、世上に、澤山には、あるまじ。
回向院參詣の人々、
「今川燒より、さもしくとも、此孝女が燒餅をかふて、娵(よめ)の土產(みやけ)にし給はゞ、あやかりて、孝行になるべし。ばゝさま達、必、かふてやり給へ。」
と、息筋(いきすじ)はるも、世の人に、孝をすゝめ、孝婦が名をも、永き世にとゞめんと、つぶさに書付、此怪談の中に、くはへ、
「隅田川の流れのすへにも、かゝる渚(なきさ)の玉やある。」
と、都人に、我(か)[やぶちゃん注:「が」。]、をらせん[やぶちゃん注:「折らせん」。]と、師の房(ぼう)が命(めい)にまかせ、篇中に書いれ侍れば、素及子(そぎうし)の㚑(れい)も、見ゆるし給ふべし。
[やぶちゃん注:「十四」の「江州の孝子」に次いで、またしても非怪談の世話話は、流石にちょっと勘弁してほしい気がする。
「國豐山回向院」現在の東京都墨田区両国にある浄土宗諸宗山(一時期は山号はここに出る「國豐山」を称した)無縁寺回向院(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。墨田区本所地域内にあることから「本所回向院」とも呼ばれる。後のものだが、歌川国貞による嵯峨清凉寺本尊釈迦如来出開帳の画(天保七(一八三六)年)が「回向院」公式サイト内のこちらで見られる。回向院で行われた御開帳時の賑わいが、回向院を正面に、両国橋を西から東に見た構図で表わされていると解説がある。
「嵯峨の釋迦」京都府京都市右京区嵯峨にある浄土宗五台山清凉寺の本尊である釈迦如来。輿で運ばれ、その輿が清凉寺に現存する。ブログ「京都発! ふらっとトラベル研究所」の「嵯峨・清凉寺の釈迦如来は奥深い (その2)」が本寺の江戸出開帳について回数・ルート・出開帳収支報告など、非常に詳しい。また、佐藤直市氏の論文「清涼寺本尊の地方開帳について(中間報告)」(大手前女子学園(大手前女短大研集)『研究集録』第九号・一九八九年・PDF・ダウン・ロード可能)もある。
「善光寺の如來」本尊は一光三尊阿弥陀如来像で三国渡来の絶対秘仏の霊像とされる丈一尺五寸のレプリカである金銅阿弥陀如来及両脇侍立像(前立本尊)が本尊の分身として出開帳し、やはり回向院でのそれが江戸時代には著名であった。
「遠州向坂(さきさか)」多くの資料に現在の静岡県西部の遠江国磐田(いわた)郡向坂村とするが、これは現在の静岡県磐田市匂坂(さぎさか)地区である。資料によっては、誤記とする。「匂」を「さぎ」「さき」と読むのは難読であるから、古くから、こう書かれて誤認されていたものか。
「妻に別れぬ」死別ととっておく。
「洗湯(せんとう)ヘ行ば、手を引つれゆき、風呂に入時は、いだきて入置……」江戸の湯屋(ゆや)は男女混浴であった。後の寛政三(一七九一)年の「男女入込禁止令」や、後の「天保の改革」の中で混浴禁止が取り決められたものの、実際には、それでも守られてはいなかった。但し、江戸では隔日或いは時間を区切っての男女を分けて入浴する試みは行われた(ウィキの「銭湯」に拠る)。本書は寛延三(一七五〇)年江戸板行であるので、混浴禁止のお触れが出るずっと以前である。
「今川燒(いまかはやき)」ウィキの「今川焼き」によれば、『「今川焼き」の名称の由来に確たる史料はないが、今日主流とされる説に』よれば、『江戸時代中期の安永年間』(一七七二年~一七八一年)に、『江戸市内の名主今川善右衛門が架橋した今川橋』『付近の店で、桶狭間合戦にもじり「今川焼き」として宣伝・発売し評判となったため』、『一般名詞化して広がったとする説がある』とあるが、前に記した通り、本書の刊行は、それよりも二十年以上前で、この説は承服出来ない。別に、『現在の静岡県中部にあたる駿河国などを治めた守護大名・戦国大名、今川氏の家紋である二つ引両(引両紋)を由来とする説がある』とあるのをとっておく。
「雪中(せつちう)に筍(たかんな)もほらす、氷(こほり)に臥(ふし)て魚もとむる」前夜は「雪中の筍(たけのこ)」で、三国時代の呉の孟宗が、冬に竹林に入って哀歎したところ、母の好む筍を得たという「呉志孫皓傳」の注に引かれる「楚國先賢傳」に見える故事により、後者は「氷の魚(うを(うお))」で、「二十四孝」の一人である晉の王祥が、生魚を欲する継母のために、氷上に裸身を臥したところ、氷が解けて鯉が躍り出たという「晉書王祥傳」などに見える故事により、孰れも、孝心の深い喩え。後代、単に有り得ないもの・得難いものの喩えとしても使われる。
「けやけき」際立って優れている・素晴らしい。中古以降の古語。
「何樣」副詞。如何にも。全く。
「股(また)を剝(そぐ)のくるしみ」人からは見えない股の肉を削ぎ落すことで、人に知られぬ塗炭の苦しみを比喩する。出典があるはずだが(私の記憶では自分で自分の股の肉を削いで父母(?)の食に当てたものだったように思われる)、辞書に見出し字体が見えない。
「豐後ぶしの食(しよく)あたりして」よく判らないが、一応、私の解釈を示す。豊後節は三味線楽曲の一流派で、通常は宮古路豊後掾の創始した浄瑠璃を指すが、広義にはそこから派生した常磐津節・富本節・清元節の総称としても用いる (この場合は「豊後三流」とも称する)。狭義の豊後節は、宮古路豊後掾が一中節から出ているため、同流の影響が強く、彼は柔らかく艶麗な一中節の語り方を、一層哀艶で扇情的なものに変え、特に心中物を扱ったため、豊後節は短時日のうちに、特に江戸で大流行した。しかし、そのため、「相対死(あいたいじに)」(心中)を厳罰に処した江戸幕府から元凶として憎まれ、同流は元文元 (一七三六) 年と同四年に行われた大弾圧を受けて、ほぼ消滅した。しかし、豊後掾の弟子たちによって種々の流派が派生し、上方では宮古路薗八(そのはち)が薗八節を、豊美繁太夫(とよみしげたゆう)が繁太夫節を創出した。江戸では文字太夫が常磐津節を興し、そこから富本節・清元節が派生し、これら「豊後三流」は歌舞伎の舞踊音楽として発展してゆくこととなった。また、現在、豊後節の語り口を最も残していると言われる新内節は、豊後掾の弟子加賀太夫が改姓独立して名のった富士松薩摩掾の系統を引くもので、遊里を活躍の場とした。駆落・心中を誘う豊後節に「食中りして」と洒落たものか。なお、豊後節は流行した当初、前代の三味線引きたちから、非常にいやらしい演奏としても憎まれている。それも嗅がせたものか。豊後節を鰹節の一種と最初は考えた(「食中りしようがないものに中る大馬鹿な恋人たち」。但し、鰹節は食中毒を起こす。昨年十一月にも保育園で集団で発生したが、鮪・鰹などの赤身魚にはアミノ酸が多く含まれるが、温度管理などの不良によって、そこからヒスタミンが多量に発生して、アレルギー中毒を引き起こすのである)。豊後は鰹節の名産地の一つだからである。或いはそれもダブルで掛けているのかも知れない。
「恆河(ごうが)」インダス川の漢訳。また、言わずもがなであるが、「恒河沙(ごうがしゃ)」は漢字文化圏での数単位の一つで、「ガンジス川全体の無数の砂」の意で、本来は「無限の数量の例え」として古く仏典で用いられていた。現在、一般的には1052とされる。
「順孫」(じゆんそん(じゅんそん))は、よく祖父母に仕える孫。
「息筋(いきすじ)はる」「息筋張る」。精一杯に努力する。
「師の房(ぼう)」冒頭注で説明した静観房好阿(じょうかんぼうこうあ)。談義本(宝暦年間(一七五一年~一七六四年)から安永年間(一七七二年~一七八一年)頃にかけて多く刊行された滑稽本の濫觴となった読本)の創始者として知られる人物。本書は彼の弟子である静観房静話が命ぜられて編集したものとされている。
「素及子(そぎうし)」本書の原型である「怪談實妖錄」をものしたとされる慙雪舎素及子(ざんせつしゃそきゅう:詳細事績不詳)。]
« 南方熊楠 西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語 (異れる民族間に存する類似古話の比較硏究) 6 | トップページ | 只野真葛 むかしばなし (8) »