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2021/03/31

芥川龍之介書簡抄25 / 大正三(一九一四)年書簡より(三) 五月十九日井川恭宛

 

大正三(一九一四)年五月十九日・京都市吉田京都大學寄宿舍内 井川恭樣・芥川龍之介

 

僕の心には時々戀が生れる あてのない夢のやうな戀だ どこかに僕の思ふ通りな人がゐるやうな氣のする戀だ けれども實際的には至つて安全である 何となれば現實に之を求むべく一に女性はあまりに自惚[やぶちゃん注:「うぬぼれ」。]がつよいからである二に世間はあまりに類推を好むからである

 

要するにひとりでゐるより外に仕方がないのだが時々はまつたくさびしくつてやり切れなくなる

 

それでもどうかすると大へん愉快になる事がある それは自分の心臟の音と一緖に風がふいたり雲がうごいたりしてゐるやうな氣がする時だ(笑ふかもしれないが) 勿論妄想だらうけれどほんとにそんな氣がして少しこはくなる事がある

 

序にもう一つ妄想をかくと何かが僕をまつてゐるやうな氣がする 何かが僕を導いてくれるやうな氣がする 小供の時はその何かにもつと可愛がられてゐたがこの頃は少し小言を云はれるやうな氣がする 平たく云ふと幸福になるポツシビリチーがかなりつよく自分に根ざしてゐるやうな氣がする それも仕事によつて幸福になるやうな氣がするのだから可笑しい

幸福夢想家だと君は笑ふだらう

 

無智をゆるす勿れ 己の無智をゆるす爲に他人の無智をゆるすのは最卑怯な自己防禦だ 無智なるものを輕蔑せよ(ある日大へん景氣がよかつた時)

 

オックスフォードの何とか云ふ學者が「ラムをよんで感心しないものには英文の妙がわからない ESSAY・ON・ELIA[やぶちゃん注:縦書。]は文學的本能の試金石だ」と云つた有名な話があるさうだ 上田さんのラム推奬の理由の一として御しらせする

 

試驗が近いんだと思ふとがつかりする 試驗官は防疫官に似てゐる 何となれば常に吐瀉物を檢査するからだ 眞に營養物となつたものを測るべき醫學者が來ない以上試驗は永久に愚劣に止るにちがひない ノートをつみ上げてみるとほんとうにがつかりする

 

   キヤラバンは何處に行ける

   みやれば唯平沙のみ見ゆ

   何處に行ける

 

   行きてかへらざるキヤラバンあり

   スフインクスも見ずに

   砂にうづもれにけむ

 

   われは光の淚を流さゞる星ぞ

   地獄の箴言をかゝざるブレークぞ

 

   わが前を多くの騎士はすぎゆくなり

   われも行かむと時に思へる

 

   メムノンはもだして立てり

   黎明は未來らず

   暗し――暗し

 

   何時の日か日の薔薇さく

   ほのぼのと

   何時の日かさくとさゝやく聲あり

 

   象牙の塔をめぐりて

   たそがるゝはうすあかり

   せんすべなさにまどろまんとする

 

[やぶちゃん注:現行では、この冒頭に記される「戀」については、この頃の芥川龍之介が、結婚を熱望しながら、親族の反対によって、結果、夢破れた吉田弥生(以前は彼女を初恋の相手とすることが多かったが、今は前回に恋文の草稿(推定)を示した吉村千代が初恋と考えられいる)のことと採るのが一般的であるようだ。しかし、少なくともこの書き方を彼女一人に限定して読み解くことは、危険というより、表現上から、全く無理である。これはまさに男女を問わぬ多様な恋情(但し、龍之介が山本や井川かく書く時には女を作為的に匂わせている可能性は俄然高くなる)に駆られる青年龍之介の夢のような告解のポーズととる方が無難であると考えている。私は、「誰が初恋か」と議論は、母存在のトラウマとしての欠損感が異様に強く、女に惚れ易かった恋多き芥川龍之介にして、あまり意味を成さないように感ずる(但し、個人的には彼の女性への初恋は吉村千代と考えている)。寧ろ、彼の同性愛嗜好に着目すると、既に見てきた通り、幼馴染みの山本喜誉司や井川(後に恒藤姓)恭を筆頭とし、晩年の小穴隆一まで、非常に興味深い関係性が見えてくる。なお、芥川龍之介は未定稿で、「VITA SEXUALIS」及び「VITA SODMITICUS(やぶちゃん仮題)」を書いており、私は既に電子化し、別に詳細語注も附している(因みに言わずもがなであるが、本邦では男性の同性愛は古くからごく近代まで、普通の男性間に普通にあった。プラトンの「パイドロス」を読めば、ソクラテスの時代から、男女の愛は不全であり、男性同士の愛こそが至高であったのであり、「プラトニック・ラヴ」(Platonic love)とは「精神的な純潔なる愛」などではなく、「男対男の精神及び肉体双方の完成された愛」の謂いである)。

 話が脱線した。もとに戻ると、吉田弥生については、一九九二年河出書房新社刊の鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」がよい。例えば、この二ヶ月後の、『七月二〇日~八月二三日、友人の堀内利器の紹介で彼の故郷千葉県一宮海岸に行き、約一カ月滞在する。午前中は読書と創作とにあてていたが、あまり熱心ではなく、もっぱら海水浴と昼寝を楽しんだ。幼なじみで初恋の人吉田弥生に二度目の手紙を書き、やがて結婚を申出るが、芥川家の反対で翌年二月頃破局を迎え、弥生はまもなく陸軍中尉金田一光男と結婚して去る。この事件は芥川の精神に大きな傷痕を残すことになる』とあり、その下方のコラム「破れた初恋」に以下のようにある。

   《引用開始》

 恋人吉田弥生は東京深川で明治二五年三月に生まれ、芥川とは同い年であった[やぶちゃん注:弥生は一八九二年三月十四日生まれで、芥川龍之介は同年同月三月一日生まれ。弥生は昭和四八(一九七三)年二月に亡くなっている。]。母よし(旧姓中村)は東京人、父長吉郎は岩手県盛岡出身で上京後、よしの家に寄寓して銀行に勤め、弥生の出生後、芝愛宕下の東京病院会計課長となり、一家は同地の病院構内に移った。

 芥川の実家新原家は東京病院のすぐ近くであり、病院に[やぶちゃん注:敏三の経営する「耕牧舎」が。]牛乳を納めていたので敏三と長吉郎は知り合いとなり、一家で親しく交際し、龍之介と弥生は幼なじみであった。

 弥生は東京高等女学校から青山女学院英文科に進み、同校を大正二年に卒業。英文学だけでなく、東西の美術や文学にも親しみ、短歌も作る才媛で、その容色とおちついた物腰で学友の間では評判であったという。

 龍之介は新原の実家を通してなじんではいたが、中学以後は交渉がなく、ふたたび弥生の家を訪ねるようになるのは大学一年の五月頃からとみられる。

 気の弱い龍之介は一人では行けず、友人の久米や山宮などを連れて行ったが、文学や美術や音楽など共通の話題があるので話ははずみ、訪問は楽しかった。

 大正三年の秋頃弥生に縁談がもちあがり、その時龍之介は弥生を愛していることを知り、求婚の意志を芥川の家族に話すと猛烈に反対され、あきらめることになる。家族が反対したのは母よしが中村家の戸主であり、吉田に入籍前に弥生が出生したため戸籍の異動が複雑でその結果、弥生が非嫡出子として届出られたこと、吉田家が士族でなかったこと、龍之介と同年であったこと等があげられている。この事件で芥川は人間の醜さ、愛にすらエゴイズムのあることを認め、その人間観に重大な影響を与えられる。

   《引用終了》

特に龍之介を乳飲み子の時から育ててきた同居する伯母で、龍之介が特に愛した(同時に憎悪もした)芥川フキ(道章のすぐ下の妹。生涯、未婚)は夜通し泣いて強く反対している。そこで、龍之介はその告白の翌朝、『むづかしい顏をしながら僕が思切』(おもひき)『ると云つた』(大正四(一九一五)年二月二十八日附井川恭宛書簡。これは後に電子化する)とある。結局、吉田弥生は大正四年四月下旬に同郷の岡山出身の陸軍将校金田一光男と結婚した。二〇〇三年翰林書房刊「芥川龍之介新辞典」の彼女の項を読むに、彼女はその後、特に芥川龍之介の影を引きずることはなかったようで、後(戦後)、芥川龍之介のことを語ることは殆んどなく、夫も龍之介のことを口にすることを激しく嫌い、訪ねてきた新聞記者を『激しい口調で門前払い』にしたとある。或いは、龍之介の呪縛に陥らなかった数少ない女性の一人だったと言えるのかも知れぬ。さればこそ、私の彼女への関心は以前から薄い。今後もディグする気は、ない。

「ポツシビリチー」possibility。可能性。実現性。発展可能性。将来性。

「仕事」芥川龍之介が作家としての意欲を示していることを暗示させていると私は読む。

「オックスフォードの何とか云ふ學者」不詳。

「ラム」イギリスの作家・エッセイストであったチャールズ・ラム(Charles Lamb 一七七五年~一八三四年)。特に「エリア随筆」(Eliana :一八六七年刊。「ESSAY・ON・ELIA」はそれ)はエッセイの傑作とされる。

「試金石」金などの貴金属の鑑定に用いられる黒色の硬い石英質の鉱石の別称。一般的には緻密な粘板岩。表面に金を擦(こす)り付け、その条痕 色を標準品のものと比較して純度を判定する。転じて、「物の価値や人の力量などを計る基準となる物事」を謂う。

「上田さん」明治三八(一九〇五)年刊の訳詩集「海潮音」で知られる、本邦にベルギー文学・プロヴァンス文学・象徴派・高踏派の詩を紹介した詩人・翻訳家・評論家の文学博士上田敏(明治七(一八七四)年~大正五(一九一六)年)のことであろう。

「營養物」「榮養」は嘗てはこうも表記した。

となつたものを測るべき醫學者が來ない以上試驗は永久に愚劣に止るにちがひない ノートをつみ上げてみるとほんとうにがつかりする

「キヤラバンは何處に行ける/みやれば唯平沙のみ見ゆ/何處に行ける」私は、複製色紙を所持する芥川龍之介の大正四年五月の芥川龍之介の漢詩風の章句、

   *

不見萬里道

唯見萬里天

   *

を直ちに想起する。芥川龍之介筆(芥川比呂志氏蔵。東京帝国大学在学中の写真裏面に記されたもの)。芥川龍之介二十三歳。大正四(一九一五)年五月十五日には悲恋に終わった初恋の人吉田弥生が結婚している。しかし、同月の十三日附の山本喜誉司宛書簡(後に掲げる)では早くも山本姪塚本文への愛情を表明してもおり、同年八月の恒藤との松江滞在によって復活を果たした龍之介は、十一月一日の『帝国文学』へ「羅生門」を発表し、その三日後の四日には「鼻」を起筆しており、この頃には文への思いも確固たるものになりつつあった。

「地獄の箴言」芥川龍之介が偏愛したイギリスの詩人で画家・銅版画家であったウィリアム・ブレイク(William Blake 一七五七年~一八二七年)の「天国と地獄の結婚」The Marriage of Heaven and Hell :一七九〇年から一七九三年頃)。聖書の予言を模倣して書かれた一連の散文・詩とイラストを含むエッチング詩画集。後に彼と彼の妻キャサリン(Catherine Blake  一七六二年~一八三一年)によって着色されたものが有名。

「メムノン」エジプトのルクソールのナイル川西岸にある二体のアメンホテプⅢ世の像。「メムノンの巨像」とも呼ばれる。呼び名はギリシア伝説の「トロイア戦争」に登場するエチオピア王メムノーンに由来する。高さは孰れも約十八メートル。ウィキの「メムノンの巨像」によれば、『元々は、背後に同王アメンホテプ』Ⅲ『世の葬祭殿が控えており、その入口の部分であった。葬祭殿は第』十九『王朝ファラオ・メルエンプタハが自身の葬祭殿の石材調達のため』に『破壊した』。『向かって右側の像は紀元前』二七『年の地震により』、罅が『入り、夜明けになると、おそらく』は『温度差や朝露の蒸発のせいで、うめき声や口笛のような音を発していた。この現象を最初に報告したのは地理学者のストラボン』(ラテン文字転写:Strabo  紀元前六四年或いは六三年~紀元後二四年頃:古代ローマ時代のギリシア系の地理学者・歴史家・哲学者。全十七巻から成るギリシャ語で書かれた「地理誌」(ラテン文字転写:Geōgraphiká:ゲオグラフィカ)で知られる)『だった。彼は巨像が声を出しはじめてからまもなくして、エジプト総督アウレリウス・ガルスとそれを見物している。ストラボンは著書』の中では、『巨像が発している声なのか、近くにいる人間が声を出しているのか解らないと疑問を呈している』。『メムノンの巨像が声を出す現象は当時のガイドによって脚色され、メムノンの死別した母への呼び声だとされた。メムノンの巨像は声を聴こうと詰めかける人々で観光地化し』、『その中にはハドリアヌス帝』(第十四代ローマ皇帝プーブリウス・アエリウス・トライヤーヌス・ハドリアーヌス(Publius Aelius Trajanus Hadrianus  七六年~一三八年/在位:一一七年~一三八年)。ネルウァ=アントニヌス朝第三代皇帝)『と妻のサビナ』(Sabina)『もいた。サビナは』一三〇『年にメムノンの巨像を訪れ、「日の出後の最初の一時間のうちに、メムノンの声を二度聴いた」という証言を残している。現在もメムノンの巨像の台座には彼らが書き記した署名や詩が残されていて、エジプト総督や地方行政長官の肩書きを持つ人間が大勢訪れていたことが確認できる。その後、巨像はセプティミウス・セウェルス帝』(ローマ皇帝ルキウス・セプティミウス・セウェルス(Lucius Septimius Severus 一四六年~二一一年/在位:一九三年~二一一年)。セウェルス朝の創始者)『によって下に落ちていた像の上半身を取り付けられると、声を出すこともなくなったという』とある。筑摩全集類聚版脚注には、『朝の最初の』太陽の『光線にふれると音楽の愛が生じる』と記してある。

「未來らず」「いまだきたらず」。

「象牙の塔」ここは最原義(フランス語‘tour d'ivoire’)で「芸術至上主義の人々が俗世間を離れて楽しむ静寂・孤高の境地」の意である。]

2021/03/30

芥川龍之介書簡抄24 / 特異点挿入★大正二(一九一三)年或いは翌大正三年の書簡「下書き」(推定)★――初恋の相手吉村千代(新原家女中)宛の〈幻しのラヴ・レター〉――

 

[やぶちゃん注:以下は葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」(岩波書店一九七八年刊)の「書簡補遺」に載るものを底本とした。本書簡と思われるものは、実際に当該人物に送られたものであるかどうかは不明で、これは取り敢えず「下書き」と推定しておく。底本では最後に葛巻氏の注があり、吉村千代について、『編者の幼時、幼稚園の送り迎えをしてくれた、芝の実家の女中さん』とある。吉村ちよ(明治二九(一八九六)年十月二日~昭和四(一九二六)年十一月二十二日)は龍之介の実家にいた女中であった。二〇〇三年翰林書房刊「芥川龍之介新辞典」の彼女の項(「ちよ」の平仮名はそれに拠った表記)によれば、龍之介より四つ年下で、新原家(芝区新銭座町。現在の港区浜松町)へ入ったのは十五歳頃と推定されている。とすれば、明治四四(一九一一)年か、その前年(龍之介は十八、九歳の時で、芥川家が新宿の家(この家は本来は葛巻義定(義敏の実父)と龍之介の実姉ヒサの新居として新原敏三が建てたものであったが、二人が離婚したため、ここが芥川家に提供されたのであった)移った時期(明治四十三年十月)と合致する。しかも「ちよ」は葛巻氏の注にある通り、実はヒサ附き(専属)の女中であった(だから義敏の幼稚園の送迎をしている。義敏は明治四二(一九〇九)年生まれ)ことも判っている。されば、龍之介との接点が濃厚に見えてくるのである。御存じの通り、龍之介は芥川家の養子にやられたのだが、実父敏三は露骨に実家へ戻るように慫慂した(「點鬼簿」の「三」を参照されたい)。そうしたややこしい関係とは別に、龍之介は、無論、しばしば新原の家にも頻繁に出入りしていたのである。私は一枚の写真しか持たないが(「新潮日本文学アルバム」)、鼻筋の通った南方系の美人である(大正一〇(一九二一)年頃のもの)が、私の個人的感想に過ぎないが、どこか幸薄い感じを与える写真である。事実、誠実だったという彼女の後の半生は、「芥川龍之介新辞典」に少し詳しく書かれているのであるが、三十で亡くなった彼女は、少なくとも私には決して幸せだったという感じを受けない。私は、芥川龍之介が愛した女性は、多かれ少なかれ、龍之介の面影を引き擦って後半生を生きざるを得なかったと考えている(特に私が追跡した佐野花子片山廣子は間違いなくそうであるし、龍之介の妻文の友人で、文自身の懇請によって、晩年の龍之介の話し相手となり、帝国ホテルでの心中未遂の相手となった平松麻素子もそうであると思う)。私はその一人に、この吉村千代も加えるべきであると考える。ところが、「芥川龍之介新辞典」の「吉村ちよ」の記載(篠崎美生子氏執筆)の最後には、志賀直哉の「大津順吉」(大正元(一九一二)年九月発表)に登場する主人公順吉が惹かれる大津家の若い女中「千代」(「C」とも記す)との相同性を指摘し、『この手紙はむしろ、「大津順吉」的悲恋へのあこがれが、いかに当時の青年層に共有されていたかを示す資料として見た方がよいかもしれない』と記しているおられるのには、正直、大いに呆れかえった。作家論+テクスト論+文学史的検証を安易に綯い交ぜにし、カタをつけた上、鬼の首を捕ったようにぶち上げたこれは、私は「なんじゃ!?! こりゃアア!!」とジーパン刑事のように叫ぶしかなかった。『資料』かい? 芥川龍之介も、さぞ、微苦笑するだろうゼ!]

 

大正二(一九一三)年或いは同三年頃(推定)・吉村千代宛・(草稿)

 

今 芝からかへつた所。ひとりで之を書く。

ちよの事を思ふとさびしくなる、ひとりで本をよんでゐて ふと 今頃は何をしてゐるだらうと思ふとさびしくなる、もうみんな忘れてしまつたかしらと思ふとなほさびしくなる

このあひだ 得ちやんのうつした寫眞をみて「おばさんもお冬さんも ちよも皆 妙にうつつてゐる」と云つたら 太田さんが「おちよさんはからだがわるいから」と云つた。どこが惡いのだらうと思ふと 心配にさへなつてくる からだは大事にしないといけない

いつでも芝へ行つたかへりには 宇田川町の停留所まで わざとぶらぶらあるく さうして今にうしろで やさしい足おとがしはしないかと思ひながら 用もない道具屋の店をのぞいたり 停留場でいくつも電車をのらずにゐたりする、あつて一しよにあるいても 何一つはなせるのではなし その上 二入とも氣まりが惡くつて いやなのだけれど それでも 二人でゐると云ふ事はうれしい

まして二人だけで 二時間でも三時間でもゐられたら どんなにうれしい事だらうと思ふ たゞ さう云ふ時の來ることを いのるより外に仕方はない

前のやうにたびたび芝にゆかれないのでさびしいけれど がまんをしてゐる。あはないでゐるうちに ちよがみんなわすれてしまひそうな氣がする、だんだんゆびにもさはらせないやうになりさうな氣がする さう思うとさびしい。

ちよ ちよとよびずてにしたのはなぜだか自分にもわからない わるければもつとていねいに「さん」の字をつけます。

 

ぼくはこの頃になつて いよいよお前がわすれられなくなつた 今までもお前を愛してゐた事は愛してゐた、しかしこの頃は心のそこからお前の事を思ひ又お前のしあはせをいのつてゐる。

ぼくは今まで お前をじゆうにしない事をざんねんに思つてゐた。お前のからだをぼくのものにしない事をものたりなく思つてゐた、ぼくは今になつて かう云ふ事ばかり考へる愛はほんとうの愛ではないと云ふ事を知つた。これからのぼくには そんな事はどうでもいゝ、たゞお前とお前の心心ちとを かはゆく思つてゆかう 心のそこからお前をかはゆく思つてゆかう。

ぼくははじめ お前と一しよになれないなどと云ふ事は大した事だとは思はなかつた 一しよになれなくつても二人の心の中で思ひあつてゐればいゝと思つてゐたからだ。それが この頃では そうでなくたつた、お前がどこかへかたづくとしたら ぼくはどんなにつらいだろう。どんなにひとりでくるしい思ひをするのだろう[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、またぼくがよめをもらふにしても どんなに お前の事を思ひ出すだろう。どんなにお前をわすれずにゐるだろう。今のぼくから云へば どんな女でも お前よりぼくがかはゆく思ふ女はないと思ふ。ぼくのよめになる人にはきのどくだが ぽくはとてもその人をお前よりかはいゝとは思へないのにちがいない。ぼくがお前を思ふやうに お前もぼくを思つてくれるかどうかそれはぼくにはわからない。けれど ぼくだけについて云へば 一しよになれないお前をこんなにふかく こんなに心から愛すると云ふことは なんと云ふなさけない事だろうと思ふ

それをかんがへるとぼくはほんとう[やぶちゃん注:ママ。]にかなしくなる。ぽくはたつたつた一人、すきな人を見つけて そのすきな人と一しよにゐられない人げんなのだ、やかましく云へばそのすきな人の手にさへさわれない[やぶちゃん注:ママ。]人げんなのだ、さうしてそのすきな人がよその人のところにかたづくのを見てゐなければならない人げんなのだ。ぼくの心ぼそくなるのもむりはないだらう。

しかしお前もぼくも、一どはつよくなつて おたがひをわすれなければならない、ぼくはまへにぼくをわすれてはいやだとお前に云つたことがある。今では出來るならぼくの事なんぞすつかりわすれてしまつてくれと云ひたい、ぼくはとてもお前をわすれることは出來ないし、また わすれようとも思はないから、せめてお前がぼくをわすれてしまへば、ぼくの方でもお前をうらむし 一つには今までばかにされてゐたやうな氣がして はらがたつから そのいきほひでいくぶんかはお前の事もわすれられるかもしれないと思ふ、しかし それまでに ぽくはなんどなく[やぶちゃん注:ママ。]かわからないだろう[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。] いくぢのないはなしだけれど。

ぼくはほんとうに 今では心のそこからお前を愛してゐる。お前はだまつてゐるときも わらつてゐるときも ぼくにとつてはだれよりもかはゆいのだ 一生、だれよりもかはゆいのだ。たとヘぼくのじゆうにならなくとも かはゆいのだ さうして、ぼくがお前をかわゆがる[やぶちゃん注:ママ。]と云ふ事が お前のしあはせのじやまになりはしないかと思つて心ぱいしてゐるのだ、ぼくは心のそこから おまへのからだのじようぶ[やぶちゃん注:ママ。]な事とお前がしあはせにくらす事とをいのつてゐる

 

ぼくはこのごろ ほんとうにお前がわすれられなくなつた、今まではお前のからだをぼくのものにしないのをざんねんに思つてゐたが 今はそんな事はどうでもいゝ たゞぼくが心のそこからお前をかはゆく思ふやうに お前もぼくの事を思つてくれたらそれでたくさんだ。

このごろ ぼくはまた、お前がかたづく時の事をかんがへた。そうしたらどうしていゝのだかじぶんでもわからなくなつた お前がかたづくとしたらどんなにぼくはさびしひ[やぶちゃん注:ママ。]だろう どんなにぼくはつまらないだろう。とても一しよになれる事の出來ないお前をこんなにふかく こんなに心から愛すると云ふ事は ずひぶん[やぶちゃん注:ママ。]なさけない事だと思ふ。もしまたぼくがよめでももらふとしたら どうだらう、ぼくは どの女でもとてもお前ほどかはゆくは思はれないのにちがひない お前ほどしんようする氣にはなれないのにちがひない、さうだとしたら ぼくの不しあはせばかりではなくぼくのよめになる人の不しあはせにもなるだらう お前がかたづくにしても ぼくがよめをもらふにしてもどつちにしても ぼくはいやな思ひをするより外はない、もしお前がほんとう[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]に思つてくれるなら やつぱりお前がかたづく時でも ぼくがよめをもらふ時でも いやな氣がするだらう。して見ると わるいのは ぼくなのだ。はじめに お前がすきだと云ひ出した ぼくがわるいのだ。ぼくがさう云ひさへしなかつたら なんにもなかつたのにちがひないのだから。

しかし、これはお前もかんにんしてくれるだらうと思ふ

ぼくは、お前をいつまでも今のやうに思つてゐたい、いつまでも心のそこから 誰よりもかはゆく思つてゐたい、さうして出來るだけ よめなどをもらはずに お前一人をなつかしく思つてゐたい もつとも出來るだけお前もかたずかずにゐた方がいゝなどとは ぼくの口から云へたぎりではないけれども さうだつたらなほいゝやうな氣がする しかしこれは氣だけだ、ほんとうは ぼくの事なんかかまはずに いゝ所があつたらかたづいた方がいゝ、ぼくはどんなにつらくつてもがまんをする。さうして お前がかたづいた先の人としあはせにくらせるやうにいのつてやる、もしそのさきの人がお前をいぢめたりなんぞしたらしようち[やぶちゃん注:ママ。]しない、きつとぼくがかたきうちをしてやる。ほんとうのことを云へば、どこへもお前をやりたくない。やるにしても このままでやりたくない 十日でも一週間でも 一しよになかよくしてみたい お前のからだをぼくのものにしなくつても たゞ一しよにごはんをたべたり 外をあるいたりして見たい 誰も知つた人のない どこかとほいくにのちいさな村へ うちを一けんかりて そこにすむのだ。お前に ごはんをたいてもらつて ぼくが本をよんだり なにかかいたりする。

はたけへ くだもののなる木をたくさんうゑて その中へ小さなにはとり小屋もこしらへてやる。さうして二人で くだものをとつたり とりにえ[やぶちゃん注:ママ。]をやつたりするのだ 何をやるのも二人でするのでなくては つまらない それから そのくだものの木のかげで さう云ふふうにしづかに しあはせに ほんの一週間でもくらしてみたい(一生なら なほうれしいけれど)

ぼくは ほんとうに お前を愛してゐるよ お前もぼくのことさへわすれずにゐてくれゝばいゝ それでたくさんだ それより外のことをのぞむのは ぼくのわがまゝだと氣がついた たゞわすれずにゐておくれ

 

[やぶちゃん注:前掲の「芥川龍之介新辞典」の「吉村ちよ」のコラムの中の「片恋の歌」では、前の「芥川龍之介書簡抄13 / 大正二(一九一三)年書簡より(1) 二通」の山本喜誉司宛書簡大正二(一九一三)年三月二十六日附に記された短歌の四首を掲げ、『この片恋の対象は、以前は』知られた芥川龍之介の敗れた初恋の相手として著名な『吉田弥生と目されていたが、時期が早いことから、ちよを想う歌と考えられるようになった』とある。私には物理的傍証がなく、吉田でないとも言えぬし、「ちよ」だとも断定は出来ないと思う。「片戀」が想像上の仮想でないと断言も出来ぬからである。

「得ちやん」芥川の七つ下の異母弟新原得二(にいはらとくじ 明治三二(一八九九)年~昭和五(一九三〇)年)。龍之介の実父新原敏三と実母フクの妹で、フクの死後に敏三の後妻となったフユとの間の子。

「おばさん」不詳。

「お冬さん」フユであろう。

「太田さん」不詳。新原家の使用人か。]

只野真葛 むかしばなし (27)

 

昔ばなし 二

 

 桑原のぢゞ樣は、何人の種(たね)なるや、しれず。

 むかし、壱人の男、木曾路を江戶のかたへおもむけて下りしに、六ツばかりのおのこ壱人つれて有しが、ふと、

「風のこゝち。」

とて、ふしたりしが、次第におもりて、五、六日のうちに、死す。

「懷中などに、もし、所書(ところがき)やある。」

と、求めしかど、いづちの人といふことも、しれず。

 小兒は、何のわきまへもなく、せんかたなくて、骸(から)をば、近きほとりにおさめ、童子をば、寺にあげて有しとぞ。

 さて、二年ばかりへて、橘隆庵(たちばなりゆうあん)樣、何用(なによう)有(あり)てか、木曾路通行(つうかう)有しに、寺にやどられしとぞ。

 八(やつ)ばかりの子、茶の給仕に出(いで)たるが、目にとまりて、愛らしくおもわれ候故、

「何人(なんぴと)の子なるや。」

と、たづねられしに、

「是は、ふしぎなることなり。かやうかやうの次第なり。」

と、和尙のかたられしを聞て、

「さあらば、我に、此兒、給り候へ。さるべき緣にや、いとふびんにて、ほしく候。」

と、いわれしを、

「ともかくも。」

と、まかせし故、つれて、くだられしとぞ。

 御子息の相手にしておかれしに、其兒、少々、人と、ことなる生(しやう)にて、さらに、かけはしり、くるひ、ほこること、なく、「大學」、少々をしへられしを、夜晝、書にのみむかひて有しとぞ。

 無理によび出して、相手にせらるゝを、きらいて、物に、かくれかくれしたりしを、いつも尋(たづぬ)ることなりしに、ある日、いかにたづねても、見つけぬこと、有。

「家中におらぬことは、あらじ。」

とて、くまぐま、のこりなく尋(たづね)しかば、風呂桶に入(いり)て、よく蓋《ふた》をして、書を見て有しとぞ。

 其よしを、隆庵樣へ申上(まうしあげ)しかば、

「さほど書物好(しよもつずき)なら、今より、相手をやめて、書を、よませよ。」

と、ゆるされし時のうれしさ、いふばかりなかりしとぞ。

 それより、ひしと、手習・書物にかゝりて有(あり)しほどに、物を引(ひき)のぶる樣に、上達をせしとぞ。

 これ、桑原のぢゞ樣なり。

 さて、後(のち)、忠山樣御世(みよ)に橘家(たちばなけ)へ被ㇾ仰しは、

「其(その)門弟の内、しかるべき人あらば、めしかゝへたし。」

と、有し時、殊に祕藏弟子なりし故、

「此もの、しかるべき人。」

とて、相出(あひいだ)されしとぞ。

 さる故に、橘家よりは、ながく、御親類同前に被ㇾ成しことなり。

[やぶちゃん注:「桑原のぢゞ樣」只野真葛の母方の祖父で仙台藩医であった桑原隆朝如璋(りゅうちょうじょしょう 元禄一三(一七〇〇)年頃~安永四(一七七五)年:如璋は医号。読みは推定)。彼は元文五(一七四〇)年、数え四十一の時、二百石で仙台藩に召し抱えられており、当時の仙台藩藩主は第五代藩主伊達吉村(延宝八(一六八〇)年~宝暦元(一七五二)年)である(元禄一六(一七〇三)年に養父綱村が隠居に追い込まれて藩主就任。寛保三(一七四三)年七月に四男久村(宗村)に家督を譲って隠居)。

「橘隆庵」江戸幕府奥医であった二代目橘隆庵元孝(げんこう)。中村忠行氏の論文「桑原やよ子の『宇津保物語』研究」PDF)の「🉂」で本条にも触れながら、以下のようにある(一部に新字が混じる漢字表記はママで、太字は底本では傍点「ヽ」である)。

   《引用開始》

 やよ子は、長じて隆朝を夫に迎へた。隆朝については、『伊達世臣家譜』巻十七「署師之部」に、次の様な傳を掲げてゐる。

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が二字下げ。]

親斯子隆朝如璋、學醫術於橘宗仙院某、自此世爲師家。宗仙院請令如璋仕于當家。因元文五年四月、獅山公之末、給廩米二百石始以醫擧、是月爲番醫。寛保元年六月進近習、三年六月屬世子【忠山公】。延享三年七月、忠山公之初、進奉藥。是年八月、稱述先是公在病床時、奉悃誠[やぶちゃん注:「こんせい」。真心を込めること。]藥應疾、加賜廩米二百石。於是爲今之禄。隠公亦賞賜銀二十枚、及越後縮二端。寶曆六年、忠山公捐館[やぶちゃん注:「えんくわん」薨去。]後、免奉藥爲番醫、相繼住于江戸。九年九月、今公之初、進于近習醫、屬于今夫人。如璋之子養純・綺明、遊倅命役夫之洽療。

 これは、謂はば、公的な履歴書とでも言ふべきものであるが、『むかしばなし』には、その生ひ立ちについて、又次の様な秘話を傳へてゐる。――すなはち、如璋は、もともと、木曽路で斃死した氏姓不明の旅人の連れてゐた子供で、さる寺に預けられてゐたのを、橘隆庵に拾はれた薄幸兒であつた。しかるに、幼時から讀書好きで、風呂桶に隠れてまでも讀書に耽る有様であつたのを見込まれ、その弟子に加へられ、後遂に伊達家に推擧されるに至つたものであると。眞葛が、『むかしばなし』を草したのは、その實家たる工藤家と桑原家(二代目及び三代目隆朝)との關係が、極めて險悪となつてから後のことである。從つて、其處には、多分に毒を含んだ要素が窺はれるけれども、恐らくは、事實を傳へるものであらう。「ぎやうぎあくまでよく、めぐみふかく、召使はるる人ども、よく御せわ被成しなり」と、眞葛からも評された隆朝如璋の爲人[やぶちゃん注:「ひととなり」。]は、さうした數奇な運兪が、却つて幸ひしたものと想像される。

 この隆朝の資質を、いちはやく見出した橘隆庵とは、二代目の隆庵元孝を指す。元來、この橘家は、藥師寺次郞左衛門公義の末葉であつて、もと本多能登守の家臣であつたが、元常の代に至つて幕醫となり、代々隆庵・宗仙院を號し、法眼・法印等に叙せられる者を輩出した。『寛政重脩諸家譜』によれば、元孝は、元禄五年十月、初めて常憲院(徳川綱吉[やぶちゃん注:二行割注。])に謁し、寶永三年二月出仕してから、漸次累進して奥醫となり、 法眼・法印に叙せられ、寛保元年七月には、城内での乗輿を許され、致仕後も、時々西城に登つて、將軍の起居を伺ふへき沙汰を蒙つた程、信望の厚かつ允た名醫であつた。

 隆朝が、この名醫の「殊更に秘蔵弟子」であつたことは、眞葛の記すところであるが、隆庵も亦この弟子を厚遇した様である。すなはち、隆朝が桑原家の婿養子に迎へられた際か、仕官する際であつたかは詳らかでないが、隆庵は隆朝を養子分とし、その後見をしてやつたらしい形跡がある。眞葛は、ただ「さる故に(筆者註―橘家に養はれた故に[やぶちゃん注:二行割注。])たちばな家よりは、ながく御親類同前に被成しことなり」(『むかしばなし』。巻二[やぶちゃん注:二行割注。])と記してゐるだけであるが、安政二年、眞山杢左衛門が、佐々城朴安に興へた前掲「桑原氏系譜賂略」には、「橘家の爲入夫被召出」とある。「爲入夫」を、文字の儘に解釋すれば、女婿となつたことになるが、それでは眞葛の記述と符合しないから、恐らくは形式的なものであつたらう。蓋し、杢左衛門は、只野伊賀守行義の二男で、眞山家の養子となつた人。眞葛は、行義の後室であるから、杢左衛門にとつては繼母となる訣であり、從つて、系圖に記すところも、亦信憑するに足るものと、考へられるからである。隆朝の名は、恐らくこの時に與へられたものに相違なく、隆庵のそれにあやかるものであらうことは贅するまでもない。

   《引用終了》

「何用(なによう)有(あり)てか、木曾路通行(つうかう)有し」幕府奥医であるのに、木曾路となると、私には漢方本草の採取ぐらいしか思い浮かばぬ。

「忠山樣」仙台藩第六代藩主伊達宗村(享保三(一七一八)年~宝暦六(一七五六)年)の諡号(戒名「政德院殿忠山淨信大居士」)。]

只野真葛 むかしばなし (26) /「むかしばなし 一」~了

 

○桑原のをぢ樣・をば樣は、世上の人には、よく、したしみ、下人などにも、めぐみふかき人なりしが、工藤家へ對しては、〆(しめ)が怨念のなすわざにや、あくまで、卑しめ、をとしめて、恥をあたへ、『こゝろよし』とおもはれしなり。【桑原家は、はやりで、さかりなり。工藤家は貧にて有し故、病家より、進物も少しなり。】[やぶちゃん注:原頭註。]

 そのかたはしを、一ツ、いはゞ、夏むき物の、味のかはる時、諸方より、魚類をもらひかさね、義理首尾のなるだけは、人にくれつくし、上下(うへした)、食(くひ)あきて後(のち)、

「おけば、くさるゝ、犬にやらうか、工藤家へやらうか。」

といふ時ばかり、物を送らるゝ故、何をもらひても、

「又、あまし物ならん。」

と、うき心の先立(さきだち)て、うれしとはおもはず、うらみをかくして、こなたよりは、わざわざ、とゝのへたる物にて、禮をせしなり。

 今の隆朝(りゆうてう)代(だい)となりては、いや、ますますに、何のわけもなく、工藤家ヘ衰《をとろふる[やぶちゃん注:ママ。]》が、よろこばしき下心にて有し。

 先年の大火に類燒以後は、源四郞、かんなん申(まうす)ばかりなく、やうやう、もとめし藪小路の家へいるやいなや、枕もあがらぬ大病、終(つひ)に、はかなく成し後、日頃いやしめ、をとしめられし桑原へ、跡式《あとしき》のすみしぞ、口をしき。

 隆朝は、若氣のいちずに、人のおもはんこともはからず、煙の中より、やうやうと、からく、たすけし諸道具・家財、家内の人の見る前にて、「見たをしや[やぶちゃん注:ママ。]」をよびて、うり拂(はらひ)、金五十兩となしたるは、むざんなることなりし。

「かゝることゝしりたらば、何しにか、助けいだしけん、いつそ、燒いてしまへばよかつた。」

と、家内の人は心中になげき、うらみて有しなり。

「書物は、養子方へ、ゆづりに。」

とて、わたしたちしをも、引(ひき)いだして、うり代(しろ)なせしとは聞しが、『誠か、うそか』と思ひて有しを、さる人の、

「此地の本屋にて、父の判のすわりし本を見あたりし。」

とて、

「哀(あはれ)、はかなき代(しろ)や。あれ程、名だかき人のもたれし書の、いくほどもなく散行(ちりゆく)は、いかなる人か、あとに立(たち)し。」

と、なげき語しことありし。

 他人の目にだにも、なげかはしく見ゆるを、まさしき子の身として、いかで、うらみをふくまざらめや。

[やぶちゃん注:「隆朝」真葛の母方の祖父で仙台藩医桑原隆朝如璋(りゅうちょうじょしょう 元禄一三(一七〇〇)年頃~安永四(一七七五)年:如璋は医号であろう。読みは推定)の後を継いだ、真葛の母「お遊」の弟桑原隆朝純(じゅん)。既に注した通り、真葛の弟源四郎は父平助が病没(寛政一二(一八〇〇)年。享年六十七歳)した翌享和元(一八〇一)年に家督を継いで同じく仙台藩番医となり、その翌年には近習を兼ねたが、父の死から七年後の文化四(一八〇七)年十二月六日に未だ三十四の若さで過労からくる発病(推定)により、急死した。これによって、工藤家は跡継ぎが絶えたため、母方の従弟である桑原隆朝如則(じょそく:読みは推定)の次男で、まだ幼かった菅治が養子に入り、後に工藤周庵静卿(じょうけい:読みは推定)を名乗ることとなった(「跡式《あとしき》のすみし」はそれを指す)。男兄弟がいなくなったとはいえ、未婚の女子もある以上、婿養子という形の相続もあり得たが、桑原如則の思惑に押し切られる形で話が進んだという。如則は、また、ここに書かれている通り、工藤家の大切な家財道具や亡父平助の貴重な蔵書を、家人がいる前で、悉く、売り払ってしまったのである(以上はウィキの「只野真葛」に拠った)。

「先年の大火」江戸三大大火の一つである「文化の大火」。文化三年三月四日(一八〇六年四月二十二日)に発生。出火元は芝の車町(現在の港区高輪二丁目)の材木座付近で、午前十時頃に出火し、薩摩藩上屋敷(現在の芝公園)・増上寺五重塔を全焼し、折しも西南の強風にあおられて木挽町・数寄屋橋に飛び火し、さらに京橋・日本橋の殆んどを焼失、更に火勢止むことなく、神田・浅草方面まで燃え広がった。翌日の降雨によって鎮火したものの、延焼面積は下町を中心に五百三十町に及び、焼失家屋は十二万六千戸、死者は千二百人を超えたとされる。このため、町奉行所は被災者のために江戸八ヶ所に「御救小屋(おすくいごや)」を建て、炊き出しを始め、十一万人以上の被災者に御救米銭(支援金)が与えられた。

「かんなん」「艱難」。

「藪小路」愛宕下藪小路。現在の虎ノ門一丁目(グーグル・マップ・データ)の内。

「見たをしや」「見倒し屋」歴史的仮名遣は「みたふしや」が正しい。品物・古物を極めて安く評価して買い取るのを職業とした屑屋・古道具屋・古着屋などの類い。]

 

○源四郞、進代(しんだい)、御國わたりにて有しを、とかく、燒印(やきいん)のまちがい、でくるにより、願(ねがひ)の上、やうやう、江戶わたりに被仰付しに、存生中(ぞんしやうちゆう)、一度も、うけとらず、桑原家の手に、いる。はじめより、骨をらずにうけとることゝ成しを、家内の人、見聞ては、

「『犬、骨折(ほねをり)て、鷹に、とらする』とかいふ、たとへのごとし。」

と、口惜しがりて有しも、ことわりなり。

 今は、やつかい、壱人もなく、ますます、桑原家のとめる世と成(なり)はてしを、親に孝ある人の、おめおめと、見しのぐべきことかは。

 源四郞があとは、すてたるものとして、

『哀(あはれ)、我身、御みやづかへの御緣もあらば、身を八ツにさくとても、工藤平助といふ一家の名ばかりは、殘さんものを。』

と、天にいのり、地にふして、おもひ、やむとき、なし。

[やぶちゃん注:「進代」身代。

「御國わたりにて有し」禄が仙台の本城から給付されたということか。

「燒印(やきいん)のまちがい、でくる」意味不明。給付状の禄高の証明印に誤りがあったということか。

「江戶わたり」江戸藩邸で処理した直接の禄給付ということか。

「犬、骨折て、鷹に、とらする」「犬、骨折つて、鷹の餌食(えじき)となる」。鷹狩りでは犬が、折角、骨折って追い出した獲物も、鷹に取られてしまう。苦労して得たものを他人に横取りされることの喩え。

 これを以って「むかしばなし 一」は終わっている。]

只野真葛 むかしばなし (25)

 

○父樣には權門方(けんもんがた)の御用は數年御勤被ㇾ成しが、「病用は御家中ばかりにて、上の御用にたゝぬ」ことゝて、折々、なげかせられしを、德三郞樣御二歲の秋、御大病の節、御奉藥被ㇾ仰付しを、殊の外、御悅(およろこび)にて有し。誠に御大病にて、人もなきものとし奉るほどのことなりしを、おもひの外に御本復被ㇾ遊しかば、其御ほうびとして、嶋ちゞみ二反・銀子五枚被ㇾ下し。有がたきことながら、御家にてこそ、御次男樣とて、をとしめ奉れども、世上にては、父君ましまさぬ御代の御次男樣故、御世つぎ同前とぞんじ上(あげ)し故、

「逢(あふ)人ごとに、『此ほどは大御手(おほおて)がらなり。さて、御ほうびはいか樣のしな被ㇾ下しや。』と、たづねらるゝ挨拶にこまりし。」

と被ㇾ仰し。

「其節《ふし》は、あかぬことのやうにおもはれしが、今となりて考れば、いさゝかにても御加恩がましきこと有(あり)て、人のたからと成(なり)はてなば、いかばかり心にかゝらん、何事なきぞ心やすき。」

と、かへすがへす、おもはれたり。

[やぶちゃん注:「德三郞樣」これは、実際に後の仙台藩第十代藩主となった伊達斉宗(なりむね 寛政八(一七九六)年~文政二(一八一九)年)の幼名である。寛政八年九月十五日(一七九六年十月十五日)に第八代藩主伊達斉村の次男として江戸袖ヶ崎の下屋敷にて誕生(母は喜多山美昭(藤蔵)の娘)したが、父斉村は既に同年七月二十七日に死去しており(仙台城で病没。享年二十三)、父の死去後の出生である。工藤丈庵平助は宝暦四(一七五四)年に二十一歳で工藤家三百石の家督を継ぎ、仙台藩江戸詰藩医を継いでいるから問題ない。寛政九(一七九七)年当時の平助は六十四歳(平助は寛政十二年十二月十日(一八〇一年一月二十四日)没)であった。斉宗は文化元(一八〇四)年に上屋敷に引越しており、同年に水痘を患ったが、後に全快している。逆に、文化六(一八〇九)年に兄で第九代藩主を形式上(後注参照)継いでいた周宗(生後一年足らずで仙台藩主を相続した。本来なら将軍の御目見を得た後継者でないため、相続出来ないはずであるが、斉村の死去を幕府や家臣に隠した上、親族の若年寄堀田正敦(近江国堅田藩主。後に下野国佐野藩主)や土井利謙(三河国刈谷藩主)、重村の正室で養祖母であった観心院とが協議し、幕府に対して末期養子での相続願いを出した上で襲封、同時に当代の第十一代将軍徳川家斉の三女綾姫と婚約した)が、文化六(一八〇九)年一月四日に十四歳で疱瘡に罹り、その後遺症のため、三年間、表に出られず、代わりに徳三郎(後の斉宗)が儀式や接客を担当した――というのは表向きで実際には疱瘡のために周宗は十四歳で没していた可能性が高い。文化八(一八一一)年に周宗の偏諱を受け、文化九(一八一二)年に兄周宗が〈初御目見なしの隠居〉という特例下の藩主就任に続く隠居を受けて家督相続した(以上は両兄弟の当該ウィキに拠った)。この事実はウィキの「工藤平助」にも載せられており、寛政九年七月には『第八代藩主伊達斉村の次男で生後』十『ヶ月の徳三郎(のちの』第十代藩主『伊達斉宗)が』、『熱病のため』、『重体に陥ったものの』、『平助の治療により』、『一命を取りとめた。平助はその褒賞として白銀』五『枚、縮』二『反を下賜された』とある。

「嶋ちゞみ」山繭糸を入れて織り出した縮緬。山繭糸は染色によって染まらないので自然と縞が出る。ちまちり。]

2021/03/29

越後國里數幷日蓮上人まんだら義經謙信等故事

 

○越後國と信濃國とはうしろあはせの國にして、越後のながさ九十二里なれば、信濃の長さも九十二里なり。越後は長き國にて、北海より信濃のさかひまでは甚だせまく、六七里十里に及べる所のみ也。此九十二里さながら北國海道にて荒磯を行(ゆき)、「親しらず」などいふ所は殊に恐ろし。懸崖絕壁のもとを通ふ道にて、荒波うちよせて道をひたし、前後によくベき所なし、五六間のあはひ殊に難所也。北國海道越後までは田舍の風俗なり、能登國に入(いり)てやうやく人物かはれり。越後てらとまりに石川七左衞門といふもの有、日蓮上人佐渡へ流罪の時止宿ありし家なり。此もののかたに上人附屬のまんだらを所持せしが、前年身延山へ納めて、其請取證狀今に所持せりとぞ。又其家のむかひに酒屋あり、源九郞義經奧州くだりの時止宿ありし家にて、よしつね辨慶等の謝狀今に所持せしといへり。新潟といふ所は殊に繁華の都會なり。又其國の春日山は上杉謙信の古城跡也、高山にして山上に古井有、廣さ四五間ひでりにも水たゆる事なし。里民雨乞をするとき、石を此井に投ずればかならず雨降(あめふる)といふ。越後海道に出て望めば、目にかゝるものは佐渡の國と能登の國ばかり也。能登の出崎と佐渡のあはひは、わずかに四五間ばかりはなれたる樣に見ゆれども、廿里よをへだてたる所なり。晴天にはありありと山の姿手にとるほどにみゆるといふ。越後出雲崎の船問屋は關東屋彌平といふもの殊に大家也、四方入津(にふしん)の舟こゝにやどらずといふ事なく切れもの也。

[やぶちゃん注:「越後のながさ九十二里」三百六十一キロメートル。これはかなり大雑把な内陸直線の距離で、珍しく過小と言える。現行では、「新潟県統計年鑑」(二〇一八年)によれば、現在の新潟県の海岸線の総延長は六百三十四キロメートルにも及ぶからである。

「信濃の長さも九十二里」こちらは過大。信濃国は現在の長野県と岐阜県中津川市の一部が含まれるが、長野県で東西約百二十八キロメートル、南北約二百二十キロメートルで、南北距離で中津川をそのままドンブリで算入しても約二百五十キロメートルほどにしかならないと思われる。こちらは、どこをどう計算したものか、よく判らない。

「北海より信濃のさかひまでは甚だせまく、六七里十里に及べる所のみ也」二十三半から二十四キロメートル半であるが、現行、最も短いのはフォッサ・マグナの糸魚川線で、約十四キロメートルであるから、過大である。

「てらとまり」現在の新潟県長岡市寺泊上片町に寺泊港(グーグル・マップ・データ)はある。

「石川七左衞門」不詳。

「日蓮上人佐渡へ流罪の時止宿」確かに日蓮は流罪の際には寺泊から佐渡に渡らせている。

「附屬」謝礼として添えて与えたものの謂いであろう。

「まんだらを所持せしが、前年身延山へ納めて、其請取證狀今に所持せりとぞ」確認出来ない。この「まんだら」とは無論、「曼荼羅」で、「南妙法蓮華經」の文字に拠る独自の文字曼荼羅であろう。鎌倉の妙本寺にある日蓮「臨滅度時の御本尊」と呼称される「十界曼荼羅」のようなものと思われる。私の「鎌倉攬勝考卷之六」の「妙本寺」の項に画像を置いてある。参照されたい。

「其家のむかひに酒屋あり、源九郞義經奧州くだりの時止宿ありし家にて、よしつね辨慶等の謝狀今に所持せしといへり」源義経が奥州平泉の藤原秀衡を頼って逃げのびた際、一行が海上で遭難して寺泊へ漂着し、土地の豪族五十嵐邸へ身を寄せて、幾日間、逗留したという伝承がある。サイト「新潟伝承物語」の「弁慶の手掘井戸」に、『五十嵐氏は人々の目を避けるために、後庭にあった浴室に』一行を匿い、『従者の弁慶が義経の手洗いや』、『洗顔の用にと』、『わざわざ』、『その裏に井戸を掘ったと伝えられてい』るとある(地図有り)。

「春日山は上杉謙信の古城跡也」新潟県上越市中部にある春日山(かすがやま)。標高百八十九メートル。北に越後府中であった直江津と日本海を望み、南に高田城下を望み、高田平野を一望出来、戦国時代には、この山頂に後に上杉謙信の本拠地となる春日山城が築かれ、北陸地方屈指の城砦として名を馳せた。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「能登の出崎」狭義には七尾港の出崎(現在の矢田新町と万行町の境の海岸)を言うが、ここはその東北の能登観音埼のことであろう。但し、これを能登半島の狼煙(のろし)などのある出崎という一般名詞でとることも可能。

「四五間」七・五~九・一メートル。蜃気楼かい!

「廿里よ」七十八・五四キロメートル。先の能登観音崎からは百二十八キロメートル、狼煙の禄剛崎からなら、八十四キロメートル。禄剛崎は、中二の時、友人と能登半島を一周した時の、思い出の場所。その後も、二度行った、私の能登の特異点である。

「越後出雲崎」新潟県三島郡出雲崎町

「船問屋」「關東屋彌平」現在の新潟県三島郡出雲崎町尼瀬(あまぜ)の、旧年寄に関東屋弥兵衛の名を古文書の中に確認出来る。

「切れもの」敏腕家。やり手。]

只野真葛 むかしばなし (24)

 

○工藤のばゞ樣は、愛宕下(あたごのした)か、西のくぼか、たしかにはおぼへねど、五六萬石くらいの大名の家中に、筋、ことに、おりおり、御取あつかひ有し、一家老の初子(うひまご)にて、御兩親の祕藏なりしが、十六に成(なり)ても、幼な子のごとく、なでいつくしみてのみ、そだてられて、筆とることをさへ、ならはせられざりしとなり。

「人中(じんちゆう)見ならいのため。」

とて、十六の春、おなじ奧へ上られしに、かたへの人々、目引袖引(めひきそでひき)、

「十六になるものに、『いろは』をだに、をしへず、育てしことよ。」

と、わらひしを、御殘念におぼしめされ、

「いで、其事なら、人にわらはれじ。」

と、おぽし立(たち)て、文(ふみ)がらをひろひて、人の寢しづまりたるあとにて、手ならいを被ㇾ成しに、夏は蚊のくるしさに手ぬぐひを頰かぶりにしてならわせ[やぶちゃん注:ママ。]られしとなり。

 利發のうへ、氣根もよかりしかば、半年にて、文を書(かき)ならい[やぶちゃん注:ママ。]、一年といへば、始(はじめ)わらひし人には、まして、とりまわし、文を書(かか)れし故、二年めには御代書(おだいしよ)まで仰付られしとなり【是は小家(せうか)のこと故、御引立の故に被仰付しことなり。大家とは、ことなり。】[やぶちゃん注:原割注。]。此事は、ワ、をさなきより、

「人といふものは、ならぬとて、すてぬものぞ。我などは、かやうにて有し。」

と、度々御敎訓に御はなし被ㇾ遊しことなり。

 ばゞ樣、里の名、しかとおぽえねど、名なくてはまぎらはしき故、おしあてに、つけたり。石井氏、大右衞門とか、其ぢゞ樣の名は、いひし。

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[やぶちゃん注:以下の紋所の真葛の自筆画。底本よりトリミングした。]

 細輪に石疊の紋なりし。

 ばゞ樣、弟宇右衞門といひし人、常に、きたりて、酒のみしも、おぼえたり。男と女の子有(あり)て、妻、不幸し、其後(そののち)、妻に「お秀」は來りしなり。

 お秀は、旗本衆の家中の娘、おなじ奧につとめて、ばゞ樣と朋輩なりしが、髮結(かみゆひ)、もの縫(ぬひ)、細工に達し、作花(つくりばな)上手、人ざはりよく、殊の外、首尾よく、奧樣御ひいきの餘り、家中一番の家柄へ御世話にて被ㇾ成し人なり。

 あしかれとは、かられしことには、あらざりしを、不仕合(ふしあはせ)は、其身に付(つき)たるものなれば、のがれがたし。

 先(まづ)、まゝ子の惣領順治といひしが、十一くらい[やぶちゃん注:ママ。]にも有しが、大惡黨、其くせ、見目すがたのよきことは天晴(あつぱれ)美男にて、ぢゞばゞの大祕藏、まゝ母をいぢめて、

「髮をそろへてやらん。」

と、すれば、

「いたひ。いたひ。」[やぶちゃん注:ママ。]

と、顏、しかめて、ぢゞばゞに、母の手あたり、あらきていに見せ、萬事、そのふりに、こまらせる、くめんばかり。妹(いもと)は、七、八に成し、是、今の「はつえ」なり。とがもなきものを、むたいにいぢめまわす故、とりさゆれば、

「まゝ母は、妹のひいきばかりして、兄をあしくあたる。」

と、兩親の手まへ、あしく成(なり)、などゝいふ樣なことにて、日夜あけしき間(ま)もなく、其内懷姙の男子、「半くろ」なり。二、三の時、兩親、死去。やうやう、其身の世となり、「うれしや」と、おもひもあへず、宇右衞門といふ人は、一向、とりつまらぬ生(しやう)、

「若旦那、若旦那。」

と、いはれし内は人並らしかりしが、兩親無(なく)なりては、大べらぼうにて、御用もわからず、やたら、無性(むしやう)に借金ふへ[やぶちゃん注:ママ。]、公訴(こうそ)うつたへに成(なり)しが、身分不相應のことなりしを、かくべつの家がら故、一度は、すくひ被ㇾ下(くださる)といふことにて、

「尤(もつとも)おもだちたる親類よりも、おぎなへ。」

とて、父樣よりも三十兩御みつぎ被ㇾ成しとなり。柳原の熊谷與左衞門も、ばゞ樣御妹の子なれば、おなじつゞきにて、つぐのひ金、被ㇾ成しなり。それですんだことかとおもへば、

『餘り、借金おほくて、氣の毒。』

とて、座頭金(ざとう《かね》)三口有しを、かくして置しとなり。

「身代をつぶす人の了簡は別なものなり。」

と被ㇾ仰し。

「ねだれば、でる。」

と見て、一年過(すぎ)て、又、公訴に成し故、

「この度(たび)は、かんにん成がたき。」

とて、御いとま出(いだ)し、となり。

 浪人被ㇾ成てより、工藤家より世話被ㇾ成しことは、おびだゝしきことなりし。尾張町ゑびす屋の隣に、間口三間の明棚(あきだな)有しを借りて、普請被ㇾ成、皆、此かたより、持出(もちだ)しにて、藥みせをひらき被ㇾ遣(つかはせられ)しなり。

 みせびらきには、「三ますや三十郞」といふ獨樂(こま)まわしを賴(たのみ)、三日のうちは、獨樂、まはして、人に見せしなり。

 諸(もろもろ)入用(いりよう)二百兩ばかりもつゐへしなり。

 かへ名は安田與市として、のふれんは、紺に菊壽。其頃、きくじゆ、大はやりなりし。「藥、きゝて、壽、ながゝれ」とや、おぼしよりけん、花《くわ》らしきことにて有し。

 されど、ほどもなく、與市、亂心して、仕方なく築地の弟子部屋の角(すみ)に、二疊敷の所(ところ)有しを、かりの牢にしつらひて、入(いれ)おきしが、夜の間に、ぬけいで、行(ゆき)がたしれず、色々たづねしかども、終(つひ)にみかけざりし。

 其頃、半右衞門が弟の「とら次郞」、二(ふたつ)ばかりにて、乳のみ子なりし。

 石井家へ來りて、お秀の心勞、誠に、あけしき間(ま)は、なかりしなり。

 

[やぶちゃん注:「工藤のばゞ樣」真葛の父方の(養)祖父に当たる工藤安世(やすよ 元禄八(一六九五)年~宝暦五(一七五五)年)の二十三歳年下の上津浦ゑん。

「愛宕下」愛宕ノ下は現在の港区新橋・西新橋附近。

「西のくぼ」西窪で東京都港区虎ノ門にあった旧地名か。

「筋、ことに」家柄、これ、特別で。

「いで、其事なら、人にわらはれじ。」「何の! そのようなことならば、人には笑われまいぞ!」。

「文(ふみ)がら」「文殻」。同役の女中らに送られてきて、読み終って不要になって捨てられた手紙。文反故 (ふみほうご) 。

「とりまわし」仕事の処理上の書類を順に取って回すために。

「御代書」奥方さまの右筆役。

「細輪に石疊の紋」正確には画像のそれに細輪はその外周に白い細輪があるものを指す。

「作花」造花。

「あしかれとは、かられし」よく意味が分からぬが、「あしかれ」は「良かれ悪しかれ」で、「かられしことには、あらざりしを」は「専ら、自身の強い意志や感情が原因となって生ずるものではないのだけれども」の謂いであろう。女として不平等な宿命的なものを感じやすい真葛の謂いとして、私には判る気がする。

「あらきてい」「荒き體」。

「そのふりに」「其の振りに」。そうした似非(えせ)の芝居をして。

「くめん」「工面」。せこく狡猾な工夫。

「とりさゆれば」「とり」は動詞の強調の接頭語で、「さゆ」は「障(さ)ふ」の訛りであろう。無体に妹をいじめるのを、やめるように仲に入ると、の意であろう。

「兩親の手まへ、あしく成(なり)」順治のことがお気に入りである、夫の父母の手前、彼の噓によって、気まずいこととなり。

「日夜あけしき間(ま)もなく」そんなこんなで、一時として気がさわやかに晴れる間もなく。

「半くろ」半九郎という名か。

「其身の世となり」父の両親へ気遣いをせずにすむ身となり。

「大べらぼう」話にならないほどの大馬鹿者・社会的失格者であること。

「公訴(こうそ)うつたへ」借金不返済で公事方に訴えられてしまうこと。

「身分不相應のことなりしを」現在の実質的な実態からは凡そ情状酌量などありえないはずのところだったのだけれども。

「かくべつの家がら故」父祖が格別の家柄であったことから。

「尤(もつとも)おもだちたる親類よりも、おぎなへ。」「最も近親である親類や親しい者たちも、この者のために、借金を肩代わりして補填してやれ。」という温情のとりなしが、お上からあったということを指す。

「父樣」真葛の父。実際には血も縁も繋がっておらず、親しくもなかったであろうに。

「柳原」現在の足立区南部の千住地域東部に位置する柳原か。

「熊谷與左衞門」不詳。

「座頭金」(ざとうがね)は「盲金 (めくらがね)」 とも呼んだ。江戸時代、盲人の行なった高利貸しの貸し金を指す。盲人は当道座(とうどうざ)という視覚障碍者仲間の組織を作っており、幕府は盲人保護という立場から当道座が所有する金を官金扱いにし、貸付け・利子を収める特典を許していた。「官金貸付け」とは「幕府の貸付金」を意味することから、貸倒れの危険も少なく、安全有利であったことから、町人たちは利殖のために資金を提供したし、盲人たちも幕府の庇護のもとに高利を得ることが出来たのである。

「御いとま出(いだ)し、となり」かくなっては、当時の彼を雇っていた主家の武家が暇を出したということである。

「尾張町」中央区銀座五・六丁目。

「ゑびす屋」「江戸名所図会」にも絵が載る有名な呉服店。現在の松坂屋の前身の一つ。松坂屋大阪店の前身であった「ゑびす屋呉服店」の創業者は、第八代将軍吉宗とは紀州での幼馴染みで、その屋号も吉宗から贈られた蛭子(ゑびす)の神像に由来すると伝えられている。吉宗が将軍になると、このゑびす屋も江戸に進出し、尾張町に店を構えたのであった。

「三間」五・四五メートル。

「此かた」工藤安世の家。だから、「藥みせ」なのである。

をひらき、被ㇾ遣しなり。

「三ますや三十郞といふ獨樂(こま)まわし」不詳。

「のふれん」「暖簾」元の発音の「のんれん」「のうれん」(「のん」「のう」は暖」の唐音)の音変化の訛り。元は禅家で簾(す)の隙間を覆って風除けとした布の帳(とば)りを指して言ったもの。ここは、今の「のれん」で、商家で屋号・店名などを記して軒先や店の出入り口に懸けておく布のこと。

「菊壽」「きくじゆ」歌舞伎俳優二代目瀬川菊之丞が使用し、安永・天明(一七七二年~一七八九年)頃に流行した染模様で、菊の花と寿の字を交互に染め出したもの。

「花《くわ》らしきことにて有し」意味不明。「日本庶民生活史料集成」では『花々しきことににて有し』で、躓かずに読める。

「弟子」工藤安世の弟子。

『半右衞門が弟の「とら次郞」』石井宇右衛門と「お秀」の間にできた子が先の「半ろく」で、この半右衛門であり、その下が「とら次郞」なのであろう。]

芥川龍之介書簡抄23 / 大正三(一九一四)年書簡より(二) 四通

 

大正三(一九一四)年二月四日・牛込區赤城元町竹内樣方 山本喜譽司樣(葉書)

 

土曜から風邪で寐てゐます 一時は9度6分程も熱が出てくるしみましたが今はもう大分よくなりました 君の手紙は床の上でよみました 返事が遲れてすみませんが 熱があつて何をするのも臆劫だつたのです 木曜には學校へ半日ばかり出てみやうかと思ひます 熱がさめた時に靑空をみたらうれしうござんした

   草と木との中にわれは生きてあり日を仰ぎてわれは生きてあり草と木との如くに

 

[やぶちゃん注:短歌のために採用した。この八日後の二月十二日、第三次『新思潮』を創刊している。既注であるが、再掲しておくと、龍之介が傾倒していたフランスの作家アナトール・フランス(Anatole France  一八四四年~一九二四年)が一八八九年に書いた「バルタザール」(Balthazar)の翻訳で、「バルタサアル(アナトオル・フランス)」の標題で「柳川龍之介」名義であった。後の大正八(一九一九)年七月発行の雑誌『新小説』に「バルタザアル」の標題で「芥川龍之介譯」の署名で再録され、後の作品集「影燈籠」・「梅・馬・鶯」に収録された。編年体の旧「芥川龍之介」全集の第一巻巻頭に配されたそれである。ジョン・レイン夫人(Mrs. John Lane)の英訳(一九〇九年)からの重訳で、同人間では高評を博した。「青空文庫」のこちらで新字旧仮名で読める。]

 

 

大正三(一九一四)年三月十日井川恭宛(封筒欠)

        一九一四、三、十 新宿にて

井川君

先達は早速イエーツを送つて下すつて難有う 又其節の八つ橋も皆で難有頂戴してゐる

手紙を出さうと思つてかいたのもうちの番頭が急病で死んだものだからいろんな事に紛れて遲れてしまつた 君は知つてゐるだらうと思ふがなくなつたのはうち(新宿の)の店にゐたおぢいさんだ 成瀨が電話をかけると牛のなくやうな返事をすると云つたおぢいさんだ

病氣は心臟の大動脈弁の閉鎖で發作後十五分ばかりでもう冷くなつてしまつた それ迄は下女と大正博覽會の話をしてゐたと云ふのだからかはいさうだ 見てゐるうちに耳から額へ額から眼へひろがつてゆく皮膚の變色を(丁度雲のかげが日向の野や山へ落ちるやうに)見てゐるのは如何にも不氣味だつた 水をあびたやうな汗がたれる かすれた聲で何か云ふ 血も少しはいた

今朝六時の汽車で屍體は故鄕(くに)へ送つたが二日も三日も徹夜をしたのでうちのものは皆眼ははらしてゐる 帳面をぶら下げた壁や痕だらけの机のある狹い店ががらんと急に廣くなつたやうな氣がする

こんな急な死に方をみると すべての道德すべての律法が死を中心に編まれてゐるやうな氣がしないでもない くにから死骸を引取りに來た親類の話によると、なくなつた晚にかけてない目ざまし時計が突然なり出したさうだ それから夜があけるとうちの前へ烏が一羽死んで落ちてゐたと云ふ 母や叔母や女中は皆氣味のわるさうな顏をしてこんな話をきいてゐた

 

一週間程前に巢鴨の癩狂院へ行つたら三十位の女の氣狂ひが「私の子供だ私の子供だ」と云つて僕のあとへついて來た 子でもなくして氣がちがつたのだらう 隨分氣味が惡かつた 中に神道に凝つてゐる氣狂ひがゐた 案内してくれた醫學士が「あなたの名は何と云ふんです」ときくと「天の神地の神奈落の神天てらす天照皇神むすび國常立何とか千早ぶる大神」と一息に答へた「それが皆あなたの名ですか」と云ふと「左樣で」とすましてゐる おかしくもありかはいさうでもあつた

 

そのあとで醫科の解剖を見に行つた 二十の屍體から發散する惡臭には辟易せずにはゐられなかつた 其代り始めて人間の皮膚が背中では殆五分近く厚いものだと云ふ事を知つた

屍体[やぶちゃん注:ママ。]室へ行つたら 今朝死んだと云ふ屍體が三つあつた 其中の一人は女でまだアルミのかんざしをさしてゐた

死ぬと直ぐ胸の上部を切つてそこから朱を注射するので土氣色の皮膚にしたゝつてゐる朱が血のやうで氣味が惡い

一緖に行つた成瀨はうちへ歸つても屍體のにほひが鼻についてゐてとうとう吐いてしまつたさうだ

 

[やぶちゃん注:この精神病院訪問や解剖実習見学は、大学の授業に有益性を全く持てずにサボってばかりいた一方で、既に作家を目指し始めていた学友久米正雄や松岡譲の意気込みの惹かれる形で、自身も創作への模索を始めており、それへの素材探索や意欲刺激を求めてのことであった。

「うちの番頭が急病で死んだ」この三月十四日土曜日に、実父新原敏三の耕牧舎の番頭であった松村泰次郎が急死した。

「先達は早速イエーツを送つて下すつて難有う」これは先行する推定三月二日の葉書で、『新思潮で愛蘭土文學號を出すさうだ イエーツの SECRET ROSE があいてゐたら送つてくれ給へ』と送ったのに井川がすぐに答えて送ってきたことへの返礼と考えられる。これについては。、「芥川龍之介書簡抄16 / 大正二(一九一三)年書簡より(3) 四通」の「大正二(一九一三)年九月十七日(年月推定)・山本喜譽司宛(封筒欠)」の私の注「YEATS の SECRET ROSE」を見て貰いたいが、恐らくは芥川龍之介の蔵書で井川に貸していたものと推定される。而して、その注で詳しく書いたが、この三ヶ月後の大正三(一九一四)年六月発行の『新思潮』(第五号。署名は目次が「柳川隆之介」、本文は「押川隆之介」)に、当該作品集中の一編である「The Heart Of The Spring」を『春の心臟』として翻訳して公開している(旧全集第一巻の三番目に所収)。新字正仮名であるが、「青空文庫」のこちらで読める。

「大正博覽會」東京大正博覧会。この十日後の大正三年三月二十日から七月三十一日にかけて東京府主催で東京市の上野公園地を主会場として開催された博覧会。詳しくは当該ウィキを読まれたいが、そこに『この博覧会では伝染病研究所、日本赤十字社などが出展した衛生経済館もあったが、これとは別に、不忍池上の』二『階建の仮設建築で二六新報社による』「通俗衛生博覧会」が『設けられ、人体の臓器などの実物標本』・模型類・『写真等が展示された』。『中には、東京帝国大学医学部から貸し出されたという「高橋お伝の全身の皮膚」なども展示されていた』とある。この書簡の死体の臭いという表現にちょっと違和感を感じているので(後述する)、敢えて引いておく。

「くにから死骸を引取りに來た親類の話によると、なくなつた晚にかけてない目ざまし時計が突然なり出したさうだ それから夜があけるとうちの前へ鳥が一羽死んで落ちてゐたと云ふ 母や叔母や女中は皆氣味のわるさうな顏をしてこんな話をきいてゐた」既に述べた、「椒圖志異」に見られる芥川龍之介の怪異蒐集趣味の現われである。

「一週間程前に巢鴨の癩狂院へ行つた」新全集の宮坂年譜に、この三月三日(月)頃に、成瀬正一と『東京府立巣鴨病院へ見学に行く。その後、さらに』東京帝大『医科大学で解剖を見学した』とある(この書簡が原資料)。

『三十位の女の氣狂ひが「私の子供だ私の子供だ」と云つて僕のあとへついて來た 子でもなくして氣がちがつたのだらう 隨分氣味が惡かつた』私はこの時、心底の恐怖と同時に、実母フクの面影が彼の心を掠めたに違いないと思うている。芥川龍之介の実母フクが亡くなったのは、龍之介満十歳の、高等小学校高等科一年の十一月二十八日のことであった(フク満四十二歳)。大正一五(一九二六)年十月一日発行の雑誌『改造』に発表した名品「點鬼簿」(リンク先は私の古い電子テクスト)の巻頭の「一」は母である。以下に全文を引く。

   *

   一

 僕の母は狂人だつた。僕は一度も僕の母に母らしい親しみを感じたことはない。僕の母は髮を櫛卷きにし、いつも芝の實家にたつた一人坐りながら、長煙管ですぱすぱ煙草を吸つてゐる。顏も小さければ體も小さい。その又顏はどう云ふ譯か、少しも生氣のない灰色をしてゐる。僕はいつか西廂記を讀み、土口氣泥臭味の語に出合つた時に忽ち僕の母の顏を、――瘦せ細つた橫顏を思ひ出した。

 かう云ふ僕は僕の母に全然面倒を見て貰つたことはない。何でも一度僕の養母とわざわざ二階へ挨拶に行つたら、いきなり頭を長煙管で打たれたことを覺えてゐる。しかし大體僕の母は如何にももの靜かな狂人だつた。僕や僕の姉などに畫を描いてくれと迫られると、四つ折の半紙に畫を描いてくれる。畫は墨を使ふばかりではない。僕の姉の水繪の具を行樂の子女の衣服だの草木の花だのになすつてくれる。唯それ等の畫中の人物はいづれも狐の顏をしてゐた。

 僕の母の死んだのは僕の十一の秋である。それは病の爲よりも衰弱の爲に死んだのであらう。その死の前後の記憶だけは割り合にはつきりと殘つてゐる。

 危篤の電報でも來た爲であらう。僕は或風のない深夜、僕の養母と人力車に乘り、本所から芝まで駈けつけて行つた。僕はまだ今日(こんにち)でも襟卷と云ふものを用ひたことはない。が、特にこの夜だけは南畫の山水か何かを描いた、薄い絹の手巾をまきつけてゐたことを覺えてゐる。それからその手巾には「アヤメ香水」と云ふ香水の匂のしてゐたことも覺えてゐる。

 僕の母は二階の眞下の八疊の座敷に橫たはつてゐた。僕は四つ違ひの僕の姉と僕の母の枕もとに坐り、二人とも絕えず聲を立てて泣いた。殊に誰か僕の後ろで「御臨終々々々」と言つた時には一層切なさのこみ上げるのを感じた。しかし今まで瞑目してゐた、死人にひとしい僕の母は突然目をあいて何か言つた。僕等は皆悲しい中にも小聲でくすくす笑ひ出した。

 僕はその次の晩も僕の母の枕もとに夜明近くまで坐つてゐた。が、なぜかゆうべのやうに少しも淚は流れなかつた。僕は殆ど泣き聲を絕たない僕の姉の手前を恥ぢ、一生懸命に泣く眞似をしてゐた。同時に又僕の泣かれない以上、僕の母の死ぬことは必ずないと信じてゐた。

 僕の母は三日目の晩に殆ど苦しまずに死んで行つた。死ぬ前には正氣に返つたと見え、僕等の顏を眺めてはとめ度なしにぽろぽろ淚を落した。が、やはりふだんのやうに何とも口は利かなかつた。

 僕は納棺を終つた後にも時々泣かずにはゐられなかつた。すると「王子の叔母さん」と云ふ或遠緣のお婆さんが一人「ほんたうに御感心でございますね」と言つた。しかし僕は妙なことに感心する人だと思つただけだつた。

 僕の母の葬式の出た日、僕の姉は位牌を持ち、僕はその後ろに香爐を持ち二人とも人力車に乘つて行つた。僕は時々居睡りをし、はつと思つて目を醒ます拍子に危く香爐を落しさうにする。けれども谷中へは中々來ない。可也長い葬列はいつも秋晴れの東京の町をしづしづと練つてゐるのである。

 僕の母の命日は十一月二十八日である。又戒名は歸命院妙乘日進大姉である。僕はその癖僕の實父の命日や戒名を覺えてゐない。それは多分十一の僕には命日や戒名を覺えることも誇りの一つだつた爲であらう。

   *

芥川龍之介は母の狂気が遺伝して自分も発狂するのではないかという恐れを生涯、真剣に持ち続けてはいた(私はフクのそれは強度の心因性強迫神経症或いは統合失調症であったと考えており、龍之介の遺伝の恐れは杞憂であったと思っている)。しかし、以上の一篇は作家芥川龍之介独特のある突き放したような冷徹なポーズの中に、彼自身の、永遠に帰らない幼児期に背負ってしまった母の不在と喪失の絶対の悲しみを伝えて余りあるもの、と信じて疑わぬ者である。

「天てらす天照皇神」前が「あまてらす」であるから、ダブりを嫌って「てんしょうこうたいしん」(現代仮名遣)と読むのであろう。

「むすび」「かみむすびのかみ」の略。「古事記」では「神産巣日神」、「日本書紀」では「神皇産霊尊」、「出雲国風土記」では「神魂命」と書かれる。「産霊」は生産・生成を意味する言葉で、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)とともに創造の神格化したもの。女神の可能性が高い。「古事記」では少名毘古那神(すくなびこなのかみ)は彼女の子とされる。

「國常立何とか」国常立尊(くにのとこたちのみこと)であろう。「古事記」では神世七代の最初の神とされ、開闢神別天津神(ことあまつかみ)の最後の天之常立神(あめのとこたちのかみ)の次に現われた神で、独神(ひとりがみ)とであり、姿を現わさなかったと記される。「日本書紀」本文では天地開闢の際に出現した最初の神とし、「純男(陽気のみを受けて生まれた神で全く陰気を受けない純粋な男性)」の神と記す。原初的な土地神であることは間違いあるまい。伊勢神道や吉田神道及びその流れを汲む教派神道諸派でもこの神が重要な神されているが、日本近代宗教至上では大本(おおもと)教(正式には「教」はつけない)のそれが著名である。

「二十の屍體から發散する惡臭」これは解剖実習室の実習用遺体であり、それは腐敗死臭ではなく、その主たるものはホルマリンなどの腐敗防止薬の強烈な臭いである。母は既に終わり、私も妻もまた、同じく慶応大学医学部に献体している。まさに、その実習教材となるのである。

「人間の皮膚が背中では殆五分近く厚い」事実。ヒトは背中の皮膚が表皮の最も厚く、表皮が平均〇・一から〇・二ミリメートルで、真皮は四ミリメートルである。「五分」は十五ミリメートルであるが、これは、龍之介が、切開した皮膚の真皮(ここで静脈・動脈・神経が複雑に絡みあって走っている)の下にある以上を支える皮下脂肪層(これは個人差があるが、九ミリメートルにも及ぶ)を含めて言っているものと思われる。

「朱」水銀化合物。これを遺体に十全に注入すると、腐敗が抑制され、「永久死体」(法医学用語)となる。

   ◇

 この二十二歳の時の経験が、如何に鮮烈であり、芥川龍之介の心影に深く鐫りつけられたかは、晩年の自死の決意前後にこれらがフラッシュ・バックして甦ることからも判る。遺稿「或阿呆の一生」(リンク先は私の古い電子化であるが、今朝、全面校訂を行った)である。それも二箇所で示される。一つは、「二 母」であり、今一つは、「九 遺體」である。以下に示す。

   *

        母

 狂人たちは皆同じやうに鼠色の着物を着せられてゐた。廣い部屋はその爲に一層憂欝に見えるらしかつた。彼等の一人はオルガンに向ひ、熱心に讃美歌を彈きつづけてゐた。同時に又彼等の一人は丁度部屋のまん中に立ち、踊ると云ふよりも跳ねまはつてゐた。

 彼は血色の善(よ)い醫者と一しよにかう云ふ光景を眺めてゐた。彼の母も十年前には少しも彼等と變らなかつた。少しも、――彼は實際彼等の臭氣に彼の母の臭氣を感じた。

 「ぢや行(ゆ)かうか?」

 醫者は彼の先に立ちながら、廊下傳ひに或部屋へ行つた。その部屋の隅にはアルコオルを滿した、大きい硝子(がらす)の壺の中に腦髓が幾つも漬つてゐた。彼は或腦髓の上にかすかに白いものを發見した。それは丁度卵の白味をちよつと滴らしたのに近いものだつた。彼は醫者と立ち話をしながら、もう一度彼の母を思ひ出した。

 「この腦髓を持つてゐた男は××電燈會社の技師だつたがね。いつも自分を黑光りのする、大きいダイナモだと思つてゐたよ。」

 彼は醫者の目を避ける爲に硝子窓の外を眺めてゐた。そこには空き罎の破片を植ゑた煉瓦塀の外に何もなかつた。しかしそれは薄い苔をまだらにぼんやりと白らませてゐた。

   *

        死  體

 死體は皆親指に針金のついた札をぶら下げてゐた。その又札は名前だの年齡だのを記してゐた。彼の友だちは腰をかがめ、器用にメスを動かしながら、或死體の顏の皮を剝ぎはじめた。皮の下に廣がつてゐるのは美しい黃色の脂肪だつた。

 彼はその死體を眺めてゐた。それは彼には或短篇を、――王朝時代に背景を求めた或短篇を仕上げる爲に必要だつたのに違ひなかつた。が、腐敗した杏(あんず)の匂に近い死體の臭氣は不快だつた。彼の友だちは眉間(みけん)をひそめ、靜かにメスを動かして行つた。

 「この頃は死體も不足してね。」

 彼の友だちはかう言つてゐた。すると彼はいつの間にか彼の答を用意してゐた。――「己(おれ)は死體に不足すれば、何の惡意もなしに人殺しをするがね。」しかし勿論彼の答は心の中にあつただけだつた。

   ◇

なお、ここで出る「友だち」(則ち、彼の伝手で人体解剖を見学させて貰えたのである)とは既出既注の、龍之介の江東小学校及び府立三中時代の同級生で、一高の第三部(医学)に入り、東京帝国大学医学大学に進んだ上瀧嵬(こうたきたかし 明治二四(一八九一)年~?)である。卒業後は医師となって、後に厦門(アモイ)に赴いた。詳しくは「芥川龍之介手帳 1-4」の私の注を参照されたい。]

 

 

大正三(一九一四)年四月四日・本鄕區西片町十番地 佐々木信綱樣 侍史・四月四日朝 新宿ニノ七一 芥川龍之介

 

肅啓

過日は御繁忙中參堂長座仕り御迷惑さこそと恐縮に存じ候

歌十一首 拙く候へども心の花に御揭載被下候はゞ 難有く存ず可く候 歌も人につきて學びたる事無之 語格は元より假名づかひさへも誤れる事多かる可く玉斧を乞ふを得ば幸甚に候

今朝の雪 寒威春杉を壓して火閤を擁さずば書もよみ難き程に候 匆々頓首

    四月四日        芥川龍之介

   佐々木先生梧下

 

[やぶちゃん注:「佐々木信綱」かの歌人佐佐木信綱(明治五(一八七二)年~昭和三八(一九六三)年)。歌誌『心の花』を発行する短歌結社「竹柏会」を主宰していた。この会には最後に芥川龍之介が愛することとなる片山廣子が既にいた。さて、ここで芥川龍之介は「十一首」と言っているが、十二首の誤りである。どうなったって? 勿論、全十二首完全に掲載されている。私の「やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集 附やぶちゃん注」の「紫天鵞絨」がそれである。

「火閤」「くわかふ(かこう)」で火燵のこと。]

 

 

大正三(一九一四)年四月七日・東京府下北豐島郡瀧野川村中里三五二 小野八重三郞樣・消印神奈川縣下浦局(転載)

 夕月よ片目しひたる長谷寺の燈籠守はさびしかるらむ

 夕されば韮水仙の黃なる花ほのかにさきてもの思はする

         三浦半島の南にて   龍

 

[やぶちゃん注:三浦半島を旅した(期間は不明。因みに七日は月曜であるから、大学はサボっている可能性がある)折りの旅信。龍之介はこの前月の三月五日(水)頃にも三崎・城ヶ島逗子方面に遊んでいる。

「下浦」(したうら)は三浦半島の先の東京湾側の野比から剣崎方向の地名(グーグル・マップ・データ)。

「小野八重三郞」既出既注。東京生まれで、府立三中時代の一つ下の後輩。

「長谷寺」これは鎌倉の観音(本尊で木造十一面観音立像。像高九・一八メートルの巨像)で知られる長谷寺と推定される。この「燈籠守」とは、ただの像前の灯明の管理人であろうが、私は反射的に『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第四章 江ノ島巡禮(一二)~(一五)』(リンク先は私の電子化注)の夢幻的な素敵なシークエンスを想起してしまうのである。是非、読まれたい。

「韮水仙」私の好きな単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ネギ亜科ハナニラ属ハナニラ Ipheion uniflorum があるが、同種の花弁は青・白・淡紫・ピンクで、黄色はない。雄蕊は黄色いから、それを「黃なる花ほのかにさきて」と言っているものかとも思ったが、流石にそれはちょっとねと思う(アルゼンチン原産。有毒であるが、園芸品種では無毒で食用になるものもかなりある)。花弁が黄色のものとなると、ネギ亜科ハタケニラ(ステゴビル)属キバナハナニラ Nothoscordum sellowianum が現在はあるのだが(ブラジル南部・アルゼンチン・ウルグアイ原産)、この当時、このキバナハナニラが本邦に移入されていたかどうかは、ちょっとクエスチョンである(私は植物は苦手である)。]

旧電子テクスト(初版は十六年前公開)の芥川龍之介「或阿呆の一生」(未定稿附き)の全面校訂終了

芥川龍之介の「或阿呆の一生」(未定稿附き)は十六年前に電子化し、今まで四度修正や改訂を行ったが、それでも長くポイント表示・正字不全・未ルビ化など、かなりの不満な部分が残っていたので、今朝、全面校訂を行った。これで、まずは、よかろうと思う。不審な点があれば、御指摘下されば、恩幸これに過ぎたるはない。なお、何時かは芥川龍之介には悪いが、彼の冒頭の遺言の懇請を退け、オリジナルな全注釈をしたいと考えてはいる。

2021/03/28

芥川龍之介 孤獨地獄 正字正仮名版+草稿+各オリジナル注附 (サイト縦書版・PDF) 公開


芥川龍之介「孤獨地獄」(正字正仮名版+草稿+各オリジナル注附)の「サイト縦書版・PDF」を公開した。

芥川龍之介 孤獨地獄 正字正仮名版+草稿+各オリジナル注附 (サイト横書版) 公開

芥川龍之介「孤獨地獄」(正字正仮名版+草稿+各オリジナル注附)の「サイト横書版」を公開した。字のポイントを三倍にしてあるので、大型のディスプレイを使用されている方にはブログよりも読み易いと思う。

2021/03/27

芥川龍之介 孤獨地獄 正字正仮名版+草稿+各オリジナル注附

 

[やぶちゃん注:「鼻」の発表の二ヶ月後の大正五(一九一六)年四月発行の『新思潮』初出で、大見出し「紺珠十篇」(この総標題については「紺珠」という総表題で随想的小品を十篇並べるつもりだったということと、そうした一篇として別に「父」(リンク先は私の古い電子テクスト)があることが、初出後記で判明する。私の本文注の最後に示しておいた)のもとに「孤獨地獄」の標題で掲載され(目次は「孤獨地獄(小品)」)、後の第一作品集「羅生門」(大正六年五月二十三日阿蘭陀書房刊)及びその後の春陽堂の「新興文芸叢書第八篇」として刊行された短篇集「鼻」(十三篇所収だが、「西郷隆盛」を除いて総て「羅生門」既収で芥川龍之介の作品集には数えられていない)に収録された。

 因みに、これを私が始めて読んだのは、大学四年の一九七八年十月に入手した(父の知人の伝手で岩波書店本社で社員の方から一割引きで買った。裸でスズラン・テープで六巻ずつ縛られていて、神保町から中目黒まで素手でぶら下げて帰った。三日間、両手の指が血行不良で腫れ上がったのを思い出す)「芥川龍之介全集」を、その日から一月ほどかけて通読したその時だった。当時の私の日記にも本篇を読んで異様に感動した記載がある。

 本文の底本は、その旧全集一九七七年岩波書店刊「芥川龍之介全集」第一巻を使用した。但し、「青空文庫」版の新字正仮名版を加工データとして使用した(但し、この電子テクストには看過できない複数の問題点がある)。当該親本は作品集「鼻」のそれである。一読、非常な不審を感ずるのは、ルビで、如何にも不要な箇所に多く附されてあり、逆にあった方がよいと思われる人名や書名及び語などに振られていない点である。また、先行する同語に振られずに、後になってひょくり振られてあったりする。これは如何にも芥川龍之介らしからぬものである。私は初出の『新思潮』を見たことがないのだが、或いはこのルビは印刷を頼んだ印刷所の校正者によって勝手に附されたものではないかとも疑っている。そうしたことは、近年まで、かなり長い間、行われてきたことを多くの方は知るまい。丁寧に原稿に自分でルビを振っていた大作家は泉鏡花辺りで終わってしまい、「えッツ!?!」と思うような近現代の著名な作家も特定のケースを除いてルビを振ることはそんなに多くはなかったのである(詩歌の場合は別)。だいたいからして、あなた方は、ごく最近まで、ルビには拗音や促音を小さく表記印刷することはなかったことさえもご存知ないであろう。嘘だと思うなら、御自身の持っている、写植印刷が主になる三十年以上前の活版の出版物を見られるがいい。「本当だ!」と吃驚されるであろう。草稿のそれは岩波書店の新全集版(一九九七年刊)第二十一巻を参考底本として、恣意的に漢字を正字化して示した。踊り字「〱」は正字化した。

 本文・草稿ともに注をオリジナルに附した。【二〇二一年三月二十八日 藪野直史】]

 

 孤 獨 地 獄

 

 この話を自分は母(はゝ)から聞いた。母はそれを自分の大叔父(おほをぢ)から聞いたと云つてゐる。話の眞僞(しんぎ)は知らない。唯大叔父自身の性行(せいかう)から推して、かう云ふ事も隨分ありさうだと思ふだけである。

 大叔父は所謂大通の一人で、幕末(ばくまつ)の藝人や文人の間に知己(ちき)の數が多かつた。河竹默阿彌、柳下亭種員、善哉庵永機、同冬映、九代目團十郞、宇治紫文、都千中、乾坤坊良齋などの人々(ひとびと)である。中でも默阿彌は、「江戶櫻淸水淸玄」で紀國屋文左衞門を書(か)くのに、この大叔父を粉本(ふんぽん)にした。物故(ぶつこ)してから、もう彼是五十年になるが、生前一時は今紀文と綽號(あだな)された事があるから、今(いま)でも名だけは聞いてゐる人(ひと)があるかも知れない。――姓は細木(さいき)、名は藤次郞、俳名は香以、俗稱は山城河岸の津藤と云つた男である。

 その津藤(つとう)が或時吉原の玉屋で、一人の僧侶(そうりよ)と近づきになつた。本鄕界隈の或禪寺の住職で、名は禪超(ぜんてう)と云つたさうである。それがやはり嫖客(へうかく)となつて、玉屋の錦木と云ふ華魁に馴染(なじ)んでゐた。勿論、肉食妻帶が僧侶に禁(きん)ぜられてゐた時分の事であるから、表向(おもてむ)きはどこまでも出家ではない。黃八丈の着物に黑羽二重の紋付(もんつき)と云ふ拵へで人には醫者(いしや)だと號してゐる。――それと偶然近づきになつた。

 偶然と云ふのは燈籠時分の或夜(あるよ)、玉屋の二階で、津藤が厠(かはや)へ行つた歸りしなに何氣なく廊下(らうか)を通ると、欄干にもたれながら、月(つき)を見てゐる男があつた。坊主頭の、どちらかと云へば背(せい)の低(ひく)い、瘦ぎすな男である。津藤は、月(つき)あかりで、これを出入の太鼓醫者竹内(ちくない)だと思つた。そこで、通(とほ)りすぎながら、手をのばして、ちよいとその耳を引張(ひつぱ)つた。驚いてふり向く所を、笑(わら)つてやらうと思つたからである。

 所がふり向いた顏を見ると、反つて此方(こつち)が驚いた。坊主頭と云ふ事を除(のぞ)いたら、竹内(ちくない)と似てゐる所などは一つもない。――相手(あひて)は額(ひたひ)の廣い割に、眉と眉との間が險しく狹つてゐる。眼(め)の大きく見えるのは、肉(にく)の落ちてゐるからであらう。左の頰にある大きな黑子(ほくろ)は、その時でもはつきり見(み)えた。その上顴骨が高い。――これだけの顏(かほ)かたちが、とぎれとぎれに、慌(あはたゞ)しく津藤の眼にはいつた。

「何か御用かな。」その坊主(ばうず)は腹を立てたやうな聲(こゑ)でかう云つた。いくらか酒氣も帶びてゐるらしい。

 前に書くのを忘れたが、その時津藤には藝者(げいしや)が一人に幇間(ほうかん)が一人ついてゐた。この手合は津藤(つとう)にあやまらせて、それを默(だま)つて見てゐるわけには行かない。そこで幇間が、津藤に代(かは)つて、その客に疎忽の詑(わび)をした。さうしてその間に、津藤は藝者をつれて、匇々(さうさう)自分の座敷へ歸つて來た。いくら大通(だいつう)でも間が惡(わる)かつたものと見える。坊主の方では、幇間(ほうかん)から間違の仔細をきくと、すぐに機嫌を直して大笑(おほわら)ひをしたさうである。その坊主が禪超(ぜんてう)だつた事は云ふまでもない。

 その後で、津藤が菓子の臺(だい)を持たせて、向ふへ詑びにやる。向うでも氣(き)の毒(どく)がつて、わざわざ禮に來る。それから二人の交情が結(むす)ばれた。尤も結ばれたと云つても、玉屋の二階で遇(あ)ふだけで、互に往來(わうらい)はしなかつたらしい。津藤は酒(さけ)を一滴も飮まないが、禪超は寧、大酒家(たいしゆか)である。それからどちらかと云ふと、禪超の方が持物(もちもの)に贅をつくしてゐる。最後に女色(ぢよしよく)に沈湎するのも、やはり禪超(ぜんてう)の方が甚しい。津藤自身が、これをどちらが出家(しゆつけ)だか解らないと批評した。――大兵肥滿で、容貌(ようばう)の醜かつた津藤は、五分月代に銀鎖(ぎんぐさり)の懸守(かけまも)りと云ふ姿で、平素は好(この)んでめくら縞の着物に白木(しろき)の三尺をしめてゐたと云ふ男である。

 或日津藤が禪超に遇ふと、禪超は錦木(にしきゞ)のしかけを羽織(はお)つて、三味線をひいてゐた。日頃から血色(けつしよく)の惡い男であるが、今日は殊(こと)によくない。眼も充血してゐる。彈力のない皮膚が時々口許で痙攣(けいれん)する。津藤はすぐに何か心配(しんぱい)があるのではないかと思つた。自分(じぶん)のやうなものでも相談相手(さうだんあひて)になれるなら是非させて頂(いたゞ)きたい――さう云ふ口吻を洩(も)らして見たが、別にこれと云つて打明ける事もないらしい。唯、何時(いつ)もよりも口數が少くなつて、ややもすると談柄(だんぺい)を失(しつ)しがちである。そこで津藤は、これを嫖客(へうかく)のかかりやすい倦怠(アンニユイ)だと解釋した。酒色を恣にしてゐる人間(にんげん)がかかつた倦怠は、酒色で癒(なほ)る筈がない。かう云ふはめから、二人は何時(いつ)になくしんみりした話をした。すると禪超(ぜんてう)は急に何か思(おも)ひ出したやうな容子で、こんな事(こと)を云つたさうである。

 佛說によると、地獄(ぢごく)にもさまざまあるが、凡(およそ)先(ま)づ、根本地獄、近邊地獄、孤獨地獄の三つに分つ事が出來(でき)るらしい。それも南瞻部洲下過五百踰繕那乃有其獄と云(い)ふ句があるから、大抵は昔から地下にあるものとなつてゐたのであらう。唯(たゞ)、その中で孤獨地獄だけは、山間曠野樹下空中、何處(どこ)へでも忽然として現(あらは)れる。云はば目前の境界(きやうかい)が、すぐそのまゝ、地獄の苦艱(くげん)を現前(げんぜん)するのである。自分は二三年前から、この地獄(ぢごく)へ墮ちた。一切の事が少しも永續(えいぞく)した興味を與へない。だから何時(いつ)でも一つの境界から一つの境界を追(お)つて生きてゐる。勿論それでも地獄は逃(のが)れられない。さうかと云つて境界を變(か)へずにゐれば猶、苦しい思をする。そこでやはり轉々(てんてん)としてその日その日の苦(くる)しみを忘れるやうな生活をしてゆく。しかし、それもしまひには苦しくなるとすれば、死んでしまふよりも外はない。昔は苦しみながらも、死ぬのが嫌(いや)だつた。今では……

 最後の句は、津藤(つとう)の耳にはいらなかつた。禪超が又三味線の調子(てうし)を合せながら、低い聲で云(い)つたからである。――それ以來(いらい)、禪超は玉屋へ來なくなつた。誰も、この放蕩(はうたう)三昧(まい)の禪僧がそれからどうなつたか、知(し)つてゐる者はない。唯その日禪超は、錦木(にしきゞ)の許へ金剛經の疏抄を一册忘れて行(い)つた。津藤が後年零落して、下總の寒川(さむかは)へ閑居(かんきよ)した時に常に机上にあつた書籍(しよせき)の一つはこの疏抄である。津藤はその表紙(へうし)の裏へ「堇野や露に氣のつく年四十」と、自作(じさく)の句を書き加(くは)へた。その本は今では殘(のこ)つてゐない。句ももう覺えてゐる人は一人もなからう。

 安政四年頃の話である。母(はゝ)は地獄と云ふ語の興味(きようみ)で、この話を覺えてゐたものらしい。

 一日の大部分を書齋で暮(くら)してゐる自分は、生活の上から云つて、自分(じぶん)の大叔父やこの禪僧とは、全然沒交涉な世界(せかい)に住んでゐる人間(にんげん)である。又興味の上から云つても、自分は德川時代(とくがはじだい)の戲作や浮世繪に、特殊な興味を持(も)つてゐる者ではない。しかも自分(じぶん)の中にある或心もちは、動(やゝもす)れば孤獨地獄と云(い)ふ語(ことば)を介して、自分の同情を彼等(かれら)の生活に注がうとする。が、自分はそれを否(いな)まうとは思はない。何故と云へば、或意味で自分も亦(また)、孤獨地獄に苦しめられてゐる一人だからである。

                  ――五年二月――

 

[やぶちゃん注:「母」芥川龍之介の養母である芥川儔(トモ)(安政四(一八五七)年~昭和一二(一九三七)年)。

「自分の大叔父」儔の母は旧姓細木(さいき)で名を須賀と言ったが、彼女はかの森鷗外の史伝「細木香以」(大正六(一九一七)年九月十九日から同年十月十三日まで『大阪毎日新聞』と『東京日日新聞』に連載)に書かれた、幕末の俳人・商人で通人として知られた細木香以(さいきこうい 文政五(一八二二)年~明治三(一八七〇)年)の実の姉であった。ウィキの「細木香以」によれば、細木の『家は新橋山城町にある酒屋で姓は源、氏は細木、店の名は摂津国屋(つのくにや)』(香以は家を継いでから藤次郎を名乗ったことから「津國屋藤次郞」を約めて「津藤(つとう)」となったのである)『である。香以の祖父・伊兵衛の代から蔵造りの店に直し、山城河岸を代表する豪商となった。父の竜池が家を継ぐと』、『酒店を閉じて』、『大名(加賀藩・米沢藩・広島藩など)の用達を専業とする。竜池は秦星池』(はたせいち)『に書を』、『初代彌生庵雛丸(やよいあんひなまる)に『狂歌を習い、雛亀と称し、晩年には桃の本鶴廬』、『また』、『源仙と号』した。『俳諧をたしなみ、仙塢』(せんう)『と号した。竜池は劇場・妓楼に出入りし』、『戯作者の為永春水と交遊したので』、「梅暦」のなかで「津藤」』(つとう)『の名で登場し、俳優や文人のパトロンとして記憶された。この父の気性や趣味が香以に受け継がれたと考えられる』。『経を北静盧』(きたせいろ 江戸中期の民間学者)に、『書を松本董斎に学』んだ。天保九(一八三八)年』、十七『歳になった頃から料理屋や船宿に出入りし』、『芸者に』馴染みが『でき、新宿や品川の妓楼に遊ぶようになる』。天保一三(一八四二)年『頃から』、『継母の郷に預けられ』、『放蕩が激しくなったことにより、父から勘当されかけたこともある』という。安政三(一八五六)年九月、父『竜池が病死し、手代たちの反対を押し切る形で』、『本家を香以が継ぐことにな』った。『文人、俳優、俳諧師、狂言作者と交わり』、『豪遊の限りを尽くし、元禄時代の紀伊國屋文左衛門と比較されるほどであったが』、安政六(一八五九)年頃から『身代が傾き』始め、文久二(一八六二)年には『店を継母に譲り、自分は隠居して浅草馬道』(うまみち)『の猿寺』(教善院さる寺。現存しない。現在の浅草寺の東北直近の角にあった。「江戸マップβ版」の「江戸切絵図」の「今戸箕輪浅草絵図」で確認出来る)『の境内に居を移した』。『その後は仕送りと狂歌の判者、市村座の作者を職業として暮らす』。文久三(一八六三)年から、『下総国千葉郡寒川に移り』、慶応二(一八六六)年まで住んだが、明治元(一八六八)年に山城河岸の店は閉じられ、その二年後に香以は病死した。『行年四十九。法名は梅誉香以居士。先祖代々の墓がある駒込の願行寺に葬られ』た。ここで龍之介が記している通り、『香以によって後援されていた人としては仮名垣魯文』、九『世市川團十郎、河竹黙阿弥、瀬川如皐、条野採菊らがいる。魯文の弟子であった野崎左文は、「幕末動乱の頃、ともかくも戯作者として職を失わず、かろうじて命脈を伝え得たのはまったく香以のような後援者のおかげである」と評している』。『芥川龍之介の母は、香以の姪にあたる』とある。なお、森鷗外は「細木香以」の「十四」の末尾で龍之介の親戚であることを述べているが、翌大正七年の一月一日の『帝国文学』に同作への追記補記を記し、来訪した芥川龍之介と交わした談話から得たことを前半で記しているが、『香以の氏細木は、正しくは「さいき」と訓むのださうである。倂し「ほそき」と呼ぶ人も多いので、細木氏自らも「ほそき」と稱したことがあるさうである』とあり、龍之介の言として、『香以には姊があつた。其婿が山王町の書肆伊三郞である。そして香以は晩年を此夫婦の家に送るつた』。『伊三郞の女』(むすめ)『を儔(とも)と云つた。儔は芥川氏に適』(ゆ/おもむ)『いた。龍之介さんは儔の生んだ子である。龍之介さんの著した小説集「羅生門」中に「孤獨地獄」の一篇がある。其材料は龍之介さんが母に聞いたものださうである。此事は龍之介さんがわたくしを訪ふに先だつて小島政二郞』(まさじろう:龍之介より二歳年下。)『さんがわたくしに報じてくれた』とある。小島は芥川龍之介が信頼していた同世代作家の友人であるが(当時は慶応義塾大学在学中であったが、『三田文学』に文芸評論を書いて有力な新人として認められていた。鷗外が大正五年十一月に同誌に発表した当代の作家たちの作品を評論した「オオソグラフイ」(「オーソグラフィー」(orthography)は「社会的に認められている字の綴り方・正書法」の意)を高く評価したが、この鷗外の謂いからはそれ以前に鷗外に近侍していたということになる)、しかし、彼が始めて龍之介を訪ねたのは、慶応卒業間近の大正七年二月三日(塚本文と結婚式を挙げた翌日)であったから、これは文壇作家の誰彼からの聞き伝えであって、龍之介から小島が直接聴いたものではない。既に文壇情報屋としての小島の厭な側面が私には感じられる。ともかくも、この小島経由の鷗外の語りから、少なくともこの頃、芥川龍之介は芥川儔(トモ)を養母ではなく、実母であると周囲に語っていたと思われることが判る。二〇〇三年翰林書房刊の「芥川龍之介新辞典」の「芥川家」のコラム「森鷗外に答える」によれば、『狂人だったとされる実母』(養父芥川道章の妹(新原(にいはら))フク)『のことがここでは隠されていたことになろう。文壇では実母のことは余り知られていなかったととってもよいであろう。後に』「點鬼簿」(大正一五(一九二六)年十月一日発行の雑誌『改造』に発表。リンク先は私の古い電子化。芥川龍之介の作品でも私は三本指の一つ挙げる名品と思う)『で実母のことを明らかにした時、かなり強い告白性あったことになる』とある。また、その前に鷗外の後の「觀潮樓閑話(その二)」(『帝国文学』大正七(一九一八)年一月発行)から先のウィキのような抜粋でないものを引用して、『「芥川氏いはく。香以には姉があつた。其婿が山王町の書肆伊三郎である。そして香以は晩年を此夫婦の家に送つた。伊三郎の女』(むすめ)『を儔と云つた。儔は芥川氏に適いた。龍之介さんは儔の生んだ子である」』とある。以下、人物については、複数の辞書やウィキペディアを総合的に参考にした。人名については煩瑣になるだけなので、歴史的仮名遣は省略した。

「大通」(だいつう)は、江戸時代に遊里・遊芸などの方面の事情によく通じている人物を指した。

「河竹默阿彌」(文化一三(一八一六)年~明治二六(一八九三)年)は歌舞伎作者。江戸生まれ。本名は吉村新七。五代目鶴屋南北に入門し、天保一四(一八四三)年に二代目河竹新七を襲名後、四代目市川小団次のために生世話(きぜわ)物(歌舞伎の世話物の中でも写実的傾向の著しい内容・演出を持った作品群。文化・文政期(一八〇四年~一八三〇年)以降の江戸歌舞伎で発達した)を書いた。維新後は九代目市川団十郎のために活歴(かつれき)物(歌舞伎で従来の時代立役物の荒唐無稽を排して史実を重んじ、歴史上の風俗を再現しようとする演出様式。明治初期から中期にかけて、この団十郎らが主唱した)を、五代目尾上菊五郎のために散切(ざんぎり)物(歌舞伎世話狂言の一種で、明治初期の散切り頭・洋服姿などの新風俗を取り入れたもの。明治五(一八七二)年から同三十年代まで作られ、まさに黙阿弥の「島鵆月白波 (しまちどりつきのしらなみ) 」などが代表作)などの作品を提供した。明治一四(一八八一)年に引退して後に「黙阿弥」を名乗った。時代物・世話物・所作事と幅広かったが、本領は生世話物にあった。代表作は「蔦紅葉宇都谷峠(つたもみぢうつのやたうげ)」「靑砥稿花紅彩畫(あをとざうしはなのにしきゑ)」など。

「柳下亭種員」(りゅうかていたねかず 文化四(一八〇七)年~安政五(一八五八)年)は戯作者。特に合巻(ごうかん:江戸後期の文化年間(一八〇四年~一八一八年)以後に流行した草双紙の一種。それ以前の黄表紙などが五丁一冊であったものを、数冊合わせて一冊とし、長いものは数十冊にも及んだ。内容は教訓・怪談・敵討・情話・古典の翻案など多方面に亙り、子女のみならず、大人の読み物としても歓迎された。流行作者には柳亭種彦・曲亭馬琴・山東京伝らがいる)作者として活躍した。その実伝は諸説があって定説をみないが、元板倉藩士の出とも、江戸京橋の葉茶屋坂本屋に生まれたとも、また、小間物屋或いは古書商であったともされる。戯作界に入り、弘化元(一八四四)年から合巻に手を染める一方書肆を営んで坂本屋新七という。「白縫譚」(初編から三十八編)、「兒雷也豪傑譚」(十二編から三十九編)など、長編合巻を得意とし、いろいろと趣向を凝らすのには巧みであったが、独創性に乏しく、他人の作の嗣ぎ編を作るのに長じたと評される。

「善哉庵永機」(ぜんざいあん えいき 文政五(一八二二)年~明治二六 (一八九三)年)は俳人。「芭蕉全集」を編集したことで知られる。其角堂とも号し、細木香以との交遊も深かった。

「同冬映」筑摩全集類聚版脚注では、『同じく幕末の俳人』とする。論文等を確認してみたが、この龍之介の「同」というのは「善哉庵永機」と同じ「善哉庵」ではないように思われる。同一の深川湖十系の俳人ではあるが、「同」はそれこそ類聚版の注にある「同じく俳人の」の意でとっておく。

「九代目團十郞」歌舞伎役者九代目市川團十郞(天保九(一八三八)年~明治三六(一九〇三)年)。本名は堀越秀(ほりこし ひでし)。屋号は成田屋。俳句も好み、俳号に紫扇・團州などがある。五代目尾上菊五郎・初代市川左團次とともに、いわゆる「團菊左時代」を築いた。写実的な演出や史実に則した時代考証などで歌舞伎の近代化を図る一方、伝統的な江戸歌舞伎の荒事を整理して今日にまで伝わる多くの形を決定し、歌舞伎を下世話な町人の娯楽から日本文化を代表する高尚な芸術の域にまで高めることに尽力した。その数多い功績から「劇聖」(げきせい)と謳われた。また、歌舞伎の世界で単に「九代目」(くだいめ)というと、通常は彼のことのみを指す。

「宇治紫文」(うじ しぶん)は一中節(いっちゅうぶし:浄瑠璃の一種。初代都太夫一中(慶安三(一六五〇)年~享保九(一七二四)年)が元禄から宝永頃(一六八八年~一七一一年)かにかけて京都において創始した。先行する浄瑠璃の長所を取入れ、当時、勃興してきた義太夫節とは逆に、温雅で叙情的な表現を目指した。三味線は中棹を用い、全体的に上品、かつ、温雅・重厚を以てその特徴とする。当初は上方の御座敷浄瑠璃として出発し、世人に広く愛好されたが、後に江戸に下って歌舞伎の伴奏音楽としても用いられた。その後、再び主として素浄瑠璃専門となって現代に至っている。上方では早く衰退し、現在では東京を中心に伝承されている)の三味線方の名跡。初代宇治紫文(寛政三(一七九一)年~安政五(一八五八)年)は、本名、勝田権左衛門。通称は雄輔。江戸浅草材木町の名主。一中節菅野派の家元二代目菅野序遊の門下であったが、後に都派に転じ、都一閑斎と名乗る。嘉永二(一八四九)年に「宇治紫文斎」と名乗って宇治派を樹立した。数十曲の新曲を残している。一方、二代目宇治紫文(文政四(一八二一)年~明治一二(一八七九)年)は初代の実子で名を福太郎と言った。最初は初代宇治紫鳳を名乗ったが、安政六(一八五九)年に二代目紫文を襲名。明治八(一八七五)年五月に隠居し、宇治閑斎翁を名乗った。細木香以は安政六年頃から左前になっているから、まず、ここは初代のことと考えてよい。

「都千中」(みやこ せんちゅう ?~明和二(一七六五)年頃)は一中節都派の太夫。都秀太夫千中とも。都三中の弟子か。享保(一七一六年~一七三六年)末頃から宝暦七(一七五七)年頃まで活躍した。享保一九(一七三一)年の春、江戸中村座で語った「夕霞淺間岳(ゆふがすみあさまがたけ)」が大当たりし、当時、江戸の市中で「鼠の糞と夕霞の歌本のない家はない」とまで言われた。この他、元文元(一七三六)年に「家櫻」、宝暦元(一七五一)年に「賤機(しづはた)」など多くの曲を語った。宝暦七年頃から舞台出演をやめ、男芸者になった。江戸においての一中節は、千中没後、殆んど劇場出演はなくなり、座敷浄瑠璃として吉原に残るのみとなった。

「乾坤坊良齋」(けんこんぼうりょうさい 明和六(一七六九)年~万延元(一八六〇)年)は講釈師。江戸生まれ。通称、梅沢屋良助。家業の貸本屋から初代三笑亭可楽の門に入って落語家菅良助(かんりょうすけ)となり、後、講釈師に転じた。創作も得意で、「笠森お仙」「切られ与三郎」などの講談を残し、合巻も手掛けている。

「江戶櫻淸水淸玄」(えどざくらしみづせいげん)はその名で安政五(一八五八)年に板行した黙阿弥の草双紙であるが、これは師の鶴屋南北の原作になるもので、一般にはそれを歌舞伎の世話物とした、通称「黑手組の助六」、本外題「黑手組曲輪達引(くろてぐみくるわのたてひき)」として知られるものである。初演は安政五年三月江戸市村座であった。

「粉本」ここは素材・材料の意。

「物故してから、もう彼是五十年になる」正確には四十六年。

「山城河岸」(やましろがし)現在の東京都中央区銀座六・七丁目(グーグル・マップ・データ。以下同じ)相当。

「吉原の玉屋」筑摩全集類聚版脚注に、『吉原江戸町一丁目にあった妓楼。楼主は玉屋山三郎』とある。現在の東京都台東区千束四丁目

「本鄕」現在の文京区本郷。寺が多く、特定出来ない。

「禪超」不詳。

「嫖客(へうかく)」現代仮名遣「ひょうかく」。花柳界で芸者買いなどをして遊ぶ客のこと。

「錦木」源氏名。「ADAEC」の「西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース」の夢中舎松泰(しょうたい)の「遊女銘々傳」(書中の最新の年記は第六冊にあり、慶応二(一八六六)年十一月)に、玉屋の筆頭に「錦木」の名が見え、錦木太夫が寛文(一六六一年~一六七三年)年中、江戸町二丁目の玉屋長左衛門抱えの錦木が、船頭と男伊達(おとこだて)との斬り合いの喧嘩を鎮めたことが載るが、これは彼女のずっと先代である。

「黃八丈」黄色地に茶・鳶色などで縞や格子柄を織り出した絹織物。初め、八丈島で織られたことから、この名がある。

「燈籠時分」筑摩全集類聚版脚注に、『吉原仲之町で旧暦七月一日より晦日まで茶屋に』は『燈籠を掲げ』たとある。

「太鼓醫者」筑摩全集類聚版脚注に、『医者の風体』(ふうてい)『をしている太皷もち』とある。

「顴骨」(正しくは「けんこつ」であるが、現行でも慣用読みで「くわんこつ(かんこつ)」と読んでおり、芥川も後者で読んでいよう。頰骨 (きょうこつ/ほおぼね)。頰(ほお)の隆起を成す骨。眼窩の底部外方の一対の骨。

「幇間(ほうかん)」読みはママ。歴史的仮名遣は「はうかん」が正しい。「幇」は「助ける」の意で、宴席などで客の機嫌をとり、酒宴の興を助けるのを職業とする男。太鼓持ち。男芸者。

「手合」(てあひ(てあい))は、ここではやや軽蔑していう「この類(たぐ)いの連中」の意。

「寧」「むしろ」。

「沈湎」沈み溺れること。特に、酒色に耽って荒(すさ)んだ生活を送ることを言う。

「大兵肥滿」(たいひやうひまん(たいひょうひまん))は、体格が太く、逞しく、肥え太っていること。

「五分月代」(ごぶさかやき)は、剃り上げておくべき月代の部分が五分(一・五センチメートル)ほども伸びてしまっていること。

「懸守(かけまも)り」神仏の護符を入れて身につける守袋。通常は筒形の容器の外側を錦の裂(きれ)で包み、その両端に紐や鎖をつけ、胸の前に下がるように作る。魔除けや災厄除けのため、神聖なものや神秘的な威力のあるものを身につける習慣は世界的に広く行われているが、特にこれを首にかけるという形式は、他の場所につけるよりも、一層そのものを尊び、これに対する強い信頼の心を表わしていると考えられる。護符以外のものでも、特に貴重なものや丁重に取り扱う必要のあるものを持ち運ぶ時、例えば、貴重な書類や大事な人の遺骨などは日本では古くから首にかけて歩く習慣が平安の時代からあった(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

「めくら縞」縦横とも紺染めの綿糸で織った無地の綿織物。紺無地。織り紺。青縞。盲地。

「白木(しろき)」通一丁目、藝材の東京都中央区日本橋一丁目に存在した江戸三大呉服店(後の二つは駿河町の「越後屋」と、大伝馬町の「大丸屋」)の一つである白木屋。後の「東急百貨店日本橋店」の前身に当たる。

「三尺」筑摩全集類聚版脚注に、『白木屋で売り出した柔小紋』(やわらかこもん:細かい模様を白抜きして単色で染めた日本の型染めの一つで、特に江戸小紋と呼ばれたそれであろう)『の三尺帯』。三尺帯は長さが反物用の鯨尺で約三尺(鯨尺のそれは曲尺(かねじゃく)の一尺二寸五分(約三十八センチメートル)を一尺とするので、一・一四メートル)ある一重(ひとえ)廻しの帯。

をしめてゐたと云ふ男である。

「しかけ」「仕掛け」。打掛(うちか)けの別称。江戸の遊里で用いられた用語であるが、遊女の着る小袖類を指していうこともあった。

「談柄(だんぺい)」元は僧侶が正式な談話の際に手に持つ払子(ほっす)の意であったが、転じて「話の種・話題」の意となった。

「倦怠(アンニユイ)」ennui。フランス語。

「恣に」「ほしいままに」。

「根本地獄、近邊地獄、孤獨地獄の三つに分つ」先般、電子化注した『「和漢三才圖會」巻第五十六「山類」より「地獄」』の私の詳注を参照されたい。その電子化がこの電子テクスト注の呼び水となったものである。

「孤獨地獄」孤地獄とも言う特異な地獄。この地獄は通常の地獄のように地下にあるのではなく、現世の山間・広野・樹下・空中などに忽然と孤立して散在して出現する地獄とされる。文字通りの現在地獄ということである。

「南瞻部洲下過五百踰繕那乃有其獄」「其」はママである。現行の電子化物では恐らく総てが「地獄」となっている。しかしこれは「其獄」でも正しい(後掲する引用を参照)。ただ「其」でも誤読することはない。仏典を検索しても、この文字列にぴったり当てはまるものはない。困っていろいろと検索を重ねたところ、サイト「蓮花寺佛教研究所」公式サイト内のこちらにある、『蓮花寺佛教研究所紀要第八号』(二〇〇〇年発行か。PDF)に乾英次郎氏の論文「芥川龍之介における仏教的〈地獄〉表象──原家旧蔵品との関りから――」の中に答えがあった。その「一 芥川・仏教・〈地獄〉」の中で本「孤獨地獄」を採り上げて考察される中で、この「佛說によると」以下の段落を総て引かれた上で、

   《引用開始》

 この中に「仏説」が引かれているが、芥川が「孤独地獄」を執筆するに際して、仏典に直接あたったとは考えにくい。清水康次が既に指摘しているが、上記の記述は、校註国文叢書『今昔物語』上巻(池辺義象編、博文館、大正四・七)所収「本朝付仏法」巻一(日本への仏教渡来・流布史)の「行基菩薩仏法を学び人を導く語」の注釈を参照したものと思しい。芥川の仏教的〈地獄〉観を規定する文章だと思われるので、全文を引用する。

[やぶちゃん注:以下、原本では全体が二字下げ。]

地獄 地獄界をいふ、獄は囚にして罪人を守りて罪室を出でしめざる也、この獄地下にある故にかくいふ

「婆沙論」に瞻部洲下過五百踰繕那乃有其獄といへり、地獄に三種あり、一に根本地獄二に近辺地獄三に孤独地獄これなり、根本地獄とは等活、黒縄、衆合、号叫、大号叫、炎熱、極熱、無間の八大地獄也、近辺地獄に四あり煻煨増屍糞増鋒刃増、烈河増、これなりこの四一大地獄の四方何れにもあり故に一大地獄に十六増の近辺地獄八大地獄百二十八増の近辺地獄あり、これに根本の八を合して総計百三十六地獄をなす、孤独地獄とは山問曠野樹下空中に忽然として現はるゝ地獄也。

 孤独地獄あるいは孤地獄・独地獄については、玄奘訳『阿毘達磨大毘婆沙論』巻一七二の中に「瞻部洲下有人地獄。瞻部洲上亦有邊地獄。及獨地獄或在谷中。或在山上。或在曠野。或在空中。於餘三洲唯有邊地獄獨地獄無大地獄」とある。ここには「樹間」という言葉が見えないが、『妙法蓮華経玄賛』巻一七二三では「即是山問曠野樹下空中」という句が揃って出て来る。地獄のある場所について、校註国文叢書『今昔物語』では「瞻部洲下過五百踰繕那乃有「其」獄」となっているが「孤獨地獄」では「「南」欧部洲下過五百瞳繕那乃有「地」獄」となっている。単なる誤写と考えるのが妥当であろうが、たとえば『往生要集』では八大地獄が「南瞻部洲下」にあるとしているので、芥川は前掲の注釈文以外にも〈地獄〉に関する情報源を持っていた可能性はある。

 芥川が「孤独地獄」を発表したのは、『今昔物語集』『宇治拾遺物語』にある鼻の長い僧侶の逸話に取材した「鼻」(『新思潮』大正五・三)を夏目漱石に賞賛され、一気に文壇の脚光を浴びたのと同時期である。芥川が新進作家として歩み出すスタート地点に、〈地獄〉というモチーフは既に存在していたのである。

   《引用終了》

とある。恐らく、乾氏は「其獄」が「地獄」に書き変えられてしまったテクストを見られたのであろう。だいたいからして、昭和四三(一九六八)年筑摩書房発行の「現代日本文学大系 43 芥川龍之介集」を底本とする 「青空文庫」版も「地獄」となってしまっており、岩波の旧全集をもとにしているはずの昭和四六(一九七一)年発行の「筑摩全集類聚」版も、あろうことか、「地獄」となってしまっているのである。しかも、筑摩全集類聚版脚注では出典を「倶舎論」(くしゃろん:インド仏教で最も著名な大徳世親菩薩の代表作。「阿毘達磨倶舎論」)とする)。さてもそこで、「具舎論」を調べたが、完全文字列一致はなかった。そこでダメ押しで「大正蔵検索」で「五百踰繕那」のワード検索したところが、「翻譯名義集」(宋代の梵漢辞典。南宋の法雲編。一一四三年成立。仏典の重要な梵語二千余語を六十四編に分類して字義と出典を記したもの)の一節として、

   *

獄故婆沙云贍部洲下過五百踰繕那乃有其獄

   *

と「南」を除き、しかも「其獄」のそれが、確かにあることが確認出来たのである。されば、勝手に誰もが書き変えてしまった「其獄」は、それでいいのだと私は確信したのである。因みに、乾氏の論文は非常に興味深い内容であるから、是非、全部を読まれんことを強くお薦めする。さて、一応、訓読しておくと、

   *

南瞻部洲(なんせんぶしう)下(か)、五百踰繕那(ゆぜんな)を過ぎて、乃(すなは)ち、其の獄、有り。

   *

で、「南瞻部洲」はサンスクリット語「ジャンブー・ドゥヴィーパ」の音写。閻浮提(えんぶだい)・閻浮洲・南閻浮提・穢洲・勝金洲などの漢訳語がある。本来は古代インドの宇宙説において世界の中心とされている須弥山 (しゅみせん) の南方に位置する大陸で、四大洲(他に東勝身洲=弗婆提(ほつばだい)・西牛貨洲(さいごけしゅう)=瞿陀尼(くだに)・北倶盧洲(ほくくるしゅう)=鬱単越(うったんおつ)がある)の一つ。北に広く南に狭い地形で縦横七千由旬 (ゆじゅん:古代インドにおける長さの単位サンスクリット語「ヨージャナ」の漢音写。ここに出る「踰繕那」は別表記。本来は「軛(くびき)に(牛を)つける」の意で、牛に車をつけて一日引かせる行程を指した。一由旬は約十二・十六・二十四キロメートルに相当するという各説がある) あるとされる。インドの地形に基づいて考えられたものだったが、後に仏教でこの人間界(現実世界)全体を指すようになった。閻浮提には大国が十六、中国が五百、小国が十万あるとされ、仏縁に恵まれていることに於いてはこの洲が第一であるとされる。「五百踰繕那」先の換算で六千から一万二千キロメートルに相当する。

「境界(きやうかい)」「青空文庫」版も筑摩全集類聚版も「きやうがい」。私は清音がいい。響きから「境涯」という私の嫌いな熟語がちらつき、不必要なニュアンスを与えていやな感じがするからである。物理的な時空間の位置存在世界が、ひいては自身の現存在意識総てが、瞬時にしてそのまま地獄に変容(メタモルフォーゼ(ドイツ語:Metamorphose)するのである。

「山間曠野樹下空中」筑摩全集類聚版脚注は『「倶舎論頌疏一〇」に見られる句』とするが(「倶舎論頌疏」は平安時代の円暉の撰になる「倶舎論」の要旨を解釈したもの)、私の調べた限りでは、同書第十にはその文字列はない。そこで、この文字列をやはり「大正蔵検索」で調べると、「阿毘達磨順正理論」(これは衆賢(サンガバドラ:紀元後五世紀頃のインドで活躍した学僧)の著した「倶舎雹論」(くしゃばくろん)と呼ばれる「倶舎論」へ反駁した仏教教理書である)

   *

孤地獄。或二一。各別業招。或近江河。山間曠野。或在地下空中餘處。

   *

とあるのが、最も近く、次に「佛頂尊勝陀羅尼經敎跡義記」の、

   *

諸餘孤露地獄別業招者。或近江河山間曠野。

   *

や、「一切經音義」の、

   *

地獄 梵云、捺落迦、此云、苦器、亦云、不可樂、亦云、非行非法行處也。或在山間曠野空中。今言地獄者在大地之下也。

   *

や、「祕密漫荼羅十住心論」の、

   *

餘孤地獄。或多二一各別業招。或近江河山間曠野。或在地下空中餘處。

   *

「唯(たゞ)、その中で孤獨地獄だけは、山間曠野樹下空中、何處(どこ)へでも忽然として現(あらは)れる。云はば目前の境界(きやうかい)が、すぐそのまゝ、地獄の苦艱(くげん)を現前(げんぜん)するのである。自分は二三年前から、この地獄(ぢごく)へ墮ちた。一切の事が少しも永續(えいぞく)した興味を與へない。だから何時(いつ)でも一つの境界から一つの境界を追(お)つて生きてゐる。勿論それでも地獄は逃(のが)れられない。さうかと云つて境界を變(か)へずにゐれば猶、苦しい思をする。そこでやはり轉々(てんてん)としてその日その日の苦(くる)しみを忘れるやうな生活をしてゆく。しかし、それもしまひには苦しくなるとすれば、死んでしまふよりも外はない。昔は苦しみながらも、死ぬのが嫌(いや)だつた。今では……」これは精神医学書の強い抑鬱状態の教科書的表現の言い換えだとしても納得出来る内容である。「境界」と言う禪超の表現を重視するならば、自分と、自分のいる時空間や対象との乖離が起こっている病的なものとしてあるとするならば、統合失調症や重い強迫神経症なども想起される。なお、底本の後記によれば、「しかし、それもしまひには苦しくなるとすれば、」の後には初出と「羅生門」には、続けて、

   *

(かう云つて禪超は口元の筋肉(きんにく)を引きつらせながら、泣くやうな顏をして笑(わら)つた。)

   *

とあると記す。

「金剛經」「金剛般若經」。正式には「金剛般若波羅蜜經」。大乗仏教の最初期の経典群の総称。これを名のる経典は数多く漢訳されて、「大正新脩(しんしゅう)大蔵経」に収められているものだけでも四十二経もあり、サンスクリット本やチベット語訳もかなり揃っている。大乗仏教の第一声を告げる経として、もっとも重要な経であるが、以後、次々と作られ、次第に増幅されて、最大のものは玄奘が訳した「大般若波羅蜜多経」は全六百巻に及ぶ。これはあらゆる経典中、最大のものである。一切の実体と実体的思想との否定を謳う「空(くう)」の思想を拠り所とする般若の知慧を説き、六波羅蜜の実践を推し進める内容を持つ。なお、密教が拠ったところの「理趣(般若)經」は、かなり後代になって書かれたものであり、また「金剛(般若)經」は禅の関係で流布し、「般若心經」は浄土教と日蓮宗を除く仏教全般に於いて広く愛誦され、書写も盛んであり、現在、最もよく知られるものとしてある。

「疏抄」(そせう(そしょう))は注釈したものの抄本。

「下總の寒川(さむかは)」現在の千葉県千葉市中央区寒川町

「堇野や露に氣のつく年四十」「堇野」は「すみれの」。森鷗外の「細木香以」の「十」には文久元(一八六一)年(先に示した通り、文久二年には店を継母に譲って、隠居した山城河岸没落の年)の香以四十の年の一句として、相似句、

 年四十露に氣の附く花野哉

が載る。私は「堇野や」の方が上手いと思う。

「安政四年」一八五七年。

「しかも自分(じぶん)の中にある或心もちは、動(やゝもす)れば孤獨地獄と云(い)ふ語(ことば)を介して、自分の同情を彼等(かれら)の生活に注がうとする。が、自分はそれを否(いな)まうとは思はない。何故と云へば、或意味で自分も亦(また)、孤獨地獄に苦しめられてゐる一人だからである」この最後のクレジット(大正五(一九一六)年二月)が正しいとすれば、芥川龍之介は執筆時、未だ満二十三歳である。しかし、この最後の如何にもにも見える憂鬱な告解は、二年前の大正三年秋の龍之介の初恋であった吉田彌生との外的な要因による破局が根には、ある。さて、平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版の「芥川龍之介全作品事典」の稲田智恵子氏の解説では、『この末尾に注目して芥川自身の孤独感を解題しようとするものが目立つ。しかし今後の研究ではあくまでテキストの中の「自分」として、作者と切り離して読みをしめすべきであろう』などと述べておられるが、勝手なテキスト論が「こゝろ」の学生と靜を結婚させるような場外乱闘に及ぶを見るに、私はそうした作者のディスクール(言説)であることを恣意的に乖離させて読むなどということは、到底、許されるものではないと考える人種である。大流行りのテクスト論は、究極において、遂に「小説にテーマなどない」、「文言を記号として捉えて自由に読み換え、読み終えた後に感想と展開を仮想構築して各自が勝手に楽しめばよい」という無謀にして不毛な文学論に堕すものとしか考えていない。さればこそ、私は、というより、後の芥川龍之介の自死に至る過程を知っている我々は、この「檣(ほばしら)の二つに折れた船」(「或阿呆の一生」。リンク先は私の草稿附き電子テクスト)のように彷徨う若き魂の告解に、いわく言い難い不吉な予言の響きを聴かざるを得ないのではないか? 芥川龍之介の残り後半生の十二年は、まさにしく、境界の迷宮を裏道を走りめぐるような「孤獨地獄」の中にあったと言えるように私には感ぜられるのである。

「――五年二月――「底本の後記によれば、『文末に日付、初出になし。初出は文末に行を改めて小字で一文がある』あって、以下の芥川龍之介の附記が示されてある。

   *

とうから、小說を書く外に、暇を見てかう云う小品を少しづゝ書いて行かうと思つてゐた。さうしてその數が幾つかになつたら發表するつもりでゐた。今、それを一つ切話して出すのは、全く紙數の都合からである。

   *

とある。]

 

 

草稿

 

[やぶちゃん注:以下、「孤獨地獄」の草稿を示す。底本は一九九七年刊の岩波の新全集「芥川龍之介全集」の第二十一巻に所収されているそれを(六種の断片で続いておらず、書き換え部分もある)、上記公開定稿を参考に、恣意的に漢字を正字化して示す。標題はない。纏まった部分の変わるところで「*」を挟んで前後を空けた。] 

 

 これは大叔父が母に話し 母が更に又自分に話した 或平凡な事實を書いて見たものである。

 大叔父は所謂大通の一人で 九代目團十郞 宇治紫文 都千中 乾坤坊良齋などの藝人から 默阿彌 春水 種員 永機 是眞 芳年などの文人や畫工とも 知己の間柄だつた男である。梅曆の中に出て來る千葉の藤兵エと云ふ人物は、春水がこの犬叔父を模型(モデル)にした。默阿彌の「江戶櫻淸水淸玄」の中の紀國屋文左エ門も やはりこの大叔父を書いたものだとか聞いてゐる。物故してから彼是もう五十年にはなるであらう。生前 今紀文と綽號(あだな)された事があるから 今でも少しは知つてゐる人があるかも知れない。――姓は細木名は藤次郞 俳名は香以 通稱は山岸河岸の津藤である

 

 *

 

で通つた事があるから、今でも少しは覺えてゐる人があるかも知れない。――姓は細木(さいき)、名は藤次郞、俳名は香以、俗稱は山城河岸の津藤と云つた男である。

 その津藤が或夜、玉屋の二階で、厠へ行つた歸りしなに、何氣なく廊下を通ると、欄干によりかかりながら、月を見てゐる男が眼に止つた。坊主頭に黃八丈の着物を着た 醫者と云ふ拵への男である。津藤はその橫顏を見て、これを出入の太鼓醫者竹内だと思つた。そこで通りしなに 手をのばして ちよいとその男の耳を引張つた。驚いてふりむく所を笑つてやらうと思つたからである。津藤にはその時封間が一人に 藝者が一人ついてゐた。さうして二人にはその男の竹内でないと云ふ事がよくわかつてゐた。そればかりではない。封間にはその男の誰だと云ふ事さへよくわかってゐた。そこで津藤がその男の耳を引張らうとした時に、慌てて袖を引かうとしたが、もう間に合はない。

 

 *

 

すぎながら、手をのばして、ちよいとその耳を引張つた。驚いてふり向く所を笑つてやらうと思つたからである。

 所がふり向いた顏を見ると反て此方が驚いた。竹内とは似もつかない男である。左の頰にある大きな黑子は、その時でもはつきり見えた。額の廣い割に、眉と眉との間が險しく狹つてゐる。色は女のやうに白い。――これだけの顏かたちが 月にそむいてゐながらも 慌しく津藤の眼にはいつた。云ふまでもなく この時耳を引張られた坊主が

 

 *

 

で通つた事があるから、今でも少しは覺えてゐる人があるかも知れない。――姓は細木(さいき) 名は藤次郞 俳名は香以、通稱は山城河岸の津藤と云つた男である。

 その津藤が或夜 吉原の玉屋の二階で 厠へ行つた歸りに 藝者を一人封間をつれて廊下を通ると欄干によりかかり

 

こで通りしなに 手をのばして ちよいその男の耳を引張つた。驚いてふりむく所を 笑つてやらうと思つたからである。

 その時、津藤には、藝者が一人に、封間が一人ついてゐた。始めからこの二人には その男の竹内でないと云ふ事がよくわかつてゐる。それ所ではない。封間はその男が何處の誰だと云ふ事までちやんと心得てゐる。そこで 津藤がその男の耳を引張らうとするのを見て、二人とも慌てて袖を引いて止めやうとした。が、もう間に合

 

 *

 

すぎながら、手をのばして、ちよいとその耳を引張つた。驚いてふり向く所を笑つてやらうと思つたからである。

 津藤には その時 藝者が一人に封間が一人ついてゐた。さうしてこの二人は 始から その男が竹内でないと云ふ事を知つてゐた。だから 津藤が耳を引張りさうにするのを見て二人とも慌てて袖を引いて止めやうとした。が、もう間に合はない。……向ふが驚けば 津藤も驚いた。ふり向いた坊主の顏を見ると、竹内とは似もつかない男である。津藤が驚けば坊主も驚いた。

 

 *

 

すぎながら、手をのばして、ち□[やぶちゃん注:底本の判読不能字。]いとその耳を引張つた。驚いてふり向く所を 笑つてやらうと思つたからである。

 その時 津藤には 藝者が一人に封間が一人ついてゐた。さうしてこの二人は始めからその男が竹内でない事を知つてゐた。だから津藤が耳を引張りさうにするのを見て 二人とも慌てて袖を引いて止めやうとした。が、もう間に合はない。向ふが驚けば津藤も驚いた。耳を引張られてふり向いた坊主が 竹内とは似もつかない男だつたからである。

 

[やぶちゃん注:「是眞」漆工芸家・絵師・日本画家柴田是真(ぜしん 文化四(一八〇七)年~明治二四(一八九一)年))であろう。名は順蔵、是真は号。日本の漆工分野において、近世から近代への橋渡しの役割を果たした名工である。

「梅曆」戯作者為永春水(寛政二(一七九〇)年~天保一四(一八四四)年:本名は佐々木貞高)の代表作の人情本「春色梅兒譽美」(しゅんしょくうめごよみ)の略称。天保三(一八三二)年から翌年にかけて刊行された。柳川重信・柳川重山画。美男子の丹次郎と女たちとの三角関係を描いた人情本の代表的作品とされる。参照した当該ウィキに梗概がある。登場人物のところに、『千葉の藤兵衛』として、『通い客(春水の遊び仲間であり』、『通人として知られた津藤こと豪商の摂津国屋藤兵衛がモデル)』とある。摂津国屋藤兵衛は細木香以の別通称の一つ。]

2021/03/26

「和漢三才圖會」巻第五十六「山類」より「地獄」

 

Jigoku

 

ぢごく  捺落迦苦噐

     泥梨

地獄    有三類

     根本  近𨕙

テイヨツ 孤獨

 

根本乃八大地獄也其一一皆有十六謂之近邊共百三

十六地獄或爲二百七十二

 一頞部𨹔 二尼刺部𨹔 三頞唽吒 四臛臛婆

 五虎虎婆 六嗢鉢羅【一名青蓮華】 七鉢特摩【一名紅蓮華】

 八摩訶鉢特摩【一名大紅蓮華】

  以上被寒逼故謂之八寒

 一等活 二黑繩 三衆合 四嘷喚 五大嘷喚

 六焦熱 七大焦熱 八無間【一名阿鼻】

  以上被熱責故謂之八熱

右寒熱八大地獄謂之根本【共十六】各其四靣門外所在者

謂之近邊【其十六之外又有各十六則謂二百七十二者合數】

在山閒曠野空中及樹下等者謂之孤獨

△按地獄之所在不知何處而就字義入地部出名目耳

 日本有地獄皆高山頂常燒温泉不絕若肥前【溫泉】

 豊後【鸖見】肥後【阿蘓】駿河【富士】信濃【淺閒】出羽【羽黒】

 越中【立山】越乃【白山】伊豆【箱根】陸奥【燒山】等之頂㶡㶡

 燃起熱湯汪汪湧出宛然有焦熱修羅之形勢

 豊後【速見郡野田村】有名赤江地獄者十余丈正赤湯如血

 流至谷川未冷定處有魚常躍游亦一異也天竺中華

 高山皆有地獄不枚擧凡嵌地獄者不能浮出

 

○やぶちゃんの書き下し文

ぢごく  捺落迦〔(ならくか)〕・苦噐〔(くき)〕

     泥梨〔(ないり)〕

地獄    三類有り。

     根本  近𨕙〔(きんぺん)〕

テイヨツ 孤獨

 

「根本」、乃〔(すなは)〕ち、「八大地獄」なり。其の一つ一つに、皆、十六、有り。之を「近邊」と謂ふ。共に「百三十六地獄」、或いは「二百七十二」と爲す。

 一 頞部𨹔(あぶだ)

 二 尼刺部𨹔(にらぶだ)

 三 頞唽吒(あしやくだ)

 四 臛臛婆(かうかうば)

 五 虎虎婆(ここば)

 六 嗢鉢羅(をんはつら)【一名、「青蓮華〔(しやうれんげ)〕」。】

 七 鉢特摩(はつとくま)【一名、「紅蓮華」〔(ぐれんげ)〕】

 八 摩訶鉢特摩(まかはつとくま)【一名、「大紅蓮華」。】

  以上、寒に逼(せ)めらるる故に、之れを「八寒」と謂ふ。

 一 等活(とうくはつ)

 二 黑繩(こくじやう)

 三 衆合〔(しゆごう)〕

 四 嘷喚(けうくはん)

 五 大嘷喚(だいけうくわん)

 六 焦熱(せうねつ)

 七 大焦熱

 八 無間(むげん)【一名、「阿鼻〔(あび)〕」。】

  以上、熱に責めらるる故、之れを「八熱」と謂ふ。

右「寒・熱八大地獄」、之れを「根本」と謂ふ。【共に十六。】各々、其の四靣の門外に在る所の者、之れを「近邊」と謂ふ【其の十六の外に、又、各々、十六、有り。則ち、「二百七十二」と謂ふは、數に合ふ。】。

山閒・曠野の空中及び樹の下等に在る者、之れを「孤獨」と謂ふ。

△按ずるに、地獄の所在は何處〔(いづこ)〕おいふことを知らず。而〔して〕字義に就きて「地部」に入るれども、名目を出だすのみ。

 日本に「地獄」有り。皆、高山の頂(いたゞき)、常に燒け、温泉、絕へず[やぶちゃん注:ママ。]。肥前の【溫泉(うんぜん)[やぶちゃん注:漢字はママ。]】・豊後の【鸖見〔(つるみ)〕】・肥後【阿蘓。】・駿河【富士。】・信濃【淺閒。】・出羽【羽黒。】・越中【立山(たて〔やま〕)。】越乃(こしの)【白山(しら〔やま〕)。】伊豆【箱根。】陸奥【燒山〔(やけやま)〕。】等のごとき、頂、㶡㶡(くはくは)と燃(も)へ起り、熱湯、汪汪(わんわん)と湧(わ)き出で、宛然(さなが)ら、焦熱・修羅の形勢(ありさま)有り。

 豊後【速見郡野田村。】、「赤江地獄」と名づくる者、有り。十余丈、正赤(まかい[やぶちゃん注:ママ。])なる湯、血のごとく、流れて、谷川に至る。未だ冷定〔ひえさだまりも〕せざる處〔にも〕、魚、有りて、常に躍り游ぶ。亦た、一異なり。天竺・中華〔の〕高山に、皆、地獄、有り。枚擧せず。凡そ、地獄に嵌(はま)る者、浮(うか)び出ずること、能はず。

 

[やぶちゃん注:かなりの異体字が使用されており、表記不能なもの(「喚」は恐らくこれ(リンク先は「グリフウィキ」)。「頂」は〔(上)「山」+(下)「項」〕であるが、良安は経験上から「頂」を「項」と書く)は諸本と校合して確定した。挿絵がなかなか凝っていて、特異点でいい感じだ(私はあまり本書の挿絵には期待したことはない。魚介類などでは、ひどい描画もままあったからである)。閻魔庁で、獄卒の鬼に引き立てられて、鏡に生前の悪業が総て映写される「浄玻璃(じょはり)」の前に跪いている亡者だ。鏡の中の左側の男が生前の亡者に違いない。右手の男を襲って剣で刺し殺そうとしているかのように見える。右の男は旅姿であり、下に落ちているのは彼の三度笠。この亡者は山賊ででもあったのかも知れない。

「捺落迦〔(ならくか)〕」地獄のサンスクリット語は「ナラカ」で(「地下にある牢獄」を指す語)、漢音写には他に「奈落迦」「那落迦」「那羅柯」などがある。

「苦噐〔(くき)〕」「苦しみの容器」で意味からの「地獄」の漢訳語。

「泥梨〔(ないり)〕」「地獄」のサンスクリット語には別に同じ意義の「ニラヤ」があり、これはそちらの漢音写。

「根本」「婆沙論」などに見られる地獄の三分類の中の一つである「根本地獄」のこと。「根本地獄」は以下の等活・黒縄・衆合・叫喚(号叫とも。次も同じ)・大叫喚・焦熱(炎熱とも)・大焦熱(極熱)・無間の八大地獄を総称する呼称。

「近𨕙〔(きんぺん)〕」「𨕙」は「邊」(辺)の異体字。「近邊地獄」。前注の三分類の一つ。煻煨増・屍糞増地獄・鋒刃増地獄・烈河増地獄の四つに分けられ、この四地獄が、先の八大地獄のそれぞれの四方に孰れにも附属して存在する。故に一大地獄に十六増の近辺地獄、八大地獄に百二十八増の近辺地獄があることになり、これに根本の八地獄を合せると、総計百三十六地獄となる。

「孤獨」「孤獨地獄」。現世の山間・曠野・樹下・空中(良安の書き方は不全で、それらの空中と樹下にあるように読めてしまう)に忽然と現われる現在地獄を指す。私がこの「孤独地獄」を知ったのは、大学四年の一九七八年十月に入手した(父の知人の伝手で岩波書店本社で社員の方から一割引きで買った。裸でスズラン・テープで六巻ずつ縛られていて、神保町から中目黒まで素手でぶら下げて帰った。三日間、両手の指が血行不良で腫れ上がったのを思い出す)「芥川龍之介全集」をその日から一月ほどかけて通読したその時だった。芥川龍之介のズバり、「孤獨地獄」だ。若書きのもので、「鼻」の発表の二ヶ月後の大正五(一九一六)年四月発行の『新思潮』初出で、大見出し「紺珠十篇」のもとに「孤獨地獄」の標題で掲載され(目次は「孤獨地獄(小品)」)、後の作品集「羅生門」及び「鼻」に収録された。当時の私の日記に異様に感動した記載がある。「青空文庫」のこちらで読めるが、新字旧仮名である。これは正字で読まなくてはだめだ。そのうち、正字正仮名でサイトで草稿も添えて電子化注したい。その一節で龍之介はこう語る(青空文庫版を加工データとして使用し、旧全集で校訂した)。「自分」というのは登場人物の一人である禅僧「禪超」である。

   *

 佛說によると、地獄(ぢごく)にもさまざまあるが、凡(およそ)先(ま)づ、根本地獄、近邊地獄、孤獨地獄の三つに分つ事が出來(でき)るらしい。それも南瞻部洲下過五百踰繕那乃有其獄と云(い)ふ句があるから、大抵は昔から地下にあるものとなつてゐたのであらう。唯(たゞ)、その中で孤獨地獄だけは、山間曠野樹下空中、何處(どこ)へでも忽然として現(あらは)れる。云はば目前の境界(きやうかい)が、すぐそのまゝ、地獄の苦艱(くげん)を現前(げんぜん)するのである。自分は二三年前から、この地獄(じごく)へ墮ちた。一切の事が少しも永續(えいぞく)した興味を與へない。だから何時(いつ)でも一つの境界から一つの境界を追(お)つて生きてゐる。勿論それでも地獄は逃(のが)れられない。さうかと云つて境界を變(か)へずにゐれば猶、苦しい思をする。そこでやはり轉々(てんてん)としてその日その日の苦(くる)しみを忘れるやうな生活をしてゆく。しかし、それもしまひには苦しくなるとすれば、死んでしまふよりも外はない。昔は苦しみながらも、死ぬのが嫌(いや)だつた。今では……

   *

そして、最後に龍之介自身が以下のように語るのである。

   *

 安政四年頃の話である。母(はゝ)は地獄と云ふ語の興味(きようみ)で、この話を覺えてゐたものらしい。

 一日の大部分を書齋で暮(くら)してゐる自分は、生活の上から云つて、自分(じぶん)の大叔父やこの禪僧とは、全然沒交涉な世界(せかい)に住んでゐる人間(にんげん)である。又興味の上から云つても、自分は德川時代(とくがはじだい)の戲作や浮世繪に、特殊な興味を持(も)つてゐる者ではない。しかも自分(じぶん)の中にある或心もちは、動(やゝもす)れば孤獨地獄と云(い)ふ語(ことば)を介して、自分の同情を彼等(かれら)の生活に注がうとする。が、自分はそれを否(いな)まうとは思はない。何故と云へば、或意味で自分も亦(また)、孤獨地獄に苦しめられてゐる一人だからである。

           ――五年二月――

   *

この最後のクレジットが正しいとすれば、芥川龍之介は未だ満二十三歳である。この最後のメランコリックな告解は、二年前の大正三年秋の龍之介の初恋であった吉田彌生との外的な要因による破局が根にはある。しかし、後の芥川龍之介の自死に至る過程を知っている我々には、いわく言い難い凄絶な不吉な予言として響いてくるではないか?

「テイヨツ」現代中国語では「地獄は「dì yù」(ネイティヴの発音の音写は「ディー・ユゥー」といった感じである)。

『「二百七十二」と爲す』これは、後で良安が言っているように、八大地獄を「八寒地獄」と「八熱地獄」に分けて、先の「百三十六地獄」の倍するとなるから、『則ち、「二百七十二」と謂ふは、數に合ふ』というわけである。

「頞部𨹔(あぶだ)」八寒地獄の第一。寒さのあまり、鳥肌が立ち、身体に痘痕(あばた)を生じる。「痘痕」という語の語源自体が、この「あぶだ」に由来する。ウィキの「八大地獄」に拠った(以下同じ)。

「尼刺部𨹔(にらぶだ)」八寒地獄の第二。鳥肌が潰れ、全身に皸(あかぎれ)が生じる。

「頞唽吒(あしやくだ)」上記リンク先では、「頞哳吒(あたた)地獄」とある。八寒地獄の第三。名は、寒さによって「あたた!」という悲鳴を挙げること由来する。これは以下の「虎虎婆」まで共通である。「頞」は現代中国語では「è」(ウーァ)、「唽」は「」(シィー)、「吒」は「zhā」(ヂァ)である。

「臛臛婆(かうかうば)」上記リンク先では、「臛臛婆(かかば)地獄」とある。八寒地獄の第四。寒さのあまり、舌がもつれて動かず、「ははば!」(引用元のママ)という声しか出ない。しかし、「臛」は現代中国語では「huò」(フゥオ)で、「婆」は「」(ポォー)である。

「虎虎婆(ここば)」八寒地獄の第五。寒さのあまり、口が開かず、「ふふば」という声しか出ない。「虎」は現代中国語で「」(フゥー)で一致する。

「嗢鉢羅(をんはつら)【一名、「青蓮華〔(しやうれんげ)〕」。】上記リンク先では、「嗢鉢羅(うばら)地獄」とある。八寒地獄の第六。嗢鉢羅は「青い睡蓮」を意味するサンスクリット「utpala-」の音写。全身が凍傷のためにひび割れ、青い蓮のように、めくれ上がることから「青蓮地獄」(引用のママ)とも呼ばれる。

「鉢特摩(はつとくま)【一名、「紅蓮華」〔(ぐれんげ)〕】」同前で「鉢特摩(はどま)地獄」とする。意訳で「紅蓮地獄」(引用のママ)とも呼ばれる八寒地獄の第七。鉢特摩(はどま)は「蓮華」を意味するサンスクリット「padma-」の音写。ここに落ちた者はひどい寒さにより、皮膚が裂けて流血し、紅色の蓮の花に似るという。

「摩訶鉢特摩(まかはつとくま)【一名、「大紅蓮華」。】」同前で「摩訶鉢特摩(まかはどま)地獄」とする。意訳で「大紅蓮地獄」(引用のママ)とも呼ばれる八寒地獄の第八。八寒地獄で最も広大で、「摩訶」は「大」を意味するサンスクリット「mahā-」の音写。ここに落ちた者は、紅蓮地獄を超える寒さにより、体が折れ裂けて流血し、紅色の蓮の花に似るという。

「等活(とうくはつ)」堕獄理由は殺生(せっしょう)。「想地獄」の別名がある。徒らに生き物の命を断った者が堕ち、螻(けら)・蟻・蚊(か)・虻(あぶ)の小さな虫を殺した者も、懺悔しなければ、必ず、この地獄に堕ちると説かれている。また、生前争いが好きだった者や、反乱で死んだ者もここに堕ちるとされる。閻浮提(地上の人間界)の地下一千由旬にあって、縦横の広さは斉等で一万由旬ある。『この中の衆人たちは互いに害心を抱き、自らの身に備わった鉄の爪や刀剣などで殺し合うという。そうでない者も獄卒に身体を切り裂かれ、粉砕され、死ぬが、涼風が吹いて、また獄卒の「活きよ、活きよ」の声で等しく元の身体に生き返る、という責め苦が繰り返されるゆえに、等活という』。但し、『この「死んでもすぐに肉体が再生して何度でも責め苦が繰り返される」現象は、他の八大地獄や小地獄にも共通することである』。『この地獄における衆人の寿命は』五百『歳である』が、地獄のそれは『通常の』五百『歳ではなく、人間界の』五十『年を第一四天王(四大王衆天)の一日一夜とした場合の』五百『年が等活地獄の一日一夜であり、それが』五百『年にわたって続くので、人間界の時間に換算すると』、一兆六千六百五十三億千二百五十万年に亙って『苦しみを受けることになる』(一年を三百六十五日とした換算。以下も同様)。『しかし、それを待たず』、『中間で死ぬ者もいる。そこにいる衆生の悪業にも上中下の差別があるので、その命にもまた上中下の差別がある。業の多少・軽重に応じて、等活地獄の一処だけで』受けるか、『もしくは二処、三処、四処、五処、六処と、最後は十六処まで』、『悪業が尽きるまで苦痛を受ける。この一処、二処というのが、十六小地獄を順番に回っていくことなのか、それとも時間の区切りなのかは判然としない』とある。ウィキの「八大地獄」に拠った(以下同じ)。

「黑繩(こくじやう)」罪状は殺生・偸盗(ちゅうとう)盗『殺生のうえに』『盗みを重ねた者がこの地獄に堕ちると説かれている』。『等活地獄の下に位置し、縦横の広さは等活地獄と同じである(以下、大焦熱地獄まで広さは共通)。獄卒は罪人を捕らえて、熱く焼けた鉄の地面に伏し倒し、同じく熱く焼けた縄で身体に墨縄をうち、これまた熱く焼けた鉄の斧もしくは鋸(のこぎり)でその跡にそって切り、裂き、削る。また』、『左右に大きく鉄の山がある。山の上に鉄の幢(はたほこ)を立て、鉄の縄をはり、罪人に鉄の山を背負わせて縄の上を渡らせる。すると罪人は縄から落ちて砕け、あるいは鉄の鼎(かなえ)に突き落とされて煮られる。この苦しみは、先の等活地獄の苦しみよりも』十『倍である。人間界の』百『年は、六欲天の第二の忉利天(とうりてん)の一日一夜である。その忉利天の寿命は』一千『歳である。この天の寿命』一千『歳を一日一夜とし』たそれで、『人間界の時間では』十三兆三千二百二十五億年に相当する。『ここにも十六小地獄があるはずだが、「正法念処経」には三種類の名前しか伝わっていない』とある。

「衆合〔(しゆごう)〕」罪状は殺生・偸盗・邪淫。「堆圧地獄」の別名がある。『先の二つに加えて淫らな行いを繰り返した者が落ちる』。『黒縄地獄の下に位置し、その』十『倍の苦を受ける。多くの罪人が、相対する鉄の山が両方から崩れ落ち、圧殺されるなどの苦を受ける。剣の葉を持つ林の木の上に美人が誘惑して招き、罪人が登ると今度は木の下に美人が現れ、その昇り降りのたびに罪人の体から血が吹き出す』(これは私の好きな地獄でこの林は「刀葉林」と呼ばれる)。『鉄の巨象に踏まれて押し潰される』。人間の』二百『歳を第三の夜摩天の一日一夜として、さらにその』二千『年をこの地獄の一日一夜として、この地獄での寿命は』二千歳『という。これは人間界の時間に換算すると』、百六兆五千八百億年に相当する。因みに「東洋文庫」の訳ではこれに「しゅうごう」とルビが振られている。「あり得ません。誤りですよ!」。

「嘷喚(けうくはん)」罪状は殺生・偸盗・邪淫・飲酒。「飲酒」というのは、ただ酒を飲んだり、売買した者ではなく、『酒に毒を入れて人殺しをしたり、他人に酒を飲ませて悪事を働くように仕向けたりすることなどが叫喚地獄に堕ちる条件』とされる。『衆合地獄の下に位置し、その』十『倍の苦を受ける。熱湯の大釜や猛火の鉄室に入れられ、号泣、叫喚する。その泣き喚き、許しを請い哀願する声を聞いた獄卒はさらに怒り狂い、罪人をますます責めさいなむ。頭が金色、目から火を噴き、赤い服を着た巨大な獄卒が罪人を追い回して弓矢で射る。焼けた鉄の地面を走らされ、鉄の棒で打ち砕かれる』。『人間の』四百『歳を第四の兜率天の一日一夜とする。その兜率天の』四千『年を一日一夜として、この地獄における寿命は』四千『歳という。これは人間界の時間で』八百五十二兆六千四百億年に相当する。

「大嘷喚(だいけうくわん)」罪状は殺生・偸盗・邪淫・飲酒・妄語(噓をつくこと)。『叫喚地獄の下に位置し、その』十『倍の苦を受ける。叫喚地獄で使われる鍋や釜より大きな物が使われ、更に大きな苦を受け叫び喚(な)く』。『人間の』八百『歳は、第五の化楽』(けらく)『天の一日一夜として、寿』八千『歳という。その』八千『歳を一日一夜として、この地獄での寿命は』八千『歳である。これは人間界の時間で』六千八百二十一兆千二百億年に相当する。各地獄に十六の小地獄が附属すると言ったが、『理由は不明』だが、この「大叫喚地獄」のみは十八『種類の名が伝わっている』とある。しかし、そうすると、総数に異同が生じることとなるが?

「焦熱(せうねつ)」罪状は殺生・偸盗・邪淫・飲酒・妄語・邪見(仏教の教えとは相容れない考えを説き、或いはそれを実践すること)。『大叫喚地獄の下に位置し、その』十『倍の苦を受ける。常に極熱で焼かれ焦げる。赤く熱した鉄板の上で、また鉄串に刺されて、またある者は目・鼻・口・手足などに分解されて』、『それぞれが炎で焼かれる。この焦熱地獄の炎に比べると、それまでの地獄の炎も雪のように冷たく感じられるほどであり、豆粒ほどの焦熱地獄の火を地上に持って来ただけでも地上の全てが一瞬で焼き尽くされるという』。『人間界の』千六百『歳は、他化自在天の一日一夜として、その寿』一万六千『歳である。その』一万六千『歳を一日一夜として、この地獄での寿命は』一万六千『歳という。これは人間界の時間で』五京四千五百六十八兆九千六百億年に相当する。

「大焦熱」罪状は殺生・偸盗・邪淫・飲酒・妄語・邪見・犯持戒人(尼僧・童女などへの強姦)。『焦熱地獄の下に位置し、前の』六『つの地獄の一切の諸苦に』十『倍して重く受ける。また』、『更なる極熱で焼かれて焦げる。その炎は最大で高さ』五千『由旬、横幅』二百『由旬あるという。罪人の苦しみの声は地獄から』三千『由旬離れた場所でも聞こえる。この地獄に落ちる罪人は、死の三日前から中有(転生待ち)の段階にも地獄』(この地獄はどこの地獄なのかなあ?)『と同じ苦しみを受ける』。『この地獄における寿命は、人間界の』三千二百『歳を一日一夜とした場合の』三万二千『歳を一日一夜として』三万二千『歳であり、人間界の時間では』四十三京六千五百五十一兆六千八百『億年に当たる。また、この期間を半中劫とも呼ぶ』とある。

「無間(むげん)【一名、「阿鼻〔(あび)〕」。】」罪状は殺生・偸盗・邪淫・飲酒・妄語・邪見・犯持戒人に加えて、父母や阿羅漢(聖者)を殺害した罪。『地獄の最下層に位置する。大きさは前の』七『つの地獄よりも大きく、縦横高さそれぞれ』二『万由旬』(八万由旬とも)。『最下層』であるため、『この地獄に到達するには、真っ逆さまに(自由落下速度で)落ち続けて』二千年『かかるという。前の七大地獄並びに別処の一切の諸苦を以て一分として、大阿鼻地獄の苦』の一千『倍もあるという。剣樹、刀山、湯などの苦しみを絶え間』『なく受ける。背丈が』四『由旬』もあり、六十四個の『目を持ち』、『火を吐く奇怪な鬼がいる。舌を抜き出されて』百『本の釘を打たれ、毒や火を吐く虫や大蛇に責めさいなまれ、熱鉄の山を上り下りさせられる。これまでの』七『つの地獄でさえ、この無間地獄に比べれば夢のような幸福であるという』。『この地獄における寿命は、人間界の』六千四百『歳を一日一夜とした場合の』六万四千『歳を一日一夜として』六万四千『歳であり、人間界の時間では』三百四十九京二千四百十三兆四千四百億年に相当する。『また、この期間を一中劫とも呼ぶ』。『この一中劫の長さに関する説明としては、「この人寿無量歳なりしが』、百『年に一寿を減じ、また』、百『年に一寿を減ずるほどに、人寿』十『歳の時に減ずるを一減という。また』十『歳より』、百『年に一寿を増し、また』、百『年に一寿を増する程に』、八『万歳に増するを一増という。この一増一減の程を小劫として』、二十『の増減を一中劫という」とする表現』があることから、『これは人間界の年月に換算すると』三億千九百九十六万年となる』とある。『また、一説によると、この地獄における寿命は、人間界の』八千『歳を一日一夜とした場合の』八『万歳を一日一夜として』八『万歳とも言われ』、『この場合は人間界の時間で』六百八十二京千百二十『兆年に相当する計算になる。いずれにせよ、この地獄に落ちた者は気が遠くなるほどの長い年月にわたって、およそ人間の想像を絶する最大の苦しみを休みなく受け続けなければならない』。『この他、一中劫の長さを表す喩えとしては、「縦横高さがそれぞれ一由旬の巨大な正方形の石を』、百『年に一度ずつ柔らかな木綿の布で軽く払い、その繰り返しで石がすり減って完全になくなるまでの時間である」とか、「縦横高さがそれぞれ一由旬の巨大な城にケシ粒がぎっしり詰まっており、その中から』百『年に一粒ずつ』、罌粟(けし)『粒を取り出していって、城の中の』罌粟『粒が完全になくなるまでの時間である」などとも言われる。この地獄に堕ちたる者は、これほど久しく無間地獄に住して大苦を受くという』とある。最後に言っておくと、以上の通り、仏教は極めて細かく数理的に規定されているものの、その現在の度量衡換算は一定しない。

「肥前の【溫泉(うんぜん)】」現在の長崎県雲仙市小浜町雲仙にある雲仙岳(グーグル・マップ・データ航空写真。以下同じ)。標高九百十一メートル。この「うんぜん」を「溫泉」と表記するのは誤りではなく、しばしば行われたもののようで、先般電子化した譚海 卷之四 肥前國溫泉ケ嶽の事」でもそうなっている。

「豊後の【鸖見〔(つるみ)〕】」これは大分県別府市にある活火山鶴見岳のことで、東側山麓の扇状地に「別府地獄」で知られる別府温泉(別府八湯)が広がる。標高千三百七十五メートル。

「阿蘓」阿蘇山。

「越乃(こしの)【白山(しら〔やま〕)。】」この場合の「越乃」は講義の北陸地方で、ここでは加賀を指す。現在の石川県白山市と岐阜県大野郡白川村に跨る標高二千七百二メートルの活火山白山(はくさん)。西山麓の石川県白山市白峰にある「白峰温泉」が知られる。

「陸奥【燒山〔(やけやま)〕。】」秋田県の北東部に位置し、鹿角市と仙北市との境界にある活火山秋田焼山(あきたやけやま)であろう。標高は千三百六十六メートル。西麓に強烈な酸性温泉である玉川温泉がある。私は一泊したが、柔らかな皮膚部分に激しい痛みを感じ、まともに入浴することが出来なかった。

「㶡㶡(くはくは)」不詳。光を放って燃え上がるさまか。

「汪汪(わんわん)」ここは熱湯が豊かにいつまでも湧き出し、常時、湛えられているさまを指す。

『豊後【速見郡野田村。】、「赤江地獄」と名づくる者、有り』大分県別府市大字野田にある温泉が湧出する池で、現在は「血の池地獄」という名で知られ、国の名勝に指定されている。サイド・パネルの画像を見られたい。現存する最も古い記録は八世紀前半に編纂された「豊後国風土記」の「速見郡」の項にある。岩波文庫(一九三七年刊)武田祐吉編「風土記」より引く。

   *

赤湯泉(あかゆ)【郡の西北にあり。】

この溫泉の穴、郡の西北の竈門山(かまどやま)に在り。その周(めぐ)り十五丈許なり。湯の色赤くして埿(ひぢ)り。用(も)ちて屋の柱を塗るに足れり。埿(ひぢ)、外に流れ出づれば、變りて淸水(しみづ)と爲り、東を指して下り流る。因りて赤湯泉(あかゆ)といふ。

   *

「十五丈」は四十五・四九メートル。これだと、現在の大きさ(一辺が約四十五メートルの三角形の「おむすび」型を成す)より小さいが、一辺十五丈ならば、ほぼ同じである。この最後の部分は「別府温泉地球博物館」公式サイトの「血の池地獄」を参考にした。

「正赤(まかい)なる湯」こういう読みは始めてみたが、意味は「真っ赤」で判る。

「一異」一つの不思議。

「枚擧せず」ここではそれらをいちいち挙げない。

「地獄に嵌(はま)る者、浮(うか)び出ずること、能はず」これは良安の確信犯のシンボライズされた教訓であろう。彼が如何なる信仰を持っていたかは判らぬが。しかし――さればこそ――最後に引用しよう。芥川龍之介の「侏儒の言葉」からだ――

   *

 

       地獄

 

 人生は地獄よりも地獄的である。地獄の與へる苦しみは一定の法則を破つたことはない。たとへば餓鬼道の苦しみは目前の飯を食はうとすれば飯の上に火の燃えるたぐひである。しかし人生の與へる苦しみは不幸にもそれほど單純ではない。目前の飯を食はうとすれば、火の燃えることもあると同時に、又存外樂樂と食ひ得ることもあるのである。のみならず樂樂と食ひ得た後さへ、腸加太兒の起ることもあると同時に、又存外樂樂と消化し得ることもあるのである。かう云ふ無法則の世界に順應するのは何びとにも容易に出來るものではない。もし地獄に墮ちたとすれば、わたしは必ず咄嗟の間に餓鬼道の飯も掠め得るであらう。況や針の山や血の池などは二三年其處に住み慣れさへすれば格別跋渉の苦しみを感じないやうになつてしまふ筈である。

 

   *

引用は『芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 地獄』より。]

2021/03/25

「和漢三才圖會」巻第五十八「火類」より「靈䰟火(ひとだま)」

 

Hitodama

 

ひとたま 人䰟火

靈䰟火

 

△按靈魂火頭團匾其尾如杓子樣而長色青白帶微赤

 徐飛行去地髙三四丈遠近不定堕而破失光如煑爛

 麩餅其堕處小黒蟲多有之形似小金龜子及鼓蟲未

 知何物也偶有自身知魂出去者曰物出於耳中而不

 日其人死或過旬余亦有矣凡死者皆非魂出也畿内

 繁花地一歲中病死人不知幾万人也然人魂火飛者

 十箇年中唯見一兩度耳【近年聞大坂三四箇墓所葬年中髙大槪二万人許他處

 亦可以推量也】

  玉は見つ主は誰ともしらねとも

        結ひとゝめん下かへのつま

[やぶちゃん注:和歌は前行末に約四字空けて一行で示されているが、ブラウザでの不具合を考えて、改行して引き上げ、さらに上句と下句を分かち書きにした。]

 拾芥抄云見人䰟時吟此歌可結所著衣裙【男左女右】

 

○やぶちゃんの書き下し文

ひとだま 「人䰟火」。

靈䰟火

 

△按ずるに、靈魂火〔(ひとだま)〕は頭、團(まる)く匾(ひらた)く、其の尾、杓子〔(しやくし)〕樣〔(やう)〕のごとくにして、長く、色、青白、微赤を帶ぶ。徐(しづ)かに飛行〔(ひぎやう)〕し、地を去ること、髙さ、三、四丈、遠近、定まらず。堕ちて、破(わ)れ、光を失ふ。煑爛(〔に〕ただ)れたる麩餅〔(ふもち)〕のごとく、其の堕つる處に、小さき黒き蟲、多く、之れ、有り。形、小さき金龜子(こがねむし)及び鼓蟲(まひまひむし)に似〔るも〕、未だ、何物といふことを知らざるなり。偶(たまた)ま、自身、魂(たま)、出で去るを知る者、有りて、曰はく、

「物、耳の中より、出づる。」

と。日ならずして、其の人、死す。或いは、旬余(とうかあま)り過ぐるも、亦、有り。凡(すべ)て、死する者、皆、魂〔(たましひ)〕、出づるに非ざるなり。畿内繁花の地、一歲の中〔(うち)〕、病死する人、幾万人といふことを知らず。然るに、人魂の火、飛ぶは、十箇年の中、唯だ、一兩度を見るのみ。【近年、大坂、三、四箇の墓、葬ふる所の年中の髙〔(たか)〕を聞くに、大槪、二万人許りなり。他處〔(よそ)〕も亦、以つて推量すべきなり。】

  玉は見つ主〔(しゆ)〕は誰〔(たれ)〕ともしらねども

        結びとゞめん下かへのつま

 「拾芥抄〔(しふがいせう)〕」に云はく、『人䰟〔(ひとだま)〕を見る時、此の歌を吟じて、著る所の衣の裙(つま)を結ぶべし。』と。【男は左、女は右。】。

 

[やぶちゃん注:冒頭から一気に良安のオリジナルな解説に入り、恐らくは、概ね、自身の体験や資料によって語って、最後に人魂による災厄封じの和歌を引用して終わるというのは、少なくとも今まで私が電子化注した「和漢三才図会」の諸記事の中では、特異点中の特異点である。しかも、そこでは冷静な人魂観察の実体験が記されてあり、そこでは落下して破裂して消え、その消失した地面には、コガネムシ或いはカタツムリに似ているが、知っているそれらでは決してない奇妙な黒い虫が数多く蠢いていた、という未確認生物の目撃証言附きなのだ! これは人魂の目撃記載でも出色のリアリズムと言える! さらには、人魂が身体から抜けていった(幽体離脱)と述べた直話の人物が、ほどなく亡くなったという発言、逆に、魂が抜けたという証言が本人や周囲からあっても、十日余りも生きていたという事例を挙げた上で、「人が死ぬ場合、誰もが霊魂が抜けて(少なくとも可視的な)人魂となるわけではない」として、その証拠に、「私は今までの人生の中で実際に人魂を見たのは、ただの二度しかない」と述べ、畿内の都市部だけでも一年の間に病死する者の数は幾万人とも知れない。近年の当時の大坂(寺島良安は大坂城入医師で法橋であった)の幾つかの墓地の年平均の、正式に葬送された死者の数の総数を照会したところが、たった一年でも約二万人であった(こんな調査を真面目にした人物は後にも先にもそういるもんじゃあるまい)。他の地方も推して知るべしで、人魂が必ず死者から一つ出るとしたた、それこそ我々は毎日、数え切れぬほどの人魂を目撃しているはずだと、ミョーに現実主義的なキビしー批判を加えているのもまことに興味深いのである。片や、動植物の解説では平気で、「無」からそれらが生成したり、山芋が鰻に変ずるような化生説を平気で大真面目に述べている良安先生が、である。面白い! 実に、面白い! なお、「ひとだま」「人魂」は語としては非常に古くからある。「万葉集」の第第十六の巻末に「怕(おそろ)しき物の歌三首」の掉尾の一首(三八八九番)が、

   *

 人魂の

   さ靑なる君が

  ただ獨り

    逢へりし雨夜(あまよ)の

   葉非左し思ほゆ

   *

「葉非左」は難訓でよく判らないが「はひさ」という人の名ととっておく。

「團(まる)く匾(ひらた)く」玉の部分は丸いが、球体ではなく、平たい円盤なのである。

「髙さ、三、四丈」約九メートルから十二メートル。かなり高い。

「煑爛(〔に〕ただ)れたる麩餅〔(ふもち)〕のごとく」落ちた状態の物理的な様子ではなく、弾けて落下して光を失うまでの、その様子は、麩で作った非常に柔らかい餅菓子が解けてぐにゃぐにゃになったような感じであったということであろう。

「其の堕つる處に、小さき黒き蟲、多く、之れ、有り。形、小さき金龜子(こがねむし)及び鼓蟲(まひまひむし)に似〔るも〕、未だ、何物といふことを知らざるなり」これは非常に重要な証言である。場所がどこであったのか、その虫の正確な形状を良安が記していないのは非常に不審である。せめても、死骸を採取しておくべきだった。本書で動物類の細かな記載をしている彼にして、大いに不満である。まあ、きっと、本書を企画する前の、若き日のやんちゃな時代の経験だったのだろう、と好意的にとっておく。

『「物、耳の中より、出づる。」と。日ならずして、其の人、死す』って、何らかの重篤な脳の疾患だったんではなかろうか?

「拾芥抄」正しくは「拾芥略要抄」。南北朝時代の類書で、実用生活便覧とも言える百科事典のようなもの。当初は全三巻であったらしいが、後に増補されて六巻本となった。編者は洞院公賢 (とういんきんかた) とする説と、洞院実煕 (さねひろ) とする説があるが、公賢原編・実煕増補とみる説が有力。但し、実煕以後の記事も含まれていることから、順次、増補されてきたものと思われる。内容は九十九部門に分かれ、生活百般・文芸・政治関係その他と、凡そ貴族として生活していくために必要な最低限の知識・教養を簡単に解説したものである。室町時代に最も重宝がられたが、江戸時代にも広く使われた。国立国会図書館デジタルコレクションのここに当該部を見つけた。

   *

見人魂時歌

 玉ハミツ主ハタレトモシラ子トモ結留メツシタカヱノツマ

 誦此歌結所著衣妻【云男ハ左ノシタカヒノツマ云女ハ同右ノツマヲ

   *

但し、この歌は、もっとずっと昔の平安後期の保元年間(一一五六年~一一五九年)頃に公家で六条家流の歌人の藤原清輔が著した歌論書「袋草紙」に、既に、霊魂が憬(あくが)れ出でてゆくのを鎮め留(とど)める咒(まじな)いの古い呪歌として記載されてある。鎮魂歌であり、古来より、人魂や霊的な対象に遭遇した際、この歌を三誦し、男は左、女は右の褄を結んでおき、三日経った後、これを解くという風習があったことに由るといわれている。]

畔田翠山「水族志」 チヌ (クロダイ)

(一五)

チヌ 一名「クロダヒ」【備後因島】マナジ(紀州熊野九木浦勢州松坂此魚智アリテ釣緡ヲ知ル故名紀州日高郡漁人云チヌハ海ノ巫也】

形狀棘鬣ニ似テ淡黑色靑ヲ帶背ヨリ腹上ニ至リ淡黑色ノ橫斑アリ

腹白色長乄二尺ニ及ベハ橫斑去ル大和本草曰「チヌ」「タヒ」ニ似テ靑黑

色好ンテ人糞ヲ食フ故ニ人賤之㋑カイズ物類稱呼曰小ナルモノヲ

「カイズ」ト稱ス按今秋月ニ及テチヌノ子長シテ二三寸ナルヲ通テ「カ

イズ」ト云㋺黑チヌ 一名「マナジ」【勢州慥抦浦】形狀「チヌ」ニ同乄黑色ヲ帶背

ヨリ腹上ニ至リ黑條アリ腹白色餘ハ「チヌ」ニ同シ

 

○やぶちゃんの書き下し文

ちぬ 一名「くろだひ」【備後因島〔いんのしま〕。】。「まなじ」【紀州熊野九木浦・勢州松坂。此の魚、智ありて釣緡〔つりいと〕を知る。故に名づく。紀州日高郡、漁人云ふ、「『ちぬ』は海の巫〔みこ〕なり」と。】。

形狀、棘鬣〔まだひ〕に似て、淡黑色、靑を帶ぶ。背より腹の上に至り、淡黑色の橫斑あり。腹。白色。長くして二尺に及べば、橫斑、去る。「大和本草」に曰はく、『「ちぬ」、「たひ」に似て、靑黑色。好んで人糞を食ふ。故に、人、之れを賤〔いや〕しむ』と。

「かいず」 「物類稱呼」に曰はく、『小なるものを「かいず」と稱す』と。按ずるに、今、秋月に及んで、「ちぬ」の子〔こ〕、長じて、二、三寸なるを、通じて「かいず」と云ふ。

「黑ちぬ」 一名「まなじ」【勢州慥抦浦〔たしからうら〕。】。形狀、「ちぬ」に同じくして、黑色を帶び、背より腹の上に至り、黑條あり。腹、白色。餘は「ちぬ」に同じ。

 

[やぶちゃん注:本文はここ。これはまず、

スズキ目タイ科ヘダイ亜科クロダイ属クロダイ Acanthopagrus schlegelii

としてよい(属名アカントパグルスの‘Acantho-’ はギリシャ語由来のラテン語で「棘のある」の意)が、宇井縫藏著「紀州魚譜」(昭和七(一九三二)年淀屋書店出版部・近代文芸社刊)もこちらでクロダイに同定しているが、少し気になるのは次の「キチヌ」

クロダイ属キチヌ Acanthopagrus latus

で、『多く前種と混同してゐる』と注している。但し、その直後に宇井は『水族志にはハカタヂヌ一名アサギダヒとある』(太字は原本では傍点「●」、下線は傍点「ヽ」)と記しているので、問題とする必要はない(畔田がちゃんと「キチヌ」相当を別種としていると考えられる点で、という意味でである。ただ、畔田は決して厳密な分類学的視点で項を立てているわけではなく、採取した資料を網羅的に並べている傾向もあるので、絶対とは言えない)と判断した。しかし、異名に「まなじ」を挙げているのは、やはり問題がある。「マナジ」は現行、属の異なる、

ヘダイ亜科ヘダイ属ヘダイ Rhabdosargus sarba

の異名としてよく知られているからである。ただ、「マナジ」は今も一部地域で「クロダイ」の異名でもあるし、標題とする「チヌ」は今も確かなクロダイの異名であり、形状・色彩の記載からみてもクロダイとして比定同定してよいと思われる。因みに、サイト「渓流茶房エノハ亭」の「海釣りの定番魚 クロダイ・チヌの方言(地方)名」は異名を驚くほど分類的に調べ上げてあって必見なのだが、そこでやはり、「クロダイ」の異名として「マナジ」を挙げ、このクロダイとしての異名は『静岡、三重、和歌山、岡山の一部で見られる』とした上で、「マナジ」の『「マ」は岩礁周辺、「ナ」は「ノ」、「ジ」は魚を表すので』、『磯の魚を意味するとも聞いている』とあった。なるほど!

「備後因島〔いんのしま〕」現在の広島県尾道市にある因島(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。島の北側は「安芸地乗り」と呼ばれた、古くからの瀬戸内海の主要航路であった。これは四国と大島の海峡である来島海峡が瀬戸内海有数の海の難所であったため、そこを避けるように、この島近辺に航路ができたことによるもので、中世においては、かの村上水軍の拠点として、また、近世は廻船操業、近代以降は造船業と、船で栄えた島として知られる。

「紀州熊野九木浦」三重県尾鷲市九鬼町(くきちょう)の九木浦。九鬼水軍は戦国時代に志摩国を本拠としたことで知らているが、九鬼氏の祖は、熊野別当を務め、熊野水軍を率いた湛増に遡るという説があり、彼らは紀伊国牟婁郡九木浦(現在の三重県尾鷲市九鬼町)を根拠地とし、鎌倉時代には既に志摩国まで勢力を拡大しており、南北朝時代に志摩国の波切へ進出して、付近の豪族と戦い、滅亡させて本拠をそちらに移したとされるのである。

『智ありて釣緡〔つりいと〕を知る。故に名づく。紀州日高郡、漁人云ふ、「『ちぬ』は海の巫〔みこ〕なり」と』「釣緡」は音は「テウビン(チョウビン)」。「緡」には「釣り糸」の意がある。さても。この言説はすこぶる面白い! 通常、クロダイの異名のチヌは、現在の大阪湾の古名(厳密には和泉国の沿岸海域の古称で、現在の大阪湾の東部の堺市から岸和田市を経て泉南郡に至る大阪湾の東沿岸一帯)であるが、ここでクロダイが豊富に採れたことによる。である「茅渟(ちぬ)の海」(その名の元由来は、一つは人皇神武天皇の兄「彦五瀬命」(ひこいつせのみこと)が戦さで傷を受け、その血がこの海に流れ込んで、「血(ち)沼(ぬ)」となったからとも、瀬戸内海から大阪湾一帯を支配していた「神知津彦命」(かみしりつひこのみこと)の別名「珍彦」(ちぬひこ)に由来するとも、また、「椎根津彦命」(しいねづひこのみこと)に基づくともされる)で、そこで獲れる代表的な魚がクロダイであったというのが定説である。しかし、この畔田のそれは「チヌ」の「チ」は「智(ち)」であって、猟師が釣糸を垂れて狙っていることを賢しくも察知してそれを避けて捕まらぬように「知(し)んぬ」、「智()を以って知ん」とでも謂いたいような雰囲気を醸し出しているからである。しかも、それを傍証するかのように、畔田は「紀州日高郡、漁人」の直話として、「『ちぬ』は海の巫〔みこ〕なり」と添えているのだ! 語源説としてはちょっと異端っぽいかも知れぬが、ちょっとワクワクしてきたぞ!

「背より腹の上に至り、淡黑色の橫斑あり。腹。白色。長くして二尺に及べば、橫斑、去る」クロダイは、幼魚期には銀黒色の明瞭な横縞を六、七本有するが、成長とともにそれらは薄くなっていく。あまり知られていないが、クロダイは出世魚で、関東では、

チンチン→カイズ→クロダイ

関西では

ババタレ→チヌ→オオスケ

という風に大きさで呼称が変わる(釣り人の間では五十センチメートル以上のクロダイの巨大成魚を「トシナシ(歳なし)」と呼んで釣果の目標とすると、釣りサイトにはあった。私が言いたいのは、ここでの改名ポイントが専ら魚長にあることにある。魚体の色や文様の有意な変容がないことを意味しているからである。それがクロダイに比定出来る一要素でもあると言えるからである。

『「大和本草」に曰はく、『「ちぬ」、「たひ」に似て、靑黑色。好んで人糞を食ふ。故に、人、之れを賤〔いや〕しむ』と』「大和本草卷之十三 魚之下 棘鬣魚(タヒ) (マダイを始めとする「~ダイ」と呼ぶ多様な種群)」の一節。

   *

○海鯽(ちぬ) 「閩書」に出たり。順が「和名」に、『海鯽魚 知沼』〔と〕。鯛に似て靑黒色、好んで人糞を食ふ。故に、人、之れを賎〔しむ〕。「黑鯛」・「ひゑ鯛」も其の形は「海鯽」に似て、別なり。此の類、性・味共に、鯛にをとれり。佳品に非ず。

   *

そちらの私の注も是非、参照されたい。

「かいず」個人サイト「釣魚辞典」の「クロダイ」のページに『若魚をカイズと呼ぶ』とある。

「物類稱呼」江戸後期の全国的規模で採集された方言辞書。越谷吾山(こしがやござん) 著。五巻。安永四(一七七五)年刊。天地・人倫・動物・生植・器用・衣食・言語の七類に分類して約五百五十語を選んで、それに対する全国各地の方言約四千語を示し、さらに古書の用例を引くなどして詳しい解説を付す。「かいず」は巻二の「動物」の「棘鬣魚(たひ)」の小見出し「烏頰魚」に出る。一度、「烏頰魚」(スミヤキ)で電子化していたのだが、忘れていたので、再度、零からやり直してしまった。以下の引用はPDFで所持する(岡島昭浩先生の電子化画像)昭和八(一九三三)年立命館出版部刊の吉澤義則撰「校本物類稱呼 諸國方言索引」に拠った。23コマ目。

   *

「烏頰魚  くろだひ○東武にて◦くろだひと云ひ、畿内及中國九州四國tもに◦ちぬだひと呼。  此魚、泉州茅渟浦(ちぬのうら)より多く出るゆへ[やぶちゃん注:ママ。]「ちぬ」と號す。但し、「ちぬ」と「彪魚(くろだい[やぶちゃん注:ママ。])」と大に同して小く別也。然とも今混(こん)して名を呼。又小成物を◦かいずと稱す。泉貝津邊にて是をとる。因て名とす。江戶にては芝浦に多くあり[やぶちゃん注:句点なし。]

   *

「黑ちぬ」クロダイの異名。

「勢州慥抦浦〔たしからうら〕」三重県度会郡南伊勢町慥柄浦。]

「和漢三才圖會」卷第五十八「火類」より「㷠」(燐・鬼火)

 

Onibi

 

おにひ   燐【俗字】 鬼火

㷠【音鄰】

 

本綱云 田野燐火人及牛馬兵死者血入土年久所化皆

精靈之極也其色青狀如炬或聚或散來迫奪人精氣

但以馬鐙相戛作聲卽滅故張華云 金葉一振遊光斂色

△按螢火常也狐火亦不希鼬鵁鶄蜘蛛皆有出火凡霡

 霖闇夜無人聲則燐出矣皆青色而無焰芒也

 比叡山西麓毎夏月闇夜㷠多飛於南北人以爲愛

 執之火疑此鵁鶄之火矣七条朱雀道元火河州平岡

 媼火等古今有人口相傳是亦鳥也然未知何鳥也

 

○やぶちゃんの書き下し文

おにび   燐【俗字。】。鬼火。

㷠【音、「鄰」。】

 

「本綱」に云はく、『田野の燐火、人、及び、牛馬の兵、死する者の血、土に入りて、年久〔しくして〕化す所。皆、精靈〔(しやう)りやう〕の極みなり。其の色、青く、狀〔(かたち)〕、炬(たいまつ)のごとし。或いは聚(あつ)まり、或いは散じ、來〔たり〕迫(せま)りて人の精氣を奪ふ。但〔ただ〕、馬の鐙(あぶみ)を以つて、相ひ戛(う)つて聲を作〔(な)〕すときは、卽ち、滅(き)ゆる。故に張華が云ふ、「金葉、一たび、振るつて、遊光、色を斂(をさ)む」と』と。

△按ずるに、螢火は常なり。狐火も亦、希(まれ)ならず。鼬(いたち)・鵁鶄(ごいさぎ)・蜘蛛、皆、火を出〔(いだ)〕すこと、有り。凡そ、霡霖(こさめふ)り、闇夜〔にして〕、人聲、無きときは、則ち、燐〔(おにび)〕、出づ。皆、青色にして、焰-芒(ほのほ)無し。

比叡山、西の麓、毎夏月、闇夜、㷠〔(おにび)〕、多く、南北に飛ぶ。人、以つて「愛執の火」と爲す。疑ふらくは、此れ、鵁鶄の火ならん。七条・朱雀の「道元の火」、河州平岡の「媼(うば)が火」等、古今、人口に有り。相ひ傳ふ、「是れも亦、鳥なり」と。然れども、未だ何鳥というふことを知らざるなり。

[やぶちゃん注:ウィキの「鬼火」の「考察」によれば、『目撃証言の細部が一致していないことから考えて』、『鬼火とは』、『いくつかの種類の怪光現象の総称(球電』(雷の電気によって生じる放電(電光)現象の一種で、雷雨の後などに赤く輝くボール状の発光体が固定物に沿ってか、或いは中空を飛ぶようにゆっくり移動するもの。極めて稀れで、発生機序もよく解明されていない)・『セントエルモの火』(St. Elmo's fire:雷雨や嵐の夜、避雷針・風向計・船のマストなどのように地表からの突起物に観察される持続的な弱い放電現象(コロナ放電)。この名は、嘗て地中海の船人が、船乗りの守護聖人「セント・エルモ」(St.Elmo:エラスムスErasmusの訛り)の加護のしるしであると考えたことに由る。通常は青若しくは緑色を呈し、時に白や紫色のこともある。頭上に積乱雲が来て、放電が強くなると、「シュー、シュー」という音がすることもある)『など)と考えられる。雨の日によく現れることから、「火」という名前であっても単なる燃焼による炎とは異なる、別種の発光体であると推察されている』。『注目すべきは』、『昔はそんなに珍しいものでもなかったという点である』(私の父は敗戦後すぐの縄文遺跡調査の折り、神流川上流の山村で、向かいの山に狐火を見ており、私の母も戦前の幼少の頃、墓地で光るそれを見、歯科医であった父から「あれは燐が燃えているだけだ」と教えられていた。私は残念なことに鬼火を見たことはない)。『紀元前の中国では、「人間や動物の血から燐や鬼火が出る」と語られていた。当時の中国でいう「燐」は、ホタルの発光現象や、現在でいうところの摩擦電気も含まれており、後述する元素のリンを指す言葉ではない』。『一方の日本では、前述の』「和漢三才図会」の『解説によれば、戦死した人間や馬、牛の血が地面に染み込み、長い年月の末に精霊へと変化したものとされていた』。「和漢三才図会」刊行から一世紀後の十九世紀以降の『日本では、新井周吉の著書』「不思議弁妄」を『始めとして「埋葬された人の遺体の燐が鬼火となる」と語られるようになった。この解釈は』一九二〇年代(大正九年から昭和四年)『頃まで支持されており、昭和以降の辞書でもそう記述されているものもある』。『発光生物学者の神田左京はこれを』、一六九六『年にリンが発見され、そのリンが人体に含まれているとわかったことと、日本ではリンに「燐」の字があてられたこと、そして前述の中国での鬼火と燐の関係の示唆が混同された結果と推測している』。『つまり死体が分解される過程でリン酸中のリンが発光する現象だったと推測される。これで多くの鬼火について一応の説明がつくが、どう考えてもリンの発光説だけでは一致しない証言もかなり残る』。『その後も、リン自体ではなくリン化水素のガス体が自然発火により燃えているという説、死体の分解に伴って発生するメタンが燃えているという説、同様に死体の分解で硫化水素が生じて鬼火の元になるとする説などが唱えられており、現代科学においては放電による一種のプラズマ現象によるものと定義づけられることが多い』。『雨の日に多いということでセントエルモの火(プラズマ現象』(plasma。「電離気体」。固体・液体・気体に次ぐ物質の第四の状態で、狭義のそれは、気体を構成する分子が電離し、陽イオンと電子に分かれて運動している状態であり、電離した気体に相当する)『)と説明する学者もいる。物理学者・大槻義彦もまた、こうした怪火の原因がプラズマによるものとする説を唱えている』。『さらに真闇中の遠くの光源は止まっていても暗示によって動いていると容易に錯覚する現象が絡んでいる可能性も』あろう。『いずれの説も一長一短がある上、鬼火の伝承自体も前述のように様々であることから、鬼火のすべてをひとつの説で結論付けることは無理がある』。『また、人魂や狐火と混同されることも多いが、それぞれ異なるとする説が多い一方、鬼火自体の正体も不明であるため、実のところ区別は明確ではない』とある。また、本篇を紹介し、『松明の火のような青い光であり、いくつにも散らばったり、いくつかの鬼火が集まったりし、生きている人間に近づいて精気を吸いとるとされる』。『また』、『同図会の挿絵からは、大きさは直径』二=三センチメートルから、二十~三十『センチメートルほど』で、『地面から』一~二『メートル離れた空中に浮遊すると推察されている』。『根岸鎮衛による江戸時代の随筆耳嚢巻之十「鬼火の事」にも、箱根の山の上に現れた鬼火が、二つにわかれて飛び回り、再び集まり、さらにいくつにも分かれたといった逸話が述べられている』とする。これは私の「耳嚢 巻之九 鬼火の事」を見られたい。以下、『現在では、外見や特徴にはさまざまな説が唱えられている』として、その外観は、『前述の青が一般的とされるが』、『青白、赤、黄色のものもある』。『大きさも、ろうそくの炎程度の小さいものから、人間と同じ程度の大きさのもの、さらには数メートルもの大きさのものまであ』り、その出現する数は、一個か二個しか『現れないこともあれば、一度に』二十個から三十『個も現れ、時には数え切れないほどの鬼火が一晩中、燃えたり消えたりを繰り返すこともある』。出没時期は、『春から夏にかけて』で、『雨の日に現れることが多』く、出没場所は、『水辺などの湿地帯、森や草原や墓場など、自然に囲まれている場所によく現れるが、まれに街中に現れることもある』とし、『触れても火のような熱さを感じないものもあれば、本物の火のように熱で物を焼いてしまうものもある』と属性を記す。以下、「鬼火の種類」を引く。『鬼火の一種と考えられている怪火に、以下のようなものがある。これらのほかにも、不知火、小右衛門火、じゃんじゃん火、天火といった鬼火がある』『(詳細は内部リンク先を参照)。狐火もまた、鬼火の一種とみなす説があるが、厳密には鬼火とは異なるとする意見もある』として、各地の個別例を挙げる。「遊火(あそびび)」は『高知県高知市や三谷山で、城下や海上に現れるという鬼火。すぐ近くに現れたかと思えば、遠くへ飛び去ったり、また一つの炎がいくつにも分裂したかと思えば、再び一つにまとまったりする。特に人間に危害を及ぼすようなことはないという』。「いげぼ」は『三重県度会郡での鬼火の呼称』。「陰火(いんか)」は『亡霊や妖怪が出現するときに共に現れる鬼火』。「風玉(かぜだま)」は『岐阜県揖斐郡揖斐川町の鬼火。暴風雨が生じた際、球状の火となって現れる。大きさは器物の盆程度で、明るい光を放つ』。明治三〇(一八九七)『年の大風』の際には、『山から』、『この風玉が出没し』、『何度も宙を漂っていたという』。「皿数え(さらかぞえ)」は妖怪画集で知られる鳥山石燕の「今昔画図続百鬼」にある怪火で、『怪談で知られる』「番町皿屋敷」の『お菊の霊が井戸の中から陰火となって現れ、皿を数える声が聞こえてくる様子を描いたもの』、「叢原火・宗源火(そうげんび)」は同じ石燕の「画図百鬼夜行」にある『京都の鬼火』で、『かつて壬生寺地蔵堂で盗みを働いた僧侶が仏罰で鬼火になったものとされ、火の中には僧の苦悶の顔が浮かび上がっている』。『江戸時代の怪談集』「新御伽婢子」にも『この名が』出る。「火魂(ひだま)」は『沖縄県の鬼火。普段は台所の裏の火消壷に住んでいるが、鳥のような姿となって空を飛び回り、物に火をつけるとされる』。「渡柄杓(わたりびしゃく)」は『京都府北桑田郡知井村(のちの美山町、現・南丹市)の鬼火。山村に出没し、ふわふわと宙を漂う青白い火の玉。柄杓のような形と伝えられているが、実際に道具の柄杓に似ているわけではなく、火の玉が細長い尾を引く様子が柄杓に例えられているとされる』。知られた「狐火(きつねび)」は、『様々な伝説を産んできた正体不明の怪光で、狐が咥えた骨が発光しているという説がある。水戸の』茨城町を中心に県内外で活躍した民俗研究家更科公護(きみもり)氏は、『川原付近で起きる光の屈折現象と説明している』。『狐火は、鬼火の一種とされる場合もある』とする。

「㷠」は「燐」の小篆に基づく字体のようである。

『「本綱」に云はく……』良安の評言の前までを総て引用としたが、実際には「本草綱目」の記載はもっと乏しい。巻六の「火部」の内の「陽火隂火」の中の一節「野外之鬼燐」で(「本草綱目」ではこの「火部」は特異的に全体の記載も少ない)、

   *

野外之鬼燐【其火色靑其狀如炬或聚或散俗呼鬼火或云諸血之燐光也】

(野外の鬼燐【其の火の色、靑く、其の狀ち、炬のごとし。或いは聚まり、或いは散ず。俗に「鬼火」と呼ぶ。或いは云ふ、「諸血の燐光なり」と。】)

   *

流石に、良安もあまりにもしょぼくらしいと感じたものか、文字列で中文サイトで調べると、

同じ「本草綱目」の巻八の「金石部」の「馬鐙」の「主治」に、

   *

田野燐火、人血所化、或出或沒、來逼奪人精氣、但以馬鐙相戛作聲卽滅。故張華云「金葉一振、遊光斂色【時珍。】。

(田野の燐火、人血の化する所、或いは出でて、或いは沒し、來たり逼まりて、人の精氣を奪ふに、但だ、馬の鐙を以つて相ひ戛(かつ)して聲を作(な)さば、卽ち、滅す。故に「張華」云はく、「金葉、一たび、振るひて、遊光、色を斂(をさ)む」と【時珍。】。

   *

と相同部分があるのを見つけた。これをカップリングしたのである。

「張華」晋(二六五年~四二〇年)の名臣(呉を伐つに功あって最高職である三公の一つである司空に任ぜられた)で、学者でもあった張華(二三二年~三〇〇年)。彼が撰した博物誌「博物志」は散逸しているものの、「本草綱目」に見るように、多くの本草書に引用されて残っており、これがまた、非常に面白い内容を持つ。

「金葉」古代中国に於ける鐙は専ら馬に乗るためのもので、そこは木の葉のような楕円を成し、当初より金属製であった。

「鼬(いたち)」日本固有種食肉(ネコ)目イヌ亜目イタチ科イタチ亜科イタチ属ニホンイタチ(イタチ)Mustela itatsi は、本邦の民俗社会では、古くから、狐狸同様に人を化かすとされていたので妖火とは親和性が強くイタチの群れは火災を引き起こすとされ、イタチの鳴き声は不吉の前兆ともされてきた。「和漢三才図会巻第三十九 鼠類 鼬(いたち) (イタチ)」の本文と私の注を参照されたい。

「鵁鶄(ごいさぎ)」本来は「五位鷺」であるから、歴史的仮名遣は「ごゐさぎ」が正しい。ペリカン目サギ科サギ亜科ゴイサギ属ゴイサギ Nycticorax nycticorax であるが、彼らが発光するというのは、怪奇談の中では極めてメジャーなもので、疑似怪談も私の蒐集した怪奇談では枚挙に暇がない。私が最初に扱ったものでは、「耳囊 卷之七 幽靈を煮て食し事」である(ここでは眼が光ったのであって、発光の説明はつく)。サギ類は目が光り、また、白色・青白色の翼は他の外光がなくても、闇夜でもぼんやりと見え、それはあやしいもやもやの光りのように感ぜられることはある。それにしても、サギが妖光を放つことは、かなり古くから言い伝えられているから、或いは彼らの摂餌生物に発光性物質を含むものがいるか、胴体への何らかの発光物質(プランクトンやバクテリア)が附着する可能性も範疇に入れておく必要があると私は考えている。但し、私は有意に光る鷺を現認したことはない。「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鵁鶄(ごいさぎ)」にも光るとする記載があるので参照されたい。

「蜘蛛」私自身、経験があるが、大型種の場合、真っ暗に見える部屋でも、複数の眼が光ることは確かである。また、クモ類の出す糸には紫外線を反射する性質があり、僅かな可視光線でも夜中でも容易に光る(花弁は紫外線を反射する性質を有し、それを頼りとして多種の昆虫はそこに群がるように仕組んである。ある種のクモ類はこれを逆手にとって、紫外線を反射する糸で、幾何学的で綺麗な模様の巣を作り、それを花と錯覚させて、虫を誘き寄せて捕食している(因みにクモ類の眼もチョウやガなどと同じく紫外線を見ることが出来る)。

「霡霖(こさめふ)り」「霡」は「小雨」、「霖」は本来は「三日以上降り続く長雨」。本来はこの熟語(漢語)も「長雨」を指すが、次義で「小雨」の意もある。

『比叡山、西の麓、毎夏月、闇夜、㷠〔(おにび)〕、多く、南北に飛ぶ。人、以つて「愛執の火」と爲す』この伝承は他に確認出来ない。場所が場所だけに、破戒僧のそれかとも考えてしまう私がいる。

『七条・朱雀の「道元の火」』私の「柴田宵曲 妖異博物館 怪火」を参照。

『河州平岡の「媼(うば)が火」』「河内平岡」は現在の大阪府東大阪市枚岡(ひらおか)地区かと思われる。非常に古くは「平岡」と書いた。私の「諸國里人談卷之三 姥火」を参照。類似の怪火で火の中に老婆の顔があるというキョワい妖火が、同じく「柴田宵曲 妖異博物館 怪火」に出る。

「人口に有り」世間の人が、多く語っており、メジャーであるというのある。

 

 因みに、私のサイトや、このブログの「鬼火」は、私の偏愛するフランスの作家ピエール・ウジェーヌ・ドリュ・ラ・ロシェル(Pierre Eugène Drieu La Rochelle 一八九三年~一九四五年)の‘Le Feu Follet ’(「消えゆく炎」:一九三一年発表)及びそれを原作とした大好きなルイ・マル監督の‘LE FEU FOLLET ’(映画邦訳題「鬼火」)に基づくものであって、何ら、関係は、ない。――無信仰で献体済の私の魂は鬼火にさえならぬのだ――]

2021/03/24

只野真葛 むかしばなし (23)

 

 父樣は申すにおよばず、ぢゞ樣・ばゞ樣・をぢ樣がたにいたる迄、壱人、をろかなる人、なし。その御末とおもはんに、などや、心をはげまざらめや。

 三人兄弟の中、四郞左衞門[やぶちゃん注:先に出た柔術に秀でた長男。]樣ばかり、酒、御好なりし。

 此人は、しごく、仁心、ふかく、誠に兄の兄たる心ばせなりし。

 唐(もろこし)の聖(ひじり)の道によりて、よきかたへに、よからん、と、まねくは、萬(よろづ)、ゑんりよがちに、奧まりたるかたにつきて、

「物は知りても、なるだけ、しらぬ顏するが、よし。『いで』といふ時、をくれ[やぶちゃん注:ママ。]をとらぬが、たしなみ。」

と、おぼしめし、一度(ひとたび)けいやく被ㇾ成しことは、いく年へても、其心にて、いらせられし人なり。

 さる故に、御名(おんな)の發したること、なかりし。

 いはゞ、守(まもる)こと、かたくて、境(さかひ)をいでぬ御心(みこころ)なり。

 父樣も、兄とは、いへど、親のごとく、御ちからに被ㇾ成しが、御(お)かくれの時分は、殊に、なげかせられて有し。

 

譚海 卷之四 奥州仙臺風俗の事

 

○奥州仙臺にあそぶ人は、大木戶を入(いれ)ば越河といふ所にて入判といふものをもらふ。錢三文を出してもらふ事なり。せんだいを出るときは、いづくの出口にても又出判をとりて出(いづ)る、五錢をいだしてとる事也。又仙臺城下に釋迦堂といふ有、繁昌なる所にて、寺内に定芝居あり。常に江戶の戲者(やくしや)も往來して藝をのぶる所也。其土着に市川今五郞といふもの芝居の魁首(かいしゆ)にしてせんだいにては御(お)くに團十郞と號す。此寺境内ひろく、花樹數多(あたま)ありて、常に國人の遊觀たえずといふ。

[やぶちゃん注:「大木戶」現在の福島県伊達郡国見町(くにみまち)大木戸(グーグル・マップ・データ。以下同じ)のことであろう。この伊達郡は江戸時代は天和二(一六八二)年以降は一貫して天領であった。

「越河」宮城県白石市(しろいしし)越河(こすごう。歴史的仮名遣も判らないので、本文には振らない。

「入判」「出判」この藩の出入りにかかるシステムは不詳。ネットで検索しても、全く掛かってこないので、お手上げである。識者の御教授を乞う。読みも判らないので、取り敢えず「いりはん」・「ではん」と読んでおく。

「一文」江戸中・後期のそれは凡そ現在の十二円相当。

「釋迦堂」現在、宮城県仙台市宮城野区榴岡(つつじがおか)にある日蓮宗光明山孝勝寺境内にある釈迦堂(仙台市登録有形文化財)であろう。仙台市公式サイト内のこちらによれば、仙台藩四代藩主伊達綱村が生母三沢初子の冥福を祈るために榴ヶ岡に建てた持仏堂で、元禄八(一六九五)年の建立であったが、昭和四八(一九七三)年の宮城県立図書館建設に伴い(現在の同図書館は後に再度移転したもので、この当時に新築された同図書館は現在の「宮城県婦人会館」が建っている場所に建ったものであったから、そこが釈迦堂の旧地で、本篇の立地もそこと考えてよいだろう)、現在の孝勝寺本堂脇に移された。孝勝寺は初子が帰依し、葬られた寺院であった。釈迦堂は三間四方で、一間の向拝(こうはい)が付き、以前は四周に縁が廻らされていた。屋根は宝形造(ほうぎょうづくり)、本瓦葺形銅板葺で、正面中央間に折桟唐戸(おりさんからど)、その両脇に花頭窓(かとうまど)が付く。内陣には厨子を備え、釈迦像が安置されているとあった。孝勝寺は第二代藩主伊達忠宗の正妻振姫に続き、初子も帰依し、以後、仙台藩の厚い保護を受けた寺であった。この初子は、伊達騒動を素材とした人形浄瑠璃「伽蘿先代萩」(めいぼくせんだいはぎ)の重要な登場人物である政岡のモデルとさられ、寺から東に少し離れた飛び地にある。なお、本文ではその釈迦堂も寺の境内あったと書かれているが、実は孝勝寺は往時は相応の寺域であったのだが、今は周囲が住宅地に呑み込まれてしまっているのである。

「のぶる」「延ぶる」か。棧敷や観劇席を敷いて興行を行うの謂いであろうか。

「土着」地元の田舎歌舞伎の一座。

「市川今五郞」東北歴史博物館の笠原信男氏の論考「仙台の田植踊と歌舞伎」PDF・二〇二〇年の同館館長講座資料)によれば(注記号は省略した)、『仙台藩は公式には歌舞伎の上演を禁じていた。先に見た享保9年(172412月の史料に歌舞伎に触れたところがある。10人巳上は控えることの但し書きで、「かぶき等に紛(まぎ)れ候様(そうらうさま)成る義(ぎ)は仕らせ間敷事」としている。歌舞伎に紛れて10人以上で田植踊をしてはいけないということであろう。歌舞伎は享保9年(172412月以降に禁じられ、さらに、宝暦2年(1752)までには、腰に面をつける「はさミ人形」の人形浄瑠璃として上演されるようになった。以後、何度かの禁制を経て幕末まで、「歌舞伎は相成らず、人形操の申し立てにて候間、江戸より(歌舞伎)役者が参り候ても、こし(腰)へ人形の面を附ケ」て上演された』という興味深い面白い事実が記されてあった。さらに、『江戸時代後期の古今の書物に書かれた記事を抜き書きした冊子に初代市川団十郎(蝦蔵)の多賀城出身説が見え』、『「陸奥坪の碑の近きにわたり市川村といふ所あり、そこの浦にて捕海老を役者蝦とよべり、こは芝居役者市川蝦蔵が生まれし里なり」』という驚くべきことが記されてあり、さらに、まさに本篇(底本も同じ)を引いて、『また、仙台城下に御くに団+郎こと市川今五郎という役者がいた。「仙臺城下に釈迦堂といふ有り。繁昌なる所にて、寺内に定芝居あり。常に江戸の戯者(やくしゃ)も往来して芸をのぶる所也。その土着に市川今五郎といふもの芝居の魁首(かいしゅ)にして、せんだいにては御(お)くに団十郎と号す」。』(ここで笠原氏に振られたルビを本文の当該部に適用した)とし、『釈迦堂は、祭日前後に芝居上演が公認された、仙台城下の「六ケ所神事場」であるが、この史料が記された天明5年(1785)頃は常設であったらしい』とあうことから、実際には歌舞伎は役者が腰に人形の面をぶら下げで行われていたことが判るのである。

「魁首」座長。]

「和漢三才圖會」巻第十四「外夷人物」より「飛頭蠻」

 

Hitouban

 

ろくろくび

      俗云轆轤首

飛頭蠻

三才圖會云大闍婆國中有飛頭者其人目無瞳子其頭

能飛其俗所祠名曰蟲落因號落民漢武帝時因※國使

[やぶちゃん注:「※」=「忄」+(「遅」-「辶」)。「三才圖會」原本でも同じ。「東洋文庫」版では「稺」とする。]

南方有解形之民能先使頭飛南海左手飛東海右手飛

西澤至暮頭還肩上兩手遇疾風飄於海水外

南方異物志云嶺南溪峒中有飛頭蠻項有赤痕至夜以

耳爲翼飛去食蟲物將曉復還如故也

搜神記載呉將軍朱桓一婢頭能夜飛

太平廣記云飛頭獠善鄯之東龍城之西南地廣千里皆

爲鹽田行人所經牛馬皆布氊臥焉其嶺南溪洞中徃徃

有飛頭者而頭飛一日前頸有痕匝項如紅縷妻子看守

之其人及夜狀如病頭忽離身而去乃于岸泥尋蠏蚓之

類食之將曉飛還如夢覺其實矣

△按以上數說有異同闍婆國中所有之種類乎而其國

 中人不悉然也於中華日本亦間謂有飛頭人者虛也

 自一種異人而已

 

○やぶちゃんの書き下し文

ろくろくび

      俗に云ふ、「轆轤首(ろくろくび)」。

飛頭蠻

「三才圖會」に云はく、『大闍婆國(だいじやばこく)の中、頭を飛ばす者、有り。其の人、目に瞳子(ひとみ)無く、其の頭、能く飛ぶ。其の俗、祠(まつ)る所、名づけて「蟲落」と曰ふ。因りて、「落民」と號す。漢の武帝の時、因※國〔(いんちこく)〕[やぶちゃん注:「※」=「忄」+(「遅」-「辶」)。「三才圖會」原本でも同じ。「東洋文庫」版では「稺」とする。]、南方に使ひす。解形の民、有り、能く、先づ、頭をして南海に飛ばしむ。左の手は東海に飛び、右の手は西澤に飛ぶ。暮れに至りて、頭、肩の上に還る。兩の手、疾風に遇へば、海水の外に飄(ひるがへ)る。』と。

「南方異物志」に云はく、『嶺南の溪峒の中に「飛頭蠻」有り。項(うなじ)に赤き痕(あと)有り。夜に至りて、耳を以つて、翼(つばさ)と爲し、飛び去り、蟲物を食ふ。將に曉(あけ)なんと〔せば〕、復た還りて故(もと)のごとし。』と。

「搜神記」に載(の)す。『呉將軍朱桓〔(しゆこう)〕が一婢(つかひもの)の頭、能く、夜、飛ぶ。』と。

「太平廣記」に云はく、『飛頭獠〔ひとうりやう〕は善鄯〔(ぜんぜん)〕の東、龍城の西南の地、廣さ千里、皆、鹽田たり。行人〔(かうじん)〕、經〔(へ)〕る所、牛馬、皆、氊〔(まうせん)〕を布(し)いて臥す。其の嶺南の溪洞の中に、徃徃〔わうわう〕、飛頭の者、有りて、頭の飛ぶ一日前に、頸(くびすぢ)、痕(きず)有りて、項(うなじ)を匝(めぐ)る〔こと〕紅き縷(すぢ)のごとし。妻子、看て、之れを守る。其の人、夜に及びて、狀、病(や)めるがごとくして、頭、忽ち、身を離れて、去る。乃〔(すなは)〕ち、岸泥に于(おい)て、蠏〔(かに)〕・蚓〔(みみず)〕の類を尋〔(もと)〕めて、之れを食ふ。將に曉けんと〔せば〕、飛び還りて夢の覺(さ)めたるがごとくにして、其れ、腹、實〔(み)〕つ。』と。

△按ずるに、以上の數說、異同有り。闍婆國の中に有る所の種類か。而〔れども〕、其の國中の人、悉く然るにはあらざるなり。中華・日本に於いて、亦、間(まゝ)、「飛頭人、有り」と謂ふ者は、虛(うそ)なり。自(みづか)ら一種の異人〔たる〕のみ。

[やぶちゃん注:所謂、「ろくろ首」でその起原はご覧の通り、中国「原産」である。本邦のそれは首がにょきにょきと伸びるのであるが、中華のそれは、切れて飛ぶのがオーソドックス。但し、切れた双方の断面は丸太のようなつるんとしたものらしく、その中央(推定)に糸のようなものが連絡して胴と首の間を繋げているとも言われる。それを見つけて、胴体を少しでも元の場所から移動させると、頭は永久に戻って接合合体することが不可能になるというのも、かなり一般的なお約束である。私の怪奇談には枚挙に暇がないのだが、私の注も含めて博物学的書誌学的によく纏まっているのは、まず、「柴田宵曲 妖異博物館 轆轤首」で、また、私がかなり注を拘った怪談物では、「古今百物語評判卷之一 第二 絕岸和尚肥後にて轆轤首見給ひし事」が参考になろう。そうして忘れてはならぬのが、「小泉八雲 ろくろ首  (田部隆次訳) 附・ちょいと負けない強力(!)注」である。恐らく、この怪異を世界的に日本の話として知らしめた功績は、これに尽きると言ってよい。是非、孰れも目を通されたい。失望させない自身はしっかりある。

「三才圖會」は絵を主体とした明代の類書。一六〇七年に完成し、一六〇九年に出版された。王圻(おうき)とその次男王思義によって編纂されたもので、全百六巻。本寺島良安の「和漢三才図会」はそれに倣ったもので、それを標題とするが、本草関係の記載は、概ね、明の李時珍の「本草綱目」に拠るものが殆んどである。引用は「人物第十二卷」の「大闍婆國」で、こちらこちら(国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像)だが、飛頭蛮は後者での記載のみであり、前の図版は同国の民を描いてあるだけで、頭が飛ぶ姿は描かれていない。期待されて失望されるのは困るので、一言言い添えておく。

「大闍婆國(だいじやばこく)」インドネシアを構成する一島であるジャワ島(グーグル・マップ・データ。以下同じ)のこと。イスラム国家があった。

「祠(まつ)る所」祀っている対象の神。

「蟲落」この場合は、具体な昆虫ではなく、人に災いや病気を齎す禍々しい対象(本邦の「疳の虫」のような具合に)を「蟲」と名指しているものであろう。それに、飛頭蛮が虫類を捕食してくれるという伝承が類感したに過ぎまい。東南アジアには、飛翔する女性の首の邪悪な妖怪がいると信じられていると読んだことがあり、そうしたものとの親和性(本邦の御霊信仰と同等)もあるかも知れない。

「落民」「首が落ち離れる人」の謂いであろう。

「漢の武帝の時」在位は紀元前一四一年から同八七年。

「因※國〔(いんちこく)〕」(「※」=「忄」+(「遅」-「辶」)。「三才圖會」原本でも同じ。「東洋文庫」版では「稺」とする)不詳。「東洋文庫」訳の割注には、『西域にあったらしい国』とする。

「解形の民」自分の人体を自由に分離させることが出来る人間の意。

「海水の外に飄(ひるがへ)る」戻ることが出来なくなって、海の上に浮かんで漂流してしまう、の意。

「南方異物志」唐の房千里銭撰。一巻。

「嶺南」現在の広東省及び広西チワン族自治区の全域と湖南省・江西省の一部に相当する広域を指す。この附近

「溪峒」渓谷の洞窟。

「項(うなじ)に赤き痕(あと)有り」実はこれが江戸時代の多くのいわれなき「轆轤首」イジメの一因であった。普通の人より撫で肩で、首が少し長く見える女性や、首の咽頭部辺りに少し濃い目の筋があったり、体質的にその筋が赤みを帯びて目立つ場合、「あの娘はろくろっ首だ!」という噂を立てたがったのである。実際にそうした疑似怪談が結構ある。そうした一本に私の「耳囊 卷之五 怪病の沙汰にて果福を得し事」というハッピー・エンドの話がある。見られたい。

「搜神記」六朝時代、四世紀の晋の干宝の著になる志怪小説集。神仙・道術・妖怪などから、動植物の怪異・吉兆・凶兆の話等、奇怪な話を記す。著者の干宝は有名な歴史家であるが、身辺に死者が蘇生する事件が再度起ったことに刺激され、古今の奇談を集めて本書を著したという。もとは 三十巻あったと記されているが、現在伝わるものは系統の異なる二十巻本と八巻本である。当時、類似の志怪小説集は多く著わされているが、本書はその中でも、比較的、時期も早く、歴史家らしい簡潔な名文で、中国説話の原型が多く記されており、後の唐代伝奇など、後世の小説に素材を提供し、中国小説の萌芽ということが出来る。先のリンクの後の二つで当該話の電子化と訓読をしてあるので参照されたい。話はもっとちゃんとしていて、首が離れた胴体の観察も記されてあるのである。

「呉將軍朱桓」[やぶちゃん注:孫権の下で将軍を務めた。「三国志」に伝が載る。

「一婢」一人の下女。

「太平廣記」宋の李昉(りぼう)ら十三名が編した類書(百科事典)。全五百巻。九七八年成立。太宗の勅命によって正統な歴史にとられない古来の野史・小説その他の説話を集め、内容によって神仙・女仙・道術・方士等、実に九十二項目に分類配列されてある。同前で先のリンクの後の二つ参照。

「飛頭獠」この「獠」は「獰猛な・凶悪な」の意味や「狩をする(犬)」などの意がある。しっくりくる意味である。

「善鄯」これは恐らく「鄯善」の転倒である。所謂、かの、中央アジアのタリム盆地のタクラマカン砂漠北東部(現在の新疆ウイグル自治区チャルクリク)あった都市国家楼蘭である。紀元前七七年に漢の影響下で国名を「鄯善」と改称している。

「龍城」「東洋文庫」割注に、『現在の熱河』(ねっか)『省朝陽県』とある。これは旧省名で、現在では、現在の河北省・遼寧省及び内モンゴル自治区の交差地域に相当する。「ジェホール」の呼び名がよく知られる。現在の遼寧省朝陽県はここだが、ここで言っているのはもっと西方でないとおかしいが、以下の数値でOKだ。

「千里」宋代の一里は五百五十二・九六メートル。五百五十三キロメートル。

「行人」旅人。

「經〔(へ)〕る所」通過した時の風景の描写。

「嶺南」ここは一般名詞の「山脈の南」と採る。

「岸泥」河川・池沼の岸辺の潟。

「腹、實〔(み)〕つ」腹はいっぱいになっている。怪奇談のリアリズムのキモの部分。というか、首が食ったカニやミミズは恐らく何らかの超自然のシステムによって、空間移動をして腹に入るとするのが面白かろう。

「闍婆國の中に有る所の種類か」この良安の考証はそれぞれの引用の場所が南北に複数ばらついているのであるから、不全である。「それぞれの国や地域の中に、そうした頭を分離して飛ばすことが出来る特別な人間がいるのか?」でなくてはおかしい。

『中華・日本に於いて、亦、間(まゝ)、「飛頭人、有り」と謂ふ者は、虛(うそ)なり。自(みづか)ら一種の異人〔たる〕のみ』という言説は良安にして「よくぞ、言って呉れました!」と快哉を叫びたくなる。動植物類で彼は安易に化生説を唱えているのを考えると、ここでは非常に賛同出来る科学的な見解を述べているからである。]

2021/03/23

芥川龍之介書簡抄22 / 大正三(一九一四)年書簡より(一) 二通

 

大正三(一九一四)年一月一日・新宿発信・淺野三千三宛(葉書・年賀状)

 

   つゝしみて新年を賀したてまつる

「危險なる洋書」をとぢて勅題の歌つかまつる御代のめでたさ

    大正三年一月一日  芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:「淺野三千三」既出既注。三中の芥川龍之介の後輩。

「危險なる洋書」具体な対象作品は不詳。しかし、後述のアナトール・フランス原作の重訳「バルタザアル」の脱稿はこの直後の一月十七日であるから、直近のそれでは、一番、関係のある洋書ではある。また、結果して芥川龍之介の最初の作家デビュー作であり、しかもその内容は、ある意味で芥川龍之介の全人生――特に晩年の女性関係やキリスト教との関りの事実結果に於いて、逆説的に「危險なる洋書」とも言えるように私には思われはするのである。なお、この一首は底本で次に並ぶ山本喜誉司宛年賀状にも記されてある。但し、そこでは、以下の通り(全文)。

   *

   つゝしみて新年を祝したてまつる

〝危險なる洋書〟をとぢて勅題の歌つかまつる御代のめでたさ

    一月元旦        芥川生

   *]

 

 

大正三(一九一四)年一月二十一日・京都市吉田京都帝國大學寄宿舍内 井川恭樣 直披・廿一朝 東京新宿 芥川龍之介

 

自分には善と惡とが相反的にならず相關的になつてゐるやうな氣がす 性癖と敎育との爲なるべし ロジカルに考へられない程腦力の弱き爲にてもあるべし

兎に角矛盾せる二つのものが自分にとりて同じ誘惑力を有する也 善を愛せばこそ惡も愛し得るやうな氣がする也 ボードレールの散文詩をよんで最なつかしきは惡の讃美にあらず 彼の善に對する憧憬なり 遠慮なく云へば善惡一如のものを自分は見てゐるやうな氣がする也(氣がすると云ふは謙辭なるやもしれず)これが現前せずば藝術を語る資格なき人のやうな氣がするなり

 

同じ故鄕より來りし二人の名を善惡と云ふなり 名づけしは其故鄕を知らざる人々なり

 

何にてもよけれどしかつめらしくロゴスと云はむ乎 宇宙にロゴスあり 萬人にロゴスあり 大なるロゴスに從つて星辰は運行す 小なるロゴスに從つて各人は行動す ロゴスに從はざるものは亡ぶ ロゴスに從はざる行動のみもし名づくべくんば惡と名づくべし

ロゴスは情にあらず知にあらず意にあらず 强ひて云へば大なる知なり 所謂善惡はロゴスに從ふ行動を淺薄なる功利的の立塲より漠然と別ちたる曖昧なる槪念なり

 

自分は時に血管の中を血が星と共にめぐつてゐるやうな氣がする事あり 星占術を創めし[やぶちゃん注:「はじめし」。]人はこんな感じを更につよく有せしなるべし

 

このものにふれずんば駄目也 かくもかゝざるもこの物にふれずんば駄目也

 

藝術はこれに關係して始めて意義あり

今にして君の「WESEN を感得せしむるアートを最高也」と云ひしを思ふ 君は三足も四足も僕に先んじたり

 

しひて神の信仰を求むる必要なし 信仰を窮屈なる神の形式にあてはむればこそ有無の論もおこれ 自分は「このもの」の信仰あり こは「藝術」の信仰なり この信仰の下に感ずる法悅が他の信仰の與ふる法悅に劣れりとも思はれず

すべてのものは信仰とならずんば駄目也 ひとり宗敎に於てのみならず ひとり藝術に於てのみならず すべて信仰となりてはじめて命あらむ

 

藝術を實用新案を工夫する職人の如くとり扱ふものは幸福なり

 

自己を主張すと云ふ しかも輕々しく主張すと云ふ

自分は引込思案のせいかしらねどまづ主張せんとする自己を觀たしと思ふ

顧みて空虛なる自己をみるは不快なり 自ら眼をおゝひたき[やぶちゃん注:ママ。]位いやなり されどせん方なし 樽の空しきか否かを見し上ならでは之に酒をみたす事は難かるべし 兎に角いやなり苦しいものなり

 

みにくき自己を主張してやまざるものをみるときには嫌惡と共に壓迫を感ず 少しなれど壓迫を感ず

 

自分はさびし

時々今から考へると一高にゐた時分に君はさぞさびしかつたらうと思ふ事あり

かく云へばとて君と今の僕と同じと云ふにはあらず 君の云つてる事が僕にわからなかつたからなり 何時でも[やぶちゃん注:「何時までも」の意か。]わからないのかもしれねど

 

自分は新思潮同人の一人となれり 發表したきものあるにあらず 發表する爲の準備をする爲也 表現と人とは一なりとは眞なりと思ふ 自分は絃きれたる胡弓をもつはいやなり これより絃をつながむと思ふ

 

アナトオル フランスの短篇を譯して今更わが文のものにならざるにあきれたり 同人中最文の下手なるは僕なり 甚しく不快なり

 

同人とは云へ皆步調は別なり 早晚分離せむ乎

 

この二三ケ月煑え切らざる日を送れり 胃の具合少し惡きにいろいろな考に頭をつかひし爲なり その爲に年賀狀の外どこへも手紙をかゝず 君にも失禮した訣なり 堪忍したまへ 海苔は少し大袈裟なり 胃病で死んでも海苔を食ふはやめじと誓ひたり

 

忙しいだらうが時々手紙をくれたまへ 僕もせいぜい勉强してかく

今日の手紙は大抵日記よりのぬき書きなり 幼きを嗤はざらむ事をのぞむ

 

歌も殆つくらず つくる暇もなし 唯三首

   ともかくむしやうに淋し夕空の一つ星のやうにむしやうに淋し

   こんなうれしき事はなしこんなうれしき事はなきに星をみてあれば淚ながるゝかな

   木と草との中にわれは生くるなり日を仰ぎてわれは生くるなり木と草との如くに

 

[やぶちゃん注:この前後の妙に数少ない他の書簡を読んでも、この謂わば、作家の卵としてのデビュー直前の彼は、精神的に不安定で、やや鬱傾向にあり、曰く言い難い孤独感に苛まれていたことが窺える。新全集の宮坂年譜にも、この一月上旬の記載として、『神経質になり、電話では居留守を使い、友人とも』意識的に殆んど『会わず、手紙も書かない日がしばらく続く』。『以後の手紙にも』(この井川宛書簡に見るような鬱屈した)『内省的な文面が目立つ』とある。

「ロゴス」logos。古典ギリシア語のラテン文字音写。意味は「言葉・言語・話・実在化された真理・理性・概念・意味・論理・命題・事実・説明・定義・理論・言説といった原義の一つであろう。転じて、「万物の事象の変化転変する中にあるところの理性的論理的に語られる、或いは語り得るところの共通に理解され得るところの一定のもの(のように感じられる)調和的様態又は理性法則」を指す。

「WESEN」ドイツ語。「ヴェーゼン」或いは「ヴィーズン」。「本質・実体・本性」の意。

「自分は新思潮同人の一人となれり」第三次『新思潮』の創刊は、この翌月二月十二日。一高出身の東京帝国大学文科大学の学生が中心となって刊行された。同人は豊島与志雄・山本有三・山宮允(さんぐうまこと)(以上は大正元(一九一二)年入学)に、芥川龍之介・久米正雄・佐野文夫・成瀬正一・土屋文明(同二年入学)と、松岡譲(同三年入学)に龍之介の一高時代の親友で当時は京都帝国大学文学部英文学科本科にあった菊池寛を加えた計十名であった。

「アナトオル フランスの短篇を譯して」『新思潮』創刊号に発表した龍之介が傾倒していたフランスの作家アナトール・フランス(Anatole France  一八四四年~一九二四年)が一八八九年に書いた「バルタザール」(Balthazar)の翻訳。「バルタサアル(アナトオル・フランス)」の標題で「柳川龍之介」名義。後の大正八(一九一九)年七月発行の雑誌『新小説』に「バルタザアル」の標題で「芥川龍之介譯」の署名で再録され、後の作品集「影燈籠」・「梅・馬・鶯」に収録された。編年体の旧「芥川龍之介」全集の第一巻巻頭に配されたそれである。ジョン・レイン夫人(Mrs. John Lane)の英訳(一九〇九年)からの重訳。同人の間では高評を博した。「青空文庫」のこちらで新字旧仮名で読める。

「同人とは云へ皆步調は別なり 早晚分離せむ乎」岩波文庫「芥川龍之介書簡集」の石割透氏の注には、同『新思潮』の『創刊号冒頭には「同人全体としては一定した主義もなければ主張もない」などとある』と記されてある。

「海苔は少し大袈裟なり 胃病で死んでも海苔を食ふはやめじと誓ひたり」これは思うに、井川が前便で、或いは、龍之介が好んで多量に海苔(のり)を好んで食うのが胃に不調の原因ではないか? と記したことへの返答のように思われる。龍之介には、生涯を通じて、やや偏食傾向が見られ、甘いもの好きで、あの痩身で結構、非常に甘い菓子をガッツリ食べたりした。

大和本草附錄巻之二 魚類 天蠶絲(てぐす) (釣り糸の天蚕糸(てぐす))

 

天蠶絲 漁人魚ヲ釣ニ用ル筋ナリ蟲ニテ作ルト云

異邦ヨリ來ル

○やぶちゃんの書き下し文

天蠶絲(てぐす) 漁人、魚を釣るに用ひる筋〔(すぢ)〕なり。蟲にて作ると云ふ。異邦より來たる。

[やぶちゃん注:起原生物は水族ではないが、「魚類」の項に記載されてあり、私としては無縁として排除出来ないと考え、特異的に採用した。古くは、釣り用に用いる釣り糸「天蚕糸(てぐす)」は、

昆虫綱鱗翅(チョウ)目ヤママユガ科ヤママユガ亜科 Saturniini Eriogyna 属テグスサン Eriogyna pyretorumウィキの「天蚕糸」の解説では、これを本邦にも棲息するヤママユガ亜科ヤママユ属ヤママユ Antheraea yamamai と同一であるかのように書かれている部分があるが(最後まで読むとテグスサンが出るのであるが)、これは本篇で益軒が「異邦より來たる」と言っているように、国産の「てぐす」ではないので、ヤママユのそれではない。私は幾つかの資料と海外の鱗翅目の分類学サイトを確認して、やっと正確な分類の上位タクサを確定し得た)

から作られたものを最上品とした(グーグル画像検索「Eriogyna pyretorumをリンクさせておく。かなり毛虫っぽい幼虫写真も一緒に出るのでクリックに注意)。

 テグスサンは中国原産で、本邦には棲息しない。成虫は翅の開張長が九~十二センチメートルで、♂よりも♀の報が大形の性的二型で、前翅の中央部と外縁部及び後翅は白く、横脈上に大きな眼状紋を有し、紫黒色の環で縁取られている。前翅頂部には赤い斑紋があり、その内側に黒条がある。中国でも南部、殊に海南島で絹を生み出す「絹糸虫」(けんしちゅう)として飼養され、インドシナ半島や台湾でも飼育されている。年一回の発生で、幼虫はフウ(ユキノシタ目フウ科フウ属フウ Liquidambar formosana :これから同種は「楓蚕」とも呼ばれる)・クスノキ(クスノキ目クスノキ科ニッケイ属クスノキ Cinnamomum camphora )・ヤナギ(キントラノオ目ヤナギ科ヤナギ属 Salix )などで飼育される。繭或いは幼虫の絹糸腺(けんしせん)から採った糸は古くより「てぐす」と呼ばれ、優れた釣り糸や外科用の縫合糸などに利用されてきたが、化学繊維の発達によって、その需要は急激に減少してしまった。幼虫が成する繭は灰白色で堅く、楕円形を呈する。。なお、ウィキの「天蚕糸」の解説の内、本邦でヤママユの絹糸が独自に「てぐす」や高級絹織物の原材料として使用されていたことは事実であり、『日本ではもともと全国の山野に自然の状態で生息している蚕で、古くは木の枝についている繭を集めてきて糸に紡いだ。天蚕の餌となるクヌギ』(ブナ目ブナ科コナラ属クヌギ Quercus acutissima )『の枝に卵をつける「山つけ」という作業を経ることで、都合の良い場所で繭を得ることができる。こうした人工飼育を最初に始めたのは、長野県安曇野市の有明地区であるとされている』。『天蚕は家蚕に比べて史書に記録される機会が少なく』、文政一一(一八二八)年に刊行された「山繭養法秘伝抄」などが存在するだけである』。『長野県安曇野市穂高有明では、天明年間』(一七八一年~一七八九年)から『天蚕飼育が始められた。周辺は穂高連峰の山麓につながる高原で、松・杉とともにクヌギ』・ブナ科コナラ属カシワ Quercus dentata 『などが群生していたので、多数の天蚕が生息していた』。享和年間(一八〇一年~一八〇四年)に『なると、飼育林を設けて農家の副業として飼養され、文政年間』(一八一八年~一八三〇年)『には穂高や近郷の松本・大町等の商人により』、『繭が近畿地方へと運ばれ、広島名産の山繭織の原料にもなった。嘉永年間』(一八四八年~一八五四年)『頃には、糸繰りの技術も習得し』、百五十『万粒の繭が生産された』。明治二〇(一八八七)年から明治三十年頃が『天蚕の全盛期で、山梨県や北関東などの県外へ出張して天蚕飼育を行った。明治』三十一『年には有明村の過半数の農家が天蚕を飼育するに至る。面積』三千ヘクタール『からの出作分を含めて』八百『万粒の繭が生産され、天蚕飼育の黄金時代であった。しかし、焼岳噴火の降灰による被害や、第二次世界大戦により』、『出荷が途絶え、幻の糸になってしまった』。しかし、昭和四八(一九七三)年には『復活の機運が高まり、天蚕飼育が再開された。安曇野市天蚕センターで、飼育・飼育』『が行われている』とある。]

大和本草附錄巻之二 魚類 海人 (人魚その二)

 

海人 在海中其形全ク人ナリ頭髮鬚眉悉具レ

リ只手足ノ指水鳥ノ如ク相連ツテ水カキアリ不

能言語飮食ヲ與レドモ不食又一種遍身肉皮ア

リテ腰間ニ下リ垂袴タルガ如シ其餘ハ皆人也陸

地ニ上リ數日不死

○やぶちゃんの書き下し文

海人 海中に在り、其の形、全く、人なり。頭・髮・鬚・眉、悉く具はれり。只、手足の指、水鳥のごとく、相ひ連つて、「水かき」あり。言語すること、能はず。飮食を與へれども、食はず。又、一種〔あり〕、遍身、肉〔の〕皮ありて、腰〔の〕間に下〔(さが)〕り、袴〔(はかま)〕を垂れたるがごとし。其の餘は、皆、人、なり。陸地に上〔(あが)〕り、數日〔(すじつ)〕、死せず。

[やぶちゃん注:「かいじん」と読んでおく。只管、「人」で通し、「鬚」と指示していること、前綱でわざわざ「海女」としていることから、「マーメイド」(mermaid)ではなく、「マーマン」(merman)の印象を与える。しかも、陸に上っても、数日も生存しているというのは、所謂、ジュゴンではモデルとして外れる。私は既に「大和本草卷之十三 魚之下 人魚 (一部はニホンアシカ・アザラシ類を比定)」で、こうした記載にごくしっくりくるものとして、

食肉(ネコ)目イヌ亜目鰭脚下目鰭脚下目アシカ科アシカ属ニホンアシカ Zalophus japonicus

或いは、

アザラシ科 Phocidae のアザラシ類

可能性としては特異的に南下してしまった、

アザラシ科アゴヒゲアザラシ属アゴヒゲアザラシ Erignathus barbatus(二〇〇八年八月に多摩川に出現した「タマちゃん」はこれ)

或いは、

ゴマフアザラシ属ゴマフアザラシ Phoca largha

の可能性を示唆した。海棲哺乳類の中で、恐らくアザラシは最も人(ヒト)に擬人化し易い対象である。アザラシはヒゲは勿論だが、眼の上部にも数本の毛を生やしている個体や、眼の上部内側に魚類の「パーマーク」(parr mark)のような、平安時代の女性の描き眉の如き楕円或いは円形の眉のような紋を持つ個体も多い。また、アザラシの後脚はまさに、「肉」質で「皮」に覆われたものが、「腰」の「間」に「下」がって、人間の「袴」を「垂」らして、ぞろ引いているように見えるからである。

大和本草附錄巻之二 魚類 海女 (人魚)

 

海女 海中ニマレニアリ半身以上ハ女人ニテ半身以

下ハ魚身ナリ其骨下血ヲ止ル妙藥ナリ世ニ人魚

ト云者是歟蠻語ニ其名ヘイシムレルト云

○やぶちゃんの書き下し文

海女 海中にまれにあり。半身以上は女人にて、半身以下は魚身なり。其の骨、下血を止むる妙藥なり。世に「人魚」と云ふ者、是れか。蠻語に其の名「ヘイシムレル」と云ふ。

[やぶちゃん注:標題は「かいぢよ」と読んでおく。私の愛する「人魚」である。私のものでは、人魚のミイラの画像から、西洋博物書の画像もとりいれて最も考証を尽くした『毛利梅園「梅園魚譜」 人魚』(二〇一五年六月一日公開記事)がよく、次に拘ったものは同じく人魚のミイラの精緻な寸法まで換算した『人魚(松森胤保「両羽博物図譜」より)』(二〇一八年五月一日公開記事)がお薦めである。また、民俗学的博物考証としては、やはり私の古い電子テクストである南方熊楠「人魚の話」(二〇〇六年九月十日サイト内公開)も参照されたい。そこで、熊楠は以下に示す良安「和漢三才図会」の記載を引いたところで、『倍以之牟礼(へいしむれ)(ラテン語ペッセ・ムリエル、婦人魚の義なり)』と補注している。その原文は私の古い電子化注である寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十九 魚類 江海有鱗魚」(二〇〇八年二月二日サイト内公開完結)を参照されたいが、ここでは、その「にんぎよ 人魚」の訓読文を転載する。

   *

にんぎよ   鯪魚

人魚

ジン イユイ

「和名抄」に「兼名苑」を引きて云ふ、『人魚【一名、鯪魚。】魚の身、人の面なる者なり。』と。

「本綱」に「稽神録」を引きて云ふ、『謝仲玉といふ者有り、婦人の水中に出没するを見る。腰より已下は青魚なり。又、査道と云ふ者有り、高麗に奉使して海沙中に一婦人を見る。肘の後に紅き鬛有りと。二物、其れ、是れ人魚なり。』と。

推古帝二十七年、攝州堀江に物有り、罟(あみ)に入る。其の形、兒のごとく、魚に非ず、人に非ず、名づく所を知らず云云。今も亦、西海大洋の中に間(まゝ)之有り。頭、婦女に似て以下は魚の身。麤(あら)き鱗、淺黑き色、鯉に似て尾に岐有り。兩の鰭、蹼(みづかき)有りて手のごとくにして、脚無し。暴(にはか)に風雨將に至んとする時、見る。漁父、網に入ると雖ども奇(あやし)みて捕らず。

阿蘭陀、人魚の骨【「倍以之牟禮〔(ヘイシンレ)〕」と名づく。】を以て解毒の藥と爲す。神効有り。其の骨、器に作り、佩腰の物と爲す。色、象牙に似て、濃(のう)ならず。

   *

また、そこで私は汎世界的な人魚のモデル生物として、

   *

哺乳綱ジュゴン目(海牛目)Sireniaの、

ジュゴン科 Dugongidae ジュゴン亜科ジュゴン属ジュゴン Dugong dugon

一属一種が真っ先に挙げられる。しかしさすれば当然、同じジュゴン目のマナティー科Trichechidae マナティー属 Trichechu sに属する次の三種、

アマゾンマナティー Trichechus inunguis

アメリカマナティー Trichechus manatus

アフリカマナティー Trichechus senegalensis

も挙げねばならないし、更に言えば近代に人類が絶滅させたジュゴン科ステラーカイギュウ亜科 Hydrodamalinae の、

ステラーカイギュウ Hydrodamalis gigas

も、その我々の愚かな行為を忘れないために、掲げることに異論を挟む方はおるまい[やぶちゃん注:以下略。]。

   *

を掲げた上で、「倍以之牟禮〔(ヘイシンレ)〕」については以下のように注した。

   *

「倍以之牟禮」については、南方熊楠の上記論文で、この良安の記述を載せて『ラテン語ペッセ・ムリエル、婦人魚の義なり』と注している。さてこれについて調べようとしたところが、以前からその膨大な資料に敬意を表しながらも、不勉強ながらろくに読んでいなかった「東京人形倶楽部」(これ自体が「人魚学」の強力なサイトである)の中に、『「せ」は世界の人魚、或いは人魚の世界のセ 坂元大河君の報告――人魚初級講座5 東洋の人魚――』(これが初級では私は母の胎内に戻って生まれ直さねばならぬ!)という、もう私の出る幕はない素晴らしく記載を見つけてしまった。素直に完敗を表明して該当箇所を引用させて頂く(一部の記号・フォントを本ページに合わせて補正したのみで基本的に完全なコピーである)。

   《引用開始》

 江戸の人魚文献で注目されるものに、大槻玄沢(磐水)の「六物新志」があります。舶来薬品の考証ですが、下巻の最後で人魚が取り上げられ、「甲子夜話」で「人魚のこと大槻玄沢が六物新志に詳なり」と言われているものです。玄沢は「ヘイシムレル」という人魚の骨が海外からもたらされている所から説き始めます。この物は、貝原益軒「大和本草」では「ベイシムレル」、「和漢三才図会」では「バイシムレ」と言われていますが、玄沢はスペイン語のペセムエール、つまりpez(魚)とmujer(女)の合成語、婦魚=人魚のことだと、その意味をつきとめました。この語源は、小学館『国語大辞典』では、ポルトガル語peixe-mulher(雌の海牛)とし、南方熊楠はラテン語「ペッセ・ムリエル」(婦人魚)の義としています。

 この骨は象牙のようで、止血(六物新志・長崎聞見録・大和本草・重修本草綱目啓蒙)の効能があるとされています。その他、解毒剤と紹介する文献もあります。「和漢三才図会」、『国語大辞典』、南方熊楠「人魚の話」などです。南方は「三才図会」を引いていますので、寺島良安が解毒剤説を広めているようです。江戸時代で解毒の薬と言えば、ウニコール(一角獣の角)が有名で、偽物が横行し、「うにこーる」と言えば、うそ・いつわりの意味になったほどでした。骨の解毒作用は、漢方の犀角、蛇角で説かれていますので、人魚の骨も毒を制すると思われたのでしょう。中国では孔雀の血が、アフリカではヘビクイワシの肝臓が、毒蛇に噛まれたときに解毒剤として用いられました。ハゲワシの足は、サソリ、蛇の毒に効くと言われていました。人魚の骨も偽物が多く、「山海名産図会」は「甚だ偽もの多し」、「重修本草綱目啓蒙」は「蛮人もち来たる者贋物多し、薬舗に貨する者はアカエイの歯及びトビエイの歯の形状にして斜紋なるものなり、未だ真なる者を見ず」と言っています。

 玄沢は、イタリア人アルドロヴァンディ(1522~1605)の動物誌、ポーランド人ヨンストン(1603~1675)の動物図説、18世紀のオランダ人ファレンティンの書から人魚の図を司馬江漢に写させています。このうちヨンストンの動物図説(1650~53)は銅版図入の図鑑で、その出版後すぐオランダ商館長が将軍家綱に贈っています。また平賀源内も1760年代にはこの書を入手し、知り合いの画家たちに模写させています。蘭学時代には、人魚を表すヨーロッパの言語も知られ、「西洋雑記」に「セヰレデネン、セイメンセン、ゼエ・フロウー」、「六物新志」には「ペセムエール、フロウヒス、メイルミンネン、ゼイウェイフ」の語が紹介されています。また、1403年にオランダでとらえられた人魚のことは「西洋雑記」「和訓栞」に見えます。このオランダの人魚はよほど有名らしく、南方「人魚の話」、ボルヘス『幻獣辞典』にも登場しておりますし、明代中国の書「萬国図説」「坤輿外記」にも言及があります。

   《引用終了》

あぁ! 人魚のささやきが聞こえる……「だからね……最初に貴方が感じたように……貴方はおとなしく浜辺を去るべきだったの……

   *

さても。先ほど検索したところ、「日本科学未来館」の「科学コミュニケーターブログ」の「江戸博士が質問に答える!江戸の人魚と不老長寿の伝説」(二〇二〇年九月八日附記事)の福井智一氏の対話記事での、国文学研究資料館特任助教粂汐里の本篇(「大和本草」附録巻二「海女」)に対する考証に従うと、

   《引用開始》

「蛮語ニ其名ヘイシムレルト云」と書かれています。蛮語はスペイン語、ポルトガル語、オランダ語などの異国の言葉を広くさす言葉ですが、『和漢三才図会』に「阿蘭陀以人魚骨倍以之牟礼為解毒薬有効能(オランダでは人魚の骨を「倍以之牟礼(ヘイシムレ)」と名付けて解毒によく効く薬としている)」とあるので、ここではオランダ語と解説しました。ただし、『六物新志』の著者大槻玄沢はスペイン語では「百設武唵爾(ヘセムエイル)」とし、これがなまったものではないかとしています。

   《引用終了》

と述べておられる。言っておくと、以上のリンク先に出る画像は、既に冒頭の私の諸論考にも同じものを示してある。]

大和本草附錄巻之二 魚類 (クジラの歯の記載)

 

海鰌ノ牙大抵ヨコ三寸許長六七寸アリ

○やぶちゃんの書き下し文

海鰌(くじら)の牙、大抵、よこ、三寸許り、長さ、六、七寸あり。

[やぶちゃん注:哺乳綱獣亜綱真獣下綱ローラシア獣上目 Laurasiatheria 鯨偶蹄目 Cetartiodactyla に属するクジラ類には、歯のあるグループと、ないグループがある(但し、それによって鯨類学的分類はされない)。所謂、鬚鯨(ひげくじら)と呼ばれるヒゲクジラ亜目 Mysticeti に属する種は歯を持たず、上顎から生えた「鬚板(ひげばん)」又は「鯨鬚」(くじらひげ)と呼ばれる器官を使って、オキアミ(節足動物門甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱ホンエビ上目オキアミ目 Euphausiacea)やコペポーダ(甲殻亜門多甲殻上綱六幼生綱橈脚(カイアシ)亜綱 Copepoda)等のプランクトンや小魚等の小さな対象を大量に濾しとって摂餌する。イワシ等の小魚(基本的にその海域に多い群集性魚類)の他に、イカなども捕獲された個体の胃から確認されているが、これらの魚などは、殆んど無傷の状態で観察されることから、「髭板」はあくまで濾過するための器官であることは明らかである。ヒゲクジラ類の食性は種や生息域によっても異なり、「髭板」の形状も、また、食性によってそれぞれ異なる。コククジラ(鯨偶蹄目コククジラ科コククジラ属コククジラ Eschrichtius robustus )のみが有意に底生生物を捕食することで知られる。本来、ヒゲクジラの先祖の体は小さかったが、プランクトンを多量に摂餌するようになって、進化過程で体が大きくなり、現在のヒゲクジラはシロナガスクジラ(鯨偶蹄目ナガスクジラ科ナガスクジラ属シロナガスクジラ Balaenoptera musculus )のように大きな種が多い(シロナガスクジラは標準成体で全長二十六メートル、最大全長は三十三・六メートルにも達し、体重は実に百九十トンを超える個体もあり、現生生物の中の最大種である)。一方、ここで問題にされている確かな歯を有するものは、鯨偶蹄目ハクジラ亜目 Odontoceti に含まれ、、顎に歯を持つ。しかし、古生物的鯨類学上の知見では、最初期のヒゲクジラから既に歯を保有しており、歯の存在によってこの分類群が定義されている訳ではない。通常の哺乳類の歯は異歯性(heterodonty:ある生物の歯が部位によって形状や機能に違いを生じる現象を示す)を持つが、ハクジラ類の歯は、化石種を含めて大半が二次的に同形歯を呈している。また、歯の本数が真獣類の基本数である四十四本よりも多いものや、逆に大半が失われているものなど、変異が甚だ多い。また、アカボウクジラ科 Ziphiidae の一部のように、のみが下顎に一対の歯を持つものや、角のように伸びた歯を持つイッカク(鯨偶蹄目イッカク科イッカク属イッカク Monodon monoceros)のなどのように特異な形態を示すものも少なくない。陸生の捕食者たちの歯は捕殺の道具として使用されるが、ハクジラ類の大半は、魚体を捕捉するための罠として機能する。しかしシャチ(ハクジラ亜目マイルカ上科マイルカ科シャチ亜科シャチ属シャチ Orcinus orca )などのように、丸呑みが出来ない中・大型のクジラやサメを狙うものは、捕らえた獲物を引き裂き、飲み込みやすい大きさにまで切り刻むために歯を使っている。また、アカボウクジラ科の一部の種のは特異な歯をディスプレイ(display:動物が求愛や威嚇のために自分の目立つ特徴を強調したり、また大きく見せる姿勢や動作をすること)として使用していると推定される。ハクジラの仲間の歯は、殆んどが尖った犬歯状を呈していて、魚やイカ等を摂餌している。ヒゲクジラに比べると体は小さく、群れで暮らしていることが多い。ハクジラの中でもマッコウクジラ(鯨偶蹄目 Whippomorpha 下目ハクジラ小目マッコウクジラ科マッコウクジラ属マッコウクジラ Physeter macrocephalusは特異的に大きな体を持っている(マッコウクジラのの体長は約十六 ~十八メートルで、の約十二~十四メートルと比べると、三十 ~五十%も大きい。体重はの五十トンに対し、メスは半分の二十五トンで典型的な性的二型を示す)(以上は複数のウィキペディアの記載その他を参考にした)。グーグル画像検索「クジラ 歯」をリンクさせておく。]

大和本草附錄巻之二 魚類 (触角が十メートル超あるエビの記載)

 

呉志曰王隱交廣記曰呉後復置廣州以南陽滕修

爲刺史或語修蝦鬚長一丈修不信其人後故至

東海取蝦鬚長四丈四尺封以示修修乃服之

○やぶちゃんの書き下し文

「呉志」に曰はく、『王隱が「交廣記」に曰はく、『呉、後〔(のち)〕に、復た、廣州を置き、南陽の滕修〔(とうしう)〕を以つて刺史と爲す。或るひと、修に語りて、「蝦〔(えび)〕の鬚〔(ひげ)〕、長きこと、一丈〔のものあり〕」と。修、信ぜず。其の人、後、故に東海に至り、蝦の、鬚、長さ四丈四尺〔ある〕を取りて、封じて、以つて、修に示す。修、乃〔(すなは)〕ち、之れに服す。』と。

[やぶちゃん注:本文中の人名「滕修」は「滕脩」が正しい。これは流石にいないと思うね。

「呉志」陳寿著の後漢の混乱期から西晋による中国統一までを扱った歴史書「三国志」の一部。当該部は全二十巻。

「王隱」(生没年不詳)は東晋(三一七年~四二〇年)の歴史家。唐代の「晋書」巻八十二には「王隠伝」が立てられてある。当該ウィキによれば、『代々、寒門の出であったが、年少から学問を好み、著述の志を持っていた。西晋に仕え、歴陽県令となった。私的に晋の事跡や功臣の行状を記録していたが、完成させることなく亡くなった』。『王隠は、普段から自身を儒学の教えに従って律し、後ろ盾を持とうとせず、博学多聞であった。父の事業を受け継ぎ』、『西晋の旧事をそらんじ、研究した』。『建興年間』(三一三年~三一七年)『に江南に逃れ、丞相軍諮祭酒涿郡の祖納と親しくなり、彼は王隠を元帝に推薦したが、東晋はいまだ草創の段階であり、史官が置かれていなかった』ため、『取り上げられることはなかった』。『大興元年』(三一八年)、『制度が整えられ、王隠は召されて郭璞と共に史官である著作郎となり、晋の史書を著すよう命じられた。また』、「王敦の乱」を『平定するのに功績があったとして平陵郷侯の爵位を賜った。時に著作郎の虞預は私的に晋書を纏めていたが、長江東南の生まれであった』ことから、『西晋の朝廷の事象を知らず、王隠のもとを何度も訪れ、彼の著書を盗み写した。この後に王隠は病にかかり、虞預は豪族であり貴人、権力者と交わりを結んでいたため、党派を組んで王隠を排斥し』、『免職とした』。『王隠は貧しく史書を書くのに用立てる資産もなかった』ため、『晋書を書き続けることができなかったが、武昌で征西将軍の庾亮』(ゆりょう)『を頼り、彼が筆と紙を提供してくれたため、晋書を完成させることができ』、『宮中にこれを献上した』七十『歳余り』で『家で亡くなった』。著作に「晋書」九十三巻・「交広記」・「蜀記」などがあるが、孰れも裴松之(はいしょうし)が「三国志」の『注釈として引用している。その他に』「王隠集」十巻がある。虞預著の王隠からの盗作が疑われる「晋書」に『おいて、王隠は著述を好んだものの、文章も音の響きも卑しく拙く、乱雑で非道徳である。その』「晋書」の『見るべきところは』、彼の『父が書いたところであり、文章の混濁して意味が不可解なところは王隠の書いたところであると、厳しい批判を載せている』。裴松之も「三国志」に引用した注釈で『厳しく批判しており、鍾会が龐徳』(ほうとく)『の遺骸を鄴』(ぎょう)『に埋葬した話などを』、『王隠の虚説と断じ』、『孫権が関羽を捕らえたおりに殺すのを惜しみ』、『臣下として用いようとした話では』、『智者の口を閉ざす所である』『などと終始』辛辣な『言を添えている』とある。

「交廣記」交州(漢から唐にかけて置かれた行政区域。現在のベトナム北部及び中国の広西チワン族自治区の一部などが含まれる)と広州(現在の広州市(グーグル・マップ・データ)を含む広域)の二州の地誌。

「南陽」現在の河南省南陽市付近。

「滕修」滕脩(とうしゅう ?~二八八年)は三国時代の呉から西晋にかけての政治家・武将。荊州南陽郡西鄂(せいがく)県の人。呉に仕えて将帥となり、西鄂侯に封ぜられた。孫晧(そんこう:呉の第四代皇帝)の時代には熊睦(ゆうぼく)の後任として広州刺史となり、甚だ威光恩恵を示した。参照した当該ウィキには本件が載り、『滕脩が広州刺史』(州の長官)『になった時、ある人が一丈もの長さの鬚を持つ蝦がいると語ったが、滕脩は信用できなかった。その人が後に徐州の東海郡へと出かけ、長さ四丈四尺の蝦を捕まえ滕脩の元に送ると、滕脩はやっと納得したという』とある。後に『中央に召し返されると』、『執金吾』(しつきんご:元は秦に於ける武官職名の中尉)『になった』。二六九年、呉の武将で政治家の『陸凱は亡くなる間際に「滕脩らは皆、清廉忠実・卓越秀才であり、社稷の根幹、国家の善き補佐であります。陛下は彼らにお訊ねになり、忠義を尽くせるようお取り計らい下さいますよう」と陳情している。またその際に、国の支えとなる人物の一人として滕脩の名を挙げている』。二七九年に『広州で郭馬らが反乱を起こすと、孫晧は』、『かねてより』、『滕脩の威光恩恵が民たちを心服させていると信じていたため、滕脩を使持節・都督広州諸軍事・鎮南将軍・広州牧に任じて討伐を命じ、後に陶璜・陶濬らを援軍として差し向けた』。『郭馬の反乱を平定していない』うち『に晋が攻め込んで来たので、滕脩は兵を率い』、『応戦しようと駆けつけたが、巴丘まで赴いたところで孫晧が既に降服したことを知ったため、喪服を着た上で涙を流しながら引き返した。広州刺史閭豊・蒼梧太守王毅とともに印綬を返上すると、詔勅により安南将軍に任じられた。広州牧・持節・都督の職階はそのまま留任とされ、武当侯に封ぜられた上で鼓吹を与えられて、南方の仕事を委任された』。『滕脩が南方にあること数年、辺境の夷狄たちも帰服した』。『死』後、『親族が洛陽に埋葬して欲しいと請願したことから、武帝はその気持ちに満悦して一頃の墓田を与え、声侯と諡した。後に子の上表により、忠侯と改められた』とある名臣である。

「一丈」東晋の一丈は二・四四メートル。

「四丈四尺」東晋の一尺は二四センチメートル強であるから、十・七二メートルとなる。

「封じて」封印して。人工的に細工した物でないことを証明するため。]

大和本草附錄巻之二 魚類 ビリリ (神聖苦味薬・水族由来に非ざるものと私は推定)

 

ビリヽ 霍亂腹痛牙齒痛ニ用ユ異邦ヨリ來ル是ハ魚ノ

膽ニ加藥シテ煉堅メタル物也魚ノ血トモ云

○やぶちゃんの書き下し文

ビリリ 霍亂〔(かくらん)〕・腹痛・牙齒痛〔(がしつう)〕に用ゆ。異邦より來たる。是れは、魚の膽〔(きも)〕に加藥して、煉り堅めたる物なり。「魚の血」とも云ふ。

[やぶちゃん注:これは昨年の九月十三日、「大和本草」の水族の部の本巻分の最後の最後に悩まさせられた奴と同じじゃないか!?! 「大和本草卷之十三 魚之下 ビリリ (神聖苦味薬)」の注で、私は『さても。最後の最後に困らされる。全く何だか分からない。一つだけ、赤松金芳氏の論文「中井厚沢とその著書「粥離力考」(『日本醫史學雜誌』第十巻第二・三号。昭和三九(一九六四)年発行。PDF)で、是非、読まれたいが、そこではその正式名をヘイラ・ピクラ(Hiera Picra)とし、所謂、万能薬「神聖苦味薬」の一種であるようだ(魚の肝(きも)由来というのはガセネタのようである)。而して、これは所謂、錬金術の中で創造された下らぬものであるような気がした』と述べた。その後に情報も皆無である。この「附錄」はどうも、本巻記載後に書いたものではなく、本巻を書くために益軒が集めた資料集の一部を合わせたものなのではないか? という感じが強くしてきた。

「霍亂」日射病、及び、夏場に発症し易い激しい吐き気や下痢などを伴う急性消化器性疾患。]

大和本草附錄巻之二 魚類 きびなご (キビナゴ)

 

キビナゴ 海魚ナリ海鰮ニ似テ同類ナリ長三寸餘不

滿四五寸口ハ海鰮ヨリ小也身ハイハシヨリ少厚シ

兩傍ニ銀色ノ筋アリ其筋ノヒロサ三分許頭ヨリ

尾ニ至ル銀色ノハシニ又黑筋一條アリ鱁鮧トスベシ

○やぶちゃんの書き下し文

きびなご 海魚なり。海鰮(いはし)に似て、同類なり。長さ、三寸餘〔より〕、四、五寸に滿たず。口は海鰮より小なり。身は「いはし」より少し厚し。兩傍に銀色の筋〔(すぢ)〕あり。其の筋のひろさ、三分〔(ぶ)〕許り。頭より尾に至る。銀色のはしに、又、黑筋一條あり。鱁鮧(なしもの)とすべし。

[やぶちゃん注:鰭綱ニシン上目ニシン目ニシン科キビナゴ亜科(或いはウルメイワシ亜科)キビナゴ属キビナゴ Spratelloides gracilisウィキの「キビナゴ」によれば、漢字表記は『黍女子、黍魚子、吉備女子、吉備奈仔』で、『インド洋と西太平洋の熱帯・亜熱帯域に広く分布する小魚で』、本邦では「ハマイワシ」・「ハマゴ」・「ハマゴイ」(静岡県)・「キミナゴ」(三重県)]・「キビナ」・「カナギ」(長崎県)・「スルン」(鹿児島県奄美大島)・「スリ」(沖永良部島)・「スルル」(沖縄県)などの多才な地方名を持ち、中国語標準漢名は「日本銀帶鯡」である。成魚は全長十センチメートルほど、で『体は前後に細長い円筒形で、頭部が小さく』、『口先は前方に尖る。体側に幅広い銀色の縦帯があり、その背中側に濃い青色の細い縦帯が隣接する。鱗は円鱗で』、一縦列の鱗は三十九枚から四十四枚であるが、『剥がれ易く、漁獲後にはほとんど脱落してしまう。海中にいるときは背中側が淡青色、腹側が白色だが、鱗が剥がれた状態では体側の銀帯と露出した半透明の身が目につくようになる』。『ニシン科』Clupeidae『の分類上ではキビナゴ亜科』Spratelloidinae『が設定されているが、ウルメイワシに近縁のウルメイワシ亜科』Dussumieriinae『とする見解もある』。種小名の「gracilis 」(グラスィリス)は「薄い」「細い」などの意で、同種の『細長い体型に由来する』とあり、『本州中部からポリネシア・メラネシア・オーストラリア北岸、西はアフリカ東岸まで、インド洋と西太平洋の熱帯・亜熱帯域に広く分布する。外洋に面した水のきれいな沿岸域を好み、大きな群れを作って回遊し』、『海岸にもよく接近する。主に動物プランクトンを捕食する。一方、天敵はアジ、サバ、カツオ、ダツなどの大型肉食魚やアジサシ、カツオドリなどの海鳥類がいる』。『熱帯域ではほぼ周年産卵するが、亜熱帯海域では春から秋にかけての産卵期があり、たとえば西日本近海での産卵期は』四月から十一月と『なる。産卵期には成魚が大群を作って沿岸の産卵場に押し寄せる。繁殖集団は潮の流れの速い海域に集まり、海底を泳ぎ回りながら産卵を行う』。『ニシン目』Clupeiformesの『魚類は海中に浮遊する分離浮性卵を産卵するものが多いが、キビナゴは浅海の砂底に粘着性の沈性卵を産みつける。受精卵は砂粒に混じった状態で胚発生が進み、一週間ほどで孵化する。寿命は半年』から一『年ほどとみられる。西日本では夏』から『秋生まれのものが翌年の春に産卵、孵化した子供がその年の秋に産卵し、寿命を終えると考えられている』。『分布域に入る西日本では、沿岸各地で巻き網などで漁獲される。特に鹿児島県、長崎県、高知県といった暖流に面した地域でまとまった漁獲がある。ただし』、『小魚で傷みが早いこともあり、漁獲地以外に流通することは少ない』。『刺身、煮付け、塩ゆで、天ぷら、唐揚げ、南蛮漬け、干物などで食べられる。また出汁用の煮干しにも加工される。調理法次第では骨ごと食べられ、体のわりには可食部も多い。生の身は半透明で、小骨が多いが』、『脂肪が少なく甘みがある。キビナゴの刺身は包丁などを使わず、指と爪を使った手開きで頭・背骨・内臓を取り除き、いわゆる「開き」の状態で皿に盛り付けられる。食べる際はショウガ醤油や酢味噌で臭みを消す。酢味噌で食べるものは鹿児島県の薩摩料理のひとつとして有名である。また、一晩ほど醤油漬けにして、茶漬けにすることもある。甑島列島では醤油炊きやもろみ炊きといった煮つけ料理にする。鹿児島県の奄美大島では小さいものが多いので、煮干しとしてよく利用されるほか、丸ごと塩漬けにした塩辛「スルンガラシュ」』(沖縄の「スクガラス」と同源。「スクガラス」の「スク」はアイゴ(スズキ目ニザダイ亜目アイゴ科アイゴ属アイゴ Siganus fuscescens )の稚魚、「カラス」は塩漬けの意)『にも加工される』。『長崎県の五島列島では、「炒り焼き」(いりやき)と称するしゃぶしゃぶ風の鍋料理でも食べられる』。『食用以外にも、ブリ類やアジ類など大型肉食魚の釣り餌として利用される』とある。私の亡き母は鹿児島出身であった。薩摩を訪ねると、必ず出た、皿に綺麗に円心上に並べられたキビナゴの美しさは、えも言われぬものであった。

「海鰮(いはし)」条鰭綱ニシン目ニシン亜目 Clupeoidei の複数の種の総称で、「マイワシ」はいるが、「イワシ」という種はいない。詳しくは「大和本草卷之十三 魚之下 鰛(いはし) (マイワシ・ウルメイワシ・カタクチイワシ)」の私の注を参照されたい。

「鱁鮧(なしもの)」音は「チクイ」は塩辛を示す食品名。魚体ごと或いはその内臓だけを塩漬けにしたもの。]

2021/03/22

外来語蔓延病棟

一国の宰相が深刻な核汚染を「アンダー・コントロールできている」と訳の分からぬ台詞を発したり、「ピン・ポイントのコロナ対策で大きな成果を上げた」なんどと自画自讃する時(今日までの、どこの、どこが、「ピン・ポイント」なのか、具体に指して示してみろよ)、「ソーシャル・ディスタンス」だ、「ゴー・トゥ・トラベル」だ、「ゴー・トゥ・イート」だ、といった戦後のヤンキー染みた外来語の夥しい闊歩とともに、「如何にも怪しく臭い」雰囲気が――実に濃厚に――我々の鼻を擽(くすぐ)り、漂ってくる――ではないか――

甲子夜話卷之六 31 松平左近將監、日光御參宮御請の事

6―31 松平左近將監、日光御參宮御請の事

松平乘邑、加判の列となり、いまだ筆末なりしとき、一日德廟召て御前に候じければ、年來日光山御參宮の思召あり。久しく中絕せしことなれば、差支可ㇾ申や如何との御尋なり。乘邑答奉るには、御先祖樣卸參拜のことは、恐ながら御尤の義に存上候。御筋合左樣有らる當き御こと、中絕は候へども御先蹤もこれ有ゆゑ、思召立たれ差支は有間敷御答申上て、政府に退き、同列中へ、かくかくの御尋故かくかく御答申上ぬと達けり。其後御參宮のこと仰出されしに、乘邑御用掛と命ぜられ、諸般のことども取調たるとき、道中御行列の先縱、文書散佚して傳らず。人々とやかく取計かねけるに、乘邑御右筆に紙筆を執らせ、口授して行列を立たりしに、大率其坐にて鹵簿は成けるとなり。英才の敏にして決斷のするどき、此類なりと云傳へり。

■やぶちゃんの呟き

「松平左近將監」「松平乘邑」松平乗邑(のりさと 貞享三(一六八六)年~延享三(一七四六)年)は大名で老中。肥前国唐津藩三代藩主・志摩国鳥羽藩主・伊勢国亀山藩主・山城国淀藩主・下総国佐倉藩初代藩主。官位は従四位下・侍従。唐津藩第二代藩主松平乗春の長男として誕生。元禄三(一六九〇)年に父の死により、家督を相続した。正徳元(一七一一)年には近江国守山に於いて朝鮮通信使の接待を行っている。享保八(一七二三)年、老中となり、下総佐倉に転封となる。以後、足掛け二十年余りに亙って、徳川吉宗の「享保の改革」を推進し、「足高の制」の提言や、勘定奉行の神尾春央(はるひで)とともに年貢の増徴や、大岡忠相らと相談して刑事裁判の判例集「公事方御定書」を制定し、幕府成立依頼の諸法令の集成である「御触書集成」を纏め、「太閤検地」以来の幕府の手による検地の実施などを行った。水野忠之が老中を辞任した後、老中首座となり、後期の「享保の改革」を牽引し、元文二(一七三七)年には勝手掛(かってがかり)老中となり、「金穀の出納を掌るべき旨仰をかうぶ」ることになった乗邑は、農財政の全てをも管掌することとなった。「大岡忠相日記」によれば、関東地方(じかた)御用掛の職を務めていた大岡忠相でさえも、「月番の無構(かまいなく)」(老中の月番に関わりなく)農政に関することは、全て、乗邑に報告するよう指示されている。当時は、吉宗が御側(おそば)御用取次を取次として老中合議制を骨抜きにして将軍専制の政治を行っていた。「大岡日記」によると、元文三(一七三八)年に大岡忠相配下の上坂安左衛門代官所による栗の植林を三ヶ年に渡って実施する件について、七月末日に、御用御側取次の加納久通より、許可が出たため、大岡が八月十日に勝手掛老中の乗邑に出費の決裁を求めたが、乗邑は「聞いていないので書類は受け取れない」と処理を、一時、断っている。この対応は例外的であり、当時は御側御用取次が実務官僚の奉行などと直接調整を行って政策を決定していたため、この事例は乗邑による、老中軽視の政治に対するささやかな抵抗と見られている。将軍後継問題に関しては、吉宗の次男の田安宗武を将軍に擁立しようとしていたが、長男の家重が後継と決定されたため、その経緯により、家重から疎んじられるようになり、延享二(一七四五)年に家重の信任の厚かった酒井忠恭(ただずみ)が老中に就くと、忠恭が老中首座とされ、次席に外された。同年十一月に家重が第九代将軍に就任すると、直後に老中を解任され、加増一万石も没収となり、隠居を命ぜられてしまった。次男乗祐への家督相続は許されたが、間もなく、出羽山形に転封を命ぜられた(以上はウィキの「松平乗邑」に拠った)。

「御請」「おんうけ」と読んでおく。

「加判」ここは幕府老中のこと。

「筆末」末席。

「德廟」吉宗の諡号。有徳院。

「年來」「としごろ」。

「久しく中絕せしことなれば」サイト「日本文化の入り口マガジン 和樂webのこちらの

Dyson 尚子氏の記事によれば、第四代将軍家綱を最後に日光東照宮への将軍の参拝は長く途絶えていたとある。家光の時に「日光社参」は公的行事へと格上げされており、しかも家光は実に生涯に亙って十回(九回とする説他もある)もそれを行って訪問先も増えていったという。それまでは二年に一度の割合であったのを増やした上、諸大名らも随行させた。ところが、家光のその権現様への執着が裏目に出て、参拝の規模が拡大されたために、費用の支出が半端ないものに膨れ上がってしまったのであった。そのため、逆に「日光社参」の実現が困難となり、それでも、家綱は二度、「日光社参」を執行したが、第五代将軍綱吉・第六代将軍家宣に至っては、計画だけ立ち上がったものの、幕府財政上から、すぐに頓挫した。それを実に六十五年振りに復活させたのが第八代将軍吉宗であった。享保一二(一七二七)年七月、吉宗の将軍就任から既に十一年が経過していた。そんな折り、突然、吉宗は、来年に「日光社参」を行うことを宣言し、準備に掛からせたのであった。「享保の改革」は当時の破産寸前にあった幕府財政の立て直しにあった。また、一方で、初心に帰る「諸事権現様 定め通り」という復古宣言のもとに改革が行われたのでもあった。さすれば、吉宗の「日光社参」への意欲は、家光とほぼ同じか、それ以上のものだったのかも知れない。しかし、いざ、行ってみたところが、質素倹約はどこへやらで、吉宗の「日光社参」は仰々しい大層なものとなってしまう。『当日の参加者は、譜代大名と旗本らで約』十三万三千人にも達し、『荷物を運ぶなどの仕事を行う「人足(にんそく)」が』約二十二万八千人で、合わせて実に計三十六万人にも及んだ。『人が人なら、馬の数も』もの凄く、三十二万六千頭の『馬が集められたという』。『いやいや。もっと大変なのは、参加せざるを得ない武士たちだろう。家格に応じて、付き従う家臣や武具の数が定められていたからだ。もちろん、用意するのは自腹。これを受けて賃金や物価が暴騰し、幕府からは値段の据え置きを命じる法令も出される有様。これ以外にも、街道や宿場の整備方法など、ありとあらゆる法令が乱発。これらは総称して「社参法度(しゃさんはっと)」と呼ばれている』。他に『武士以外にも涙をのんだ人たちが』いた。『ちょうど』、『農繫期と重なって困り果てたのが、農民の方々』で、『大名行列が滞りなく行われるようにと、大事な時期に街道の整備などに人手を割かれたのである。たった』一『回の通行のために、道をならして砂を敷く。街路樹は枝を切って見栄えよく。さらには、街道沿いの家屋などには修繕がなされたという。当日は』十間(約十八メートル)ごとに、『火事に備えて手桶が置かれたのだ』そうである。約十三万人の移動は想像するだに、眩暈がする。『「子(ね)の刻」、つまり午前』零『時に先頭の秋元喬房(あきもとたかふさ)が出立。そこから次々と、大名や旗本の部隊が続く。ようやく』『吉宗が、約』二千『人の親衛隊と共に城を出たのが「卯(う)の刻」。午前』六『時であ』った。さても『最後尾は松平輝貞(まつだいらてるさだ)。時刻は「巳(み)の刻」、つまり午前』十『時』で『出発するだけで』十『時間も要している』。『無事に城を出た一行は、その道中を』四『日間かけて進んでいく。なお、日光東照宮までのルートはというと』、第二『代秀忠が通ったのと同じもので』、『江戸日本橋を出て、本郷追分(ほんごうおいわけ、東京都)で、中山道(なかせんどう)と分かれる。岩淵(いわぶち、東京都)から川口(埼玉県川口市)、鳩ヶ谷(はとがや、同市)、大門(だいもん、埼玉県さいたま市)と進み、岩槻城(いわつきじょう、同市)で』一『泊。幸手(さって、埼玉県幸手市)で日光街道に合流する。ここまでが「日光御成道(にっこうおなりみち)」と呼ばれる「日光社参」用のルートである。全長約』十二里三十町(約四十八キロメートル)の道のりであった。『その後、栗橋(くりはし、埼玉県久喜市)から利根川を渡って中田(茨城県古河市)へ。北上して古河城(こがじょう、同市)、宇都宮城(うつのみやじょう、栃木県宇都宮市)でそれぞれ』一『泊して、日光東照宮へ向かう。こうして』四『日目に、ようやく家康の神廟へと到着』した。『もちろん、到着後も気を抜けない。将軍が到着したらしたで、警護もやはり大変である。滞在はたったの』二『日間のみだが、領内の出入口は武士で固められ、午後』六『時半を過ぎると』、『閉門。領内の巡回のみならず、万が一のために、日光へと繋がるあらゆる主要道路が封鎖』された。『それだけではない。近くの宿場には大名や旗本が陣を置き、徳川御三家も約』十二キロメートル先に『本陣を置くほどの厳戒態勢だった』。『ただ』、『吉宗からすれば、周囲の苦労は別世界だったようで』、『日光に到着したその翌日が、ちょうど家康の命日である』四月十七日で、『吉宗は、心ゆくまで霊廟に拝礼し、目的を達成して満足げに往路を引き返した』。さて、この時、『吉宗がつぎ込んだ総額はというと』、これ、『ざっと見積もっても、この』一『回の「日光社参」で約』二十『万両以上。一両』七『万円に換算すれば、約』百四十『億円もの金額となる。質素とはほど遠い、絶叫する金額である』。『道中の利根川を渡るところだけで約』二『万両』で凡そ十四『億円』かかっている。これは、『通常なら』、『渡し船で利根川を渡る』ところを、『栗橋』と『中田』の『間に、臨時に橋が設置された』ためであった。『橋というのも「舟橋(ふなばし)」』で、『高瀬舟をズラッと並べて綱で繋ぎ、その上に板を敷くアレである。なんと繋いだ舟の数は』五十一『隻』だったという。『その上、板を何枚も重ねるだけでは足りず。当日は、馬が滑らないように板の上に白砂まで撒かれていたという』。しかも『欄干まであったというから』、『恐れ入る。もちろん、渡っている最中に揺れるなど』、『もってのほか』で、『両岸より太い綱(虎綱、とらつな)で固定された。工期に』四『ヶ月も費やしたのだが、「日光社参」の終了後に解体。なんとも、勿体ない話である』。『一体、ここまでして「日光社参」を行う必要があったのかと』、誰だって疑問に思うはず』で、『質素倹約を奨励していた当時は、どのように捉えられたのか』? 何故、『吉宗自身』、『矛盾と思わなかったのだろうか』? という素朴な疑問が生じる。『これには多くの理由が考えられる』。実は、『吉宗の将軍在位期間は約』三十『年』で、『そのうち、特に積極的な改革を推し進めたのが』、享保七(一七二〇)年から享保一五(一七三〇)年の間』で、『ちょうど』、六十五『年ぶりに「日光社参」を復活させた享保』一三(一七二八)『年は、その真っ只中の年となる』。『未だ途中ではあるが、この時点で既に自身の改革は大成功。だからこそ、莫大な費用がかかる「日光社参」も復活させることができたのだと。そう内外にアピールしたかったと考えられる』。『加えて、直系の血筋ではない』『吉宗だが、ことのほか、初代家康を尊敬する気持ちは強かったとも』言われる。『祥月命日の前日に悪夢を見ては申し訳ないと、一睡もしなかったという逸話もあるほどだ』。『そんな純粋な気持ちも、もちろんあってのことだが』、『吉宗の改革の目標は、初代家康の治世の回帰』に『加えて、家康の絶対的な権威を、直系ではない自分にそのまま引き継ぐ』という、『そんな狙いもあったのではないだろうか。家康を崇めることが、ダイレクトに自分に返ってくる。そんなしたたかなところも全く』なかった『とは言い切れない』。『しかし、それにしても』、『莫大な費用をかけ』過ぎで、『これらの理由で、そこまでの費用対効果は見込めないだろう』と、誰もがやはり感じる。『じつは、他にも理由がある。それ』は、『「日光社参」は、徳川勢力を総動員した軍事演習だったという』事実である。『江戸時代、諸藩は軍事行動が一切できず』、『軍事関係は、将軍が一手に掌握していた』。『そのため、軍事行動がなされる場合には、承認許可となる将軍の「黒印状(こくいんじょう)」が必要であった』。『今回の「日光社参」』では、『なんと、この黒印状』を以って『参加命令が出ているのである。言い換えれば、これは軍事行動にあたる』ということなのである。『そして、参加したのは、外様大名』『以外』であった。『つまり、旗本、譜代大名の徳川勢力を集結させて行われたのであ』った。『特に、戦国時代とは異なり、世は平和の時代』で、大袈裟に言えば、『馬に乗れない者や』、『草鞋』『の結び方さえ知らないという現代っ子の武士たちも』いたやも知れぬ。『平時はよいが、いざという時の避難訓練と同様』、『吉宗も軍事演習が必要だと判断したのだろう』。「徳川実紀」を見ると、『この「日光社参」に備えて、江戸城吹上(ふきあげ)にて行軍の予行演習がなされたとの記述がある。「日光社参」という名目で、戦とは無縁の生活に慣れ切った者たちに、実践とはいかないまでも、大規模な軍事演習を行ったのであ』った。こう見ると、『「日光社参」は、リスクマネジメントの』一『つといえるのかもしれない。武士』一人一人に『危機意識を持たせつつ、徳川勢力の団結を図る。同時に、これは、外様大名らの謀反の牽制となる示威行動でもあった』。『一石三鳥ほどの効果となれば、莫大な費用をかけても、お釣りがくる。頭脳明晰な』『吉宗なら、そんな計算をサクッとしたに違いない』。『最後に』。『この「日光社参」で、一番得をしたのは誰かというと』、『まさかの「罪人」』であった。『恩赦により』、実に百三十九『人の罪人が放免されたといわれている』。『武士も農民も』『準備や当日の社参で、てんてこまい。にもかかわらず、罪人が得をしたとは』、『何とも皮肉な話で』は『ある』。『皮肉といえば』、『神廟の中から、子孫の参拝を見ていた家康も』、『簡素な造り、簡素な参拝はどこへやら』『……』『きっと、目に涙をためて、言葉を失ったに違いない』と結んでおられる。Dyson 尚子氏の文章は実に楽しく読める。ちゃんと引用元でお読み戴きたい。

「御筋合」事の運びよう。

「左樣有らる當き御こと」「さやうあらるべきおんこと」。

「思召立たれ」「おぼしめちたたれ」て、それは。

「差支は有間敷御答」「さしつかへはあるまじきおんこたへ」

「政府」老中伺候の間。

「達けり」「たつしけり」。報告した。

「取計かねけるに」「とりはかりかねけるに」。具体的な行軍形態を計画しかねていたところが。

「立たりしに」「たてたりしに」。

「大率」「おほむね」。「槪ね」に同じい。

「鹵簿」「ろぼ」。儀仗 を備えた行幸・行啓や貴人の行列。

「成ける」「なりける」。口述筆記で行軍詳細は完成したのである。凄い!

芥川龍之介書簡抄21 / 大正二(一九一三)年書簡より(八) 十二月三十日附山本喜譽司宛書簡

 

大正二(一九一三)年十二月三十日・山本喜譽司宛(封筒欠)

 

あがらうあがらうと思つてゐるうちに今日になつてしまひました あしたは君が忙しいし年内には御目にかゝる事もあるまいかと思ひます

廿日に休みになつてから始終人が來るのです どうかすると二三人一緖になつて狹いうちの事ですから隨分よはりました それに御歲暮まはりを一部僕がうけあつたものですから本も碌によめずこんな忙しい暮をした事はありません

今日は朝から澁谷の方迄行つてそれから本所へまはり貸したまゝになつてゐた本をとつてあるきました 澁谷の霜どけには驚きましたが思ひもよらない小さな借家に思ひもよらない人の標札を見たのには更に驚きました 小さな竹垣に椿がさいてゐたのも覺えてゐる 小間使と二人で伊豆へ馳落ち[やぶちゃん注:「かけおち」。]をして其處に勘當同樣になつたまゝ暮してゐるときいたのに思ひがけず其人は今東京の郊外にかうしてわびしく住んでゐる。向ふが世をしのび人をさける人でさへなくばたづねたいと思ひましたがさうした人にあふ氣の毒さを思ふと氣もすゝまなくなります

君がこの人の名をしり人をしつてゐたら面白いのだけれど

 

伊藤のうちへもゆきました 四葉會の雜誌と云ふものを見て來ました あゝして太平に暮してゆかれる伊藤は羨しい

あんな心もちをなくなしてからもう幾年たつかしら

 

お正月にはひとりで三浦半島をあるかうかと思ひます かと思ふだけでまだはつきりきまつたわけではありません

「佇みて」と「咋日まで」とをもつて暖い海べをあるくのもいゝでせう

 

こないだ平塚が來てとまりました 伊豆へ旅行したいつて云つてましたがどうしましたかしら

君の話しが出ました 平塚は妬しい[やぶちゃん注:「ねたましい」。]位君の事を思つてゐるんです 自分のもののやうに君の事を云ふときは少しにくい氣がしていけません 僕が馬鹿だからこんな事を考へるのかもしれないけれど

 

廿二才がくれる 暮れる

大學へ行つてから新しい友だちは一人も出來ない 淋しいけれど自由です 自由だけれどものたりない事もある

何しろ二十二才が暮れる えらくなりたい ほんとうにえらくなりたい

    三十日夜            龍

   喜 譽 樣 梧下

 

[やぶちゃん注:満二十一の年の暮れにその行き過ぎるを惜しむ書簡。私に当てるなら、大学生活の最後の年末に当たる。私は社会人として神奈川の高校教師になることが決まっていた。龍之介は「大學へ行つてから新しい友だちは一人も出來ない 淋しいけれど自由です 自由だけれどものたりない事もある」「何しろ二十二才が暮れる えらくなりたい ほんとうにえらくなりたい」と記す。この「えらくなりたい ほんとうにえらくなりたい」という告白は私には彼の遺書的遺稿「或舊友へ送る手記」(昭和二(一九二七)年八月四日の雑誌『文藝時報』第四十二号に発表とされるが、死の当日の同年七月二十四日日曜日夜九時、自宅近くの貸席「竹村」で、久米正雄によって報道機関に発表されており、死の翌日の二十五日月曜日の『東京日日新聞』朝刊に掲載されている。リンク先は私の古い電子テクスト)の最後に添えられた以下を直ちに思い出す。

   *

附記。僕はエムペドクレスの傳を讀み、みづから神としたい欲望の如何に古いものかを感じた。僕の手記は意識してゐる限り、みづから神としないものである。いや、みづから大凡下の一人としてゐるものである。君はあの菩提樹の下に「エトナのエムペドクレス」を論じ合つた二十年前を覺えてゐるであらう。僕はあの時代にはみづから神にしたい一人(ひとり)だつた。

   *

「思ひもよらない人の標札」誰かは不詳。

「伊藤」不詳。山本に言っているところからは、三中時代の友人の伊藤和夫か。

「四葉會」不詳。

「お正月にはひとりで三浦半島をあるかうかと思ひます」現行の年譜ではそのような事実はない。代わりに、大正三年一月四日から六日まで、この書簡の相手である山本の一家或いは一族が持っていた鵠沼の別荘に六日まで滞在している。一月二十一日小野八重三郎宛書簡には、『始は三崎へ行かうと思つたが風が强くなつたんでやめた 僕はハンモツクにすら醉ふ人間である』『電話をかけえ山本に別莊はあいているかねときいたらあいていると云ふ答があつた そこで愈々そこへ行く事にした』という顚末が記されてある。

『「佇みて」と「咋日まで」』不詳。識者の御教授を乞う。

「平塚」既出既注。]

譚海 卷之四 同所新島椎の實幷牛角の事

 

○江戸市中にてあきなふ椎の實は、大半伊豆のにい島より來(きた)る也。市中に散在してはさのみに見へざれども、にゐ島[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]より浦賀へ積(つみ)くる船にてみるときは、五斗入百俵百五拾俵ほどづつ一度につみくるなり。にゐ島すべてしゐの大木多し。年寄又は幼少のものの所作にひろひとる事なり。その木は海舶(うみぶね)の櫓(ろ)梶(かぢ)などに伐出(きりいだ)す。遠所にある椎は伐たふしたるまゝにて谷へ積置(つみおき)、それが自然(おのづと)朽(くち)てとしへたるにはしひたけを生ずるを、又取(とり)てあきなふなり。また新島より牛の角をいだす。島(しま)牛おびただしく畜(かひ)てしかも田地なきゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、耕作のやうにたたず、只(ただ)角をとりて漁獵(ぎよらう)の用に沽却(こきやく)するなり。依(より)て新島にて牛狩(うしかり)といふ事をする也。流人(るにん)の壯者(さうしや)を集(あつめ)て牛を驅(かけり)て追つめて、角を打(うち)おとす、牛の痛哭(つうこく)する聲聞(きく)にたえず。しかれども牛の用に立(たた)されば[やぶちゃん注:ママ。]、是非なき事なり。落(おち)たる口に小(ちさ)きしんあり、それも年をふれば長ず。

 

[やぶちゃん注:「同所」というのは、前の「豆州南海無人島の事」の「豆州」(伊豆國)を指す。

「新島」(にいじま)は伊豆諸島を構成する島の一つで、東京から南に約百六十キロメートル、静岡県下田市から南東に三十六キロメートルの位置にある。行政上の所属は東京都新島村。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「椎」本邦産種はブナ目ブナ科シイ属ツブラジイ Castanopsis cuspidata (関東以西に分布。実は球形に近く、以下のスダジイに比べて小さい)・スダジイ Castanopsis sieboldii (シイ属の中では最も北に進出してきた種。成木の大きなものでは樹皮に縦の割れ目を生じる。福島県及び新潟県の佐渡島にまで植生する。果実は細長い。琉球諸島のスダジイを区別して亜種オキナワジイ Castanopsis sieboldii ssp. lutchuensis  とする場合がある。沖縄では伝統的にそれを「イタジイ」の名で用いられてきた。両者が共存する地域では、ツブラジイが内陸に、スダジイが海岸近くに出現することが多い)である。私は特異的に椎の実が好きな人間で、都会でも山中でも即座に見つけることが出来る。個人的にはスダジイのそれを好む。

「五斗」二リットルのペットボトルで四十五本分。

「所作」ここは「仕事・作業」の意。

「しひたけ」椎茸。菌界担子菌門菌蕈(きんじん)綱ハラタケ目キシメジ科(或いはヒラタケ科又はホウライタケ科又はツキヨタケ科ともする)シイタケ属シイタケ Lentinula edodes

「漁獵の用」釣り針や銛の鏃(やじり)或いは錘(おもり)用。

「沽却」売ること。

「しん」「芯」。牛の角は洞角(どうかく)・ホーン(英語:Horn)と呼ばれる。ウシ科(哺乳綱鯨偶蹄目ウシ亜目真反芻下目ウシ科 Bovidae)とプロングホーン(英語:pronghorn)科(真反芻下目キリン上科プロングホーン科 Antilocapridae)の角である。生きた骨の核をタンパク質とケラチン(角鞘)が覆っている。角鞘のみに着眼すると、「空洞」に見えるので、かく呼ばれる(ここでは生きた骨の核(かく)の部分を含めて切り落としているので、それを「芯」と呼んでいるのである)。角鞘は皮膚の表皮が強く角質化したもので、発生学的には、洞角は皮下の結合組織(頭皮の下)から発生して、後に前頭骨に融合する。核の骨部はシカ科(鯨偶蹄目反芻亜目シカ科 Cervidae)の角(枝角)のように生え替わることはないが、プロングホーンでは角質部(角鞘)が生え替わる。ウシ科では角質部も生え替わることはない。洞角は通常、湾曲状或いは渦巻状の形をしているが、しばしばリッジ(ridge:稜(りょう))があったり、扁平であったりする。多くの種では、♂♀ともに洞角を持つが、♀のものは小さい。洞角は、生後、すぐに成長し、一生を通じて成長を続ける(角質部が生え替わるプロングホーンを除く)。洞角は殆どの種で一対であるが、二対以上生じる種もあり(例えば四角羚羊(ウシ科ウシ亜科ヨツヅノレイヨウ属ヨツヅノレイヨウ Tetracerus quadricornis )、また、家畜化されたヒツジでは二対以上を持つものがいる(以上はウィキの「洞角」に拠った)。]

只野真葛 むかしばなし (22)

 

○善助樣は、弓にて、淸水(しみず)へ、めしかゝへられし人なり。弓稽古のはじめは、米田新八(よねだしんぱち)といふ弓の師、有しが、其父米田何がしは、眞實に弓好(ゆみずき)にて、ふかく執心こめて有しが、其頃、さし矢、大(おほ)ばやりにて有しを、

「何卒、通し矢の射越《いこし》せん。」

と願へども、其身の骨組(ほねぐみ)、弓術にそなはらぬを、遺恨におもひ、

「男子をまうけて、射させばや。」

と、おもひたち、所々を、ありきて、丈夫の女を見るに、上總の國にて、米俵を兩手に持(もち)、かろがろと、さし上(あげ)し女、有。

 すぐに、こひうけて、妾(めかけ)とし、ほどなく、はらみしかば、

「さてこそ。男子出生(しゆつしやう)うたがひなし。弓は、かれたるが、よき。」

とて、あらきの弓三十丁、あつらへたり。

 ある懇意の人、いふ。

「いかに願(ねがは)れしことなりとて、まづ、出生の男・女をみてこそ、あつらへられめ、餘りはしり過(すぎ)たる仕(し)かたなり。」

と、いさめしに、米田、かしらをふりて、

「いや。是は、たがふまじ。多年の執心、いかでか、むなしかるべきや。今、見られよ。」

と、いひしにたがはず、大の男子、出生なり。

 悅(よろこぶ)こと、かぎりなく、そだて上(あげ)て後(のち)、弓をひかするに、身のたけ六尺にこして、角力《すまふ》とりのごとくなる大兵(たい《ひやう》)にて、十分に引けば、矢づか、伸び過(すぎ)、是も、おもひのまゝならず。

「汝、我(わが)こゝろざしをつぎて、生付(うまれつき)、弓によろしきものを、見たてゝ、弟子となし、とほし矢いさせて、亡㚑(《まふ》れい)に手向(たむけ)よ。」

と、いひて、身まかりし、となり。

 新八は、父が遺言、身にしみて、道行人(みちゆくひと)も、あだに見ず、其(その)うみ付(つき)を、心中にたづねて有しが、ふと、ぢゞ樣と懇意になりて、來(き)かよひしが、善助樣、十か、十一、二の頃とや、遊びて有しを見て、橫手を打(うつ)てよろこび、有しことゞもを語(かたり)つゝ、

「何卒、此御次男、私が弓の弟子に致したし。」

と深切に申せしかば、ぢゞ樣も御悅(およろび)有(あり)て、それより、弓術、まねばせられし人なり。

 さほど、心にかけて尋ねしにて、生(しやう)、弓射(ゆみ《い》)に筋(すぢ)・骨《ほね》そなはりしと見立(みたて)、

「父のこゝろざしをとげん。」

と、おしへたてしこと故、かくべつ、上達のことに有しとぞ。

 父樣幼年の時分、善助樣、高田馬場にて、さし矢けいこ有しを、いつも御覽被ㇾ成しが、

「四、五人ならびて、おなじくいだす矢の、善助樣のは、二、三間、はやく行(ゆき)し。」

と被ㇾ仰し。十八、九、廿ばかりのころ京都へ御のぼり、こゝろ見に千射(せん《い》)を被ㇾ成しが、暫時に御仕舞被ㇾ成しとなり。

 とほらぬ矢は、少々ばかりにて有しが、誠の通し矢は、おびたゞしき物入(ものいり)にて、中々、自力におよばず、千射(せん《い》)ばかりにて、やみしぞ、口惜しき。

 是より、引つゞき、行(ぎやう)なさらんには、天下に名をもふるわる[やぶちゃん注:ママ。]べきに、御運、つたなかりしことは、世上に武藝をはげみしは、ゆうとく院樣御代の故なりしを、京に出入(でいり)三年御いでのうちに、御他界にて、順信院樣御代となり、江戶へ御下り御覽あれば、武藝の「ぶ」の字も、いふ人、なく、亂舞(らんぶ)一めんの代となり、とかくする内、新八も死去、弓いることは、もとより、心におこらぬ心なり。

 廿二、三の若ざかり、あそぶかたが、おもしろく、三味線けいこと變じて、はたと、弓を御すて被ㇾ成しは惜しむべきことなり。

[やぶちゃん注:「善助」真葛の父工藤平助の実父長井基孝の次男。平助は三男。

「淸水」清水徳川家。江戸幕府第九代代将軍家重の次男重好(延享二(一七四五)年~寛政七(一七九五)年)を家祖とする。時制的に初代の彼である。

「米田新八」弓道研究室の松尾牧則氏のサイト「弓道人名一覧」にある読みに従った。そこには「米田新八」の他に、米田新八良(よねだしんぱちろう)・米田新八郎知益(よねだしんぱちろうともえき)・米田新八郎正長(よねだしんぱちろうまさなが)といった面々が載る。柳沢吉保が抱えた弓の名手に『米田新八(後伴内)』がいたらしい。こちらで発見したので言い添えておく。

「通し矢の射越《いこし》」「通し矢」は弓術の一種目。「堂射」(どうしゃ)・「堂前」(どうまえ)などとも称した。京都蓮華王院(三十三間堂)の本堂西側の軒下(長さ約百二十一メートル)を、南から北に矢を射通す競技。幾つかの種目があったが、一昼夜に南端から北端に射通した矢の数を競う「大矢数」が有名。江戸前期に最盛期となり、有力藩の後ろ盾のもと、多くの射手が挑戦して記録更新が相次いだ。しかし中期以降は大規模な「通し矢」競技は行われなくなった。京都三十三間堂の他、「通し矢」用に作られた江戸三十三間堂や東大寺大仏殿回廊でも行われた。通し矢用に工夫された技術・用具は現代の弓道にも影響を与えている、とウィキの「通し矢」にあった。

「かれたるが、よき」エイジングを経たものがいいということであろう。

「あらきの弓」「荒木の弓」。荒木(切り出したままで皮を剝していない材木)で作った弓。丸木弓。また、強弓をも言う。

「六尺にこして」一メートル八十二センチメートルを有に越して。

「矢づか」「矢束」。矢の長さ。ここは、彼の腕の長さの方が長く、矢の長さが足りなくなってしまうことを言っているようである。

「亡㚑(《まふ》れい)」「㚑」は「靈」の略字。

「道行人も、あだに見ず」普通に外を歩いている折りにも、通り過ぎる人々の骨柄(こつがら)を品定めし。

「うみ付」生まれつきの弓道家となれる体軀。

「高田馬場」現在のこの「茶屋町通り」と「早稲田通り」に挟まれた細長い一帯(グーグル・マップ・データ。「古地図 with MapFan」で正確に確認出来る)には、寛永一三(一六三六)年に第三代将軍徳川家光により、旗本達の馬術の訓練や流鏑馬などのための馬場が造営された。なお、先般、必要があって調べてみたが、ここは明治を向えるまでは、一応、馬場としてあったが、江戸中期以降は、動物の死骸や埋葬あてのない人骨を捨てる場所として知られていたということを知った。

「さし矢」「差し矢」。近距離間での弓射法で、直線的に矢数を射ること。

「二、三間」三・六四~五・四五メートル。

「ゆうとく院樣御代」徳川吉宗(貞享元(一六八四)年~寛延四年六月二十日(一七五一年七月十二日))の諡号「有德院」。戒名は「有德殿贈正一位大相國」。江戸幕府第八代将軍(在職は享保元(一七一六)年から延享二(一七四五)年九月二十五日:引退。但し、自分が死去するまで大御所として実権を握り続けたから、ここはそこまでと考えてよい。死因は再発性脳卒中と推定されている)。

「京に出入三年御いでのうちに」善助は吉宗逝去の前後三年ほど、江戸の清水家と京都を頻繁に行き来していたらしい。

「順信院樣御代」「惇信院」の誤字。吉宗長男で第九代徳川家重(正徳元(一七一二)年~宝暦一一(一七六一)年七月十三日:在任:延享二(一七四五)年~宝暦一〇(一七六〇)年:彼は死去する前年の五月十三日に長男家治に将軍職を譲って大御所を称した)の諡号。戒名は「惇信院殿仙蓮社高譽泰雲大居士」。死因は尿毒症と推定されている。

「亂舞」原義は「入り乱れて踊りまわること・酒宴の席などで楽器にあわせて歌い踊ることで「らっぷ」とも読む。狭義には特に「『五節(ごせち)の帳台の試(こころ)み』(五節第一日の丑の日に天皇が直衣(のうし)・指貫(さしぬき)を着て、常寧殿又は官庁の大師の局(つぼね)に出で、舞姫の下稽古を観覧した儀式)や『寅の日の淵酔(えんずい)』(後に「えんすい」とも読んだ。平安以降、宮中の清涼殿「殿上の間」に殿上人を召して催した酒宴。参会者は朗詠・今様などを歌い、歌舞を楽しんだ。正月三が日の中の吉日又は新嘗祭などの後に行われた。「宴水」)に参加した殿上人などが「びんたたら」などという歌を歌って舞ったこと」を指すが、ここは、そのような乱れたどんちゃん騒ぎを呈することから転じて、天下泰平の御世が続き、将軍も一向に尚武の思い入れがなくなって、江戸八百八町がすっかりたるみ切って、「人が、何かにつけて、すぐに過度に喜んだり、興奮したりして跳ね踊ること」に喩えたものであろう。]

大和本草附錄巻之二 魚類 斥鯊魚(かたはぜ) (トビハゼ)

 

キスゴニモ、ハエニモ似タリギスゴヨリ小ニシテ少扁シ

鯊魚ノ類也目ハ口上所近シ江戶ノ虎キスゴニ似タリ

○やぶちゃんの書き下し文

「きすご」にも、「はえ」にも、似たり。「ぎすご」より、小にして、少し、扁(ひら)し。鯊魚〔(はぜ)〕の類なり。目は口〔の〕上〔の〕所に近し。江戶の「虎きすご」に似たり。

[やぶちゃん注:遂に安心して記載出来る「魚類」に入る。さて、「斥鯊魚」の「斥」(音「セキ」)は「退(の)ける。押し退ける」の意があり(他に「斥候」のように「窺う・様子を探る」の意や、「指す・指さす」の意もある)、これは干潟で跳躍するさまを言うのであろうと私は踏んだ。或いは「かた」の訓は「片」の音との混同かと思ったが、実は当て訓で、「潟」に通じ、ハゼ類の棲息フィールドを指すのではないかとも感じた。而して、どうも「跳び鯊」、

条鰭綱スズキ目ハゼ亜目ハゼ科オキスデルシス亜科 Oxudercinae トビハゼ属トビハゼ Periophthalmus modestus

の異名らしい感じがしてきたのだ。調べてみると、ウィキの「トビハゼ」の「別名」の項に、『カタハゼ、ムツゴロ(熊本)』とあったので、確定! 以下、そこから引用する。『干潟の泥上を這い回る魚として有名である』。『トビハゼの成体の体長は10 cmほど。体は灰褐色で小さな白点と大きな黒点のまだら模様がある。眼球は頭頂部に突き出て左右がほぼ接し、平坦な干潟を見渡すのに適応している。胸鰭のつけ根には筋肉が発達する。同じく干潟の上を這い回る魚に』同科ムツゴロウ属『ムツゴロウ Boleophthalmus pectinirostris もいるが、トビハゼの体長はムツゴロウの半分くらいである。また』、『各ひれの大きさも体に対して小さい』。『汽水域の泥干潟に生息する。春から秋にかけて干潟上で活動するが、冬は巣穴でじっとしている。干潟上では胸鰭で這う他に尾鰭を使ったジャンプでも移動する。近づくとカエルのような連続ジャンプで素早く逃げ回るので、捕えるのは意外と難しい。食性は肉食性で、干潟上で甲殻類や多毛類などを捕食する。潮が満ちてくると、水切りのように水上をピョンピョンと連続ジャンプして水際の陸地まで逃げてくる習性があり、和名はこれに由来する』。『通常の魚類は鰓(えら)呼吸を行い、代謝によって発生するアンモニアを水中へ放出する。このため』、『空気中では呼吸ができない上に』、『アンモニアが体内に蓄積され』、『脳障害などを起こす。しかし、トビハゼは皮膚呼吸の能力が高い上に』、『アンモニアをアミノ酸に変える能力があり、空気中での活動が可能である』(☜これは凄い! 侮ってはいけないな!)。『産卵期は6-8月で、オスは口から泥を吐いて泥中に巣穴を掘り縄張りをつくり、メスを呼び込んで産卵させる』。『孵化した仔魚は海中に泳ぎ出て水中で浮遊生活をし、全長15 mmほどに成長すると干潟へ定着する。寿命は1-3年』。『生後1年で全長5 cmとなるが、オスの大部分はここで繁殖に参加し、繁殖後は死んでしまう。一方、メスは生後2年・全長7-9 cmまで成長し』、『繁殖に参加する』。『ピョンピョンハゼ(高知)、ネコムツ(九州地方)、カッチャン、カッチャムツ、カッタイムツ(佐賀)、カタハゼ、ムツゴロ(熊本)など。南西諸島では、本種と近縁の別種ミナミトビハゼとを区別せず、どちらもトントンミーと呼ぶ』。『標準和名「トビハゼ」は東京および和歌山での呼び名である。泥の上を跳ね回ることから、英語では"mudskipper"(マッドスキッパー)と呼ばれる。日本でも観賞魚として流通する際はマッドスキッパーと呼ばれることが多い』。『日本・朝鮮半島・中国・台湾に分布し、日本では東京湾から沖縄本島まで各地の泥干潟で見られる。分布の北限は東京湾の江戸川放水路河口や谷津干潟である』。『千葉県の生息域では、袋詰め捨て石の試験施工によるトビハゼへの影響調査が行われている』。『市川市の人工干潟で分布が確認されている』。『多摩川の汽水域で生息が確認調査されている』。『名古屋港の藤前干潟に生息する』。『大阪府内での生息状況は不明』。『なお』、『ムツゴロウは日本では有明海・八代海だけに分布するのでこの点でも区別できる』。『人や地域によっては食用にされる。かつて諫早湾の南岸地方では夜に眠っているトビハゼを灯火で脅かし、網に追い込んで漁獲し、煮干にして素麺の出汁などにしていた』とある。東京湾では、干潟がなくなる以前は、ハゼ釣りが大盛況で、小学校時代に愛読した魚貝図鑑には、海岸をびっちりと埋めた(トビハゼではない)釣り人の写真が載っていたのを思い出す。

「きすご」スズキ目スズキ亜目キス(鱚)科 Sillaginidae のキス類、或いは、西日本ではシロギス Sillago japonica を指すことが多いので、釣って面白く、味も最もいいそれに限定してもよい。

「はえ」「はや」のこと。多様な淡水魚を指す。「大和本草卷之十三 魚之上 ※(「※」=「魚」+「夏」)(ハエ) (ハヤ)」を見られたい。但し、その孰れにもトビハゼは似ていないので不審ではある。或いは、益軒の「はや」のイメージの中には、九州に多い、淡水から汽水域に広く分布する(されば、上記の「ハヤ」類とフィールドの一部が重なる)スズキ目ハゼ亜目ハゼ科ゴビオネルス亜科ヨシノボリ属 Rhinogobius が含まれていた可能性が高いように思われる。それなら、似ている。

「ぎすご」「きすご」に同じ「キス」の異名。

「鯊魚」基本的にはハゼ亜目 Gobioidei に属する魚の総称。

「目は口〔の〕上〔の〕所に近し」これはトビハゼの眼が上に突き出て、通常の魚類の中では目立つことと親和性のある表現と言える。

「虎きすご」スズキ目ワニギス亜目トラギス科トラギス属トラギス Parapercis pulchella であるが、う~ん、口と目玉のデカさは「かも知れん」とは思うものの、総体、ちょっと似てるとは言えない気が私はするがなぁ。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のトラギスのページの写真で、ご自身で判断されたい。]

大和本草附錄巻之二 川鼠(かはねずみ) (日本固有種哺乳綱真無盲腸目トガリネズミ科カワネズミ族カワネズミ属カワネズミ)

 

川鼠 形大抵 ウゴロモチニ似テ常ノ鼠ヨリ扁シ尾

ハ鼠ヨリ小シ四足短ク水カキアリ能水底ヲヲヨ

グ事魚ノゴトクハヤシ常ニ水中岩ノ下岸ノ下ニスム

夜水中ヲ泳イデ小魚ヲ喰フ此物西州ニ亦有之

○やぶちゃんの書き下し文

川鼠 形、大抵、「うごろもち」に似て、常の鼠より扁(ひら)し。尾は、鼠より小さし。四足、短く、「水かき」あり。能く、水底を、をよぐ[やぶちゃん注:ママ。]事、魚のごとく、はやし。常に水中・岩の下・岸の下に、すむ。夜、水中を泳いで、小魚を喰〔(くら)〕ふ。此の物、西州に亦、之れ、有り。

[やぶちゃん注:日本(本州・九州)固有種である哺乳綱真無盲腸目トガリネズミ科カワネズミ族カワネズミ属カワネズミ Chimarrogale platycephalus であるが、私はフィールドで見たことがない。宮崎学氏の「森の動物日記」の「カワネズミって知ってかい?」が、素晴らしい生態写真(一九八二年に中央アルプスの山麓で撮影された「けもの道」でイタチがカワネズミを捕まえて歩いて行く世界初の貴重な写真を含む)があって必見! ウィキの「カワネズミ」によれば、『四国・隠岐では未確認情報はあるが、2000 - 2002年に行われた捕獲調査および聞き込み調査でも発見・確認されず』、『分布しないと考えられている』。『頭胴長(体長)11.1 - 14.1センチメートル』、『尾長8.2 - 11.7センチメートル』、『体重25 - 63グラム』。『九州の個体群は』、『より小型』という(益軒の見たのはそれだ!)。『尾は長く、下面には長い毛がある』。『夏毛では背面が黒褐色、冬毛では灰色が強くなる』。『臀部には先端が銀色の刺毛が多くなる』。『腹面の体毛は淡褐色で』、『先端は褐色』を呈する。『頭骨は横から見ると中央部(眼上部)が凹む』。『耳介は小型で、体毛の中に隠れている』。『後足長23 - 29.4ミリメートル』。『指趾の側面に扁平な剛毛があり、水かきの役割をする』(益軒先生はちゃんと観察している)。『水中では体毛の間に気泡がたまり、この空気の層が光を反射して銀色に光るように見えるため』、『ギンネズミ(銀鼠)と呼ぶこともある』。『種小名をplatycephalaとする文献もあったが、原記載に従い』、『platycephalusとするべきとする説もある』。『山間部にある倒木や岩が多い渓流周辺に生息する』。『捕獲調査から』、『個体ごとに縄張りを形成することが示唆されている』。『周日行性だが』、『夜間の方がより活動するという報告もある』。『岸にある乾燥した石の間や下、地中に枯葉を集めて巣を作る』。『魚類や水生昆虫、ヒル、サワガニ、カワニナなどを食べる』。『2000 - 2002年に本州・九州の86か所で採集された139頭の胃の内容物調査では水生昆虫が98.6 %(カゲロウ類の幼虫84.2 %、カワゲラ類の幼虫37.4 %)・次いで』、『魚類が10.6 %含まれ』、『ミミズ・ヒル・ハリガネムシ(各4例ずつ)、サンショウウオ類(3例)も少数が発見された例もある』。『水生昆虫に比べて魚類の出現頻度は低いものの1回の捕食で得られる量は多いことから』、『重要な食物だと考えられている』。『山梨県の直接観察や糞の内容物調査では、ブユ・ユスリカ類の幼虫からカエル・魚類など様々な大きさの獲物をも食べ、糞には陸生無脊椎動物のクモも平均30 %含まれ』、『冬季で増加傾向があったとする報告例もある』。『主に2 - 6月に1 - 6頭の幼獣を産む』。『10 - 12月に出産することもある』。『3年以上生存した例も確認されている』。『ダム・堤防建設や河川改修、農薬や除草剤などによる水質汚染などにより生息数は減少している』。『生息に適した環境でも確認されないこともあり、そうした場所では周囲で土木工事が行われているか過去に行われた傾向がある』。『そのため』、『土木工事によって生じた濁流により、獲物となる水生昆虫が壊滅したことが原因と推定されている』。『近年行われた調査では、本州は153か所中80か所(約52 %)で生息が確認されたが、九州では24か所中6か所(約25 %)でのみ生息が確認された』。『1950年代には捕獲例のあった英彦山』(ひこさん)『地区では3か所で調査を行ったが』、『生息が確認されなかったなど、分布の分断化・減少傾向がより強いと推定されている』とある。逢ってみたいなあ♡ 因みに、これも見たことがないのだが、北海道に棲息する哺乳綱 Eulipotyphla 目トガリネズミ科トガリネズミ族トガリネズミ属トウキョウトガリネズミ Sorex minutissimus hawkeri てえのもいるんだねぇ! 知らんかった! サイト「Private Zoo Garden」のこちらによれば、『トウキョウトガリネズミは、ロシアの北部タイガ地域やヨーロッパ北部(フィンランド、スウェーデン北部、ノルウェーの一部など)、サハリンや北海道などに分布しているチビトガリネズミ(Sorex minutissimus / Eurasian least shrew)の亜種で、「ネズミ」と付いているが、モグラなどと同じ食虫類に属している』。『また、「トウキョウ」とも名前についているが、東京を含め、本州には生息していない』。『これは、1903年』(明治三十六年)『に新種として発見された時(発見者はR. M. Hawkerとされる)、標本ラベルに Yezo(蝦夷)と書くべきところを Yedo(江戸)と誤記してしまったことに基づくと言われている』(★☜★ガチョーンだね!?!)『トウキョウトガリネズミは世界最小の哺乳類のひとつで、北海道北部の豊富町や幌延町、猿払村、東部の浜中町や標茶町、標津町、釧路町、白糠町、根室町、鹿追町などに分布している』。『体は指先ほどの大きさで、ネズミの中ではもっとも小さいカヤネズミ』(哺乳綱ネズミ目ネズミ科カヤネズミ属カヤネズミ Micromys minutus )『に比べてもかなり小さく、コビトジャコウネズミ(Etruscan Shrew)』(トガリネズミ科ジャコウネズミ属コビトジャコウネズミ Suncus etruscus :南アジア・南ヨーロッパの森林や低木の茂みに棲息し、昆虫を主食とする種)『に次いで体が小さいと言われている』。『体つきはネズミに似ていて、吻は長く突き出ている』。『体毛は、背側が褐色や暗褐色で、腹側は灰色や褐色を帯びた灰色のような色をしているが、尾は細長く、ほとんど裸出している』。『ササや低木がまばらに生えている草原や草地などに生息しているが、自然林や湿原、カラマツの植林地などにも生息している』。『また、主に平野部の草地や低木林で確認されていることから、人里に近いところに多く生息しているのではないかとも考えられている』。『自然下での詳しい生態などは分かっていないが、寒冷地の腐植層などの土壌で生活し、冬の厳寒期でも冬眠しないことが知られている』。『昼夜共に活動し、コオロギなどの昆虫類やクモ類、ミミズなどを食べるが、時々10~50分程度の睡眠をとり、採食と休息を繰り返す生活をしていると考えられている』。『体が小さいため、非常に高い代謝率をもっていて、飼育下ではおよそ30分ごとに採食と休息を繰り返すと言われていて、一日に体重の3~4倍の餌を食べるとも言われている』。『詳しい繁殖の様子や寿命も分かっていないが、自然下での寿命は1年程度、飼育下では2年程度と言われている』。『このほか、トウキョウトガリネズミには、哺乳類や猛禽類、ヘビなどの爬虫類など、多くの外敵が考えられるが、生息数は安定していると言われている』。『しかし、体が小さく、見つけるのが難しいこともあり、詳しい生息数なども分かっていない』。『また、分布域も局所的で、確認例が少ないこともあり、環境省では絶滅危惧種(VU)として指定している』とあった。この子にも逢いたいなあ♡

「うごろもち」モグラ(哺乳綱 Eulipotyphla 目モグラ科 Talpidae)のモグラ類の古称。

「扁(ひら)し」平たい。]

大和本草附錄巻之二 (信濃国犀川に棲む水妖獣「犀」の記載)

 

賴朝ノ時信濃國犀川ニ犀スム由ヲ聞給ヒ泉小次

郎親衡ヲ召テ取ラシム親衡刀ヲヌキ持テ

水ニ入切コロス親衡ハ朝比奈三郎ニヒトシ

キ大力ナリ

○やぶちゃんの書き下し文

賴朝(よりとも)の時、信濃の國犀川(さいがは)に犀すむ由を聞き給ひ、泉小次郎親衡(ちかひら)を召して、取らしむ。親衡、刀(かたな)をぬき持ちて、水に入り、切りころす。親衡は朝比奈三郎にひとしき大力〔(だいりき)〕なり。

[やぶちゃん注:これは底本の8コマ目に出現し、標題がないものである。信濃国犀川に棲むとする幻想獣。

「賴朝ノ時」彼の生年は久安三年(一一四七)四月八日で、没したのは、「吾妻鏡」には当該年前後に欠損があり、リアル・タイムの記事ではなく、十二年も経過した後の相模橋供養での回想後出しで、建暦二(一二一二)年二月二十八日の条に、頼朝は同じ橋の新造供養の帰りに落馬し、程なく薨去した、と記す。これは同時代の記録・日記などから、建久一〇(一一九九)年一月十三日(ユリウス暦二月九日)で、ほぼ確定されている。実際の死因は不明である。脳卒中などが現実的には疑われる。

「信濃國犀川」信濃川水系で千曲川に合流する。ここ(グーグル・マップ・データ)。名前の「犀」は複雑な起原を持つ。まず、伝承上は、信濃国、現在の長野県内に伝わる二種の「小泉小太郎」伝承に基づくもので、一つは、長野県上田地域に伝わるもので、人間の父親と大蛇の母親との間に産まれた少年「小太郎」の話、今一つが「犀」に関わる、松本や北アルプス地域に伝わる「泉小太郎」の話で、こちらは、小太郎が自らの母親であった龍とともに松本盆地を治水・開拓する物語となっている。但し、この二つの伝説は同源と考えられている。ウィキの「小泉小太郎伝説」によれば、後者は、「信府統記」の要約では、『景行天皇』十二『年』(西暦機械換算では紀元御後八十二年)『まで、松本のあたりは山々から流れてくる水を湛える湖であった。その湖には犀竜』(★☜★:則ち、言わずもがなであるが、実在するサイ(哺乳綱奇蹄目有角亜目 Rhinocerotoidea 上科サイ科サイ属(タイプ属)Rhinoceros:博物誌は私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 犀(さい) (サイ)」を参照されたい)で、現ではなく、角を持った龍を指して「犀」と呼称しているのが原型である。この龍の種別は中国由来で角のある龍を「虬」(きゅう)と呼び、角のない龍を「螭」(ち)と呼ぶ。後者は本邦では「あまりょう」とも呼ぶ)『が住んでおり、東の高梨の池に住む白竜王との間に一人の子供をもうけた。名前を日光泉小太郎という。しかし小太郎の母である犀竜は、自身の姿を恥じて湖の中に隠れてしまう』。『筑摩郡中山の産ヶ坂で生まれ、放光寺で成人した小太郎は母の行方を捜し、尾入沢で再会を果たした。そこで犀竜は自身が建御名方神の化身であり、子孫の繁栄を願って顕現したことを明かす。そして、湖の水を流して平地とし、人が住める里にしようと告げた。小太郎は犀竜に乗って山清路の巨岩や久米路橋の岩山を突き破り、日本海へ至る川筋を作った』という話である。『大昔に山清路を人の手で開削して松本盆地を排水、開拓したとする』「仁科濫觴記」の『記述を根拠に、これを伝説の由来とする説がある』。『「泉小太郎」の名も、その功労者である「白水光郎」(あまひかるこ)の名が書き誤られたもの(「白」・「水」の』二『文字を「泉」の』一『文字に、「光」の』一『文字を「小」・「太」の』二『文字にといった具合に)であるという』とある。則ち、ここで泉親衡に退治された「犀」とは、本来、神聖なる四神の一つであった「龍」の、その一種であった「犀龍」が、「犀」という邪悪な水棲妖獣に分離・零落したものなのである。或いは、馴染みがない方も多いかと思われるが、本邦の水棲幻獣としての「犀」は必ずしもレアではない。ここに出た信濃の犀は、恐らくその中でも最もメジャーな存在とさえ言える。例えば、私の「柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(21) 「川牛」(1)」を見られたい。怪奇談では、「佐渡怪談藻鹽草 小川村の牛犀と戰ふ事」に牛と戰う妖獣「犀」が佐渡ヶ島に出現する。何故、見たこともない「犀」が江戸以前に本邦で妖獣として語られるのかと言えば、それはもう、偏えに漢方の万能解毒剤とされた「犀角」の中国からの伝来によるものである。例えば、「金玉ねぢぶくさ卷之七 蛙も虵を取事」での作者の語りを見られたい。因みに「犀川」の語源として腑に落ちるものを紹介すると、ウィキの「犀川(長野県)に、「仁科濫觴記」によれば、『崇神天皇の末の太子であり、垂仁天皇の弟にあたる仁品王(仁科氏の祖)が都より王町(現・大町市)に下った際、安曇平(安曇野の古称)が降水時に氾濫して水浸しになることを憂い、解決を命じた。治水工事に長けた白水郎(あまこ)の長の日光(ひかる)の指導の下、工事が施工され、川幅が広げられたため、氾濫は止んだ。この時、川幅を広げた場所が、山征(さんせい:山を切り開くこと)をした場所ということで』「山征場」或は「山征地」と『名づけられた。この治水工事の話が、「泉小太郎伝説』『」となって今日に伝えられていると考えられている』。因みに、「信府統記」などで『とりあげられている泉小太郎伝説は、龍によって犀川が開かれたことになっており、その開いた場所は、すべて』この治水で造成された『山清路』と『一致している。それらの理由から、この「山征場」あるいは「山征地」は、そのまま山清路に比定しても良いと考えられている』。『このとき、会議によって「山征」の矩規(規矩準縄)を話し合った場所を「征矩規峡(せいのりそわ)」と名付けた。この征矩規峡が』、江戸期の古文書の「安曇開基」・「仁科開基」などに『見られる「犀乗沢(さいのりざわ)」に比定される。犀乗沢の場所がはっきりとどこであったかは判っていないが』、「安曇開基」などに『よると、安曇野市豊科高家地区熊倉の東(尾入沢)界隈と書かれている』とあるのが、とどめを刺そう。

「泉小次郎親衡」(生没年不詳)は鎌倉前期の信濃国の武士。清和源氏で経基王五男の満快の流れを汲む。ここに出る通り、怪力で知られた。鎌倉幕府第二代将軍源頼家の遺児千手丸を擁立しようと画策したが、建保元(一二一三)年二月に事前に発覚し、幕府から送られた討手工藤十郎らを殺害し、行方を晦ました(その後は全くの行方不明である)。親衡に与みした武士は張本百三十人余・伴類二百人にのぼり、この中には、幕府草創の功臣和田義盛の子と甥も含まれていた。その処遇を巡って、和田氏と執権北条義時との間に亀裂が生じ、五月の「和田合戦」の一因となった(和田一族は滅亡)。なお、親衡の弟泉六郎公信は、その「和田合戦」では幕府方として戦い、討死している(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。ウィキの「泉親衡」にも、幕府の捕縛方との『奮闘ぶりにより』、『後世大力の士として朝比奈義秀と並び称され』、『様々な伝説を産んだ。江戸時代には二代目福内鬼外(森島中良)が』「泉親衡物語」と『題した読本を著している。一方、信濃国の民話に登場する先史時代の泉小太郎と同一視されることにより、竜の化身としたり』、『犀を退治したという昔話の主人公にもなっている』とある。また、『埼玉県川越市小ヶ谷町にある瑶光山最明寺の縁起によると、親衡は千寿丸とともに当地に落ち延びて出家し』、『「静海」と名乗り』、文永二年五月十九日(一二六五年七月三日)に八十八歳で没したとされ、静海の宝篋印塔も残るという』とある(実物を見たいものだ)。個人的には、このクーデタの事前失敗と彼の失踪は、いかにも怪しいと睨んでいる。寧ろ、後の有力な御家人豪族和田一族を滅亡させるための、迂遠な謀略ではなかったかとさえ私は考えている。北条義時という男はそういう狷介な男だと私は睨んでいるからである(実朝の暗殺も彼が仕組んだものと信じている。私が大学生の二十一の時に書いた拙作歴史小説である「雪炎」はそれを題材にしたものである)。因みにこの辺りは、私の「北條九代記 千葉介阿靜房安念を召捕る 付 謀叛人白状 竝 和田義盛叛逆滅亡 〈泉親衡の乱〉」を読まれたい。話を戻すと、この益軒の「親衡の犀退治」というのは、先の「泉小太郎」伝説に、この怪力で知られた酷似した通称を持つ「泉小次郎」を付会させただけのことである。

「朝比奈三郎」朝比奈義秀(安元二(一一七六)年?~建保元(一二一三)年?)は和田義盛の三男。鎌倉幕府御家人中で抜群の武勇をもって知られた。正治二 (一二〇〇) 年、第二代将軍源頼家が海辺遊覧の際、「水練の技を披露せよ」と命ぜられ、水中深く潜って鮫を手取りにして人々を感嘆させた。私の「新編鎌倉志卷之七」の「小坪村」を参照。僕の大好きなこの朝比奈義秀の鮫獲りと相撲のシーンが挿絵付きで出、私が注で「吾妻鏡」から引用もしてある。建保元(一二一三)年五月の「和田合戦」では、和田方の勇士として奮戦し、将軍(第三代の実朝)の居所を正面から攻め込み、多数の武士を倒した。敵兵は義秀を恐れて、彼の進路をつとめて避けたと伝えられている。和田方が敗北するに及び、義秀は海路、安房国へ向って逃走したが,その直後に戦死したらしい。なお、「源平盛衰記」は、和田義盛が先に木曾義仲の妾であった御前を娶って、義秀が生れたと伝えているが、「吾妻鏡」に義秀は建保元年で三十八歳とあることから、この説は成立しない(ここまでは「ブリタニカ国際大百科事典」の記載を一部で使用した)。私の「北條九代記 千葉介阿靜房安念を召捕る 付 謀叛人白状 竝 和田義盛叛逆滅亡 〈和田合戦Ⅱ 朝比奈義秀の奮戦〉」も参照されたいが、今一つ、「北條九代記 坂額女房鎌倉に虜り來る 付 城資永野干の寶劍」では、今一人の同時代の烈女で、私の好きな坂額姐さんと義盛の間に出来た子とする話が載る。]

2021/03/21

大和本草附錄巻之二 「魍魎」 (中国版水怪)

 

魍魎 淮南子說狀如三歲小兒赤黑色赤目長耳

美髮左傳註疏魍魎川澤之神也○篤信曰此說

ヲ見レバ魍魎ハ河童ナルヘシクハシヤニアラス又クハ

シヤヲ魍魎トスル說アリ又河童ト相撲トリテ病

スルヲ治スル法右ノ木類ニ莽草ヲ用ル事ヲ記ス

○やぶちゃんの書き下し文

魍魎(まうりやう) 「淮南子」に說く、『狀、三歲の小兒のごとし。赤黑色、赤目、長耳、美髮。』と。「左傳」の「註疏」に、『魍魎は川澤〔(せんたく)〕の神なり。』と。

○篤信曰はく、此の說を見れば、魍魎は河童(かはたらう)なるべし。「くはしや」にあらず。又、「くはしや」を魍魎とする說あり。又、河童と相撲とりて、病ひするを治ずる法、右の「木類」に莽草(しきみ)を用ひる事を記す。

[やぶちゃん注:「大和本草附錄巻之一」よりのピック・アップは終わったので、これより「大和本草附錄巻之二」(PDF)に移る。底本は従来通り、「学校法人中村学園図書館」公式サイト内にある宝永六(一七〇九)年版の貝原益軒「大和本草」PDF版を視認してタイプする(後のリンク先は目次のHTMLページ)。前の「大和本草附錄巻之一」は植物パートであったが、配列が甚だ雑駁であった(分類項目が全く認められず、藻類もあちこちに散らばっていた)に対し、こちらは「禽類」・「獸類」・「魚類」・「蟲類」・「介類」・「水火]類土石類」・「藥類」の大項目分類が行われてあり、私も対応し易い。しかし、水族がそれらのどこかに混じり混んでいる可能性があるので、逐一、確認した。して、よかった。何故なら、早速、「獸類」の中に上記の不審な一条を見出したからである。既に述べた通り、私は幻想獣でも水棲のものは拾い上げる(実は次も、そう)。「魍魎」とは、本来の中国での原型は「魑魅魍魎」であって、山川草木金石水土のあらゆる自然の中に存在すると考えられた精霊(「すだま」と読むのが日本漢文では一般化している)・木霊(同前で「こだま」)などのアニマチズム(animatism:無生物にも意識があるとし、ある種の生命体に見えない現象・事物・物質は生きているとした原始信仰の初期的段階)的な存在霊や、その線上に生まれたアニミズム(animism:無生物であってもアニマ(anima:幽体・霊魂)を持つとする原始信仰)の世界観から想像されたさまざまな異人・幻獣・妖怪の総称であった。それが、分類好きな後代の人間たちよって「魑魅」と「魍魎」に分離されて(後の引用ではその逆が述べられているが、私は従えない。これらの単漢字は、もともと強い単独の個別的分類能(謂わば、種としての決定的独立性や識別性)を持っていないと私は思うからである)、人形(ひとがた)や幻獣へと変化・分類されていったものと思う。異論のある向きには次のように言おう。ウィトゲンシュタインが「論理哲学論論考」で述べている通り、そもそも「神は『名指すこと』は出来るが、『示すこと』は出来ない」のである。示された(分類された)その瞬間に、その零落は急速に始まり、神が下等な鬼神・妖怪へと堕天してゆくのである。話を戻す。本家の中国でもそうだが、それが移入された島国である本邦でも、それが海や河川の水界と強く結びついており、日本神話と相俟って、水精や水怪の形成を促したように私には思われる。益軒のぐちゃぐちゃした解説を注するには、ウィキの「魍魎」の内容がよく合うので、まず、それを引くと、『魍魎(もうりょう・みずは)または罔両、罔象は、山や川、木や石などの精や、墓などに住む物の怪または河童などさまざまな妖怪の総称』。『日本では水神を意味する「みずは」と訓じ、この語は他に「水波」「美豆波」「弥都波」などさまざまな漢字で表記される』(これは日本神話に登場する女神「みづはのめ」が現存する中では最も古い形象である。「古事記」では「彌都波能賣神」(みづはのめのかみ)、「日本書紀」では「罔象女神」(みつはのめのかみ)と表記され、祭神としては「水波能賣命」などとも表記される。「淤加美神」(おかみのかみ)とともに本邦の代表的な水神。「古事記」の「神産み」の段で、「加具土」(かぐづち)を産んだ際に陰部を火傷して苦しんでいた伊弉冉がした尿(いばり)から、「和久産巣日」(わくむすび)とともに生まれたとしている。「日本書紀」第二の一書では、伊弉冉が死ぬ間際に「埴山媛」(はにやまひめ)と「罔象女」を生んだとする)。『漢籍には、総称的な用法とは別に、具体的な姿や振る舞いを描写された魍魎が現れ』、「淮南子」には、『「罔両は状は三歳の小児の如し、色は赤黒し、目は赤く耳は長く、美しい髪をもつ」と記され』、「本草綱目」では、『「罔両は好んで亡者の肝を食べる。それで』「周礼」には、『戈(ほこ)を執って壙』(つかあな)『に入り、方良(罔両)を駆逐する、とあるのである。本性、罔両は虎と柏とを怖れ』る。『また、弗述(ふつじゆつ)』[やぶちゃん注:ママ。]『というのがいて、地下にあり死人の脳を食べるが、その首に柏を挿すと死ぬという。つまりこれは罔両である」と記されて』ある。「淮南子」に『よると、罔象は水から生じる』とし、また、「史記」では、『孔子は水の怪は龍や罔象であるとした』と記す。『これらから、魍魎も水の怪の総称とみなされるようになった。この意味は、山川の怪を意味する魑魅と対を成すようになった(あわせて魑魅魍)』。また、『亡者の肝を食べるという点から、日本では魍魎は死者の亡骸を奪う妖怪・火車と同一視されており』、『火車に類する話が魍魎の名で述べられている事例も見られる。江戸時代の根岸鎮衛の随筆』「耳袋」に『よれば、柴田という役人のもとに忠義者の家来がいたが、ある晩に「自分は人間ではなく魍魎」と言って暇乞いをした。柴田が理由を尋ねると、人間の亡骸を奪う役目が回ってきたので、ある村へ行かなければならないとのことだった。翌日、家来の姿は消えており、彼の言った村では葬儀の場が急に黒雲で覆われ、雲が消えると棺の中の亡骸が消えていたという』と出る。最後のそれは、私の「耳囊 卷之四 鬼僕の事」を見られたい。

「淮南子」「えなんじ」と呉音で読むことになっている。前漢の高祖の孫で淮南王の劉安(紀元前一七九年?~同一二二年)が編集させた論集。二十一篇。老荘思想を中心に儒家・法家思想などを採り入れ、治乱興亡や古代の中国人の宇宙観が具体的に記述されており、前漢初期の道家思想を知る不可欠の資料とされる。但し、現在の「淮南子」には以下の文字列を発見出来ない。散佚する前の原本にあったものらしい。「堀内元鎧 信濃奇談 卷の上 河童」の私の注の「魍魎狀如三歲小兒赤黑色赤目長耳美髯」を見られたい。なお、上記リンク先の原文には、本篇も引用されてある。

『「左傳」の「註疏」』「春秋左傳註疏」三国時代から西晋時代の魏・西晋に仕えた政治家・武将で学者の杜預(とよ 二二二年~二八四年)の「春秋左氏伝」の注釈書。

「篤信曰はく、此の說を見れば、魍魎は河童(かはたらう)なるべし」先の「大和本草卷之十六 河童(かはたらう) (水棲妖獣河童)」の本邦のオリジナリティの闡明からトーン・ダウンしてしまい、甚だ不満である。

「くはしや」「火車」「化車」であるが、これは専ら本邦で特異的に増殖した妖怪である。二種あって、後に混淆して行くが、古い方は、「今昔物語集」に登場する。「火車」についての資料としては、安澤出海氏のサイト内の「火車の資料」が網羅的で非常に優れている。私の「怪奇談集」を始めとして、諸電子化記事に頻繁に出現するのであるが、本記事の性格上、ここで、それらの妖怪学を開陳するわけにはゆかないのでウィキの引用でお茶を濁すと、まず「火の車」(ひのくるま)」によれば、『日本の怪異』・『妖怪』で平安後期の成立である「今昔物語集」を始め、いずれも江戸時代前期の「奇異雑談集」・「新著聞集」・「譚海」・「因果物語」などに『記述が見られ』、その基本的なコンセプトは、『悪事を犯した人間が死を迎えるとき、牛頭馬頭などの地獄の獄卒が、燃えたぎる炎に包まれた車を引いて迎えに現れるというもの。また文献によっては死に際ではなく、生きながらにして迎えが現れるといった事例も見られる』。「平仮名本因果物語」には、『「生ながら、火車にとられし女の事」と題し、以下の話がある。河内国八尾(現・大阪府八尾市)にある庄屋の妻は強欲な性格で、召使いに食事を満足に与えず、人に辛く当たっていた。あるとき、その庄屋の知人が街道を歩いていると、向こうから松明のような光が飛ぶように近づいて来た。光の中では、身長8尺(約2.4メートル)の武士のような大男』二『人が、庄屋の妻の両手を抱えており、そのまま飛び去って行った(画像参照)。彼は恐ろしく思って庄屋の様子を尋ねると、庄屋の妻は病気で数日間寝込んでおり、その』三『日目に死んでしまった。この妻は行いが良くなかったため、生きながらにして地獄へ堕ちたといわれたという』。『また、怪談集』「西播怪談実記」にも『「龍野林田屋の下女火の車を追ふて手并着物を炙し事」と題し、享保年間の火の車の話がある。播磨国揖保郡龍野町(現・兵庫県たつの市)の林田屋という商家で、以前から店に老婆とその娘が出入りしていたが、老婆が店に滞在中に風邪をひき、次第に症状が重くなった。手当ての甲斐もなく高熱が続き、ついには錯乱状態となった。娘は嘆き悲しんでそばを片時も離れなかったが、ある夕暮れに「ああ、悲しい。母を乗せて行ってしまうとは」と慌てて外へ駆け出した。商家の人々は娘が悲嘆のあまり正気を失ったかと思い、娘を引き止めると、たちまち娘が気絶したので、口に水を注いで正気に戻した。娘が盛んに熱がっており、見ると袖の下が火で焼け焦げていた。店へ戻ると、老婆は既に死んでいた。娘は、臨終のときになぜそばにいなかったのかと尋ねられると「絵で見た鬼の姿のような者が燃え盛る火の車を引いて、母を火の中へ投げ込んで連れ去って行った(画像参照)。取り戻したい一心で追いかけたものの車は空へ飛び去ってしまい、後のことは覚えていない」とのことだった』。『後に火の車は、葬式の場や墓場から死体を奪う猫の妖怪・火車』(後で別に引用する)『と混同されるようになり、前述の』「因果物語」や「新御伽婢子」などでは、『火の車のことが「火車」の題で述べられており、佐脇嵩之の妖怪画』集「百怪図巻」でも、『火の車を引く獄卒の姿が「くはしや」(火車)の題で描かれている例も見られる』。『近代では火車の名は地獄の獄卒ではなく、前述の猫の妖怪を指す方が多い』とあり、今一つの別に進化した「火車」(かしゃ)という妖怪は、ウィキの「火車(妖怪)」によれば、コンセプトは「火の車」と同根で、『悪行を積み重ねた末に死んだ者の亡骸を奪うとされる日本の妖怪で』、『葬式や墓場から死体を奪う妖怪とされ、伝承地は特定されておらず、全国に事例がある』。『正体は猫の妖怪とされることが多く、年老いた猫がこの妖怪に変化するとも言われ、猫又が正体だともいう』。『昔話「猫檀家」などでも火車の話があり、播磨国(現・兵庫県)でも山崎町(現・宍粟市)牧谷の「火車婆」に類話がある』。『火車から亡骸を守る方法として、山梨県西八代郡上九一色村(現・南都留郡、富士河口湖町)で火車が住むといわれる付近の寺では、葬式を』二『回に分けて行い、最初の葬式には棺桶に石を詰めておき、火車に亡骸を奪われるのを防ぐこともあったという』。『愛媛県八幡浜市では、棺の上に髪剃を置くと火車に亡骸を奪われずに済むという』。『宮崎県東臼杵郡西郷村(現・美郷町)では、出棺の前に「バクには食わせん」または「火車には食わせん」と』二『回唱えるという』。『岡山県阿哲郡熊谷村(現・新見市)では、妙八(和楽器)を叩くと火車を避けられるという』。「奇異雑談集」の「越後上田の庄にて、葬りの時、雲雷きたりて死人をとる事」では、『越後国上田で行なわれた葬儀で、葬送の列が火車に襲われ、亡骸が奪われそうになった。ここでの火車は激しい雷雨とともに現れたといい、挿絵では雷神のように、トラの皮の褌を穿き、雷を起こす太鼓を持った姿で描かれている』(引用元に図有り)。「新著聞集」第五の「崇行篇」の「音誉上人自ら火車に乗る」には、文明一一(一四七九)年七月二日、『増上寺の音誉上人が火車に迎えられた。この火車は地獄の使者ではなく』、『極楽浄土からの使者であり、当人が来世を信じるかどうかにより、火車の姿は違ったものに見えるとされている』と出、同第十「奇怪篇」の「火車の来るを見て腰脚爛れ壊る」には、『武州の騎西の近くの妙願寺村。あるときに、酒屋の安兵衛という男が急に道へ駆け出し、「火車が来る」で叫んで倒れた。家族が駆けつけたとき、彼はすでに正気を失って口をきくこともできず、寝込んでしまい』、十『日ほど後に下半身が腐って死んでしまったという』とあり、同「奇怪篇」の「葬所に雲中の鬼の手を斬とる」では、『松平五左衛門という武士が従兄弟の葬式に参列していると、雷鳴が轟き、空を覆う黒雲の中から火車が熊のような腕を突き出して亡骸を奪おうとする。刀で切り落としたところ、その腕は恐ろしい』三『本の爪を持ち、銀の針のような毛に覆われていたという』とあり、また、同第十四「殃禍篇」の「慳貪老婆火車つかみ去る」には、『肥前藩主・大村因幡守たちが備前の浦辺を通っていると、彼方から黒雲が現れ「あら悲しや」と悲鳴が響き、雲から人の足が突き出た。因幡守の家来たちが引きおろすと、それは老婆の死体だった。付近の人々に事情を尋ねたところ、この老婆はひどい』吝嗇『で周囲から忌み嫌われていたが、あるとき』、『便所へ行くといって外へ出たところ、突然』、『黒雲が舞い降りて連れ去られてしまったのだという。これが世にいう火車という悪魔の仕業とされている』とする。「茅窓漫録」の「火車」には、『葬儀中に突然の風雨が起き、棺が吹き飛ばされて亡骸が失われることがあるが、これは地獄から火車が迎えに来たものであり、人々は恐れ恥じた。火車は亡骸を引き裂いて、山中の岩や木に掛け置くこともあるという。本書では火車は日本とともに中国にも多くあるもので、魍魎という獣の仕業とされており、挿絵では「魍魎」と書いて「クハシヤ」と読みが書かれている』(引用元に画像有り)。民俗誌の名作「北越雪譜」の「北高和尚」には、天正時代、『越後国魚沼郡での葬儀で、突風とともに火の玉が飛来して棺にかぶさった。火の中には二又の尾を持つ巨大猫がおり、棺を奪おうとした。この妖怪は雲洞庵の和尚・北高の呪文と如意の一撃で撃退され、北高の袈裟は「火車落(かしゃおとし)の袈裟」として後に伝えられた』と載る。また、『火車と同種のもの、または火車の別名と考えられているものに、以下のものがある』。『岩手県遠野ではキャシャといって、上閉伊郡綾織村(現・遠野市)から宮守村(現・同)に続く峠の傍らの山に前帯に巾着を着けた女の姿をしたものが住んでおり、葬式の棺桶から死体を奪い、墓場から死体を掘りおこして食べてしまうといわれた。長野県南御牧村(現・佐久市)でもキャシャといい、やはり葬列から死体を奪うとされた』。『山形県では昔、ある裕福な男が死んだときにカシャ猫(火車)が現れて亡骸を奪おうとしたが、清源寺の和尚により追い払われたと伝えられる。そのとき残された尻尾とされるものが魔除けとして長谷観音堂に奉納されており、毎年正月に公開される』。『群馬県甘楽郡秋畑村(現・甘楽町)では人の死体を食べる怪物をテンマルといい、これを防ぐために埋葬した上に目籠を被せたという』。『愛知県の日間賀島でも火車をマドウクシャといって、百歳を経た猫が妖怪と化すものだという』。『鹿児島県出水地方ではキモトリといって、葬式の後に墓場に現れたという』。『日本古来では猫は魔性の持ち主とされ、「猫を死人に近づけてはならない」「棺桶の上を猫が飛び越えると、棺桶の中の亡骸が起き上がる」といった伝承がある。また』、「宇治拾遺物語」では、『獄卒(地獄で亡者を責める悪鬼)が燃え盛る火の車を引き、罪人の亡骸、もしくは生きている罪人を奪い去ることが語られている。火車の伝承は、これらのような猫と死人に関する伝承、罪人を奪う火の車の伝承が組み合わさった結果、生まれたものとされる』。『河童が人間を溺れさせて尻を取る(尻から内臓を食べる)という伝承は、この火車からの影響によって生じたものとする説もある』。『また、中国には「魍魎」という妖怪の伝承があるが、これは死体の肝を好んで食べるといわれることから、日本では死体を奪う火車と混同されたと見られており』、先の「茅窓漫録」では、『「魍魎」を「クハシヤ」と読んでいることに加えて』、前にリンクさせた「耳袋」の『「鬼僕の事」では、死体を奪う妖怪が「魍魎といへる者なり」と名乗る場面がある』とある。個人的には、私は今一つの妖怪「片輪車」も、この「火車」の変形譚であると考えている。それは「見るな」の禁忌に触れることで、生きた子が食われてしまうという紋切型の構造を持ち、遺体を食うモンスターが、生きた人間をも食うに至るのは発展形態の当然の流れと考えているからである。典型的なそれは、私の「諸國百物語卷之一 九 京東洞院かたわ車の事」にとどめを刺す。是非、見られたい。挿絵付きで、私は業火の燃えるそれなんぞより、人体の一部をくっ付けて回る車輪の方が数十倍インパクトがあると考える人種である。私の「柴田宵曲 續妖異博物館 不思議な車」も参考になろう。

『「くはしや」を魍魎とする說あり』益軒の本草記載の杜撰を指弾した小野蘭山述の「本草綱目啓蒙」の巻之四十七「獣之四」の「寓類之怪」には以下のようにある(ここでは無条件で賛同しているようで、ちょっと意外)。国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像を視認し、カタカナをひらがなに直し、漢文部は訓読、句読点他(送り仮名・読みは推定)を添えた。

   *

罔兩  「くはしや」。「くはじや」【薩州。】。

魑魅の類(るゐ)なり。葬送の時、塗中にて、疾風・迅雷、暴(あからさま)に至りて、棺は損ぜずして、中の屍(しかばね)を取り去り、山中の樹枝・巌石等に掛け置くこと、あり。これを、「くはしや」と云ふ。東都及び薩州・肥前・雲州にもありと云ふ。京師には、これ、有ることを聞かず。又、『「淮南子」に載る「罔兩」は「水虎(がはたらう)[やぶちゃん注:原本の読み。]」のことなるべし。』と、「大和本草」に詳かにす。同名なり。「周禮(しうらい)」に、『方相氏、戈(ほこ)を執り、壙(くわう)[やぶちゃん注:墓穴。]に入る』と云ふ。方相氏は四つ目あるの假面(めん)[やぶちゃん注:原本の二字への読み。]を著(あらは)するを云ふ。是れ、罔兩を禦(ふせ)ぐ爲めなり。京師、九月十一日、東寺の尼寺に六孫王の祭あり。俗に「寶永祭」と云ふ。此の時、首に紅(しやぐま)[やぶちゃん注:原本の読み。]を蒙(かふむ)り、方相氏の假面を著けて、四神の旗を持るもの、あり。服は赤・黒・青・白、各(おのおの)一人なり。

   *

『河童と相撲とりて、病ひするを治ずる法、右の「木類」に莽草(しきみ)を用ひる事を記す』この『右の「木類」』というのは、本巻の「莽草」のそれではなく、「附錄卷之一」の「木類」の22コマ目の以下の追加記載である。以下に訓読して示すが、御存じない方もいると思うので、言っておくと、仏事に用いられるマツブサ科シキミ属シキミ Illicium anisatum は全植物体に強い毒性があり、中でも種子には強い神経毒を有するアニサチン(anisatin)が多く含まれ、誤食すると死亡する可能性もある。シキミの実は植物類では、唯一、「毒物及び劇物取締法」により、「劇物」に指定されている。以下の処方は間違っても使ってはならない。

   *

河太郎と相撲(しまふ)をとりたる人、正氣を失ひ、病ひするに、「しきみ」の木の皮をはぎ、抹香とし、水に、かきたて、吞(もま)すれば、忽ち、正氣になり、本復す。屢(しばしば)用ひて、效(しるし)ありと云ふ。「しきみ」は「莽草」なり。木なれども、「本草綱目」、「毒草類」に載せたり。「しきみ」の抹香を佛家及び世俗に燒く術者〔(じゆつしや)〕、「伊豆那(いづ〔な〕)の法」を行ふに、此の「荼耆尼天(だぎに〔てん〕)の法」なりと云ふ。「いづな」とは、信濃(しなの)の國の山の名なり、彼〔(か)〕の山に「だきに天」の祠〔(ほこら)〕ある故、山の名を以つて、其の法に名づけしなるべし。

   *

「伊豆那(いづ〔な〕)の法」は「飯綱(いづな)の法」で、「飯綱」(いづな)は妖術師が使役するダークな妖怪「管狐(くだぎつね)」のことを指す。これを語り出すと、また、エンドレスになるので、それは「老媼茶話之六 飯綱(イヅナ)の法」の本文と私の注を参照されたい。]

大和本草卷之十六 河童(かはたらう) (水棲妖獣河童)

 

【和品】

河童 處々大河ニアリ又池中ニアリ五六歲ノ小兒ノ如ク

村民奴僕ノ獨行スル者往々於河邊逢之則精神昏冒

スト云此物好ンテ人ト相抱キテ角力其身涎滑ニ乄捕定

ガタシ腥臭滿鼻短刀ニテ欲刺不中角力人ヲ水中ニ

引入レテ殺スコトアリ人ニ勝コトアタハサレハ沒水而見

ヱス其人忽恍惚ト乄如夢而歸家病コト一月許其症

寒熱頭痛遍身疼痛爪ニテ抓タルアト有之此物人

家ニ往々爲妖種々怪異ヲナシテ人ヲ惱ス叓アリ狐妖

ニ似テ其妖災猶甚シ本艸綱目蟲部濕生類溪鬼蟲

ノ附錄ニ水虎アリ與此相似テ不同但同類別種ナルヘ

シ於中夏之書予未見有此物

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

河童(かはたらう) 處々、大河にあり。又、池〔の〕中にあり。五、六歲の小兒のごとく、村民・奴僕の獨行する者、往々、河邊に於いて、之れに逢へば、則ち、精神、昏冒〔(こんぼう)〕すと云ふ。此の物、好んで人と相ひ抱〔(いだ)〕きて、力を角〔(きそ)〕ふ。其の身、涎滑〔(ぜんかつ)〕にして、捕り定めがたし。腥〔(なまぐさ)き〕臭〔ひ〕、鼻に滿つ。「短刀(わきざし)にて刺さん」と欲すれども、中〔(あた)〕らず。力を角ふて、人を水中に引き入れて、殺すこと、あり。人に勝つこと、あたはざれば、水に沒して見ゑず[やぶちゃん注:ママ。]。其の人、忽ち、恍惚として、夢のごとくにして、家に歸り、病むこと、一月〔(ひとつき)〕許り、其の症、寒熱・頭痛・遍身〔の〕疼痛〔なり〕。爪にて抓(か)きたるあと、之れ、有り。此の物、人家に、往々、妖を爲す。種々、怪異をなして、人を惱ます事あり。狐妖に似て、其の妖災、猶ほ、甚だし。「本艸綱目」〔の〕「蟲部・濕生類」〔の〕「溪鬼蟲」の「附錄」に、「水虎」あり、此れと相ひ似て、同じからず。但〔(ただ)〕、同類・別種なるべし。中夏の書に於いて、予、未だ、此の物、有るを見ず。

[やぶちゃん注:私は想像上の幻獣・妖怪であっても、水族として採用する。特に河童は私は本邦のオリジナルな特異水獣(妖怪)として採り上げぬ訳にはゆかぬ。その点で、益軒の「和品」とし、最後の謂いも完全に賛同するものである。私の河童に対する博物学的認識は、最近の電子化になる「怪談老の杖卷之一 水虎かしらぬ」の注で、やや詳しく注しているので、そちらを是非、参照されたい。

「昏冒」漢方では、完全な失神ではなく、重い眩暈(めまい)や立ち眩みを指すようである。

「角〔(きそ)〕ふ」当初は「くらぶ」と訓じてみたが、直後のそれでは、そうは読めないと感じたので、かく訓じておいた。

「涎滑」河童定番の生態であるが、涎(よだれ)のような粘液で全身が覆われており、それがべたつき、ぬるぬるするために、相撲をとっても、或いは捕獲しようとしてしても、上手く摑めないことを意味している。

『「本艸綱目」〔の〕「蟲部・濕生類」〔の〕「溪鬼蟲」の「附錄」に、「水虎」あり』「怪談老の杖卷之一 水虎かしらぬ」の私の注を参照。

「中夏」「中華」に同じい。漢籍。

 これを以って巻之十六のピック・アップを終わり、やっと本来の「附錄」に戻る。]

ブログ・アクセス1,510,000アクセス突破記念 梅崎春生「その夜のこと」+続編「冬の虹」合冊縦書ルビ版(オリジナル注附)公開

ブログ・アクセス1,510,000アクセス突破記念として梅崎春生の「その夜のこと」と続編「冬の虹」の合冊縦書ルビ版(オリジナル注附き)を公開した。

ブログ・アクセス1,510,000アクセス突破記念梅崎春生 冬の虹

 

[やぶちゃん注:昭和二九(一九五四)年三月号『小説新潮』に発表され、後の昭和三四(一九五九)年に刊行した作品集「拐帯者」(光書房)に収録された。

 読み始めれば、そこで予告した通り、すぐにこれが二ヶ月前の昭和二九(一九五四)年一月発行の『別冊小説新潮』初出で、同じ作品集「拐帯者」に本篇とセットで所収された、前回、ブログで電子化した「その夜のこと」の続編であることが判る。未読の方は、まずそちらから読まれたい。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第五巻」を用いた。

 今回は思うところあって、文中に軽く割注を入れて、最後に、本作のモデルとなった梅崎春生自身の過去(満二十一或いは二十二歳の時)の体験(事件)について注した。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが本日、先程、1,510,000アクセスを突破した記念として公開する。【2021年3月21日 藪野直史】]

 

   冬 の 虹

 

 月明りの下に、白っぽい大きな四角の建物があった。入口の柱に木札がかかっていて、夜目にもそれは『駒込警察署』と読めた。

 外套の襟を立てたまま僕が佇(た)っていると、巡査がうしろからじゃけんに僕の背をこづいた。

「さあ、上るんだ」

 この巡査は背が低く、顎(あご)の角ばった男で、言葉づかいに茨城あたりのものらしい訛(なま)りがあった。歳は三十前後かと思われる。犯行現場からここまで来るのに、自動車に乗れなかったので、それで露骨に僕に対して不機嫌になっていた。こんなに寒い夜だし、僕だっててくてく歩きたくはなかった。でも無一文だから仕方がない。

 うながされるまま、僕は重いあしどりで署の階段をのぼり始めた。僕のうしろから巡査が、巡査のうしろから霜多がつづいた。

 廊下を通って扉を押すと、そこはだだっぴろい大部屋で、夜更(ふ)けだと言うのに十人ばかりの刑事が立ったり腰かけたり、ストーブに掌をかざしたりしていた。ストーブの中で薪(たきぎ)は赤い焰を立てて、勢いよく燃えていた。僕たちが入って行っても、誰もこちらに振り向かなかった。へんにガヤガヤした落着かない厭な雰囲気だった。

 僕らを入口のところに待たせて置いて、巡査はつかつかと歩み入り、主任らしい男の机の前に立ち止った。僕の方を指差しながら、何かコソコソと報告しているらしい。主任も報告を受けながら、ちらちらと僕を横目でにらみつけているようだった。酔いもすっかり醒めはてたし、すこしずつ面白くない憂鬱な気分になってくる。

「ひょっとすると、俺は留置場に入れられるかも知れないな」

 僕は傍の霜多にそっとささやいてみた。すると霜多はびっくりしたような表情で僕を見た。

「ひょっとするとって、留置場入りはきまってるよ。とにかくケガさせたんだからな」

「そりゃ困ったな」

 と僕は落胆した。僕が切に欲していたのは、あたたかい蒲団と静かな眠り、それだけだったのだ。留置場入りは始めてだが、どうもそこにそんなものがあるとは常識としても考えられなかった。

「留置場入りは困るな。どうにかならんものかねえ」

「僕らも努力はしてみるよ。してはみるけれどね――」[やぶちゃん注:「僕ら」はママ。ここには、そうした「努力」が出来る他の人間は霜多以外にはいないから、或いは霜多の慌てぶりや、留置の責任を自分のみに限定されるのを半ば無意識に嫌ったことを示すためのものかも知れない。後で、霜多と他の友人への恨みを「僕」を漏らしていることから、霜多も、或いはこの時、他の友人らへ連絡して釈放の運動をしようという意識が頭を掠めたものかも知れない。]

 その時巡査がじろりと振り返ったので、霜多は口をつぐんだ。巡査は怒ったような顔付きで僕を手招いた。僕はふらふらとそちらへ歩いた。

「お前か、下宿の婆さんを殴ったのは」

 主任がにわかに眼を据(す)えて僕に怒鳴った。主任も頰(ほお)骨が突き出て、チョビ髭(ひげ)を生やし、顎骨が左右に張っていた。どうして警察官というのは、どれもこれも顎が四角張っているのだろう。僕はキッと見据えられて、思わず視線をうろうろさせた。

「はい」

「なぜ殴ったんだ」

 そこで僕は、今夜酒を飲んだこと、終電に乗り遅れた友人の霜多を愛静館に連れかえったこと、婆さんに客蒲団を出して呉れと頼んで断られたこと、僕が腹を立てて婆さんに糊壺を投げつけ、そして椅子をふり廻して大あばれをしたこと、以上の事情をカンタンに主任に説明した。下宿料がたまっていることなどは言わなかった。僕が説明し終ると、主任は僕をじっとにらみながら、低い声で訊(たず)ねた。

「あそこに立っているのが、その友達というやつか」

「そうです」

 主任は鉄の文鎮で机のはしをコツコツ叩きながら、すこし威嚇(いかく)的な声を出した。

「お前は一体学生のくせに、かよわい老人にケガさせるとは何事だ。今の報告によれば、婆さんの傷は全治二週間だぞ。悪いとは思わんか!」

「はい。悪かったと思います」

 出来るだけおだやかに僕は答えた。謝ればもしかすると許して呉れるかも知れない。そう考えたからだ。ところが頭を下げた僕を見て、主任は無雑作につけ加えた。

「それじゃ今晩はとまって行け」

 僕はとたんにがっかりして主任の顔を見た。主任はそっぽ向いて、さっきの巡査の方に顎でなにか合図をした。巡査がつかつかと僕に近づいて来た。

 

 霜多に別れると、僕はふたたび巡査に連れられて廊下に出、その留置場の方に歩かせられた。廊下は寒かった。僕はもう観念していた。『霜多のやつ、今晩どうするつもりかな』

 ちらと僕はそんなことを考えた。霜多ももう無一文の筈(はず)だし、こんなに夜は遅いし、どこで一夜を明かすのか。僕の方はお粗末ながら寝場所だけはチャンとあるわけなのだ。

 鉄の扉ががちゃんと開かれて、僕の身体はいきなりその中に押し入れられた。そこは留置場詰めの刑事の控えの間になっているらしかった。

「学生一人、願います」

 扉の外から巡査が言った。

 刑事が二人、火鉢に当っていた。その一人が僕を見て面倒くさそうに立ち上った。この刑事の顎もやはり下駄のように角張っていた。

「何だ、お前は。アカか」

「違います」

 アカではなく傷害罪であることに、僕はなにか自分に惨(みじ)めな屈辱をかんじた。小さな声でつけ加えた。

「下宿の婆さんにケガさせたんです」

 刑事の表情が軽蔑でゆがんだように感じられた。はき捨てるような口調だった。

「持ち物を全部ここへ出すんだ」

 うす暗い電燈の光の下に粗末なテーブルがある。僕はポケットの中から、学生証や煙草やマッチ、手袋や万年筆をとり出して、その上につぎつぎと並べた。刑事はその物件の名を一々紙に書きとった。

「それだけか?」

「これだけです」

 刑事は上目使いに僕を見て、僕の外套のポケットを上から押さえ、それから掌をポケットにつっこんだ。何かを摑(つか)み出した。

「何だあ、こりゃあ」

 拡げた掌の上に、マッチの軸(じく)の折れたのがたくさん乗っている。外套のポケットに手をつっこみ、マッチの軸をポキポキ折りながら歩くのが、その頃の僕の無意識の癖だった。刑事の掌にあるのはその折屑なのだが、自分の癖を現実の形として他人から示されるのは、はなはだしくイヤな気持のものだった。

「莫迦(ばか)な癖もあったもんだな」

 僕の説明を聞いて、刑事はそう言って鼻であざ笑った。

「さあ、バンドも外(はず)すんだ」

 留置場ではすべての紐(ひも)のたぐいは取上げられる。そのことは小説その他によって、予備知識として持っていたので、僕はすぐに素直に皮帯[やぶちゃん注:「バンド」と当て読みしておく。「かわおび」と読んでも構わない。]を外した。しかしいざ皮帯を外すと、ズボンがずり下りそうで、あやふやな不安定な感じだった。外套も脱がされるかと思っていたら、これはそのままでいいらしい。

 一人が僕を処理している間、も一人の刑事は火鉢にかがみこんで、じっとしている。僕に対して全然職業的興味さえ持っていない風(ふう)だった。

 この控え所からじかにコンクリートの廊下が伸び、その両側に鉄格子がずらずらと見える。そこが留置場にちがいない。区切りの具合から見て、八つか十ぐらいの房に分れているらしかった。午前三時過ぎのことだから、勿論そこらはしんと寝静まっていて、聞えるのは僕と刑事のぼそぼその話し声だけだ。

 刑事は僕の腕を摑(つか)んで、房(ぼう)の方に歩きながら、

「お前は運が良い奴だ。これが本富士署であって見ろ」

 と言った。そして、本富士署は建物が古いから設備も悪い、この駒込署は建ったばかりだから居心地がいいんだ、と妙なことを自画自讃した。そう言えばコンクリートの壁も汚れていないし、鉄格子もぴかぴかと光を弾いているようだった。

 刑事は左右の房をのぞいて歩き、そしてその一つの前に歩を止めた。小さいくぐり扉に頑丈な錠がかかっている。刑事は合鍵をさし込んで、ガチャリとそれを外した。

「さあ、この房の一番奥にもぐり込んで、さっさと寝るんだ」

 房は奥へ細長く、極端にうす暗い。鼠色の毛布をかぶって十人ばかりの男がいびきをかいている。妙な臭気が鼻に来た。毛布と壁との狭い間を僕は爪先立ちで奥へ歩いた。

背後で刑事がガチャリと錠をおろした。

(シラミがいるかも知れないな)

 床に立ったまま僕は考えた。昭和十二年のことだから、DDTなどという気の利いたものはない。その時鉄格子の外から刑事が僕をしかりつけた。

「何をぐずぐずしているんだ。さっさと寝ろ」

 僕はあわててそこに坐り、そして毛布の中にそっと足をさし込んだ。毛布は古びて毛もすり切れていた。そこに入っていた男がすこし体をずらして、僕の入る余地をつくって呉れた。僕は外套のまま毛布の中に横たわった。枕はもちろん無かった。僕の頭はじかに木質の床に触れた。寒さと冷たさが身体のしんまで沁み入ってきて、我慢しようとしても胴や股が小刻みに慄えた。就中(なかんずく)足の裏がこごえるように冷たかった。僕は自然にとなりの男に身体を押しつけて、そこから暖をとろうという形になっていた。そうでもしなければ凍え死んでしまいそうだった。

「何だ。何で入って来たんだい」

 となりの男が眼をさまして、僕にそうささやきかけた。

「ラジオかい」

「いや、なに」

 ラジオという言葉の意味がよく判らなかったので、僕はごまかした。

「人をケガさせたんだ」

「喧嘩か」

 男はそして眠そうに小さな欠伸(あくび)をした。

「まあ、いいや。早く寝ろよ」

 僕は男に背をぴったりと接して、眼をつむった。木の床の上に敷くのは毛布一枚だから、骨がゴリゴリと鳴り、あちこちが痛く、しびれるようにつめたかった。瞼を閉じても眠れるどころの騒ぎではなかった。

[やぶちゃん注:「駒込警察署」現在の東京都文京区本駒込二丁目に現存する(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。現在は文京区の北東部と豊島区のごく一部を管轄している。明治四〇(一九〇七)年十二月に本郷警察署(現在の本富士警察署)の分署として創設され、明治四十三年十二月に駒込警察署と改称、大正二(一九一三)年八月に、廃止された千駄木警察署の管轄を統合し、本郷駒込警察署となったが、昭和一二(一九三七)年には、再び、駒込警察署と改称している(当該ウィキを参照した)。最後に示す梅崎春生自身の事件は、その昭和十二年の出来事であるから、この再改称時に庁舎の一部が改装或いは増設されているものと思われる。

「本富士署」本富士(もとふじ)警察署。東京都文京区本郷七丁目で東京大学(当時梅崎春生が在籍していた(講義には出て一回もこなかったと大学時代の友人(最後の注を参照)は証言している)東京帝国大学の真南直近にある。当該ウィキを見ると、名称は警視庁第四方面三警察署(前身)→元富士町警察署→本郷警察署→本富士警察署→本郷本富士警察署と目まぐるしく改称しているものの、やはり、この昭和十二年に元の本富士警察署に名称を戻しているので、梅崎春生の記載は非常に正確であると言える。

「ラジオ」警察・犯罪用語の隠語。後で本文で説明されるので、ここでは記さない。]

 

 この新装なった駒込警察署留置場の第六房に、僕は翌日から、今日こそは釈放されるか釈放されるかと待ちこがれ、ついに足かけ一週間ここに入っていた。その一週間のあいだ、取調べもなければ、呼出しも一度もなかった。だからここにいるあいだ中、僕は、霜多その他の友人を心中でしきりに恨みつづけていた。

(俺のことはほったらかして、毎日遊んでいるのだろう)

 そう思うと腹が立って腹が立って、いても立ってもいられないほどだった。留置場の中では何もすることはないのだから、どうしてもひとつ事ばかり考えることになるのだ。

 一体どういうことになっているのだろう。その不安と腹立ちを更にあおるのは、確かに留置場の中の生活形式の故でもあった。今生活と書いたが、これは生活というよりも、しごく緩慢な儀式と言った方が近いかも知れない。ここでは行動というものはほとんど封じられている。睡眠と掃除と食事と排便。一日の行事は大体それだけで、あとは何もすることはないのだ。私語も禁じられている。(禁じられていても、刑事の眼をぬすんで僕らはおおむね私語をかわしていたが)とにかく十六年前のことだから、現在の留置場のあり方とは少々違っていた。[やぶちゃん注:「十六年前」本篇は昭和二九(一九五四)年三月発表であるから、発表年を勘定に入れなければ、最後に示す実際の事件の昭和十二年と一致する。]

 朝六時起床の合図。ただちにはね起きて毛布を手早くたたみ、房の内の掃除。房の外の通路の掃除は、在房者の中でも古手がこれを担当した。これは身体の運動にもなるし、良い役割だった。僕の房の一番古手は、仁木という三十前後の詐欺容疑の男だったが、これもまだ外の掃除をする資格はなかった。と言うのは、思想犯で半年近くいるのが、ここにも何人かいたからだ。十日や二十日では古手だとは言えなかったのだ。

 それから食事。塗りの剝げた木箱に麦混りの南京米の飯。朝はうすい味噌汁一杯。昼と夕方はヒジキの煮付け。量はごく少い。一日中ほとんど運動しない状態でも、この量では少な過ぎた。僕は最初の朝飯こそは不味(まず)くて食えず、箱ぐるみ仁木に進呈したが、次の食からは待ちかねてむさぼり食うようになった。[やぶちゃん注:「南京米」はインドシナ・タイ・ベトナム・中国等から輸入するインディカ米を嘗ては、こう、呼称した。]

 使所に行く時間もちゃんときまっている。一日四回ぐらいだったと思う。飲食の量がすくないから、結構その回数で間に合った。もっとも便所に近い老人なんかは、やはり四回ばかりでは困るようだったが。[やぶちゃん注:「便所」現行では房内の隅に配されてあるが、ここの当時の留置房には、トイレはなく、恐らくは外の通路の奥にあるもののように読める。]

 以上それだけで、あとは何することもない。あぐらをかいて壁にもたれ、一日中向き合ってじっとしている。房内のコンクリートの壁はまだ真新しい。しかし房の収容人員は大体きまっているし、同じところにあぐらをかき、同じ箇所に頭をもたせかけているので、壁のそこらの部分だけがうっすらと黒い汚れを見せている。坐る位置は、その房の一番古手が牢名主(ろうなぬし)然として、通路に最も近い食事差入口のそばに坐り、以下古い順序に打ちならぶ。つまり一等新参は一番奥というわけだ。

 そういうわけで、僕は最初の日は一番奥にいた。小さな窓の下の、壁の稜角のところだった。通路への視野もきかず、光線にも乏しく、たいへん憂鬱な場所だった。

 しかし二日目の夕方になると、僕の位置は大躍進をして、扉の方から三分の一ぐらいの場所に昇格していた。それはこの第六房というのは、比較的廻転率の早い房らしく、酔っぱらいとか家出人とかせいぜい一日か二日どまりで出で行くのが多く、躍進はそのせいであったが、牢名主の仁木が特別に僕をバッテキしたせいでもあった。バッテキのおかげで、僕はたしか二人か三人かを一挙に飛び越したと思う。

 仁本はもう十日余りもここに留められているらしかった。背は低いががっしりした体格で、額はせまく、毛深いたちだと見えて、ハリガネのような鬚(ひげ)が頰や顎に密生していた。仁本が着用しているのはドテラだったが、帯は取上げられているので、コヨリをもって帯の代用していた。留められた翌朝の食事後、僕は仁木に手招きされて、その傍まで膝行(しっこう)した。

「おい。ダイガク。一体お前は何をやったんだね」

 私語は禁じられているから、刑事の眼をぬすんで、腹話術みたいな含み声で問いかけてくる。僕も慣れないながら同じ要領でうけ答えした。ダイガクというのは大学生という意味で、最初の日からこの房での僕の通り名になっていた。制服のまま入れられたのだから、この呼称となったのも無理はない。ダイガクすなわち僕は仁木の訊間にこたえて、事件のすべてのいきさつをしゃべらされた。刑事の耳目をはばかってのことだから、時間も相当にかかった。

 訊(たず)ねるだけ訊ねると、仁木はふたたび手をふって、僕を下座にさがらせた。仁木の僕に対する態度は、他の在房の者に対するよりも、割に親切だった。その理由としては、朝飯を供出したせいかな、とその時僕は考えたのだが、それは必ずしも当ってはいなかった。

 仁木は僕がダイガク生であることに、ある親近感を感じたのは事実のようだった。それは二日目か三日目頃に、自分はある専門学校に行ってたことがあると、仁木が問わず語りに話したことでも判る。彼はその時他の同房の連中に軽蔑的に視線を動かしたようだった。僕はその奇妙な親近感をどうも素直には受取りかねた。照れるような気持で返事をためらった。

 しかし仁木が僕をバッテキしたのは、単にそれだけでなく、確かに僕を利用する下心からだったらしい。彼は当時房内にあって身動き出来ないから、どうしても誰かを摑(つか)まえて、至急に外部との連絡をとる必要があったのだ。ところがこの房に入ってくるのは、いずれもたよりにならない奴ばかりで、折角いろいろ頼んでみても、出房するとそのまますっぽかしてしまう。イライラしているところに、この僕が入房して来たというわけだ。ダイガク生で見たところ正直そうだし、話を聞くと、微罪だから直ぐに釈放されそうだし、というところで僕に眼をつけたのだろう。おそらく破格のバッテキというのも、僕への御機嫌取りの政策だったのだ。

 そして四日目頃には僕は仁木に次いで、この房の副名主に出世していた。場所も仁木と向い合って鉄格子からすぐのところだ。そして僕の頰や顎にも無精鬚(ぶしょうひげ)が密生し、鏡はないけれども、指でまさぐった感じでは相当に堂々としていて、いっぱしの副名主面となっているらしかった。いつ出房できるか予測もつかない、そのいらだちと立腹はあったけれども、それはそれとしてこうしてぐんぐん出世してみると、なにか嬉しいような気がするのは不思議なものだった。人間というものは、ある一定の世界に入れられると、その世界の中だけの感情が別に生じてくるものらしい。

 

 一週間ほどの間に、いろんな人物が入房し、また出房して行った。平素僕があまりつき合いがないような、そんな種類の人々が多かった。

 背がひょろひょろと高い、無銭飲食で入れられた男がいた。そいつはラジオと呼ばれていた。ラジオは無線だから、無銭飲食はふつうそう呼ばれる。このラジオは背は高いくせに、皮膚は青白く瘦せていて、不健康な風貌だった。歳は三十五、六に見えたが、実はもっと若かったかも知れない。本郷肴町の天ぷら屋で、酒を三本飲み天丼を四つ平らげて、それで警察につき出されたという話だった。ラジオは僕に話して聞かせた。[やぶちゃん注:「本郷肴町」「ほんごうさかなまち」と読む。現在の文京区向丘(むこうがおか)の旧町名。現在の一丁目に「肴町旭ビル」とあるので、この附近であろう。]

「天丼の五つ目のお代りを注文したんだな。すると向うでもおかしいと見たんだろうな。金を見せてくれと言いやがる。それで五杯目はオジャンよ」

 こんな瘦せた男のどこに天丼が四つも五つも入るのか、僕はちょっと理解できかねた。やはり彼の胃は病的に拡張していたのだろう。それにどうせ警察に突き出されるのは判っているので、ここぞとばかり食い溜めする気にもなったのだろうと思う。その看町の天ぷら屋と言うのは僕も食べに行ったことがある。値段の割にうまい良心的な店だった。留置場では毎日おかずはヒジキばかりなので、その話を聞いた時、あたたかい天ぷらの幻想がにわかに頭をかけめぐって、僕はそれを押さえるのに苦労をした。

 このラジオはすでに何度も留置場入りをした経験があるらしい。房内での態度も物慣れているし、それに入房して来た時、検査をどうごまかして来たのか、タバコを五本、マッチ軸を十本ばかり持ち込んできた。房内での喫煙は厳重に禁止されているが、入房者はさかんに工夫をこらして禁制物を持ち込む。刑事も四六時中各房を見張っているわけではないので、その油断を見すまして、せきばらいと一緒にマッチをつける。すばやくタバコに点火する。吸い込んだ煙は絶対にはき出さない。全部体内に吸収してしまう。タバコ自身から立つ生(なま)の煙は、掌でばたばたあおいで散らかしてしまう。こうやって廻し喫(の)みをするのだが、そういう時の一喫(す)いは眼がくらくらとするぐらい強烈だった。ラジオのおかげで僕もしばしばその配当にあずかった。

 このラジオは、無銭飲食というものは犯罪でないと確信しているようだった。それは彼の口ぶりでも判った。犯罪ではなく、一種のスポーツめいたものとして考えていたらしい。彼はいつかこんなことを言った。

「無銭をやられるのは、やられる方が悪いんだよ。客がラジオかどうか前もって見抜けないで、それで商売人と言えるかい」

 また、ワカラズヤという仇名の爺さんがいた。六十歳前後の、わりとちゃんとした服装をしているが、とにかく聞きわけのない爺さんだった。

 ワカラズヤは二晩房に留められ、三日目息子夫婦に引取られて出て行った。息子に養われているのだが、その息子夫婦が実に仲が良く、それでいたたまれなくて家出したという話だった。夜中に街をうろうろしていたのを怪しまれ、そして巡査にここに連れられて来た。

 爺さんのつもりでは、巡査の態度も比較的親切であるし、警察の宿直か何かに泊めてくれるのだろうと思って、トコトコついて来たらしいのだ。ところがいよいよ案内された室は、頑丈な鉄格子がはまっているし、内には人相のあまり良くないのがウヨウヨ入っているし、爺さんはたちまち仰天してあばれ出した。

「イヤだよう。牢屋に入るのはイヤだよっ」

 刑事がいくらなだめすかしても、爺さんはがんとして聞かない。手足をばたばたさせてあばれ廻る。留置場というものは、懲罰のためでなく、人身保護のためにもあるものだという刑事の説得も、爺さんには全然通じないもののようだった。とうとう刑事も二人がかりで、爺さんを抱きかかえるようにして、僕らの房に押し入れた。いざ押し込まれて見ると、爺さんはもう観念したものか、あばれるのをやめて、床にへたへたとうずくまった。うずくまったまま僕らには眼もくれず、しきりにブツブツと念仏をとなえている。仁木が含み声で話しかけてもろくに返事もしない。

 それから十分ぐらい経って、爺さんはいきなり鉄格子を摑んでゆすぶりながら、大声でわめき始めた。今度は便所に行かしてくれと言うのだ。

「便所に行きたいよう。早く便所に行かせてくれえ」

 便所行きの時刻はちゃんときまっているし、言うなりに出してはシメシがつかない。そう刑事は思っているのだろう。知らぬふりをしている。また房から出せばも一度あばれられるかも知れない。そのうれいもあったようだ。刑事が知らぬふりをしているので、爺さんは地団太(じだんだ)踏んで更に声を張り上げた。

「早く出せえ。コラア、警官、出してくれえ、署長に言いつけるぞう」

 あまりわめき立てるので刑事も放っておけず、房の前にやって来た。

「静かにせえ。爺さん。明朝まで辛抱出来んか」

「出来るもんか。早く出せ。行かせないなら、ここでやってしまうぞう」

 刑事が通路にそのままぐずぐず立っていたものだから、爺さんはすっかり腹を立てて、小量ではあったが本当に房の隅に排出してしまった。房内でやられては僕らもたまったものではない。僕らは総立ちとなり、大さわぎとなり、ついに刑事も錠をあけるの止むなきにいたった。爺さんはそれで小走りで便所に走って行ったが、用が済んだあとで刑事から二、三度頭をこづかれたらしかった。しかしこの直接行動のおかげで、爺さんは在房中あと三度か四度、時間外の便所を許可されたと思う。

 この爺さんは便所だけでなく、あらゆる点においてワカラズヤだった。つまり留置場の中の習俗を一切受けつけないというわけだ。飯時になると、こんなポロポロ飯は胃に悪いからおかゆにかえてくれとわめくし、咽喉(のど)が乾いたからお茶を一杯持って来いと叫ぶし、僕らも少からずてこずった。爺さんにして見れば、家出はして来たが、何も悪事を働いたわけではなし、こんな拘束を受けるいわれがないという気持なのだろう。それは勿論そうだが、当時の留置場の常識としては、そんな言い分は通らない。しかし爺さんが自ら信じてこんなワカラズヤをやったのか、あるいは擬態としてそうふるまったのか、僕は今でもよく判らたい。とにかく爺さんは房内でも、特別あつかいと言うか仲間外(はず)れと言うか、そんな待遇を受けていた。坐る場所はもちろん一番奥の座だ。

 一度僕らがタバコの廻し喫みをしている時、爺さんが自分も喫いたいとわめきかけて、房内は大狼狽、あぶなく刑事に感づかれそうになったことがある。もし見付かれば懲罰を受けるから放っておけない。そこで僕は奥の座まで膝行して、爺さんを前にして、含み声で懇々(こんこん)と訓戒をあたえた。二十前後の青二才の僕が六十爺に訓戒をあたえるなんて、今思えば奇怪にして滑稽な話だが、あんな世界に住むとそうなるんだから仕方がない。(だから結論としては、あんな歪んだ世界を世の中に存在させなければいい)

 どんな訓戒を与えたかと言うと、どれほど息子夫婦が仲が良いか知らないが、家出して来るなんて不心得もはなはだしいこと、一旦ここに保護されたら房内のチツジョを乱しては困ること、息子が引取りにくるまでは隠忍自重するのが得策であることなどを、僕はじゅんじゅんとして説き聞かせた。

 すると爺さんはそんな僕に反撥したのか、房内では皆仲良くせよと言うけれども、お前さんたちは私にシラミをうつして迷惑をかけたではないか、というようなことを言い出して来た。そこで僕は、この留置場は近頃建ったばかりだから、よその留置場のようにナンキン虫がいない、それだけでも感謝すべきであること、シラミぐらいは我慢すべきであることなど説明した。実際この留置場にはナンキン虫はいなかった。ナンキン虫というやつは巣をつくり、そして夜な夜な人体をおそう習性を持っている。つまり『通い』なのだ。ところがここは建ったばかりで、ナンキン虫の巣くうような隙間がまだ全然ない。ナンキン虫が出ないのはそのせいだが、シラミの方は、そうは行かない。この虫はナンキン虫と違って『住込み』だから、巣なんか必要としないのだ。常住人体にくっついている。これを根絶させるのは割合に容易で、着ているものを全部脱いで、熱湯で煮れば済む。だけど留置場の中ではそんなことは出来ない。熱湯もないし、第一寒くって真裸なんかになれっこはない。こういうわけで、シラミ族は大いに繁栄し、爺さんのみならず僕もたいそう困っていた。

 しかしこの僕の訓戒も、お爺さんにはあまり効き目がなかったようだ。爺さんは最後までワカラズヤを押し通して、三日目の朝迎えに来た息子に引取られ、いそいそとして出て行った。

 それから一年ほど経った頃、僕はこの爺さんを電車の中で見かけたことがある。偶然僕と向き合って腰掛けていたのだ。僕が認めたと同時に、爺さんも僕を認めたらしい。一時妙な表情をして、視線をさりげなく窓外にうつしたようだった。十徳をかぶり、渋い御隠居という風に眺められた。ただそれだけだった。僕も爺さんに話しかけなかったし、もちろん爺さんも僕に話しかけて来なかった。話しかけて肩をヤアヤアと叩き合うには、僕らは年齢がちがい過ぎていた。もはや僕らは鉄格子の中のワカラズヤ対ダイガクではなかった。裕福な御隠居対貧乏大学生であり、そこに通じ合うものは何もなかったのだ。そして爺さんは顔をそむけたまま、次の駅でそそくさと下車して行った。やはリ僕と出会ったのはあまり愉快なことではなかったのだろうと思う。

[やぶちゃん注:「十徳」「じっとく」であろうが、不詳。大黒天が被っているいるような、還暦の祝いに被る丸頭巾・焙烙(ほうろく)頭巾のようなものか。]

 

 特別あつかいというと、白系露人が二人入って来たことがある。僕らから通路をへだてた向いの第七房だ。どんな容疑で入って来たのか知らないが、二人ともほとんど日本語がしゃべれなかった。外人が入房して来るのは珍しいことらしく、刑事たちもその取扱いに困ったようだった。

 この二人組がワカラズヤと同じく箱弁の食事を拒否した。ワカラズヤの場合は拒否しても通りっこないが、二人は露人だから拒否する根拠がある。こんなのは咽喉に通らないと主張することだって出来るのだ。頑として食べないものだから刑事もすっかり当惑したらしい。

 一体に留置場の刑事は、房内に何か事故があると、その成績に関係するものらしい。だから何時も威嚇的に、時には懐柔的な態度に出て、間違いが起きないようにする。たとえば、喫煙はここでは厳禁されているが、刑事の方から何か褒賞(ほうしょう)の意味でタバコに火を点けて、鉄格子越しに喫(す)わせてくれることも時折あった。もっともこんなことは、人の好い刑事の場合に限っていたが。

 だから露人拒食の件も放っておくわけには行かない。うっかりすると食事を与えなかったということになりかねないのだ。それは房付き刑事の責任なのだから、僕らはどうなるかとその成行きを見守っていた。

「コレ、ダメ。クエナイ。パンヲクレエ」

 と赤毛が拳をにぎり、それを振りながらさけぶ。体も大きいから声も大きい。刑事はしきりにぼやきながら、自分のふところから金を出したのかどうかは知らないが、そこらの店から食パンを買って来た。

 露人たちはそれを受取り、今度は合唱するように、二人してわめき出した。

「スープヲクレエ。スープヲクレエ」

 パンをあてがった以上、スープか何か与えないわけには行かないだろう。だから又もや刑事はぼやきながら飛び出して行って、野菜のたぐいを少々買い集めて来た。控えのところの火鉢に鍋をかけ、それで野菜スープをこしらえるつもりらしい。一時間余りもかけてゴトゴト煮て、どうにかそれらしきものをつくり上げたようだ。もっとも武骨な男手だから、どんな味のものが出来上ったことやら。

 それを丼に入れて持って行ったところが、露人たちはそれを一目見て、ちょっと匂いをかいだだけで、また大声でわめき出した。すっかり腹を減らしたと見えて、わめき声も険を帯びてきた。

「コレ、スープデナイ。ホントノスープヲ、ハヤククレエ!」

 鉄格子に摑(つか)まって地団太を踏んでいる。極端な片言の日本語だから、よく意味がくみとれないが、こんなインチキスープでなく、本物のスープを町で安く売っている、それを買って来てくれ、とわめいているようだった。身振りも手振りもそこに入る[やぶちゃん注:「そこにいる」で「どう見ても、そういうことを意味しているようにしか見受けられない様子である」の意であろう。]。それを眺めていた房内の一人が、やっとそれを了解したらしく、鉄格子の中から刑事に進言した。

「旦那、この連中はワンタンかラーメンを食べたいらしいですぜ」

 そこで刑事の一人がすぐに電話をかけ、やがてワンタン二つが店から届けられて来た。それを見て二人の露人は手を打ち合わせて大よろこびした。

「オオ、スープ。ホントノスープ」

 僕らは遠くからワンタンの湯気を眺め、かすかなコショウの香をかぎ、彼等二人の露人を祝福すると共に、ちょっとうらやましい気にもなった。そしてワンタンやラーメンがほんとのスープであり、いわゆる病人に与えるような野菜ソップはインチキスープであると、非常に役に立つ学問をした。[やぶちゃん注:「野菜ソップ」「ソップ」はオランダ語「sop」。スープの古い呼称。個人ブログ「ラメールアリス 神秘の扉」の『江戸の「野菜ソップ」を再現』に『江戸の町に出回っていたという「野菜ソップ」なるもの』を再現してみたとする記事があり、それは『主に根菜類を入れたスープ』で、牛蒡は『乱切り』にし、ジャガイモ・ニンジンは大きさによって四つか八つに切る』。『それに』蓮根と糸蒟蒻、『大根の葉も入れて』『コトコトと煮る』。『食すときに』、『塩で』、『ちょっと』、『味をつける』。『江戸の町では、地震や火事の後の炊き出し、川に落ちた人や歩き疲れた人などに、講単位で大鍋で作ってふるまったものだそうで、滋養汁とされていた』。『町角でも、「風邪ひきや」と称して売られていたものだとか。風邪をひいたときも、熱々の野菜スープを飲んで』二『日もぐっすり眠れば、たいてい治ってしまったというサプリメントのようなスープ』であったとある。]

 そういう具合にこの露人たちも、留置場の習俗をほとんど受付けなかった。受付けるにも言葉が通じないので、受付けようがないのだ。そのせいかこの露人たちは割に陽気だった。北方民族の強さか、こんな最低の生活も、そう苦にしている気配はなかった。もっとも彼等はある目の昼頃入房してきて、一晩泊り、そして翌朝出房という、ごく短い滞在だったけれども。

 定刻の便所通いは、第一房から順々に出される。最後が女人房の番ということになる。女人房は通路の一番奥にあった。女人房の広さは僕らのと同じらしいのだが、留められているのは、僕がいた間では三人か四人平均で、ゆったりとしていた。僕らの房は多い時は十三、四人も詰められて、夜マグロのように並んで寝ると、もう寝返りも打てなかった。その点女人房はめぐまれていた。

 で、僕らが全部用便が済んで、今度は女人の番となる。女人たちは便所へ行くのに、どうしても男の房の前を通らねばならない。その姿を眺めるのは、僕はそうでもなかったが、他の男たちにとっては愉しみのようなものであったらしい。目を皿のようにして眺めたり、ひそひそとささやき交したり、わざと大きなセキバライをしたりする。彼女らも帯紐のたぐいは没収されているので、着物はだらしなく着くずれていて、それで歩こうとするのだから、ある種の艶(なま)めかしさがあると言えば言えた。

 一人だけ若くて割に美しいのがいた。その女はここでは相当に古株らしく、人気も一番あるようだった。房の前を通る時、彼女は僕らにその横顔だけしか見せないが、それは陶器のようにつめたい感じのする横顔だった。仁木がそっと僕に教えてくれた。

「あれだよ。愛人を毒殺しようとして、失敗した女さ。そら、新聞に出てただろ」

 不幸にして僕はその新聞記事を読んだ記憶はなかった。彼女が通ると、男の房内のざわめきだのささやきだのセキバライなどが、わざとらしく高まってくる。その気配に乗じて先刻の露人の一人が、頓狂な声を立てたので、係りの刑事がすっかり怒ってしまって、控え所から飛び出して来た。

「誰だ。今、へんな声を出した奴は!」

「へえ。こいつです」

 第七房の名主が露人を指差して答えた。露人はキョトンとした顔で刑事を見ている。刑事はいまいましげに舌打ちをした。

「スープじゃわめくし、女を見りゃわめくし、実際やり切れない毛唐(けとう)だな。お前らが何かそそのかしたんだろう」

「へえ御冗談を。そそのかそうたって、言葉が通じませんや」

 刑事がプリプリしていることだけは判るらしく、露人はすこし恐縮の表情だった。刑事はふたたび舌打ちをして、全房の男たちに命令をした。

「みんな格子に背を向けて、壁の方を向け!」

 僕らはその通りにした。これで皆通路は見えなくなる。次の用便の時間のときも、僕らは壁に向わされた。うっかり頭をめぐらせたのを発見された者は、通路に出されてひっぱたかれた。刑事としては、それでシメシをつけたかったのだろうし、それに在房の連中が女に関心を持つことが腹立たしかったのだろう。なんと言っても刑事たちは、在房の僕らを人間以下、自分以下に見たがっていること明瞭だった。下級の刑事というものは、上からの圧力には弱い。ぺこぺこしている。その弱さが僕らに対する時には、逆に強さとして出て来る。必要以上に僕らを蔑視する傾きがある。僕は後年軍隊にひっぱられ、下士官という階級に接した時、やはりその刑事根性と同じようなものを感知した。これはある種の地位に置かれた日本人がおち入る特有の傾向らしい。

 そういう刑事たちの傾向は、男たちに対してだけではなく、女たちにも向けられていたようだ。新しい女が送られてくる。その女から帯紐を取上げたり、身体検査をするのは、控え所の刑事の役目だった。そんな場合にやはり行き過ぎのようなことがしばしば起きる。

「おい。お前らは皆壁を向いてろ!」

 そして僕らの眼を封じておいて、何かをこそこそとやるらしい。年若いきれいな女給が一人入って来た時もそうだった。女給になり立ての、まだ初心(うぶ)らしい女だったが、それに刑事は何かぼそぼそと命令している。会話の内容はよく聞えない。そんなぼそぼその会話が断続して、その揚句、

「まあこれも脱ぐの?」

 思い余ったような、怒ったような女の声がした。僕らは面壁のままだから、彼女が何を脱がされているかは見えないが、もちろん想像はつく。

「勝手なマネをしてやがるな!」

 僕の傍でラジオがそう呟いた。僕も同感だった。そんなことがしばしばあった。それに対して僕は公然と反感を表明することは出来ない。監督者としての刑事の地位は、やはり絶大であったからだ。

 

 我が房の名主仁木某は、その点なかなか要領が良かった。

 仁木は心の中では刑事というやつを、徹底的に軽蔑していた。しばしば僕に語ったように、彼は刑事というものは泥棒以下の存在だと信じていた。

 その癖仁木は、面と向っては実にうまく刑事に取入っていて、いつも可愛がられたり便宜をはかって貰ったりしていた。刑事の気持や感情をよく知っていて、そこでうまくおだてたりするので、刑事たちも暇をもて余すと、第六房の前にやって来る。そして世間話をしかけたり、からかいかけたりする。仁木はこのからかわれ方の実にうまい男だった。からかいに応じて、適当にしょげてみたりすねてみたり、壺にはまった応対をして、刑事の自尊心を満足させてやる。それで刑事もよろこんで、仁木の求めに応じて、タバコを喫ませてくれたりする。そのやり方はタバコに火をつけて、吸い口の方を鉄格子の間から差人れる。タバコ一本をすっかり房内に渡してくれるのではない。刑事の指がタバコの胴中をちゃんとつまんでいて、僕らの方から顔をそこに持って行き、幼児が母親の乳房に対するように吸いつくのだ。

 その配当にあずかるのは、仁木以下三番目か四香目の古手までで、あとはあぶれてしまう。刑事の方で手をひっこめるからだ。

 そして刑事が控え所へ戻って行くと、仁木は何とも憎たらしい顔をして、舌をべろりと出してみたりするのだ。それは刑事に対する嘲りでもあるが、同時にそういうオベンチャラを使った自分への自嘲かも知れなかった。

 仁木は詐欺容疑だった。詐欺の内容がどんなものか、くわしくは僕は知らないけれども、仁木が留置場に入るのはやはり始めてではないらしかった。そして仁木は詐欺行為を他の泥棒や傷害などより、はるかに高級なものだと自任している傾きがあった。まあ詐欺は知能犯に入るから、その自任もある意味では当然と言えるかも知れない。僕が見るところでは、大体累犯(るいはん)者は自分の仕事に自信を持っている気配がある。あのラジオが無銭飲食をスポーッ的に考えているのもその一例だ。やはり僕らの房に強姦未遂者が入って来たが、その男も自分の所業に優越を感じている節が見えた。その男の言を綜合すると、強姦というのは何も物質的な利益はない。それだけに純粋無雑の犯罪だと言う説なのだが、そういう理窟が成り立つかどうか。その間に伍(ご)して僕は僕の犯罪に全然自信がなかった。もっとも婆さん相手の傷害罪など、あまり威張れたものではない。

 今書いたように仁木は、軽蔑すべき刑事に対してもうまくふるまっていたが、同房者に対する態度もなかなか抜け目がなかった。彼は身辺にある種の妖気のようなものを持っていて、それで同房者を威圧するようなところがあった。新しい入房者があるとする、彼は房名主の位置から、じっと新入りを観察している。そしてたちまちその新入りの性格や傾向を見抜いてしまう風だった。仁木の言葉によれば、こんなところに入って来るような奴は、大ざっぱに二つに分類出来るということだった。

「一つは骨のある奴だな、勢い余って悪いことをするやつだ」

 すなわち叛骨(はんこつ)を持った奴、意識的に罪を犯す奴、そんなのが第一の分類に入る。第二の分類はその反対の者。無気力な奴。世間から追いつめられて罪を犯す奴。自主性のない犯罪者。仁木の分類によると、そういうことになるようだった。そして仁木は前者は認めるが、後者は全然認めなかった。鼻もひっかけないという態度をとった。だから房内における地位も、前者はどんどん昇進し、後者はいつまでもウダツが上らないということになる。その点仁木ははっきりしていた。

 この僕も昇進が非常に早かったところを見ると、筋金入りの犯罪者と仁木から認められたのかも知れない。有難いような情ないような気持だった。

 さて、僕が副名主になった頃から、仁木はしきりに僕の釈放を待ちのぞみ始めた。他人の出房を待望するなんて、へんな話だと言えるが、そのからくりは簡単だ。前にも書いたように、仁木は僕の出房に託して、房外との連絡をとりたかったのだ。

「いいかい。小田急線の経堂だよ。豪徳寺という駅の次の駅だ」

 僕はその頃東京に出て一年足らず、足を伸ばしたのもせいぜい新宿どまりで、小田急なんて電車に乗ったこともない。そこで仁木の説明もなかなか骨が折れる風だった。

「経堂という駅で降りる。出口はひとつしかない。そこを出て、今来た方向と逆の方向に道を戻る」

 なにしろ刑事の眼をぬすんでの会話だし、紙もなければ鉛筆もないし、説明に時間がかかる。つまり彼の依頼か命令かを綜合すると、先ず僕は釈放され、その足ですぐ小田急経堂へ行く。そしてその付近の田辺というソバ屋を訪ね、その田辺ソバ屋に働いている富岡という男に会う。それが僕の役割の第一段階らしい。

「その富岡てえのは、俺の仲間だ。年頃も大体俺と同じ位だが、俺より瘦せてて、目がギョロギョロしている。エノケンみたいな顔だと思えばいい。え。そいつは主にソバやウドンの配達をしているんだ」

 そこで僕は客をよそおって、その店に入る。もし富岡がいなければ、ソバでも食べながら待っている。とにかく富岡をつかまえて会う。その会い方も、あまり秘密めかしてこそこそしない方がいい。と言うのは、富岡はその店では不良ではなく、カタギとして雇われているからだ。こんな具合に仁木の注意や指図は、なかなかこまかかった。

「で、富公にだな、俺がここに入っていること、ブタ箱の中で俺に知り合ったということを言う。大体富岡はそのことを知っている筈(はず)だ。そしてだな、俺から富公への頼みとして、すぐに牛込の辰長というところに行って貰う。辰長と言えばすぐにあいつは判るよ。至急に話をつけて呉れって、それだけ言って呉れればいい」

「牛込の辰長に直ちに話をつけろ、それだけ言えばいいんですね」

 僕も声をひそめで、さも熱心そうにそう反問した。実を言うとこの僕が、釈放後直ちに経堂におもむき、ウドン屋[やぶちゃん注:ママ。]の富公に会い、そんな伝達をする、考えてみても全然現実感がなかった。出房すれば、他人ごとどころか、自分の問題が山積しているに違いないのに、何がウドン屋の富公か。しかしここでうわの空の応対をしていては、仁木の怒りを買うおそれがあるのだ。

「そうだ。それだけでいいんだ」

 仁木はそれ以上の内容を僕に打明けなかった。ただそれだけのことを、暇さえあれば僕に復命させ、僕の頭に叩きこむ方法をとった。今思えば、それはずいぶん僕を踏みつけにした話だ。すなわち僕にこの内容をほとんど知らせず、口先だけの使い走りをやらせようとしたわけだ。『ダイガク』の権威もてんで認められなかった勘定となる。

 それから仁木は、僕に何もお礼が出来ないからと言うわけで、手製の小さなワラジを三箇僕に呉れた。これはコヨリでつくった長さ三センチばかりのもので、留置場生活は退屈なものだから、こんなものでもつくって暇をつぶすのだ。もっともこんなワラジをつくるのは、留置場慣れのした奴に限っている。彼等は総じて、僕みたいに暇を持て余してイライラすることなく、どうにかやりくりして充実した一日を送っているようだった。ワラジつくりもその一方法なのだ。

 そんな貴重なワラジであるから、僕もていねいにお礼を述べ、内ポケットのなかに大切にしまい込んだ。しかしこんなものを呉れたから、経堂まで出かける気になったかと言うとそれはまた別問題だ。

 仁木が僕に使い走りをさせる。そのやり方にヒントを得て、実は僕もある出房者に中野の霜多への連絡を頼んだことがある。その男は月給取らしい風態で、泥酔して僕らの房に一晩留置されたのだ。僕はその下心があったので、入房の晩もちゃんと介抱してやったし、翌朝飯も食わずにションボリしているのを、近づいてなぐさめてやったりした。話を聞いてみると、市役所勤務の若い雇員で、係長宅に招かれて酒を飲み、帰りにまた泡盛(あわもり)屋に寄って飲み、それっきりあとは判らないのだと言う。おそらく道端ででもひっくり返っていて、保護のためにここに連れられて来たに違いないのだ。それならば朝の十時までに出房出来るだろうというのが、僕のねらいだった。[やぶちゃん注:「雇員」「こいん」。官庁などで正式の職員としてではなく、雇われて事務などを手伝う者。]

「大丈夫だよ。直ぐ出られますよ」

 雇員があんまりクヨクヨしているので、僕は肩をたたいてなぐさめた。しかし雇員は元気を取戻さなかった。

「ええ。でも、出られても、今日は遅刻になってしまう」

 こんなところに入れられたことより、入れられたことによって役所を遅刻する、そのことの方をクヨクヨしていたのだ。僕は学生だったから、勤め人のそんな神経はとても理解出来なかった。

「ねえ、それで一つ頼みがあるんだけど」

 と刑事の眼をぬすんで、僕は忙しくささやいた。

「中野の霜多という僕の友人のところに行って呉れませんか」

「ハア」

 と雇員はきょとんとした眼で僕を見た。

 僕はそこで、僕の事件を至急解決して欲しいと霜多に伝えて欲しいこと、そして霜多の住所の地図をいそがしく説明した。厘員はかしこまったような表情で、いちいちうなずいていた。それまでの僕の親切に対する感謝や同情の念が雇員のその態度に出ているように思えて、僕の言葉にも自然と力が入った。

「判りましたね。必ず行って呉れますね」

「ハア」と雇員はちらと僕を見てうなずいた。「もし出られたら、今晩にでも行って見ましょう。中野の霜多さんでしたね」

「そうです。是非お願いします。いずれ、お礼は、僕が出てからでも――」

 それから二十分も経たないうちに、雇員は呼び出されて出て行った。出て行く時、僕にむかって目くばせのようなものをした。

 目くばせもしたし、身分が役人だから約束を守るだろうと僕は安心していたが、後で判ったことだが結局この役人は僕との約束をすっぽかしたのだ。判った時は僕ももう出房していたのだから、そう腹も立たなかった。どうも留置場の内での約束なんて、あまりあてにはならないものだ。

 後年僕は軍隊に引っぱられ、苦労の日々の中で、僚友といろんな約束したり申し合わせしたりしたが、復員と同時にそんなことはケロリと忘れてしまった。状況としては同じようなものだろう。極限された状況の中での約束だの誓いだの言うものは、解放されたとたんに効力を失ってしまうものらしい。

 イライラした気持の日がそれから二日つづき、そして三日目の朝、朝食後、刑事が突然房外から僕の名を呼んだ。僕は坐った姿勢からたちまちはね起きた。

「頼んだぞ!」

 仁木の低いささやきを耳にして、僕は背をかがめて扉を出た。いろいろお世話になりました、と言うつもりだったが、外に出ると少し浮足立って、ついに失念してしまった。

 刑事は僕を控え所まで連れて来ると、そこに僕を待たせ、やがて僕の所持品をまとめたものを手にして戻ってきた。これで出房がハッキリした、と僕の胸はおどった。

「いいか。もうこんなところにやって来るんじゃないぞ。判ったな」

「はい、判りました」

 出られるとすれば何でも言うことを聞いてやる。そんな気持で僕は返事をした。所持品をすっかり身につけると、僕は房の方をふり返った。第六房の方は薄暗く、仁木の姿もほとんど認め難かった。

「こっちに来るんだ」

 と刑事が僕の腕を引っぱった。

 刑事に引っぱられて、僕は廊下に出た。廊下を少し歩いて、刑事はそこらの小部屋の扉を押した。その部屋の中に腰かけている霜多の姿が、ちらと目に入ったとたん、どうも僕の頰の筋肉は自ずからぐにゃぐにゃとゆるんだらしい。刑事が僕の肩をぐんとこづいた。

「ニヤニヤするんじゃない。この野郎。出られるかと思って――」

 僕は頰を引きしめようとしたが、やはりうまく行かなかった。刑事は部屋に入ると、霜多にていねいな口をきいた。

「どうも御足労かけましたなあ」

 そして僕の方を見て怒鳴るように言った。

「さっさと入って来るんだ!」

 僕と霜多とは同じ学生なのに、待遇がてんで違う。でもそれもそう気にしないことにした。あと何分かでここから解放される。解放されてしまえば、もうこっちのものだ。

 霜多を前にして、刑事は僕に対して最後の短い訓戒を与えた。短かったけれども、文句があまり月並だったので、僕はすこし退屈をした。すると刑事がまた僕を叱った。

「上の空で聞くな。この野郎!」

 それから刑事は霜多に向って、この僕を引渡すけれども、以後こんな事件を起さないように呉々(くれぐれ)も監視して欲しい、という意味のことを言った。どうも僕がここを出るについて身許保証人が必要で、その役目を霜多が引受けているらしい。僕はいささかシュンとなった。霜多はまったく落着きはらって、微笑さえうかべて刑事と応対している。

 それから十分後、僕らは署の玄関を背にして、大階段をゆるゆると降りていた。

「今日は割にあたたかいようだな」

 と、感慨をこめて僕は言った。空からは日の光がおちていた。冬の陽だったけれども、それは僕に大へん豊富な感じがした。風はなかった。

「さて」階段をすっかり降りて僕は霜多に話しかけた。「とにかく煙草一本呉れ。それからテンプラか何か、油っこいものが食べたいな。あそこの食事はなにしろひどいもんだよ」

 一本の煙草は、三分の一も吸わないのに、目がくらくらした。僕はそれを溝へ投げ捨て、それから何となく肴町の方に向って歩きながら、一週間も僕を放置したことについて、霜多にうらみ言を言った。すると霜多は、心外だという表情で僕を見た。

「そんな呑気な話じゃなかったんだぜ」

 と霜多は僕をきめつけた。

「あとでゆっくり話すけれども、あの婆さんはね、どうしても君を告訴すると頑張ってね、あぶなく君は告訴されかかったんだよ」

「へえ」

「示談にして貰うのに、僕は一週間かけ廻った。やっと五拾円という金をつくって、婆さんに渡したんだ。これで勘弁してやって呉れってね」

「五拾円?」

 と僕は目を剝(む)いた。そして次の瞬間、全身から力が抜け切ったような虚脱感が来た。娑婆に出たのは嬉しかったが、出たとたんに物すごく荒い風が吹きつけて来る。あとは黙って歩いた。

 そして僕らが入ったのは、肴町のテンプラ屋だった。あのラジオが無銭飲食をしたという店だ。天丼を二つ注文して、それが運ばれるのを待つ間に、戸外がにわかに暗くなって、サアッと通り雨が路上を走った。切実な話題を避けるために、僕は霜多にラジオという男の話をした。もちろん店の人に聞えないように。低い含み声でだ。霜多はあまり興味なさそうにそれを聞いていた。そして僕が話しながら、しきりに肩を動かしたり腕を動かしたりするものだから、ついに彼は口を開いた。

「しきりに動くようだが、シラミでもいるんじゃないかね?」

 天丼は旨かった。この世にこんな旨いものがあるかと思われるほど旨かった。僕は最後の一粒もあまさず、むさぼり食べた。

 二人前六十銭を支払って、のれんをくぐって表に出た時、霜多が小さな声で叫んだ。

「虹が!」

 僕も空を見た。西の方の空に、冬にはめずらしい大きな虹がいっぱいに出ていた。それは見たこともないような大きな虹だった。大きなアーチをつくって、その裾の方は七彩のまま頽れかかっていた。僕はのれんを摑んだまま、しばらくその色に目を凝らしていた。そして意識的に感傷におもむこうとしていたようだった。

 

[やぶちゃん注:さても最後に種明かしをする。底本全集の別巻の年譜によれば、昭和十一年の条の末尾に、梅崎春生は昭和十二(一九三七)年(時期不明)に、『幻聴による被害妄想から下宿の老婆をなぐり』、『一週間留置された』とある。より詳しい年譜が載る、所持する中井正義(まさよし)著「梅崎春生――「桜島」から「幻化」への道程」(昭和六一(一九八六)年沖積舎刊)の年譜でも、同じく昭和十一年の条の末尾に『自分で勝手に留年延長した一年を含めて大学での四年間は、何となく教室に出そびれて、試験日のほかは講義に一日も出席しなかった。例の怠け癖のせいであるが多少鬱病気味でもあったらしい。十二年になると、幻聴による被害妄想から、下宿の雇い婆さんを椅子でなぐりつけて負傷させ、留置場に一週間ほどぶちこまれたりもしている』とあって、時期は特定出来ない。先の全集別巻に所収されている親友松本文雄(熊本第五高等学校の同期生らしい。個人ブログ「五高の歴史・落穂拾い」の「かざしの園」という記事に「続龍南雑誌小史」(昭和九(一九三四)年度二百二十七号より二百二十九号)という本が示されており、その編集委員に『松本文雄、北野裕一郎、梅崎春生、柴田四郎、島田家弘』とある。春生は五高には昭和七年四月入学である。「昭和二〇(一九四五)年 梅崎春生日記」にも氏名が出る)の「旧友梅崎春生」(初出は昭和四一(一九六六)年十二月新潮社刊「梅崎春生全集②」月報)の一節に、

   《引用開始》

 昭和十一年か十二年、つまり、彼の大学一年か二年の九月、夏休みあけで上京した私は、梅崎拘留事件なるものを知った。どこかで酔っぱらって、夜おそく下宿に帰った彼は、ささいなことから、下宿の婆やと口論めいたことをはじめた。そして、その婆やが、何かのはずみで敷居に転び、かるい怪我をしたそうである。興奮した婆やは、医師の診断書をとり、それを証拠に、梅崎君を訴えたので、彼は、本富士警察署[やぶちゃん注:ママ。]の留置場に入ることになった。友人の一人が、勇をふるって貰い下げに行くと、全治五日間の診断書の処置に困っていた警察は、待っていましたとばかりに即時釈放。こんなことがあって、下宿も気まずくなり直ぐに引っこすものと思っていたら、一向にその気配がなく、はたの者がやきもきしていると、彼は、「俗人には判らぬ深謀遠慮でね」とにやにや笑う。もう一度、婆さんと喧嘩して、心頭に発するまで怒らせ、今度は、梅崎君の方で傷をうけ、そのあとは、診断書、婆さんの留置所入りというコースで復讐するのだそうだ。計画どおり旨く問屋がおろすかなと、半信半疑だったが、案の定、なかなか機会がなく、ついにくたびれて転居したけれど、この拘留生活には弱ったらしい。とは言え、お互に本名を呼ぶもののないこの社会では、この作家の卵も例外でなく、牢名主みたいな男から、テイダイ(帝大)という尊称を賜り、またとない見聞をした訳である。「寄港地」の時代のことであった。

   《引用終了》

というのが、私の縦覧したものでは、情報が多く書かれている一つかと思われる(最後の部分は多分に本篇に基づく記載であると思われる)。また、動別巻には、やはり五高時代の同級生で親友の、本篇の登場人物である「僕」の友人「霜多」のモデルである小説家霜多正次(しもたせいじ 大正二(一九一三)年~二〇〇三年:沖縄県国頭郡今帰仁村生まれ)が書いた「学生時代の梅崎春生」(初出は松本文雄のそれと同じ)が載るが、その一節に(最初に言っておくが、この事件には触れていない)、

   《引用開始》

 梅崎は京大の経済学部にいくつもりだといっていたが、私は、東京にこないかと彼にたびたびすすめた。東京で雑誌を出す計画がすすんでいて、ぜひ梅崎にも加わってもらいたかったからである。

 梅崎は東京にくることになり、どの科がいちばんラクかといってきたので、私は国文科がいいだろうといい、彼は昭和十一年に東大の国文科に入った。そしてさっそく「寄港地」という同人雑誌をはじめ、彼はそれに「地図」[やぶちゃん注:私は既にPDF縦書版を公開している。]を書いた。それは、それまで詩ばかり書いていた彼のさいしょの小説だった。

 大学でも、彼は教室にはぜんぜん顔を出さなかった。昭和十五年に卒業するまでの四年間、ただの一回も講義には出なかった。

 昭和十四年に書いた「風宴」[やぶちゃん注:「青空文庫」のこちらで読める。]という小説に、そのころの彼の生活がかなりくわしく描かれている。「どのみち退屈を食ってしか生きられぬ男」の頽廃の根をさぐろうとした作品であった。

 そのころ、梅崎は毎日のように私の下宿にやってきて、私をどこかへ誘い出した。それはたいてい映画か、喫茶店か、浅草のオベラ館か、あるいは不忍ノ池の附近をぶらついて暇をつぶし、やがて酒になる、という生活だった。朝の十一時ごろ起きて下宿屋の朝食?を食っていると、いつも決ったように梅崎がひょろひょろと蒼白い顔して私の部屋に入ってきた。そしてきょうはどうして一日をすごそうかという顔で、黙って坐るのだった。私はうるさいと思うこともあったが、けっきょく彼といっしょに、そのときの懐具合に応じて、どこかへ出かけた。

 彼がやってこないときは、私が彼の下宿に出かけていったが、そういうとき、彼はいつもフトンにもぐったまま額にタオルをのせて本を読んでいた。彼は寝るとき必ず病人のように額にタオル(ぬれたのでなく、乾いたの)をのせる習癖があった。そうしないと感覚が不安定になるのだといっていた。

 そういうふしだらな学生生活を私たちが送っていたのには、もちろん梅崎と私とでは、それぞれ個人的にも理由がちがっていたと思う。しかし共通して、当時私たちにそのような生活を強いる客観的な時代の雰囲気というものもあったと思う。

 たとえば、梅崎は「風宴」で、「本郷通りの並木の蔭に街燈が灯った。相変らず白痴のような表情した帝大の学生や、小癪な面構えをした洋装の小娘が、私に逆うようにして通り過ぎる。」と書いているが、当時私たちにとって、自分たちの同僚であるはずの「帝大生」は、やがて権力の座につくことを自負している「白痴のような」俗物にすぎなかった。

 こういう感覚は、たとえば芥川や久米、菊池などの時代まではなかったものだといっていいだろう。昭和のはじめプロレタリア文学運動がおこったころから、たとえば梶井基次郎などにそれがあらわれ、そして私たちの学生時代には、太宰治や高見順などによって、それは文学青年のあいだにほぼ支配的な感覚となっていた。

 そのうえ、二・二六事件から「支那事変」へと、時代はますます暗くなるばかりであった。そういういわば「暗い谷間」でのどこにも情熱のはけ口のない鬱屈した青春を、梅崎は「風宴」で定着したのである。

   《引用終了》

とあるのは非常に参考になろう。

 なお、この公開後、直ちに、前篇に当たる「その夜のこと」と本篇を合わせた縦書PDF版を作成して公開する予定である。]

2021/03/20

ブログ・カテゴリ「和漢才図会抄」始動 /「和漢三才圖會」巻第六十「玉石類」「珊瑚」

 

[やぶちゃん注:私は既に江戸前・中期の医師寺島良安(承応三(一六五四)年~?:生まれは出羽能代(一説に大坂高津とも)生まれの商人の子とされる。後に大坂に移って、伊藤良立・和気仲安の門人となり、医学・本草学を学んだ。後にこの業績が評価され、大坂城入りの医師となり、法橋に叙せられた。この間、明代の医学の影響を受けた著書を多く刊行した。その最晩年の事蹟は不明であるが、享保(一七一六年~一七三六年)の頃に没したとされる)の主著である正徳二(一七一二)年に刊行した類書(百科事典)「和漢三才圖會」(「和」は「倭」とも表記する。全三百巻から成り、明の類書「三才圖會」(明の一六〇九年に刊行された王圻(おうき)とその次男王思義によって編纂された。全百六巻)の分類・構成を参考にして執筆された本邦初の絵入り百科事典である。但し、本草部は、概ね、明の李時珍の「本草綱目」を基礎記載を用いている。本文は漢文体であるが、丁寧に訓点が打たれてある。私は本書を偏愛しており、サイトで「和漢三才圖會」の水族(海藻・海草・淡水藻の他に菌類・菌蕈類・蘚苔類・地衣類・シダ類等を含む)の部全七巻、

卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類

卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類

卷第四十七 介貝部

卷第四十八 魚類 河湖有鱗魚

卷第四十九 魚類 江海有鱗魚

卷第五十  魚類 河湖無鱗魚

卷第五十一 魚類 江海無鱗魚

及び、

卷第九十七 水草部 藻類 苔類

を、以下、一部を除いてブログで動物部の、

卷第三十七 畜類

卷第三十八 獸類

巻第三十九 鼠類

卷第四十  寓類 恠類(これはサイト版)

卷第四十一から巻第四十四 禽部

卷第五十二から巻第五十四 蟲部

を、実に十二年半かけてオリジナル電子化訓読注をし終えている。しかし、いろいろな電子化注をする中で、これは必要と思われるものを注の中で電子化することも多く、また、注が長くなるために、それを見送るケースもたまにあった。そこで、そうした部分電子化(巻ごと全部ではなく)を、独立して、気軽に電子化するために、このブログ・カテゴリ「和漢三才図会抄」を始動することにした。

 本文テキストの底本は一九九八年刊の大空社版CD-ROM「和漢三才図会」を用いた。但し、本文中に用いた各項目の画像データは、当該底本に発行者による著作権主張表記があるので、平凡社一九八七年刊の東洋文庫訳注版「和漢三才図会」が所載している美麗な画像を取り込んだものを用いている(一部の汚損等に私の画像補正を行っている)。なお、これについては文化庁の著作権のQ&A等により、保護期間の過ぎた絵画作品の複製と見做され(特に新たに描画したという記載は当該本にはない)、著作権は認められないと判断するものである(これに従えば、大空社版CD-ROM「和漢三才図会」もそれに相当するから、実際には使用して問題はないが、汚損のない「東洋文庫」版を用いることとする。言っておくと、私は大空社版の画像を使ったことは、一度も、ない)。

 最初に訓点を除去した本文を示し(改行も一致させる。判読出来ない場合は、国立国会図書館デジタルコレクションの明三五(一九〇二)年中外出版社刊で校合した。正字か略字か判断に迷った場合は正字とした。二行目以降の一字字下げは無視した)、次にそれを書き下したものを後に載せ、最後に語注を附す。訓読文では、読みは、良安の振ったものは( )で示し、一部の難読と思われる箇所を〔( )〕で添え、本文の不全と判断した箇所には〔 〕で私が添えた字を示した。但し、送り仮名等は以上の電子化で良安の癖を十全に理解しているため、かなり自由に添えてある。ネット上には幾らでも原本画像があるので、そちらと対照されたい。

 まずは、水族の補填のための「和漢三才圖會」巻第六十「玉石類」の「珊瑚」から始める。]

 

Sango

 

さごじゆ   鉢擺娑福羅【梵書】

珊瑚【山乎】

サンフウ

Saogotenn

[やぶちゃん注:古い字体で表現出来ないので、「東洋文庫」から画像でトリミングした。]

本綱珊瑚生南海又從波斯國及師子國來生海底五七

株成林作枝柯狀居水中直而軟也見風日則曲而硬變

紅色者爲上中多有孔亦有無孔者枝柯多者更難得亦

有黑色者取之人乘大舶堕鐵綱於水底先人没水以鐡

發其根繫綱于舶上絞而出之失時不取則腐蠹但生於

海者爲珊瑚生於山者爲琅玕

珊瑚【甘平】去目翳消宿血爲末吹鼻止鼻衂今人用爲㸃眼

筯【俗云眼棒】治目翳

△按珊瑚淺紅色鮮明者稱阿媽港之產上也深赤者號

血玉下品也共大者希大抵作佩幐緖鎭玉其重一二

錢目至三四錢目者最奇也凡中齒試之眞者音鏗鏘

僞者音如柔今以鯨牙齒作玉形用紅花汁煮之熟時

入梅醋少許則色染入鮮明又以鹿角作玉用紅花汁

染成者僞之僞也

青珊瑚 枝柯不異珊瑚而正青色是疑琅玕矣

猩猩石 南京玉也紅色似珊瑚而肌理濃

 

○やぶちゃんの書き下し文

さごじゆ   鉢擺娑福羅(ハヒシヤフラ)【梵書。】

珊瑚【〔音〕「山乎〔(さんご)〕」。】

サンフウ

「本綱」に、『珊瑚、南海に生ず。又、波斯(ハルシヤ)國及び師子〔(シシ)〕國より來たる。海底に生じて、五、七株、林を成し、枝柯〔(しか)〕の狀〔(かたち)〕を作〔(な)〕す。水中に居るときは、直(すぐ)にして軟(やはら)かなり。風・日を見るときは、則ち、曲(まが)りて、硬(かた)し。紅色に變ずる者を、上と爲す。中に、多く、孔〔(あな)〕有り。亦、孔、無き者〔も〕有り。枝柯多き者、更に得難し。亦、黑色なる者、有り。之れを取るに、人、大舶〔(おほぶね)〕に乘り、鐵の綱を水底に堕(をろ)し、先づ、人、水に没して、鐡を以つて、其の根を發(をこ)し、綱を舶の上に繫(つな)ぎ、絞(しぼ)りて之れを出だす。時を失して、取らざるときは、則ち、腐(くち)て蠹(むしく)う[やぶちゃん注:ママ。]。但し、海に生ずる者を珊瑚と爲し、山に生ずる者を琅玕〔(らうかん)〕と爲す。』と。

珊瑚【甘、平。】 目の翳(かゝりもの)を去り、宿血を消す。末と爲して、鼻に吹けば、鼻衂〔(はなぢ)〕を止む。今人、用ひて、眼に㸃ずる筯(はし)と爲す【俗に云ふ、「眼棒」。】。目の翳を治す。

△按ずるに、珊瑚は、淺紅色の鮮明(あざや)かなる者を「阿媽港(アマカワ)の產」と稱し、上なり。深赤なる者、「血玉」と號〔(なづ)け〕、下品なり。共に、大なる者、希れにして、大抵、佩幐(きんちやく)〔の〕緖鎭玉(をじめ〔だま〕)に作る。其の重さ、一、二錢目より、三、四錢目に至る者、最も奇なり。凡そ、齒に中〔(あ)〕てて、之れを試むるに、眞なる者は、音、鏗-鏘(さやか)なり。僞れる者は、音、柔(やはら)かなるがごとし。今、鯨の牙齒を以つて、玉の形に作り、紅(べに)の花〔の〕汁を用ひて、之れを煮、熟する時、梅醋を少し許り入るるときは、則ち、色、染-入(しみこ)みて、鮮明なり。又、鹿角を以つて玉に作り、紅花汁を用ひて染め成す者は、僞(にせ)の僞(いつはり)なり。

青(せい)珊瑚 枝柯、珊瑚に異ならずして、正青色。是れ、疑ふらくは「琅玕〔(らうかん)〕」ならん。

猩猩石(しやうじやうせき) 南京玉なり。紅色。珊瑚に似て、肌理〔(きめ)〕、濃(こまや)かなり。

 

[やぶちゃん注:サンゴ類。刺胞動物門 Cnidaria 花虫綱 Anthozoa の内で、有意な石灰質の骨格を形成する種類の総称。現生種は、

花虫綱八方サンゴ亜綱ヤギ目サンゴ科 Coralliidae

及び、

花虫綱六放サンゴ亜綱 Hexacoralli

に含まれるものが殆んどである。詳しくは昨日公開した『「大和本草卷之三」の「金玉土石」類より「珊瑚」 (刺胞動物門花虫綱 Anthozoa の内の固い骨格を発達させるサンゴ類)』の私の注を参照されたい。以下、色違いの珊瑚が出るが、特に種同定はしない。悪しからず。

「さごじゆ」ママ。

「鉢擺娑福羅(ハヒシヤフラ)【梵書。】」「本草綱目」の巻八の「金石之一」の「珊瑚」の「釋名」に「鉢擺娑福羅【梵書。】」と出る。古代サンスクリットの漢音写。

「サンフウ」「珊瑚」は現代中国音で「shān hú」(シァン・フゥー)。

「波斯(ハルシヤ)國」ペルシャ。

「師子〔(シシ)〕國」旧セイロン、現在のスリランカ。

「枝柯」本来は「木の枝」の意。「柯」は「枝」に同じか、或いは「枝」よりも太いものを言うように思われる。

「風・日を見るときは」風波や太陽光の影響を受ける浅い海中に生ずる時は。

「綱」一貫して「綱」と記すが、太い鉄製の索繩に、細かな鉄の網を附けたものの謂いととっておく。

「琅玕」これは引用された「本草綱目」の「珊瑚」の前に示されてある。『「大和本草卷之三」の「金玉土石」類より「珊瑚」 (刺胞動物門花虫綱 Anthozoa の内の固い骨格を発達させるサンゴ類)』の注で書いたが、「大和本草」では、この「珊瑚」の後に「靑琅玕」として条立てしており、その「大和本草」の「靑琅玕」では、漢籍でも、その起原を海産と主張する者、陸産(陸地或いは山中から出土)する者の意見の錯綜が記されてあり、珊瑚由来とする説もあって、益軒も困って、陸・海ともに産するのが妥当であろうと終わっている。しかし、現在、少なくとも、本邦では「翡翠石」(ヒスイ)の最上質のもの、或いは「トルコ石」又は「鍾乳状孔雀石」或いは青色の樹枝状を呈した「玉滴石」と比定するのが妥当と考えられている(個人サイト「鉱物たちの庭」の「ひすいの話6-20世紀以降の商名と商流情報メモ」に拠った)から、私はそこでは珊瑚との関係性を認めないこととした。但し、「靑琅玕」の中には、日中ともに珊瑚が一部で含まれていた可能性は極めて高いとは思われ、実は「和漢三才図会」でも、まさにこの「珊瑚」の次に「琅玕」が載り、その挿絵は殆んど珊瑚なのだが、やはり良安もこちらは山中に産するものであるとしている。

「目の翳(かゝりもの)」白内障・緑内障・視野狭窄などを指すが、これは多分に鮮やかな色彩からの類感呪術的な処方と考えられる。

「宿血」体内に残留して種々の悪さを働く古い血の謂いであろう。

「末」粉末。

「筯(はし)」『俗に云ふ、「眼棒」』。ごく細い棒状に削って、それに珊瑚の粉末を附け、眼球に点眼するということであろうか。

「阿媽港(アマカワ)」マカオ。

「佩幐(きんちやく)〔の〕緖鎭玉(をじめ〔だま〕)」「佩幐」(おびぶくろ)は古代の旅行具で、保存食の乾飯(糒(ほしいい))などを入れて、腰に附けるように作った携帯用の袋を指す。ここはその口の止め具に珊瑚を飾ったものででもあろう。ファッションというよりも、一種の緊急糧物への邪気除けとしてであると私には思われる。

「一」「錢」は重量単位。一千匁が一銭。明治になって 一貫と同じで正確に三・七五キログラムに定義されたが、良安の謂いも、それと同じとは私には思われない。「東洋文庫」は同グラム数で示してある。

「青(せい)珊瑚 枝柯、珊瑚に異ならずして、正青色。是れ、疑ふらくは「琅玕〔(らうかん)〕」ならん」先の非海産物の出土宝石とするなら、それを珊瑚に似せて加工したものであろう。

「猩猩石(しやうじやうせき)」「南京玉」人工的に赤色に染色した陶製及びガラス製(こちらは「蜻蛉(とんぼ)玉」(トンボの複眼に喩えた)とも呼ぶ)の小さいビーズ(beads)のことであろう。]

大和本草卷之十六 海獺(あしか/うみをそ) (絶滅種ニホンアシカ)

 

海獺 海中ニアル獸ナリ和名アシカ又ウミヲソ本艸

綱目載タリ獺ノ形ニ似テ大也長四五尺體ハ長サニ比

スレハ小ナリ獺ノ形ニ似テ長シ頭モ如水獺遍身毛

アリ腹ニモ毛アリ毛ノ長三分許口小トガル齒ハ如犬

牙耳甚小ナリヒゲアリアラシ腹ニハ足ナシヒレ二アリ

テ廣ク長クウラニ皮アリ足ノ如ナリ尾ニモヒレアリ岐

アリテ兩ニワカル腹ノヒレヨリ廣ク爪各五アリ爪アル

所ノ先指ノ如クニワカルサキ小ク薄シ足ニハアラス是

モウラニ皮アリ岐ノ中間ヨリハ短シ獸ノ尾ノ如シ尾ノ

ヒレハ水カキナリ足ノ如シ海中ニテ立テハ半身ハ水上

ニアラハル身ハ水獺ノ如ク柔ニ乄囘旋スルコト自由ナ

リ海邊陸地ニ上リテ𪾶臥ス海人コレヲトル本艸ニ其性

ヲノセス大抵水獺ト性同カルヘシ

○やぶちゃんの書き下し文

海獺(あしか/うみをそ[やぶちゃん注:右ルビ/左ルビ]) 海中にある獸なり。和名「あしか」、又、「うみをそ」。「本艸綱目」に載せたり。獺〔(かはをそ)〕の形に似て、大なり。長さ、四、五尺。體は、長さに比すれば、小なり。獺の形に似て、長し。頭も水獺〔(かはをそ)〕のごとく、遍身、毛あり。腹にも、毛あり。毛の長さ三分許り。口、小し、とがる。齒は犬の牙〔(きば)〕のごとし。耳、甚だ小なり。「ひげ」あり、あらし[やぶちゃん注:「粗(あら)し」。疎らであることを言っていよう。]。腹には、足、なし。「ひれ」、二つ、ありて、廣く長く、うらに、皮、あり。足のごとくなり。尾にも、「ひれ」あり。岐(また)ありて、兩〔(ふたつ)〕にわかる。腹の「ひれ」より、廣く、爪、各〔(おのおの)〕五つあり。爪ある所の先(さき)、指のごとくに、わかる。さき、小さく、薄し。足には、あらず。是も、うらに、皮あり。岐(また)の中間よりは、短し。獸の尾のごとし。尾の「ひれ」は「水かき」なり。足のごとし。海中にて立てば、半身は水上にあらはる。身は水獺〔(かはをそ)〕のごとく、柔らかにして、囘旋すること、自由なり。海邊〔の〕陸地に上〔(のぼ)〕りて、𪾶臥〔(すいぐわ)〕す。海人、これを、とる。「本艸」に其の性〔(しやう)〕をのせず。大抵、水獺と性、同じやるべし。

[やぶちゃん注:これは確実に「大和本草卷之十六 海驢 (トド 或いは 絶滅種ニホンアシカ)」で同定候補として出した、既にヒトが絶滅させてしまった、

哺乳綱食肉(ネコ)目イヌ亜目鰭脚下目アシカ科アシカ亜科ニホンアシカ Zalophus japonicus

で完全同定される。ダブるのは何ら問題ない。何故なら、先のそれは漢籍から引用して、益軒が勝手に別立てして机上で考証したものに過ぎないからである。また、場所的に問題はあるが、トドも別候補として出してある。

 当該ウィキから引く。『北はカムチャツカ半島南部から、南は宮崎県大淀川河口にかけて』、『北海道・本州・四国・九州の沿岸域、伊豆諸島、久六島・西ノ島・竹島などの日本海の島嶼、千島列島、南樺太、大韓民国(鬱陵島)などに分布していた』。『さらに、古い朝鮮半島上の記録によると、渤海と黄海から東岸を含む広範囲に見られたとされる』(★☜★これは実は「大和本草卷之十六 海驢 (トド 或いは 絶滅種ニホンアシカ)」で私がニホンアシカ同定の有力な証拠の一つとしたものである)。『繁殖地は恩馳島・久六島・式根島・竹島で確認例があり、犬吠埼・藺灘波島・大野原島・七ツ島でも繁殖していたと推定されている』。『太平洋側では九州沿岸から北海道、千島、カムチャツカ半島まで、日本海側では朝鮮半島沿岸から南樺太が生息域。日本沿岸や周辺の島々で繁殖、特に青森県久六島、伊豆諸島各地(新島』『、鵜渡根島周辺、恩馳島、神津島)、庄内平野沿岸』、『アシカ島(東京湾)、伊良湖岬、大淀川河口(日向灘)なども生息地であった。三浦半島、伊豆半島(伊東、戸田・井田)、御前崎等にも、かつての棲息を思わせるような地名が残っている』。『縄文時代以降の北海道・本州・四国の遺跡で骨が発見されていることから、近年までは日本全国の沿岸部に分布していたと考えられている』。体長は♂で平均二・四メートル、♀で推定一・八メートル、体重は♂で平均四百九十四キログラム、メスで推定百二十キログラム。でアシカ属では最大種であった。アシカ属カリフォルニアアシカ Zalophus californianus と比較すると、体長で十%、体重で約三十%以上は大型であった。一方で、『外部形態や体色での判別は困難とされ』、『上顎の頬歯が』一『本ずつ多い傾向があ』ったという。♂は『全身が暗褐色で、頭頂部が隆起し』、『体毛が白化する』が、♀は『灰褐色で』、『背筋は暗灰色』であった。『カリフォルニアアシカの亜種とされることもあった』が、1950年に『奥尻島で発掘された頭骨を用いた比較から、大型であることや歯列から』一九八五年に『独立種とする説が提唱されている』。『遺跡から発掘された四肢の骨のDNAの分子系統解析から、カリフォルニアアシカとは』二百二十万年前に『分岐したと推定されている』。沿岸から二十『キロメートル以内の沿岸域に生息していた』。『竹島繁殖個体群は繁殖後に回遊』(同島個体群は韓国の竹島占有によって絶滅した)、『もしくは季節移動を行っていたと考えられている』。『同所的に分布するキタオットセイやトドと比較すると、大規模な回遊は行わない』。『ハダカイワシなどの魚類、ホタルイカなどの頭足類を食べていたと考えられて』おり、『死因として』は『天敵のシャチやサメ類、病原としてはフィラリア症、皮膚病、腸内寄生虫が挙げられている』。『婚姻様式は一夫多妻』で、五~六月に『交尾を行い、竹島では』四~五月に『集合し』、七~八月に『離散していた』。一回に一頭の『幼獣を産』んだ『と考えられている』。『生息環境として岩礁や海蝕洞があり』、『繁殖活動は繁殖期に限られた繁殖場でのみ行う特性であった』。『別名としてアジカ・アシカイオ・ウミオソ・ウミヨウジ・ウミカブロ・クロアシカ・トド・トトノミチ・ミチなどがある』。『小野蘭山の「本草綱目啓蒙」などから』は、『日本海側では本種がトドと呼称されていた可能性もある』(★☜★これも「大和本草卷之十六 海驢 (トド 或いは 絶滅種ニホンアシカ)」で私がニホンアシカ同定の有力な証拠の一つとしたものである)。『日本近海では』百六ヶ所のアシカ(三十五ヶ所)・トド(七十一ヶ所)の『名のつく地点が存在する、あるいは過去に存在していた』が、これらの『アシカとつく地点は銚子市以南日南市以北の太平洋岸および瀬戸内海、トドとつく地点は北海道岸・大船渡市以北の太平洋岸・島根県までの日本海岸に分かれる』。『トドとつく地点に関しては種トドの繁殖地と異なる地域(トドの繁殖地は北海道以北)が含まれること、日本海側で本種がトドと呼称されることもあったことから、本種が由来となっている可能性もある』(★☜★同前)。一九九一年の「環境庁レッドデータブック」で「絶滅種」と『判定された』。『これに対し』、二〇〇八年の時点では一九七四年の捕獲例など、五十年以内の生存報告例(「環境庁レッドデータブック」では過去五十年以上の信頼出来る生息情報がないものを「絶滅種」と評価する)が『あることから、絶滅種には該当しないとする反論もある』。『最後の生体発見例(後述)がある礼文島においても狩猟が盛んであった』。『江戸時代に執筆された』「和漢三才図会」には、『肉は食用には適さず、油を煎り取っていただけであると記されている』(私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 海獺(うみうそ) (アシカ類・ニホンアシカ)」を参照のこと)。『油脂は身を煮沸して抽出し、そのまま使用する以外にも石鹸や膠などの原料にも用いられた』。二十『世紀に入ってからは、必要部位を取り除いた後に残った肉と骨は肥料として販売され』、『昭和初期にはサーカス用途にも捕獲されていた』。『江戸時代に書かれた複数の文献においてニホンアシカに関する内容が記述されている』。シーボルトの「日本動物誌」には、『ニホンアシカのメスの亜成獣が描かれている。「相模灘海魚部」(彦根城博物館所蔵)にも、不正確ではあるが』、『ニホンアシカが描かれている』。二十『世紀初頭における生息数は』三万 から五万『頭と推定されている』。『江戸時代までは禁猟であった』。『例として紀伊藩では初代藩主徳川頼宣により禁令が出され、回遊期の狩猟およびアシカ島への上陸・衣奈八幡宮司である上山家を監視役に命じ』、『報告書の提出を義務付けるなどの対策を行っていた』。『高崎藩では藩主により』、『銚子での捕獲が禁止され、仮に捕獲する場合は』、『年に』一『回』のみ、『冥加金を』払った『漁師』一『人のみを許可していた』。しかし、『明治時代の政治的な混乱により、捕獲や駆除が野放しとなった』。『明治新政府により』、『捕獲が禁止されたり』、『保護策が江戸時代から受け継がれたところもあるものの、徹底はされなかった』。明治一二(一八七九)年に『神奈川県三浦市南下浦町松輪の海岸で捕獲されたメスのニホンアシカを描いた正確な絵図が』「博物館写生」(東京国立博物館蔵)に『残されている。少なくとも』一九〇〇『年代までは日本各地に生息していた。しかし』、十九世紀末から二十『世紀初頭にかけて、多くの生息地で漁獲や駆除が行われ、明治』四十『年代には銚子以南から伊豆半島の地域でみられなくなり、同時期の』明治四二(一九〇九)年の『記録では東京湾沿岸からも姿を消し、記録がある相模湾、三河湾周辺の篠島・伊良湖岬』、『瀬戸内海の鳴門海峡』『などの日本各地に生息していた個体群も』二十『世紀初頭には次々と絶滅に追いやられ、その棲息域は竹島などの一部地域に狭められていった』。『竹島周辺のアシカ漁は』、一九〇〇『年代初頭から本格的に行われるようになった。乱獲が懸念されたため、明治三八(一九〇五)年二月に『同島の所属を島根県に決定、同年』四『月に同県が規則を改定してアシカ漁を許可漁業に変更、行政が許可書獲得者に対し』て『指導して、同年』六『月には』、『共同で漁を行うための企業「竹島漁猟合資会社」が設立されて組織的な漁が始まり』、『同年』八『月には当時の島根県知事である松永武吉と数人の県職員が島に渡り、漁民から譲り受けたニホンアシカ』三『頭を生きたまま連れて帰り、県庁の池で飼育していたがまもなく死亡し』、『剥製』『にした、と山陰新聞(当時)が同年』八月に伝えている。『アシカ漁では平均して年に』千三百~二千『頭が獲られた』。一九〇四年から一九一一年までの約八年間で実に一万四千頭も『捕獲され』。『明治』・『大正年間の乱獲によって個体数・捕獲数共に減少していった』。『昭和初期には見世物として使用するため興行主(木下サーカス・矢野サーカスなど)から生きたままのニホンアシカを求める依頼が増えたが』。既にただそれだけの『需要に応える量を確保することが』最早『難しい状況になっており』、昭和一〇(一九三五)年頃には、年間捕獲数は二十~五十『頭まで落ち込んでしまった。捕獲量が最盛期のおよそ』四十分の一にまで『激減したことや、太平洋戦争勃発の影響で、戦中』の『アシカ漁は停止された』。『第二次世界大戦以降は』一九五一『年に竹島で』五十 ~六十『頭が確認されている』。一九五〇『年代以降の生息報告は礼文島沖・青森県久六島・島根県西ノ島・竹島・千島列島捨子古丹島・カムチャッカ半島南部に限定される』『ソ連実効支配地域でも』一九四九『年に南樺太の海馬島(モネロン島)での捕獲例』。一九六二『年に捨子古丹島での目撃例』、一九六七『年にカムチャッカ半島での死骸の発見例がある』。一九七〇『年代以降では』、一九七四『年に礼文島沖で本種と思われる鰭脚類の幼獣の捕獲例(下毛がなくキタオットセイとは明確に異なり、トドよりも小型で繁殖期が異なる)があるが』、『捕獲後』、『飼育されていたものの』二十『日後に死亡している』。一九七五『年に竹島で』二『頭の目撃例があったのを最後に、本種の生息は報告されていない』。『生息状況の確認が古文献や聞き取り調査に限られること、生息数減少の経緯が不明なことから、生息数減少の原因を究明することはほぼ不可能と考えられている』ものの、『可能性のある主因として生息環境の変化・捕獲圧が原因と考えられている』。『毛皮・剥製目的の乱獲、人間の繁殖地侵入による攪乱、エルニーニョ現象による食物の分布や生息数変動による可能も考えられている』。『衰退・絶滅の主な原因は、皮と脂を取るために乱獲されたことである』。『特に竹島においては大規模なアシカ漁による乱獲で個体数が減少したことが主要因とされ、研究者の一人である島根大学医学部(当時)の井上貴央も同様の見解を示して』おり、一九七〇年代の『韓国紙は竹島駐在の「警備隊員たちの銃撃で絶種」と報道しており、世界自然保護基金(WWF)の』一九七七『年度報告書では韓国人研究者さえ「最上の保護策は警備隊の島からの撤収だ」と主張している』。一九七六『年には、東亜日報が、アシカの生殖器が韓国で人気の精力剤の材料だったため、乱獲によってアシカが絶滅の危機に瀕していることを報道している』(以上の最後の部分は注から合成した)。一九五〇『年代には日本からの大量のビニール製品や』、『ソビエト連邦の原潜や核廃棄物の投棄など、著しく日本海が汚染された時期であり、生息環境が悪化していた点も指摘されている』。『残った数少ない個体も保護政策は実施されず、日本の鳥獣保護法では長期間保護対象外だったことや、竹島を不法占拠してきた大韓民国でも行われなかった(後に保護対象動物には指定されている)』。『韓国による竹島の軍事要塞化や在日米軍の軍事演習実施などの軍事関係も要因として指摘されている』(以下、剥製所在地等が記載されるが、略す)。なお、本条は益軒がオリジナル解説しているもので、「本草綱目」の記載は時珍は実物を見てないものか(益軒も実物を見た可能性は低いと思われ、他の本草書の絵図から細部を表現しているように私には思われる。実物を見た場合、このニホアシカに関してなら、益軒は実際に見たことを言うと考えるからでもある)。「本草綱目」(巻五十一下「獸之二」の内)も時珍は実物を見ていないようで、記載も以下の通り、あっさりしている。

   *

海獺【「拾遺」。】

集解藏器曰はく、「海獺、海中に生ず。獺に似て、大いさ、犬のごとし。脚下、皮、有り。胼拇(べんぼ)[やぶちゃん注:足の親指と人差し指が接合していて一つになっていること。]のごとし。毛、水に着きても濡ず。人、亦、其の肉を食ふ。海中に、又、海牛、有り。海馬・海驢等、皮・毛あり。陸地に在りて、皆、風潮を候(し)る。猶ほ、能く毛を起つるがごとし。說は、「博物志」に出づ」と。時珍曰はく、「大獱(とど)・小獺(かはうそ)、此れ、亦、獺なり[やぶちゃん注:川獺の類である。]。今人、其の皮を以つて、風領(ふうりやう)[やぶちゃん注:風を防ぐ襟のことか。]と爲す。云はく、『貂(てん)亞(つ)ぐ』と。如淳が「博物志」に注して云はく、『海獱は、頭、馬のごとく。腰より以下、蝙蝠(かはほり)に似て、其の毛、獺に似たり。大なる者、五、六十斤[やぶちゃん注:明代で三十キログラム弱から三十六キログラム弱。]。亦、烹(に)て食ふべし。』と。」と。

   *

時珍は海棲哺乳類を実見しておらず、水陸両用に棲息する哺乳類を一緒くたにする傾向が窺われる記載である。

「性」漢方生薬としての効能。御覧の通り、「本草綱目」に普通はある「主治」がない。]

2021/03/19

私は

私は――特定の国家や宗教・思想を無条件に支持したり、排撃したりすることで、悦に入ったり、逆に、それらを、ほくそ笑んで軽蔑している人間とは――永遠に無縁であり、悉く――激しく嫌悪する人間である――

「大和本草卷之三」の「金玉土石」類より「珊瑚」 (刺胞動物門花虫綱 Anthozoa の内の固い骨格を発達させるサンゴ類)

 

蘓頌曰生海底作枝柯狀明潤如紅玉宗奭

曰珊瑚有紅油色者細縱文可愛無縱文爲下品

時珍曰珊瑚生海底五七株成林謂之珊瑚林頌

曰有枝無葉生海底作枝柯狀宗奭曰有珊瑚枝幹

交錯高三四尺○篤信嘗見自吾本州海中所獲

叢生乎石上數寸之間而有根株十數條高者四

五寸各有枝柯二三朶者低一二寸其最低四五

分者亦多矣堅而如玉石如竹筍之生有遲速有

長短者每條多節色如白玉節間皆有細縱文

而周遍無空處如人工刻縷而成者疑是是珊瑚琅

玕之苗僅數寸故未成紅碧色者也

○やぶちゃんの書き下し文

蘓頌〔(そしよう)〕曰はく、『海底に生じて、枝柯〔(しか)〕の狀〔(かたち)〕を作〔(な)〕す。明潤にして、紅玉のごとし。』と。宗奭〔(そうせき)〕曰はく、『珊瑚、紅油色の者、有り。細〔き〕縱〔の〕文〔(もん)〕、愛すべし。縱文無きを下品と爲す。』と。時珍曰はく、『珊瑚、海底に生ず。五。七株、林を成し、之れを「珊瑚林」と謂ふ。』と。頌曰はく、『枝、有りて、葉、無く、海底に生じ、枝柯の狀を作す。』と[やぶちゃん注:重複はママ。]。宗奭が曰はく、『珊瑚、枝幹、交錯し、高さ、三、四尺。』と。

○篤信、嘗つて見る、吾が本州の海中より、獲〔れるを〕。石上〔せきしやう〕〕數寸の間〔(かん)〕に叢生し、根株、十數條、有り。高き者、四、五寸。各〔(おのおの)〕、枝柯、二、三朶〔(だ)〕有り。低き者、一、二寸。其の最も低〔きは〕、四、五分の者、亦、多し。堅くして、玉石のごとし。竹筍〔(ちくじゆん)〕の生ずる〔に〕、遲速、有り、長短、有るがごとく〔ん〕ば、每條、節〔(ふし)〕、多く、色、白玉のごとし。節の間、皆、細き縱文有りて周遍〔(しうへん/あまねくめぐら)〕す。空處〔くうしよ〕、無く、人工の刻縷〔(こくらう)〕して成れる者のごとし。疑ふらくは是れ、珊瑚琅玕〔(らうかん)〕の苗〔(なへ)ならんか〕。僅か數寸。故に未だ紅碧色を成さざる者なり。

[やぶちゃん注:刺胞動物門 Cnidaria 花虫綱 Anthozoa の内で、有意な石灰質の骨格を形成する種類の総称。現生種は、

花虫綱八方サンゴ亜綱ヤギ目サンゴ科 Coralliidae

及び、

花虫綱六放サンゴ亜綱 Hexacoralli

に含まれるものが殆んどである。

 八放サンゴ類のポリプは八個の触手と隔膜とを特徴とし、円筒形を成し、共肉内に埋まって群体を形成する。ポリプの口の下部には胃と体腔の分化していない腔腸(クラゲ・サンゴ・イソギンチャクなどの口に続く有意な機能分化が、一見、見られない袋状の器官。消化器と循環器の双方の働きをする。旧「腔腸動物門 Coelenterata」はクラゲ・サンゴ・イソギンチャクを含む刺胞動物とクシクラゲなどを含む有櫛(ゆうしつ)動物を纏めたタクソン(taxon:「分類群」の単数形)として門を形成しさせていたが、この二つのタクサ(taxa:「分類群」の複数形)を、それぞれ独立の門とする立場が有力となり、実は現在は使われることが少なくなった)があり、口は排出腔としても働く。受精は通常、海水中で行われ、受精卵は浮遊性のプラヌラ幼生を経て、着生生活に入り、その後は芽生によって成長する。ここで挙げられている装飾品として珍重される珊瑚或いはそれに似たものは、群体の分泌した石灰質(炭酸カルシュウム)の骨格で、本邦では、

Paracorallium 属アカサンゴ Paracorallium japonicum

Corallium 属モモイロサンゴ Corallium elatius

Corallium 属シロサンゴ Corallium konojoi

などが知られ、日本近海では四国沖・九州西部・小笠原・南西諸島の数十メートルから数百メートルの海底の岩石等に着生する。サンゴ網で採取され、宝飾品などに利用される。

 六放サンゴ類は六乃至その倍数の触手・隔膜を持つことを特徴とし、サンゴ礁を形成する、

花虫綱イシサンゴ目 Scleractinia のイシサンゴ類(Hard coral:ハード・コーラル)

は、これに含まれ、一般に暖海の浅海底に棲息し、種類が多い。また、群体を作らない深海性の種も知られる。サンゴ類はオルドビス紀(Ordovician period:地質時代の古生代前期における区分で、約4億8830万年前から約4億4370万年前までを指す。カンブリア紀(Cambrian period:約5億4200万年前を開始期とする)の後)は以来、地質時代に広く存在し、示準化石として重要なものも多い(主文は概ね平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。

「蘓頌」(そしょう 一〇二〇年~一一〇一年)は北宋の科学者で宰相。一〇四二年に進士に登第した。北宋で最高の機械学者であったとされ、第七代皇帝哲宗の命を受け、世界最初の天文時計「水運儀象台」を設計し、一〇九二年にそれが竣工すると、彼は丞相に任ぜられている。一〇九七年、退官。以下の他の引用もそうだが、どれも「本草綱目」の巻第八の「金石之二」の「珊瑚」から抜粋したものであるが、益軒は、ものによって、かなりの省略や継ぎ接ぎを行っているので、注意が必要である(ダブりもその悪しき結果である)。原文は以下。

   *

頌曰、「今廣州亦有、云生海底作枝柯狀、明潤如紅玉、中多有孔、亦有無孔者、枝柯多者更難得、采無時。謹按「海中經」云、『取珊瑚、先作鐵網沉水底、珊瑚貫中而生、歲高三二尺、有枝無葉、因絞網出之、皆摧折在網中、故難得完好者。不知今之取者、果爾否。漢積翠池中、有珊瑚高一丈二尺、一本三柯、上有四百六十三條、云是南越王趙佗所獻、夜有光景。晉石崇家有珊瑚高六、七尺。今並不聞有此高碩者。

   *

「枝柯」本来は「木の枝」の意。「柯」は「枝」に同じか、或いは「枝」よりも太いものを言うように思われる。

「宗奭」既出既注。「新編類要図註本草」と踏んで調べたところ、「宮内庁書陵部収蔵漢籍集覧」のこちらの巻第三の「珊瑚」が親本である。上部の第「4」を開き、下部中央の「□□□」ボタンをクリックしてページ表示を開き、「p.34」で当該部が読める。次のページが元であるが、時珍自身が切り張りと書き変えをしていることが判る(益軒より遙かにマシ)。「本草綱目」の引用は以下。比較されたい。

   *

宗奭曰、「珊瑚有紅油色者、細縱紋可愛。有如鉛丹色者、無縱紋、爲下品。入藥用紅油色者。波斯國海中有珊瑚洲、海人乘大舶墮鐵網水底取之。珊瑚初生磐石上、白如菌、一歲而黃、三歲變赤、枝幹交錯、高三、四尺。人沒水以鐵發其根、系網舶上、絞而出之、失時不取則腐蠹。

   *

「時珍曰はく……」以下。

   *

時珍曰、『珊瑚生海底、五、七株成林、謂之珊瑚林。居水中直而軟、見風日則曲而硬、變紅色者爲上、漢趙佗謂之火樹是也。亦有黑色者不佳、碧色者亦良。昔人謂碧者爲靑琅、俱可作珠。許慎「說文」云、「珊瑚色赤、或生於海、或生於山。據此說、則生於海者爲珊瑚、生於山者爲琅玕、尤可徵矣。互見琅玕下。

   *

最後の「琅玕」は「本草綱目」の「珊瑚」の前に示されてある。「大和本草」では、この「珊瑚」の後に「靑琅玕」として条立てしている。この「大和本草」の「靑琅玕」では、漢籍でも、その起原を海産と主張する者、陸産(陸地或いは山中から出土)する者の意見の錯綜が記されてあり、珊瑚由来とする説もあって、益軒も困って、陸・海ともに産するのが妥当であろうと終わっている。しかし、現在、少なくとも、本邦では「翡翠石」(ヒスイ)の最上質のもの、或いは「トルコ石」又は「鍾乳状孔雀石」或いは青色の樹枝状を呈した「玉滴石」と比定するのが妥当と考えられている(個人サイト「鉱物たちの庭」の「ひすいの話6-20世紀以降の商名と商流情報メモに拠った)から、私は「水族」として認めず、電子化しないこととした。但し、「靑琅玕」の中には、日中ともに珊瑚が一部で含まれていた可能性は極めて高いとは思われる。

「篤信」益軒の本名。

「竹筍」竹或いは筍(たけのこ)状に形成されること。

 以上を以って「卷之三」からのピック・アップを終わり、中途の「卷之十六」に戻る。]

「大和本草卷之三」の「金玉土石」類より「石燕」 (腕足動物の†スピリフェル属の化石)

 

石燕 小ニシテ燕ニ似タリ宗奭曰如蜆蛤之狀藥性

解曰形蚶而小其實石也

○やぶちゃんの書き下し文

石燕〔(せきえん)〕 小にして燕〔(つばめ)〕に似たり。宗奭〔(そうせき)〕が曰はく、『蜆〔(しじみ)〕・蛤〔(はまぐり)〕の狀〔(かたち)〕のごとし。』と。「藥性解〔(やくしやうかい)〕」に曰はく、『形。蚶〔(きさ/あかがひ)〕にして、小なり。其れ、實〔(じつ)〕は石なり。』と。

[やぶちゃん注:動物界 真正後生動物亜界 冠輪動物上門 Lophotrochozoa 腕足動物門 Brachiopoda 嘴殻亜門 Rhynchonelliformea †スピリフェル目スピリフェル科スピリフェル属Spirifer のスピリフェル類で、Spiriferida 目の代表種である。中国語で「石燕」、本邦では「燕石」(えんせき)の方が知られる。シルル紀(Silurian period:約4億4370万年前から約4億1600万年前まで)からペルム紀(Permian period:約2億9900万年前から約2億5100万年前まで。シルル紀とは石炭紀(Carboniferous period)とペルム紀(Permian period)を挟む)にかけて実に二億年余りもの間、世界各地に生存し、石炭紀に特に繁栄し、デボン紀に最盛であった化石動物。また、腕足動物及び有関節類の一グループの総称である。「スピリファー」とも呼ぶ。背殻内部に螺旋形の特殊な腕骨を有するのが最大の特徴で、属名はラテン語で「螺旋」を意味する「spira」という言葉に由来する(一八一六年命名)。前後の殻(一見すると二枚貝にしか見えないが、彼らはそれらとは体制が全く異なり(だから殻は左右ではないのである)極めて縁の遠い、完全に独立した「生きた化石」的な海産底生無脊椎動物である)を結ぶ長く強靭な蝶番(ちょうつがい)線を持ち、石灰質の殻(表面に放射状の線を有する)の形が「翼を広げたツバメ」に似ているため、、中国では古くから「石燕」と呼ばれて薬効があるとされており、粉末が漢方薬として用いられた。南方熊楠の幻の名論稿「燕石考」で知られる。グーグル画像検索「Spiriferをリンクさせておく。嘗ては漢方生剤の流れ品として安く数個持っていたのだが、皆、教え子にあげてしまったので、現物を見せられないのが悔しい。腕足動物門の学名‘Brachiopoda’はギリシャ語で「腕」を意味する‘brachium’と、「足」を意味する‘poda’を合成したものである。現生種はシャミセンガイ(三味線貝:腕足動物門舌殻亜門舌殻綱舌殻目シャミセンガイ科 Lingulidae のシャミセンガイ類(本邦産種の代表はLingula(リンギュラ・シャミセンガイ)属ミドリシャミセンガイLingula anatina :岡山県児島湾や有明海で食用とされる。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のこちらを参照されたい)や、チョウチンガイ(提灯貝:腕足動物門嘴殻綱テレブラツラ目 Terebratulida テレブラツラ亜目カンセロチリス Cancellothyrididae 科カンセロチリス亜科テレブラツラナ属タテスジチョウチンガイTerebratulina japonica 〔縦筋提灯貝:殻高17ミリメートル。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のこちらを参照〕や、テレブラツラ亜目ラクエウス上科ラクエウス科ラクエウス属ホオズキチョウチン Laqueus rubellus 〔鬼灯提灯40ミリメートル前後。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のこちらを参照〕)がいる。かの明治一〇(一八七七)年六月に来日し、東京大学に招聘されて初代理学部動物学教授となり、「大森貝塚」を発見し、進化論を本邦に移植したアメリカ人動物学者エドワード・シルヴェスター・モース(Edward Sylvester Morse 一八三八年~一九二五年)の専門は、実はこの腕足類のシャミセンガイであった。江ノ島に日本初の臨界研究所を作り、そこでシャミセンガイを採取している。今や、江ノ島には棲息していない。私は彼の石川欣一訳「日本その日その日」をずっと昔にブログでオリジナル注附き(モース自筆の全挿絵入り)で完結している

「宗奭」既出既注。そこで示した「宮内庁書陵部収蔵漢籍集覧」の北宋の医師宼宗奭(こうそうせき)の「新編類要図註本草」の南宋から元代(十三~十四世紀頃)に板行されたものの、その上部の第「5」を開き、下部中央の「□□□」ボタンをクリックしてページ表示を開き、「p.16」で、巻第五の「玉石部下品」にある「石鷰」(石燕に同じ。挿絵もある)が見られる。この引用箇所は次のページで、右頁の大罫三行目から記されてある。この「衍義」とは宗奭の書いた別な本草書「本草衍義」である。起こしておく。

   *

衍義曰【石鷰、今人用者、如蜆蛤。之狀色、如土、堅重。故只堕沙灘上。此說近妄。「唐本」注、永州土岡上、掘深丈餘之。形似蚶而小、重如石。則此自是二物、餘說不可取。潰虛積藥中多用。】

   *

「灘」は川・湖・海の岸辺の意。但し、益軒のこの引用は恐らく、この原本ではなく、「本草綱目」の巻十「金石之四」の「石燕」からの孫引きである。

「蜆」斧足綱異歯亜綱シジミ上科シジミ科 Cyrenidae のシジミ類。本邦産代表種三種は「大和本草卷之十四 水蟲 介類 蜆」の私の注を参照。但し、ここは漢籍の記載で、中国にはもっと多くの種がいることが確認出来る(但し、中国に分布しない海外種も並置されているので、総てが中国棲息種ではないので注意)。中文ウィキの「花蜆科」(シジミ科の中国名)を参照されたい。

「藥性解」「雷公炮制藥性解評注」(らいこう ほうせい やくしょうかい ひょうちゅう)の略。明の李中梓の漢方調剤書で、常用中薬三百三十五種の性味・帰経(きけい:薬物が人体のどの部位(適用範囲)に作用して薬効が表われるかを指し示しこと)・毒性・効能主治・使用禁忌・真偽弁別・炮制(漢方薬の原料を薬物に精製する方法。烘・炮・炒・洗・泡・漂・蒸・煮などの処置によって薬物の毒性や作用を弱めたり、除去したりして、治療効果を高め、製剤や貯蔵をし安くすること)などを記す。これは「本草綱目」には載らないので、原本を見たものと思われる。

「蚶」翼形亜綱フネガイ目フネガイ上科フネガイ科アカガイ属アカガイ Anadara broughtonii「大和本草卷之十四 水蟲 介類 蚶(アカガイ)」を参照。前後の殻の表面の放射状線は確かにアカガイに似ており、蝶番いをずうっと引き伸ばせば、素人目にはよく似ていると言える(但し、この蝶番いは独特で古生物学者や貝類研究者は間違えることは絶対にあり得ない)。]

母十周忌

ALSで召された聖子テレジア十周忌――

2021/03/18

「大和本草卷之三」の「金玉土石」より「眞珠」

 

眞珠 蚫蛤諸介類ノ腹中ニ有之アコヤ貝ニアルヲヨシトス又

蚫ニアルヲ上トス蚌アサリ貝ナトニモアリ凡眞珠價貴シ

輕粉ト燈芯ニ同シクシテ香盒ノ内ニ入レヲケハ久クアリテ

子ヲ生ス

○やぶちゃんの書き下し文

眞珠 蚫〔(あはび)〕・蛤〔(はまぐり)〕〔など〕諸介類の腹中に、之れ、有り。「あこや貝」にあるを、よしとす。又、蚫にあるを、上とす。蚌(どぶがい[やぶちゃん注:ママ。])・「あさり貝」などにもあり。凡そ、眞珠、價〔(あたひ)〕、貴〔たか〕し。輕粉〔(けいふん)〕と燈芯に同じくして、香盒〔(かふがふ)〕の内に入れをけば[やぶちゃん注:ママ。]、久しくありて、子を生ず。

[やぶちゃん注:前条「大和本草卷之十六 水獺(かはをそ) (絶滅種ニホンカワウソ)」で述べた通り、この「大和本草卷之三」の「金玉土石」に広義の「水族」とすべき記載を見つけたので、またまた、中断して挿入する。底本は従来通り、「学校法人中村学園図書館」公式サイト内にある宝永六(一七〇九)年版の貝原益軒「大和本草」(リンク先は目次のHTMLページ)の同巻之三のPDFを視認してタイプする。「眞珠」は32コマ目に出る。底本は従来通り、「学校法人中村学園図書館」公式サイト内にある宝永六(一七〇九)年版の貝原益軒「大和本草」(リンク先は目次のHTMLページ)の同巻之三のPDFを視認してタイプする。「眞珠」は32コマ目に出る。なお、そこまでの間にちょっと目を引いたものはある。例えば、「火類」に出現する「【外】夜、光り有る物の類」で(15コマ目)『海潮、夜、之れを擧れば、光あり。月夜に光なし』という一節で、これはヤコウチュウかウミホタルを指しているようではある。その少し後には、また、『鯛の肉・うろこ及び「いか」の肉、鮮(あたら)しければ、夜、ひかる。「たこ」の「ねはり」に、夜、光りあり』などとも出る。タイの肉はよく判らぬが(寄生虫か?)、イカのそれは発光バクテリア由来で、よく観察すれば、新鮮なそれを置いている魚屋などの店頭でも、容易に発光を見ることが出来る。「たこ」の「ねはり」はタコの足の付け根の部分(口器)であるから、やはり捕食した対象生物の持つ発光物質か、前の発光プランクトンやバクテリア由来であろう。ともかくも、雑駁な書き方で、凡そ「水族の部」に採り上げることは出来ない代物である。さらに「金玉土石」には「【外】花紋石」に(19コマ目)、『壹岐の島の長者が原の海岸に屛風岩と云ふ石』があって、そこには魚の細部に至るまで総て備わったものが石の中にある、というのは、かなり古い時代の魚類化石であり、25コマ目にも「石蟹」があって、明の王圻(おうき)の「三才図会」と「本草綱目」から引用しつつ、益軒も、海浜の軟石の中、或いは、欠けた石碑片で、完全に石化した蟹を見た、とあって化石だろうと考証しているように、孰れも古代の海産動物の化石であって、これらまで「水族の部」に採るとなると私には抵抗がある。化石海産動物でも無論、「水族」であるわけだが、その個体の種を同定するに足る詳しい形状が全く記されていないのだから、今までの「水族の部」に含めるのには私は相応しくないと考え、外した。但し、この次で、特異的に化石絶滅種を一つあげる予定である。それは明らかに例外的にその記載からほぼ間違いなく属同定が出来る化石だからである。

 さても、真珠(pearl)である。アコヤガイ(斧足綱ウグイスガイ目ウグイスガイ科アコヤガイ(阿古屋貝)属ベニコチョウガイ亜種アコヤガイ Pinctada fucata martensii :阿古屋は現在の愛知県阿久比町(あぐいちょう:グーグル・マップ・データ)周辺の古い地名で、この辺りで採れた真珠を阿古屋珠(あこやだま)と呼んだことから、真珠を阿古屋と呼ぶようになったとも言うが、現行の町域は海に面していない)・クロチョウガイ(アコヤガイ属クロチョウガイ(黒蝶貝) Pinctada margaritifera :和名は貝殻を広げた形が蝶(チョウ)に似て黒いことに由る。沖縄県宮古などでの方言とする)・シロチョウガイ(アコヤガイ属シロチョウガイ(白蝶貝)Pinctada maxima :本種は本邦に棲息しない。オーストラリア・フィジー・タヒチ・インドネシア・フィリピンに分布するが、近代以降に日本が大規模に真珠採取をし、南洋真珠として知られた)・カラスガイ(斧足綱イシガイ目イシガイ科カラスガイ(烏貝)属カラスガイ Cristaria plicata :淡水貝。日本全国及び朝鮮半島・中国大陸・台湾・東南アジアに広く分布する。海抜百メートルよりも低い平地の池・湖・河川に棲息。和名はカラスのように真っ黒な貝の意)など、貝殻の内側が真珠層になっている貝類の中に異物が入った際、軟体の保護のためにこれを取巻いて形成される球状の真珠質の貝類の体内に形成される奇形凝固物である。その生成が自然の偶然によるものを天然真珠と呼び、アコヤガイを真珠母貝として、他種の貝の真珠層から作った球状の核とピース(母貝の外套膜の細胞小片) を挿入し、養殖して得たものを養殖真珠と呼ぶ。明治二六(一八九三)年に御木本幸吉がこの方法で初めて養殖に成功し、汎世界的に現在の殆んどの真珠は養殖真珠によるものである。日本では三重県の志摩半島を始めとして、中部以西の太平洋岸・日本海岸」瀬戸内海沿岸などの多くの湾内で養殖され、質・量ともに世界を圧倒している。養殖期間は小珠以下は半年以上一年未満、中珠以上は一年から三年ほどで、真珠の寸法・光沢・形状・色調などによって等級が分れる。良質の真珠は、古来より、宝玉として珍重され。ネックレス・ブローチ・指輪・宝冠などの装身具に加工されたものが各種遺跡から出土している。私は実は真珠好きである。その他の宝石には全く興味がないのだが、真珠だけは別物である。しかし、カフスやネクタイピンでは傷がつきやすいために、かえっていいものがなく、身につけようもない。悔しい。小学校六年生の時、なけなしのお年玉を溜めた小遣いで、母の誕生日に傷物を用いた千円の真珠のブローチを買ったのを思い出す(母は終生それを宝物としていた)。僕は、その時から、真珠に惹かれていたのだと思う。ちなみに、‘pearl’の有力な語源説としては、‘perna’という二枚貝を表すラテン語の俗化した(シチリア島とイタリア南部で使用されているロマンス語の一種であるシチリア語(sicilianu)由来とも言われる)‘perla’が元とされる。則ち、これも貝由来のようである。

「蚫〔(あはび)〕」現行の和名「アワビ」自体が腹足綱原始腹足目ミミガイ科 Haliotidae のアワビ属 Haliotis の総称であるので、国産十種でも、一般に知られている食用種のクロアワビ Haliotis discus discus ・メガイアワビ Haliotis gigantea ・マダカアワビ Haliotis madaka ・エゾアワビ Haliotis discus hannai (クロアワビの北方亜種であるが同一種説もあり)・トコブシHaliotis diversicolor aquatilis ・ミミガイ Haliotis asinina の六種を挙げておけば、とりあえずは主要な真珠形成種(或いは近世以前に真珠を産むアワビとして認識されていた種)は包括され得るものと私には思われる。因みに私自身、実際に食した際にクロアワビとトコブシの二例で、石灰化した小指の先ほどの真珠紛いの異物を見つけたことがある。なお、腹足綱Gastropoda(巻貝類)で自然真珠を形成するケースは二枚貝綱Bivalvia(二枚貝類)に比べると、遙かに少ない。これは殼口が異常に拡張形成されて、岩礁上で吸着・匍匐する彼らの生態上の特異性が、内面での真珠層形成の著しいことと相俟って、異物混入と真珠形成を生じやすいことによるのであろうが、非常に古くから、アワビが真珠を持つことは説話や伝承で残されており、中世以前は、恐らく、真珠は、まず、深海の巨大なアワビが持っており、妖しい光りを放つ宝玉として、やや妖怪的に記載されていることが多いように私には感じられる。益軒はアワビ類を「大和本草卷之十四 水蟲 介類 石決明」で既に出している。

「蛤〔(はまぐり)〕」「がふ」と読んで二枚貝全般としてもよいのだが、それでは、前の「鮑」とバランスが悪いから、斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ科ハマグリ亜科ハマグリ属ハマグリ Meretrix lusoria と、ハマグリ属チョウセンハマグリ Meretrix lamarckii(本邦では房総半島以南の太平洋側及び能登半島以南の日本海側に分布する。外来種ではないので注意。「チョウセン」は日本人が真正のものと異なるものに付けたがった悪しき和名に冠する補助語であり(カムルーチの異名のチョウセンドジョウのような正しい棲息地の一つであるケースもあるにはある)、私は差別的なものを感じるので、これこそ改名すべきものであると考えている。因みに、同じくハマグリでは三度、やはり石灰化した紛い珠を見つけており、他に大好物のマガキの中には、複数回、発見しており、最大級のものはパチンコ玉をやや小さくした大きなものさえあった。但し、真っ白な炭酸カルシウムの玉状のものだった。

「蚌(どぶがい)」益軒はこれをカラスガイの異名と考えていることは、「大和本草卷之十四 水蟲 介類 蚌」で明らかであり、多くの現代の一般人もそう思っている人が多いが、これは誤りである。

斧足綱古異歯亜綱イシガイ目イシガイ科ドブガイ属 Sinanodonta に属する大型のヌマガイ Sinanodonta lauta(ドブガイA型)

と、小型の、

タガイ Sinanodonta japonica(ドブガイB型)

の二種が「ドブガイ」であり、

イシガイ科イケチョウ亜科カラスガイCristaria plicata

及び同属の、琵琶湖固有種である、

メンカラスガイCristaria plicata clessini (カラスガイに比して殻が薄く、殻幅が膨らむ)

は全くの別種なのである。カラスガイとドブガイとは、その貝の蝶番(縫合部)で識別が出来る。カラスガイは左側の擬主歯がなく、右の後側歯はある(擬主歯及び後側歯は貝の縫合(蝶番)部分に見られる突起)が、ドブガイには左側の擬主歯も右の後側歯もない。私の「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部」の「蚌(どぶがい)」及び「馬刀(からすがい)」の項の注で詳細に分析しているので参照されたい。

「あさり貝」異歯亜綱マルスダレガイ上科マルスダレガイ科アサリ亜科アサリ属アサリ Ruditapes philippinarum 及びアサリ属ヒメアサリ Ruditapes variegatus(アサリよりも殻幅や套湾入が、若干、小さい)。これも私はビーズ玉のような小さなものを何度も発見したことがある。

「輕粉」古く中国から伝えられた薬品で、駆梅薬や白粉(おしろい)の原料にした白色の粉末。塩化水銀(Ⅰ)=甘汞 (かんこう)が主成分で、水に溶けにくく、毒性は弱い。「水銀粉」と書いて「はらや」とも呼び、また、「伊勢おしろい」とも称した。

「燈芯」蠟燭の芯であるが、これは恐らく紙製のそれではなく、単子葉植物綱イネ目イグサ科イグサ属イグサ Juncus decipiens の花茎の髄を乾燥させた非常に軽いそれであろう。

「同じくして」一緒にして。

「香盒」香を入れる小さな容器。漆器・木地・蒔絵 ・陶磁器などがある。香箱。

「久しくありて、子を生ず」化学的説明は出来ぬが、塩化水銀の影響を受けて真珠の表面が変成して剥離し、それが先の「燈芯」に附着して、小さな球のようになるものか? 私はここを読みながら、即座に本邦に古くからある謎の毛のような生物或いは物質である「ケサランパサラン」を想起した。一説に、ケサランパサランは、穴の開いた桐の箱の中で白粉を与えることで飼育が可能で、増殖したり、持ち主に幸せを呼んだりすると言われてきたからで、まさに、ここの益軒の謂いは、その飼育のシークエンスにそっくりだからである。その正体の考証は「想山著聞奇集 卷の壹 毛の降たる事」の私の注を、是非、どうぞ!

大和本草卷之十六 水獺(かはをそ) (絶滅種ニホンカワウソ)

 

水獺 和名ヲソ今俗ヲソヲ誤リテカハウソト云カハヲ

ソハ海獺ニ對シテ云世俗獺ノ性ヲシラス補益ノ能

アリトテ求メ食人多シ性寒ナレハ熱症ニ用テハ無

害虛冷ノ人陽氣不足セハ不宜食本艸曰消男子

陽氣不宜多食其肝ハ虛勞ヲ治ス是亦本艸ニ見

ヱタリ虛人ハ肉ヲ食フヘカラス

○やぶちゃんの書き下し文

水獺(かはをそ) 和名「をそ」。今、俗、「をそ」を誤りて、「かはうそ」と云ふ。「かはをそ」は海獺(うみをそ)に對して云ふ。世俗、獺〔(かはをそ)〕の性〔しやう〕を、しらず。「補益の能あり」とて、求め食ふ人、多し。性、寒なれば、熱症に用ては、害、無〔きも〕、虛冷の人、陽氣不足せば、食ふ宜〔(べ)か〕らず。「本艸」に曰はく、『男子の陽氣を消(け)す。多食す宜〔(べ)か〕らず。』と。其の肝は虛勞を治す。是れ亦、「本艸」に見ゑたり[やぶちゃん注:ママ。]。虛人は肉を食ふべからず。

[やぶちゃん注:底本で七条飛んで25コマ目。但し、途中で目を止めたて詳読したものは二つある。一つは17」コマ目の「ウニカウル」で、今一つは18」コマ目の「鮓答(ヘイサルハサル)」である。前者の「ウニカウル」は「宇無加布留」「ウンカフル」などとも記す、ポルトガル語の「ウニコール」(unicorne)で、これは原義は西洋の想像上の動物である一角獣(ユニコーン:ドイツ語:Einhorn/フランス語:licorne:角を持つ馬に似た姿で描かれることが多く、伝承は聖書に溯り、最強の動物で捕らえ難いが、処女(=聖母マリア)には馴れ親しむ。則ち、ユニコーンをイエス・キリストに見立てるキリスト教的寓意譚もある)であるが、実際のその正体は海棲哺乳類であるイッカク(鯨偶蹄目イッカク科イッカク属イッカク Monodon monoceros :一属一種)の♂の牙であるからである。しかし、益軒は『犀角ノ類ナルヘシ』と言ってサイの角の一種であろうと誤認していてイッカクへの言及がなく、以下、延々と薬効記載をするに終始しているので採らない。ただ、これは当時の主流の考証であって無理はない。本「大和本草」は宝永七(一七〇九)年に刊行されたが、例えば、「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 一角(うんかふる/はあた:犀角) (海獣イッカクの角)」で良安は『交趾(カウチ)』(ベトナム北部)で供給される『白犀の角』だと言っている(「和漢三才図会」は正徳二(一七一二)年成立)。なお、リンク先では私が「ウニコール」の細かな検証をしているので参照されたい。「ウニコール」の基原生物を陸獣のサイだとする、こうした大勢の妄説を退け、正しく鯨類であるイッカクの牙であるということを示し得たのは、杉田玄白の弟子で仙台藩江戸定詰藩医大槻玄沢(彼を藩に推薦してその実現に尽力したのは只野真葛の祖父工藤平助である)の「六物新志」(天明元(一七八一)年序。同六(一七八六)年刊)と、在野の博物学者木村蒹葭堂の「一角纂考」(天明六(一七八六)年自序・寛政七(一七九五)年刊)まで待たねばならなかった。次に、後者の「鮓答」であるが、これは各種獣類の胎内結石或いは悪性・良性の腫瘍や免疫システムが形成した異物等を称するもので、「ウニコール」と同様に生薬や香料として古くから現在まで流通している。詳しくは「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 鮓荅(へいさらばさら・へいたらばさら) (獣類の体内の結石)」の私の注を参照されたいが、これには当然、香料の一種として珍重される「龍涎香(りゅうぜんこう)」=「アンバーグリス」(英語:Ambergris)が含まれ、体内異物と誤認される、魚類に見られる耳石(じせき)があるから、詳読した。すると、底本の19コマ目の一行目から三行目に、『本朝食鑑に曰、「病牛〔びやうぎう〕、眼黃(がんわい)なる者、必ず、黃〔たま〕[やぶちゃん注:これは鮓答の異名異訓。]有り。」と。又、魚の腹中にも石の如くなる物、稀にあり。眞珠も亦、貝の玉なり。此の類なるべし。淋病を患〔わづらふ〕る人に、石塊、生ずる如し。』(下線は私が附した)とあるが、この下線部分だけが、水族関連するだけであり、それは、耳石相当物については、「大和本草卷之十三 魚之下 石首魚(ぐち) (シログチ・ニベ)」やその前後で益軒が述べてしまっており、真珠は「大和本草卷之三」の「金玉土石」の一条(32コマ目)に別にある(うへえ! また、やらなきゃいけないものが増えた! はいはい、この後、すぐ始めますて)。また、「龍涎香」も既に「大和本草卷之十三 魚之下 龍涎 (龍涎香)」で電子化注してあるから、「水族の部」として採用する対象ではない。

 さても。本条に戻る。

 本邦のそれは日本人が滅ぼした、

食肉目イタチ科カワウソ属ユーラシアカワウソ亜種ニホンカワウソ Lutra lutra nippon

終わりに引く「本草綱目」のそれは、

カワウソ属ユーラシアカワウソ Lutra lutra

となる。益軒の記載は、「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 獺(かはうそ) (カワウソ)」に比べると、甚だ見劣りがする。そちらで絶滅に至る経緯も記しておいたが、益軒の言うように、本邦では薬として古くから捕獲されて積極的に食われていたことが窺える。特に、リンク先の「本草綱目」引用にもある通り、結核に効くという誤った触れ込みが、江戸時代に既に彼らを絶滅に導く悲劇の導火線となっていたのである。なお、そちらでも注しているが、「獺(かはうそ)」は「をそ(おそ)」とも呼ばれるが、小学館「日本国語大辞典」によれば、これは「かはをそ」「かわうそ」の略で、その語源説には「うををす」「ををす」(魚食)の略(「大言海」)、「おそる」(畏懼)と同根(「和句解」・「東雅」)、獣のくせに水中に入って魚を捕える獣にあるまじき「偽」(うそ)の存在の義(「名言通」)、妖獣譚で、よく、人を襲(おそ)う或いは化かすとされたところから(「紫門和語類集」)、水底を住居とすることからの「こ」の反切(「名語記」)とする説が示されてある。しかしどれも信じ難い。原形に獣・幻獣の「をそ」を探索すべきであろう。にしても、益軒は間が抜けている。冒頭で「かはうそ」は誤りだと言いながら、その正しい和名の「をそ」の語源を述べていない。益軒がよくやるいやらしい半可通である。

「虛冷の人」虚弱体質、或いは、体温が有意に低下するような疾患に罹っている人、或いは、消化器系疾患等によって衰弱している人。

『「本艸」に曰はく、『男子の陽氣を消(け)す。多食す宜〔(べ)か〕らず。』と』「本草綱目」巻五十一下の「獸之二」の「水獺」の「主治」に、『熱大小腸祕。消男子陽氣、不宜多食【蘇頌。】』とある。

「虛勞」過労による衰弱。「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 獺(かはうそ) (カワウソ)」の引用参照。

「虛人」漢方で明白に「虚証」を示している人、或いは病人。慢性的に虚弱で体力がない体質の人や、疾患によって機能が低下したり、生理的物質が有意に不足した、ある種、病的状態にある人を指す。]

2021/03/17

芥川龍之介書簡抄20 / 大正二(一九一三)年書簡より(七) 十二月三日附井川恭宛書簡

 

大正二(一九一三)年十二月三日・京都市京都大學寄宿舍内 井川恭樣 親披・消印四日・十二月三日 東京新宿にて 芥川龍之介

 

     長安尺素 一

フイルハアモニイ會があつた クローンのバツハが一番よかつた 會場は帝劇で舞臺の前に棕櫚竹やゴムの大きな鉢を舞臺と同じ高さにならべ舞臺はうすい綠にやゝ濃い綠で簡單なエジプト模樣を出した壁で圍ひ左右の WING に濃いクリムソンを使つたのが大へん快く出來てゐた ユンケルが來てゐた

一番出來の惡かつたのは中島かね子のブラームスとトーメ 樋口信平のヴエルヂイも振はなかつた

 

舞臺協會が惡魔の弟子と負けたる人とをやつた シヨウの飜譯には大へん誤譯があると云ふ噂がある 皆あまりうまくない 森のリチヤアドも貧弱だ 林千歲のダツヂヨン夫人は更に貧弱だ 金井のスウインドン少佐になると新派のくさみが甚しい 最よかつたのは佐々木のバーゴイン將軍だつた

負けたる人に至つては言語道斷だ あの脚本をしつてゐるものは誰でもよくかう拙劣に演じる事が出來るもんだと感心するにちがひない

 

フューザン會が順天中學のうしろの燒跡の自由硏究所と云ふとたん葺の假小屋の樣な所でやつてゐる 三並さんの画[やぶちゃん注:ママ。]が一番最初に出ててゐる[やぶちゃん注:「て」のダブりはママ。] 皆よくなかつた 唯赤い煙突が晴れた空に立つてゐるのが稍よかつた 最人目をひいたのは小林德三郞氏の江川一座(二枚あるがその一で見物席をかいたもの)と云ふ水彩と北山淸太郞氏の二三の小品であつた 莊八氏も大分腕を上げた 與里氏はフューザンの黑田淸輝の如くおさまつてゐる 同氏の作は劉生氏と共にあまり出來がよくない

 

独乙人[やぶちゃん注:「独」はママ。]で世界的にヴアイオリンの名手と云はれる DORA VON MOLLENDORFF の CONCERT が帝國ホテルにあつた ぺッツオルドが補助として出演する

ヴアイオリンは自分の今迄きいたどのメロヂイよりもうつくしいメロヂイをひいてくれた 自分は今でも水色のきものをきて濃い栗色の髮をかき上げながら彈くひとの姿を目の前に髣髴する事が出來る 實際あの絃の音は奇蹟のやうであつた

ぺッツオルドも出來がよかつた あの婆さんも當夜は黑天鷲絨に銀糸の繡[やぶちゃん注:「ぬひとり」。]のあるきものをきつて[やぶちゃん注:ママ。]すましてゐた 久保正夫にあつた

 

     長安尺素 二

石田君が愈一高歷史會の FOUNDER として第一會をひらいた 齋藤さんと慶應の何とか云ふ先生とが出席した其何とか云ふ人はウインデルバンドをよんでゐる人で石田君が師事してゐる人である 独法[やぶちゃん注:ママ。]と英法と文科とで會員が大分出來たと云ふ事だ 先生さへ來なければ出席して牛耳つてやるんだがなと久米が口惜しがつてゐる

 

一高の物理の敎室と攝生室との間に廊下が出來た 食堂の方の廊下も立派になつたさうである 瀨戶さんは國民新聞に現代の學生は意氣が消沈してゐるからもつと自省自奮自重しなければならんとか何とか三日つゞきで論じてゐる 校長としての評判は校内でも校外でも惡くはないらしい

 

ガルスウアシイの詩集 MOODS, SONGS AND DOGGERELS はベルグソンの流轉の哲學の思想を隨所に見得る點で注目に價すると云はれてゐる 始にある MY DREAM の終の三つのスタンザなぞはいゝと思ふ

 

大學に希臘印度美術展覽會が開かれてゐる 高楠さんや黑板さんの採集した希臘の古陶器や人形に欲しいものが澤山ある 貝多羅葉に經文をかくペンを陳列して置いた五本のうち二本盜まれたと云つて印哲の助手がこぼしてゐた

 

とりでがウオーレン夫人の職業とイエーツの幻の海をやる うまく行かないだらうと思つてゐるが三等は十五錢だから皆でみてやらうと久米が云つてゐる

 

根本は九月以來一ぺんも出てこない 谷森君はどこかで感化院にはいつてるときいたさうだ 實は耽溺の揚句に日本舘にかくれてゐるのである

佐野や石原や黑田も大分盛らしい

 

八木君が頭をのばした わける氣と見える 句あり「山羊の毛も刈らでくれけり秋の牧」

 

佐伯君と坂下君とは一日もやすまずに出てゐる 坂下君の鼻の赤いのは每日賄で生姜を食つたからださうだ 成瀨の云ふ事だからあんまりあてにもならない

 

成瀨は本鄕菊坂の何とか日米露(ヒメロ)と云ふ人の二階にゐたが今月から自宅から通ふさうだ 時計を九月に佐野にかしたのがかへつてこないと云つて悲觀してゐる

 

そのあとへ久米が移る筈になつてゐる 久米は月謝を佐野にかしたのがかへつて來ないと云つて悲觀してゐる 同人は目下玉乘の女を主人公にした小說起稿中

 

山宮さんにまじめにたのまれてとうとう又畔柳さんの會へ出た よむ本は SHAW 久保謙や久保勘や山宮さんや皆 SHAW は嫌ひだと云つてた むづかしくつてわからないからきらひなんだらうと思ふ 畔柳さんがこんな圖をかいた

[やぶちゃん注:底本の旧全集からトリミングした。正直言うと、私は図とは理解し易くするためのものでなくてはならない。こういう判ったような自己満足のチャートは百害あって一利なしとしか思わない人間である。]

 

114zu

 

Aは人間が TRANSCENDENTAL GOD を求める時代 Bは IDEAL を人間の本來に求める時代(遠くはプラトー 近くはメーテルリンク) Cは無理想の自然主義の時代 Dは現在の生活に理想を求める時代 この時代は大分して二となる(D’) αは社會に對して個人を重くみる個人主義 βは社會を BETONEN する社會主義 これが動くとETGの三方向をとる F[やぶちゃん注:底本ではここに編者のママ注記がある。「E」の誤りと推定しているものであろう。]はプラグマチズムの方向でどこ迄も平行線でゆく Fは科學者の人類觀で滅亡を豫想する悲觀說 Eはベルグソン オイツケンのネオロマンチツクの哲學による樂觀說とするのださうだ

メエテルリンクの時よりは面白かつた 僕が SHAW AS A DRAMATIST をやつた

 

まだあるが長くなるから切上げる

文展の批評でもきゝたい 町三趣はよからう 海女の半双(海のない方)もよからう あとの半双も僕は人が云ふほど惡くは思はない

松本博士は廣業の四幅を日本畫に新紀元を與へるものだと云つた 僕にはわからない

   恭   君 梧下

 

[やぶちゃん注:「長安尺素」「長安」は帝都東京の比喩であろう。「尺素」は「せきそ」と読む。「素」は「帛」(はく)の意。「一尺余りの絹布」の意で、文字を書くのに用いたところから、「僅かの書き物」「短い手紙」の意。「尺牘(せきとく)」に同じい。

「フイルハアモニイ會」筑摩全集類聚版脚注に、『東京フィルハーモニー会』で、『男爵岩崎小彌太が主宰したもの』で、この年の『十一月二十七日』に帝国劇場で行われたそれは、『第七回』公演『に当たり、東京音楽学校・海軍音楽隊が演奏した』とある。岩崎小弥太(明治一二(一八七九)年~昭和二〇(一九四五)年)は後の大正五年に三菱財閥第四代目総帥となった実業家で、一高を経て明治三二(一八九九)年に東京帝国大学法科大学に入学するも、翌年に中退して英国に留学、明治三十八年にケンブリッジ大学を卒業して、翌年に帰国して三菱合資会社の副社長となっていたが、彼は一方で、当時東京音楽学校(現在の東京芸術大学)のドイツ人教師でチェロ奏者であったハインリヒ・ベルクマイスター(Heinrich Werkmeister 一八八三年~一九三六年)についてチェロを習い始め(腕前は不明)、明治の終わり頃からは、音楽家の留学援助(その一人がベルクマイスターの縁で東京音楽学校を出たばかりのかの山田耕筰であった)とオーケストラの育成に力を入れ、明治四三(一九一〇)年に英国時代の友人を誘って、音楽愛好家団体「東京フィルハーモニック・ソサエティー」を設立していた(この年中に解散)。

「クローン」ドイツ出身のヴァイオリニストで指揮者・音楽教師のグスタフ・クローン(Gustav Kron 一八七四年~?)。一八九六年から一八九八年までハンブルクの「楽友協会」で楽長とソリストを、一九〇〇年からかの「ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団」のソリストを務めた。この一九一三年一月から大正一〇(一九二一)年六月までと、再来日して一九二二年二月から大正一四(一九二五)年三月まで、東京音楽学校で弦楽・声楽・和声学・作曲・合唱・管弦楽を担当した。

「バッハ」バッハ好きの私としては芥川龍之介がかく称賛した演奏曲が知りたいところなのだが、ネット上では調べ得なかった。無伴奏バイオリン・ソナタの一曲か? 識者の御教授を乞う。

「WING」筑摩全集類聚版脚注には、『ここでは舞台の両脇』とある。

「クリムソン」crimson。クリムズン。深紅色・茜色。

「ユンケル」既出既注。リンク先の『大正元(一九一二)年八月三十日・「卅日夕 芥川龍之介」・出雲國松江市田中原町 井川恭樣・「親披」』の私の注の「ゆんける」を参照。

「中島かね子」既出既注であるが、再掲すると、中島は旧姓。「白樺」派の柳宗悦の妻で声楽家(アルト歌手)であった柳兼子(明治二五(一八九二)年~昭和五九(一九八四)年)。私は関心がないので、詳しくは当該ウィキを参照されたい。

「トーメ」フランスの作曲家フランシス・トーメ(Francois Thomé 一八五〇年~一九〇九年)。インド洋のモーリシャス島生まれで、幼少の頃にパリに移り住んだ。ピアノ小品の作曲家として知られており、代表作は「飾らぬ告白」(Simple aveu, romance sans paroles pour piano op. 25:「素朴な告白、ピアノのための言葉なきロマンス」作品二十五)など。パリ音楽院でマルモンテルにピアノを、デュプラートに音楽理論を師事した。ピアノ作品の他には、バレー音楽・オペラ・オーケストラ作品・宗教曲を作曲している。

「樋口信平」(?~大正九(一九二〇)年)はバス歌手。大正二(一九一三)年、東京音楽学校卒。主に母校の音楽会で活躍した。

「舞臺協會」日本の大正期の新劇団。その名称は一八九九年にロンドンに創立されてイギリスの近代劇運動を担った「ステージ・ソサエティ」(Stage Society)の訳語に由来する。大正二(一九一三)年に坪内逍遙が主宰した劇団「文芸協会」の解散直後に、同劇団の若手たち(加藤精一・佐々木積(つもる)・山田隆弥・吉田幸三郎ら)が設立したもので、この年の十一月二十八日に帝国劇場で第一回公演を以下の演目で行っている。同劇団には夏目漱石門下の評論家でドイツ文学者であった小宮豊隆が文芸面を担当していた。

「惡魔の弟子」アイルランドの文学者・脚本家・劇作家にして教育家・評論家ジョージ・バーナード・ショー(George Bernard Shaw 一八五六年~一九五〇年)の一八九七年の作品‘The Devil's Disciple’。筑摩全集類聚版脚注に、『リチャアド、ダッヂョン夫人、スウィンドン少佐・バーゴイン將軍は』孰れも『その登場人物。佐々木積の訳』とある。佐々木積(明治一八(一八八五)年~昭和二〇(一九四五)年)は長野県生まれの俳優。本名は佐々木百千万億(つもる)。早稲田大学露文科卒。「文芸協会」第一期生となり、卒業公演「ハムレット」に出演。協会解散後、この「舞台協会」を創設。後、大正五年には、ハルピンに渡り、陸軍軍属としてロシア語通訳となった。大正一〇年に「舞台協会」が再興されると、帰国、大正十三年には「同志座」を結成した。その後は東亜キネマや日活で活躍した。本義局は私は読んだことがないのでストーリーは知らないが、こちら(世界救世(メシヤ)教教主岡田自観(岡田茂吉)氏の論文集のサイト内)のこちらに、その芝居についての岡田氏の書かれたものと思われる記事(「バーナード・ショウ」。『栄光』第七十八号(昭和二五(一九五〇)年十一月十五日発行))があり、『実に面白くもあり、心を打たれた。その筋というのは、ここに英国のある小やかな町に、一人の牧師がいた。すると牧師の留守に警吏がやって来た。ある罪状のため警察へ連行の目的で来たのであるが、不在なので留守をしていた牧師夫人にその事を言った。夫人は非常に驚き恐れ、なす事を知らない有様だ。ところが、その少し前から来ていた一人の男があったが、それは町でも評判な不良青年で、綽名(あだな)を悪魔の弟子と言われているくらいだから推して知るべしだ。今警吏の前で震えている夫人を見るに見兼ねていた悪魔の弟子は何と思ったか、イキナリ』、『警吏に対(むか)って、その罪なら僕がやったんだから、僕を引張ってくれと名乗り出た。警吏も普段が普段のこの男として、そうに違いあるまいと、何の疑いもなく、警察へ引張って行ったのである』。『すると間もなく当の牧師が帰って来たので、夫人はその話をすると、牧師は見る見る顔色が変り、精神的苦悶の状明らかに見られる程だ』。『それは自分はその罪を何とかして逃れたいとその手段を日夜考えていた際とて、自分の卑怯な心理に自責の念が湧き起ったのだ。その醜い心をアザ笑うかのように、身を挺して犠牲になったのは誰あろう悪魔の弟子だったのだ。彼のその崇高なる聖者にも等しき勇気と、そうして愛の発露には流石(さすが)の牧師も慙愧(ざんき)の念をどうする事も出来なかった。これでは聖なる神の使徒たる自分は、悪魔の弟子にも劣るのではないかという訳で、確か妻君に対って懺悔をすると共に、悪魔の弟子を助けるべく警察へ急行し釈明し、軽い罪だったと見えて即座に釈放され、同行帰宅したのであった。直ちに悪魔の弟子に感謝と共に、賞め讃えたという筋であったと思う』とあった。

「負けたる人」ドイツの詩人・小説家・劇作家ヴィルヘルム・フォン・ショルツ(Wilhelm von Scholz 一八七四年~一九六九年:叙情的な象徴詩人として出発したが、新古典主義を提唱し、戯曲「コンスタンツのユダヤ人」(Der Jude von Konstanz:一九〇五)年などを発表。その後、古典的形式に神秘主義の思想を盛り込み、夢幻的なオカルトの世界と現実が交錯する二重の世界を描くなど、作風が一変した)が一八九九年に発表した戯曲(Der Besiegte:「打ち負かされし者」)。彼の作品主題はナチス・ドイツに歓迎され、それに迎合したとされて、現在のドイツでは全く顧みられない作家であるとのことである(当該ドイツ語ウィキに拠る)。筑摩全集類聚版脚注に、『翻訳は森鷗外』とある。作品内容は不詳。持っているのだが、読んでいない。先日、当該「選集」を引っ張り出したのだが、またまた、書籍の山積みの何処かに隠れて見当たらない。その内、読んで追記する。

「森」森英治郎(明治二〇(一八八七)年~昭和二〇(一九四五)年)は横浜生まれの俳優。京華中学中退。「文芸協会研究所」を経て、明治四四(一九一一)年、「文芸協会」に入る。見事な演技力で若手四天王の一人と称された。大正九(一九二〇)年、日活向島撮影所に、主演俳優として招かれ、、田中栄三監督作品「朝日のさす前」などに主演。一時は「舞台協会」に属したが、大正十二年には日活専属となった。溝口健二監督の初期の名作「霧の港」に沢村春子と主演。震災後は日活を退社し、「同志座」を結成、大正十五年に「宝塚国民座」の結成に参加して以来、舞台に専念した。満州への巡業慰問中に肺結核で倒れ、翌年に死去した。

「林千歲」(ちとせ 明治二五(一八九二)年~昭和三七(一九六二)年)東京市芝区琴平町生まれの俳優。本名は河野千歳。明治四十二年日本女子大学英文科入学。「文芸協会演劇研究所」に入り、この大正二年に第二期生として卒業している。この間、有楽座で協会公演「故郷」に松井須磨子と初舞台を踏み、「文芸座」公演など新劇初期に活躍した。大正九年、「国活角筈(つのはづ)撮影所」に入り、細山喜代松監督「短夜物語」で映画初出演を果たし、次いで巣鴨撮影所に所属、大正十一年に松竹蒲田へ招かれ、大久保忠素(ただもと)監督の「小夜嵐」に主演。池田義臣監督の「二つの道」以後、母親役から脇役に回り、昭和五(一九三〇)年に退社して、昭和八年には日活太秦に入った。昭和十七年の皇国映画配給の村上潤監督の「母の顔」で主演を演じている。

「金井」金井謹之助(明治二六(一八九三)年~二八(一九五三)年)は俳優。新国劇俳優として知られる。明治四十四年の「文芸協会」(彼は第二期生)第一回帝劇公演「ハムレット」で初舞台を踏んだ。大正六年、沢田正二郎の「新国劇」結成に参加、一時、離反したが、沢田の没後、新国劇再建のために尽力し、劇界の美談とされた。映画でも複数作品で主演をこなし、舞台では「沓掛時次郎」や「関の弥太っぺ」などを好演した。

「佐々木」既注の佐々木積。

「フューザン會」この大正二年に創設された美術団体。初めは「ヒュウザン會」と称したが、のち「フュウザン會」に改める。文展系の絵画に反発した高村光太郎・岸田劉生・斎藤与里(より)・木村荘八・萬鉄五郎(よろずてつごろう:私の非常に好きな画家である)らが組織し、機関誌『フュウザン(ヒュウザン)』を発行。後期印象派やフォーヴ風な個性的表現を志向し、当時の青年画家に大きな影響を及ぼしたが、翌年に解散した名前のそれはフランス語‘fusain’で「木炭」の意味である。

「順天中學」現在の東京都北区王子本町にある私立順天中学校・高等学校の前身。当時は東京府神田区中猿楽町(現在の神田神保町二丁目。グーグル・マップ・データ)にあった。

「自由硏究所」筑摩全集類聚版脚注に、『北山清太郎が設立した公開の絵画研究所。神田自由研究所のこと』とある。北山清太郎(明治二一(一八八八)年~昭和二〇(一九四五)年)は水彩画家・雑誌編集者で、同時代の若い画家たちを支援した人物として知られ、また、「日本初のアニメーション作家」の一人として知られる人物でもある。「日本水彩画会」大阪支部代表となり、「日本洋画協会」を設立、『現代の洋画』を発刊、「フュウザン会」の設立にも尽力し、展覧会開催を支援した。大正五(一九一六)年以降はアニメーションの世界に転じて、「北山映画製作所」を設立している。

「三並」画家三並花弟。「フュウザン会」所属。詳細事績不詳。

「小林德三郞」(明治一七(一八八四)年~昭和二四(一九四九)年)は洋画家。広島県生まれ。本名藤井嘉太郎(幼少期に伯父の養子となった)。明治四二(一九〇九)年東京美術学校西洋画科卒。「フュウザン会」所属。『ふくしま美術館所蔵品展示目録』(第百二十四号)の「再発見! 小林徳三郎」(PDF)に非常に細かい解説と年譜及び幾つかの作品のカラー画像が載る。必見! そこにはこの龍之介の書簡の引用もある。それを見ると、彼は「芸術座」の舞台装飾や書籍装幀なども手掛けている。

「江川一座」筑摩全集類聚版脚注に、『玉乗などの曲芸軽業の一座』とある。「大辞泉」の「江川の玉乗り」には、『明治初期から関東大震災前まで東京の浅草六区で興行していた江川作蔵一座の玉乗りの曲芸』とある。ウィキに、「江川の玉乗り」で知られる本名迫與三郎(さこよさぶろう)についての二代目「江川マストン」があるが、そこに、『「江川の玉乗り」は』明治一七(一八八四)年、『区画整理により』、『東京の「浅草公園六区」に見せ物小屋等が成立し始めたころから、関東大震災までの期間、常打ち』(じょううち)『小屋「大盛館」(現在の浅草新劇場の位置)で興行が行われた曲芸の一座で、幕末からのキャリアを持つ興行師・江川作蔵』★☜★『がこれを率いた』とある。『のちの二代目江川マストンは、初代マストンのもとで』大正六(一九一七)年、『江川 茶目(えがわ ちゃめ)の名で舞台に上がっている』。『同時期に軒を隔てた向こう側には第一共盛館(のちの大勝館)があり、青木一座が「青木の玉乗り」の興行を行い、競い合っていた』。『「江川の玉乗り」は小屋での見世物であり、大道芸ではなく、したがって江川は大道芸人ではない』とあり、『初代についてはほとんど知られていない』とある。これを見る限り、初代の江川マストンというのが、江川作蔵のようには読めるが、定かではない。なお、先の注に出した萬鉄五郎の「図版解説」(『美術研究』二〇〇九年三月・国立文化財機構東京文化財研究所発行。残念ながら、図版は総て除去されてある)として、田中淳氏の「萬鉄五郎  《軽業師》および《太陽と道》」(PDF)がこちらで読めるが、その絵「軽業師」は江川一座をこの前年の大正元(一九一二)年に描いたものらしい。そしてそこに、同年四月発行の雑誌『新小説』(一九一二年四月)にある「浅草研究」と題する特集記事の引用が掲載されてあり、その中の『高崎春月「池の向ふ歩き」は、当時の』『浅草のルポルタージュなかでも、ことに「玉乗り」の江川一座の見物記が含まれて』いるとして、以下が引用されている(漢字の表記はママ。踊り字「〱」は正字化した)。

   《引用開始》

大盛館の江川玉乗一座へ入る。入らはい入らはいといはれた言葉に連れられて、ウカウカと入つた。 そして又ウカウカと見物した。 綱渡りもあつた。 危険千萬な、心の躍るのを禁じられない様々な技藝が、様々な形に於て演じられた。世の中の種々な技藝が、漸く機械的にならうといふのに、この種の技藝が絶大な習練を要し演技者の自信を要し、而して多年の苦心努力を要するもので、今また多く世に容れられないものとなりつゝあるのを遺憾に思はずには居られない。我等は長くこの種の技藝を保存し置きたく思ふと同時に、この種の演技者を保護しなくてはなるまいと思ふ。先づ浅草の見世物を軒別に調査する必要がある。数年前まで今の大勝館の所に青木一座といふ玉乗があつた。今のオペラ館の所にも都踊があつた。世界館の所にも都踊式のものがあつた。電気館の所か、其所にも手踊があつた。○一も居た。海坊主も居た。書生剣舞加藤一座といふのも居た。兎に角常磐座を中心にしたあの附近は今でこそ総てを活動写真に、占領されて居るが、以前は日本式の見世物が並んで居たものである事を忘れてはならない。[やぶちゃん注:最後に引用注記があるが、省略した。]

   《引用終了》

文中の「○一」については、田中氏が『丸一(まるいち)と称された江戸太神楽の一派の名称である』とある。

「莊八」洋画家・版画家で随筆もよくした木村荘八(しょうはち 明治二六(一八九三)年~昭和三三(一九五八)年)。東京生まれ。「白馬会洋画研究所」に学び、岸田劉生とフューザン会・草土社を結成した。後に「春陽会」創立会員となる。小説の挿絵で名を馳せ、随筆家としても著名で、「東京繁昌記」の画文章は芸術院恩賜賞を受けている。また、邦楽評論家としても知られた。

「與里」洋画家。斎藤与里(明治一八(一八八五)年~昭和三四(一九五九)年)は埼玉県生まれ。本名は与里治(よりじ)。「京都聖護院洋画研究所」に学び、渡仏してローランスに師事。帰国後は後期印象派を日本に紹介し、岸田劉生らと「フュウザン会」を結成するなど、洋画界進展に大きな役割を果たした。後に大阪に移り、矢野橋村と大阪美術学校を設立した。

「DORA VON MOLLENDORFF の CONCERT」ドイツの女性ヴァイオリニストであるドーラ・フォン・メーレンドルフ(Dora Von Möllendorff 一八八六年~一九五九年)。同年十一月二十九日(土曜日)に帝国ホテルで鑑賞している。ネット上では邦文記載がまるでないが、英文サイトを見ると、彼女はこの頃、ヨーロッパで非常に成功したヴァイオリニストであったことが判った。

「ぺッツオルド」まず、既出既注の「ペツツオルド夫人」で、東京音楽学校教師として声楽の指導をした、ノルウェーのピアニスト・声楽家(ソプラノ)ハンカ・シェルデルップ・ペツォルト(Hanka Schjelderup Petzold 一八六二年~一九三七年)であろう。「補助として出演」とあるので、恐らくはピアノ伴奏をしたものであろう。

「久保正夫」(明治二七(一八九四)年~昭和四(一九二九)年)は芥川龍之介の一高・東帝大の後輩。大学では哲学を専攻し、第三高等学校講師となった。「フィヒテの哲学」などの翻訳で知られ、聖フランチェスコの関連書を多く訳し、友人であった劇作家の倉田百三とともに、大正時代の宗教文学ブームの先駆けを作った人物として知られる。

「石田」既出既注の後に歴史学者・東洋学者となった一高の同級生で親友の石田幹之助(明治二四(一八九一)年~昭和四九(一九七四)年:千葉市出身)のこと。

「FOUNDER」ファウンダー。創立者・始祖・開祖。

 「齋藤さん」斎藤阿具(あぐ 慶応四(一八六八)年~昭和一七(一九四二)年)は一高の教授で歴史学者(西洋史専攻)。夏目漱石の友人としても知られる。武蔵国足立郡(現在の埼玉県さいたま市)生まれ。明治二六(一八九三)年、東京帝国大学史学科卒業後、大学院に進み、明治三〇(一八九七)年に第二高等学校(現在の東北大学の前身)教授となったが、明治三六(一九〇三)年から三年間、ドイツ・オランダに留学した。この留学中に本郷区駒込千駄木町の家を漱石に貸し、漱石はここで「吾輩は猫である」を書いたため、「夏目漱石旧宅跡」として区指定史跡とされ、旧居記念碑が建っている(旧居は明治村に移築)。帰国後、第一高等学校教授となり、芥川龍之介・久米正雄・山本有三らを教えた。昭和八(一九三三)年、定年退官。名誉教授。日本とオランダの交渉史の研究で知られる。

「ウインデルバンド」ドイツの哲学者でハイデルベルク大学教授にして「新カント」派の代表であったヴィルヘルム・ウィンデルバンド(Wilhelm Windelband 一八四八年~一九一五年)。哲学史家としても知られる。

「攝生室」衛生室。保健室のこと。

「瀨戶さん」当時の第一高等学校長瀬戸虎記(とらき 明治二(一八七〇)年~大正九(一九二〇)年)。土佐国土佐郡高知生まれ。土佐藩士瀬戸直道の長男。高知尋常中学校から第一高等中学校英予科及び同校本科二部(理科)で学び、明治二九(一八九六)年、帝国大学理科大学物理学科を卒業後、岩手県立盛岡中学校教諭・東京高等師範学校教授・第六高等学校教授・長崎高等商業学校教授・文部省視学兼第一高等学校教授・文部省視学官などを歴任した後、この大正二(一九一三)年四月に第一高等学校長に就任していた。大正八(一九一九)年に病気で休職し、療養中に死去した。他に政府の臨時教育会議委員なども務めた。

「國民新聞」徳富蘇峰が明治二三(一八九〇)年に創刊した日刊紙。現在の『東京新聞』の前身の一つ。蘇峰が雑誌『國民之友』の発行に成功したのに気を良くして創刊したもので、当初は「平民主義」を唱え、平民主義の立場から政治問題を論じていたが、三国干渉問題を契機に帝国主義的国家主義の立場を採るようになり、明治後期から大正初期にかけては山縣有朋・桂太郎・寺内正毅ら藩閥勢力や軍部と密接な関係を持ち、「御用新聞」とも呼ばれる政府系新聞の代表的存在となっていた。筑摩全集類聚版脚注には、『瀬戸の談話は』「誠実なれ(『現代学生の欠陥)で十二月二日に掲載』とあるが、龍之介は「三日つゞきで論じてゐる」とあるからには、十二月一日或いはその前から書いていないとおかしい。

「ガルスウアシイの詩集 MOODS, SONGS AND DOGGERELS」イギリスの小説家・劇作家ジョン・ゴールズワージー(John Galsworthy 一八六七年~一九三三年)の一九一二発表の ‘Moods, Songs, and Doggerels’(「気紛れ、唄ども、ヘボ詩」)。‘Doggerel’(ドッゲル)は「内容も不真面目で、韻律も不揃いな下賤な詩」を指す語。一九一九年版であるが、‘Internet archive’のこちらで原本が読める

「ベルグソン」フランスの哲学者アンリ=ルイ・ベルクソン(Henri-Louis Bergson  一八五九年~一九四一年)。ここで龍之介が言う「流轉の哲學の思想」というのは名著とされる「物質と記憶」(Matière et Mémoire:一八九六年)に於ける心身の把握、実在とは持続の流動であると規定し、身体(物質)と心(記憶)を「持続の緊張と弛緩の両極に位置するもの」として捉えたことを指しているのであろう。

「MY DREAM の終の三つのスタンザなぞはいゝと思ふ」‘Internet archive’のこちらと次のページ。確かに。当時の龍之介好みの感じではする。

「高楠さん」仏教学者・インド学者高楠順次郎(たかくすじゅんじろう 慶応二(一八六六)年~昭和二〇(一九四五)年)。備後国御調(みつぎ)郡(三原市八幡町)の農家沢井家に長男として生まれた。当該ウィキによれば、幼い頃から祖父に漢籍を習ったが、旧家とはいえ、進学するだけの余裕はなく、十四歳で『小学校教員として働き始めた。その後、近隣出身で当時西本願寺を代表する学僧であった日野義淵(足利義山の子)や是山恵覚等の助力もあって』、二十一『歳の時、西本願寺が京都に創設したばかりの普通教校(現龍谷大学)に入学した。在学中は同志を集めて禁酒運動を始め』、『『反省会雑誌』(後の『中央公論』)を刊行した』。『その後、請われて神戸の裕福な高楠家の婿養子となり、その援助で英国に留学』(オックスフォード大学)し、その後、『ドイツやフランスにも留学。帰国すると』、『東京帝国大学で教鞭をとり』、明治三〇(一八九七)年に『梵語学講座を創設、自ら研究に励んだだけでなく、宇井伯寿』『など多くの逸材を育てた』。「大正新脩大蔵経」や「南伝大蔵経」『等の大規模出版物を次々と企画し』、『刊行した。さらに高楠は数々の高等教育機関の設立や運営にも携わり、その多くは今日』、『大学に発展している。知力』・『体力に恵まれ、たゆまぬ努力で巨大な業績を残したが、病気で家族を次々に失い』、『家庭的には恵まれたとはいえなかった。しかし自身は、祖父譲りの篤信の真宗信徒で、朝な夕な』、『仏壇に向かい』、『念仏を唱えていたという』。『子息の高楠正雄は出版社「大雄閣」を創業し、父の著書をはじめとした仏教関連書などを刊行している』とある。

「黑板さん」歴史学者(専門は日本古代史・日本古文書学)で東京帝国大学名誉教授黒板勝美(明治七(一八七四)年~昭和二一(一九四六)年)。旧大村藩士黒板要平の長男として長崎県彼杵郡(現在の長崎県東彼杵郡)に生まれた。大村中学校から熊本の第五高等学校を卒業後、明治二九(一八九六)年に帝国大学文科大学国史科を卒業し、帝国大学大学院に入学、同時に経済雑誌社に入り、田口卯吉の下でかの「国史大系」の校訂に従事した。明治三四(一九〇一)年、東京帝国大学史料編纂員となり、翌年には東京帝国大学文科大学講師を嘱託され、明治三十八年には史料編纂官兼東京帝国大学助教授となった。同年「日本古文書様式論」により東京帝国大学より文学博士の学位を授与されている。明治四十一年から二年間、私費で学術研究のために欧米各国に出張している。大正八(一九一九)年、史料編纂官兼東京帝国大学教授に就任した(翌年に史料編纂官を退任して東京帝国大学教授専任となった)。

「貝多羅葉」「ばいたらば」と読む。古代サンスクリット語の「木の葉」の意の漢音写。上古のインドに於いて針で彫りつけて経文を書き、紙の代わりに用いたタラジュ(単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科コウリバヤシ(行李葉椰子)亜科コウリバヤシ連コウリバヤシ属タラジュ(多羅樹)Corypha utan )の葉を指す。

「とりで」後の映画監督・脚本家・俳優で日本映画監督協会初代理事長となった村田実(明治二七(一八九四)年~昭和一二(一九三七)年:東京神田で大日本図書株式会社重役の一人息子として生まれ、東京高等師範学校附属小学校(現在の筑波大学附属小学校)から東京高等師範学校附属中学校卒業後、慶應義塾文科聴講生。帝劇文芸部の給仕から、作家の書生などを転々とした)が、明治四五(一九一二)年九月に実家の金でメーテルリンクなどに大きく影響を受けた演劇美術雑誌『とりで』を発行(翌年十月の八号までとされる。但し、年譜では観劇記録がない。龍之介自身、乗り気でない感じで、或いは見に行かなかったのかも知れない)し、その一歩で、同年十月に結成した新劇団「とりで社」。筑摩全集類聚版脚注によれば、これはその第二回公演とする。後に宝塚歌劇の演出家となる岸田辰弥や、舞踊家として海外で活躍することになる伊藤道郎、画家の木村荘八らが参加し、築地精養軒ホール・有楽座・福沢桃介邸の小劇場で公演を行い、この間に沢田正二郎・小山内薫らと知り合った。しかし家の経済に負担をかけたことから、翌大正三年には解散した。その後は喜多村緑郎門下などの新劇団を転々とし、下積み生活を送ったが、この間に父の事業が失敗した。後、「映画芸術協会」に参加、小山内薫の「松竹キネマ研究所」で「路上の霊魂」(大正九年)を監督した。洋画の手法を積極的に取り入れ、松竹の「蒲田調」に対し、男性的で重厚な日活現代劇の基礎を築いた人物として知られる。

「ウオーレン夫人の職業」バーナード・ショーの一八九四年(改訂の一九〇二年版もある)の戯曲‘Mrs Warren's Profession’。売春と結婚制度をテーマとしたため、イギリスでは劇場検閲制度によって上演禁止となった。筑摩全集類聚版脚注によれば、『この公演は村田実訳』とある。

「イエーツの幻の海」これは、アイルランドの詩人・劇作家ウィリアム・バトラー・イェイツ(William Butler Yeats 一八六五年~一九三九年)が一九〇一年に書いた一幕物の悲劇「海に騎(の)り行く者たち」(Riders to the Sea:一九〇四年)のこの時の邦訳題であろう。筑摩全集類聚版脚注によれば、『この上演は仲木貞一の訳』とある。前にも述べた通り、後に芥川龍之介の慫慂で、この井川恭が『新思潮』に翻訳することになる、あれである。仲木貞一(明治一九(一八八六)年~昭和二九(一九五四)年)は劇作家・編集者。当該ウィキを参照されたいが、この翻訳の記事は載っていない。

「根本」既出既注

「谷森」既出既注

「日本舘」「につぽんかん」(にっぽんかん)と読む。かの「浅草オペラ」(大正六(一九一七)年~大正一二(一九二三)年)の時代に浅草公園六区で初めてのオペラ常設館となった劇場・映画館(一八八三年十月開業。一九九〇年前後(既にピンク映画上映館となっていた)に閉鎖)。同所にあった根岸興行部の「金龍館」と競い合った。

「佐野」既出既注。例の「マント事件」の真犯人である。

「石原」既出既注

「黑田」既出既注

「八木」既出既注

『句あり「山羊の毛も刈らでくれけり秋の牧」』私は「やぶちゃん版芥川龍之介句集 三 書簡俳句」で芥川龍之介の最初期の一句として採用している。

「佐伯」既出既注

「坂下」坂下利吉。岩波新全集の「人名解説索引」に、『芥川の一高時代の同級生』でとし、『東京の生まれ』で、東帝大『哲学科卒』。愛媛『県立宇和島高等女学校長などを勤めた』とある。県立宇和島高等女学は現在の県立宇和島南高等学校も前身の一つ。同校校長在任は大正一五(一九二六)年から昭和六(一九三一)年であった。なお、「每日賄で生姜を食つた」というのは、この時、既に父母は東京にいなかったということであろうか。

「本鄕菊坂」ここ(グーグル・マップ・データ)。

「何とか日米露(ヒメロ)」不詳。この当て字の名前は妙に気になる。

「佐野にかしたのがかへつてこないと云つて悲觀してゐる」あいつじゃ、永久に帰ってこないよ、成瀬。もうとっくに質流れさね。

「玉乘の女を主人公にした小說起稿中」筑摩全集類聚版脚注には、『不明。浅草公園の芸人に取材して後に』久米正雄は『「手品師」(大正五年四月)を書いている』とある。同作は幸いにして、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらから読める。また、こちらの読書レビューによれば、『「手品師」のモデルは山本有三(第』三『次新思潮同人)。これに山本は怒り、その後、破船事件を挟んで二人は絶交状態に入』ったとある。私は久米正雄は夏目筆子への失恋後の筆禍といい、これといい、龍之介は最後まで彼を信頼したが(凄絶な遺稿「或阿呆の一生」(リンク先は私の古い電子テクスト)は冒頭の辞が彼に当てられて書かれてある)、私はそうした騒動が起こることを確信犯として行っているとしか思えない彼が、どうも好きになれないのである。

「山宮さん」一高・東帝大の一年上級の山宮允(さんぐうまこと 明治二三(一八九〇)年~昭和四二(一九六七)年)。後に詩人・英文学者となり、「日本詩人クラブ」の発起人の一人である。山形県生まれ。県立荘内中学校(現在の山形県立鶴岡南高等学校)から一高に進んだ。一高時代から『アララギ』の歌会に参加している。大正三(一九一四)年、帝大在学中に、中心となって第三次『新思潮』を豊島与志雄・山本有三・土屋文明・芥川龍之介・菊池寛・成瀬正一・久米正雄・佐野文夫・松岡譲とともに創刊した。大正四(一九一五)年に東京帝国大学英文科を卒業後、大正六年に川路柳虹らと「詩話会」を結成、大正七年には評論集「詩文研究」を上梓した。後、第六高等学校教授・東京府立高等学校教授・法政大学教授を務めた。ウィリアム・バトラー・イェーツやウィリアム・ブレイクの翻訳紹介で知られ、昭和二四(一九四九)年に日夏耿之介・西條八十・柳沢健らとともに「日本詩人クラブ」を創立、常務理事長を務めた。

「畔柳さん」英語学者で第一高等学校教授であった畔柳芥舟(くろやなぎかいしゅう 明治四(一八七一)年~大正一二(一九二三)年)。山形県生まれ、本名は都太郎(くにたろう)。東京帝国大学英文科卒。大学在学中から『帝国文学』などに論文を発表し、文芸批評家として注目された。明治三〇(一八九八)年に第一高等学校教授となり、後は「大英和辞典」(昭和六(一九三一)年冨山房刊・共著)などの編集に専念した。著書に「文談花談」(明治四〇(一九〇七)年春陽堂刊)・「世界に求むる詩観」(大正一〇(一九二一)年博文館刊)などがある。

「SHAW」バーナード・ショー。

「久保謙」筑摩全集類聚版脚注に、『大正六年東』帝『大英文卒、英文学者』とある。この七年後の大正九年四月に旧茨城県東茨城郡常磐村に設立された旧制水戸高等学校(現在の茨城大学の前身)で、創設以来、英語を教授したことが、ある論文に載っていた。

「久保勘」筑摩全集類聚版脚注に、『久保勘三郎。大正四年東』帝『大英文卒、英文学者』とある。

「TRANSCENDENTAL GOD」超自然的・形而上的な神。

「IDEAL」理想。

「プラトー」プラトン。

「BETONEN」「ベトゥネン」。ドイツ語。「重視する」の意。

「オイツケン」ドイツの新理想主義の哲学者ルドルフ・クリストフ・オイケン(Rudolf Christoph Eucken 一八四六年~一九二六年)。一九〇八年、「真理の倦むことのない探究と透徹した思想の逞しさ、世界に開かれた眼差し、温厚にして力強い叙述と、それによって理想的な世界観を代表し、発展させた」という理由により、ノーベル文学賞を授与されている。芥川龍之介の「大導寺信輔の半生――或精神的風景畫――」(大正一四(一九二五)年一月一日発行の雑誌『中央公論』発表)の草稿の「空虛」の中の一節で、『信輔も彼の友だちのやうに哲學を第一の學問にしてゐた。同時に又彼の「えらいもの」も哲學的を第一の條件にしてゐた。彼はその爲に何よりも先に哲學の中へ没頭した。當時の哲學はベルグソンに第一の座を讓つてゐた。信輔はまづ手當り次第に「時間と自由意志」へ侵入した。それは硝子の建築よりも透明を極めた建築だつた。彼はこの冷たい壮嚴の中を犬のやうに彷徨した。が、犬の求める肉は不幸にも其處には見當らなかつた。彼はベルグソンの建築を出た後、これも當時の流行だつたオイケンの門へはひらうとした。しかしオイケンの宗敎的情熱は忽ち彼を不快にした』と記している。私の「大導寺信輔の半生――或精神的風景畫――」(草稿附きの古い電子テクスト)を読まれたい。

「ネオロマンチツク」Neoromantic。新浪漫主義的。

SHAW AS A DRAMATIST」「劇作家としてのショー」。

「文展……」以下は総て既出既注。]

2021/03/16

只野真葛 むかしばなし (21)

 

○父樣實方(じつかた)の丈庵樣と申(まうす)ぢゞ樣は、心もち、ゆるゆるとして、溫順なる人なりしとぞ。[やぶちゃん注:「實方」は仙台叢書も同じ。「日本庶民生活史料集成」版では『實家』となっている。さて、ここで真葛は「丈庵」と言っているのだが、これは、以下が工藤平助の実の父である紀州藩江戸詰藩医長井基孝(長井大庵)及びその長井家についての叙述となっているから判るように、平助の養父工藤丈庵安世のことではなく、実父の思い出である。私は「大庵」の誤りか、判読の誤りのように思ったのだが(「大」と「丈」は崩しで似る)。しかしそうなると、「日本庶民生活史料集成」が修正注やママ注記をしていないのが不審となるので、調べて見ると、底本の鈴木よね子氏の解題では、実父を「長井常安」(養父の「常世」と混同されやすい名である)とし、当該人物を記したウィキの「長井基孝」(これが平助の実父の本名らしい)によれば、『平助の娘工藤あや子(只野真葛)の著作『むかしばなし』には長井大庵の名で記される。「基孝」は平助の墓誌による。『伊達世臣家譜』には「長井常安某」と記載される。丈庵、大雲、高基、孝基などとも記される』という、とんでもなくややこしいことが書いてあるのである(養父と同じ医号の「丈庵」とここのようにやらかしてしまうとなら、最早、誤読は不可避となってしまう)。少なくともしかし、「むかしばなし」では凡例注記して「大庵」で統一するか、補正注、或いは、せめてもママ注記を附して注意を促すのが、編者の最低限のなすべきことであろうと私は思う。

 ばゞ樣は、萬事に器用、手も繪もならはずに、よく御書ㇾ成しとなり。御子樣がた、男三人・女壱人、それは善助樣と父樣の間に有りしが、はやく不幸なり。

 其先祖[やぶちゃん注:ここでは実父長井家の話に転じているので注意。]は播州の城主にて有しを、いくさの時分に、秀吉のためにほろぼされ給へること、軍談物にも載りしことなり。それより、鄕士となりて、代々、播州に住居(すまひ)被ㇾ成、家名、賀古(かこ)・長井と、ふたやうなりしとぞ。賀古川とて大河有(あり)、其(その)「運上(うんじやう)」[やぶちゃん注:河川を用いた運送業の権利。なお、江戸時代になると、雑税の一つとして、商・工・漁・鉱・運送などの営業者に対し、賦課した税をも「運上」と称した。]と「隱し田地」などの有しにて、ゆたかに暮していらせられしを、物、ふり、時、うつりて、公儀より、國々の「かくし田地」・諸運上などの、わたくし有(ある)ことなどを手入(ていれ)有し時、「川運上」・「かくし田(だ)」、共(とも)、のこらず、御取揚と成、せんかたなくて、大坂へ御いで被ㇾ成しは、ひぢゞ樣の代なり。

 いかに公儀のことにても、さやうに、むたいに御取上とは、なるまじきことなるを、其頃は、ひぢゞ樣、りつぱ好(ごのみ)にて、公儀御役人にあやまる心、露(つゆ)なく、

「此(この)川の儀は、手前(てまへ)、苗氏(みやうじ)をもて、名と成(なせ)し程のこと、數代(すだい)領し來りしものなれば、いづくまでも我物よ。」

など、少し、りきみ過(すぎ)しがあたり[やぶちゃん注:「返報」の意か。「徒(あだ)」の方が躓かぬ。]と成(なり)、いひつのりに成て、終(つひ)に、なさけなき目にあわせられし[やぶちゃん注:ママ。]とか、伺ひし。

[やぶちゃん注:「播州の城主」「日本庶民生活史料集成」の中谷栄子氏に注よれば、『播磨国の城主野口四郎座衛門、現在も野口の地名がある』とある。兵庫県加古川市加古川町の「ごくらくや仏壇店」公式サイト内の「加古川探訪」の「野口城跡」に、現在の加古川市野口町(のぐちちょう)にあった『「野口城」は室町時代に播磨の土豪・長井四郎左衛門尉国秀が築いたといわれています。「野口城」が歴史の舞台に上がったのは』、天正五~六年(一五七七~一五七八年)の『羽柴秀吉による播磨攻めの時で』籠城『戦法をとった別所長治の三木城の支城として加古川市内に点在する城の中で、一番最初に秀吉の攻撃を受けたのが「野口城」でした。城の周囲は沼が点在する湿地だったようで、守るに易く攻めるに難い地形を活かし、僅か三百名ほどの手勢で包囲して波のように押し寄せる秀吉の大軍を悩ませながら約』二『日間』、『守り通して善戦しました。しかし、やはり多勢に無勢で別所長治の三木城も包囲されていたことから』、『救援も補給も受けられず、ついに落城し』、『全員が討ち死にしたと伝えられています』とある。ここである(グーグル・マップ・データ航空写真。以下同じ)。

「賀古川」古くは加古川をかく書いた。旧野口城の西北約三キロメートル位置に加古川が流れる。加古川は播磨内陸部への重要な交通経路であった。]

 

 さて、ひぢゞ樣御かくれ後(のち)、たつきのために、ぢゞ樣は、醫業、御まねび被ㇾ成しなり。

 紀州家へ、めしかゝヘとならせられても、四十餘(あまり)まで、男子、三人、有ながら、御達(おたつし)しなかりし故、君(くん)、うたがはしくおぼしめされしや、ある時、御かたはら近く、めしよせられて、

「其方こと、としも五十におよびながら、跡目(あとめ)のことは、いかゞ心得たるぞ。」

と、たづねさせ給ふに、ぢゞ樣、さしうつむかれ、しばし、落淚、有て、

「有がたき思召(おぼしめし)に候。私ことは、かねて申上(まうしあげ)しごとく、先祖は長井四郞左衞門と申(まうし)て、一(ひとつ)の城の主(あるじ)とも申されし末(すゑ)の、いかに、たつきなければとて、永く長袖(ちやうしゆう)[やぶちゃん注:医師。]になり、きわまり[やぶちゃん注:ママ。]候はんことは、餘りに口惜しく、先祖へ對し不敬のことゝ存候間、私一代にて跡をたちし所存にて候。」

と申上られしを、君も、尤(もつとも)におぽしめされて、かくべつ、思召を以(もつて)、丈庵にかぎり、跡を武士になし被ㇾ下しは、有がたきことなり。君も君たり、臣も臣たりとやら、申にもあらんか。

 總領は先の四郞左衞門樣、次は善助樣、其ほどは善治と申せしとぞ。父樣は長三郞と申せし故、總領を長庵とは御付被ㇾ成しなり。

 四郞左衞門樣は、澁川流のやはらの傳授、取(とり)、書物も、はづかしからぬほどには御よみ被ㇾ成しなり。酒好(さけずき)にて、大酒なりし。折から、御はなしに、

「大ほね折(をり)てならひしこと、一生に、只、兩度(ふたたび)、役に立(たち)しとおもひし。一度(ひとたび)は若年の時分、亂心もの、拔身をさげて、藏にこもりしを、取手にたのまれしこと、有し。『いかに拔身を持(もち)しとて、亂心物をとらふるに、身ごしらへすべからず』とおもひて、うら付(つき)上下(かみしも)、つまはさみして、藏の戶をおし明(あけ)、すらすらと、よりて、刀(かたな)持(もつ)たる手を取(とり)、腕、まわせしに、何のことも、なかりし。」

と被ㇾ仰し。

 それより、二十年餘をへて、紀州家より賀々[やぶちゃん注:底本ではここに『(加賀)』という補正注が入る。]へ御緣組有し時、御付人(おんつきびと)の奧年寄仰付られ、ひしと、賀々へ、其(それ)、つとめ[やぶちゃん注:底本は「つめ」。これでも意味は通るが、私は「日本庶民生活史料集成」で訂した。]被ㇾ成しに、賀州家にては、上(うへ)より御世話有て、若もの共(ども)の武藝稽古所、有ㇾ之(これあり)、日ごとに、いどみあらそふことなりしに、

「誰は、つよいの、よくつかうの。」

と、いろいろ、いひ唱ふることなりしに、をぢ樣は、

『いまだしきまねびよ。』[やぶちゃん注:『修行が足りない、騒がしいばかりの連中じゃなぁ。』。]

と、御心中におぽしめしたるのみにて、何事も御顏にいだされぬ生(なり)[やぶちゃん注:様子の謂いであろう。]なりし故、

「柔・劍術のことしらぬ故、うちだまりて有(ある)人。』

と、心得たがひせしを、猶、をかしきことゝおぼしめして有しに、若者どもは、

「あの、何もしらぬ付人を、稽古場へ引いだして、紀州家の恥、さらさせん。」

と、いひあわせて、

「ちと、稽古場へ出(いで)られよ、出られよ。」

と、しきりにすゝめしを、益無(えきなき)ことゝ、いろいろ、御(おん)のがれ被ㇾ成しを、ぜひ、出ねば、ならぬやうにしかけし故、御出被ㇾ成しに、

「先づ、こゝを、とらへて、見られよ。」[やぶちゃん注:「まずは、さて、どんな方法でも結構。拙者を、捕まえて、みらるるがよい。」。]

と、いひし時、澁川流にて、御ひしぎ[やぶちゃん注:引き潰すこと。]被ㇾ成しかば、一向、うごかれず、『嘲弄せん』とおもひし人々は、かへりて、恥をかきたりしとぞ。氣味よきことにて有し。

[やぶちゃん注:「澁川流のやはら」関口新心流を源流として渋川伴五郎義方(よしまさ 承応三(一六五四)年~宝永元(一七〇四)年)が開いた柔術流派。当該ウィキによれば、『流祖の渋川伴五郎義方は、関口流柔術二代目関口八郎佐衛門氏業の門人で、天和初年』(元年は一六八一年)『に和歌山から江戸へ出て道場を開いた』。『新流を自称したが、教授内容は関口流の古法を墨守しており、渋川本家は「関口正統渋川流」と称した』。『門人には、義方の養子となり』、『二代目を継承して渋川友右衛門胤親と改名した弓道弾右衛門政賢(友右衛門とは別人とする有力説あり)の他、広島藩士森島求馬勝豊、甲府勤番士薬師寺方正政俊(前名は宮部小左衛門)、熊本藩士井沢蠕龍軒長秀(関口流居合として伝承)などがいる』。『以上のうち、渋川本家と薬師寺の甲州伝は、いずれも大正年間に絶流したが、森島と井沢の相伝は現在に及んでいる』とある。

「二十年餘をへて、紀州家より」加賀「へ御緣組有し時、御付人(おんつきびと)の奧年寄仰付られ、ひしと」加賀「へ其つめ被ㇾ成し」さて、ここに登場する実名人物は一切生没年が判らないのだが、この部分はある程度の時制限定のヒントになるのではあるまいか。紀州家から加賀藩へ最初にちゃんと輿入れした人物というのは、第七代紀州藩主徳川宗将(むねひろ 享保五(一七二〇)年~明和二(一七六五)年)の長女千間姫(寿光院)ではないかと私は推理するからである。]

大和本草卷之十六 膃肭臍 (キタオットセイ)

 

膃肭臍 奥州松前等ノ海ニアリ本艸宗奭曰其形

非獸亦非魚也但前脚似獸而尾卽魚身有短密

淡青白毛 事玄要言曰形如狗大如猫純黃色

又曰形如狐腳高如犬豕首魚尾○篤信昔其形

狀ヲ見シニ右二書ニ云ヘル處ヨクアヘリ膃肭臍トハ

其陰莖ナリ臍ニ連子テ用ル故ニ膃肭臍ト云ト時

珍イヘリ今外腎ヲ不用全體ヲ用テ藥トスルハ

誤ナリ本艸ニ肉ノ性ヲイハス或曰其肉ヲ久ク食

スレハ害人不可食藥ニハ只陰莖ヲ用ユ不用肉

○やぶちゃんの書き下し文

膃肭臍〔(をつとせい)〕 奥州・松前等の海にあり。「本艸」に、『宗奭〔(そうせき)〕が曰はく、「其の形、獸に非ず、亦、魚にも非ざるなり。但し、前脚、獸に似て、尾、卽ち、魚。身に短密〔にして〕淡〔き〕青白〔の〕毛、有り。」と』。

「事玄要言」に曰はく、『形、狗のごとく、大いさ、猫のごとし。純黃色。』と。又、曰はく、『形、狐のごとく、腳高〔(あしだか)なり〕。犬のごとく〔して〕、豕〔(ぶた)〕の首、魚の尾〔たり〕と。』。

○篤信〔(あつのぶ)〕[やぶちゃん注:益軒の本名。]、昔、其の形狀を見しに、右二書に云へる處、よく、あへり。『膃肭臍とは、其の陰莖なり。臍〔(へそ)〕に連〔(つら)〕ねて用ひる故に「膃肭臍」と云ふ』と、時珍、いへり。今、外腎[やぶちゃん注:通常は睾丸を指す。ここは陰茎と睾丸をセットにしたものを指すか。]を用ひずして、全體を用ひて藥とするは、誤りなり。「本艸」に、肉の性〔(しやう)〕を、いはず。或いは曰はく、「其の肉を久しく食すれば、人を害す。食ふべからず。藥には、只だ、陰莖を用ゆ。肉を用いず」と。

[やぶちゃん注:既に「大和本草卷之十六 海牛 (ジュゴン?・ステラダイカギュウ?・キタオットセイ〔一押し〕・アザラシ類)」で有力候補にしてしまった、哺乳綱食肉(ネコ)目イヌ亜目鰭脚下目アシカ科オットセイ亜科キタオットセイ Callorhinus ursinus  が出て来てしまった(私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 膃肭臍(をつとせい) (キタオットセイ)」も参照されたい)。しかも、ここでは益軒は実物(但し、これ、その生物体の標本ではなく、「膃肭臍」と称する漢方生剤をであろう。どんなものか? 東京の薬局「ハル薬局」公式サイト内のこちらに、ゴマフアザラシの陰茎及び睾丸とキャプションする写真がある)を見たと言っているから、これはまた、困ったもんだ。まあ、しかし、前者は漢籍の乏しい記載から条立てしたのだから、同じものを別物として益軒が誤認することは、これ、別段、おかしくも何ともないことなんである。私順列でピック・アップしてはフラットに記載を検討しており、ここで前言の同定比定を翻す気はさらさらないと言っておく。異論があれば、御教授戴ければ、恩幸これに過ぎたるはない。

『「本艸」に、『宗奭〔(そうせき)〕曰はく……』「本草綱目」の巻五十一下の「獸之二」の「腽肭獸」の一節である。長いが、行き掛かり上、この際、乗りかかった舟なれば、拘って訓読したものを示す。国立国会図書館デジタルコレクションの寛文九(一六六九)年板行の風月莊左衞門刊の当該部の訓点を一部で参考にした。下線太字は私が附した。

   *

肭獸【上は「烏」と「忽」の切。下は「女」と「骨」の切。「宋開寶」に附す。】

釋名 骨豽【「說文」に「貀」と作(な)す。「肭」と同じ。】。海狗【時珍曰、『「唐韻」に「腽肭」は肥ゆる貎(かたち)、或いは、「骨貀」と作す。訛(なまり)て「骨訥」と爲す』と。皆、畨言(ばんげん)[やぶちゃん注:異民族の言語。]なり。」と。】。

集解 藏器曰はく、『骨肭獸(こつどつじう)、西畨の突厥國(とつけつこく)[やぶちゃん注:六世紀に中央ユーラシアに存在したテュルク系遊牧国家。]に生(しやう)ず。胡人、呼びて、「阿慈勃他你(あじぼつたや)」と爲す。其の狀(かたち)、狐に似て、大きく、長き尾。臍(へそ)、麝香に似たり。黄赤色。爛骨に似たり。』と[やぶちゃん注:完全内陸で、これはオットセイではない。]。甄權(しんけん)曰はく、『腽肭臍、是れ、新羅國の海内なる狗の外腎なり。連なりて之れを取る。」と。李珣(りしゆん)曰はく、『按ずるに、「臨海志」に云はく、『東海の水中に出づ。狀、鹿の形のごとく、頭は狗に似て、長き尾なり。每日、出でて、卽ち、浮かぶ。水面に在り。崑崙家、弓矢を以つて、之れを射て取りて、其の外腎を隂乾しすること百日、味、甘く、香、美なり。』と。頌(しよう)曰はく、『今、東海の旁らに、亦、之れ有り。舊說、「狐に似て、長き尾。」と。今、滄州にて圖する所は、乃(すなは)ち、是れ、魚の類にして、豕(ぶた)の首たり。兩足、其の臍、紅紫色。上に紫の斑㸃有り。全く、相ひ類せず。醫家、多く之れを用ふ。「異魚圖」に云はく、『其の臍を試るに、臘月、衝風の處に干して、盂水に置きて、之を浸して、凍らざる者を真と爲すなり。』と。斆(かく)曰はく、『腽肭臍は僞る者の多し。海中に獸有り、號(な)づけて「水烏龍」と曰ふ。海人、其の腎を取りて、以つて「腽肭臍」に充つ。其の物自(おのづか)ら别なり。眞なる者は一對有り、則ち、兩(おな)じき重さ、薄皮にして、丸き核(さね)を裹(つつ)む。其の皮の上、自から、肉、有り。黄毛にして、一穴に三莖、之れを器の中に收めて、年年、濕潤し、新たなるがごとし。或いは睡れる犬の頭上に置く、其の犬、忽ち、驚きて跳び、狂へる者のごときは、眞と爲すなり。』と。宗奭曰はく、『今、登莱州に出づ。其の狀、狗に非ず、獸に非ず、亦、魚にも非ざるなり。但だ、前脚は獸に似て、尾は卽ち、魚なり。身、短にして淡青の白毛、有り。毛の上、深青の黑有り。久しきときは、則ち、亦、淡し。腹の脇の下、全き白色。皮、厚く、靱にして、牛皮のごとし。邊將(へんしやう)[やぶちゃん注:国境守備軍の将軍。]、多く取りて、以つて、鞍(くら)・韉(したぐら)を飾る。其の臍は、腹・臍の積冷・衰脾・腎勞極を治するに、功、有り。别に試ること待たざるなり。狐に似て、長き尾の說、今人、多く、之れを識ず。』と。時珍曰はく、『按ずるに、「唐書」に云はく、『骨貀獸(こつどつじう)、遼西營州[やぶちゃん注:渤海附近。]及び結骨國[やぶちゃん注:キルギス。]に出づ。』と。「一統志」に云はく、『腽肭臍、女直及び三佛齊國[やぶちゃん注:インドネシア・マレー半島・フィリピンに大きな影響を与えたスマトラ島のマレー系海上交易国家シュリーヴィジャヤ王国(六五〇年~一三七七年)。]に出づ。獸にて、狐に似て、脚高にして、犬のごとく、走ること、飛ぶがごとし。其の腎を取りて、油に漬け、「肭臍」と名づく。』。此れを觀るに、則ち、狐に似たるの説は無きに非ずなり。葢(けだ)し、狐に似、鹿に似たる者なり。其の毛色のみ、狗に似たる者の、其の足形なり。魚に似たるは、其の尾の形なり。藥に入るるに、外腎を用ひて、「臍」と曰ふは、臍を連ねて、之れを取ればなり。又、「異物志」に、『豽獸〔(どつじう)〕朝鮮に出づ。貍〔(たぬき)〕に似て、蒼黑色。前の兩足、無し。能く䑕〔(ねづみ)〕を捕ふ。』と。郭璞云はく、『晉の時、召陵、扶夷縣に一獸を獲る、狗に似て、豹文、角の兩脚に有り。』と。此れに據れば、則ち、豽(どつ)は、水・陸二種、有り。而して藏器が謂ふ所の、「狐に似て長尾なる者」、其れ、此の類か。』と。

膃肭臍 一名「海狗腎」。

修治 斆曰はく、『酒を用ひて、浸すこと、一日、紙に裹みて、炙(あぶ)り、香し。剉(きざ)み、搗き、或いは、銀の器の中に於いて、酒を以つて、煎り熟して、藥に合はす。』と。時珍曰はく、『漢椒・樟腦を以つてす。同じく收むるときは、則ち、壞(こは)れず。

氣味 鹹、大熱。毒、無し。李珣曰はく、『味、甘、香、美にして、大温。』と。

主治 鬼氣尸疰(ししゆ)[やぶちゃん注:邪気の侵入による消化不良と精神錯乱。]。夢に鬼と交はる。鬼魅・狐魅の心腹痛。中惡の邪氣の宿血・結塊・痃癖(けんびき)[やぶちゃん注:肩凝り。]・羸瘦(るいさう)[やぶちゃん注:脂肪組織が病的に減少した様態。]【藏器。】。男子の宿癥(しゆくちやう)[やぶちゃん注:腹部の異常な膨満。]・氣塊・積冷・勞氣・腎精衰損・多色・勞瘦悴を成すを治す【「藥性」。】。中(ちゆう)を補ひ、腎氣を益し、腰・膝を暖め、陽氣を助け、癥結を破り、驚狂癎疾を療す【「日華」。】五勞・七傷・隂痿・少力・腎虚・背膊・勞悶・面黑・精冷、最も良なり。【「海藥」。】

發明 時珍曰はく、『「和劑局方」、『諸虛損を治するに「腽肭臍丸」有り。今の滋補の丸藥の中に、多く、之れを用ゆ。精不足の者、之れを補ふに、味[やぶちゃん注:直(じか)に舌で舐めることか。]を以つてするなり。大抵、「蓯蓉(じふやう)」・「𤨏陽(さやう)」[やぶちゃん注:漢方生薬名。]の功と相ひ近し。亦、糯米・法麵[やぶちゃん注:麺類を製する法。]と同じく、酒に釀(かも)して[やぶちゃん注:酒に漬けて浸潤熟成させてその酒をの謂いであろう。]服すべし。』と。

   *

益軒が都合の悪い陸性獣類としか思われないところを総て無視して、海棲哺乳類に限定するような都合のいい恣意的な短文引用をしていることがお判り戴けるであろう。なお、「宗奭」とは北宋の医師宼宗奭(こうそうせき)が書いた「新編類要図註本草」と踏んで調べたところ、「宮内庁書陵部収蔵漢籍集覧」のこちらで南宋から元代(十三~十四世紀頃)に板行されたものが視認でき、その上部の第「16」を開き、下部中央の「□□□」ボタンをクリックしてページ表示を開き、「p.31」で、巻第二十九の「獸部下品」の「膃肭臍」が見られることが判った。左頁の終わりから大罫三行目から記されてあるのが、この引用箇所である。これは実は宗奭の別な本草書である「本草衍義」から引いたものであることもそれで確認できた。

「事玄要言」明の陳懋学(ちんぼうがく)撰の類書。一六四八年序。

「『膃肭臍とは、其の陰莖なり。臍に連ねて用ひる故に「膃肭臍」と云ふ』と、時珍、いへり」これはおかしい。臍と陰茎や睾丸は器官としては全く繋がっていないからである。だいたいからして、臍は母体と繋がっていた際の器官の瘢痕であって、器官ではないことは、言わずと知れたことである。それに、益軒先生よ? 時珍が言ってるんじゃないぜ! 「一統志」(ここは「大明一統志」。明朝の全域と朝貢国について記述した地理書で全九十巻。李賢らの奉勅撰。一四六一年完成された。その記事は必ずしも正確でなく、誤りも多い。刊本は一四五八年の経廠大字本が最良とされる。因みに「本草綱目」は時珍の没後三年後の一五九六年に南京で上梓されている)の引用だぜ? まあ、それに時珍は賛同してるわけで、間違いとも言わないけどね。]

大和本草卷之十六 海豹 (アザラシ類)

 

【外品】

海豹 山東志曰出寧海其大如豹文身五色叢居

水涯常以一豹護守如雁之類其皮可飾鞍褥順

和名抄水豹和名阿左良之○又子ツフト云モノア

リ是海豹ノ類ナルヘシ時珍曰海中有水豹是又

海豹ト同歟

○やぶちゃんの書き下し文

【外品】

海豹〔(あざらし/かいへう)〕 「山東志」に曰はく、『寧海に出づ。其の大いさ、豹のごとく、文身〔ありて〕五色〔たり〕。水涯〔(すいがい)〕に叢〔(むらが)〕り居〔を〕る。常に、一豹を以つて護-守〔(まも)〕り、雁〔(がん)〕の類〔ひ〕のごとし。其の皮、鞍〔(くら)〕・褥〔(しとね)〕を飾るべし。順が「和名抄」に、『水豹〔(すいへう)〕、和名、「阿左良之(あざらし)」。』と。

○又、「ねつふ」と云ふもの、あり。是れ、海豹の類〔(るゐ)〕なるべし。時珍曰はく、『海中、水豹、有り。』と。是れ、又、海豹と同じか。

[やぶちゃん注:食肉目イヌ亜目鰭脚下目アザラシ科 Phocidae のアザラシ類。十属十九種から成る。冒頭は漢籍であるが、日本近海の五種を挙げれば問題あるまい。それらは孰れも北海道を中心に分布する、

アザラシ科ゴマフアザラシ属ゴマフアザラシ Phoca largha (胡麻斑海豹。背面が灰色の地に黒い斑(まだら)模様が散らばる)

アザラシ科ゴマフアザラシ属ワモンアザラシ Pusa hispida (輪紋海豹。背中側に灰色の地に灰褐色から黒色の斑紋があり、斑紋は明灰色が縁取りされており、この点で前掲のゴマフアザラシの模様とは異なる。別名フイリアザラシ(斑入海豹))

ゴマフアザラシ属ゼニガタアザラシ Phoca vitulina (銭形海豹。和名は黒地に白い穴空き銭のような斑紋を持つことに由来する)

ゴマフアザラシ属クラカケアザラシ Phoca fasciata (鞍掛海豹。和名は、成獣の♂には、暗褐色から黒色の地に首・前肢・腰を取り巻く白い有意に太い帯があり、これが、馬具の鞍を掛けたように見えることに由来する)

アザラシ科アゴヒゲアザラシ属アゴヒゲアザラシ Erignathus barbatus (顎鬚海豹。名の通り、他のアザラシに比べ、ヒゲがよく発達しているが、このヒゲは実は顎からではなく、上唇付近から生えている)

となる。

 まず示さねばならないのは、メインの引用を前条「海牛」と同じソースを用いている点である。重複を厭わず出すと、「山東志」清代に三種の「山東通志」があるが、その内の清の学者杜詔(一六六六年~一七三六年)の編纂に成る山東地方の地誌の巻二十四に、以下の文字列を発見した。「中國哲學書電子化計劃」の影印本より起こした。

   *

海豹【出寧海州其大若豹文身五色叢居水涯常以一豹䕶守如雁奴之類其皮可飾鞍褥】海牛【出文登縣郡國志云不夜城有海牛島牛角紫色足似龜長丈餘尾若鮎魚性急捷見人則飛入水皮可弓鞬可燃燈】海驢【出文登縣郡國志云不夜城有海驢島上多海驢常於八九月乳産其毛可長二分其皮水不能潤可以禦水】

   *

既に「海牛」「海驢」が出た。しかし、言っている内容は同じでも、やはりこれも同文には見えない。ところが、やはり、別の「維基文庫」の「欽定古今圖書集成」の「登州府部彙考七」の「登州府物產考」のここを見ると、「海牛」「海驢」と同様に「山東志云」を外した酷似した文字列を見出せた。

   *

海豹 出寧海。其大如豹、文身五色,叢居水涯、常以一豹護守、如鴈奴之類。其皮可飾鞍褥。

   *

やはり、益軒は、前の二種の場合と同様に、「登州府物產考」なる書を参考にしているものと思われる。

「寧海」この地名は複数認められるが、前の二種が山東半島であることを考えると、現在の山東省台市の北東岸の海域(黄海から渤海に入る海峡の要の海域が北に当たる)北にを特異的に指しているように思われる(旧地名は内陸)。この黄海南部をこう読んだと思われる例としては、中華民国海軍巡洋艦に「寧海」(「ニンハイ」。同軍寧海級巡洋艦の一番艦。日中戦争で日本帝国海軍航空隊の空襲を受け、揚子江で航行不能となり、日本帝国海軍に捕獲された。後、太平洋戦争突入後の昭和一九(一九四四)年六月に「五百島(いほしま)」と改名して編入され、海防艦特殊艦に類別された(呉鎮守府籍)。海上護衛任務に従事していたが、同年九月十九日、御前崎南方でアメリカの潜水艦シャード(USS Shad,SS-235)の雷撃により沈没した)が、同軍水上偵察機に「寧海」がある(正式名は「辛式一型水上偵察機寧海號」。艦載されたのが同前の「寧海」であったことから同名で名指された。木製骨組みに羽布張り双フロートの複葉機で、機体強度が不足していたため、カタパルト射出が出来ず、デリック(英語:derrick:兵器や貨物などを吊り上げて移動させるクレーンの一種)を用いて水面に機を降ろしてから離水する方式が取られた)ことからも伺われるように思われる。

「文身」斑紋。

「五色」種や個体によって地肌や斑紋の色は変化に富む。概ね灰色・灰白色・白色・褐色・黒色で、五色は単に多様な色の変異があることを指すもので、多色カラーの謂いではない。

「水涯」海岸。

「一豹を以つて護-守〔(まも)〕り、雁〔(がん)〕の類〔ひ〕のごとし」ゼニガタアザラシ・クラカケアザラシ・アゴヒゲアザラシは一夫多妻型と推定されているが、ハーレムを形成するという記載はなく、ゴマフアザラシ・ワモンアザラシは一夫一妻型であるから、ここは、群れが海岸や岩礁に上がって休息する際に、一頭が警戒役としてあることを言っているものと思われる。

『順が「和名抄」に、『水豹〔(すいへう)〕、和名、「阿左良之(あざらし)」。』と』源順(みなもとのしたごう)の「和名類聚抄」(平安中期の辞書。承平年間(九三一年~九三八年)に勤子内親王の求めに応じて源順が編纂した)の巻十八の「毛群部第二十九」に、

   *

水豹(アサラシ) 「文選」、「西京の賦」に云はく、『水豹を搤(くひ)る』と。【和名、「阿左良之」。】。

   *

とある。「搤(くひ)る」は「締め付ける」で「縊」と同義であろう。

「ねつふ」「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 獵虎(らつこ) (ラッコ)」(「巻第三十八 獣類」の本項目の掉尾)に、「獵虎」の附録として、

   *

祢豆布(ねつぷ)

△按ずるに、此れも亦、蝦夷の海中に之れ有り。大いさ、四、五尺、黒色にして、毛、短く、疎〔にして〕[やぶちゃん注:粗くて。]、其の皮〔も〕、薄く、褥〔(しとね)〕と爲るに堪へず。止(たゞ)毛の履〔(はきもの)〕、或いは鞍の飾りと爲す。熊(くま)の障泥(あをり)に亞(つ)ぐ。然れども、上品ならず。

   *

とある。そこで私は注して、『「祢」は「禰」の略字であるが、生物種は分らん! 良安の書き方からは何らかの文献記載があるだろうに、検索で掛かってこない!! クソ!!! これで「巻第三十八 獣類」は終わるってえのに!!!! 識者の御教授を切に乞う!!!!!』と記したが(二〇一九年四月二十七日記事)、誰からも情報が寄せられていない。益軒のここでの謂いからは、アザラシの一種と考えてもよいようにも思われなくはない。そうなると、成獣の♂に暗褐色から黒色の地に首・前肢。・腰を取り巻く白い帯紋があるクラカケアザラシは外せ、最小のワモンアザラシも除外出来るようだから、ゼニガタアザラシか、ゴマフアザラシが候補にはなりそうだが? 引き続き、よろしくお願い申し上げる!!!

「時珍曰はく、『海中、水豹、有り』と」これは「本草綱目」の巻五十一上の「獸之二」の真正の哺乳類であるヒョウの「豹」の項の「集解」の一節に、突然、挿入されてある。まあ、アザラシでいいんでない? 益軒先生。]

大和本草卷之十六 海驢 (トド 或いは 絶滅種ニホンアシカ)

 

【外品】

海驢 山東志曰出文登海中狀如驢常於秋月登

嶋產乳其皮製爲雨具水不能潤○今案トヾト云

物海中ニアリ岩屋ノ内ニアカリ好ンテ子フル其肉ヲ

食フヘシ甘乄味クシラノ如シ皮ハ馬具トス其首馬ノ

如シ其大サ小馬ホトアリ是海驢ナルヘシ奥州松前

蝦夷及諸州海濱亦稀ニアリ

■やぶちゃんの呟き

【外品】

海驢〔(かいろ)〕 「山東志」に曰はく、『文登の海中に出づ。狀〔(かたち)〕、驢〔(ろば)〕のごとし。常に秋月に於いて、嶋に登る。產し、乳(ち)す。其の皮、製して、雨具と爲す。水、潤〔(うるほ)〕すこと、能はず。

○今、案ずるに、「トド」と云ふ物、海中にあり。岩屋の内にあがり、好んで、ねふる。其の肉を食ふべし。甘くして、味、「くじら」のごとし。皮は馬具とす。其の首、馬のごとし。其の大きさ、小馬ほど、あり。是れ、「海驢」なるべし。奥州・松前・蝦夷(ゑぞ[やぶちゃん注:ママ。])及び諸州の海濱に亦、稀にあり。

[やぶちゃん注:まず示さねばならないのは、メインの引用を前条「海牛」と同じソースを用いている点である。重複を厭わず出すと、「山東志」清代に三種の「山東通志」があるが、その内の清の学者杜詔(一六六六年~一七三六年)の編纂に成る山東地方の地誌の巻二十四に、以下の文字列を発見した。「中國哲學書電子化計劃」の影印本より起こした。

   *

海豹【出寧海州其大若豹文身五色叢居水涯常以一豹䕶守如雁奴之類其皮可飾鞍褥】海牛【出文登縣郡國志云不夜城有海牛島牛角紫色足似龜長丈餘尾若鮎魚性急捷見人則飛入水皮可弓鞬可燃燈】海驢【出文登縣郡國志云不夜城有海驢島上多海驢常於八九月乳産其毛可長二分其皮水不能潤可以禦水】

   *

既に「海牛」は出、本条の次が「海豹」である。しかし、言っている内容は同じでも同文には見えない。ところが、やはり、別の「維基文庫」の「欽定古今圖書集成」の「登州府部彙考七」の「登州府物產考」のここを見ると、「海牛」と同様に「山東志云」を外した酷似した文字列を見出せた。

   *

海驢 出文登海中、狀如驢、常以八・九月上島產乳。其皮製爲雨具、水不能潤。齊乘云、「海驢皮。」。今有獲之者、淺毛灰白、作鱸魚斑。又海海狸、亦上島產乳。

   *

やはり、益軒は、「海牛」の場合と同様に、「登州府物產考」なる書を参考にしているものと思われる。

 さて。「海驢」である。これは、漢籍でアシカ若しくはトドを指す。而して山東半島南岸という条件から、問題なく、既にヒトが絶滅させてしまった

哺乳綱食肉(ネコ)目イヌ亜目鰭脚下目アシカ科アシカ亜科ニホンアシカ Zalophus japonicus

或いは、本邦の北海道北部沿岸にも回遊してくる、

アシカ科トド属トド Eumetopias jubatus

の孰れかとなるが、確かに益軒は「トヾ」と書いてはいるものの、トドはが異様に大型(アシカ科 Otariidae 中最大で最大全長は三・三メートルを超え、体重は千百二十キログラムにも達する一方、♀は最大でも二・九メートルで、三百五十キログラムしかなく、観察した場合、ぱっと見でも大きさが異なることははっきり見てとれる)になる性的二型であるのに、その特異点が記されていないことと、現行のトドの棲息域が、北太平洋及びその沿海のオホーツク海・ベーリング海や、北海道からカリフォルニア州南部チャンネル諸島にかけてであり、繁殖地・上陸地を見ても、アリューシャン列島・千島列島・プリビロフ諸島・カムチャッカ半島東部・アラスカ湾岸・カリフォルニア州中部のサンタクルーズで、本邦には千島列島・宗谷海峡の個体群が、冬季に北海道沿岸部へ回遊するものの、朝鮮半島は現行では東岸北部(概ね朝鮮民主主義人民共和国)沿岸までで、黄海や渤海に回り込んで迷走する可能性は極めて低いと考えられるから、分が悪い(但し、引用原本は三百年前後も昔であるから、現行の分布域を以ってトドを外すことは出来ない)。但し、トドの皮革は利用されたし、食用としてもその肉は美味い(私は好きである)。私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 胡獱(とど) (トド)」も参照されたい。

 さて。翻って、ニホンアシカであるが、当該ウィキによれば、個体数の絶滅以前の分布域は、『北はカムチャツカ半島南部から、南は宮崎県大淀川河口にかけて』で、『北海道・本州・四国・九州の沿岸域、伊豆諸島、久六島・西ノ島・竹島などの日本海の島嶼、千島列島、南樺太、大韓民国(鬱陵島)などに分布していた』。『さらに、古い朝鮮半島上の記録によると』、渤海と黄海の東岸域を含む広範囲の半島周辺に見られた『とされる』とあるから、完全に条件をクリアーする。『繁殖地は恩馳島・久六島・式根島・竹島で確認例があり、犬吠埼・藺灘波島・大野原島・七ツ島でも繁殖していたと推定されている』。『太平洋側では九州沿岸から北海道、千島、カムチャツカ半島まで、日本海側では朝鮮半島沿岸から南樺太が生息域。日本沿岸や周辺の島々で繁殖、特に青森県久六島、伊豆諸島各地(新島』『鵜渡根島周辺、恩馳島、神津島)、庄内平野沿岸』、『アシカ島(東京湾)、伊良湖岬、大淀川河口(日向灘)なども生息地であった。三浦半島、伊豆半島(伊東、戸田・井田)、御前崎等にも、かつての棲息を思わせるような地名が残っている』。『縄文時代以降の北海道・本州・四国の遺跡で骨が発見されていることから、近年までは日本全国の沿岸部に分布していたと考えられている』とあるから、暖海にもある程度、適応していることが判り、黄海の山東半島南岸に嘗ては頻繁に現われたとしても、何ら問題ないのである。それでも益軒が「トド」と表記していることに拘る向きがあるかも知れないが、一般の日本語では出世魚のボラの最大級のそれを「トド」と呼ぶ如く、相対的に大きな生物を広く「とど」と読んできた歴史があり、多くの海棲哺乳類の大型個体を種を区別せずに「とど」と読んだ傾向があり、益軒も区別していないととるべきであろう。さらに、本来の正統な「トド」の和名語源はアイヌ語の「トント」に由来するものであって、「とどのつまり」のそれとは全く関係がない(と私は考えている)。ウィキの「トド」によれば、『これは』アイヌ語で『「無毛の毛皮」つまり「なめし革」を意味する』。『トドそのものは、アイヌ語でエタシペと呼ばれる』とある。また、続けて、『日本各地にトド岩という地名も散見されるが、過去においては日本ではトドとアシカ(ニホンアシカ)は必ずしも区別されておらず、アシカをトドと呼ぶ事も度々みられ、本州以南のトド岩の主はアシカであったようである』ともあるのである。但し、アシカに分が悪い点もある。それはアシカの肉は一般には――美味くなく、食用には不適――とされたことである。専ら採油と皮革に捕獲されたのである。私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 海鹿(あしか)」を参照されたいが、そこで良安も『其の肉、亦、甘美ならず、唯だ、熬(い)りたる油、燈油に爲るのみ。西國、處處にも亦、之れ有り。其の聲、畧(ち)と、犬に似て、「於宇(おう)」と言ふがごとし。蓋し、海獺・海鹿は一物なれど、重ねて出だして、考へ合はすに備ふ』と記している。「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 海獺(うみうそ) (アシカ類・ニホンアシカ)」も併せて見られたい。

「水、潤すこと、能はず」雨水は全く浸透することが出来ず、防水効果が抜群であうことを言う。

「ねふる」「眠(ねふ)る」。]

2021/03/15

譚海 卷之四 豆州南海無人島の事 附同國大島薩摩櫻島燒る事

 

○伊豆の東南海百里にあたりて無人島有。公儀より人の住居なるべき所にやと度々御用船遣(つかは)され、近來(ちかごろ)方角もよほど委しくしれたる事に成たりとぞ。此島元來四方(しはう)高巖(たかきいはほ)にして船を着(つく)べき所なし。波に船を打上(うちあげ)させて折よく岩の上に船をうちあげたる時相圖して岸にのぼる事也。波のよせくる首尾あしければ、船を巖(いはほ)にうちあてて損ずる事(こと)故(ゆゑ)、岸にのぼる波あひを待(まつ)事大事也とぞ。同所大島も又同じく波あひをみはからひて船をよせざれば、岸に寄付(よせつく)事成難(なりがた)しとぞ。此大島天明三年より燒はじめて、折々江戶の地までも地震の如くひゞく事あり。今二年へたれどなを[やぶちゃん注:ママ。]燒(やき)やまず、やけはじめたる比(ころ)は品川海上よりも夜分は火の餘光はるかに雲にうつりて見えたり。同じ比(ころ)薩州のさくら島もやけたり、是は一島殘りなく燒(やけ)くづれて海へやけ入(いり)、別にそれほどの島ちかき所に吹出したりとぞ。櫻島は廿萬石の田地ある所といへり。

[やぶちゃん注:この無人島が現在の何処を指すか、今一つ、条件が足りないのだが、四方が高い岩山であること、海岸が全面に岩礁性であること、本書が刊行された当時は無人島であった可能性が高いことなどを考えると(「譚海」は安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の凡そ二十年間に亙る彼の見聞奇譚をとり纏めたものであるが、ここで津村は「今二年へたれど」と言っていて、珍しくこの執筆時がほぼ天明五(一七八五)年であろうことが判明する特異点の記事となっている点にも注目されたい)、太平洋上の八丈島の南方六十キロメートルの位置にある伊豆諸島の一つである現在の東京都青ヶ島村青ヶ島(グーグル・マップ・データ)が一番に想起された。本土の伊豆下田から多少のカーブを描いて計測して二百七十キロメートルはある(「百里」は三百九十三キロメートルだが、これはもう遠距離のドンブリ表示と考えてよいから意味をなさない)。ここの名産の芋焼酎「青酎」は私の好きな焼酎である。

「同所大島」まあ、同じ伊豆諸島ではあるけどねぇ。青ヶ島だとすると、二百五十キロメートルぐらいは離れてるんですけど?

「大島天明三年より燒はじめて」伊豆大島の三原山は天明三(一七八三)年に噴火し、降灰があったが、実際にはこれは安永六(一七七七)年八月三十一日に三原山山頂火口から噴火が始まった、「安永の大噴火」の大規模な六年余りに亙ったマグマ性噴火の沈静期のそれに過ぎなかった。翌天明四年も噴火、天明六年にも噴火らしき現象があり、寛政元(一七八九)年頃に噴火して降灰があった。「安永の噴火」の完全な鎮静は寛政四(一七九二)年頃であった(ここは「気象庁」公式サイト内の「伊豆大島 有史以降の火山活動」のデータに基づいた)。

「江戶の地までも地震の如くひゞく事あり」近世から今日までの噴火では、現在のところ最後の大規模噴火であるから、軽々に大袈裟とは言えない。

「やけはじめたる比(ころ)は品川海上よりも夜分は火の餘光はるかに雲にうつりて見えたり」一九八七年十一月十五日から二十三日にかけての三原山の中規模噴火の際、私は二十一日の夜、友人と湘南に遊んだが、江ノ島の背後に直立して噴き上げるマグマの柱が手にとるように見えた。私はその時、千葉県の工場の燃焼煙突の炎だと勘違いしたほど、その紅蓮の炎ははっきりとしていたのを、今でも鮮やかに思い出す。

「同じ比薩州のさくら島もやけたり」これは「同じ比」と言っているが、「一島殘りなく燒くづれて海へやけ入、別にそれほどの島ちかき所に吹出したりとぞ」という叙述からは、安永八(一七七九)年十一月八日から始まった桜島の「安永大噴火」の伝聞情報が混ぜこぜになったものであろう。やはり「気象庁」の「桜島 有史以降の火山活動」のデータによれば、この日の『数日前から地震頻発、当日朝から海岸の井戸沸騰流出、海水』が『紫に変色』、午前十一時『頃から南岳山頂火口から白煙』、午後二時頃、『南岳南側中腹から黒煙を上げ』、『爆発、まもなく北東側中腹からも噴火』した。『翌日早朝から溶岩を流出。夜には北東沖で海底噴火が始まる。その後』、安永一〇・天明元(一七八一)『年までに海底噴火により』、『津波が発生、船が転覆する等の被害』が起こり、『海底噴火地域の隆起により』、『桜島北東海中に』八『つの小島が出現、その後接合あるいは水没して』五『島とな』った(「大正噴火」の後に更に一島が水没して現存するものは四島のみである)。この「安永大噴火」では死者が百五十余名にも上った。安永九(一七八〇)年にも海底噴火によって津波が発生、天明元(一七八一)年四月には高免(こうめん)沖の島で噴火が発生、津波を起し、死者八名・行方不明者七名・負傷者一名・船舶六隻損失、同年五月にも同じく高免沖で海底噴火が発生、翌年一月にも高免沖で海底噴火、天明三年九月にも南岳山頂火口で噴火が起こっている。]

甲子夜話卷之六 30 婦女の便所へ行を憚りと云事

6―30 婦女の便所へ行を憚りと云事

婦女の便所へ行に、手水にゆくと云は、小用のことは避て手を洗ふと計に申成すこと、體を得たる詞也。近頃は憚りにゆくとも云。其さして云を憚る意なるべし。「左傳」襄十五年、師慧過、將ニスㇾ私セント焉。其相、朝也。慧、無ㇾ人焉。相、朝也。何ランㇾ人。注曰。私小便、師慧樂師也と記せしを以見れば、其頃も便所にゆくには、人陰にゆきて見晴の處にはあらざる故なり。ある日此事を林氏に咄合ければ、林氏云、「漢書」に更衣とあるも、便所のことを語を淸く換て云たるなり。廁へ行には冠裳等脫して入り、出て原服を着れば、もとより更衣するなり。その詞を用て聞へる[やぶちゃん注:ママ。]やうに云る文章也。又、「越絕書」には起居と云たり。起-道傍と見へて、これは泄瀉して道ばたに便せる語を換て云にぞありける。

■やぶちゃんの呟き

「手水」「てうづ」(ちょうず)。

「計」「ばかり」。

「申成す」「まうしなす」。

「體」「てい」。

「其さして云を憚る」「それ、指して云ふをはばかる」。

『「左傳」襄十五年……』「注に曰く、『私は小便なり。師慧は樂師なり。』と。」は後代の注。大修館書店「廣漢和辭典」には⑬として『ゆばり。ゆばりする』とあって、まさにこの「春秋左氏伝」のこの部分が引かれてある。但し、静山は後半の大事な部分をカットしてしまっている。以下にソリッドに示す。師慧は宋に逃げた「鄭(てい)の尉氏・司(し)氏の乱」の残党との交換交渉で、鄭から宋に護送された盲目の楽師であった。会話の相手は「相」とは障碍者である彼の扶助役(介添え役)を指す一般名詞である。

   *

 師慧過宋朝、將私焉。私、小便。其相曰、朝也。慧曰、無人焉。相曰、朝也。何故無人。慧曰、必無人焉。若猶有人、豈其以千乘之相、易淫樂之矇。必無人焉故也。子罕聞之、固請而歸之。

   *

静山の訓点は不全なので従わず、全部を我流で訓読しておく(一九八九年岩波文庫刊の小倉芳彦氏の現代語訳を一部で参考にした。注も同じ)。

   *

 師慧(しけい)、宋の朝(てう)[やぶちゃん注:朝廷。]を過ぐ。將に私(ゆばり)せんとす。其の相(しやう)の曰く、

「朝(てう)なり。」

と。慧日く、

「人、無し。」[やぶちゃん注:「人はいないからね。」。]

と。相曰く、

「朝なり。何の故に、人、無からんや。」[やぶちゃん注:反語。「宋の御殿ですぞ!?人がいないなんてありえませんよ!」。]

と。慧曰く、

「必ず、人、無からん。若(も)し、猶ほ、人、有らば、豈に、其れ、千乘の相(しやう)を以て[やぶちゃん注:立派な一国(鄭)の宰相らの要請だからと言って。]、淫樂の矇(まう)と易(か)へんや[やぶちゃん注:反語。「賤しい盲目の芸人と反乱軍のメンバーを交換するなどということがあろうはずがない」。]。必ず、人、無きが故なり。」

と。

 子罕[やぶちゃん注:宋の高官(司城職)。]、之れを聞き、固く[やぶちゃん注:宋公。]請ひて、之れ[やぶちゃん注:師慧。]を歸す。

   *

「人陰」「ひとかげ」。人から見えない場所。

「見晴」「みはらし」。

「林氏」お馴染みの静山の友人である林述斎。

「咄合」「はなしあひ」。

「漢書」前漢の歴史を紀伝体で記した歴史書。八〇年頃成立。後漢の班固が撰し、妹の班昭らが補った。全百二十巻。後世の史書の模範とされた。

「更衣」確かに中文サイトの辞典に「便所へ行くこと」を避けるための婉曲表現とあった。

「語を淸く換て云たるなり」「ごを、きよく、かへて、いひたるなり」。

「冠裳等」「かんむり・もすそなど」。

「その詞を用て聞へる」(ママ)「やうに云る文章也」その言い換えの特定の語句を用いて、暗に解るように言った文章なのである。

「越絕書」(えつぜつしよ)は後漢初期に書かれた春秋戦国時代の呉(紀元前五八五年頃~ 紀元前四七三年)と越(紀元前六〇〇年頃~紀元前三〇六年)に関する書物。現行本は十五巻。同じく呉と越を扱った後漢の書に「呉越春秋」があり、内容も多く重なるが、成立年代は「越絶書」の方が早く、「呉越春秋」の記事の中には、この「越絶書」を元にした箇所が多くあるとされる。著者は呉越の無名の賢人とも、或いは、孔門十哲の一人子貢や呉王夫差によって遺体を辱められた悲劇の忠臣伍子胥などが挙げられている。成立年代は西暦五二年前後とされる。

「起居」「ききよ」。辞書等では確認出来なかったが、富士敬司郎氏のサイト「たまねぎ地獄」の「日本のトイレ」の「トイレの隠語」の中にあった。この章、なかなか面白いので、全部を引用させて戴く。

   《引用開始》

日本はトイレにさまざまな隠語を作ったことで知られます。ざっと挙げただけでも次のようなものがあります。

樋屋(といや)、厠(かわや)、廁(かわや)、川屋(かわや)、閑所、閑考所、隠所、装物所(よそものどころ)、鬢所(びんじょ)、便所、雪隠、雪陣、雪陳、青椿(せいちん)、惣雪隠(そうせっちん)、思按所、分別所、洗所(せんちょ)、大便所(だいへんちょ)、小便所(しょうせんちょ)、後架、更衣室、起居[やぶちゃん注:☜ここ。]、用達所、用立所、手洗、手水所(ちょうずしょ)、手水場(ちょうずば)、風呂、風呂屋、フール、せんだぶく、いきがめ、川便所、はばかり、不浄、御不浄、化粧室、山、お山、渡辺、おばさん、ばばから、つめ、遠方、杉屋、東司(とうす)、おとう(東司の隠語、皇室用語)、西浄、東浄、登司、毛司、茅司、洒浄(せんじょう)、高野山、持浄、流廁、廁院、軒、背屋、かど、WC、トイレ、etc

人前でトイレの話題を出すことがはばかられる接客業などでは、「雉(きじ)撃ちに行く」「花摘みに行く」「遠方に行く」などの言葉を使います。変わったところでは、大手百貨店Tの「仁久」というのがあります。「仁」は「4」、「久」は「~を重ねる」の意味で、つまりは「シーシー」というわけです。同じ理由で、香具師(やし)の間では「十六」と言うのが流行りました。「シーシー十六」というシャレです。

「雪隠(せっちん)」の語源については諸説あるようで、一般的には、鎌倉時代に「霊隠寺(禅宗)」の雪宝和尚が、トイレの中で大悟(さとり)を開いたことから、「霊隠寺」の「隠」、「雪宝和尚」の「雪」で「雪隠」と呼ぶようになった、という話が伝えられてますが、これには異論もあり、「青椿(せいちん)」がなまったという説もあるようです。

椿(つばき)は別名「避邪香」と呼ばれ、非常に匂いの強い植物です。また、葉も大きく、冬になってもその葉を落としません。そのため、トイレを覆い隠すのによく使われたのです。現在も旧家のトイレの周辺には、椿をはじめとする常緑樹が植えられていることが多いそうです。

「東司(とうす)」は寺院でよく使われる隠語です。禅寺のトイレが、主に東側に作られていたことからのネーミングですが、なぜか不思議なことに、北にあっても、西・南にあっても「東司」と呼ばれます。別の名で呼ぶ必要がある場合には、西は「西浄」、南は「登司」、北は「雪隠」などの呼称を使います。東側に作ることが多いのは、西側に作ると直射日光で排泄物が腐敗し、ウジが大発生することが多いからとも言われています。

   《引用終了》

「起-道傍」「道の傍らに起居(ききよ)す」。但し、「越絕書」を見てみたが、どうも見当たらない。

「泄瀉」(せつしや)は通常は下痢・腹下(はらくだ)しを謂う。

甲子夜話卷之六 29 同時、松本伊豆守、赤井越前守富驕の事

6-29 同時、松本伊豆守、赤井越前守富驕の事

此時は、勘定奉行の松本伊豆守、赤井越前守など云輩も、互の贈遺冨盛を極たり。京人形一箱の贈物などは、京より歌妓を買取て、麗服を着させ、それを箱に入て、上書を人形としたるなりしとぞ。又豆州、夏月は蚊幬を廊下通りより、左右の小室幾間も、隔なく往來するやうに造り、每室に妾を臥さしめ、夜中いづれの室に至るにも、幬中になるやうに設けたりしとかや。又子息の中に、癇症にて雨の音を嫌ものありしとて、屋上に架を作り、天幕を張ること幾間と云を知らず、雨の音を防しとなり。其奢侈想像すべし。

■やぶちゃんの呟き

「同時」前条の同時期を受けた謂い。

「松本伊豆守」松本秀持(享保一五(一七三〇)年~寛政九(一七九七)年)は幕臣。通称は十郎兵衛、伊豆守。代々、天守番を務める身分の低い家柄であったが、老中田沼意次に才を認められて勘定方に抜擢され、明和三(一七六六)年に勘定組頭、後に勘定吟味役となり、安永八(一七七九)年、勘定奉行に就任して五百石の知行を受けた。天明二(一七八二)年からは田安家家老も兼帯した。下総国の印旛沼及び手賀沼干拓などの事業や、天明期の経済政策を行った。また、田沼意次に仙台藩江戸詰医師工藤平助(私がブログ・カテゴリを作っている優れた女流文学者であった只野真葛の実父)の「赤蝦夷風説考」を添えて蝦夷地調査について上申し、本邦初の二回に及ぶ公式の調査隊を派遣した。それを受けて蝦夷地の開発に乗り出そうとしたが、天明六(一七八六)年の田沼意次の失脚(八月から十月)により、頓挫した上、同年閏十月には、田沼失脚に絡み、小普請に落とされ、逼塞となった。さらに「越後買米事件」の責を負わされ、知行地を減知の上、再び逼塞となった(天明八(一七八八)年五月に赦された)。

「赤井越前守」赤井忠皛(ただあきら 享保一二(一七二七)年~寛政二(一七九〇)年)天明二年に京都町奉行から勘定奉行となり、田沼意次の下で財務を担当したが、田沼の失脚とともに西丸留守居となった。

「富驕」「ふきやう」。

「冨盛」「ふせい」。

「極たり」「きはめたり」。

「贈物」「ざうもつ」と音読みしておく。

「買取て」「かひとりて」。

「上書」「うはがき」。

「人形としたるなりしとぞ」気持ち悪!

「豆州」「づしう」。

「蚊幬」「かや」。蚊帳に同じい。「幬」は「帳」に同じく「とばり」の意。

「廊下通り」「らうかどほり」。廊下にさえ隙間なく張り巡らしたのである。

「小室」「こしつ」。

「幾間」「いくま」。

「隔なく」「へだてなく」。

「每室に」「へやごとに」と返って訓じておく。

「妾」「せう」。側室。

「幬中」「ちうちゆう」。「かやうち」と訓じたくはなる。

「嫌もの」「きらふ者」。

「架」「たな」と訓じておく。

「幾間」「いくけん」。

「防し」「ふせぎし」。

「奢侈」「しやし」(しゃし)。度を過ぎて贅沢なこと。身分不相応に金を費やすこと。

甲子夜話卷之六 28 田沼氏權勢のとき諸家贈遺の次第

6-28 田沼氏權勢のとき諸家贈遺の次第

田沼氏の盛なりしときは、諸家の贈遺樣々に心を盡したることどもなりき。中秋の月宴に、島臺、輕臺を始め負劣らじと趣向したる中に、或家の進物は、小なる靑竹藍に、活潑にして大鱚七八計、些少の野蔬をあしらひ、靑柚一つ、家彫萩薄の柄の小刀にてその柚を貫きたり【家彫は後藤氏の所ㇾ彫。世の名品。其價數十金に當る。】。又某家のは、いと大なる竹籠に、しび二尾なり。此二つは類無しとて興になりたりと云。又田氏中暑にて臥したるとき、候問の使价、此節は何を翫び給ふやと訊ふ。菖盆を枕邊に置て見られ候と用人答しより、二三日の間、諸家各色の石菖を大小と無く持込、大なる坐敷二計は透間も無く並べたてゝ、取扱にもあぐみしと云。その頃の風儀如ㇾ此ぞありける。

■やぶちゃんの呟き

「田沼氏」田沼意次(享保四(一七一九)年~天明八(一七八八)年)は江戸中期の幕府老中。父田沼意行(もとゆき)は紀州藩の足軽で、徳川吉宗に従って江戸に入り、幕臣となった。意次は十五歳で西の丸附き小姓として仕え、元文二(一七三七)年に主殿頭(とのものかみ)、宝暦元(一七五一)年には御側御用取次となった。第九代将軍徳川家重の隠居後、第十代将軍家治の信任を得、明和四(一七六七)年七月に側用人に進み、一橋家や大奥との関係を深めて勢力を固めた。遠江相良(五万七千石)に城を築き、老中格として専横の振舞いがあったことから、家治の没後、領地も削られ、失脚した。世に「田沼時代」として知られる彼である。

「贈遺」(この「遺」は「贈る」に同じい)物品を贈ること。また、その物品。

「島臺」(しまだい)は客の接待や婚礼の儀などに用いる飾りの「台の物」。古くは「島形」と称し、蓬莱を象った島形や洲浜(吉祥の意味を持った置物。屈曲する海岸線の状態を表現した、ほぼ楕円形の板に、短い脚を付け、上に岩木・花鳥などを飾る。平安時代に流行したが,後世は上の飾りを省略して酒杯・肴などを置く形となった)形などがある。台上に肴を盛り,祝儀には松竹梅・鶴亀・尉(じょう)・姥(うば)を配して飾りとする。本来、古くに宮中などで草合(くさあわあせ:「合わせ物」遊戯の一種。五月五日の節供に、種々の草を採り集めて、その種類や優劣を競った。宮廷でも行われ、負けると衣服を脱いで、勝った者に与える風習があったとされる。鎌倉時代も子供の遊戯として残ったが、その後に衰えた。「競狩(きおいがり)」「闘草」(中国名由来)「草尽くし」とも称する)・花合(もとは平安時代の貴族の間で流行した「桜合」などにように、単に花を持ち寄り、左右に分かれてその優劣を競う遊びであったが、やがてこれに歌も詠み添えられるようになり、「歌合」の遊戯と結びつくに至ったもの。室町時代の記録には「七夕法楽」の「花合」のことがしばしば見られるが、これが華道の成立の淵源の一つとなったとされる)・根合(端午の節供などで左右に分かれて菖蒲(しょうぶ)の根の長短を比べ合い、歌などを詠んで勝負を決したもの。様々の意匠を凝らし、州浜などに飾りなどして出した。「菖蒲根合」「菖蒲合」とも呼んだ)など歌合の遊戯の際、その合せ物を載せたものという。

「輕臺」(しまだい)不詳。「島台」を簡略・軽量化したものか。

「負劣らじ」「まけじおとらじ」。

「靑竹藍」「あをだけかご」。

「活潑」活きのいい。

「大鱚」「おほぎす」。大型個体のスズキ目キス科キス属シロギス Sillago japonica 或いはそれによく似たアオギス Sillago parvisquamis も挙げてよいだろう。私の大和本草卷之十三 魚之下 きすご (シロギス・アオギス・クラカケトラギス・トラギス)」を参照されたい。

「計」「ばかり」。

「野蔬」「やそ」。野菜。

「靑柚」「あをゆず」。

「家彫」(いへぼり)は装剣金工細工の中でも、後藤派の彫った鐔(つば)や小道具などの総称。民間の町彫(まちぼり)に対する名称。後藤家は初代祐乗(ゆうじょう)以来、歴代の将軍家に抱えられ、装剣金工の制作に当たった家系で、江戸時代以降、将軍家を始めとして大名が正装する場合は、後藤派の制作になる装飾金具で刀剣を飾るのが定例であった。

「萩薄」「はぎ・すすき」。

「小刀」「さすが」。

「所ㇾ彫」「彫る所(ところ)」。

「しび」スズキ目サバ科マグロ族マグロ属 Thunnusの海水魚の中・大型個体の総称。クロマグロ・キハダ・メバチ・ビンナガなどが含まれ、これでは限定は出来ない。私の「大和本草卷之十三 魚之下 シビ (マグロ類)」を参照されたい。

「二尾」「にび」。

「類無し」「たぐひなし」。

「中暑」「ちゆうしよ」。「暑気中(あた)り」のこと。

「候問」「こうもん」。病中見舞い。

「使价」「しかい」。使者。「价」も「使」に同じい。

「翫び」「もてあそび」。楽しんで。

「訊ふ」「とふ」。

「菖盆」「しやうぼん」。ショウブ(菖蒲。狭義には単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科アヤメ属ノハナショウブ変種ハナショウブ Iris ensata var. ensata )を植え込んだ盆栽。アヤメ・ショウブ・カキツバタの識別法は私の「北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) たはむれ」の「菖蒲」の私の注を参照されたい。

「石菖」単子葉植物綱ショウブ目ショウブ科ショウブ属セキショウ Acorus gramineus。多年草。北海道を除く日本各地に自生し、谷川などの流れに沿って生える。庭園の水辺などにもよく植えられる。全体はショウブをごく細くした感じで、同じ芳香もあるが、各部が小型で、根茎は細くて硬く、葉も細く、幅は一センチメートルほど、長さ二十~五十センチメートルの線形を成し、ショウブと異なり、中肋が目立たない。四~五月頃、葉に似た花茎を出し、中ほどに淡黄色の細長い肉穂花序をつける。グーグル画像検索「Acorus gramineus」をリンクさせておく

「大なる坐敷二計」「おほきなるざしきふたつばかり」。

「透間」「すきま」。

甲子夜話卷之六 27 酒井忠勝、大猷院廟御忌日每に齋戒の事

6―27 酒井忠勝、大猷院廟御忌日每に齋戒の事

○、酒井讚岐守忠勝は、猷廟羣臣を捐玉ひし後、每月御忌に當る日、一室を淨掃し、沐浴齋戒し、麻上下を着して、自ら樣々の物を備へて、其入口を閉ぢ、人の來るを許さず。或時誤りて、一人其間へ走り入りしに、讚州奠供の前に平伏してありしが、振返りて、しいしいと言て手にて制したる形狀、眞に御前にある樣子なりしとなり。家來中密々語り合て、皆其至誠を感じけるとなん。

■やぶちゃんの呟き

「酒井忠勝」(天正一五(一五八七)年:三河~寛文二(一六六二)年:江戸)は当初は後に第二代将軍となる徳川秀忠の家臣。徳川家康家臣酒井忠利(後の川越藩初代藩主)の子。入道して空印と号した。慶長五(一六〇〇)年の「関ヶ原の戦い」に徳川秀忠に従って出陣した同十四年に讃岐守となり,同 十九年、下総国で三千石を領し、元和八(一六二二)年には七千石を加増されて深谷城主となった。寛永元(一六二四)年、老中となって二万石を加え、同三年には武蔵国忍(おし)藩五万石に封じられた。翌四年、同国川越で八万石、同九年に十万石で従四位下・侍従となり、同十一年には若狭国小浜十二万三千石に封ぜられた。同十五年、大老、翌年、左少将に昇任、明暦二(一六五六)年致仕。「日本王代一覧」・「日本帝王系図」などの編纂物がある。

「大猷院廟」さんざん既出の第三代将軍徳川家光の諡号。家光の没したのは慶安四年四月二十日(一六五一年六月八日)。

「羣臣を捐玉ひし後」「羣」は底本のママ。「捐玉ひし」は「すてたまひし」。主君の死を言う。

「奠供」「てんぐ・でんぐ」。供物を手づから伝え渡して仏前に供えること及びその儀式・祭壇・仏壇。

「しいしい」感動詞「しい」を重ねた語。強く制止する時に発する語。転じて、貴人の出入り・通行などの先払いの際に発する警蹕(けいひつ)の語として知られ、更に、現行の「しっ!」ように静かにするように促す時に発する語となった。言わずもがなだが、ここは原義の用法。

2021/03/14

毛利梅園「梅園介譜」 鱟 (カブトガニ・「甲之圖」(被覆甲面)及び「腹之圖」(甲下腹面の二図))

 

Kabuto1

 

□上面図(「甲之圖」)

 

  カブトガニ

   ウンキウ  筑前

   鉢ガニ   安藝

   朝鮮ガニ  長﨑

 

 甲之圖

 

Kabuto2

 

□下面図(「腹之圖」)

 

王世懋閩部疏曰瀕ㇾ海諸部、以二鱟皮代ㇾ杓

銅千餘斤、又曰鱟之為ㇾ物、介而中

坼厥血蔚藍、熟スレハ之純白尾鋭而長シ觸レハ 之能

刺ス、断而置ケハ ㇾ地、其行郭索、雌常負ㇾ雄、觸ㇾ苟

而逝レハ其雄亦就ㇾ斃

   鱟其形兜ノ鉢ニ似テ其甲如ㇾ石其甲上下两ニ分ル

   頭圓下尖其腹各足五宛水カキノ豆螯(ハサミ)ナク各

   足皆螯アリ他ノ蟹ニ異リ大ナル者ハ上リ※ニ

   似リ乾タル者倉橋氏藏乞之寫

[やぶちゃん注:「※」=(上)「白」+(中)「比」+(下)「几」。]

腹之圖

 

 

     丙申十一月十三日眞寫

 

○やぶちゃんの書き下し文

□上面図(「甲の圖」)

  カブトガニ
   ウンキウ  筑前
   鉢ガニ   安藝
   朝鮮ガニ  長﨑

 甲の圖

 

□下面図(「腹の圖」)

王世懋(わうせいぼう)「閩部疏(びんぶそ)」に曰はく、『海の瀕(みぎは)の諸部、鱟(かぶとがに/コウ)の皮を以つて、杓(しやく)に代へ、歳(とし)に銅千餘斤を省(はぶ)く。』と。又、曰はく、『鱟の物(もの)と為(な)すに、介(かい)にて、中(なか)、坼(さ)き、厥(そ)の血、蔚藍(うつらん)なるも、熟すれば、之れ、純白たり。尾、鋭(するど)にて、長し。之れに觸(ふ)るれば、能(よ)く刺す。断(た)ちて、地に置けば、其の行くこと、郭索(かくさく)たり。雌、常に雄を負ふ。苟(かりそめ)に觸れても、逝(ゆ)く。或いは、其の雄を得れば、亦、斃(へい)に就(つ)く。』と。

鱟、其の形、兜(かぶと)の鉢に似て、其の甲、石のごとく、其の甲、上下、两(ふたつ)に分かる。頭、圓(まる)く、下、尖(とが)る。其の腹、各(おのおの)、足、五宛(いつつづつ)水かきの豆(まめ)〔にて〕、螯(はさみ)なく、各(おのおの)の足、皆、螯あり。他の蟹に異なり、大なる者は、「上り※(のぼりだこ)」に似たり。乾きたる者、倉橋氏藏すを乞ひて、之れを寫(うつ)す。[やぶちゃん注:「※」=(上)「白」+(中)「比」+(下)「几」。]

腹の圖

     丙申(ひのえさる)十一月十三日、眞寫(しんしや)す。

 

[やぶちゃん注:図は正式な「梅園介譜」(今までの電子化では、梅園の別な人物が模写した「梅園介譜」も底本として交っており、そちらも「梅園介譜」であることには変わりがないので、そのままとした。現在、それぞれ図及び解説文を、漸次、改訂中である。悪しからず)の国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの「20」コマと「21」コマの図を用いた。本邦産は、

節足動物門鋏角亜門節口綱カブトガニ目カブトガニ科カブトガニ属カブトガニ Tachypleus tridentatus

で、かなり知られているので言わずもがなであるが、通常の我々が知っている「蟹」(カニ)類は、節足動物門甲殻亜門 Crustacea であるが、本カブトガニ類は、鋏角亜門 Chelicerata であって、「カニ」と名附くものの、カニ類とは極めて縁遠く、同じ鋏角亜門 Chelicerata である鋏角亜門クモ上綱蛛形(しゅけい/くもがた/クモ)綱クモ亜綱クモ目 Araneae のクモ類や、その近縁の蛛形綱サソリ目 Scorpiones のサソリ類に遙かに近い種である(鋏角亜門には皆脚(ウミグモ)綱 Pycnogonida も含まれる。なお、現生カブトガニは全四種である)。また、古生代の仲間の形態を色濃く残している「生きている化石」である。以下の異名から判る通り、本邦での嘗ての分布域は、瀬戸内海から北九州沿岸にかけてであった。当該ウィキによれば、『日本国内の生息分布は、過去は瀬戸内海と九州北部の沿岸部に広く生息したが、現在では生息地の環境破壊が進み、生息数・生息地域ともに激減した』。『現在の繁殖地は岡山県笠岡市の神島水道、山口県平生町の平生湾、山口市の山口湾、下関市の千鳥浜、愛媛県西条市の河原津海岸、福岡県福岡市西区の今津干潟、北九州市の曽根干潟、大分県中津市の中津干潟、杵築市の守江湾干潟、佐賀県伊万里市伊万里湾奥の多々良海岸、長崎県壱岐市芦辺町が確認されているが、いずれの地域も沿岸の開発が進んだ結果、生息できる海岸は減少している。なお』、二〇一九年には長崎市のスーパー・マーケットで売られていた『魚介類のパックに交じっていた』生きた『個体が発見され、長崎ペンギン水族館にて飼育されている』。なお、『日本以外では、インドネシアからフィリピン、東マレーシア』、タイ、ミャンマー、バングラデシュ、『揚子江河口以南の中国沿岸』に、別種二種の棲息が『知られて』おり、『東シナ海にも』棲息していて、韓国での『発見例もある』。また、北アメリカ東海岸の一部では有意に多くの別種一種の個体群が棲息する。則ち、現生の四種は、

カブトガニ属カブトガニ Tachypleus tridentatus 本邦産。全長(背甲の先端から尾節端まで)は♂で四十五~七十センチメートル、♀で五十五~八十五センチメートルで性的二型。現生カブトガニ中の最大種。属名「Tachypleus 」(タキプレウス)はギリシャ語由来で「速く泳ぐもの」、種小名「tridentatus 」(トリデンタトゥス)は「tri-」(三つの)+「dentatus」(鋸歯状の歯(棘)」の意。種小名の部位は「笠岡市立カブトガニ博物館」公式サイトのこちらで判る。意外にも甲殻中央後端(尾剣の出る部分の直上)のごく小さな棘状隆起である。前方背面の両側と中心にそれぞれ一対の複眼と単眼を有し、腹面の口器の前にも腹眼を持ち、この辺りはクモ類との相同性が窺える)

ミナミカブトガニ Tachypleus gigas東南アジア産。種小名に反して、体長は二十五~五十センチメートルと本邦のカブトガニよりも小型である)

マルオカブトガニ属マルオカブトガニ Carcinoscorpius rotundicauda東南アジア産最大個体でも四十センチメートルと小型。属名「Carcinoscorpius 」は思うに、「Carcinos」(ギリシャ神話で英雄ヘラクレスがヒュドラを退治した際にヒュドラに加担してヘラクレスの踵を噛んだ蟹の怪物カルキノス。ヘラクレスに殺されたが、ヘラクレスの憎む女神ヘラによって蟹座の星となった)と「scorpius」(蠍(さそり)座」(スコルピウス) の合成であろう。外見は「カニ」だが、本当は「サソリ」の仲間という事実知見からみて、非常に面白い命名と思う)

アメリカカブトガニ属アメリカカブトガニ Limulus polyphemusメキシコ湾を含む北西大西洋沿岸産。ヨーロッパでも迷走個体が発見されている。体長は五十センチメートル。♀に比べて♂の比率が高いことが確認されている。属名「Limulus 」(リムルス) は「少し傾いた」の意、種小名「polyphemus 」はギリシア神話の単眼巨人キュクロプスの一人であるポリュペモスに由来するもので、嘗て、本種の眼は一つしかないと考えられていたことによる。実際には、頭胸部の両側に単色性視覚機能を有する一対の大きな複眼があり、背甲に五個、腹面の口前方にも二個の単眼がある。単眼は胚・幼生期に既に形成されており、卵の中にあっても、光を感じ取ることが出来る。複眼や中央単眼は、それより感度が劣るが、成体では主要な視覚器官となる。また、これらとは別に、尾剣に光受容器が並ぶ。複眼は約一千個の個眼で構成されており、個々の個眼には三百個以上の細胞がある。この視覚感覚器官については、ウィキの「アメリカカブトガニに拠った。アメリカカブトガニの視覚機能は非常に研究が進んでいる)

である。

「ウンキウ」「筑前」「本朝食鑑」(医師で本草学者であった人見必大(ひとみひつだい 寛永一九(一六四二)年頃?~元禄一四(一七〇一)年:本姓は小野、名は正竹、字(あざな)は千里、通称を伝左衛門といい、平野必大・野必大とも称した。父は四代将軍徳川家綱の幼少期の侍医を務めた人見元徳(玄徳)、兄友元も著名な儒学者であった)が元禄一〇(一六九七)年に刊行した本邦最初の本格的食物本草書)や、寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類」に(リンク先は私の古い電子化注。「鱟」の項を見られたい)、カブトガニの異名として『宇牟幾宇(うむきう)』(前者)『宇無岐宇』(後者)が載り、「本草綱目啓蒙」(江戸後期の本草学研究書。享和三(一八〇三)年刊。江戸中後期の本草家小野蘭山の「本草綱目」についての口授「本草紀聞」を孫と門人が整理したもの。引用に自説を加え、方言名も記している)には、これを筑前の方言とする。ここ(国立国会図書館デジタルコレクションの当該部の画像)。この異名の由来は未だに判らない。「笠岡市立カブトガニ博物館」公式サイトのこちらによれば、他に『岡山県「どんがめ」、広島県「だんがめ」、徳島県「びぜんがに」、愛媛県「かめごうら」「がわら」、福岡県や佐賀県などでは「はちがめ」、「がめ」、「うんきゅう」、大分県「うんぺこ」、「はちがんす」』とある。一つずっと感じているのは、甲部がそのように見えることから、「きゅう」は「臼」(歴史的仮名遣「きう」)ではないか? という疑いである。『「ウン」は?』と聴かれると困るのだが、例えば、あの完全に堅固にして寡黙な印象からは「吽」(口を閉じて出す音)が私には想起される。「吽臼」、如何でしょう?

「朝鮮ガニ」本邦では、通常のものと異なるものに「チョウセン~」と冠することは昔からよく行われてきたことは「チョウセンハマグリ」等のケースでお馴染みである(朝鮮半島に分布するカムルーチなどを「チョウセンドジョウ」と異名するのは真正と言える)から、蟹でないが、蟹っぽいごっついカブトガニの異名としては腑には落ちる。

「王世懋」(一五三六年~一五八八年)は明の漢民族出身の政治家で文人。

「閩部疏」「閩」は現在の福建省の広域旧称で、同地方の地誌。原文は以下。「中國哲學書電子化計劃」の影印本で起こした。

   *

瀕海諸郡、以鱟皮代杓、歲省銅千餘斤。以蠣房代灰、眞石灰乃以配蔞葉檳榔啖、珍若食品。

鱟之爲物、介而中坼。厥血蔚藍、熟之純白。尾銳而長、觸之能刺。斷而置地、其行郭索、雌常負雄、觸苟而逝。或得其雄、雌亦就斃。

   *

「瀕海」海に面した地域。

「皮」カブトガニの甲殻部。

「杓」柄杓。

「歳に銅千餘斤を省く」そのままで柄杓代わりに常時使用でき、長持ちするし、一銭もかからない。而して、年に銅に換算すると、一千斤(明代の換算で五百九十七キログラム)が節約出来るというのであろうか。

「鱟の物と為すに」これがよく判らないのだが、「カブトガニをいろいろな流通物品(ここは特に漢方生薬の謂いを感じさせる)として商品化する場合は」の意か。

「介にて」「魚介の物産として」の意か。

「中、坼き、厥の血、蔚藍なるも、熟すれば、之れ、純白たり」本体の体幹を裂いて、そこから得られるカブトガニの血液のことであろう。「蔚藍」は濃い藍色を指す。カブトガニの血が「青い」とされるのは、採取してすぐに主成分のヘモシアニン(hemocyanin:アカガイ類やゴカイ類などを除き(彼らはヘモグロビン(hemoglobin)と似た鉄由来の呼吸色素エリトロクルオリン(erythrocruorin)を持つ)、海産動物の多くは血中リンパ液に溶存する形でこれを持つ)の酸化が始まり、濃い青(特に本邦でそうだが、古く「青」は「濃い藍色」を指した)に変色してしまうことによる。本来の彼らの血液は透明或いは乳白色を呈する。但し、酸素との結合力はヘモグロビンよりも弱く、化学に詳しくはないが、或いは一度、酸化したものが、時間を経て、分解還元されると、脱色するのか? 或いは、ヒトの血液と同じで、時間が経つと、酸化したヘモシアニンが沈殿して血餅(けつべい)となり、上澄みの血清が「純白」となることを言っているのかも知れない。

「断ちて」がよく判らない。「体の一部を切る」では、何となく意味が通じない。「捕らえて、捕縄していたおいたものの縄を断ってやると」の意か? 或いは、やはり前者で、切断した脚や本体が、元気に動き出すさまを言っているのかも知れない。同じ仲間のクモ類でも、また、腔腸動物・軟体動物・昆虫類・多足類及びエビ・カニ(後者は自切線を有し、自ら切断する)・両生類・爬虫類でもごく普通によく見られる現象ではある。特に記述順列からから見ると、よく刺すところの後部端の尾剣(尾節)部分を切断して地面に置くと、前方の甲殻部だけで、何事もなく、音を立てて、素早く走り去る(次注)ということを言っていると、とるのが自然な気がする。

「郭索」蟹がかさこそと走り行くことを言う語のようである。私はもとは「がさごそ」の中国語のオノマトペイアであると考えている。

「苟に觸れても逝く」ちょっと人が触れるだけでも死んで(仮死して)しまうというのであろう。これは親しく見た訳ではないが、何となく腑に落ちる気がする。擬死は多くの動物で広く見られる現象である。同類のクモ類にもよく見られる。

「其の雄を得れば、亦、斃に就く」先の原文によれば、後半の主語は「雌」であり、ここは、「交尾を終えると直ちに死に至る」の謂いであろう。しかし、実際にはカブトガニは二十五年もの寿命を持つから、これは信じ難い。

「其の腹、各、足、五宛水かきの豆〔にて〕、螯なく」「笠岡市立カブトガニ博物館」公式サイトのこちらを見て戴くと、「前体」の「鋏角」と五対の「歩脚」の後ろのある、「後体」の「鰓脚」は、ぱっと見でも「豆」というのが腑に落ちるし、それらには脚と言っても螯(はさみ)はなく、「後体」の最前部の鰓蓋(えらぶた)を除くと、その「豆」状の「鰓脚」は「五対」あることが判る。

「上り※(のぼりだこ)に似たり。」(「※」=(上)「白」+(中)「比」+(下)「几」)ここをどう読むか、最も苦しんだ。何故、「たこ」=「凧」と読んだかは、大型のカブトガニは昔の凧(たこ)に似てはいないか? と思ったからである。因みに、「凧」は国字であって中国にはない。この奇妙な「※」の字はそれ自体が空を左右に振れる凧のように思われた。特に下の「几」は私には凧の脚のように見えたからである。

「倉橋氏」本カテゴリで最初に電子化した『カテゴリ 毛利梅園「梅園介譜」 始動 / 鸚鵡螺』に出る、梅園にオウムガイの殻を見せて呉れた「倉橋尚勝」であるが、彼は梅園の同僚で幕臣(百俵・御書院番)である。国立国会図書館デジタルコレクションの磯野直秀先生の論文「『梅園図譜』とその周辺」PDF)を見られたい。

「丙申十一月十三日」。天保七年十一月十三日。グレゴリオ暦一八三六年十二月二十日。今から百八十六年前。【以上は2022年2月2日に再校閲し、図を自筆本に換え、解説文及び注も再度、校訂した。】

大和本草卷之十六 海牛 (ジュゴン?・ステラダイカギュウ?・キタオットセイ〔一押し〕・アザラシ類)

 

[やぶちゃん注:「大和本草附錄巻之一」よりのピック・アップは終わったので、これより「大和本草附錄巻之二」(PDF)に移ろうとし、そちらから水族を選び出そうと、読み進めたところが、その「獸類」の追加記載の中に、標題なしで、信濃国の犀川に住む水棲妖獣の「犀」の記載があるのを見つけた。これを電子化しようとした瞬間――実は――水棲獣類も実はやっていない――ということに気づいてしまったのであった(やったと錯覚していたが、それは「和漢三才図会」のそれと混同していたのであった)。ここは、「大和本草附錄巻之二」の作業を、一旦、中断し、改めて「大和本草巻之十六」からの水棲獸類(幻獣・妖獣を含む)ピック・アップをやらずんばならなくなってしまった。また、お付き合い申し上げる。

 底本は従来通り、「学校法人中村学園図書館」公式サイト内にある宝永六(一七〇九)年版の貝原益軒「大和本草」(リンク先は目次のHTMLページ)の同巻之十六のPDF版を視認してタイプする。]

 

大倭艸草卷之十六    貝原篤信編錄

  獸類

 

[やぶちゃん注:「牛」から始まり、暫く陸生動物が続く。「犀」はあって「水牛」に似ているなどとあるが、水中に住むとは記していないし、これは実在するサイの伝聞記載であるから採らない。最初に出現するのは15コマ目の「海牛」である。]

 

【外】

海牛 山東志云出文登海中長丈餘紫色無角龜

足鮎尾性捷疾見人則飛入於海其膏可以燃燈

其皮可以爲弓鞬矢房

○やぶちゃんの書き下し文

【外】

海牛〔(かいぎう)〕 「山東志」に云はく、『文登の海中に出づ。長さ、丈餘。紫色、角〔(つの)〕、無し。龜の足、鮎〔(なまづ)〕の尾。性〔(しやう)〕、捷疾〔(せふしつ)〕。人を見れば、則ち、飛んで、海に入る。其の膏、以つて燈を燃〔(とも)〕すべし。其の皮、以つて弓鞬〔(きゆうけん)〕・矢房〔(やぶさ)〕と爲す。

[やぶちゃん注:哺乳綱アフリカ獣上目海牛(ジュゴン)目 Sirenia のカイギュウ類であるが、問題は語られている位置で、山東半島南側(後注参照)では、ジュゴン(海牛(ジュゴン)目ジュゴン科ジュゴン属ジュゴン Dugong dugon )の現在の棲息域には、到底、入らない。日本の南西諸島に少数のジュゴンが棲息するが、これはジュゴン分布域の北限だからである。東シナ海から黄海へ迷走した個体があったとしても、わざわざ地誌の物産の条に掲げるほど(後注参照)、頻繁にそれがあったなどというのは考え難いからである。そうなると――これはカイギュウ類の北方種で、人類が発見して僅か二十七年で多量捕獲を繰り返し、滅亡させてしまった(一七六八年頃。「登州府志」(後注参照)は一六六〇年に成立している)ジュゴン科ステラーダイカイギュウ亜科ステラーダイカイギュウ属ステラーダイカイギュウ Hydrodamalis gigas の若年個体である可能性である。同種の模式標本はベーリング島で、同種は専らベーリング海に限定棲息していたとされ、位置がこちらも離れるのだが、暖海性のジュゴンの北上を考えるよりも、恐らくは非常な古代に暖海性ジュゴン類から分岐した、寒冷適応型のステラーダイカイギュウ亜科 Hydrodamalinaeの、最後の生き残りだった彼らを登場させてやるべきだとも思うのである。ステラーダイカイギュウから搾り採られた油は臭いのしない良質の灯油となったことも記録に残っているからである(同じ海産哺乳類でも鯨油は燃焼時にかなりの臭さを感じる)。若年個体としたのは、彼らは現生カイギュウ類としては最大で、成体の体長は七メートルを超え、一説には最大八・五メートル、体重五~十二トンもあったと言われているからである。そうして、もし、これがステラーダイカイギュウであったとすれば、公的に知られているステラーダイカイギュウ発見よりも八十一年も前に漢籍に記載されていたということにもなるのである。ただ、「人を見れば、則ち、飛んで、海に入る」と言う部分は、ジュゴンやステラーダイカイギュウではあり得ず、寧ろ、角がなくて、♂に長い牙があればそれを言うだろうからして牙もなく、皮革が加工用に用いられたとなら、哺乳綱食肉(ネコ)目イヌ亜目鰭脚下目アシカ科オットセイ亜科キタオットセイ Callorhinus ursinus が現実的には無理がなく(現行では日本海を南限とする)、相応しいということになろう。私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 膃肭臍(をつとせい) (キタオットセイ)」も参照されたい。また、そうなれば、食肉目イヌ亜目鰭脚下目アザラシ科 Phocidae のアザラシ類も当然の如く、候補として登場させないとおかしい。種は本邦周辺でも複数いるので、私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 水豹(あざらし) (アザラシ)」を見られたい。まあ、その辺りで手打ちをするのが無難かなぁ。……次の条が「海驢」でその次が「海豹」となるとね(後述)……しかも同じ「山東志」に三つ並んで出てるわけよ(後掲)……「海驢」「海豹」とくるとねぇ……こりゃトドかアシカかアザラシなわけだからねぇ……しゃあないか……ね……だけどね……アザラシを示す「海豹」も、オットセイを示す「膃肭臍」も、この後に実は条立てして出てくるんだよなぁ…………

「山東志」清代に三種の「山東通志」があるが、その内の清の学者杜詔(一六六六年~一七三六年)の編纂に成る山東地方の地誌の巻二十四に、以下の文字列を発見した。「中國哲學書電子化計劃」の影印本より起こした。

   *

海豹【出寧海州其大若豹文身五色叢居水涯常以一豹䕶守如雁奴之類其皮可飾鞍褥】海牛【出文登縣郡國志云不夜城有海牛島牛角紫色足似龜長丈餘尾若鮎魚性急捷見人則飛入水皮可弓鞬可燃燈】海驢【出文登縣郡國志云不夜城有海驢島上多海驢常於八九月乳産其毛可長二分其皮水不能潤可以禦水】

   *

先に言っておくと、益軒は本条に続けて「海驢」と「海豹」を続けて出すが、総て冒頭が「山東通志曰」となっているのである。表記漢字に若干の異同があるものの、言っているコンセプトはだいた同じである。また、さらに検索をかけた結果、発見した。「維基文庫」の「欽定古今圖書集成」の「登州府部彙考七」の「登州府物產考」のここに、「山東志云」を外した酷似した文字列を見出せた。但し、膨大な類書である「古今圖書集成」は清の康熙帝が陳夢雷(一六五一年~一七四一年)らに命じて編纂を開始し、後、雍正帝の命で明の「永楽大典」に倣って蒋廷錫(一六六九年~一七二三年)等が増補し、一七二五年に完成したもので、版本は一七二八年の原刊本があるものの流通する刊本は少なく、益軒は一七一四年に没しているから、この刊本を見ることはなかった。しかし、先の「山東通志」と比べると、表記がほぼ相同である点で、この百科事典のもとになった「登州府部彙考七」の「登州府物產考」なるものと同じ親本を益軒が見ていることは疑いがない。

   *

海牛 出文登海中。長丈餘、紫色、無角、足似龜、尾若鮎魚。性捷、見人則飛入於海。其膏可以燃燈、其皮可以爲弓鞬矢房。

   *

そもそもが、登州は唐代から明初にかけての長きに亙って、山東半島の大部分を含む現在の山東省煙台市と威海市に跨る地域に設置された広域州(グーグル・マップ・データ。以下同じ)であったのである。

「文登」現在の山東省威海市文登区。山東半島東先端に近い南で海に面した地域である。

「丈餘」三メートル超え。

「龜の足、鮎〔(なまづ)〕の尾」漢名が「海牛」で、角がなく、カメの前肢に、巨大なナマズの尾のようだというのは、ジュゴンステラーダイカイギュウの形状を非常によく説明しており、他の種ではないと断言出来るほどに的を射ているのである(リンクはそれぞれの学名のグーグル画像検索。ステラーダイカイギュウの生体写真はどこにもない)。最有力のキタオットセイは尾ではなく、明確な左右に別れた後肢が確認出来るから、逆にここでは不利である。

「捷疾」敏捷で素早いこと。

「弓鞬」弓の本体を入れる弓袋。

「矢房」箙(えびら)のような矢を入れておく袋状のものか。]

南方熊楠「四神と十二獸について」(オリジナル詳細注附)の縦書PDルビ版公開版・2.3MB・28頁) 

同前の南方熊楠「四神と十二獸について」(オリジナル詳細注附)の縦書PDルビ版もサイトの「心朽窩旧館」に公開した(2.3MB・28頁)。 

「南方隨筆」底本 四神と十二獸について オリジナル詳細注附

 

[やぶちゃん注:本篇初出は大正八(一九一九)年八月二十五日発行の『人類學雜誌』第三十四卷八号。初出は「J-STAGE」のこちらで原本画像(PDF)で見られる。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらからの画像を視認した。冒頭にある通り、熊楠は大正三(一九一四) 年一月二十日発行の『人類學會雜誌』(第三十四巻六号)に載った考古学者八木奘三郎(やぎそうざぶろう)の論考「四神と十二肖屬の古𤲿」に触発されてこれを書いた。リンク先は私が先立って電子化したその論考である(同じく「J-STAGE」のこちらで初出原本画像PDF)が読め、私はそれを視認した)。まずは、そちらを先に読んで戴きたい。八木奘三郎の事蹟についても、私のブログ電子化の冒頭注を見られたい。

 初出及び平凡社「選集」と校合し、不審な箇所は訂した。それはただ五月蠅くなるだけなので、原則、注していない(例えば冒頭の「未聞」の「末聞」や「條々と」の「條々を」など。更に「未」(ひつじ)とあるべきところが致命的に多く「未」となっていたりするのである)。他にも漢籍などの引用で不審な箇所は可能な場合は漢籍原本を調べ、訂したが、これも、同前の理由で、原則、注していない(例えば冒頭の「淵鑑類函四四〇」の引用中の「玄武」は「元武」となっており、「其色黑、故曰玄元龜、有甲能捍禦」も読点位置を含め、一読不審であったため、「中國哲學書電子化計劃」のこちらで確認して総て訂した)。底本画像と比較されたい。頻繁に登場する「玄」は最終画のない「𤣥」であるが、この活字は私が生理的に嫌いなので、総て「玄」で表記した。また、漢文引用部は概ね読点のみの返り点もない白文であり、読み難いので、後に書き下してある「選集」のそれを参考にしつつ、我流で書き下して項末或いは段落末に挿入し、後を一行空けた。珍しく踊り字「〲」(古文引用)が出るが、正字に直した。]

 

 人類學雜誌三四卷六號に出たる、八木君の「四神と十二肖屬の古𤲿」を拜讀して大に未聞を聞きしを厚謝す。其中に就て予に分かり難き條々といささか氣付いたる事共を列ねて、八木君及び讀者諸彥の高敎を乞ひ參考にも供せんとす。[やぶちゃん注:「諸彥」は「しよげん」(しょげん)。「彦」は「優れた男性」の意。多くの優れた人。諸氏。]

一、一八三頁下段に、玄武の文字を釋して和漢名數より朱子の語を孫引して、「玄武謂龜蛇、位住北方。故日玄、身有鱗甲、故曰武とあれば云々」と述べらる。按ずるに淵鑑類函四四〇に、緯略曰、玄武卽龜之異名、龜水族也、水屬北、其色黑、故曰玄、龜有甲能捍禦、故曰武。世人不知、乃以玄武爲龜蛇二物。この緯略てふ書、何時誰が作りしか知らねど、其先後に引る書共の時代から推すに朱子より古く筆せられし者の如し。兎に角一說なるに付き爰に擧ぐ。

[やぶちゃん注:「玄武謂龜蛇……」「玄武とは龜蛇を謂ふ。位、北方に住す。故に玄と曰ふ。身に鱗甲有り。故に武と曰ふ」。

「淵鑑類函」清の康熙帝の勅により張英・王士禎らが完成した類書(百科事典)。一七一〇年成立。

「緯略曰……」「『緯略』に曰はく、『玄武、卽ち、龜の異名。龜、水族なり。水は北に屬し、其の色、黑、故に玄と曰ふ。龜、甲有り、能(よ)く捍禦(かんぎよ)[やぶちゃん注:守り防ぐこと。]す。故に武と曰ふ。世人、知らず。乃(すなは)ち玄武を以つて龜と蛇の二物と爲す。』と。」。熊楠が不詳とする「緯略」南宋の文人高似孫(こうじそん)の撰になる、恐らくは経書の目録であるが、現存しない。]

二、一八四頁下段に曰く、「又尙書以下の書を按ずるに、五行の水火木金土を中央及び四方に配し、又木火金水を東西南北春夏秋冬に當し事は書經樂記管子以下の書に見ゆれども靑赤黑白の色を曰はず、ただ周禮に方位と色とを記せし例あり。然れども此書世に漢儒の作と稱せらるれば、隨って爾雅の如きも其漢初に出し事は略ぼ推測するに足るべく、又色と方位、色と四神名との起源も、彼の漢代に在る事を察するに足るべし、中略、又始皇本紀に云々と記すれば、水德と黑、水と北方との關係上、方位と色彩の結合は已に秦代に行はれし有樣なれ共、是等は根本資料を明かにする必要有り、又假令右が秦代に在る事疑ひ無しとするも、猶周代の分は不明也、故に、予は其確實と信ずる點に從ひて漢代といえり」と。

 八木君の此文中予をして疑ひを抱かしむる者少なからず。先づ君の所謂樂記が禮記中に在る者ならば君の言は謬れり。禮記の樂記第十九に五行とか木火土金水とか云ふ事少しも見えず。扨禮記の月令第六に、孟春六月、天子居靑陽左个、乘鸞路、駕蒼龍、載靑旂、衣靑衣、服蒼玉云々、大史謁之天子曰、某日立春、盛德在木云々。天子親帥三公九卿諸侯大夫以迎春於東郊」孟夏之月、天子居明堂左个、乘朱路、駕赤騮、載赤旂、衣朱衣、服赤玉云々、大史謁天子曰、某日立夏、盛德在火云々。天子云々迎夏於南郊」次に中央土、其日戊巳、其帝黃帝云々、其から孟秋之月は天子、駕白輅、載白旂、衣白衣、服白玉、立秋の日、秋を西郊に迎ふ、孟冬之月、天子居玄堂左个、乘玄路、駕鐵驪、載玄旂、衣黑衣、服玄玉。立冬盛德在水、天子冬迎於北郊といふ風に、五行を、春夏中央秋冬の五時や東南中央西北の五方や靑赤黃白黑の五色に當て配れり。呂氏春秋は史記に呂不韋作十二紀八覽六論二十餘萬言、號曰呂氏春秋と有り。其十二紀は、孟春紀仲春紀季春紀といふ體に、每紀先づ十二月の月令を載せ、之に次ぐに他の四篇を以てし、紀每に五篇、但し季冬紀のみは六篇より成る故、六十一篇で十二紀を成す。此の呂氏の月令を通覽するに全く禮記の月令に基いて述し者の如く、殊に五行五時五方五色の配當は文字に些少の差ひ[やぶちゃん注:「ちがひ」。]有るのみ大要は相同じ。是れ周代既に方位の配當有りし證據に非ずや。加之[やぶちゃん注:「しかのみならず」。]、一八四頁上段に八木君は「四神の名稱は漢以前の書に見えざれば同(周?)代にこの稱呼有りしや否やは明かならず」と云れたれど、禮記の發端、曲禮上第一既に行くに朱鳥を前にして玄武を後にす、靑龍を左にして白虎を右にすと有り。是等は唯だそんな動物を𤲿いた旗を立た迄で之を四方の神としたるに非じと謂ふ人も有んが、次文に招搖(北斗第七星也)在上急繕其怒と有れば、件の四動物を北斗と等しく、神像としたるや疑ひ無し。但し禮記も呂氏春秋も亦漢儒の作る所といはゞば其れ迄なれど、果して左樣の說も有る者にや、大方の高敎を竢つ[やぶちゃん注:「まつ」。「俟つ」に同じい。]。

[やぶちゃん注:「孟春の月……」以下は各所を切り張り引用したものであるが、面倒なので、一括して訓読して示す。熊楠の挿入もそのままにしておく。

   *

『孟春の月、天子は靑陽の左个(さか)[やぶちゃん注:この「个」は部位・位置を指す。]に居(を)り、鸞路(らんろ)[やぶちゃん注:天子の乗る車の名。以下、同一箇所は同じ。]に乘り、蒼龍を駕し、靑旂(せいき)[やぶちゃん注:青い旗。]を載(た)て、靑衣を衣(き)、蒼玉を服(ぶく)し』云々。『大史、之れを天子に謁(つ)げて曰く、「某日[やぶちゃん注:暦によって移動するのでかく言った。その年の当該の日の意と考えればよい。]立春、盛德、木に在り。」と』云々。『天子、自(みづ)から三公・九卿・諸侯・大夫を帥(ひきい)て、以て春を東郊に迎ふ』、『孟夏の月、天子は明堂の左个に在り、朱路に乘り、赤騮(せきりゆう)[やぶちゃん注:「騮」は栗毛の駿馬。]を駕し、赤旂を載て、朱衣を衣、赤玉を服し』云々。『大史、之れを天子に謁げて曰く、「某日立夏、盛德、火に在り。」と』云々。『天子』云々、『夏を南郊に迎ふ』、次に『中央は土なり。其の日は戊巳(ぼし/つちのとみ)[やぶちゃん注:現行の干支の組み合わせでは存在しないが、古代にはあったものか。]、その帝は黃帝、云々」、其から、『孟秋の月は、天子、白輅(はくらく)[やぶちゃん注:「輅」は天子の車。]を駕し、白旂を載て、白衣を衣、白玉を服し、立秋の日、秋を西郊に迎ふ』、『孟冬(まうとう)[やぶちゃん注:初冬の陰暦十月。]の月、天子は玄堂の左个に在(あ)り、玄路に乘り、鐵驪(てつり)[やぶちゃん注:「驪」は黒毛の馬。]を駕し、玄旂を載て、黑衣を衣、玄玉を服す。立冬、盛德、水に在り。天子、冬を北郊に迎ふ』。

   *

「呂氏春秋」(りょししゅんじゅう:現代仮名遣)戦国末の秦の呂不韋が食客を集めて共同編纂させた書。紀元前二三九年完成。天文暦学・音楽理論・農学理論などの論説が多く見られ、自然科学史上、重要な書物とされる。

「呂不韋……」「呂不韋は十二紀・八覽・六論の二十餘萬言を作り、號(なづ)けて『呂氏春秋』と曰(い)ふ。」。

「招搖(北斗第七星也)在上急繕其怒」「招搖(しやうやう)上に在り、急(かた)く其の怒りを繕(つよ)くす。」。「招搖」は星の名。]

 

 予は支那書を讀むことを廢して既に二十年、今迨んでは[やぶちゃん注:「およんでは」。]何の知る所も無し。然れども纔かに記臆に存する處に據るも、なほ多少の言ふべき者無きに非ず。因て記臆に基づき座右の書を搜つて一二を述んに、左傳襄公二十八年蛇乘龍[やぶちゃん注:「蛇、龍に乘る。」。]、集解に蛇玄武之宿、虛危之星、龍歲星、歲星木也、木爲靑龍、失次出虛危下、爲蛇乘也。爰に見る龍は、東方の星宿ならで木星なれど、虛危の星を蛇とせるは史記天官書に北宮玄武虛危[やぶちゃん注:「北宮は玄武にして虛危なり。」。]といえると同樣、周代既に蛇を以て北方の神玄武の標識としたる也。又墨子貴義篇に、子墨子北之齊、遇日者、日者曰、帝、以今日、殺黑龍於北方、而先生之色黑、不可以北、子墨子不聽、遂北至淄水、不遂而反焉。日者曰、我謂先生不可以北、子墨子曰、南之人不得北、北之人、不得南、其色有黑者、有白者、何故皆不遂、且帝以甲乙殺靑龍於中於東方、以丙丁赤龍殺於南方、以庚辛殺白龍於西方、以壬癸殺黑龍於北方、以戊巳殺黃龍於中方、若以子惟言、則是禁天下之行者也。墨子の時代は確かならねど孟子や荀子に其說を載たれば此二子より前の人と見ゆ。亦以て周代既に五行に因める十干を五方位と五色とに配當せる說行れたるを知るべし。尤も、是迚も左傳も墨子も漢儒の假作と云ば詮方無し。然る上は予は左樣の見を抱く人に向て、全體今に在て漢以前の事實を觀るべき支那書は何に何なるやを示されん事を乞うの外無し。

[やぶちゃん注:末尾の八木の論考への不満は私も電子化している最中に激しく感じた。快哉!

「集解」晋の杜預の「春秋左氏伝」の注解書「春秋經傳集解」。

「蛇玄武之宿……」「蛇は、玄武の宿(しゆく)、虛危[やぶちゃん注:星宿の固有名の一つ。]の星なり。龍は歲星にして、歲星は木(もく)なり。木は靑龍と爲す。次(やどり)を失ひて虛危の下に出で、蛇の乘るところと爲すなり。」。

「子墨子……」「子墨子(しぼくし)、北して齊(せい)に之(ゆ)き日者(につしや)[やぶちゃん注:天文現象を用いた占術師。]に遇(あ)ふ。日者曰く、『帝、今日を以て、黑龍を北方に殺す。而るに先生の色、黑し。以て、北すべからず。』と。子墨子、聽かずして遂に北して淄水(しすい)に至り、遂(と)げずして反(かへ)る。日者曰く、『我、「先生、以て北すべからず」と謂へり。』と。子墨子曰く、『南の人、北することを得ずんば、北の人、南することを得ず。其れ、色は、黑き者有り、白き者有り。何の故にか、皆、遂げざらんや。且つ、帝は甲乙[やぶちゃん注:当該の日。]を以て靑龍を東方に殺し、丙丁を以て赤龍を南方に殺し、庚辛を以て白龍を西方に殺し、壬癸を以て黑龍を北方に殺し、戊己を以て黃龍を中方(ちゆうはう)に殺す。若(も)し、子の言を用ふれば、則ち、是れ、天下の行く者を禁ずるなり。』と。」。]

 

三、一八六頁に、八木君は「十二支に十二獸名を當し事は、彼の事物紀原に事始を引て、黃帝は立子丑十二辰以名月、又以十二名、獸屬之[やぶちゃん注:八木氏の論考では『黃帝立子丑十二辰以名ㇾ月、又以十二名獸ㇾ之』で南方の引用は不全な上に読点位置がおかしい。「子(ね)・丑(うし)十二辰を立てて、以つて、月を名づけ、又、十二の名の獸を以て、之れに屬(しよく)す」。]とあれども、これは支那人側の解釋にて、實は印度の十二獸が支那に移りてかの十二支と結合せるがごとし」と言わる。所謂印度の十二獸の事は次の(四)の條に論ずべし。今は唯だ支那の十二獸に就て言んに、一九一一年版エンサイクロペジア、ブリタンニカ、二八卷、九九五頁にクラーク女史は、支那で日の黃道を十二に分かち、十二獸に資て[やぶちゃん注:「よつて」。]之に名け順次日の進行に逆らふて進む者とせるは、特種奇異の組織で、支那自國に起こりしや疑ひ無しと有るは尤もながら、是は十二支の支那固有なるを言し迄にて、十二獸を十二支に當る[やぶちゃん注:「あつる」。]の支那固有なるを言たるに非ず。然れども十二獸を十二支に當るも亦實に支那固有の者と見ゆ。古今要覽稿五三一に、「凡そ十二辰に生物を配當せしは、王充論衡に初めて見えたれども、淮南子[やぶちゃん注:「抱朴子」の誤り。後注参照。]に山中未日稱主人者羊也といひ、莊子に未甞爲牧而牂生於奧と云るを、釋文に西南隅未地と云れば、羊を以て未に配當せしもその由來古し」とあり。錢綺曰く十二辰亦由列宿而定、如周時星紀、中有牛宿、故丑中屬牛、而今則牛宿在子宮、不在丑宮矣、周時元※1[やぶちゃん注:「※1」=「亻」+「号」。]中有虛宿、※2[やぶちゃん注:「※2」=「木」+「号」。]爲耗名、鼠能耗物、故子屬鼠、而今依月初宮法推之、則虛宿在亥宮、不在子宮矣。娶訾又名豕韋、故亥屬豬、今依古法則娶訾不爲亥宮、而爲戌宮(竹添氏の左氏會箋卷十四頁五六)。以て十二獸を十二支に當るは周時に始りしを知るに足る。

[やぶちゃん注:「一九一一年版エンサイクロペジア、ブリタンニカ、二八卷、九九五頁」一七六八年に初版が発行された英語で書かれた百科事典「ブリタニカ百科事典」(表記はラテン語で‘Encyclopædia Britannica’)。第二版はスコットランドの著述家で航空のパイオニアであったジェームズ・タイトラー(James Tytler 一七四五年~ 一八〇四年)の編集になり、一七七七年から一七八四年にかけて刊行された。‘Internet archive’のここで当該部分(左ページ)が読める。‘Chinese Zodiac signs.’がそれ。

「クラーク女史」上記の原本同巻の冒頭の筆者一覧に、アグネス・メアリー・クラーク(AGNES MARY CLERKE)という名で本項「Zodiac.」の執筆者として載る。彼女は当該ウィキによれば、一八四二年生まれで一九〇七年に亡くなったイギリスの天文学・天文学史についての著述を行った女性作家とあり、『アイルランド』『生まれ』で、『ロンドンで没した』。『早くから天文学に興味を持ち』、十五『歳の時には天文学について書くようになった。クラークの一家は』一八六一年に『ダブリン』、一八六三年に『クィーンズタウンに移り、数年後にクラークはイタリアを訪れ』、一八七七年まで『イタリアに留まった。主にフィレンツェの公共図書館で学び、作家となる準備をし』、一八七七年に『ロンドンに移った』。『最初の重要な作品であるCopernicus in Italy(『イタリア時代のコペルニクス』)はエジンバラ・レヴュー誌に』一八七七年に『掲載され』たが、それ以前の一八五五年に『出版されたA Popular History of Astronomy during the Nineteenth Century』(「十九世紀の天文学史」)』で有名になった。クラークは天文学者ではなかったが、天文学研究についての解説に秀でていた』。一八八八年には『ケープ天文台の所長デービッド・ギル夫妻の招きで』三『ヶ月も天文台に留まり、当時は新しい天文学の分野となった天体分光学についての知識を得た』。一八九二年には「英国天文協会」(British Astronomical Association)の会員となり、『英国天文協会の会合や王立天文学会の会合に参加した』。一九〇三年には『王立天文学会の名誉会員に選ばれた』。『月のクラーク・クレータは彼女の名に因んで命名された』ものであるとある。

「十二獸を十二支に當るも亦實に支那固有の者と見ゆ」私もそう思う。

「古今要覽稿」江戸後期の類書。五百六十巻。幕命により屋代弘賢が編集。文政四年から天保十三年(一八二一年から一八四二年)にかけて成立した。自然・社会・人文の諸事項を分類し、その起源・歴史などを古今の文献を挙げて考証・解説したもの。「五三一」のそれは国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで視認できる。上段末から下段冒頭にかけてである。

「王充論衡」「論衡(ろんこう)は後漢の文人で思想家の王充(二七年~一世紀末頃)が著した全三十巻八十五篇(その内の一篇は篇名のみ残って散佚)から成る自伝的思想書。実証主義の立場に立った自然主義論・天論・人間論や史観など多岐多様な事柄を説き、一方で、非合理的な先哲伝承や陰陽五行説・民俗的災異説を迷信論として徹底的に批判している。

「山中未日稱主人者羊也」この底本原文は「山中末日稱主人者半也」で訓読不能なほど致命的な誤字である。さらに屋代弘賢のとんでもない誤りがあって、これは「淮南子」にはなく、「抱朴子」の「内篇」の「登涉」に出現するものであることが、中文サイトを縦覧するうちに明らかとなった。「選集」にはその誤りを示す注もなく、ネット上の本篇の抜粋などでも、無批判に誤りを受け入れているものばかりで、総て「淮南子」を出典としている為体(ていたらく)である。私はこれだけでもこの電子化注をしている甲斐があったと思ったものである。「抱朴子」の当該部は「中國哲學書電子化計劃」のこちらを見られたい。山中の超常現象を解説した中に出る。所持する訓読本で訂した(「抱朴子」は私の愛読書である)。「山中」は南方熊楠の添えたもの。「未(ひつじ)の日に、主人と稱する者は、羊なり。」で、原本では因みにその後にセットで「稱吏者、獐也」(吏と稱する者は、獐(のろ)なり。)とある。

「莊子に未甞爲牧而牂生於奧と云る」「莊子」の「徐無鬼篇 第二十四」に出る。子綦(しき)が我が子(こ)の歅(いん)に宇宙の無為自然の不可知の絶対原理を語る中に出る(「荘子(そうじ)」は私が唯一、大学時代に徹底的に読み込んだ、数少ない漢籍の一つである)。

   *

未だ甞つて牧を爲さざるに、而も牂(めひつじ)は奧(おう)に生ず。

   *

「奧」は熊楠が添える通り、「西南隅未地」(西南の隅の未(ひつじ)の地)の意。「私はこれまで、牧畜などしたこともないのに、いつの間にか、不思議なことに、屋敷の西南の隅の未の方角の土地に、雌の羊が現われた。」の意。

「錢綺」(一七九八年~?)清代の学者。著書に「左傳札記」(「續修四庫全書」に収める。調べたところ、熊楠の引用はこの「春秋左氏伝」の注釈書であった。「中國哲學書電子化計劃」の影印本のここを見られたい。右の活字は信用してはいけない。機械的な翻字で誤りが多い)・「東都事略校勘記」・「南明書」がある。

「十二辰亦由列宿而定……」「十二辰も亦、列宿に由りて定まる。周の時の『星紀』のごときは、中に牛宿有り。故に丑は中の牛に屬(ぞく)す。而れども、今は、則ち、牛宿は子(ね)の宮(きゆう)に在(あ)りて、丑の宮に在らず。周の時、元※(「※1」=「亻」+「号」。「選集」では読みを『きよう』と振る。恐らくは「きょう」で「げんきょう」であろう。意味不明。星宿の細部名か占い卦の一つの呼び名か?)は、中に虛宿あり。※(「※2」=「木」+「号」。読み・意味(推定)は同前)は耗(まう)[やぶちゃん注:]の名となす。鼠は、能く物を耗(へら)す。故に子は鼠に屬す。丑は牛に屬す。而して今は、月の初めの交宮(かうきゆう)の法[やぶちゃん注:意味不明。星占法に於いて星宿の宮(きゅう)が旧暦の月の初めに交差(円形に配置した際の対の十二支か?)するように捉えて行われた儀式をでも指すか?]に依りて之れを推せば、則ち、虛宿は亥宮に在りて、子宮には在らず。娶訾(しゆし)は又、豕韋(しゐ)とも名づく。故に亥は豬に屬す。今は古法に依りて、則ち、娶訾を亥宮と爲さずして戌宮と爲す。」。

「竹添氏『左氏會箋』」元外交官にして漢学者の竹添進一郎(天保一三(一八四二)年~大正六(一九一七)年:「甲申政変」の折りには朝鮮弁理公使であり、後に漢学者として活躍した)「春秋左氏伝」の箋注本。明治三七(一九〇四)年明治講学会刊。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで視認出来るが、私は探す気になれない。悪しからず。]

 

四 前條の始めに引ける八木君の文の續きに曰く「こは宿曜經[やぶちゃん注:「すくえうきやう」。]抔に記載しあれども云々、山岡俊明の類聚名物考に曰く、「飜譯名義集に此十二支法、爲中乘之達觀也と見えたり、經には鼠牛虎兎龍蛇馬羊猿鷄狗猪の字を用ひ、此十二物は大權の聖者にして、年月日時に四天下を巡りて同類形の衆生を濟度すと說けり、此十二獸の名を支那にて古く用居たる[やぶちゃん注:「もちひをりたる」。]子丑等の字に配當したるを以て、我國にてねうしの訓を充たるなり[やぶちゃん注:「あてたるなり」。]」山岡の說は當時に於て卓見と謂べく、彼の鼠牛以下の獸名は確かに印度傳來に相違なく、夫が支那の子丑寅卯と結合せし事は疑ひ無るべきも[やぶちゃん注:「なかるべきも」。]、此點に就ては猶硏究の餘地あるにより五行の起源の論に移る」と(以上八木君の文)。相違なく疑ひ無かるべき由言て、扨猶硏究の餘地ありと云るゝ程故、一九一頁の結論にも「而して此類の智識が最初支那より印度に傳れるや否やは今俄に決する事能はざれども、其十二支に鼠牛虎の類が印度より流傳し、之に依て繪𤲿上に現はれしとすれば云々」と、結局支那より印度に傳へしや、印度より支那へ傳へしや、どちらとも片付けずに終られたるは、頗る物足らぬ心地ぞする。

[やぶちゃん注:最後の部分は私も強い不満を抱いた箇所である。

「宿曜經」唐代に、印度の二十八宿七曜などを述べた選訳書。「文殊師利菩薩及諸仙所說吉凶時日善惡宿曜經』が正式の書名で、中国密教の完成に努めた僧不空の訳になる。上下二巻。訳を史瑤が編し、それを楊景風が改めて、諸所に註記したものが、中唐初期の七六四年に完成した。基は印度の占星術で使われる暦学と占星法の書「ナクシャトラ」で、七曜・十二宮・二十八宿の関係によって一生の運命や一日の吉凶を判断する方法を説いたもの。地本邦へは平安初期に伝わり、「宿曜道」(すくようどう) の根本となった。

「山岡俊明の類聚名物考」「俊明」は「浚明」とも書き、「まつあけ」と読む。「類聚名物考」は江戸中期の類書(百科事典)で全三百四十二巻(標題十八巻・目録一巻)。幕臣で儒者であった山岡浚明(享保一一(一七二六)年~安永九(一七八〇)年:号は明阿。賀茂真淵門下の国学者で、「泥朗子」の名で洒落本「跖(せき)婦人伝」を書き、「逸著聞集」を著わしている)著。成立年は未詳で、明治三六(一九〇三)年から翌々年にかけて全七冊の活版本として刊行された。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で同刊本を視認したところ、ここに発見した(巻六の「天文部六」の「雜」の内の大項目「十干 十二支」の冒頭にある「刑德」中に出る(右ページ下段の四行目)。

「飜譯名義集」(ほんやくみやうぎしふ)は宋代に書かれた梵漢辞典。七巻本と二十巻本がある。南宋の法雲編。一一四三年成立。仏典の重要な梵語二千余語を六十四編に分類して字義と出典を記したもの。

「爲中乘之達觀也」「中乘の達觀と爲すなり」。]

 

 予は全く印度古今の曆象天文方位に就て學びし事無れど、種々讀書の際注意せしに、印度に十二支も無ければ、十二獸を十二支に充る事も無き樣也。フムボルトの論說に、印度墨西哥[やぶちゃん注:「メキシコ」。]共に、古く蛇や管や劇刀や日の迹や、犬の尾や家等の名を曆日に配當する由見え、其事頗る支那の十二獸を日に配當するに似たれど、印度墨西哥に右等の物名を方位に配せしを聞ず。又印度の二十七宿の名の内、支那十二獸の或る物に偶合せる有れど、偶合せぬ者の方多ければ、本と同源より出でたりと惟はれず。類聚名物考に略說されたる十二動物のことは、大集經卷廿四に出づ。其文難解又冗長の處少なからねば、佛敎大辭彙二、頁一六〇〇に載せたる撮要文を本經に照らし多少校訂して爰に出す。曰く、「閻浮提外東方海中の琉璃山に蛇馬羊住み、南方海中の玻黎山[やぶちゃん注:「はりさん」。]に猴鷄犬住み、西方海中の銀山に猪鼠牛住む、北方海中の金山に師子兎龍住み、東方の樹神南方の火神西方の風神北方の水神、何れも一羅刹女と共に各五百眷屬を有し、各自に三獸を供養す、其一々の獸は窟内に住み聲聞慈を修し[やぶちゃん注:「しやうもん、じを、じゆし」。]、晝夜常に閻浮提内を行き、人天に恭敬さる、曾て過去佛に於て深重願を發し一日一夜常に一獸をして遊行敎化し、餘の十一獸は安住修慈し周りて[やぶちゃん注:「めぐりて」。]復た始めしむ、七月一日鼠初めて遊行し、聲聞乘を以て一切鼠身衆生を敎化し、惡業を離れ善事を勸修せしむ、是の如く次第して十三日に至り鼠復た遊行す、斯て十二月を盡し十二歲に至り、亦復た是の如し、是故に此土多く功德有り、乃至畜獸も亦能く敎化し無上菩提の道を演說す下略」。件の大集經は東晉の代に北凉に入し天竺僧曇無讖譯せる所と、此僧涅槃等の經を携へて罽賓[やぶちゃん注:「けいひん」。北印度のカシミール地方若しくはガンダーラ地方にあったとされる国。]に之しに[やぶちゃん注:「ゆきしに」。]、彼國多く小乘を學び大乘を信ぜず、因て流轉して北凉に來たれり(高僧傳二)。小乘徒の大乘を信ぜざるは、主として大乘の所說が小乘ほど純ならず、動[やぶちゃん注:「やや」。]もすれば佛在世後の事共を書き加え[やぶちゃん注:ママ。]たるに由る。されば大集經所說の十二獸の如きも、クラーク女史が、西曆六世紀に印度の天文家が支那二十八宿を參照して印度の二十七或は二十八宿を定めたりと言る如く(エンサイクロペヂア、ブリタンニカ、十一板、二八卷、九九六頁)、印度如くは[やぶちゃん注:「もしくは」。]其近邊にて印度と支那との兩說を混合して作り出せりと惟はる。先づ大集經の十二獸には印度に多く產し、其經文に頻りに見ゆる犀象孔雀鸚鵡等を入れず、其十一獸は印度にも支那にも生ずる者なるは暗合としては餘りに過分ならずや。又此十二獸を印度に起て支那に傳えし[やぶちゃん注:ママ。]者とせんには、從來支那の十二支に恰好適應すべきを豫知して、其十二分の十一なる多數迄も支那に產する動物を選定せる印度人の神智に驚かざるを得ず。其よりも眞面目に攷ふるに、須彌は四寶より成るてふ經說に據て四海中の四寶山を作り、山每に三獸で四山に十二獸住むと立たるにて、虎無くて獅子有るは、故らに[やぶちゃん注:「ことさらに」。]印度臭く匂はさん迚、支那になき獸を採たる事、虎の代りに蒙古で豹、墨西哥で豹に近きオセロツトを入れたるに等し(ボーンス文庫本、プレスコツト墨西哥征服史三卷。三七六―七頁の注)扨支那の十二支と本來別流の者たる樣見せんため、支那で北にある鼠が印度で西、支那で南にある馬が印度で東ちう[やぶちゃん注:ママ。]風に捩り[やぶちゃん注:「もぢり」。]置き乍ら、十二獸を供養する樹神は東、火神は南、風神は西、水神は北に居るとせるは、支那特有の五行說に東木南火西金北水と定めたるに基きし馬脚を露はす。要するに大集經の十二獸は、支那の五行や十二支を聞及べる印度若くは印度と支那の道中に在し[やぶちゃん注:「ありし」。]或る國の人が作出せる事疑ひ無し。又摩訶止觀に載たる三十六禽は、寅に狸豹虎、戌に狗狼豺[やぶちゃん注:「うまいぬ」。]抔と、十二獸の獸一每に類似の動物二を添え[やぶちゃん注:ママ。]、十二を三倍して卅六禽とせり。密敎の星曼陀羅抔に出るを見て印度產の樣思ふ人も有んが、卅六てふ多數中に、獅子如き支那に無き者一つもなきが不審と云迄も無く、止觀の本文既に寅卯辰の九獸は東方木に、巳午未の九獸は南方火に屬す抔と、支那特有の五行說を述べ、自ら[やぶちゃん注:「おのづから」。]三十六禽は支那出來たるを立證せり。凡そ十二獸といふ事委陀[やぶちゃん注:「ヴェーダ」。]等の梵典にも、佛在世を距る[やぶちゃん注:「へだつる」。]こと遠からざる時編まれたる佛經等にも見えず。八木君がいへる宿曜經は大集經より三百餘年後れて譯されし者なれば、支那の思想を加え[やぶちゃん注:ママ。]し事一層多かるべく、且つ只今座右に之無きを以て爰に論ずるに及ばず。

 三と四の條に述たる理由をもって、予は十二獸を十二支に當るは支那國有の法にて、其周[やぶちゃん注:紀元前一〇四六年頃~紀元前二五六年。抄出も底本も「同時」であるが、「選集」を採った。]時に始まり、其思想後年支那以外に傳はり佛經に載らるゝに及びしも、決して支那以外に起りて支那に入りし者ならずと斷ずる也。

[やぶちゃん注:私は熊楠の結論に無条件で賛同する。

「フムボルト」ドイツ(プロイセン王国)の博物学者・地理学者にして近代地理学の祖とさるフリードリヒ・ハインリヒ・アレクサンダー・フォン・フンボルト(Friedrich Heinrich Alexander, Freiherr von Humboldt 一七六九年~一八五九年)。出典不明。

「管」「かん」で「笛」の意であろう。

「大集經」「大方等大集經」(だいほうどうだいじっきょう:現代仮名遣)。中期大乗仏教経典の一つ。釈迦が十方の仏菩薩を集めて大乗の法を説いたもので、「空(くう)」の思想に加えて、密教的要素が濃厚なもの。

「佛敎大辭彙」大正三(一九一四)年に龍谷大学が刊行した仏教語彙辞典。

「エンサイクロペヂア、ブリタンニカ、十一板、二八卷、九九六頁」既出既注。原本はここ

「オセロツト」食肉目ネコ亜目ネコ科オセロット属オセロット Leopardus pardalis 。当該ウィキによれば、『同じ地域に生息する』ヤマネコ類と『類似した外観をもつが、オセロットの体長は』六十五~百二十センチメートル、尾の長さは二十七~六十一センチメートル、体重九~十六キログラムあって、それらとは相対的に『大型である。体毛は短く、四肢は頑丈。黒い斑紋で縁取られたオレンジ色の斑紋(梅花紋)。種小名 pardalis は「ヒョウ」の意。地色は灰白色や黄色、濃褐色など個体によってさまざまで、体前方から後方に向かって黒く縁取られた斑が並んでいる。虹彩は褐色』。『主に南アメリカの熱帯雨林に生息しているが、メキシコやアメリカ・テキサス州の一部にも分布しており、草原や人間の集落近くに姿を現すこともある』。『夜行性で』、『その行動範囲は非常に広い。普段は単独で行動し、他の個体と出会うのは通常は交尾のためだけである。ただし、樹上や深い茂みの中で休息をとる日中は』、『まれに他の個体と場所を共有することもある。繁殖期については初夏と冬である、定まっていない、などの説がある。妊娠期間は約』七十『日で、一度の出産で』一~四『子を産む』。『他のネコ科の動物と異なり』、『泳ぎが上手く』、『樹上生活に適応しており』、『木登りも行うが、大抵は地上を行動圏としている。自身よりはるかに』小型の動物(サル・ヘビ・齧歯類・鳥類などを『捕食する』。『非常に鋭い視力を持つが、獲物を追跡するのに臭いを辿ることが研究によって判明している』。『毛皮は非常に高価なものとされ、また』、『人に慣れやすく』、『今なおヤマネコの中でペットとして最も人気のある種類であるため、乱獲が続』き、『多くの国で絶滅危惧種に指定されている』とある。

「ボーンス文庫本、プレスコツト墨西哥征服史」アメリカの歴史家で特にルネッサンス後期のスペインとスペイン帝国初期を専門としたウィリアム・ヒックリング・プレスコット(William Hickling Prescott 一七九六年~一八五九年)が一八四三年刊行したもの(The History of the Conquest of Mexico:「メキシコの征服の歴史」)。文庫名のそれは不詳。

「摩訶止觀」隋代の仏教書。全十巻。智顗(ちぎ)の教説を弟子の灌頂(かんじょう)が筆録したもの。五九四年成立。「天台三大部」の一つ。天台宗の修行法である観心を体系的に説いたもの。「天台摩訶止観」「天台止観」「止観」とも呼ぶ。

「委陀」「ヴェーダ」とは「知識」の意。インド最古の文献で、バラモン教の根本聖典を指す。起源は、アーリア民族の自然賛美の詩篇群で、紀元前一二〇〇年から紀元前五〇〇年の成立と推定され、リグ・サーマ・ヤジュル・アタルベの四ベーダ(祭式上の区別)から成る。内容上からジュニャーナカーンダ(哲学的宗教的思索部門)とカルマカーンダ(施祭部門)の二つに大別される。]

 

五 序でに述ぶ。五雜俎一五に、眞武卽玄武也、朱雀靑龍白虎爲四方之神、宋避諱改爲眞武、後因掘地得龜蛇、遂建廟以鎭北方、至今香火殆遍天下、而朱雀等神絕無崇奉者、此理之不可曉。琅邪代醉編二九に眞仙通鑑載、宋道君問林靈素、願見眞武聖像、靈素曰、容臣同張淨虛天師奉請、乃宿殿致齋、於正午時、黑雲蔽日、大雷霹靂、火光中見蒼龜巨蛇塞於殿下云々。是等には見えねど古來玄武を畫くに、必ず蛇が龜を纏ひ舌を出して見詰る體を以てす。予惟ふにこは蛇と龜と交わる相なるべし。博物志四に大腰無雄、龜鼉類也、無雄與蛇通氣則孕、細腰無雌蜂類也。これはジガ蜂が蜘蛛抔を其穴に引入れ卵を產付[やぶちゃん注:「うみつけ」。]するを見て、此蟲雌なく他の蟲を養ひ子とすと誤解し、又龜の生殖器は一寸見えぬ故、斯く甲裝したる者のいかに交尾すべきと思案に盡きて、龜に雄無く蛇と氣を通じて孕むと信じたる也。類函四四〇に化書曰、牝牡之道龜龜[やぶちゃん注:初出・底本は「龜々」であるが、「々」は中国にはない記号であるので好ましくないので正字化した。]相顧神交也、龜雖與蛇合、亦有以神交者。是は龜に牝牡あれども其交るは身を合さず、相顧み見た斗りで事濟み、蛇と交る時は身を合し若しくは眼で視合ふて事成るとす。本草網目四五、時珍曰龜雌雄尾交、亦與蛇匹、或云大腰に無雄者謬也と有て、明代既に龜雌雄有り、尾裏の生殖器を重ね交はるを知れるも、なほ舊說に泥んで[やぶちゃん注:「なづんで」。]亦蛇とも交ると信ぜり。龜のドイツ名 Schildkröte が被甲蟾蜍の義なる如く、凡て爬蟲共の面貌一般に相似る故、支那人龜を蛇頭龍頸抔形容し龜、蛇至て近き者と見、扨こそ龜長於蛇の辨も有りしなれ(莊子天下篇)。此龜蛇と交てふ謬說久しく支那人の心に浸潤せしは、五雜俎八に、今人以妻外淫者、其夫目爲烏龜、蓋龜不能交、而縱牝者與蛇交也と見るにて知らる。古歐州人も此二物を好淫とせしにや、アポロが龜となり蛇と化て王女ドルオペを犯す譚有り。七年前の夏、予の宅に龜を飼し池邊の垣下より、一蛇舌を出し頻りに龜に近づかんとするを予竹竿もて撲殺せし事あり。其何の爲たりしを知るに由なきも、蛇と龜多き地には蛇が龜を纏ひにかゝる位の事絕無と謂ふ可らず。支那に攝龜又鴦龜とて腹甲橫折して能く自ら開闔[やぶちゃん注:「かいかふ」。開閉。]し、蛇を見れば忽ち之を啖う龜ある由本草網目に出づ。予北米東南部の松林で數ば[やぶちゃん注:「しばしば」。]見たるクーター(箱龜)は腹甲折半して前後自在に動き、敵に遇へば全く首尾四肢を甲内に閉て間隙無し。明治十八年[やぶちゃん注:一八八五年。熊楠十八歳。]頃斯樣の龜を八重山島より東京へ持來り飼るを見し事あり。後ち英國學士會員ブーランゼー氏に質せしに、箱龜の種族一ならざれど悉く西半球の產也、米國の航客抔米國又墨西哥や中米地方の箱龜を八重山島に遺せし者なるべしと答へられたり。然れどもコロンブスの新世界發見より九百數十年前、陶弘景が鴦小龜也、處々有之、狹小而長尾、甲は占吉凶、正相反龜と述べ、新世界發見より五百數十年前、韓保昇が攝龜腹小、中心橫折、能自開闔、好食蛇也と言るを稽ふるに[やぶちゃん注:「かんがふるに」、]、西半球の者と種屬を同じくせざる迄も、一種の箱龜好んで蛇を食ふ者が支那に產する事疑を容れず。ユリノ木抔、長距離を隔てゝ米國東部と支那内地に產する例有れば、西半球に限ると惟はれたる箱龜が支那にも產すれば迚怪しむに足らず。果して然らば、龜が蛇と鬪ふて之を殺し食ふ處を畫きて、嚴寒劾殺[やぶちゃん注:「がいさつ」。罪を暴き訴えて殺すこと。]の北方の神を表示せるが玄武の本義ならん(說苑十九に孔子曰、南者生育之鄕、北者殺伐之域)[やぶちゃん注:「孔子曰く、『南は生育の鄕(がう)、北は殺伐の域なり。』と。」。]。予曾て小蛇又蜥蜴を殺して自宅の龜に與えしに[やぶちゃん注:ママ。]、忽ち食ひ了りし事なり。支那の攝龜に限らず、龜が蛇を殺し食ふ例は少なからじ。扨蛇が龜に食れ爭ふ内龜を纏ひ荐に[やぶちゃん注:「しきりに」。]舌を出す、其態、淫念熾盛にして之と交る如くなるより、之を陰陽和合子孫蕃殖の相として、四神の内玄武獨り永く亨祀[やぶちゃん注:「きやうし」。滞りなく祀ること。]されたる也。死殺を司どる北方の神を子孫蕃殖の神とは受け難き樣なれど、子生るゝと同時に親死するは原始生物の通規で、類函十六に引る尙書大傳に冬中也、物方藏於中、故曰北方冬也、陽盛則吁舒萬物、而養之于外、陰盛則呼吸萬物、而藏之于内、故曰、呼吸者陰陽之交接、萬物之始終也と云るは一理有り。新西蘭[やぶちゃん注:ニュージーランド。]土人は男女根は人命を壞る[やぶちゃん注:「やぶる」。]とし(Elsdon Best, “Maori Beliefs concerning the Human Organs of Generation,” Man, vol. xiv., no.8, pp. 132-133, 1914)、印度人はシヴァ神を幸福尊者と稱す。死は生を新たに始め破壞者實に再創者たれば也(エンサイクロペヂア、ブリタンニカ、十一板、廿五卷一六二頁)。

[やぶちゃん注:「五雜俎」「五雜組」とも表記する。明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で、遼東の女真が、後日、明の災いになるであろうという見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになるという数奇な経緯を持つ。ここに引かれる以下は、巻十五「事部三」の一節。

「眞武卽玄武也……」「眞武は、卽ち、玄武なり。朱雀・靑龍・白虎と與(とも)に四方の神たり。宋に、諱(いみな)を避け、改めて眞武と爲す。後に地を掘りて龜蛇(きじや)を得るに因つて、遂に廟を建て、以つて北方を鎭(しづ)む。今に至るまで、香火、殆んど、天下に遍(あまね)し。而して朱雀等の神は、絕えて崇奉する者、無し。此れ、理(ことわり)の曉(さと)るべからざるものなり。」。

「琅邪代醉編」(ろうやだいすいへん:現代仮名遣)は明の張鼎思の類書。一六七五年和刻ともされ、江戸期には諸小説の種本ともされた。

「眞仙通鑑載……」『「眞仙通鑑」に載せて、『宋の道君、林靈素を問(たづ)ね、眞武の聖像を見んことを願ふ。靈素曰く、「臣の張淨虛天師と同(とも)に奉請するを容(ゆる)せ。」と。乃(すなは)ち殿に宿し、齋(さい)を致す。正午の時に於いて、黑雲、日を蔽(おほ)ひ、大雷、霹靂して、火光の中に蒼龜・巨蛇の殿下を塞ぐを見ると云々』。親本の「眞仙通鑑」は元代の道士趙道一の編纂した道教の神々の伝記集「歷世眞仙體道通鑑」。歴代の神仙・道家の活動を諸書より集めて述べたもので、儒・仏・道の三教の伝説を取り込んで、僧や儒者も一緒くたにして「神仙」に仕立ててしまっているトンデモ本である。

「博物志」三国時代の魏から西晋にかけての政治家で文人の張華(二三二年~三〇〇年)の書いた幻想的博物誌にして奇聞伝説集である「博物志」全十巻を指す。以下は巻四の一節。

「大腰無雄……」「大腰(だいよう)は雄(をす)無し。龜(き)・鼉(だ)の類(るゐ)なり。雄、無くして、蛇と氣を通ずれば、則ち、孕む。細腰(さいよう)は雌(めす)無し。蜂の類なり」。実はこれには続きがある。「取桑蟲、則阜螽子呪而成子詩云、螟蛉有子螺臝負之是也。」(桑蟲(くはご)[やぶちゃん注:青虫。]を取り、則ち、螽子(いなご)阜(ふ)して[やぶちゃん注:岡に埋めて。]呪して、子を成す。「詩」に云ふ、「螟蛉 子 有り 螺臝(すがる) 之れを負ふ」は、是れなり。)で、最後のそれは「詩経」の「小雅」にある「小宛」(しょうえん)の第三章に出る一節であり、これよって、間違いなく、「細腰」がヂガバチを指していることを証明されるのである。「大腰」が如何なる生物なのか判らぬ。「龜・鼉」は広義のカメ類と鰐(ワニ)の類いとなれば、幻獣としての巨大ガメか巨大ワニか。因みに、この文の前には「兔舐毫望月而孕、口中吐子。舊有此說、餘目所未見也」とある。

「ジガ蜂」膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目アナバチ科ジガバチ亜科ジガバチ族 Ammophilini に属するジガバチ類で、世界では、ジガバチ属 Ammophila・エレモノフィラ属 Eremnophila・エレモカレス属 Eremochares・ホップラムモフィラ属 Hoplammophila・パラパサムモフィラ属 Parapsammophila・ポダロニア属 Podalonia の六属で約三百種を数える。「ファーブル昆虫記」でよく知られる通り、典型的な「狩り蜂」であり、総ての種が「狩り」を行う。当該ウィキによれば、『狩りは幼虫の食糧確保のために行なわれ』、『地面に穴を掘って巣(幼虫室と呼ぶ)を作った後、幼虫の食料にする獲物を捕らえて毒針で毒を注入する。獲物は全く動かなくなるが、これは神経を麻痺させてあるだけで、殺してはいない(死ぬと肉が腐って幼虫の餌とならなくなる)。その後、巣穴に獲物を運び入れ、卵を一つ(種によっては複数)産み付ける。雌は幼虫室を閉じて出ていき、二度と戻らない』。『幼虫は獲物の体の上で孵化し、獲物を殺して腐敗を起こすことのないよう、生命維持に影響を及ぼさない部位から順番に獲物を食べていく。獲物を食べ』尽くして、『巣穴と同じくらいの大きさまで成長すると、繭を作って蛹になり』、十『日ほどで羽化』し、『巣穴を出る』。『幼虫の食料として、ジガバチ属はアオムシを捕るが、これに対し』、同じアナバチ科 Sphecidae で似た形態や生態を持つものの、現行の分類学上はジガバチ亜科Ammophilinae ではないSceliphrinae 亜科 Sceliphrini Sceliphron 属はクモ類を狩るので(例えば、本邦に南関東以南で既に侵入外来種として確認されて確認されているアメリカ原産のアメリカジガバチ Sceliphron caementarium はオニグモの仲間を狩る)、南方熊楠の謂いは必ずしも誤っているとは言えない。『非社会性で』『群れは作らない』とある。なお、本邦産のジガバチ属 Ammophila は三種で、各地に初夏から晩秋まで普通に見られるのは、サトジガバAmmophila sabulosa nipponica・ヤマジガバチAmmophila infest 及び、大型の本州以南に分布する南方系の種で脚が黄赤色を呈し、翅も褐色を帯びる美しいが、分布が限られる、フジジガバチ Ammophila atripes japonica が、また、ホップランモフィラ属 Hoplammophila の山地性種である、ミカドジガバチHoplammophila aemulans の棲息が知られている。ジガバチの和名は「似我蜂」で、これは巣穴の掘削時と閉塞時に、胸部の飛翔筋の振動を頭部に伝えて、それで土壌を砕いたり、突き固めるが、その際に発生する音に由来し、虫を捕まえて穴に埋めた後、それに向かって「似我、似我」(我に似よ、我に似よ)と呪文しているのだ、という伝承に基づく。「ジガ、ジガ」と唱えたあと、埋めた虫が、後日、蜂の姿となって、地中より出現してきたように考えたことに由るものである。

「化書」南唐の譚峭撰の道教系の道学書。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで、明の陳継儒校訂で新井白蛾再校になる寶暦一〇(一七六〇)年刊本のここで当該部「道化巻第一」の「神交」が視認出来る(訓点附)。

「化書曰……」「化書(かしよ)」に曰く、『牝牡(ひんと)の道(だう)、龜と龜と相ひ顧みれば、神、交(まじは)ればなり』と。龜は蛇と合すと雖も、亦、以て、神交する者有り。」。

「時珍曰……」「時珍曰はく、『龜の雌雄は尾にて交はり、亦、蛇と匹(むつ)む。或いは、「大腰に雄無し」と云ふは謬(あやま)りなり。』」。

「龜のドイツ名 Schildkrote」シルト・クレーテ。女性名詞。カメ。スッポン。「Schild」は「被甲」=「楯」、「Krote」は「蟾蜍」=「ヒキガエル」の意(「厚かましい小娘」の意もある。

「龜長於蛇」「龜は蛇より長し」。荘子の友人で詭弁的命題の達人であった恵子(けいし)のそれの一つ。但し、このパラドクスは荘子の思想の根本概念の方便の一つでもある。

「今人以妻外淫者……」「今人(きんじん)、妻の外淫する者を以つて、其の夫を目(もく)して烏龜(うき)と爲す。蓋し、龜は交はる能はざれば、而して、牝なる者、蛇と交はるを縱(ゆる)すなり。」。「烏龜」は現代では臭亀(カメ目潜頸亜目リクガメ上科イシガメ科イシガメ属 Mauremys reevesii )さす。

「アポロが龜となり蛇と化して王女ドルオペを犯す譚あり」にゃべ氏のサイト「10ちゃんねる (* ̄ー ̄)y-~~~~」の「アポロンの恋人(ギリシャ神話54)」の「ドリュオペ」によれば、『彼女が山の中で父の家畜の番をしていたが、山の妖精たちと仲良くなり』、『一緒に遊んでいた時』、『それを見て、アポロンが彼女たちの中に亀の姿で近づく。彼女たちが、それをボールのようにして遊んでいたときに、ドリュオペの膝の上に乗った。その時、アポロンは本性を現して、蛇の姿となって』、『彼女の膝を割って入り』、『犯してしまったという。これは完全にレイプである』。『ただし、彼女にはまた「神ヘルメス」と交わって「牧神パン」の母となったという言い伝えもある』とあった。

「攝龜」(せつき)「鴦龜」(わうき)「本草綱目」の「攝龜」は巻四十五の「介之一 龜鱉類」の以下(そこに異名として「鴦龜」も載る)。

   *

攝龜【「蜀本草」。】

釋名 呷蛇龜【「日華」作夾蛇。】陵龜【郭璞。】鴦龜【陶弘景。】蠳龜【「抱朴子」。】恭曰、「鴦龜腹折見蛇、則呷而食之。故楚人呼呷蛇龜。江東呼陵龜。居丘陵也。」。時珍曰、「既以呷蛇得名、則攝亦蛇音之轉而、『蠳』亦『鴦』音之轉也。」。

集解 弘景曰、「鴦小龜也。處處有之、狹小而長尾。用卜吉凶、正與龜相反。」。保昇曰、「攝龜腹小中心橫折、能自開闔。好食蛇也。」。

肉 氣味 甘寒、有毒。詵曰、「此物噉蛇肉、不可食。殻亦不堪用。」。

主治 生研塗撲損筋脉傷【士良。】生搗罯蛇傷。以其食蛇也。【陶弘景。】

尾 主治 佩之辟蛇。蛇咬則刮末傅之。便愈。【「抱朴子」。】

甲 主治 人咬瘡潰爛燒灰傅之。【時珍、出「摘玄」。】

   *

攝龜【「蜀本草」。】

釋名 呷蛇龜(かふだき)【「日華」は「夾蛇」に作る。】陵龜【郭璞(かくはく)。】鴦龜【陶弘景。】蠳龜(やうだ)【「抱朴子」。】恭曰く、「鴦龜は、腹、折りて蛇を見るときは、則ち、呷(かふ)して[やぶちゃん注:「コウ!」と啼いて。]之れを食ふ。故、楚人(そひと)、「呷蛇龜」と呼ぶ。江東、「陵龜」と呼ぶ。丘陵に居すればなり。」と。時珍曰く、「既に『呷蛇』を以つて名を得れば、則ち、攝は亦、「蛇」の音の轉にして、『蠳』は亦、『鴦』の音の轉なり。」と。

集解 弘景曰く、「鴦は小龜なり。處處(しよしよ)に、之れ、有り。狹小にして、長き尾。用ひて吉凶を卜(うらな)ふ。正に龜と相ひ反す。」と。保昇曰く、「攝龜、腹、小にして、中心、橫折(わうせつ)し、能く自(みづか)ら開闔(かいかふ)す。蛇を好みて食ふなり。」と。

肉 氣味 甘、寒。毒、有り。詵(せん)曰く、「此の物、蛇肉を噉(くら)ふ。食ふべからず。殻も亦、用ふるに堪へず。」と。

主治 生(なま)にて研(けず)りて、撲損・筋脉傷に塗る【士良。】。生にて搗(つ)きて蛇傷を罯(おほ)ふ。其れ、蛇を食ふを以つてなり。【陶弘景。】

 主治 之れを佩(お)ぶれば、蛇を辟(さ)く。蛇、咬めば、則ち、刮(けず)り、末(まつ)にして、之れを傅(つ)く。便(すなは)ち愈ゆ。【「抱朴子」。】

甲 主治 人の咬み瘡(きず)・潰爛には、燒き灰にして、之れを傅之く。【時珍、「摘玄」に出づ。】

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「開闔」は「開閉」、「罯」は「覆う」の意。「狹小にして、長き尾。用ひて吉凶を卜(うらな)ふ。正に龜と相ひ反す」というのは、前者の形態が通常の亀とは反対であることを言っているのであろう。私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類」の「こかめ 攝龜」も参照されたい。「本草綱目」の引用部は以下。

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「本綱」に、『攝龜、小龜なり。處處の丘陵に居る。狹小にして、長き尾、腹、小さく、中心、橫に折れて、能く自ら開闔す。蛇を見るときは、則ち、呷(かふ)して之れを食ふ。故に、此の肉、食ふべからず【甲は亦、用ふるに堪へず。】。

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私はそこで、同定候補の一例と思われるものを挙げて、イシガメ科マルガメ属Cyclemysの仲間、又は同属のノコヘリマルガメCyclemys dentata としつつも『但し、この種が腹甲を開閉できるタイプであるかどうかは確認していない』としている。十四年前の私の古い電子注で、「あの忙しかった頃にこんなに真面目に考証をしていたのか」とびっくりした。

「クーター(箱龜)」カメ目潜頸亜目リクガメ上科ヌマガメ科ヌマガメ亜科アメリカハコガメ属カロリナハコガメ errapene carolina のこと。アメリカハコガメ属中の最大種で最大甲長は二十一・六センチメートル。背甲はドーム状に盛り上がる。「ハコガメ」(箱亀)の名の通り、頭部と四肢を甲羅に引き入れた後、腹甲を折り曲げ、箱の様に完全に蓋をすることが出来る。但し、分類学上、注意しなくてはいけないのは、これは真正のリクガメ上科イシガメ科ハコガメ(箱亀)属 Cuora とは縁も所縁もない全くの別種であることである。そもそもが真正のハコガメ属は新大陸には全く棲息しない。というか、インド北東部・バングラデシュ・ミャンマー・カンボジア・タイ・ラオス・ベトナム・インドネシア・シンガポール・ブルネイ・フィリピン・中国南部・台湾・日本(石垣島・西表島)にのみ分布する。以下の熊楠の疑問は正しい。恐らくは「ブーランゼー氏」の言うような気まぐれの移入繁殖なんぞではなく、分類学上、縁が甚だ遠い以上、平行進化の結果と考えるのが妥当である。熊楠が後で言っているのもそれである。

「ブーランゼー氏」「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(20:蟾蜍)」にも出るが、イギリスの動物学者を調べてみたが、不詳。両生類・爬虫類に詳しい人物のようではある。

「コロンブスの新世界發見」クリストファー・コロンブス(イタリア語:Cristoforo Colombo/英語:Christopher Columbus 一四五一年頃~一五〇六年:イタリアのジェノヴァ出身とされる、元は奴隷商人。大航海時代に於いてキリスト教世界の白人としては最初にアメリカ海域へ到達したとされていた。彼の実績により彼の子孫はスペイン貴族に列せられた)がバハマのサン・サルバドル島に上陸した一四九二年十月十二日を「コロンブスによるアメリカ大陸の発見と」呼ぶ(但し、コロンブスは自身が上陸した場所はインドであると誤認しており、新大陸を発見したという認識は全くなかったのでこの謂いは甚だ正しくない。事実上、アメリカ大陸が新大陸であるという事実を発見したのはイタリアの地理学者・天文学者であったアメリゴ・ヴェスプッチ(Amerigo Vespucci 一四五四年~一五一二年)で、彼は一四九七年から一五〇二年まで三度に亙ってスペイン・ポルトガルの船に同乗し、大西洋を横断し、一五〇三年頃、調査の結果をまとめた「新世界」(アメリゴがフィレンツェのメディチ家に報告した書簡体のもので、しかも、アメリゴ自身の原本は存在しない)の中で、大西洋を横断した先にあるのはインドでもアジアでもなく、全く異なる新大陸であることを指摘したのが正確な「アメリカ大陸」発見であった)。

「陶弘景」(四五六年~五三六年)明の李時珍の「本草綱目」に頻繁に引用される六朝時代の医師にして博物学者。道教茅山派の開祖でもあった。隠棲後は華陽隠居と称し、晩年には華陽真逸と名乗った。当該ウィキによれば、『眉目秀麗にして博学多才で詩や琴棋書画を嗜み、医薬・卜占・暦算・経学・地理学・博物学・文芸に精通した。山林に隠棲し』、『フィールド』・『ワークを中心に本草学を研究し』、『今日の漢方医学の骨子を築いた。また、書の名手としても知られ、後世の書家に影響を与えた』。『丹陽郡秣陵県(現在の江蘇省南京市江寧区)の人で、南朝の士大夫の出身。祖父の陶隆は王府参軍、父の陶貞宝は孝昌県令を務めた。幼少より極めて聡明で』、忽ちにして『書法を得、万巻の書を読破し』、十『歳のときに葛洪の』「神仙伝」に『感化され』、『道教に傾倒』、十五『歳にして』「尋山志」を』『著したという』二十『歳の頃、南斉の高帝に招聘され』、『左衛殿中将軍を任じられると』、『諸王の侍講(教育係)となり』、『武帝のときまで仕えた』、三十『歳の頃、陸修静の弟子である孫游岳に師事して道術を学び』、三十六で『職を辞し』、四九二年、『茅山(南京付近の山・当時は句曲山といった)に弟子ととも隠遁した』。「南史」には『陶弘景が致仕したとき皇帝の肝いりで盛大な送別会が催されたことが伝えられている』。四九九年には『三層の楼閣を建て、弟子の指導をするほか、天文・暦算・医薬・地理・博物など多様な研究に打ち込んだ。また仏教に深く傾倒し』た。『王朝が交替すると』、『梁の武帝は陶弘景の才知を頼り、元号の選定をはじめ』、『吉凶や軍事などの重大な国政に彼の意見を取り入れた。このため』、『武帝と頻繁に書簡を交わしたので「山中宰相」と人々に呼ばれるようになる。年を負う毎に名声が高まり』、『王侯・貴族らの多くの名士が門弟となった』かの「文選」の『編者として知られる昭明太子も教えを受けたひとりである』。『多岐に』亙る『著述を著し』、『その数』、四十四『冊に上った』。『陶弘景は前漢の頃に著された中国最古のバイブル的な薬学書』「神農本草経」を整理して五〇〇年頃に「本草経集注(ほんぞうきょうしっちゅう)」を『著した。この中で薬物の数を』七百三十『種類と従来の』二『倍とした。また』、『薬物の性質などをもとに新たな分類法を考案した。漢方医学における薬学の祖とも呼ばれ、いまなお』、『この分類法は使われている。唐代に蘇敬らが勅命により』「新修本草」を刊行しているが、これも実は「本草経集注」の内容を網羅的に継承して増補した内容のものであった。『道教の一派である上清派を継承し』、『茅山派を開いた。著書』「真誥」(しんこう:霊媒師楊羲に降りた真人が口授した教えを筆写したものを、弘景が後に編纂した上清派の経典)は『上清派の歴史や教義を記述した重要な文献となっている。仙道の聖地である茅山に入り、弟子とともに道館「華陽館」を建て』、『多くの門弟を育て』て、『優れた道士を輩出した』。書は、『王羲之や鍾繇』(しょうよう)『に師法し』、『淡雅な書風だった。陶弘景が書したとされる「瘞鶴銘」』(えいかくめい:「瘞鶴」とは「鶴を埋める」の意)『の碑文は後世に評価が高く』、『その革新的な書法に啓発された書家は数多い。とりわけ』、『北宋の黄庭堅は大きな影響を受け、独特のリズムを持つ革新的な書法を完成させた。また』、『梁武帝と書簡の中で書論を交わしているが、この書論は唐代になって張彦遠の』「法書要録」に収められ』て、『王羲之の書を最高位とする後世の評価を決定づけることになった』とある。

「九百數十年前」寧ろ、一千年前と言ってよかった。

「韓保昇」五代の後蜀(九三四年~九六五年)の学者(翰林學士)で本草家。「蜀本草」の著者(全二十巻であったが、原本は散佚した)。

「ユリノ木」モクレン目モクレン科ユリノキ亜科ユリノキ属ユリノキ Liriodendron tulipifera当該ウィキによれば、標準和名の意味は「百合の木」であるが、種小名 tulipifera は「チューリップ(のような花)をつける」の意であり、別名に「ハンテンボク」(半纏木:葉の形が半纏に似ることから)・「レンゲボク(蓮華木:花が蓮の花を思わせることから)・チューリップツリー(同じく花がチューリップを思わせることから。種小名と同じ発想)などとも呼ぶ。そこでは『北アメリカ中部原産』とするものの、二『種のみが知られ、北アメリカと中国に隔離分布する』とあり、シナユリノキ Liriodendron chinense は、『中国の長江以南やベトナムに自生する。花はユリノキより小さめで緑色。千葉県内などで栽培例がある。近年ではユリノキとの交配種も栽培される』とあった。

「西半球に限ると惟われたる箱龜が支那にも產すればとて怪しむに足らず」既に述べた通り、同じハコガメを和名の一部に持ち、その形態はよく似ているが、全くの縁の遠い別種である。

「說苑」「ぜいえん」(現代仮名遣)と読む。前漢の劉向(りゅうきょう)の撰、乃至は編になる故事・説話集。「漢書」の「楚元王伝」の中の「劉向伝」によれば、上古から漢代に至るまでの多くの書物から天子を戒めるに足る逸話を採録し、時の成帝を諫めるべく上奏されたものとある。

「龜が蛇を殺し食う例は少なからじ」カメには雑食性の種も多くあり、そうした中・大型のカメがヘビを食うことはあり得ないことではない。但し、それが「少なくない」と言えるかどうかは疑問である。寧ろ、大型のヘビが小さなカメや子ガメを丸呑みするケースの方が遙かに多いはずである。

「尙書大傳」(しょうしょたいでん:現代仮名遣)原本は漢の伏勝の撰になる「書経」お注釈書。

「冬中也……」「冬は中(うち)なり。物、方(まさ)に中に藏(をさ)む。故に曰く、北方は冬なり。陽、盛んなれば、萬物を吁舒(くじよ)して、これを外に養ふ。陰、盛んなれば、萬物を呼吸して、これを内に藏(をさ)む。故に曰く、『呼吸は陰陽の交接にして、萬物の始終なり』と。」「吁舒」は生命や存在を驚くべく永く保つことか。

「男女根」男女の生殖器。

「Elsdon Best」ニュージーランド生まれ。ニュージーランドのマオリの研究に重要な貢献をした民族学者エルズドン・ベスト(一八五六年~一九三一年)。

「“Maori Beliefs concerning the Human Organs of Generation,” Man,vol.xiv,no.8,pp.132-133,1914」「人間の生殖器官に関するマオリの信仰」。「ええっ!」とびっくりしたが、英文サイト「zenodo」の「66. Maori Beliefs Concerning the Human Organs of Generation」とあるこちらから当該部分がバッチり(!)ターゲットでPDFでダウン・ロードできるッツ!!

「印度人はシヴァ神を幸福尊者と稱す。死は生を新たに始め破壞者實に再創者たれば也(エンサイクロペヂア、ブリタンニカ、十一板、廿五卷一六二頁)」例によって‘Internet archive’のこちらで原本当該部が見られる。]

 

 因みに言ふ、世間に舌を出すを、猥褻の意に取る人多きも、西蔵人[やぶちゃん注:チベットじん。]などは然らず、舌を出すを敬禮の作法とす(Sven Hedin, ‘Trans-Himalaya,’ vol. i, p.lxvcix, 1909)。是れ本と親愛を表するに起り、親愛の極は男女歡會の際に存するは言ふを俟たず。扨古今東西蛇を陰相となす例到る處に多し(Westropp and Wake, ‘Ancient Symbol Worship,’ 2nd ed., New York, 1875, passim)。觀佛三昧海經卷八に佛告阿難、我昔初成道時、伽耶城邊、住煕連河側、時有五尼犍、共領七百五十弟子、自稱得道、來至我所、以自身根、燒身七匝云々、卽作此語、我無欲故、身根如此、如自在天云々、時世尊告諸尼犍、汝等不知如來身分云々、今當爲汝少現身分、爾時世尊自空而下、卽於地上、化作四水、如四大海、四海之中、有須彌山、佛在山下、正身仰臥、放金色光云々、徐出馬藏、遶山匝、如金蓮花、花々相次、上至梵世。尼犍[やぶちゃん注:「にけん」。]が其根を以て自身を七匝[やぶちゃん注:「さふ」。現代仮名遣「そう」。仏語に「右繞三匝」(うにょうさんそう)があり、これは右回りに対象物の周囲を三度繞(めぐ)って対象者への敬意を表わす礼法があるが、ここは自身を崇するために自分の男根をにょっきりと伸ばして自身の身に七度もうねうねと繞らせたのである。]せしに、佛は其根を伸して須彌大山を七匝し、更に寶蓮花を現して之を蔽ふを見て、尼犍輩降伏出家せりと云ふ(蓮花を女根の標識とする事 Westropp and Wake に見ゆ)。この七匝の一件は、もと根を蛇に擬したる事疑ひ無し。蛇を婬事の標識とする理由は多々有るべきも、其舌を出して頻りに歡を求むるの狀有るも、亦其一大理由なるべし。知れ切た事の樣乍ら、東西の學者此說を出だせる有るを聞かず。由て爰に記して、其參考に供す。又因みに言ふ、交會の際口を接する動物は、蛇に限らず。類函四二三に、俗云、鴛交頸而感、烏傳涎而孕[やぶちゃん注:「俗に云ふ、『鴛(ゑん/をしどり)は頸を交へて感じ、烏(からす)は涎(よだれ)を傳へて孕む』と」。]。プリニウスの博物志にも、世に鴉は嘴をもつて交はる故に、其卵を食ふ婦人は口より產すと傳ふ。アリストテレス之を駁して、鴉も鳩も同樣雌雄好愛して口を接するを誤認せる也と言へりと載す。(紀州東牟婁郡請川村邊で孕婦鳩の巢を見れば難產す、鳩は口より子を產む故といふも、雌雄の鳩屢ば接口するより謬り來れる也)烏が相愛して口を接するは予も見たり。又予の宅に今も四十疋許り龜を飼るが、情欲發する時、雌雄見て啄き合ふ。其交會は泥水中でするらしく、唯一度陸上で會ふを見し事有るのみ。上に引る化書に牝牡之道龜龜[やぶちゃん注:前と同じ処理をした。]相顧神交と有るも尤もなる處有り。古え[やぶちゃん注:ママ。]支那人、烏が口を接するを見るの多きより嗚[やぶちゃん注:「を」。]の字を以てキツスを表す。康煕字典嗚の字に此義有るを言ず。思ふに佛經に此事多きより譯經者が用ひ始めたる者か。例せば根本說一切有部毘奈耶に鄔陀夷、覩彼童女、顏容姿媚、遂起染心、卽摩觸彼身、嗚唼其口、四分律藏に時有比丘尼、在白衣家内住、見他夫主、共婦嗚口、捫摸身體、捉捺乳、佛說目連問戒律中五百輕重事經下に聚落中、三歲の小兒抱嗚口、犯何事、答犯墮、外典にも賈充妻郭氏酷妒、有男兒名黎民、生載周、充自外還、乳母抱兒在中庭、兒見充喜踊、充就乳母手中嗚之、郭遙望見、謂充愛乳母、卽殺之、兒悲思啼泣、不飮他乳遂死、郭後終無子(世說惑溺篇)。是れ晉朝既に小兒や婦女を愛して之に接口する風有りし也。又說郛三一所收玄池說林に云く、狐之相媚必先吕。注に、以口相接、是れは吾邦の笑本に「跡は無言で口と口」[やぶちゃん注:底本「口と口」は三字分「✕」で伏字。「選集」を参考に復元した以下同じ。]抔と有る口と口を合せ作れる者、康煕字典に見へねど[やぶちゃん注:ママ。]、その音クと記臆す。斯る簡單なる字有るに氣付かず、接吻抔六かしく譯せしは遺憾也。明治十九年赤峰瀨一郞氏が桑港の景物を誇張して吹聽せし世界之大不思議とか云る書に、歐米人のキッス[やぶちゃん注:三字伏字。]は唇を專らとし日本人のは舌を主とすと有りし樣[やぶちゃん注:「やう」。]覺ゆるが、ルキアノスの妓女對話に、妓女レエナ富家の婦人メギラと對食の次第を述る内、希臘には男女親暱[やぶちゃん注:「しんじつ」。「親昵」とも書く。「昵懇」に同じい。]の際に限り日本流に嗚口[やぶちゃん注:「をこう」。]せしを徵すべき句有り。調査せば猶多々例有るべし。アラビア人波斯[やぶちゃん注:ペルシア。]人等亦然りしは千一夜譚の處々に散見す。印度にはカマ經[やぶちゃん注:「カーマ・スートラ」のこと。]に嗚す[やぶちゃん注:「をす」。]べき箇所八を擧ぐ。其第七は其唇[やぶちゃん注:二字伏字。]、第八は口内[やぶちゃん注:二字伏字。]とあれば、所謂歐米日本の兩流を兼行ふ也(‘Le Kama Soutra,’ tran. E. Lamairesse, Paris, 1891, p. 41)。最後に述ぶ、歐米人の書に、日本人本來キツスを知ずと云事屢ば見るが、是程大きな間違ひは有るまじ。其古く文章に見える一二を擧げんに德川幕府の初世に成る醒睡笑に、「兒[やぶちゃん注:「ちご」。]と寢[やぶちゃん注:「いね」。]たるに、法師口を吸ふ[やぶちゃん注:四字伏字。]迚如何有りけん、齒を一つ吸拔きたり」。足利氏の時編まれたる犬筑波集戀部に「首をのべたる曙の空」「きぬぎぬに大若衆と口吸[やぶちゃん注:二字伏字。「くちすひ」。]て」。御伽草子は當時兒女の普く玩讀せし物なるに、其中の物草太郞、妻と爲すべき女を辻取りせんと淸水の大門に立つに十七八歲の美女來る。太郞見て爰にこそ吾北の方は出來ぬれ、天晴疾く近づけかし、抱き付ん、口をも吸[やぶちゃん注:四字伏字。「すは」]ばやと思ひて待居たり。女太郞に捉へられて、「離せかし網の糸目の繁ければ、此手を離れ物語せん」太郞返歌に「何かこの、あみの糸目は繁くとも、口を吸[やぶちゃん注:三字伏字。「すは」。]せよ手をば釋さん[やぶちゃん注:「ゆるさん」。]」とあり。以て當時、情人と別るゝに嗚し、戲れに强て嗚するの風、今日の歐米同然本邦にも行れしを知るべし。鎌倉霸府[やぶちゃん注:初出も「選集」もママ。]の代に成りし東北院職人歌合に巫女「君と我、口を寄せてぞねまほしき、鼓も腹も打ち敲きつつ」。其より前、平安朝の書、今昔物語一九に、大江定基愛する所の美婦死せる其屍を葬らず、抱き臥して日を經る内口を吸けるに、女の口より惡臭出しに發起して遂に出家せりとあり。

  (大正八年八月人類、三四卷)

[やぶちゃん注:「Sven Hedin, ‘Trans-Himalaya,’ vol. i, p.lxvcix, 1909」中央アジア探検で知られたスウェーデンの地理学者スヴェン・アンデシュ・ヘディン(Sven Anders Hedin 一八六五年~一九五二年)の一九〇九年刊の「トランス・ヒマラヤ――チベットでの発見と冒険」(Trans-Himalaya :Discoveries and Adventures in Tibet)。書名は、彼が、発見したヒマラヤ山脈の北にあってこれと平行し、カラコルム山脈に連なる山脈の名。「lxvcix」は「選集」の表記で、底本は「p.i. xvcix」であるが、前者はローマ数字としておかしく、後者の後半は「99」相当であるが、「Internet archive」で二〇一〇年版他を見てもよく判らない。但し、同版の「182」ページ六行目に礼儀としての舌を出すお辞儀が登場している。「カワイ肝油ドロップ」のサイト内の山崎怜奈氏の「よみきかせ」の「世界の挨拶の秘密」の冒頭の「チベットに行ったら、舌をぺろっと出して挨拶をしよう!」に(引用に際し、文中の「?」「!」の後に字空けを施した)、『チベットに行くと、子どもも大人も関係なく、みんな舌をぺろっと出して挨拶をします。日本人の常識からすると「からかわれるのかしら…」なんて思ってしまいますよね? ですが、チベットで舌を出すのはその反対の意味! 舌を出すのは、相手への敬いの気持ちを表しているんです。また、チベットには古くからの言い伝えで、悪魔には角があり、舌が黒いと言われています。なので、自分が悪魔でない証明として、帽子をとって角がないこと、そして、舌を出して舌が黒くないことを相手に見せるようになったと言われています。日本人の常識からする真逆なんですね~。チベット旅行の際は、舌をぺろっと出して挨拶しましょう!』とあった。しかし、少なくとも、この内容は熊楠が言うような男女の性的なそれが由来ではない(起源の考証はしないが、この引用の方が私は腑に落ちる)。

「Westropp and Wake, ‘Ancient Symbol Worship,’ 2nd ed., New York, 1875, passim」アイルランドの考古学者ホッダー・ミッチェル・ウェストロップ(Hodder Michael Westropp 一八二〇年~一八八四年)とアメリカのジャーナリストであったアレクサンダー・ワイルダーAlexander Wilder 一八二三年~一九〇八年)及び熊楠は記していないが、民俗学者(或いは人類学者)チャールス・スタニランド(Charles Staniland Wake 一八三五年~一九一〇年)の共著になる「古代の象徴崇拝」。‘Internet archive’のこちらで原本が読める。末尾の「passim」(パッシム)はラテン語で「散らされた」の意で、副詞で「引用書物の諸所に」の意。

「觀佛三昧海經」全十巻。「觀佛三昧經」とも呼ぶ。サンスクリット語やチベット語訳はなく、仏駄跋陀羅(ぶっだばっだら)による漢訳のみが現存する。仏涅槃後の衆生のために釈尊の色身(しきしん)の観想、大慈悲に満ちた仏心と仏の生涯の諸場面への念想、仏像の観察、さらに過去七仏・十方仏の念仏等を説く。観仏三昧によって釈尊を中心とした諸仏との見仏を実現しようとするもの。その「観仏」の背景には「般若経」や「華厳経」の思想、唯心や如来蔵の思想が窺われる(「新纂浄土宗大辞典」のこちらに拠った)。

「佛告阿難……」「佛(ほとけ)、阿難に告ぐ。我、昔、初めて成道(じやうだう)せし時、伽耶城(がやじやう)の邊(あた)り、煕連河(きれんが)の側(ほとり)に住む。時に五(いつ)たりの尼犍(にけん)有り。共に七百五十の弟子を領ず。自(みづか)ら『道を得たり』と稱し、來たりて我が所に至り、自身の根(こん)[やぶちゃん注:男根。]を以つて、身(み)を七匝(ひちさう)繞(ねう)すと云々」、「卽ち、此の語を作(な)す。『我、欲、無きが故に、身根、此(か)くのごとく、自在なること、天のごとし』と云々」、「時に世尊、諸尼犍に告げて、『汝等(なんぢら)は如來の身(しん)の分(ぶん)を知らず』と云々」、「『今、當(まさ)に汝が爲めに、少しく身の分を現はすべし』と。爾(そ)の時、世尊、空より下(くだ)り、卽ち、地上に於いて化(け)して四水(しすい)となるに、四大海(しだいかい)のごとく、四海の中(うち)に須彌山(しゆみせん)有り、佛は山下に在りて、身を正しうして仰臥し、金色(きんじき)の光りを放つと云々」、「徐(おもむ)ろに馬藏(めざう)[やぶちゃん注:仏・菩薩の体内に貫入して渦を巻いている内蔵された男根のことと思われる。]を出だして、山を遶(めぐ)ること七匝、金蓮花のごとく、花々は相ひ次(つ)いで、上(のぼ)りて、梵世(ぼんせ)に至る」。訓読にかなり苦しんだが、概ねこれで間違ってはいないと思う。以下に語注する。

・「伽耶城」インドのマカダ国の都城。現在、インド北東部ビハール州の州都パトナの南約百キロメートルのところにあるガヤー県(グーグル・マップ・データ。以下同じ)の県都ガヤーに相当する。

・「煕連河」釈迦が涅槃の前に最後の沐浴をしたとされるヒラニヤヴァティ河。跋提河(ばつだいが)とも呼ぶ。クシナガラの東一キロメートルほどの位置と多くの記載があるのだが、判らない。この中央附近に仏教寺院が集中しているのでこの辺りか。しかし川は見当たらない。

・「尼犍」ゴータマ・ブッダ在世当時に活躍していた六人の代表的なインドの自由思想家たちを「六師外道」(ろくしげどう)と呼び、道徳否定論を説いたプーラナ・カッサパ、七種の要素を以って人間の個体の成立を説いたパクダ・カッチャーヤナ、輪廻の生存は無因無縁であるとして決定論を説いたマッカリ・ゴーサーラ、唯物論を主張したアジタ・ケーサカンバラ、可知論を唱えたサンジャヤ・ベーラッティプッタ、ジャイナ教の祖師であるニガンタ・ナータプッタ(マハーヴィーラ)がいるが、この最後の人物(或いはその信者集団)がここに出る人物のように見える。ウィキの「六師外道」によれば、『マハーヴィーラ』は『ニガンタ・ナータプッタ』とも称し、漢訳で『尼乾陀若提子』、本名はヴァルダマーナで、『ジャイナ教の開祖』であり、『相対主義、苦行主義、要素実在説』をとった人物とあり、『サンジャヤの懐疑論が実践の役に立たないことを反省し、知識の問題に関しては相対主義(不定主義)の立場を取り、一方的な判断を排した』。『宇宙は世界と非世界からなり、世界は霊魂(ジーヴァ)・物質(プドガラ)・運動の条件(ダルマ)・静止の条件(アダルマ)・虚空(アーカーシャ)の五実体または時間(カーラ)を加えた六実体からなると』し、『宇宙はこれらの実体から構成され、太古よりあるとして、創造神は想定しない』とする。『霊魂は永遠不滅の実体であり、行為の主体として行為の果報を受けるため、家を離れて乞食・苦行の生活を行って』、業(ごう)の『汚れを離れ、本来の霊魂が持つ上昇性を取り戻し、世界を脱して』、『その頂上にある非世界を目指し、生きながら涅槃に達することを目指す』。『全ての邪悪を避け、浄化し、祝福せよ』という立場をとったらしい。彼の詳しい当該ウィキもある。参照されたい。

「プリニウスの博物志」古代ローマの博物学者・政治家(ローマ帝国の属州総督)・軍人。であったガイウス・プリニウス・セクンドゥス(Gaius Plinius Secundus 二三年~七九年:ヴェスヴィオ火山の大噴火の観測と被災者の救助の目的で近くの町に向かい、そこで罹災して亡くなった。文人で政治家の養子の男子と区別するために子の方を「小プリニウス」、父(養父)の彼を「大プリニウス」と称することが通行している)が著した博物学大全(Naturalis Historia)。全三十七巻。地理学・天文学・動植物学・鉱物学など、あらゆる学問分野についての知識に関して記述している。数多くの先行書を参照しており、必ずしも本人が見聞・検証した事柄だけではなく、怪獣・巨人・狼人間などの非科学的な内容も多く含まれているが、非常に面白い。古くから知られていたが、特にルネサンス期の十五世紀に活版印刷で刊行されて以来、ヨーロッパの知識人たちに愛読・引用されてきた博物学の古典である。科学史・技術史上の貴重な記述を含むほか、芸術作品についての記述は古代ローマ芸術についての資料として美術史上でも珍重された。また、後代の幻想文学にも大きな影響を与えた。私は雄山閣の全三巻の全訳版(中野定雄他訳・第三版・平成元(一九八九)年刊)を所持している程度にはファンである。ここで熊楠が言っているのは、第十巻「一五」の「33」のワタリガラス(スズメ目カラス科カラス属ワタリガラス Corvus corax :ユーラシア大陸全域と北米大陸に分布し、本邦では北海道で冬の渡り鳥として例年観察される)。の記載の一節である。上記の訳本からその「33」の総て引く(久しぶりに役に立った。四万六千円強もしたのだから、これくらいの引用はしたいもんだ。「注」は訳注である)。

   《引用開始》

 ワタリガラスは一腹でせいぜい五つの卵しか生まない。彼らは嘴で生み、あるいは交尾する(したがって懐妊している婦人がその卵を食べると口から分娩する。そしてとにかくそれを異に持ち込むと難産する)と一般に信じられている。しかしアリストテレスは、エジプトのトキについてと同様、ワタリガラスについてもそんなことは嘘だ、だが問題の接嘴[やぶちゃん注:「せつし」。](よく見かけることだが)は、ハトがよくやるように、接吻の一種だ、と言っている。ワタリガラスは自分たちが前兆で伝えることの意味を知っている唯一の鳥であるように思える。というのは、メドゥスの客が殺されたとき、ペロポンネソスとアッティカにいたワタリガラスはみんな飛び去ったから。彼らが喉がつまったかのように声を呑み込むような鳴き方をするときは、それはとくに凶兆だ。

 注1 メドゥスはメディアの息子、メディア人にその名を与えたとされる。

   《引用終了》

さて、アリストテレスの反駁であるが、岩波の「アリストテレス全集」の動物学パートの三巻分は所持している。調べてみたところ、見つけた。これは「動物発生学」(一九六九年刊の「アリストテレス全集」第九巻所収。島崎三郎訳)の第六章の冒頭部の一節である。〔 〕は訳者による補足である(これも電子化注で役立ったのは久しぶり!)。

   《引用開始》

 鳥類の発生についても事態は同様である。すなわち、「オオガラスとイビスは口で交わり、四足類のイタチ口で子を産む」という人々があるからである。これらは、現にアナクサゴラスやその他の自然学者たちのうちの或る人々も述べているところであるが、あまりに単純で軽率な説である。鳥類について見ると、人々が推理〔三段論法〕によって誤った結論に達してしまうのは〔次の点が根拠になっている〕。すなわち、オオガラスの交尾はめったに見られないが、互いに嘴で交わることはしばしば見られ、これはカラスの類の鳥ならみなすることであって、飼い馴らされたコクマルガラスを見ればよく分かる。これと同じことをハトの類もするが、彼らは明らかに交尾もするので、そのためにこんな話は起こりようがなかったのである。カラスの類は少産の〔卵を少ししか産まぬ〕動物に属するから、好色ではないが、彼らも交尾するところをすでに観察されている。しかし、精液がいかにして栄養分と同じように、何でも入ってくるものを調理する胃を通って子宮に達するのか、ということを人々が推論してみないのはおかしい。しかも、これらの鳥類にも子宮があるし、卵〔巣〕は下帯〔横隔膜〕のそばに見られるのである。また、イタチにも、他の四足類と同じ様式の子宮がある。とすると、この子宮から口までどうやって胎児は進むのであろうか。しかし、イタチがその他の裂足類[やぶちゃん注:中略。]と同様に、まるで小さい子を産み、しばしばその子を口にくわえて運ぶということが、こんな見解を作り出した所以なのである。

   《引用終了》

ここに出る「オオガラス」については、訳注があり、『日本ではワタリガラス Corvus corax 』(斜体でないのはママ。以下も同じ)とあるので問題ない。さらに、「イビス」については、『「動物誌」第九巻第二十七章』『によると、エジプト産の鳥で、白いのと黒いのがあり、白いのはIbis religiosa, 黒いのはI. falcinellus(=igneus)とされる。いずれも日本のトキに近い鳥である』とある。「コクマルガラス」は、Corvus monedula とされる。これはカラス属ニシコクマルガラスで、分布は北アフリカからヨーロッパのほぼ全域・イラン・北西インド及びシベリアと広範囲に及ぶものの、本邦ではたった二例が北海道で記録されただけの迷鳥である。

「紀州東牟婁郡請川村」底本の初出も「淸川」であるが、そのような名の地名は牟婁郡にはなく、「選集」の「請川」で調べると、牟婁郡にあったので、それを採った。位置は「Geoshapeリポジトリ」の「歴史的行政区域データセットβ版」 にある「和歌山県東牟婁郡請川村」(うけがわむら)で旧村域が確認出来る(現在は田辺市。熊野本宮大社の南方直近。懐かしいな)。

「支那人、烏が口を接するを見るの多きより嗚の字を以てキツスを表す」大修館書店の「廣漢和辭典」には「接吻」の意は載らない。所持する「岩波中国語辞典」にも、ない。ネットの中日辞書にも、そんな用法は載っていない。ところが、中文サイト内の殷登國氏の「打開中國接吻史:嗚、嗚、做了個呂字,指的是同一件事?」という文章にキスとしての「嗚」の字の用法が載り、しかも、熊楠が引いている漢籍や仏典と同じものも掲げられてあった! 而して熊楠が示した文言小説集「世説新語」での用法によって、魏晋南北朝(一八四年~五八九年)の南朝宋(四二〇年~四七九年)の時代には一般的に使用されていたことは確実で、もっと古い時代に既に俗語としては盛んに使用されいた可能性がすこぶる高い感じがする。

「根本說一切有部毘奈耶」「こんぽんせついっさいうぶびなや」(現代仮名遣)と読む仏教経典。全五十巻。唐の七〇三年(初唐末期)に義浄によって漢訳された。部派仏教上座部系の根本説一切有部で伝えた律蔵で、比丘戒二百四十九条に、教訓物語を挿入した大部なもの。

「鄔陀夷……」「鄔陀夷(うだい)、彼(か)の童女の顔容姿(がんやうし)の媚(こび)を覩(み)て、遂に染心(ぜんしん)[やぶちゃん注:煩悩に穢れた心。ここは性欲。]を起こし、卽ち、彼(か)の身(み)を摩觸(ましよく)し[やぶちゃん注:撫で触り。]、その口を嗚唼(をしやう)す」。「鄔陀夷」不詳。釈迦の弟子の一人で「勧導第一」と称された人物がいるが、この話では、ちょっと違うように思われる。当該ウィキによれば、『仏典には』この「鄔陀夷」『ウダーイの名前が非常に多く登場し、似た名前もあるので混同しやすい』として、別な三名を挙げてある。「唼」には「すする・ついばむ」の意がある。

「四分律藏」仏教の上座部の一派である法蔵部(曇無徳部)に伝承されてきた律(戒律)。十誦律・五分律・摩訶僧祇律とともに「四大広律」と呼ばれる。この四分律は、これら中国及び日本に伝来した諸律の中では、最も影響力を持ったものであり、中国・日本で律宗の名で総称される律研究の宗派は、殆んどが、この四分律に依拠している。

「時有比丘尼……」「時に比丘尼有り。白衣(びやくえ)の家内に住みて在り。他(そと)に夫主(あるじ)を見るに、婦(をんな)と共に口を嗚(を)し、身體(からだ)を捫摸(もんばく)し[やぶちゃん注:撫でさすり。]、乳(ち)を捉(つか)み捺(お)す」。

「佛說目連問戒律中五百輕重事經」単に「五百問」と通称される。戒律関連の仏典の一つ。

「聚落中……」「聚落(じゆらく)の中(うち)にて、三歳の小兒を抱きて、口を嗚(を)す。『何ごとを犯せるか。』と。答へて、『堕を犯せり』と。」

「外典」「げてん」。古くは「げでん」。世間に行なわれる仏教以外の典籍を指す。

「賈充妻郭氏酷妒……」最後に「世說惑溺篇」とある通り、この「世說」は「世說新語」(せせつしんご)の本来の書名。南北朝時代の南朝宋の臨川王劉義慶が編纂した、後漢末から東晋までの著名人の逸話を集めた文言小説集。「宋史」(一三四五年完成)の「芸文志」に所収される際に「世説新語」の称が現れた。「世説新書」とも呼ばれる。私が好きな小説集の一つである。引用は「惑溺篇」の初めの方に載る。訓読する。

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 賈充(かじゆう)[やぶちゃん注:賈充(二一七年~二八二年)は三国時代の魏から西晋にかけての武将・政治家。字は公閭(こうりょ)。妻に李婉・郭槐(宜城君)、子に賈黎民(れいみん)、娘に賈荃(せん)(司馬攸(しゅう)の妃)・賈濬(しゅん)・賈南風(西晋の第二代恵帝の皇后)・賈午(韓寿の妻)がいる。この郭氏賈南風の生母である。]の妻[やぶちゃん注:私の所持するものでは「後妻」とある。]郭氏、酷(はなは)だ妒(と)なり[やぶちゃん注:嫉妬深かった。]。男兒あり、名は黎民、生れて載周(さいしう)なり[やぶちゃん注:その時、丁度、満一歳であった。]。充、外より還るに、乳母(うば)、兒(こ)を抱(いだ)きて中庭に在り。兒、充を見て喜踊(きよう)す[やぶちゃん注:はしゃいだ。]。充、乳母の手の中に就(つ)きて之れを嗚(を)す。郭、遙かに望み見(み)て、『充は乳母を愛せり』と謂(おも)ひ、卽ち、之れを殺す。兒、悲思啼泣(ひしていきふ)して、他(ほか)の乳(ち)を飮まず、遂に死せり。郭、後、終(つひ)に、子、無し。

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「說郛三一所収玄池說林」「說郛」(せっぷ:現代仮名遣)は元末明初の陶宗儀による漢籍叢書。巻数は元は百巻であったらしい。様々な時代の書物を含むが、特に宋・元の著作が多く集められており、他には見えない筆記小説や元代の貴重な書籍を含む。題名は揚雄「法言」問神篇の『大いなるかな、天地の萬物の郭たるや、五經の衆說の郛たるや』(「郛」は「町の周りを囲む城壁」の意)に由来する。「玄池說林」は恐らく志怪小説的な随筆のように思われる。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちら(PDF)の「説郛」の72コマ目で佚文が読める。

「狐之相媚必先吕」「以口相接」「相ひ媚(こび)るに、必ず、先づ、吕(りよ/ろ)たり【口を以つて相ひ接すなり。】。」。この「吕」は「呂」の異体字であり、古代の竹管で作った楽律を調整する器具(管の長さによって音の高さを定めて低音の管から数えて奇数の六つの管を「律」、偶数の六つの管を「吕」と称したのであって、熊楠の言うような「接吻」を即物的に意味する「口」と「口」の意ではなく、思うに、女に化けた狐がまぐわう際に挙げる高い声(本邦なら狐は「かうかう」という高音の声を発する)を指しているように私は思う。Higonosuke氏のブログ「黌門客」の「富士崎放江『褻語』」でこれを問題にしておられ(注記号は除去したので、注はリンク先を見られたい)、

   《引用開始》

 阿辻哲次『タブーの漢字学』(講談社学術文庫2013,もと講談社現代新書)は、「『也』を『女陰』という意味で、文章の中で実際に使っている例はまったく残っていない」(p.77)、「『女陰』という意味を表すために『也』を使った例は実際には存在しない」(p.78)と書いたうえで、『日本霊異記』下巻第十八に、「門構えに也」字をかかる意味で使った例があることに言及しているが、すくなくとも江戸期の書物のなかに、「也」を単独で「女陰」の義に用いたものがあるという事実は面白い。

 実は、阿辻先生も書かれているのだが、『説文解字』巻十二には、「女陰也象形」とある。従って源内の使用例は、説文学の浸透に因るものでもあろうか。

 次に、「呂の字」(p.62)。短いので全文を引く。[やぶちゃん注:以下引用部を「*」で挟んだ。]

   *

 『玄池説林』という支那の本に「狐の相媚るや必ず先づ呂す」とある。狐は淫獣で、交尾期が来ると頗る性慾放肆の態を為すといわれている。「呂す」は即ち口と口を接する義で、接吻のことである。外国からキツスという語が渡来した時、かかる簡単で、しかも要領を得ている一字名があるのに、ことさらにむつかしい接吻などという文字を選んだ当時の漢学者の気が知れぬと、世界的博識家紀州の南方熊楠先生が話された。ただし呂という字は『康煕字典』にないが、音はクであろうと附言されたが、『字源』にはリヨ・ロとある。

   *

 「呂」などというありふれた字が『康煕字典』にない筈はない。念のため確認してみると、「丑集上 口部」四畫のところに出ている。熊楠ほどの人物がそれに気づかなかったというのは、どうにも解しがたい。

 そも『玄池説林』は、抜書としてではあるが、『説郛』巻第三十一に収めてある。逸書とおぼしく、熊楠もこの「説郛本」を見たのであろう。早稲田大図書館蔵書の当該箇所を確認すると、「狐之相媚也必先呂」[やぶちゃん注:私が見る限り、それは「」であって「呂」ではない。上の「口」の第一画が下に少し下に延びているが、それは下方の「口」と同じであり、「呂」のような中間部での四画目ではない。甚だ不審である。とあり、「以口相接」なる割注も見える。

 これによれば、『玄池説林』中の「呂」字というのは、正確には、「口」を上下に重ねた形と知れる。確かに、「呂」字が「口」を上下に重ねた形で書かれることは珍しくなく、いやむしろ、活字でも手書き字でも当り前のようによくあることで、偶々手許にある『大廣益會玉篇』(澤存堂本、叢書「古代字書輯刊」に収める)をひもとくと、「呂」字は「呂」部にあり、「口」を上下に重ねた形で出ているし、江守賢治『解説字体辞典【普及版】』(三省堂1998)は、「口」を上下に重ねた形を「伝統的な楷書の形」とし、「呂」を「康煕字典の字体」(p.640)とする。

 したがって、『玄池説林』中の字を、放江が「呂」だと「誤認」したのは已むをえないことである。

 しかし、熊楠はそれとは別の字を想定していたのではないか。「音はクであろう」と述べた根拠が分らないが、『玄池説林』中の字は、態々「以口相接」という割注を附する以上、これは戯字であると考えられ、「呂」とは区別されるべきではないか。

   《引用終了》

私はHigonosuke氏の見解に反論もしたくない代わりに、賛同もする気はない。読者の判断にお任せする。

「明治十九年赤峰瀨一郞氏が桑港の景物を誇張して吹聽せし世界之大不思議とか云る書」書名がなかなか検索に掛からないので、著者名赤峰瀬一郎(生没年未詳)で限定してみて、訳が分かった。熊楠も「とか云る書」と言っているのに気づくべきであった。これは書名が大きく異なり、「米國今不審議」が正しい(「不思議」ではなく「不審議」である)。明一九(一八八六)年十月實學會会英學校刊で、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで視認出来る。その「第五國風短歌」の章の「國風二章」の一節に以下のように出る。短歌評釈は底本では、全体が二字下げであるが、引き上げた。草書崩しの表記が多いが、総てひらがなで示した。踊り字は正字化した。

   *

口すふて別れむ夜半のつれなさを

    わすれやはするけふの寺ゆき

この歌の意味をさとるには西洋接吻(くちすひ)の風俗をよく知らざる可らず

日本にては男女の仲にても餘程意味深長なる交際の塲合に到らざれば中々口をすふ事をせず且つ口を吻ふても舌をいだして接吻するは日本の風俗なる由なれども西洋にては然らずして男と女は抱きあひ或は差しよりて只唇を互に着(つ)けあはせて頰に接吻するなり

又しばしば男抔は一人が他入の額或は頰を吻ふて親愛の情を表す事あり

又羅馬法王の如きは足の指(ゆび)を英國女王は手の指を椅子に坐しながら人の吻はすると云ふ

かく接吻の禮式は西洋の社會にて欠くべからざる物なり特に女等が集會する時は其内心にては水火の如く敵對之者たりとも陽には此禮義を正しく行ふわ[やぶちゃん注:ママ。]常なり

然し通例は只手をひくのみなり若し又入中にて男が親子或は姊妹にあらね他人の妻女と接吻する時は、忽ち惡しき名高く成るは世の習慣なれば人々よく注意すれども妻と妻、處女と處女の會合に接吻の行るゝは中々盛なる者なり

扨この歌の心は昨夜逢ひみて別れし折に口をすひし其別れぎはのつれなさも今はお寺にゆき戀人に逢ふと思へばことごとくわするゝことかなと云ふ義なり

   *

なお、調べてみると、この人物、「米國政教之内幕」などというものもものしており、また、「データベース『えひめの記憶』」にある「愛媛県史 学問・宗教」(昭和六〇(一九八五)年発行)の「第二編 宗教」の「第四章 キリスト教」の「第三節 プロテスタント(新教)諸教会」の「2 旧組合教会」の記載中に、プロテスタントの』『伝道が定着し』、『教会が最も早く設立された』『今治で』は『連日』、『多くの求道者がきたり、聖書を研究して講話を聴き、その中には洗礼を受けたいと願い出る者もあ』って、明治『一一年五月』、『有志約三〇名が集まって「愛隣社」なるものを結成し』、『求道に努めた。そこで、組合教会内国伝道会社は、赤峰瀬一郎を』今治に『派遣し』、『約二か月滞在させた』とある人物が、同一人物である可能性もあるように思われる。

「ルキアノスの妓女對話」「ルキアノス」(一二〇年乃至一二五年頃~一八〇年以後)はギリシャ語で執筆したアッシリア人風刺作家。恐らくは「遊女の対話」などと訳されているものがそれらしいが、私は読んだことがない。

「カマ經」古代インドの性愛論書(カーマ・シャーストラ)で、推定で凡そ四世紀から五世紀にかけて成立した作品とされ、現存するものとしては最古の経典。エロい私は高校時代に読んだ。

「‘Le Kama Soutra,’ tran. E. Lamairesse, Paris, 1891, p. 41」ピエール=ウージェーヌ・ラマレス(Pierre-Eugène Lamairesse 一八一七年~一八九八年:フランスの土木及び鉱山技師で、一八六〇年から一八六六年にかけてインドに於いてダムや灌漑プロジェクトの建設を担当した一方、古代インドの作品に興味を持ち、それらをフランス語に翻訳したことで最もよく知られている)による既刊の英訳・仏訳に基づく二番目のフランス語訳版「カーマ・スートラ」である。フランス語原本の当該ページは‘Internet archive’のこちら

「醒睡笑」落語家の元祖とも言われる戦国から江戸前期の浄土宗西山派の僧で茶人・文人でもあった安楽庵策伝(天文二三(一五五四)年~寛永一九(一六四二)年)が著した、戦国時代の笑話・奇談集。全八巻。元和九(一六二三)年成立。写本(広本)と版本(略本・狭本)があり、前者には千三十九話、後者には三百十一話の小咄(こばなし)を収める。跋文によると、当初は譜代大名で下総関宿藩初代藩主板倉重宗(天正一四(一五八六)年~明暦二(一六五七)年)の所望によって策伝が噺しをしたに過ぎなかったが、それがあまりにも面白かったため、草子にするように重宗に勧められて作ったものとあり、寛永五(一六二八)年三月十七日に重宗に進呈されている。本書は「落語の教科書」とも称され、高い評価を受けている。引用は、巻之六の一節だが、大事なオチが切られてしまっている(熊楠らしい意地悪な確信犯である)。鈴木棠三校訂岩波文庫版(一九八六年刊)を恣意的に正字化して示す。

   *

「兒といねたるに、法師の口をすふとて、如何ありけん、齒を一つすひ拔きたり。膽をつぶし、暇(いとま)ごひまでもなく、遁(に)げて歸り、靜かに火をとぼし見れば、麥飯にてぞ候ひける。ふたしなみなお[やぶちゃん注:ママ。]兒(ちご)のありさまや。

   *

この「ふたしなみ」は「不嗜み」(「ぶたしなみ」とも読むが、その場合は「無嗜み」とも書く)で「心得のないこと・普段の用意や心掛けが足りないこと」を言う。

「犬筑波集」(いぬつくばしゅう:現代仮名遣)は室町後期の俳諧集。山崎宗鑑編。享禄(一五二八年~一五三二年)の末から天文(一五三二年~一五五五年)初年前後の成立かとされる。卑俗で滑稽な表現を打ち出し、俳諧が連歌から独立する契機となった書で、「俳諧連歌抄」「新撰犬筑波集」とも呼ばれる。引用は所持する「新潮日本古典集成」(昭和六三(一九八八)年刊。木村・井口校注)では(一九五・一九六番)、

   *

 首を延べたる明(あけ)ぼのの空

きぬぎぬに大若俗と口吸ひて

   *

とある。頭注に、訳して『首をのばしたのである。空も明け方になって。――それは実のところ、朝の別れに大若衆に接吻をしようとして。』とされ、『朝、何かのことで首を延ばしているのを、相手が自分よりも背丈が高い大若衆なので、伸び上がり首をのばして別れの接吻をしている姿に見立てた面白さ。背丈を逆にした趣向。』と評釈されてある。

「御伽草子」「中の物草太郞」御伽草子は本来は単一の作品(集)を表わす固有名詞ではなく、室町時代を中心に栄え、江戸初期には「御伽物語」や「新おとぎ」など「御伽」の名が入った多くの草子が刊行された。「御伽草子」の名で呼ばれるようになったのは十八世紀前期、概ね、享保年間(一七一六年~一七三六年)に大坂の板元渋川清右衛門がこれらを集めて、「御伽文庫」又は「御伽草子」と称して二十三編を刊行してからのことであった。但し、これも十七世紀半ばに、彩色方法が異なるだけで、全く同型・同文の本が刊行されており、渋川版はこれを元にした後印本であったのだが、元々「御伽草紙」の語が渋川版の商標のようなものであったことから、当初はこの二十三種のみを「御伽草紙」と言ったが、やがてこの二十三種に類する物語をも指すように変化した(ウィキの「御伽草子」に拠った)。その一篇である「物草太郞」は当該ウィキを読まれたい。大学の時、必修の「日本文学演習(近世)」の一つで、一年間付き合った結果、この話は生涯続くひどいアレルギとなった。同じ演習でも「雨月物語」の「菊花の約」の一年間はとても楽しかったのに。岩波大系本(昭和三三(一九五八)年刊・市古貞次校注)によれば、女の歌「離せかし網」(あみ)「の糸目」(いとめ)「の繁ければ」「此手を離れ物語せん」の「網目」について、『網の糸と糸との間のすきま。ここは網にかかっているように厳重に逃げ出すすきがないことと、人目が多いことをかけている。はなして下さい。網の糸目がつまっていて逃げ出すすきがないので、そうして人が多勢みているので、どうか手をはなして下さい。あなたの手を離れて(はなしてもらって自由になって)、お話をしましょう』とある。

「東北院職人歌合」総勢十名の職人たちを左右に番(つが)えて、経師(きょうじ:表具師)を判者として「月」と「恋」を題に和歌を詠み競わせた職人歌合絵の現存最古の作。参照したジャパンサーチ」のこちらによれば(絵巻の画像も視認出来る)、伏見宮貞成親王(ふしみのみやさだふさしんのう 永仁五(一三七二)年~正平三(一四五六)年)筆とされる奥書によれば、花園院(永仁五(一二九七)年~貞和四(一三四八)年)『周辺で制作されたという。もとは京都の門跡寺院曼殊院(まんしゅいん)に伝来した。鎌倉時代の初め』、建保二(一二一四)年の秋の頃、『京都にある藤原氏ゆかりの寺、東北院の念仏会』『に集まった職人たちが、貴族にならって歌合をしたという設定の歌合絵で』、『職人たちが左右に分かれて「月」と「恋」の歌を詠み、経師(表具や)が判者となって、歌の勝ち負けを決める歌合が描かれてい』る。『左右それぞれが向き合って座るように描かれているのは、伝統的な歌合絵の形式にならってい』るものの、『登場するのはみやびな貴族たちではなく、医師に陰陽師』、鍛冶屋と『大工、刀磨(とぎ)師と鋳物』『師、巫女』『と博打打ち、海人と行商人の計』十『人の職人たち』で、『身ぐるみはがれた博打打ちの哀れな姿など、当時の風俗をリアルに写して』おり、『詠まれている歌の内容も、お笑いやパロディ満載』で、『絵と同様、当時の職人たちの風俗や心情を伝えて』いる。例えば、『博打打ちの恋の歌』「我こひ(恋)はかたおくれなるすぐろくのわれても人にあはんとぞおもふ」と『百人一首にもある崇徳院の有名な』「瀨をはやみ岩にせかるる瀧川のわれても末に逢はむとぞ思ふ」の『パロディ』となっている。』『それに対する年老いた巫女の歌は』「君とわれくちをよせてぞねまほしき皷(つづみ)もはらもうちたゝきつゝなん」と、『もはや、すさまじい世界』が展開しているとある。

「今昔物語一九に、大江定基愛する所の美婦死せる其屍を葬らず、抱き臥して日を經る内口を吸けるに、女の口より惡臭出しに發起して遂に出家せりとあり」「大江定基」は出家して寂昭(じゃくしょう 応和二(九六二)年頃?~長元七(一〇三四)年:「寂照」とも表記)を名乗った平安中期の天台僧。参議大江斉光(ただみつ)の子。因みに、彼の出家の最初の動機は「今昔物語集」(巻第十九 參河守大江定基出家語(參河守大江の定基出家の語(こと))第二)や「宇治拾遺物語」(卷第四 七 三川の入道(にうだう)遁世の事)などで知られるが、愛する妻が死んでも、愛(いと)おしさのあまり、葬送せず、その亡骸の口を吸っていたが、遂に遺体が腐り出し、そのおぞましい腐臭に泣く泣く葬ったとする話である。後者は私の「雨月物語 青頭巾  授業ノート」で電子化しているので参照されたい。]

2021/03/13

二〇一九年十一月四日附『日本経済新聞社』ウェヴ記事「原民喜の遺書発見 友の詩人宛て、北海道」より電子化せる北海道立文学館(札幌市)で二〇〇三年に長氏の遺族から寄贈された資料中より発見されたる長光太宛遺書

 

[やぶちゃん注:現存する二〇一九年十一月四日附『日本経済新聞社』ウェヴ記事「原民喜の遺書発見 友の詩人宛て、北海道」を元に原民喜の祥月命日昭和二六(一九五一)年三月十三日:満四十五歳:鉄道投身自殺)である本日、公開する。青色罫20✕20原稿用紙。冒頭一行空け。封筒は裏のみで表の宛名は不明。]

 

 

 これが君におくる最後の手紙です

 僕は誰ともさり氣なく別れて行きたいの

 です

 爲しとげなかつた文學の仕事や数々の心

 の傷手が僕にとつて殘念だらうか しか

 し僕は既に人間の眼を離れてすべてが透

 明化されてゆくやうな氣持です。

 では、お元氣で…。 長光太は長生して

 くれ。

 

              原 民喜

 

  長 光太 様

 

 

 

 

 

 

2021/03/11

怪談老の杖卷之四 (太田蜀山人南畝による跋文) / 怪談老の杖卷~電子化注~完遂

    ○

 東蒙子(とうまうし)の語りけるは、

「予が幼き頃、隣家へ行て遊びし事あり。折ふし、ふみ月の中の五日]にて、家々、燈籠を照らし、大路のさまも賑ひける。予が行し家は、紙など商ふ家なれば、「揚げ椽(えん)」といふものを、かけがねして、夜(よる)はあげ置(おき)けるを、「おしまづき」の樣にて、友達の童(わらは)と、手すさびなどして居(ゐ)けるに、年の頃、十二、三計(ばかり)の女の子、來りて、隣の童をとらへ、頭を手して、もみあつかふ。彼(か)の童は、ものもいはず、ただ、

「くつ、くつ。」

とのみ、いふて居たる程に、

『何ならん。』

とおもひて、面(おもて)をあげて、みれば、見もしらぬ女の子なり。

「なに奴(やつ)ぞ。」

と、とがめければ、つやつや、いらへもせず。

 また、傍(かたはら)をみれば、八ツ計の童、面まで、髮、生(お)ひかゝりたるが、立居(たちをり)たり。

 何とやらん、心地の恐ろしかりければ、友達に、

「逃(にげ)よ。」

と云はれけれど、心うばゝれて、逃んともせず、やがて、帶をとりて、内へ引入れければ、手を放ちて、又、我に、とりつきぬ。

 その手の冷(ひややか)なる事、寒中の氷のごとし。

「何ものぞ。」

と、つよく咎(とが)めければ、

「下屋舖(しもやしき)、々々々。」

と、二聲(ふたこゑ)、いひけり。

 此家の裏は、朝倉仁左衞門殿といふ人の下屋敷なるが、かの屋敷守(やしいもり)の娘に、「おかん」とて、ありけるが、遊びがたきにて、常に行ければ、『それか』と、よくよく見るに、似もつかず。

 色靑く、きはめて、よごれたる貌(かほ)なり。

 さる程に、

「ぞつ」

と、おそろしき氣のいでければ、

「わつ。」

と、いふて、戶を引たて、逃入(にげいり)ぬるに、その家の者ども、おどろきて、

「ばけものよ。」

とて、そこらを尋ね搜しけれど、終(つひ)にみへず。

 又、何者といふ事も、しれざりけり。

 是は、かの別莊の内に、年古き狐ありて、人を化(ばか)すといひけるが、童とおもひ、あなどりて來りしにや。よくぞ、まどはされざりし。」

と、今に、いひ出して、語りける。

[やぶちゃん注:「東蒙子」作者平秩東作(へづつとうさく 享保一一(一七二六)年~寛政元(一七八九)年)の号。従って、これは跋の内で、冒頭注で書いた通り、本篇を含む「平秩東作全集」を纏めた平秩東作の友人であった、文人で本篇の所有者であった大田(蜀山人)南畝(寛延二(一七四九)年~文政六(一八二三)年)が平秩から聴いた直話の怪談を思い出として書き添えたものと推定される。

「ふみ月の中の五日」旧暦七月十五日。

「揚げ椽」「揚げ緣」。商家の店先などに、釣り上げられるように造られた縁。夜には、それを上げて戸の代わりとする。

「おしまづき」漢字を当てると「几・机」で、ここは「揚げ縁」の一部を中に取り込んだものを、遊びの台(机)の代わりにしているのであろう。

「つやつや」少しも。全く。

「朝倉仁左衞門」家光の代の江戸北町奉行に朝倉石見守仁左衛門在重(天正一一(一五八三)年~慶安三(一六五一)年)町奉行在任:寛永一六(一六三九)年~慶安三(一六五〇)年)がいる。但し、平秩東作の生没年から、この朝倉在重の直系の後裔と思われる。井上隆明氏の論文「平秩東作とその周辺」(PDF)によれば、この人物は旗本とされ、平秩の生まれた家は現在の新宿二―一六―六附近(グーグル・マップ・データ)が当該地であるとされておられる。

 以下の跋文は底本では全体がポイント落ち。]

 

 

亡友東蒙子、所ㇾ草「怪談老杖」數卷、僅存四卷、流覽一過、宛如亡友而語三十年前事也。

  文化乙亥孟秋念七淸晨  杏花園叟

 

文政己卯水無月廿日、病餘流覽、時年七十一。 蜀山人

  東蒙生平下ㇾ筆不ㇾ能ㇾ休、是其稿本也。

              蜀 又 誌 ㊞

怪談老の杖卷之四

[やぶちゃん注:我流で訓読しておく。

   *

亡き友の東蒙子、草(さう)せる「怪談老(おひの)杖」數卷、僅かに四卷を存す。流覽一過(りうらんいつか)、宛(さなが)ら、亡き友に逢ひ、三十年前に事を語れるがごときなり。

  文化乙亥(いつがい/きのとゐ)孟秋(まうしう)念七(じゆうしち)淸晨(せいしん)

       杏花園叟(きやうくわゑんさう)

 

文政己卯(きぼう/つちのとう)水無月廿日、病(やまひ)の餘(よ)に、流覽す。時に年七十一。 蜀山人

  東蒙は生平(せいへい)、筆を下(おろ)して、休むこと、能はず。是れ、其の稿本なり。

         蜀、又た、誌(しる)す。 ㊞

   *

「流覽一過」縦覧に同じい。全体にざっと目を通すこと。

「文化乙亥」文化十二年。一八一五年。

「孟秋」秋の初めの一ヶ月。初秋。陰暦七月。

「念七」「念」は「廿(じゅう)」(二十)の代字。二十七日。

「淸晨」早朝。

「杏花園叟」大田(蜀山人)南畝の号の一つ。

「文政己卯」文政二年。一八一九年。

「病(やまひ)の餘(よ)に」病気の徒然の間にの意味でとった。「病める餘」で「病中にある私が」の意にもとれるが、その場合、通常は「余」で「餘」とは記さないのが普通。所持する版本は「余」だが、これはその版本が新字採用だからで、底本は「餘」であるから、前者でとったものである。

「生平」平生(へいぜい)。日頃。普段。副詞的に用いている。

 これを以って「怪談老の杖」は終わっている。]

怪談老の杖卷之四 福井氏高名の話

 

   ○福井氏高名の話

 豐後の國に玉木といへる在所あり。

 福井翁、城主に仕へし頃、君命によりて、鳥を討(うち)に出ける。折ふし、雪みぞれ、ふりて、寒氣、いと堪がたき頃なり。暮方に、鐵砲、うちしまひ、名主の宅にて、夕飯などしたゝめ、立歸る。

 御城より、四里ばかりある處なり。

 處の農夫、二、三人、役(えき)にかられて、供をし、御城まで送りける。福井、いはれけるは、

「我を送りて、また、立歸らば、さぞ難義なるべし。歸りて休め。」

とて、暇(いとま)をやりければ、

「難有(ありがたし)。」

と、いく度も、禮、いひて、歸りぬ。

 段々、來りて、御城下近き所に、右の方は寺にて、卒塔婆垣、心よからぬものなり。

 空は、はれて、大きなる梢より、月、あかく、さし入(いり)、みぞれの上にきらめきて、おもしろきけしきなるに、獨りごちして、坂をのぼりゆく時、上の方より、

「おいおい」

と啼(なき)て來(きた)るもの、あり。

 近づくまゝに、これをきけば、女の聲なり。

 其頃、世に沙汰して、此邊に「うぶ女(め)」、出(いで)て、人をおどかすといふ事、專らなり。

 福井翁、おもはれけるは、

『姑獲鳥《うぶめ》といふもの、たやすく出(いづ)べき物にあらず。察するに、盜賊などの、それに託して、人をなやますものなめり。何にもせよ、からめ取りて、御城下の取沙汰を留(と)めん。』

と思案して、傍(かたは)に、人一人かくるべき程の崖のあるに、身をそばめて窺ひ居(を)られけるうち、なく聲、ちか付(づき)て、坂を下(くだ)り、此がけの前を過ぐるをみれば、わかき女の、赤裸にて、兩手にて、顏をおさへて、さも、物あはれになきて來(きた)るなり。

 やがて[やぶちゃん注:即座に。]おどり出て、腕をとりて、ねぢ伏せければ、

「ア。ゆるさせ給へ。」

とて、ふるふ事、限りなし。

「おのれ。何ものなれば、かく深夜に及(およん)で、かく、姿にて、徘徊はするぞ。妖怪にもせよ、何にもせよ、誠の正體を顯はすべし。」

と、いはれけるとき、彼女、答へて、

「全く、あやしきものに侍らず。わたくしは、御城内佐藤主稅(ちから)殿組(くみ)の、足輕なにがしと申ものの妻にて侍(さふら)ふが、此下(このした)なる、豐後しぼりを致して渡世する彌右衞門と申(まうす)者は、私の親にて侍るが、重く煩ひて候程に、看病のため、親共方(おやどもかた)へ參りて居侍(ゐさふら)ふが、明朝(みやうてう)用(もちふ)べき藥を用ひきりて候まゝ、醫師のもとへ藥をとりに參りて、只今、歸る道、上の山にて、大(おほき)なる男、出(いで)て、無二無三に着物をはぎ取り、からき命、助かりて歸るにて候。」

と、語りけるにぞ、

「扨は。不便なる事なり。扨、其盜人(ぬすびと)は何方(いづかた)へ行たるぞ。程久しき事にては無きか。何とぞ、取もどしやるべし。」

と云はれけるにぞ、女、悅ぶ事、斜(なのめ)ならず、

「右の方(かた)の山のうちへ入りて候。暫しの間(あひだ)の事にて、遠く行(ゆき)候はじ。」

と、いふ。

「先(まづ)寒かるらんに、是を着よ。」

とて、上なる衣(ころも)をぬぎて、彼(かの)女に着せ、かの崖の内へ入れ置(おき)て、

「我が歸るまで、何方ヘも行くべからず。」

と、いひ含めて、坂を左へ尋ね入(いり)ける。

 元來、此左の方は海岸に傍(そ)ひて、逃ぐべき道のなき所なれば、

『必定(ひつぢやう)、尋ね當(あた)るべし。』

と、事もなげに思ひて行に、月影に、ちらり、ちらりと、人かげの見ゆる樣なり。

『あやし。是こそ盜人なめり。』

と、つらつらと寄りければ、大の男なり。

「己(おのれ)は、今の程、往來の女を、はぎとりたるよ。其衣類を返すべし。」

と、聲をかけければ、

『叶はじ。』

と、おもひけん、帶にて、ゆはヘたる衣類を投げ出しけるを、それには目をかけず、引(ひき)ぬいて、打(うち)かけければ、肩先を切られて、とある、いはほの上へ、はひ上りけるを、なほ、追かけて拂ひける刀に、急所にや當りけん、

「うん。」

と、いふて、倒れけるを、うち捨て、衣類を携へ、もとの所へ來りて、女に着せければ、ものをもいはず、手を合せて伏し拜む。

 迚(とて)もの事に、

「その方が宿まで、送り遣すべし。」

とて、つれ行(ゆか)れける。

「爰にて候。」

と、いふて、門の戶を明(あく)るより、

「わつ。」

と、いふて、なきこみぬ。

 近所のものにてや、ありけん、五、六人、集りて、

「何故(なにゆゑ)、戾り、おそかりし。」

など、詮議最中の體(てい)也。

「是は、その方が娘か。」

と問ひけれぱ、

「いかにも。私の娘なり。どなたなるぞ。此方(こなた)へ御入(おはいり)なされよ。」

と云ひけるを、

「慥(たしか)に渡したるぞ。」

と立出られける。

 娘も、あまりにかなしきに、心や、せまりけん、具(つぶさ)にわけをもいはねば、

『たゞ下通(しもどほ)り[やぶちゃん注:帰り道。]、道づれの送りたる。』

と思へるにや、隨分、麁相(そさう)なるあいさつなりける。

 かく、往返の間に、八ツ[やぶちゃん注:午前二時。]の鐘なる頃、御門(ごもん)へ入られける。

 翌日、彼(かの)娘の親類どもより、

「夜前、ケ樣(かやう)々々。」

と訴へ出(いで)、

「慥に御城内の御諸士樣方と存候。取紛(とりまぎ)れ、御名も不ㇾ承(うけたまはらず)、不調法の段。」

言上(ごんじやう)しけるにより、

「八ツ時に門へ入りたる誰ならん。」

と、詮議ありてこそ、福井氏の手柄、かくれなく、殿にも御感淺からざりし、となり。

 かの盜人は、その手にて、死(しし)ければ、死骸、幷に、年頃盜み置きし雜物(ざうもつ)など、皆々、上(かみ)へあがりけり。

「その中に、家中の士、拜領の腰の物を盜まれて、訴へも出ずおきたりしが、その雜物の中にありて、不首尾、甚しかりける。」

と云へり。

 彼盜人は、もと家中の草履取(ざうりとり)なりしが、惡黨に陷りて、かく淺ましき體(てい)になりける。

「是より、此所(このところ)の妖怪の沙汰は、やみし。」

と、いへり。

 福井翁の直(ぢき)の話を聞(きき)て、爰(ここ)に記(しる)す。

[やぶちゃん注:このロケーションの同定が出来ない。豊後国で玉木という地名が藩内にあり、その藩は少なくとも一部が海に面している。しかも、本書は宝暦四(一七五四)年板行くであるから、江戸中期末から後期が時制となろう(今まで見てきた通り、直近の事件であることが多い)。とすれば、天領地と島原藩・延岡藩・肥後藩飛地は除去され(陣屋はあっても城はない)、海に接していない岡藩・森藩及・交代寄合領立石藩(城なし)は外れる。すると残りは、杵築藩・日出(ひじ)藩・府内藩・臼杵藩・佐伯(さいき)藩の五つである。さらに私はこう考える。この事件のロケーションは海に近いが、城は海の近くにあるわけではないのではないか? という推理である。これを適応すると、海のごく直近にある杵築城・日出城・臼杵城は外せる。残るのは府内城(大分城)・佐伯城となる。ところが、ここで窮する。何故なら、玉木という地名が現在の大分県内には見当たらないからである。零に戻して考え直す必要がありそうだ。

「うぶ女」「姑獲鳥《うぶめ》」登場した際には真正の哀れな妖怪姑獲鳥かと見紛うたが、実は本篇は疑似怪談である(しかし、私はこの一篇、好きだ。福田翁が如何にも古武士のようにカッコいいからである)。私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 姑獲鳥(うぶめ) (オオミズナギドリ?/私の独断モデル種比定)」を参照されたいが、特異的な実録風に書かれた一つを挙げるならば、私は「宿直草卷五 第一 うぶめの事」をお薦めする。]

2021/03/10

怪談老の杖卷之四 [原本失題](銀出し油を呑む娘)

 

   ○[原本失題](銀出し油を呑む娘)

 本鄕二丁目八百屋お七と云ふ事、日本にいひ傳へてしらぬものなし。

 世の中に、戀によりて、身を亡(ほろぼ)したるもの、何萬人とも限るべからず。

 その中に、かく、いひさはがれて、姿・心ざまもなつかしき樣に、末の世まで云ひ傳へられしは、その人の幸(さいはひ)とやいはん、また、不幸とやいふべき。

[やぶちゃん注:本篇は見ての通り、原題が脱落している。題無しでは可哀そうなので「(銀出し油を呑む娘)」は私が仮に附しておいた。

「本鄕二丁目」現在の東京都文京区本郷二丁目と三丁目、ここの交差点(グーグル・マップ・データ)の北西と南東が相当する。「古地図with MapFan」で確認した。

「八百屋お七」詳しくは当該ウィキを読まれたいが、それによれば、『お七の生涯については伝記・作品によって諸説あるが、比較的信憑性が高いとされる』「天和笑委集」に『よるとお七の家は』本郷にあり、『天和二年十二月二十八日(一六八三年一月二十五日)の「天和の大火」で焼け出され、お七は親とともに正仙院[やぶちゃん注:不詳。]に避難した。寺での避難生活のなかでお七は寺小姓生田庄之介』『と恋仲になる。やがて店が建て直され、お七一家は寺を引き払ったが、お七の庄之介への想いは募るばかり。そこでもう一度自宅が燃えれば、また庄之介がいる寺で暮らすことができると考え、庄之介に会いたい一心で自宅に放火した。火はすぐに消し止められ小火(ぼや)にとどまったが、お七は放火の罪で捕縛されて鈴ヶ森刑場で火あぶりにされた』とある。因みに、お七の墓は文京区白山一丁目にある天台宗南縁山正徳院円乗寺にある。]

 此類(たぐひ)の事、世に多し。

 是も本鄕の二丁目に、八百屋にはあらぬ質がし・紙・油など賣る家あり、一人の娘をもてり。姿かたち、きよらかに、心ざまも、ゆうに、やさしかりければ、見る人、戀慕(こひした)はぬは、なかりけるが、その隣なる家の手代に、武兵衞とて、よきをとこ、ありけるが、かの娘に執心して、

「何とぞ、折(をり)もがな、心の底を。」

と、求めけれど、折ふしに顏見る計(ばかり)、咄しひとつ、いひよる手だてもなければ、

「何とぞ、彼(かの)家へ入(いり)こむ手だて。」

など、心がけて居(をり)けるに、娘のはゝ、よみ[やぶちゃん注:短歌詠或いは既存の名歌の詠唱か。]好きにて、正月十五日前は、下女・娘などあいてに、よみうちけるを、

「くつきやうの事。」[やぶちゃん注:「究竟」で「非常に好都合なこと・お誂え向きなこと」の意]

と、悅びて、どこともなく近寄(ちかより)、よみの相手に、一夜、二夜、行けれども、先には、少しも、その心なければ、もどかしき事、かぎりなし。

 漸(やうや)く傳(つ)てを求めて、文(ふみ)を送りけれど、手にも取らず、顏を赤め、

「となりの若いものが、ケ樣(かやう)々々。」

と、母へ告(つげ)ける程に、はや、よみの相手にもよばず、それよりは、外へも出(いだ)さねば、

「塀越しに聲をもきくか、ふしあなより貌(すがた)にても見ゆるか。」

と、馬鹿の樣(やう)になりて、

「裏の下水へながるゝ水は、となりの娘御(むすめご)の行水の末なるべし。」

と、指もてなめて見る程のたはけも、戀程、せつなきものは、なし。

 譯(わけ)をしりたる人、あまり不便におもひ、

「何とぞ、取(とり)もちやらん。」

と、いろいろ、娘をだましけれど、よくよく石部金吉(いしべきんきち)にて、後(のち)には惡口(あつかう)などしける程に、かの若い者も、

「口惜しや、人なみなみの身上(しんしやう)ならば、かく。はづかしき目は、見まじき。」

と、あけても暮(くれ)ても、なげきけるが、いつとなく、奉公も身にそまず、おとろへ行(ゆき)ぬ。

 しかるに、その近處(きんじよ)に、伽羅(きやら)の油賣る惣(さう)なにとかやいふ男、又、此娘にほれて、一さほ三十二文の油を廿八文にまけ、おしろいを、はづみ[やぶちゃん注:おまけにただでつけたのであろう。]、花の露[やぶちゃん注:飲めば長生きするとされた「菊の露」、菊の花に溜まった雫(しずく)のことか。]を遣ひものにして、心をくだきけるが、この伽羅の油[やぶちゃん注:「賣り」の略。]、口拍子(くちびやうし)よき[やぶちゃん注:喋る内容や調子が如何にもいい感じを与えることを言う。]男にて、

「娘の氣に入(いり)、晝夜(ちうや)、入びたり居(を)る。」

といふ事をいふものあり。

 定めて、世にはやかせて[やぶちゃん注:あることないことを流行らせて。]、慰(なぐさみ)にするといふ樣な、情(なさけ)しらずの破家《ばか》者あれば、その類(たぐひ)なるべきを、かの手代、きうくつ[やぶちゃん注:「窮屈」。歴史的仮名遣は「きゆうくつ」でよい。]なる心より、深く恨みにおもひける。

 いづ方ヘ行しや、ある夜、出(いで)てのち、行衞しれず、なりける。

 その年の末より、かの娘、ぎんだし油を好みて附(つけ)けるが、あまり、大そふ[やぶちゃん注:「大層(たいさう)」。]に、油、いりければ[やぶちゃん注:買い入れるので。]、兩親、ふしんし、せんぎしければ、髮には、わづかの事にて、皆、食物(くひもの)の樣にしてありけるを、深く、いましめけれど、病(やまひ)の業(わざ)なれば、やまず、夫(それ)より逆上して、貌(かほ)へふき出(いで)て、終(つひ)に十五のとし、むなしくなりぬ。

「死して後(のち)、髮の中より、おびたゞしく、むかでの樣(やう)なる蟲、わき出ける。」

とかや。

「人の恨(うらみ)なるべし。」

と、いひあへり。

 となりの手代と傍輩なりしもの、語りけるが、

「かの手代、出奔する前には、夜中などにおきて、物もいはず、『ぶるぶる』と、ふるひし事、度々なり。」

と、いへり。

 予、おもふに、これ、かの恨のむくひにはあらず、病の業なり。

[やぶちゃん注:この手代の症状は統合失調症や重い強迫神経症が疑わられる。]

 或は灰をなめ、土器を喰ふ類ひ、ことごとく、戀幕の執(しふ)によりて、といふ事、あるべからず。

 婦人と生れては、父母の命によりて夫を持つは「禮」なり。『人の恨、恐ろし』とて、たやすく順(したが)ふは「不義」の甚だしきものなり。若(もし)、不幸にして、人におもひかけられたる人あらば、よく人を以て、その道理をさとし、心をなだめて、合點さする時は、人、各(おのおの)、心あり。愛する人のいふ事は、あしき事さへ嬉しきものなれば、恨むる道理は、なき事なり。只、情なく、のゝしり、恥かしむるよりぞ、恨、甚し。是は、女の道とは、云ひがたし。此さかひをよく辨へて、生死存亡(しやうじそんばう)を心とせず、婦の道を守りて、貞一なる婦人こそ、あらまほしき業(わざ)なり。

[やぶちゃん注:「伽羅の油」鬢付油の一種で、胡麻油に生蠟(きろう)・丁子(ちょうじ)を加えて練ったもの。近世初期に京都室町の「髭の久吉」が販売を始めたという(なお、本来の「伽羅」は香木の一種で、「伽羅」はサンスクリット語の「黒」の漢訳であり、一説には香気のすぐれたものは黒色であるということから、この名がつけられたともいう。別に催淫効果があるともされた)。

「ぎんだし油」「銀出し油」で頭髪用の油の一つで、常緑の蔓性木本であるマツブサ科サネカズラ(実葛)属サネカズラ Kadsura japonica:別名ビナンカズラ(美男葛)のつるの皮を水に浸し、粘りをつけたもの。当時は異名からも判る通り、普通は男性の鬢付け油に使用された。この娘の異常行動と死は、食用にはならないもの・消化出来ないもの(実は食べられるし、油自体は有毒ではないようである)を多量に口経摂取していることから、現代なら、重篤な異食症(pica:ラテン語で「カササギ」(スズメ目カラス科カササギ属カササギ Pica pica )の意。鵲は何でも口に入れる習性があることに由来する病名)とされるであろう。異食症は複数の原因が考えられ、一般女性でも妊娠時にこの症状が出る場合があるが、流石に、この娘が妊娠(この油売りが相手)していたというのは、叙述からは、ちょっと考えにくいように思われる(噂話にはそれが嗅がせてあるようにも読めるが)。他には、先天性の何らかの疾患、或いは、極端な偏食による後天的栄養障害・栄養不良(特に鉄欠乏性貧血・亜鉛欠乏症)、脳への酸素供給量不足による満腹中枢障害・体温調節障害に起因するもの、強い精神的ストレスを原因(ストレスによって、脳内の神経伝達の重要な一つである生理活性物質セロトニン(serotonin)が不足を生じ、感情・欲求が抑制出来なくなるのが一因ともされる)とするもの、精神疾患の合併症状の一つとも、また、脳腫瘍による異常行動の一症状、人体寄生虫の感染(特に鉤虫症。複数の病原虫がいる。私の「和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蚘(ひとのむし)」の「伏蟲」の私の注を参照されたい)による場合があると当該ウィキにあった。死に至ったことをことを考えると、以上の中では現実的なものとしては、脳腫瘍が最有力候補となろうか。後で筆者もまさに異食症を挙げ、それを現実的な疾患(外因・内因・心因の区別はつけていない)であると考えていることが明らかにされる。

譚海 卷之四 隱岐國の北竹島の事

 

○隱岐國より北に當りて遙に沖に島あり。隱岐よりは六七十里もあり。其島に大竹を生じて、其竹のなびきて海にひたりたる末に、鮑(あはび)夥敷(おびただしく)取付(とりつき)てあるを、隱岐の漁人年々渡海して此あはびを取來(とりきた)る事也。一とせ鮑とりに例のごとく行たるに、去年迄は無人島なりしが、いつしか數多(あまた)の人家住居(じんかすまゐ)をなして、中々寄付(よせつく)べきやうすならねば、むなしく立歸りたり。異國人の住居と成(なり)たると見えたり。此よし國主へ訴へければ、公儀へ注進有(あり)、討手(うつて)の兵船にても指向(さしむけ)らるべきやの伺(うかがひ)ありしに、公儀より御尋(おたづね)ありしは、其島へ漁人往來致し、あはびとらざれば渡世の妨(さまたげ)にも相成(あひなる)事にやと有しに、さのみ漁獵(ぎよりやう)のためには此島へ往來仕らずとも、渡世の妨には相ならざるよし申上ければ、然(しか)らば彼(かの)島此(これ)まで日本の領分といふ急度(きつと)したる事もなきゆゑ、其まゝにさし置べきよし御下知ありて、事止(ことやみ)たりとかや。

[やぶちゃん注:「竹島」島根県北東部、隠岐諸島の北西百五十七キロメートルにある日本海の孤島。ここ(グーグル・マップ・データ)。本邦の現在の行政上は「隠岐の島町」に属する。東島(女島)・西島(男島)の二つの主島と点在する数十の小岩礁からなり、僅かに草が生えるだけの無人の岩石島。明治三八(一九〇五)年に明治政府が日本領有を宣言して島根県に編入した。明治以前は大韓民国の「ウルルン(鬱陵)島」が「竹島」で、「竹島」は「松島」と呼ばれ,両島は混同されていた。寛文七(一六六七)年の記録には「松島」として竹島のことが記されている。付近は豊かな漁場であるが、韓国が領有権を主張し、昭和二九(一九五四)年から実効支配を続けている。底本では注で武内利美氏が竹島に同定している。しかし、これが本当に現在の竹島なのかは、どうも疑わしい。上記の記事にある通り、混同されたウルルン島でないと言えるかどうか、怪しいからである。津村は「隱岐よりは六七十里もあ」(二百三十五~二百七十五キロメートル)ると言っているが、竹島は隠岐から直線で百六十キロメートル弱しかない。対してウルルン島は二百四十二キロメートルである。私はウィキの「竹島」やその他の論評が、この興味深いはずの記事を無視しているのは、この島が現在の竹島ではなく、ウルルン島だと考えているか、或いは、この記事が竹島の領有を宣言している現在の日本にとってすこぶる都合が悪いからか、どちらかしか思いつないでいるのである。

2021/03/09

怪談老の杖卷之四 厩橋の百物語

 

   ○厩橋の百物語

 延享の始めの頃、厩橋(まやばし)の御城内にて、若き諸士、宿直(とのゐ)して有けるが、雨、いたうふりて、物凄(ものすご)き夜なれば、人々、一ツ處にこぞりよりて、例の怪談になりぬ。

[やぶちゃん注:「百物語」注する気も起らない。当該ウィキでもお読みあれ。

「延享」一七四四年から一七四八年(延享五年七月十二日(一七四八年八月五日)に寛延に改元)。徳川吉宗・家重の治世。延享二年九月二十五日に代替りするが、事実上は後半も大御所吉宗の治世であった。本書は序文が宝暦四(一七五四)年であるから、ごく直近である。

「厩橋(まやばし)の御城内」上野国群馬郡、現在の群馬県前橋市にあった前橋城は古くは厩橋城(まやばしじょう)と呼ばれ、関東七名城の一つに数えられた。前橋藩の藩庁。現在の群馬県庁本庁舎敷地(グーグル・マップ・データ)に本丸があった。なお、この当時は老中首座で第九代藩主酒井忠恭(ただずみ)の治世。]

 その中に、中原忠太夫[やぶちゃん注:不詳。]といふ人、坐中の先輩にて、至極、勇敢の人なりしが、

「世に化物はありと云ひ、無しといふ。此論、一定(いちぢやう)しがたし。今宵は、何となくもの凄(すさま)じきに、世にいふ處の百もの語りといふ事をして、妖怪出(いず)るや出(いで)ざるや、ためし見ん。」

と云ひ出しければ、何れも血氣の若(わか)とのばら、各(おのおの)いさみて、

「さらば始めん。」

とて、まづ、靑き紙を以て、あんどう[やぶちゃん注:「行燈(あんどん)」に同じい。]の口を覆ひ、傍(かたはら)に鏡一面を立(たて)て、五間[やぶちゃん注:約九メートル。]も奧の大書院に、なをし置き、燈心、定(さだま)りのごとく、百すぢ、入(いれ)て、

「一筋づゝ消し、鏡をとりて、我(わが)顏を見て、退(しりぞ)くべし。尤(もつとも)、その間(あひだ)の席々には燈(ともし)をおかず、闇(くら)がりなるべし。」

と、作法・進退、形(かた)のごとく約をなし、

「先づ、忠太夫より云ひ出したる事なれば、咄し出(いだ)さるべし。」

とて、ある事、なき事、短かきを專らに廻(まは)して、八ツの時計のなる頃[やぶちゃん注:丑の刻。午前二時。]、はや、八十二番の咄し、濟(すみ)けれども、何のあやしき事もなし。

 然るに、忠太夫、八十三番目の咄しにて、「ある山寺の小姓と僧と密通して、ふたりながら、鬼になりたり」など、あるべかゝり[やぶちゃん注:「あるべきかかり」の変化した語で、おざなり・紋切り型の意。]の咄にて、

「さらば、燈を消して來られよ。」

といふにつきて、詰所(つめしよ)をたち、靜(しづか)に唐紙をあけ、一間々々を過ぎ行しに、行燈(あんどん)のある座ヘ出(いづ)るとて、ふすまをあけて、ふりかへり、あとを見ければ、右の方の壁に、白きもの、見へたるを、立(たち)よりて見ければ、きぬのすその、手にさはるを、

『あやし。』

と、おもひて、よくよく見れば、女の死骸(しかばね)、首など、くゝりたるやうに、天井より下(さが)りて、あり。

 忠太夫、もとより、勇氣絕倫の人なれば、

『扨も。世にもなき事は云ひあへぬものなり。これや、妖怪といふ者なるべし。』[やぶちゃん注:「世に在り得ぬことは口に出ださぬが肝要である。これが、或いは『妖怪』なんどと呼ぶものなのであろうか?」。]

と、おもひて、さあらぬ體(てい)にて、次[やぶちゃん注:次の間。]へ行(ゆき)、燈を一すぢ消して、立歸るとき、見けるに、やはり、白く、みえたり。

 默して、坐につき、又、跡番の士、代りて行(ゆき)しが、いづれも、いづれも、此妖怪の沙汰を、いふもの、なし。

『扨は。人の目には見へぬにや。また、見へても、我(われ)がごとく、だまりて居(を)るやらん。』

いぶかしくて、

「咄しを、いそぎて、仕舞(しまひ)給へ。」

と、小短(こみじか)き咄し計りにて、百番の數(かず)、終り、はや、終らんとする時、その座中に、筧(かけひ)甚五左衞門[やぶちゃん注:不詳。]といふ人、さながら、色、靑く、心持あしげに見へしが、座につきていふ樣(やう)、

「何と、旁(かたがた)、咄も已におはるなり。何ぞ、あやしき事を見しものは、なきや。」

と、いふとき、皆人(みなひと)、

「そこには、見給ひたりや。」

といふ。

「成程。我らは先程より見たりしが、だまつて居(ゐ)たり。各(おのおの)は。」

と問ふ。

 忠太夫、

「我は八十三番目の時、見たり。」

といふ。

 それより、皆々、口をそろへて、

「女の首くゝりか。」

といふ。

「いかにも、はや、妖怪見へし上は、咄をやめて、一同に行(ゆき)て見るが、よろしからん。」と。

「尤(もつとも)。」

とて、皆々、行燈を下げて行て見れば、年比(としごろ)、十八、九の女、白むくを着て、白ちりめんのしごきを〆(しめ)、散(ちら)し髮にて、首を縊(くく)りて居(をり)たり。

 何にてくゝりしや、天井より下(さが)りしたれば、しかとは見へず。

「抱(いだ)きおろさん。」

と、いひけるを、

「まづ、無用なり。跡先(あとさき)のふすまをしめ、此ばけもの、いかに、仕舞(しまひ)を附(つけ)るぞ、見よ。」[やぶちゃん注:「いや、それはまず、無用なことじゃ。前後左右の襖を締め切って、この化け物が如何にして正体を現わしてけりをつけるか、これ、見届けるべし!」。]

とて、皆々、化物の脇に座を構へて見物する内、はや、東もしらみ、夜は、ほのぼのとあけけれども、化物、きえんともぜず、やはり始(はじめ)のごとし。

「是は。すまぬ物也。」

と、各(おのおの)驚きて、先づ、役人の内、奧がゝりの人をまねき、見せければ、島川(しまかは)殿といふ中老の女なり。[やぶちゃん注:「中老」武家の奥女中で、老女の次位に当たる職。若くても主君の覚えがめでたければ(以下がそれを匂わせている)、なれる。]

 殿の、をりふし、つかはるゝなど、取沙汰ある程の人なれば、段々、驚きて、

「是は。けしからぬ大變なり。」

と、いひけるが、皆々、打(うち)よりて、

「まづ、沙汰すべからず。此所(ここ)ヘ、女中の來(きた)る所に、あらず。決して、妖怪に違ひなし。廣く沙汰して、麁忽(そさう)の名をとりては、いかゞ。」[やぶちゃん注:語の使い方が不全であるが、かくい言っている本人が、内心、慌てふためいている感じを出していて、寧ろ、リアリティがあると言える。]

とて、奧家老下田某[やぶちゃん注:不詳。]、

「まづ、奧へ行(ゆき)て、島川どのに、逢はん。」

と、いひけるに、夕べより、不快のよしにて不ㇾ逢(あはず)。

「さては。あやしや。」

と、

「ちと、御目にかゝらねばならぬ急用事あり。」

と、せめけるにぞ、やむことを得ず、出(いで)て逢ひぬ。

 實(げ)にも、不快の體(てい)なれども、命に別條なければ、先づ、安堵して、兎角の用事にかこつけ、表へ出(いで)て、最前の場處へ行て見るに、かの首くゝり、段々と消えて、跡もなし。

 つきて居(をり)たる人々も、

「いつ、消(きえ)しとも、見へぬ。」

と、いふにぞ、

「扨は。妖怪に相違なし。但し、堅く沙汰するべからず。」

と、右[やぶちゃん注:「左右」の脱字か。]、口をかためて、別れぬ。

 そののち、此島川は、人を恨むる事ありて、自分の部屋にて首を縊り失(うせ)にき。

 此(これ)、前表(ぜんぴやう)[やぶちゃん注:悪しき予兆。]を示したるものなり。

 されば、人の云ひ傳ゆる事[やぶちゃん注:ママ。]、「妖氣の集(あつま)る處、怪をあらはしける」なるべし。

 彼(かの)忠太夫、後、藩中を出(いで)て、劍術の師をし居(をり)たりしが、語りけるなり。

 

怪談老の杖卷之四 藝術に至るの話 

怪談老の杖卷之四

 

    ○藝術に至るの話 

 上州烏川(からすがは)[やぶちゃん注:烏川は利根川右岸の支流(グーグル・マップ・データ)。上流は高崎を流れ、最上流は浅間山の東北の浅間隠山の北に当たる。]の邊に、□□□[やぶちゃん注:原本欠字とする。]といへる法師ありけり。

 本(もと)は大坂にて勝手よき町人なりしが、おかしき業(わざ)を好みて、終(つひ)に生產を破り、落魄無聊(らくはくぶりやう)の身となりぬ。

 まづ、鷄の玉子を投げあげて、箸を以て、挾みとる事を學びけるが、中々に玉子いくつといふ事もなく、破れける程に、家人、是を制して、

「無益なり。」

と諫めけれど、中々、承引せず、

「然らば、下に蒲團(ふとん)なりとも敷(しき)て、卵の破れぬ樣にして、習ひ給へ。」

と、いへば、答へていふ樣(やう)、

「たまごの破るゝにてこそ、『爰(ここ)にて、はさみ留(とめ)ん』とおもふ心、つよければ、自(おのづか)ら、手ごゝろに、味ひ、いできて、其道、成就こそするなれ、たまごをやぶらざらんまうけをせば、其道なるべからず。」

とて、人の嘲りをかへりみず、習ひける程に、年へて後は、十は十、百は百ながら、一ツもおとさず、はさみとりけり。

 かくして業は習ひけれども、產、漸く、是が爲に盡(つき)て、家を亡(なく)して、只、人の爲めに、たまごをはさみて、一座の興(きやう)を助け、それを家業の樣(やう)にて身を過(すぐし)たり。

 一年(ひととせ)、江戶へも來りけるが、傳馬町の桑名屋彌兵衞といふ者のがり[やぶちゃん注:「の方へ」。]、尋ね行て、主(あるじ)に逢ひて、いひけるは、

「此家に祕藏せらるゝ南京の皿、拾枚、有ㇾ之よし聞(きき)及びたり。願はくは、見たき。」と望みければ、彌兵衞、

「やすき事なり。」

迚、出(いだ)して見せけり。

 彼(かの)法師、皿を手に持(もち)て居(ゐ)けるが、

「某(それがし)に一ツのいやしき技藝あり。必(かならず)、驚き給ふな。」

と、いふを、あいづに、彼皿を向ひの床の上へ投げやりけるに、音もせず、手にて直(なほ)すよりも、靜(しづか)に居(ゐす)はりける。

 又、一ツを、投やりければ、ならびて、たがはず、其次へ直りぬ。

 十枚の皿、一ツも、あやまちなく居(ゐ)ならびたるに、あたかも、寸尺をはかりて、ならびたてたるがごとく、其間(ま)の長短、毫(がう)も、たがふ事なし。

 見る人、賞歎して、其妙に伏せずといふ事なし。

 此人、玉子をはさみ習ひてのちは、何にても、物のめあて・かね合(あひ)の事に、ならぬといふ事はなかりけり。

 常にきせるなど、いろいろ、手まさぐりにして、遊びなどしけるが、あるとき、傍に豆のありけるを、吸口の方へのせ、爪にてはじきやりければ、らう竹(ちく)のうヘを傳ひて、雁首(がんくび)にて、とまりけり。[やぶちゃん注:「らう竹」は「羅宇竹」で煙管(きせる)の火皿と吸い口とを繋ぐ竹の管を言う。「らう」は地名のラオスで、「羅宇」は当て字。ラオス産の竹を使ったことからという。]

 又、はじきやりて、豆、四粒を、皆、とめたり。

 末の豆、ひとつは、はぢく拍子に、さきなる豆にあたりて、飛びけるが、あやまたず、雁首の中へ入りける。其妙術、誠に神妙ふしぎ也。

 されば、物をふかくおもひ入れて、不ㇾ怠、習ひぬれば、妙處に至ること、皆々、此道理なり。芥子之助が豆と德利、みなみな、人の見る處なり。是、怪談にはあらねど、奇妙の話なれば、此にしるす。

 此法師、明和元年[やぶちゃん注:宝暦十四年六月二日(一七六四年六月三十日)改元。]、上州にて終れり。

 是も怪異の事にはあらぬが、珍らしき物語のあるなり。

 四ツ谷鹽町(しほちやう)といふ所に、近江屋新右衞門といふ人、有。[やぶちゃん注:「四ツ谷鹽町」現在の新宿区本塩町及び四谷三・四丁目相当(グーグル・マップ・データ)。町名は塩問屋の町であると同時に、当時の輸送機関である牛車の牛に塩を供給するための町でもあった(よくお世話になるサイト「江戸町巡り」のこちらを参照した)。]

 此小者に、名は何とかやいへる、十六、七の奴(やつこ)あり。

 此者の親は、彌兵衞とて、至極の不埓(ふらち)ものにて、酒を好み、夫(それ)ゆへ、身上(しんしやう)も潰(つぶ)して、中間奉公をして居(をり)けるが、男子、二、三人ありけるを、皆々、奉公させ、常に、子供の方(かた)を廻(まは)りては、わづかの給金の内を、せぶり[やぶちゃん注:「せびる」に同じい。]取りける程に、子供も、是を難儀して、

「此程(このほど)かしたる金は、主人に、割なく願ひ、かしたり。かへしたまへ。」

とて催促するをいとひて、[やぶちゃん注:ここからは「十六、七の奴」の「小者」が主語。]我が勤むる屋敷の名もいはず、元より一ツ家(いへ)に重年(ぢゆうねん)する事なく[やぶちゃん注:一年年季を次の年も継続して勤めることをしないこと。]、けふは、番丁に居れば、はや、牛込と、世上の臺所をかぞへて廻りける、しれものなりけり。

 爰に、天龍寺門前に八左衞門といへる、奉公人の肝煎(きもいり)を渡世とする男、あるとき、千駄ケ谷の何がしと云ふ、同じ仲間の家へ用事ありて行けるが、傍に、いと、やみほうけたる病人あり。八左衞門、つくづくと見ければ、我(われ)のしりたる者なれぱ、亭主にいふ樣は、

「是は彌兵衞にては無きか。」

といふ。

「いかにも。彌兵衞也。此者、此間より傷寒を煩ひて、ケ樣(かやう)にくるしみ居(を)れど、いづ方に、身寄(みより)の者有ㇾ之や、しらねば、我等、迷惑、言語同斷なり。わぬし、近付(ちかづき)ならば、身寄の者の有無は知りたらん。」

と問ひければ、八左衞門、

「此者には、れつきとしたる、をとこの子、二、三人もあり。其方(そのかた)へ渡してやられよ。」

といふ程に、亭主、よろこびて、子供の名・勤むる主人など聞きて、早速、新右衞門方へ人を遣はし、

「彌兵衞と申者、大病にて、存命、はかり難し。此子共、そこ元に相勤る由、相談致し度(たく)、尋來り候樣に。」

と云ひ遣しける。

 むすこは、是をきゝて、久しく逢はざる事なれば、驚きて、

『一兩日中に隙を貰ひ、見舞に行かん。』

と思ひけるうち、翌日、彌兵衞、死したり。

「只、今。」

と告來(つげきた)るに、主人も、ともに、驚き、先(まづ)、早速、千駄が谷へ行て、死人をみれば、やみほうけて、姿はかはりたれども、親に相違なし。

「扨も。かく早く死(しに)給ふをしらば、仕方もあるべきを、身持あしき人故、常にうらめしきとおもふばかりにて、逢ふたびに、しかりつけおく計(ばかり)にて、一日の孝行もせざりし事よ。」

と、口(く)どき、口どき、なげきけれども、甲斐なし。

 府中領[やぶちゃん注:武蔵国多磨郡府中(現在の東京都府中市内)にあった幕府領。]に惣領の子ありけるを、呼(よび)よせて、死骸をも、在所の旦那寺へ遣はし、形(かた)の如くのいとなみをして、跡を弔ひ、千駄谷の亭主へも、寸志の禮などおくりて、

「『親はなき、寄(より)』といへる世のことわざに違(たが)はず。なくてぞ、人は戀しかりけり。」[やぶちゃん注:「親はなき寄」「親は泣き寄り、他人は食い寄り」から)、「親子や親族など血縁の者は、何事につけても、真心から相談にのって呉れるということ。「親戚の泣き寄り」などとも言った。]

と、不孝にて過(すぎ)し事を、くやみ居(をり)ける。

 然るに、此新右衞門家に、十二、三の小ものあり。主人の使(つかひ)に市ヶ谷邊へ行きて、道くさをくひ、遊び居(をり)ける所へ、かの彌兵衞、此世にありし時の姿にて來り、後(うしろ)より、手を出して、目をふたぎけり。

「誰じや、誰じや。」

と云ひけれど、だまりて、ふたぎ居けるを、引放(ひきはな)し、顏を見ければ、彌兵衞也。「やれ、彌兵衞どのゝゆうれいが出たは。助け給へ。」

と、よばゝりて、色、眞靑になりて、逃けるが、うちに歸りて、

「やれ、恐ろしや、彌兵衞殿の幽靈につかまれまして。」

と、尾ひれをつけて、はなしけるを、

「何をかな、みて。」[やぶちゃん注:「どうせ、誰かを、見間違えたんじゃろ。」の意か。]

とて、とりあげざりしに、二、三日過(すぎ)て、今度は、近江屋へ來りぬ。

「それ、幽靈よ。」

と云程こそあれ、みせのもの共、皆、逃(にげ)て、内へ、はいる。

 彌兵衞は、心得ぬ顏色にて、上へあがり、此中(このうち)、これの小者に逢ひて、なぶりたれば、

「ゆうれいよ。」

とて、逃たりしが、

『氣違(きちがひ)の下地ならん。』[やぶちゃん注:「生まれつきの気狂い持ちなんじゃろう。」の意か。]

と案じ居りければ、

「けふは、皆々、ゆうれいといはるゝこそ、わけあるべし。」

と、いふ。

 その内、彌兵衞が子も歸りて、肝をつぶし、

「いかゞして來り給ふ。」

と云(いふ)に、彌兵衞、いよいよ、合點せず、

「われ、煩ひし事なく、そく才[やぶちゃん注:「息災」に同じい。]なり。千駄谷にて、はうぶりしは、人違(ひとちがひ)ならん。」

といふになりて、

「それ。」

と、いひ出して、俄に千駄谷の亭主・在所の兄へも、人、遣はし、よび集めて、詮議す。

 千駄谷にては、天龍寺前の八左衞門が口にて、人をやりて、その方(かた)たちへ知らせたり。

「元は、誰が親とも、誰が子ともしらぬ風來者なり。」

と、いふにぞ、いよいよ、人違ひにきはまりけれど、とかく、いひつのりて、すまず。

 終に、公裁(こうさい)に及びけるが、栗原何某殿[やぶちゃん注:不詳。]、町奉行の時の事なり。

 世忰共(よせがれども)[やぶちゃん注:弥兵衛の子供ども。]は干駄ケ谷を訴へ、千駄ケ谷は八左衞門を訴ふ。

 八左衞門、申けるは、

「わたくし千駄谷へ參り、病人を見候へば、彌兵衞によく似たれば、彌兵衞と申(まうし)、いかにも『彌兵衞』と申(まうす)に付(つき)、身よりの者の詮議になりて、子供の方(かた)を告知(つげし)らせ申(まうし)たる所、人違・不調法の段、恐れ入り奉りぬ。しかし、似たと申せば、是れほど、似たる者もなき事にて候。」

と、申ければ、町奉行、笑はせ給ひて、

「夫(それ)は、その方が見違(みちがひ)候段、相違あるまじ。そこに居る兄(あに)いどのが、似たればこそ、親とおもひて葬りたれ。いづ方のものといふ事はしれねど、因緣ありて弔ひ遣はしたるものとあきらむべし。たて。」

と宣(のたま)ふ。

 葬(はふり)の入用(いりよう)など、不身上(ふしんじやう)のもの[やぶちゃん注:経済的に困っている者。]、迷惑に及ぶ段、願ひければ、大(おほき)に呵(しか)り給ひて、

「其方共、現在の親を粗末に致せし段、申付(まうしつく)る筋(すぢ)あれども、寬大の御沙汰にて、さしゆるす處に、惡(に)くき奴(やつばら)なり。」[やぶちゃん注:対象が複数と思われるので「ばら」をつけた。]

と、呵られて、恐れ入りて、さがりけると、いへり。

 前代未聞、珍らしき物語なり。

[やぶちゃん注:標題は「藝、術(じゆつ)に至る」であるが、後者の話柄とは関係しないのが、まず、不満。内容も、前者はあってもちっともおかしくない奇談で怪談ではないし、後者は確信犯の疑似怪談で、明らかに落とし咄として作られてあって、息抜きのつもりかも知れぬが、リアリズムはあるものの、僅かな期待をも足元から掬われて読者も一緒に奉行から笑われた感じがして、私としては、何だか面白くも糞くもない。孝を諭すものとしても、親が親らしい存在でなく、子も最後のお裁きで豹変してしまい、全く機能していないから出来が悪いと言わざるを得ず、「名裁き」物としてなら、寧ろ、陳腐で、私は全く買わない。]

只野真葛 むかしばなし (20)

 

 ひばゞ樣、袖ヶ崎へ、はじめて對面に御下り被ㇾ成し時、

「とし月、まち得し人に逢(あふ)とて」

といふ、はし書(がき)にて、哥二首御おくり被ㇾ成しとなり。はし書ばかり、ばゞ樣、折々被ㇾ仰し故、おぽしたり。

 築地へ御うつり後、御老衰にて、つとめ、なりがたく、隱居願ひすみて後、下(さが)り被ㇾ成しが、一生御つとめ中の通(とほり)、被ㇾ下物、有しに、一月の小遣(こづかひ)にたらずして、いつも御たし被ㇾ成しとなり。

 目も、むつかしく、耳は、かなつんぼにて、聲たかく、雷のおちかゝるごとくなりし故、隣の人さへ、をそれしとなり。

 御つとめ中、御あてがいも、よけれど、物前(ものまへ)[やぶちゃん注:正月・盆・節句などの前。物日の前。]には、二十兩・三十兩程づゝ、御むしん、申來(まうしきたり)、御だしくり被ㇾ成しとなり。

 ぢゞ樣には、築地へ御うつり被ㇾ成て、餘り年もへず、御死去被ㇾ成しとなり。袖ケ崎にて御看病仰られし疲れが、もとゝ成し由なり。

 其頃、ひばゞ樣、老後のこと故、御悼《いた》みもや、と御あんじ被ㇾ成しに、

「おゑんさへあれば、よい。」

と被ㇾ仰しとなり。

 其後、しばらく、御ながらへ、母樣御引こし後、五、六年も、いらせられ樣(やう)の御はなしなりし。

 ばゞ樣は、酒、御好(おこのみ)なれども、ぢゞ樣、あがらぬ故、御遠慮にて、ひしと、やめていらせられしを、ぢゞ樣、御かくれ後、ひばゞ樣、いづかたにて聞(きき)だされしや、酒を御(おん)とゝのへ、ある夜、御よび被ㇾ成て、

「今までは、しらで有しが、酒をまゐるよし聞(きき)し間(あひだ)、氣ばらしに進(すすむ)る。」

と被ㇾ仰て、御そばにて、酒を上られしが、

「一度(ひとたび)さやうに被ㇾ成てより、每夜、かくること、なし。いやでも、あがらねばならず、是も氣のつまりしもの。」

と被ㇾ仰し。

 ひばゞ樣、居間へは、每夜、五十目懸(がけ)のろうそく二丁ヅヽたてゝ、

「あれでも、くらい。くらい。」

と被ㇾ仰て、御目のあしきとは、おぽしめさず、

「芯をとれ。芯をとれ。」

と、ろうそくを御せめ被ㇾ成しとなり。

[やぶちゃん注:サイズ:「五十目懸のろうそく」五十匁(もんめ)の蠟燭で、重さ百八十七・五グラムで、現在の蠟燭店のサイトで見ると、高さ二十七センチメートルもあり、燃焼時間は約九時間という甚だ大な蠟燭である。]

 

 ぢゞ樣には茶の湯も被ㇾ成しなり。其代(しろ)にとゝのへられしといふ道具、かれ是、有し。袖ケ綺にてのことなるべし、何かの序(ついで)に、小倉色紙の書樣(かきやう)のはなしいでし時、ぢゞ樣、

「いで、墨すりて持てこよ。書(かき)て見せん。」

と被ㇾ仰て、卽座に御書被ㇾ成しとて、蟲干に、いでしを、おぼえたり。老筆のやうなりしを、

「うべなり、ぢゞ樣の御手よ。」

と、子心(こどもごころ)におもへて有しが、其頃の御年延《としばい》は、さいふばかりには、あらざりけり。よくもあしくも、百枚の書(かき)やう、そらに御おぽへ被ㇾ成候は、氣根の内なるべし。

[やぶちゃん注:「年延《としばい》」年を重ねて思慮分別のあること。]

 

 袖ヶ崎にて、三年ばかり、めしつかはれし、「ふで」といふ女、十六にて參りしが、

「なみなみの下女ならず。」

と、さほど行儀高なるぢゞ樣も、御ほめ被ㇾ成しとなり。一度、「是はかうせよ」と仰付られしこと、いつまでもたがうこと、なし。しごく、實ていなるものなりしが、料理人森井藤九郞妻となりて、其緣によりて、同人、出入、しそめたり。

 ぢゞ樣には、そうぞくむき[やぶちゃん注:「裝束向き」で「家屋・道具などを飾りつけたり、整えて支度したりすること・設(しつら)えの意。]、巧者にて有し。傳馬町へ、借地被ㇾ成、普請の時、

「醫師は大名より進物をとりいるゝもの故、玄關せまくては、大臺(おほだい)をとりまわすに、見ぐるしゝ。」

とて、二間口と被ㇾ成しが、御言葉のごとく、ほどなく、諸大名、おびたゞしき御出入となりしとなり。

 かゝへ屋敷も、三ヶ所、有し。御家へ、めしかゝへとなりし時、町の病家と居(ゐ)やしきを、高弟元てきへ御ゆづり被ㇾ成、

「工藤といはずば、人がうけ引(ひく)まじ。」

とて、苗氏まで被ㇾ下し故、元てきがためには粗略にならぬ大恩の師なり。

 二代目元てきの妻は、京ものにて、顏かたち相應にて人がらよく、年禮には、每年、來りしをおぼへたり。中年にて先夫、死(しし)、町醫のこと故、其後家に人をいれて、

「あとの世話させる。」

とて、今の元てきは、來《き》し人なり。

 中の元てきの娘、壹人、有しを、小山玄眞が妻にしたるなり。京女も中年にて不幸、今の元てき妻は、其時の下女なりしが、手をつけられて、身重(みおも)となりし故、

「うみおとすまで。」

とて、おきしを、肥立(ひだち)て後(のち)、いとまつかはせしに、其下女、石を兩袖に入(いれ)て、

「たゞ今、下りて、生きてをらんと、おもはず。ながき、わかれの覺悟なり。」

とて、泣きしを、元てき、ふびんにおもひて、

「乳母がはり。」

とて、とゞめしが、いつとなく、奧樣になりしなり。

[やぶちゃん注:「中の元てき」この「工藤元てき」という弟子は三代いたようで、「中の」とは、その「二代目の」の意のようである。]

 

 此外、一はたの町醫と成し弟子、兩人有しが、皆、名をわすれたり。先生へ、きげんうかゞひに、時々、あがらねばならぬを、袖ヶ崎は遠方故、いひあはせて、ふたりづれにて上(のぼ)りしに、壹人(ひとり)は、ぢゞ樣流の、かた人にて、金持なり。壹人は當世人(たうせいじん)にて有しに、寒中、御きげんうかゞひの歸りに、御門をでると、うす日ぐれ、シヤレ人[やぶちゃん注:後者の弟子。]は、家までかへるが、しきりに、いやなり、

「品川に、とまれ、とまれ。」

と、すゝめるを、金持は、不承知なり。爰が品川の内の方かといふ所に、立(たち)て、あらそふに、金持、[やぶちゃん注:以下金持ち弟子と洒落人弟子の丁々発止の言い合いが当時の口語表現で面白く挟まれてある。]

「そんなら、きさま懷中に金があるか。」

「いやもちあわせはない。」

「夫《それ》みろ。金もなくて、どう、あそばれるものか。」

「いや夫《それ》はどうでもなる。」

「どうでもなるなら、こなたばかり、とまれ。おれは内に用が有(ある)。無懷(ふところなし)で遊ぶより、おれが所へよつて、茶づけでも、くつた方が得で有(あら)ふ。」

と、すゝめられ、堅《かた》人(びと)の方、少し、先弟子(さきでし)故、それにまけて、から風(かぜ)が出(い)で、さむいに[やぶちゃん注:ママ。]、心は、あとへのこりながら、歸ると、堅人の方は、少しちかく、通道(とんほりみち)故、入(いり)て夜食をいだす所が、香の物で、茶漬めし、うまくもなけれど、くひ終り、たばこ、のんでゐると、堅人、たつた今、懷からだしておいた鼻紙袋の中から、金入(かねいれ)をとりいだし、廿兩ばかりの金を

「チヤンチヤン」

と、かぞへて見せて、又、入(いれ)ておきしとなり。

 殊の外、くやしがりて、一生のはなし草にせしとなり。

 

 ぢゞ樣は、金は多くもたれしが、人にかすことは大きらいにて有しとぞ。

 袖ケ崎にて、金持と見こみて、

「二十兩、くり合(あはせ)もらひたし。」

と、いひ人し人、有しに、

「やすきほどのことながら、私(わたくし)、金のかし人(びと)[やぶちゃん注:金を貸す側になることは。]、きらいなり[やぶちゃん注:ママ。]。されど、左樣にいはるゝは、餘儀なき事なるべし。」

とて、のしを付て、進物(しんもつ)に被ㇾ成しとなり。

「それより後、無心いふ人、なかりし。」

と、ばゞ樣、御はなしなり。

 ぢゞ樣御かくれ後、とかく、くらしかた、手[やぶちゃん注:費用。]、はりたるまゝにて、渡物(わたりもの)ばかりにては、たらず、年々、有金(ありがね)三十兩ぐらい、たして御くらし被ㇾ成候となり。

 父樣御はなしに、

「人には『金持』といはれしが、其時よりは、地切(ぢきれ)に成(なり)て、くらすかた、こゝろよし。『年々、足し金して、是がつきたら、いかゞせん』と思ふは、行詰(ゆきづま)つたやうで、わるかりし。」

と被ㇾ仰しが、町屋敷なども、だんだん、なくなりし。

[やぶちゃん注:「地切」本来は「損得・過不足のない状態。収支がつりあった状態」を指す語で「じぎり」とも言う。さればこそ、「くらすかた、こゝろよし」という感想が出るようにも思えるのだが、以下の部分からは、以前から貯蓄しておいた「もともと持っている自分の金」を不足分に足して切り崩しているわけで、ここは結果、後者でとるべきであろう。]

横浜市金沢図書館開催の横浜市埋蔵文化財センター主催『「横浜の遺跡展」野島貝塚ー環境変動にみる縄文時代早期』の御案内

現在、横浜市金沢図書館で開催されている横浜市埋蔵文化財センター主催「横浜の遺跡展」野島貝塚ー環境変動にみる縄文時代早期
会場:横浜市金沢図書館 エントランス
時間:火曜日~金曜日 午前9時30分~午後7時00分、
   土曜日~月曜日、祝(休)日 午前9時30分~午後5時00分
休館日:3月15日(月)、4月19日(月)
料金:無料
主催:(公財)横浜市ふるさと歴史財団 埋蔵文化財センター
共催:横浜市金沢図書館
交通:京浜急行・シーサイドライン「金沢八景」駅徒歩7分/京急バス停「洲崎」下車徒歩6分(4、文15系統)
【期間】令和3年3月5日(金)~4月27日(火)
には、私の父藪野豊昭(健在)とその親友の故宇野小四郎氏(「ひょっこりひょうたん島」で知られる人形劇団「ひとみ座」の元座長)の二人で昭和22(1947)年に発掘調査した際の調査資料記録(父が横須賀市に寄贈したものの借り受け展示)が展示されています。写真は企画展チラシと、父と私に御礼として送付されてきた『埋文よこはま』43号企画展特大号の中の、その紹介ページです。
野島貝塚出土のイノシシ上顎骨図の描画など、私が言うのも何だが、描画――凄い!――
4月27日まで行われています。
お近くに行かれたら、ちょっと覗いて見て下されば、恩幸、これに過ぎたるはありません。
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大和本草附錄 裙帶菜 (ワカメ/エンドウ)

 

食物本草ニ所載ワカメナリ救荒野譜所

載爲豌豆葢二物而同名者也多食スレハ腹痛ス

○やぶちゃんの書き下し文

「食物本草」に載する所の「わかめ」なり。「救荒野譜」に載する所、「豌豆〔(ゑんどう)〕」と爲〔(な)〕す。葢し、二物にして名を同じくする者なり。多食すれば、腹痛す。

[やぶちゃん注:同名異物の追加記載であるが、一方が海産藻類なのでピックアップした。益軒は本巻で既に「大和本草卷之八 草之四 裙蔕菜(ワカメ)」として挙げている。そこで私は記載から、

褐藻綱コンブ目チガイソ科ワカメ属ワカメ Undaria pinnatifida

の他に本邦に分布する同属の非常によく似た、

アオワカメ Undaria peterseniana

ヒロメ Undaria undarioides

を挙げた。詳しくはそちらの私の注を読まれたい。因みに「エンドウ」は、

被子植物門双子葉植物綱マメ目マメ科マメ亜科エンドウ属エンドウ Pisum sativum

である。

「食物本草」明の汪穎(おうえい)の撰になる食療食養専門書。

「救荒野譜」明の王西樓の撰で、同じく明の姚可成の校訂になる救荒植物譜。和刻本は享保元(一七一六)年に刊行されている。しかし、同書を「東京国立博物館デジタルライブラリーで二度縦覧したが、「裙帶菜」は見つからなかった。不審。

「多食すれば、腹痛す」どちらもそうなるから、まあ、いいか。

 さて、「大和本草附錄巻之一」には以上を以って純粋に水族と規定し得ると考える植物は他に載らないと判断する。]

大和本草附錄 朝鮮昆布(てうせんこんぶ) (アントクメ?)

 

朝鮮昆布 裙帶菜ニ似テ廣サ四寸許長コト三尺

許形狀昆布ニ似タレドモ短薄ニテ氣味モ裙帶菜

ニ似タリ西州ノ海ニ生ズ

○やぶちゃんの書き下し文

朝鮮昆布(てうせんこんぶ) 裙帶菜(わかめ)に似て、廣さ四寸許り、長きこと、三尺許り。形狀、昆布に似たれども、短薄〔(たんはく)〕にて、氣味も裙帶菜(わかめ)に似たり。西州の海(うみ)に生ず。

[やぶちゃん注:「大和本草卷之八 草之四 昆布 (コンブ類)」の追記であるが(「昆布」は不等毛植物門褐藻綱コンブ目コンブ科 Laminariaceae に属する多数のコンブ類の総称であり、「コンブ」という種は存在しない。含まれる種はリンク先の私の注を参照されたい)、これは同定が難しい。朝鮮半島にもワカメもコンブ類も植生するが、益軒の記載はコンブに似ているが、藻体が短くて薄く、味はワカメに似ているというのだから、「ややこしや」である。「朝鮮」と冠したのは、チョウセンハマグリと同じで、本来の本邦の真正種と異なるものへ附ける、本邦の勝手な和名の常套手段だから(チョウセンドジョウ=カムルーチのように朝鮮半島に棲息する生物の場合もあることはある)、ますます困るのである。少なくとも、この異名は現行では見当たらない。「短薄」で味がワカメに近いという条件から考えると、

コンブ目チガイソ科アイヌワカメ属チガイソ(千賀磯)Alaria crassifolia

アイヌワカメ属ホソメコンブ(細目昆布)Saccharina religiosa var. religiosa

ミツイシコンブ(三石昆布=日高昆布)Saccharina angustata

が候補となろうが、これらは実は孰れも本邦の北方種で「西州」には植生しないから、実は全部ダメなのである。ワカメも伊豆半島以南の暖流に曝される西日本では殆んど採れない。そうなると、西日本でワカメの代用品として用いられた(「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のアントクメの旧ページを参照されたい)、

コンブ目コンブ科カジメ属アントクメ(安徳布)Ecklonia radicosaura

が候補となろうか。グーグル画像検索「アントクメ」の内、生体写真を見て戴くと判るが、生時のアントクメはくすんだ黄色から緑色を呈していることが判る。何より、和名が安徳天皇由来で、西海と親和性が強くあるからである。ぼうずコンニャク氏は『和名アントクメは文治元年(1185年)』、『壇の浦の戦いに敗れた平家と運命をともにして入水した安徳帝(安徳天皇)による」。参考文献/「日本産コンブ類図鑑」川嶋昭二 北日本海洋センター』とあり、壇の浦附近で獲れなくては「名にし負」わぬことになってしまうわけで、続いて、『伊豆半島以南太平洋側の岩礁行きに棲息する』とあるから問題ない。『形はやや細長いうちわ状。表面にコブ状の凸凹がある。春先から初夏にかけて採取され、利用される』。『伊豆半島仁科では「しわめ」、土肥では「とんとんめ」』と呼ばれ、『これはワカメほどの旨味味わいはないけれど』も『美味』とされ、『また』、『みそ汁などに使うときには水で戻したものを適当に切り、それをみそ汁に入れるだけ。これなど』、『ワカメだけの日常的海藻利用に変化があっていい』と述べておられる。以上から、私はこれをアントクメに比定したい。

「裙帶菜」「裙帶」は「くんたい・くたい」とも読む。十一~十二世紀頃の公家の女房たちが晴装束の際に裳 の腰につけて左右に垂らした紐のことである。中国風のもので、羅 (ら) などの薄布で作られた。異なった色が相半ばするのを特徴とする。八世紀頃の裾 (きょ) に附されていた飾りの縁が、独立して装飾化したものと思われ、染色を施したものがある。儀式以外では五節(ごせち)の舞姬などが着用した。これを「わかめ」とも読むが、それは次項の「裙帶菜」を参照されたい。]

大和本草附錄 うけうと (おきゅうと)

 

ウケウト 海草也煮テトコロテンノ如クカタマル。コンニヤ

クノ色ナルモアリ非佳品不可食

○やぶちゃんの書き下し文

うけうと 海草なり。煮て、「ところてん」のごとく、かたまる。こんにやくの色なるも、あり。佳品に非ず。食ふべからず。

[やぶちゃん注:益軒にしては加工食品の独立であるが、原料が海藻であるから採り上げる。所謂、福岡の名物「おきゅうと」である。当該ウィキによれば(太字下線は私が附した)、『おきゅうととは、福岡県福岡市を中心に食べられている海藻加工食品。「お救人」』、『「浮太」、「沖独活」』『とも表記される』。『成分の内訳は96.5』%『が水分、残りのうちタンパク質が0.4%、炭水化物が3%、灰分が0.2%である』。『すなわち』、『栄養は高くないが、独特の食感などが評価されている』。『江戸時代の』「筑前国産物帳」では『「うけうと」の名称で紹介されている』。『元来は福岡市の博多地区で食したが、その後福岡市全体、九州各地に広がる。福岡市内は、毎朝に行商人が売り歩き、専門の製造卸が1997年ごろに約10店あった』。『福岡県内は1990年代から』主『原料のエゴノリの不漁が続き、2000年代は石川県の輪島市などから仕入れている。主食が米飯からパンなどへ変わりつつあることから』、『消費が低迷している』。『原料のエゴノリ(「えご草」、「おきゅうと草」、博多では「真草」)と沖天(イギス、博多ではケボ)やテングサ』(私の後注を必ず参照)『をそれぞれ水洗いし、状態を見ながら天日干し』『を1』~『5回繰り返す。歩留まりは7割程度だが、本工程を省くと風味が劣り』、『色調が黒く仕上がる。テングサは香りが薄れるため、自家用の場合は洗う回数を減らすことがある』。『次にそれぞれ天日干したえご草と沖天をおよそ7:3から6:4の割合で混ぜ、よく叩く』。『酢を加えて煮溶かしたものを裏ごし、小判型に成型し』、『常温で固める』。『博多では、小判型のおきゅうとを丸めたものが売られている』。『良し悪しとして、あめ色でひきがあるものは良く、黒っぽいあめ色のものは好まれない。緑色のものには、「おきゅうと」として売られているが』、『まったく』、『えご草が使われていないものもあり、天草が主原料のものは「ところてん」で「おきゅうと」ではない』。『新潟県や長野県では、えご草のみを原料に、おきゅうとと製法が同じ「いごねり(えごねり、えご、いご)」が食される。おきゅうととの製法上の相違点は、えご草を天日干しせず、沖天を使用しないところである』。『5ミリから1センチの短冊状に切り、鰹節のうえに薬味として』、『おろし生姜またはきざみねぎをのせ生醤油、芥子醤油、ポン酢醤油、ゴマ醤油などで食す。もっぱら朝食の際に食す』。『語源は諸説あり』、『沖で取れるウド』・『キューと絞る手順』。『享保の飢饉の際に作られて「救人(きゅうと)」と称された』・『漁師から製法を習い「沖人」』『などが挙げられる』。『第二次世界大戦前の博多では、他の地方の』「納豆売り」や「しじみ売り」の『ように、明け方から』「おきゅうと売り」が『売り歩』き、その『掛け声は』「おきうとワイとワイ、きうとワイ」『だった』とある。『山形県、秋田県、新潟県、長野県安曇野地方で食されている「えご」「いご」「えごねり」「いごねり」や宮崎県の「キリンサイ」も、形は少し異なるが』、『紅藻類の海藻を用いる点で共通しており、同様の食品である』。『えごは、飢饉の際に漁師が見つけた海草を煮詰めて固めたもので、飢えをしのいだ事が由来とされる』とある。則ち、その主原料は、

紅色植物門真正紅藻綱イギス目イギス科エゴノリ属エゴノリ Campylaephora hypnaeoides

である。当該ウィキによれば、『分枝する糸状の藻体をもち、胞子体は長さ 15』~『25 cm、配偶体は数cmになる。大型の海藻、特にホンダワラ類(褐藻綱)のヤツマタモク』(褐藻綱ヒバマタ亜綱ヒバマタ目ホンダワラ科ホンダワラ属ホンダワラ亜属ヤツマタモク(八ツ股藻屑)Sargassum patens)『やヨレモク』(ホンダワラ属バクトロフィクス亜属 Bactrophycus ハロクロア節 Halochloa ヨレモク(撚れ藻屑)Sargassum siliquastrum)『に着生して生育する』。『枝の先端が鈎状になり、絡み付いて塊になる。北海道から九州、韓国、中国から報告がある』。『広く食用とされ、特に煮溶かして固めた料理は日本海側を中心に「いごねり」・「えごねり」(佐渡島)、「いご」・「えご」(新潟県、長野県)、「うご」(京都府)、「おきゅうと」・「おきうと」(福岡県)などの名称で利用されている』。『2012年現在、天然資源の採取に頼っており、主要な産地は青森県であるが、好不漁の変動が大きい』。『養殖技術の開発も試みられている』。『イギス目イギス科』Ceramiaceae『に属するイギス』(海髪)Ceramium kondoi や同属アミクサ(網草)Ceramium boydenii 『も同様に煮溶かして固めたもの(いぎす豆腐など)が食用とされる』。『「おきゅうと」の配合品として用いられることもある。また』、『名前が「エゴノリ」と似た』、『刺身のつまなどに利用される『「オゴノリ」』(真正紅藻綱オゴノリ目オゴノリ科オゴノリ属オゴノリ Gracilaria vermiculophylla )『は全く別の紅藻であ』るので注意が必要である。

次に副材料として加えるものは、

真正紅藻綱マサゴシバリ亜綱イギス目イギス科ギス連イギス属イギス(海髪Ceramium kondoi

及び、テングサとあるのであるが、天草(テングサ)類は紅色植物門真正紅藻綱テングサ目テングサ科 Gelidiaceae の総称であって、テングサという種は存在しないので少し面倒である。幸い、既に「大和本草卷之八 草之四 海藻類 心太 (ココロフト=トコロテン)」で詳細に注をしてあるので、そちらを見られたい。

「佳品に非ず。食ふべからず」益軒は福岡の現地人でありながら、許し難い罵詈雑言であると福岡出身の方は言うであろう。但し、私は如何なる海藻も自身で生で齧って試すほどの海藻好きであるが、実は「おきゅうと」は別して例外で、食べないわけではなく、出されれば、食べるが、しかし、好んでは食べないし、自分で買ったことも一度もない。あの中途半端な食感がかえって海藻由来らしくないからかと思う。だから、何となく、益軒のこの暴言は判らぬでもないというのが正直な感想なのである。]

怪談老の杖卷之三 狸寶劍をあたふ / 怪談老の杖卷之三~了

 

   ○狸寶劍をあたふ

 豐後の國の家中に、名字は忘れたり、賴母といふ人あり、武勇のほまれありて、名高き人なり。

 その城下に化ものやしきあり、十四、五年もあきやしきにてありしを、

「拜領して住居仕度(すまゐしたき)。」

段、領主へ願はれければ、早速、給はりけり。

 後に山をおひ、南の方、ながれ川ありて、面白き所なれば、人夫を入れて、修理(しゆり)おもふ儘に調ひて、引うつりけるが、まづその身ばかり引(ひき)こして、樣子を伺がひける。

 勝手に、大いろり、切りて、木を多くたき、小豆がゆを煮て、家來にも、くはせ、我も喰ひ居たり。

 未だ、建具などは、なかりければ、座敷も取はらひて、一目に見渡さるゝ樣なりしに、雨戶をあけて、背の高さ、八尺ばかりなる法師、出來れり。

 賴母は、少もさわがず、

『いかゞするぞ。』

と、おもひ、主從、聲もせず、さあらぬ體(てい)にて見て居ければ、いろりへ來りて、

「むず」

と座しけり。

 賴母は、

『いかなるものゝ、人にばけて來りしや。』

とおもひければ、

「ぼうづ[やぶちゃん注:ママ。]は、いづ方の物なるや。此やしきは、我れ、此度(このたび)拜領して、うつり住むなり。さだめて其方は此地にすむものなるべし。領主の命なれば、はや、某(それがし)が家舗に相違なし。其方さへ、申分(まうしぶん)なくば、我等に於てはかまひなし。徒然(つれづれ)なる時は、いつにても、來りて話せ。相手になりてやらん。」

と云ひければ、かの法師、おもひの外に居なほりて、手をつき、

「奉畏(かしこみたてまつり)し。」

と、いひて、大に敬(うやま)ふ體(てい)なり。

 賴母は、

『さもあらん。』

と、おもひて、

「近々、女房どもをも、引つれてうつるなり。かならず、さまたげをなすべからず。」

と、いひければ、

「少しも不調法は致し申まじ。なにとぞ、御憐愍(ごれんびん)にあづかり、生涯を、おくり申度(まうしたし)。」

と、いひければ、

「心得たり。氣遣ひなせそ。」

といふに、いかにも、うれしげなる體(てい)なり。

「每晚、はなしに來(きた)れよ。」

と、いひければ、

「難ㇾ有存候。」

とて、その夜は歸りにけり。

 あけの日、人の尋ねければ、

「何もかはりたる事なし。」

と答へ、家來へも、口留したりける。

「もはや氣遣なし。」

とて、妻子をもむかへける。

 かゝる人のつまとなれる人とて、妻女も心は剛(かう)なりけり。

 あすの夜も、また、來りて、いろいろ、ふる事など、語りきかせけるに、古戰場の物語などは、誠にその時に臨みて、まのあたり、見聞するが如く、後は座頭などの、夜伽するが如く、來らぬ夜は、よびにもやらまほしき程なり[やぶちゃん注:「程なり」は底本では「樣なり」であるが、所持する版本の表記のこちらの方が文意には相応しいので、そちらを採った。]。

 然れども、いづ方より來(きた)るとも、問はず、語らず、すましける、あるじの心こそ不敵なりける。

 のちには、夏冬の衣類は、みな、妻女かたより、おくりけり。

 かくして、三とせばかりも過ぎけるが、ある夜、いつよりはうちしめりて、折ふし、なみだぐみけるけしきなりければ、賴母、あやしみて、

「御坊は、何ゆへ、今宵は物おもはしげなるや。」

と問はれければ、

「ふと、まいり奉しより、是まで、御慈悲をくはへ下(くださ)れつるありがたさ、中々、言葉には、つき申さず。しかるに、わたくし事、はや、命數つきて、一兩日の内には、命、終り申なり。夫につき、わたくし子孫、おほく、此山のうちにをり候が、私(わたくし)死後も、相かはらず、御(ご)れんみんを願ひ奉るなり。誠に、かく、あやしき姿にも、おぢさせ給はで、御ふたりともに、めぐみおはします御こゝろこそ、報じても、報じがたく、恐ながら、御なごりをしくこそ存候。」

とて、なきけり。

 夫婦も、なみだにくれてありけるが、彼(かの)法師、立(たち)あがりて、

「子ども、御目見えいたさせ度(た)しと、庭へ、よびよせおき申候。」

とて、障子を開きければ、月影に數十疋のたぬきども、あつまり、首をうなだれて敬ふ體也。

 かの法師、

「かれらが事、ひとへに賴みあぐる。」

と、いひければ、賴母、高聲(かうせい)に、

「きづかひするな。我等、めをかけてやらん。」

と云ひければ、うれしげにて、皆々、山の方へ行ぬ。

 法師も歸らんとしけるが、

「一大事を忘れたり。わたくし、持傳へし刀あり。何とぞ、さし上げ申たし。」

と、いひて、歸りけり。

 一兩日過(すぎ)て、賴母、上の山へ行(ゆき)てみければ、いくとせ、ふりしともしらぬたぬきの、毛などは、みな、ぬけたるが、死(しし)いたり。

 傍(かたはら)に、竹の皮にてつゝみたる長きものあり。

 是、則(すなはち)、「おくらん」と云へる刀なり。

 ぬき見るに、その光(ひかり)、爛々として、新(あらた)に砥(とぎ)より出(いだした)るがごとし。

 誠に無類の寶劍なり。

 依ㇾ之、賴母、つぶさに、その趣きを書(かき)つけて、領主へ獻上せられければ、殊に以(もつて)御感(ぎよかん)ありけり。

 今、その刀は中川家の重寶となれり。

[やぶちゃん注:「中川家」江戸時代の豊後国(現在の大分県の一部)にあった岡藩(藩庁は岡城(現在の大分県竹田竹田。グーグル・マップ・データ)は、織田信長・豊臣秀吉に仕えた中川清秀の子で播磨国三木城主であった中川秀成が、文禄三(一五九四)年に岡城に入封し、彼は「関ヶ原の戦い」で東軍に属したため、徳川家康より所領を安堵され、一度の移封もなく、廃藩置県まで中川氏が藩主として存続した。本書では、有意に古い時代の設定をしたものがないから、この頼母なる人物も岡藩藩士と読んで、特段、問題はあるまい。]

2021/03/08

怪談老の杖卷之三 狐のよめ入

 

   ○狐のよめ入

 上州のたばこ商人(あきんど)に、高田彥右衞門と云ふ者あり。神田村[やぶちゃん注:群馬県藤岡市神田じんだ:グーグル・マップ・データ)か。]といふ處に住みけり。

 或時、同村の商人仲間とつれ立て、□□□[やぶちゃん注:底本では枠囲みで『原文脫字』とある。所持する版本も、ほぼ三字分である。]村と云ふ所へ行(ゆき)、日くれて歸るとて、はるかむかふに、三百張(ぱり)ばかり、提燈の來る體(てい)なり。

 三人ながら、

『あやしき事かな。海道にてもなければ、大名衆の通り給ふべき樣もなし、樣(やう)あらん。』[やぶちゃん注:「樣あらん」は、「具体には判らぬけれど、何か特別な訳があるのだろう」の意。]

と、おもひて、高き處へあがりて、見て居(をり)ければ、通りより少し下に、田のありける中を、かの、てうちん、とをりけるが[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]、かちのもの[やぶちゃん注:「徒(かち)の者」。徒侍(かちざむらい)。徒歩で供奉する武士、或いは、行列の先導を務める侍。]・駕わき[やぶちゃん注:駕籠の脇に付く番士。]・中間(ちゆうげん)・おさへ[やぶちゃん注:行列の最後にあって、前の散乱を指摘して整える者。殿(しんがり)。]、六しやく[やぶちゃん注:「六尺」前後で駕籠を担ぐ役を言う。「怪談登志男 廿七、麤工醫冨貴」の私の注を参照。]、なに一(ひとつ)でもかけたる事、なし。

 てうちんには、紋所なく、明りも、常のてうちんとは、かはりて、たゞあかくみゆるばかりなり。

 田の中を、ま一文字に、とをりて、むかふの林の中へ入(いり)ぬ。

「扨こそ。『狐のよめ入(いり)』といふもの、なるべし。」

と、いひあへり。此村の近處には、「きつねのよめ入」といふ事、度々、見たる人あり、といへり。

[やぶちゃん注:ちょっと、ぞくっとした。私の父は若き日、敗戦の後、考古学者酒詰仲男先生とともに群馬県多野郡神流(かんな)町の神流川(グーグル・マップ・データ)上流で縄文・弥生の遺跡発掘をしたが、その時、泊まった農家の向かいの山に幾つもの灯が列を成して登ってゆくの見、主人に尋ねると、「狐の嫁入りじゃ」とこともなげに答えたというのだ。この「神田村」は――その神流川の下流に――ある――のである!

怪談老の杖卷之三 慢心怪を生ず

 

   ○慢心怪を生ず

 藤堂家の家士に、藤堂作兵衞といふ人あり。

 力つよく、武藝に達し、容貌も魁偉なる士なり。

 常に、自ら、材にほこりて、

『世にこはきものは、なき。』

と、思へる慢心ありしに、江戶屋敷にて、座敷に、ひとり、書物など讀(よみ)て居(ゐ)ければ、なげしの上に、女の首計(ばかり)ありて、

「からから」

と笑ひ居(ゐ)けり。

 作兵衞、不敵の人なれば、白眼(にらみ)つけて、

「何の妖怪ぞ。」

と、

「はた」

と、ねめければ、きへうせけり。

 とかくして、厠(かはや)へ行たくなりければ、ともしびを持行けるに、雪隱(せつちん)の窓より、外に、今の女の首ありて、

「けらけら」

と、笑ひけり。

 その時は、少し、こはき心おこりしかど、目をふさぎて、靜(しづか)に用事を達し、立出(たちいで)て手を洗ひ、座敷になをり[やぶちゃん注:ママ。]しは、覺えけれども、昏沈(こんぢん)して、其後(そののち)の事を、覺えず。

 傍(そば)につかふ者共、見付て、いろいろ、介抱して、正氣づきぬ。

 夫より、慢氣する心をば、持(もた)ざりけり。

「そののちは、なにも、あやしき事はなかりし。」

と、いへり。

 作兵衞、直(ぢき)の物語りなり。

[やぶちゃん注:短篇ながら、実話怪談としての殆んどの必要条件の実証要素を含んだ優れものである。実在する藤堂家で、しかも藤堂を名乗る主家筋に家臣の、直接の聴き取りである。彼のいる屋敷(次注参照)が孰れかがしっかりと示されていれば、完璧だった。

「藤堂家の家士に、藤堂作兵衞といふ人あり」「藤堂家」と言えば、伊勢安濃(あの)郡安濃津(あのつ:現在の三重県津市)にあった津(つ)藩の当主が有名。​そうして、ズバリ、その重臣の家系に藤堂作兵衛家があるのである。初代藩主藤堂高虎(弘治二(一五五六)年~寛永七(一六三〇)年)の母方の従兄弟(高虎の叔母が忠光の父箕浦忠秀の妻)であった藤堂作兵衛忠光を初代とする。サイト「藤堂高虎 ​藤堂高虎とその家臣」のこちらによれば、『箕浦氏は、近江国箕浦庄に拠った国人で、高虎の出身地とは近いため』、『縁戚関係を結んだものと思われます』。『忠光は当初、織田信忠や寺西筑後守に仕えましたが、高虎が紀伊国粉河城主となったときにその家臣となります。以後、忠光は朝鮮役や関が原戦で戦功を挙げ、高虎から侍組を預けられて士大将となります。大坂の陣にも高虎の信頼する重臣として出陣の命を受け取りますが、惜しい哉、病に倒れ、慶長十九年十月死去しました』。『忠光には兄と弟がいました。兄の箕浦大内蔵忠重は早くから明智光秀に仕え、本能寺の変に際しては寺内に突入して勇戦しますが、明智家の滅亡により流浪。後に豊臣秀長、秀保に仕え、大和中納言家断絶後は浅野長政に仕えています。末弟の箕浦少内家次は忠光と同じく高虎に仕えました』。『忠光の死去後、嫡子・忠久が家督を継ぎ、大坂冬の陣に叔父・家次の補佐を受けて父の侍組を率いて従軍、翌年は新七郎良勝の相備として出陣しています。但し忠久は病弱であった模様で士大将の職を自ら辞しています。高虎は信頼する忠光の長男でもあり、何処にでも療養に行く』よう、『懇ろの扱いとしましたが、寛永六年』、『若くして病死しました』。『忠久の嫡子・忠季は未だ幼少で勤務には早かったため禄高は半減し五百石とされましたが、高虎はこの幼い後継者が心配だった様で、自らの娘と婚約させています』とあり、下方の系図では、第四代藤堂作兵衛光狎(読み不詳)まで記されてある。この直系と見て間違いあるまい。なお、私などは「藤堂家」というと、直ちに津藩重臣藤堂修理家(初代藤堂長則)を思い出す。長則は上野城内の二の丸に屋敷を与えられて藩主家に仕えたが、この藤堂修理家こそが松尾芭蕉の実家(少なくとも芭蕉出生当時は大分以前から農民であった)が仕えた主家であったからである。なお、津藩上屋敷は東京都千代田区神田和泉町(グーグル・マップ・データ。以下同じ)にあった。地図上の「神田和泉町」のほぼ西三分の二近くがそこであった。下屋敷ならば現在の駒込四~五丁目でかなり広大であった(北西では現在の染井霊園を殆んど呑み込んでいる。ロケーションとして後者の方がいいな。私は特異的にこの附近に詳しいのである。私の古いフェイク小説「こゝろ佚文」の写真は染井霊園である。因みに、その奥の東京都豊島区巣鴨五丁目に慈眼寺という寺があろう。芥川龍之介の墓がある(サイド・パネルの写真)。私はこの座布団一枚分の大きさ(龍之介が生前に盟友で画家の小穴隆一に託したもので、小穴がデザインした)の墓を、私は大学を卒業した直後に、お参りし、墓もごしごしと洗ったのだった。

「昏沈」(こんじん)は実は仏教用語でサンスクリット語に由来する仏教で説く煩悩の一つを指し、「心の沈鬱」・「心が上手く機能していないこと」・「心身が物憂いこと」・「塞ぎ込むこと」で、心を沈鬱で不活発な状態にさせる心理作用やそうした状態を指す。ここは、しかし、記憶を失って失神しているのだから、昏倒の意でよい。]

怪談老の杖卷之三 德島の心中

 

   ○德島の心中

 阿波の德島に筏屋(いかだや)といへる材木問屋ありしが、此店(たな)は大坂店(だん)にて、此先祖より世帶は大坂にたてゝ、阿波は手代持(てだいもち)の樣にし、主人も半年程づゝ、阿波に下りて世話しける。

 忠兵衞といへる主人の時、阿波の在邊に、宮部周庵とて、醫師をして、大百姓のありし。

 娘に「ちさ」とてありし。當年十五にて、其容儀、一國にもならびなき程なりしを、ふと、見そめて、人をたのみ、貰ひけるに[やぶちゃん注:仲人を立てて、嫁に貰うことを交渉して貰ったところが。]、周庵も、あらまし、合點しけれど、

「大坂へ遣はす事、船の上、氣遣ひなれば、德島の店におくならば、相談すべし。」

と、いひけるが、忠兵衞、身も世もあらぬ程に執心なれば、

「やすき事なり。」

とて、

「阿波の店へ迎へ取りて、婚禮、取結ばん。」

と、いひける。

 重手代共は、

「阿波の娘ばかり、女にてもあるべからず、先祖より、『世帶は大坂に定(さだま)りたる家法にて、決して阿波に妻子おくべからず。家の爲、あしき事、あるべし』と、遺言同然なれば、無用。」

と、いひけれど、忠兵衞、少しも用ひず、

「大坂にては、妻女ども、奢(おご)りて、家の爲にならず。結句、阿波へ世帶を引移(ひきうつ)したるがよし。そちたちが了簡は、杓子定規なり。むかしの法は、今のやくには立ぬ。」

とて、終(つひ)に阿波へ妻を引取り、大坂の店を手代にまかせおき、しばしの間をも、別れを悲(かなし)び、德島にのみ居(をり)けるが、命數限りありけるか、又、晝夜をわかぬ水遊び[やぶちゃん注:遊女を揚げて遊ぶこと。]の不養生にや、二月程、煩ひて、身まかりぬ。

 未だ、子なし。手代どものなげき、「ちさ」はかなしび、偏(ひとへ)に闇夜に燈(ともしび)の消(きえ)たる心なりしかど、阿波にも、手代ども、しつかりとありて、商賣のかけ引、油斷なければ、主人息才[やぶちゃん注:「息災」に同じ。]なりしときのごとく、繁昌しける。

 後家も、いまだ、十七になりければ、娘同然と、あどなき[やぶちゃん注:「あどけなし」に同じ。]程なるを、忌服(もふく)[やぶちゃん注:「服喪」のこと。通常は一年。]も過(すぎ)なば、

「外(ほか)より、入緣なりとも、取結びて、筏屋の、あと式を、かためん。」

と、年久しき久右衞門といへる老人の手代、阿波へ下りて居(ゐ)ける。

 爰に、此家に松之助とて前髮[やぶちゃん注:月代を施していない前髪姿の元服していない少年。]の小者あり。津の國長柄(ながら)[やぶちゃん注:現在の大阪府大阪市北区の長柄地区(グーグル・マップ・データ)。]の者にて、親元も賤しからざる者なるが、親、きびしき生れにて、

「人につかはれて見ねば、人はつかはれぬものなり。若きときは、何をしてもよし。」

とて、此家ヘ小僕《でつち》奉公に出し、阿波の店へ、下しおきける。

 生れつき、みやびやかにて、しかも發明なる生たちなりければ、忠兵衞、世にありしとき、殊の外、あいして、我(わが)そばをはなさず遣ひける。

 忠兵衞、楊弓[やぶちゃん注:「やうきゆう」。矢場で楊 (やなぎ) 製の小弓で的を射る遊戯。]・茶の湯・俳諧など好きければ、「ちさ」と、松之助、いつも相手にてありけるに、何事も器用にて、俳諧は忠兵衞よりも、よき程なりし。

 忠兵衞、おはりても、ちさが相手にて、楊弓など、ゐたり、茶、俳諧などもしける程に、「ちさ」が傍(かたはら)をはなれず、主從の樣にもなく、「遊びがたき」[やぶちゃん注:遊び相手。]にてありけるが、たがひに愛する心より、戀慕のやみに、禮義をわすれ、また「ちさ」も淋しきねやの内に、先夫のありしよの事など、おもひ出(いだ)せし雨の夜(よ)などは、松之助を、ねやへよび置(おき)て、

「そちは、旦那の、殊の外、不便(ふびん)下されしものなり。そち計(ばかり)が旦那の形見なり。」

など、たはぶれしより、いつとなく、偕老のちぎり、あさからず、

「外(ほか)に女の手をもとるまじき」

といふ起請まで書せて、「ちさ」が方へとり置けるを、家内のものは、夢にもしらず。

 はや、忌服もたちし事なれば、伴頭久右衞門、思ひけるは、

「若き後家御(ごけご)を、ひとり置かんも、いかゞなれば、大坂北濱[やぶちゃん注:大阪府大阪市中央区北浜。]に、先(さきの)忠兵衞從弟(いとこ)ありしを入緣(いりえん)に取りて、筏屋の跡を相續せん。」

と、まづ、周庵へ相談しけるは、

「後室さま事、未(いまだ)御若き事なれば、北濱の善右衞門、弐番目のむすこ、當(たう)三十餘(あまり)にて實體(じつてい)なる人なれば、入緣に取らんと存(ぞんず)るなり。貴公さへ御得心(ごとくしん)ならば、旦那一家衆[やぶちゃん注:亡き旦那(忠兵衞)の親族一同。]は不ㇾ殘合點なり。おちささまへも申上候へども、とかく壱人おきてくれ候やうにと仰候が、是は御前さへ御のみ込なされば濟む事。」

と談じける。

 周庵も久右衞門が忠勤に感じて、悅(よろこび)に堪へず、

「娘事(むすめこと)は少しも氣遣ひ給ふな。我等、請(うけ)あふなり。善は急げなり、はやく、しるし[やぶちゃん注:婚約状。]を取給へ。」

とて、急ぎて相談しける。

 神ならぬ身こそ、かなしけれ、「ちさ」は、はや、忍び忍びのかたらひ、滯りて、五月になりければ[やぶちゃん注:妊娠していたのである。]、

「いかゞはせん。」

とかなしく、

『所せん、自害。』

と、おもひけれど、故鄕のおやにも、なごり、をしまれて、

「一度(ひとたび)、御目にかゝりし上、ともかくも。」

と、久右衞門に願ひて、

「親里へ見舞度(たき)。」

よし、云ひけるを、久右衞門は、

『周庵方より、此間(このあひだ)の相談に、呼びよせしなるべし。』

と推(お)しければ、悅びて、

「いか樣(さま)、御不幸よりのちは、ひさぐ氣も御つめ被ㇾ成候へば、御出被ㇾ成、ゆるゆる、御保養なさるべし。御前(ごぜん)の御氣に入りの松之助をつれて御出被ㇾ成よ。女共も、誰(たれ)かれ。」

と、如才なく世話しける。

 「ちさ」は、松之助が事、心の鬼[やぶちゃん注:ふと心に思い当たる「良心の呵責」の意。]に、はづかしく、

『若(もし)や、此事、さとりしにや。』

と、おもふ。

 とかくいふも[やぶちゃん注:そうは言っても。久右衛門が松之助を連れて行かれませと言ってくれたので。]、嬉しければ、松之助、其外、若き女共、引つれ、駕にのりて里へ行ぬ。

 道すがらは、我(われ)はおりて、松之助をのせなど、いたはりけれど、松之助は、おとなしく發明なるに、家内みなみな、かはゆがりて、贔屓(ひいき)しければ、氣を廻(まは)すもの壱人(ひとり)もなかりけり。

『よくよく、松之助、愛ある生れなりし。』

と覺ヘぬ。

 扨、親周庵夫婦、悅びて、早速、久右衞門が入緣の相談せし物語をし、

「とかく、久右衞門殿、次第になりて居(を)るべし。」

と、いひけるを、

「その義は、いく重(ゑ)にも、御ゆるし。」

と、いひければ、後には、周庵、いかりて、殊の外、おどし、呵(しか)りける。

 かねては、

『松之助わけ[やぶちゃん注:松之助とわけありの関係になったことを。]うちあけて、母へなりといはん。』

と、おもひ、行しが、中々、云ひ出(いだ)すべきたよりもなければ、また、松之助をつれ、德しまへ歸りて後、弐人ながら、心中して死ぬるにきはまりて、あけの日、松之助に手箱の金(かね)もたせ、吳服物商(あきな)ふ家へ遣(つかは)し、死裝束(しにしやうぞく)を拵(こしら)へける。

 心のうちぞ、むざんなり。

 頃は十一月末の事なれば、我は白むく計(ばかり)拵へて、五つ、きたり。

 松之助にも、下へ淺黃(あさぎ)むく・黃むく、上に黑羽二重を着しける。

 いつも藏へ「ちさ」衣類など出(いだ)しに行(ゆく)ときは、松之助が、手燭を持行(もちゆ)ける間(あひだ)、今宵も、ふたりにて行しが、待(まち)ても、下(した)へおりず。

 召仕ひの女御《をなご》ども、あやしみて、二人づれにて、行て見れば、いつの間に、はこびおきけん、提子[やぶちゃん注:「ひさげ」。銀・錫製で鉉 (つる) と注ぎ口のある小鍋形の銚子 (ちょうし) 。]・さかづきなどあり。蒲團(ふとん)の上へ氈[やぶちゃん注:「かも」。獣毛で織った敷物。]を敷(しき)、松之助、さきへ死したりと見へて、ふえを、かき、うつぶしに、ふしたる上へ、「ちさ」も、打かゝりて死し居たり。

 いづれも、きれいに[やぶちゃん注:ママ。]死(しし)たり。

 下女は、是をみて、きもをつぶし、下ヘおりて、久右衞門にしらせけり。

 久右衞門、おちつきたるものなれば、下女の口をとめ、壱人、上(あが)りて、それより、、周庵、よびに遣はし、奉行所へ訴へ、檢死を乞ひて、別事なく、取おきぬ。

 久右衞門、こぶしを握り、

「かくと、夢にもしり候はゞ、若き夫婦ふたり、ころしは致申(いたしまうす)まじ、松之助も、此家のあとめに立(たち)ても恥かしからぬものなり、さても、殘念さよ。」

と、甚(はなはだ)くやみし、と云へり。

 夫より、筏屋の家、おとろへ、此家も人の手へ渡りぬ。

 此家藏(いへくら)を買(かひ)て來りし人、ある時、藏へ用事ありて、五ツ時分[やぶちゃん注:午後八時頃。]に、手燭をともし、上りければ、人影のみゆる樣(やう)なるを、

『盜人にや。』

と、怪しくて、伺ひみければ、松之助、「ちさ」が、ありし姿、あらはれて、ふたり、手をとりくみ、なきみ、笑ひみ、しける。

 かの者、不敵の者にて、事ともせず、上りて見ければ、はや、消えうせて、みへずなりける。

 夫(それ)より、藏をば、こぼちて、賣り、佛僧を請じて、經、よみ、いろいろの作善(さぜん)して、ふたりの菩提を懇(ねんごろ)に弔ひしと、いへり。

 

大和本草附錄 櫻苔(サクラノリ) (サクラノリ)

 

櫻苔 壹岐ノ島海岸ニ產ス其色紅白似櫻花片々

相屬浸酢鼓而食之脆鬆而潔淸味亦佳

○やぶちゃんの書き下し文

櫻苔(さくらのり) 壹岐(いき)の島、海岸に產す。其の色、紅白。櫻花に似たり。片々、相ひ屬す。酢鼓(すみそ)浸して之れを食ふ。脆(ぜい/もろし[やぶちゃん注:右ルビ/左ルビ、])鬆〔しよう/そう〕にして、潔淸〔たり〕。味も亦、佳(よ)し。

[やぶちゃん注:これは困った。まず、壹岐の海藻でかく呼ばれているものが見当たらないことが大きい。壹岐の海藻食品を調べてもそれらしいものがない。とすれば、恐らくは壹岐に限るなら、岩礁性海藻と考えた。しかも、流通に廻るような有意に多く採取をすることが難しく、養殖も出来ない或いはなされていない種であろうと仮定した。田中次郎著「日本の海藻 基本284」(二〇〇四年平凡社刊)を調べると、立項されていないものの、岩礁地帯に生育する紅藻植物門紅藻綱マサゴシバリ亜綱イソノハナ目ムカデノリ科ムカデノリ属スギノリ目ムカデノリ科マツノリ Polyopes affinis の項に類似種としてサクラノリが出ていた。さらに、鈴木雅大氏のサイト「生きもの好きの語る自然誌」のこちらに、標準和名で、

紅藻植物門真正紅藻亜門真正紅藻綱マサゴシバリ亜綱イソノハナ目ムカデノリ科ムカデノリ属サクラノリ Grateloupia imbricata

として当該種の生態写真も見ることができた。そこには『海藻の多くは種同定に窮するものですが』、『本種は太平洋中部に生育する紅藻の中で』も、『普通種でありながら』、『自信を持って名前を付けた』(同定比定した)『経験がただの一度もありません。著者にとって苦手とする種類の一つで』、『台湾で採集した個体を見る限り,生殖器官が枝の前面に散在するのが最も顕著な特徴と考えられ』、『外形については,比較的体下部付近から分枝することが特徴となるようで』あるが、『他のムカデノリ属(Grateloupia)の例に漏れず』、『激しく形態変異し』、『淡路島で採集した個体(DNA鑑定済)は肉厚で幅広く』、『ミゾオゴノリ(Gracilaria incurvata)などのオゴノリ類かと思ったほどで』あると述べられ、さらに、『「肉厚な」というのは本種について図鑑等で良く見られる表現で』あり、寧ろ、『台湾の個体の方が変わっているのかもしれ』ないと言い添えておられる。この田中氏の採取した台湾産のそれが、肉厚でないとすれば、或いは、同じ対馬海流域にある壹岐のそれが或いは益軒の言うように、「脆」(もろ)くてしかも、藻体内が緻密でなく「鬆」(音「ショウ・ソウ」で、訓では「す」、則ち、「豆腐にすが入ってしまう」の「す」で、「内部が充実しておらず、空隙があること」を指す)が入っているというのもあり得ないことではないように思われる。写真を見るに、一見、がっしりして見えるのだが、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のサクラノリのページを見ると、『長さ10cm前後にな』り、『根元は平たくクサビ』(楔)『状』を呈し、『触ると』、『柔らかい』とあって、肉厚でも、藻体は柔らかであるようである。また、和名についても、『漢字/桜海苔』とあって、『由来・語源/広げると』、『桜の花びらに似ているため』とあるのである。問題はそうなると、益軒の言う色、「紅白」である。しかし、そもそもが、海藻で生体が紅・白の二様にくっきりと分かれて個体や個体群があるのであれば、これはまず、非常に目立つし、潮間帯下の岩礁性海藻ならば、まず、一般的に非常に知られていなくてはならないはずである。しかし、そんな海藻は私は寡聞にして漏れ聴いたこともない。とすれば――この紅白とは、「個体によって紅色の強いものと、白っぽい二種がある」と言っているのではないか?――と思われるのである。そこで、鈴木氏のページの頭の四枚の写真を見ると、生体時には、褐色のやや強い個体と、明らかにそれが脱色したかのような白いとは言わぬまでも、かなり薄い褪赭色の個体があることが判明する。さすれば、前者を後者に比して「紅」と言い、後者を「白」と言っても、強ち、言い過ぎとも思えない気がしてくるのである。しかも和名は「桜海苔」なのだ(但し、藻の先の形とのことであるが)。「ほんのり桜色」というのは「紅」よりも「白」い色を私は意識する。益軒の記載が痩せているので、他の種である可能性もあるが、取り敢えず、私はサクラノリに同定しておく。

「潔淸」これは藻体を触った時の感触及び、切った内部、生で噛んだ場合などに、粘つきがないことを言っているものと思う。

「味も亦、佳(よ)し」田中氏はマツノリの記載の中で、『コメノリ同様ぷりぷりした感じでとても歯触りがよい』とされる。コメノリはスギノリ目ムカデノリ科コメノリ Polyopes prolifera で、前に述べた通り、この前で田中氏は『類似種のコメノリやサクラノリ』と述べておられるわけで、本サクラノリが食用になることは、この記載から私は間違いないと踏んでいる。]

芥川龍之介書簡抄19 / 大正二(一九一三)年書簡より(6) 十一月十九日附井川恭宛書簡

 

大正二(一九一三)年十一月十九日・京都帝國大學寄宿舎内 井川恭君 直披・十九日朝 芥川龍之介

 

菅さんの家へついたのは午後五時頃だつた

鎌倉から江の島へ行つて江の島から又由井ケ濱までかへつて來たのである 先生の家は電車(鎌倉藤澤間の)の停留所から一町[やぶちゃん注:百九メートル。]ほど離れてゐるがそれもおみやげに江の島から持つて來た榮螺を代る代るさげてあるく藤岡君と僕とには可成長い路のやうに思はれた

鼠がゝつた紺にぬられた木造の西洋建の窓にはもう灯があかくさしてゐる ごめん下さいと云ふと勢のいゝ足おとがして重い硝子戶があいた うすぐらい中に眼の凉しいかはいゝ男の子の顏が見える「先生は御出でですか」とたづねると「はい」と會釋をしてすぐまたうすぐらい中にみえなくなる

靴をことこととならしながら待つてゐると菅さんの顏が玄關から出た「おはいり さあおはいり」

案内されたのは二階の先生の書齋だつた 戶口には斑竹へ白く字をうかせた聯がかゝつてゐる はいると四方の壁にも殆隙間なく幅がかけてあつた 悉支那人の書でそれが又悉何と考へてもよめさうもない字ばかりである 紫檀の机の上には法帖と藍の帙にはいつた唐本とがうづたかくつんである 隅のちがひ棚の上には古びた銅の置物と古めかしい陶器とがならんでゐる すべてが寂(じやく)然として蒼古の色を帶びてゐるのである

今めかしいのは高い天井から下つてゐる電燈と廣い椽にすゑた籐椅子ばかり 白麻の緣をとつた疊も唐木の机も机の周圖に敷いた白い毛皮も靑い陶器の火入れも藍のつむぎの綿入をきた菅さんも何となく漢詩めいた氣分の中におさまつて[やぶちゃん注:ママ。]見える

窓には帷がおりてゐたが晝は近く松林の上に海を見る事が出來るのであらう 窓のわきに黑い蝕んだ板がたてかけてゐる 上には模糊として文字のやうなものが蝸牛のはつた跡のやうにうすく光つてゐた あれは何ですときくと先生は道風ぢやと答へた 自分はしみじみ先生があの靑磁の甁に幽菊の一枝をさしあの古銅の香爐に一炷の篆煙を上らせないのを殘念に思つた 奧さんのなくなられたあとの三年間を先生は五人の御子さんの[やぶちゃん注:ママ。]一緖に二人の下女を使つて此湘南の田園居に悠々とした日月を送つてゐられるのである 先生の書に於ける鑑識が天下に肩隨[やぶちゃん注:「けんずゐ」。]するもののない事は前からきいてゐた しかし書を作る上から云つても先生の造詣に及ぶものが何人ゐるであらう「此夏休みには日に一万字づゝ書かうとしたがどうしても六七千字どまりぢやつた」と云ふ先生にとつて獨乙語の如きは閑余[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]の末技に過ぎないのであらう

自分たちはチヨコレートをすひながらこんな逸話をきいた

先生が此間なくなつた梠竹をたづねた事がある 三四度留守と稱して斷られたあげくにやつとあへた あふと七十余歲の梠竹は白鬚髯[やぶちゃん注:「はくしゆぜん」と読んでおく。しらひげ。]を撫しながら「お前さんは何用あつて來たのぢや」と云ふ

「書法についての御話がうけたまはりたくてまゐりました」

「わしは書法なんと云ふものはしりませんて さう云ふ事は世間に澤山話す人がゐるからその人たちにきゝなさい」

「その人たちの話がきゝたくないからあなたの所へあがつたんです」

この會話は先生の語(コトバ)[やぶちゃん注:ルビ。]をきいた通りにかいたのである

梠竹は何と云つても書法はしらないで押通す 先生もとうとう[やぶちゃん注:ママ。]我を折つてかへつて來た さうすると一月あまりのうちに梠竹が死んだ。所が先生の親友に大井(?)哲太郞と云ふ詩人がゐる 詩の外に書もよくする人ださうだが梠竹と師弟のやうな關係で其上意氣相投ずる所から死ぬ迄親しく交つてゐたので先生がその人にあつた序に梠竹の話しをするとその人が云ふには

「そりやあ惜しい事をした あなたの來たあとで梠竹がわたしをよんで菅と云ふ男がこんな事を云つて來たがお前は同鄕だしどんな男か知つてゐるだらうと云ふから 知つてる所ぢやあない 支那に三年も行つてゐたこれこれかう云ふ男だと話してきかせると梠竹は大變殘念がつて 俺は早速鎌倉へ逢ひに行きたい お前案内をしてくれと云ひ出した 云ひ出してすぐ病氣になつて死んだのぢやから梠竹もあなた同樣殘念だらう」

と云ふ事だつた

自分はこんな話をきいてゐる中に非常に面白くなつた そこで書家の噂になると先生は「之はわしの先生がかいたのぢや ごらん」と云つて厚い紙にかいた五言の律詩を見せてくれた 字は六朝の正格である 不折の比ではない 自分は感心して見てゐた「たゞみてゐたつて仕方がない かうしてみるがいゝ」先生はその紙を手に灯にすかすやうにして見せてくれた 字の劃が中央は黑く左右は銀のやうに墨がたまつて厚紙の上に字を凹彫にしたやうに見える「どうぢや かうなれば一家を成したと云へる 日本の書家には一人も之が出來ない」自分は愈感心した

先生は今度は李瑞淸の法帖をあけて「香」の字を指しながら

「この★を見なさい 内圓にして外方と云ふのが六朝の正体[やぶちゃん注:「せいたい」。ママ。]ぢや 日本の書家は之を能くしない」[やぶちゃん注:底本に挿入されてある芥川龍之介の直筆画像をトリミングして下に示した。]

Jikaku

大きな銅硯に唐墨をすつて鋒[やぶちゃん注:「ほこさき」。筆先。]の長い筆をひたすとそばの半紙の上へ同じ字をかいてみせる 内圓にして外方なる鉤が出來る

それから澤山の碑文や法帖や手簡や扇面をみせてくれた その中で「これが漢の古碑文ぢや 不折が復製を手に入れたと云うてうれしがつてゐたがわしのは原文だ」と云つて見せたくれた[やぶちゃん注:ママ。]のが最も古色を帶びたもので形容したら鳳篆龍章とも云ふやうな字が明滅して並んでゐた

かうしてゐるうちにいつか時がたつて汽車がなくなつてしまつた

先生は「とまつてゆきなさい」をくりかへす さう云へば一寸とまつて見たいやうな氣もする 何となく部屋のなかにみちてゐる瀟洒とした風韻が人を動す[やぶちゃん注:「うごかす」。]のだ そこでとうとう[やぶちゃん注:ママ。]とめてもらう事にした 最後に先生は有合せの紙に

 

   沿河不見柳絲搖

   步向靑谿長板橋

   丁字簾前猶彷彿

   更誰間話到南朝

 

とかいてくれた

 

翌日先生の[やぶちゃん注:ママ。]一緖に東京へかへつてすぐ學校へ出て五時迄授業をうけたらへたへたになつた 文展の最終日にも行きそくなつてしまつた[やぶちゃん注:ママ。]

文展は昨日[やぶちゃん注:底本にママ注記。昨年の誤記であろう。]ほど振はなかつたが日本畫の第二部で牛田雞村の町三趣と土田麥僊の海女とがよかつた 唯癪にさはるのは久米の外に海女に同情を示す人がない事だ 石田君なんぞは全然不賛成だと云ふ(之は寧[やぶちゃん注:「むしろ」。]光榮に感じるが)谷森君のおぢさん(審査員)は「怪物」だと云つたさうだ 文展は大阪であるんだらう さうしたら殊にこの二つをみてくれ給へ 海女の海のウルトラマリンには僕も全然は賛成はしないが左の半雙の色調と海女の運動のよく現はれた點では成功が著しいと思ふ 町三趣は朝もいゝが夜が殊にいゝ(少し遠近法を無視しすぎて「夜」の石垣なんぞに變な所があるが)谷森君は「驛路の春」がすてきにすきださうだ

エレクトラはすこしほめすぎて大阪迄君をひき出したやうな氣がして恐縮だ 其後「夜の宿」を見て役者のどれよりも舞台[やぶちゃん注:ママ。]監督としての小山内氏の伎倆に敬服したが之はかく迄もない

帝國ホテルのヴエルヂイの紀念會があつた ドブロボルスキイと云ふ女のひとのうつくしいソロをきいた たゞおしまひの四部合唱に泣き佛の中島かね子さんとザルコリとタムとドブロボルスキイと出た時にはどうしても西洋人が四人で泣き佛をいぢめてるやうで氣の毒だつた ザルコリの音量は實際豐なものだと思ふ

大塚に地所をかりた 冬をこして二月頃から普請にかゝる 今より廣くなるから今度君がくるときにはもつと便利になる

石田君が一高へ歷史會を起した 講義をずべつて迄一高へ行つて世話をやいてゐる

山本のやつてる野外劇場は泉鏡花の紅玉を田端の白梅園でやつて失敗した 當事者の久米でさへ「見てられない位まづいんだからな」つて云つてた

谷森君は不相變眞面目にやつてゐる 佐野と根本とがずべつてゐる 成瀨は月謝を皆にかしてしまつた所へ月謝の催促が來たと云つて悲觀してゐる 根本なんぞは國から洋服をこしらへる金をとつてそれを使つてしまひ洋服は出來るとすぐ二度程きて勘定は拂ず[やぶちゃん注:「はらはず」。]に質へ入れてしまつたさうだ その金で今は三崎へ行つてゐる

まだあつた 黑田も石原もずべつてゐる 久米と成瀨は可成眞面目に學校へ出てゐる 佐伯君は大學の橡[やぶちゃん注:「とち」。]の木の下で午休みによく座禪をくんで腹式呼吸をやつてゐる

 

   DOVROVOLSKY夫人も秋の夜はさびしと思ふことありや灯を

   S1GJNORIA NAKAJIMAのきる紫の羽織もさむき夜となりにけり

   秋の夜のホテルの廊を画家南薰造のゆくにあひにけるかな

   バアナアドリイチと語る黑服の女はみゝづくによく似たるかな

        (帝國ホテルにて――四首)

[やぶちゃん注:第三首の「画」はママ。]

 

[やぶちゃん注:一箇所、行末改行で文が続いている箇所に字空けを施した。短歌の後書は実際には最終歌の下三字下げ位置から記されてある。

「菅さん」菅虎雄(すがとらお 元治元(一八六四)年~昭和一八(一九四三)年)はドイツ語学者で書家。芥川龍之介の一高時代の恩師。名物教授として知られた。夏目漱石の親友で、芥川龍之介も甚だ崇敬し、処女作品集「羅生門」の題字の揮毫をしたことで知られる。私の『小穴隆一「二つの繪」(31) 「影照」(6) 「暮春には春服」』に画像を掲げてあるので見られたい。以下、当該ウィキによれば、『筑後国御井郡呉服町(現・福岡県久留米市城南町)の医師、菅京山の次男として生まれた』。明治一三(一八八〇)年、十七歳の時に上京し、明治二四(一八九一)年、『日本初のドイツ文学士として帝国大学文科大学独逸文学科を』『卒業後』(サイト「e- ざ鎌倉・ITタウン」の『「鎌倉文士村」ができたわけ(2)』の「菅虎雄の存在と夏目漱石」には、入学時は東京帝国大学医学部で後に転部したとある)、『教師として、東京外国語学校、第五高等学校、第三高等学校教授等を歴任』、明治二九(一八九六)年には『漱石を五高へ招い』ている。明治四〇(一九〇七)年九月に『第一高等学校に着任』、以後、昭和一五(一九四〇)年三月に『依願退職するまで』、『同校ドイツ語教師として勤務した』。『息子の菅忠雄は文藝春秋社に務め、川端康成の創刊した同人誌『文藝時代』の同人』として小説を書き、芥川龍之介とも親しかった。『菅が帝大にいた時、英文学科の』二『年後輩に夏目金之助がいた。菅は、漱石を五高へ招いたり、円覚寺への参禪を促したり』して、二『人は生涯に渡って親友であり続けた。ちなみに、漱石は』明治三〇(一八九七)年四月十八日に『正岡子規宛の手紙に、「今春期休に久留米に至り高良山に登り、それより山越を致し発心と申す処の桜を見物致候。……」と書いている』が、『これは親友の管虎雄が病気のため五高を辞して、郷里久留米に引きこもったのを、見舞うための旅行であったようだ』(小宮豊隆「夏目漱石」)。『能書家としても知られ、漱石の墓碑銘は菅虎雄の手になる。なお、新全集の宮坂年譜によれば、菅家を訪問したのは、この書簡日附の三日前の十一月十六日(日曜日)のことであった。

「電車(鎌倉藤澤間の)の停留所から一町ほど離れてゐる」現在の「江ノ電」(江ノ島電鉄)である(但し、正確には当時は「横浜電気株式会社江之島電気鉄道部」)。菅の家の位置が今一つ判然としないが、「藤岡君と僕とには可成長い路のやうに思はれた」と言っているところを見ると、「長谷」駅で降りて、東方向の路地を迷ったもののように思われる(グーグル・マップ・データ航空写真。あの辺りは今でも路次がうねうねしているから腑に落ちる。私は大学時分に月に一度は鎌倉探索をしたが、その途次、まさにあそこで日暮れて袋小路に入ってしまい、仕方なく段差を飛び降りて、危うく足を折りそうになったことがあった。それを下らぬ小説にして同人誌に書いたのでよく覚えている)。前掲のサイト「e- ざ鎌倉・ITタウン」の『「鎌倉文士村」ができたわけ(2』の「菅虎雄の存在と夏目漱石」によれば、菅は明治四三(一九一〇)年から「鎌倉町由井ケ濱海岸通り 小林米珂莊」に『移り住み』、大正一〇(一九二一)年には「鎌倉町亂橋材木座一一六六番地」に移転、さらに昭和一三(一九三八)年には「鎌倉町二階堂一二九番地」に移って『没するまでここに住』んだとある。この「小林米珂莊」(こばやしべいかそう)とは漱石の「こゝろ」の冒頭にちらと出る「鎌倉海浜院ホテル」(現在の由比ガ浜海浜公園付近にあった)の取締役であったイギリス人法律家で明治期に日本に帰化して小林米珂(一八六三年~一九二九年:Joseph Ernest De Beckerのペン・ネームで日本の性風俗や法律についての著作も出版しており、小林米珂名義で日本で弁護士登録をし、他に日清蓄音器・帝国木製・帝国船舶の取締役のほか、鎌倉で不動産業も営んだ。ここはウィキの「小林米珂」に拠った)が、ホテルとは別に鎌倉町材木座(現在の鎌倉市由比ヶ浜)に九戸の借家「小林米珂荘」を経営しており、その一つに菅が住んでいたのである。

「藤岡君」既出既注

「斑竹」(はんちく)は表面に斑紋のある竹の総称。

「聯」(れん)は中国で対句を書いたり刻んだりした細長い札のこと。中国では装飾として柱に左右対称に対聯(ついれん)として掛けたりする。

「帷」筑摩全集類聚版脚注は『たれぎぬ』とルビする(編者の勝手なルビ)が、従えない。「とばり」で読みたい。

「一炷」「いつちゆう(いっちゅう)」或いは「いつしゆ(いっしゅ)」は香を炷(た)いて煙を立ち昇らせることを言う。

「篆煙」篆書の字のように曲折しうねるように立ち昇る烟のこと。

「チヨコレート」「すひながら」で判ると思うが、これはココアのことである。

「梠竹」梧竹の誤り。発音も異なり、芥川龍之介にしては痛い誤記である。中林梧竹(なかばやしごちく 文政一〇(一八二七)年〜大正二(一九一三)年八月四日)は書家。日下部鳴鶴・厳谷一六とともに「明治の三筆」の一人。名を隆経。梧竹は号。他に剣閣主人とも称した。出身は代々鍋島藩の支藩小城(おぎ)藩(現在の佐賀県小城市。グーグル・マップ・データ)の家臣の家柄であった。幼い頃は草場佩川に師事し、十九歳の時に江戸に遊学して山内香雪に書を学んだ。二十八歳で帰藩して小城藩士として藩校興譲館指南役などを勤めた。維新後に長崎に移り住み、明治一一(一八七八)年には清国の初代長崎領事の余元眉から中国最新書法の拓本提供を受けている。その後、元眉の帰国に同行して清に渡航、明治十七年に帰国して後は、東京銀座の洋服店「伊勢幸」の二階に約三十年間住みながら、九州・北海道・韓国など各地に揮毫の旅をした。明治三十年には七十一歳で、再び清に渡航して各地を巡遊、約二ヶ月後に帰国している。しかし、大正元(一九一二)年十月に中風による軽い左半身不随となり、翌年(まさに龍之介が菅を訪問したその時から僅か三月前である)の八月、郷里の梧竹村荘にて八十七歳の生涯を閉じた。明治書家にあっては珍しい造形型を追求した独特の書風を確立し、その新書風で書壇への影響力が大きかった。六朝の書法を探究して、多くの碑拓を請来したため、書というよりも、寧ろ、絵画的な味わいがある。また、水墨画も数多く残している。同じく「明治の三筆」に数えられる日下部鳴鶴や巖谷一六と比べると、梧竹が手がけた石碑は少ないが、現在、全国に五十基ほどが確認出来る。石碑の文字にも独特の書風が現れているものが多いが、一部は正統の楷書で書かれてある。彼は「天下無双」とも称された書家であった(以上はネット上の信頼出来る複数の記載を合成した)。

「大井」「哲太郞」不詳。筑摩全集類聚版脚注も『未詳』とする。

「不折」中村不折。既出既注

「李瑞淸」(一八六七年~一九二〇年)は清から中華民国初期に生きた江西省臨川出身の書家。

「法帖」古今の名筆を鑑賞し、手本とするため、原本を写し取って、これを木や石に刻み、さらに拓本にとって折帖仕立てにしたもの。中国の五代の文人としても優れていた南唐後主李煜(りいく)の作った「昇元帖」が最初のものとされるが、現存する最古のものは宋の九九二年に作られた「淳化閣帖」。その他、明の文徴明による「停雲館帖」、呉廷の「余清斎帖」、董其昌(とうきしょう)の「戯鴻堂帖」、清の乾隆帝勅撰になる「三希堂帖」などが著名である。本邦のものでは細井広沢の「太極帖」が古く、韓天寿の「酔晋斎法帖」などが優れている(「ブリタニカ」国際大百科事典に拠った)。

「この★を見なさい」「香」のこれとなると、二画と四画の合成箇所を指しているか。

「鳳篆龍章」筑摩全集類聚版脚注に、『鳳凰や龍のような篆書で書いた文章か』とある。検索をかけると、「龍章鳳篆」の熟語が中文サイトで見つかる。それを見ると、「皇帝・帝王の文章・詔・勅令に対する尊称」・「道教の呪符」とある。

「沿河不見柳絲搖……」以下の七絶を訓読しておくが、筑摩全集類聚版の本文を見ると、結句が「更誰間話烈南朝」となっていて、「更(さら)に誰(だれ)か間話(かんわ)せん烈南(れつなん)の朝(あさ)」と訓じてある。孰れにしても結句末が不審で私には読めない。訓読は誤魔化しで、意味は判らぬ。

沿河不見柳絲搖

步向靑谿長板橋

丁字簾前猶彷彿

更誰間話到南朝

 沿河(えんが) 柳絲(りうし) 搖らぐを見ず

 靑谿(せいけい) 步向(ほかう)すれば 長板橋(ちやうはんきやう)

 丁字(ちやうじ) 簾前(れんぜん) 猶ほ彷彿

 更に誰(たれ)か 間話(かんわ)せん 南(みんなみ)の朝(あした)に到れるを

「文展は……」以下の文展批評の内容は既出で、そちらでしっかり注してある

「久米」後の作家久米正雄。一高同級生で親友。後の第三次『新思潮』に参加した。芥川龍之介の凄絶な遺稿「或阿呆の一生」は冒頭の辞が彼に当てられて書かれてある。

「谷森君」既出既注

「驛路の春」「うまやぢのはる」と読む。」木島桜谷の出品作。既出既注。注の「櫻谷」を見られたい。

「エレクトラはすこしほめすぎて大阪迄君をひき出したやうな氣がして恐縮だ」「芥川龍之介書簡抄17 / 大正二(一九一三)年書簡より(4)十月十七日附井川恭宛書簡」参照。

『「夜の宿」を見て役者のどれよりも舞台監督としての小山内氏の伎倆に敬服した』既出既注

「帝國ホテルのヴエルヂイの紀念會があつた……」以下の音楽会とその批評も既出既注

「大塚に地所をかりた 冬をこして二月頃から普請にかゝる」これは実際には中止され、翌大正三年の十月末に終の棲家となる田端に家を新築して移ることとなる。

「石田君」後に歴史学者・東洋学者となった一高の同級生で親友の石田幹之助(明治二四(一八九一)年~昭和四九(一九七四)年:千葉市出身)のこと。

「ずべつて」怠ける。ずるける。不良少女の意の卑語「ずべ公」の「ずべ」はこれ。

「山本」一高時代の同級生(但し、山本の年齢は五歳上)で劇作家・小説家の山本有三(明治二〇(一八八七)年~昭和四九(一九七四)年)。本名は勇造。東京帝国大学独文科卒。明治四三(一九一〇)年、作家デビューは芥川龍之介よりも早く、第一高等学校在学中に戯曲「穴」を書き、雑誌『歌舞伎』に掲載され、上演もされた。この翌年の大正三(一九一四)年三月、第三次『新思潮』を豊島与志雄・菊池寛・久米正雄・芥川龍之介らと創刊した。大正五(一九一六)年から同十三年まで早稲田大学の講師を勤め、辞任後に作家生活に入った。大正九年には『人間』誌上に発表した「生命の冠」が井上正夫一座によって上演され、劇作家としての地歩を固め、「嬰児殺し」・「坂崎出羽守」・「同志の人々」・「女人哀詞」・「米百俵」など 二十編余の戯曲を執筆大正十二年頃からは小説も書きはじめ、「波」・「女の一生」・「真実一路」・「路傍の石」などで流行作家となった。その作品は、社会的視野に立って、生活の中の理想と現実の相克を追求し、広い読者層から支持された。国語問題にも尽力し、帝国芸術院会員・貴族院議員・参議院議員も務めた(ブリタニカ国際大百科事典に拠った)。

「野外劇場」前注に出る井上一夫の起こした「井上会」が、この年の十一月に行ったもの(筑摩全集類聚版脚注に拠る)。

「泉鏡花の紅玉」本邦唯一の幻想文学の巨匠泉鏡花(明治六(一八七三)年~昭和一四(一九三九)年)が大正二(一九一三)年七月に『新小説』に発表した一幕物の戯曲。本邦でのシュールレアリスム劇の嚆矢とも言える夢幻劇である。

「白梅園」田端の後の芥川龍之介の家に近くにあった料亭。ここの裏の「佐竹の原」と呼ばれた松林の草原で野外劇として上演された(上演時間四十五分。この詳細は吉田昌志氏の編になる『泉鏡花「年譜」補訂㈥(PDF・『学苑 日本文学紀要』第八百四十三号・二〇一一年一月発行)を見られたい。当時のメディアの諸評も載る、もの凄い労作である)。因みに後に芥川が結婚式を挙げたのも、実はこの料亭であった。

「當事者の久米」上記吉田氏のそれによれば、久米正雄はこの公演の発起人の一人で、大道具の絵も彼が描いたとある。

「見てられない位まづいんだからな」招待されて観劇した鏡花夫妻が頗る気の毒!

「佐野」後の戦前の日本共産党(第二次共産党)幹部佐野文夫(明治(二五(一八九二)年昭和六(一九三一)年)。当該ウィキによれば、『山形県米沢市生まれ。父は山口県立山口図書館長を務めた図書館学者・佐野友三郎。父の転勤に伴い、少年期を台湾、大分、山口で過ごす。第一高等学校に無試験で入り、菊池寛、井川(後の恒藤)恭、芥川龍之介と同級生となる』。『高校生時代、特にドイツ語に長け、在学中から西欧の哲学書を翻訳するほどの天才ぶりだった』。『この在学中に菊池寛との間で』「マント事件」(菊池寛が佐野の身代わりとなって同校を退学となった事件。明治四五(一九一二)年四月、佐野は日本女子大学校に通う倉田艶子(倉田百三の妹)とのデートに、一高のシンボルであるマントを着て行きたいと思ったが、自分のマントは質入れしていたため、他人のものを黙って着て行き、返さずにいた。二日ほど後、佐野と菊池は金に窮してマントを質入れすることにした。しかしそのマントはすでに盗難届が出されていたため、その夜、菊池は寄宿舎の舎監に呼び出された。しかし佐野は不在であり、菊池は親友を守るため、その場では「自分が盗んだ」として退出した。その後、帰寮した佐野に菊池がマントの件を質すと、佐野は親や親戚に合わせる顔がないと泣き出した。菊池は、そのまま自分が罪をかぶることを決意した。菊池は、佐野や他の同級生より四歳も年上(明治二一(一八八八)年生まれ)で親分気質があったことに加え、佐野には同性愛的慕情を抱いていたことから、佐野の将来を考え、自らが犠牲になる道を選んだとされる。菊池は後に、この事件をモデルにした作品青木の出京(『中央公論』大正七(一九一八)年十一月発行。リンク先は「青空文庫」)の中で、「自分が崇拝する親友を救うことこそ英雄的であると信じ、それに陶酔し、感激していた」とそのときの心情を主人公に語らせている。他にも、当時、菊池に大学に進学するだけの学資の当てがなかったことも一因であったともされる。ここはウィキの「マント事件」に拠った)が起きた。『事件の影響で』一旦、『休学して山口県で謹慎生活(秋吉台での大理石採掘)を送り、通常よりも遅れて』大正二(一九一三)年九月に『第一高等学校を卒業した』。『卒業後』は『東京帝国大学文科大学哲学科へ進』み、『在学中は第三次『新思潮』の創設に参加し、創刊号に「生を与ふる神―生命論三部作の一」という論文を発表した』。しかし、大正三(一九一四)年春に中退している。『中退の事情について、当時』、『芥川龍之介は井川恭に宛てた書簡で「何でも哲学科の研究室の本か何かもちだしたのを見つかって誰かになぐられて」と記している』(大正三(一九一四)年四月二十一日附)。『中退後に山口県に戻り、約』二『年間』、『感化院に入院した』。『退院後は私立國學院の教員を務めた後』、大正七(一九一八)年に『大連にあった南満州鉄道の調査課図書館に就職した』が、三年後に退社し、大正一一(一九二二)年に『外務省情報部に入官するも、翌年』、『肺結核を理由に退職』している。また、この年に『市川正一と『無産階級』を創刊』し、翌年には『徳田球一の要請を受け』、『日本共産党(第一次)に入党』、翌大正一三(一九二四)年の『党協議会で解党』が『決議』されると、『党再建のため』、『再建ビューロー中央常任委員として残り、コミンテルン上海会議に荒畑寒村らと出席した』。大正一五(一九二六)年十二月に『山形県五色温泉で開かれた日本共産党第』三『回大会では中央委員長に選出された』。『党内では福本イズムを強く支持していた』。昭和二(一九二七)年、『日本共産党の使節団の一人としてモスクワを訪問し、コミンテルンの会合に出席した。モスクワ訪問時に赤の広場で他の日本共産党員たちとともに撮影された写真がモスクワで発見されている』。しかし、『福本イズムへの態度に一貫性が欠けるなどとして中央委員を罷免されたのち』昭和三(一九二八)年の「三・一五事件」で『検挙された』。『取り調べに対して党中央の秘密事項を供述し』、昭和四(一九二九)年には『獄中で事実上』、『転向し』ている。昭和五(一九三〇)年に仮出獄したが、翌年、死去した。死因は肺結核とされる。『菊池寛は、自著』「半自叙伝」の『なかで、佐野を「頭のいい男であるが、どこか狂的な火のようなものを持っていた」と評し』ている。また、『第一次共産党の関係者であった荒畑寒村、プロレタリア文学者の江口渙、労働運動研究者の山辺健太郎らは人格や行状、共産党指導者としての資質に批判的な見解を著書等で述べている』。『佐野と菊池寛の両名と親交のあった長崎太郎はマント事件の際、最初』、『佐野から「菊池は破廉恥なことをしたために退学になった」と聞かされ、後日』、『菊池から事件の真相を告げられて、改めて佐野を問い詰めても「菊池が、破廉恥をやったんだよ。何度言っても同じことだ」という反応を示したと記している』。『関口安義は佐野が「本質的にはやさしい人間」「決して根っからの悪人ではない」としながらも、「意志が弱く、弱点を見せまいと見栄を張ったり、嘘をついたりするところがあった」と評している』とある。

「根本」既出既注

「成瀨」一高・帝大時代の親友でフランス文学者となった成瀬正一(せいいち 明治二五(一八九二)年~昭和一一(一九三六)年)。東京帝国大学文科大学英文科卒。第四次『新思潮』の創刊に加わった。大学卒業後、間もなく、創作から研究の道に転じ、九州帝国大学法文学部教授としてフランス・ロマン主義思想を専門とし、特にロマン・ロランの翻訳・紹介で知られる。横浜市生まれで、成瀬正恭(まさやす:「十五銀行」頭取)の長男であったから、「月謝を皆にかしてしまつた」というのが腑に落ちる。

「三崎へ行つてゐる」遊びに、の意か。

「石原」石原登(明治二五(一八九二)年~昭和五九(一九八四)年)であろう。新全集の「人名解説索引」に(ピリオド・コンマを句読点に代えた。以下同じ)、『一高時代の同級生。兵庫県の生まれ』で、東京帝大『哲学科卒。教育学研究室助手を勤めた後、メキシコ』を『放浪、帰国して教護施設武蔵野学院教官を長年つとめ、晩年は女子教護院国立きぬ川学院の初代院長となるなど、生涯を非行少年教育に捧げた』とある。

「佐伯君」同前で、『一高時代の同級生。東京の生まれ』で、東京帝大『哲学科卒。静岡県視学官を経て、神奈川県立秦野中学校長』とある。

「DOVROVOLSKY夫人」既出既注。以下の「S1GJNORIA NAKAJIMA」・「南薰造」・「バアナアドリイチ」も同じ。]

2021/03/07

南方熊楠を触発させて「四神と十二獸について」を書かせた八木奘三郎の論考「四神の十二肖屬との古𤲿」

 

[やぶちゃん注:南方熊楠の「「四神と十二獸について」を電子化注するに際して、これは別の人物の論考に触発されたものである故に、その原論考を先にここで示すこととする。

 その原論考は、熊楠が冒頭で述べるように、大正三(一九一四) 年一月二十日発行の『人類學會雜誌』(第三十四巻六号)に載った、八木奘三郎(やぎそうざぶろう)の論考「四神と十二肖屬の古𤲿」である。「肖屬」(せうぞく(しょうぞく))とは「見える姿として象形された諸像」の意であろう。

 筆者八木奘三郎(慶応二(一八六六)年~昭和一七(一九四二)年:南方熊楠より一つ年上)は考古学者。江戸青山(現在の東京都港区青山北町)で丹波国篠山藩(現在の京都府内)藩士の子として生まれた。明治二四(一八九一)年、帝国大学理科大学人類学教室に、標本取り扱い係として雇用され、坪井正五郎や若林勝邦らから教示を受けた。明治二七(一八九四)年、千葉県香取市の阿玉台(あたまだい)貝塚を発掘調査したが、この時、同貝塚から出土した縄文土器(阿玉台式土器)が、茨城県稲敷郡美浦村の陸平貝塚出土の縄文土器とは同じ形式だが、東京都品川から大田区にかけての大森貝塚出土の土器とは異なる形式であることに気づき、阿玉台・陸平(おかだいら)両貝塚の土器と、大森貝塚の土器との形式的な違いを、年代差によるものであると結論し、八木は大森貝塚の土器の方が年代的に古く、阿玉台が新しいとする編年を考えたが、その後の研究では順序が逆であることが判明している。しかし、「考古学黎明期であったこの時期に、この見解を導きだしたのは非凡である」という考古学者江坂輝彌による評価がある。明治三五(一九〇二)年、台湾に渡り、台湾総督府学務課に勤務し、大正二(一九一三)年には朝鮮半島に渡り、李王家博物館・旅順博物館・南満州鉄道に勤務した。昭和一一(一九三六)年に帰国して阿佐ヶ谷に住んだ。縄文時代だけでなく、朝鮮半島の古代遺物や古墳時代に関しても、多くの研究業績があり、徳富蘇峰と交流があった(以上は当該ウィキに拠った)。

 底本は「J-STAGE」のこちらの原本画像PDF)を視認した。基本、ここでは極力、必要と思われた部分(難読と判断したもの及び別論文や一部の不審を持った書名や不審・意味不明箇所など)以外には注を附さないこととする。そうしないと、何時まで経っても、本来の目的である熊楠の論考に移れないからである。なお、八木氏の表記は南方熊楠と似て、句点が甚だ少ない。また、頻繁に登場する「玄」は最終画のない「𤣥」であるが、この活字は私が生理的に嫌いなので、総て「玄」で表記した。傍点「●」は太字に代えた。引用の一部には不審があったため、原本等を確認して訂した箇所があるが、特にそれは指摘していない。初出と対応させれば、自ずとそれはお判り戴けることと思う。]

 

   ○四神と十二肖屬との古𤲿

           八木奘三耶

[やぶちゃん注:以下の序辞は底本では全体が一字下げである。]

 左の一篇は予が滿洲歴史地理學會の發會式に際して講演せしものなり、固より咄嵯の記述なるが上に資料乏しきを以て其詳細を盡すこと能はざれ共之を棄るは又鶏肋の感なきにあらず、因て本誌に掲げて看者の一粲に供せり、若し多少益する所あれば幸甚なり。

[やぶちゃん注:「鶏肋」「後漢書」楊修伝による故事成句。鶏の肋(あばら)骨には食べるほどの肉はないが、捨てるには惜しいところから、「たいして役に立たないが、捨てるには惜しいもの」の喩え。「一粲」は「いつさん(いっさん)」。「粲」は「白い歯を出して笑うこと」。一笑。謙辞。]

 予は本日四神と十二肖屬との古書に就て述んとする考へなるが、元來此二者は俱に支那に發源して更に近隣諸國に移りし風習なれば、其本源を知るには是非とも同國の上代に溯りて硏究せざるを得ず、因て先づ四神と十二肖屬との起源、及び其ものゝ意義、幷に用途等に就て大體の要點を述べ、次に實物上の種類變化等をも說ん[やぶちゃん注:「とかん」と訓じておく。]と欲す。

 

    (一) 四神の名稱と意義

 支那にて四神と稱するは、玄武、朱雀、靑龍、白虎の四者にして、之を天地四方に配屬せしものなり、而して朱雀の赤き雀、靑龍の靑き龍、白虎の白き虎たることは此文字上にて既に明かなれども、玄武の文字は不明なり、而も右は「和漢名數」[やぶちゃん注:貝原益軒編の和漢の命数集成。但し、ここで引かれいるのは、その続編(上田元周重編)で、早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらPDF)の17コマ目の左頁の「○四神相應の地」に出る。]に朱子の語を引て。

 玄武謂龜蛇、位住北方故日ㇾ玄、身有鱗甲、故曰ㇾ武。

とあれば、其身體に甲冑の如き鱗甲ある爲め斯く名けたる譯にして、他の鳥獸名とは異るを知る可し、而して何故四神に⑴龜蛇、⑵雀、⑶龍、⑷虎の四者を表せしやと云ふに、斯は天體の星形に象れりとの說やり、今其一例を曰んに。

 伊藤東涯の制度通に。[やぶちゃん注:「制度通」は中国の制度の沿革及び、それに対応するところの本邦の制度との関係を各項別に記述した歴史書。儒学者伊藤仁斎の長男であった儒学者伊藤東涯(寛文一〇(一六七〇)年~元文元(一七三六)年)の著。成立は享保九(一七二四)年。]

[やぶちゃん注:以下の引用は底本では全体が一字下げ。]

蒼龍、朱雀、白虎、玄武ヲ四神相應ト云テ四方ニカクノゴトヰ鬼神ノ象アリト思フハ謨リナリ、本二十八宿ノ星象(卽ち形狀なり)ヨリ起ル、王者ハ天ニ體シテ行フニヨリテ、旗常ニコノ紋ヲ繪ガヰテ四方ノ星象ニカタドル、角・氐・房・心・箕・[やぶちゃん注:中黒はママ。]ノ七宿ソノ並ビヤウ龍ノ如シ、斗・牛・女・虛・危・室・壁ノ七宿ジノ並ビヤウ蛇ノ龜ヲマトフガ如シ、奎[やぶちゃん注:「けい」。]・婁・胃・昴[やぶちゃん注:「ぼう」。]・※・觜・參ノ七宿ソノ並ビヤウ虎ノ形ノ如シ、井・鬼・柳・星・張・翼・軫[やぶちゃん注:「しん」。]ノ七宿ソノ並ビヤウ短尾ノ鳥ノ如シ、是ヲ四方ノ色ニ配シテ蒼龍、朱雀、白虎、玄武ト云ナリ、ソノ詳ナルヿ[やぶちゃん注:「事(こと)」の約物。]爾雅釋天ノ疏ニアリ、云、四方皆有七宿、各成一形、東龍形、西方成虎形、皆南乄[やぶちゃん注:「シテ」の約物。]ㇾ首而北ㇾ足、南方成鳥形、北方成龜形皆西ㇾ首而東ㇾ尾。

[やぶちゃん注:「※」=(上)「已」+(下)「十」。「畢」の異体字。]

とあり、以て四神の由來と首尾の方向とを知る可し、然れども四神の名稱は漢以前の書に見へざれば、同代に此稱呼ありしや否やは明かならず、又其起源も初めより四者一時に生ぜしや否や判然せず、爾雅には春爲蒼天、夏爲朱明、秋爲白藏、冬爲玄英、とありて、此書は世に周公の作と稱すれば一見周初已に四季を四色に配せし事あり、隨て四神の四色も甚だ古く、又祖其起源(四神の)も周代に在らんかと思はるれども、其實爾雅は漢初の作ならんと云ふ說ありて、之を周初とは斷ず可からず、又尙書以下の書を按ずるに、五行の水・火・木・金・土を中央及び四方に配し、又木・火・金・水を東・西・南・北・春・夏・秋・冬に當てしことは書經、樂記・管子以下の書に見ゆれども、靑・赤・黑白の色を曰はず、唯だ周禮に方位と色とを記せし例あり、然れども此書世に漢儒の作と稱せらるれば、隨て爾雅の如きも、其漢初に出しことは略ぼ推測するに足る可く、又色と方位、色と四神名との起源も彼の漢代に在ることを察するに足る可し、而して四神の圖象も亦多くは僥代の器物上に創まれり[やぶちゃん注:「はじまれり」。]、但し秦瓦[やぶちゃん注:「しんぐわ(しんが)」。]と稱する瓦當[やぶちゃん注:「ぐわたう(がとう)」。軒丸瓦(のきまるがわら)の先端の円形又は半円形の部分。文様のある面。]中に四神を配せし例[やぶちゃん注:「れい」。]金石索に見ゆ、去れ共此もの果して秦代なりや、又右の圖が四神に相違なきや、是等の點甚だ疑はしき爲め今採らず、又史記の始皇本紀に

[やぶちゃん注:以下の引用は、底本では全体が一字下げ。]

始皇推終始五德之傳、以爲周得火德、秦代ㇾ周、德從所ㇾ不ㇾ勝、方今水德之始ナリ(中略)衣服、旌旗、節旗皆上ㇾ黑。

と記すれば水德と黑、水と北方との關係上方位と色彩との結合は已に泰代に行はれし有樣なれ共、是等は根本資料を明にする必要あり、又假令右が秦代に在ること疑ひなしとするも、猶周代の分は不明なり、故に予は其確實と信ずる點に從ひて漢代と云へり。

    (二) 十二支の起源と右の意義

 次に十二支の起源と其意義とを曰んに、斯は十干と相伴隨せること常なれば、便宜上二者併せ說くことゝなす可し。干支の原委を說て遺憾なしと云ふ書は世上多から

ざるが如し、而も予の知る所にては「淵海子平」[やぶちゃん注:現行の占いの四柱推命の元である宋の徐子平暦(九六〇年~一二七九年)撰になる算命学的易学書。]の記事尤も細密なるを覺ゆるにより先づ之を擧ぐ可し。

 同書「論天干地支所ㇾ出」の章に曰く。

[やぶちゃん注:以下の引用は、底本では全体が一字下げ。]

ルニ、奸詐生、妖怪出、黃帝時有蚩尤神、擾亂、當是之時、黃帝甚憂民之苦、遂戰蚩尤於涿鹿之野、流血百里、不ㇾ能ㇾ治ルコトㇾ之。不ㇾ能ㇾ治ルコトㇾ之、黃帝於ㇾ是齋戒、築ㇾ壇祀ㇾ天、方ニシテㇾ丘禮スㇾ地、天乃降十干、十二支、帝乃將十干ノ圓、布天形、十二支地形、始以ㇾ干爲天、支爲ㇾ地、合光仰職門、放ㇾ之、然後乃ムル也、自後有大撓氏、爲後人憂ㇾ之曰、嗟吁黃帝乃聖人ナリ、尙不ㇾ能ㇾ治二其惡煞一、萬一後世見ㇾ炎、被ラバㇾ苦、將何奈乎セントスル、遂に將天干十二支、分配シテスト六十甲子云。[やぶちゃん注:「布」「しきて」か。]

 此書の記事によれば十干、十二支は天降物の如くなれども、是等は彼の河圖洛書[やぶちゃん注:「かとらくしよ」。古代中国に於ける伝説上の瑞祥とされる河図(かと)と洛書(らくしょ)という超自然的現象を総称したもの。「河」は黄河、「洛」は洛水を表す。易の八卦や洪範九疇の起源とされている。]と同樣信するに足らず、又其起源を黃帝とするは支那事物起源の通弊なれば採る可からず、而も十干を天圓と云ひ、十二支を地方と稱することは他書の謂はざる處にして、稍や面白き點なり、何となれば十二支を地方に表せし例は漢代の古鏡と璧の一種及び其記事等に往々散見すればなり、併し孰れにしても此干支の論は採る可からず、寧ろ事物起源に擧ぐる所却て正しかる可し、同書に曰く。

[やぶちゃん注:以下同前。]

甲子。世本日、大撓造ルト甲子、呂氏春秋曰、黃帝師大撓、黃帝内傳曰、帝既斬蚩尤、命ジテ大撓甲子、正ㇾ時、「月分章句醫曰、大撓探五行之情、占斗剛ㇾ建、於ㇾ是始作甲乙、以、謂之幹、作子丑一[やぶちゃん注:底本は「ㇾ」。後文から誤りと断じて訂した。]、謂之支、支幹相配シテ以成二六旬

 此記事の圓文は別に論するの價値なしと雖も、月介章句に「作甲乙、以名ㇾ曰、作子丑」と云ふ語は頗る正確なるが如し、何となれば十干の數は元來十進法にして十位を整敎とすれば、日數に當てし名に相違なく又十二支の數は一年十二ケ月より來れるにより十二敷と定まれるに相違なし、而して月令に「占斗剛所ㇾ建、於ㇾ是始作甲子以名ㇾ曰、作子丑以名ㇾ月」とあるによれば、一旬卽ち十日の數も、一年十二ケ月の數も俱に北斗の劍先が運行する工合によりて命名せしが如くに思はれ、又十二支は月の出が大抵三日目より見ゆるにより(二日目より見ゆる事もあれど)其日より數へて十四日迄を十二に當て、滿月の十五日は盈虛の中心に置きし樣にも思はるれども、元來支那の天文曆數等に就ては予輩門外漢の容易く知り得ざる點あり、隨て其孰を孰れとも決し得ざれ共、何にせよ十干が日數より出で、十二支が月數より生ぜしことは略ぼ推測し得らる可く、又彼の淵海子平に十干を天圓に出で、十二支を地方に出ると云ふ事は、其起源說としては的中せざることを知る可し。(但し應用の古きは事實なり)

 次に十二支に十二獸名を當てしことは彼の事物起源に事始を引て。

 黃帝立子丑十二辰以名ㇾ月、又以十二名獸ㇾ之。

とあれども、之は支那人側の解釋にて、實は印度の十二名獸が支那に移りて彼の十二支と結合せるが如し、斯は宿曜經なぞに記載しあれども、巳に我邦人の言明せし文章あれば、次に之を述ることゝなす可し。

 山岡俊明の類聚名物考に曰く。

[やぶちゃん注:以下同前。]

飜譯名義集に、「此十二支爲中渠之達觀也、と見ヘたり、經には鼠・牛・虎・兎・龍・蛇・馬・羊・猿・鷄・狗・猪の文字を用ゐ、此十二物は大權の聖者にして、年・月・日・時に四天下を巡りて同類形の衆生を濟度す」と說けり、此の十二獸の名を支那にて古く用ゐ居たる子丑等の字に配當したるを以て我國にて、ねうしの訓を充てたるなり。

山岡の說は當時に於て卓見と謂ふ可く、彼の鼠、牛以下の獸名は確に印度傳來に相違なく、夫が支那の子丑寅卯と結合せしことは疑ひなかる可きも、此點に就ては猶硏究の餘地あるにより、右は後に說くことゝして以下五行の起源と配置とを一言す可し。

    (三) 五行の起源

 支那に於ける五行の記載は書の洪範に見ゆる文を以て始と爲す、然れども其實由來の古きことは二典に五嶽を置き、五歲に一度巡狩し、又五典、五常を敎へ、五刑を備へ、其他五瑞、五玉を班ち、五岐を修むるなど云へる事は皆な五行の思想を示すものなり、又居所に四門を設け、國に四岳を置くが如きも、皆な五數より來るものにて、中央の己れも其數に加はる事は明かなり、已に二典時代に斯る思想の見ゆる以上は假令五行の名なしと雖も其實ありしことは疑ひなく、隨て洪範にも箕子が「我聞在昔(ムカシ)[やぶちゃん注:二字へのルビ。以下の二箇所も同じ。]、※陻(フサ)洪水、汨(ミダ)其五行、(天帝)乃震怒」[やぶちゃん注:「※」―「魚」+「糸」。]云々と云へるならん、巳に支那最古の文章と稱せらるゝ二典(近來此文章を若く見る人あり、未だ其詳細を聞かざれども別に確證ありとも思はれず、且つ現存の他書を二典已前に當る次第にもあらざれば其最古たる點は動かざるなり)以下に五行思想の現はるゝ以上は今假に其起源を知ること能はざれども、年代の悠久なる點は疑ふ可からず[やぶちゃん注:ここ、行末改ページで句読点なし。]從て支那の漢民族は、天地・四方・上下・大小凡てのものに此の五行を配當して喜び居れり、例せば天に五星を置き、地に五嶽を設け、人に五倫を備へ、河に五色の河を置き、爵に五等を設け、罪に五逆を定むるが如く數ヘ來れば、殆んど際限なく、先づ天地萬物を此五行上にて律せんとする形迹を示せり、而して何故斯く五數を重んぜしやと云ふに、其起源は恐らく手指の數より來れるならん、此事は人類學上の硏究に涉れば絃には別に述べざる可きも、古く漢民族の用ひ居たる事物配合の數は甞て重野博士[やぶちゃん注:漢学者・歴史家で、日本で最初に実証主義を提唱した日本歴史学の泰斗にして日本最初の文学博士の一人である重野安繹(やすつぐ 文政一〇(一八二七)年~明治四三(一九一〇)年)か。]が結繩時代の遺風ならんと云はれしこと有り、乃ち彼の書經以下に見へたる、十二牧、九州、九族、八卦、七政、五行、三才なぞ云へる數は果して太古結繩の遺風に基くや否やを知らざれども、之を人類學上より見れば或は然らんかとも思はれ、又陰陽の二者は日月より來り三才は夫婦子供若くは祖父子より來り、五行は手指の五本より來りて、其後右の意義に哲學上の高尙なる論說を當て箝め[やぶちゃん注:「はめ」。]、以て時代精神に隨伴せしむるに至りしものならんと考ふ、然れども斯る事物の配合數は印度にもあり[やぶちゃん注:行末改ページで句読点なし。]例せば彌陀に三尊あり、佛に三寶あり、法身に三身あり又塔に五輪ありて地水火風空を表し、如來に四天王ありて四隅を守り、其他國に五天竺あり、天人に五衰あり、殊に天體には五星・七曜・九星・十二宮・二十八宿の類ありて、殆んど支那と一致せる點あるを見る、是等は世界民族閒に起る隅然の暗合もあらんが其特種の類に至りては決して右の如く斷ずること能はず、殊に天文學上の事柄、原素上の種類等に至りては必ずや一の本源地ありて夫れより四方に傳派せしに相違なし、但し此天文學上の一致は新城博士[やぶちゃん注:天文学者・中国学者で理学博士であった新城新蔵(しんじょうしんぞう 明治六(一八七三)年~昭和一三(一九三八)年)であろう。京都帝国大学総長で名誉教授。専門は宇宙物理学と中国古代暦術というハイブリッドな研究者であった。]の說によるに春秋戰國の頃支那より印度に渡り、更に中央亞細亞に傳播せしならんとの事なるが、予輩考吉學上の硏究結果によるも、支那と其の西南部諸國との交通は豫想外に古きにより、同氏と似よりの結論に達することは敢て難事にあらざる可し。

    (四) 四神と十二肖屬との遺品

 以上干支五行の說は極めて大略なれども、支那の事物硏究上には頗る有用なるに依り參考の爲め申述し次第なり、次に實物上に就て曰んに、支那に於て、四神、十二支を物體上に現はせしは碑石以下諸種の品にあれ共、其古くして且つ多きは鑑鏡の類なるが如し、此鏡の論は他日別に詳說す可きに依り、本日は單に其中の四神と十二支とのみを曰んに、支那の鏡鑑は人文の大に發達せし漢代の作品甚だ精巧にして、且つ最古に屬するが如し、而して其數も割合に多ければ當時の思想を窺ふには便宜ある次第なるが、今是等の品を見るに方形のもの絕無にして必ず之を圓形に造りしは一に天圓に象りしに相違なし、世には秦の方鏡を報じ、又漢の方鏡として其圖を揭ぐるものあれども信ずるこ[やぶちゃん注:ママ。「に」の誤植であろう。]足らず、當時は凡て圓形と見て可なり、而して古書によるに鏡は初め月に象りしとか或は日に象りしとか云へど、其背面の紋樣より考ふれば天圓と見るが穩當なる可し、去れば地方は多く鈕の周圍に示して天の地を覆ふ有樣を示せり、又其紋様なる四神十二支の如きは最初星形にて表せしにより、世人は之を乳と呼びて星と解せざれども、其實右は星を現はせしに相違なく、隨て四神は俗に四乳鏡と稱する四星を以て之を表し、中央の鈕を加へて五行の意味を明にせし實例多く之れ有り、其他七曜・九曜等も見へ、中には工人が無意義の數を示せし類もあれど、大抵は規則正しく之を現せり、而して十二支は初め鈕の周圍に十二個の乳を置しが、後には右に滿足せずして文字を加へ、更に一轉して帶外に十二肖屬を示すに至れり、此風は四神も亦同樣にて星外に圖象を示し、又乳と併せ圖せし例もあり、次に是等の四神と十二肖屬とを墳墓の棺槨[やぶちゃん注:「くわんくわく(かんかく)」。遺体を納める柩(ひつぎ)。]に書き、或は後者を人體形に變化し始めたるは何時頃なりやと云ふに、其起源は不明なれども、周代は諸侯、大夫の棺に雲氣を書𤲿くのみにて他の圖容なければ無論其風の行はれざりしを知る可く、漢に至て四神の描寫を初めたるが如し。

 漢書董賢傳に日く。

[やぶちゃん注:以下、同前。]

董賢自殺伏ㇾ辜、死後父恭不ㇾ悔ㇾ過、乃復以硃砂𤲿棺四時之色、左蒼龍、右白虎、上著金銀日月、玉衣、珠璧

 董賢は前漢哀帝の臣にて、大司馬衞將軍の職に昇りしものなれば、四神を棺表に𤲿くことは古く前漢時代に行はれしことを知るに足れり[やぶちゃん注:董賢の生涯については当該ウィキを読まれたい。]、然れども當時の遺品は世に傳はらず、其今日に知られたる類は多く六朝以後の例なるにより、右の盛行せしは恐らく後漢より三國時代に在らんか、蓋し支那の古墳沿革は他日別に說く可きも、其六朝時代に屬する壁書の古墳は今日朝鮮の大同江兩岸又は扶餘地方、猶古き分は鴨綠江岸の通溝、卽ち高勾麗の舊都等に存在せり因て右の大略を曰んに、是等の古墳中、石槨内面の構造蛇腹式屋根形のものには往々四神の像あり、今其小地名を擧んか、大同江岸の分には平安南道の江西及び鶴林面、具池洞、梅山里、延東里、又は平讓の北方處々に在り、扶餘地方は僅に一個所に過ぎざれ共、猶將來發見の見込なしとせず、面して是等は朝鮮の三國時代、卽ち高勾麗、百濟、新羅等割據の時代にして支那は六朝頃に當れば、常時此國に右の風習盛行せしことは明かなり、猶右の中には支那の唐代卽ち新羅統一時代に屬するものもあれば、爾後連續せし有樣なるも、其の四神形は高麗に入りて壁𤲿に迹を絕ち、專ら石棺彫刻の上に遺風を留めたり。

 以上述るが如く、支那にて棺面に四神を𤲿くことは前漢に始り、而して後漢書にも、木棺の表面に「鳥、黿[やぶちゃん注:「げん」。鼈に同じい。]、龍、虎」を書くことを記するにより、爾後漸次に發達し來りし迹を知れども.、其遺品の存否は不明なり、唯だ實物上にては鏡鑑に其類多く、又作柄の大にして且つ着色の鮮麗、運筆の奇拔なるは六朝時代に屬する古墳壁𤲿の外、他に見ること能はざるなり。

 次に十二肖屬は四神と同樣鏡背に表示せし例最も古く、次は石棺彫刻の類なれども、之を人體形に𤲿きたるは支那の起源明かならず、併し朝鮮にては新羅統一時代に行はれしにより、唐代の盛行は略ぼ推測するに足れり只だ其已前に在りや無しやは今日未だ決定し居らざるなり、去れ共此時代に至りては朝鮮の文化も非常に進み、且つ交通頻繁となりて、唐風模倣の流行甚だしかりしにより、或は彼の風と新羅の風とは時期に大差なかりしやも圖られざるなり、若し然りとせば十二支の人體化は一に唐代に在りと謂ふも不可なかる可し、但し四神と十二支とは星形時代に於ては別に前後の隔りなきも、之を古墳に表せし點より見れば大差あり、卽ち四神描寫の時代には未だ十二肖屬の類[やぶちゃん注:「たぐひ」。]世に現はれず、反之て[やぶちゃん注:「これにはんして」。]十二肖屬の行はれし頃は四神の風漸次衰へたるが如し、但し此十二肖屬の人體化は最初首丈を鳥獸形に示し、身體のみを人間風となせしが、高麗卽ち五代以後に至りては、此全部を人間形となし、冠上の中央前立の邊に舊鳥獸形を表することゝなせり、今實例を擧げて之を日はゞ、朝鮮の慶州地方に存する王陵若くは金庾信の墓に存する腰石の浮彫り、又は墓中より出る小形の彫刻坐像は凡て前者に屬し、又開城附近に存する王陵の壁書及び石棺彫刻の分は後者に屬せり[やぶちゃん注:「金庾信」(キムユシン 五九五年~六七三年)は三国時代の新羅の将軍で新羅の朝鮮半島統一に最大の貢献をした人物として知られる。]、猶此十肖屬を墓側に立てし例は日本にもあり、卽ち奈良の元明天皇陵より出し七疋狐と稱するものは其類にて、本來は十二支の殘石なれども全部完備し居らざりしと、又偶ま狐に類する兎、狗の類殘れる爲め斯く傳稱せしものゝ如し、併し是等は人間風に立ち又は坐せし點のみが眞物と誤る譯にて手足と面貌とは猶ほ舊形を失はざるなり、去れば人體化の例としては確に古式を示すものにて、其類は未だ他國に見ること能はず[やぶちゃん注:読点なし。]故に學問上に取りてに實に得難き好資料と稱するを得可し。

    (五) 結 論

 以上述るが如く干支と四神とは支那の漢族間に發生し、其或ものは印度の古傳と結合せしも、本源は一に天體より出るが如く、又後世流れて各般の事物に應用せられし類には遂に人間化せしもあり、然れ共四神は龜蛇虎鳥の形體を變ずること能はず、十干は名稱以外に鎚化せず、單に十二支のみ數傳せしが、其源に溯れば文字以外の表示としては四神と十二支とは初め星形を用ひられ、後に鳥獸及び虫形と變ぜしなり、而して此類の智識が最初支那より印度に傳はれるや否やは、今俄に決すること能はざれども、其十二支に鼠、牛、虎の類が印度より流傳し、之に依て繪𤲿上に現はれしとすれば、其實例は夙に漢鏡に見ゆるにより、由來甚だ古きを知る可く、又其ものゝ日本、朝鮮等に流傳して種々變化し行く狀態を見れば、單に藝術上の巧拙を知る外に、思想上の異同と、應用上の如何とを知る媒[やぶちゃん注:「なかだち」。]ともなれば、其硏究上大に興味あるものと、云ふ可し。

  已上は大略なれども本題の起源、沿革等を述べ盡せるにより、本日は之にて終結とす可し。

 附言 講演の際は種々の材料を示せしも本誌には皆な之を省略せり。

[やぶちゃん注:最後の附言は、底本では全体が一字下げで二行に渡る。]

大和本草附錄 肥後の八代川苔 (スジアオノリ)

 

肥後八代川苔 色綠美長一尺餘味佳長崎ノ海ニ

靑苔アリ八代苔ヨリ短シ味尤ヨシ伊勢苔武藏ノ

淺草品川苔皆同類也靑苔ナリ肥後八代ノリノ

外皆海苔也

○やぶちゃんの書き下し文

肥後の八代(やつしろ)川苔(〔かは〕のり) 色、綠。美。長さ一尺餘り。味、佳し。長崎の海に靑苔〔(あをのり)〕あり。八代苔(やつしろのり)より、短し。味、尤〔(もつとも)〕よし。伊勢苔(〔いせ〕のり)、武藏の淺草(あさくさ)・品川苔(しながはのり)、皆、同類なり。靑苔なり。肥後の八代のりの外(ほか)、皆、海苔〔(うみのり)〕なり。

[やぶちゃん注:前の「海粉」の後には十条を数えるが、水辺に生えるものが数種あるものの、純粋な水草ではないので採らなかった。文政八(線八百二十五)年跋の版本編「物品識名拾遺」(尾張岡林清達の稿を水谷豊文(みずたにとよぶみ)が編したもので、「物品識名」の後編。日本産の動物・植物・鉱物名をイロハ順に列挙し、さらに「水」・「火」・「土」・「金」・「石」・「草」・「木」・「蟲」・「魚」・「介」・「禽」・「獣」に分類し、カタカナで和名を、その下に漢名を記載し、ものによっては出典なども付したもの)に七十五丁に(早稲田大学図書館「古典総合データベース」の同書(PDF)で視認した。14コマ目)、

   *

ヤツシロノリ【肥後八城産】 紫菜(アマノリ)一種

   *

とあった。この「アマノリ」が正しいとすれば、紅色植物門ウシケノリ綱ウシケノリ目ウシケノリ科 Bangiaceae の一種となるが、どうも違う。「八代漁業協同組合」公式サイトの「八代青のりを見ると、はっきり「スジアオノリ」とあり、これは

緑藻植物門緑藻綱アオサ目アオサ科アオサ属スジアオノリ(筋青苔)Ulva prolifera

が正解となる。前掲の田中氏の「日本の海藻 基本284」では、学名を「Enteromorpha prolifera」とするが、これは本種のシノニムなので問題ない。以下、田中氏の解説によれば、『四国の名産品』として『「青海苔』が知られるが、それは『この種が使われていることがほとんど』とある。『河口付近の淡水が混じる海域に生育することが多い。直径や長さ、江分かれの数など』、『個体ごとの形態の変異が大きい』。同属の『ボウアオノリ』Ulva intestinalis(異名にイトアオノリ。Enteromorpha intestinalisEnteromorpha capillarisはシノニム)『に似るが、藻体全体、とくに下部からの小枝が多く出ていることが識別点である』。『本種はアオノリのなかでももつとも美味とされ、食用として重要種である。徳島県吉野川や高知県四万十川での養殖が有名である』とある。ここでは、ここで名にし負う熊本県八代市の球磨川河口(グーグル・マップ・データ)のそれも付け加えておこう。また、各地の加工品のそれを画像で載せておられる「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のスジアオノリのページも必見。私はそこに載る、新鮮なそれの天ぷらを、食べたくて食べたくて仕方がない。

「長崎の海に靑苔あり」「伊勢苔(〔いせ〕のり)、武藏の淺草(あさくさ)・品川苔(しながはのり)」と示すのは孰れも殆んどが最初に示した縁の遠いウシケノリ類と考えられる。それらは「大和本草卷之八 草之四 紫菜(アマノリ)(現在の板海苔原材料のノリ類)」を参照されたい。]

怪談老の杖卷之三 小豆ばかりといふ化物

 

   ○小豆ばかりといふ化物

 麻布近所の事なり。貳百俵餘(あまり)程取りて、大番(おほばん)勤むる士あり。

 此宅には、むかしより、化物ありと云ひけり。主人も左(さ)のみ隱されざりしにや、ある友だち、化物の事を尋ねければ、

「さして、あやしきといふ程の事にもあらず。我等、幼少より、折ふし、ある事にて、宿にては馴(なれ)つこに成りて、誰(たれ)もあやしむものなし。」

と、いひけるにぞ、

「咄しの種に見たきもの也。」

と望みければ、

「やすき事也。來りて、一夜(ひとよ)も、とまり給へ。さりながら、何事もなきときもあるなり。四、五日、寐給はゞ、見はづし給ふまじ。」

と、云ひけるにぞ、好事(かうず)の人にてやありけん、

「幾日なりとも、參るべし。」

とて、其夜、行(ゆき)て、寐(い)ぬ。

「此間なり。」

といふ處に、主人とふたり、寐て、はなしけるが、さるにても、『いかなるばけものにや』と、ゆかしき事、かぎりなし。主(あるじ)に尋れば、

「まづ、だまりて、見たまへ。さはがしき夜(よ)には、出(いで)ず。」

と、息をつめて聞居(ききをり)ければ、天井の上、

「どしどし」

と、ふむ樣(やう)なる音、しけり。

「すはや。」

と聞居ければ、

「はらり」

「はらり」

と、小豆(あづき)をまく樣なる音、しけり。

「あの、おとか。」

と、きゝければ、亭主、うなづき、小聲になりて、

「あれなり。まだ、段々、藝あり。だまつて、見給へ。」

と、いひければ、夜着をかぶり、いきをつめて居けるに、かの小豆のおと、段々に、高くなりて、後(のち)は、壹斗(いつと)程の小豆を、天井の上ヘ、はかる樣なる體(てい)にて、間(ま)ありては、また、

「はらはら」

と、なる事、しばらくの間にて、やみぬ。

 また、聞ければ、庭なる路次下駄(ろしげた)、

「からり」

「からり」

と、飛石(とびいし)のなる音して、水手鉢(てうづばち)の水、

「さつさつ」

と、かけるおと、しけり。

「人や、する。」

と、障子をあけて見ければ、人もなきに、龍頭(りゆうづ)のくびひねりて、水、こぼれ、又、水、出(いで)やむにぞ、客人も驚きて、

「扨々、御影(おかげ)にて、はじめて、化ものを見たり。もはや、こはき事は、なしや。」

と、いひければ、

「此通りなり。外に、なにも、こはき事なし。時々、上より、土・紙くづなど、おとす事あり。何も、あしき事はせず。」

と、いはれける。

 其後、かたりつたへて、心やすきものは、皆、聞きたりけれども、習ひきゝては、よその者さへ、こはくも、おもしろくも、なかりけり。

 まして其家の者ども、事もなげにおもひしは理(ことわ)りなり。

 しかれども、かの士、一生、妻女なく、男世帶(をとこじよたい)にて暮されけり。妾(めかけ)ひとり、外(そと)にかこひおき、男女の子、三人ありけり。

 女などのある家ならば、かく、人もしらぬ樣にはあるべからず、いろいろの尾ひれをつけて、いひふらすべし。

 「世の怪談」とて云ひふらす事は、おくびやうなる下女などが、厠にて、猫の尾をさぐりあて、又は、鼠に、ひたひをなでられなどして、云ひふらす咄し、多し。

 この「小豆ばかり」は、何のわざといふ事を、しらず。

[やぶちゃん注:「小豆ばかり」これは「小豆計り」で、あたかも小豆を計量するために升にでも移しているかのような音を立てるこちに因むのであろう。最後のややくだくだしい「当世怪談考」らしきものや、その前の大番の主人の私生活を細かに描写するなど、かなりリアリズムに徹しようとする姿勢が見られ、妖怪「小豆研ぎ」なんどの眉唾ではなく、ポルター・ガイスト(Poltergeist)現象の都市伝説の真実味を、いや増しにさせる手法など、他の江戸怪談にはまず見受けられない、はなはだ上手いと私は思う。

「大番」将軍を直接警護する現在のシークレット・サーヴィス相当職であった五番方(御番方・御番衆とも言う。小姓組・書院番・新番・大番・小十人組を指す)の中でも最も歴史が古い衛士職。大番頭の下に与力が配され、一組に附き、十騎(「騎」与力の数詞)配属された。

「路次下駄」露地下駄(ろじげた)に同じ。本来は雨天や雪の場合に露地を歩く際に履く下駄で。柾目の赤杉材に竹の皮を撚(ひね)った鼻緒を付けた下駄。数寄屋下駄(すきやげた)とも呼ぶ。ここは私邸内の庭下駄。

「龍頭(りゆうづ)のくび」筧などで引き込んだ水か、高い位置に桶を設えて竹などで蛇口・水栓を作ってあるようである。なかなかお洒落だ。今まで、こうした手水鉢の細部描写は私は見たことがない。]

怪談老の杖卷之三 吉原の化物

 

   ○吉原の化物

 和推(わすい)といへる俳諧師ありけり。或とき、人にいざなはれて新吉原へ行(ゆき)しに、夜更(よふけ)て、

「用事を、かなへん。」

とて、厠へ行ぬ。

 いたく醉ければ、足もとも定らず、ふみまたぎて、たれんとしけるが、何やらん、ある樣に覺えければ、よく見るに、女の首なり。

「ぎよつ」

と、せしが、不敵なる法師なりければ、少(すこし)もさわがず、

「そつ」

と、外へ出て、覗きてみて居(をり)ければ、此首、ふりかへり、笑ふ體(てい)、死(しし)たる者に、あらず。

 法師、手をのばして、髮をからまき、引(ひき)ければ、首ばかりにてはなく、紅(べに)がのこの、古き小袖を着たる女なり。

「ぐつ」

と、引(ひき)あげければ、上へ引出(ひきいだ)しぬ。

 裙(すそ)は、不淨にそまりて、くさき事、堪(たへ)がたし。

「何ものぞ。」

と、いへど、笑ふばかりにて、あいさつなし。

 和推、若き者をよびて、

「しかじかの事ありし。」

と云ひければ、はしり來りて見て、

「手前の女郞衆(ぢよらうしゆ)なり。此比(このごろ)、時疫(はやりやまひ)を煩(わづらひ)て、引(ひき)こみ居(をり)しが、いつの間に、はいりぬらん、むさき事かな。」

とて、皆、よりて、裸にして、水をかけ、洗ひけり。

 和推、打(うち)わらひて、

「扨は。ばけものゝ正體見たり。『左あらん』とおもひし事よ。」

とて、事もなげに、二階へ上りて寐(い)ぬ。

 翌朝、若い者方(ものがた)より、いひ出して、みな人、和推が心の剛(かう)なりし事を感じけり。

 うろたへたらん武士は、及ぶまじき、ふるまひなり。

 酒をよく飮みけるが、是等は「上戶(じやうご)の德(とく)」ともいふべし。

 韓退之(かんたいし)が文集の中に、厠の神の崇(たたり)にて、厠へ入りし事ありしと覺へぬ。よからぬ【不祥。】[やぶちゃん注:「よからぬ」の傍注。]事なるべし。

[やぶちゃん注:疑似怪談だが、短篇ながら、映像と臭いがよく伝わってくる。

「和推といへる俳諧師」享保年間の江戸の俳諧師に和推(二世調和)が実在する。松尾真知子氏の論文「享保時代の江戸俳壇 和推(二世調和)の動向」PDF・『国文論叢』一九九四年三月発行所収)参照。

「新吉原」浅草北部にあった遊郭。サイト「錦絵でたのしむ江戸の名所」のこちらによれば、当初は日本橋葺屋町(ふきやちょう)の東側(グーグル・マップ・データ。以下同じ)に開設されたが、明暦二(一六五六)年に移転を命ぜられ、翌年の「明暦の大火」の後、浅草千束村(吉原弁財天本宮をポイントした)へ移った。これ以前を「元吉原」、以後を「新吉原」と呼ぶ。最盛期には三千人の遊女を抱えており、『日本堤から衣紋坂を通り、堤から遊郭が見えないように曲がった五十間道を経て、大門をくぐって入る。日本堤から衣紋坂へと曲がる東角に柳があり、客が振りかえって名残を惜しむ位置にあるために「見返り柳」と呼ばれる。周囲には「御歯黒溝(おはぐろどぶ)」と呼ぶ堀をめぐらし、出入り口は大門一か所として、遊女の脱走を防いだ。中央の大通り「仲之町」には、春には桜を、秋には紅葉を移植するなど、人工的な楽園を演出した』とある。このサイトはヴィジュアルが豊富でとても楽しい。お薦めである。

「法師」僧だったわけでは無論、ない。俳諧師は僧形だったから、かく言ったものである。

「紅がのこ」「紅鹿子」。

「むさき事かな」ここはもろに「きたならしい限りじゃ!」。

「韓退之が文集の中に、厠の神の崇にて、厠へ入りし事ありし」中唐の詩人・思想家で「唐宋八家文」の一人韓愈(七六八年~八二四年)の字(あざな)。儒家でも特に孟子を尊び、道教・仏教を排撃したことで知られ、柳宗元とともに「古文復興運動」に努めた。「厠の神の崇にて、厠へ入りし事ありし」(便槽に落ちたということであろう)という話は知らない。識者のご教授を乞う。

「よからぬ【不祥。】事なるべし」これは一応、この厠の中に落ちてしまった女郎を限定しているととっておく。]

怪談老の杖卷之三 美濃の國仙境

 

怪談老の杖卷之三

 

   ○美濃の國仙境

 陶淵明が桃源、劉氏が天台を始(はじめ)として、古今、仙家に遊べる說、甚(はなはだ)多し。多くは是、譬喩寓言、茫として影を捕ゆる[やぶちゃん注:ママ。]が如く、實跡を知る事なし。操觚(さうこ)風流の士の前にいふべくして、田夫野翁の疑惑をして、渙然(くわんぜん)たらしむること、あたはず。予、常に是を恨みとす。然るに、一日(ひとひ)、奇異の話を聞(きけ)り。

[やぶちゃん注:「陶淵明が桃源」言わずもがな、六朝の東晋末・宋初の名詩人陶潛(三六五年~四二七年)の散文「桃花源之記」。武陵 (湖南省) の漁夫が舟に乗って道に迷い、桃の林の中を行くうち、異境に達したが、そこは秦(統一国家成立は紀元前二二一年で紀元前二〇六年に滅亡)の頃に戦乱の世を逃れて隠れ住み、外界との接触を絶っている人々の村であったという。「桃源境」という語の由来となり、古代ユートピア思想の一典型として後代に大きな影響を与えた。本来は「桃花源詩」という五言詩に附せられた記であるが,陶淵明の著と仮託されている文言志怪小説集「捜神後記」にも収められている。

「劉氏が天台」「劉・阮、天台」。「列仙全傳」(前漢末の官僚劉向(りゅうきょう 紀元前七七年~紀元前六年)作とされるが、仮託で、後漢の桓帝(在位:一四六年~一六八年)以降の成立と推定されている)巻三や、六朝の志怪小説集「幽明錄」載る遊仙譚。「桃花源之記」に似ている。漢の漢の永平五年(西暦六二年)、劉晨(りゅうしん)と阮肇(がんちょう)の二人が薬草採りに天台山に分け入ったが、道に迷って十三日も歩き回ったものの、帰れなかった。飢えて死が迫った。その時、遙かな山巓に一本の桃の木があって、沢山、実がなっているのを見つけ、苦労して攀じ登り、その桃の実を食って元気を取り戻した。かくして山を下り、谷の水を飲んでいると、上流から蕪の葉が流れてき、またその後に胡麻飯を持った杯が流れてくるのを見つけた。これで人家があると知り、更に山を越えて行くと、大きな谷間で、二人の美人と出逢った。二美人が二人を家に導くと、そこは豪華な御殿で、多くの侍女もいた。二人はそれぞれこの二美人の婿となった。しかし十日経って、二人が帰りたいと言い出すと、前世からの福運でここに来たのだ、と説明して帰さず、そのまま半年が過ぎた。再び、帰還を望むと、罪業に引きずられているのだから仕方がない、と帰した。帰ってみると親類縁者や知人は総て死に絶えていて、村も全く変わっていた。訪ね当てたのは自分らの七代後の子孫であった。晋の太康八年(三八四年:行方不明になってから実に三百二十二年後)、二人は姿を消してしまったという。この中の仙境歓楽の様子が「劉阮天台」と称する画題となり多く描かれている。原文は私の「三州奇談卷之一 鶴瀧の記事」に示してあるので参照されたい。

「操觚」「觚」は「四角い木札」で古代中国に於いてこれに文字を書いたことから、詩文を作ること、文筆に従事することの意。

「渙然」疑問・迷いなどがすっかり解けるさま。]

 

 京都西の洞院わたりに、荻沼(をぎぬま)半右衞門[やぶちゃん注:不詳。]といへる書生あり。弱冠[やぶちゃん注:数え二十歳。]の頃、美濃の國へ用事ありて行(ゆき)けるが、日暮(ひぐれ)て、逆旅(げきりよ)[やぶちゃん注:旅宿。]にやどりけるが、いまだ、日、高かりければ、やどの門先(かどさき)にたゝずみて、山川(さんせん)の氣色(けしき)など詠(なが)めたゝずみ居(をり)けるに、越後の大守、通りあひければ、逆旅のあるじ、年頃、七十有餘の老人、はしりいでゝ、いかにも屈敬(くつけい)の色をなし、餘所(よそ)ながら、拜する體(てい)也。何心もなく、見て居るうち、日もくれはてゝ、燈火(ともしび)つくる頃なれば、半右衞門は、傍(かたはら)により臥(ふし)て、まどろみける。

 暫くありて、外より、是も、よはひ高く、よし有りとみゆる老人、來りて、主人と物語りし、酒など出(いだ)して、くみかはす體(てい)、こと外の中(なか)と見えて、たがひに奥底(あうてい)なき[やぶちゃん注:心の隔たりが全くない。]體なりしが、やがて、床(とこ)の上の書物を出し、會讀(くわいどく)[やぶちゃん注:同じ書物を読み合って、その内容や意味を考え、論じ合うこと。]するを、半右衞門、

『何ならん。』

と、耳をそばたて、聞ければ、易の文言をよむなり。たがひに、義理など、解せざる處は問ひあひ、通ぜざる所に至りては、

「扨も。邊鄙(へんぴ)のかなしさ、尋問(たづねと)ふべき師友もなき事よ。」

と、歎息する事、たびだびなり。

 半右衞門も奇特におもひ、聞けるが、技癢(ぎやう)[やぶちゃん注:自分の技量を見せたくてうずうずすること。「癢」は「かゆい」或いは「はがゆい・もだえる」の意。]に堪(たへ)かね、おきなをりて、圍爐裏(ゐろり)へより、火にあたり、

「是は。御奇特に。御書物のせん義したまふ事よ。」

と、いひければ、主(あるじ)いふ樣は、

「御恥しく候へども、われら、幼少よりのすきにて、か樣に打寄、よみ候へども、あけてもくれても、兩人より外、友もなく、誠に固陋(ころう)[やぶちゃん注:古い習慣や考えに固執して新しいものを好まないこと。]寡聞、京都の御方(おかた)などへは、御耳に入るとも、憚(はばかり)なり。その上、草臥(くたぶれ)給ひて、ねむくおはしまさんに、御耳の端にて不遠慮の段、御免あれ。御酒(ごしゆ)など、召上れよ。」

とて、杯(さかづき)をさしけれぱ、半右衞門、

「われらも、書籍、好み申て、いさゝかの儒者にて候が、かやうに靜(しづか)なる山中にて、御樂しみあるは、羨しき義なり。拙者などは儒業(じゆぎやう)の名のみにて、ケ樣(かやう)に風塵に奔走して、年中、安き事もなく候。」

と、いひければ、兩人、手をうちて、

「何。儒を業となさるゝとは、耳よりなり。我等、師友を求めし誠(まこと)、天に通じ、今宵、君の此處にやどり給ひしものならん。」

と、悅び、なゝめならず、

「平(ひら)に。是へ御出ありて、御苦勞ながら、御講釋、賴む。」

よし、誠におもひ入(いれ)て云ひければ、

「是も、ふしぎの御緣なり。」

とて、絕(たえ)て[やぶちゃん注:全く。]辭する色もなく、紙、四、五枚が程、講釋したり。

 元來、半右衞門、能辨にて、義理明らかに述べければ、みなみな、なみだをながし、悅び、

「ひらに。二、三日も逗留。」

と、留めけれど、

「用事あれば、罷越也(まかしこしなり)。歸りには、また、逗留して御世話になるべし。」

と立別れて、用事、おはりて、歸路に趣きければ、はや、其家の子共など、酒肴(しゆかう)を調へ、道まで迎(むかへ)に出て、

「大方、今日御歸りと被ㇾ仰候間、迎に來りたり。」

とて、殊の外、馳走し、兩人家(りやうにんいへ)より、子供、殘らず、つれ來りて、

「われらは老人にて、もはや、行末、賴みなし。忰どもを弟子に上げ申たし。」

とて、すぐに、師弟子の杯など取かはし、留(とど)めおきて、いろいろ、馳走しける。

 あるじの翁、

「本(もと)は、越後、家(いへ)にて、名ある家なりしが、彼(かの)家の騷動のみぎり、御暇(おいとま)給はりて、もはや、武家の望みもなければ、此所にて、兩人ともに、田宅を買て、世をやすく暮す也。」

と、その外、いろいろ、めづらしき物語をしけるが、

「何も御馳走もなければ、此奧に内津(うつつ)といふ山奧に友達の侍るが、是は此方共(このはうども)と違(ちがひ)て、殊に風流なる老人にて、おもしろき處なれば、同道して御知(おし)り人(びと)に致し申べし。」

とて、いて[やぶちゃん注:「率(ゐ)て」の誤字であろう。]、二里計りも行けば、内津の山へかゝる。

[やぶちゃん注:越後の御家騒動は江戸前期にもあるが、本書は宝暦四(一七五四)年序であり、今までの話柄も比較的近い時制の設定を行っているから、これは江戸中期の越後高田藩松平家に起った「越後騒動」である。藩主光長は江戸在府が長く、国政の実権は光長の妹婿であった家老小栗美作守正矩や糸魚川城代荻田主馬らにあった。延宝二(一六七四)年、光長の嫡子綱賢(つなかた)が亡くなり、光長の弟永見長頼の遺子万徳丸が一旦は養嗣子となったが、荻田や光長の弟永見長良(ながみながよし:大蔵)ら、「家老小栗が自分の子掃部(かもん:大六(だいろく))を嗣子にしようとしている」と批難して対立、抗争に及んだ。幕府は荻田一派を非として処罰したが,荻田一派は将軍代替に伴い、再審を要求し、天和元 (一六八一) 年、綱吉の親裁により、小栗・荻田両派ともに処断。藩主光長は城地没収の上、伊予松山藩にお預けとなり、万徳丸も備前岡山藩預りとなった事件であろう。

「内津」初めて具体な地名が登場する。旧美濃で、この名で、山深いとなると、現在の愛知県春日井市と岐阜県多治見市を結ぶ内津峠(うつつとうげ:標高三百二十メートル)か(グーグル・マップ・データ航空写真)。当該ウィキによれば、「日本書紀」には、『日本武尊が当地で副将軍の建稲種命』(たけいなだねのみこと:豪族で尾張国造の一人)『が水死したという報を聞いて、「あゝ現(うつつ)かな」と嘆き悲しんだことが地名の由来とされている』とあり、『江戸時代には中山道での輸送に使われて』いたとある。この「うつつ」の意味も逆接的に仙境に利いていて、なかなかいい。]

 

 其土地、淸川(せいせん)、ながれ、岩組(いはぐみ)、おもしろく、山々、幾重も入りまじはりて、行(ゆく)に順(したがひ)て、景色、かはり、中々、詞(ことば)に盡しがたし。

 通(とほり)より、左のかたへ、ふみわけたるに、徑(こみち)のあるより、入(いり)て、谷へ下り、また、山へ登りて、木立深き中に、白壁づくりの家、見へたり。

 大きなる門がまへにて、藏も幾むねといふ事なく、人も、おびたゞしく見へて、大きなる伽藍のごとくなる家にて、酒を造り、紙を漉(すき)、いろいろの業(わざ)をなす體(てい)なり。

 あるじは、年ごろ、六十あまりなるが、

「客來(きやくらい)。」

と聞(きき)て、門まで迎ひに出(いで)て、

「京都よりのまれ人とは、貴客の事にて侍(はべら)ふか。よくこそ。」

とて、坐敷へ伴ひ、種々の名酒・佳肴を備へて、饗應する事、かぎりなし。

 半右衞門も、あまりいたみ入りけれど、奧底なきもてなしに、興に乘じ、折からの詩作など、あいさつして居(を)るうち、小さきわらはの、きよげなるが出來りて、

「用意よく候。」

と申ければ、

「いざ。こなたへ。」

と、先へたちて、案内しければ、なほ、奧ふかく入りけるに、其坐敷の結構、言葉に述べがたく、庭には、名もしらぬ名花・名草、區(く)をわけて、樹(たて)ならべ、前には、諸山、開きわかれて、畫圖のごとく、庭におりて、くつをはき、白き石のしきならべたる一筋の道を行(ゆく)こと、百間[やぶちゃん注:約百八十二メートル。]計り、樹木のうちに入りて、夫より谷を下(くだ)りければ、自然のいはほを畫(ゑがき)たる[やぶちゃん注:比喩で「彫琢した」の意であろう。]流水あり。はしなどの結構なること、言葉、及ばず。

 それより、亭ありて、「彩霞亭」と額をうちたり。

 此内に美女、十六、七より十二、三の女子(をんなご)、十人ばかり居ならびて、珍膳をさゝげ、歌舞をなす事、京都の繁華といへども、いまだ見きかざる樂(たのし)みなり。

 かく、結構なる所、此山中にあるべしとはおもひよらず、

『若(もし)、狐狸などの化(け)するや。』

と、あやしき程なれば、暇乞(いとまごひ)して歸らんとしけるを、せちにとめられて、夜もすがら、諷(うた)ひ、舞ひ、さまざまの風流をつくし、翌日、馬などしたてゝ、送りかへしける。

 跡にて、委しく聞けば、此やどの老人の、おや、世にありしとき、召仕ひたる奴(やつこ)なるに、かく大きなる身上(しんしやう)になりしとかや。

 老人の浪人せしきざみも、早速、來りて、

「かならず、かならず、外(ほか)へゆき給ふ事、なかれ。」

とて、引(ひき)とりて、我が近所におき、

「忠勤、おとろへざりし。」

と、いヘり。

 あるじは、六十計(ばかり)とみえしが、やどの老人のいふは、

「あれにても、九十ばかりなるべし。われら、十ばかりになるとき、美濃へ引こみたりしを覺へおれり[やぶちゃん注:ママ。]。」

と、いへり。

「子孫、みな、長壽にて、家内、弐百人餘(あまり)暮しける。」

となん。

 夫より、半右衞門も、折ふしは行きて、十日程づゝ逗留しけるが、誠に素封の富、南面、王の樂しみを極め、語(ことば)も心もおよばぬ榮華どもなりし。

 今も、榮へおれるや、しらず。

 半右衞門、のち、江戶靑山に來りて、名高き儒者となれり。

[やぶちゃん注:「南面、王の樂しみ」中国では古くより、天子は臣下に対面する際に陽の方位である南に面して座ったことから、天子となって国内を治めることを指し、ここは、それでのみ得られるような至上の歓楽を指す。]

2021/03/06

大和本草附錄 海粉(カイフン) / (ウミゾウメン(海藻))

 

海粉 長崎ニ自外國來ル海苔ノ類ナリ乾堅クシテ

來ル絲條ノ如シ色綠ナリ熱湯ニ浸セバ色淡シ食

之味美醫書ニ所謂海粉ハ別物也

○やぶちゃんの書き下し文

海粉(かいふん) 長崎に外國より來たる海苔〔(のり)〕の類〔(るゐ)〕なり。乾(ほ)し、堅(かた)くして來〔(きた)〕る。絲條(いとすぢ)のごとし。色、綠なり。熱湯に浸せば、色、淡し。之れを食ふ。味、美〔(よ)〕し。醫書に謂ふ所の「海粉」は別物なり。

[やぶちゃん注:紅藻植物門真正紅藻亜門真正紅藻綱ウミゾウメン(海素麺)亜綱ウミゾウメン目ウミゾウメン亜目ウミゾウメン科ウミゾウメン属ウミゾウメン Nemalion vermiculare

鈴木雅大氏のサイト「生きもの好きの語る自然誌」の当該種をリンクさせておく。写真多数)及び同属の

ツクモノリ Nemalion multifidum

も挙げておく(ツクモノリは「九十九海苔」か。この「ツクモ」は思うに「白髪」では色が合わないので、単子葉植物綱イネ目カヤツリグサ科フトイ(太藺)属 フトイ Schoenoplectus tabernaemontani の異名のそれではないか? やや太い丸い長い茎を持つので親和性があるからである)。本邦にはこの二種しか棲息しないからである。前掲の田中氏の「日本の海藻 基本284」によれば、属名は「糸のような」、ウミゾウメンの種小名は「回虫の形をした」である。ただ、実は益軒は本巻で「大和本草卷之八 草之四 索麪苔(サウメンノリ) (ウミゾウメン)」を挙げてしまっており、彼は清から齎される乾燥加工されたそれを全く別物と認識していたことが判明する。彼はそこで「其の漢名と性〔(しやう)〕と、未だ詳かならず」とはっきり言っているからである。田中氏によれば、『本種は潮間帯の中部に生育し、岩上に数十本が並ぶ様はまさしく太めのそうめんである。但し乾燥すると干そうめんのように細くある。付着部が岩の上につき、そこからあまり太さの変わらない分岐しない円柱状のからだをもつ。粘液質で、大変にぬるぬるする。能登で半島氷見』『では「ながらも」と呼ばれる珍味である。生品は熱湯をかけて、乾燥品は水にもどして、二倍酢、酢味噌、味噌汁にして食す』とある。私は中高の六年間を氷見の手前の高岡市伏木で過ごしたお蔭で、大変な好物となった。なお、軟体動物門腹足綱異鰓上目後鰓目無楯亜目 Anaspidea に属するアメフラシ類(標準和名種としてはアメフラシ科アメフラシ属アメフラシ Aplysia kurodai )の卵塊を全く同じ「海素麺」と俗に呼ぶ。茹でた素麺のような形をしており、かなりどぎつい黄橙色を帯びる。三月から五月にかけて海岸の岩の下や隙間及び海藻の間などに普通に見られるが、毒性を有し、食べられない(上のリンク先の私の最後の部分を参照されたい)。

『醫書に謂ふ所の「海粉」』「五雑組」(明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で遼東の女真が、後日、明の災いになるであろうという見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになるという数奇な経緯を持つ)の「七」に、

   *

海粉。乃龜黿之屬腹中腸胃也。以巨石屋其背、則從口中吐粉吐盡而斃。名曰拱。務待齋者常誤食之。

   *

とあるので、ウミガメの作答(さとう:体内生成異物)の類いと考えていたものらしく、その毒性を転じて吐瀉剤に用いていたとなら、アメフラシの卵塊を指している可能性がぐんと高くなるように思われる。]

大和本草附錄 牡丹苔(ボタンノリ) (ウスユキウチワ)

 

【倭品】

牡丹苔 長崎ノ海ニアリ牡丹ノ葩ノ如シ色潔白可

○やぶちゃんの書き下し文

【倭品】

牡丹苔(〔ぼたん〕のり) 長崎の海にあり。牡丹の葩〔(はな/はなびら)〕のごとし。色、潔白。食ふべし。

[やぶちゃん注:「長崎の海」で分布が確認でき、ボタンの花弁のような形状で、「色」は「潔白」であって、食用になるという、あまりに乏しい属性提示から比定同定するのは至難の技なんだが、最後の食用海藻であることを除くと、私は直ちに、

褐藻綱アミジグサ目アミジグサ科ウミウチワ属ウスユキウチワ(薄雪団扇) Padina minor

グーグル画像検索「Padina minorをリンクさせておく)或いは、同属の

オキナウチワ(翁団扇) Padina japonica

コナウミウチワ(粉海団扇)Padina crassa

(下の二種のリンクは鈴木雅大氏のサイト「生きもの好きの語る自然誌」の当該種)を想起した(但し、コナウミウチワは北海道南部や中部地方(太平洋・日本海両側)で確認されているので、南を指向させている感じの本文から見て、個人的には外したい気がする)さて、私の愛する田中次郎著「日本の海藻 基本284」(二〇〇四年平凡社刊。以前に述べたが、この図鑑は写真(かの優れた海洋写真家のプロ中村庸夫氏である!)も優れており、何より凄いのは総ての学名(種小名は総てである!)の由来が記されてある点である)によれば、ウスユキウチワ日本南部の潮下帯に植生し、直径は五~七センチメートルで、『沖縄など南西諸島の潮下帯にもっとも優占する海藻のひとつで』、『からだは薄く、断面で見ると2層の細胞からなる。からだの表面や内部に石灰質を沈着させる。石灰藻として有名なのは』『サンゴモ』(紅藻綱サンゴモ目サンゴモ科 Corallinaceae)『類であるが、褐藻』(褐藻綱Phaeophyceae)『のこの仲間も石灰藻である。また、緑藻』(緑藻植物門 Chlorophyta アオサ藻綱 Ulvophyceae カサノリ目 Dasycladales)『類、サボテングサ』(アオサ藻綱ハネモ目ハゴロモ科サボテングサ属 Halimeda )『類などは石灰藻である。和名は表面全体に白い粉をふいたようになることによる』(則ち、顕著に白く見えるということである。添えられた中村氏の写真(宮古島)のキャプションには『石灰が沈着して、白い扇のようだ』とある)。『オキナウチワ同様、同心円状の線が多数でき、四分胞子囊(紅藻植物の真正紅藻類(Florideophyceae:サンゴモ・テングサ・オゴノリ・トサカノリなど)や褐藻植物のアミジグサ目 Dictyotales にみられるもので、一個の胞子母細胞の内容が胞子嚢内で分割して四個の不動胞子(鞭毛がなく運動性を持たない胞子)となった状態を指す。分割様式によって環状・十文字状・三角錐の三型がある。真正紅藻類では、受精後、配偶体上に発達した果胞子体から生じた果胞子が発芽して四分胞子体となり、これに四分胞子嚢が生ずる。アミジグサ目では、真正紅藻類とは異なり、受精卵が発芽して四分胞子体となる。四分胞子嚢内で減数分裂が行われ、四分胞子は発芽して配偶体となる)『はそのすべての線に沿って形成される』とある。個人的なミミクリーの相違はあるが、私は本種の葉体様部位をボタンの花弁と形容したとしても違和感はない。なお、オキナウチワは、群落や個体により異なるが、石灰沈着がウスユキウチワよりも弱く、白さが鈍い傾向があるので、私は結論としては、ウスユキウチワに団扇を――基!――軍配を挙げることとする。但し、問題は「食ふべし」で、食って食えないことはないかも知れぬが、石灰沈着しているのだから、ご遠慮したい。食べたというネット記事も見当たらない。]

「大和本草附錄」及び「大和本草諸品圖」中の水族の抽出電子化始動 / 海椰子 (ニッパヤシ)

 

[やぶちゃん注:私は半年前の二〇二〇年九月十三日附で、本ブログのカテゴリ『貝原益軒「大和本草」より水族の部』の完遂を宣言してしまっていた。しかし、その最後の記事の標題を『大和本草卷之十三 魚之下 ビリリ (神聖苦味薬) / 「大和本草」の水族の部~本巻分終了』と変更し、末尾のメッセージを以下の通り、改稿した。

   *

 これを以って二〇一四年一月二日に始めた「大和本草」の水族の部の本巻分の電子化注を終わる。この時、実は私は忘れていた。何を? 「大和本草」には別に――「大和本草附錄」二巻と「大和本草諸品圖」三冊(上・中・下)があることを――である。付図の方は理解していたのだが、正直、恐らくは画才の足りない弟子の描いたものが多く、「大和本草卷之十四 水蟲 介類 鱟」で示した如く、マスコット・キャラクターのようなトンデモないものがあることから、無視しようと思って黙っていた。しかし、今朝、総てを確認したところ、追加の「附錄」二巻の内には確かな海産生物が有意に含まれていることから、『「大和本草」の水族の部』の完遂とは逆立ちしても言えないことが、判ってきた。されば、カテゴリの最後の【完】を除去し、続行することに決した。お詫び申し上げる。因みに、これは誰彼から指摘を受けた訳ではない。あくまで自分の良心が「大和本草諸品図」の方に働いていたことからの自発的な確認に由ったものである。――というより――正直――『ああ! また「大和本草」とつき逢えるんだな!』という喜びの方が遙かに大きいことを告白しておく。

   *

というわけで、また――義務としては続けねばならないし――気持ちとしてはほぼ歓喜雀躍して続けられると感じている――のである。また、お附き合い戴こう。

 最初は「大和本草附錄卷之一」から始める。底本は従来通り、「学校法人中村学園図書館」公式サイト内にある宝永六(一七〇九)年版の貝原益軒「大和本草」PDF版を視認してタイプする(リンク先は目次のHTMLページ)。「大和本草附錄卷之一」はこれ。但し、判読に悩む場合は、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを確認した(同一の版と思われるが、底本が読み易くするために明度を著しく上げた結果、一部の画数の多い字が潰れて判読しにくくなっているからである。例えば、冒頭の罫外頭注の「蠻」を見られたい。底本では、ちょっと判読に躊躇するのだが、後者では難なく判読出来る)。最初の「海椰子」は冒頭から三項目に出現する(PDFコマ数で「2」)凡例も同じとする。第一回の『カテゴリ『貝原益軒「大和本草」より水族の部』始動 /大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 海鼠』を参照されたい。なお、私は本巻分の植物は海産藻類に限っており、淡水産水草類は含めていないので、同じ仕儀でピックアップしてゆく。]

 

大和本草附錄卷之一

             貝原 益軒 輯

 ○草類【海藻水草ヲ雜記ス】

○やぶちゃんの書き下し文

「大和本草」「附錄」卷之一

             貝原 益軒 輯

 ○草類【海藻・水草を雜記す。】

[やぶちゃん注:とあるが、これは「草類の雑記であるが、海藻及び水草も含んで記す」という意味である。事実、最初に挙げる「百草霜」(ひやくさうそう(ひゃくそうそう))は、柴や雑草を竈で燃やした際に竈内部や煙突の内側に附着した灰炭を薬用に用いたものを指し、二番目は「日光黃スゲ」で単子葉植物綱キジカクシ目ススキノキ科キスゲ亜科ワスレグサ属ゼンテイカ(禅庭花)Hemerocallis dumortieri var. esculenta である(「ニッコウキスゲ」は通称で、正式和名はこの「ゼンテイカ」であるので注意されたい)。]

 

【蠻種】

海椰子 海中所生藻實也其形椰子ニ似テ小也

桃ノ大ニテ大腹皮ノ如ナル皮アリ暹羅國ヨリ

來ル病ヲ治スト云未詳其功

○やぶちゃんの書き下し文

【蠻種】

海椰子(うみやし/うみやしほ[やぶちゃん注:右ルビ/左ルビ。]) 海中に生ずる所の藻の實(〔み〕)なり。其の形、椰子に似て小なり。桃の大(〔おほき〕)さにて大腹皮(だいふくひ)のごとくなる皮あり。暹羅(しやむろ)國より來たる。「病ひを治す」と云ふ〔も〕、未だ其の功を詳かにせず。

[やぶちゃん注:先に注した二条の後の三番目で出る。左ルビの最後の「ホ」は「ネ」のようにも見えるが、他の「ホ」・「ネ」との比較から「ホ」で採った。その後に調べたところ、国立国会図書館デジタルコレクションの大正一〇(一九二一)年本草図譜刊行会刊の岩崎常正著「本草圖譜 果部 六十五」の「果部【夷果類】」の「椰子」パートに「一種」として(目次では『一種 ウミヤシホ 【ドヾ子ウスの圖】』とする)以下の解説と図(トリミングした)が載る(句読点と記号を附し、一部に推定で歴史的仮名遣で読みを添えた)。

   *

Umiyasiho

一種

  ウミヤシホ

「ドヾ子ウス」に載る圖。又、海濱へ漂着す。形、椰子より小く、二寸許。囲(めぐ)り、二、三寸。外皮ハ椰子と同じ。内に堅き仁(じん/たね)ありて中実(ちゆうじつ)す。仁を削りて薬に用ふ。中風を治する効あり。價(あたひ)、賎(いや)しからず。田村氏は「廣東新語」の「石椰子」に充(あ)つ。

   *

と記載も一致するから間違いない。「ホ」は「穂」か。「ドヾ子ウス」は十六世紀のフランドルの医師で植物学者レンベルト・ドドエンス(Rembert Dodoens 一五一七年~一五八五年:ラテン語名はレンベルトゥス・ドドネウス(Rembertus Dodonaeus))である。一五五四年に刊行された本草譜「クリュードベック」(Cruydt-boeck:オランダ語で「草木誌」か)の著者である。彼の著書は、ヨンストンの「動物誌」とともに江戸時代に野呂元丈らによって蘭訳書から「阿蘭陀本草和解」などに抄訳されていた。ドドネウスの原著(オランダ語版)は一六一八年版と一六四四年版が本邦に伝わり、長く用いられた。訳は他に平賀源内・吉雄耕牛(よしおこうぎゅう)らが翻訳を試みたが、孰れも抄訳であったため、松平定信が石井当光(あつみつ)・吉田正恭(まさやす)らに全訳を命じ、文政六(一八二三)年頃に、一旦、完成したものの、江戸の大火で大部分が失われてしまい、現存するものは、僅かにその十分の一に過ぎないとされる。「田村氏」は思うに、日本初の地方植物誌として知られる優れた南方本草書「琉球産物志」(明和七(一七七〇)年刊)を書いた本草学者田村藍水(年享保三(一七一八)年~安永五(一七七六)年:栗本丹洲の父で、平賀源内は門人)であろう。「廣東新語」は清初の屈大均撰になる広東における天文地理・経済物産・人物風俗などを詳しく記録した総合地誌。全二十八巻。「石椰子」探すのに少し苦労した。何故なら、これは同書の植物類の諸巻にではなく、第十六巻の「器語」の「椰器」に載っていたからである。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の同書のここである。全文を引く。下線太字は私が附した。

   *

椰殼有兩眼謂之萼、有斑纈點文甚堅。橫破成椀、縱破成杯、以盛酒、遇毒輒沸起、或至爆裂、征蠻將士率持之。故唐李衛公有椰杯一、嘗佩於玉帶環中。椰杯以小爲貴。一種石椰生子絕纖小、肉不可食、止宜作酒杯、其白色者尤貴、是曰白椰。粵人器用多以椰、其殼爲瓢以灌溉、皮爲帚以掃除、又爲盎以植掛蘭掛竹、葉爲席以坐臥。爲物甚賤而趙合德以椰葉席獻飛燕也。

   *

 初っ端からとんでもない(海藻・淡水産水草・水藻を考えていた私には意想外であったという点で)植物が登場した。これは単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科ニッパヤシ属ニッパヤシ Nypa fruticans のことである。当該ウィキによれば、『熱帯から亜熱帯の干潟などの潮間帯に生育するマングローブ植物』で『ニッパヤシ属で現存するのは本種一種のみの一属一種であるが、近縁種の果実は』実に七千『万年前の地層から化石として発見されている』。『高さ9m前後に達する常緑の小高木。湿地の泥の中に二叉分枝した根茎を伸ばす(この茎(根茎)が二叉分枝をすることは種子植物では数少ない例である)。茎(地上茎)はなく地上部には根茎の先端から太い葉柄と羽状の複葉を持つ数枚の葉を束生する。葉の長さは5-10mで、小葉の長さは1m程度で、線状披針形、全縁、革質で光沢があり、先端は尖る。花期には葉の付け根から花序を伸ばし、長さ80-100cm程度の細長い雄花序および、その先端に球状の雌花序をつける。雌花序は頭状花序で、雄花序は尾状花序である。花弁は6枚。花期の後、雌花序は棘のある直径15-30cm程度の球状の集合果となる』。『繁殖は、根茎を伸ばした先から地上部を出す栄養繁殖のほか、種子による繁殖を行う。集合果から分離した種子は直径尾4.5cm程度の卵形で海水に浮き、海流に乗って漂着した場所に定着する海流散布により』、『分布を広げる』。『インド及びマレーシア、ミクロネシアの海岸に生育する。日本では、沖縄県の西表島及び内離島』(うちばなりじま:八重山列島の西表島の西側にある)『のみに分布する』(私は西表島に旅した際、現認した)。『ニッパヤシの葉は軽く』、『繊維質で丈夫であるため、植生が豊富な地域では屋根材・壁材として利用される。特にフィリピンでは伝統的に、竹を骨組みとして葉を編みこんだもの(nipa shingle)』(shingle:屋根や壁の杮(こけら)板・屋根板の意)『を作り、屋根材や壁材として用い、伝統的家屋(タガログ語:バハイクボ(bahay kubo)、(英語:ニパハット(nipa hut))を』建てる。『ニッパヤシの屋根は風雨に強い上』、『風通しが良く、特に台風』が『多く』、『湿度が高い熱帯アジアの風土に適している』。『また同様に、マレーシアやインドネシア等ではカゴを編む材料として用いられる』。『開花前の花茎を切断した部分から溢泌する樹液は糖分が豊富で、パームシュガー(ヤシ糖)』や『ヤシ酒』・『ヤシ酢の原料とされる。また、バイオエタノール原料への検討も行われている』。『未熟果は』『半透明の団子に似た食感』で、『東南アジアや香港のデザートに使用され』ているとある。調べた限りでは、特定の薬効には至らなかったが、分布する各地では古くからの種々の伝統薬に使われており、漢方でも現在の関節痛などに用いる薬の配合材料の中に認めることが出来た。

「海中に生ずる所の藻の實なり」現認出来ない(西表は当時は琉球国である)のだから、まあ、仕方がない誤りではある。益軒は巨大なホンダワラみたような海藻を想起したものか。少し微笑ましいではないか。

「大腹皮(だいふくひ)」漢方生薬名。「図経本草」(北宋末の一〇九〇年頃に成都の医師唐慎微が「嘉祐本草」と「図経本草」を合本し、それに約六百六十の薬と、多くの医書・本草書からの引用文を加えて作った「経史証類備急本草」の通称である。但し、実際には、それに艾晟(がいせい)が一一〇八年に手を加えたものの刊本である「大観本草」と、さらに一一一六年に曹孝忠らがそれを校正して刊行した「政和本草」を加えた、内容的には殆んど同一の三書の総称として用いられることの方が多い)には「大腹檳榔」と記載されてある。ヤシ科ビンロウ属ビンロウ Areca catechu 又は他の近縁植物の果皮が基原とされる(ビンロウの種子は漢方名では「檳榔子」である)。その産地は中国海南省・雲南省・福建省・フィリピン・インドネシアなどで、内部は椰子の皮のようであり、ビンロウではないと思われるが、果皮は「大腹皮」として出回るっているものと思われる。石川県の「中屋彦十郎薬舗株式会社」公式サイト内のこちらを主文として参照した。

「暹羅(しやむろ)國」タイ王国の前名「シャム」のこと。]

 

2021/03/05

譚海 卷之四 武州玉川百姓某才智の事

 

○武州玉川の邊(あたり)、府中に何がしと云もの有。此百姓、平生、才智にて、さまざま奇特なる事多き中に、一とせ、玉川の邊を通行せしに、百姓、大勢、集りて、畑の土中より大なる箱の、深さ廣さ二間四方もあるべき物を、六つ、掘(ほり)して騷合(さはぎあひ)たる所へ行かゝり、「是は何をする事ぞ」と尋ければ、「此箱年來(としごろ)土中に埋(うづま)りて、いつの代よりあるといふ事もしりがたき程の久敷(ひさしき)ものなり、年々畑作の妨(さまたげ)になるゆゑ、此度掘出(ひりいだ)せし」と云。「掘出して何やうの事にするぞ」と尋ければ、「何の用にたてんとも存ぜず、賣拂(うりはらひ)てなりとも片付べし」と云時、「いかほどに賣拂にや」と問ければ、「鳥目五六十疋ならば賣拂べし」といふ。「さらばわれは八十疋に買取べし」と約して、則(すなはち)價を遣し、「跡より取によこすべし」とて歸りしが、其後(そののち)一年にも取(とり)に來(きた)る事なし。二三年過(すぎ)又右の所を通りけるとき百姓見受て「此箱はいかゞいたさるゝや、かく三年に及ふまで取にもこされず、連々(つらつら)かたの如く朽損(くちそん)し[やぶちゃん注:「し」はママ。]侍る」といふ。此男聞て、「苦しからず、朽たらは[やぶちゃん注:ママ。]朽次第にしてをかれよ」といひて、其後又一年餘(あまり)をへて此男來り候時、百姓又見かけて、「もはや朽過(くちすぎ)ていかにもすべき樣なし、殊に所せきものにて畑作の進退にも妨になり侍るまゝ、ひらに引取申されよ」と云。「いやいや人を遣ひ引取(ひきとら)んとするにも人步(にんぷ)かゝりて詮方(せんかた)なし、此上は所せく思はれなば、燒すてて成(なり)とも仕𢌞(しまは)れよ」といひければ、百姓ら價を出し買取しものをかくいふはいぶかしくは思ひながら、餘りもちあつかひたる事なれば、「さらば買とられしぬしの左樣申さるるうへは、燒すて侍るべし」とて、終(つひ)に火をかけてやきすてたり。此男やきすてたるを見置て一日へて人を二三人つれ參り、此箱の燒たる跡の釘(くぎ)鐡物(てつもの)を殘りなく拾ひて歸り賣拂たるに、鐡ものの價三貫八百錢に成(なり)ぬるとぞ。『かゝる物をこしらへたるは普通の鐡物にはあらじ』と思ひて、さて買置て年月打捨置たる事也と、後に聞あざみて稱譽(しやうよ)しける。釘・かすがひなど殊に丁寧にせしもの也と、天明改元のとしの事也。

[やぶちゃん注:「府中」東京都府中市。玉川左岸。現在、府中市には多摩川に沿う形で古墳群が並び、国分寺跡もある(ともにグーグル・マップ・データ)。

「聞あざみて」「聞淺みて」話の始終を聞いてその意外なことに驚き、あきれかえって。

「稱譽」褒めたたえること。

「天明改元のとし」安永十年四月二日(グレゴリオ暦一七八一年四月二十五日)改元。]

只野真葛 むかしばなし (19)

 

「父樣、養子にさだまりしは、至(いたつ)て、すみやかのことなりし。」

と、押本元長、かたりし。

 工藤・長井のぢゞ樣がたは、幼きより、友達にて、共に遠き祖は由有(よしある)人の、おちぶれたるにて有し故、ことに御懇意なり。

 御家へ、めしかゝへのせつ、奧へとほさるゝに、妻子持(さいしもち)でなければならず、

「養子もせねばならぬ。」

と、外にて御はなし被ㇾ成しを、其座の人、

「おかくいはずに、長井の末子(ばつし)を、もらはれよ。」

といひしを、

「それ。よし。」

と被ㇾ仰し故、すぐに長井へ傳へしに、

「よろしからん。」

とて、兩三日のうちに、かた付(つき)、すぐに對面に御いで被ㇾ成しとなり。

 其時は十一と被ㇾ仰し。さて、後、十三にて、後(あと)引とり、なるべし。

 元長は、もと、長井へ、十五、六にて草履取になりし人なり。心ざし誠なる故、樣々に御とりたて有(あり)て、弟子・若黨に被ㇾ成しを、其内、ぢゞ樣御不幸故、父樣、御せわにて衣躰(いたい)せし人なり。御弟子のはじめなり。後、長井樣の奧醫師と成(なり)て終る。子、なし。本草に器用にて、まねびし人なり。

[やぶちゃん注:「長井」真葛の父である仙台藩江戸詰医師工藤周庵平助の実の父は長井基孝大庵(もとたか 生没年不詳)は紀州藩藩医であった。当該ウィキによれば、『遠祖は播磨国の城主で、豊臣秀吉に滅ぼされ、そののちは郷士として比較的豊かに暮らして現地に暮らしていたという。基孝の父の代に田地調査の折に江戸幕府の怒りを買い、田畑を取り上げられて大坂に出ることとなった。父の没後、長井基孝は生計のために医業を身につけ、紀州藩に召し抱えられ、藩医となった。しかし、基孝は、医師であることを』寧ろ、『恥じており、医者は自分一代にしてほしいと紀州藩主に申し出ている』。『基孝の願いは聞き入れられ、柔術にすぐれた長男四郎左衛門(長井優渥』(「ゆうあく」と読んでおく。因みにこの熟語は一般名詞で「君が臣に対して懇ろに手厚いこと・恵みが厚いこと」を意味する語でもあるから、基孝が藩主に敬意を示してかく名づけたものかも知れない)『は武士として紀伊徳川家に仕え、弓術にすぐれた次男善助(長井基淳)は清水家に仕えることとなった。三男平助は、仙台藩第』五『代藩主伊達吉村の侍医であり、基孝の友人であった工藤安世が藩医として取り立てられる際、妻帯が条件であったため、上津浦ゑんと結婚するのと同時に』十三『歳で養子に出された』。延享三(一七四六)年頃の『ことであった。工藤安世没後、平助は安世の後を継ぎ』、『仙台藩医となった』とある。]

 

 工藤ぢゞ樣の實母は、黑田樣へ、はやくより、御つとめ被ㇾ成しが、はじめ若殿御誕生の御だきもりに御上り、其とのゝ御世(みよ)となりし故、一人にて有しなり。

 顏だて[やぶちゃん注:主語は若殿。]、りつぱに、鼻、たかく、殊の外、威《い》の有(ある)人にて、をそれぬ人、なし。思召(おぼしめし)に逢し人、壱人(ひとり)もなく、御殿中の人、おそれおのゝきて有しに、ばゞ樣ばかり、御氣に入にて、

「おゑん、おゑん。」

と被ㇾ仰し故、

「此人の氣に入(いる)人は、どのやうな人か、見たし。」

と、御殿の人、いひし、となり。

 ばゞ樣の、萬人に、にくまれぬ御生(おうまれ)なること、是にて、しるし。

[やぶちゃん注:「黑田樣」不詳。知られた黒田氏は福岡藩藩主であるが、歴代、養嗣子が多い。以上の情報からでは、よく判らない。]

怪談老の杖卷之二 多欲の人災にあふ / 怪談老の杖卷之二~了

 

   ○多欲の人災にあふ

 元文年中の事なり。

 江戶中橋に上州屋作右衞門とて、質・兩替などする商人の娘に、お吉とてありけり。生れ付も、なみなみなる娘なりしが、殊の外、癪もちにて、折ふし、さし、おこりては、氣絕する事、度々なり。

「やがて、人にも嫁する年ぱいなれば、病身にてはよろしからず。湯治にても、さすべし。」と云けるが、幸(さいはひ)、高崎に父方の伯父ありて、江戶へ見舞に來りけるにたのみ、伊香保の湯へ、下女一人添て、遣はしける。

 伯父方にて、暫く休息し、程近ければ、夜具・衣類は勿論、朝夕の菜の物まで馬一駄(むまいちだ)につけて、お吉をのせ、伯父、付添ひて、湯主(ゆぬし)金太夫といふもの方におちつき、養生しけるに、癪氣、段々に、心よく、中々、うつて、かはりたる樣子なれば、江戶へも書狀、遣はし、伯父も事なき機嫌なり。娘も、

「江戶よりは、氣もはれやかにて、よし。」

とて、三廻(みまは)りの餘(あまり)もありて、中々、江戶へ歸らんとも云はざりければ、伯父も、

「其體(てい)ならば、ゆるりと保養すべし。我も宿へ久しく見舞はねば、二、三日、高崎へ行て、また、來るべし。下女のさよを殘しおくなり。男ぎれなくて[やぶちゃん注:男っ気(け)がなくて。]、心細く思はんが、隣部屋の藤七殿をたのみおく間、萬事、此人をたのむべし。」

とて、爰かしこへ賴みおきて、高崎へ行きぬ。

 お吉も、はや、湯治なれ、友だちも多ければ、

「少しも心細きこともなく、かならず、私(わたくし)事は、あんじずとも、御宿の御用そまつになき樣に御したゝめ被ㇾ成(ならる)べし。江戶へも、文(ふみ)遣はし候まゝ、御たよりに屆け給へかし。おさよばかりにて、少しも、さびしき事なし。」

とて、至極、きげんよく、出(いだ)し立(たて)てやりぬ。

 此藤七と云ひしは、隣の部屋をかりて湯治しけるおとこにて、越谷(こしがや)邊のものなるよし。少し、いなかにて、小淨瑠璃にても語り、十分あぢをやるとおもふて居る男なるが、お吉が江戶風のとり廻はし、小(こ)りゝしきに、腰をぬかし、晝夜、入(いり)びたりて、

「折(をり)もあらば、口說きおとさん。」

と、いろいろ、おかしき身ぶりをし、いやらしき事計(ばかり)しかけける。

 お吉は、江戶のまん中にて、朝夕、當世風の男を見て、心のいたりたる上、みかけと、ちがひ、おとなしく、じみなる生れなれば、此田舍をとこを、うるさがりて、下女のさよを相手に、常に笑ひものにしける間、藤七おもひ入(いれ)、ひとつも、きかず。

 依(より)て、しあん[やぶちゃん注:「思案」。]して、伯父に取入り、尤(もつとも)らしくみせかけけるを、高崎の伯父、まうけにして、さい[やぶちゃん注:「菜」。飯のおかず。]ひとつ、拵へても、藤七方へおくり、手前にも、めづらしき料理出來れば、よびなど、殊の外、心やすくしたり。依ㇾ之(これによりて)、

「此度、高崎へ行(ゆく)あとは、こちへ來て寐てたもれ。お吉がさびしがるもしれぬ程に、そば、はなれぬ樣に、たのみます。」

など、賴み置きける。

 田舍の人の、慮(おもんぱか)りなきこそ、きのどくなれ。

 藤七は心にゑみをふくみ、

「伯父の留主(るす)に本意(ほい)を達せん。」

と、隨ぶん、色目をさとられず、賴もしく出(いだ)しやりて後は、自分の行李など、はこび來りて、偏(ひとへ)に、我がやどの如くしけるを、お吉は、

『うるさき事かな。』

と、おもひけれど、伯父の云ひつけなれば、力およばず、只、

「あい、あい。」

と計り、いふて、よらず障らず、ずいぶん、下女に内せういふて[やぶちゃん注:「内證言ふて」。こっそりと伝えて。]、そば、はなれぬ樣にしけるが、此下女も、守(も)り人の隙(ひま)なく、ふと、近所ヘ行(ゆき)、はなしける内に、かの藤七、小(こ)したゝるく口說(くどき)て、いろいろ、おどしごとなど云ひて、

「よしよし。此願、かなはずば、さしころして、我しなん。」

といふ樣に云ひけるにぞ、娘も恐ろしく、一寸(ちよつと)のがれに、

「いか樣(やう)とも。」

など、だまし、今宵、あふべき筈に云ひおき、

『下女、歸らば、迯やせん。家ぬしへや、斷らん。』

など、おもふうち、持病のしやく、再發して、むな先(さき)、板の如く、齒を喰ひしめ、

「うん。」

と、そりかへりぬ。

 藤七は、

「なむ三寶。」

と、下女をよびて、

「やれ、お吉どのが。」

といふより、やどの亭主もかけつけ、さわぎまはりぬ。

 藤七、生得(しやうとく)、淫欲ふかきものなるが、さき程より[やぶちゃん注:以前から。]、お吉がこと、よくいひなだめしを、僞(いつはり)とはしらず、欲情、火のごとくおこりければ、看病にかこつけ、

「それ、氣付(きづく)。」

と云へば、自(みづか)ら、口うつしにのませ、後(うしろ)よりだきしめなど、せわしき中に、ひとり、樂しみ居ける内、お吉、少し、人心ちつきて、みれば、藤七、我を抱(いだ)きて介抱する體(てい)。いよいよ、うるさくものはいはれず、只、顏をふり、いろいろするを、さよは、さつして、

「わたしが代りましよ。藤七樣、ちと、おやすみ。」

といへど、藤七、はなさず。

 その内、みなみな、歸り、藥などのませて、少しは、しやく、しづまりし樣なれど、舌、すじばりて、呂律(ろれつ)わからず、殊の外になやみけるを、藤七も、誠のなみだをながし、いろいろ看病しけるが、とかく、その夜も、くるしがるものを、とらへ、いろいろ、ばかをつくしけるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、お吉は、氣をもみて、[やぶちゃん注:ここ、以下のシーンとつながりが上手くない。脱文があるか?]

「うん。」

と、のつけに、そりけるが、ふびんや、こと切(きれ)て、むなしくなり、宿のさわぎ、さよがなげき、よりくる人々、

「いとしや、いとしや。」

と計りにて、もはや、灸も通ぜず、次第に冷かへりてければ、此よし、又々、高崎へも追飛脚(おひびきやく)を出(いだ)し、死骸へは、屛風、引廻し、次の間に伽(とぎ)の人もあつまりけるが、皆、他人の水くさゝは、誰(たれ)なげくものもなく、藤七が、噂まじりに高笑(たかわらひ)して居(ゐ)けるうち、高崎の伯父、眞靑になりて、

「隨分、いそぎしが、間にあはざりし無念さよ。皆さまにも、さぞ、御世話。」

と、一禮、云(いひ)て、屛風の中(うち)へはいり、

「やれ、お吉か。かはいや。」

と、かけたるふすまを、まくりければ、こは、けしからず、藤七、お吉が死骸と抱き合(あひ)、前後もしらず、伏し居(ゐ)たり。

 伯父も、

「ぎよつ。」

とせしが、

『他國の人の中、なまじいなる事をいひ出しては、外聞あしゝ。』

と、にくさまぎれに、したゝか、つらを、くはせければ、目をまはして、赤面して、迯(にげ)て出けり。

 扨、お吉なきがらをば、高崎の寺へ葬り、さよを付(つけ)て、始末をきゝ、後悔すれども、甲斐なき事なり。

 此事、湯入(ゆいり)どもより、宿へ吹(ふき)こみ、

「藤七は、ばか者なり。久しく、さしおくは、よろしかるまじ。」

と、宿の亭主、片わきヘよびて、

「そこ元、高崎の客衆の事、以の外の事也。江戶より來りし人々、さよが咄(はなし)にて、不ㇾ殘(のこらず)しりて、『貴樣をうち殺さん』と云へり。お爲(ため)を存じて申間(まうすあひだ)[やぶちゃん注:意味不明。「どうしようもないお前さんのことを、まんず、考えて、好意で申すのだが。]、今日中に、在所へ歸り給へ。」

と、おどしければ、

「よくこそ、しらせ下されたり。」

とて、こそこそと、荷物を拵(こしらへ)、出(で)て行(ゆき)けり。

 扨、二、三日すぎて、處の子供、見付出して、

「おくの谷かげに、かの藤七、亂心して、いろいろに狂ひ居(を)る。」

と云ひければ、げん氣なる湯入(ゆいり)ども、

「それ、ぶちころせ。」

とて、二、三十人、

「我(われ)おとらじ。」

と、山へ行けるが、はるかの谷底に、藤七、さばき髮になり、帶も、ときひろげ、下帶もいづ方へおとせしや、所々、血だらけなるなりにて、ばうぜんと居たり。

 そばに、大(おほい)なる木の、たをれて朽(くち)たるありし上へ、はひあがりて、女など媾會[やぶちゃん注:「まぐはひ」と当て訓しておく。]する心にや、いろいろ、えもいはれぬ身ぶりをしけるにぞ、みる人、面(おもて)を掩(おほ)ひて、二目と見る人は、なかりけり。

 すべて、溫泉ある地は、中にも、山神(やまのかみ)の靈(れい)、いちじるく、婦女など、おかし、あなどるときは、罰を蒙ることあり。ことに、人、死して神靈なり。きたなき身を以て、神靈をけがし、山神を、あなどりし冥罰(みやうばつ)、立どころにむくひて、途中より亂心し、此山中へ入りしものならん。

「さるにても、心がらとはいひながら、むごき事なり。」

とて、だましすかして、山へともなひ來り、山の神へ御わびを申し、又々、入湯させければ、快氣したりけれど、右の恥辱、人の口に留(とどま)りて、在處(ざいしよ)へも、もどりがたく、乞食の樣(やう)になりて、いづちともなく、うせぬ。

 若き娘持(もち)たる人、又、わかきものなど、あとさきの勘(かんが)へなく、色に耽(ふけ)るものには、よき禁(いまし)めなれば、怪談といふにはあらねども、記しおき侍りぬ。

[やぶちゃん注:最後に遠慮して但し書きするが、何の! 見事な怪談である!!! 標題は「多欲の人、災(わざはひ)にあふ」である。

「元文年中」一七三六年から一七四一年まで。徳川吉宗の治世。

「江戶中橋」中橋は複数地名に含まれるが、一番知られているのは、中橋広小路か。現在の中央区日本橋三丁目及び八重洲一丁目に相当する。中橋という橋があった。この附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「上州屋作右衞門」不詳。

「癪」近代以前の日本の病名で、当時の医学水準でははっきり診別出来ぬまま、疼痛を伴う内科疾患が、一つの症候群のように一括されて呼ばれていた俗称の一つ。単に「積(せき・しゃく)」とも「積聚(しゃくじゅ)」とも呼ばれ、また、疝気(せんき)と結んで「疝癪」などとも称した。平安時代の「医心方」には、陰陽の気が内臓の一部に集積して腫塊を形成し、種々の症状を発する、と説かれ、内臓に悪しき気が過剰に溜まって腫瘤のようなものができ、発症すると考えられていた。癪には日本人に多い胃癌なども含まれたと考えられている(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「湯主(ゆぬし)金太夫」伊香保温泉には同名の温泉ホテルが現存する。私も、昔、泊まったことがある。

「三廻(みまは)り」この「まはり」は助数詞で、この場合は祈願・服薬などで、七日を一期として数えるのに用いる。三週間。

「越谷」埼玉県越谷市

「あぢをやる」気のきいた、味なことが出来る。

「とり廻はし」全体の風体(ふうてい)や物腰。

「小(こ)りゝしき」ちょいと凛々(りり)しい感じで。「小」はいい意味で、「わざとらしくない」ことを添える接頭辞であろう。

「まうけにして」渡りに舟として。ちょうど、いい男手と心得て。

「守(も)り人の隙(ひま)なく」ちょっと意味がとりにくいが、「守り人」は「お吉を守る人」の意で、それが「隙なく」=「ひっきりなしであり」、それで、時に気が緩んで、ちょっと近所に行って世間話がしたくなって、と続くのであろう。本篇、やや表現にこなれない部分が散見されるのが、玉に疵である。

「小したゝるく」「小舌怠く」。物の言い方が何となく(「小」)甘えたような調子であるさま。

「板の如く」非常に気になる発作症状である。この形容は見た目が、硬い板のようなかっちかちになっているか、身体が板状にピンと張ってしまったことを意味するとしか私には思われないからで、通常の「癪」というのは腹部や胸部激しい「差し込み」が発生して、しゃがみこんだり、中腰になって動けなくなることが私の知る限りでは、殆んどだからである。しかし、この表現は寧ろ、重い癲癇やヒステリー患者に見られる、頭と足先だけが床についてそのまま体が弓なりになって硬直する「ヒステリー弓(きゅう)」発作を想起させるからである。私は一つ、彼女の疾患はそうした重度の精神病であった可能性がある。内因・外因・心因かは判らないが、伊香保に来てすっかり平静になったこと、藤七の横暴によって再発したことから、これ自体は心因性のそれであるように思われる。但し、最後の死因は心不全であろうから、もともと(恐らくは先天的に)心臓に重い奇形或いは疾患があったものかとも思われる。

「口うつしにのませ」気付け薬を。

「せわしき」「忙(せわ)しき」。

「いろいろ、ばかをつくしける」所持する活字本は「ばか」は「破家」とある。意味不明。「いろいろ」とあるから、「はか」は「計・量・果・捗」で、「てごめ」にするための「種々の目論見」の意かと考えたが、一方で、これは「破瓜」で、処女を犯して交接することを暗示させているのではないか? とも疑った。この疑いは、最後の藤七の狂態をよく合うからでもある。

「のつけに」このままだと「最初に」だが、一度、発作で昏倒しているのだから、ピンとこない。「乘りつけに」で「上方へ向かって」で、伸び上がるように、急に、また、卒倒したのではないか?

「追飛脚を出し」追加の飛脚。書かれていないが、「さよ」は最初の発作の直後にその知らせを早飛脚で出しているのである。だから、伯父がこの直後にすぐに来たのである。

「かはいや」「可哀そうに」。

「ふすま」「衾」。今の掛布団相当。

「けしからず」「あるまじきことに」・「常識外れにも」・「異様にも」。ハイブリッドでいい。

藤七、お吉が死骸と抱き合(あひ)、前後もしらず、伏し居(ゐ)たり。

「なまじいなる事」異様なことは誰にでもわかることだから、敢えて口にすることは、事態を悪化させると考えたのである。

「くはせければ」殴ったところ。

「湯入ども」藤七のことを前から知っていた常連の湯治客。

「宿へ吹(ふき)こみ」宿の者に聞えよがしに批判を吹聴したのである。

「江戶より來りし人々、さよが咄(はなし)にて、不ㇾ殘(のこらず)しりて、『貴樣をうち殺さん』と云へり」これは金太夫の懲らしめのための作り話である。すんなり出払ってもらうための嚇しである。さればこそ、敬語がふんだんに使われていても、所謂、「慇懃無礼」そのものなのである。

「下帶」褌(ふんどし)。

「なり」「形(なり)。

「ばうぜん」「呆然」。

「そばに、大なる木の、たをれて朽たるありし上へ、はひあがりて、女など媾會する心にや、いろいろ、えもいはれぬ身ぶりをしける」ここが本篇の肝(キモ)の部分である。いいね!

「いちじるく」(その山の神の霊力は)想像を絶して激しく猛く。

「ことに、人、死して神靈なり」殊に、人であっても、亡くなれば、それは神霊となるのである。

「山へともなひ來り」彼が狂乱していたのは谷陰であった。]

芥川龍之介書簡抄18 / 大正二(一九一三)年書簡より(5) 十一月一日附原善一郎宛書簡

 

大正二(一九一三)年十一月一日・新宿発信・原善一郞宛

 

        十一月一日午前大學圖書館にて

原君 カナヂアンロツキイの寫眞やバンフからの御手紙は確に落手致しました難有く御禮を申しあげます

もう今頃は紐育[やぶちゃん注:「ニューヨーク」。]で黃色くなつたプランターンの葉の落ちるのを見て御出の事と存じます東京もめつきり寒くなりました並木も秋の早い橡やすずかけは皆黃色く乾いてうすい鳶色の天鷲絨[やぶちゃん注:「ビロード」。]の樣に枯れた土手の草の上に柔なひわ色の羽をした小鳥が鳴いてゐるのを見ますとワイルドの「黃色のシムフォニイ」とか云ふ短い詩を思ひ出します

角帽をかぶつてからもう三月目です講義はあまり面白くありません美文學[やぶちゃん注:堀切透氏の「芥川龍之介書簡集」(新全集底本)では『英文学』となっている。]の主任はローレンスといふおぢいさんで頭のまん中に西洋の紙鳶[やぶちゃん注:「かみだこ」。凧。]の樣な形をした桃色の禿があります人の好い親切な人でよく物のわかつた人ですけれども殘念な事に文學はあんまりよくわかつてゐない樣ですいつでも鼠色のモーニングコートを着てズボンの下ヘカーキ色のゲートルをはいてゐます何故ゲートルなんぞを年中ズボンの下へはいてゐるのだかそれは未に判然しません今このおぢいさんの「Humuor in English Literature from Goldsmith to Bernard Shaw」「Plots&Characters in Shakespeare’s later plays」「English Pronounciation」をきいてゐます三番目のは Philological な講義でつまらないものです

文展がはじまりました吉例によつて少し妄評をかきます日本畫の第一科は期待以上に振ひませんでした小坂芝田氏や小室翠雲氏のさへ大した出來とは思はれません望月靑鳳氏の猿の毛描きがうまいと云つてほめる人もゐますさうした事をほめれば成程ほめる事がないでもありませんそれは文展の模倣が巧妙に出來上つてゐる事です文晁の惡い作より遙かにすぐれたものがあると云ふ事ですしかし之を自慢にするほど日本畫家は藝術的良心に訣陷はないでせうし又なからむ事を望みたいと思ひます津端道彥氏の「眞如」と云ふ佛畫の前へは東京觀光の田舍のおばあさんやおぢいさんが立つてをがんでゐますあんな手のゆがんだ片輪の佛さまをおがむ人たちはかあいさうです要するにこゝへ出品する人たちは見るも氣の毒な程貧弱な内生活をしてゐる人とより外は思はれません藝術にどれほどの理解と情熱があるかわかつたものではないと思ひます

第二科では私の興味を引いた作品が二あります一は牛田雞村氏の町三趣で一は土田麥僊氏の海女です町三趣はあまり遠近法を無視し過ぎた嫌がありますが私は之を今度の日本畫の中で最傑出した作だと思つてゐます「三趣」は朝と晝と夜とで朝の靜な町に漸く炊烟[やぶちゃん注:「すゐえん」。]がほのめいて石をのせた屋根には鳥の群がなきかはし人通のない往來を紅い着物をきた小兒が母親らしい女に手をひかれてあるいてゆくのも晝すぎの時雨に並藏[やぶちゃん注:「ならびぐら」。]の水におちる影もみえずぬれにぬれた柳の間うす白い川の面を筏の流れるのもそれぞれ興をひきますけれど宵の町の軒行燈[やぶちゃん注:「のきあんどん」。]のほの赤くともる頃を二人づれの梵論子[やぶちゃん注:「ぼろんじ」。虚無僧(こむそう)のこと。]が坂つゞきの町の軒づたひに尺八をふきながら下りてゆくなつかしさは此作家のゆたかな藝術的氣分を感じさせずにはおきません

海女は此頃またよみかへしたゴーガンの「ノアノア」の爲に一層興味を感じたのかもしれません土田氏は私の嫌な作家の一人です昨年の「島の女」も私の嫌な作品の一でしたしかし海女のすぐれてゐるのはどうしても認めなければならない事實です六曲の屛風一双へ砂山と海とをバックにして今海から出た海女と砂の上に坐つたり寢ころんだりしてゐる海女とを描いたものです泥のやうな灰色の中に黃色い月見艸もさいてゐます赫土の乾いたやうな色の船もひきあげてあります

砂山の向ふにひろがつてゐるウルトラマリンの海は不讚同ですけれどもねころんでゐる海女の肩から腰に及ぶ曲線や後むきになつた海女の背から腕に重みを託してゐる所や海草を運んでくる海女や小供の手足のリズミカルな運動は大へんによくかいてありますデッサンも「島の女」より遙に統一を持つてゐます槪して一双の中で右の半双海の出てゐる方はあまり感心しませんが左の半双は確に成功してゐます

唯誰もこの繪をほめる人のないのが悲觀です私の友だちは皆惡く云ひます先生にはまだ御目にかゝりませんが多分惡く云はれるだらうと思ひます私の知つてる限りではこの繪をほめたのは松本亦太郞氏だけです大觀氏は矢張たしかなものでした(咋年ほど人氣はありませんけれど)廣業氏の「千紫萬紅」はどうも感心しません栖鳳氏の「繪になる最初」は思ひきつて俗なものです山本春擧氏の「春夏秋冬」の四幅も月並です櫻谷氏の「驛路の春」は「勝者敗者」以來の作かもしれませんけれど私は一向心を動かされませんでした

玉堂氏の「夕月夜」と「雜木山」とも太平なものです「汐くみ」では多少なりとも何かつかまうとした努力がみえますけれど今年はまた元の銀灰色の霧と柔婉[やぶちゃん注:「じうゑん」素直で優しいこと。]な細い木立との中にかへつてしまひました何と云ふ安價なあきらめでせう

彫刻にも目ぼしいものは見當りませんでした又私には彫刻はまだよくわかりません世間の人も大抵はよくわかつてゐない樣な氣がします内藤伸氏の氣のきいた木彫が欲しいと思ひました藤井浩祐氏の「坑内の女」や「若者」も評判の惡い割に私にはよく思はれました

洋畫では石井柏亭氏が頭角を現はしてゐますこの人の心はとぎすました鏡のやうに冷に[やぶちゃん注:「ひややかに」。]澄んで居るのでせうその心の上に落ちる木の影石の影は寸毫も誤らない訓練を經た手でカンヴァスなりワットマン[やぶちゃん注:Whatman。画用紙。商標名。後注参照。]なりの上にうつされるのでせう此人の作品をみてゐると私はきつと森鷗外先生の短篇を思ひ出します今度の作品の中で船着きと云ふテンペラは其殊にすぐれたものだらうと思ひます「並び藏」と云ふ水彩「N氏の一家」と云ふ油繪もよく出來てゐました 南薰造氏は「瓦燒き」のやうな作品をもう見せてはくれませんけれどそれでも「春さき」はなつかしい作でした 土は皆春を呼吸してゐる丘と丘との間に僅にみえる紫がかつた海も春を呼吸してゐる低い木の芽うす白い桃の花「春」は今 MOTHER EARTH に KISS をしてゐるのです唯私は「瓦燒き」以來の南氏の作品をたどつてひそかに同氏の藝術的氛圍氣[やぶちゃん注:「ふんゐき」。雰囲気。]が比較的薄くなりつゝありはしないかと思はれない事もありません今から切に其杞憂に終らむ事を祈ります

かう上げてくると勢[やぶちゃん注:「いきほひ」。]藤島武二氏の「うつゝ」と齋藤豐作氏の「夕映の流」をも數へなければなりません「うつゝ」は TOUCH は實に達者なものです「夕映の流」は私にこんな氣分になる事の出來る作者を羨しく思はせました

其他不折は例の如く角のはえた「神農」と稱する老人の裸體をかいてゐますし吉田博氏は十年一日の如くあの董色を使つた「play of collars」に餘念のないやうに見うけられます

要するに多くの畫家はのんきですすべての氣分の和をその氣分の數の和で割つた商を描いてゐるんですある特殊の木なる槪念をある時間の槪念のうちに置いてかいてゐるのです彼等には天然色寫眞の發明は恐しい競走者の出現を意味するに違ひありません

Verdi の百年祭で音樂學校と帝國ホテルとで演奏會がありました兩方行つてみましたがあとの方で TROVATORE PRELUDE MISERERE のマンドリンをきゝましたザルコリがひくギターの太い澁い音が銀のやうなマンドリンの聲を縫つてゆくのがうれしう御座いました

   鳶色のギタラの絹をぬふ針かマンドリーヌのトレモロの銀

同じ日に藝術座が有樂座で音樂會をやりました新興藝術の爲に氣を吐く試みなんださうですがショルツのひいたドビュッシーや何かの外はあんまり感心したものはなかつたさうです前にかき落しましたが帝國ホテルでは RIGOLETTO の QUARTETTO がありました Soprano: Mrs. Dobrovolsky, Mezzo Soprano: Miss Nakajima, Tenor: Mr. Sarcoli, Baritone: Mr. Tham と云ふ順でしたがあの泣き佛と綽名した中島さんには大へん御氣の毒な話しですけれど西洋人が三人で日本人一人をいぢめてるやうできいててあんまりいゝ氣がしませんでした

自由劇場は帝劇でゴルキイの夜の宿をやりました昨夜行つてみましたが日本で演ぜられた此種類の芝居の中では一番成功したもののやうに見うけます役者の伎倆なり舞臺の裝置なりに始めて割引のない批判的の眼をむける事が出來且その結果それらの寧[やぶちゃん注:「むしろ」。]成功したのを認める事の出來たのは甚愉快です小山内さんはもつと愉快でせう

サロメはみましたか

鐘がなりました之から SWIFT と云ふ名前から早さうな西洋人の早い書取の授業をうけに行かなければなりません大急ぎで歌を二つ三つかいてやめます

   秋風よゆだやうまれの年老いし寶石商も淚するらむ

   秋たてばガラスのひゞのほの靑く心に來るかなしみのあり

   額緣のすゝびし金もそことなくほのかに靑む秋のつめたさ

   鳶色の牝鷄に似るぺッツオルド夫人の帽に秋の風ふく

   『秋』はいますゝりなきつゝほの白き素足に獨り町をあゆむや

               芥 川 生

追伸 これは講義をきゝながらかいてゐるのです今テニソンの「アサーの死」をやつてゐます「こゝのLはサイレントで發音はサッダアですサッダアは TO TAKE APART の意です」とか何とか SWIFT さんが云つてゐますこの人は私の見た西洋人の中で一番ジョンブルらしい西洋人ですその癖あめりか人でジョンブルではないのですが

講義をきゝながらかいた歌を御覽に入れます

     CONCERT にて

   ドヴロボルスキイ夫人も秋の夜はさびしと思ふことありや灯を

   ポンプの如く立ちてうたふそことなくさびしかりけり SIGNOR THAM

   秋の夜のホテルの廊を畫家南薰造のゆくにあひにけるかな

   バァナァドリーチとかたる黑服の女は梟によく似たるかな

   シニヨーリナ中嶋のきる紫の羽織もさむき夜となりにけり

     FREE THEATRE にて GORKY の〝夜の宿〟

   赤シヤツのすりのワシカも夕さればふさぎの虫がつのるなりけり

   のんだくれの役者のうたふ小唄より秋はランプにしのびよりけむ

   わが友のかげにかくれて歌つくるこの天才をさはなとがめそ

   肘つきてもの云ふときは SWIFT も白き牡牛の心ちこそすれ

之から LEADING の稽古がはじまるからやめます さやうなら

 

[やぶちゃん注:一箇所だけ行末改行で続く箇所に字空けを施した。

「原善一郞」「芥川龍之介書簡抄16 / 大正二(一九一三)年書簡より(3)」の四通目の「大正二(一九一三)年九月十七日(年月推定)・山本喜譽司宛」の本文及び私の注を参照されたい。そこで私が指摘したように、この洋行に出ている後輩への返信には、やはり、張り合おうとする負けん気が行間に窺われて仕方がない。

「カナヂアンロツキイ」カナディアン・ロッキー(Canadian Rockies)。アメリカ合衆国からカナダにかけて延びているロッキー山脈の内、カナダ国内のアルバータ州(バンフ・ジャスパー)、ブリティッシュ・コロンビア州、ユーコン準州を通る部分を指す。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「バンフ」一八八七年、カナダで最初に設立されたバンフ国立公園(Banff National Park)。私は一度、二十数年前、オーロラを見に訪れたことがある。

「プランターン」既出既注。但し、厳密なことを言うと、カナダのことを想起して言っているので、その場合は、本邦の「プラタナス」(ヤマモガシ目スズカケノキ科スズカケノキ属スズカケノキ Platanus orientalis 或いはスズカケノキ属モミジバスズカケノキ Platanus × acerifolia )ではなく、後者の原種で北米原産のスズカケノキ属アメリカスズカケノキ Platanus occidentalis となる。

『ワイルドの「黃色のシムフォニイ」とか云ふ短い詩』龍之介の好きなオスカー・ワイルド(Oscar Wilde)の詩‘Symphony In Yellow’。個人サイト「詩と音楽」のこちらに対訳が載る。

「ローレンス」ジョン・ローレンス(John Lawrence 一八五〇年~一九一六年)はイギリス人教師。苦学の末、パリ・ベルリン・プラハでの留学・勤務を挟んで、ロンドンとオックスフォード両大学を卒業、前者で数年、教鞭を取った後、明治三九(一九〇六)年東京帝大英吉利文学科で英語・英文学の教師となった。学位論文以外に研究業績はなく、本国では埋もれた存在であったが、ゲルマン語全体とギリシア・ラテンを縦横無尽に知り尽くした碩学であったと伝えられている。かの「お雇い外国人」として知られる同大で哲学・西洋古典学を講じたラファエル・フォン・ケーベル(Raphael von Koeber 一八四八年~一九二三年:ロシア出身のドイツ系ロシア人哲学者・音楽家。ロシア語名はラファエリ・グスタヴォヴィチ・フォン・キョーベル(Рафаэ́ль Густа́вович фон Кёбер))は彼を「文科大学の誇りにして、名誉である」と讃えている(サイト「大阪言語研究会」のこちら他を参考にした)。なお、芥川龍之介は自死の五ヶ月前の昭和二(一九二七)年二月二十一日発行の『帝國大學新聞』のシリーズ・コラム「その頃の赤門生活」の第二十七回(『芥川龍之介氏記』とする)の中で、

   *

       二

 僕達のイギリス文學科の先生は故ロオレンス先生なり、先生は一日僕を路上に捉へ、娓々々(びび)數千言を述べられてやまず。然れども僕は先生の言を少しも解すること能はざりし故、唯雷に打たれたる啞の如く瞠目して先生の顏を見守り居(ゐ)たり、先生も亦僕の容子に多少の疑惑を感ぜられしなるべし。突如として僕に問うて曰く、“Are you Mr. K. ?” 僕、答へて曰く、“No, Sir.” 先生は――先生もまた雷に打たれたる啞の如く瞠目せらるゝこと少時(せうじ)の後(のち)、僕を後(うしろ)にして立ち去られたり。僕の親しく先生に接したるは實にこの路上の數分間なるのみ。

   *

と回想している。引用は私のサイトの古い電子化から。

「Humuor in English Literature from Goldsmith to Bernard Shaw」この講義、既出既注。龍之介の訳を参考にして現代表記するならば、「ゴールドスミスよりバーナード・ショウに至る英文学上のユーモア」OUR、沙翁の後年期の戲曲に現れたる PLユーモア

「Plots&Characters in Shakespeare’s later plays」同前で「シェークスピアの後期戯曲に現われたる構想と性格」。

「English Pronounciation」後の部分は「Prononciation」のミス・スペル。「英語の発音」。

「Philological」言語学的。

「文展」「芥川龍之介書簡抄17 / 大正二(一九一三)年書簡より(4)十月十七日附井川恭宛書簡」で既出既注。

「吉例によつて少し妄評をかきます」この目出度い何時もの「仕来たり」であるところの「妄評」という表面的な謙辞の背後に、寧ろ、挑戦的なもの(龍之介の芸術への審美眼や批評力への自信)が表われていると私は感ずる。

「小坂芝田」(こさかしでん 明治五(一八七二)年~大正六(一九一七)年)は長野県生まれの南画家。本名は晴道。中村不折は母方の従兄に当たる。グーグル画像検索「小坂芝田」(私が絵が想起出来ない作家はこれを附す)。

「小室翠雲」(明治七(一八七四)年~昭和二〇(一九四五)年)は栃木県邑楽郡館林町(現在の群馬県館林市本町一丁目)生まれ(当時の邑楽郡は栃木県に属した)の南画家。本名は貞次郎。父桂邨も日本画家。翠雲は明治四〇(一九〇七)年の「文展」開設に当たっては、「正派同志会」を組織し、副委員長として「文展」をボイコットし、後も「文展新派」に対抗したことで知られる。グーグル画像検索「小室翠雲」

「望月靑鳳」(明治一九(一八八六)年~?)は神田生まれの日本画家。四条派の望月金鳳に師事、後に養子となった。その後、竹内栖鳳・山元春挙に学んだ。「文展」開設時には「正派同志会」の結成に評議員として参加している。しかし、第二回文展には出品し、「雪中群猿」で初入選、翌年第三回文展で「獅子」が、大正元年の第六回文展でも「群鹿」で褒状、この大正二年第七回文展の「猿」で三等賞を受賞している。当該の「猿」の画像は見当たらない(作品のヒット数が少ない)。

「文晁」江戸後期の画家谷文晁(たにぶんちょう 宝暦一三(一七六三)年~天保一一(一八四〇)年)江戸下谷根岸生まれ。通称文五郎。父は田安家の家臣で漢詩人としても知られた谷麓谷。十歳頃から狩野派の加藤文麗に絵を学び、十九歳の頃に南蘋(なんぴん)派の渡辺玄対に師事した。天明八(一七八八)年、田安徳川家に出仕して五人扶持となり、同年、長崎に遊学して清人の張秋谷に文人画を学んだ。寛政四(一七九二)年には白河侯松平定信付となり、翌年三月から四月にかけて、定信の江戸湾岸巡視に随従し、「公余探勝図」を制作している。宋・元・明・清の絵画や西洋画の研究の上に、土佐派・琳派・円山四条派などの画法をも摂取し、幅広い画業を示し、当時、江戸第一の大家とされた。私は好きな画家である。恐らくは、龍之介の言っている「惡い作」の方が私の好みであろうと推定される程度に好きである。

「津端道彥」(明治元(一八六九)年~昭和一三(一九三八)年)は越後生まれの日本画家。歴史人物画を得意とし、文展や日本美術協会などで受賞を重ね、大阪天満宮襖絵なども手がけた。「手のゆがんだ」「眞如」は残念ながら、ネット画像には見当たらない。グーグル画像検索「津端道彦」

「牛田雞村」(うしだけいそん 明治二三(一八九〇)年~昭和五一(一九七六)年)は横浜生まれの日本画家。本名は治(はる)。松本楓湖に入門し、巽(たつみ)画会に出品。大正三(一九一四)年の日本美術院の再興に参加し、同年には今村紫紅らと「赤曜会」を結成、大正六年の「鎌倉の一日」で院展樗牛賞を受賞。大和絵の伝統を踏まえた風景画を描いた。「町三趣」は惜しいかな、ネットには見出せない。グーグル画像検索「牛田雞村」

「土田麥僊」(つちだばくせん 明治二〇(一八八七)年~昭和一一(一九三六)年)は佐渡生まれの日本画家。「海女」は「独立行政法人国立美術館」公式サイト内のこちらで、京都国立近代美術館蔵の原画画像が見られる。

『ゴーガンの「ノアノア」』フランスの画家でゴッホとの交流で知られるウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャン(Eugène Henri Paul Gauguin  一八四八年~一九〇三年)のタヒチ島滞在の内、第一回目のそれを回想した随筆(Noa Noa:パリ・一八九三年~一八九四年)。大正元(一九一二)年から翌年にかけて『白樺』に小泉鉄による訳が連載され、この大正二年十一月十八日には(本書簡の十七日後)挿絵も添えて洛陽堂から出版された(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの当該原本)。後ゴーギャンは私の好きな画家で、「ノア」ノア」は高校以来の私の偏愛書の一つである。

「島の女」同前のサイトのこちらで東京国立近代美術館蔵の原画画像が見られる。龍之介の見解は正しく、明らかにこれは画題と言い、対象の選び方と言い、ゴーギャンの影響下に描かれたものである。「海女」もそれに続く同工異曲乍ら、優れてよく描かれており、特に龍之介の言うように左半幅が非常に優れている。しかし、岩波文庫「芥川龍之介書簡集」の石割透氏の注よれば、『前年出展の「島の女」は「褒状」を得たが、「海女」は』この『文展では評価されなかった』とある。

「ウルトラマリン」ultramarine。群青色。本来は天然の半貴石ラピスラズリ(lapis lazuli:方ソーダ石グループの鉱物である青金石(lazurite:ラズライト)を主成分とする。和名は瑠璃(るり))から作られたが、ヨーロッパの近くではアフガニスタンでしか産出せず、それが地中海を越えて海路で運ばれてきたため、「海を越えて(来る青)」という意で命名されたもので、海の色に基づく由来ではない。恐らく誤解しておられる方が多いと思われるので一言した。

「デッサン」フランス語の‘dessin’で素描。英語はドローイング(drawing)。但し、ここは広義の用法で、実在感を具えた絵画に求められる描画力・観察力の技能及びその処理・手順・技法力の熟知性を指している。

「先生」先に出た三中の恩師廣瀨雄であろう。

「松本亦太郎」(またたろう 慶応元(一八六五)年~昭和一八(一九四三)年)は高崎生まれの心理学者。東京帝大卒業後、エール大学・ライプチヒ大学に学び、京都帝大を経て、大正二(一九一三)年に東京帝大教授となった。両帝大に日本最初の心理学実験室を開設して精神動作学を提唱したほか、航空心理・芸術心理などの応用心理学の領域をも開拓、「日本の実験心理学の祖」とされる。また、「日本心理学会」を創設して初代会長となった。

「大觀氏」横山大観(明治元(一八六八)年~昭和三三(一九五八)年)は水戸生れの日本画家。橋本雅邦に師事。明治二九(一八九六)年、東京美術学校助教授となったが、二年後、校長であった岡倉天心らと辞職、「日本美術院」の創設に参加、大正三年に日本美術院再興を主導し、終始、近代日本画の中心作家として活躍した。

「廣業」寺崎広業(てらさきこうぎょう 慶応二(一八六六)年~大正八(一九一九)年)は秋田出身の日本画家。狩野派を小室秀俊に、四条派を平福穂庵に師事した。後に南画家菅原白龍にも学び、諸派の画法を取り入れ、「日本青年絵画協会」や「日本絵画協会」などで活躍、後に天心・大観らと「日本美術院」を創立、また「文展」開設に当たっては「国画玉成会」に参加し、審査員として同席に出品を重ねた。清新な山水画を多く描いたことで知られる。「千紫萬紅」はこの第七回文展出品作。秋田市立千秋美術館蔵。

「栖鳳」竹内栖鳳(元治元(一八六四)年~昭和一七(一九四二)年)は近代日本画の先駆者。戦前の京都画壇を代表する大家で、帝室技芸員・第一回文化勲章受章者。「繪になる最初」はやはりこの時の出品作。これ(当該ウィキの画像)。現在、重要文化財指定。

「山本春擧」(明治四(一八七二)年~昭和八(一九三三)年)は滋賀県生まれの円山四条派の画家。竹内栖鳳とともに近代京都画壇を代表する画家。「春夏秋冬」は「文化遺産オンライン」のこちらで見られる。

「櫻谷」木島桜谷(このしまおうこく 明治一〇(一八七七)年~昭和一三(一九三八)年)は京都市三条室町生まれの四条派の画家。本名は文治郎。四条派の伝統を受け継いだ技巧的な写生力と情趣ある画風で、「大正の呉春」(呉春は江戸中期の絵師で四条派の始祖)・「最後の四条派」などと称された。「驛路の春」は正確には「驛路之春」で「うまやぢのはる」と読むデジタル「朝日新聞」のこちらで画像が見られる(左矢印で部分が二部見られる)。この第七回文展の審査員であった。「勝者敗者」という作品は不詳。

「玉堂」川合玉堂(明治六(一八七三)年~昭和三二(一九五七)年)は愛知生まれの日本画家。初めは四条派を、後に橋本雅邦に師事して狩野派を学び、詩情溢れる穏健な風景画に独自の画風を打ち立てた。「夕月夜」はこの第七回文展で好評を博した一品。「足立美術館」公式サイトのこちらで見られ、同時に出品された「雜木山」も「東京藝術大学大学美術館所蔵作品データベース」のこちらで見られる。「汐くみ」は不詳。岩波文庫注で石割氏が『前年の文展で大胆な画法が注目された「潮」のことか』と述べておられる。出品と題名は確認出来たが、画像は見当たらない。

「内藤伸」(しん 明治一五(一八八二)年~昭和四二(一九六七)年)は島根県生まれの彫刻家(木彫)。上京して高村光雲に師事、明治三七(一九〇四)年、東京美術学校選科卒。文展出品の後、大正三(一九一四)年に日本美術院同人となり、翌年の再興院展にも出品したが、大正八年に脱退した。後に帝展審査委員・帝国美術院会員となり、昭和四(一九二九)年には「日本木彫会」を設立して主宰した。

「藤井浩祐」(こうゆう 明治一五(一八八二)年~昭和三三(一九五八)年)は東京生まれの彫刻家。明治四〇(一九〇七)年、東京美術学校彫刻科卒。第一回文展に出品し、以後、出品を続けた。明治四四(一九一一)年の文展出品「鏡の前」から三等賞を連続して四度、受賞している。後に日本美術院同人、以後、院展に出品。文展審査員・帝国美術院会員・帝国芸術院会員。戦後は日展運営会理事。昭和二八(一九五三)年より名を「浩佑」と改称している。日本風の裸女の鋳造物が多い。グーグル画像検索「藤井浩

氏の「坑内の女」や「若者」も評判の惡い割に私にはよく思はれました

「石井柏亭」(明治一五(一八八二)年~昭和三三(一九五八)年)は版画家・洋画家。東京府下谷区下谷仲御徒町(現在の東京都台東区上野)生まれ。本名は石井満吉。とし、初め、父で日本画家であった石井鼎湖に日本画を学んだが、後、洋画を志し、浅井忠・中村不折に師事し、さらに東京美術学校に学んだ。明治四三(一九一〇)年に渡欧、帰国後、二科会の創立に加わったが、後に退いて一水会を設立した。作品は平明な写実主義で貫かれている。文筆にも優れ、著作も多い。私の電子化では、ブログ・カテゴリ「北原白秋」の「北原白秋 邪宗門 正規表現版」で装幀と多数の主挿画を担当しており、画像で総てを示してある。PDF縦書一括版もあるが、挿絵はブログ・リンクとなっている(但し、直接ブログを探すよりは、結局は後者の方が簡単に見られる。「石井柏亭」で検索すればよい)。以下の龍之介の画題は正確ではない。彼は「船着き」・「並び藏」・「N氏の一家」と記しているが、正確には第七回文展に出品したその三つはそれぞれ、「滯船」(テンペラ)・「N氏と其一家」・「並藏」(素描淡彩)である。なお、この内、龍之介がかっている「滯船」は二等賞を受賞している(以上の最後の部分はサイト「東京文化財研究所」の「石井柏亭」に拠って確認した)。

「ワットマン」Whatman。画用紙。一七四〇年に創業したイギリスの画用紙の製造会社名及び商標名。創業者ジェームズ・ワットマンが考案した「Whatman紙」は現在でも高級水彩画用紙として知られる。

「森鷗外先生の短篇を思ひ出します」具体的にどの、或いは、どれらのそれを指すのか私には判らぬ。

「テンペラ」tempera painting。絵画技法の一つ。水と混和する展色剤の中で練り合せた顔料の絵具。水と油を混和し、浮化性と定着性を持たせるため、レチシンを含む卵黄のほか、アラビアゴム・蜂蜜などが加えられた。エジプト・メソポタミアの古代文明の時代から使われたが、特に初期ルネサンスのイタリアの画家たちが好んで使用した。筆の動きが円滑でないため、色調が固くなる嫌いがあるが、硬化後は変質せず、罅割(ひびわ)れや剥落が生じない利点がある。薄い透明な絵具の層が光沢を帯び、重ねられた刷毛(はけ)の跡が、視覚的に混り合う効果を持ち、後、油絵が生れるまで、色調を混合する技術も開発されて多用された。

「南薰造」(みなみくんぞう 明治一六(一八八三)年~昭和二五(一九五〇)年)は広島県賀茂郡内海町(現呉市安浦町)出身の画家。東京美術学校西洋画科卒。明治四〇(一九〇七)年から明治四十三年にかけてイギリスに遊学した。文展・帝展・新文展・日展で活躍し、昭和七(一九三二)年から昭和八年にかけては東京美術学校教授を務めた。油画家・水彩画家として知られるが、版画の制作にも携わった。晩年は郷里の安浦町で暮らし、瀬戸内海を描き続けた。岩波文庫の石割氏の注によれば、『「春さき」は三等賞受賞。「瓦焼き」は』二年前の明治四三(一九一一)年の『第五回展の出品作。南は『白樺』』派『と関りが深く、有島壬生馬』(うぶま:洋画家・小説家有島生馬(有島武郎の弟で里見弴の兄)の本名)『との滞欧記念美術展は、『白樺』主宰で一九一〇年に開催』されたとある。「春さき」は絵葉書を「ヤフオク」に出品されているものに同文展の絵葉書の画像を見つけたので、以下に示す。龍之介が気に入っている「瓦燒き」の方が発見出来なかった。

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「MOTHER EARTH」「母なる大地」。

「藤島武二」(慶応三(一八六七)年~昭和一八(一九四三)年)は薩摩藩士の家に生まれた、洋画家。日本の近代洋画壇にあって長く指導的役割を果たしてきた重鎮。ロマン主義的な女性を配した作品を多く残した。「うつゝ」は「文化遺産オンライン」のこちらで見られる。

「齋藤豐作」(とよさく 明治一三(一八八〇)年~昭和二六(一九五一)年)は埼玉県越谷生まれの洋画家。東京美術学校卒。黒田清輝(せいき)に師事し、明治三九(一九〇六)年に渡仏して印象派に傾倒、点描派風の画風を学んだ。帰国後、大正三(一九一四)年の二科会の創立に参加し、大正八年からはフランス人の妻とフランスのサルト県ベネベルにあった古城に住んだ。この「夕映」(ゆふばへ)「の流」(ながれ)は彼の代表作で、「文化遺産オンライン」のこちらで見られる。

「TOUCH」タッチ。筆致。

「不折」中村不折(慶応二(一八六六)年~昭和一八(一九四三)年)は江戸京橋八丁堀(現在の中央区湊)生まれの洋画家・書家。太平洋美術学校校長。夏目漱石「吾輩は猫である」の挿絵画家としてとみに知られ、島崎藤村の詩集「若菜集」の装幀も彼である。他にも正岡子規・森鷗外とも親しかった。「神農」という作品はこの文展に「老孔二聖の会見」とともに出品しているが、龍之介の言う「例の如く角のはえた」の「例の如く」という形容は私には意味が判らない。

「吉田博」(明治九(一八七六)年~昭和二五(一九五〇)年)は洋画家・版画家。旧久留米藩士の次男として久留米に生まれ、福岡県立修猷館に入学するも中退したが、明治二四(一八九一)年にその修猷館の図画教師であった洋画家吉田嘉三郎に画才を見込まれ、吉田家の養子となり、近代風景画家の第一人者として活躍した。明治三二(一八九九)年に渡米し、デトロイト美術館展・ボストン美術館展に出品、翌年にはパリで行われた万国博覧会に出品した。明治美術会を経て、太平洋画会の創立に参加した。明治三十六年には義妹のふじをとともに再び外遊し、翌年のセントルイス万博で銅牌を受賞している。明治三十九年に帰国して展覧会を開催、「兄妹画家」として評判を呼び、世相漫画にもなった。これは夏目漱石の「三四郎」や「虞美人草」のヒントになったと言われている。明治四〇(一九〇七)年に、ふじをと結婚した。同年の第一回文展で「新月」が三等賞を受賞し、続く翌年及び翌々年の文展で「雨後の夕」と「千古の雪」が孰れも二等賞を受賞した。大正九(一九二〇)年になって木版画を手がけ始め、昭和二(一九二七)年第八回帝展に「帆船(朝・午前・霧・夜)」を出品。昭和二二(一九四七)年、太平洋画会会長を務めた。欧米・エジプト・インドなどに渡って写生したほか、登山が一般的でなかった大正末期に日本アルプスに登り、二百六十点余りもの版画を連作している。グーグル画像検索「吉田博」

「play of collars」色彩の遊び。

「Verdi の百年祭で音樂學校と帝國ホテルとで演奏會がありました」「兩方行つてみました」イタリアのロマン派の作曲家で主にオペラを制作して「オペラ王」の異名を持つジュゼッペ・フォルトゥニーノ・フランチェスコ・ヴェルディ(Giuseppe Fortunino Francesco Verdi 一八一三年~一九〇一年)。新全集の宮坂覺氏の年譜に、龍之介はこの前月の下旬に、本邦で行われたヴェルディ百年祭の、東京音楽学校や帝国ホテルなどで行われた演奏会に出かけている(といってもこの書簡がそのソースである)。

「TROVATORE」ヴェルディ作曲になる全四幕のオペラ「イル・トロヴァトーレ」(Il Trovatore:「吟遊詩人」)。一八五三年にローマで初演。ヴェルディ中期の傑作の一つとされる。

「PRELUDE」プレリュード。前奏曲。

「MISERERE」「ミゼレーレ」(Miserere:ラテン語「哀れみ給え」)或いは「ミゼレーレ・メイ、デウス」(Miserere mei, Deus:同前で「神よ、我を憐れみ給え」)。イタリアの司祭で作曲家・歌手でもあったグレゴリオ・アレグリ(Gregorio Allegri 一五八二年~一六五二年)が「旧約聖書」の「詩篇」第五十一篇をもとに作曲した合唱曲。

「ザルコリ」アドルフォ・サルコリ(Adolfo Sarcoli 一八六七年~一九三六年)はイタリアの声楽家・作曲家。当該ウィキによれば、シエナ出身で、当初はマンドリン工房で働いていたが、『テノール歌手に転向した。プッチーニと親交があり』、「ラ・ボエーム」の『ロドルフォ役を演じ』、『上海で出演する契約だったが、辛亥革命で契約がふいになった』ため、『仕方なく』明治四四(一九一一)年に『来日し、声楽とギター、マンドリンを教えた』。『報知新聞記者の千葉周甫の協力で、三浦環ら帝国劇場歌劇部と』「胡蝶の夢」(作曲はハインリヒ・ヴェルクマイスター(Heinrich Werkmeister 一八八三年~一九三六年:ドイツ出身で日本で活躍した作曲家・指揮者・チェロ奏者)を『一幕やり、好評を得』たため、『帝劇と契約』した。『その後』、『日本に定住し、声楽教師として日本で初めてイタリアのベルカント唱法を伝え』、『原信子・関屋敏子・喜波貞子らを育てた。また』、『マンドリン・ギター教師としても鈴木静一らを育てた。伊藤信吉の』、「ぎたる弾くひと」に『よれば、萩原朔太郎は慶應義塾大学在学中、サルコリからマンドリンの指導を受けている』という。すこぶる腑に落ちる。

「鳶色」茶褐色。

「ギタラ」ポルトガル・ギター(Guitarra portuguesa:ポルトガル語)。十二弦のポルトガルの民族弦楽器。実際にはギターとの関連性は薄く、恐らくはイングリッシュ・ギターとシターン(Cittern:水滴型の共鳴体を持った撥弦楽器)との融合から生まれたと考えられている。

「トレモロ」tremolo。イタリア語で同音又は異なる二音を急速に反復させる奏法。主に弦楽器で用いる。

「藝術座」この大正二(一九一三)年に島村抱月や松井須磨子を中心に東京で結成した新劇の劇団。先の石割氏の注に、これは、発足当時の『芸術座が、音楽界刷新を目的に開催した音楽会。二〇日有楽座で開催。薄田泣菫、北原白秋などの詩に基づく創作曲をソプラノ歌手の薗部房子が歌った』とある。しかし、後、二人の急死により、大正八(一九一九)年に解散した。

「ショルツ」パウル・ショルツ(Paul Scholz 一八八九年~昭和一九(一九四四)年)はドイツのピアニスト・音楽家。ライプツィヒ生まれ。ハンブルク音楽院からベルリン高等音楽学校に進み、一九一二年卒。翌大正二(一九一三)年に来日し、東京音楽学校でピアノ教師として多くの弟子を育てた。九年後の退職の後も東京高等音楽学院(現在の国立音楽大学)教師などを務め、東京を拠点にピアニスト・音楽教師としての活動を続けて演奏活動や後進の育成を行った。東京で亡くなった。

「RIGOLETTO」ヴェルディが作曲した全三幕からなるオペラ。一八五一年初演(イタリアのヴェネツィア・フェニーチェ座)。当時のフランス文学界の巨匠ヴィクトル・ユーゴー(Victor-Marie Hugo 一八〇二年~一八八五年)の戯曲「王は愉しむ」(Le Roi s'amuse)が原作。一八五一年にヴェネツィアのフェニーチェ座で初演された。ヴェルディ中期の傑作とされ、彼のオペラの評判を不動のものにした作品とされる。因みに、当該ウィキによれば、『ユーゴーには著作権料に相当する金銭の受取が一切なかったため』、ユーゴ―は『立腹』し、『フランスで訴訟まで提起した(結果は敗訴)。このため』、『同オペラのパリ初演は他の世界諸都市に大きく遅れて』、六年後の一八五七年一月(イタリア座)となった。『しかしヴィクトル・ユーゴー自身、ヴェルディの効果的な重唱の用い方には驚嘆せざるを得なかった。同オペラのパリ初演に観客として』『招かれ』、『不承不承』出向いた『ユーゴーは』第三幕の四重唱を聴いて』、「四人に同時に舞台で台詞を言わせて、個々の台詞の意味を観客に理解させるのは、芝居では不可能だ」と『述べたと伝えられている』とある。私はオペラ嫌いで、幾つかは持っているものの、ちゃんと聴いたためしが殆んどない。そんな中で、これだけは特異点で聴いている。何故か? 私の偏愛するイタリア映画(厳密は公開はテレビ用シネマ)のベルナルド・ベルトルッチ(Bernardo Bertolucci 一九四一年~二〇一八年)監督作品「暗殺のオペラ」(Strategia del ragno:「蜘蛛の戦略」。一九七〇年公開(本邦公開は一九七九年八月)。原作はアルゼンチンの巨匠ホルヘ・ルイス・ボルヘス(Jorge Luis Borges  一八九九年~一九八六年)の小説「裏切り者と英雄のテーマ」(Theme of the Traitor and the Hero)で重要なシークエンスに用いられていたからである。

「QUARTETTO」カルテット。イタリア語。四重唱。

「Mrs. Dobrovolsky」筑摩全集類聚版脚注によれば、『ロシア大使館付武官夫人』。

「Miss Nakajima」中島は旧姓。「白樺」派の柳宗悦の妻で声楽家(アルト歌手)であった柳兼子(明治二五(一八九二)年~昭和五九(一九八四)年)。私は関心がないので、詳しくは当該ウィキを参照されたい。

「Mr. Tham」筑摩全集類聚版脚注に『不詳』とし、石割氏も注せず。

「自由劇場」劇作家・演出家・小説家小山内薫(明治一四(一八八一)年~昭和三(一九二八)年:広島生まれ。龍之介が引き継ぐ雑誌『新思潮』を創刊している)と歌舞伎俳優二代目市川左團次が始めた新劇運動。明治四二(一九〇九)年から大正八(一九一九)年にかけて九回の公演を行った。劇場や専属の俳優を持たない「無形劇場」で、年二回の公演を目標として会員制の組織とした。イプセンの「ジョン・ガブリエル・ボルクマン」や、このゴーリキーの「夜の宿」、チェーホフの「犬」などの翻訳劇の他、森鷗外・吉井勇・秋田雨雀などの戯曲を上演した。自由劇場は前後して発足した坪内逍遙の「文芸協会」とともに新劇運動の旗手となり、当時の知識人には好評を以って迎えられた。

「帝劇でゴルキイの夜の宿をやりました」自由劇場の第七回公演で、知られた社会主義リアリズムの作家マクシム・ゴーリキー(Макси́м Го́рький 一八六八年~一九三六年)が一九〇一年から一九〇二年にかけて執筆した戯曲「どん底」(На дне)のこと。この年の十月二十九日から三十一日まで帝国劇場で公演された。

「サロメ」「芥川龍之介書簡抄9」参照。

「SWIFT と云ふ名前から早さうな西洋人」ジョン・トランブル・スウィフト(John Trumbull Swift 一八六一年~一九二八年)アメリカのコネチカット州出身の英語教師。当該ウィキによれば、『イェール大学卒業後、コロンビア大学で法律学を学』んだが、明治二一(一八八八)年に『母国の大学卒業生を対象』とした『日本の中学校の英語教師として来日した』。『その後』、『一旦帰国し』たが、翌明治二十二年に『再来日』して、『YMCA』(Young Men's Christian Association:キリスト教青年会)『国際委員を務め、東京の神田美土代町に東京YMCA会館の建設に携わった。日本におけるYMCA運動の活性化に貢献した』。九『年後の』明治三一(一八九八)年に『YMCAを退職』し、『再度の帰国を挟』んで、三『度目の来日で』、『東京高等師範学校や東京帝国大学、東京商科大学で英語や英文学の教鞭を執った』。昭和三年に『東京で死去』した。この龍之介のちゃらかしは、英語の一般形容詞としての‘swift’には「速い・迅速な・つかの間の・即座の」の意があるからである。

『テニソンの「アサーの死」』ヴィクトリア朝イギリスの桂冠詩人アルフレッド・テニスン(Alfred Tennyson 一八〇九年~一八九二年:その美しい措辞と韻律から本邦でも愛読者が多い。私もその一人)が「アーサー王伝説」を元に書いたアーサー王や円卓の騎士たちが登場する「国王牧歌」(Idylls of the King)。十二の物語詩からなる。一八五六年から一八八五年の間に分割出版された。英文‘Wikisource’で全文が読める。

「こゝのLはサイレントで發音はサッダアですサッダアは TO TAKE APART の意です」「TO TAKE APART」は「離れて・離れること・ばらすこと」の意と思うが、「サッダア」はという単語を捜し得ない。

「ジョンブル」John Bull。「擬人化されたイギリスの国家像」或いは「擬人化された典型的イギリス人像」、「個々の保守的な典型的イギリス人」のこと。日本の「山田太郎」のようなもので、‘John’ はイギリス人に多い一般的な名で、‘Bull’は一般名詞では「去勢していない成長した雄牛・そのように大きくがっしりした男・強気な人物」を意味する。当該ウィキによれば、典型的なジョン・ブル像は、夜会服に半ズボン』に『ユニオンジャック柄のウェストコート(ベスト)の正装をした、中年太りの英国紳士で』『頭に着用している大きなトップ・ハットは』、『しばしば「ジョン・ブル・トッパー」として紹介される』とし(リンク先にカリカチャア有り)、『こうしたジョン・ブルのキャラクターは』一七一二年に『ジョン・アーバスノット』(John Arbuthnot 一六六七年~一七三五年:イギリスの医師で博物学者)『によって創作され、アーバスノットとガリバー旅行記の著者で友人のジョナサン・スウィフト、そして風刺家アレキサンダー・ポープらが手掛けた』パンフレット「Law is a Bottomless Pit」(「法律は底無しの沼」)に『掲載され』、『ついで』、『大西洋を渡ってアメリカの風刺漫画家トーマス・ナスト』(Thomas Nast 一八四〇年~一九〇二年:ドイツ系アメリカ人)『などによって一般に普及したと考えられて』おり、『ジョン・ブルのイメージは新聞の風刺漫画などでも用いられる』とある。見た目には、糞野郎のトランプそっくりだがね。

「ドヴロボルスキイ夫人」本文に出る通り、ソプラノ歌手。詳細不詳。

「SIGNOR」‘signor’はイタリア語で「~殿・~様」或いは「イタリア紳士」の意。

「バァナァドリーチ」イギリス人の画家・陶芸家バーナード・リーチ(Bernard Howell Leach 一八八七年~一九七九年)日本をたびたび訪問し、「白樺派」や「民芸運動」にも関わりが深い。「日本民藝館」の設立にあたり、柳宗悦に協力した。ロンドン留学中の高村光太郎と知り合って日本に共感と郷愁(幼年期に四年ほど在日していた)を抱くようになり、明治四二(一九〇九)年に来日して東京上野に居を構えた。この当時、彼は日本いたのである。

「シニヨーリナ」‘signorina’はイタリア語で「お嬢さん」。

「FREE THEATRE」先の「自由座」。

「ワシカ」「どん底」の登場人物で若い泥棒のワーシカ・ペーペル(Васька Пепел)。

「牡牛」前に出した‘John Bull’の‘Bull’に引っ掛けたもの。]

2021/03/04

明恵上人夢記 93

 

93

一、同七月【十七日。十九日。】、深き心を起して、「六時(ろくじ)の行(ぎやう)」を企(くわだ)つ。又、深く心に十心(じふしん)を起す。同廿日の夢に云はく、淸淨の綿を以て、多宇佐儀(たふさぎ)に懸けたり。又、一人の女房有りて、護身と爲して、予に近づきて語る。「夢に云はく、和尙の邊に糞穢(ふんゑ)の香(か)、有り。只、護身、爲(な)らざるのみに非ず。剩(あまつさ)へ、此の穢れたる相(さう)有り。」。心に慙(は)ぢて、之を思ふ【之を思ふべし。】。

[やぶちゃん注:時制推定は「90」の私の冒頭注を参照されたい。彼を取り巻く「糞穢の香」は私には、「90」夢に出た、彼を「渡りに舟」の人物として陰で利用せんと画策している当時の現実社会の仏教や政治家らの汚物臭と感じる。

「六時の行」六時は六分した一昼夜を指す(その中はまた、「昼三時」と「夜三時」に纏められ、「晨朝(じんじょう)」・「日中」・「日没(にちもつ)」を昼三時と、「初夜」・「中夜」・「後夜(ごや)」を「夜三時」と称する)。則ち、一切の有意なインターミッションを持たない一昼夜連続の過酷な行法を指す。

「十心」恐らくは、「十住心」(じふじゆうしん)の「秘密荘厳住心」、則ち、「真言の秘密の法門を悟る心を観想すること」を意味しているものと思われる。「十住心」は空海が宗教意識の発達過程を十種の心の在り方に分類したもので、㊀「異生羝羊住心」(動物のような低俗な本能に支配される凡夫の心)、㊁「愚童持斎住心」(人倫の道を守る程度の人の心) 、㊂「嬰童無畏住心」(人間界の苦しみを厭離(おんり)して天上の楽を求むるレベルの心) 、㊃唯蘊(うん)無我(住心五蘊(存在を構成する要素(色(しき)・存在一般を構成する作用・機能の様態である「受」(感受)・「想」(表象)・「行」(意志)・「識」(識別))の法は実在するものの、我(が)はないと覚知する声聞(しょうもん)の心) 、㊄抜業因種住心(人間の苦の根本体である原因を完全に除去せんとする縁覚の心) 、㊅他縁大乗住心 (人法の二我を離れて慈悲心によって衆生を救おうとする心) 、㊆覚心不生(ふしょう)住心(心の不生を覚る心) 、㊇一道無為住心(あるがままの真理をそのままに悟る心)、㊈極無自性(ごくむじせい)住心(真如が縁によって現れることを直ちに知る心)の九段階を経なければ、摑むことは出来ないとされる。

「多宇佐儀(たふさぎ)」これは底本のルビである。原題仮名遣は「とうさぎ」。漢字表記は「犢鼻褌」「褌」。直接に肌につけて陰部を覆うもの。「下袴(したばかま)」。古くは「たふさき」と清音であったか。褌(ふんどし)一丁のみの姿である。そこにぶら下げた「綿」とは何か? 判らない。浄化された明恵自身の胞衣か?

 

□やぶちゃん現代語訳

93

 同七月[明恵注:十七日及び十九日の両日。】、思うところあって、心に決意を立てて、「六時の行(ぎょう)」を企(くわだ)てた。また、深く、心中に「十心(じゅうしん)」に至らんことを起請した。

 それを成就し得たと思った、明けた同二十日、こんな夢を見た――

 私は清浄な綿を以って、褌(とうさぎ)に懸けている。

 そこに、一人の女房がいて、私の護身役として在り、私に近づいて、次のように語った。

「私(わたくし)、夢にあなたさまについてのお告げを受けました。それは、『和尚さまの周辺に糞穢(ふんえ)の絶え切れぬほどに臭い気(かざ)が満ちている』と。されば、私は、ただ、あなたさまの護身のため、それのみならず、この忌まわしき穢れている御仁の相(そう)のためにここにおるのです。」

と。

 夢の中にあって、私は、心底、恥じて、その事実を強く感じていた[明恵注:この「恥」をよく考えなくてはならない!]。

明恵上人夢記 92

 

92

一、六月の禪中に、兜率天上(とそつてんじやう)に登る。彌勒の寶前に於いて、金(こがね)の桶を磨きて沈香(ぢんかう)を之に入れ、一人の菩薩、有りて、予を沐(あ)ましむと云々。

[やぶちゃん注:時制推定は「90」の私の冒頭注を参照されたい。ここでやっと翌月に転じている。

「禪中」坐禅中の観想の内に見た覚醒型の夢想である。

「兜率天」仏教の宇宙観にある天上界の一つ。サンスクリット語「トゥシタ」の漢音写。漢訳では「上足」「知足」とする。欲界の六天(四王天・忉利天・夜摩天・兜率天・化楽天(けらくてん)・他化自在天)の中の第四天。ここには七宝でできた宮殿があり、宮殿には内院と外院があって、内院には弥勒菩薩が住んで説法を行なっている。外院には天衆の遊楽の場所がある。ここでの寿命は四千歳で、その一日は人間界の四百年に相当するとされる。また、仏伝では、釈迦は、ここから降下して摩耶夫人の胎内に宿って生誕したとされている。弥勒は釈迦入滅から五十六億七千万年後、この兜率天での修行を終えて如来となり、地上に下って末法世の果ての総ての衆生を済度するとされてもいる。なお、底本の注には、『『比良山古人霊託』には明恵が兜率天に往生したと語られている』とある。「比良山古人霊託」(ひらさんこじんれいたく)は鎌倉前期の延応元(一二三九)年五月十一日に元関白・左大臣九条道家(当時は既に出家している)が病いとなり、慶政(けいせい:一説に道家の兄とする)が加持祈祷のために道家の住む法性寺に赴いた。慶政が法性寺にある間に二十一歳の女房に「比良山の大天狗」の霊が憑依し、自らを藤原鎌足の以前の祖であると称し、五月二十三日から二十八日までの間に慶政と三度の問答をしたが、その問答を慶政が記録したものである。その内容は、天狗が現れた意図・道家の病いの原因と治療法・関係者や著名人の後世(ごぜ)・狗の世界の状況などに及んでいる。

「沈香」狭義にはカンボジア産「沈香木(じんこうぼく)」を指す。東南アジアに植生するアオイ目ジンチョウゲ科ジンコウ属 Aquilaria の、例えば、アクイラリア・アガローチャ Aquilaria agallocha が、風雨や病気・害虫などによって自分の木部を侵された際に、その防御策としてダメージを受けた部分の内側に樹脂を分泌する。その蓄積したものを採取して乾燥させ、木部を削り取ったものを「沈香」と呼ぶ。原木は比重が〇・四と非常に軽いが、樹脂が沈着することによって比重が増し、水に沈むようになることからかく呼ぶ。原木は幹・花・葉ともに無香であるが、熱することで独特の芳香を放ち、同じ木から採取したものであっても、微妙に香りが違うために、僅かな違いを利き分ける香道において「組香」での利用に適している(以上はウィキの「沈香」を参考にした)。]

 

□やぶちゃん現代語訳

92

 六月の禅観中の折り、こんな夢を見た――

 兜率天の天上へと登る。

 ありがたき弥勒菩薩の宝前に於いて、金で出来た桶(おけ)を、まばゆいばかり磨き上げた中に、沈香(じんこう)を入れ、一人の菩薩が来たって、私を、その沈香の香でもって、沐浴させて下さる……

 

2021/03/03

明恵上人夢記 91(二つの夢)

 

91

一、又、一人の若き僧有りて云はく、「先日、寶筐印陀羅尼(ほうきやういんだらに)を書きて賜はるべき由、申しき。書きて賜はるべし。」と云ふ。心に之を思惟(しゆい)す。其の後に、將に法衣を著(つけ)むとす。帶、少しき、しにくきに、此の僧、「借りて著(ちやく)せむ。」と欲するを、快くして、遮(さへぎ)らず。僧、感じて云はく、「御房、廣大なる心、まします也。」。頻りに之を感ず。

 又、夢に、南の尼御前有りて云はく、「佛を造りて給ふべき也。」。予、答へて曰はく、「何にしてか、造るべき。」。堪へざる由を稱す。夢の中に、彼(か)の人、現(うつつ)に存ずる由を思ふと云々。

[やぶちゃん注:時制推定は「90」の私の冒頭注を参照されたいが、そこでも書いたように、ここで明恵の母の姉らしき近親者が出るのも、「89」夢との関係に於いて、非常に重要であると私は思っている。

「一人の若き僧」私は一読して、「これは釈迦の若き日のそれではないか?」と思ったことを注しておく。

「寶筐印陀羅尼」釈迦が路辺の朽ちた塔(ストゥーパ)を礼拝し、「これこそ如来の全身舎利を集めた宝塔である」として、その塔の功徳などを述べた「宝篋印陀羅尼経」に説く陀羅尼。四十句からなる。

「思惟」この場合は、この若い僧僧に、私明恵が、今、宝筐院陀羅尼を書き与えてよいかどうか、ということを深く考えたことを指す。以下は、それを「諾」と明恵が判断し、さてもそれを書くための仕儀を整えていることを示すものと読める。

「借りて著せむ」私は若僧のこの僧が「私の致しておりますところの、この粗末な帯を、お貸し申し上げます」と申し出たものと思う。さればこそ、コーダが腑に落ちるからである。

「南の尼御前」底本の注には、『『明恵上人行状抄』には湯浅宗重女に「次女」とあり、この女性を指すか』とする。明恵の母は紀伊国の有力者であった湯浅宗重の四女であった(父は高倉上皇の武者所に伺候した平重国)。

「堪へざる由を稱す」とは、「南の尼御前」の本心である。とすれば、「南の尼御前」の事蹟を知り得ない我々にとって最も理解し易い真意は、実はこれは明恵自身の本音とは言えないだろうか? 前の「90」夢では、明恵は世間の自身への尊崇が単なる当時の状況下に於ける、如何にもいい加減なものに起因するものであることを語っていた(と私は思う)ことを考えれば、「堪えられない」のは明恵自身の正直な気持ちの外化された憤懣ではなかったか? と私は考えるのである。

「彼の人」記述上は「南の尼御前」を指すように思われるが、それでは、夢の中の明恵がわざわざ覚知することを言う必要がないと考える。少なくとも私自身の永年の夢記述の中にあってはこのような判り切った無駄な言い添えをするはずがないという確証を持っているからである。さすればこそ、第一夢との並置からみて、私はこれも「釈迦」であるように感ずるものである。]

 

□やぶちゃん現代語訳

91

また、こんな夢を見た――

一人の若い僧がいて、彼が言うには、

「先日、『「寶筐印陀羅尼」を書いて私に賜わる』と申された。されば、書いて賜はれたい。」

と。

 私は、静かに、そのことについて、その正否を心に思惟した。

 その後に、私はそれを「諾(だく)」と考え、それを自筆するために法衣を著ようとした。

 すると、私の用意した帯を廻(まわ)したところ、少しばかり、

『し難いな。』

と思った折り、この若い僧は、

「どうか。私の帯を借りて、お廻しなされよ。」

と切に望んだによって、私はそれを、すこぶる快く思い、断らなかった。

 すると、その若い僧は、いたく感じ入って、言ったのだ!

「御房! それ! 広大無辺なる心! ましまする!」

と。

 しきりに、私はそれに、心、撲(う)たれ、感じたのだ!

    *

 また、こんな夢を見た――

 南の尼御前がいて、言うことには、

「仏のお姿をお造り下さるようお願い申し上げます。」

と。

 私は、それに応じて、言った。

「何のために造らねばならぬのか?」

と。

 南の尼御前は、

「堪えられぬから!」

といった旨を語った。

 その時、私は、夢の中で、

「これは。『かの人』が、たまさか、私の夢の中に現われて示現されたのだ!」

ということを、心に深く感じたのであった……

 

明恵上人夢記 90

 

90

一、其の夜、夢に、常圓房【尼。】有りて云はく、「南都には、御事(おほんこと)を、『北京(ほくけい)の諸僧【山(ひえ)・寺(みゐ)等也[やぶちゃん注:それぞれの漢字への当て訓としてのルビである。]。】、尊重し奉る』とて歸敬(ききやう)し奉る。」と云ふ。心に思はく、『南都には、「北京に大事ある」とて大事にし、北京には又、「大事にせる一切の僧の中に尊重を蒙るべき」也。』と云々。

[やぶちゃん注:重大な「89」夢の続きであるのかも知れぬし、そうでない錯簡の可能性も疑われる。しかし、それを夢の内容から推理することは不可能である。しかし、河合氏のようなユング派であるなら、これを「89」夢と連関して解釈するのが普通ではないかと思うのだが、河合氏は何故か、これも、また、次の「91」(二つの夢記述のカップリングで、日附がなく、孰れも唐突に「又」で始まる)も全く採り上げておられない。フロイト派のような超自我の検閲が強力に夢に行われていると、考えるなら、寧ろ、やはり、「89」とも関連をつけた夢解釈が行われるようには思われる。但し、私は「89」夢の後に、「89」夢とは何の関係もない夢を連続して見ることは、最新の脳科学上から考えれば、何も奇異なことではないと感ずる人間である。夢は過剰になった記憶の整理のためにシステマティクに自動的機械的に脳の物理的機能として行われる現象であり、実は夢そのものには全く意味がないとするいう学説をも、私は決して否定しないからである。しかし、この夢、「其の夜」という指示語で始まること以外にも、やはり「89」との関連が私は激しく疑われると思われる箇所があり、河合氏が続けて考察されていないのを、実は不満に思っている。何故なら、登場するのが、明恵の姉妹である「常圓房」だからである。彼女は「65」に登場し、その夢を河合氏が明恵の夢の中でも特異点の夢の一つとして採り上げ、『唯一つ、彼の母と姉妹が出現している珍しい夢であ』り、『これは女性との「結合」を経験し、以後のより深い世界へと突入してゆこうとする明恵にとって、一度はその肉親に会うことが必要だったということであろう』とされ、『明恵の場合は』、『あるいは、慰めの意味で母』や姉妹『に会ったのであろう。母』と姉妹『は既に尼になっていて、仏門に帰依している。明恵は安心して深層への旅を志した』の『であろう』とまで述べておられるからである(リンク先ではソリッドに引用してある)。

「山(ひえ)」天台宗の比叡山延暦寺。

「寺(みゐ)」天台宗の三井寺、則ち、長等山(ながらさん)園城寺(おんじょうじ)。言わずもがなであるが、明恵は華厳宗である。]

 

□やぶちゃん現代語訳

90

 その夜、別に、こんな夢を見た――

 私の姉妹の一人である常円房【既に尼となっている。】がおり、私に言うことには、

「南の奈良にておきましは、あなたさまのことを、『北の京都の諸々の知られた僧徒[明恵注:言うまでもないが、比叡山・三井寺などの僧徒を指す。]は、皆、尊重し申し上げている』と言うて、仏・菩薩の如く、崇敬しておりますよ。」

と。

 しかし、私は心の中で思った。

『南の奈良に於いては、専ら、「北の京都には種々の現実上の直面する重大な問題がある」という観点から、「明恵は、暫く、大切にせねばならない」と考えているからに過ぎず、北の京都に於いては、これまた、「大事にしておかねばならない一切の僧徒の中でも、明恵は取り敢えず、現実上の諸問題を解決するために、特に尊重を蒙っても、まあ、しかるべき存在ではある」と考えているだけのことである。』

と……

 

怪談老の杖卷之二 貉童に化る

 

   ○貉童に化る

 是も上總への田舍にて、秋の頃、「すぐりわら」をするとて、そのくずわら、百姓の門口(かどぐち)にしきて、和(やは)らかなれば、童(わらは)どもの、あつまりて、「かへりごくら」をする事あり。

 あるとき、長太郞といへる童、弐、三人の友だちと、れいの「とんぼがへり」をして、餘念なく遊び居(をり)けるに、ひとりの童、きるものを、あたまよりかぶりて、貌(かほ)をかくし、ひたもの、

「くるり くるり」

中返りを、しけり。

 かの童ども、始(はじめ)は、

『友のうちなるべし。』

と何心なく居けるに、ものもいはず、貌もみえねば、

「誰(たれ)じや、誰じや。」

ととがめても、ものも、いはず。

『じやれてかゝる。』

と、おもひて、かぷりたるあはせを取らんとすれば、

「きゝ」

と、いひて、はなさず、皆、よりて、手をさしいれ、うでをとらへんとしければ、毛の、

「むくむく」

生ひたるに驚きて、

「ばけ物よ。」

と、さわぎければ、おとなしきもの共(ども)、立出(たちいで)て、棒など、持出(もちいだし)けるを見て、かの、あはせをかぶりしまゝにて、林の中へはい[やぶちゃん注:ママ。]入りけるを、

「それよ、それよ。」

と追かけければ、のちは、あはせをうちすてゝ、大(おほい)なるむじなの姿を、あらはして、ましぐらに、かけ行(ゆき)ける。

 かの長太郞、のちに、をとこになりて、堀留(ほりどめ)邊に奉公して居(をり)たるが、直(ぢき)にかたりぬ。

 かの男は、僞(いつはり)などいふものにあらねば、實事なるべし。

[やぶちゃん注:「貉」(むじな)は「狸」の意でとる。

「すぐりわら」農具に使う藁を選別すること。

「かへりごくら」不詳。しかし「こぐら」には「腓(こむら)」「ふくらはぎ」の意があり、直後に『れいの「とんぼがへり」』という表現が出るから、「蜻蛉返り」、宙返り前屈反転の遊びを言っているものと思われる。

「ひたもの」副詞。ひたすら。矢鱈と。

「じやれてかゝる」「戲(じゃ)れてかかりよって!」「悪(わる)ふざけして、戯(たわむ)れやがってからに! 堪忍なんらん!」といった苛立ちの表現。

「きゝ」既にして人ではない「もの」、獸(けもの)の声として発声している感じである。

「おとなしきもの共」大人の連中。

「堀留」現在の中央区日本橋堀留町一丁目付近か(グーグル・マップ・データ)。]

怪談老の杖卷之二 化物水を汲

 

   ○化物水を汲

 上總の浦方に、「大唐が鼻」とて、海の中へ、なり出(いで)し處あり。

 あるとき、房州鉢田といふ所より、出(いで)しふね、此處につけて、水をくみけるが、上の草野に井戶ありて、いとうつくしき女、水を汲み居(をり)けれぱ、そばへよりて、待居けるを、彼(かの)女、

「わたし、汲(くみ)て進ぜ申べし。」

とて、になひ桶に一荷(ひとに)、汲みいれけり。

 扨、荷ひて、船へ持行(もてゆき)ぬ。

「何方(いづかた)にて汲し。」

と問ひければ、

「此上の野中にて汲たり。よき井戶あり。よき娘もありて、くみてくれたり。女郞町にてもあるか。よき娘の、よき、きる物、きて、ものいひ・けはひ、常の娘にはあらず。」

と、いひけるを、船頭、きゝて、

「此上に、井戶も、なき筈(はず)なり。前方(さきがた)[やぶちゃん注:以前。]、此(この)はなにて、水くみにあがりし者、行方(ゆきがた)なくなりし事あり。はやく、船を出(いだ)せ。『あやかし』なり。」

と、さはぎければ、

「としや、おそし。」

と、船を漕出しけるに、はや、かの娘、來りて、海の中へ、飛こみ、およぎ來(きた)るを、櫓にて、なぐりければ、櫓へ、かぢりつきしを、たゝきはなして、

「ゑい。」

聲を出(いだ)し、こぎのけて、にげけり。

「かしこくも、船頭、心づきて、はやく船を出しける程に、皆々、いのちを助かりけり。左なくば、あやふかるべき事なり。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:標題は「化物(ばけもの)、水を汲(くむ)」。

「大唐が鼻」現在の千葉県長尾郡太東岬(たいとうみさき)と考えられる(グーグル・マップ・データ)。

「鉢田」不詳。太東岬の北方に「八田」や「八日市」の地名があるが、現在のこれらは海浜部の地名ではない。候補地があれば、御教授願いたい。

「ゑい」感動詞で、力を込めたり、勇気を奮い起こしたり、決断したりしたときに発する語であるが、歴史的仮名遣は「えい」でよい。底本は無論、「ゑい聲」であるが、臨場感を出すために、かくした。

「あやかし」は現行では一般に「不思議なこと・妖怪」の意で汎用されるが、本来は「船が難破する際に海上に現れるという化け物」を指し、ここでは正統な使用法である。

「としや」不詳。「疾(と)しや」で、「早く! 早く!」の意か。

「こぎのけて」「漕ぎ退(の)けて」。辛くも漕ぎ退(しりぞ)けての意であろう。]

怪談老の杖卷之二 くらやみ坂の怪

 

   ○くらやみ坂の怪

 くらやみ坂の上にある武家屋敷にて、あるとき、屋敷の内の土、二、三間(げん)[やぶちゃん注:四メートル弱から五メートル半。]が間(あひだ)、くづれて、下のがけへ落たり。

 そのあおより、石の唐櫃(からびつ)、出(いで)たり。

 人を葬(はふり)し石槨(せきかく)なるべし。

 中に矢の根[やぶちゃん注:鏃(やじり)。]などの、くさりつきたるもの[やぶちゃん注:「腐り盡きたる物」。]、されたる[やぶちゃん注:「曝れたる」。長い間、風雨や太陽に曝されて、色褪せて朽ちたことを言う。「されこうべ」「しゃれこうべ」のそれである。]骨などありしを、また脇へ埋(うづみ)ける。

 そののち、その傍(かたはら)に井戶のありけるそばにて、下女二人、行水をしたりしに、何の事もなく、ふたりともに氣を失ひ、倒れ居(をり)たるを、皆々、參りて、介抱して、心つきたり。

「兩人(りやうにん)ながら、氣を失ひしは、いかなる事ぞ。」

と、いひければ、

「わたくしども兩人にて、湯をあみおり候へば、柳の木の影より、色白く、きれいなる男、裝束(しやうぞく)して、あゆみ來り候。恐しく存候(ぞんじさふらふ)て、人をよび申(まう)さんと存候計(ばかり)にて、あとは覺へ[やぶちゃん注:ママ。]申さず。」

と、口をそろへて、いひけり。

 其後(そののち)、主人の祖母、七十有餘の老女ありけるが、屋敷のすみにて、

「草を摘まん。」

とて、出行て、みへず。

「御ば樣の、みへ[やぶちゃん注:ママ。]給はぬ。」

と、さはぎて、尋ねければ、藏のうしろに、倒れて、死(し)し居(をり)ける。

 其外、あやしき事ありしかば、祈禱など、いろいろして、近頃は、さる事もなきやらん、沙汰なし。

 たしかなる物語なり。

[やぶちゃん注:「くらやみ坂」この名の坂は江戸市中には、複数、存在する(ウィキの「暗闇坂」を参照)が、ここはまず、最も知られた東京都港区麻布十番二丁目から元麻布三丁目方面に上る「暗闇坂(くらやみざか)」であろう。別名「くらがり坂」。また、元の地名(麻布宮村町)から「宮村坂」とも称され、嘗ては「暗坂」とも表記された。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

怪談老の杖卷之二 狐鬼女に化し話

 

   ○狐鬼女に化し話

 麹町十二丁目、大黑屋長助といふ者の下人に、權助とて、十七、八の小僕あり。

 或時、大窪百人町の御組(おんくみ)まで、手紙をもちて行(ゆき)、返事を取りて歸りけり。

 はや、暮に及び、しかも、雨、つよくふりければ、傘をさし來りけるに、先へ立(たち)て、女のづぶぬれにて行(ゆく)ありければ、

「傘へ、はいりて御出被ㇾ成(おいでなされ)よ。」

と、聲をかけて、立より、其女の顏をみれば、口、耳のきわ[やぶちゃん注:ママ。]までさけて、髮かつさばきたるばけ物なり。

「あつ。」

と、いふて、卽座にたふれ、絕入(たえいり)けり。

 その内に、人、見つけて、

「たをれものあり。」[やぶちゃん注:ママ。]

とて、所のものなど、立合ひ、吟味しければ、手紙あり。

 まづ、百人町のあて名の處へ、人を遣はしければ、さきの人、近所など、出合(いであ)ひて、氣つけを用ひ、

「なにゆへ氣を失ひし。」

と尋ねければ、右のあらましを語りしを、駕(かご)にのせ、麹町へおくり返しぬ。

 よくよく恐ろしかりしとみへて[やぶちゃん注:ママ。]、上下の齒、ことごとく、かけけり。

 夫より、あほうの樣になりて、間もなく、死にたり。

「大久保新田近所には、きつねありて、夜に入れば、人をあやなす。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:標題は「狐(きつね)、鬼女(きぢよ)に化(ばけ)し話」。都市伝説「口裂け女」の江戸版。

本篇は既に「柴田宵曲 續妖異博物館 雨夜の怪」の注で電子化しているが、今回は零からやり直した。

「麹町十二丁目」現在の千代田区麹町・平河町附近(グーグル・マップ・データ)。

「大黑屋長助」不詳。

「大窪百人町」後にある通り、「大窪」は「大久保」に同じい。現在の新宿区百人町一丁目から三丁目及び大久保三丁目相当(グーグル・マップ・データ)。よくお世話になる「江戸町巡り」の「百人町」によれば、『西大久保村の西に位置』し、『町名は近世、徳川氏の家臣・内藤清成が率いていた伊賀組百人鉄砲隊の同心屋敷地で、「大久保百人組大縄屋敷」、「大久保百人大縄屋敷」、「百人組大縄給地」、「百人組同心大縄地」等と俗称された場所であったことに由来する。はじめは陣屋形式の屋敷であったが』、寛永一二(一六三五)年から万治三(一六六〇)年『頃までに間口が狭く、奥行きの深い武家屋敷となった。俗に「南町(南百人町)」、「仲町(中百人町)」、「北町(北百人町)」と称する』三『本の通りがあった』。『江戸時代、幕府の下級武士たちは同じ職務で集団を作っており、これを「組」と呼んだ。当時、鉄砲を持って戦いに出た集団・鉄砲組の中で「同心」と呼ばれる武士たちが百人ずついた組を「百人組」といい、大久保の鉄砲百人組もこれにあたる。同じ組に属する者は纏まって屋敷を与えられたが、大久保の鉄砲百人組の屋敷のあったところが、ほぼ現在の百人町一丁目から三丁目にあたる』。『百人組は江戸の街の警護を担当した。その鉄砲術が江戸でも』、一、二『を争うほどの腕前であったという。JR新大久保駅前にある皆中稲荷』(かいちゅういなり:「総て中(あた)る」の意である)『はそれに因んでいる。嘗ては同じ由来を持つ青山百人町、市谷の根来百人町も存在したが、町名の統廃合で姿を消し、当地に大久保百人町に相当する地名が残るのみである』。『平和な江戸時代、警護以外に仕事は殆どなく、鉄砲隊は部下を食べさせていくために副業を行う必要があり、躑躅の栽培に手を出したところ、それが人気を得て、当町は躑躅の名所となった』とある(歴史の解説はもっと詳しく、戦国から近代にまで及んでいる。必見。

「大久保新田」不詳。そもそも大久保地区の北(百人町の北)は江戸時代には狭義の江戸御府内の外縁に当たり、意想外の田舎であった。「今昔マップ」を見ても、明治時代には原野である。]

2021/03/02

怪談老の杖卷之二 生靈の心得違

 

   ○生靈の心得違

 世に死靈の生(いき)たる人に取(とり)つきしはあれど、爰に、めづらしき物語あり。

 生たる人、死人にとりつきたりといふは、此物語なるべし。

 戶田家の家中なりしと聞り。

 ある侍、妻におくれて、又、後妻を迎へけるが、隨分、挨拶柄もよく、波風なく暮しける。

 ある夏、土用ぼしをしたりしに、歌書などの寫したる、又、かきすてし反古(ほうご)、詠み歌などの詠草の、よくつゝみたるなど、出けり。

 女筆(をんなふで)にて、ことにうつくしく、かきなせり。

 後妻、夫に尋けるは、

「是は、何人(なんぴと)の書(かき)給ひしにや。扨も、扨も、かはゆらしき筆のすさみかな。」

と、目がれもせず、ながめけるを、

「それは。十二日の佛の手なり。よからぬものを出(いだ)し給へり。」

とて、取あげける。

 十二日は、先妻の銘日[やぶちゃん注:「命日」の誤記。]也。

 つま、いふ樣(やう)は、

「扨も、かく手跡といひ、志しといひ、こゝろある御方(おかた)なりとは、今まで、終に御物語もなし。御心(みこころ)、ふかき御事かな。さだめて、わらはが心、よかるまじきと思召(おぼしめし)て、御物語なきものならん。扨も、扨も、世には、かやうなるはつめいなる女中もあるに、わたくしなど、かやうにかたくなものは、御心にもいらぬはづなり。」

など、たはぶれのやうにいひけるが、そのけしき、露(つゆ)もねためる樣子なく、誠に亡妻の手跡を、おもひ入(いり)たるさまなり。

 その夜、閨(ねや)に入りても、妻の方より、晝の事、いひ出して、

「さても、前の御新造(ごしんぞ)さまは、賢女なるべし。さぞ、何か、御(おん)しほらしかりし御(お)はなしもあるべし。きかさせ給へ。」

など、うらなく云ひかけられて、日頃、心には絕(たえ)ざれども、後妻にむかひ云ひ出(いだ)すべき筋にもあらねば、心ひとつ、むかしを忍び過(すぐ)し來りしを、かく、後のつまの心ありていふ一言(ひとこと)に、おもはず、口をむしられて、

「かくいへば、いかゞなれど、ことの外、おとなしき生れにて、何事も立ちいらぬさまに、ものはぢして、うち見には、いとおろかなる樣にて、手かき・歌よみ・茶の湯などいふ事まで、心えぬ事なく、しかも、いさゝか、そのけはひ、みせし事なく、歌など書たる時、行(ゆき)かゝりても、ふかく、かくして、顏、うちあかめ、ありけるまゝに、

『さぞかし、手前細工にて、よみ習ひたらん歌、さぞあるべし。なまじゐに見あらはして、はぢがはしくおもはせんも、せんなき事。』

と、おもひて、見ずにやみし事、度々なるが、死してののちは、この、そこにかきおける詠草などをみれば、いにしへの作者にも、おとらず。世にありし時、是をしらば、よき友ひとりまうけし心地すべきを、殘りおほき事なり。さて、かく、よき事に才覺なる計(ばかり)にあらず。朝夕の家のをさめ方、つづまやかにて、三味せん・淨瑠璃の『ばさら事』などは、夢にもしらず、只、けんやく・しつそを本(もと)として、召仕ふものにも、なさけふかく、細工は何にてもしたり。[庖丁もきゝて]、料理も、同役などの夜ばなしなどに、ちょとした吸物などにても、手をうたせる程の事にてありし。しかし、色めきしかたはなくて、平生、我ら、きのつまる樣なる生れなりしが、いかなる事にや、かりふしにいひけるやうは、

『わたくし、此世になくなり候とも、もはや、こと人をむかへ給ふ事は、かならず、かならず、被ㇾ成(なされ)まじ。もし左樣なる事、なされ候はゞ、御恨(おうらみ)申べし。』

など、いひしが、是ばかりは、氣質とは相違して、

『みれんなる事を、いひし。』

と、いまにおもへり。その外は、夫婦の中にても、禮義、たゞしく、われら、酒などのめば、度々、いけんしたり。そなたと同じ事にて、下戶(げこ)にてありしが、芝居は嫌ひなるは、また、そなたとは違(たが)ひし所もあり。」

など、いひ出(いあだ)しては、とめどもなく、我を忘れて、もの語りせしをきゝ居たりしが、女房、ためいきを、

「ほつ。」

と、つきて、何とやら、風(かぜ)なみ、あしくなりけれぱ、『それよ』と、心づきて、外(ほか)のはなしに、まぎらしぬ。

 そののち、ふと、

「風(かぜ)の心ち。」

とて、打ふしてより、次第におもり、食事、すゝまず、只、やせに、やせける。

 醫師も、

「氣の方(かた)なり。」

と、いひ、見分(みわけ)も氣病(きびやう)と、みへければ、さとは濱町なれば、時分柄、屋形舟(やかたぶね)などもおほく行(ゆき)かふに、

「補養の爲。」

とて、舅(しうと)の方(かた)へ出しけるが、次第に、病氣、おもりければ、心ならず、あんじありける折ふし、旦那寺深川の淨滿寺といふ禪寺より使僧あり。

「和尙の手紙。」

とて、さし出すをみれぱ、自筆にて、

「ちと、密々に御目にかゝり度(たき)事候間、今日中、御出。」

との文言なり。

 幸(さいはひ)、非番なれば出行(いでゆき)しに、和尙、下間(したのま)へ、まねき、いはれけるは、

「今日(けふ)申入れし事は別儀にてもなし。此間、每夜、卵塔へ『光り物』、とび來(き)候(さふらふ)て、墓處のうちへ落ち候由、寺僧共(ども)申(まうす)に付(つき)、昨夜、卵塔に相(あひ)まち、拙僧、直(ぢき)にためしみ候へば、成程、人魂ともいふべき光りもの、とび來りて、そこ元(もと)御亡妻(おんばうさい)の墓所の上にて、消へ候と[やぶちゃん注:「さふらへど」か。]、はか内(うち)、『どろどろ』と、なり[やぶちゃん注:「鳴り」]候事、しばしの間にて、また、かの光り、とび出て、歸り候。尤(もつとも)、一夜の内、二度程もまいるとき、あり。まづ、一度は、かけ不ㇾ申(まうさず)[やぶちゃん注:一夜に一度は必ず来て、来ないときはないということ。]。あまり、ふしぎに存候間(ぞんじさふらふあひだ)、そと、貴樣へ御咄(おはなし)申(まうす)なり。何ぞ、思召(おぼしめす)あたりは、なく候や。」

と問ければ、しばらく思案して、

「それは、何方(いづかた)より。」

と問へば、

「まづ、河より、西の方と存候。」

と、いふ。

「扨々、驚入(おどりいり)候。尤、貴僧樣の御ことばを疑ひ申にてはなく候へども、今晚にも、私(わたくし)、今一應、相糺(あひただ)し度(たし)。」

と、いひければ、

「御尤なる事なり。宵より、御こしありて、御談(おはなし)あるべし。出申(いでまう)さぬとても、愚僧、いつはりを申べき道理なし。かならず御越あるべし。」

と約して歸り、とかくはからひて、暮六ツ過[やぶちゃん注:土用干しから夏・秋として、不定時法で午後六時半から午後八時前と思われる。]より宿を出、深川の旦那寺へ行ぬ。

 和尙よりも、

「同宿にても差(さし)おくべし。」

と、いはれけれど、

「存(ぞんじ)よりあれば。」

とて、只、壹人(ひとり)、しきものをしきて、夜の更(ふけ)るをまちけるに、九ツ[やぶちゃん注:定時法で午前零時。]の鐘、なるより、

「すは。時刻ぞ。」

と、片づをのみ[やぶちゃん注:「固唾を吞み」。]、守り居(をり)けるに、光り、

「はつ」

と飛來りて、墓の上にて、きゆるとひとしく、墓のうち、土中、なりさはぎて、

「ごとごと」

「どろどろ」

と、人などの、くみあふ樣(やう)なる音するに、

「そこは。あやしや。」

と、身がまへして、待ちけるに、一とき[やぶちゃん注:二時間。]計(ばかり)すぎて、

「まつぷたつに。」

と、切付(きりつ)ければ、手ごたへして、火は、消へうせぬ。

「妖怪の所爲(しよゐ)なるべし。」

と、月影に、そこらあたりを尋ねけれど、何もなし。

 刀をみれば、のり[やぶちゃん注:血糊。]、つきたり。【蜀山、按(あんずるに)、田にし金魚所ㇾ著(あらはすところの)、「妓者呼子島(げいしやよぶこじま)」の趣向は、是に本づきて差出(さしいだ)しもなるべし。乙亥七月廿七、記(しるす)。】旁(かたはら)、ふしんはれねど、寺僧へ斷り、

「成程、椙違なき段、見屆(みとどけ)申(まうし)たり。拙者は屋敷へ罷歸(まかりかへり)候間、またまた、かはる事あらば、御人(おひと)、被ㇾ下べし。」

とて、いそぎ、やどへ歸られ、とくと、思案して見けれども、合點ゆかず、心をいため居(を)る處へ、

「はま町より、使、來りたり。」

といふ間、心ならず立出、

「病人は、いかゞあるぞ。」

と尋ねければ、

「御かはりもなし。」

と、いふ。

 まづ、安堵して、書狀をみれば、

「密(ひそかに)申送り候 吟(ぎん)[やぶちゃん注:後妻の名。]事(こと) 殊の外 とりつめ候間 いそぎ御越」

との文體(ぶんてい)。

 驚き、早速、頭(かしら)へ屆けて、見舞(みまは)れければ、はや、しうとめなどは、なき、たをれ、召仕ひの女なども、みな、なみだを目にもちて居るにぞ、

『はや、埒は明(あけ)たり。』

とおもひ、奥へ通りければ、あるじ、一間へよびて、

「扨、吟、事も、養生、相(あひ)かなはず、相はてたり。夫(それ)につき、何とも、合點ゆかざる臨終ゆへ、早速、貴殿を呼よせたり。昨日は、いついつよりも、少(すこし)快よく候ひしが、例のごとく、四ツ過[やぶちゃん注:定時法(以下同じ)で午後十時過ぎ。]より、正體なく寐入り、我々も、少々、まどろみしに、八ツ時分[やぶちゃん注:午前二時。]とおもふ頃、

『あつ。』

と、おそはるゝ樣にてありし間、さつそく、立よりてみれば、あへなく、事きれたり。その體(てい)、甚(はなはだ)以(もつて)あやし。先(まづ)、是を見給へ。」

とて、夜着をとり、みせられければ、後(うしろ)のかたさきより、胸板へかけて、切(きり)つけたる、刀きづなり。

 夫も、默然と、さしうつむき、しばし、思案しけるが、

「なる程。けうなる義なり。夫(それ)には、夜前、ケ樣(かやう)々々の次第あり。定(さだめ)て、妻が嫉妬の心より、たましゐ[やぶちゃん注:ママ。]、身をさりて、妖怪をなせしなるべし。以(もつて)の外の義なり。扨々、不便(ふびん)の次第なり。後悔、くやみて、歸らず。」

と語られけるにぞ、舅も、我ををりて、菩提所へも其趣(おもむき)、相(あひ)たのみ、はふむりもらひ、跡をば、念比(ねんごろ)にとぶらひける、といへり。

 享保七年の事なり。

[やぶちゃん注:オリジナリティのある怪談であるが、何か、曰く言い難い切なくなる、誰(たれ)も実は悪くない、故にこそ、哀しい話ではないか。

「戶田家」江戸時代の戸田家は大名・旗本及びそれらに仕えた家士に多い。ウィキの「戸田氏」に詳しい。

「筆のすさみ」「筆の遊び」。気持ちよく肩肘張らぬ慰みのための詠歌の遊び。

「目がれ」見飽きること。

「十二日」旧暦の夏の土用は立秋の前の約十八日間に相当する。

「かやうなるはつめいなる女中」「斯樣なる發明なる女中」。女中は女性。

「御新造」他人の妻の敬称。古くは、武家の妻、後には富裕な町家の妻の敬称となった。特に新妻や若女房に用いた。

「しほらしかり」「慎み深く、いじらしい」・「かわいらしく、可憐な」・「けなげで殊勝な」・「上品にして優美な」。ハイブリッドの意でよい。

「うらなく」真心から。妙なかんぐりどは一切なく。

「心には絕ざれども」心の中では亡き妻への思いは決して忘れることがなかったのだけれども。

「心ひとつ」ただ独り、己れが心の内に秘めて。

「口をむしられて」そうした、言わんかたない秘めた思いを掻きたてられて。

「ばさら事」「婆娑羅」元は「放逸・放恣」であるが、ここは広義の「見るからに派手なこと」の意。

「庖丁もきゝて」庖丁の扱いも上手く。

「風(かぜ)なみ、あしくなりけれぱ」聴いている後妻の気持ちの風向きが怪しくなったように感ぜられたによって。

「見分(みわけ)も氣病(きびやう)と、みへければ」はたから素人目で見ても、身体の病いではなく、心の不調(心気症)に見えたによって。

「濱町」現在の東京都中央区日本橋浜町(グーグル・マップ・データ)。隅田川右岸で両国・深川の対岸。

「深川の淨滿寺」不詳。近似した名の寺も見当たらない。これは痛く残念である。

「河より、西の方」まさに浜町は深川の西北に当たる。

「出申(いでまう)さぬとても」万一、今宵に限って、光り物が現われなかったとしても。

「同宿にても差(さし)おくべし」屋敷内の御家来衆のをも、さし添えて連れ来らるるが宜しいでしょう。

「存(ぞんじ)よりあれば」「思うところの御座ればこそ。」。

「しきもの」座るための敷物。

「そこは。あやしや。」「そこ」は「其處」ではなく、「それこそ」で一種の感動詞的用法であろう。「何んということかッツ!?! 怪しきことぞッツ!!!」。

「【蜀山、按(あんずるに)、田にし金魚所ㇾ著、妓者呼子島の趣向は、是に本づきて差出(さしいだ)しもなるべし。乙亥七月廿七、記(しるす)。】」本書最初の注で述べた通り、本書の元は御家人で勘定所支配勘定にまで上り詰めた幕府官僚にして文人であった大田(蜀山人)南畝の旧蔵書「平秩東作全集」の下巻の一部と考えられ、彼自身が書き添えた割注である。「田にし金魚」田螺金魚(たにしきんぎょ 生没年不詳)は江戸中期に活躍した戯作者。江戸神田白壁町居住の医者鈴木位庵のペン・ネームともされるが、不明。別号に「田水金魚」「茶にし金魚」。「妓者呼子鳥」は彼の処女作で、安永六(一七七七)年板行。ウィキの「田螺金魚」によれば、『町芸者の生活に取材し、実在のお豊・お富の名前を借りて、芸者』二人と客一人の『三角関係を描いた作品。誤解によって女性を殺した男性が自害したり、女の生霊が女の死霊を苦しめたりと、伝奇的要素が強い』とある。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらと、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらに当寺の版本原本があるが、なかなか読み取る気には私はなれない。「乙亥」(きのとゐ/いつがい)は宝暦五(一七七五)年。

「頭(かしら)」彼の勤仕する上役である役頭。

「けうなる」「稀有なる」。

「享保七年」一七七二年。]

南方熊楠 厠神(PDF縦書ルビ版) 公開

「南方隨筆」底本の「厠神」のPDF縦書ルビ版を、サイトの「心朽窩旧館」に公開した。

「南方隨筆」底本 南方熊楠 厠神

 

[やぶちゃん注:「厠神」(かはやがみ)は大正三(一九一四)年五月発行の『人類學雜誌』二十九巻五号初出(リンク先は「J-STAGE」のPDF)。冒頭に出る、熊楠が触発された出口米吉氏の方の論考「厠神」はこれに先立って既に電子化してあるので、まずはそちらを読まれたい。

 本篇は、素人の私がさっと見ても、漢籍や経典引用の部分にはかなりの不審があり、ちょっと調べただけで多くは漢字の誤字であることが判った。一部は当該原文を探して確認し、或いはそれと並行して初出及び平凡社「選集」と対照し、正しい字を補ったり、訂したりしたが、それをいちいち指示するのは五月蠅いだけなので、原則、それらは注していない(かなりひどい。数十ヶ所に及んでいる。「人彘」を「人厠」と誤植したのを見た時は全身が脱力した)。但し、本篇は漢文原文の引用が訓点無しで、ごっそりと挿入されており、後注で読むとなると、読者自身が甚だ面倒に感じられると思うたので、特異的に当該漢文の後に訓読文を太字で挿入した。訓読には訓読されている「選集」を参考にはしたが、従えない読みが多く、私の我流で読んだ部分が殆んどである。本文のみに挑戦されたければ、太字を抜かして読まれればよい(但し、経文のそれは一部の漢字がかなり難読である)。訓読でも難解或いは意味不明な部分は後に注してある。書誌データの一部も「選集」で訂してある(これも特に指示はしていない)。

 

      厠       神

 

 自分の抄錄中より出口君の所輯(二九卷一號)を補はんに、君が玉手襁より引かれし、流行眼病を厠神に祈ること今も紀州にあり、田邊々には、眼病流行の際厠前に線香を焚き兩側に小き赤旗を樹て[やぶちゃん注:「たてて」。]祈り、又家內の人數程小き赤旗を作り厠壁に插し祈れば、かの病に罹らずと云ふ、厠神盲目なる故其爲に厠を掃除すれば神悅ぶ、孕婦[やぶちゃん注:「はらみめ」。]屢ば手づから掃除すれば美貌の子を生むと傳ふ、諸經要集卷八下、福田經云、佛自攝宿命所行、昔我前生爲婆羅奈國、近大道邊安設圊厠、國中人衆得輕安者莫不感義、緣此功德世々淸淨、累劫行道穢汚不汙、金色晃昱塵垢不著、食自消化無便利之患[やぶちゃん注:「『福田經』に云はく、『佛、自(みづ)から宿命の行(ぎやう)ずる所を說(と)くらく、「昔、我、前生(ぜんしやう)に婆羅奈(はらな)國の爲めに、大道の邊(ほとり)に近く、圊厠(せいし)[やぶちゃん注:「圊」も厠に同じい。]を安じ設(まう)く。國中の人衆、輕安を得る者、義に感ぜざる莫し。此の功德に緣りて、世々、淸淨なり。劫(こう)を累(かさ)ねて、道(だう)を行(ぎやう)じ、穢染(ゑぜん)も汙(けが)さず、金色(こんじき)、晃昱(くわいく)として塵垢(ぢんこう)も著かず、食、自(おのづ)から消化し、便利の患(わづらひ)無し」と。』。]、是は厠を立て公衆に便せし福報を述たるなれど、由來除糞人を極て卑めし印度にも不淨の掃除を必要とせしは、賢愚經に、除糞人尼提出家を許され得道せし事、除恐災患經に無類の美妓奈女前身塔地の狗糞を除きし功德もて、後身每に[やぶちゃん注:「つねに」。]胞胎臭處より生れず花中より生まれしことを記せり、四十年計り前和歌山で聞しは、厠神一手で大便、他の一手で小便を受く、如し[やぶちゃん注:「もし」。]人、厠中に唾吐けば不得已[やぶちゃん注:「やむをえず」。]口もて之を受く、故に厠中に唾吐けば神怒ると、又傳ふ、厠神盲[やぶちゃん注:「めしひ」。]にして人に見らるゝを忌めば、厠に入る者必ず燈を携え[やぶちゃん注:ママ。]咳して後入るべしと、是れ、其作法出口君が上の四一頁に引ける朝鮮の風に同じ[やぶちゃん注:「四一頁」は「三一頁」(初出4コマ目)の誤りではないか。しかし、空咳することは書かれておらず、物理的に必ずしも必要でない燈を灯すのは中国の風俗として出、朝鮮ではない。]、毘尼母經に、若上厠去時、應先取籌草至戶前、三彈指作聲、若人非人、令得覺知[やぶちゃん注:「若(も)し、厠に上り去(ゆ)く時は、應(まさ)に籌草(ちうさう)を取りて戶前に至り、三たび彈指(だんし)して聲を作(な)すべし。若し、人にても、非人にても、覺知するを得せしむ。」。]と有れば印度にも古く厠に入る前聲を發して人と鬼神に知しむる敎有りし也、雜譬喩經[やぶちゃん注:「ざつひゆきやう」。]に有一比丘、不彈指來、大小便臢汙中鬼面上、魔鬼大恚、欲殺沙門云々、[やぶちゃん注:「一比丘、有り。彈指して來たらず、大小便、中鬼の面上を臢汙(さんを)す。魔鬼、大いに恚(いか)りて、沙門を殺さんと欲すと云々。」。]大灌頂神呪經に厠溷中鬼[やぶちゃん注:「しこんちゆうき」。厠に巣食う悪鬼の名。「溷」も「厠」に同じい。]を載せ、卷七に噉人屎尿鬼[やぶちゃん注:「たんじんしにねうき」。同前の類いで、「人の屎(くそ)や尿(いばり)を好んで噉(くら)う鬼」の意。]を載す、正法念處經十六に、男若女、慳嫉覆心、以不淨食、誑諸出家沙門道士、言是淸淨、令其信用而便食之、或時復以非處應食、施淨行人、數爲此業、復敎他人、令行誑惑、不行布施、不持禁戒、不近善友、不順正法、樂以不淨而持與人、如是惡人、身壞命終、生惡道中、受于㖉托餓鬼、(魏言食唾)爲飢渴火、常燒其身、于不淨處、若壁若地、以求人唾、食之活命、餘一切食、生不得食、乃至惡業、不盡不壞不朽、故不得脫云々、若生人中、貧窮下賤、多病消瘦、鼻齆膿爛、生除厠家、或于僧中、乞求殘食、以自濟命[やぶちゃん注:「男、若しくは、女にして、慳嫉(けんしつ)もて心を覆(ふさ)ぎ、不淨食を以つて、諸出家・沙門・道士を誑(あざむ)き、『是れ、淸淨なり』と言ひて、其れ、信用せしめて、便(すなは)ち、之れを食はしめ、或る時は、復た、應に食ふべき處に非ざるものを以つて、淨行(じやうぎやう)の人に施し、數(しばし)ば此の業(おこなひ)を爲し、復た、他人をして、誑惑(きやうわく)を行ひせしめ、布施を行はせず、禁戒を持させず、善友に近づかせず、正法(しやうほふ)に順はざらしめ、不淨を以つて人に與ふを持つて樂しむ。是(かく)のごとき惡人は、身、壞(く)え、命、終らば、惡道の中(うち)に生じ、托餓鬼(きたがき)(魏にて「唾(つば)を食(の)むこと」を言ふ[やぶちゃん注:「托」の注。])の身を受く。飢渴の火の爲めに、常に其の身を燒かれ、不淨の處、壁、若しくは、地にありて、以つて人の唾を求め、之れを食みて命を活(い)かす。餘(ほか)の一切の食は、生(しやう)、食らふを得ず。乃(すなは)ち、惡業に至りて、盡きず、壞(く)えず、朽ちず。故に脫するを得ず云々。若(も)し、人中に生まるるも、貧窮にして下賤、多病にして消(おとろ)へ瘦せ、鼻、齆(ふさが)り、膿み爛れ、除厠(くみとり)の家に生まれ、或いは僧中に、殘食(ざんぱん)を乞ひ求め、以つて自(みづ)から、命を濟(たす)くのみ。」。]と云ひ、如此衆生、貪嫉覆心、或爲沙門、破所受戒、而被法服、自遊衆落、諂誑求財、言爲病者、隨病供給、竟不施與、便自食之、爲乞求故、嚴飾衣服、遍諸城邑、廣求所須、不施病者、以上因緣云々、生阿毘遮羅(疾行)餓鬼之中、受鬼神已、于不淨處、噉食不淨、常患飢渴、自燒其身、若有衆生、行不淨者、如是餓鬼、則多惱之、自現其身、爲作怖畏、而求人便、或示惡夢、令其恐怖、遊行冢間、樂近死屍、其身火燃、煙炎俱起、若見世間疫病流行、死亡者衆、心則喜悅、若有惡咒、喚之則來、能爲衆生、爲不饒益、其行迅疾、一念能走百千由旬、是故名爲疾行餓鬼、凡世愚人、所共供養、咸皆號之、以爲大力神通夜叉、如是種々、爲人殃禍、令人怖畏、乃至惡業不盡不壞不朽、故不脫得云々、若生人中、生呪師家、屬諸鬼神、守鬼神廟、[やぶちゃん注:「此くのごとき衆生、貪嫉もて心を覆ぎ、或いは沙門と爲るも、受くる所の戒を破り、而して法服を被(かぶ)りて、自(みづ)から衆落に遊び、諂(おもね)り誑(あざむ)きて財を求め、『病者の爲めに、病に隨ひて、供給す』と言ひて、竟(つひ)に施與せず、便(すなは)ち、自(みづ)から之れを食らふ。乞ひ求めんが爲め故に、衣服を嚴飾(ごんしよく)し、諸城邑(しよじやういう)を遍(めぐ)りて、廣く須(もと)めらるるを求め、病者に施さず、以上の緣に因りて云々」。「阿毘遮羅(「疾く行く」。)餓鬼(あびしやらがき)に生まれ、鬼身を受け已(をは)りて、不淨の處にて、不淨を噉ひ食ひ、常に飢渴に患(くるし)み、自(みづ)から其の身を燒く、若し、衆生の不淨を行ずる者有れば、是のごとき餓鬼、則ち、多く、之れを惱まし、自(みづ)から其の身を現じ、爲めに怖畏を作(な)して、而して人の便(すき)を求(うかが)ひ、或いは惡夢を示し、其れを恐怖せしめ、冢(つか)[やぶちゃん注:墓場。]の間を遊行しては、死屍に近(したし)むを樂しみ、其の身は火と燃え、煙・炎、俱(とも)に起こる。若し、世間に疫病流行し、死亡せる者の衆(おほ)きを見れば、心、則ち、喜悅す。若し、惡咒有りて、之れを喚(よ)べば、則ち、來たり、能く衆生の爲めに不饒益(ふねうやく)[やぶちゃん注:無慈悲な災厄。]を爲す。その行くや、迅疾にして、一たぴ念ずれば、能く百千由旬(ゆじゆん)[やぶちゃん注:凡そ八百八十万キロメートル。]を走る。是の故に名づけて疾行餓鬼(しつかうがき)となす、凡そ世の愚人、共に供養され、咸(あまね)く、皆、之れを號(とな)へ、以つて大力神通夜叉(だいりきじんづうやしや)と爲す。是のごとく、種々(しゆじゆ)に人に殃禍(わざはひ)を爲し、人をして怖畏せしむ。乃(すなは)ち、惡業は至り、盡きず、壞えず、朽ちず。故に脫するを得ず云々。若し、人中に生まるるも、呪師の家に生まれ、諸鬼神に屬して、鬼神の廟を守る。」。]斯る食不淨惡鬼を祀るより、自然厠神の觀念を生ぜしやらん、劉宋譯彌沙塞五分律廿七に有一比丘、在不應小便處小便、鬼神捉其男根、牽至屛處、語言大德應在此處小便[やぶちゃん注:「一比丘有り。應(まさ)に小便をすべからざる處に小便す。鬼神、其の男根を捉へ、牽きて屛處(へいしよ)[やぶちゃん注:仕切られた場所。]に至り、語りて言はく、『大德、應に此の處に在りて小便すべし。』と。」。]、これは厠神にあらず、僧が厠外に放尿したるをその處の鬼神が戒めたる也、增壹阿含經四四に、佛未來彌勒佛の世界を記す、鷄頭城中有羅刹鬼、名曰葉華、所行順法、不違正敎、常伺人民寢寐後、除去穢惡諸不淨者、又以香汁而灑其地、極爲香淨[やぶちゃん注:「鷄頭城の中(うち)に羅刹鬼あり。名づけて葉華(えふくわ)と曰ふ。行なふ所、法に順ひ、正敎(しやうぎやう)に違(たが)はず。常に人民の寢寐(しんび)したる後(のち)を伺ひ、穢惡(ゑを)したる諸不淨の者を除け去り、又、香汁を以つて其の地に灑(そそ)ぎ、極めて香淨と爲す。」。]これは好意もて人糞を掃除する鬼神也、印度の咒法中厠に關する者有り、例せば不空譯大藥叉女歡喜母並愛子成就法に、得貴人歡喜、取彼人門下土、以唾和作丸、加持一百八遍置於厠中、彼人必相敬順歡喜、[やぶちゃん注:「貴人の歡喜(くわんぎ)を得んとせば、彼(か)の人の門の下の土を取り、唾を以つて和(あ)へて丸(ぐわん)と作(な)し、加持すること、一百八遍し、厠の中(うち)に置かば、彼の人、必ず、相ひ敬順し、歡喜せん。」。]支那にも、厠中に祕法を行ひし例、明の祝穆の事類全書續集十に郭璞素與桓彜友善、每造之或値璞在婦間便入、璞曰、卿來他處自可徑前、但不可厠上相尋耳、必客主有殃、彜後因醉詣璞、正逢在厠、掩而觀之、見璞裸身被髮銜刀設醊、璞見彜撫心大驚曰、吾每囑卿勿來、反更如是、非但禍吾、卿亦不免矣、璞終受王敦之禍、彜亦死蘇峻之難、[やぶちゃん注:「郭璞(かくはく)、素(も)とは桓彜(くわんい)と友として善(よろ)し。每(つね)に之れに造(いた)り、或いは、璞、婦の間に在るに値(あ)ふも、便(すなは)ち、入る。璞曰く、『卿の他處(よそ)より來たる時は、自(おのづ)から徑(すぐ)に前(すす)むべし。但し、厠の上のみは相ひ尋ぬべからず。必ず、客・主に殃(わざはひ)あらん』と。彜、後、醉ふに因つて、璞を詣(たづ)ぬ。正(まさ)に厠に在るに逢ふ。掩(かく)れて之れを觀るに、璞、裸身・被髮して、刀を銜(くは)へ、醊(てつ)を設くるを見る。璞、彜を見て、心(むね)を撫(う)ちて、大きに驚きて曰はく、『吾、每に卿に『來たる勿れ』と囑(しよく)せるに、反つて更に是のごとし。但(ただ)、吾に禍(わざはひ)あるのみに非ず。卿も亦、免れざらん。』と。璞は終(つひ)に王敦(わうとん)の禍(くわ)を受け、彜も亦、蘇峻(そしゆん)の難に死す。」。]醊は字典に祭酹[やぶちゃん注:「さいらい」。「酹」は神を祀るに際して地面に酒を注ぐことを指す。]なりと見ゆれば、厠中に神酒を供えて[やぶちゃん注:ママ。]祀り行ひし也、甲陽軍鑑に、武田信玄每に軍謀を厠中に運らせしと有る如く、祕處では有り、且つ臭穢にして本主神外の鬼神忌みて近づかざるより、密法を修むるに便とせしならん、普明王經に、阿群佛法に歸し比丘となり、王一たび之を見んと望むも此比丘眼睛耀射にして當たり難きを以て、王之を厠中に請じ見る事有り、書紀二に猿田彥大神眼力强く、八十萬神皆目勝ちて[やぶちゃん注:「まかちて」。初出にルビ有り]。相問ふを得ずと有る如し、糞穢を以て邪視を破る事は、かつて本誌に述たり[やぶちゃん注:明治四二(一九〇九)年五月発行の『東京人類學雜誌』二百七十九号で、初出原題は「出口君の『小兒と魔除』を讀む」。後の「小兒と魔除」(リンク先は私のPDF一括版)。冒頭から「屎」を名に持つ人名リストがバーンと出る。]、無能勝三藏が譯せる穢蹟金剛說神通大滿陀羅尼法術靈要門經には、佛涅槃に入て諸天大衆皆來て供養せるも、螺髻梵王[やぶちゃん注:「らけいぼんわう」。]のみ來らず、千萬の天女に圍繞されて相娛樂す諸大衆その我慢を惡み、百千衆呪仙をして往て取り來らしむるに、梵王種々不淨を以て城塹(じやうざん)となし、諸仙各々犯咒(咒破らるゝ事)されて死す、復た無量の金剛衆をして往かしむるも七日迄取り得ず、如來大遍知力もて其左心より不壞金剛[やぶちゃん注:「ふゑこんがう」。]を化出[やぶちゃん注:「けしゆつ」。]し、不壞金剛往て梵王所を指させば、種々穢物變じて大地となり、螺髻梵王發心して如來所に至ると有り、梵王糞穢もて呪仙を破りし也、酉陽雜俎十四、厠鬼の名は頊天竺[やぶちゃん注:「ぎよくてんじく」。](一曰笙[やぶちゃん注:これは「いつにいはく「しやう」。で一書では「天竺」ではなく「天笙」とするの意。])上の八三頁[やぶちゃん注:ここは「選集」では「『人類学雑誌』二九巻二号の八三頁」とされてある。残念ながら、当該ページは「J-STAGE」では読めないので誰の論文かも判らない。]に淵鑑類凾より引れし厠神狀如大猪と云る話は、支那にも朝鮮琉球等と齋しく、厠に家猪[やぶちゃん注:ここは豚(ブタ)のこと。前の「大猪」も「大きな豚」であって野猪(イノシシ)のことではないので注意。]を畜て糞を食しむる風有りしに基くなるべく、漢書に、賈姬如厠、有野彘、入厠中、[やぶちゃん注:「賈姬(かき)、厠へ如(ゆ)く。野彘(やてい/ゐのしし)あり。厠の中に入れり。」。]又呂后が戚天人を傷害して厠中に置き人彘と名けし事有り、事類全書續十に、侍御史錢義方居常樂第、夜如厠、忽見蓬頭靑衣者數尺來逼、義方曰、汝非郭登、曰然、餘乃厠神每月出巡、(續玄怪錄)、[やぶちゃん注:「侍御史の錢義方、常樂第に居(を)り。夜、厠に如(ゆ)くに、忽ち、蓬頭・靑衣の者、長(たけ)數尺なるが、來たりて逼(せま)るを見る。義方曰はく、『汝は郭登にあらずや。』と。曰く、『然り。余は、乃(すなは)ち厠神なり。每月、出でて巡る』と。」。]類函厠の條に晉書陶侃甞如厠、見一人朱衣介幘劒履、曰以君長者、故來相報、若後當爲公矦、侃至八州都督、又庾翼鎭荊州、如厠見一物、頭如方相、兩眼大有光、翼擊之入地、因病而薨、[やぶちゃん注:「陶侃(とうかん)、甞つて厠に如(ゆ)き、一人の、朱衣にして、介幘(かいさく)をかぶり、劒をはき、履(くつ)をはけるものを見たり。曰く、『君、長者なるを以つて、故に來たりて相ひ報ず。君、後に當(まさ)に公侯たるべし。』と。侃、八州の都督に至れり。又、庾翼(ゆよく)、荊州に鎭(ちん)たり。厠に如(ゆ)き、一物(いちぶつ)を見る。頭は方相(はうさう)のごとく、兩眼、大いに、光、有り。翼、之れを擊てば、地に入れり。因りて病みて薨ず。」。]是れ人死して厠神となり、厠中に吉凶を告る神有り、又人を驚かす鬼物有りとせる也、類凾卷十七と二五八に歲時記と異錄傳を引て厠の女神の傳を載す、文差や[やぶちゃん注:「やや」。]相異なるを以て綜合して記さんに、廬陵歐明從賈客、道經彭澤湖、每以舟中所有、投湖中爲禮、後復過湖、忽有一人著禪衣乘馬、來候明云、是靑湖君使也、靑湖君感君有禮、故邀君、必有重遺、君皆勿取、但求如願、明既見靑湖君、乃求如願、如願者靑湖君之神婢也、靑湖君不得已、呼如願送明去、明將如願歸、所願卽得、數年大富、後正旦如願晚起、明醉撻之、走入糞壤中不見、今人、正旦以繩繫偶人、投糞壤中、云令願以此、[やぶちゃん注:「廬陵の歐明(わうめい)、賈客(こかく)[やぶちゃん注:商人。]に從ひ、道に彭澤湖(はうたくこ)を經(とほ)るに、每(つね)に舟中に有る所のものを以つて、湖中に投じて禮と爲す。後、復た、湖を過ぐるに、忽ち、一人(いちにん)有り、禪衣(ぜんえ)を著(き)て馬に乘り、來たって明に候(つか)へて曰く、『是(これ)は靑湖君が使ひなり。靑湖君、君の禮あるに感じ、故に君を邀(むか)ふ。必ず、重き遺(おくりもの)有らんも、君、皆、取る勿れ。但(ただ)、如願(じよぐわん)のみ、求めよ。』と、明、既に靑湖君に見(まみ)え、乃(すなは)ち、如願を求む。如願とは靑湖君の神婢なり。靑湖君、已むを得ず、如願を呼び、明を送り去らしむ。明は如願を將(つ)れ歸るに、願ふ所あらば、卽ち得(え)、數年にして、大いに富めり。後の正旦(ぐわんたん)、如願、晚(おそ)く起くるに、明、醉ひて之れを撻(う)つ。糞壤[やぶちゃん注:堆肥置き場。]の中(うち)に走りて入りて見えず。今人(きんじん)、正旦に繩を以つて偶人(ぐうじん[やぶちゃん注:傀儡(くぐつ)。人形。])に繋び、糞壤の中に投じ、『願ひのごとくならしめよ』と云ふは、此れを以つてなり。」。]淸湖君、一に靑洪君に作る、事類全書前集六には有商人過靑湖見淸湖君云々[やぶちゃん注:「商人有りて靑湖を過ぐるに、淸湖君に見ゆ云々」。]とせり、予幼かりし時亡母每に語りしは、厠を輕んずるは禮に非ず、昔し泉州の飯(めし)と呼ぶ富家は、其祖先が元旦雪隱の踏板に飯三粒落たるを見、戴いて食ひしより打ち續き幸運を得て大に繁昌に及べりと、平賀鳩溪實記卷一三井八郞右衞門源內へ對面の事の條、源內の詞に、「是の三井家は誠に日本一の金持にして、鴻池抔よりも名譽の家筋也云々、凡そ富貴人と申すは泉州岸和田に住居致す飯の彌三郞と三井計と存ずる也」と有る飯氏なるべし、是れも厠を敬せしより其神幸運を與えし[やぶちゃん注:ママ。]とせしならん、倭漢三才圖會八一に白澤圖云、厠惟精名倚(上の三〇頁出口君が引きしには「停衣と名づく」とあり[やぶちゃん注:出口米吉「厠神」の初出の2コマ目(私の電子化はこちら)。正確には『白澤圖ヲ引テ厠神名停衣トアリ』である。])、著靑衣持白杖、知其名呼之者除、不知其名呼之則死、又云築室三年不居其中、見人則掩面、見之有福、居家必用云、厠神姓廓名登、是庭天飛騎大殺將軍、不可觸犯、能賜災福、[やぶちゃん注:以上は後注で同書の「厠」の項の全部を示す。]鬼神其名を人に知れて敗亡せし諸例は、「鄕土硏究」一卷七號なる「南方隨筆」に擧たり[やぶちゃん注:これは後の「續南方隨筆」で総括された「『鄕土硏究』一至三號を讀む」の一節。後注参照。]、廓登卽ち上に引る事類全書の郭登なるべし、厠神人を見て面を掩ふは日本で厠神に見らるゝを忌むと云ふに近きも、其面を見れば福有りと云ふは此邊で傳ふる所に反せり、熊野の或部分には今も厠を至極淸淨にし、四壁に棚を設け干瓢椎茸麪粉[やぶちゃん注:「むぎこ」。]氷豆腐等の食物及び挽臼等を置き貯へ、上に玉萄黍、蕃椒[やぶちゃん注:「たうがらし」。]等を懸下す、其體、一見のみでは不淨處と信ぜられず、予夜分始て之に入り、自ら夢裡に有るかと疑ひ、燈を携へて見廻り又身體諸部を撚り[やぶちゃん注:「ひねり」。]驗[やぶちゃん注:「けみ」。]せし程也、後ち其邊の人來る每に子細を尋ぬるも耻ると見えて一向然る事無しと答ふ、去年酒井忠一子に此事を語りしに、日向とかにも斯る風有る地方有り、古え厠を殊の外に重んぜし遺俗と聞りと話されつ、件の熊野山村の俗語に放蕩息子を罵りて、汝は親の雪隱に糞垂るべき者に非ずと云ふを攷ふれば、酒井子の言の如く厠を家の重要部と尊ぶ土俗も存せしにや、定めて彼諸村には多少厠神崇拜の遺風も傳はり居る事なるべければ再度自ら往て調査せんと欲す、序に言ふ、南洋のツイトンガ島民は、死人の魂が諸神に食れ竟れば[やぶちゃん注:「くはれをはれば」。]得脫すと信じ、島中最も重んぜらるゝ人の葬禮後、貴族の男六十人十四夜續けて死人の墓に大便し其人々の妻女來て之を取除く、是れ死人の魂諸神に食れて淨化し盡されたるを表す、又速かに得脫するを促がす者ならんとは椿事也(Waitz und Gerland, ‘Geschichte der Naturvölker, ’Band 6, s. 329, Leipzig, 1872)、又同卷三〇五頁に、新西蘭[やぶちゃん注:ニュージーランド。]の人、死して樂土に行ざる魂は糞と蠅を常食とすと云ひ、曾て此世なる幼兒を育てん迚樂土より還る婦人、途中其親族の死靈が住る村を通るに彼輩之に人糞を食へと迫る、其亡父の靈獨り之を制禦し、クマラ根二本を與えて[やぶちゃん注:ママ。]遁れ去らしむるに、惡靈二個なほ追來るを件の二根を抛て[やぶちゃん注:「なげうちて」。]遮り歸りし話有りと載たり、其事、書紀卷一、伊弉册尊已に黃泉之竈(よもつへぐひ)[やぶちゃん注:以上はルビではなく、本文。]して此世に還るを得ず、伊弉諾尊之を見て黃泉より逃出るを、醜女八人追ければ、尊黑鬘[やぶちゃん注:「くろみかづら」。]と湯津爪櫛[やぶちゃん注:「ゆつつまぐし」。]を投て葡萄と筍を化成し、醜女之を食ふ間に泉津平坂[やぶちゃん注:「よもつひらさか」。]に到り玉へえるに似たり、新西蘭の神話葬儀が糞に緣有る事如斯なれば必ず厠神に關する譚も行はれし事と察すれど、予の筆記不備にして只今其詳を知るに由無し。

 

 追 記

 種々の物を用て追ふ者を妨げし譚は日本と新西蘭の外にもあり、支那には梁の慧皎[やぶちゃん注:「ゑかう」。]の高僧傳八に、劉宋の釋玄暢北虜滅法の際平城より逃れ、路經幽冀、南轉將至孟津、唯手把一束楊枝一扼葱葉、虜騎逐追、將欲及之、乃以楊枝擊沙、沙起天闇、人馬不能前、有頃沙息、騎已復至、於是投身河中、唯以葱葉內鼻孔中、通氣度水、以八月一日〔元嘉二十二年〕達于揚州、[やぶちゃん注:「路(みち)に幽・冀を經(へ)、南に轉じて將に孟津に至らんとす。唯、手には一束の楊枝と、一扼(やく)の葱葉(ねぎ)とを把(も)てるのみ。虜騎、逐追(ちくつい)して、將に之れに及ばんとす。乃(すなは)ち、楊枝を以つて沙を擊つに、沙、起りて、天、闇(くら)み、人馬、前(すす)む能はず。頃(しばら)く有りて、沙、息(や)み、騎、已に復た至る。是に於いて身を河中に投じ、唯、葱葉を以つて鼻孔の中(うち)に內(い)れ、氣を通じて、水を度(わた)る。八月一日〔元嘉二十二年[やぶちゃん注:南北朝時代の劉宋の文帝の時代の年号。ユリウス暦四四五年。]〕を以つて揚州に達す。」。]歐州には希臘譚に、繼母魔質にして一男一女童を殺し食はんとし、二童犬の敎により逃るゝを魔母追來る、其時童男小刀を投れば廣原となり、次に櫛を投れば密林となり、最後に鹽を投れば浩海と成て遂に遁れ去るを得と有り、スカンヂナヴヰア譚に一童子巨鬼[やぶちゃん注:「トール」のこと。]に逐れ走る時其騎馬に敎えられて三物を携ふ、鬼逐うふ事急なるに臨み、先づ山査子[やぶちゃん注:「さんざし」。バラ目バラ科サンザシ属セイヨウサンザシ Crataegus monogyna。]の枝を投れば彼木の密林生じ、石を投れば大巖と成り、甁水を投れば大湖と成て鬼を障え[やぶちゃん注:「さえ」。遮(さえぎ)り。]童子脫するを得と有り (Tozer,‘Researches in the Highlands of Turkey,’1869,vol,ii,pp.276-274)、蘇格蘭[やぶちゃん注:スコットランド。]、印度等にも似たる譚有りて Clouston, ‘Popular Tales and Fictions,’ 1887, vol. i, pp. 439-443 に委細載せたり。

     (大正三年五月、人類第二十九卷)

 

[やぶちゃん注:「厠神」「ブリタニカ国際大百科事典」の「厠神」から引いておく(コンマをピリオドに代えた)。『便所の神のことで、便所神、雪隠 (せっちん) 神、おへや神などとも呼ばれている。厠とは便所のことで、その語源については、川の上あるいは川のほとりに設けられた川屋にあるとする説が有力である。その祀り方は地方によって異なり、便所をいつも清浄にして灯明をあげたり、人形を祀り』、『花を供えたり、小さな神棚を設けたり、新設するときに』は、『甕の下に人形を埋めたり,大病になった』際には、『願を掛けて』、『花や酒を供えたりする。また、お産とも関係が深く、妊婦が美しい子の誕生を祈願して厠を清めたり、臨月に便所にお参りをし』、『お産が軽くすむように祈願したりするが、これは排便の様子が』、『お産の様子に類似するところから生じた類感呪術の一種と思われる。関東地方には赤子の初外出に便所参りをする風習がある』。

「諸經要集」唐の律宗 (南山宗) の僧道世(?~六八三年)著。全二十巻。仏教の典籍の中から,特に善悪の行為と、それに対する報いについて抜き出し、三十部に分類して整理したもの。仏教文献を検索するのに便利な書物で、同じ著者に依る同じ範疇に属する書物に、かなり知られた「法苑珠林』(全百巻)がある。なお、以下に出る経典類は煩瑣なだけなので、注しない。

「婆羅奈(はらな)國」古代インドの王国。「ワーラーナシ」の漢音写で、別称「カーシー国」。マガダ国の西、コーサラ国の北にあり、現在のワーラーナシ(バラナシ・ヴァラナシ)(グーグル・マップ・データ)を中心とした地方。釈尊が成道後、波羅奈国の鹿野苑 (サールナート) で初めて五比丘に説法をしたことで知られ、アショーカ王がこれを記念して二石柱を建立している。

「穢染(ゑぜん)も汙(けが)さず」重語表現になっているが、ようは「一点の穢れも成さず」の意であろう。

「晃昱(くわいく)」(こういく)は明らかな光を発して輝くさま。「選集」は『晃々』とするが、経典類を検索したところ、「南方隨筆」の通りで正しいものを見出すことが出来た。

「除糞人」便器・便槽の糞尿を始末することを生業とする人々。

「除糞人尼提出家を許され得道せし事」芥川龍之介が(大正一四(一九二五)年九月発行の『文藝春秋』に発表した短篇「尼提(にだい)」に描かれている。「青空文庫」のこちらで読める(但し、新字新仮名)。

「除恐災患經に無類の美妓奈女前身塔地の狗糞を除きし功德もて、後身每に胞胎臭處より生れず花中より生まれしことを記せり」「大蔵経DB」の当該経典「仏說除恐災患經」から見出せた。以下。一部の漢字を正字化した。

   *

時有衆女。欲供養塔。便共相率。掃除塔地。時有狗糞。汚穢塔地。有一女人。手撮除棄。復有一女。見其以手除地狗糞。便唾笑之曰。汝手以汚不可復近。彼女逆罵。汝弊婬物。水洗我手。便可得淨。佛天人師。敬意無已。手除不淨。已便澡手。遶塔求願。今掃塔地。汚穢得除。令我來世勞垢消滅淸淨無穢。時諸女人。掃塔地者。今此會中。諸女人是。爾時掃地。願滅塵勞。服甘露味。爾時以手。除狗糞女。今柰女是。爾時發願。不與汚穢會。所生淸淨。以是福報。不因胞胎臭穢之處。毎因花生。

   *

そこで原版本の当該部も確認したが、「奈女」ではなく、「柰女」であった。但し、異体字なので問題はない。ウィキの「アンバパーリー」(彼女のことである。生没年は不詳)によれば、『アームラパーリー』とも。漢音写は『菴摩羅、菴没羅など多数』あり、漢訳では『㮈女、柰女、非浄護など』があり、『釈迦仏の女性の弟子(比丘尼)の』一人とする。『ヴェーサーリー(毘舎離)の人でヴァイシャ出身。ヴェーサーリー城外のマンゴー林に捨てられ、その番人に育てられたので、アンバパーリー』、則ち、『マンゴー林の番人の子といわれるようになった。アンバパーリーは、遠くの町にまで名声が伝わっていた遊女で、美貌と容姿、魅力に恵まれ、他にも踊りや歌、音楽も巧み、当然言い寄る客が引けを取らずとなって舞台等で莫大な稼ぎを得ていた』。『釈迦仏に帰依し、その所有していた林を僧団に献納した』。「長老尼偈註」に『よれば、出家し』、『高名な長老となった自分の息子ヴィマラ・コンダンニャの説法をきき、みずからも出家、比丘尼となり、阿羅漢果を得たとされる』。「テーリーガーター」では、『彼女の美貌に心を奪われた比丘衆に阿難が誡めのために偈を説いて』おり、「大般涅槃経」では、『リッチャヴィ(離車)族の公子らに先んじて釈尊を招待している。公子らがその招待を譲り受けんと乞うも』、『彼女は譲らなかったという。その所有していた菴摩羅樹苑(マンゴー樹園)を僧団に寄進した。後の天竺五精舎の』一『つ菴羅樹園精舎である。この件は諸文献に通じるエピソードである』。南伝「マハーヴァッガ」では、『彼女の美貌により』、『ますます多くの人々が街に引き寄せられてヴェーサーリーが潤ったという』。「雑阿含経」及び「長部註」に『よると、菴摩羅樹苑にて、彼女が来るのを見て、釈尊は弟子』衆に、『その美貌で心が揺れないよう』、『四念処を説いたとある』。「㮈女祇域因縁経」では、『彼女はヴェーサーリーのバラモンの㮈樹の肉瘤(にくこぶ)から生まれたとし、美人なるをもって』十五『歳の時に』七『人の王が求婚したが』、『すべて断った』といい、須漫と波曇と称した二人の娘も『彼女と同じように』、『各々』、『樹華より生まれたという。彼女と二女は共に』五百『人の女性を率いていたが、釈尊の説法を聞いて出家し』、『悟りを得たという』とある。さて、この「胞胎」とは、母胎内で胎児を包んでいる胞衣 (えな) を指し、胎生のことで、 胎生は「輪廻の迷い」を繰り返すことであることに注意。だから、そこからではなく、香良き清浄なる花から彼女たちは生まれたのである。

「厠中に唾吐けば神怒る」これは私もよく聴いた風俗であるが、この場合は、理由がよく判らない。或いは、唾は便ではなく、しかも眉唾などで知られる(一般には狐狸などが人を化かすに際しては、その人物の眉の本数を数えて知ることが必須条件とするというが、私はどうもあまりそれを信じていない)が、唾にはある種の生臭さがあり、それを妖魔が嫌うのではないかと私は考えており、厠神が元は鬼神であったという熊楠の挙げる例を考えるとなら、陰気である汚物である大便でも小便でもない、しかも腥い人間の体液(汚物ではない陽の生気に属するもの)だから、嫌悪し、怒るのではないかと考えたことを言い添えておく。

「厠神盲にして人に見らるゝを忌めば」物の怪・鬼神は先に見られる(見切られる)ことで、相手に負けるというのは民俗社会のお約束ごとである。ただ、ここで「厠に入る者必ず燈を携え[やぶちゃん注:ママ。]咳して後入るべし」というのは、目が見えなくても、光は感ずるのかとも思う。

「籌草(ちうさう)」不詳。当初は物理的に尻の後始末をする竹箆(たけべら)や拭き取る草かと思ったが、それは当たり前のことで書くべきことではないから違う。「籌」は占いに用いる竹製の算木を指すことが多いから、何らかの呪具のようにも思われる。

「彈指(だんし)」爪弾(つまはじ)きをすること。呪的には音を出して邪気を払う仕草として知られるが、ここは本来のそれが善神たる厠神となるとともに変容し、相手に「姿をお現わしになられませぬように」と事前の注意を促すという意に変化しているのかも知れない。

「非人」厠神以外の鬼神・神仏、果ては、物の怪。

「臢汙(さんを)」穢すこと。

「慳嫉(けんしつ)」自分の利益のためだけの物惜しみと嫉妬心。

「㖉托餓鬼」サイト「三蔵法師の館」の「餓鬼道」に、「食唾(じきた)餓鬼」を載せ、まさにこの原文を訳した通りに、『男、若し』く『は』、『女が』、『慳嫉で心を覆い、不浄の食を以て諸の出家の沙門・道士を誑かして、「この食は清浄であります。信用してください。」と言い、これを食べさせる。或いはまた浄行人に非所(食べる場所ではない)で施して食わせる。此の業』(ごう)『を数々造り、また他人にも教えて誑惑を行う。布施を行わず、禁戒を持たず、善友に近づかず、正法に順ぜず、不浄を楽しみ、さらに人にも教える。このような悪人は身壊れて命終し、悪道の中に生まれ、食唾餓鬼の身を受ける。常に其の身を焼かれる。不浄の処に於いて、壁、若しは地で、人の唾を求めて食べて自活する。余の一切の食は悉く食べることができない。悪業が尽きず壊れず朽ちないため、脱することができない。業が尽きてようやく脱することができる。此より命終して業に随って生死を流転して苦を受ける』とある。ウィキの「餓鬼」では、『食唾(じきた)、僧侶や出家者に、不浄な食物を清浄だと偽って施した者がなる。人が吐いた唾しか食べられない』とする。

「衆落」人々の集団。「聚落」「集落」に同じ。

「嚴飾」立派に飾ること。相応の上流階級の者たちをも信用させて布施を得るためである。

「諸城邑(しよじやういう)」それぞれの地方の城壁に囲まれた首都及びその周辺を領する諸侯・大夫の領地・封土。

「廣く須(もと)めらるるを求め」あらゆる求め得ることの出来るものはその総てを貪欲に求め。

「阿毘遮羅(「疾く行く」。)餓鬼(あびらがき)」サイト「三蔵法師の館」の「餓鬼道二」の「疾行餓鬼」に、同じくここを訳した如く、『此の衆生は貪嫉で心を覆い、若し沙門と為れば破戒するが、されども法服を着て集落に遊び、諂誑して財を求めて「病者には病に随って供給すべし。」と言いながら結局自分は施しを与えず、自ら之を食べる。乞求の為に衣服を飾り、諸の城邑を巡り、広く施を求め、病者には施さない。この因縁を以て身壊れて命終し、悪道に堕ち、疾行鬼の身を受ける』。『不浄の処に於いて不浄を食し、常に飢渇に患わされ、其の身を焼かれる。若しは』、ある『衆生が不浄を行うなら、この餓鬼はすぐにこの者を多く悩ます。其の身を自ら現して怖畏を与える。人の便りを求め、或いは悪夢を示し、恐怖を与える。塚の間を遊行し、死屍に楽近し、其の身は燃え盛って火炎が起こり、若し世間に疫病が流行して死亡者が出るならすぐに心が喜悦する。若しは悪呪が有って召喚されるなら直ぐにやって来て、衆生によく不利益になること』なす。『其の動作は迅疾で、一念でよく百千由旬を至る。この故に「疾行餓鬼」と名』づ『けられる。凡世の愚人の供養する所。咸いは皆之を「大力神通夜叉である」と号す。このように人に種種の災禍をもたらす。悪業は尽きず壊れず朽ちないため、脱することができない。業が尽きてようやく脱することができる。此より命終して業に随って生死を流転して 、苦を受ける。若し人に生まれるなら呪師の家に生まれて諸の鬼神に属し 、鬼神の廟を守る。余』、『業』(ごう)『を以ての故』に、こ『のような報いを受ける』とある。ウィキの「餓鬼」では、『疾行(しっこう)、僧の身で遊興に浸り、病者に与えるべき飲食物を自分で喰ってしまった者がなる。墓地を荒らし』、『屍を食べる。疫病などで大量の死者が出た場所に、一瞬で駆けつける』とある。

「呪師」この場合は狭義の魔神・淫祠邪教を崇める邪悪極まりない呪われた呪術師の限定。

「劉宋譯彌沙塞五分律」(みしやそくごぶりつ(みしゃそくごぶりつ))は南北朝時代の劉宋(四二〇年~四七九年)の建国直後に仏陀什(ぶっだじゅう)・竺道生(じくどうしょう)らによって訳された(四二二年から四二三年)「彌沙塞部和醯五分律」(みしゃそくぶわけいごぶりつ)。仏教教団(サンガ)を正しく維持運営してゆくために必要な教団規則と運営法を記した一つ。

「大德」個人的には上田秋成の「雨月物語 卷之五」の名作「靑頭巾(あをづきん)」(リンク先は私の古い電子化。私の高校教師時代の授業ノート及びオリジナルの現代語訳もある)以来、私は「だいとこ」としか読まない。

「羅刹鬼」羅刹天(らせつてん)は仏教の天部の一つである十二天に属する西南の護法善神。単に「羅刹」とも呼ぶ。当該ウィキによれば、『羅刹とは鬼神の総称であり、羅刹鬼(らせつき)・速疾鬼(そくしつき)・可畏(かい)とも訳される。また羅刹天は別名涅哩底王』(ねいりちおう/にりちおう)。『破壊と滅亡を司る神。また、地獄の獄卒(地獄卒)のことを指す時もある。四天王の一である多聞天(毘沙門天)に夜叉と共に仕える』。『ヒンドゥー教に登場する鬼神ラークシャサが仏教に取り入れられたもので』、『その起源は』『アーリア人のインド侵入以前からの木石水界の精霊と思われ、ヴェーダ神話では財宝の神クヴェーラ(毘沙門天)をその王として、南方の島、ランカー島(現在のスリランカ)を根城としていた』。「ラーマーヤナ」では、『クヴェーラの異母弟ラーヴァナが島の覇権を握り、ラークシャサを率いて神々に戦いを挑み、コーサラ国の王子ラーマに退治される伝説が語られている。概ね』、『バラモン・ヒンズー教では』、『人を惑わし』、『食らう魔物として描かれることが多い』が、『仏教普及後は、夜叉と同様に毘沙門天の眷属として仏法守護の役目を担わされるようにな』り、『十二天では「羅刹天」として西南を守護し、手にした剣で煩悩を断つといわれる。図像は鎧を身につけ左手を剣印の印契を結び、右手に刀を持つ姿で描かれる。全身黒色で、髪の毛だけが赤い鬼とされる』。『中国以東では羅刹の魔物としての性格が強調され、地獄の獄卒と同一視されて恐れられることが多かった』。十『世紀の延暦寺の僧』で、本邦の浄土教の祖である源信の「往生要集」は、『その凄惨な地獄描写で有名だが、そこでも羅刹は亡者を責める地獄の怪物として描かれている』。一般に『羅刹の男は醜く、羅刹の女は美しいとされ、男を羅刹娑・羅刹婆(ラークシャサ、ラークシャス、ラクシャーサ、ラクシャス、ラクシャサ、ラクササ)、女を羅刹斯・羅刹私(ラークシャシー)・羅刹女(らせつにょ)という。また』、『羅刹女といえば』、「法華経」の「陀羅尼品」に『説かれる十羅刹女が知られるが、これとは別の十大羅刹女や八大羅刹女、十二大羅刹女として、それぞれ名称が挙げられており、さらに』「孔雀経」では』七十二もの『羅刹女の名前が列記されている』とある。

「葉華(えふくわ)」竺法護(じくほうご 二三一年~三〇八年?:西晋の僧。遊牧民であった月氏(げっし)の出身。西域諸国を巡遊して経典を収集し、般若思想の仏典を中心に漢訳した。月氏菩薩・敦煌菩薩とも称された)の訳になる「彌勒下生經」(みろくげしょうきょう)にも「是時翅頭城中、有羅刹鬼、名曰葉華、所行順法、不違正敎、每向人民寝寐之後、除去穢惡不浄者、常以香汁而灑其地極爲香淨」(是の時、翅頭城の中に羅刹鬼有り。名を葉華と曰ふ。所行、法に順ひ、正教違はず、每(つね)に人民に向きて、寝寐の後、穢惡不淨の者を除け去り、常に香汁を以つて其地に灑ぎ、極めて香淨と爲す)とほぼ同じようにあり、この方が熊楠が引く「增壹阿含經」より古い漢訳と思われる。

「祝穆の事類全書續集」、南宋の学者祝穆(しゅくぼく 生没年不詳:彼の曾祖父祝確は朱熹の母方の祖父で、祝穆自身も朱熹に学んだ)類書で正しくは正篇は「古今事文類聚」で「續集」の他に「後集」「外集」もある。「中國哲學書電子化計劃」で影印本で当該部の「戒厠上相尋」(厠の上に相ひ尋ぬることを戒む)が読める。

「郭璞(かくはく)」空想地誌で魯迅も耽読した「山海經(せんがいきょう)」の最古の注釈で知られる西晋・東晋の文学者にして卜占家として有名であった郭璞(二七六年~三二四年)。河東郡聞喜県(現在の山西省運城市聞喜県)の人。文才と卜占術により、建国間もなかった東晋王朝の権力者たちに重用され、史書や「捜神記」などの志怪小説においては、超人的な予言者や妖術師として様々な逸話が残されている。卜占・五行・天文暦法に通じたのみならず、古典にも造詣が深く、「山海経」の他にも「爾雅」などに注したことで知られる。文学作品では「遊仙詩」・「江賦」などが代表作として残る。参照した当該ウィキによれば、低い家柄に生まれ、『訥弁であったが、博学で文章に巧みであった。また郭公なる人物から』「青囊中書」という『書物を授かり、これによって五行・天文・卜筮のあらゆる術に通じ、いにしえの』漢の「易経」の専門家『京房』(けいぼう)や三国時代の占い師として有名な管輅(かんろ)をも『凌ぐほどであったという』。後続同士の内乱である「八王の乱」によって『中原が戦乱に見舞われると、郭璞は筮竹で将来を占い、この地が遠からず異民族に蹂躙されることを予見した。そこで親類・友人たち数十家とともに江南に避難した。史書によると、江南までの道中、様々な術や予言を行い、それによって難を逃れたという』。『江南に来た郭璞は、その後、司馬睿』(えい)『(後の東晋の元帝)の腹心王導に招かれ、彼の参軍となり、その卜筮の術によって大いに重用された。司馬睿が皇帝に即位する前後、その将来を占い、銅鐸の出土や泉の出現などの東晋中興の正統性を裏付ける瑞祥を予見し、司馬睿の寵愛も受けるに至った』。『東晋が建国されると、郭璞は「江賦」「南郊賦」を献上し、それらは世間で大いに評判になった。元帝にも賞賛され、著作左郎に任じられ、ついで尚書郎に移った。皇太子司馬紹(後の明帝)からは、その才能と学識を尊敬され、当時の有力者であった』政治家温嶠(おんきょう)や庾亮(ゆりょう)『らと同等の待遇を受けた』。しかし、三二四年、司馬睿から大将軍の地位を賜った『王敦』(おうとん)が『反乱を企て、郭璞に』、『その成否を占わせたところ』が、『「成る無し」の結果がでた。占いを命じた王敦は、『かねてから郭璞が温嶠・庾亮らと親しく、彼らに自らの討伐をそそのかしていると疑っていたので』、その『結果に激怒し』、『郭璞を処刑した。享年』四十九。「王敦の乱」が『平定されると、弘農郡太守を追贈され、子の郭驁』(かくごう)『が父の後を継いで、官位は臨賀郡太守に至った』。

「桓彜(くわんい)」(二七六年~三二八年)は西晋末から東晋初期の官僚・政治家。譙国竜亢県(現在の安徽省蚌埠市懐遠県)の人。東晋の朝廷の運営や地方の統治で活躍したが、「蘇峻の乱で討死した。当該ウィキによれば、貧しい家柄の出であったが、『朗らかで早くから盛名を得』、『道徳的秩序や物事の本質を見極めることに長け、幼少の頃から』、『才は抜きん出ていた』という。『西晋に仕え、兗州』(えんしゅう)『の主簿』から、三〇一年三月には『斉王司馬冏』(けい)『の挙兵に赴き、騎都尉に任じられた』。その後、当時、安東将軍であった『司馬睿から逡遒』(しゅんしゅう)『県令に任じられ』、三一一年十二月には『江南に渡り』、既に『丞相』となっていた『司馬睿に仕えた』。その後、『丞相中兵属・中書郎・尚書吏部郎を歴任、朝廷内で名声を高め』、『河北から温嶠がやってくると、王導・周顗』(しゅうぎ)・『謝鯤・庾亮らとともに親交を結んだ』。『大将軍王敦が権力を握ると、桓彝は病と称して職を辞したが。後の『皇帝司馬紹から散騎常侍に任じられ、王敦討伐の密謀に参画した。王敦の乱平定後、万年県男に封じられた』。『丹陽尹温嶠の推薦を受け、司馬紹自ら詔勅を発して宣城内史に任じられた。桓彝は宣城を治める任に堪えられないと上疏した』ものの、『しばらくして、宣城内史就任を承諾した。郡内に善政を敷き、百姓らに親しまれた』。三二七年十二月、『冠軍将軍蘇峻が朝廷に対し、反乱を起こした。桓彝は兵を率いて建康に赴こうとした。長史裨恵』(ひけい)『は、宣城郡の兵は』少ない上に脆弱な上、『民は動揺しやす』かった『ため、備えを解いて』、『反乱が終わるのを待つことを勧めた』が、『桓彝は』色を変え、「『君主に無礼をする者には、たとえ、相手が強い鷹鸇(ようせん:「鸇」はハイタカ又はハヤブサ)で、自分が弱い鳥雀(うじゃく)であったとしても、これを追い払うべきものである』と言いうではないか。今、社稷に危機が迫っているのに、義を無くして、くつろぎ楽しんでおれようか」と怒り、『将軍朱綽』(しゅしゃく)『を遣わし、蕪湖で蘇峻軍を破った。桓彝は蕪湖に進んで屯した。蘇峻軍の将韓晃は桓彝を破り、宣城に進攻した。桓彝は広徳に退いた。韓晃は周囲の諸県を掠奪して帰還した』。三二八年五月、『桓彝は建康が陥落したと聞き、涙を流して歎き悲しみ、涇県に進んで屯した。この頃、州郡の多くが蘇峻に降伏していた。裨恵は蘇峻に使いを送り、友好を結んで災いを避けるように説いた。桓彝は「私は国から厚恩を受けており、義のために死ぬつもりだ。恥を忍んで、逆臣と通ずる』ことなど思いもよらぬ。『たとえ揃わずとも、私の考えに変わりはない」と断った。桓彝は将軍兪縦に蘭石を守らせた。蘇峻は韓晃に攻撃させた。兪縦は敗れ』、激戦の『末』、『討ち取られた』。『韓晃は宣城を攻めた。援軍はなく、韓晃軍は「桓彝が降伏すれば、礼をもって優遇する」と降伏を呼びかけた。将兵の多くは、偽りの降伏をして後々の機会を待つように勧めた。桓彝は従わず、抗戦の意志を変えなかった』。六月、『宣城は陥落、桓彝は韓晃に討ち取られた。享年』五十三。『蘇峻の乱平定後、廷尉を追贈され、簡と諡され』、『咸安年間に太常に改贈された』とある。『幼少から庾亮とは親交があり、雅で上品であったため』、『周顗に重用された。周顗は』、「彼の人品高潔なさまと言ったら、「思わず笑う人がいるに違いない」とまで嘆いたという。『江南に渡った際、桓彝は司馬睿の朝廷が微弱であるのを見て、軍諮祭酒周顗に「私は中原の混乱を避け、安全を求めて来たというのに、こんなに弱々しくては、どうして事を成すことができようか!」と憂いと懼れのため』、『楽しめずにいた。軍諮祭酒王導のもとを訪れ、ともに世事のことについて語り合った。その後、周顗に「管夷吾(管仲)を見た。もう憂うことなどないぞ」と喜んだ』という。(以下は本エピソードの訳)『占術者の郭璞と親交を結んでいた。桓彝はいつも郭璞の妻がいる間にやってきた。郭璞は妻に「卿が他所から来られたら、小道の前で迎えるように。ただし、廁に入っているときは様子を探らなければだめだ。必ず客や私に災いが有るだろう」と告げた。桓彝が酔って郭璞の家にやってきて、廁で郭璞と会ってしまった。郭璞は裸になって髪を振り乱し、刀を咥えて祭壇を設けた。郭璞は桓彝を見て、心をなだめつつ』、『大いに驚き』、『「あなたと私は友ではあるが、今、来てはいけなかった。もう少し遅ければ、このようにはならなかった!』 『災いは私だけでなく、あなたも免れないだろう。これは天が成したことで、誰に罪があろうか」と言った。郭璞は王敦の乱で、桓彝は蘇峻の乱でいずれも殺害された』とある。さても、これは注に「晋書」の巻七十二の「郭璞」からとするのだが、例えば、中文サイトのこちらで、そちらの部分を読めるのだが、その禁忌の戒め部分は婦人に郭璞は妻に言ったように書き分けられてはいないし、私自身「戒」とする以上、これは郭璞が桓彝に禁忌として言ったとしか読まなかったし、読めないのである。ともかくもこのシークエンスは――郭璞が――誰にも見られないようにして――厠の中で厠の神を祀る秘密の儀式を行っていた――この秘儀が人に見られた場合には――祭祀をしている自分だけでなく――それを見てしまった人間にも災いが齎される――と言っているということである(そもそもが、この戒を妻に言った場合には、覗き見するのは、妻の可能性が志怪小説なら非常に高くなる気がするから、そうした意味からも、先の訳は、ちょっと変であると私は思う)。最後に言っておくと、桓彝が戦死するのは郭璞が殺された四年後のことであった。郭璞の予言は見かけ上は当たっていたようには見えないこともない。

「甲陽軍鑑」江戸初期に集成された軍学書。全二十巻。甲斐の武田晴信・勝頼二代の事績によって、甲州流軍法や武士道を説いたもの。異本が多く、作者は諸説あるが、武田家の老臣高坂弾正昌信の遺記を元に、春日惣二郎・小幡下野(おばたしもつけ)が書き継ぎ、小幡景憲が集大成したと見られている。現存する最古の板本は明暦二(一六五六)年のもの。

「阿群」一応、「あぐん」と読んでおくが、どのような由来を持つ僧侶かは全く不詳。

「眼睛耀射にして當たり難きを以て」その目の瞳の輝き照射する眼光が眩しく鋭いために、直接に対面して向き合うことが出来にくいことから。

「書紀二に猿田彥大神眼力强く、八十萬神皆目勝ちて、相問ふを得ずと有る」「南方熊楠 小兒と魔除 (4)」の私の注で「日本書紀」の当該箇所の原文及び訓読を電子化してある。

「無能勝三藏」「能く勝れるもの無き三藏法師」の意で、玄奘(げんじょう 六〇二年~六六四年)の尊称の一つ。

「螺髻梵王」以下は梵天の伝承の一つか。

「呪仙」ありとある呪術呪文・仙術法を駆使して。

「城塹」城壁と塹壕。

「如來」この場合は涅槃を経て成った「釋迦如來」のことのようである。

「不壞金剛」本来は「極めて堅固で決して壊れないこと・志を堅く守って変えないこと」で仏の身体について言った語とされる。「金剛」は金石(きんせき)の中で最も硬いダイヤモンド、或いは金又は鉄鋼石であるが、ここは釈迦如来の体内から遣わした金剛力士として仏身の変化の一部とされてある。

「酉陽雜俎十四、厠鬼の名は……」巻十四「諾皋記上」の『「太真科經」說』で始まる一節に、

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厠鬼名頊天竺【一曰笙。】。(厠の鬼は「頊天竺(ぎよくてんぢく)」と名づく【一つに「笙」と曰ふ。】。

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とある。私が面白く思ったのは、それに続けて、

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語忘、敬遺、二鬼名、婦人臨產呼之、不害人。長三寸三分、上下烏衣。(「語忘と「敬遺」とは、二鬼の名なり。婦人の產に臨むに、之れを呼ばば、人を害せず。長(た)け三寸三分、上下(かみしも)は烏衣(うい[やぶちゃん注:黒い着物。])たり。)

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ことである。熊楠も言っているように排泄と出産及び厠は親和性が強いのである。

「淵鑑類凾」(底本では「凾」と「函」が混用されている。統一する必要はないのでそのまま電子化してある)は清の康熙帝の勅により張英・王士禎らが完成した類書(百科事典)。一七一〇年成立。巻三百五十の「厠一」の一節に(「中國哲學書電子化計劃」の影印本のこの最後から視認し、一部の漢字は正字化した)、

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紀聞曰宣城太守刁緬初爲玉門軍使有厠神形見狀如大猪遍體皆有眼出入溷中游行院內緬時不在官吏兵卒見者千餘人如是數日緬歸祭以祈福厠神乃滅旬日遷伊州刺史歷官至翰林左將軍 語林曰石崇厠常有十餘婢列皆佳麗藻飾置甲煎沈香無不畢具又與新衣客多不能著王敦爲將軍年少往脫故衣著新衣氣色傲然羣婢謂曰此客必能作賊 世說曰王大將軍敦初尙主如厠見漆箱中盛乾棗本以塞鼻王謂厠上下果食遂至盡既還婢擎金澡盤盛水琉璃碗盛澡豆敦自倒著水中而飮之謂之乾飯羣婢掩口而笑之葆光錄曰台州有民姓王常祭厠神一日至其所見著黃女子云某台州人也君聞螻蟻言否民曰不聞遂懷中取小合子以指㸃少膏如口脂塗民右耳下戒之曰或見蟻子側耳聆之必有所得民明旦見柱礎下羣蟻紛紜聽之果聞相語移穴去暖處傍有問之何故云其下有寶甚寒住不安民伺蟻出訖尋之獲白金十錠

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これは後学の方のために写し置いただけで、よく意味が判らぬのだが、ここに出る王敦って、さっき出た郭璞を殺した彼か? 何か、因縁っぽい!

「支那にも朝鮮琉球等と齋しく、厠に家猪を畜て糞を食しむる風有りし」これはかなり知られた話である。家屋の厠の下が豚舎になっていて、人糞を豚が餌にしていたのである。実は便所を意味する「溷」或いは「圂」とはもともとは「豚小屋」の意である。「豕」+「囗」の会意で、「説文」に「囗に從ひ、豕の囗中に在るに象る」とあり、「囲いに豚がいる」という字で、「囲いに豚を飼い、また、その傍らで用を足しては人糞を豚の餌とする」ことを見する。「溷」は排泄で「水が濁る」の意と、「豢」が「家畜」という意に通ずる。畑の肥料ばかりではなかったのだ! 驚く勿れ! 嘗ては、瀬戸内海の食用マガキの養殖場では、中型船で人糞を肥料として大々的に撒いていたのだ。我々の幼少の頃の生牡蠣は俺たちの糞で育ったのだ!

「賈姬」前漢の第六代皇帝景帝が寵愛した邯鄲の出の賈姫(趙敬粛王劉彭祖と中山靖王劉勝の生母)。ウィキの「郅都」(しつと:景帝時代の酷吏として知られる)によれば、景帝が彼女を伴って、上林苑へ狩りに出かけ、郅都も同伴した。時に、賈姫が厠で用を足した折りに、突然、野生の猪が彼女がいる厠に猛進した。景帝はこれを見て、郅都に目配せしたが、郅都は助けに行こうとしなかったので、景帝は自ら武器を取って、助けに行こうとした。すると郅都は景帝の前に平伏して言った。「側室が失われようとも、陛下には数多の側室が御座います。しかし、陛下はたったお一人であります。陛下の身に何かあった時には、漢の宗廟や御生母の竇(とう)太后はどうなされますか?」と直言した。景帝は行くのを止め、やがて猪は厠から出て来て、森林に立ち去ったという。幸い賈姫は無事だった。景帝の生母の竇太后はこれを聞いて彼に金百斤を与え、また、これ以来、郅都は天子や竇太后の信頼が絶大となり、重用された、とある。

「呂后が戚天人を傷害して厠中に置き人彘と名けし事」「呂后」呂雉(りょち 紀元前二四一年~紀元前一八〇年)。恵帝の母。中国で「三大悪女」として唐の武則天(則天武后)・清の西太后とともに名が挙げられる。高祖の没後、彼女の子である恵帝が即位して間もなく、呂后は、恵帝の有力なライバルであった高祖の庶子斉王劉肥や趙王劉如意の殺害を企てた。斉王の暗殺は恵帝によって失敗したものの、趙王を謀殺、その生母戚夫人を奴隷に落として両手両足を切断した上、両目を刳り抜いた上に、薬を用いて耳と声帯を潰し、その後、便所に置いて「人彘」(人豚(ひとぶた))と呼ばせ、そのさまを笑い転げながら見ていたと史書にはある(ウィキの「呂雉」に拠った)。

「郭登」中国伝来で本邦でも厠神の一名として知られた。ウィキの「加牟波理入道」(かんばりにゅうどう)によれば、『鳥山石燕の妖怪画集』「今昔画図続百鬼」に載る『日本の妖怪、および日本各地の厠(便所)の俗信に見られる妖怪。同画集では、『厠に現れる妖怪として口から鳥を吐く入道姿で描かれ、解説文には以下のようにあり、大晦日に「がんばり入道郭公(がんばりにゅうどうほととぎす)」と唱えると、この妖怪が現れないと述べられて』ある。所持する同画集(一九九二年国書刊行会刊「鳥山石燕  画図百鬼夜行」の原画図)により電子化した。仮名遣いは総てママである。

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  加牟波理入道(かんばりにうどう)

大晦日の夜厠(かはや)にゆきてがんばり入道郭公(ほとゝきす)と唱(とな)ふれば妖怪(よふかひ)を見ざるよし世俗(せぞく)のしる所也もろこしにては厠神(かはやかみ)の名を郭登(くはくとう)といへりこれ遊天飛騎大殺(ゆうてんひきだいさつ)將軍とて人に禍福(くはふく)をあたふと云郭登(くはくとう)郭公(かつこう)同日(どうじつ)の談(だん)なるべし

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同書解説に、この郭登は実在する明の武将とする。郭登(一四〇三年~一四七二年)である。実在した郭登については九州大学中国文学会二〇一七年十二月発行の『中国文学論集』所収の井口千雪氏の論文『明朝勲戚武定侯郭氏と文学 「諸葛の如き」定襄伯郭登PDF)が詳細を極めるが、彼が何故、厠神とされるかの記載は、残念ながらなく、不明である。ウィキの引用を続ける。『兵庫県姫路地方では、大晦日に厠で「頑張り入道時鳥(がんばりにゅうどうほととぎす)」と』三『回唱えると、人間の生首が落ちてくるといい、これを褄に包んで部屋に持ち帰って灯りにかざして見ると、黄金になっていたという話もある』。松浦静山の「甲子夜話」にも『これと似た話で、丑三つ時に厠に入り、「雁婆梨入道(がんばりにゅうどう)」と名を呼んで下を覗くと、入道の頭が現れるので、その頭をとって左の袖に入れてから取り出すと、その頭は』、『たちまち』、『小判に変わると記述されている』(私は「甲子夜話」の電子化注を行っているが(全部所持してはいる)、調べたところ「甲子夜話第三篇」にあるという情報は得たものの、探し得ていない。見つけたら、電子化し、ここにリンクを張る)。『一方で、この呪文が禍をもたらすこともあるといい、江戸時代の辞書』「諺苑」では、『大晦日に「がんばり入道ほととぎす」の言葉を思い出すのは不吉とされる』とあるという。『加牟波理入道とホトトギスの関連については、文政時代の風俗百科事典』「喜遊笑覧」に、『厠でホトトギスの鳴き声を聞くと不祥事が起きるとの俗信が由来で、子供が大晦日に厠で「がつはり入道ほととぎす」とまじないを唱えるとの記述があり(「がつはり」は「がんばり」の訛り)』、『中国の六朝時代の書』「荊楚歳時記」にも』同様に、『厠でホトトギスの鳴き声を聞くのは不吉と述べられている』。『また、ホトトギスの漢字表記のひとつ・郭公(かっこう)が中国の便所の神・郭登(かくとう)に通じるとの指摘もある』。『岡山県の一部では、加牟波理入道の俗信が見越し入道と混同されており、厠で見越し入道が人を脅かすといい、大晦日の夜に厠で「見越し入道、ホトトギス」と唱えると見越し入道が現れるなどといわれている』。『中国の巨人状の妖怪「山都」が日本に伝わり、厠神(便所の神)と混同された結果、この妖怪の伝承が発祥したとの説もある』(「山都」については、私の古い電子化注寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」にある「みこし入道 山都」を参照されたい)。『十返舎一九による読本』「列国怪談聞書帖」には『「がんばり入道」と題した以下の話がある』。『大和国(現・奈良県)で、淫楽に取りつかれた男が、一族の者に性癖を諌められたために剃髪して山中の小屋におり、白目をむいて女たちを見張るので、「眼張(がんばり)入道」とあだ名されていた』。『あるとき』、『入道の留守中に盗賊が小屋に忍び込むと、入道にさらわれた娘が閉じ込められていた。盗賊は娘を哀れんで』、『家から連れ出そうとしたところ、入道が帰って来て』、『娘を帰すまいとしたので、盗賊は入道を殺し、娘を親元に帰した』。『以来、白い着物姿の入道の霊が娘の家に現れるようになった。親が娘を隠すと、入道は娘を捜して村中の家、馬屋、便所を狂い歩き、村人たちを恐れさせた』。『しかしある晩、入道は犬に噛み殺されてしまった。夜が明けると、そこには白い着物をまとったキツネが死んでいた。人々は笑い、キツネが入道を真似た挙句に呆気ない最期を遂げたと言い合ったという』とある。

「陶侃(とうかん)」(二五九年~三三四年)は東晋初期の名将。鄱陽 (江西省) の人。荊州刺史として先に出た司馬睿の命を受けて流民集団杜弢 (ととう)の討伐に当たった。一旦、広州刺史に左遷されたが、後に再び荊州刺史となって。「蘇峻の乱」の平定に功があった。東晋最大の州鎮の統帥として大きな勢力を持ち、長沙郡公となり、在任のまま没した。彼をどうしても注したかったのは、彼の曾孫が、かの名詩人陶淵明であるからである。

「介幘(かいさく)」髻(もとどり)を覆い隠して髪を包むのに附けた頭巾。

「庾翼(ゆよく)」(三〇五年~三四五年)は東晋前期の政治家・武将・書家。潁川郡鄢陵県(現在の河南省許昌市鄢陵県)の出身。当該ウィキによれば、『風儀に優れ、幼くして経綸大略に通ずると評され』、『後に南蛮校尉・南郡太守・輔国将軍と叙任し』、三四〇年、『都督江荊司雍梁益六州諸軍事・安西将軍・』荊州刺史となり、『武昌に鎮した。庾翼は領地の地方都にまで軍令を行き届かせ、数年の内に官府の庫や人民たちの財までも充実させるなど』、『良政を敷いた』ことから、『黄河以南の地の人民から支持を得たという』。三四三年、『後趙の汝南郡太守である戴開が数千人を伴って投降してきた事を機に、庾翼も北伐の大志を抱くようになり、前燕の慕容皝と前涼の張駿に使者を送って期が来れば同調して起兵するよう求めた。またこれに伴って領内での賦役を強化するようになり、広州の海道の人を百姓として徒民させた』。『康帝(司馬岳)に庾翼は北伐を上表し、加えて鎮を対後趙の最前線である襄陽へと移すことへの許可を求め、承認も得ぬうちから六州から牛や驢馬を徴発し始めていたが』、『朝廷に却下され、続いて安陸への移鎮を求めるも』、『これも却下された。これらの行動を車騎参軍の孫綽に諌められるも』、『聞く耳』を『持たず、夏口へと勝手に軍団を移動させて再度襄陽への移鎮を上表すると、実兄の庾冰や桓温、譙王司馬無忌らの賛成によって襄陽への移鎮が承認され、都督征討諸軍事(後に征西将軍・南蛮校尉も追加)となり、庾翼の代わりに庾冰が武昌へと移り、後任に入った』。三四四年、『庾翼は桓宣に後趙に占拠されていた樊城の攻略を命じたが、桓宣は丹水の戦いで後趙の李羆の前に大敗を喫し、これに激怒した庾翼は桓宣を建威将軍に降格した上で峴山へと左遷した。同年中に成漢討伐に周撫と曹璩を向かわせたが、江陽で李桓に敗れた。また』、十一月に『庾冰が亡くなると』、『長子の庾方之に襄陽の守備を任せて夏口へと移り、庾冰の領兵を自らの指揮下に置き、朝廷からは江州・豫州刺史に任じられたが』、『豫州刺史は辞退し、替わりに楽郷への移鎮の許可を要求したが朝廷に拒否された』。三四五年、『背中の疽からにわかに発病して七月』『に亡くなった。享年』四十一であった。『朝廷より車騎将軍を追贈され、諡号は粛とされた。亡くなった際の官途は持節・都督江荊司梁雍益寧七州諸軍事・江州刺史・征西将軍・都亭侯。死に際して庾翼自身は次子である庾爰之を後継に望んだが、宰相何充は荊州の戦略的重要性から能力のある人間が当たるべき職務であるとして桓温を後任に据え、庾翼の持っていた強大な軍権をほぼそのまま桓温に引き継がせた』とある。悪性の腫瘍で亡くなったというのは、厠神を撃ったそれと親和性は感じられる。『東晋国内では書家としても著名であり「故史従事帖」などの作がある。草隷に優れ、当時においては王羲之と並ぶほどの人気があったという』。『桓温については若年』の時から『目を掛けており、明帝(司馬紹)に桓温を推挙する際に「若くして武略を知るので特別な職を与えるべき」「いずれ国の艱難を救う」と評した』という。

「方相(はうさう)」方相氏。本来は中国周代の官名。宮中にあって年末の大切な追儺 (ついな)の節会に於いて、悪鬼を追い払う役を担当した。黄金の四つ目の仮面を被り、黒い衣に朱の裳 を着し、矛と盾を持って、内裏の四方の門を回っては鬼を追い出した。グーグル画像検索「方相氏」をリンクさせておく。

「歲時記」六朝時代(二二二年~五八九年)の荊楚(現在の湖北・湖南省)地方の年中行事や風俗を記録した梁の宗懍(そうりん)の撰になる「荊楚歳時記」か。六世紀半ば頃の成立。

「異錄傳」不詳。前蜀(九〇七年~九二五年)の杜光庭撰の志怪小説集「錄異記」か。但し、以下の話は東晋の政治家・文人干宝(?~三三六年)の知られた志怪小説集「搜神記」に後半を除くと、概ね同型話で載るものである。

「廬陵」江西省。

「歐明(わうめい)」不詳。

「彭澤湖(はうたくこ)」現在の江西省にある鄱陽(はよう)湖。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「禪衣(ぜんえ)」僧衣でよい。

「靑湖君」「搜神記」では「靑洪君」。

「如願(じよぐわん)」語としては「願い事が叶う」の意。

「婢」侍女。

「後の正旦(ぐわんたん)、如願、晚(おそ)く起くるに、明、醉ひて之れを撻(う)つ。糞壤[やぶちゃん注:堆肥置き場。]の中(うち)に走り入りて見えず。今人(きんじん)、正旦に繩を以つて偶人(ぐうじん[やぶちゃん注:傀儡(くぐつ)。人形。])に繋び、糞壤の中に投じ、『願ひのごとくならしめよ』と云ふは、此れを以つてなり」この部分は「搜神記」にはなく、「神婢」の「如願」が「厠神」らしきものになった由来譚として形成されてある。しかし、何故に元旦に如願が寝坊したのかが、明らかでなく、後の風俗として、何故、繩で傀儡を縛り、肥溜めの中に投じ、「願いの通りにならしめよ」と呪文するようになったのかといった、核心部分が、孰れも上手く繋がらず、そこにこそ超自然の因果を感じさせはするものの、私にはやはり、竹で鼻を括ったような納得出来ない不快感が感じられる。酔ってやってはならないことを成してしまい、幸福が永遠に去るというのは、神話に於ける禁忌システムの発動ではあるのだが。

「平賀鳩溪實記」「鳩溪」は平賀源内(享保一三(一七二八)年~安永八(一七八〇)年)の号。竹窓櫟齋(ちくそうれきさい)なる不詳の人物による天明八(一七八八)年頃に書かれた源内の実録伝奇風の読物。その「卷一」の「三井八郞右衞門源内へ對面の事」は国立国会図書館デジタルコレクションの画像のこちら(写本。標題は「平賀實記」)から読める。遊女白糸を請け出して三井八郎右衛門(かの三井家総領家である北家の当主が代々名乗った名)に恩を売ったとったことが書かれている。但し、本書は実録性が疑われている。自制的には三井家四代目当主代三井高美(たかよし 正徳五(一七一五)年~天明二(一七八二)年)となろう。熊楠の引用はここの左頁五行目からで、重大な箇所「凡そ富貴人と申すは泉州岸和田に住居致す飯の彌三郞と三井計と存ずる也」ここの右頁の三~四行目に現われるが、ネット上では「泉州岸和田」の「飯の彌三郞」は如何なる人物か具体的には書かれているものが見当たらない。【202133日追記】私の各種のテクスト注に対して、いつも情報を頂戴するT氏より、これは「平賀鳩溪實記」や南方熊楠の表記に問題があり、この当時は(後述する)「食野」(めしの)であったと御指摘を受けた。ウィキの「食野家」(めしのけ)によれば、食野家は、江戸『中期から幕末にかけて和泉国日根郡佐野村(現在の大阪府泉佐野市)を拠点として栄えた豪商の一族。北前船による廻船業や商業を行うほか、大名貸や御用金などの金融業も行い、巨財を築いた。 屋号は「和泉屋」。同じく同地で栄えた唐金家(からかねけ)とともに、江戸時代の全国長者番付「諸国家業じまん」でも上位に記されている』。『食野家の出自は、楠木正成の子孫の大饗(おおあえ)氏。初代正久のときに武士から廻船業に乗り出したとされている』。「食野家系譜」などの『資料によると、食野家の廻船業は西回り航路が開かれて北前船が天下の台所に入港する』十七『世紀後半には』、百『隻近い船を所有して全国市場に進出するなど』、『大いに発展した。大坂から出航するときは木綿、綿実や菜種油などを運び、奥州からの帰りには米やニシンや干鰯(ほしか)などを運ぶなどして、廻船業や大名貸しなどで巨財を築き、大豪商となった。』。『摂津国西成郡春日出新田(現在の大阪市此花区春日出中)を入手し、さらに西道頓堀川付近、幸町や南堀江一帯に家屋倉庫を所有したほか、本拠である佐野村では豪壮な邸宅と海岸沿いの道路の両側に「いろは四十八蔵」と呼ばれた大小数十の倉庫群が建てられるなど、現在の泉佐野駅から浜側一帯が貝塚寺内や岸和田城下を凌ぐ「佐野町場(さのまちば)」として栄える中心的存在となった。岸和田藩では藩札の札元に任命されるなど、唐金家とともに同藩の財政を支える上で重要な役割を果していた』。宝暦一一(一七六一)年には『鴻池家、三井家、加島屋など』の『名だたる富豪と並んで同額の御用金を受け』、文化三 (一八〇六)年には『三井家とともに本家が』三『万石、分家が』一『万石の買米を命じられた。大名貸しでは岸和田藩はもちろん』、『尾張徳川家・紀州徳川家など』、実に『全国の約』三十『藩に』四百『万両ともいわれる多額の資金を用立てた』。しかし、『その後、幕末には廻船業が停滞したことや、廃藩置県で大名への莫大な貸金がほとんど返金されなかったこと、家人の放蕩などにより』、『一気に没落に至り、同家は同地に現存していない。屋敷跡は』弘化元・二(一八四五)年に『佐野村が買収し、現在の泉佐野市立第一小学校となっており、松の木と井戸枠、石碑が残されている。また』、『いろは四十八蔵も海岸筋に』八『棟が現存している』。『末裔にプロサッカー選手の食野亮太郎がいる』。『食野家の当時の発展ぶりを示すエピソードが多数残されている』。例えば、『地元の盆踊り(佐野くどき)では「加賀国の銭屋五兵衛か和泉のメシか」と唄われて』おり、『大名貸しをしていた紀州藩では、参勤交代の往復に紀州公が食野家に立ち寄ったといわれ、ざれ歌で「紀州の殿さんなんで佐野こわい、佐野の食野に借りがある」と唄われた』。また、『食野の当主(佐太郎を世襲)が、にわか雨で雨宿りした紀州公の家来』一千『人を』、『とりあえず』、飯櫃(めしびつ)『に残っていた冷や飯でまかなったことから、「佐太郎」は冷や飯の代名詞とされ、川柳に「佐太郎を三度いただく居候」や「佐太郎は茶金の上に腰を掛け」など唄われた』という。また、『井原西鶴の』「日本永代蔵」には、『唐金家とともにモデルとなったといわれている。(同作品中に』は『食野家の所有する千石船「大通丸」をもじった「神通丸」が登場する』。『上方落語「莨(たばこ)の火」に、気前のいいお大尽「食(めし)の旦那」として実名登場する』とある。また、T氏は、「国文学研究資料館(歴史資料)和泉国日根郡佐野村食野家文書」(大永二(一五二二)年~明治四二(一九〇九)年)の書誌データも紹介して下さった。それを見ると、『佐野村は現泉佐野市の北西端に位置し、北は大阪湾に面する大村で』、『和泉九カ浦の中で最も繁栄し』、『特に食野家と唐金家は廻船業と大名貸で財をなしたことで有名である。食野家の初代多右衛門正久は、大饗二郎左衛門正虎から分かれ、故があって大饗の姓を食と改め、武を捨てて商家となったと伝えられている』。「食野」はこの文書の初期のそれにあっては、「めし」・「食」であって、本文書群の中では元禄から享保(一六八八~一七三四年)頃から「食野」となっている。『食野家の存在を示す最も古い文書は売券』(ばいけん・うりけん:売り渡し証文。沽券)で、天正一五(一五八七)年八月附のもので、売却先を『「めし左太郎」』と記し、元和四(一六一八)年五月28日附のそれでは、『十良大夫』なる人物が『屋敷地を』『「めし二良左衛門尉」に売却していることなどから、天正年間から佐野に住居し、土地集積を行っていたことがわかる。食野家は』十七『世紀後半には全国市場に進出して活躍するが、その活動資金がどのように蓄積されたかについては未詳である。全盛期の主業は廻船業と大名貸で、この富を背景にして』、享保七(一七二二)年に『大坂春日出新田を入手し、さらに西道頓堀付近、幸町、堀江一帯にわたって家屋倉庫を所有している。本拠である佐野においても』、『富を象徴する豪壮な邸宅と海岸に沿う道路の両側に「いろは四十八蔵」を建てた』。『一方で』、『岸和田藩との関係も密接で、藩札の札元に任命されているし、藩財政を支える上で重要な役割を果している。幕末になると食野家は廻船業の停滞と、大名貸の焦げ付きが原因となって急速に衰退する』とある。則ち、同家は姓として、戦国末期には「めし」を、元禄頃からは「食野」を使ったことが判る。T氏は他にも、泉佐野市立中央図書館の「いずみさのなんでも百科」の「食野家」と、「新庄デジタルアーカイブ」内の「諸国家業じまん」番付表の画像を紹介して下さった。前者には、『本家は幼名佐太郎、次郎左衛門を襲名。分家は吉左衛門を名乗り』、『食野家は楠木氏の子孫で室町時代中頃にはすでに佐野に住んでいた』らしく、『大饗(おおあえ)氏を名乗ってい』『たが、初代正久のときに』『食を名乗り、武士を捨て』、『廻船業に乗り出し』たとし、『食の姓はいつしか 通りがいい食野に変わっていったようで』、『江戸時代中期の』宝暦一一(一七六一)年には『鴻池、三井、加島屋など名だたる富豪と並んで同額の御用金を受け、後期の』文化三(一八〇六)年には『三井とともに本家が』三『万石、分家が』一『万石の買米』(かいまい:米価引き上げなどの目的から幕府・諸藩が大名や市中の商人に米の買いつけを命じたこと。また、その米。幕府や藩自身が買い取る場合もあった)『を命じられるほどで』、『食野家の当時の発展ぶりは「加賀の銭屋か和泉のメシか」といわれるほどで、佐野くどきにも数々のエピソードが唄いこまれてい』るとある。後者の「諸国家業じまん」番付表では、東の大関(当時は横綱はないので最高位)に「三井八郎右ヱ門」が、西の大関に「飯野佐太郎」と記されてあるのが見られる。いつも乍ら、T氏に心より感謝申し上げるものである。

「倭漢三才圖會八一に白澤圖云、……」同書の「厠」の項を所持する原本から以下に訓読して示す。「【音 】」の実際の漢字が欠字なのは総て同じ。一部の読みや送り仮名は私が推定で附した。字の大小は項目の「廁」以外は無視した。

   *

かはや      圂【音 】 溷【音 】

 せつちん    圊【音 】 偃【音 】

【音差】     和名「加波夜」。

         俗云雪隱

ツアヽ

「說文」に徐氏が云はく、「廁、古へ之れを『清』と謂ふ。言ふこころは、其の不潔、常に當に清く之れを除くべきを以つてなり。

「白澤圖」に云はく、「厠の精を倚(い)と名づく。靑衣を著(き)、白き杖を持つ。其の名を知りて之れを呼べば、除く[やぶちゃん注:姿を隠す。]。其の名を知らずして之れを呼べば、則ち、[やぶちゃん注:声に出して呼んでしまったその人間は。]死す。又、云はく、室を築けば[やぶちゃん注:新築した家の廁には。]、三年、其の中に居らず。人を見るときは、則ち、面(おもて)を掩(おほ)ひ、之れを見れば、福、有り。」と。

「居家必用」に云はく、「厠の神【姓は】、廓、【名は】、登、是れ、『庭天飛騎大殺將軍』なり。觸れ犯(おか)すべからず。能く灾福(さいふく)[やぶちゃん注:「灾」は「災」の異体字。]を賜ふ。」と。

「五雜爼」に云はく、「今、大江[やぶちゃん注:長江。]より北の人家、復た厠を作らず。但し、江南は廁を作りて、皆、以つて、農夫と[やぶちゃん注:人糞を。]交易すればなり。江北には水田無き故、糞、用いる所、無し。其れ、地上に乾くを、然るの後(のち)、土に和して、以って田に漑(そゝ)ぐ。京師(みやこ)には、則ち、溝の中に停(とゞ)めて、春を俟(ま)ちて後(のち)、之れを發(あば)き、日中に暴(さら)す。其の穢氣(をき)、近づくべからず。」と。

   *

『「鄕土硏究」一卷七號なる「南方隨筆」に擧たり』既に注した通り、これは後の「續南方隨筆」(本書(五月刊)と同じ大正一五(一九二六)年十一月に同じ岡書院から出版)の中で単発初出などを総括した「『鄕土硏究』一至三號を讀む」の一節にある「呼名の靈」で、これは『鄕土硏究』三号の一五八頁に載る桜井秀氏の論考「呼名の靈」に対する熊楠お得意の触発された追加論考である。これは半世界的に神話・伝説に典型的に見られる「言上(ことあ)げ」の先に名指したものが勝つタイプの先手必勝型の「名指し」=「見切り」型のそれについての事例である。私は本書の電子化注の後に「續南方隨筆」に取り掛かる予定である(何時になるか判らぬが)。今、読まれたい方は、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のこちらから読め、「私設万葉文庫」のこちらで一九七一平凡社刊「南方熊楠全集第二巻」の新字新仮名に変えた電子化本文が読める。

「酒井忠一子」「子」は子爵の意。伊勢崎藩九代藩主で子爵酒井忠彰の子(次男以下)。生没年未詳。

「ツイトンガ島」南太平洋に浮かぶ約百七十の島群からなるトンガ王国(グーグル・マップ・データ)。イギリス連邦加盟国の一つ。オセアニアのうちポリネシアに属し、サモアの南、フィジーの東に位置し、首都のヌクアロファは最大の島トンガタプ島にある。サイト「ポリネシアの神話・伝説」の「トンガの島々と人々の起源(トンガ)」によれば、本来、この「ツイ・トンガ」とは『トンガの聖なる人々の系譜』を意味するという。その興味深い創世神話がリンク先に記されているので、是非、読まれたい。

「得脫」生死の境を脱して永遠の神の世界の存在となること。仏教用語の転用。

「Waitz und Gerland, ‘Geschichte der Naturvölker, ’Band 6, s. 329, Leipzig, 1872」ドイツの心理学者・人類学者フランツ・テオドール・ワイツ(Franz Theodor Waitz 一八二一年~一八六四年)と、ドイツの地理学者ゲオルク・コーネリアス・カール・ガーランド(Georg Cornelius Karl Gerland 一八三三年~一九一九年)の共著になる‘Anthropologie der Naturvölker’ (「原始人人類学」。全六巻で実際の著者はワイツ。一八五九~年一八六四年刊。第五・六巻をガーランドがワイツの死後に編集したもの)の第六巻‘Die Völker der Südsee. 3. Abt. Die Polynesier, Melanesier, Australier und Tasmanier.’(「南洋の人々」第三部[やぶちゃん注:これは第五巻からの続いたものである。]「ポリネシア人・メラネシア人・オーストラリア人・タスマニア人」)。ドイツ語が読める方は、‘Internet archive’のこちらで同六巻の全原本がある(一八七二年版)

「クマラ」。南アメリカ大陸、ペルー熱帯地方原産地とされる、ナス目ヒルガオ科サツマイモ属サツマイモ Ipomoea batatas の南洋一帯での呼称。当該ウィキによれば、例えば、ニュージーランドへは十『世紀頃に伝播し、「クマラ」(kumara)の名称で広く消費されている。西洋人の来航前に』、『既にポリネシア域内では広く栽培されていたため、古代ポリネシア人は南米までの航海を行っていたのではないかと推測されている』とある。

「其事、書紀卷一、伊弉册尊已に黃泉之竈(よもつへぐひ)して此世に還るを得ず、伊弉諾尊之を見て黃泉より逃出るを、醜女八人追ければ、尊黑鬘と湯津爪櫛を投て葡萄と筍を化成し、醜女之を食ふ間に泉津平坂に到り玉へえるに似たり」私の好きな「呪的逃走(呪物投擲逃走)」システムの起動を示す、本邦の神話の最初の出現である。「小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附原文 附やぶちゃん注(18) 神道の發達(Ⅰ)」の私の注で訓読文を示してあるので、是非、読まれたい。また、本神話や熊楠の以下に挙げるような西洋の類型譚については、福島秋穗氏の論文「記紀に載録された呪物投擲逃走譚について」(『国文学研究』一九七九年十月発行。「早稲田大学リポジトリ」のこちらPDFでダウウ・ロード出来る)が優れている。必読!

梁の慧皎の高僧傳」南朝梁の僧慧皎(四九七年~五五四年)の撰になる、中国への仏教伝来以来、後漢(西暦六七年)から梁の西暦五一九年までの四百五十三年間に及ぶ期間の高僧二百五十七名及び附伝する二百四十三名から成る壮大な伝記である。高僧の伝記を集めたもの。「梁高僧傳」「梁傳」とも呼ぶ。全十四巻。五一九年成立。当該ウィキによれば、『慧皎以前にも、梁の宝唱撰の「名僧伝」のように数種の僧伝が既に存在していたが、慧皎は、それら先行する類書の編集方針に満足できず、自ら新たに「高僧伝」を撰しようと思い立ったと、巻末に収められる自序において述べている。具体的には、「名僧伝」等は、世間で有名な僧、あるいは著名な僧の伝記を集めている。しかし、仏教の教えの観点から言えば、たとえ無名であっても、すぐれた僧、高僧は居る筈である。そういった僧の伝記が失われてしまうのを恐れて、「高僧伝」という名を立て、また、その観点から見て相応しいと判断した僧の伝記を収録した、と述べている』。以下の当該部は、「中國哲學書電子化計劃」のここから影印本で原本が読める。第八卷の「齊蜀齊后山釋玄暢」である。

「劉宋」南北朝時代の劉宋(四二〇年~四七九年)。

「釋玄暢」北方の著名な高僧玄高の弟子で、師に従って平城に行くが、ここある通ように北魏の太武帝が仏教を弾圧して、滅法を行った際には劉宋に逃げ込んでいる。彼は三論・華厳に通じており、「法華文句」の中にも、その名が見える(以上は信頼出来る複数の仏教論文に拠った)。

「幽」幽州。漢代に設置されたそれは現在の河北省・遼寧省・北京市・天津市を中心とする地域に当たる。

「冀」冀州(きしゅう)。現在の山西・遼寧・河北・北京・天津・フフホト(呼和浩特)・ウランチャブ(烏蘭察布)など、七つの省市に分属する附近。

「孟津」河南省洛陽市孟津県(もうしんけん)附近(グーグル・マップ・データ)。黄河右岸。

「揚州」中国古代のそれは「九州」の一つで、淮河南岸から南シナ海沿岸までの地方が想定されているが、理化し易いのは、隋代以降の州で、現在の江蘇省揚州市(グーグル・マップ・データ)に相当する。

「希臘譚に、繼母魔質にして一男一女童を殺し食はんとし、二童犬の敎により逃るゝを魔母追來る、其時童男小刀を投れば廣原となり、次に櫛を投れば密林となり、最後に鹽を投れば浩海と成て遂に遁れ去るを得と有り」この話、非常に惹かれるのだが、その話を知らない。先の福島氏の論文にもぴったりくるものを見出せない。

「スカンヂナヴヰア譚に一童子巨鬼に逐れ走る時其騎馬に敎えられて三物を携ふ、鬼逐うふ事急なるに臨み、先づ山査子[やぶちゃん注:「さんざし」。バラ目バラ科サンザシ属山査子[やぶちゃん注:「さんざし」。バラ目バラ科サンザシ属セイヨウサンザシ Crataegus monogyna。]。]の枝を投れば彼木の密林生じ、石を投れば大巖と成り、甁水を投れば大湖と成て鬼を障え童子脫するを得と有り」同前。なお、セイヨウサンザシについては、呪的効果が知られ、例えば、吸血鬼を滅ぼすために胸に打ち込む杭は同種である必要がある。

「Tozer,‘Researches in the Highlands of Turkey,’1869, vol. ii, pp. 273-274」イギリスの牧師で作家・地理学者としても知られたヘンリー・ファンショー・トーザー(一八二九年~一九一六年)の「トルコ高地の研究」。‘Internet archive’で原本が見られ、当該部はこちらから。

「Clouston, ‘Popular Tales and Fictions,’ 1887, vol. i, pp. 439-443」スコットランドの民俗学者ウィリアム・アレクサンダー・クローストン(一八四三年~一八九六年)の「知られた話群と虚構」。Internet archive’で原本が見られ、当該部はこちらから。]

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