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2021/03/31

芥川龍之介書簡抄25 / 大正三(一九一四)年書簡より(三) 五月十九日井川恭宛

 

大正三(一九一四)年五月十九日・京都市吉田京都大學寄宿舍内 井川恭樣・芥川龍之介

 

僕の心には時々戀が生れる あてのない夢のやうな戀だ どこかに僕の思ふ通りな人がゐるやうな氣のする戀だ けれども實際的には至つて安全である 何となれば現實に之を求むべく一に女性はあまりに自惚[やぶちゃん注:「うぬぼれ」。]がつよいからである二に世間はあまりに類推を好むからである

 

要するにひとりでゐるより外に仕方がないのだが時々はまつたくさびしくつてやり切れなくなる

 

それでもどうかすると大へん愉快になる事がある それは自分の心臟の音と一緖に風がふいたり雲がうごいたりしてゐるやうな氣がする時だ(笑ふかもしれないが) 勿論妄想だらうけれどほんとにそんな氣がして少しこはくなる事がある

 

序にもう一つ妄想をかくと何かが僕をまつてゐるやうな氣がする 何かが僕を導いてくれるやうな氣がする 小供の時はその何かにもつと可愛がられてゐたがこの頃は少し小言を云はれるやうな氣がする 平たく云ふと幸福になるポツシビリチーがかなりつよく自分に根ざしてゐるやうな氣がする それも仕事によつて幸福になるやうな氣がするのだから可笑しい

幸福夢想家だと君は笑ふだらう

 

無智をゆるす勿れ 己の無智をゆるす爲に他人の無智をゆるすのは最卑怯な自己防禦だ 無智なるものを輕蔑せよ(ある日大へん景氣がよかつた時)

 

オックスフォードの何とか云ふ學者が「ラムをよんで感心しないものには英文の妙がわからない ESSAY・ON・ELIA[やぶちゃん注:縦書。]は文學的本能の試金石だ」と云つた有名な話があるさうだ 上田さんのラム推奬の理由の一として御しらせする

 

試驗が近いんだと思ふとがつかりする 試驗官は防疫官に似てゐる 何となれば常に吐瀉物を檢査するからだ 眞に營養物となつたものを測るべき醫學者が來ない以上試驗は永久に愚劣に止るにちがひない ノートをつみ上げてみるとほんとうにがつかりする

 

   キヤラバンは何處に行ける

   みやれば唯平沙のみ見ゆ

   何處に行ける

 

   行きてかへらざるキヤラバンあり

   スフインクスも見ずに

   砂にうづもれにけむ

 

   われは光の淚を流さゞる星ぞ

   地獄の箴言をかゝざるブレークぞ

 

   わが前を多くの騎士はすぎゆくなり

   われも行かむと時に思へる

 

   メムノンはもだして立てり

   黎明は未來らず

   暗し――暗し

 

   何時の日か日の薔薇さく

   ほのぼのと

   何時の日かさくとさゝやく聲あり

 

   象牙の塔をめぐりて

   たそがるゝはうすあかり

   せんすべなさにまどろまんとする

 

[やぶちゃん注:現行では、この冒頭に記される「戀」については、この頃の芥川龍之介が、結婚を熱望しながら、親族の反対によって、結果、夢破れた吉田弥生(以前は彼女を初恋の相手とすることが多かったが、今は前回に恋文の草稿(推定)を示した吉村千代が初恋と考えられいる)のことと採るのが一般的であるようだ。しかし、少なくともこの書き方を彼女一人に限定して読み解くことは、危険というより、表現上から、全く無理である。これはまさに男女を問わぬ多様な恋情(但し、龍之介が山本や井川かく書く時には女を作為的に匂わせている可能性は俄然高くなる)に駆られる青年龍之介の夢のような告解のポーズととる方が無難であると考えている。私は、「誰が初恋か」と議論は、母存在のトラウマとしての欠損感が異様に強く、女に惚れ易かった恋多き芥川龍之介にして、あまり意味を成さないように感ずる(但し、個人的には彼の女性への初恋は吉村千代と考えている)。寧ろ、彼の同性愛嗜好に着目すると、既に見てきた通り、幼馴染みの山本喜誉司や井川(後に恒藤姓)恭を筆頭とし、晩年の小穴隆一まで、非常に興味深い関係性が見えてくる。なお、芥川龍之介は未定稿で、「VITA SEXUALIS」及び「VITA SODMITICUS(やぶちゃん仮題)」を書いており、私は既に電子化し、別に詳細語注も附している(因みに言わずもがなであるが、本邦では男性の同性愛は古くからごく近代まで、普通の男性間に普通にあった。プラトンの「パイドロス」を読めば、ソクラテスの時代から、男女の愛は不全であり、男性同士の愛こそが至高であったのであり、「プラトニック・ラヴ」(Platonic love)とは「精神的な純潔なる愛」などではなく、「男対男の精神及び肉体双方の完成された愛」の謂いである)。

 話が脱線した。もとに戻ると、吉田弥生については、一九九二年河出書房新社刊の鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」がよい。例えば、この二ヶ月後の、『七月二〇日~八月二三日、友人の堀内利器の紹介で彼の故郷千葉県一宮海岸に行き、約一カ月滞在する。午前中は読書と創作とにあてていたが、あまり熱心ではなく、もっぱら海水浴と昼寝を楽しんだ。幼なじみで初恋の人吉田弥生に二度目の手紙を書き、やがて結婚を申出るが、芥川家の反対で翌年二月頃破局を迎え、弥生はまもなく陸軍中尉金田一光男と結婚して去る。この事件は芥川の精神に大きな傷痕を残すことになる』とあり、その下方のコラム「破れた初恋」に以下のようにある。

   《引用開始》

 恋人吉田弥生は東京深川で明治二五年三月に生まれ、芥川とは同い年であった[やぶちゃん注:弥生は一八九二年三月十四日生まれで、芥川龍之介は同年同月三月一日生まれ。弥生は昭和四八(一九七三)年二月に亡くなっている。]。母よし(旧姓中村)は東京人、父長吉郎は岩手県盛岡出身で上京後、よしの家に寄寓して銀行に勤め、弥生の出生後、芝愛宕下の東京病院会計課長となり、一家は同地の病院構内に移った。

 芥川の実家新原家は東京病院のすぐ近くであり、病院に[やぶちゃん注:敏三の経営する「耕牧舎」が。]牛乳を納めていたので敏三と長吉郎は知り合いとなり、一家で親しく交際し、龍之介と弥生は幼なじみであった。

 弥生は東京高等女学校から青山女学院英文科に進み、同校を大正二年に卒業。英文学だけでなく、東西の美術や文学にも親しみ、短歌も作る才媛で、その容色とおちついた物腰で学友の間では評判であったという。

 龍之介は新原の実家を通してなじんではいたが、中学以後は交渉がなく、ふたたび弥生の家を訪ねるようになるのは大学一年の五月頃からとみられる。

 気の弱い龍之介は一人では行けず、友人の久米や山宮などを連れて行ったが、文学や美術や音楽など共通の話題があるので話ははずみ、訪問は楽しかった。

 大正三年の秋頃弥生に縁談がもちあがり、その時龍之介は弥生を愛していることを知り、求婚の意志を芥川の家族に話すと猛烈に反対され、あきらめることになる。家族が反対したのは母よしが中村家の戸主であり、吉田に入籍前に弥生が出生したため戸籍の異動が複雑でその結果、弥生が非嫡出子として届出られたこと、吉田家が士族でなかったこと、龍之介と同年であったこと等があげられている。この事件で芥川は人間の醜さ、愛にすらエゴイズムのあることを認め、その人間観に重大な影響を与えられる。

   《引用終了》

特に龍之介を乳飲み子の時から育ててきた同居する伯母で、龍之介が特に愛した(同時に憎悪もした)芥川フキ(道章のすぐ下の妹。生涯、未婚)は夜通し泣いて強く反対している。そこで、龍之介はその告白の翌朝、『むづかしい顏をしながら僕が思切』(おもひき)『ると云つた』(大正四(一九一五)年二月二十八日附井川恭宛書簡。これは後に電子化する)とある。結局、吉田弥生は大正四年四月下旬に同郷の岡山出身の陸軍将校金田一光男と結婚した。二〇〇三年翰林書房刊「芥川龍之介新辞典」の彼女の項を読むに、彼女はその後、特に芥川龍之介の影を引きずることはなかったようで、後(戦後)、芥川龍之介のことを語ることは殆んどなく、夫も龍之介のことを口にすることを激しく嫌い、訪ねてきた新聞記者を『激しい口調で門前払い』にしたとある。或いは、龍之介の呪縛に陥らなかった数少ない女性の一人だったと言えるのかも知れぬ。さればこそ、私の彼女への関心は以前から薄い。今後もディグする気は、ない。

「ポツシビリチー」possibility。可能性。実現性。発展可能性。将来性。

「仕事」芥川龍之介が作家としての意欲を示していることを暗示させていると私は読む。

「オックスフォードの何とか云ふ學者」不詳。

「ラム」イギリスの作家・エッセイストであったチャールズ・ラム(Charles Lamb 一七七五年~一八三四年)。特に「エリア随筆」(Eliana :一八六七年刊。「ESSAY・ON・ELIA」はそれ)はエッセイの傑作とされる。

「試金石」金などの貴金属の鑑定に用いられる黒色の硬い石英質の鉱石の別称。一般的には緻密な粘板岩。表面に金を擦(こす)り付け、その条痕 色を標準品のものと比較して純度を判定する。転じて、「物の価値や人の力量などを計る基準となる物事」を謂う。

「上田さん」明治三八(一九〇五)年刊の訳詩集「海潮音」で知られる、本邦にベルギー文学・プロヴァンス文学・象徴派・高踏派の詩を紹介した詩人・翻訳家・評論家の文学博士上田敏(明治七(一八七四)年~大正五(一九一六)年)のことであろう。

「營養物」「榮養」は嘗てはこうも表記した。

となつたものを測るべき醫學者が來ない以上試驗は永久に愚劣に止るにちがひない ノートをつみ上げてみるとほんとうにがつかりする

「キヤラバンは何處に行ける/みやれば唯平沙のみ見ゆ/何處に行ける」私は、複製色紙を所持する芥川龍之介の大正四年五月の芥川龍之介の漢詩風の章句、

   *

不見萬里道

唯見萬里天

   *

を直ちに想起する。芥川龍之介筆(芥川比呂志氏蔵。東京帝国大学在学中の写真裏面に記されたもの)。芥川龍之介二十三歳。大正四(一九一五)年五月十五日には悲恋に終わった初恋の人吉田弥生が結婚している。しかし、同月の十三日附の山本喜誉司宛書簡(後に掲げる)では早くも山本姪塚本文への愛情を表明してもおり、同年八月の恒藤との松江滞在によって復活を果たした龍之介は、十一月一日の『帝国文学』へ「羅生門」を発表し、その三日後の四日には「鼻」を起筆しており、この頃には文への思いも確固たるものになりつつあった。

「地獄の箴言」芥川龍之介が偏愛したイギリスの詩人で画家・銅版画家であったウィリアム・ブレイク(William Blake 一七五七年~一八二七年)の「天国と地獄の結婚」The Marriage of Heaven and Hell :一七九〇年から一七九三年頃)。聖書の予言を模倣して書かれた一連の散文・詩とイラストを含むエッチング詩画集。後に彼と彼の妻キャサリン(Catherine Blake  一七六二年~一八三一年)によって着色されたものが有名。

「メムノン」エジプトのルクソールのナイル川西岸にある二体のアメンホテプⅢ世の像。「メムノンの巨像」とも呼ばれる。呼び名はギリシア伝説の「トロイア戦争」に登場するエチオピア王メムノーンに由来する。高さは孰れも約十八メートル。ウィキの「メムノンの巨像」によれば、『元々は、背後に同王アメンホテプ』Ⅲ『世の葬祭殿が控えており、その入口の部分であった。葬祭殿は第』十九『王朝ファラオ・メルエンプタハが自身の葬祭殿の石材調達のため』に『破壊した』。『向かって右側の像は紀元前』二七『年の地震により』、罅が『入り、夜明けになると、おそらく』は『温度差や朝露の蒸発のせいで、うめき声や口笛のような音を発していた。この現象を最初に報告したのは地理学者のストラボン』(ラテン文字転写:Strabo  紀元前六四年或いは六三年~紀元後二四年頃:古代ローマ時代のギリシア系の地理学者・歴史家・哲学者。全十七巻から成るギリシャ語で書かれた「地理誌」(ラテン文字転写:Geōgraphiká:ゲオグラフィカ)で知られる)『だった。彼は巨像が声を出しはじめてからまもなくして、エジプト総督アウレリウス・ガルスとそれを見物している。ストラボンは著書』の中では、『巨像が発している声なのか、近くにいる人間が声を出しているのか解らないと疑問を呈している』。『メムノンの巨像が声を出す現象は当時のガイドによって脚色され、メムノンの死別した母への呼び声だとされた。メムノンの巨像は声を聴こうと詰めかける人々で観光地化し』、『その中にはハドリアヌス帝』(第十四代ローマ皇帝プーブリウス・アエリウス・トライヤーヌス・ハドリアーヌス(Publius Aelius Trajanus Hadrianus  七六年~一三八年/在位:一一七年~一三八年)。ネルウァ=アントニヌス朝第三代皇帝)『と妻のサビナ』(Sabina)『もいた。サビナは』一三〇『年にメムノンの巨像を訪れ、「日の出後の最初の一時間のうちに、メムノンの声を二度聴いた」という証言を残している。現在もメムノンの巨像の台座には彼らが書き記した署名や詩が残されていて、エジプト総督や地方行政長官の肩書きを持つ人間が大勢訪れていたことが確認できる。その後、巨像はセプティミウス・セウェルス帝』(ローマ皇帝ルキウス・セプティミウス・セウェルス(Lucius Septimius Severus 一四六年~二一一年/在位:一九三年~二一一年)。セウェルス朝の創始者)『によって下に落ちていた像の上半身を取り付けられると、声を出すこともなくなったという』とある。筑摩全集類聚版脚注には、『朝の最初の』太陽の『光線にふれると音楽の愛が生じる』と記してある。

「未來らず」「いまだきたらず」。

「象牙の塔」ここは最原義(フランス語‘tour d'ivoire’)で「芸術至上主義の人々が俗世間を離れて楽しむ静寂・孤高の境地」の意である。]

2021/03/30

芥川龍之介書簡抄24 / 特異点挿入★大正二(一九一三)年或いは翌大正三年の書簡「下書き」(推定)★――初恋の相手吉村千代(新原家女中)宛の〈幻しのラヴ・レター〉――

 

[やぶちゃん注:以下は葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」(岩波書店一九七八年刊)の「書簡補遺」に載るものを底本とした。本書簡と思われるものは、実際に当該人物に送られたものであるかどうかは不明で、これは取り敢えず「下書き」と推定しておく。底本では最後に葛巻氏の注があり、吉村千代について、『編者の幼時、幼稚園の送り迎えをしてくれた、芝の実家の女中さん』とある。吉村ちよ(明治二九(一八九六)年十月二日~昭和四(一九二六)年十一月二十二日)は龍之介の実家にいた女中であった。二〇〇三年翰林書房刊「芥川龍之介新辞典」の彼女の項(「ちよ」の平仮名はそれに拠った表記)によれば、龍之介より四つ年下で、新原家(芝区新銭座町。現在の港区浜松町)へ入ったのは十五歳頃と推定されている。とすれば、明治四四(一九一一)年か、その前年(龍之介は十八、九歳の時で、芥川家が新宿の家(この家は本来は葛巻義定(義敏の実父)と龍之介の実姉ヒサの新居として新原敏三が建てたものであったが、二人が離婚したため、ここが芥川家に提供されたのであった)移った時期(明治四十三年十月)と合致する。しかも「ちよ」は葛巻氏の注にある通り、実はヒサ附き(専属)の女中であった(だから義敏の幼稚園の送迎をしている。義敏は明治四二(一九〇九)年生まれ)ことも判っている。されば、龍之介との接点が濃厚に見えてくるのである。御存じの通り、龍之介は芥川家の養子にやられたのだが、実父敏三は露骨に実家へ戻るように慫慂した(「點鬼簿」の「三」を参照されたい)。そうしたややこしい関係とは別に、龍之介は、無論、しばしば新原の家にも頻繁に出入りしていたのである。私は一枚の写真しか持たないが(「新潮日本文学アルバム」)、鼻筋の通った南方系の美人である(大正一〇(一九二一)年頃のもの)が、私の個人的感想に過ぎないが、どこか幸薄い感じを与える写真である。事実、誠実だったという彼女の後の半生は、「芥川龍之介新辞典」に少し詳しく書かれているのであるが、三十で亡くなった彼女は、少なくとも私には決して幸せだったという感じを受けない。私は、芥川龍之介が愛した女性は、多かれ少なかれ、龍之介の面影を引き擦って後半生を生きざるを得なかったと考えている(特に私が追跡した佐野花子片山廣子は間違いなくそうであるし、龍之介の妻文の友人で、文自身の懇請によって、晩年の龍之介の話し相手となり、帝国ホテルでの心中未遂の相手となった平松麻素子もそうであると思う)。私はその一人に、この吉村千代も加えるべきであると考える。ところが、「芥川龍之介新辞典」の「吉村ちよ」の記載(篠崎美生子氏執筆)の最後には、志賀直哉の「大津順吉」(大正元(一九一二)年九月発表)に登場する主人公順吉が惹かれる大津家の若い女中「千代」(「C」とも記す)との相同性を指摘し、『この手紙はむしろ、「大津順吉」的悲恋へのあこがれが、いかに当時の青年層に共有されていたかを示す資料として見た方がよいかもしれない』と記しているおられるのには、正直、大いに呆れかえった。作家論+テクスト論+文学史的検証を安易に綯い交ぜにし、カタをつけた上、鬼の首を捕ったようにぶち上げたこれは、私は「なんじゃ!?! こりゃアア!!」とジーパン刑事のように叫ぶしかなかった。『資料』かい? 芥川龍之介も、さぞ、微苦笑するだろうゼ!]

 

大正二(一九一三)年或いは同三年頃(推定)・吉村千代宛・(草稿)

 

今 芝からかへつた所。ひとりで之を書く。

ちよの事を思ふとさびしくなる、ひとりで本をよんでゐて ふと 今頃は何をしてゐるだらうと思ふとさびしくなる、もうみんな忘れてしまつたかしらと思ふとなほさびしくなる

このあひだ 得ちやんのうつした寫眞をみて「おばさんもお冬さんも ちよも皆 妙にうつつてゐる」と云つたら 太田さんが「おちよさんはからだがわるいから」と云つた。どこが惡いのだらうと思ふと 心配にさへなつてくる からだは大事にしないといけない

いつでも芝へ行つたかへりには 宇田川町の停留所まで わざとぶらぶらあるく さうして今にうしろで やさしい足おとがしはしないかと思ひながら 用もない道具屋の店をのぞいたり 停留場でいくつも電車をのらずにゐたりする、あつて一しよにあるいても 何一つはなせるのではなし その上 二入とも氣まりが惡くつて いやなのだけれど それでも 二人でゐると云ふ事はうれしい

まして二人だけで 二時間でも三時間でもゐられたら どんなにうれしい事だらうと思ふ たゞ さう云ふ時の來ることを いのるより外に仕方はない

前のやうにたびたび芝にゆかれないのでさびしいけれど がまんをしてゐる。あはないでゐるうちに ちよがみんなわすれてしまひそうな氣がする、だんだんゆびにもさはらせないやうになりさうな氣がする さう思うとさびしい。

ちよ ちよとよびずてにしたのはなぜだか自分にもわからない わるければもつとていねいに「さん」の字をつけます。

 

ぼくはこの頃になつて いよいよお前がわすれられなくなつた 今までもお前を愛してゐた事は愛してゐた、しかしこの頃は心のそこからお前の事を思ひ又お前のしあはせをいのつてゐる。

ぼくは今まで お前をじゆうにしない事をざんねんに思つてゐた。お前のからだをぼくのものにしない事をものたりなく思つてゐた、ぼくは今になつて かう云ふ事ばかり考へる愛はほんとうの愛ではないと云ふ事を知つた。これからのぼくには そんな事はどうでもいゝ、たゞお前とお前の心心ちとを かはゆく思つてゆかう 心のそこからお前をかはゆく思つてゆかう。

ぼくははじめ お前と一しよになれないなどと云ふ事は大した事だとは思はなかつた 一しよになれなくつても二人の心の中で思ひあつてゐればいゝと思つてゐたからだ。それが この頃では そうでなくたつた、お前がどこかへかたづくとしたら ぼくはどんなにつらいだろう。どんなにひとりでくるしい思ひをするのだろう[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、またぼくがよめをもらふにしても どんなに お前の事を思ひ出すだろう。どんなにお前をわすれずにゐるだろう。今のぼくから云へば どんな女でも お前よりぼくがかはゆく思ふ女はないと思ふ。ぼくのよめになる人にはきのどくだが ぽくはとてもその人をお前よりかはいゝとは思へないのにちがいない。ぼくがお前を思ふやうに お前もぼくを思つてくれるかどうかそれはぼくにはわからない。けれど ぼくだけについて云へば 一しよになれないお前をこんなにふかく こんなに心から愛すると云ふことは なんと云ふなさけない事だろうと思ふ

それをかんがへるとぼくはほんとう[やぶちゃん注:ママ。]にかなしくなる。ぽくはたつたつた一人、すきな人を見つけて そのすきな人と一しよにゐられない人げんなのだ、やかましく云へばそのすきな人の手にさへさわれない[やぶちゃん注:ママ。]人げんなのだ、さうしてそのすきな人がよその人のところにかたづくのを見てゐなければならない人げんなのだ。ぼくの心ぼそくなるのもむりはないだらう。

しかしお前もぼくも、一どはつよくなつて おたがひをわすれなければならない、ぼくはまへにぼくをわすれてはいやだとお前に云つたことがある。今では出來るならぼくの事なんぞすつかりわすれてしまつてくれと云ひたい、ぼくはとてもお前をわすれることは出來ないし、また わすれようとも思はないから、せめてお前がぼくをわすれてしまへば、ぼくの方でもお前をうらむし 一つには今までばかにされてゐたやうな氣がして はらがたつから そのいきほひでいくぶんかはお前の事もわすれられるかもしれないと思ふ、しかし それまでに ぽくはなんどなく[やぶちゃん注:ママ。]かわからないだろう[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。] いくぢのないはなしだけれど。

ぼくはほんとうに 今では心のそこからお前を愛してゐる。お前はだまつてゐるときも わらつてゐるときも ぼくにとつてはだれよりもかはゆいのだ 一生、だれよりもかはゆいのだ。たとヘぼくのじゆうにならなくとも かはゆいのだ さうして、ぼくがお前をかわゆがる[やぶちゃん注:ママ。]と云ふ事が お前のしあはせのじやまになりはしないかと思つて心ぱいしてゐるのだ、ぼくは心のそこから おまへのからだのじようぶ[やぶちゃん注:ママ。]な事とお前がしあはせにくらす事とをいのつてゐる

 

ぼくはこのごろ ほんとうにお前がわすれられなくなつた、今まではお前のからだをぼくのものにしないのをざんねんに思つてゐたが 今はそんな事はどうでもいゝ たゞぼくが心のそこからお前をかはゆく思ふやうに お前もぼくの事を思つてくれたらそれでたくさんだ。

このごろ ぼくはまた、お前がかたづく時の事をかんがへた。そうしたらどうしていゝのだかじぶんでもわからなくなつた お前がかたづくとしたらどんなにぼくはさびしひ[やぶちゃん注:ママ。]だろう どんなにぼくはつまらないだろう。とても一しよになれる事の出來ないお前をこんなにふかく こんなに心から愛すると云ふ事は ずひぶん[やぶちゃん注:ママ。]なさけない事だと思ふ。もしまたぼくがよめでももらふとしたら どうだらう、ぼくは どの女でもとてもお前ほどかはゆくは思はれないのにちがひない お前ほどしんようする氣にはなれないのにちがひない、さうだとしたら ぼくの不しあはせばかりではなくぼくのよめになる人の不しあはせにもなるだらう お前がかたづくにしても ぼくがよめをもらふにしてもどつちにしても ぼくはいやな思ひをするより外はない、もしお前がほんとう[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]に思つてくれるなら やつぱりお前がかたづく時でも ぼくがよめをもらふ時でも いやな氣がするだらう。して見ると わるいのは ぼくなのだ。はじめに お前がすきだと云ひ出した ぼくがわるいのだ。ぼくがさう云ひさへしなかつたら なんにもなかつたのにちがひないのだから。

しかし、これはお前もかんにんしてくれるだらうと思ふ

ぼくは、お前をいつまでも今のやうに思つてゐたい、いつまでも心のそこから 誰よりもかはゆく思つてゐたい、さうして出來るだけ よめなどをもらはずに お前一人をなつかしく思つてゐたい もつとも出來るだけお前もかたずかずにゐた方がいゝなどとは ぼくの口から云へたぎりではないけれども さうだつたらなほいゝやうな氣がする しかしこれは氣だけだ、ほんとうは ぼくの事なんかかまはずに いゝ所があつたらかたづいた方がいゝ、ぼくはどんなにつらくつてもがまんをする。さうして お前がかたづいた先の人としあはせにくらせるやうにいのつてやる、もしそのさきの人がお前をいぢめたりなんぞしたらしようち[やぶちゃん注:ママ。]しない、きつとぼくがかたきうちをしてやる。ほんとうのことを云へば、どこへもお前をやりたくない。やるにしても このままでやりたくない 十日でも一週間でも 一しよになかよくしてみたい お前のからだをぼくのものにしなくつても たゞ一しよにごはんをたべたり 外をあるいたりして見たい 誰も知つた人のない どこかとほいくにのちいさな村へ うちを一けんかりて そこにすむのだ。お前に ごはんをたいてもらつて ぼくが本をよんだり なにかかいたりする。

はたけへ くだもののなる木をたくさんうゑて その中へ小さなにはとり小屋もこしらへてやる。さうして二人で くだものをとつたり とりにえ[やぶちゃん注:ママ。]をやつたりするのだ 何をやるのも二人でするのでなくては つまらない それから そのくだものの木のかげで さう云ふふうにしづかに しあはせに ほんの一週間でもくらしてみたい(一生なら なほうれしいけれど)

ぼくは ほんとうに お前を愛してゐるよ お前もぼくのことさへわすれずにゐてくれゝばいゝ それでたくさんだ それより外のことをのぞむのは ぼくのわがまゝだと氣がついた たゞわすれずにゐておくれ

 

[やぶちゃん注:前掲の「芥川龍之介新辞典」の「吉村ちよ」のコラムの中の「片恋の歌」では、前の「芥川龍之介書簡抄13 / 大正二(一九一三)年書簡より(1) 二通」の山本喜誉司宛書簡大正二(一九一三)年三月二十六日附に記された短歌の四首を掲げ、『この片恋の対象は、以前は』知られた芥川龍之介の敗れた初恋の相手として著名な『吉田弥生と目されていたが、時期が早いことから、ちよを想う歌と考えられるようになった』とある。私には物理的傍証がなく、吉田でないとも言えぬし、「ちよ」だとも断定は出来ないと思う。「片戀」が想像上の仮想でないと断言も出来ぬからである。

「得ちやん」芥川の七つ下の異母弟新原得二(にいはらとくじ 明治三二(一八九九)年~昭和五(一九三〇)年)。龍之介の実父新原敏三と実母フクの妹で、フクの死後に敏三の後妻となったフユとの間の子。

「おばさん」不詳。

「お冬さん」フユであろう。

「太田さん」不詳。新原家の使用人か。]

只野真葛 むかしばなし (27)

 

昔ばなし 二

 

 桑原のぢゞ樣は、何人の種(たね)なるや、しれず。

 むかし、壱人の男、木曾路を江戶のかたへおもむけて下りしに、六ツばかりのおのこ壱人つれて有しが、ふと、

「風のこゝち。」

とて、ふしたりしが、次第におもりて、五、六日のうちに、死す。

「懷中などに、もし、所書(ところがき)やある。」

と、求めしかど、いづちの人といふことも、しれず。

 小兒は、何のわきまへもなく、せんかたなくて、骸(から)をば、近きほとりにおさめ、童子をば、寺にあげて有しとぞ。

 さて、二年ばかりへて、橘隆庵(たちばなりゆうあん)樣、何用(なによう)有(あり)てか、木曾路通行(つうかう)有しに、寺にやどられしとぞ。

 八(やつ)ばかりの子、茶の給仕に出(いで)たるが、目にとまりて、愛らしくおもわれ候故、

「何人(なんぴと)の子なるや。」

と、たづねられしに、

「是は、ふしぎなることなり。かやうかやうの次第なり。」

と、和尙のかたられしを聞て、

「さあらば、我に、此兒、給り候へ。さるべき緣にや、いとふびんにて、ほしく候。」

と、いわれしを、

「ともかくも。」

と、まかせし故、つれて、くだられしとぞ。

 御子息の相手にしておかれしに、其兒、少々、人と、ことなる生(しやう)にて、さらに、かけはしり、くるひ、ほこること、なく、「大學」、少々をしへられしを、夜晝、書にのみむかひて有しとぞ。

 無理によび出して、相手にせらるゝを、きらいて、物に、かくれかくれしたりしを、いつも尋(たづぬ)ることなりしに、ある日、いかにたづねても、見つけぬこと、有。

「家中におらぬことは、あらじ。」

とて、くまぐま、のこりなく尋(たづね)しかば、風呂桶に入(いり)て、よく蓋《ふた》をして、書を見て有しとぞ。

 其よしを、隆庵樣へ申上(まうしあげ)しかば、

「さほど書物好(しよもつずき)なら、今より、相手をやめて、書を、よませよ。」

と、ゆるされし時のうれしさ、いふばかりなかりしとぞ。

 それより、ひしと、手習・書物にかゝりて有(あり)しほどに、物を引(ひき)のぶる樣に、上達をせしとぞ。

 これ、桑原のぢゞ樣なり。

 さて、後(のち)、忠山樣御世(みよ)に橘家(たちばなけ)へ被ㇾ仰しは、

「其(その)門弟の内、しかるべき人あらば、めしかゝへたし。」

と、有し時、殊に祕藏弟子なりし故、

「此もの、しかるべき人。」

とて、相出(あひいだ)されしとぞ。

 さる故に、橘家よりは、ながく、御親類同前に被ㇾ成しことなり。

[やぶちゃん注:「桑原のぢゞ樣」只野真葛の母方の祖父で仙台藩医であった桑原隆朝如璋(りゅうちょうじょしょう 元禄一三(一七〇〇)年頃~安永四(一七七五)年:如璋は医号。読みは推定)。彼は元文五(一七四〇)年、数え四十一の時、二百石で仙台藩に召し抱えられており、当時の仙台藩藩主は第五代藩主伊達吉村(延宝八(一六八〇)年~宝暦元(一七五二)年)である(元禄一六(一七〇三)年に養父綱村が隠居に追い込まれて藩主就任。寛保三(一七四三)年七月に四男久村(宗村)に家督を譲って隠居)。

「橘隆庵」江戸幕府奥医であった二代目橘隆庵元孝(げんこう)。中村忠行氏の論文「桑原やよ子の『宇津保物語』研究」PDF)の「🉂」で本条にも触れながら、以下のようにある(一部に新字が混じる漢字表記はママで、太字は底本では傍点「ヽ」である)。

   《引用開始》

 やよ子は、長じて隆朝を夫に迎へた。隆朝については、『伊達世臣家譜』巻十七「署師之部」に、次の様な傳を掲げてゐる。

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が二字下げ。]

親斯子隆朝如璋、學醫術於橘宗仙院某、自此世爲師家。宗仙院請令如璋仕于當家。因元文五年四月、獅山公之末、給廩米二百石始以醫擧、是月爲番醫。寛保元年六月進近習、三年六月屬世子【忠山公】。延享三年七月、忠山公之初、進奉藥。是年八月、稱述先是公在病床時、奉悃誠[やぶちゃん注:「こんせい」。真心を込めること。]藥應疾、加賜廩米二百石。於是爲今之禄。隠公亦賞賜銀二十枚、及越後縮二端。寶曆六年、忠山公捐館[やぶちゃん注:「えんくわん」薨去。]後、免奉藥爲番醫、相繼住于江戸。九年九月、今公之初、進于近習醫、屬于今夫人。如璋之子養純・綺明、遊倅命役夫之洽療。

 これは、謂はば、公的な履歴書とでも言ふべきものであるが、『むかしばなし』には、その生ひ立ちについて、又次の様な秘話を傳へてゐる。――すなはち、如璋は、もともと、木曽路で斃死した氏姓不明の旅人の連れてゐた子供で、さる寺に預けられてゐたのを、橘隆庵に拾はれた薄幸兒であつた。しかるに、幼時から讀書好きで、風呂桶に隠れてまでも讀書に耽る有様であつたのを見込まれ、その弟子に加へられ、後遂に伊達家に推擧されるに至つたものであると。眞葛が、『むかしばなし』を草したのは、その實家たる工藤家と桑原家(二代目及び三代目隆朝)との關係が、極めて險悪となつてから後のことである。從つて、其處には、多分に毒を含んだ要素が窺はれるけれども、恐らくは、事實を傳へるものであらう。「ぎやうぎあくまでよく、めぐみふかく、召使はるる人ども、よく御せわ被成しなり」と、眞葛からも評された隆朝如璋の爲人[やぶちゃん注:「ひととなり」。]は、さうした數奇な運兪が、却つて幸ひしたものと想像される。

 この隆朝の資質を、いちはやく見出した橘隆庵とは、二代目の隆庵元孝を指す。元來、この橘家は、藥師寺次郞左衛門公義の末葉であつて、もと本多能登守の家臣であつたが、元常の代に至つて幕醫となり、代々隆庵・宗仙院を號し、法眼・法印等に叙せられる者を輩出した。『寛政重脩諸家譜』によれば、元孝は、元禄五年十月、初めて常憲院(徳川綱吉[やぶちゃん注:二行割注。])に謁し、寶永三年二月出仕してから、漸次累進して奥醫となり、 法眼・法印に叙せられ、寛保元年七月には、城内での乗輿を許され、致仕後も、時々西城に登つて、將軍の起居を伺ふへき沙汰を蒙つた程、信望の厚かつ允た名醫であつた。

 隆朝が、この名醫の「殊更に秘蔵弟子」であつたことは、眞葛の記すところであるが、隆庵も亦この弟子を厚遇した様である。すなはち、隆朝が桑原家の婿養子に迎へられた際か、仕官する際であつたかは詳らかでないが、隆庵は隆朝を養子分とし、その後見をしてやつたらしい形跡がある。眞葛は、ただ「さる故に(筆者註―橘家に養はれた故に[やぶちゃん注:二行割注。])たちばな家よりは、ながく御親類同前に被成しことなり」(『むかしばなし』。巻二[やぶちゃん注:二行割注。])と記してゐるだけであるが、安政二年、眞山杢左衛門が、佐々城朴安に興へた前掲「桑原氏系譜賂略」には、「橘家の爲入夫被召出」とある。「爲入夫」を、文字の儘に解釋すれば、女婿となつたことになるが、それでは眞葛の記述と符合しないから、恐らくは形式的なものであつたらう。蓋し、杢左衛門は、只野伊賀守行義の二男で、眞山家の養子となつた人。眞葛は、行義の後室であるから、杢左衛門にとつては繼母となる訣であり、從つて、系圖に記すところも、亦信憑するに足るものと、考へられるからである。隆朝の名は、恐らくこの時に與へられたものに相違なく、隆庵のそれにあやかるものであらうことは贅するまでもない。

   《引用終了》

「何用(なによう)有(あり)てか、木曾路通行(つうかう)有し」幕府奥医であるのに、木曾路となると、私には漢方本草の採取ぐらいしか思い浮かばぬ。

「忠山樣」仙台藩第六代藩主伊達宗村(享保三(一七一八)年~宝暦六(一七五六)年)の諡号(戒名「政德院殿忠山淨信大居士」)。]

只野真葛 むかしばなし (26) /「むかしばなし 一」~了

 

○桑原のをぢ樣・をば樣は、世上の人には、よく、したしみ、下人などにも、めぐみふかき人なりしが、工藤家へ對しては、〆(しめ)が怨念のなすわざにや、あくまで、卑しめ、をとしめて、恥をあたへ、『こゝろよし』とおもはれしなり。【桑原家は、はやりで、さかりなり。工藤家は貧にて有し故、病家より、進物も少しなり。】[やぶちゃん注:原頭註。]

 そのかたはしを、一ツ、いはゞ、夏むき物の、味のかはる時、諸方より、魚類をもらひかさね、義理首尾のなるだけは、人にくれつくし、上下(うへした)、食(くひ)あきて後(のち)、

「おけば、くさるゝ、犬にやらうか、工藤家へやらうか。」

といふ時ばかり、物を送らるゝ故、何をもらひても、

「又、あまし物ならん。」

と、うき心の先立(さきだち)て、うれしとはおもはず、うらみをかくして、こなたよりは、わざわざ、とゝのへたる物にて、禮をせしなり。

 今の隆朝(りゆうてう)代(だい)となりては、いや、ますますに、何のわけもなく、工藤家ヘ衰《をとろふる[やぶちゃん注:ママ。]》が、よろこばしき下心にて有し。

 先年の大火に類燒以後は、源四郞、かんなん申(まうす)ばかりなく、やうやう、もとめし藪小路の家へいるやいなや、枕もあがらぬ大病、終(つひ)に、はかなく成し後、日頃いやしめ、をとしめられし桑原へ、跡式《あとしき》のすみしぞ、口をしき。

 隆朝は、若氣のいちずに、人のおもはんこともはからず、煙の中より、やうやうと、からく、たすけし諸道具・家財、家内の人の見る前にて、「見たをしや[やぶちゃん注:ママ。]」をよびて、うり拂(はらひ)、金五十兩となしたるは、むざんなることなりし。

「かゝることゝしりたらば、何しにか、助けいだしけん、いつそ、燒いてしまへばよかつた。」

と、家内の人は心中になげき、うらみて有しなり。

「書物は、養子方へ、ゆづりに。」

とて、わたしたちしをも、引(ひき)いだして、うり代(しろ)なせしとは聞しが、『誠か、うそか』と思ひて有しを、さる人の、

「此地の本屋にて、父の判のすわりし本を見あたりし。」

とて、

「哀(あはれ)、はかなき代(しろ)や。あれ程、名だかき人のもたれし書の、いくほどもなく散行(ちりゆく)は、いかなる人か、あとに立(たち)し。」

と、なげき語しことありし。

 他人の目にだにも、なげかはしく見ゆるを、まさしき子の身として、いかで、うらみをふくまざらめや。

[やぶちゃん注:「隆朝」真葛の母方の祖父で仙台藩医桑原隆朝如璋(りゅうちょうじょしょう 元禄一三(一七〇〇)年頃~安永四(一七七五)年:如璋は医号であろう。読みは推定)の後を継いだ、真葛の母「お遊」の弟桑原隆朝純(じゅん)。既に注した通り、真葛の弟源四郎は父平助が病没(寛政一二(一八〇〇)年。享年六十七歳)した翌享和元(一八〇一)年に家督を継いで同じく仙台藩番医となり、その翌年には近習を兼ねたが、父の死から七年後の文化四(一八〇七)年十二月六日に未だ三十四の若さで過労からくる発病(推定)により、急死した。これによって、工藤家は跡継ぎが絶えたため、母方の従弟である桑原隆朝如則(じょそく:読みは推定)の次男で、まだ幼かった菅治が養子に入り、後に工藤周庵静卿(じょうけい:読みは推定)を名乗ることとなった(「跡式《あとしき》のすみし」はそれを指す)。男兄弟がいなくなったとはいえ、未婚の女子もある以上、婿養子という形の相続もあり得たが、桑原如則の思惑に押し切られる形で話が進んだという。如則は、また、ここに書かれている通り、工藤家の大切な家財道具や亡父平助の貴重な蔵書を、家人がいる前で、悉く、売り払ってしまったのである(以上はウィキの「只野真葛」に拠った)。

「先年の大火」江戸三大大火の一つである「文化の大火」。文化三年三月四日(一八〇六年四月二十二日)に発生。出火元は芝の車町(現在の港区高輪二丁目)の材木座付近で、午前十時頃に出火し、薩摩藩上屋敷(現在の芝公園)・増上寺五重塔を全焼し、折しも西南の強風にあおられて木挽町・数寄屋橋に飛び火し、さらに京橋・日本橋の殆んどを焼失、更に火勢止むことなく、神田・浅草方面まで燃え広がった。翌日の降雨によって鎮火したものの、延焼面積は下町を中心に五百三十町に及び、焼失家屋は十二万六千戸、死者は千二百人を超えたとされる。このため、町奉行所は被災者のために江戸八ヶ所に「御救小屋(おすくいごや)」を建て、炊き出しを始め、十一万人以上の被災者に御救米銭(支援金)が与えられた。

「かんなん」「艱難」。

「藪小路」愛宕下藪小路。現在の虎ノ門一丁目(グーグル・マップ・データ)の内。

「見たをしや」「見倒し屋」歴史的仮名遣は「みたふしや」が正しい。品物・古物を極めて安く評価して買い取るのを職業とした屑屋・古道具屋・古着屋などの類い。]

 

○源四郞、進代(しんだい)、御國わたりにて有しを、とかく、燒印(やきいん)のまちがい、でくるにより、願(ねがひ)の上、やうやう、江戶わたりに被仰付しに、存生中(ぞんしやうちゆう)、一度も、うけとらず、桑原家の手に、いる。はじめより、骨をらずにうけとることゝ成しを、家内の人、見聞ては、

「『犬、骨折(ほねをり)て、鷹に、とらする』とかいふ、たとへのごとし。」

と、口惜しがりて有しも、ことわりなり。

 今は、やつかい、壱人もなく、ますます、桑原家のとめる世と成(なり)はてしを、親に孝ある人の、おめおめと、見しのぐべきことかは。

 源四郞があとは、すてたるものとして、

『哀(あはれ)、我身、御みやづかへの御緣もあらば、身を八ツにさくとても、工藤平助といふ一家の名ばかりは、殘さんものを。』

と、天にいのり、地にふして、おもひ、やむとき、なし。

[やぶちゃん注:「進代」身代。

「御國わたりにて有し」禄が仙台の本城から給付されたということか。

「燒印(やきいん)のまちがい、でくる」意味不明。給付状の禄高の証明印に誤りがあったということか。

「江戶わたり」江戸藩邸で処理した直接の禄給付ということか。

「犬、骨折て、鷹に、とらする」「犬、骨折つて、鷹の餌食(えじき)となる」。鷹狩りでは犬が、折角、骨折って追い出した獲物も、鷹に取られてしまう。苦労して得たものを他人に横取りされることの喩え。

 これを以って「むかしばなし 一」は終わっている。]

只野真葛 むかしばなし (26) /「むかしばなし 一」~了

 

○桑原のをぢ樣・をば樣は、世上の人には、よく、したしみ、下人などにも、めぐみふかき人なりしが、工藤家へ對しては、〆(しめ)が怨念のなすわざにや、あくまで、卑しめ、をとしめて、恥をあたへ、『こゝろよし』とおもはれしなり。【桑原家は、はやりで、さかりなり。工藤家は貧にて有し故、病家より、進物も少しなり。】[やぶちゃん注:原頭註。]

 そのかたはしを、一ツ、いはゞ、夏むき物の、味のかはる時、諸方より、魚類をもらひかさね、義理首尾のなるだけは、人にくれつくし、上下(うへした)、食(くひ)あきて後(のち)、

「おけば、くさるゝ、犬にやらうか、工藤家へやらうか。」

といふ時ばかり、物を送らるゝ故、何をもらひても、

「又、あまし物ならん。」

と、うき心の先立(さきだち)て、うれしとはおもはず、うらみをかくして、こなたよりは、わざわざ、とゝのへたる物にて、禮をせしなり。

 今の隆朝(りゆうてう)代(だい)となりては、いや、ますますに、何のわけもなく、工藤家ヘ衰《をとろふる[やぶちゃん注:ママ。]》が、よろこばしき下心にて有し。

 先年の大火に類燒以後は、源四郞、かんなん申(まうす)ばかりなく、やうやう、もとめし藪小路の家へいるやいなや、枕もあがらぬ大病、終(つひ)に、はかなく成し後、日頃いやしめ、をとしめられし桑原へ、跡式《あとしき》のすみしぞ、口をしき。

 隆朝は、若氣のいちずに、人のおもはんこともはからず、煙の中より、やうやうと、からく、たすけし諸道具・家財、家内の人の見る前にて、「見たをしや[やぶちゃん注:ママ。]」をよびて、うり拂(はらひ)、金五十兩となしたるは、むざんなることなりし。

「かゝることゝしりたらば、何しにか、助けいだしけん、いつそ、燒いてしまへばよかつた。」

と、家内の人は心中になげき、うらみて有しなり。

「書物は、養子方へ、ゆづりに。」

とて、わたしたちしをも、引(ひき)いだして、うり代(しろ)なせしとは聞しが、『誠か、うそか』と思ひて有しを、さる人の、

「此地の本屋にて、父の判のすわりし本を見あたりし。」

とて、

「哀(あはれ)、はかなき代(しろ)や。あれ程、名だかき人のもたれし書の、いくほどもなく散行(ちりゆく)は、いかなる人か、あとに立(たち)し。」

と、なげき語しことありし。

 他人の目にだにも、なげかはしく見ゆるを、まさしき子の身として、いかで、うらみをふくまざらめや。

[やぶちゃん注:「隆朝」真葛の母方の祖父で仙台藩医桑原隆朝如璋(りゅうちょうじょしょう 元禄一三(一七〇〇)年頃~安永四(一七七五)年:如璋は医号であろう。読みは推定)の後を継いだ、真葛の母「お遊」の弟桑原隆朝純(じゅん)。既に注した通り、真葛の弟源四郎は父平助が病没(寛政一二(一八〇〇)年。享年六十七歳)した翌享和元(一八〇一)年に家督を継いで同じく仙台藩番医となり、その翌年には近習を兼ねたが、父の死から七年後の文化四(一八〇七)年十二月六日に未だ三十四の若さで過労からくる発病(推定)により、急死した。これによって、工藤家は跡継ぎが絶えたため、母方の従弟である桑原隆朝如則(じょそく:読みは推定)の次男で、まだ幼かった菅治が養子に入り、後に工藤周庵静卿(じょうけい:読みは推定)を名乗ることとなった(「跡式《あとしき》のすみし」はそれを指す)。男兄弟がいなくなったとはいえ、未婚の女子もある以上、婿養子という形の相続もあり得たが、桑原如則の思惑に押し切られる形で話が進んだという。如則は、また、ここに書かれている通り、工藤家の大切な家財道具や亡父平助の貴重な蔵書を、家人がいる前で、悉く、売り払ってしまったのである(以上はウィキの「只野真葛」に拠った)。

「先年の大火」江戸三大大火の一つである「文化の大火」。文化三年三月四日(一八〇六年四月二十二日)に発生。出火元は芝の車町(現在の港区高輪二丁目)の材木座付近で、午前十時頃に出火し、薩摩藩上屋敷(現在の芝公園)・増上寺五重塔を全焼し、折しも西南の強風にあおられて木挽町・数寄屋橋に飛び火し、さらに京橋・日本橋の殆んどを焼失、更に火勢止むことなく、神田・浅草方面まで燃え広がった。翌日の降雨によって鎮火したものの、延焼面積は下町を中心に五百三十町に及び、焼失家屋は十二万六千戸、死者は千二百人を超えたとされる。このため、町奉行所は被災者のために江戸八ヶ所に「御救小屋(おすくいごや)」を建て、炊き出しを始め、十一万人以上の被災者に御救米銭(支援金)が与えられた。

「かんなん」「艱難」。

「藪小路」愛宕下藪小路。現在の虎ノ門一丁目(グーグル・マップ・データ)の内。

「見たをしや」「見倒し屋」歴史的仮名遣は「みたふしや」が正しい。品物・古物を極めて安く評価して買い取るのを職業とした屑屋・古道具屋・古着屋などの類い。]

 

○源四郞、進代(しんだい)、御國わたりにて有しを、とかく、燒印(やきいん)のまちがい、でくるにより、願(ねがひ)の上、やうやう、江戶わたりに被仰付しに、存生中(ぞんしやうちゆう)、一度も、うけとらず、桑原家の手に、いる。はじめより、骨をらずにうけとることゝ成しを、家内の人、見聞ては、

「『犬、骨折(ほねをり)て、鷹に、とらする』とかいふ、たとへのごとし。」

と、口惜しがりて有しも、ことわりなり。

 今は、やつかい、壱人もなく、ますます、桑原家のとめる世と成(なり)はてしを、親に孝ある人の、おめおめと、見しのぐべきことかは。

 源四郞があとは、すてたるものとして、

『哀(あはれ)、我身、御みやづかへの御緣もあらば、身を八ツにさくとても、工藤平助といふ一家の名ばかりは、殘さんものを。』

と、天にいのり、地にふして、おもひ、やむとき、なし。

[やぶちゃん注:「進代」身代。

「御國わたりにて有し」禄が仙台の本城から給付されたということか。

「燒印(やきいん)のまちがい、でくる」意味不明。給付状の禄高の証明印に誤りがあったということか。

「江戶わたり」江戸藩邸で処理した直接の禄給付ということか。

「犬、骨折て、鷹に、とらする」「犬、骨折つて、鷹の餌食(えじき)となる」。鷹狩りでは犬が、折角、骨折って追い出した獲物も、鷹に取られてしまう。苦労して得たものを他人に横取りされることの喩え。

 これを以って「むかしばなし 一」は終わっている。]

只野真葛 むかしばなし (25)

 

○父樣には權門方(けんもんがた)の御用は數年御勤被ㇾ成しが、「病用は御家中ばかりにて、上の御用にたゝぬ」ことゝて、折々、なげかせられしを、德三郞樣御二歲の秋、御大病の節、御奉藥被ㇾ仰付しを、殊の外、御悅(およろこび)にて有し。誠に御大病にて、人もなきものとし奉るほどのことなりしを、おもひの外に御本復被ㇾ遊しかば、其御ほうびとして、嶋ちゞみ二反・銀子五枚被ㇾ下し。有がたきことながら、御家にてこそ、御次男樣とて、をとしめ奉れども、世上にては、父君ましまさぬ御代の御次男樣故、御世つぎ同前とぞんじ上(あげ)し故、

「逢(あふ)人ごとに、『此ほどは大御手(おほおて)がらなり。さて、御ほうびはいか樣のしな被ㇾ下しや。』と、たづねらるゝ挨拶にこまりし。」

と被ㇾ仰し。

「其節《ふし》は、あかぬことのやうにおもはれしが、今となりて考れば、いさゝかにても御加恩がましきこと有(あり)て、人のたからと成(なり)はてなば、いかばかり心にかゝらん、何事なきぞ心やすき。」

と、かへすがへす、おもはれたり。

[やぶちゃん注:「德三郞樣」これは、実際に後の仙台藩第十代藩主となった伊達斉宗(なりむね 寛政八(一七九六)年~文政二(一八一九)年)の幼名である。寛政八年九月十五日(一七九六年十月十五日)に第八代藩主伊達斉村の次男として江戸袖ヶ崎の下屋敷にて誕生(母は喜多山美昭(藤蔵)の娘)したが、父斉村は既に同年七月二十七日に死去しており(仙台城で病没。享年二十三)、父の死去後の出生である。工藤丈庵平助は宝暦四(一七五四)年に二十一歳で工藤家三百石の家督を継ぎ、仙台藩江戸詰藩医を継いでいるから問題ない。寛政九(一七九七)年当時の平助は六十四歳(平助は寛政十二年十二月十日(一八〇一年一月二十四日)没)であった。斉宗は文化元(一八〇四)年に上屋敷に引越しており、同年に水痘を患ったが、後に全快している。逆に、文化六(一八〇九)年に兄で第九代藩主を形式上(後注参照)継いでいた周宗(生後一年足らずで仙台藩主を相続した。本来なら将軍の御目見を得た後継者でないため、相続出来ないはずであるが、斉村の死去を幕府や家臣に隠した上、親族の若年寄堀田正敦(近江国堅田藩主。後に下野国佐野藩主)や土井利謙(三河国刈谷藩主)、重村の正室で養祖母であった観心院とが協議し、幕府に対して末期養子での相続願いを出した上で襲封、同時に当代の第十一代将軍徳川家斉の三女綾姫と婚約した)が、文化六(一八〇九)年一月四日に十四歳で疱瘡に罹り、その後遺症のため、三年間、表に出られず、代わりに徳三郎(後の斉宗)が儀式や接客を担当した――というのは表向きで実際には疱瘡のために周宗は十四歳で没していた可能性が高い。文化八(一八一一)年に周宗の偏諱を受け、文化九(一八一二)年に兄周宗が〈初御目見なしの隠居〉という特例下の藩主就任に続く隠居を受けて家督相続した(以上は両兄弟の当該ウィキに拠った)。この事実はウィキの「工藤平助」にも載せられており、寛政九年七月には『第八代藩主伊達斉村の次男で生後』十『ヶ月の徳三郎(のちの』第十代藩主『伊達斉宗)が』、『熱病のため』、『重体に陥ったものの』、『平助の治療により』、『一命を取りとめた。平助はその褒賞として白銀』五『枚、縮』二『反を下賜された』とある。

「嶋ちゞみ」山繭糸を入れて織り出した縮緬。山繭糸は染色によって染まらないので自然と縞が出る。ちまちり。]

2021/03/29

越後國里數幷日蓮上人まんだら義經謙信等故事

 

○越後國と信濃國とはうしろあはせの國にして、越後のながさ九十二里なれば、信濃の長さも九十二里なり。越後は長き國にて、北海より信濃のさかひまでは甚だせまく、六七里十里に及べる所のみ也。此九十二里さながら北國海道にて荒磯を行(ゆき)、「親しらず」などいふ所は殊に恐ろし。懸崖絕壁のもとを通ふ道にて、荒波うちよせて道をひたし、前後によくベき所なし、五六間のあはひ殊に難所也。北國海道越後までは田舍の風俗なり、能登國に入(いり)てやうやく人物かはれり。越後てらとまりに石川七左衞門といふもの有、日蓮上人佐渡へ流罪の時止宿ありし家なり。此もののかたに上人附屬のまんだらを所持せしが、前年身延山へ納めて、其請取證狀今に所持せりとぞ。又其家のむかひに酒屋あり、源九郞義經奧州くだりの時止宿ありし家にて、よしつね辨慶等の謝狀今に所持せしといへり。新潟といふ所は殊に繁華の都會なり。又其國の春日山は上杉謙信の古城跡也、高山にして山上に古井有、廣さ四五間ひでりにも水たゆる事なし。里民雨乞をするとき、石を此井に投ずればかならず雨降(あめふる)といふ。越後海道に出て望めば、目にかゝるものは佐渡の國と能登の國ばかり也。能登の出崎と佐渡のあはひは、わずかに四五間ばかりはなれたる樣に見ゆれども、廿里よをへだてたる所なり。晴天にはありありと山の姿手にとるほどにみゆるといふ。越後出雲崎の船問屋は關東屋彌平といふもの殊に大家也、四方入津(にふしん)の舟こゝにやどらずといふ事なく切れもの也。

[やぶちゃん注:「越後のながさ九十二里」三百六十一キロメートル。これはかなり大雑把な内陸直線の距離で、珍しく過小と言える。現行では、「新潟県統計年鑑」(二〇一八年)によれば、現在の新潟県の海岸線の総延長は六百三十四キロメートルにも及ぶからである。

「信濃の長さも九十二里」こちらは過大。信濃国は現在の長野県と岐阜県中津川市の一部が含まれるが、長野県で東西約百二十八キロメートル、南北約二百二十キロメートルで、南北距離で中津川をそのままドンブリで算入しても約二百五十キロメートルほどにしかならないと思われる。こちらは、どこをどう計算したものか、よく判らない。

「北海より信濃のさかひまでは甚だせまく、六七里十里に及べる所のみ也」二十三半から二十四キロメートル半であるが、現行、最も短いのはフォッサ・マグナの糸魚川線で、約十四キロメートルであるから、過大である。

「てらとまり」現在の新潟県長岡市寺泊上片町に寺泊港(グーグル・マップ・データ)はある。

「石川七左衞門」不詳。

「日蓮上人佐渡へ流罪の時止宿」確かに日蓮は流罪の際には寺泊から佐渡に渡らせている。

「附屬」謝礼として添えて与えたものの謂いであろう。

「まんだらを所持せしが、前年身延山へ納めて、其請取證狀今に所持せりとぞ」確認出来ない。この「まんだら」とは無論、「曼荼羅」で、「南妙法蓮華經」の文字に拠る独自の文字曼荼羅であろう。鎌倉の妙本寺にある日蓮「臨滅度時の御本尊」と呼称される「十界曼荼羅」のようなものと思われる。私の「鎌倉攬勝考卷之六」の「妙本寺」の項に画像を置いてある。参照されたい。

「其家のむかひに酒屋あり、源九郞義經奧州くだりの時止宿ありし家にて、よしつね辨慶等の謝狀今に所持せしといへり」源義経が奥州平泉の藤原秀衡を頼って逃げのびた際、一行が海上で遭難して寺泊へ漂着し、土地の豪族五十嵐邸へ身を寄せて、幾日間、逗留したという伝承がある。サイト「新潟伝承物語」の「弁慶の手掘井戸」に、『五十嵐氏は人々の目を避けるために、後庭にあった浴室に』一行を匿い、『従者の弁慶が義経の手洗いや』、『洗顔の用にと』、『わざわざ』、『その裏に井戸を掘ったと伝えられてい』るとある(地図有り)。

「春日山は上杉謙信の古城跡也」新潟県上越市中部にある春日山(かすがやま)。標高百八十九メートル。北に越後府中であった直江津と日本海を望み、南に高田城下を望み、高田平野を一望出来、戦国時代には、この山頂に後に上杉謙信の本拠地となる春日山城が築かれ、北陸地方屈指の城砦として名を馳せた。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「能登の出崎」狭義には七尾港の出崎(現在の矢田新町と万行町の境の海岸)を言うが、ここはその東北の能登観音埼のことであろう。但し、これを能登半島の狼煙(のろし)などのある出崎という一般名詞でとることも可能。

「四五間」七・五~九・一メートル。蜃気楼かい!

「廿里よ」七十八・五四キロメートル。先の能登観音崎からは百二十八キロメートル、狼煙の禄剛崎からなら、八十四キロメートル。禄剛崎は、中二の時、友人と能登半島を一周した時の、思い出の場所。その後も、二度行った、私の能登の特異点である。

「越後出雲崎」新潟県三島郡出雲崎町

「船問屋」「關東屋彌平」現在の新潟県三島郡出雲崎町尼瀬(あまぜ)の、旧年寄に関東屋弥兵衛の名を古文書の中に確認出来る。

「切れもの」敏腕家。やり手。]

只野真葛 むかしばなし (24)

 

○工藤のばゞ樣は、愛宕下(あたごのした)か、西のくぼか、たしかにはおぼへねど、五六萬石くらいの大名の家中に、筋、ことに、おりおり、御取あつかひ有し、一家老の初子(うひまご)にて、御兩親の祕藏なりしが、十六に成(なり)ても、幼な子のごとく、なでいつくしみてのみ、そだてられて、筆とることをさへ、ならはせられざりしとなり。

「人中(じんちゆう)見ならいのため。」

とて、十六の春、おなじ奧へ上られしに、かたへの人々、目引袖引(めひきそでひき)、

「十六になるものに、『いろは』をだに、をしへず、育てしことよ。」

と、わらひしを、御殘念におぼしめされ、

「いで、其事なら、人にわらはれじ。」

と、おぽし立(たち)て、文(ふみ)がらをひろひて、人の寢しづまりたるあとにて、手ならいを被ㇾ成しに、夏は蚊のくるしさに手ぬぐひを頰かぶりにしてならわせ[やぶちゃん注:ママ。]られしとなり。

 利發のうへ、氣根もよかりしかば、半年にて、文を書(かき)ならい[やぶちゃん注:ママ。]、一年といへば、始(はじめ)わらひし人には、まして、とりまわし、文を書(かか)れし故、二年めには御代書(おだいしよ)まで仰付られしとなり【是は小家(せうか)のこと故、御引立の故に被仰付しことなり。大家とは、ことなり。】[やぶちゃん注:原割注。]。此事は、ワ、をさなきより、

「人といふものは、ならぬとて、すてぬものぞ。我などは、かやうにて有し。」

と、度々御敎訓に御はなし被ㇾ遊しことなり。

 ばゞ樣、里の名、しかとおぽえねど、名なくてはまぎらはしき故、おしあてに、つけたり。石井氏、大右衞門とか、其ぢゞ樣の名は、いひし。

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[やぶちゃん注:以下の紋所の真葛の自筆画。底本よりトリミングした。]

 細輪に石疊の紋なりし。

 ばゞ樣、弟宇右衞門といひし人、常に、きたりて、酒のみしも、おぼえたり。男と女の子有(あり)て、妻、不幸し、其後(そののち)、妻に「お秀」は來りしなり。

 お秀は、旗本衆の家中の娘、おなじ奧につとめて、ばゞ樣と朋輩なりしが、髮結(かみゆひ)、もの縫(ぬひ)、細工に達し、作花(つくりばな)上手、人ざはりよく、殊の外、首尾よく、奧樣御ひいきの餘り、家中一番の家柄へ御世話にて被ㇾ成し人なり。

 あしかれとは、かられしことには、あらざりしを、不仕合(ふしあはせ)は、其身に付(つき)たるものなれば、のがれがたし。

 先(まづ)、まゝ子の惣領順治といひしが、十一くらい[やぶちゃん注:ママ。]にも有しが、大惡黨、其くせ、見目すがたのよきことは天晴(あつぱれ)美男にて、ぢゞばゞの大祕藏、まゝ母をいぢめて、

「髮をそろへてやらん。」

と、すれば、

「いたひ。いたひ。」[やぶちゃん注:ママ。]

と、顏、しかめて、ぢゞばゞに、母の手あたり、あらきていに見せ、萬事、そのふりに、こまらせる、くめんばかり。妹(いもと)は、七、八に成し、是、今の「はつえ」なり。とがもなきものを、むたいにいぢめまわす故、とりさゆれば、

「まゝ母は、妹のひいきばかりして、兄をあしくあたる。」

と、兩親の手まへ、あしく成(なり)、などゝいふ樣なことにて、日夜あけしき間(ま)もなく、其内懷姙の男子、「半くろ」なり。二、三の時、兩親、死去。やうやう、其身の世となり、「うれしや」と、おもひもあへず、宇右衞門といふ人は、一向、とりつまらぬ生(しやう)、

「若且那、若且那。」

と、いはれし内は人並らしかりしが、兩親無(なく)なりては、大べらぼうにて、御用もわからず、やたら、無性(むしやう)に借金ふへ[やぶちゃん注:ママ。]、公訴(こうそ)うつたへに成(なり)しが、身分不相應のことなりしを、かくべつの家がら故、一度は、すくひ被ㇾ下(くださる)といふことにて、

「尤(もつとも)おもだちたる親類よりも、おぎなへ。」

とて、父樣よりも三十兩御みつぎ被ㇾ成しとなり。柳原の熊谷與左衞門も、ばゞ樣御妹の子なれば、おなじつゞきにて、つぐのひ金、被ㇾ成しなり。それですんだことかとおもへば、

『餘り、借金おほくて、氣の毒。』

とて、座頭金(ざとう《かね》)三口有しを、かくして置しとなり。

「身代をつぶす人の了簡は別なものなり。」

と被ㇾ仰し。

「ねだれば、でる。」

と見て、一年過(すぎ)て、又、公訴に成し故、

「この度(たび)は、かんにん成がたき。」

とて、御いとま出(いだ)し、となり。

 浪人被ㇾ成てより、工藤家より世話被ㇾ成しことは、おびだゝしきことなりし。尾張町ゑびす屋の隣に、間口三間の明棚(あきだな)有しを借りて、普請被ㇾ成、皆、此かたより、持出(もちだ)しにて、藥みせをひらき被ㇾ遣(つかはせられ)しなり。

 みせびらきには、「三ますや三十郞」といふ獨樂(こま)まわしを賴(たのみ)、三日のうちは、獨樂、まはして、人に見せしなり。

 諸(もろもろ)入用(いりよう)二百兩ばかりもつゐへしなり。

 かへ名は安田與市として、のふれんは、紺に菊壽。其頃、きくじゆ、大はやりなりし。「藥、きゝて、壽、ながゝれ」とや、おぼしよりけん、花《くわ》らしきことにて有し。

 されど、ほどもなく、與市、亂心して、仕方なく築地の弟子部屋の角(すみ)に、二疊敷の所(ところ)有しを、かりの牢にしつらひて、入(いれ)おきしが、夜の間に、ぬけいで、行(ゆき)がたしれず、色々たづねしかども、終(つひ)にみかけざりし。

 其頃、半右衞門が弟の「とら次郞」、二(ふたつ)ばかりにて、乳のみ子なりし。

 石井家へ來りて、お秀の心勞、誠に、あけしき間(ま)は、なかりしなり。

 

[やぶちゃん注:「工藤のばゞ樣」真葛の父方の(養)祖父に当たる工藤安世(やすよ 元禄八(一六九五)年~宝暦五(一七五五)年)の二十三歳年下の上津浦ゑん。

「愛宕下」愛宕ノ下は現在の港区新橋・西新橋附近。

「西のくぼ」西窪で東京都港区虎ノ門にあった旧地名か。

「筋、ことに」家柄、これ、特別で。

「いで、其事なら、人にわらはれじ。」「何の! そのようなことならば、人には笑われまいぞ!」。

「文(ふみ)がら」「文殻」。同役の女中らに送られてきて、読み終って不要になって捨てられた手紙。文反故 (ふみほうご) 。

「とりまわし」仕事の処理上の書類を順に取って回すために。

「御代書」奥方さまの右筆役。

「細輪に石疊の紋」正確には画像のそれに細輪はその外周に白い細輪があるものを指す。

 ばゞ樣、弟宇右衞門といひし人、常に、きたりて、酒のみしも、おぼえたり。男と女の子有(あり)て、妻、不幸し、其後(そののち)、妻に「お秀」は來りしなり。

「作花」造花。

「あしかれとは、かられし」よく意味が分からぬが、「あしかれ」は「良かれ悪しかれ」で、「かられしことには、あらざりしを」は「専ら、自身の強い意志や感情が原因となって生ずるものではないのだけれども」の謂いであろう。女として不平等な宿命的なものを感じやすい真葛の謂いとして、私には判る気がする。

「あらきてい」「荒き體」。

「そのふりに」「其の振りに」。そうした似非(えせ)の芝居をして。

「くめん」「工面」。せこく狡猾な工夫。

「とりさゆれば」「とり」は動詞の強調の接頭語で、「さゆ」は「障(さ)ふ」の訛りであろう。無体に妹をいじめるのを、やめるように仲に入ると、の意であろう。

「兩親の手まへ、あしく成(なり)」順治のことがお気に入りである、夫の父母の手前、彼の噓によって、気まずいこととなり。

「日夜あけしき間(ま)もなく」そんなこんなで、一時として気がさわやかに晴れる間もなく。

「半くろ」半九郎という名か。

「其身の世となり」父の両親へ気遣いをせずにすむ身となり。

「大べらぼう」話にならないほどの大馬鹿者・社会的失格者であること。

「公訴(こうそ)うつたへ」借金不返済で公事方に訴えられてしまうこと。

「身分不相應のことなりしを」現在の実質的な実態からは凡そ情状酌量などありえないはずのところだったのだけれども。

「かくべつの家がら故」父祖が格別の家柄であったことから。

「尤(もつとも)おもだちたる親類よりも、おぎなへ。」「最も近親である親類や親しい者たちも、この者のために、借金を肩代わりして補填してやれ。」という温情のとりなしが、お上からあったということを指す。

「父樣」真葛の父。実際には血も縁も繋がっておらず、親しくもなかったであろうに。

「柳原」現在の足立区南部の千住地域東部に位置する柳原か。

「熊谷與左衞門」不詳。

「座頭金」(ざとうがね)は「盲金 (めくらがね)」 とも呼んだ。江戸時代、盲人の行なった高利貸しの貸し金を指す。盲人は当道座(とうどうざ)という視覚障碍者仲間の組織を作っており、幕府は盲人保護という立場から当道座が所有する金を官金扱いにし、貸付け・利子を収める特典を許していた。「官金貸付け」とは「幕府の貸付金」を意味することから、貸倒れの危険も少なく、安全有利であったことから、町人たちは利殖のために資金を提供したし、盲人たちも幕府の庇護のもとに高利を得ることが出来たのである。

「御いとま出(いだ)し、となり」かくなっては、当時の彼を雇っていた主家の武家が暇を出したということである。

「尾張町」中央区銀座五・六丁目。

「ゑびす屋」「江戸名所図会」にも絵が載る有名な呉服店。現在の松坂屋の前身の一つ。松坂屋大阪店の前身であった「ゑびす屋呉服店」の創業者は、第八代将軍吉宗とは紀州での幼馴染みで、その屋号も吉宗から贈られた蛭子(ゑびす)の神像に由来すると伝えられている。吉宗が将軍になると、このゑびす屋も江戸に進出し、尾張町に店を構えたのであった。

「三間」五・四五メートル。

「此かた」工藤安世の家。だから、「藥みせ」なのである。

をひらき、被ㇾ遣しなり。

「三ますや三十郞といふ獨樂(こま)まわし」不詳。

「のふれん」「暖簾」元の発音の「のんれん」「のうれん」(「のん」「のう」は暖」の唐音)の音変化の訛り。元は禅家で簾(す)の隙間を覆って風除けとした布の帳(とば)りを指して言ったもの。ここは、今の「のれん」で、商家で屋号・店名などを記して軒先や店の出入り口に懸けておく布のこと。

「菊壽」「きくじゆ」歌舞伎俳優二代目瀬川菊之丞が使用し、安永・天明(一七七二年~一七八九年)頃に流行した染模様で、菊の花と寿の字を交互に染め出したもの。

「花《くわ》らしきことにて有し」意味不明。「日本庶民生活史料集成」では『花々しきことににて有し』で、躓かずに読める。

「弟子」工藤安世の弟子。

『半右衞門が弟の「とら次郞」』石井宇右衛門と「お秀」の間にできた子が先の「半ろく」でこの半右衛門であり、その下が「とら次郞」なのであろう。]

芥川龍之介書簡抄23 / 大正三(一九一四)年書簡より(二) 四通

 

大正三(一九一四)年二月四日・牛込區赤城元町竹内樣方 山本喜譽司樣(葉書)

 

土曜から風邪で寐てゐます 一時は9度6分程も熱が出てくるしみましたが今はもう大分よくなりました 君の手紙は床の上でよみました 返事が遲れてすみませんが 熱があつて何をするのも臆劫だつたのです 木曜には學校へ半日ばかり出てみやうかと思ひます 熱がさめた時に靑空をみたらうれしうござんした

   草と木との中にわれは生きてあり日を仰ぎてわれは生きてあり草と木との如くに

 

[やぶちゃん注:短歌のために採用した。この八日後の二月十二日、第三次『新思潮』を創刊している。既注であるが、再掲しておくと、龍之介が傾倒していたフランスの作家アナトール・フランス(Anatole France  一八四四年~一九二四年)が一八八九年に書いた「バルタザール」(Balthazar)の翻訳で、「バルタサアル(アナトオル・フランス)」の標題で「柳川龍之介」名義であった。後の大正八(一九一九)年七月発行の雑誌『新小説』に「バルタザアル」の標題で「芥川龍之介譯」の署名で再録され、後の作品集「影燈籠」・「梅・馬・鶯」に収録された。編年体の旧「芥川龍之介」全集の第一巻巻頭に配されたそれである。ジョン・レイン夫人(Mrs. John Lane)の英訳(一九〇九年)からの重訳で、同人間では高評を博した。「青空文庫」のこちらで新字旧仮名で読める。]

 

 

大正三(一九一四)年三月十日井川恭宛(封筒欠)

        一九一四、三、十 新宿にて

井川君

先達は早速イエーツを送つて下すつて難有う 又其節の八つ橋も皆で難有頂戴してゐる

手紙を出さうと思つてかいたのもうちの番頭が急病で死んだものだからいろんな事に紛れて遲れてしまつた 君は知つてゐるだらうと思ふがなくなつたのはうち(新宿の)の店にゐたおぢいさんだ 成瀨が電話をかけると牛のなくやうな返事をすると云つたおぢいさんだ

病氣は心臟の大動脈弁の閉鎖で發作後十五分ばかりでもう冷くなつてしまつた それ迄は下女と大正博覽會の話をしてゐたと云ふのだからかはいさうだ 見てゐるうちに耳から額へ額から眼へひろがつてゆく皮膚の變色を(丁度雲のかげが日向の野や山へ落ちるやうに)見てゐるのは如何にも不氣味だつた 水をあびたやうな汗がたれる かすれた聲で何か云ふ 血も少しはいた

今朝六時の汽車で屍體は故鄕(くに)へ送つたが二日も三日も徹夜をしたのでうちのものは皆眼ははらしてゐる 帳面をぶら下げた壁や痕だらけの机のある狹い店ががらんと急に廣くなつたやうな氣がする

こんな急な死に方をみると すべての道德すべての律法が死を中心に編まれてゐるやうな氣がしないでもない くにから死骸を引取りに來た親類の話によると、なくなつた晚にかけてない目ざまし時計が突然なり出したさうだ それから夜があけるとうちの前へ鳥が一羽死んで落ちてゐたと云ふ 母や叔母や女中は皆氣味のわるさうな顏をしてこんな話をきいてゐた

 

一週間程前に巢鴨の癩狂院へ行つたら三十位の女の氣狂ひが「私の子供だ私の子供だ」と云つて僕のあとへついて來た 子でもなくして氣がちがつたのだらう 隨分氣味が惡かつた 中に神道に凝つてゐる氣狂ひがゐた 案内してくれた醫學士が「あなたの名は何と云ふんです」ときくと「天の神地の神奈落の神天てらす天照皇神むすび國常立何とか千早ぶる大神」と一息に答へた「それが皆あなたの名ですか」と云ふと「左樣で」とすましてゐる おかしくもありかはいさうでもあつた

 

そのあとで醫科の解剖を見に行つた 二十の屍體から發散する惡臭には辟易せずにはゐられなかつた 其代り始めて人間の皮膚が背中では殆五分近く厚いものだと云ふ事を知つた

屍体[やぶちゃん注:ママ。]室へ行つたら 今朝死んだと云ふ屍體が三つあつた 其中の一人は女でまだアルミのかんざしをさしてゐた

死ぬと直ぐ胸の上部を切つてそこから朱を注射するので土氣色の皮膚にしたゝつてゐる朱が血のやうで氣味が惡い

一緖に行つた成瀨はうちへ歸つても屍體のにほひが鼻についてゐてとうとう吐いてしまつたさうだ

 

[やぶちゃん注:この精神病院訪問や解剖実習見学は、大学の授業に有益性を全く持てずにサボってばかりいた一方で、既に作家を目指し始めていた学友久米正雄や松岡譲の意気込みの惹かれる形で、自身も創作への模索を始めており、それへの素材探索や意欲刺激を求めてのことであった。

「先達は早速イエーツを送つて下すつて難有う」これは先行する推定三月二日の葉書で、『新思潮で愛蘭土文學號を出すさうだ イエーツの SECRET ROSE があいてゐたら送つてくれ給へ』と送ったのに井川がすぐに答えて送ってきたことへの返礼と考えられる。これについては。、「芥川龍之介書簡抄16 / 大正二(一九一三)年書簡より(3) 四通」の「大正二(一九一三)年九月十七日(年月推定)・山本喜譽司宛(封筒欠)」の私の注「YEATS の SECRET ROSE」を見て貰いたいが、恐らくは芥川龍之介の蔵書で井川に貸していたものと推定される。而して、その注で詳しく書いたが、この三ヶ月後の大正三(一九一四)年六月発行の『新思潮』(第五号。署名は目次が「柳川隆之介」、本文は「押川隆之介」)に、当該作品集中の一編である「The Heart Of The Spring」を『春の心臟』として翻訳して公開している(旧全集第一巻の三番目に所収)。新字正仮名であるが、「青空文庫」のこちらで読める。

「大正博覽會」東京大正博覧会。この十日後の大正三年三月二十日から七月三十一日にかけて東京府主催で東京市の上野公園地を主会場として開催された博覧会。詳しくは当該ウィキを読まれたいが、そこに『この博覧会では伝染病研究所、日本赤十字社などが出展した衛生経済館もあったが、これとは別に、不忍池上の』二『階建の仮設建築で二六新報社による』「通俗衛生博覧会」が『設けられ、人体の臓器などの実物標本』・模型類・『写真等が展示された』。『中には、東京帝国大学医学部から貸し出されたという「高橋お伝の全身の皮膚」なども展示されていた』とある。この書簡の死体の臭いという表現にちょっと違和感を感じているので(後述する)、敢えて引いておく。

「くにから死骸を引取りに來た親類の話によると、なくなつた晚にかけてない目ざまし時計が突然なり出したさうだ それから夜があけるとうちの前へ鳥が一羽死んで落ちてゐたと云ふ 母や叔母や女中は皆氣味のわるさうな顏をしてこんな話をきいてゐた」既に述べた、「椒圖志異」に見られる芥川龍之介の怪異蒐集趣味の現われである。

「一週間程前に巢鴨の癩狂院へ行つた」新全集の宮坂年譜に、この三月三日(月)頃に、成瀬正一と『東京府立巣鴨病院へ見学に行く。その後、さらに』東京帝大『医科大学で解剖を見学した』とある(この書簡が原資料)。

『三十位の女の氣狂ひが「私の子供だ私の子供だ」と云つて僕のあとへついて來た 子でもなくして氣がちがつたのだらう 隨分氣味が惡かつた』私はこの時、心底の恐怖と同時に、実母フクの面影が彼の心を掠めたに違いないと思うている。芥川龍之介の実母フクが亡くなったのは、龍之介満十歳の、高等小学校高等科一年の十一月二十八日のことであった(フク満四十二歳)。大正一五(一九二六)年十月一日発行の雑誌『改造』に発表した名品「點鬼簿」(リンク先は私の古い電子テクスト)の巻頭の「一」は母である。以下に全文を引く。

   *

   一

 僕の母は狂人だつた。僕は一度も僕の母に母らしい親しみを感じたことはない。僕の母は髮を櫛卷きにし、いつも芝の實家にたつた一人坐りながら、長煙管ですぱすぱ煙草を吸つてゐる。顏も小さければ體も小さい。その又顏はどう云ふ譯か、少しも生氣のない灰色をしてゐる。僕はいつか西廂記を讀み、土口氣泥臭味の語に出合つた時に忽ち僕の母の顏を、――瘦せ細つた橫顏を思ひ出した。

 かう云ふ僕は僕の母に全然面倒を見て貰つたことはない。何でも一度僕の養母とわざわざ二階へ挨拶に行つたら、いきなり頭を長煙管で打たれたことを覺えてゐる。しかし大體僕の母は如何にももの靜かな狂人だつた。僕や僕の姉などに畫を描いてくれと迫られると、四つ折の半紙に畫を描いてくれる。畫は墨を使ふばかりではない。僕の姉の水繪の具を行樂の子女の衣服だの草木の花だのになすつてくれる。唯それ等の畫中の人物はいづれも狐の顏をしてゐた。

 僕の母の死んだのは僕の十一の秋である。それは病の爲よりも衰弱の爲に死んだのであらう。その死の前後の記憶だけは割り合にはつきりと殘つてゐる。

 危篤の電報でも來た爲であらう。僕は或風のない深夜、僕の養母と人力車に乘り、本所から芝まで駈けつけて行つた。僕はまだ今日(こんにち)でも襟卷と云ふものを用ひたことはない。が、特にこの夜だけは南畫の山水か何かを描いた、薄い絹の手巾をまきつけてゐたことを覺えてゐる。それからその手巾には「アヤメ香水」と云ふ香水の匂のしてゐたことも覺えてゐる。

 僕の母は二階の眞下の八疊の座敷に橫たはつてゐた。僕は四つ違ひの僕の姉と僕の母の枕もとに坐り、二人とも絕えず聲を立てて泣いた。殊に誰か僕の後ろで「御臨終々々々」と言つた時には一層切なさのこみ上げるのを感じた。しかし今まで瞑目してゐた、死人にひとしい僕の母は突然目をあいて何か言つた。僕等は皆悲しい中にも小聲でくすくす笑ひ出した。

 僕はその次の晩も僕の母の枕もとに夜明近くまで坐つてゐた。が、なぜかゆうべのやうに少しも淚は流れなかつた。僕は殆ど泣き聲を絕たない僕の姉の手前を恥ぢ、一生懸命に泣く眞似をしてゐた。同時に又僕の泣かれない以上、僕の母の死ぬことは必ずないと信じてゐた。

 僕の母は三日目の晩に殆ど苦しまずに死んで行つた。死ぬ前には正氣に返つたと見え、僕等の顏を眺めてはとめ度なしにぽろぽろ淚を落した。が、やはりふだんのやうに何とも口は利かなかつた。

 僕は納棺を終つた後にも時々泣かずにはゐられなかつた。すると「王子の叔母さん」と云ふ或遠緣のお婆さんが一人「ほんたうに御感心でございますね」と言つた。しかし僕は妙なことに感心する人だと思つただけだつた。

 僕の母の葬式の出た日、僕の姉は位牌を持ち、僕はその後ろに香爐を持ち二人とも人力車に乘つて行つた。僕は時々居睡りをし、はつと思つて目を醒ます拍子に危く香爐を落しさうにする。けれども谷中へは中々來ない。可也長い葬列はいつも秋晴れの東京の町をしづしづと練つてゐるのである。

 僕の母の命日は十一月二十八日である。又戒名は歸命院妙乘日進大姉である。僕はその癖僕の實父の命日や戒名を覺えてゐない。それは多分十一の僕には命日や戒名を覺えることも誇りの一つだつた爲であらう。

   *

芥川龍之介は母の狂気が遺伝して自分も発狂するのではないかという恐れを生涯、真剣に持ち続けてはいた(私はフクのそれは強度の心因性強迫神経症或いは統合失調症であったと考えており、龍之介の遺伝の恐れは杞憂であったと思っている)。しかし、以上の一篇は作家芥川龍之介独特のある突き放したような冷徹なポーズの中に、彼自身の、永遠に帰らない幼児期に背負ってしまった母の不在と喪失の絶対の悲しみを伝えて余りあるもの、と信じて疑わぬ者である。

「天てらす天照皇神」前が「あまてらす」であるから、ダブりを嫌って「てんしょうこうたいしん」(現代仮名遣)と読むのであろう。

「むすび」「かみむすびのかみ」の略。「古事記」では「神産巣日神」、「日本書紀」では「神皇産霊尊」、「出雲国風土記」では「神魂命」と書かれる。「産霊」は生産・生成を意味する言葉で、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)とともに創造の神格化したもの。女神の可能性が高い。「古事記」では少名毘古那神(すくなびこなのかみ)は彼女の子とされる。

「國常立何とか」国常立尊(くにのとこたちのみこと)であろう。「古事記」では神世七代の最初の神とされ、開闢神別天津神(ことあまつかみ)の最後の天之常立神(あめのとこたちのかみ)の次に現われた神で、独神(ひとりがみ)とであり、姿を現わさなかったと記される。「日本書紀」本文では天地開闢の際に出現した最初の神とし、「純男(陽気のみを受けて生まれた神で全く陰気を受けない純粋な男性)」の神と記す。原初的な土地神であることは間違いあるまい。伊勢神道や吉田神道及びその流れを汲む教派神道諸派でもこの神が重要な神されているが、日本近代宗教至上では大本(おおもと)教(正式には「教」はつけない)のそれが著名である。

「二十の屍體から發散する惡臭」これは解剖実習室の実習用遺体であり、それは腐敗死臭ではなく、その主たるものはホルマリンなどの腐敗防止薬の強烈な臭いである。母は既に終わり、私も妻もまた、同じく慶応大学医学部に献体している。まさに、その実習教材となるのである。

「人間の皮膚が背中では殆五分近く厚い」事実。ヒトは背中の皮膚が表皮の最も厚く、表皮が平均〇・一から〇・二ミリメートルで、真皮は四ミリメートルである。「五分」は十五ミリメートルであるが、これは、龍之介が、切開した皮膚の真皮(ここで静脈・動脈・神経が複雑に絡みあって走っている)の下にある以上を支える皮下脂肪層(これは個人差があるが、九ミリメートルにも及ぶ)を含めて言っているものと思われる。

「朱」水銀化合物。これを遺体に十全に注入すると、腐敗が抑制され、「永久死体」(法医学用語)となる。

   ◇

 この二十二歳の時の経験が、如何に鮮烈であり、芥川龍之介の心影に深く鐫りつけられたかは、晩年の自死の決意前後にこれらがフラッシュ・バックして甦ることからも判る。遺稿「或阿呆の一生」(リンク先は私の古い電子化であるが、今朝、全面校訂を行った)である。それも二箇所で示される。一つは、「二 母」であり、今一つは、「九 遺體」である。以下に示す。

   *

        母

 狂人たちは皆同じやうに鼠色の着物を着せられてゐた。廣い部屋はその爲に一層憂欝に見えるらしかつた。彼等の一人はオルガンに向ひ、熱心に讃美歌を彈きつづけてゐた。同時に又彼等の一人は丁度部屋のまん中に立ち、踊ると云ふよりも跳ねまはつてゐた。

 彼は血色の善(よ)い醫者と一しよにかう云ふ光景を眺めてゐた。彼の母も十年前には少しも彼等と變らなかつた。少しも、――彼は實際彼等の臭氣に彼の母の臭氣を感じた。

 「ぢや行(ゆ)かうか?」

 醫者は彼の先に立ちながら、廊下傳ひに或部屋へ行つた。その部屋の隅にはアルコオルを滿した、大きい硝子(がらす)の壺の中に腦髓が幾つも漬つてゐた。彼は或腦髓の上にかすかに白いものを發見した。それは丁度卵の白味をちよつと滴らしたのに近いものだつた。彼は醫者と立ち話をしながら、もう一度彼の母を思ひ出した。

 「この腦髓を持つてゐた男は××電燈會社の技師だつたがね。いつも自分を黑光りのする、大きいダイナモだと思つてゐたよ。」

 彼は醫者の目を避ける爲に硝子窓の外を眺めてゐた。そこには空き罎の破片を植ゑた煉瓦塀の外に何もなかつた。しかしそれは薄い苔をまだらにぼんやりと白らませてゐた。

   *

        死  體

 死體は皆親指に針金のついた札をぶら下げてゐた。その又札は名前だの年齡だのを記してゐた。彼の友だちは腰をかがめ、器用にメスを動かしながら、或死體の顏の皮を剝ぎはじめた。皮の下に廣がつてゐるのは美しい黃色の脂肪だつた。

 彼はその死體を眺めてゐた。それは彼には或短篇を、――王朝時代に背景を求めた或短篇を仕上げる爲に必要だつたのに違ひなかつた。が、腐敗した杏(あんず)の匂に近い死體の臭氣は不快だつた。彼の友だちは眉間(みけん)をひそめ、靜かにメスを動かして行つた。

 「この頃は死體も不足してね。」

 彼の友だちはかう言つてゐた。すると彼はいつの間にか彼の答を用意してゐた。――「己(おれ)は死體に不足すれば、何の惡意もなしに人殺しをするがね。」しかし勿論彼の答は心の中にあつただけだつた。

   ◇

なお、ここで出る「友だち」(則ち、彼の伝手で人体解剖を見学させて貰えたのである)とは既出既注の、龍之介の江東小学校及び府立三中時代の同級生で、一高の第三部(医学)に入り、東京帝国大学医学大学に進んだ上瀧嵬(こうたきたかし 明治二四(一八九一)年~?)である。卒業後は医師となって、後に厦門(アモイ)に赴いた。詳しくは「芥川龍之介手帳 1-4」の私の注を参照されたい。]

 

 

大正三(一九一四)年四月四日・本鄕區西片町十番地 佐々木信綱樣 侍史・四月四日朝 新宿ニノ七一 芥川龍之介

 

肅啓

過日は御繁忙中參堂長座仕り御迷惑さこそと恐縮に存じ候

歌十一首 拙く候へども心の花に御揭載被下候はゞ 難有く存ず可く候 歌も人につきて學びたる事無之 語格は元より假名づかひさへも誤れる事多かる可く玉斧を乞ふを得ば幸甚に候

今朝の雪 寒威春杉を壓して火閤を擁さずば書もよみ難き程に候 匆々頓首

    四月四日        芥川龍之介

   佐々木先生梧下

 

[やぶちゃん注:「佐々木信綱」かの歌人佐佐木信綱(明治五(一八七二)年~昭和三八(一九六三)年)。歌誌『心の花』を発行する短歌結社「竹柏会」を主宰していた。この会には最後に芥川龍之介が愛することとなる片山廣子が既にいた。さて、ここで芥川龍之介は「十一首」と言っているが、十二首の誤りである。どうなったって? 勿論、全十二首完全に掲載されている。私の「やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集 附やぶちゃん注」の「紫天鵞絨」がそれである。

「火閤」「くわかふ(かこう)」で火燵のこと。]

 

 

大正三(一九一四)年四月七日・東京府下北豐島郡瀧野川村中里三五二 小野八重三郞樣・消印神奈川縣下浦局(転載)

 夕月よ片目しひたる長谷寺の燈籠守はさびしかるらむ

 夕されば韮水仙の黃なる花ほのかにさきてもの思はする

         三浦半島の南にて   龍

 

[やぶちゃん注:三浦半島を旅した(期間は不明。因みに七日は月曜であるから、大学はサボっている可能性がある)折りの旅信。龍之介はこの前月の三月五日(水)頃にも三崎・城ヶ島逗子方面に遊んでいる。

「下浦」(したうら)は三浦半島の先の東京湾側の野比から剣崎方向の地名(グーグル・マップ・データ)。

「小野八重三郞」既出既注。東京生まれで、府立三中時代の一つ下の後輩。

「長谷寺」これは鎌倉の観音(本尊で木造十一面観音立像。像高九・一八メートルの巨像)で知られる長谷寺と推定される。この「燈籠守」とは、ただの像前の灯明の管理人であろうが、私は反射的に『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第四章 江ノ島巡禮(一二)~(一五)』(リンク先は私の電子化注)の夢幻的な素敵なシークエンスを想起してしまうのである。是非、読まれたい。

「韮水仙」私の好きな単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ネギ亜科ハナニラ属ハナニラ Ipheion uniflorum があるが、同種の花弁は青・白・淡紫・ピンクで、黄色はない。雄蕊は黄色いから、それを「黃なる花ほのかにさきて」と言っているものかとも思ったが、流石にそれはちょっとねと思う(アルゼンチン原産。有毒であるが、園芸品種では無毒で食用になるものもかなりある)。花弁が黄色のものとなると、ネギ亜科ハタケニラ(ステゴビル)属キバナハナニラ Nothoscordum sellowianum が現在はあるのだが(ブラジル南部・アルゼンチン・ウルグアイ原産)、この当時、このキバナハナニラが本邦に移入されていたかどうかは、ちょっとクエスチョンである(私は植物は苦手である)。]

旧電子テクスト(初版は十六年前公開)の芥川龍之介「或阿呆の一生」(未定稿附き)の全面校訂終了

芥川龍之介の「或阿呆の一生」(未定稿附き)は十六年前に電子化し、今まで四度修正や改訂を行ったが、それでも長くポイント表示・正字不全・未ルビ化など、かなりの不満な部分が残っていたので、今朝、全面校訂を行った。これで、まずは、よかろうと思う。不審な点があれば、御指摘下されば、恩幸これに過ぎたるはない。なお、何時かは芥川龍之介には悪いが、彼の冒頭の遺言の懇請を退け、オリジナルな全注釈をしたいと考えてはいる。

2021/03/28

芥川龍之介 孤獨地獄 正字正仮名版+草稿+各オリジナル注附 (サイト縦書版・PDF) 公開


芥川龍之介「孤獨地獄」(正字正仮名版+草稿+各オリジナル注附)の「サイト縦書版・PDF」を公開した。

芥川龍之介 孤獨地獄 正字正仮名版+草稿+各オリジナル注附 (サイト横書版) 公開

芥川龍之介「孤獨地獄」(正字正仮名版+草稿+各オリジナル注附)の「サイト横書版」を公開した。字のポイントを三倍にしてあるので、大型のディスプレイを使用されている方にはブログよりも読み易いと思う。

2021/03/27

芥川龍之介 孤獨地獄 正字正仮名版+草稿+各オリジナル注附

 

[やぶちゃん注:「鼻」の発表の二ヶ月後の大正五(一九一六)年四月発行の『新思潮』初出で、大見出し「紺珠十篇」(この総標題については「紺珠」という総表題で随想的小品を十篇並べるつもりだったということと、そうした一篇として別に「父」(リンク先は私の古い電子テクスト)があることが、初出後記で判明する。私の本文注の最後に示しておいた)のもとに「孤獨地獄」の標題で掲載され(目次は「孤獨地獄(小品)」)、後の第一作品集「羅生門」(大正六年五月二十三日阿蘭陀書房刊)及びその後の春陽堂の「新興文芸叢書第八篇」として刊行された短篇集「鼻」(十三篇所収だが、「西郷隆盛」を除いて総て「羅生門」既収で芥川龍之介の作品集には数えられていない)に収録された。

 因みに、これを私が始めて読んだのは、大学四年の一九七八年十月に入手した(父の知人の伝手で岩波書店本社で社員の方から一割引きで買った。裸でスズラン・テープで六巻ずつ縛られていて、神保町から中目黒まで素手でぶら下げて帰った。三日間、両手の指が血行不良で腫れ上がったのを思い出す)「芥川龍之介全集」を、その日から一月ほどかけて通読したその時だった。当時の私の日記にも本篇を読んで異様に感動した記載がある。

 本文の底本は、その旧全集一九七七年岩波書店刊「芥川龍之介全集」第一巻を使用した。但し、「青空文庫」版の新字正仮名版を加工データとして使用した(但し、この電子テクストには看過できない複数の問題点がある)。当該親本は作品集「鼻」のそれである。一読、非常な不審を感ずるのは、ルビで、如何にも不要な箇所に多く附されてあり、逆にあった方がよいと思われる人名や書名及び語などに振られていない点である。また、先行する同語に振られずに、後になってひょくり振られてあったりする。これは如何にも芥川龍之介らしからぬものである。私は初出の『新思潮』を見たことがないのだが、或いはこのルビは印刷を頼んだ印刷所の校正者によって勝手に附されたものではないかとも疑っている。そうしたことは、近年まで、かなり長い間、行われてきたことを多くの方は知るまい。丁寧に原稿に自分でルビを振っていた大作家は泉鏡花辺りで終わってしまい、「えッツ!?!」と思うような近現代の著名な作家も特定のケースを除いてルビを振ることはそんなに多くはなかったのである(詩歌の場合は別)。だいたいからして、あなた方は、ごく最近まで、ルビには拗音や促音を小さく表記印刷することはなかったことさえもご存知ないであろう。嘘だと思うなら、御自身の持っている、写植印刷が主になる三十年以上前の活版の出版物を見られるがいい。「本当だ!」と吃驚されるであろう。草稿のそれは岩波書店の新全集版(一九九七年刊)第二十一巻を参考底本として、恣意的に漢字を正字化して示した。踊り字「〱」は正字化した。

 本文・草稿ともに注をオリジナルに附した。【二〇二一年三月二十八日 藪野直史】]

 

 孤 獨 地 獄

 

 この話を自分は母(はゝ)から聞いた。母はそれを自分の大叔父(おほをぢ)から聞いたと云つてゐる。話の眞僞(しんぎ)は知らない。唯大叔父自身の性行(せいかう)から推して、かう云ふ事も隨分ありさうだと思ふだけである。

 大叔父は所謂大通の一人で、幕末(ばくまつ)の藝人や文人の間に知己(ちき)の數が多かつた。河竹默阿彌、柳下亭種員、善哉庵永機、同冬映、九代目團十郞、宇治紫文、都千中、乾坤坊良齋などの人々(ひとびと)である。中でも默阿彌は、「江戶櫻淸水淸玄」で紀國屋文左衞門を書(か)くのに、この大叔父を粉本(ふんぽん)にした。物故(ぶつこ)してから、もう彼是五十年になるが、生前一時は今紀文と綽號(あだな)された事があるから、今(いま)でも名だけは聞いてゐる人(ひと)があるかも知れない。――姓は細木(さいき)、名は藤次郞、俳名は香以、俗稱は山城河岸の津藤と云つた男である。

 その津藤(つとう)が或時吉原の玉屋で、一人の僧侶(そうりよ)と近づきになつた。本鄕界隈の或禪寺の住職で、名は禪超(ぜんてう)と云つたさうである。それがやはり嫖客(へうかく)となつて、玉屋の錦木と云ふ華魁に馴染(なじ)んでゐた。勿論、肉食妻帶が僧侶に禁(きん)ぜられてゐた時分の事であるから、表向(おもてむ)きはどこまでも出家ではない。黃八丈の着物に黑羽二重の紋付(もんつき)と云ふ拵へで人には醫者(いしや)だと號してゐる。――それと偶然近づきになつた。

 偶然と云ふのは燈籠時分の或夜(あるよ)、玉屋の二階で、津藤が厠(かはや)へ行つた歸りしなに何氣なく廊下(らうか)を通ると、欄干にもたれながら、月(つき)を見てゐる男があつた。坊主頭の、どちらかと云へば背(せい)の低(ひく)い、瘦ぎすな男である。津藤は、月(つき)あかりで、これを出入の太鼓醫者竹内(ちくない)だと思つた。そこで、通(とほ)りすぎながら、手をのばして、ちよいとその耳を引張(ひつぱ)つた。驚いてふり向く所を、笑(わら)つてやらうと思つたからである。

 所がふり向いた顏を見ると、反つて此方(こつち)が驚いた。坊主頭と云ふ事を除(のぞ)いたら、竹内(ちくない)と似てゐる所などは一つもない。――相手(あひて)は額(ひたひ)の廣い割に、眉と眉との間が險しく狹つてゐる。眼(め)の大きく見えるのは、肉(にく)の落ちてゐるからであらう。左の頰にある大きな黑子(ほくろ)は、その時でもはつきり見(み)えた。その上顴骨が高い。――これだけの顏(かほ)かたちが、とぎれとぎれに、慌(あはたゞ)しく津藤の眼にはいつた。

「何か御用かな。」その坊主(ばうず)は腹を立てたやうな聲(こゑ)でかう云つた。いくらか酒氣も帶びてゐるらしい。

 前に書くのを忘れたが、その時津藤には藝者(げいしや)が一人に幇間(ほうかん)が一人ついてゐた。この手合は津藤(つとう)にあやまらせて、それを默(だま)つて見てゐるわけには行かない。そこで幇間が、津藤に代(かは)つて、その客に疎忽の詑(わび)をした。さうしてその間に、津藤は藝者をつれて、匇々(さうさう)自分の座敷へ歸つて來た。いくら大通(だいつう)でも間が惡(わる)かつたものと見える。坊主の方では、幇間(ほうかん)から間違の仔細をきくと、すぐに機嫌を直して大笑(おほわら)ひをしたさうである。その坊主が禪超(ぜんてう)だつた事は云ふまでもない。

 その後で、津藤が菓子の臺(だい)を持たせて、向ふへ詑びにやる。向うでも氣(き)の毒(どく)がつて、わざわざ禮に來る。それから二人の交情が結(むす)ばれた。尤も結ばれたと云つても、玉屋の二階で遇(あ)ふだけで、互に往來(わうらい)はしなかつたらしい。津藤は酒(さけ)を一滴も飮まないが、禪超は寧、大酒家(たいしゆか)である。それからどちらかと云ふと、禪超の方が持物(もちもの)に贅をつくしてゐる。最後に女色(ぢよしよく)に沈湎するのも、やはり禪超(ぜんてう)の方が甚しい。津藤自身が、これをどちらが出家(しゆつけ)だか解らないと批評した。――大兵肥滿で、容貌(ようばう)の醜かつた津藤は、五分月代に銀鎖(ぎんぐさり)の懸守(かけまも)りと云ふ姿で、平素は好(この)んでめくら縞の着物に白木(しろき)の三尺をしめてゐたと云ふ男である。

 或日津藤が禪超に遇ふと、禪超は錦木(にしきゞ)のしかけを羽織(はお)つて、三味線をひいてゐた。日頃から血色(けつしよく)の惡い男であるが、今日は殊(こと)によくない。眼も充血してゐる。彈力のない皮膚が時々口許で痙攣(けいれん)する。津藤はすぐに何か心配(しんぱい)があるのではないかと思つた。自分(じぶん)のやうなものでも相談相手(さうだんあひて)になれるなら是非させて頂(いたゞ)きたい――さう云ふ口吻を洩(も)らして見たが、別にこれと云つて打明ける事もないらしい。唯、何時(いつ)もよりも口數が少くなつて、ややもすると談柄(だんぺい)を失(しつ)しがちである。そこで津藤は、これを嫖客(へうかく)のかかりやすい倦怠(アンニユイ)だと解釋した。酒色を恣にしてゐる人間(にんげん)がかかつた倦怠は、酒色で癒(なほ)る筈がない。かう云ふはめから、二人は何時(いつ)になくしんみりした話をした。すると禪超(ぜんてう)は急に何か思(おも)ひ出したやうな容子で、こんな事(こと)を云つたさうである。

 佛說によると、地獄(ぢごく)にもさまざまあるが、凡(およそ)先(ま)づ、根本地獄、近邊地獄、孤獨地獄の三つに分つ事が出來(でき)るらしい。それも南瞻部洲下過五百踰繕那乃有其獄と云(い)ふ句があるから、大抵は昔から地下にあるものとなつてゐたのであらう。唯(たゞ)、その中で孤獨地獄だけは、山間曠野樹下空中、何處(どこ)へでも忽然として現(あらは)れる。云はば目前の境界(きやうかい)が、すぐそのまゝ、地獄の苦艱(くげん)を現前(げんぜん)するのである。自分は二三年前から、この地獄(ぢごく)へ墮ちた。一切の事が少しも永續(えいぞく)した興味を與へない。だから何時(いつ)でも一つの境界から一つの境界を追(お)つて生きてゐる。勿論それでも地獄は逃(のが)れられない。さうかと云つて境界を變(か)へずにゐれば猶、苦しい思をする。そこでやはり轉々(てんてん)としてその日その日の苦(くる)しみを忘れるやうな生活をしてゆく。しかし、それもしまひには苦しくなるとすれば、死んでしまふよりも外はない。昔は苦しみながらも、死ぬのが嫌(いや)だつた。今では……

 最後の句は、津藤(つとう)の耳にはいらなかつた。禪超が又三味線の調子(てうし)を合せながら、低い聲で云(い)つたからである。――それ以來(いらい)、禪超は玉屋へ來なくなつた。誰も、この放蕩(はうたう)三昧(まい)の禪僧がそれからどうなつたか、知(し)つてゐる者はない。唯その日禪超は、錦木(にしきゞ)の許へ金剛經の疏抄を一册忘れて行(い)つた。津藤が後年零落して、下總の寒川(さむかは)へ閑居(かんきよ)した時に常に机上にあつた書籍(しよせき)の一つはこの疏抄である。津藤はその表紙(へうし)の裏へ「堇野や露に氣のつく年四十」と、自作(じさく)の句を書き加(くは)へた。その本は今では殘(のこ)つてゐない。句ももう覺えてゐる人は一人もなからう。

 安政四年頃の話である。母(はゝ)は地獄と云ふ語の興味(きようみ)で、この話を覺えてゐたものらしい。

 一日の大部分を書齋で暮(くら)してゐる自分は、生活の上から云つて、自分(じぶん)の大叔父やこの禪僧とは、全然沒交涉な世界(せかい)に住んでゐる人間(にんげん)である。又興味の上から云つても、自分は德川時代(とくがはじだい)の戲作や浮世繪に、特殊な興味を持(も)つてゐる者ではない。しかも自分(じぶん)の中にある或心もちは、動(やゝもす)れば孤獨地獄と云(い)ふ語(ことば)を介して、自分の同情を彼等(かれら)の生活に注がうとする。が、自分はそれを否(いな)まうとは思はない。何故と云へば、或意味で自分も亦(また)、孤獨地獄に苦しめられてゐる一人だからである。

                  ――五年二月――

 

[やぶちゃん注:「母」芥川龍之介の養母である芥川儔(トモ)(安政四(一八五七)年~昭和一二(一九三七)年)。

「自分の大叔父」儔の母は旧姓細木(さいき)で名を須賀と言ったが、彼女はかの森鷗外の史伝「細木香以」(大正六(一九一七)年九月十九日から同年十月十三日まで『大阪毎日新聞』と『東京日日新聞』に連載)に書かれた、幕末の俳人・商人で通人として知られた細木香以(さいきこうい 文政五(一八二二)年~明治三(一八七〇)年)の実の姉であった。ウィキの「細木香以」によれば、細木の『家は新橋山城町にある酒屋で姓は源、氏は細木、店の名は摂津国屋(つのくにや)』(香以は家を継いでから藤次郎を名乗ったことから「津國屋藤次郞」を約めて「津藤(つとう)」となったのである)『である。香以の祖父・伊兵衛の代から蔵造りの店に直し、山城河岸を代表する豪商となった。父の竜池が家を継ぐと』、『酒店を閉じて』、『大名(加賀藩・米沢藩・広島藩など)の用達を専業とする。竜池は秦星池』(はたせいち)『に書を』、『初代彌生庵雛丸(やよいあんひなまる)に『狂歌を習い、雛亀と称し、晩年には桃の本鶴廬』、『また』、『源仙と号』した。『俳諧をたしなみ、仙塢』(せんう)『と号した。竜池は劇場・妓楼に出入りし』、『戯作者の為永春水と交遊したので』、「梅暦」のなかで「津藤」』(つとう)『の名で登場し、俳優や文人のパトロンとして記憶された。この父の気性や趣味が香以に受け継がれたと考えられる』。『経を北静盧』(きたせいろ 江戸中期の民間学者)に、『書を松本董斎に学』んだ。天保九(一八三八)年』、十七『歳になった頃から料理屋や船宿に出入りし』、『芸者に』馴染みが『でき、新宿や品川の妓楼に遊ぶようになる』。天保一三(一八四二)年『頃から』、『継母の郷に預けられ』、『放蕩が激しくなったことにより、父から勘当されかけたこともある』という。安政三(一八五六)年九月、父『竜池が病死し、手代たちの反対を押し切る形で』、『本家を香以が継ぐことにな』った。『文人、俳優、俳諧師、狂言作者と交わり』、『豪遊の限りを尽くし、元禄時代の紀伊國屋文左衛門と比較されるほどであったが』、安政六(一八五九)年頃から『身代が傾き』始め、文久二(一八六二)年には『店を継母に譲り、自分は隠居して浅草馬道』(うまみち)『の猿寺』(教善院さる寺。現存しない。現在の浅草寺の東北直近の角にあった。「江戸マップβ版」の「江戸切絵図」の「今戸箕輪浅草絵図」で確認出来る)『の境内に居を移した』。『その後は仕送りと狂歌の判者、市村座の作者を職業として暮らす』。文久三(一八六三)年から、『下総国千葉郡寒川に移り』、慶応二(一八六六)年まで住んだが、明治元(一八六八)年に山城河岸の店は閉じられ、その二年後に香以は病死した。『行年四十九。法名は梅誉香以居士。先祖代々の墓がある駒込の願行寺に葬られ』た。ここで龍之介が記している通り、『香以によって後援されていた人としては仮名垣魯文』、九『世市川團十郎、河竹黙阿弥、瀬川如皐、条野採菊らがいる。魯文の弟子であった野崎左文は、「幕末動乱の頃、ともかくも戯作者として職を失わず、かろうじて命脈を伝え得たのはまったく香以のような後援者のおかげである」と評している』。『芥川龍之介の母は、香以の姪にあたる』とある。なお、森鷗外は「細木香以」の「十四」の末尾で龍之介の親戚であることを述べているが、翌大正七年の一月一日の『帝国文学』に同作への追記補記を記し、来訪した芥川龍之介と交わした談話から得たことを前半で記しているが、『香以の氏細木は、正しくは「さいき」と訓むのださうである。倂し「ほそき」と呼ぶ人も多いので、細木氏自らも「ほそき」と稱したことがあるさうである』とあり、龍之介の言として、『香以には姊があつた。其婿が山王町の書肆伊三郞である。そして香以は晩年を此夫婦の家に送るつた』。『伊三郞の女』(むすめ)『を儔(とも)と云つた。儔は芥川氏に適』(ゆ/おもむ)『いた。龍之介さんは儔の生んだ子である。龍之介さんの著した小説集「羅生門」中に「孤獨地獄」の一篇がある。其材料は龍之介さんが母に聞いたものださうである。此事は龍之介さんがわたくしを訪ふに先だつて小島政二郞』(まさじろう:龍之介より二歳年下。)『さんがわたくしに報じてくれた』とある。小島は芥川龍之介が信頼していた同世代作家の友人であるが(当時は慶応義塾大学在学中であったが、『三田文学』に文芸評論を書いて有力な新人として認められていた。鷗外が大正五年十一月に同誌に発表した当代の作家たちの作品を評論した「オオソグラフイ」(「オーソグラフィー」(orthography)は「社会的に認められている字の綴り方・正書法」の意)を高く評価したが、この鷗外の謂いからはそれ以前に鷗外に近侍していたということになる)、しかし、彼が始めて龍之介を訪ねたのは、慶応卒業間近の大正七年二月三日(塚本文と結婚式を挙げた翌日)であったから、これは文壇作家の誰彼からの聞き伝えであって、龍之介から小島が直接聴いたものではない。既に文壇情報屋としての小島の厭な側面が私には感じられる。ともかくも、この小島経由の鷗外の語りから、少なくともこの頃、芥川龍之介は芥川儔(トモ)を養母ではなく、実母であると周囲に語っていたと思われることが判る。二〇〇三年翰林書房刊の「芥川龍之介新辞典」の「芥川家」のコラム「森鷗外に答える」によれば、『狂人だったとされる実母』(養父芥川道章の妹(新原(にいはら))フク)『のことがここでは隠されていたことになろう。文壇では実母のことは余り知られていなかったととってもよいであろう。後に』「點鬼簿」(大正一五(一九二六)年十月一日発行の雑誌『改造』に発表。リンク先は私の古い電子化。芥川龍之介の作品でも私は三本指の一つ挙げる名品と思う)『で実母のことを明らかにした時、かなり強い告白性あったことになる』とある。また、その前に鷗外の後の「觀潮樓閑話(その二)」(『帝国文学』大正七(一九一八)年一月発行)から先のウィキのような抜粋でないものを引用して、『「芥川氏いはく。香以には姉があつた。其婿が山王町の書肆伊三郎である。そして香以は晩年を此夫婦の家に送つた。伊三郎の女』(むすめ)『を儔と云つた。儔は芥川氏に適いた。龍之介さんは儔の生んだ子である」』とある。以下、人物については、複数の辞書やウィキペディアを総合的に参考にした。人名については煩瑣になるだけなので、歴史的仮名遣は省略した。

「大通」(だいつう)は、江戸時代に遊里・遊芸などの方面の事情によく通じている人物を指した。

「河竹默阿彌」(文化一三(一八一六)年~明治二六(一八九三)年)は歌舞伎作者。江戸生まれ。本名は吉村新七。五代目鶴屋南北に入門し、天保一四(一八四三)年に二代目河竹新七を襲名後、四代目市川小団次のために生世話(きぜわ)物(歌舞伎の世話物の中でも写実的傾向の著しい内容・演出を持った作品群。文化・文政期(一八〇四年~一八三〇年)以降の江戸歌舞伎で発達した)を書いた。維新後は九代目市川団十郎のために活歴(かつれき)物(歌舞伎で従来の時代立役物の荒唐無稽を排して史実を重んじ、歴史上の風俗を再現しようとする演出様式。明治初期から中期にかけて、この団十郎らが主唱した)を、五代目尾上菊五郎のために散切(ざんぎり)物(歌舞伎世話狂言の一種で、明治初期の散切り頭・洋服姿などの新風俗を取り入れたもの。明治五(一八七二)年から同三十年代まで作られ、まさに黙阿弥の「島鵆月白波 (しまちどりつきのしらなみ) 」などが代表作)などの作品を提供した。明治一四(一八八一)年に引退して後に「黙阿弥」を名乗った。時代物・世話物・所作事と幅広かったが、本領は生世話物にあった。代表作は「蔦紅葉宇都谷峠(つたもみぢうつのやたうげ)」「靑砥稿花紅彩畫(あをとざうしはなのにしきゑ)」など。

「柳下亭種員」(りゅうかていたねかず 文化四(一八〇七)年~安政五(一八五八)年)は戯作者。特に合巻(ごうかん:江戸後期の文化年間(一八〇四年~一八一八年)以後に流行した草双紙の一種。それ以前の黄表紙などが五丁一冊であったものを、数冊合わせて一冊とし、長いものは数十冊にも及んだ。内容は教訓・怪談・敵討・情話・古典の翻案など多方面に亙り、子女のみならず、大人の読み物としても歓迎された。流行作者には柳亭種彦・曲亭馬琴・山東京伝らがいる)作者として活躍した。その実伝は諸説があって定説をみないが、元板倉藩士の出とも、江戸京橋の葉茶屋坂本屋に生まれたとも、また、小間物屋或いは古書商であったともされる。戯作界に入り、弘化元(一八四四)年から合巻に手を染める一方書肆を営んで坂本屋新七という。「白縫譚」(初編から三十八編)、「兒雷也豪傑譚」(十二編から三十九編)など、長編合巻を得意とし、いろいろと趣向を凝らすのには巧みであったが、独創性に乏しく、他人の作の嗣ぎ編を作るのに長じたと評される。

「善哉庵永機」(ぜんざいあん えいき 文政五(一八二二)年~明治二六 (一八九三)年)は俳人。「芭蕉全集」を編集したことで知られる。其角堂とも号し、細木香以との交遊も深かった。

「同冬映」筑摩全集類聚版脚注では、『同じく幕末の俳人』とする。論文等を確認してみたが、この龍之介の「同」というのは「善哉庵永機」と同じ「善哉庵」ではないように思われる。同一の深川湖十系の俳人ではあるが、「同」はそれこそ類聚版の注にある「同じく俳人の」の意でとっておく。

「九代目團十郞」歌舞伎役者九代目市川團十郞(天保九(一八三八)年~明治三六(一九〇三)年)。本名は堀越秀(ほりこし ひでし)。屋号は成田屋。俳句も好み、俳号に紫扇・團州などがある。五代目尾上菊五郎・初代市川左團次とともに、いわゆる「團菊左時代」を築いた。写実的な演出や史実に則した時代考証などで歌舞伎の近代化を図る一方、伝統的な江戸歌舞伎の荒事を整理して今日にまで伝わる多くの形を決定し、歌舞伎を下世話な町人の娯楽から日本文化を代表する高尚な芸術の域にまで高めることに尽力した。その数多い功績から「劇聖」(げきせい)と謳われた。また、歌舞伎の世界で単に「九代目」(くだいめ)というと、通常は彼のことのみを指す。

「宇治紫文」(うじ しぶん)は一中節(いっちゅうぶし:浄瑠璃の一種。初代都太夫一中(慶安三(一六五〇)年~享保九(一七二四)年)が元禄から宝永頃(一六八八年~一七一一年)かにかけて京都において創始した。先行する浄瑠璃の長所を取入れ、当時、勃興してきた義太夫節とは逆に、温雅で叙情的な表現を目指した。三味線は中棹を用い、全体的に上品、かつ、温雅・重厚を以てその特徴とする。当初は上方の御座敷浄瑠璃として出発し、世人に秘録愛好されたが、後に江戸に下って歌舞伎の伴奏音楽としても用いられた。その後、再び主として素浄瑠璃専門となって現代に至っている。上方では早く衰退し、現在では東京を中心に伝承されている)の三味線方の名跡。初代宇治紫文(寛政三(一七九一)年~安政五(一八五八)年)は、本名、勝田権左衛門。通称は雄輔。江戸浅草材木町の名主。一中節菅野派の家元二代目菅野序遊の門下であったが、後に都派に転じ、都一閑斎と名乗る。嘉永二(一八四九)年に「宇治紫文斎」と名乗って宇治派を樹立した。数十曲の新曲を残している。一方、二代目宇治紫文(文政四(一八二一)年~明治一二(一八七九)年)は初代の実子で名を福太郎と言った。最初は初代宇治紫鳳を名乗ったが、安政六(一八五九)年に二代目紫文を襲名。明治八(一八七五)年五月に隠居し、宇治閑斎翁を名乗った。細木香以は安政六年頃から左前になっているから、まず、ここは初代のことと考えてよい。

「都千中」(みやこ せんちゅう ?~明和二(一七六五)年頃)は一中節都派の太夫。都秀太夫千中とも。都三中の弟子か。享保(一七一六年~一七三六年)末頃から宝暦七(一七五七)年頃まで活躍した。享保一九(一七三一)年の春、江戸中村座で語った「夕霞淺間岳(ゆふがすみあさまがたけ)」が大当たりし、当時、江戸の市中で「鼠の糞と夕霞の歌本のない家はない」とまで言われた。この他、元文元(一七三六)年に「家櫻」、宝暦元(一七五一)年に「賤機(しづはた)」など多くの曲を語った。宝暦七年頃から舞台出演をやめ、男芸者になった。江戸においての一中節は、千中没後、殆んど劇場出演はなくなり、座敷浄瑠璃として吉原に残るのみとなった。

「乾坤坊良齋」(けんこんぼうりょうさい 明和六(一七六九)年~万延元(一八六〇)年)は講釈師。江戸生まれ。通称、梅沢屋良助。家業の貸本屋から初代三笑亭可楽の門に入って落語家菅良助(かんりょうすけ)となり、後、講釈師に転じた。創作も得意で、「笠森お仙」「切られ与三郎」などの講談を残し、合巻も手掛けている。

「江戶櫻淸水淸玄」(えどざくらしみづせいげん)はその名で安政五(一八五八)年に板行した黙阿弥の草双紙であるが、これは師の鶴屋南北の原作になるもので、一般にはそれを歌舞伎の世話物とした、通称「黑手組の助六」、本外題「黑手組曲輪達引(くろてぐみくるわのたてひき)」として知られるものである。初演は安政五年三月江戸市村座であった。

「粉本」ここは素材・材料の意。

「物故してから、もう彼是五十年になる」正確には四十六年。

「山城河岸」(やましろがし)現在の東京都中央区銀座六・七丁目(グーグル・マップ・データ。以下同じ)相当。

「吉原の玉屋」筑摩全集類聚版脚注に、『吉原江戸町一丁目にあった妓楼。楼主は玉屋山三郎』とある。現在の東京都台東区千束四丁目

「本鄕」現在の文京区本郷。寺が多く、特定出来ない。

「禪超」不詳。

「嫖客(へうかく)」現代仮名遣「ひょうかく」。花柳界で芸者買いなどをして遊ぶ客のこと。

「錦木」源氏名。「ADAEC」の「西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース」の夢中舎松泰(しょうたい)の「遊女銘々傳」(書中の最新の年記は第六冊にあり、慶応二(一八六六)年十一月)に、玉屋の筆頭に「錦木」の名が見え、錦木太夫が寛文(一六六一年~一六七三年)年中、江戸町二丁目の玉屋長左衛門抱えの錦木が、船頭と男伊達(おとこだて)との斬り合いの喧嘩を鎮めたことが載るが、これは彼女のずっと先代である。

「黃八丈」黄色地に茶・鳶色などで縞や格子柄を織り出した絹織物。初め、八丈島で織られたことから、この名がある。

「燈籠時分」筑摩全集類聚版脚注に、『吉原仲之町で旧暦七月一日より晦日まで茶屋に』は『燈籠を掲げ』たとある。

「太鼓醫者」筑摩全集類聚版脚注に、『医者の風体』(ふうてい)『をしている太皷もち』とある。

「顴骨」(正しくは「けんこつ」であるが、現行でも慣用読みで「くわんこつ(かんこつ)」と読んでおり、芥川も後者で読んでいよう。頰骨 (きょうこつ/ほおぼね)。頰(ほお)の隆起を成す骨。眼窩の底部外方の一対の骨。

「幇間(ほうかん)」読みはママ。歴史的仮名遣は「はうかん」が正しい。「幇」は「助ける」の意で、宴席などで客の機嫌をとり、酒宴の興を助けるのを職業とする男。太鼓持ち。男芸者。

「手合」(てあひ(てあい))は、ここではやや軽蔑していう「この類(たぐ)いの連中」の意。

「寧」「むしろ」。

「沈湎」沈み溺れること。特に、酒色に耽って荒(すさ)んだ生活を送ることを言う。

「大兵肥滿」(たいひやうひまん(たいひょうひまん))は、体格が太く、逞しく、肥え太っていること。

「五分月代」(ごぶさかやき)は、剃り上げておくべき月代の部分が五分(一・五センチメートル)ほども伸びてしまっていること。

「懸守(かけまも)り」神仏の護符を入れて身につける守袋。通常は筒形の容器の外側を錦の裂(きれ)で包み、その両端に紐や鎖をつけ、胸の前に下がるように作る。魔除けや災厄除けのため、神聖なものや神秘的な威力のあるものを身につける習慣は世界的に広く行われているが、特にこれを首にかけるという形式は、他の場所につけるよりも、一層そのものを尊び、これに対する強い信頼の心を表わしていると考えられる。護符以外のものでも、特に貴重なものや丁重に取り扱う必要のあるものを持ち運ぶ時、例えば、貴重な書類や大事な人の遺骨などは日本では古くから首にかけて歩く習慣が平安の時代からあった(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

「めくら縞」縦横とも紺染めの綿糸で織った無地の綿織物。紺無地。織り紺。青縞。盲地。

「白木(しろき)」通一丁目、藝材の東京都中央区日本橋一丁目に存在した江戸三大呉服店(後の二つは駿河町の「越後屋」と、大伝馬町の「大丸屋」)の一つである白木屋。後の「東急百貨店日本橋店」の前身に当たる。

「三尺」筑摩全集類聚版脚注に、『白木屋で売り出した柔小紋』(やわらかこもん:細かい模様を白抜きして単色で染めた日本の型染めの一つで、特に江戸小紋と呼ばれたそれであろう)『の三尺帯』。三尺帯は長さが反物用の鯨尺で約三尺(鯨尺のそれは曲尺(かねじゃく)の一尺二寸五分(約三十八センチメートル)を一尺とするので、一・一四メートル)ある一重(ひとえ)廻しの帯。

をしめてゐたと云ふ男である。

「しかけ」「仕掛け」。打掛(うちか)けの別称。江戸の遊里で用いられた用語であるが、遊女の着る小袖類を指していうこともあった。

「談柄(だんぺい)」元は僧侶が正式な談話の際に手に持つ払子(ほっす)の意であったが、転じて「話の種・話題」の意となった。

「倦怠(アンニユイ)」ennui。フランス語。

「恣に」「ほしいままに」。

「根本地獄、近邊地獄、孤獨地獄の三つに分つ」先般、電子化注した『「和漢三才圖會」巻第五十六「山類」より「地獄」』の私の詳注を参照されたい。その電子化がこの電子テクスト注の呼び水となったものである。

「孤獨地獄」孤地獄とも言う特異な地獄。この地獄は通常の地獄のように地下にあるのではなく、現世の山間・広野・樹下・空中などに忽然と孤立して散在して出現する地獄とされる。文字通りの現在地獄ということである。

「南瞻部洲下過五百踰繕那乃有其獄」「其」はママである。現行の電子化物では恐らく総てが「地獄」となっている。しかしこれは「其獄」でも正しい(後掲する引用を参照)。ただ「其」でも誤読することはない。仏典を検索しても、この文字列にぴったり当てはまるものはない。困っていろいろと検索を重ねたところ、サイト「蓮花寺佛教研究所」公式サイト内のこちらにある、『蓮花寺佛教研究所紀要第八号』(二〇〇〇年発行か。PDF)に乾英次郎氏の論文「芥川龍之介における仏教的〈地獄〉表象──原家旧蔵品との関りから――」の中に答えがあった。その「一 芥川・仏教・〈地獄〉」の中で本「孤獨地獄」を採り上げて考察される中で、この「佛說によると」以下の段落を総て引かれた上で、

   《引用開始》

 この中に「仏説」が引かれているが、芥川が「孤独地獄」を執筆するに際して、仏典に直接あたったとは考えにくい。清水康次が既に指摘しているが、上記の記述は、校註国文叢書『今昔物語』上巻(池辺義象編、博文館、大正四・七)所収「本朝付仏法」巻一(日本への仏教渡来・流布史)の「行基菩薩仏法を学び人を導く語」の注釈を参照したものと思しい。芥川の仏教的〈地獄〉観を規定する文章だと思われるので、全文を引用する。

[やぶちゃん注:以下、原本では全体が二字下げ。]

地獄 地獄界をいふ、獄は囚にして罪人を守りて罪室を出でしめざる也、この獄地下にある故にかくいふ

「婆沙論」に瞻部洲下過五百踰繕那乃有其獄といへり、地獄に三種あり、一に根本地獄二に近辺地獄三に孤独地獄これなり、根本地獄とは等活、黒縄、衆合、号叫、大号叫、炎熱、極熱、無間の八大地獄也、近辺地獄に四あり煻煨増屍糞増鋒刃増、烈河増、これなりこの四一大地獄の四方何れにもあり故に一大地獄に十六増の近辺地獄八大地獄百二十八増の近辺地獄あり、これに根本の八を合して総計百三十六地獄をなす、孤独地獄とは山問曠野樹下空中に忽然として現はるゝ地獄也。

 孤独地獄あるいは孤地獄・独地獄については、玄奘訳『阿毘達磨大毘婆沙論』巻一七二の中に「瞻部洲下有人地獄。瞻部洲上亦有邊地獄。及獨地獄或在谷中。或在山上。或在曠野。或在空中。於餘三洲唯有邊地獄獨地獄無大地獄」とある。ここには「樹間」という言葉が見えないが、『妙法蓮華経玄賛』巻一七二三では「即是山問曠野樹下空中」という句が揃って出て来る。地獄のある場所について、校註国文叢書『今昔物語』では「瞻部洲下過五百踰繕那乃有「其」獄」となっているが「孤獨地獄」では「「南」欧部洲下過五百瞳繕那乃有「地」獄」となっている。単なる誤写と考えるのが妥当であろうが、たとえば『往生要集』では八大地獄が「南瞻部洲下」にあるとしているので、芥川は前掲の注釈文以外にも〈地獄〉に関する情報源を持っていた可能性はある。

 芥川が「孤独地獄」を発表したのは、『今昔物語集』『宇治拾遺物語』にある鼻の長い僧侶の逸話に取材した「鼻」(『新思潮』大正五・三)を夏目漱石に賞賛され、一気に文壇の脚光を浴びたのと同時期である。芥川が新進作家として歩み出すスタート地点に、〈地獄〉というモチーフは既に存在していたのである。

   《引用終了》

とある。恐らく、乾氏は「其獄」が「地獄」に書き変えられてしまったテクストを見られたのであろう。だいたいからして、昭和四三(一九六八)年筑摩書房発行の「現代日本文学大系 43 芥川龍之介集」を底本とする 「青空文庫」版も「地獄」となってしまっており、岩波の旧全集をもとにしているはずの昭和四六(一九七一)年発行の「筑摩全集類聚」版も、あろうことか、「地獄」となってしまっているのである。しかも、筑摩全集類聚版脚注では出典を「倶舎論」(くしゃろん:インド仏教で最も著名な大徳世親菩薩の代表作。「阿毘達磨倶舎論」)とする)。さてもそこで、「具舎論」を調べたが、完全文字列一致はなかった。そこでダメ押しで「大正蔵検索」で「五百踰繕那」のワード検索したところが、「翻譯名義集」(宋代の梵漢辞典。南宋の法雲編。一一四三年成立。仏典の重要な梵語二千余語を六十四編に分類して字義と出典を記したもの)の一節として、

   *

獄故婆沙云贍部洲下過五百踰繕那乃有其獄

   *

と「南」を除き、しかも「其獄」のそれが、確かにあることが確認出来たのである。されば、勝手に誰もが書き変えてしまった「其獄」は、それでいいのだと私は確信したのである。因みに、乾氏の論文は非常に興味深い内容であるから、是非、全部を読まれんことを強くお薦めする。さて、一応、訓読しておくと、

   *

南瞻部洲(なんせんぶしう)下(か)、五百踰繕那(ゆぜんな)を過ぎて、乃(すなは)ち、其の獄、有り。

   *

で、「南瞻部洲」はサンスクリット語「ジャンブー・ドゥヴィーパ」の音写。閻浮提(えんぶだい)・閻浮洲・南閻浮提・穢洲・勝金洲などの漢訳語がある。本来は古代インドの宇宙説において世界の中心とされている須弥山 (しゅみせん) の南方に位置する大陸で、四大洲(他に東勝身洲=弗婆提(ほつばだい)・西牛貨洲(さいごけしゅう)=瞿陀尼(くだに)・北倶盧洲(ほくくるしゅう)=鬱単越(うったんおつ)がある)の一つ。北に広く南に狭い地形で縦横七千由旬 (ゆじゅん:古代インドにおける長さの単位サンスクリット語「ヨージャナ」の漢音写。ここに出る「踰繕那」は別表記。本来は「軛(くびき)に(牛を)つける」の意で、牛に車をつけて一日引かせる行程を指した。一由旬は約十二・十六・二十四キロメートルに相当するという各説がある) あるとされる。インドの地形に基づいて考えられたものだったが、後に仏教でこの人間界(現実世界)全体を指すようになった。閻浮提には大国が十六、中国が五百、小国が十万あるとされ、仏縁に恵まれていることに於いてはこの洲が第一であるとされる。「五百踰繕那」先の換算で六千から一万二千キロメートルに相当する。

「境界(きやうかい)」「青空文庫」版も筑摩全集類聚版も「きやうがい」。私は清音がいい。響きから「境涯」という私の嫌いな熟語がちらつき、不必要なニュアンスを与えていやな感じがするからである。物理的な時空間の位置存在世界が、ひいては自身の現存在意識総てが、瞬時にしてそのまま地獄に変容(メタモルフォーゼ(ドイツ語:Metamorphose)するのである。

「山間曠野樹下空中」筑摩全集類聚版脚注は『「倶舎論頌疏一〇」に見られる句』とするが(「倶舎論頌疏」は平安時代の円暉の撰になる「倶舎論」の要旨を解釈したもの)、私の調べた限りでは、同書第十にはその文字列はない。そこで、この文字列をやはり「大正蔵検索」で調べると、「阿毘達磨順正理論」(これは衆賢(サンガバドラ:紀元後五世紀頃のインドで活躍した学僧)の著した「倶舎雹論」(くしゃばくろん)と呼ばれる「倶舎論」へ反駁した仏教教理書である)

   *

孤地獄。或二一。各別業招。或近江河。山間曠野。或在地下空中餘處。

   *

とあるのが、最も近く、次に「佛頂尊勝陀羅尼經敎跡義記」の、

   *

諸餘孤露地獄別業招者。或近江河山間曠野。

   *

や、「一切經音義」の、

   *

地獄 梵云、捺落迦、此云、苦器、亦云、不可樂、亦云、非行非法行處也。或在山間曠野空中。今言地獄者在大地之下也。

   *

や、「祕密漫荼羅十住心論」の、

   *

餘孤地獄。或多二一各別業招。或近江河山間曠野。或在地下空中餘處。

   *

「唯(たゞ)、その中で孤獨地獄だけは、山間曠野樹下空中、何處(どこ)へでも忽然として現(あらは)れる。云はば目前の境界(きやうかい)が、すぐそのまゝ、地獄の苦艱(くげん)を現前(げんぜん)するのである。自分は二三年前から、この地獄(ぢごく)へ墮ちた。一切の事が少しも永續(えいぞく)した興味を與へない。だから何時(いつ)でも一つの境界から一つの境界を追(お)つて生きてゐる。勿論それでも地獄は逃(のが)れられない。さうかと云つて境界を變(か)へずにゐれば猶、苦しい思をする。そこでやはり轉々(てんてん)としてその日その日の苦(くる)しみを忘れるやうな生活をしてゆく。しかし、それもしまひには苦しくなるとすれば、死んでしまふよりも外はない。昔は苦しみながらも、死ぬのが嫌(いや)だつた。今では……」これは精神医学書の強い抑鬱状態の教科書的表現の言い換えだとしても納得出来る内容である。「境界」と言う禪超の表現を重視するならば、自分と、自分のいる時空間や対象との乖離が起こっている病的なものとしてあるとするならば、統合失調症や重い強迫神経症なども想起される。なお、底本の後記によれば、「しかし、それもしまひには苦しくなるとすれば、」の後には初出と「羅生門」には、続けて、

   *

(かう云つて禪超は口元の筋肉(きんにく)を引きつらせながら、泣くやうな顏をして笑(わら)つた。)

   *

とあると記す。

「金剛經」「金剛般若經」。正式には「金剛般若波羅蜜經」。大乗仏教の最初期の経典群の総称。これを名のる経典は数多く漢訳されて、「大正新脩(しんしゅう)大蔵経」に収められているものだけでも四十二経もあり、サンスクリット本やチベット語訳もかなり揃っている。大乗仏教の第一声を告げる経として、もっとも重要な経であるが、以後、次々と作られ、次第に増幅されて、最大のものは玄奘が訳した「大般若波羅蜜多経」は全六百巻に及ぶ。これはあらゆる経典中、最大のものである。一切の実体と実体的思想との否定を謳う「空(くう)」の思想を拠り所とする般若の知慧を説き、六波羅蜜の実践を推し進める内容を持つ。なお、密教が拠ったところの「理趣(般若)經」は、かなり後代になって書かれたものであり、また「金剛(般若)經」は禅の関係で流布し、「般若心經」は浄土教と日蓮宗を除く仏教全般に於いて広く愛誦され、書写も盛んであり、現在、最もよく知られるものとしてある。

「疏抄」(そせう(そしょう))は注釈したものの抄本。

「下總の寒川(さむかは)」現在の千葉県千葉市中央区寒川町

「堇野や露に氣のつく年四十」「堇野」は「すみれの」。森鷗外の「細木香以」の「十」には文久元(一八六一)年(先に示した通り、文久二年には店を継母に譲って、隠居した山城河岸没落の年)の香以四十の年の一句として、相似句、

 年四十露に氣の附く花野哉

が載る。私は「堇野や」の方が上手いと思う。

「安政四年」一八五七年。

「しかも自分(じぶん)の中にある或心もちは、動(やゝもす)れば孤獨地獄と云(い)ふ語(ことば)を介して、自分の同情を彼等(かれら)の生活に注がうとする。が、自分はそれを否(いな)まうとは思はない。何故と云へば、或意味で自分も亦(また)、孤獨地獄に苦しめられてゐる一人だからである」この最後のクレジット(大正五(一九一六)年二月)が正しいとすれば、芥川龍之介は執筆時、未だ満二十三歳である。しかし、この最後の如何にもにも見える憂鬱な告解は、二年前の大正三年秋の龍之介の初恋であった吉田彌生との外的な要因による破局が根には、ある。さて、平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版の「芥川龍之介全作品事典」の稲田智恵子氏の解説では、『この末尾に注目して芥川自身の孤独感を解題しようとするものが目立つ。しかし今後の研究ではあくまでテキストの中の「自分」として、作者と切り離して読みをしめすべきであろう』などと述べておられるが、勝手なテキスト論が「こゝろ」の学生と靜を結婚させるような場外乱闘に及ぶを見るに、私はそうした作者のディスクール(言説)であることを恣意的に乖離させて読むなどということは、到底、許されるものではないと考える人種である。大流行りのテクスト論は、究極において、遂に「小説にテーマなどない」、「文言を記号として捉えて自由に読み換え、読み終えた後に感想と展開を仮想構築して各自が勝手に楽しめばよい」という無謀にして不毛な文学論に堕すものとしか考えていない。さればこそ、私は、というより、後の芥川龍之介の自死に至る過程を知っている我々は、この「檣(ほばしら)の二つに折れた船」(「或阿呆の一生」。リンク先は私の草稿附き電子テクスト)のように彷徨う若き魂の告解に、いわく言い難い不吉な予言の響きを聴かざるを得ないのではないか? 芥川龍之介の残り後半生の十二年は、まさにしく、境界の迷宮を裏道を走りめぐるような「孤獨地獄」の中にあったと言えるように私には感ぜられるのである。

「――五年二月――「底本の後記によれば、『文末に日付、初出になし。初出は文末に行を改めて小字で一文がある』あって、以下の芥川龍之介の附記が示されてある。

   *

とうから、小說を書く外に、暇を見てかう云う小品を少しづゝ書いて行かうと思つてゐた。さうしてその數が幾つかになつたら發表するつもりでゐた。今、それを一つ切話して出すのは、全く紙數の都合からである。

   *

とある。]

 

 

草稿

 

[やぶちゃん注:以下、「孤獨地獄」の草稿を示す。底本は一九九七年刊の岩波の新全集「芥川龍之介全集」の第二十一巻に所収されているそれを(六種の断片で続いておらず、書き換え部分もある)、上記公開定稿を参考に、恣意的に漢字を正字化して示す。標題はない。纏まった部分の変わるところで「*」を挟んで前後を空けた。] 

 

 これは大叔父が母に話し 母が更に又自分に話した 或平凡な事實を書いて見たものである。

 大叔父は所謂大通の一人で 九代目團十郞 宇治紫文 都千中 乾坤坊良齋などの藝人から 默阿彌 春水 種員 永機 是眞 芳年などの文人や畫工とも 知己の間柄だつた男である。梅曆の中に出て來る千葉の藤兵エと云ふ人物は、春水がこの犬叔父を模型(モデル)にした。默阿彌の「江戶櫻淸水淸玄」の中の紀國屋文左エ門も やはりこの大叔父を書いたものだとか聞いてゐる。物故してから彼是もう五十年にはなるであらう。生前 今紀文と綽號(あだな)された事があるから 今でも少しは知つてゐる人があるかも知れない。――姓は細木名は藤次郞 俳名は香以 通稱は山岸河岸の津藤である

 

 *

 

で通つた事があるから、今でも少しは覺えてゐる人があるかも知れない。――姓は細木(さいき)、名は藤次郞、俳名は香以、俗稱は山城河岸の津藤と云つた男である。

 その津藤が或夜、玉屋の二階で、厠へ行つた歸りしなに、何氣なく廊下を通ると、欄干によりかかりながら、月を見てゐる男が眼に止つた。坊主頭に黃八丈の着物を着た 醫者と云ふ拵への男である。津藤はその橫顏を見て、これを出入の太鼓醫者竹内だと思つた。そこで通りしなに 手をのばして ちよいとその男の耳を引張つた。驚いてふりむく所を笑つてやらうと思つたからである。津藤にはその時封間が一人に 藝者が一人ついてゐた。さうして二人にはその男の竹内でないと云ふ事がよくわかつてゐた。そればかりではない。封間にはその男の誰だと云ふ事さへよくわかってゐた。そこで津藤がその男の耳を引張らうとした時に、慌てて袖を引かうとしたが、もう間に合はない。

 

 *

 

すぎながら、手をのばして、ちよいとその耳を引張つた。驚いてふり向く所を笑つてやらうと思つたからである。

 所がふり向いた顏を見ると反て此方が驚いた。竹内とは似もつかない男である。左の頰にある大きな黑子は、その時でもはつきり見えた。額の廣い割に、眉と眉との間が險しく狹つてゐる。色は女のやうに白い。――これだけの顏かたちが 月にそむいてゐながらも 慌しく津藤の眼にはいつた。云ふまでもなく この時耳を引張られた坊主が

 

 *

 

で通つた事があるから、今でも少しは覺えてゐる人があるかも知れない。――姓は細木(さいき) 名は藤次郞 俳名は香以、通稱は山城河岸の津藤と云つた男である。

 その津藤が或夜 吉原の玉屋の二階で 厠へ行つた歸りに 藝者を一人封間をつれて廊下を通ると欄干によりかかり

 

こで通りしなに 手をのばして ちよいその男の耳を引張つた。驚いてふりむく所を 笑つてやらうと思つたからである。

 その時、津藤には、藝者が一人に、封間が一人ついてゐた。始めからこの二人には その男の竹内でないと云ふ事がよくわかつてゐる。それ所ではない。封間はその男が何處の誰だと云ふ事までちやんと心得てゐる。そこで 津藤がその男の耳を引張らうとするのを見て、二人とも慌てて袖を引いて止めやうとした。が、もう間に合

 

 *

 

すぎながら、手をのばして、ちよいとその耳を引張つた。驚いてふり向く所を笑つてやらうと思つたからである。

 津藤には その時 藝者が一人に封間が一人ついてゐた。さうしてこの二人は 始から その男が竹内でないと云ふ事を知つてゐた。だから 津藤が耳を引張りさうにするのを見て二人とも慌てて袖を引いて止めやうとした。が、もう間に合はない。……向ふが驚けば 津藤も驚いた。ふり向いた坊主の顏を見ると、竹内とは似もつかない男である。津藤が驚けば坊主も驚いた。

 

 *

 

すぎながら、手をのばして、ち□[やぶちゃん注:底本の判読不能字。]いとその耳を引張つた。驚いてふり向く所を 笑つてやらうと思つたからである。

 その時 津藤には 藝者が一人に封間が一人ついてゐた。さうしてこの二人は始めからその男が竹内でない事を知つてゐた。だから津藤が耳を引張りさうにするのを見て 二人とも慌てて袖を引いて止めやうとした。が、もう間に合はない。向ふが驚けば津藤も驚いた。耳を引張られてふり向いた坊主が 竹内とは似もつかない男だつたからである。

 

[やぶちゃん注:「是眞」漆工芸家・絵師・日本画家柴田是真(ぜしん 文化四(一八〇七)年~明治二四(一八九一)年))であろう。名は順蔵、是真は号。日本の漆工分野において、近世から近代への橋渡しの役割を果たした名工である。

「梅曆」戯作者為永春水(寛政二(一七九〇)年~天保一四(一八四四)年:本名は佐々木貞高)の代表作の人情本「春色梅兒譽美」(しゅんしょくうめごよみ)の略称。天保三(一八三二)年から翌年にかけて刊行された。柳川重信・柳川重山画。美男子の丹次郎と女たちとの三角関係を描いた人情本の代表的作品とされる。参照した当該ウィキに梗概がある。登場人物のところに、『千葉の藤兵衛』として、『通い客(春水の遊び仲間であり』、『通人として知られた津藤こと豪商の摂津国屋藤兵衛がモデル)』とある。摂津国屋藤兵衛は細木香以の別通称の一つ。]

2021/03/26

「和漢三才圖會」巻第五十六「山類」より「地獄」

 

Jigoku

 

ぢごく  捺落迦苦噐

     泥梨

地獄    有三類

     根本  近𨕙

テイヨツ 孤獨

 

根本乃八大地獄也其一一皆有十六謂之近邊共百三

十六地獄或爲二百七十二

 一頞部𨹔 二尼刺部𨹔 三頞唽吒 四臛臛婆

 五虎虎婆 六嗢鉢羅【一名青蓮華】 七鉢特摩【一名紅蓮華】

 八摩訶鉢特摩【一名大紅蓮華】

  以上被寒逼故謂之八寒

 一等活 二黑繩 三衆合 四嘷喚 五大嘷喚

 六焦熱 七大焦熱 八無間【一名阿鼻】

  以上被熱責故謂之八熱

右寒熱八大地獄謂之根本【共十六】各其四靣門外所在者

謂之近邊【其十六之外又有各十六則謂二百七十二者合數】

在山閒曠野空中及樹下等者謂之孤獨

△按地獄之所在不知何處而就字義入地部出名目耳

 日本有地獄皆高山頂常燒温泉不絕若肥前【溫泉】

 豊後【鸖見】肥後【阿蘓】駿河【富士】信濃【淺閒】出羽【羽黒】

 越中【立山】越乃【白山】伊豆【箱根】陸奥【燒山】等之頂㶡㶡

 燃起熱湯汪汪湧出宛然有焦熱修羅之形勢

 豊後【速見郡野田村】有名赤江地獄者十余丈正赤湯如血

 流至谷川未冷定處有魚常躍游亦一異也天竺中華

 高山皆有地獄不枚擧凡嵌地獄者不能浮出

 

○やぶちゃんの書き下し文

ぢごく  捺落迦〔(ならくか)〕・苦噐〔(くき)〕

     泥梨〔(ないり)〕

地獄    三類有り。

     根本  近𨕙〔(きんぺん)〕

テイヨツ 孤獨

 

「根本」、乃〔(すなは)〕ち、「八大地獄」なり。其の一つ一つに、皆、十六、有り。之を「近邊」と謂ふ。共に「百三十六地獄」、或いは「二百七十二」と爲す。

 一 頞部𨹔(あぶだ)

 二 尼刺部𨹔(にらぶだ)

 三 頞唽吒(あしやくだ)

 四 臛臛婆(かうかうば)

 五 虎虎婆(ここば)

 六 嗢鉢羅(をんはつら)【一名、「青蓮華〔(しやうれんげ)〕」。】

 七 鉢特摩(はつとくま)【一名、「紅蓮華」〔(ぐれんげ)〕】

 八 摩訶鉢特摩(まかはつとくま)【一名、「大紅蓮華」。】

  以上、寒に逼(せ)めらるる故に、之れを「八寒」と謂ふ。

 一 等活(とうくはつ)

 二 黑繩(こくじやう)

 三 衆合〔(しゆごう)〕

 四 嘷喚(けうくはん)

 五 大嘷喚(だいけうくわん)

 六 焦熱(せうねつ)

 七 大焦熱

 八 無間(むげん)【一名、「阿鼻〔(あび)〕」。】

  以上、熱に責めらるる故、之れを「八熱」と謂ふ。

右「寒・熱八大地獄」、之れを「根本」と謂ふ。【共に十六。】各々、其の四靣の門外に在る所の者、之れを「近邊」と謂ふ【其の十六の外に、又、各々、十六、有り。則ち、「二百七十二」と謂ふは、數に合ふ。】。

山閒・曠野の空中及び樹の下等に在る者、之れを「孤獨」と謂ふ。

△按ずるに、地獄の所在は何處〔(いづこ)〕おいふことを知らず。而〔して〕字義に就きて「地部」に入るれども、名目を出だすのみ。

 日本に「地獄」有り。皆、高山の頂(いたゞき)、常に燒け、温泉、絕へず[やぶちゃん注:ママ。]。肥前の【溫泉(うんぜん)[やぶちゃん注:漢字はママ。]】・豊後の【鸖見〔(つるみ)〕】・肥後【阿蘓。】・駿河【富士。】・信濃【淺閒。】・出羽【羽黒。】・越中【立山(たて〔やま〕)。】越乃(こしの)【白山(しら〔やま〕)。】伊豆【箱根。】陸奥【燒山〔(やけやま)〕。】等のごとき、頂、㶡㶡(くはくは)と燃(も)へ起り、熱湯、汪汪(わんわん)と湧(わ)き出で、宛然(さなが)ら、焦熱・修羅の形勢(ありさま)有り。

 豊後【速見郡野田村。】、「赤江地獄」と名づくる者、有り。十余丈、正赤(まかい[やぶちゃん注:ママ。])なる湯、血のごとく、流れて、谷川に至る。未だ冷定〔ひえさだまりも〕せざる處〔にも〕、魚、有りて、常に躍り游ぶ。亦た、一異なり。天竺・中華〔の〕高山に、皆、地獄、有り。枚擧せず。凡そ、地獄に嵌(はま)る者、浮(うか)び出ずること、能はず。

 

[やぶちゃん注:かなりの異体字が使用されており、表記不能なもの(「喚」は恐らくこれ(リンク先は「グリフウィキ」)。「頂」は〔(上)「山」+(下)「項」〕であるが、良安は経験上から「頂」を「項」と書く)は諸本と校合して確定した。挿絵がなかなか凝っていて、特異点でいい感じだ(私はあまり本書の挿絵には期待したことはない。魚介類などでは、ひどい描画もままあったからである)。閻魔庁で、獄卒の鬼に引き立てられて、鏡に生前の悪業が総て映写される「浄玻璃(じょはり)」の前に跪いている亡者だ。鏡の中の左側の男が生前の亡者に違いない。右手の男を襲って剣で刺し殺そうとしているかのように見える。右の男は旅姿であり、下に落ちているのは彼の三度笠。この亡者は山賊ででもあったのかも知れない。

「捺落迦〔(ならくか)〕」地獄のサンスクリット語は「ナラカ」で(「地下にある牢獄」を指す語)、漢音写には他に「奈落迦」「那落迦」「那羅柯」などがある。

「苦噐〔(くき)〕」「苦しみの容器」で意味からの「地獄」の漢訳語。

「泥梨〔(ないり)〕」「地獄」のサンスクリット語には別に同じ意義の「ニラヤ」があり、これはそちらの漢音写。

「根本」「婆沙論」などに見られる地獄の三分類の中の一つである「根本地獄」のこと。「根本地獄」は以下の等活・黒縄・衆合・叫喚(号叫とも。次も同じ)・大叫喚・焦熱(炎熱とも)・大焦熱(極熱)・無間の八大地獄を総称する呼称。

「近𨕙〔(きんぺん)〕」「𨕙」は「邊」(辺)の異体字。「近邊地獄」。前注の三分類の一つ。煻煨増・屍糞増地獄・鋒刃増地獄・烈河増地獄の四つに分けられ、この四地獄が、先の八大地獄のそれぞれの四方に孰れにも附属して存在する。故に一大地獄に十六増の近辺地獄、八大地獄に百二十八増の近辺地獄があることになり、これに根本の八地獄を合せると、総計百三十六地獄となる。

「孤獨」「孤獨地獄」。現世の山間・曠野・樹下・空中(良安の書き方は不全で、それらの空中と樹下にあるように読めてしまう)に忽然と現われる現在地獄を指す。私がこの「孤独地獄」を知ったのは、大学四年の一九七八年十月に入手した(父の知人の伝手で岩波書店本社で社員の方から一割引きで買った。裸でスズラン・テープで六巻ずつ縛られていて、神保町から中目黒まで素手でぶら下げて帰った。三日間、両手の指が血行不良で腫れ上がったのを思い出す)「芥川龍之介全集」をその日から一月ほどかけて通読したその時だった。芥川龍之介のズバり、「孤獨地獄」だ。若書きのもので、「鼻」の発表の二ヶ月後の大正五(一九一六)年四月発行の『新思潮』初出で、大見出し「紺珠十篇」のもとに「孤獨地獄」の標題で掲載され(目次は「孤獨地獄(小品)」)、後の作品集「羅生門」及び「鼻」に収録された。当時の私の日記に異様に感動した記載がある。「青空文庫」のこちらで読めるが、新字旧仮名である。これは正字で読まなくてはだめだ。そのうち、正字正仮名でサイトで草稿も添えて電子化注したい。その一節で龍之介はこう語る(青空文庫版を加工データとして使用し、旧全集で校訂した)。「自分」というのは登場人物の一人である禅僧「禪超」である。

   *

 佛說によると、地獄(ぢごく)にもさまざまあるが、凡(およそ)先(ま)づ、根本地獄、近邊地獄、孤獨地獄の三つに分つ事が出來(でき)るらしい。それも南瞻部洲下過五百踰繕那乃有其獄と云(い)ふ句があるから、大抵は昔から地下にあるものとなつてゐたのであらう。唯(たゞ)、その中で孤獨地獄だけは、山間曠野樹下空中、何處(どこ)へでも忽然として現(あらは)れる。云はば目前の境界(きやうかい)が、すぐそのまゝ、地獄の苦艱(くげん)を現前(げんぜん)するのである。自分は二三年前から、この地獄(じごく)へ墮ちた。一切の事が少しも永續(えいぞく)した興味を與へない。だから何時(いつ)でも一つの境界から一つの境界を追(お)つて生きてゐる。勿論それでも地獄は逃(のが)れられない。さうかと云つて境界を變(か)へずにゐれば猶、苦しい思をする。そこでやはり轉々(てんてん)としてその日その日の苦(くる)しみを忘れるやうな生活をしてゆく。しかし、それもしまひには苦しくなるとすれば、死んでしまふよりも外はない。昔は苦しみながらも、死ぬのが嫌(いや)だつた。今では……

   *

そして、最後に龍之介自身が以下のように語るのである。

   *

 安政四年頃の話である。母(はゝ)は地獄と云ふ語の興味(きようみ)で、この話を覺えてゐたものらしい。

 一日の大部分を書齋で暮(くら)してゐる自分は、生活の上から云つて、自分(じぶん)の大叔父やこの禪僧とは、全然沒交涉な世界(せかい)に住んでゐる人間(にんげん)である。又興味の上から云つても、自分は德川時代(とくがはじだい)の戲作や浮世繪に、特殊な興味を持(も)つてゐる者ではない。しかも自分(じぶん)の中にある或心もちは、動(やゝもす)れば孤獨地獄と云(い)ふ語(ことば)を介して、自分の同情を彼等(かれら)の生活に注がうとする。が、自分はそれを否(いな)まうとは思はない。何故と云へば、或意味で自分も亦(また)、孤獨地獄に苦しめられてゐる一人だからである。

           ――五年二月――

   *

この最後のクレジットが正しいとすれば、芥川龍之介は未だ満二十三歳である。この最後のメランコリックな告解は、二年前の大正三年秋の龍之介の初恋であった吉田彌生との外的な要因による破局が根にはある。しかし、後の芥川龍之介の自死に至る過程を知っている我々には、いわく言い難い凄絶な不吉な予言として響いてくるではないか?

「テイヨツ」現代中国語では「地獄は「dì yù」(ネイティヴの発音の音写は「ディー・ユゥー」といった感じである)。

『「二百七十二」と爲す』これは、後で良安が言っているように、八大地獄を「八寒地獄」と「八熱地獄」に分けて、先の「百三十六地獄」の倍するとなるから、『則ち、「二百七十二」と謂ふは、數に合ふ』というわけである。

「頞部𨹔(あぶだ)」八寒地獄の第一。寒さのあまり、鳥肌が立ち、身体に痘痕(あばた)を生じる。「痘痕」という語の語源自体が、この「あぶだ」に由来する。ウィキの「八大地獄」に拠った(以下同じ)。

「尼刺部𨹔(にらぶだ)」八寒地獄の第二。鳥肌が潰れ、全身に皸(あかぎれ)が生じる。

「頞唽吒(あしやくだ)」上記リンク先では、「頞哳吒(あたた)地獄」とある。八寒地獄の第三。名は、寒さによって「あたた!」という悲鳴を挙げること由来する。これは以下の「虎虎婆」まで共通である。「頞」は現代中国語では「è」(ウーァ)、「唽」は「」(シィー)、「吒」は「zhā」(ヂァ)である。

「臛臛婆(かうかうば)」上記リンク先では、「臛臛婆(かかば)地獄」とある。八寒地獄の第四。寒さのあまり、舌がもつれて動かず、「ははば!」(引用元のママ)という声しか出ない。しかし、「臛」は現代中国語では「huò」(フゥオ)で、「婆」は「」(ポォー)である。

「虎虎婆(ここば)」八寒地獄の第五。寒さのあまり、口が開かず、「ふふば」という声しか出ない。「虎」は現代中国語で「」(フゥー)で一致する。

「嗢鉢羅(をんはつら)【一名、「青蓮華〔(しやうれんげ)〕」。】上記リンク先では、「嗢鉢羅(うばら)地獄」とある。八寒地獄の第六。嗢鉢羅は「青い睡蓮」を意味するサンスクリット「utpala-」の音写。全身が凍傷のためにひび割れ、青い蓮のように、めくれ上がることから「青蓮地獄」(引用のママ)とも呼ばれる。

「鉢特摩(はつとくま)【一名、「紅蓮華」〔(ぐれんげ)〕】」同前で「鉢特摩(はどま)地獄」とする。意訳で「紅蓮地獄」(引用のママ)とも呼ばれる八寒地獄の第七。鉢特摩(はどま)は「蓮華」を意味するサンスクリット「padma-」の音写。ここに落ちた者はひどい寒さにより、皮膚が裂けて流血し、紅色の蓮の花に似るという。

「摩訶鉢特摩(まかはつとくま)【一名、「大紅蓮華」。】」同前で「摩訶鉢特摩(まかはどま)地獄」とする。意訳で「大紅蓮地獄」(引用のママ)とも呼ばれる八寒地獄の第八。八寒地獄で最も広大で、「摩訶」は「大」を意味するサンスクリット「mahā-」の音写。ここに落ちた者は、紅蓮地獄を超える寒さにより、体が折れ裂けて流血し、紅色の蓮の花に似るという。

「等活(とうくはつ)」堕獄理由は殺生(せっしょう)。「想地獄」の別名がある。徒らに生き物の命を断った者が堕ち、螻(けら)・蟻・蚊(か)・虻(あぶ)の小さな虫を殺した者も、懺悔しなければ、必ず、この地獄に堕ちると説かれている。また、生前争いが好きだった者や、反乱で死んだ者もここに堕ちるとされる。閻浮提(地上の人間界)の地下一千由旬にあって、縦横の広さは斉等で一万由旬ある。『この中の衆人たちは互いに害心を抱き、自らの身に備わった鉄の爪や刀剣などで殺し合うという。そうでない者も獄卒に身体を切り裂かれ、粉砕され、死ぬが、涼風が吹いて、また獄卒の「活きよ、活きよ」の声で等しく元の身体に生き返る、という責め苦が繰り返されるゆえに、等活という』。但し、『この「死んでもすぐに肉体が再生して何度でも責め苦が繰り返される」現象は、他の八大地獄や小地獄にも共通することである』。『この地獄における衆人の寿命は』五百『歳である』が、地獄のそれは『通常の』五百『歳ではなく、人間界の』五十『年を第一四天王(四大王衆天)の一日一夜とした場合の』五百『年が等活地獄の一日一夜であり、それが』五百『年にわたって続くので、人間界の時間に換算すると』、一兆六千六百五十三億千二百五十万年に亙って『苦しみを受けることになる』(一年を三百六十五日とした換算。以下も同様)。『しかし、それを待たず』、『中間で死ぬ者もいる。そこにいる衆生の悪業にも上中下の差別があるので、その命にもまた上中下の差別がある。業の多少・軽重に応じて、等活地獄の一処だけで』受けるか、『もしくは二処、三処、四処、五処、六処と、最後は十六処まで』、『悪業が尽きるまで苦痛を受ける。この一処、二処というのが、十六小地獄を順番に回っていくことなのか、それとも時間の区切りなのかは判然としない』とある。ウィキの「八大地獄」に拠った(以下同じ)。

「黑繩(こくじやう)」罪状は殺生・偸盗(ちゅうとう)盗『殺生のうえに』『盗みを重ねた者がこの地獄に堕ちると説かれている』。『等活地獄の下に位置し、縦横の広さは等活地獄と同じである(以下、大焦熱地獄まで広さは共通)。獄卒は罪人を捕らえて、熱く焼けた鉄の地面に伏し倒し、同じく熱く焼けた縄で身体に墨縄をうち、これまた熱く焼けた鉄の斧もしくは鋸(のこぎり)でその跡にそって切り、裂き、削る。また』、『左右に大きく鉄の山がある。山の上に鉄の幢(はたほこ)を立て、鉄の縄をはり、罪人に鉄の山を背負わせて縄の上を渡らせる。すると罪人は縄から落ちて砕け、あるいは鉄の鼎(かなえ)に突き落とされて煮られる。この苦しみは、先の等活地獄の苦しみよりも』十『倍である。人間界の』百『年は、六欲天の第二の忉利天(とうりてん)の一日一夜である。その忉利天の寿命は』一千『歳である。この天の寿命』一千『歳を一日一夜とし』たそれで、『人間界の時間では』十三兆三千二百二十五億年に相当する。『ここにも十六小地獄があるはずだが、「正法念処経」には三種類の名前しか伝わっていない』とある。

「衆合〔(しゆごう)〕」罪状は殺生・偸盗・邪淫。「堆圧地獄」の別名がある。『先の二つに加えて淫らな行いを繰り返した者が落ちる』。『黒縄地獄の下に位置し、その』十『倍の苦を受ける。多くの罪人が、相対する鉄の山が両方から崩れ落ち、圧殺されるなどの苦を受ける。剣の葉を持つ林の木の上に美人が誘惑して招き、罪人が登ると今度は木の下に美人が現れ、その昇り降りのたびに罪人の体から血が吹き出す』(これは私の好きな地獄でこの林は「刀葉林」と呼ばれる)。『鉄の巨象に踏まれて押し潰される』。人間の』二百『歳を第三の夜摩天の一日一夜として、さらにその』二千『年をこの地獄の一日一夜として、この地獄での寿命は』二千歳『という。これは人間界の時間に換算すると』、百六兆五千八百億年に相当する。因みに「東洋文庫」の訳ではこれに「しゅうごう」とルビが振られている。「あり得ません。誤りですよ!」。

「嘷喚(けうくはん)」罪状は殺生・偸盗・邪淫・飲酒。「飲酒」というのは、ただ酒を飲んだり、売買した者ではなく、『酒に毒を入れて人殺しをしたり、他人に酒を飲ませて悪事を働くように仕向けたりすることなどが叫喚地獄に堕ちる条件』とされる。『衆合地獄の下に位置し、その』十『倍の苦を受ける。熱湯の大釜や猛火の鉄室に入れられ、号泣、叫喚する。その泣き喚き、許しを請い哀願する声を聞いた獄卒はさらに怒り狂い、罪人をますます責めさいなむ。頭が金色、目から火を噴き、赤い服を着た巨大な獄卒が罪人を追い回して弓矢で射る。焼けた鉄の地面を走らされ、鉄の棒で打ち砕かれる』。『人間の』四百『歳を第四の兜率天の一日一夜とする。その兜率天の』四千『年を一日一夜として、この地獄における寿命は』四千『歳という。これは人間界の時間で』八百五十二兆六千四百億年に相当する。

「大嘷喚(だいけうくわん)」罪状は殺生・偸盗・邪淫・飲酒・妄語(噓をつくこと)。『叫喚地獄の下に位置し、その』十『倍の苦を受ける。叫喚地獄で使われる鍋や釜より大きな物が使われ、更に大きな苦を受け叫び喚(な)く』。『人間の』八百『歳は、第五の化楽』(けらく)『天の一日一夜として、寿』八千『歳という。その』八千『歳を一日一夜として、この地獄での寿命は』八千『歳である。これは人間界の時間で』六千八百二十一兆千二百億年に相当する。各地獄に十六の小地獄が附属すると言ったが、『理由は不明』だが、この「大叫喚地獄」のみは十八『種類の名が伝わっている』とある。しかし、そうすると、総数に異同が生じることとなるが?

「焦熱(せうねつ)」罪状は殺生・偸盗・邪淫・飲酒・妄語・邪見(仏教の教えとは相容れない考えを説き、或いはそれを実践すること)。『大叫喚地獄の下に位置し、その』十『倍の苦を受ける。常に極熱で焼かれ焦げる。赤く熱した鉄板の上で、また鉄串に刺されて、またある者は目・鼻・口・手足などに分解されて』、『それぞれが炎で焼かれる。この焦熱地獄の炎に比べると、それまでの地獄の炎も雪のように冷たく感じられるほどであり、豆粒ほどの焦熱地獄の火を地上に持って来ただけでも地上の全てが一瞬で焼き尽くされるという』。『人間界の』千六百『歳は、他化自在天の一日一夜として、その寿』一万六千『歳である。その』一万六千『歳を一日一夜として、この地獄での寿命は』一万六千『歳という。これは人間界の時間で』五京四千五百六十八兆九千六百億年に相当する。

「大焦熱」罪状は殺生・偸盗・邪淫・飲酒・妄語・邪見・犯持戒人(尼僧・童女などへの強姦)。『焦熱地獄の下に位置し、前の』六『つの地獄の一切の諸苦に』十『倍して重く受ける。また』、『更なる極熱で焼かれて焦げる。その炎は最大で高さ』五千『由旬、横幅』二百『由旬あるという。罪人の苦しみの声は地獄から』三千『由旬離れた場所でも聞こえる。この地獄に落ちる罪人は、死の三日前から中有(転生待ち)の段階にも地獄』(この地獄はどこの地獄なのかなあ?)『と同じ苦しみを受ける』。『この地獄における寿命は、人間界の』三千二百『歳を一日一夜とした場合の』三万二千『歳を一日一夜として』三万二千『歳であり、人間界の時間では』四十三京六千五百五十一兆六千八百『億年に当たる。また、この期間を半中劫とも呼ぶ』とある。

「無間(むげん)【一名、「阿鼻〔(あび)〕」。】」罪状は殺生・偸盗・邪淫・飲酒・妄語・邪見・犯持戒人に加えて、父母や阿羅漢(聖者)を殺害した罪。『地獄の最下層に位置する。大きさは前の』七『つの地獄よりも大きく、縦横高さそれぞれ』二『万由旬』(八万由旬とも)。『最下層』であるため、『この地獄に到達するには、真っ逆さまに(自由落下速度で)落ち続けて』二千年『かかるという。前の七大地獄並びに別処の一切の諸苦を以て一分として、大阿鼻地獄の苦』の一千『倍もあるという。剣樹、刀山、湯などの苦しみを絶え間』『なく受ける。背丈が』四『由旬』もあり、六十四個の『目を持ち』、『火を吐く奇怪な鬼がいる。舌を抜き出されて』百『本の釘を打たれ、毒や火を吐く虫や大蛇に責めさいなまれ、熱鉄の山を上り下りさせられる。これまでの』七『つの地獄でさえ、この無間地獄に比べれば夢のような幸福であるという』。『この地獄における寿命は、人間界の』六千四百『歳を一日一夜とした場合の』六万四千『歳を一日一夜として』六万四千『歳であり、人間界の時間では』三百四十九京二千四百十三兆四千四百億年に相当する。『また、この期間を一中劫とも呼ぶ』。『この一中劫の長さに関する説明としては、「この人寿無量歳なりしが』、百『年に一寿を減じ、また』、百『年に一寿を減ずるほどに、人寿』十『歳の時に減ずるを一減という。また』十『歳より』、百『年に一寿を増し、また』、百『年に一寿を増する程に』、八『万歳に増するを一増という。この一増一減の程を小劫として』、二十『の増減を一中劫という」とする表現』があることから、『これは人間界の年月に換算すると』三億千九百九十六万年となる』とある。『また、一説によると、この地獄における寿命は、人間界の』八千『歳を一日一夜とした場合の』八『万歳を一日一夜として』八『万歳とも言われ』、『この場合は人間界の時間で』六百八十二京千百二十『兆年に相当する計算になる。いずれにせよ、この地獄に落ちた者は気が遠くなるほどの長い年月にわたって、およそ人間の想像を絶する最大の苦しみを休みなく受け続けなければならない』。『この他、一中劫の長さを表す喩えとしては、「縦横高さがそれぞれ一由旬の巨大な正方形の石を』、百『年に一度ずつ柔らかな木綿の布で軽く払い、その繰り返しで石がすり減って完全になくなるまでの時間である」とか、「縦横高さがそれぞれ一由旬の巨大な城にケシ粒がぎっしり詰まっており、その中から』百『年に一粒ずつ』、罌粟(けし)『粒を取り出していって、城の中の』罌粟『粒が完全になくなるまでの時間である」などとも言われる。この地獄に堕ちたる者は、これほど久しく無間地獄に住して大苦を受くという』とある。最後に言っておくと、以上の通り、仏教は極めて細かく数理的に規定されているものの、その現在の度量衡換算は一定しない。

「肥前の【溫泉(うんぜん)】」現在の長崎県雲仙市小浜町雲仙にある雲仙岳(グーグル・マップ・データ航空写真。以下同じ)。標高九百十一メートル。この「うんぜん」を「溫泉」と表記するのは誤りではなく、しばしば行われたもののようで、先般電子化した譚海 卷之四 肥前國溫泉ケ嶽の事」でもそうなっている。

「豊後の【鸖見〔(つるみ)〕】」これは大分県別府市にある活火山鶴見岳のことで、東側山麓の扇状地に「別府地獄」で知られる別府温泉(別府八湯)が広がる。標高千三百七十五メートル。

「阿蘓」阿蘇山。

「越乃(こしの)【白山(しら〔やま〕)。】」この場合の「越乃」は講義の北陸地方で、ここでは加賀を指す。現在の石川県白山市と岐阜県大野郡白川村に跨る標高二千七百二メートルの活火山白山(はくさん)。西山麓の石川県白山市白峰にある「白峰温泉」が知られる。

「陸奥【燒山〔(やけやま)〕。】」秋田県の北東部に位置し、鹿角市と仙北市との境界にある活火山秋田焼山(あきたやけやま)であろう。標高は千三百六十六メートル。西麓に強烈な酸性温泉である玉川温泉がある。私は一泊したが、柔らかな皮膚部分に激しい痛みを感じ、まともに入浴することが出来なかった。

「㶡㶡(くはくは)」不詳。光を放って燃え上がるさまか。

「汪汪(わんわん)」ここは熱湯が豊かにいつまでも湧き出し、常時、湛えられているさまを指す。

『豊後【速見郡野田村。】、「赤江地獄」と名づくる者、有り』大分県別府市大字野田にある温泉が湧出する池で、現在は「血の池地獄」という名で知られ、国の名勝に指定されている。サイド・パネルの画像を見られたい。現存する最も古い記録は八世紀前半に編纂された「豊後国風土記」の「速見郡」の項にある。岩波文庫(一九三七年刊)武田祐吉編「風土記」より引く。

   *

赤湯泉(あかゆ)【郡の西北にあり。】

この溫泉の穴、郡の西北の竈門山(かまどやま)に在り。その周(めぐ)り十五丈許なり。湯の色赤くして埿(ひぢ)り。用(も)ちて屋の柱を塗るに足れり。埿(ひぢ)、外に流れ出づれば、變りて淸水(しみづ)と爲り、東を指して下り流る。因りて赤湯泉(あかゆ)といふ。

   *

「十五丈」は四十五・四九メートル。これだと、現在の大きさ(一辺が約四十五メートルの三角形の「おむすび」型を成す)より小さいが、一辺十五丈ならば、ほぼ同じである。この最後の部分は「別府温泉地球博物館」公式サイトの「血の池地獄」を参考にした。

「正赤(まかい)なる湯」こういう読みは始めてみたが、意味は「真っ赤」で判る。

「一異」一つの不思議。

「枚擧せず」ここではそれらをいちいち挙げない。

「地獄に嵌(はま)る者、浮(うか)び出ずること、能はず」これは良安の確信犯のシンボライズされた教訓であろう。彼が如何なる信仰を持っていたかは判らぬが。しかし――さればこそ――最後に引用しよう。芥川龍之介の「侏儒の言葉」からだ――

   *

 

       地獄

 

 人生は地獄よりも地獄的である。地獄の與へる苦しみは一定の法則を破つたことはない。たとへば餓鬼道の苦しみは目前の飯を食はうとすれば飯の上に火の燃えるたぐひである。しかし人生の與へる苦しみは不幸にもそれほど單純ではない。目前の飯を食はうとすれば、火の燃えることもあると同時に、又存外樂樂と食ひ得ることもあるのである。のみならず樂樂と食ひ得た後さへ、腸加太兒の起ることもあると同時に、又存外樂樂と消化し得ることもあるのである。かう云ふ無法則の世界に順應するのは何びとにも容易に出來るものではない。もし地獄に墮ちたとすれば、わたしは必ず咄嗟の間に餓鬼道の飯も掠め得るであらう。況や針の山や血の池などは二三年其處に住み慣れさへすれば格別跋渉の苦しみを感じないやうになつてしまふ筈である。

 

   *

引用は『芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 地獄』より。]

2021/03/25

「和漢三才圖會」巻第五十八「火類」より「靈䰟火(ひとだま)」

 

Hitodama

 

ひとたま 人䰟火

靈䰟火

 

△按靈魂火頭團匾其尾如杓子樣而長色青白帶微赤

 徐飛行去地髙三四丈遠近不定堕而破失光如煑爛

 麩餅其堕處小黒蟲多有之形似小金龜子及鼓蟲未

 知何物也偶有自身知魂出去者曰物出於耳中而不

 日其人死或過旬余亦有矣凡死者皆非魂出也畿内

 繁花地一歲中病死人不知幾万人也然人魂火飛者

 十箇年中唯見一兩度耳【近年聞大坂三四箇墓所葬年中髙大槪二万人許他處

 亦可以推量也】

  玉は見つ主は誰ともしらねとも

        結ひとゝめん下かへのつま

[やぶちゃん注:和歌は前行末に約四字空けて一行で示されているが、ブラウザでの不具合を考えて、改行して引き上げ、さらに上句と下句を分かち書きにした。]

 拾芥抄云見人䰟時吟此歌可結所著衣裙【男左女右】

 

○やぶちゃんの書き下し文

ひとだま 「人䰟火」。

靈䰟火

 

△按ずるに、靈魂火〔(ひとだま)〕は頭、團(まる)く匾(ひらた)く、其の尾、杓子〔(しやくし)〕樣〔(やう)〕のごとくにして、長く、色、青白、微赤を帶ぶ。徐(しづ)かに飛行〔(ひぎやう)〕し、地を去ること、髙さ、三、四丈、遠近、定まらず。堕ちて、破(わ)れ、光を失ふ。煑爛(〔に〕ただ)れたる麩餅〔(ふもち)〕のごとく、其の堕つる處に、小さき黒き蟲、多く、之れ、有り。形、小さき金龜子(こがねむし)及び鼓蟲(まひまひむし)に似〔るも〕、未だ、何物といふことを知らざるなり。偶(たまた)ま、自身、魂(たま)、出で去るを知る者、有りて、曰はく、

「物、耳の中より、出づる。」

と。日ならずして、其の人、死す。或いは、旬余(とうかあま)り過ぐるも、亦、有り。凡(すべ)て、死する者、皆、魂〔(たましひ)〕、出づるに非ざるなり。畿内繁花の地、一歲の中〔(うち)〕、病死する人、幾万人といふことを知らず。然るに、人魂の火、飛ぶは、十箇年の中、唯だ、一兩度を見るのみ。【近年、大坂、三、四箇の墓、葬ふる所の年中の髙〔(たか)〕を聞くに、大槪、二万人許りなり。他處〔(よそ)〕も亦、以つて推量すべきなり。】

  玉は見つ主〔(しゆ)〕は誰〔(たれ)〕ともしらねども

        結びとゞめん下かへのつま

 「拾芥抄〔(しふがいせう)〕」に云はく、『人䰟〔(ひとだま)〕を見る時、此の歌を吟じて、著る所の衣の裙(つま)を結ぶべし。』と。【男は左、女は右。】。

 

[やぶちゃん注:冒頭から一気に良安のオリジナルな解説に入り、恐らくは、概ね、自身の体験や資料によって語って、最後に人魂による災厄封じの和歌を引用して終わるというのは、少なくとも今まで私が電子化注した「和漢三才図会」の諸記事の中では、特異点中の特異点である。しかも、そこでは冷静な人魂観察の実体験が記されてあり、そこでは落下して破裂して消え、その消失した地面には、コガネムシ或いはカタツムリに似ているが、知っているそれらでは決してない奇妙な黒い虫が数多く蠢いていた、という未確認生物の目撃証言附きなのだ! これは人魂の目撃記載でも出色のリアリズムと言える! さらには、人魂が身体から抜けていった(幽体離脱)と述べた直話の人物が、ほどなく亡くなったという発言、逆に、魂が抜けたという証言が本人や周囲からあっても、十日余りも生きていたという事例を挙げた上で、「人が死ぬ場合、誰もが霊魂が抜けて(少なくとも可視的な)人魂となるわけではない」として、その証拠に、「私は今までの人生の中で実際に人魂を見たのは、ただの二度しかない」と述べ、畿内の都市部だけでも一年の間に病死する者の数は幾万人とも知れない。近年の当時の大坂(寺島良安は大坂城入医師で法橋であった)の幾つかの墓地の年平均の、正式に葬送された死者の数の総数を照会したところが、たった一年でも約二万人であった(こんな調査を真面目にした人物は後にも先にもそういるもんじゃあるまい)。他の地方も推して知るべしで、人魂が必ず死者から一つ出るとしたた、それこそ我々は毎日、数え切れぬほどの人魂を目撃しているはずだと、ミョーに現実主義的なキビしー批判を加えているのもまことに興味深いのである。片や、動植物の解説では平気で、「無」からそれらが生成したり、山芋が鰻に変ずるような化生説を平気で大真面目に述べている良安先生が、である。面白い! 実に、面白い! なお、「ひとだま」「人魂」は語としては非常に古くからある。「万葉集」の第第十六の巻末に「怕(おそろ)しき物の歌三首」の掉尾の一首(三八八九番)が、

   *

 人魂の

   さ靑なる君が

  ただ獨り

    逢へりし雨夜(あまよ)の

   葉非左し思ほゆ

   *

「葉非左」は難訓でよく判らないが「はひさ」という人の名ととっておく。

「團(まる)く匾(ひらた)く」玉の部分は丸いが、球体ではなく、平たい円盤なのである。

「髙さ、三、四丈」約九メートルから十二メートル。かなり高い。

「煑爛(〔に〕ただ)れたる麩餅〔(ふもち)〕のごとく」落ちた状態の物理的な様子ではなく、弾けて落下して光を失うまでの、その様子は、麩で作った非常に柔らかい餅菓子が解けてぐにゃぐにゃになったような感じであったということであろう。

「其の堕つる處に、小さき黒き蟲、多く、之れ、有り。形、小さき金龜子(こがねむし)及び鼓蟲(まひまひむし)に似〔るも〕、未だ、何物といふことを知らざるなり」これは非常に重要な証言である。場所がどこであったのか、その虫の正確な形状を良安が記していないのは非常に不審である。せめても、死骸を採取しておくべきだった。本書で動物類の細かな記載をしている彼にして、大いに不満である。まあ、きっと、本書を企画する前の、若き日のやんちゃな時代の経験だったのだろう、と好意的にとっておく。

『「物、耳の中より、出づる。」と。日ならずして、其の人、死す』って、何らかの重篤な脳の疾患だったんではなかろうか?

「拾芥抄」正しくは「拾芥略要抄」。南北朝時代の類書で、実用生活便覧とも言える百科事典のようなもの。当初は全三巻であったらしいが、後に増補されて六巻本となった。編者は洞院公賢 (とういんきんかた) とする説と、洞院実煕 (さねひろ) とする説があるが、公賢原編・実煕増補とみる説が有力。但し、実煕以後の記事も含まれていることから、順次、増補されてきたものと思われる。内容は九十九部門に分かれ、生活百般・文芸・政治関係その他と、凡そ貴族として生活していくために必要な最低限の知識・教養を簡単に解説したものである。室町時代に最も重宝がられたが、江戸時代にも広く使われた。国立国会図書館デジタルコレクションのここに当該部を見つけた。

   *

見人魂時歌

 玉ハミツ主ハタレトモシラ子トモ結留メツシタカヱノツマ

 誦此歌結所著衣妻【云男ハ左ノシタカヒノツマ云女ハ同右ノツマヲ

   *

但し、この歌は、もっとずっと昔の平安後期の保元年間(一一五六年~一一五九年)頃に公家で六条家流の歌人の藤原清輔が著した歌論書「袋草紙」に、既に、霊魂が憬(あくが)れ出でてゆくのを鎮め留(とど)める咒(まじな)いの古い呪歌として記載されてある。鎮魂歌であり、古来より、人魂や霊的な対象に遭遇した際、この歌を三誦し、男は左、女は右の褄を結んでおき、三日経った後、これを解くという風習があったことに由るといわれている。]

畔田翠山「水族志」 チヌ (クロダイ)

(一五)

チヌ 一名「クロダヒ」【備後因島】マナジ(紀州熊野九木浦勢州松坂此魚智アリテ釣緡ヲ知ル故名紀州日高郡漁人云チヌハ海ノ巫也】

形狀棘鬣ニ似テ淡黑色靑ヲ帶背ヨリ腹上ニ至リ淡黑色ノ橫斑アリ

腹白色長乄二尺ニ及ベハ橫斑去ル大和本草曰「チヌ」「タヒ」ニ似テ靑黑

色好ンテ人糞ヲ食フ故ニ人賤之㋑カイズ物類稱呼曰小ナルモノヲ

「カイズ」ト稱ス按今秋月ニ及テチヌノ子長シテ二三寸ナルヲ通テ「カ

イズ」ト云㋺黑チヌ 一名「マナジ」【勢州慥抦浦】形狀「チヌ」ニ同乄黑色ヲ帶背

ヨリ腹上ニ至リ黑條アリ腹白色餘ハ「チヌ」ニ同シ

 

○やぶちゃんの書き下し文

ちぬ 一名「くろだひ」【備後因島〔いんのしま〕。】。「まなじ」【紀州熊野九木浦・勢州松坂。此の魚、智ありて釣緡〔つりいと〕を知る。故に名づく。紀州日高郡、漁人云ふ、「『ちぬ』は海の巫〔みこ〕なり」と。】。

形狀、棘鬣〔まだひ〕に似て、淡黑色、靑を帶ぶ。背より腹の上に至り、淡黑色の橫斑あり。腹。白色。長くして二尺に及べば、橫斑、去る。「大和本草」に曰はく、『「ちぬ」、「たひ」に似て、靑黑色。好んで人糞を食ふ。故に、人、之れを賤〔いや〕しむ』と。

「かいず」 「物類稱呼」に曰はく、『小なるものを「かいず」と稱す』と。按ずるに、今、秋月に及んで、「ちぬ」の子〔こ〕、長じて、二、三寸なるを、通じて「かいず」と云ふ。

「黑ちぬ」 一名「まなじ」【勢州慥抦浦〔たしからうら〕。】。形狀、「ちぬ」に同じくして、黑色を帶び、背より腹の上に至り、黑條あり。腹、白色。餘は「ちぬ」に同じ。

 

[やぶちゃん注:本文はここ。これはまず、

スズキ目タイ科ヘダイ亜科クロダイ属クロダイ Acanthopagrus schlegelii

としてよい(属名アカントパグルスの‘Acantho-’ はギリシャ語由来のラテン語で「棘のある」の意)が、宇井縫藏著「紀州魚譜」(昭和七(一九三二)年淀屋書店出版部・近代文芸社刊)もこちらでクロダイに同定しているが、少し気になるのは次の「キチヌ」

クロダイ属キチヌ Acanthopagrus latus

で、『多く前種と混同してゐる』と注している。但し、その直後に宇井は『水族志にはハカタヂヌ一名アサギダヒとある』(太字は原本では傍点「●」、下線は傍点「ヽ」)と記しているので、問題とする必要はない(畔田がちゃんと「キチヌ」相当を別種としていると考えられる点で、という意味でである。ただ、畔田は決して厳密な分類学的視点で項を立てているわけではなく、採取した資料を網羅的に並べている傾向もあるので、絶対とは言えない)と判断した。しかし、異名に「まなじ」を挙げているのは、やはり問題がある。「マナジ」は現行、属の異なる、

ヘダイ亜科ヘダイ属ヘダイ Rhabdosargus sarba

の異名としてよく知られているからである。ただ、「マナジ」は今も一部地域で「クロダイ」の異名でもあるし、標題とする「チヌ」は今も確かなクロダイの異名であり、形状・色彩の記載からみてもクロダイとして比定同定してよいと思われる。因みに、サイト「渓流茶房エノハ亭」の「海釣りの定番魚 クロダイ・チヌの方言(地方)名」は異名を驚くほど分類的に調べ上げてあって必見なのだが、そこでやはり、「クロダイ」の異名として「マナジ」を挙げ、このクロダイとしての異名は『静岡、三重、和歌山、岡山の一部で見られる』とした上で、「マナジ」の『「マ」は岩礁周辺、「ナ」は「ノ」、「ジ」は魚を表すので』、『磯の魚を意味するとも聞いている』とあった。なるほど!

「備後因島〔いんのしま〕」現在の広島県尾道市にある因島(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。島の北側は「安芸地乗り」と呼ばれた、古くからの瀬戸内海の主要航路であった。これは四国と大島の海峡である来島海峡が瀬戸内海有数の海の難所であったため、そこを避けるように、この島近辺に航路ができたことによるもので、中世においては、かの村上水軍の拠点として、また、近世は廻船操業、近代以降は造船業と、船で栄えた島として知られる。

「紀州熊野九木浦」三重県尾鷲市九鬼町(くきちょう)の九木浦。九鬼水軍は戦国時代に志摩国を本拠としたことで知らているが、九鬼氏の祖は、熊野別当を務め、熊野水軍を率いた湛増に遡るという説があり、彼らは紀伊国牟婁郡九木浦(現在の三重県尾鷲市九鬼町)を根拠地とし、鎌倉時代には既に志摩国まで勢力を拡大しており、南北朝時代に志摩国の波切へ進出して、付近の豪族と戦い、滅亡させて本拠をそちらに移したとされるのである。

『智ありて釣緡〔つりいと〕を知る。故に名づく。紀州日高郡、漁人云ふ、「『ちぬ』は海の巫〔みこ〕なり」と』「釣緡」は音は「テウビン(チョウビン)」。「緡」には「釣り糸」の意がある。さても。この言説はすこぶる面白い! 通常、クロダイの異名のチヌは、現在の大阪湾の古名(厳密には和泉国の沿岸海域の古称で、現在の大阪湾の東部の堺市から岸和田市を経て泉南郡に至る大阪湾の東沿岸一帯)であるが、ここでクロダイが豊富に採れたことによる。である「茅渟(ちぬ)の海」(その名の元由来は、一つは人皇神武天皇の兄「彦五瀬命」(ひこいつせのみこと)が戦さで傷を受け、その血がこの海に流れ込んで、「血(ち)沼(ぬ)」となったからとも、瀬戸内海から大阪湾一帯を支配していた「神知津彦命」(かみしりつひこのみこと)の別名「珍彦」(ちぬひこ)に由来するとも、また、「椎根津彦命」(しいねづひこのみこと)に基づくともされる)で、そこで獲れる代表的な魚がクロダイであったというのが定説である。しかし、この畔田のそれは「チヌ」の「チ」は「智(ち)」であって、猟師が釣糸を垂れて狙っていることを賢しくも察知してそれを避けて捕まらぬように「知(し)んぬ」、「智()を以って知ん」とでも謂いたいような雰囲気を醸し出しているからである。しかも、それを傍証するかのように、畔田は「紀州日高郡、漁人」の直話として、「『ちぬ』は海の巫〔みこ〕なり」と添えているのだ! 語源説としてはちょっと異端っぽいかも知れぬが、ちょっとワクワクしてきたぞ!

「背より腹の上に至り、淡黑色の橫斑あり。腹。白色。長くして二尺に及べば、橫斑、去る」クロダイは、幼魚期には銀黒色の明瞭な横縞を六、七本有するが、成長とともにそれらは薄くなっていく。あまり知られていないが、クロダイは出世魚で、関東では、

チンチン→カイズ→クロダイ

関西では

ババタレ→チヌ→オオスケ

という風に大きさで呼称が変わる(釣り人の間では五十センチメートル以上のクロダイの巨大成魚を「トシナシ(歳なし)」と呼んで釣果の目標とすると、釣りサイトにはあった。私が言いたいのは、ここでの改名ポイントが専ら魚長にあることにある。魚体の色や文様の有意な変容がないことを意味しているからである。それがクロダイに比定出来る一要素でもあると言えるからである。

『「大和本草」に曰はく、『「ちぬ」、「たひ」に似て、靑黑色。好んで人糞を食ふ。故に、人、之れを賤〔いや〕しむ』と』「大和本草卷之十三 魚之下 棘鬣魚(タヒ) (マダイを始めとする「~ダイ」と呼ぶ多様な種群)」の一節。

   *

○海鯽(ちぬ) 「閩書」に出たり。順が「和名」に、『海鯽魚 知沼』〔と〕。鯛に似て靑黒色、好んで人糞を食ふ。故に、人、之れを賎〔しむ〕。「黑鯛」・「ひゑ鯛」も其の形は「海鯽」に似て、別なり。此の類、性・味共に、鯛にをとれり。佳品に非ず。

   *

そちらの私の注も是非、参照されたい。

「かいず」個人サイト「釣魚辞典」の「クロダイ」のページに『若魚をカイズと呼ぶ』とある。

「物類稱呼」江戸後期の全国的規模で採集された方言辞書。越谷吾山(こしがやござん) 著。五巻。安永四(一七七五)年刊。天地・人倫・動物・生植・器用・衣食・言語の七類に分類して約五百五十語を選んで、それに対する全国各地の方言約四千語を示し、さらに古書の用例を引くなどして詳しい解説を付す。「かいず」は巻二の「動物」の「棘鬣魚(たひ)」の小見出し「烏頰魚」に出る。一度、「烏頰魚」(スミヤキ)で電子化していたのだが、忘れていたので、再度、零からやり直してしまった。以下の引用はPDFで所持する(岡島昭浩先生の電子化画像)昭和八(一九三三)年立命館出版部刊の吉澤義則撰「校本物類稱呼 諸國方言索引」に拠った。23コマ目。

   *

「烏頰魚  くろだひ○東武にて◦くろだひと云ひ、畿内及中國九州四國tもに◦ちぬだひと呼。  此魚、泉州茅渟浦(ちぬのうら)より多く出るゆへ[やぶちゃん注:ママ。]「ちぬ」と號す。但し、「ちぬ」と「彪魚(くろだい[やぶちゃん注:ママ。])」と大に同して小く別也。然とも今混(こん)して名を呼。又小成物を◦かいずと稱す。泉貝津邊にて是をとる。因て名とす。江戶にては芝浦に多くあり[やぶちゃん注:句点なし。]

   *

「黑ちぬ」クロダイの異名。

「勢州慥抦浦〔たしからうら〕」三重県度会郡南伊勢町慥柄浦。]

「和漢三才圖會」巻第五十八「火類」より「㷠」(燐・鬼火)

 

Onibi

 

おにひ   燐【俗字】 鬼火

㷠【音鄰】

 

本綱云 田野燐火人及牛馬兵死者血入土年久所化皆

精靈之極也其色青狀如炬或聚或散來迫奪人精氣

但以馬鐙相戛作聲卽滅故張華云 金葉一振遊光斂色

△按螢火常也狐火亦不希鼬鵁鶄蜘蛛皆有出火凡霡

 霖闇夜無人聲則燐出矣皆青色而無焰芒也

 比叡山西麓毎夏月闇夜㷠多飛於南北人以爲愛

 執之火疑此鵁鶄之火矣七条朱雀道元火河州平岡

 媼火等古今有人口相傳是亦鳥也然未知何鳥也

 

○やぶちゃんの書き下し文

おにび   燐【俗字。】。鬼火。

㷠【音、「鄰」。】

 

「本綱」に云はく、『田野の燐火、人、及び、牛馬の兵、死する者の血、土に入りて、年久〔しくして〕化す所。皆、精靈〔(しやう)りやう〕の極みなり。其の色、青く、狀〔(かたち)〕、炬(たいまつ)のごとし。或いは聚(あつ)まり、或いは散じ、來〔たり〕迫(せま)りて人の精氣を奪ふ。但〔ただ〕、馬の鐙(あぶみ)を以つて、相ひ戛(う)つて聲を作〔(な)〕すときは、卽ち、滅(き)ゆる。故に張華が云ふ、「金葉、一たび、振るつて、遊光、色を斂(をさ)む」と』と。

△按ずるに、螢火は常なり。狐火も亦、希(まれ)ならず。鼬(いたち)・鵁鶄(ごいさぎ)・蜘蛛、皆、火を出〔(いだ)〕すこと、有り。凡そ、霡霖(こさめふ)り、闇夜〔にして〕、人聲、無きときは、則ち、燐〔(おにび)〕、出づ。皆、青色にして、焰-芒(ほのほ)無し。

比叡山、西の麓、毎夏月、闇夜、㷠〔(おにび)〕、多く、南北に飛ぶ。人、以つて「愛執の火」と爲す。疑ふらくは、此れ、鵁鶄の火ならん。七条・朱雀の「道元の火」、河州平岡の「媼(うば)が火」等、古今、人口に有り。相ひ傳ふ、「是れも亦、鳥なり」と。然れども、未だ何鳥というふことを知らざるなり。

[やぶちゃん注:ウィキの「鬼火」の「考察」によれば、『目撃証言の細部が一致していないことから考えて』、『鬼火とは』、『いくつかの種類の怪光現象の総称(球電』(雷の電気によって生じる放電(電光)現象の一種で、雷雨の後などに赤く輝くボール状の発光体が固定物に沿ってか、或いは中空を飛ぶようにゆっくり移動するもの。極めて稀れで、発生機序もよく解明されていない)・『セントエルモの火』(St. Elmo's fire:雷雨や嵐の夜、避雷針・風向計・船のマストなどのように地表からの突起物に観察される持続的な弱い放電現象(コロナ放電)。この名は、嘗て地中海の船人が、船乗りの守護聖人「セント・エルモ」(St.Elmo:エラスムスErasmusの訛り)の加護のしるしであると考えたことに由る。通常は青若しくは緑色を呈し、時に白や紫色のこともある。頭上に積乱雲が来て、放電が強くなると、「シュー、シュー」という音がすることもある)『など)と考えられる。雨の日によく現れることから、「火」という名前であっても単なる燃焼による炎とは異なる、別種の発光体であると推察されている』。『注目すべきは』、『昔はそんなに珍しいものでもなかったという点である』(私の父は敗戦後すぐの縄文遺跡調査の折り、神流川上流の山村で、向かいの山に狐火を見ており、私の母も戦前の幼少の頃、墓地で光るそれを見、歯科医であった父から「あれは燐が燃えているだけだ」と教えられていた。私は残念なことに鬼火を見たことはない)。『紀元前の中国では、「人間や動物の血から燐や鬼火が出る」と語られていた。当時の中国でいう「燐」は、ホタルの発光現象や、現在でいうところの摩擦電気も含まれており、後述する元素のリンを指す言葉ではない』。『一方の日本では、前述の』「和漢三才図会」の『解説によれば、戦死した人間や馬、牛の血が地面に染み込み、長い年月の末に精霊へと変化したものとされていた』。「和漢三才図会」刊行から一世紀後の十九世紀以降の『日本では、新井周吉の著書』「不思議弁妄」を『始めとして「埋葬された人の遺体の燐が鬼火となる」と語られるようになった。この解釈は』一九二〇年代(大正九年から昭和四年)『頃まで支持されており、昭和以降の辞書でもそう記述されているものもある』。『発光生物学者の神田左京はこれを』、一六九六『年にリンが発見され、そのリンが人体に含まれているとわかったことと、日本ではリンに「燐」の字があてられたこと、そして前述の中国での鬼火と燐の関係の示唆が混同された結果と推測している』。『つまり死体が分解される過程でリン酸中のリンが発光する現象だったと推測される。これで多くの鬼火について一応の説明がつくが、どう考えてもリンの発光説だけでは一致しない証言もかなり残る』。『その後も、リン自体ではなくリン化水素のガス体が自然発火により燃えているという説、死体の分解に伴って発生するメタンが燃えているという説、同様に死体の分解で硫化水素が生じて鬼火の元になるとする説などが唱えられており、現代科学においては放電による一種のプラズマ現象によるものと定義づけられることが多い』。『雨の日に多いということでセントエルモの火(プラズマ現象』(plasma。「電離気体」。固体・液体・気体に次ぐ物質の第四の状態で、狭義のそれは、気体を構成する分子が電離し、陽イオンと電子に分かれて運動している状態であり、電離した気体に相当する)『)と説明する学者もいる。物理学者・大槻義彦もまた、こうした怪火の原因がプラズマによるものとする説を唱えている』。『さらに真闇中の遠くの光源は止まっていても暗示によって動いていると容易に錯覚する現象が絡んでいる可能性も』あろう。『いずれの説も一長一短がある上、鬼火の伝承自体も前述のように様々であることから、鬼火のすべてをひとつの説で結論付けることは無理がある』。『また、人魂や狐火と混同されることも多いが、それぞれ異なるとする説が多い一方、鬼火自体の正体も不明であるため、実のところ区別は明確ではない』とある。また、本篇を紹介し、『松明の火のような青い光であり、いくつにも散らばったり、いくつかの鬼火が集まったりし、生きている人間に近づいて精気を吸いとるとされる』。『また』、『同図会の挿絵からは、大きさは直径』二=三センチメートルから、二十~三十『センチメートルほど』で、『地面から』一~二『メートル離れた空中に浮遊すると推察されている』。『根岸鎮衛による江戸時代の随筆耳嚢巻之十「鬼火の事」にも、箱根の山の上に現れた鬼火が、二つにわかれて飛び回り、再び集まり、さらにいくつにも分かれたといった逸話が述べられている』とする。これは私の「耳嚢 巻之九 鬼火の事」を見られたい。以下、『現在では、外見や特徴にはさまざまな説が唱えられている』として、その外観は、『前述の青が一般的とされるが』、『青白、赤、黄色のものもある』。『大きさも、ろうそくの炎程度の小さいものから、人間と同じ程度の大きさのもの、さらには数メートルもの大きさのものまであ』り、その出現する数は、一個か二個しか『現れないこともあれば、一度に』二十個から三十『個も現れ、時には数え切れないほどの鬼火が一晩中、燃えたり消えたりを繰り返すこともある』。出没時期は、『春から夏にかけて』で、『雨の日に現れることが多』く、出没場所は、『水辺などの湿地帯、森や草原や墓場など、自然に囲まれている場所によく現れるが、まれに街中に現れることもある』とし、『触れても火のような熱さを感じないものもあれば、本物の火のように熱で物を焼いてしまうものもある』と属性を記す。以下、「鬼火の種類」を引く。『鬼火の一種と考えられている怪火に、以下のようなものがある。これらのほかにも、不知火、小右衛門火、じゃんじゃん火、天火といった鬼火がある』『(詳細は内部リンク先を参照)。狐火もまた、鬼火の一種とみなす説があるが、厳密には鬼火とは異なるとする意見もある』として、各地の個別例を挙げる。「遊火(あそびび)」は『高知県高知市や三谷山で、城下や海上に現れるという鬼火。すぐ近くに現れたかと思えば、遠くへ飛び去ったり、また一つの炎がいくつにも分裂したかと思えば、再び一つにまとまったりする。特に人間に危害を及ぼすようなことはないという』。「いげぼ」は『三重県度会郡での鬼火の呼称』。「陰火(いんか)」は『亡霊や妖怪が出現するときに共に現れる鬼火』。「風玉(かぜだま)」は『岐阜県揖斐郡揖斐川町の鬼火。暴風雨が生じた際、球状の火となって現れる。大きさは器物の盆程度で、明るい光を放つ』。明治三〇(一八九七)『年の大風』の際には、『山から』、『この風玉が出没し』、『何度も宙を漂っていたという』。「皿数え(さらかぞえ)」は妖怪画集で知られる鳥山石燕の「今昔画図続百鬼」にある怪火で、『怪談で知られる』「番町皿屋敷」の『お菊の霊が井戸の中から陰火となって現れ、皿を数える声が聞こえてくる様子を描いたもの』、「叢原火・宗源火(そうげんび)」は同じ石燕の「画図百鬼夜行」にある『京都の鬼火』で、『かつて壬生寺地蔵堂で盗みを働いた僧侶が仏罰で鬼火になったものとされ、火の中には僧の苦悶の顔が浮かび上がっている』。『江戸時代の怪談集』「新御伽婢子」にも『この名が』出る。「火魂(ひだま)」は『沖縄県の鬼火。普段は台所の裏の火消壷に住んでいるが、鳥のような姿となって空を飛び回り、物に火をつけるとされる』。「渡柄杓(わたりびしゃく)」は『京都府北桑田郡知井村(のちの美山町、現・南丹市)の鬼火。山村に出没し、ふわふわと宙を漂う青白い火の玉。柄杓のような形と伝えられているが、実際に道具の柄杓に似ているわけではなく、火の玉が細長い尾を引く様子が柄杓に例えられているとされる』。知られた「狐火(きつねび)」は、『様々な伝説を産んできた正体不明の怪光で、狐が咥えた骨が発光しているという説がある。水戸の』茨城町を中心に県内外で活躍した民俗研究家更科公護(きみもり)氏は、『川原付近で起きる光の屈折現象と説明している』。『狐火は、鬼火の一種とされる場合もある』とする。

「㷠」は「燐」の小篆に基づく字体のようである。

『「本綱」に云はく……』良安の評言の前までを総て引用としたが、実際には「本草綱目」の記載はもっと乏しい。巻六の「火部」の内の「陽火隂火」の中の一節「野外之鬼燐」で(「本草綱目」ではこの「火部」は特異的に全体の記載も少ない)、

   *

野外之鬼燐【其火色靑其狀如炬或聚或散俗呼鬼火或云諸血之燐光也】

(野外の鬼燐【其の火の色、靑く、其の狀ち、炬のごとし。或いは聚まり、或いは散ず。俗に「鬼火」と呼ぶ。或いは云ふ、「諸血の燐光なり」と。】)

   *

流石に、良安もあまりにもしょぼくらしいと感じたものか、文字列で中文サイトで調べると、

同じ「本草綱目」の巻八の「金石部」の「馬鐙」の「主治」に、

   *

田野燐火、人血所化、或出或沒、來逼奪人精氣、但以馬鐙相戛作聲卽滅。故張華云「金葉一振、遊光斂色【時珍。】。

(田野の燐火、人血の化する所、或いは出でて、或いは沒し、來たり逼まりて、人の精氣を奪ふに、但だ、馬の鐙を以つて相ひ戛(かつ)して聲を作(な)さば、卽ち、滅す。故に「張華」云はく、「金葉、一たび、振るひて、遊光、色を斂(をさ)む」と【時珍。】。

   *

と相同部分があるのを見つけた。これをカップリングしたのである。

「張華」晋(二六五年~四二〇年)の名臣(呉を伐つに功あって最高職である三公の一つである司空に任ぜられた)で、学者でもあった張華(二三二年~三〇〇年)。彼が撰した博物誌「博物志」は散逸しているものの、「本草綱目」に見るように、多くの本草書に引用されて残っており、これがまた、非常に面白い内容を持つ。

「金葉」古代中国に於ける鐙は専ら馬に乗るためのもので、そこは木の葉のような楕円を成し、当初より金属製であった。

「鼬(いたち)」日本固有種食肉(ネコ)目イヌ亜目イタチ科イタチ亜科イタチ属ニホンイタチ(イタチ)Mustela itatsi は、本邦の民俗社会では、古くから、狐狸同様に人を化かすとされていたので妖火とは親和性が強くイタチの群れは火災を引き起こすとされ、イタチの鳴き声は不吉の前兆ともされてきた。「和漢三才図会巻第三十九 鼠類 鼬(いたち) (イタチ)」の本文と私の注を参照されたい。

「鵁鶄(ごいさぎ)」本来は「五位鷺」であるから、歴史的仮名遣は「ごゐさぎ」が正しい。ペリカン目サギ科サギ亜科ゴイサギ属ゴイサギ Nycticorax nycticorax であるが、彼らが発光するというのは、怪奇談の中では極めてメジャーなもので、疑似怪談も私の蒐集した怪奇談では枚挙に暇がない。私が最初に扱ったものでは、「耳囊 卷之七 幽靈を煮て食し事」である(ここでは眼が光ったのであって、発光の説明はつく)。サギ類は目が光り、また、白色・青白色の翼は他の外光がなくても、闇夜でもぼんやりと見え、それはあやしいもやもやの光りのように感ぜられることはある。それにしても、サギが妖光を放つことは、かなり古くから言い伝えられているから、或いは彼らの摂餌生物に発光性物質を含むものがいるか、胴体への何らかの発光物質(プランクトンやバクテリア)が附着する可能性も範疇に入れておく必要があると私は考えている。但し、私は有意に光る鷺を現認したことはない。「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鵁鶄(ごいさぎ)」にも光るとする記載があるので参照されたい。

「蜘蛛」私自身、経験があるが、大型種の場合、真っ暗に見える部屋でも、複数の眼が光ることは確かである。また、クモ類の出す糸には紫外線を反射する性質があり、僅かな可視光線でも夜中でも容易に光る(花弁は紫外線を反射する性質を有し、それを頼りとして多種の昆虫はそこに群がるように仕組んである。ある種のクモ類はこれを逆手にとって、紫外線を反射する糸で、幾何学的で綺麗な模様の巣を作り、それを花と錯覚させて、虫を誘き寄せて捕食している(因みにクモ類の眼もチョウやガなどと同じく紫外線を見ることが出来る)。

「霡霖(こさめふ)り」「霡」は「小雨」、「霖」は本来は「三日以上降り続く長雨」。本来はこの熟語(漢語)も「長雨」を指すが、次義で「小雨」の意もある。

『比叡山、西の麓、毎夏月、闇夜、㷠〔(おにび)〕、多く、南北に飛ぶ。人、以つて「愛執の火」と爲す』この伝承は他に確認出来ない。場所が場所だけに、破戒僧のそれかとも考えてしまう私がいる。

『七条・朱雀の「道元の火」』私の「柴田宵曲 妖異博物館 怪火」を参照。

『河州平岡の「媼(うば)が火」』「河内平岡」は現在の大阪府東大阪市枚岡(ひらおか)地区かと思われる。非常に古くは「平岡」と書いた。私の「諸國里人談卷之三 姥火」を参照。類似の怪火で火の中に老婆の顔があるというキョワい妖火が、同じく「柴田宵曲 妖異博物館 怪火」に出る。

「人口に有り」世間の人が、多く語っており、メジャーであるというのある。

 

 因みに、私のサイトや、このブログの「鬼火」は、私の偏愛するフランスの作家ピエール・ウジェーヌ・ドリュ・ラ・ロシェル(Pierre Eugène Drieu La Rochelle 一八九三年~一九四五年)の‘Le Feu Follet ’(「消えゆく炎」:一九三一年発表)及びそれを原作とした大好きなルイ・マル監督の‘LE FEU FOLLET ’(映画邦訳題「鬼火」)に基づくものであって、何ら、関係は、ない。――私の魂は鬼火にさえならぬ――]

2021/03/24

只野真葛 むかしばなし (23)

 

 父樣は申すにおよばず、ぢゞ樣・ばゞ樣・をぢ樣がたにいたる迄、壱人、をろかなる人、なし。その御末とおもはんに、などや、心をはげまざらめや。

 三人兄弟の中、四郞左衞門[やぶちゃん注:先に出た柔術に秀でた長男。]樣ばかり、酒、御好なりし。

 此人は、しごく、仁心、ふかく、誠に兄の兄たる心ばせなりし。

 唐(もろこし)の聖(ひじり)の道によりて、よきかたへに、よからん、と、まねくは、萬(よろづ)、ゑんりよがちに、奧まりたるかたにつきて、

「物は知りても、なるだけ、しらぬ顏するが、よし。『いで』といふ時、をくれ[やぶちゃん注:ママ。]をとらぬが、たしなみ。」

と、おぼしめし、一度(ひとたび)けいやく被ㇾ成しことは、いく年へても、其心にて、いらせられし人なり。

 さる故に、御名(おんな)の發したること、なかりし。

 いはゞ、守(まもる)こと、かたくて、境(さかひ)をいでぬ御心(みこころ)なり。

 父樣も、兄とは、いへど、親のごとく、御ちからに被ㇾ成しが、御(お)かくれの時分は、殊に、なげかせられて有し。

 

譚海 卷之四 奥州仙臺風俗の事

 

○奥州仙臺にあそぶ人は、大木戶を入(いれ)ば越河といふ所にて入判といふものをもらふ。錢三文を出してもらふ事なり。せんだいを出るときは、いづくの出口にても又出判をとりて出(いづ)る、五錢をいだしてとる事也。又仙臺城下に釋迦堂といふ有、繁昌なる所にて、寺内に定芝居あり。常に江戶の戲者(やくしや)も往來して藝をのぶる所也。其土着に市川今五郞といふもの芝居の魁首(かいしゆ)にしてせんだいにては御(お)くに團十郞と號す。此寺境内ひろく、花樹數多(あたま)ありて、常に國人の遊觀たえずといふ。

[やぶちゃん注:「大木戶」現在の福島県伊達郡国見町(くにみまち)大木戸(グーグル・マップ・データ。以下同じ)のことであろう。この伊達郡は江戸時代は天和二(一六八二)年以降は一貫して天領であった。

「越河」宮城県白石市(しろいしし)越河(こすごう。歴史的仮名遣も判らないので、本文には振らない。

「入判」「出判」この藩の出入りにかかるシステムは不詳。ネットで検索しても、全く掛かってこないので、お手上げである。識者の御教授を乞う。読みも判らないので、取り敢えず「いりはん」・「ではん」と読んでおく。

「一文」江戸中・後期のそれは凡そ現在の十二円相当。

「釋迦堂」現在、宮城県仙台市宮城野区榴岡(つつじがおか)にある日蓮宗光明山孝勝寺境内にある釈迦堂(仙台市登録有形文化財)であろう。仙台市公式サイト内のこちらによれば、仙台藩四代藩主伊達綱村が生母三沢初子の冥福を祈るために榴ヶ岡に建てた持仏堂で、元禄八(一六九五)年の建立であったが、昭和四八(一九七三)年の宮城県立図書館建設に伴い(現在の同図書館は後に再度移転したもので、この当時に新築された同図書館は現在の「宮城県婦人会館」が建っている場所に建ったものであったから、そこが釈迦堂の旧地で、本篇の立地もそこと考えてよいだろう)、現在の孝勝寺本堂脇に移された。孝勝寺は初子が帰依し、葬られた寺院であった。釈迦堂は三間四方で、一間の向拝(こうはい)が付き、以前は四周に縁が廻らされていた。屋根は宝形造(ほうぎょうづくり)、本瓦葺形銅板葺で、正面中央間に折桟唐戸(おりさんからど)、その両脇に花頭窓(かとうまど)が付く。内陣には厨子を備え、釈迦像が安置されているとあった。孝勝寺は第二代藩主伊達忠宗の正妻振姫に続き、初子も帰依し、以後、仙台藩の厚い保護を受けた寺であった。この初子は、伊達騒動を素材とした人形浄瑠璃「伽蘿先代萩」(めいぼくせんだいはぎ)の重要な登場人物である政岡のモデルとさられ、寺から東に少し離れた飛び地にある。なお、本文ではその釈迦堂も寺の境内あったと書かれているが、実は孝勝寺は往時は相応の寺域であったのだが、今は周囲が住宅地に呑み込まれてしまっているのである。

「のぶる」「延ぶる」か。棧敷や観劇席を敷いて興行を行うの謂いであろうか。

「土着」地元の田舎歌舞伎の一座。

「市川今五郞」東北歴史博物館の笠原信男氏の論考「仙台の田植踊と歌舞伎」PDF・二〇二〇年の同館館長講座資料)によれば(注記号は省略した)、『仙台藩は公式には歌舞伎の上演を禁じていた。先に見た享保9年(172412月の史料に歌舞伎に触れたところがある。10人巳上は控えることの但し書きで、「かぶき等に紛(まぎ)れ候様(そうらうさま)成る義(ぎ)は仕らせ間敷事」としている。歌舞伎に紛れて10人以上で田植踊をしてはいけないということであろう。歌舞伎は享保9年(172412月以降に禁じられ、さらに、宝暦2年(1752)までには、腰に面をつける「はさミ人形」の人形浄瑠璃として上演されるようになった。以後、何度かの禁制を経て幕末まで、「歌舞伎は相成らず、人形操の申し立てにて候間、江戸より(歌舞伎)役者が参り候ても、こし(腰)へ人形の面を附ケ」て上演された』という興味深い面白い事実が記されてあった。さらに、『江戸時代後期の古今の書物に書かれた記事を抜き書きした冊子に初代市川団十郎(蝦蔵)の多賀城出身説が見え』、『「陸奥坪の碑の近きにわたり市川村といふ所あり、そこの浦にて捕海老を役者蝦とよべり、こは芝居役者市川蝦蔵が生まれし里なり」』という驚くべきことが記されてあり、さらに、まさに本篇(底本も同じ)を引いて、『また、仙台城下に御くに団+郎こと市川今五郎という役者がいた。「仙臺城下に釈迦堂といふ有り。繁昌なる所にて、寺内に定芝居あり。常に江戸の戯者(やくしゃ)も往来して芸をのぶる所也。その土着に市川今五郎といふもの芝居の魁首(かいしゅ)にして、せんだいにては御(お)くに団十郎と号す」。』(ここで笠原氏に振られたルビを本文の当該部に適用した)とし、『釈迦堂は、祭日前後に芝居上演が公認された、仙台城下の「六ケ所神事場」であるが、この史料が記された天明5年(1785)頃は常設であったらしい』とあうことから、実際には歌舞伎は役者が腰に人形の面をぶら下げで行われていたことが判るのである。

「魁首」座長。]

「和漢三才圖會」巻第十四「外夷人物」より「飛頭蠻」

 

Hitouban

 

ろくろくび

      俗云轆轤首

飛頭蠻

三才圖會云大闍婆國中有飛頭者其人目無瞳子其頭

能飛其俗所祠名曰蟲落因號落民漢武帝時因※國使

[やぶちゃん注:「※」=「忄」+(「遅」-「辶」)。「三才圖會」原本でも同じ。「東洋文庫」版では「稺」とする。]

南方有解形之民能先使頭飛南海左手飛東海右手飛

西澤至暮頭還肩上兩手遇疾風飄於海水外

南方異物志云嶺南溪峒中有飛頭蠻項有赤痕至夜以

耳爲翼飛去食蟲物將曉復還如故也

搜神記載呉將軍朱桓一婢頭能夜飛

太平廣記云飛頭獠善鄯之東龍城之西南地廣千里皆

爲鹽田行人所經牛馬皆布氊臥焉其嶺南溪洞中徃徃

有飛頭者而頭飛一日前頸有痕匝項如紅縷妻子看守

之其人及夜狀如病頭忽離身而去乃于岸泥尋蠏蚓之

類食之將曉飛還如夢覺其實矣

△按以上數說有異同闍婆國中所有之種類乎而其國

 中人不悉然也於中華日本亦間謂有飛頭人者虛也

 自一種異人而已

 

○やぶちゃんの書き下し文

ろくろくび

      俗に云ふ、「轆轤首(ろくろくび)」。

飛頭蠻

「三才圖會」に云はく、『大闍婆國(だいじやばこく)の中、頭を飛ばす者、有り。其の人、目に瞳子(ひとみ)無く、其の頭、能く飛ぶ。其の俗、祠(まつ)る所、名づけて「蟲落」と曰ふ。因りて、「落民」と號す。漢の武帝の時、因※國〔(いんちこく)〕[やぶちゃん注:「※」=「忄」+(「遅」-「辶」)。「三才圖會」原本でも同じ。「東洋文庫」版では「稺」とする。]、南方に使ひす。解形の民、有り、能く、先づ、頭をして南海に飛ばしむ。左の手は東海に飛び、右の手は西澤に飛ぶ。暮れに至りて、頭、肩の上に還る。兩の手、疾風に遇へば、海水の外に飄(ひるがへ)る。』と。

「南方異物志」に云はく、『嶺南の溪峒の中に「飛頭蠻」有り。項(うなじ)に赤き痕(あと)有り。夜に至りて、耳を以つて、翼(つばさ)と爲し、飛び去り、蟲物を食ふ。將に曉(あけ)なんと〔せば〕、復た還りて故(もと)のごとし。』と。

「搜神記」に載(の)す。『呉將軍朱桓〔(しゆこう)〕が一婢(つかひもの)の頭、能く、夜、飛ぶ。』と。

「太平廣記」に云はく、『飛頭獠〔ひとうりやう〕は善鄯〔(ぜんぜん)〕の東、龍城の西南の地、廣さ千里、皆、鹽田たり。行人〔(かうじん)〕、經〔(へ)〕る所、牛馬、皆、氊〔(まうせん)〕を布(し)いて臥す。其の嶺南の溪洞の中に、徃徃〔わうわう〕、飛頭の者、有りて、頭の飛ぶ一日前に、頸(くびすぢ)、痕(きず)有りて、項(うなじ)を匝(めぐ)る〔こと〕紅き縷(すぢ)のごとし。妻子、看て、之れを守る。其の人、夜に及びて、狀、病(や)めるがごとくして、頭、忽ち、身を離れて、去る。乃〔(すなは)〕ち、岸泥に于(おい)て、蠏〔(かに)〕・蚓〔(みみず)〕の類を尋〔(もと)〕めて、之れを食ふ。將に曉けんと〔せば〕、飛び還りて夢の覺(さ)めたるがごとくにして、其れ、腹、實〔(み)〕つ。』と。

△按ずるに、以上の數說、異同有り。闍婆國の中に有る所の種類か。而〔れども〕、其の國中の人、悉く然るにはあらざるなり。中華・日本に於いて、亦、間(まゝ)、「飛頭人、有り」と謂ふ者は、虛(うそ)なり。自(みづか)ら一種の異人〔たる〕のみ。

[やぶちゃん注:所謂、「ろくろ首」でその起原はご覧の通り、中国「原産」である。本邦のそれは首がにょきにょきと伸びるのであるが、中華のそれは、切れて飛ぶのがオーソドックス。但し、切れた双方の断面は丸太のようなつるんとしたものらしく、その中央(推定)に糸のようなものが連絡して胴と首の間を繋げているとも言われる。それを見つけて、胴体を少しでも元の場所から移動させると、頭は永久に戻って接合合体することが不可能になるというのも、かなり一般的なお約束である。私の怪奇談には枚挙に暇がないのだが、私の注も含めて博物学的書誌学的によく纏まっているのは、まず、「柴田宵曲 妖異博物館 轆轤首」で、また、私がかなり注を拘った怪談物では、「古今百物語評判卷之一 第二 絕岸和尚肥後にて轆轤首見給ひし事」が参考になろう。そうして忘れてはならぬのが、「小泉八雲 ろくろ首  (田部隆次訳) 附・ちょいと負けない強力(!)注」である。恐らく、この怪異を世界的に日本の話として知らしめた功績は、これに尽きると言ってよい。是非、孰れも目を通されたい。失望させない自身はしっかりある。

「三才圖會」は絵を主体とした明代の類書。一六〇七年に完成し、一六〇九年に出版された。王圻(おうき)とその次男王思義によって編纂された。全百六巻。本寺島良安の「和漢三才図会」はそれに倣ったもので、それを標題とするが、本草関係の記載は、概ね、明の李時珍の「本草綱目」に拠るものが殆んどである。引用は「人物第十二卷」の「大闍婆國」で、こちらこちら(国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像)だが、飛頭蛮は後者での記載のみであり、前の図版は同国の民を描いてあるだけで、頭が飛ぶ姿は描かれていない。期待されて失望されるのは困るので、一言言い添えておく。

「大闍婆國(だいじやばこく)」インドネシアを構成する一島であるジャワ島(グーグル・マップ・データ。以下同じ)のこと。イスラム国家があった。

「祠(まつ)る所」祀っている対象の神。

「蟲落」この場合は、具体な昆虫ではなく、人に災いや病気を齎す禍々しい対象(本邦の「疳の虫」のような具合に)を「蟲」と名指しているものであろう。それに、飛頭蛮が虫類を捕食してくれるという伝承が類感したに過ぎまい。東南アジアには、飛翔する女性の首の邪悪な妖怪がいると信じられていると読んだことがあり、そうしたものとの親和性(本邦の御霊信仰と同等)もあるかも知れない。

「落民」「首が落ち離れる人」の謂いであろう。

「漢の武帝の時」在位は紀元前一四一年から同八七年。

「因※國〔(いんちこく)〕」(「※」=「忄」+(「遅」-「辶」)。「三才圖會」原本でも同じ。「東洋文庫」版では「稺」とする)不詳。「東洋文庫」訳の割注には、『西域にあったらしい国』とする。

「解形の民」自分の人体を自由に分離させることが出来る人間の意。

「海水の外に飄(ひるがへ)る」戻ることが出来なくなって、海の上に浮かんで漂流してしまう、の意。

「南方異物志」唐の房千里銭撰。一巻。

「嶺南」現在の広東省及び広西チワン族自治区の全域と湖南省・江西省の一部に相当する広域を指す。この附近

「溪峒」渓谷の洞窟。

「項(うなじ)に赤き痕(あと)有り」実はこれが江戸時代の多くのいわれなき「轆轤首」イジメの一因であった。普通の人より撫で肩で、首が少し長く見える女性や、首の咽頭部辺りに少し濃い目の筋があったり、体質的にその筋が赤みを帯びて目立つ場合、「あの娘はろくろっ首だ!」という噂を立てたがったのである。実際にそうした疑似怪談が結構ある。そうした一本に私の「耳囊 卷之五 怪病の沙汰にて果福を得し事」というハッピー・エンドの話がある。見られたい。

「搜神記」六朝時代、四世紀の晋の干宝の著になる志怪小説集。神仙・道術・妖怪などから、動植物の怪異・吉兆・凶兆の話等、奇怪な話を記す。著者の干宝は有名な歴史家であるが、身辺に死者が蘇生する事件が再度起ったことに刺激され、古今の奇談を集めて本書を著したという。もとは 三十巻あったと記されているが、現在伝わるものは系統の異なる二十巻本と八巻本である。当時、類似の志怪小説集は多く著わされているが、本書はその中でも、比較的、時期も早く、歴史家らしい簡潔な名文で、中国説話の原型が多く記されており、後の唐代伝奇など、後世の小説に素材を提供し、中国小説の萌芽ということが出来る。先のリンクの後の二つで当該話の電子化と訓読をしてあるので参照されたい。話はもっとちゃんとしていて、首が離れた胴体の観察も記されてあるのである。

「呉將軍朱桓」[やぶちゃん注:孫権の下で将軍を務めた。「三国志」に伝が載る。

「一婢」一人の下女。

「太平廣記」宋の李昉(りぼう)ら十三名が編した類書(百科事典)。全五百巻。九七八年成立。太宗の勅命によって正統な歴史にとられない古来の野史・小説その他の説話を集め、内容によって神仙・女仙・道術・方士等、実に九十二項目に分類配列されてある。同前で先のリンクの後の二つ参照。

「飛頭獠」この「獠」は「獰猛な・凶悪な」の意味や「狩をする(犬)」などの意がある。しっくりくる意味である。

「善鄯」これは恐らく「鄯善」の転倒である。所謂、かの、中央アジアのタリム盆地のタクラマカン砂漠北東部(現在の新疆ウイグル自治区チャルクリク)あった都市国家楼蘭である。紀元前七七年に漢の影響下で国名を「鄯善」と改称している。

「龍城」「東洋文庫」割注に、『現在の熱河』(ねっか)『省朝陽県』とある。これは旧省名で、現在では、現在の河北省・遼寧省及び内モンゴル自治区の交差地域に相当する。「ジェホール」の呼び名がよく知られる。現在の遼寧省朝陽県はここだが、ここで言っているのはもっと西方でないとおかしいが、以下の数値でOKだ。

「千里」宋代の一里は五百五十二・九六メートル。五百五十三キロメートル。

「行人」旅人。

「經〔(へ)〕る所」通過した時の風景の描写。

「嶺南」ここは一般名詞の「山脈の南」と採る。

「岸泥」河川・池沼の岸辺の潟。

「腹、實〔(み)〕つ」腹はいっぱいになっている。怪奇談のリアリズムのキモの部分。というか、首が食ったカニやミミズは恐らく何らかの超自然のシステムによって、空間移動をして腹に入るとするのが面白かろう。

「闍婆國の中に有る所の種類か」この良安の考証はそれぞれの引用の場所が南北に複数ばらついているのであるから、不全である。「それぞれの国や地域の中に、そうした頭を分離して飛ばすことが出来る特別な人間がいるのか?」でなくてはおかしい。

『中華・日本に於いて、亦、間(まゝ)、「飛頭人、有り」と謂ふ者は、虛(うそ)なり。自(みづか)ら一種の異人〔たる〕のみ』という言説は良安にして「よくぞ、言って呉れました!」と快哉を叫びたくなる。動植物類で彼は安易に化生説を唱えているのを考えると、ここでは非常に賛同出来る科学的な見解を述べているからである。]

2021/03/23

芥川龍之介書簡抄22 / 大正三(一九一四)年書簡より(一) 二通

 

大正三(一九一四)年一月一日・新宿発信・淺野三千三宛(葉書・年賀状)

 

   つゝしみて新年を賀したてまつる

「危險なる洋書」をとぢて勅題の歌つかまつる御代のめでたさ

    大正三年一月一日  芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:「淺野三千三」既出既注。三中の芥川龍之介の後輩。

「危險なる洋書」具体な対象作品は不詳。しかし、後述のアナトール・フランス原作の重訳「バルタザアル」の脱稿はこの直後の一月十七日であるから、直近のそれでは、一番、関係のある洋書ではある。また、結果して芥川龍之介の最初の作家デビュー作であり、しかもその内容は、ある意味で芥川龍之介の全人生――特に晩年の女性関係やキリスト教との関りの事実結果に於いて、逆説的に「危險なる洋書」とも言えるように私には思われはするのである。なお、この一首は底本で次に並ぶ山本喜誉司宛年賀状にも記されてある。但し、そこでは、以下の通り(全文)。

   *

   つゝしみて新年を祝したてまつる

〝危險なる洋書〟をとぢて勅題の歌つかまつる御代のめでたさ

    一月元旦        芥川生

   *]

 

 

大正三(一九一四)年一月二十一日・京都市吉田京都帝國大學寄宿舍内 井川恭樣 直披・廿一朝 東京新宿 芥川龍之介

 

自分には善と惡とが相反的にならず相關的になつてゐるやうな氣がす 性癖と敎育との爲なるべし ロジカルに考へられない程腦力の弱き爲にてもあるべし

兎に角矛盾せる二つのものが自分にとりて同じ誘惑力を有する也 善を愛せばこそ惡も愛し得るやうな氣がする也 ボードレールの散文詩をよんで最なつかしきは惡の讃美にあらず 彼の善に對する憧憬なり 遠慮なく云へば善惡一如のものを自分は見てゐるやうな氣がする也(氣がすると云ふは謙辭なるやもしれず)これが現前せずば藝術を語る資格なき人のやうな氣がするなり

 

同じ故鄕より來りし二人の名を善惡と云ふなり 名づけしは其故鄕を知らざる人々なり

 

何にてもよけれどしかつめらしくロゴスと云はむ乎 宇宙にロゴスあり 萬人にロゴスあり 大なるロゴスに從つて星辰は運行す 小なるロゴスに從つて各人は行動す ロゴスに從はざるものは亡ぶ ロゴスに從はざる行動のみもし名づくべくんば惡と名づくべし

ロゴスは情にあらず知にあらず意にあらず 强ひて云へば大なる知なり 所謂善惡はロゴスに從ふ行動を淺薄なる功利的の立塲より漠然と別ちたる曖昧なる槪念なり

 

自分は時に血管の中を血が星と共にめぐつてゐるやうな氣がする事あり 星占術を創めし[やぶちゃん注:「はじめし」。]人はこんな感じを更につよく有せしなるべし

 

このものにふれずんば駄目也 かくもかゝざるもこの物にふれずんば駄目也

 

芸術はこれに關係して始めて意義あり

今にして君の「WESEN を感得せしむるアートを最高也」と云ひしを思ふ 君は三足も四足も僕に先んじたり

 

しひて神の信仰を求むる必要なし 信仰を窮屈なる神の形式にあてはむればこそ有無の論もおこれ 自分は「このもの」の信仰あり こは「藝術」の信仰なり この信仰の下に感ずる法悅が他の信仰の與ふる法悅に劣れりとも思はれず

すべてのものは信仰とならずんば駄目也 ひとり宗敎に於てのみならず ひとり藝術に於てのみならず すべて信仰となりてはじめて命あらむ

 

藝術を實用新案を工夫する職人の如くとり扱ふものは幸福なり

 

自己を主張すと云ふ しかも輕々しく主張すと云ふ

自分は引込思案のせいかしらねどまづ主張せんとする自己を觀たしと思ふ

顧みて空虛なる自己をみるは不快なり 自ら眼をおゝひたき[やぶちゃん注:ママ。]位いやなり されどせん方なし 樽の空しきか否かを見し上ならでは之に酒をみたす事は難かるべし 兎に角いやなり苦しいものなり

 

みにくき自己を主張してやまざるものをみるときには嫌惡と共に壓迫を感ず 少しなれど壓迫を感ず

 

自分はさびし

時々今から考へると一高にゐた時分に君はさぞさびしかつたらうと思ふ事あり

かく云へばとて君と今の僕と同じと云ふにはあらず 君の云つてる事が僕にわからなかつたからなり 何時でも[やぶちゃん注:「何時までも」の意か。]わからないのかもしれねど

 

自分は新思潮同人の一人となれり 發表したきものあるにあらず 發表する爲の準備をする爲也 表現と人とは一なりとは眞なりと思ふ 自分は絃きれたる胡弓をもつはいやなり これより絃をつながむと思ふ

 

アナトオル フランスの短篇を譯して今更わが文のものにならざるにあきれたり 同人中最文の下手なるは僕なり 甚しく不快なり

 

同人とは云へ皆步調は別なり 早晚分離せむ乎

 

この二三ケ月煑え切らざる日を送れり 胃の具合少し惡きにいろいろな考に頭をつかひし爲なり その爲に年賀狀の外どこへも手紙をかゝず 君にも失禮した訣なり 堪忍したまへ 海苔は少し大袈裟なり 胃病で死んでも海苔を食ふはやめじと誓ひたり

 

忙しいだらうが時々手紙をくれたまへ 僕もせいぜい勉强してかく

今日の手紙は大抵日記よりのぬき書きなり 幼きを嗤はざらむ事をのぞむ

 

歌も殆つくらず つくる暇もなし 唯三首

   ともかくむしやうに淋し夕空の一つ星のやうにむしやうに淋し

   こんなうれしき事はなしこんなうれしき事はなきに星をみてあれば淚ながるゝかな

   木と草との中にわれは生くるなり日を仰ぎてわれは生くるなり木と草との如くに

 

[やぶちゃん注:この前後の妙に数少ない他の書簡を読んでも、この謂わば、作家の卵としてのデビュー直前の彼は、精神的に不安定で、やや鬱傾向にあり、曰く言い難い孤独感に苛まれていたことが窺える。新全集の宮坂年譜にも、この一月上旬の記載として、『神経質になり、電話では居留守を使い、友人とも』意識的に殆んど『会わず、手紙も書かない日がしばらく続く』。『以後の手紙にも』(この井川宛書簡に見るような鬱屈した)『内省的な文面が目立つ』とある。

「ロゴス」logos。古典ギリシア語のラテン文字音写。意味は「言葉・言語・話・実在化された真理・理性・概念・意味・論理・命題・事実・説明・定義・理論・言説といった原義の一つであろう。転じて、「万物の事象の変化転変する中にあるところの理性的論理的に語られる、或いは語り得るところの共通に理解され得るところの一定のもの(のように感じられる)調和的様態又は理性法則」を指す。

「WESEN」ドイツ語。「ヴェーゼン」或いは「ヴィーズン」。「本質・実体・本性」の意。

「自分は新思潮同人の一人となれり」第三次『新思潮』の創刊は、この翌月二月十二日。一高出身の東京帝国大学文科大学の学生が中心となって刊行された。同人は豊島与志雄・山本有三・山宮允(さんぐうまこと)(以上は大正元(一九一二)年入学)に、芥川龍之介・久米正雄・佐野文夫・成瀬正一・土屋文明(同二年入学)と、松岡譲(同三年入学)に龍之介の一高時代の親友で当時は京都帝国大学文学部英文学科本科にあった菊池寛を加えた計十名であった。

「アナトオル フランスの短篇を譯して」『新思潮』創刊号に発表した龍之介が傾倒していたフランスの作家アナトール・フランス(Anatole France  一八四四年~一九二四年)が一八八九年に書いた「バルタザール」(Balthazar)の翻訳。「バルタサアル(アナトオル・フランス)」の標題で「柳川龍之介」名義。後の大正八(一九一九)年七月発行の雑誌『新小説』に「バルタザアル」の標題で「芥川龍之介譯」の署名で再録され、後の作品集「影燈籠」・「梅・馬・鶯」に収録された。編年体の旧「芥川龍之介」全集の第一巻巻頭に配されたそれである。ジョン・レイン夫人(Mrs. John Lane)の英訳(一九〇九年)からの重訳。同人の間では高評を博した。「青空文庫」のこちらで新字旧仮名で読める。

「同人とは云へ皆步調は別なり 早晚分離せむ乎」岩波文庫「芥川龍之介書簡集」の石割透氏の注には、同『新思潮』の『創刊号冒頭には「同人全体としては一定した主義もなければ主張もない」などとある』と記されてある。

「海苔は少し大袈裟なり 胃病で死んでも海苔を食ふはやめじと誓ひたり」これは思うに、井川が前便で、或いは、龍之介が好んで多量に海苔(のり)を好んで食うのが胃に不調の原因ではないか? と記したことへの返答のように思われる。龍之介には、生涯を通じて、やや偏食傾向が見られ、甘いもの好きで、あの痩身で結構、非常に甘い菓子をガッツリ食べたりした。

大和本草附錄巻之二 魚類 天蠶絲(てぐす) (釣り糸の天蚕糸(てぐす))

 

天蠶絲 漁人魚ヲ釣ニ用ル筋ナリ蟲ニテ作ルト云

異邦ヨリ來ル

○やぶちゃんの書き下し文

天蠶絲(てぐす) 漁人、魚を釣るに用ひる筋〔(すぢ)〕なり。蟲にて作ると云ふ。異邦より來たる。

[やぶちゃん注:起原生物は水族ではないが、「魚類」の項に記載されてあり、私としては無縁として排除出来ないと考え、特異的に採用した。古くは、釣り用に用いる釣り糸「天蚕糸(てぐす)」は、

昆虫綱鱗翅(チョウ)目ヤママユガ科ヤママユガ亜科 Saturniini Eriogyna 属テグスサン Eriogyna pyretorumウィキの「天蚕糸」の解説では、これを本邦にも棲息するヤママユガ亜科ヤママユ属ヤママユ Antheraea yamamai と同一であるかのように書かれている部分があるが(最後まで読むとテグスサンが出るのであるが)、これは本篇で益軒が「異邦より來たる」と言っているように、国産の「てぐす」ではないので、ヤママユのそれではない。私は幾つかの資料と海外の鱗翅目の分類学サイトを確認して、やっと正確な分類の上位タクサを確定し得た)

から作られたものを最上品とした(グーグル画像検索「Eriogyna pyretorumをリンクさせておく。かなり毛虫っぽい幼虫写真も一緒に出るのでクリックに注意)。

 テグスサンは中国原産で、本邦には棲息しない。成虫は翅の開張長が九~十二センチメートルで、♂よりも♀の報が大形の性的二型で、前翅の中央部と外縁部及び後翅は白く、横脈上に大きな眼状紋を有し、紫黒色の環で縁取られている。前翅頂部には赤い斑紋があり、その内側に黒条がある。中国でも南部、殊に海南島で絹を生み出す「絹糸虫」(けんしちゅう)として飼養され、インドシナ半島や台湾でも飼育されている。年一回の発生で、幼虫はフウ(ユキノシタ目フウ科フウ属フウ Liquidambar formosana :これから同種は「楓蚕」とも呼ばれる)・クスノキ(クスノキ目クスノキ科ニッケイ属クスノキ Cinnamomum camphora )・ヤナギ(キントラノオ目ヤナギ科ヤナギ属 Salix )などで飼育される。繭或いは幼虫の絹糸腺(けんしせん)から採った糸は古くより「てぐす」と呼ばれ、優れた釣り糸や外科用の縫合糸などに利用されてきたが、化学繊維の発達によって、その需要は急激に減少してしまった。幼虫が成する繭は灰白色で堅く、楕円形を呈する。。なお、ウィキの「天蚕糸」の解説の内、本邦でヤママユの絹糸が独自に「てぐす」や高級絹織物の原材料として使用されていたことは事実であり、『日本ではもともと全国の山野に自然の状態で生息している蚕で、古くは木の枝についている繭を集めてきて糸に紡いだ。天蚕の餌となるクヌギ』(ブナ目ブナ科コナラ属クヌギ Quercus acutissima )『の枝に卵をつける「山つけ」という作業を経ることで、都合の良い場所で繭を得ることができる。こうした人工飼育を最初に始めたのは、長野県安曇野市の有明地区であるとされている』。『天蚕は家蚕に比べて史書に記録される機会が少なく』、文政一一(一八二八)年に刊行された「山繭養法秘伝抄」などが存在するだけである』。『長野県安曇野市穂高有明では、天明年間』(一七八一年~一七八九年)から『天蚕飼育が始められた。周辺は穂高連峰の山麓につながる高原で、松・杉とともにクヌギ』・ブナ科コナラ属カシワ Quercus dentata 『などが群生していたので、多数の天蚕が生息していた』。享和年間(一八〇一年~一八〇四年)に『なると、飼育林を設けて農家の副業として飼養され、文政年間』(一八一八年~一八三〇年)『には穂高や近郷の松本・大町等の商人により』、『繭が近畿地方へと運ばれ、広島名産の山繭織の原料にもなった。嘉永年間』(一八四八年~一八五四年)『頃には、糸繰りの技術も習得し』、百五十『万粒の繭が生産された』。明治二〇(一八八七)年から明治三十年頃が『天蚕の全盛期で、山梨県や北関東などの県外へ出張して天蚕飼育を行った。明治』三十一『年には有明村の過半数の農家が天蚕を飼育するに至る。面積』三千ヘクタール『からの出作分を含めて』八百『万粒の繭が生産され、天蚕飼育の黄金時代であった。しかし、焼岳噴火の降灰による被害や、第二次世界大戦により』、『出荷が途絶え、幻の糸になってしまった』。しかし、昭和四八(一九七三)年には『復活の機運が高まり、天蚕飼育が再開された。安曇野市天蚕センターで、飼育・飼育』『が行われている』とある。]

大和本草附錄巻之二 魚類 海人 (人魚その二)

 

海人 在海中其形全ク人ナリ頭髮鬚眉悉具レ

リ只手足ノ指水鳥ノ如ク相連ツテ水カキアリ不

能言語飮食ヲ與レドモ不食又一種遍身肉皮ア

リテ腰間ニ下リ垂袴タルガ如シ其餘ハ皆人也陸

地ニ上リ數日不死

○やぶちゃんの書き下し文

海人 海中に在り、其の形、全く、人なり。頭・髮・鬚・眉、悉く具はれり。只、手足の指、水鳥のごとく、相ひ連つて、「水かき」あり。言語すること、能はず。飮食を與へれども、食はず。又、一種〔あり〕、遍身、肉〔の〕皮ありて、腰〔の〕間に下〔(さが)〕り、袴〔(はかま)〕を垂れたるがごとし。其の餘は、皆、人、なり。陸地に上〔(あが)〕り、數日〔(すじつ)〕、死せず。

[やぶちゃん注:「かいじん」と読んでおく。只管、「人」で通し、「鬚」と指示していること、前綱でわざわざ「海女」としていることから、「マーメイド」(mermaid)ではなく、「マーマン」(merman)の印象を与える。しかも、陸に上っても、数日も生存しているというのは、所謂、ジュゴンではモデルとして外れる。私は既に「大和本草卷之十三 魚之下 人魚 (一部はニホンアシカ・アザラシ類を比定)」で、こうした記載にごくしっくりくるものとして、

食肉(ネコ)目イヌ亜目鰭脚下目鰭脚下目アシカ科アシカ属ニホンアシカ Zalophus japonicus

或いは、

アザラシ科 Phocidae のアザラシ類

可能性としては特異的に南下してしまった、

アザラシ科アゴヒゲアザラシ属アゴヒゲアザラシ Erignathus barbatus(二〇〇八年八月に多摩川に出現した「タマちゃん」はこれ)

或いは、

ゴマフアザラシ属ゴマフアザラシ Phoca largha

の可能性を示唆した。海棲哺乳類の中で、恐らくアザラシは最も人(ヒト)に擬人化し易い対象である。アザラシはヒゲは勿論だが、眼の上部にも数本の毛を生やしている個体や、眼の上部内側に魚類の「パーマーク」(parr mark)のような、平安時代の女性の描き眉の如き楕円或いは円形の眉のような紋を持つ個体も多い。また、アザラシの後脚はまさに、「肉」質で「皮」に覆われたものが、「腰」の「間」に「下」がって、人間の「袴」を「垂」らして、ぞろ引いているように見えるからである。

大和本草附錄巻之二 魚類 海女 (人魚)

 

海女 海中ニマレニアリ半身以上ハ女人ニテ半身以

下ハ魚身ナリ其骨下血ヲ止ル妙藥ナリ世ニ人魚

ト云者是歟蠻語ニ其名ヘイシムレルト云

○やぶちゃんの書き下し文

海女 海中にまれにあり。半身以上は女人にて、半身以下は魚身なり。其の骨、下血を止むる妙藥なり。世に「人魚」と云ふ者、是れか。蠻語に其の名「ヘイシムレル」と云ふ。

[やぶちゃん注:標題は「かいぢよ」と読んでおく。私の愛する「人魚」である。私のものでは、人魚のミイラの画像から、西洋博物書の画像もとりいれて最も考証を尽くした『毛利梅園「梅園魚譜」 人魚』(二〇一五年六月一日公開記事)がよく、次に拘ったものは同じく人魚のミイラの精緻な寸法まで換算した『人魚(松森胤保「両羽博物図譜」より)』(二〇一八年五月一日公開記事)がお薦めである。また、民俗学的博物考証としては、やはり私の古い電子テクストである南方熊楠「人魚の話」(二〇〇六年九月十日サイト内公開)も参照されたい。そこで、熊楠は以下に示す良安「和漢三才図会」の記載を引いたところで、『倍以之牟礼(へいしむれ)(ラテン語ペッセ・ムリエル、婦人魚の義なり)』と補注している。その原文は私の古い電子化注である寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十九 魚類 江海有鱗魚」(二〇〇八年二月二日サイト内公開完結)を参照されたいが、ここでは、その「にんぎよ 人魚」の訓読文を転載する。

   *

にんぎよ   鯪魚

人魚

ジン イユイ

「和名抄」に「兼名苑」を引きて云ふ、『人魚【一名、鯪魚。】魚の身、人の面なる者なり。』と。

「本綱」に「稽神録」を引きて云ふ、『謝仲玉といふ者有り、婦人の水中に出没するを見る。腰より已下は青魚なり。又、査道と云ふ者有り、高麗に奉使して海沙中に一婦人を見る。肘の後に紅き鬛有りと。二物、其れ、是れ人魚なり。』と。

推古帝二十七年、攝州堀江に物有り、罟(あみ)に入る。其の形、兒のごとく、魚に非ず、人に非ず、名づく所を知らず云云。今も亦、西海大洋の中に間(まゝ)之有り。頭、婦女に似て以下は魚の身。麤(あら)き鱗、淺黑き色、鯉に似て尾に岐有り。兩の鰭、蹼(みづかき)有りて手のごとくにして、脚無し。暴(にはか)に風雨將に至んとする時、見る。漁父、網に入ると雖ども奇(あやし)みて捕らず。

阿蘭陀、人魚の骨【「倍以之牟禮〔(ヘイシンレ)〕」と名づく。】を以て解毒の藥と爲す。神効有り。其の骨、器に作り、佩腰の物と爲す。色、象牙に似て、濃(のう)ならず。

   *

また、そこで私は汎世界的な人魚のモデル生物として、

   *

哺乳綱ジュゴン目(海牛目)Sireniaの、

ジュゴン科 Dugongidae ジュゴン亜科ジュゴン属ジュゴン Dugong dugon

一属一種が真っ先に挙げられる。しかしさすれば当然、同じジュゴン目のマナティー科Trichechidae マナティー属 Trichechu sに属する次の三種、

アマゾンマナティー Trichechus inunguis

アメリカマナティー Trichechus manatus

アフリカマナティー Trichechus senegalensis

も挙げねばならないし、更に言えば近代に人類が絶滅させたジュゴン科ステラーカイギュウ亜科 Hydrodamalinae の、

ステラーカイギュウ Hydrodamalis gigas

も、その我々の愚かな行為を忘れないために、掲げることに異論を挟む方はおるまい[やぶちゃん注:以下略。]。

   *

を掲げた上で、「倍以之牟禮〔(ヘイシンレ)〕」については以下のように注した。

   *

「倍以之牟禮」については、南方熊楠の上記論文で、この良安の記述を載せて『ラテン語ペッセ・ムリエル、婦人魚の義なり』と注している。さてこれについて調べようとしたところが、以前からその膨大な資料に敬意を表しながらも、不勉強ながらろくに読んでいなかった「東京人形倶楽部」(これ自体が「人魚学」の強力なサイトである)の中に、『「せ」は世界の人魚、或いは人魚の世界のセ 坂元大河君の報告――人魚初級講座5 東洋の人魚――』(これが初級では私は母の胎内に戻って生まれ直さねばならぬ!)という、もう私の出る幕はない素晴らしく記載を見つけてしまった。素直に完敗を表明して該当箇所を引用させて頂く(一部の記号・フォントを本ページに合わせて補正したのみで基本的に完全なコピーである)。

   《引用開始》

 江戸の人魚文献で注目されるものに、大槻玄沢(磐水)の「六物新志」があります。舶来薬品の考証ですが、下巻の最後で人魚が取り上げられ、「甲子夜話」で「人魚のこと大槻玄沢が六物新志に詳なり」と言われているものです。玄沢は「ヘイシムレル」という人魚の骨が海外からもたらされている所から説き始めます。この物は、貝原益軒「大和本草」では「ベイシムレル」、「和漢三才図会」では「バイシムレ」と言われていますが、玄沢はスペイン語のペセムエール、つまりpez(魚)とmujer(女)の合成語、婦魚=人魚のことだと、その意味をつきとめました。この語源は、小学館『国語大辞典』では、ポルトガル語peixe-mulher(雌の海牛)とし、南方熊楠はラテン語「ペッセ・ムリエル」(婦人魚)の義としています。

 この骨は象牙のようで、止血(六物新志・長崎聞見録・大和本草・重修本草綱目啓蒙)の効能があるとされています。その他、解毒剤と紹介する文献もあります。「和漢三才図会」、『国語大辞典』、南方熊楠「人魚の話」などです。南方は「三才図会」を引いていますので、寺島良安が解毒剤説を広めているようです。江戸時代で解毒の薬と言えば、ウニコール(一角獣の角)が有名で、偽物が横行し、「うにこーる」と言えば、うそ・いつわりの意味になったほどでした。骨の解毒作用は、漢方の犀角、蛇角で説かれていますので、人魚の骨も毒を制すると思われたのでしょう。中国では孔雀の血が、アフリカではヘビクイワシの肝臓が、毒蛇に噛まれたときに解毒剤として用いられました。ハゲワシの足は、サソリ、蛇の毒に効くと言われていました。人魚の骨も偽物が多く、「山海名産図会」は「甚だ偽もの多し」、「重修本草綱目啓蒙」は「蛮人もち来たる者贋物多し、薬舗に貨する者はアカエイの歯及びトビエイの歯の形状にして斜紋なるものなり、未だ真なる者を見ず」と言っています。

 玄沢は、イタリア人アルドロヴァンディ(1522~1605)の動物誌、ポーランド人ヨンストン(1603~1675)の動物図説、18世紀のオランダ人ファレンティンの書から人魚の図を司馬江漢に写させています。このうちヨンストンの動物図説(1650~53)は銅版図入の図鑑で、その出版後すぐオランダ商館長が将軍家綱に贈っています。また平賀源内も1760年代にはこの書を入手し、知り合いの画家たちに模写させています。蘭学時代には、人魚を表すヨーロッパの言語も知られ、「西洋雑記」に「セヰレデネン、セイメンセン、ゼエ・フロウー」、「六物新志」には「ペセムエール、フロウヒス、メイルミンネン、ゼイウェイフ」の語が紹介されています。また、1403年にオランダでとらえられた人魚のことは「西洋雑記」「和訓栞」に見えます。このオランダの人魚はよほど有名らしく、南方「人魚の話」、ボルヘス『幻獣辞典』にも登場しておりますし、明代中国の書「萬国図説」「坤輿外記」にも言及があります。

   《引用終了》

あぁ! 人魚のささやきが聞こえる……「だからね……最初に貴方が感じたように……貴方はおとなしく浜辺を去るべきだったの……

   *

さても。先ほど検索したところ、「日本科学未来館」の「科学コミュニケーターブログ」の「江戸博士が質問に答える!江戸の人魚と不老長寿の伝説」(二〇二〇年九月八日附記事)の福井智一氏の対話記事での、国文学研究資料館特任助教粂汐里の本篇(「大和本草」附録巻二「海女」)に対する考証に従うと、

   《引用開始》

「蛮語ニ其名ヘイシムレルト云」と書かれています。蛮語はスペイン語、ポルトガル語、オランダ語などの異国の言葉を広くさす言葉ですが、『和漢三才図会』に「阿蘭陀以人魚骨倍以之牟礼為解毒薬有効能(オランダでは人魚の骨を「倍以之牟礼(ヘイシムレ)」と名付けて解毒によく効く薬としている)」とあるので、ここではオランダ語と解説しました。ただし、『六物新志』の著者大槻玄沢はスペイン語では「百設武唵爾(ヘセムエイル)」とし、これがなまったものではないかとしています。

   《引用終了》

と述べておられる。言っておくと、以上のリンク先に出る画像は、既に冒頭の私の諸論考にも同じものを示してある。]

大和本草附錄巻之二 魚類 (クジラの歯の記載)

 

海鰌ノ牙大抵ヨコ三寸許長六七寸アリ

○やぶちゃんの書き下し文

海鰌(くじら)の牙、大抵、よこ、三寸許り、長さ、六、七寸あり。

[やぶちゃん注:哺乳綱獣亜綱真獣下綱ローラシア獣上目 Laurasiatheria 鯨偶蹄目 Cetartiodactyla に属するクジラ類には、歯のあるグループと、ないグループがある(但し、それによって鯨類学的分類はされない)。所謂、鬚鯨(ひげくじら)と呼ばれるヒゲクジラ亜目 Mysticeti に属する種は歯を持たず、上顎から生えた「鬚板(ひげばん)」又は「鯨鬚」(くじらひげ)と呼ばれる器官を使って、オキアミ(節足動物門甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱ホンエビ上目オキアミ目 Euphausiacea)やコペポーダ(甲殻亜門多甲殻上綱六幼生綱橈脚(カイアシ)亜綱 Copepoda)等のプランクトンや小魚等の小さな対象を大量に濾しとって摂餌する。イワシ等の小魚(基本的にその海域に多い群集性魚類)の他に、イカなども捕獲された個体の胃から確認されているが、これらの魚などは、殆んど無傷の状態で観察されることから、「髭板」はあくまで濾過するための器官であることは明らかである。ヒゲクジラ類の食性は種や生息域によっても異なり、「髭板」の形状も、また、食性によってそれぞれ異なる。コククジラ(鯨偶蹄目コククジラ科コククジラ属コククジラ Eschrichtius robustus )のみが有意に底生生物を捕食することで知られる。本来、ヒゲクジラの先祖の体は小さかったが、プランクトンを多量に摂餌するようになって、進化過程で体が大きくなり、現在のヒゲクジラはシロナガスクジラ(鯨偶蹄目ナガスクジラ科ナガスクジラ属シロナガスクジラ Balaenoptera musculus )のように大きな種が多い(シロナガスクジラは標準成体で全長二十六メートル、最大全長は三十三・六メートルにも達し、体重は実に百九十トンを超える個体もあり、現生生物の中の最大種である)。一方、ここで問題にされている確かな歯を有するものは、鯨偶蹄目ハクジラ亜目 Odontoceti に含まれ、、顎に歯を持つ。しかし、古生物的鯨類学上の知見では、最初期のヒゲクジラから既に歯を保有しており、歯の存在によってこの分類群が定義されている訳ではない。通常の哺乳類の歯は異歯性(heterodonty:ある生物の歯が部位によって形状や機能に違いを生じる現象を示す)を持つが、ハクジラ類の歯は、化石種を含めて大半が二次的に同形歯を呈している。また、歯の本数が真獣類の基本数である四十四本よりも多いものや、逆に大半が失われているものなど、変異が甚だ多い。また、アカボウクジラ科 Ziphiidae の一部のように、のみが下顎に一対の歯を持つものや、角のように伸びた歯を持つイッカク(鯨偶蹄目イッカク科イッカク属イッカク Monodon monoceros)のなどのように特異な形態を示すものも少なくない。陸生の捕食者たちの歯は捕殺の道具として使用されるが、ハクジラ類の大半は、魚体を捕捉するための罠として機能する。しかしシャチ(ハクジラ亜目マイルカ上科マイルカ科シャチ亜科シャチ属シャチ Orcinus orca )などのように、丸呑みが出来ない中・大型のクジラやサメを狙うものは、捕らえた獲物を引き裂き、飲み込みやすい大きさにまで切り刻むために歯を使っている。また、アカボウクジラ科の一部の種のは特異な歯をディスプレイ(display:動物が求愛や威嚇のために自分の目立つ特徴を強調したり、また大きく見せる姿勢や動作をすること)として使用していると推定される。ハクジラの仲間の歯は、殆んどが尖った犬歯状を呈していて、魚やイカ等を摂餌している。ヒゲクジラに比べると体は小さく、群れで暮らしていることが多い。ハクジラの中でもマッコウクジラ(鯨偶蹄目 Whippomorpha 下目ハクジラ小目マッコウクジラ科マッコウクジラ属マッコウクジラ Physeter macrocephalusは特異的に大きな体を持っている(マッコウクジラのの体長は約十六 ~十八メートルで、の約十二~十四メートルと比べると、三十 ~五十%も大きい。体重はの五十トンに対し、メスは半分の二十五トンで典型的な性的二型を示す)(以上は複数のウィキペディアの記載その他を参考にした)。グーグル画像検索「クジラ 歯」をリンクさせておく。]

大和本草附錄巻之二 魚類 (触角が十メートル超あるエビの記載)

 

呉志曰王隱交廣記曰呉後復置廣州以南陽滕修

爲刺史或語修蝦鬚長一丈修不信其人後故至

東海取蝦鬚長四丈四尺封以示修修乃服之

○やぶちゃんの書き下し文

「呉志」に曰はく、『王隱が「交廣記」に曰はく、『呉、後〔(のち)〕に、復た、廣州を置き、南陽の滕修〔(とうしう)〕を以つて刺史と爲す。或るひと、修に語りて、「蝦〔(えび)〕の鬚〔(ひげ)〕、長きこと、一丈〔のものあり〕」と。修、信ぜず。其の人、後、故に東海に至り、蝦の、鬚、長さ四丈四尺〔ある〕を取りて、封じて、以つて、修に示す。修、乃〔(すなは)〕ち、之れに服す。』と。

[やぶちゃん注:本文中の人名「滕修」は「滕脩」が正しい。これは流石にいないと思うね。

「呉志」陳寿著の後漢の混乱期から西晋による中国統一までを扱った歴史書「三国志」の一部。当該部は全二十巻。

「王隱」(生没年不詳)は東晋(三一七年~四二〇年)の歴史家。唐代の「晋書」巻八十二には「王隠伝」が立てられてある。当該ウィキによれば、『代々、寒門の出であったが、年少から学問を好み、著述の志を持っていた。西晋に仕え、歴陽県令となった。私的に晋の事跡や功臣の行状を記録していたが、完成させることなく亡くなった』。『王隠は、普段から自身を儒学の教えに従って律し、後ろ盾を持とうとせず、博学多聞であった。父の事業を受け継ぎ』、『西晋の旧事をそらんじ、研究した』。『建興年間』(三一三年~三一七年)『に江南に逃れ、丞相軍諮祭酒涿郡の祖納と親しくなり、彼は王隠を元帝に推薦したが、東晋はいまだ草創の段階であり、史官が置かれていなかった』ため、『取り上げられることはなかった』。『大興元年』(三一八年)、『制度が整えられ、王隠は召されて郭璞と共に史官である著作郎となり、晋の史書を著すよう命じられた。また』、「王敦の乱」を『平定するのに功績があったとして平陵郷侯の爵位を賜った。時に著作郎の虞預は私的に晋書を纏めていたが、長江東南の生まれであった』ことから、『西晋の朝廷の事象を知らず、王隠のもとを何度も訪れ、彼の著書を盗み写した。この後に王隠は病にかかり、虞預は豪族であり貴人、権力者と交わりを結んでいたため、党派を組んで王隠を排斥し』、『免職とした』。『王隠は貧しく史書を書くのに用立てる資産もなかった』ため、『晋書を書き続けることができなかったが、武昌で征西将軍の庾亮』(ゆりょう)『を頼り、彼が筆と紙を提供してくれたため、晋書を完成させることができ』、『宮中にこれを献上した』七十『歳余り』で『家で亡くなった』。著作に「晋書」九十三巻・「交広記」・「蜀記」などがあるが、孰れも裴松之(はいしょうし)が「三国志」の『注釈として引用している。その他に』「王隠集」十巻がある。虞預著の王隠からの盗作が疑われる「晋書」に『おいて、王隠は著述を好んだものの、文章も音の響きも卑しく拙く、乱雑で非道徳である。その』「晋書」の『見るべきところは』、彼の『父が書いたところであり、文章の混濁して意味が不可解なところは王隠の書いたところであると、厳しい批判を載せている』。裴松之も「三国志」に引用した注釈で『厳しく批判しており、鍾会が龐徳』(ほうとく)『の遺骸を鄴』(ぎょう)『に埋葬した話などを』、『王隠の虚説と断じ』、『孫権が関羽を捕らえたおりに殺すのを惜しみ』、『臣下として用いようとした話では』、『智者の口を閉ざす所である』『などと終始』辛辣な『言を添えている』とある。

「交廣記」交州(漢から唐にかけて置かれた行政区域。現在のベトナム北部及び中国の広西チワン族自治区の一部などが含まれる)と広州(現在の広州市(グーグル・マップ・データ)を含む広域)の二州の地誌。

「南陽」現在の河南省南陽市付近。

「滕修」滕脩(とうしゅう ?~二八八年)は三国時代の呉から西晋にかけての政治家・武将。荊州南陽郡西鄂(せいがく)県の人。呉に仕えて将帥となり、西鄂侯に封ぜられた。孫晧(そんこう:呉の第四代皇帝)の時代には熊睦(ゆうぼく)の後任として広州刺史となり、甚だ威光恩恵を示した。参照した当該ウィキには本件が載り、『滕脩が広州刺史』(州の長官)『になった時、ある人が一丈もの長さの鬚を持つ蝦がいると語ったが、滕脩は信用できなかった。その人が後に徐州の東海郡へと出かけ、長さ四丈四尺の蝦を捕まえ滕脩の元に送ると、滕脩はやっと納得したという』とある。後に『中央に召し返されると』、『執金吾』(しつきんご:元は秦に於ける武官職名の中尉)『になった』。二六九年、呉の武将で政治家の『陸凱は亡くなる間際に「滕脩らは皆、清廉忠実・卓越秀才であり、社稷の根幹、国家の善き補佐であります。陛下は彼らにお訊ねになり、忠義を尽くせるようお取り計らい下さいますよう」と陳情している。またその際に、国の支えとなる人物の一人として滕脩の名を挙げている』。二七九年に『広州で郭馬らが反乱を起こすと、孫晧は』、『かねてより』、『滕脩の威光恩恵が民たちを心服させていると信じていたため、滕脩を使持節・都督広州諸軍事・鎮南将軍・広州牧に任じて討伐を命じ、後に陶璜・陶濬らを援軍として差し向けた』。『郭馬の反乱を平定していない』うち『に晋が攻め込んで来たので、滕脩は兵を率い』、『応戦しようと駆けつけたが、巴丘まで赴いたところで孫晧が既に降服したことを知ったため、喪服を着た上で涙を流しながら引き返した。広州刺史閭豊・蒼梧太守王毅とともに印綬を返上すると、詔勅により安南将軍に任じられた。広州牧・持節・都督の職階はそのまま留任とされ、武当侯に封ぜられた上で鼓吹を与えられて、南方の仕事を委任された』。『滕脩が南方にあること数年、辺境の夷狄たちも帰服した』。『死』後、『親族が洛陽に埋葬して欲しいと請願したことから、武帝はその気持ちに満悦して一頃の墓田を与え、声侯と諡した。後に子の上表により、忠侯と改められた』とある名臣である。

「一丈」東晋の一丈は二・四四メートル。

「四丈四尺」東晋の一尺は二四センチメートル強であるから、十・七二メートルとなる。

「封じて」封印して。人工的に細工した物でないことを証明するため。]

大和本草附錄巻之二 魚類 ビリリ (神聖苦味薬・水族由来に非ざるものと私は推定)

 

ビリヽ 霍亂腹痛牙齒痛ニ用ユ異邦ヨリ來ル是ハ魚ノ

膽ニ加藥シテ煉堅メタル物也魚ノ血トモ云

○やぶちゃんの書き下し文

ビリリ 霍亂〔(かくらん)〕・腹痛・牙齒痛〔(がしつう)〕に用ゆ。異邦より來たる。是れは、魚の膽〔(きも)〕に加藥して、煉り堅めたる物なり。「魚の血」とも云ふ。

[やぶちゃん注:これは昨年の九月十三日、「大和本草」の水族の部の本巻分の最後の最後に悩まさせられた奴と同じじゃないか!?! 「大和本草卷之十三 魚之下 ビリリ (神聖苦味薬)」の注で、私は『さても。最後の最後に困らされる。全く何だか分からない。一つだけ、赤松金芳氏の論文「中井厚沢とその著書「粥離力考」(『日本醫史學雜誌』第十巻第二・三号。昭和三九(一九六四)年発行。PDF)で、是非、読まれたいが、そこではその正式名をヘイラ・ピクラ(Hiera Picra)とし、所謂、万能薬「神聖苦味薬」の一種であるようだ(魚の肝(きも)由来というのはガセネタのようである)。而して、これは所謂、錬金術の中で創造された下らぬものであるような気がした』と述べた。その後に情報も皆無である。この「附錄」はどうも、本巻記載後に書いたものではなく、本巻を書くために益軒が集めた資料集の一部を合わせたものなのではないか? という感じが強くしてきた。

「霍亂」日射病、及び、夏塲に発症し易い激しい吐き気や下痢などを伴う急性消化器性疾患。]

大和本草附錄巻之二 魚類 きびなご (キビナゴ)

 

キビナゴ 海魚ナリ海鰮ニ似テ同類ナリ長三寸餘不

滿四五寸口ハ海鰮ヨリ小也身ハイハシヨリ少厚シ

兩傍ニ銀色ノ筋アリ其筋ノヒロサ三分許頭ヨリ

尾ニ至ル銀色ノハシニ又黑筋一條アリ鱁鮧トスベシ

○やぶちゃんの書き下し文

きびなご 海魚なり。海鰮(いはし)に似て、同類なり。長さ、三寸餘〔より〕、四、五寸に滿たず。口は海鰮より小なり。身は「いはし」より少し厚し。兩傍に銀色の筋〔(すぢ)〕あり。其の筋のひろさ、三分〔(ぶ)〕許り。頭より尾に至る。銀色のはしに、又、黑筋一條あり。鱁鮧(なしもの)とすべし。

[やぶちゃん注:鰭綱ニシン上目ニシン目ニシン科キビナゴ亜科(或いはウルメイワシ亜科)キビナゴ属キビナゴ Spratelloides gracilisウィキの「キビナゴ」によれば、漢字表記は『黍女子、黍魚子、吉備女子、吉備奈仔』で、『インド洋と西太平洋の熱帯・亜熱帯域に広く分布する小魚で』、本邦では「ハマイワシ」・「ハマゴ」・「ハマゴイ」(静岡県)・「キミナゴ」(三重県)]・「キビナ」・「カナギ」(長崎県)・「スルン」(鹿児島県奄美大島)・「スリ」(沖永良部島)・「スルル」(沖縄県)などの多才な地方名を持ち、中国語標準漢名は「日本銀帶鯡」である。成魚は全長十センチメートルほど、で『体は前後に細長い円筒形で、頭部が小さく』、『口先は前方に尖る。体側に幅広い銀色の縦帯があり、その背中側に濃い青色の細い縦帯が隣接する。鱗は円鱗で』、一縦列の鱗は三十九枚から四十四枚であるが、『剥がれ易く、漁獲後にはほとんど脱落してしまう。海中にいるときは背中側が淡青色、腹側が白色だが、鱗が剥がれた状態では体側の銀帯と露出した半透明の身が目につくようになる』。『ニシン科』Clupeidae『の分類上ではキビナゴ亜科』Spratelloidinae『が設定されているが、ウルメイワシに近縁のウルメイワシ亜科』Dussumieriinae『とする見解もある』。種小名の「gracilis 」(グラスィリス)は「薄い」「細い」などの意で、同種の『細長い体型に由来する』とあり、『本州中部からポリネシア・メラネシア・オーストラリア北岸、西はアフリカ東岸まで、インド洋と西太平洋の熱帯・亜熱帯域に広く分布する。外洋に面した水のきれいな沿岸域を好み、大きな群れを作って回遊し』、『海岸にもよく接近する。主に動物プランクトンを捕食する。一方、天敵はアジ、サバ、カツオ、ダツなどの大型肉食魚やアジサシ、カツオドリなどの海鳥類がいる』。『熱帯域ではほぼ周年産卵するが、亜熱帯海域では春から秋にかけての産卵期があり、たとえば西日本近海での産卵期は』四月から十一月と『なる。産卵期には成魚が大群を作って沿岸の産卵場に押し寄せる。繁殖集団は潮の流れの速い海域に集まり、海底を泳ぎ回りながら産卵を行う』。『ニシン目』Clupeiformesの『魚類は海中に浮遊する分離浮性卵を産卵するものが多いが、キビナゴは浅海の砂底に粘着性の沈性卵を産みつける。受精卵は砂粒に混じった状態で胚発生が進み、一週間ほどで孵化する。寿命は半年』から一『年ほどとみられる。西日本では夏』から『秋生まれのものが翌年の春に産卵、孵化した子供がその年の秋に産卵し、寿命を終えると考えられている』。『分布域に入る西日本では、沿岸各地で巻き網などで漁獲される。特に鹿児島県、長崎県、高知県といった暖流に面した地域でまとまった漁獲がある。ただし』、『小魚で傷みが早いこともあり、漁獲地以外に流通することは少ない』。『刺身、煮付け、塩ゆで、天ぷら、唐揚げ、南蛮漬け、干物などで食べられる。また出汁用の煮干しにも加工される。調理法次第では骨ごと食べられ、体のわりには可食部も多い。生の身は半透明で、小骨が多いが』、『脂肪が少なく甘みがある。キビナゴの刺身は包丁などを使わず、指と爪を使った手開きで頭・背骨・内臓を取り除き、いわゆる「開き」の状態で皿に盛り付けられる。食べる際はショウガ醤油や酢味噌で臭みを消す。酢味噌で食べるものは鹿児島県の薩摩料理のひとつとして有名である。また、一晩ほど醤油漬けにして、茶漬けにすることもある。甑島列島では醤油炊きやもろみ炊きといった煮つけ料理にする。鹿児島県の奄美大島では小さいものが多いので、煮干しとしてよく利用されるほか、丸ごと塩漬けにした塩辛「スルンガラシュ」』(沖縄の「スクガラス」と同源。「スクガラス」の「スク」はアイゴ(スズキ目ニザダイ亜目アイゴ科アイゴ属アイゴ Siganus fuscescens )の稚魚、「カラス」は塩漬けの意)『にも加工される』。『長崎県の五島列島では、「炒り焼き」(いりやき)と称するしゃぶしゃぶ風の鍋料理でも食べられる』。『食用以外にも、ブリ類やアジ類など大型肉食魚の釣り餌として利用される』とある。私の亡き母は鹿児島出身であった。薩摩を訪ねると、必ず出た、皿に綺麗に円心上に並べられたキビナゴの美しさは、えも言われぬものであった。

「海鰮(いはし)」条鰭綱ニシン目ニシン亜目 Clupeoidei の複数の種の総称で、「マイワシ」はいるが、「イワシ」という種はいない。詳しくは「大和本草卷之十三 魚之下 鰛(いはし) (マイワシ・ウルメイワシ・カタクチイワシ)」の私の注を参照されたい。

「鱁鮧(なしもの)」音は「チクイ」は塩辛を示す食品名。魚体ごと或いはその内臓だけを塩漬けにしたもの。]

2021/03/22

外来語蔓延病棟

一国の宰相が深刻な核汚染を「アンダー・コントロールできている」と訳の分からぬ台詞を発したり、「ピン・ポイントのコロナ対策で大きな成果を上げた」なんどと自画自讃する時(今日までの、どこの、どこが、「ピン・ポイント」なのか、具体に指して示してみろよ)、「ソーシャル・ディスタンス」だ、「ゴー・トゥ・トラベル」だ、「ゴー・トゥ・イート」だ、といった戦後のヤンキー染みた外来語の夥しい闊歩とともに、「如何にも怪しく臭い」雰囲気が――実に濃厚に――我々の鼻を擽(くすぐ)り、漂ってくる――ではないか――

甲子夜話卷之六 31 松平左近將監、日光御參宮御請の事

6―31 松平左近將監、日光御參宮御請の事

松平乘邑、加判の列となり、いまだ筆末なりしとき、一日德廟召て御前に候じければ、年來日光山御參宮の思召あり。久しく中絕せしことなれば、差支可ㇾ申や如何との御尋なり。乘邑答奉るには、御先祖樣卸參拜のことは、恐ながら御尤の義に存上候。御筋合左樣有らる當き御こと、中絕は候へども御先蹤もこれ有ゆゑ、思召立たれ差支は有間敷御答申上て、政府に退き、同列中へ、かくかくの御尋故かくかく御答申上ぬと達けり。其後御參宮のこと仰出されしに、乘邑御用掛と命ぜられ、諸般のことども取調たるとき、道中御行列の先縱、文書散佚して傳らず。人々とやかく取計かねけるに、乘邑御右筆に紙筆を執らせ、口授して行列を立たりしに、大率其坐にて鹵簿は成けるとなり。英才の敏にして決斷のするどき、此類なりと云傳へり。

■やぶちゃんの呟き

「松平左近將監」「松平乘邑」松平乗邑(のりさと 貞享三(一六八六)年~延享三(一七四六)年)は大名で老中。肥前国唐津藩三代藩主・志摩国鳥羽藩主・伊勢国亀山藩主・山城国淀藩主・下総国佐倉藩初代藩主。官位は従四位下・侍従。唐津藩第二代藩主松平乗春の長男として誕生。元禄三(一六九〇)年に父の死により、家督を相続した。正徳元(一七一一)年には近江国守山に於いて朝鮮通信使の接待を行っている。享保八(一七二三)年、老中となり、下総佐倉に転封となる。以後、足掛け二十年余りに亙って、徳川吉宗の「享保の改革」を推進し、「足高の制」の提言や、勘定奉行の神尾春央(はるひで)とともに年貢の増徴や、大岡忠相らと相談して刑事裁判の判例集「公事方御定書」を制定し、幕府成立依頼の諸法令の集成である「御触書集成」を纏め、「太閤検地」以来の幕府の手による検地の実施などを行った。水野忠之が老中を辞任した後、老中首座となり、後期の「享保の改革」を牽引し、元文二(一七三七)年には勝手掛(かってがかり)老中となり、「金穀の出納を掌るべき旨仰をかうぶ」ることになった乗邑は、農財政の全てをも管掌することとなった。「大岡忠相日記」によれば、関東地方(じかた)御用掛の職を務めていた大岡忠相でさえも、「月番の無構(かまいなく)」(老中の月番に関わりなく)農政に関することは、全て、乗邑に報告するよう指示されている。当時は、吉宗が御側(おそば)御用取次を取次として老中合議制を骨抜きにして将軍専制の政治を行っていた。「大岡日記」によると、元文三(一七三八)年に大岡忠相配下の上坂安左衛門代官所による栗の植林を三ヶ年に渡って実施する件について、七月末日に、御用御側取次の加納久通より、許可が出たため、大岡が八月十日に勝手掛老中の乗邑に出費の決裁を求めたが、乗邑は「聞いていないので書類は受け取れない」と処理を、一時、断っている。この対応は例外的であり、当時は御側御用取次が実務官僚の奉行などと直接調整を行って政策を決定していたため、この事例は乗邑による、老中軽視の政治に対するささやかな抵抗と見られている。将軍後継問題に関しては、吉宗の次男の田安宗武を将軍に擁立しようとしていたが、長男の家重が後継と決定されたため、その経緯により、家重から疎んじられるようになり、延享二(一七四五)年に家重の信任の厚かった酒井忠恭(ただずみ)が老中に就くと、忠恭が老中首座とされ、次席に外された。同年十一月に家重が第九代将軍に就任すると、直後に老中を解任され、加増一万石も没収となり、隠居を命ぜられてしまった。次男乗祐への家督相続は許されたが、間もなく、出羽山形に転封を命ぜられた(以上はウィキの「松平乗邑」に拠った)。

「御請」「おんうけ」と読んでおく。

「加判」ここは幕府老中のこと。

「筆末」末席。

「德廟」吉宗の諡号。有徳院。

「年來」「としごろ」。

「久しく中絕せしことなれば」サイト「日本文化の入り口マガジン 和樂webのこちらの

Dyson 尚子氏の記事によれば、第四代将軍家綱を最後に日光東照宮への将軍の参拝は長く途絶えていたとある。家光の時に「日光社参」は公的行事へと格上げされており、しかも家光は実に生涯に亙って十回(九回とする説他もある)もそれを行って訪問先も増えていったという。それまでは二年に一度の割合であったのを増やした上、諸大名らも随行させた。ところが、家光のその権現様への執着が裏目に出て、参拝の規模が拡大されたために、費用の支出が半端ないものに膨れ上がってしまったのであった。そのため、逆に「日光社参」の実現が困難となり、それでも、家綱は二度、「日光社参」を執行したが、第五代将軍綱吉・第六代将軍家宣に至っては、計画だけ立ち上がったものの、幕府財政上から、すぐに頓挫した。それを実に六十五年振りに復活させたのが第八代将軍吉宗であった。享保一二(一七二七)年七月、吉宗の将軍就任から既に十一年が経過していた。そんな折り、突然、吉宗は、来年に「日光社参」を行うことを宣言し、準備に掛からせたのであった。「享保の改革」は当時の破産寸前にあった幕府財政の立て直しにあった。また、一方で、初心に帰る「諸事権現様 定め通り」という復古宣言のもとに改革が行われたのでもあった。さすれば、吉宗の「日光社参」への意欲は、家光とほぼ同じか、それ以上のものだったのかも知れない。しかし、いざ、行ってみたところが、質素倹約はどこへやらで、吉宗の「日光社参」は仰々しい大層なものとなってしまう。『当日の参加者は、譜代大名と旗本らで約』十三万三千人にも達し、『荷物を運ぶなどの仕事を行う「人足(にんそく)」が』約二十二万八千人で、合わせて実に計三十六万人にも及んだ。『人が人なら、馬の数も』もの凄く、三十二万六千頭の『馬が集められたという』。『いやいや。もっと大変なのは、参加せざるを得ない武士たちだろう。家格に応じて、付き従う家臣や武具の数が定められていたからだ。もちろん、用意するのは自腹。これを受けて賃金や物価が暴騰し、幕府からは値段の据え置きを命じる法令も出される有様。これ以外にも、街道や宿場の整備方法など、ありとあらゆる法令が乱発。これらは総称して「社参法度(しゃさんはっと)」と呼ばれている』。他に『武士以外にも涙をのんだ人たちが』いた。『ちょうど』、『農繫期と重なって困り果てたのが、農民の方々』で、『大名行列が滞りなく行われるようにと、大事な時期に街道の整備などに人手を割かれたのである。たった』一『回の通行のために、道をならして砂を敷く。街路樹は枝を切って見栄えよく。さらには、街道沿いの家屋などには修繕がなされたという。当日は』十間(約十八メートル)ごとに、『火事に備えて手桶が置かれたのだ』そうである。約十三万人の移動は想像するだに、眩暈がする。『「子(ね)の刻」、つまり午前』零『時に先頭の秋元喬房(あきもとたかふさ)が出立。そこから次々と、大名や旗本の部隊が続く。ようやく』『吉宗が、約』二千『人の親衛隊と共に城を出たのが「卯(う)の刻」。午前』六『時であ』った。さても『最後尾は松平輝貞(まつだいらてるさだ)。時刻は「巳(み)の刻」、つまり午前』十『時』で『出発するだけで』十『時間も要している』。『無事に城を出た一行は、その道中を』四『日間かけて進んでいく。なお、日光東照宮までのルートはというと』、第二『代秀忠が通ったのと同じもので』、『江戸日本橋を出て、本郷追分(ほんごうおいわけ、東京都)で、中山道(なかせんどう)と分かれる。岩淵(いわぶち、東京都)から川口(埼玉県川口市)、鳩ヶ谷(はとがや、同市)、大門(だいもん、埼玉県さいたま市)と進み、岩槻城(いわつきじょう、同市)で』一『泊。幸手(さって、埼玉県幸手市)で日光街道に合流する。ここまでが「日光御成道(にっこうおなりみち)」と呼ばれる「日光社参」用のルートである。全長約』十二里三十町(約四十八キロメートル)の道のりであった。『その後、栗橋(くりはし、埼玉県久喜市)から利根川を渡って中田(茨城県古河市)へ。北上して古河城(こがじょう、同市)、宇都宮城(うつのみやじょう、栃木県宇都宮市)でそれぞれ』一『泊して、日光東照宮へ向かう。こうして』四『日目に、ようやく家康の神廟へと到着』した。『もちろん、到着後も気を抜けない。将軍が到着したらしたで、警護もやはり大変である。滞在はたったの』二『日間のみだが、領内の出入口は武士で固められ、午後』六『時半を過ぎると』、『閉門。領内の巡回のみならず、万が一のために、日光へと繋がるあらゆる主要道路が封鎖』された。『それだけではない。近くの宿場には大名や旗本が陣を置き、徳川御三家も約』十二キロメートル先に『本陣を置くほどの厳戒態勢だった』。『ただ』、『吉宗からすれば、周囲の苦労は別世界だったようで』、『日光に到着したその翌日が、ちょうど家康の命日である』四月十七日で、『吉宗は、心ゆくまで霊廟に拝礼し、目的を達成して満足げに往路を引き返した』。さて、この時、『吉宗がつぎ込んだ総額はというと』、これ、『ざっと見積もっても、この』一『回の「日光社参」で約』二十『万両以上。一両』七『万円に換算すれば、約』百四十『億円もの金額となる。質素とはほど遠い、絶叫する金額である』。『道中の利根川を渡るところだけで約』二『万両』で凡そ十四『億円』かかっている。これは、『通常なら』、『渡し船で利根川を渡る』ところを、『栗橋』と『中田』の『間に、臨時に橋が設置された』ためであった。『橋というのも「舟橋(ふなばし)」』で、『高瀬舟をズラッと並べて綱で繋ぎ、その上に板を敷くアレである。なんと繋いだ舟の数は』五十一『隻』だったという。『その上、板を何枚も重ねるだけでは足りず。当日は、馬が滑らないように板の上に白砂まで撒かれていたという』。しかも『欄干まであったというから』、『恐れ入る。もちろん、渡っている最中に揺れるなど』、『もってのほか』で、『両岸より太い綱(虎綱、とらつな)で固定された。工期に』四『ヶ月も費やしたのだが、「日光社参」の終了後に解体。なんとも、勿体ない話である』。『一体、ここまでして「日光社参」を行う必要があったのかと』、誰だって疑問に思うはず』で、『質素倹約を奨励していた当時は、どのように捉えられたのか』? 何故、『吉宗自身』、『矛盾と思わなかったのだろうか』? という素朴な疑問が生じる。『これには多くの理由が考えられる』。実は、『吉宗の将軍在位期間は約』三十『年』で、『そのうち、特に積極的な改革を推し進めたのが』、享保七(一七二〇)年から享保一五(一七三〇)年の間』で、『ちょうど』、六十五『年ぶりに「日光社参」を復活させた享保』一三(一七二八)『年は、その真っ只中の年となる』。『未だ途中ではあるが、この時点で既に自身の改革は大成功。だからこそ、莫大な費用がかかる「日光社参」も復活させることができたのだと。そう内外にアピールしたかったと考えられる』。『加えて、直系の血筋ではない』『吉宗だが、ことのほか、初代家康を尊敬する気持ちは強かったとも』言われる。『祥月命日の前日に悪夢を見ては申し訳ないと、一睡もしなかったという逸話もあるほどだ』。『そんな純粋な気持ちも、もちろんあってのことだが』、『吉宗の改革の目標は、初代家康の治世の回帰』に『加えて、家康の絶対的な権威を、直系ではない自分にそのまま引き継ぐ』という、『そんな狙いもあったのではないだろうか。家康を崇めることが、ダイレクトに自分に返ってくる。そんなしたたかなところも全く』なかった『とは言い切れない』。『しかし、それにしても』、『莫大な費用をかけ』過ぎで、『これらの理由で、そこまでの費用対効果は見込めないだろう』と、誰もがやはり感じる。『じつは、他にも理由がある。それ』は、『「日光社参」は、徳川勢力を総動員した軍事演習だったという』事実である。『江戸時代、諸藩は軍事行動が一切できず』、『軍事関係は、将軍が一手に掌握していた』。『そのため、軍事行動がなされる場合には、承認許可となる将軍の「黒印状(こくいんじょう)」が必要であった』。『今回の「日光社参」』では、『なんと、この黒印状』を以って『参加命令が出ているのである。言い換えれば、これは軍事行動にあたる』ということなのである。『そして、参加したのは、外様大名』『以外』であった。『つまり、旗本、譜代大名の徳川勢力を集結させて行われたのであ』った。『特に、戦国時代とは異なり、世は平和の時代』で、大袈裟に言えば、『馬に乗れない者や』、『草鞋』『の結び方さえ知らないという現代っ子の武士たちも』いたやも知れぬ。『平時はよいが、いざという時の避難訓練と同様』、『吉宗も軍事演習が必要だと判断したのだろう』。「徳川実紀」を見ると、『この「日光社参」に備えて、江戸城吹上(ふきあげ)にて行軍の予行演習がなされたとの記述がある。「日光社参」という名目で、戦とは無縁の生活に慣れ切った者たちに、実践とはいかないまでも、大規模な軍事演習を行ったのであ』った。こう見ると、『「日光社参」は、リスクマネジメントの』一『つといえるのかもしれない。武士』一人一人に『危機意識を持たせつつ、徳川勢力の団結を図る。同時に、これは、外様大名らの謀反の牽制となる示威行動でもあった』。『一石三鳥ほどの効果となれば、莫大な費用をかけても、お釣りがくる。頭脳明晰な』『吉宗なら、そんな計算をサクッとしたに違いない』。『最後に』。『この「日光社参」で、一番得をしたのは誰かというと』、『まさかの「罪人」』であった。『恩赦により』、実に百三十九『人の罪人が放免されたといわれている』。『武士も農民も』『準備や当日の社参で、てんてこまい。にもかかわらず、罪人が得をしたとは』、『何とも皮肉な話で』は『ある』。『皮肉といえば』、『神廟の中から、子孫の参拝を見ていた家康も』、『簡素な造り、簡素な参拝はどこへやら』『……』『きっと、目に涙をためて、言葉を失ったに違いない』と結んでおられる。Dyson 尚子氏の文章は実に楽しく読める。ちゃんと引用元でお読み戴きたい。

「御筋合」事の運びよう。

「左樣有らる當き御こと」「さやうあらるべきおんこと」。

「思召立たれ」「おぼしめちたたれ」て、それは。

「差支は有間敷御答」「さしつかへはあるまじきおんこたへ」

「政府」老中伺候の間。

「達けり」「たつしけり」。報告した。

「取計かねけるに」「とりはかりかねけるに」。具体的な行軍形態を計画しかねていたところが。

「立たりしに」「たてたりしに」。

「大率」「おほむね」。「槪ね」に同じい。

「鹵簿」「ろぼ」。儀仗 を備えた行幸・行啓や貴人の行列。

「成ける」「なりける」。口述筆記で行軍詳細は完成したのである。凄い!

芥川龍之介書簡抄21 / 大正二(一九一三)年書簡より(八) 十二月三十日附山本喜譽司宛書簡

 

大正二(一九一三)年十二月三十日・山本喜譽司宛(封筒欠)

 

あがらうあがらうと思つてゐるうちに今日になつてしまひました あしたは君が忙しいし年内には御目にかゝる事もあるまいかと思ひます

廿日に休みになつてから始終人が來るのです どうかすると二三人一緖になつて狹いうちの事ですから隨分よはりました それに御歲暮まはりを一部僕がうけあつたものですから本も碌によめずこんな忙しい暮をした事はありません

今日は朝から澁谷の方迄行つてそれから本所へまはり貸したまゝになつてゐた本をとつてあるきました 澁谷の霜どけには驚きましたが思ひもよらない小さな借家に思ひもよらない人の標札を見たのには更に驚きました 小さな竹垣に椿がさいてゐたのも覺えてゐる 小間使と二人で伊豆へ馳落ち[やぶちゃん注:「かけおち」。]をして其處に勘當同樣になつたまゝ暮してゐるときいたのに思ひがけず其人は今東京の郊外にかうしてわびしく住んでゐる。向ふが世をしのび人をさける人でさへなくばたづねたいと思ひましたがさうした人にあふ氣の毒さを思ふと氣もすゝまなくなります

君がこの人の名をしり人をしつてゐたら面白いのだけれど

 

伊藤のうちへもゆきました 四葉會の雜誌と云ふものを見て來ました あゝして太平に暮してゆかれる伊藤は羨しい

あんな心もちをなくなしてからもう幾年たつかしら

 

お正月にはひとりで三浦半島をあるかうかと思ひます かと思ふだけでまだはつきりきまつたわけではありません

「佇みて」と「咋日まで」とをもつて暖い海べをあるくのもいゝでせう

 

こないだ平塚が來てとまりました 伊豆へ旅行したいつて云つてましたがどうしましたかしら

君の話しが出ました 平塚は妬しい[やぶちゃん注:「ねたましい」。]位君の事を思つてゐるんです 自分のもののやうに君の事を云ふときは少しにくい氣がしていけません 僕が馬鹿だからこんな事を考へるのかもしれないけれど

 

廿二才がくれる 暮れる

大學へ行つてから新しい友だちは一人も出來ない 淋しいけれど自由です 自由だけれどものたりない事もある

何しろ二十二才が暮れる えらくなりたい ほんとうにえらくなりたい

    三十日夜            龍

   喜 譽 樣 梧下

 

[やぶちゃん注:満二十一の年の暮れにその行き過ぎるを惜しむ書簡。私に当てるなら、大学生活の最後の年末に当たる。私は社会人として神奈川の高校教師になることが決まっていた。龍之介は「大學へ行つてから新しい友だちは一人も出來ない 淋しいけれど自由です 自由だけれどものたりない事もある」「何しろ二十二才が暮れる えらくなりたい ほんとうにえらくなりたい」と記す。この「えらくなりたい ほんとうにえらくなりたい」という告白は私には彼の遺書的遺稿「或舊友へ送る手記」(昭和二(一九二七)年八月四日の雑誌『文藝時報』第四十二号に発表とされるが、死の当日の同年七月二十四日日曜日夜九時、自宅近くの貸席「竹村」で、久米正雄によって報道機関に発表されており、死の翌日の二十五日月曜日の『東京日日新聞』朝刊に掲載されている。リンク先は私の古い電子テクスト)の最後に添えられた以下を直ちに思い出す。

   *

附記。僕はエムペドクレスの傳を讀み、みづから神としたい欲望の如何に古いものかを感じた。僕の手記は意識してゐる限り、みづから神としないものである。いや、みづから大凡下の一人としてゐるものである。君はあの菩提樹の下に「エトナのエムペドクレス」を論じ合つた二十年前を覺えてゐるであらう。僕はあの時代にはみづから神にしたい一人(ひとり)だつた。

   *

「思ひもよらない人の標札」誰かは不詳。

「伊藤」不詳。山本に言っているところからは、三中時代の友人の伊藤和夫か。

「四葉會」不詳。

「お正月にはひとりで三浦半島をあるかうかと思ひます」現行の年譜ではそのような事実はない。代わりに、大正三年一月四日から六日まで、この書簡の相手である山本の一家或いは一族が持っていた鵠沼の別荘に六日まで滞在している。一月二十一日小野八重三郎宛書簡には、『始は三崎へ行かうと思つたが風が强くなつたんでやめた 僕はハンモツクにすら醉ふ人間である』『電話をかけえ山本に別莊はあいているかねときいたらあいていると云ふ答があつた そこで愈々そこへ行く事にした』という顚末が記されてある。

『「佇みて」と「咋日まで」』不詳。識者の御教授を乞う。

「平塚」既出既注。]

譚海 卷之四 同所新島椎の實幷牛角の事

 

○江戸市中にてあきなふ椎の實は、大半伊豆のにい島より來(きた)る也。市中に散在してはさのみに見へざれども、にゐ島[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]より浦賀へ積(つみ)くる船にてみるときは、五斗入百俵百五拾俵ほどづつ一度につみくるなり。にゐ島すべてしゐの大木多し。年寄又は幼少のものの所作にひろひとる事なり。その木は海舶(うみぶね)の櫓(ろ)梶(かぢ)などに伐出(きりいだ)す。遠所にある椎は伐たふしたるまゝにて谷へ積置(つみおき)、それが自然(おのづと)朽(くち)てとしへたるにはしひたけを生ずるを、又取(とり)てあきなふなり。また新島より牛の角をいだす。島(しま)牛おびただしく畜(かひ)てしかも田地なきゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、耕作のやうにたたず、只(ただ)角をとりて漁獵(ぎよらう)の用に沽却(こきやく)するなり。依(より)て新島にて牛狩(うしかり)といふ事をする也。流人(るにん)の壯者(さうしや)を集(あつめ)て牛を驅(かけり)て追つめて、角を打(うち)おとす、牛の痛哭(つうこく)する聲聞(きく)にたえず。しかれども牛の用に立(たた)されば[やぶちゃん注:ママ。]、是非なき事なり。落(おち)たる口に小(ちさ)きしんあり、それも年をふれば長ず。

 

[やぶちゃん注:「同所」というのは、前の「豆州南海無人島の事」の「豆州」(伊豆國)を指す。

「新島」(にいじま)は伊豆諸島を構成する島の一つで、東京から南に約百六十キロメートル、静岡県下田市から南東に三十六キロメートルの位置にある。行政上の所属は東京都新島村。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「椎」本邦産種はブナ目ブナ科シイ属ツブラジイ Castanopsis cuspidata (関東以西に分布。実は球形に近く、以下のスダジイに比べて小さい)・スダジイ Castanopsis sieboldii (シイ属の中では最も北に進出してきた種。成木の大きなものでは樹皮に縦の割れ目を生じる。福島県及び新潟県の佐渡島にまで植生する。果実は細長い。琉球諸島のスダジイを区別して亜種オキナワジイ Castanopsis sieboldii ssp. lutchuensis  とする場合がある。沖縄では伝統的にそれを「イタジイ」の名で用いられてきた。両者が共存する地域では、ツブラジイが内陸に、スダジイが海岸近くに出現することが多い)である。私は特異的に椎の実が好きな人間で、都会でも山中でも即座に見つけることが出来る。個人的にはスダジイのそれを好む。

「五斗」二リットルのペットボトルで四十五本分。

「所作」ここは「仕事・作業」の意。

「しひたけ」椎茸。菌界担子菌門菌蕈(きんじん)綱ハラタケ目キシメジ科(或いはヒラタケ科又はホウライタケ科又はツキヨタケ科ともする)シイタケ属シイタケ Lentinula edodes

「漁獵の用」釣り針や銛の鏃(やじり)或いは錘(おもり)用。

「沽却」売ること。

「しん」「芯」。牛の角は洞角(どうかく)・ホーン(英語:Horn)と呼ばれる。ウシ科(哺乳綱鯨偶蹄目ウシ亜目真反芻下目ウシ科 Bovidae)とプロングホーン(英語:pronghorn)科(真反芻下目キリン上科プロングホーン科 Antilocapridae)の角である。生きた骨の核をタンパク質とケラチン(角鞘)が覆っている。角鞘のみに着眼すると、「空洞」に見えるので、かく呼ばれる(ここでは生きた骨の核(かく)の部分を含めて切り落としているので、それを「芯」と呼んでいるのである)。角鞘は皮膚の表皮が強く角質化したもので、発生学的には、洞角は皮下の結合組織(頭皮の下)から発生して、後に前頭骨に融合する。核の骨部はシカ科(鯨偶蹄目反芻亜目シカ科 Cervidae)の角(枝角)のように生え替わることはないが、プロングホーンでは角質部(角鞘)が生え替わる。ウシ科では角質部も生え替わることはない。洞角は通常、湾曲状或いは渦巻状の形をしているが、しばしばリッジ(ridge:稜(りょう))があったり、扁平であったりする。多くの種では、♂♀ともに洞角を持つが、♀のものは小さい。洞角は、生後、すぐに成長し、一生を通じて成長を続ける(角質部が生え替わるプロングホーンを除く)。洞角は殆どの種で一対であるが、二対以上生じる種もあり(例えば四角羚羊(ウシ科ウシ亜科ヨツヅノレイヨウ属ヨツヅノレイヨウ Tetracerus quadricornis )、また、家畜化されたヒツジでは二対以上を持つものがいる(以上はウィキの「洞角」に拠った)。]

只野真葛 むかしばなし (22)

 

○善助樣は、弓にて、淸水(しみず)へ、めしかゝへられし人なり。弓稽古のはじめは、米田新八(よねだしんぱち)といふ弓の師、有しが、其父米田何がしは、眞實に弓好(ゆみずき)にて、ふかく執心こめて有しが、其頃、さし矢、大(おほ)ばやりにて有しを、

「何卒、通し矢の射越《いこし》せん。」

と願へども、其身の骨組(ほねぐみ)、弓術にそなはらぬを、遺恨におもひ、

「男子をまうけて、射させばや。」

と、おもひたち、所々を、ありきて、丈夫の女を見るに、上總の國にて、米俵を兩手に持(もち)、かろがろと、さし上(あげ)し女、有。

 すぐに、こひうけて、妾(めかけ)とし、ほどなく、はらみしかば、

「さてこそ。男子出生(しゆつしやう)うたがひなし。弓は、かれたるが、よき。」

とて、あらきの弓三十丁、あつらへたり。

 ある懇意の人、いふ。

「いかに願(ねがは)れしことなりとて、まづ、出生の男・女をみてこそ、あつらへられめ、餘りはしり過(すぎ)たる仕(し)かたなり。」

と、いさめしに、米田、かしらをふりて、

「いや。是は、たがふまじ。多年の執心、いかでか、むなしかるべきや。今、見られよ。」

と、いひしにたがはず、大の男子、出生なり。

 悅(よろこぶ)こと、かぎりなく、そだて上(あげ)て後(のち)、弓をひかするに、身のたけ六尺にこして、角力《すまふ》とりのごとくなる大兵(たい《ひやう》)にて、十分に引けば、矢づか、伸び過(すぎ)、是も、おもひのまゝならず。

「汝、我(わが)こゝろざしをつぎて、生付(うまれつき)、弓によろしきものを、見たてゝ、弟子となし、とほし矢いさせて、亡㚑(《まふ》れい)に手向(たむけ)よ。」

と、いひて、身まかりし、となり。

 新八は、父が遺言、身にしみて、道行人(みちゆくひと)も、あだに見ず、其(その)うみ付(つき)を、心中にたづねて有しが、ふと、ぢゞ樣と懇意になりて、來(き)かよひしが、善助樣、十か、十一、二の頃とや、遊びて有しを見て、橫手を打(うつ)てよろこび、有しことゞもを語(かたり)つゝ、

「何卒、此御次男、私が弓の弟子に致したし。」

と深切に申せしかば、ぢゞ樣も御悅(およろび)有(あり)て、それより、弓術、まねばせられし人なり。

 さほど、心にかけて尋ねしにて、生(しやう)、弓射(ゆみ《い》)に筋(すぢ)・骨《ほね》そなはりしと見立(みたて)、

「父のこゝろざしをとげん。」

と、おしへたてしこと故、かくべつ、上達のことに有しとぞ。

 父樣幼年の時分、善助樣、高田馬場にて、さし矢けいこ有しを、いつも御覽被ㇾ成しが、

「四、五人ならびて、おなじくいだす矢の、善助樣のは、二、三間、はやく行(ゆき)し。」

と被ㇾ仰し。十八、九、廿ばかりのころ京都へ御のぽり、こゝろ見に千射(せん《い》)を被ㇾ成しが、暫時に御仕舞被ㇾ成しとなり。

 とほらぬ矢は、少々ばかりにて有しが、誠の通し矢は、おびたゞしき物入(ものいり)にて、中々、自力におよばず、千射(せん《い》)ばかりにて、やみしぞ、口惜しき。

 是より、引つゞき、行(ぎやう)なさらんには、天下に名をもふるわる[やぶちゃん注:ママ。]べきに、御運、つたなかりしことは、世上に武藝をはげみしは、ゆうとく院樣御代の故なりしを、京に出入(でいり)三年御いでのうちに、御他界にて、順信院樣御代となり、江戶へ御下り御覽あれば、武藝の「ぶ」の字も、いふ人、なく、亂舞(らんぶ)一めんの代となり、とかくする内、新八も死去、弓いることは、もとより、心におこらぬ心なり。

 廿二、三の若ざかり、あそぶかたが、おもしろく、三味線けいこと變じて、はたと、弓を御すて被ㇾ成しは惜しむべきことなり。

[やぶちゃん注:「善助」真葛の父工藤平助の実父長井基孝の次男。平助は三男。

「淸水」清水徳川家。江戸幕府第九代代将軍家重の次男重好(延享二(一七四五)年~寛政七(一七九五)年)を家祖とする。時制的に初代の彼である。

「米田新八」弓道研究室の松尾牧則氏のサイト「弓道人名一覧」にある読みに従った。そこには「米田新八」の他に、米田新八良(よねだしんぱちろう)・米田新八郎知益(よねだしんぱちろうともえき)・米田新八郎正長(よねだしんぱちろうまさなが)といった面々が載る。柳沢吉保が抱えた弓の名手に『米田新八(後伴内)』がいたらしい。こちらで発見したので言い添えておく。

「通し矢の射越《いこし》」「通し矢」は弓術の一種目。「堂射」(どうしゃ)・「堂前」(どうまえ)などとも称した。京都蓮華王院(三十三間堂)の本堂西側の軒下(長さ約百二十一メートル)を、南から北に矢を射通す競技。幾つかの種目があったが、一昼夜に南端から北端に射通した矢の数を競う「大矢数」が有名。江戸前期に最盛期となり、有力藩の後ろ盾のもと、多くの射手が挑戦して記録更新が相次いだ。しかし中期以降は大規模な「通し矢」競技は行われなくなった。京都三十三間堂の他、「通し矢」用に作られた江戸三十三間堂や東大寺大仏殿回廊でも行われた。通し矢用に工夫された技術・用具は現代の弓道にも影響を与えている、とウィキの「通し矢」にあった。

「かれたるが、よき」エイジングを経たものがいいということであろう。

「あらきの弓」「荒木の弓」。荒木(切り出したままで皮を剝していない材木)で作った弓。丸木弓。また、強弓をも言う。

「六尺にこして」一メートル八十二センチメートルを有に越して。

「矢づか」「矢束」。矢の長さ。ここは、彼の腕の長さの方が長く、矢の長さが足りなくなってしまうことを言っているようである。

「亡㚑(《まふ》れい)」「㚑」は「靈」の略字。

「道行人も、あだに見ず」普通に外を歩いている折りにも、通り過ぎる人々の骨柄(こつがら)を品定めし。

「うみ付」生まれつきの弓道家となれる体軀。

「高田馬場」現在のこの「茶屋町通り」と「早稲田通り」に挟まれた細長い一帯(グーグル・マップ・データ。「古地図 with MapFan」で正確に確認出来る)には、寛永一三(一六三六)年に第三代将軍徳川家光により、旗本達の馬術の訓練や流鏑馬などのための馬場が造営された。なお、先般、必要があって調べてみたが、ここは明治を向えるまでは、一応、馬場としてあったが、江戸中期以降は、動物の死骸や埋葬あてのない人骨を捨てる場所として知られていたということを知った。

「さし矢」「差し矢」。近距離間での弓射法で、直線的に矢数を射ること。

「二、三間」三・六四~五・四五メートル。

「ゆうとく院樣御代」徳川吉宗(貞享元(一六八四)年~寛延四年六月二十日(一七五一年七月十二日))の諡号「有德院」。戒名は「有德殿贈正一位大相國」。江戸幕府第八代将軍(在職は享保元(一七一六)年から延享二(一七四五)年九月二十五日:引退。但し、自分が死去するまで大御所として実権を握り続けたから、ここはそこまでと考えてよい。死因は再発性脳卒中と推定されている)。

「京に出入三年御いでのうちに」善助は吉宗逝去の前後三年ほど、江戸の清水家と京都を頻繁に行き来していたらしい。

「順信院樣御代」「惇信院」の誤字。吉宗長男で第九代徳川家重(正徳元(一七一二)年~宝暦一一(一七六一)年七月十三日:在任:延享二(一七四五)年~宝暦一〇(一七六〇)年:彼は死去する前年の五月十三日に長男家治に将軍職を譲って大御所を称した)の諡号。戒名は「惇信院殿仙蓮社高譽泰雲大居士」。死因は尿毒症と推定されている。

「亂舞」原義は「入り乱れて踊りまわること・酒宴の席などで楽器にあわせて歌い踊ることで「らっぷ」とも読む。狭義には特に「『五節(ごせち)の帳台の試(こころ)み』(五節第一日の丑の日に天皇が直衣(のうし)・指貫(さしぬき)を着て、常寧殿又は官庁の大師の局(つぼね)に出で、舞姫の下稽古を観覧した儀式)や『寅の日の淵酔(えんずい)』(後に「えんすい」とも読んだ。平安以降、宮中の清涼殿「殿上の間」に殿上人を召して催した酒宴。参会者は朗詠・今様などを歌い、歌舞を楽しんだ。正月三が日の中の吉日又は新嘗祭などの後に行われた。「宴水」)に参加した殿上人などが「びんたたら」などという歌を歌って舞ったこと」を指すが、ここは、そのような乱れたどんちゃん騒ぎを呈することから転じて、天下泰平の御世が続き、将軍も一向に尚武の思い入れがなくなって、江戸八百八町がすっかりたるみ切って、「人が、何かにつけて、すぐに過度に喜んだり、興奮したりして跳ね踊ること」に喩えたものであろう。]

大和本草附錄巻之二 魚類 斥鯊魚(かたはぜ) (トビハゼ)

 

キスゴニモ、ハエニモ似タリギスゴヨリ小ニシテ少扁シ

鯊魚ノ類也目ハ口上所近シ江戶ノ虎キスゴニ似タリ

○やぶちゃんの書き下し文

「きすご」にも、「はえ」にも、似たり。「ぎすご」より、小にして、少し、扁(ひら)し。鯊魚〔(はぜ)〕の類なり。目は口〔の〕上〔の〕所に近し。江戶の「虎きすご」に似たり。

[やぶちゃん注:遂に安心して記載出来る「魚類」に入る。さて、「斥鯊魚」の「斥」(音「セキ」)は「退(の)ける。押し退ける」の意があり(他に「斥候」のように「窺う・様子を探る」の意や、「指す・指さす」の意もある)、これは干潟で跳躍するさまを言うのであろうと私は踏んだ。或いは「かた」の訓は「片」の音との混同かと思ったが、実は当て訓で、「潟」に通じ、ハゼ類の棲息フィールドを指すのではないかとも感じた。而して、どうも「跳び鯊」、

条鰭綱スズキ目ハゼ亜目ハゼ科オキスデルシス亜科 Oxudercinae トビハゼ属トビハゼ Periophthalmus modestus

の異名らしい感じがしてきたのだ。調べてみると、ウィキの「トビハゼ」の「別名」の項に、『カタハゼ、ムツゴロ(熊本)』とあったので、確定! 以下、そこから引用する。『干潟の泥上を這い回る魚として有名である』。『トビハゼの成体の体長は10 cmほど。体は灰褐色で小さな白点と大きな黒点のまだら模様がある。眼球は頭頂部に突き出て左右がほぼ接し、平坦な干潟を見渡すのに適応している。胸鰭のつけ根には筋肉が発達する。同じく干潟の上を這い回る魚に』同科ムツゴロウ属『ムツゴロウ Boleophthalmus pectinirostris もいるが、トビハゼの体長はムツゴロウの半分くらいである。また』、『各ひれの大きさも体に対して小さい』。『汽水域の泥干潟に生息する。春から秋にかけて干潟上で活動するが、冬は巣穴でじっとしている。干潟上では胸鰭で這う他に尾鰭を使ったジャンプでも移動する。近づくとカエルのような連続ジャンプで素早く逃げ回るので、捕えるのは意外と難しい。食性は肉食性で、干潟上で甲殻類や多毛類などを捕食する。潮が満ちてくると、水切りのように水上をピョンピョンと連続ジャンプして水際の陸地まで逃げてくる習性があり、和名はこれに由来する』。『通常の魚類は鰓(えら)呼吸を行い、代謝によって発生するアンモニアを水中へ放出する。このため』、『空気中では呼吸ができない上に』、『アンモニアが体内に蓄積され』、『脳障害などを起こす。しかし、トビハゼは皮膚呼吸の能力が高い上に』、『アンモニアをアミノ酸に変える能力があり、空気中での活動が可能である』(☜これは凄い! 侮ってはいけないな!)。『産卵期は6-8月で、オスは口から泥を吐いて泥中に巣穴を掘り縄張りをつくり、メスを呼び込んで産卵させる』。『孵化した仔魚は海中に泳ぎ出て水中で浮遊生活をし、全長15 mmほどに成長すると干潟へ定着する。寿命は1-3年』。『生後1年で全長5 cmとなるが、オスの大部分はここで繁殖に参加し、繁殖後は死んでしまう。一方、メスは生後2年・全長7-9 cmまで成長し』、『繁殖に参加する』。『ピョンピョンハゼ(高知)、ネコムツ(九州地方)、カッチャン、カッチャムツ、カッタイムツ(佐賀)、カタハゼ、ムツゴロ(熊本)など。南西諸島では、本種と近縁の別種ミナミトビハゼとを区別せず、どちらもトントンミーと呼ぶ』。『標準和名「トビハゼ」は東京および和歌山での呼び名である。泥の上を跳ね回ることから、英語では"mudskipper"(マッドスキッパー)と呼ばれる。日本でも観賞魚として流通する際はマッドスキッパーと呼ばれることが多い』。『日本・朝鮮半島・中国・台湾に分布し、日本では東京湾から沖縄本島まで各地の泥干潟で見られる。分布の北限は東京湾の江戸川放水路河口や谷津干潟である』。『千葉県の生息域では、袋詰め捨て石の試験施工によるトビハゼへの影響調査が行われている』。『市川市の人工干潟で分布が確認されている』。『多摩川の汽水域で生息が確認調査されている』。『名古屋港の藤前干潟に生息する』。『大阪府内での生息状況は不明』。『なお』、『ムツゴロウは日本では有明海・八代海だけに分布するのでこの点でも区別できる』。『人や地域によっては食用にされる。かつて諫早湾の南岸地方では夜に眠っているトビハゼを灯火で脅かし、網に追い込んで漁獲し、煮干にして素麺の出汁などにしていた』とある。東京湾では、干潟がなくなる以前は、ハゼ釣りが大盛況で、小学校時代に愛読した魚貝図鑑には、海岸をびっちりと埋めた(トビハゼではない)釣り人の写真が載っていたのを思い出す。

「きすご」スズキ目スズキ亜目キス(鱚)科 Sillaginidae のキス類、或いは、西日本ではシロギス Sillago japonica を指すことが多いので、釣って面白く、味も最もいいそれに限定してもよい。

「はえ」「はや」のこと。多様な淡水魚を指す。「大和本草卷之十三 魚之上 ※(「※」=「魚」+「夏」)(ハエ) (ハヤ)」を見られたい。但し、その孰れにもトビハゼは似ていないので不審ではある。或いは、益軒の「はや」のイメージの中には、九州に多い、淡水から汽水域に広く分布する(されば、上記の「ハヤ」類とフィールドの一部が重なる)スズキ目ハゼ亜目ハゼ科ゴビオネルス亜科ヨシノボリ属 Rhinogobius が含まれていた可能性が高いように思われる。それなら、似ている。

「ぎすご」「きすご」に同じ「キス」の異名。

「鯊魚」基本的にはハゼ亜目 Gobioidei に属する魚の総称。

「目は口〔の〕上〔の〕所に近し」これはトビハゼの眼が上に突き出て、通常の魚類の中では目立つことと親和性のある表現と言える。

「虎きすご」スズキ目ワニギス亜目トラギス科トラギス属トラギス Parapercis pulchella であるが、う~ん、口と目玉のデカさは「かも知れん」とは思うものの、総体、ちょっと似てるとは言えない気が私はするがなぁ。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のトラギスのページの写真で、ご自身で判断されたい。]

大和本草附錄巻之二 川鼠(かはねずみ) (日本固有種哺乳綱真無盲腸目トガリネズミ科カワネズミ族カワネズミ属カワネズミ)

 

川鼠 形大抵 ウゴロモチニ似テ常ノ鼠ヨリ扁シ尾

ハ鼠ヨリ小シ四足短ク水カキアリ能水底ヲヲヨ

グ事魚ノゴトクハヤシ常ニ水中岩ノ下岸ノ下ニスム

夜水中ヲ泳イデ小魚ヲ喰フ此物西州ニ亦有之

○やぶちゃんの書き下し文

川鼠 形、大抵、「うごろもち」に似て、常の鼠より扁(ひら)し。尾は、鼠より小さし。四足、短く、「水かき」あり。能く、水底を、をよぐ[やぶちゃん注:ママ。]事、魚のごとく、はやし。常に水中・岩の下・岸の下に、すむ。夜、水中を泳いで、小魚を喰〔(くら)〕ふ。此の物、西州に亦、之れ、有り。

[やぶちゃん注:日本(本州・九州)固有種である哺乳綱真無盲腸目トガリネズミ科カワネズミ族カワネズミ属カワネズミ Chimarrogale platycephalus であるが、私はフィールドで見たことがない。宮崎学氏の「森の動物日記」の「カワネズミって知ってかい?」が、素晴らしい生態写真(一九八二年に中央アルプスの山麓で撮影された「けもの道」でイタチがカワネズミを捕まえて歩いて行く世界初の貴重な写真を含む)があって必見! ウィキの「カワネズミ」によれば、『四国・隠岐では未確認情報はあるが、2000 - 2002年に行われた捕獲調査および聞き込み調査でも発見・確認されず』、『分布しないと考えられている』。『頭胴長(体長)11.1 - 14.1センチメートル』、『尾長8.2 - 11.7センチメートル』、『体重25 - 63グラム』。『九州の個体群は』、『より小型』という(益軒の見たのはそれだ!)。『尾は長く、下面には長い毛がある』。『夏毛では背面が黒褐色、冬毛では灰色が強くなる』。『臀部には先端が銀色の刺毛が多くなる』。『腹面の体毛は淡褐色で』、『先端は褐色』を呈する。『頭骨は横から見ると中央部(眼上部)が凹む』。『耳介は小型で、体毛の中に隠れている』。『後足長23 - 29.4ミリメートル』。『指趾の側面に扁平な剛毛があり、水かきの役割をする』(益軒先生はちゃんと観察している)。『水中では体毛の間に気泡がたまり、この空気の層が光を反射して銀色に光るように見えるため』、『ギンネズミ(銀鼠)と呼ぶこともある』。『種小名をplatycephalaとする文献もあったが、原記載に従い』、『platycephalusとするべきとする説もある』。『山間部にある倒木や岩が多い渓流周辺に生息する』。『捕獲調査から』、『個体ごとに縄張りを形成することが示唆されている』。『周日行性だが』、『夜間の方がより活動するという報告もある』。『岸にある乾燥した石の間や下、地中に枯葉を集めて巣を作る』。『魚類や水生昆虫、ヒル、サワガニ、カワニナなどを食べる』。『2000 - 2002年に本州・九州の86か所で採集された139頭の胃の内容物調査では水生昆虫が98.6 %(カゲロウ類の幼虫84.2 %、カワゲラ類の幼虫37.4 %)・次いで』、『魚類が10.6 %含まれ』、『ミミズ・ヒル・ハリガネムシ(各4例ずつ)、サンショウウオ類(3例)も少数が発見された例もある』。『水生昆虫に比べて魚類の出現頻度は低いものの1回の捕食で得られる量は多いことから』、『重要な食物だと考えられている』。『山梨県の直接観察や糞の内容物調査では、ブユ・ユスリカ類の幼虫からカエル・魚類など様々な大きさの獲物をも食べ、糞には陸生無脊椎動物のクモも平均30 %含まれ』、『冬季で増加傾向があったとする報告例もある』。『主に2 - 6月に1 - 6頭の幼獣を産む』。『10 - 12月に出産することもある』。『3年以上生存した例も確認されている』。『ダム・堤防建設や河川改修、農薬や除草剤などによる水質汚染などにより生息数は減少している』。『生息に適した環境でも確認されないこともあり、そうした場所では周囲で土木工事が行われているか過去に行われた傾向がある』。『そのため』、『土木工事によって生じた濁流により、獲物となる水生昆虫が壊滅したことが原因と推定されている』。『近年行われた調査では、本州は153か所中80か所(約52 %)で生息が確認されたが、九州では24か所中6か所(約25 %)でのみ生息が確認された』。『1950年代には捕獲例のあった英彦山』(ひこさん)『地区では3か所で調査を行ったが』、『生息が確認されなかったなど、分布の分断化・減少傾向がより強いと推定されている』とある。逢ってみたいなあ♡ 因みに、これも見たことがないのだが、北海道に棲息する哺乳綱 Eulipotyphla 目トガリネズミ科トガリネズミ族トガリネズミ属トウキョウトガリネズミ Sorex minutissimus hawkeri てえのもいるんだねぇ! 知らんかった! サイト「Private Zoo Garden」のこちらによれば、『トウキョウトガリネズミは、ロシアの北部タイガ地域やヨーロッパ北部(フィンランド、スウェーデン北部、ノルウェーの一部など)、サハリンや北海道などに分布しているチビトガリネズミ(Sorex minutissimus / Eurasian least shrew)の亜種で、「ネズミ」と付いているが、モグラなどと同じ食虫類に属している』。『また、「トウキョウ」とも名前についているが、東京を含め、本州には生息していない』。『これは、1903年』(明治三十六年)『に新種として発見された時(発見者はR. M. Hawkerとされる)、標本ラベルに Yezo(蝦夷)と書くべきところを Yedo(江戸)と誤記してしまったことに基づくと言われている』(★☜★ガチョーンだね!?!)『トウキョウトガリネズミは世界最小の哺乳類のひとつで、北海道北部の豊富町や幌延町、猿払村、東部の浜中町や標茶町、標津町、釧路町、白糠町、根室町、鹿追町などに分布している』。『体は指先ほどの大きさで、ネズミの中ではもっとも小さいカヤネズミ』(哺乳綱ネズミ目ネズミ科カヤネズミ属カヤネズミ Micromys minutus )『に比べてもかなり小さく、コビトジャコウネズミ(Etruscan Shrew)』(トガリネズミ科ジャコウネズミ属コビトジャコウネズミ Suncus etruscus :南アジア・南ヨーロッパの森林や低木の茂みに棲息し、昆虫を主食とする種)『に次いで体が小さいと言われている』。『体つきはネズミに似ていて、吻は長く突き出ている』。『体毛は、背側が褐色や暗褐色で、腹側は灰色や褐色を帯びた灰色のような色をしているが、尾は細長く、ほとんど裸出している』。『ササや低木がまばらに生えている草原や草地などに生息しているが、自然林や湿原、カラマツの植林地などにも生息している』。『また、主に平野部の草地や低木林で確認されていることから、人里に近いところに多く生息しているのではないかとも考えられている』。『自然下での詳しい生態などは分かっていないが、寒冷地の腐植層などの土壌で生活し、冬の厳寒期でも冬眠しないことが知られている』。『昼夜共に活動し、コオロギなどの昆虫類やクモ類、ミミズなどを食べるが、時々10~50分程度の睡眠をとり、採食と休息を繰り返す生活をしていると考えられている』。『体が小さいため、非常に高い代謝率をもっていて、飼育下ではおよそ30分ごとに採食と休息を繰り返すと言われていて、一日に体重の3~4倍の餌を食べるとも言われている』。『詳しい繁殖の様子や寿命も分かっていないが、自然下での寿命は1年程度、飼育下では2年程度と言われている』。『このほか、トウキョウトガリネズミには、哺乳類や猛禽類、ヘビなどの爬虫類など、多くの外敵が考えられるが、生息数は安定していると言われている』。『しかし、体が小さく、見つけるのが難しいこともあり、詳しい生息数なども分かっていない』。『また、分布域も局所的で、確認例が少ないこともあり、環境省では絶滅危惧種(VU)として指定している』とあった。この子にも逢いたいなあ♡

「うごろもち」モグラ(哺乳綱 Eulipotyphla 目モグラ科 Talpidae)のモグラ類の古称。

「扁(ひら)し」平たい。]

大和本草附錄巻之二 (信濃国犀川に棲む水妖獣「犀」の記載)

 

賴朝ノ時信濃國犀川ニ犀スム由ヲ聞給ヒ泉小次

郎親衡ヲ召テ取ラシム親衡刀ヲヌキ持テ

水ニ入切コロス親衡ハ朝比奈三郎ニヒトシ

キ大力ナリ

○やぶちゃんの書き下し文

賴朝(よりとも)の時、信濃の國犀川(さいがは)に犀すむ由を聞き給ひ、泉小次郎親衡(ちかひら)を召して、取らしむ。親衡、刀(かたな)をぬき持ちて、水に入り、切りころす。親衡は朝比奈三郎にひとしき大力〔(だいりき)〕なり。

[やぶちゃん注:これは底本の8コマ目に出現し、標題がないものである。信濃国犀川に棲むとする幻想獣。

「賴朝ノ時」彼の生年は久安三年(一一四七)四月八日で、没したのは、「吾妻鏡」には当該年前後に欠損があり、リアル・タイムの記事ではなく、十二年も経過した後の相模橋供養での回想後出しで、建暦二(一二一二)年二月二十八日の条に、頼朝は同じ橋の新造供養の帰りに落馬し、程なく薨去した、と記す。これは同時代の記録・日記などから、建久一〇(一一九九)年一月十三日(ユリウス暦二月九日)で、ほぼ確定されている。実際の死因は不明である。脳卒中などが現実的には疑われる。

「信濃國犀川」信濃川水系で千曲川に合流する。ここ(グーグル・マップ・データ)。名前の「犀」は複雑な起原を持つ。まず、伝承上は、信濃国、現在の長野県内に伝わる二種の「小泉小太郎」伝承に基づくもので、一つは、長野県上田地域に伝わるもので、人間の父親と大蛇の母親との間に産まれた少年「小太郎」の話、今一つが「犀」に関わる、松本や北アルプス地域に伝わる「泉小太郎」の話で、こちらは、小太郎が自らの母親であった龍とともに松本盆地を治水・開拓する物語となっている。但し、この二つの伝説は同源と考えられている。ウィキの「小泉小太郎伝説」によれば、後者は、「信府統記」の要約では、『景行天皇』十二『年』(西暦機械換算では紀元御後八十二年)『まで、松本のあたりは山々から流れてくる水を湛える湖であった。その湖には犀竜』(★☜★:則ち、言わずもがなであるが、実在するサイ(哺乳綱奇蹄目有角亜目 Rhinocerotoidea 上科サイ科サイ属(タイプ属)Rhinoceros:博物誌は私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 犀(さい) (サイ)」を参照されたい)で、現ではなく、角を持った龍を指して「犀」と呼称しているのが原型である。この龍の種別は中国由来で角のある龍を「虬」(きゅう)と呼び、角のない龍を「螭」(ち)と呼ぶ。後者は本邦では「あまりょう」とも呼ぶ)『が住んでおり、東の高梨の池に住む白竜王との間に一人の子供をもうけた。名前を日光泉小太郎という。しかし小太郎の母である犀竜は、自身の姿を恥じて湖の中に隠れてしまう』。『筑摩郡中山の産ヶ坂で生まれ、放光寺で成人した小太郎は母の行方を捜し、尾入沢で再会を果たした。そこで犀竜は自身が建御名方神の化身であり、子孫の繁栄を願って顕現したことを明かす。そして、湖の水を流して平地とし、人が住める里にしようと告げた。小太郎は犀竜に乗って山清路の巨岩や久米路橋の岩山を突き破り、日本海へ至る川筋を作った』という話である。『大昔に山清路を人の手で開削して松本盆地を排水、開拓したとする』「仁科濫觴記」の『記述を根拠に、これを伝説の由来とする説がある』。『「泉小太郎」の名も、その功労者である「白水光郎」(あまひかるこ)の名が書き誤られたもの(「白」・「水」の』二『文字を「泉」の』一『文字に、「光」の』一『文字を「小」・「太」の』二『文字にといった具合に)であるという』とある。則ち、ここで泉親衡に退治された「犀」とは、本来、神聖なる四神の一つであった「龍」の、その一種であった「犀龍」が、「犀」という邪悪な水棲妖獣に分離・零落したものなのである。或いは、馴染みがない方も多いかと思われるが、本邦の水棲幻獣としての「犀」は必ずしもレアではない。ここに出た信濃の犀は、恐らくその中でも最もメジャーな存在とさえ言える。例えば、私の「柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(21) 「川牛」(1)」を見られたい。怪奇談では、「佐渡怪談藻鹽草 小川村の牛犀と戰ふ事」に牛と戰う妖獣「犀」が佐渡ヶ島に出現する。何故、見たこともない「犀」が江戸以前に本邦で妖獣として語られるのかと言えば、それはもう、偏えに漢方の万能解毒剤とされた「犀角」の中国からの伝来によるものである。例えば、「金玉ねぢぶくさ卷之七 蛙も虵を取事」での作者の語りを見られたい。因みに「犀川」の語源として腑に落ちるものを紹介すると、ウィキの「犀川(長野県)に、「仁科濫觴記」によれば、『崇神天皇の末の太子であり、垂仁天皇の弟にあたる仁品王(仁科氏の祖)が都より王町(現・大町市)に下った際、安曇平(安曇野の古称)が降水時に氾濫して水浸しになることを憂い、解決を命じた。治水工事に長けた白水郎(あまこ)の長の日光(ひかる)の指導の下、工事が施工され、川幅が広げられたため、氾濫は止んだ。この時、川幅を広げた場所が、山征(さんせい:山を切り開くこと)をした場所ということで』「山征場」或は「山征地」と『名づけられた。この治水工事の話が、「泉小太郎伝説』『」となって今日に伝えられていると考えられている』。因みに、「信府統記」などで『とりあげられている泉小太郎伝説は、龍によって犀川が開かれたことになっており、その開いた場所は、すべて』この治水で造成された『山清路』と『一致している。それらの理由から、この「山征場」あるいは「山征地」は、そのまま山清路に比定しても良いと考えられている』。『このとき、会議によって「山征」の矩規(規矩準縄)を話し合った場所を「征矩規峡(せいのりそわ)」と名付けた。この征矩規峡が』、江戸期の古文書の「安曇開基」・「仁科開基」などに『見られる「犀乗沢(さいのりざわ)」に比定される。犀乗沢の場所がはっきりとどこであったかは判っていないが』、「安曇開基」などに『よると、安曇野市豊科高家地区熊倉の東(尾入沢)界隈と書かれている』とあるのが、とどめを刺そう。

「泉小次郎親衡」(生没年不詳)は鎌倉前期の信濃国の武士。清和源氏で経基王五男の満快の流れを汲む。ここに出る通り、怪力で知られた。鎌倉幕府第二代将軍源頼家の遺児千手丸を擁立しようと画策したが、建保元(一二一三)年二月に事前に発覚し、幕府から送られた討手工藤十郎らを殺害し、行方を晦ました(その後は全くの行方不明である)。親衡に与みした武士は張本百三十人余・伴類二百人にのぼり、この中には、幕府草創の功臣和田義盛の子と甥も含まれていた。その処遇を巡って、和田氏と執権北条義時との間に亀裂が生じ、五月の「和田合戦」の一因となった(和田一族は滅亡)。なお、親衡の弟泉六郎公信は、その「和田合戦」では幕府方として戦い、討死している(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。ウィキの「泉親衡」にも、幕府の捕縛方との『奮闘ぶりにより』、『後世大力の士として朝比奈義秀と並び称され』、『様々な伝説を産んだ。江戸時代には二代目福内鬼外(森島中良)が』「泉親衡物語」と『題した読本を著している。一方、信濃国の民話に登場する先史時代の泉小太郎と同一視されることにより、竜の化身としたり』、『犀を退治したという昔話の主人公にもなっている』とある。また、『埼玉県川越市小ヶ谷町にある瑶光山最明寺の縁起によると、親衡は千寿丸とともに当地に落ち延びて出家し』、『「静海」と名乗り』、文永二年五月十九日(一二六五年七月三日)に八十八歳で没したとされ、静海の宝篋印塔も残るという』とある(実物を見たいものだ)。個人的には、このクーデタの事前失敗と彼の失踪は、いかにも怪しいと睨んでいる。寧ろ、後の有力な御家人豪族和田一族を滅亡させるための、迂遠な謀略ではなかったかとさえ私は考えている。北条義時という男はそういう狷介な男だと私は睨んでいるからである(実朝の暗殺も彼が仕組んだものと信じている。私が大学生の二十一の時に書いた拙作歴史小説である「雪炎」はそれを題材にしたものである)。因みにこの辺りは、私の「北條九代記 千葉介阿靜房安念を召捕る 付 謀叛人白状 竝 和田義盛叛逆滅亡 〈泉親衡の乱〉」を読まれたい。話を戻すと、この益軒の「親衡の犀退治」というのは、先の「泉小太郎」伝説に、この怪力で知られた酷似した通称を持つ「泉小次郎」を付会させただけのことである。

「朝比奈三郎」朝比奈義秀(安元二(一一七六)年?~建保元(一二一三)年?)は和田義盛の三男。鎌倉幕府御家人中で抜群の武勇をもって知られた。正治二 (一二〇〇) 年、第二代将軍源頼家が海辺遊覧の際、「水練の技を披露せよ」と命ぜられ、水中深く潜って鮫を手取りにして人々を感嘆させた。私の「新編鎌倉志卷之七」の「小坪村」を参照。僕の大好きなこの朝比奈義秀の鮫獲りと相撲のシーンが挿絵付きで出、私が注で「吾妻鏡」から引用もしてある。建保元(一二一三)年五月の「和田合戦」では、和田方の勇士として奮戦し、将軍(第三代の実朝)の居所を正面から攻め込み、多数の武士を倒した。敵兵は義秀を恐れて、彼の進路をつとめて避けたと伝えられている。和田方が敗北するに及び、義秀は海路、安房国へ向って逃走したが,その直後に戦死したらしい。なお、「源平盛衰記」は、和田義盛が先に木曾義仲の妾であった御前を娶って、義秀が生れたと伝えているが、「吾妻鏡」に義秀は建保元年で三十八歳とあることから、この説は成立しない(ここまでは「ブリタニカ国際大百科事典」の記載を一部で使用した)。私の「北條九代記 千葉介阿靜房安念を召捕る 付 謀叛人白状 竝 和田義盛叛逆滅亡 〈和田合戦Ⅱ 朝比奈義秀の奮戦〉」も参照されたいが、今一つ、「北條九代記 坂額女房鎌倉に虜り來る 付 城資永野干の寶劍」では、今一人の同時代の烈女で、私の好きな坂額姐さんと義盛の間に出来た子とする話が載る。]

2021/03/21

大和本草附錄巻之二 「魍魎」 (中国版水怪)

 

魍魎 淮南子說狀如三歲小兒赤黑色赤目長耳

美髮左傳註疏魍魎川澤之神也○篤信曰此說

ヲ見レバ魍魎ハ河童ナルヘシクハシヤニアラス又クハ

シヤヲ魍魎トスル說アリ又河童ト相撲トリテ病

スルヲ治スル法右ノ木類ニ莽草ヲ用ル事ヲ記ス

○やぶちゃんの書き下し文

魍魎(まうりやう) 「淮南子」に說く、『狀、三歲の小兒のごとし。赤黑色、赤目、長耳、美髮。』と。「左傳」の「註疏」に、『魍魎は川澤〔(せんたく)〕の神なり。』と。

○篤信曰はく、此の說を見れば、魍魎は河童(かはたらう)なるべし。「くはしや」にあらず。又、「くはしや」を魍魎とする說あり。又、河童と相撲とりて、病ひするを治ずる法、右の「木類」に莽草(しきみ)を用ひる事を記す。

[やぶちゃん注:「大和本草附錄巻之一」よりのピック・アップは終わったので、これより「大和本草附錄巻之二」(PDF)に移る。底本は従来通り、「学校法人中村学園図書館」公式サイト内にある宝永六(一七〇九)年版の貝原益軒「大和本草」PDF版を視認してタイプする(後のリンク先は目次のHTMLページ)。前の「大和本草附錄巻之一」は植物パートであったが、配列が甚だ雑駁であった(分類項目が全く認められず、藻類もあちこちに散らばっていた)に対し、こちらは「禽類」・「獸類」・「魚類」・「蟲類」・「介類」・「水火]類土石類」・「藥類」の大項目分類が行われてあり、私も対応し易い。しかし、水族がそれらのどこかに混じり混んでいる可能性があるので、逐一、確認した。して、よかった。何故なら、早速、「獸類」の中に上記の不審な一条を見出したからである。既に述べた通り、私は幻想獣でも水棲のものは拾い上げる(実は次も、そう)。「魍魎」とは、本来の中国での原型は「魑魅魍魎」であって、山川草木金石水土のあらゆる自然の中に存在すると考えられた精霊(「すだま」と読むのが日本漢文では一般化している)・木霊(同前で「こだま」)などのアニマチズム(animatism:無生物にも意識があるとし、ある種の生命体に見えない現象・事物・物質は生きているとした原始信仰の初期的段階)的な存在霊や、その線上に生まれたアニミズム(animism:無生物であってもアニマ(anima:幽体・霊魂)を持つとする原始信仰)の世界観から想像されたさまざまな異人・幻獣・妖怪の総称であった。それが、分類好きな後代の人間たちよって「魑魅」と「魍魎」に分離されて(後の引用ではその逆が述べられているが、私は従えない。これらの単漢字は、もともと強い単独の個別的分類能(謂わば、種としての決定的独立性や識別性)を持っていないと私は思うからである)、人形(ひとがた)や幻獣へと変化・分類されていったものと思う。異論のある向きには次のように言おう。ウィトゲンシュタインが「論理哲学論論考」で述べている通り、そもそも「神は『名指すこと』は出来るが、『示すこと』は出来ない」のである。示された(分類された)その瞬間に、その零落は急速に始まり、神が下等な鬼神・妖怪へと堕天してゆくのである。話を戻す。本家の中国でもそうだが、それが移入された島国である本邦でも、それが海や河川の水界と強く結びついており、日本神話と相俟って、水精や水怪の形成を促したように私には思われる。益軒のぐちゃぐちゃした解説を注するには、ウィキの「魍魎」の内容がよく合うので、まず、それを引くと、『魍魎(もうりょう・みずは)または罔両、罔象は、山や川、木や石などの精や、墓などに住む物の怪または河童などさまざまな妖怪の総称』。『日本では水神を意味する「みずは」と訓じ、この語は他に「水波」「美豆波」「弥都波」などさまざまな漢字で表記される』(これは日本神話に登場する女神「みづはのめ」が現存する中では最も古い形象である。「古事記」では「彌都波能賣神」(みづはのめのかみ)、「日本書紀」では「罔象女神」(みつはのめのかみ)と表記され、祭神としては「水波能賣命」などとも表記される。「淤加美神」(おかみのかみ)とともに本邦の代表的な水神。「古事記」の「神産み」の段で、「加具土」(かぐづち)を産んだ際に陰部を火傷して苦しんでいた伊弉冉がした尿(いばり)から、「和久産巣日」(わくむすび)とともに生まれたとしている。「日本書紀」第二の一書では、伊弉冉が死ぬ間際に「埴山媛」(はにやまひめ)と「罔象女」を生んだとする)。『漢籍には、総称的な用法とは別に、具体的な姿や振る舞いを描写された魍魎が現れ』、「淮南子」には、『「罔両は状は三歳の小児の如し、色は赤黒し、目は赤く耳は長く、美しい髪をもつ」と記され』、「本草綱目」では、『「罔両は好んで亡者の肝を食べる。それで』「周礼」には、『戈(ほこ)を執って壙』(つかあな)『に入り、方良(罔両)を駆逐する、とあるのである。本性、罔両は虎と柏とを怖れ』る。『また、弗述(ふつじゆつ)』[やぶちゃん注:ママ。]『というのがいて、地下にあり死人の脳を食べるが、その首に柏を挿すと死ぬという。つまりこれは罔両である」と記されて』ある。「淮南子」に『よると、罔象は水から生じる』とし、また、「史記」では、『孔子は水の怪は龍や罔象であるとした』と記す。『これらから、魍魎も水の怪の総称とみなされるようになった。この意味は、山川の怪を意味する魑魅と対を成すようになった(あわせて魑魅魍)』。また、『亡者の肝を食べるという点から、日本では魍魎は死者の亡骸を奪う妖怪・火車と同一視されており』、『火車に類する話が魍魎の名で述べられている事例も見られる。江戸時代の根岸鎮衛の随筆』「耳袋」に『よれば、柴田という役人のもとに忠義者の家来がいたが、ある晩に「自分は人間ではなく魍魎」と言って暇乞いをした。柴田が理由を尋ねると、人間の亡骸を奪う役目が回ってきたので、ある村へ行かなければならないとのことだった。翌日、家来の姿は消えており、彼の言った村では葬儀の場が急に黒雲で覆われ、雲が消えると棺の中の亡骸が消えていたという』と出る。最後のそれは、私の「耳囊 卷之四 鬼僕の事」を見られたい。

「淮南子」「えなんじ」と呉音で読むことになっている。前漢の高祖の孫で淮南王の劉安(紀元前一七九年?~同一二二年)が編集させた論集。二十一篇。老荘思想を中心に儒家・法家思想などを採り入れ、治乱興亡や古代の中国人の宇宙観が具体的に記述されており、前漢初期の道家思想を知る不可欠の資料とされる。但し、現在の「淮南子」には以下の文字列を発見出来ない。散佚する前の原本にあったものらしい。「堀内元鎧 信濃奇談 卷の上 河童」の私の注の「魍魎狀如三歲小兒赤黑色赤目長耳美髯」を見られたい。なお、上記リンク先の原文には、本篇も引用されてある。

『「左傳」の「註疏」』「春秋左傳註疏」三国時代から西晋時代の魏・西晋に仕えた政治家・武将で学者の杜預(とよ 二二二年~二八四年)の「春秋左氏伝」の注釈書。

「篤信曰はく、此の說を見れば、魍魎は河童(かはたらう)なるべし」先の「大和本草卷之十六 河童(かはたらう) (水棲妖獣河童)」の本邦のオリジナリティの闡明からトーン・ダウンしてしまい、甚だ不満である。

「くはしや」「火車」「化車」であるが、これは専ら本邦で特異的に増殖した妖怪である。二種あって、後に混淆して行くが、古い方は、「今昔物語集」に登場する。「火車」についての資料としては、安澤出海氏のサイト内の「火車の資料」が網羅的で非常に優れている。私の「怪奇談集」を始めとして、諸電子化記事に頻繁に出現するのであるが、本記事の性格上、ここで、それらの妖怪学を開陳するわけにはゆかないのでウィキの引用でお茶を濁すと、まず「火の車」(ひのくるま)」によれば、『日本の怪異』・『妖怪』で平安後期の成立である「今昔物語集」を始め、いずれも江戸時代前期の「奇異雑談集」・「新著聞集」・「譚海」・「因果物語」などに『記述が見られ』、その基本的なコンセプトは、『悪事を犯した人間が死を迎えるとき、牛頭馬頭などの地獄の獄卒が、燃えたぎる炎に包まれた車を引いて迎えに現れるというもの。また文献によっては死に際ではなく、生きながらにして迎えが現れるといった事例も見られる』。「平仮名本因果物語」には、『「生ながら、火車にとられし女の事」と題し、以下の話がある。河内国八尾(現・大阪府八尾市)にある庄屋の妻は強欲な性格で、召使いに食事を満足に与えず、人に辛く当たっていた。あるとき、その庄屋の知人が街道を歩いていると、向こうから松明のような光が飛ぶように近づいて来た。光の中では、身長8尺(約2.4メートル)の武士のような大男』二『人が、庄屋の妻の両手を抱えており、そのまま飛び去って行った(画像参照)。彼は恐ろしく思って庄屋の様子を尋ねると、庄屋の妻は病気で数日間寝込んでおり、その』三『日目に死んでしまった。この妻は行いが良くなかったため、生きながらにして地獄へ堕ちたといわれたという』。『また、怪談集』「西播怪談実記」にも『「龍野林田屋の下女火の車を追ふて手并着物を炙し事」と題し、享保年間の火の車の話がある。播磨国揖保郡龍野町(現・兵庫県たつの市)の林田屋という商家で、以前から店に老婆とその娘が出入りしていたが、老婆が店に滞在中に風邪をひき、次第に症状が重くなった。手当ての甲斐もなく高熱が続き、ついには錯乱状態となった。娘は嘆き悲しんでそばを片時も離れなかったが、ある夕暮れに「ああ、悲しい。母を乗せて行ってしまうとは」と慌てて外へ駆け出した。商家の人々は娘が悲嘆のあまり正気を失ったかと思い、娘を引き止めると、たちまち娘が気絶したので、口に水を注いで正気に戻した。娘が盛んに熱がっており、見ると袖の下が火で焼け焦げていた。店へ戻ると、老婆は既に死んでいた。娘は、臨終のときになぜそばにいなかったのかと尋ねられると「絵で見た鬼の姿のような者が燃え盛る火の車を引いて、母を火の中へ投げ込んで連れ去って行った(画像参照)。取り戻したい一心で追いかけたものの車は空へ飛び去ってしまい、後のことは覚えていない」とのことだった』。『後に火の車は、葬式の場や墓場から死体を奪う猫の妖怪・火車』(後で別に引用する)『と混同されるようになり、前述の』「因果物語」や「新御伽婢子」などでは、『火の車のことが「火車」の題で述べられており、佐脇嵩之の妖怪画』集「百怪図巻」でも、『火の車を引く獄卒の姿が「くはしや」(火車)の題で描かれている例も見られる』。『近代では火車の名は地獄の獄卒ではなく、前述の猫の妖怪を指す方が多い』とあり、今一つの別に進化した「火車」(かしゃ)という妖怪は、ウィキの「火車(妖怪)」によれば、コンセプトは「火の車」と同根で、『悪行を積み重ねた末に死んだ者の亡骸を奪うとされる日本の妖怪で』、『葬式や墓場から死体を奪う妖怪とされ、伝承地は特定されておらず、全国に事例がある』。『正体は猫の妖怪とされることが多く、年老いた猫がこの妖怪に変化するとも言われ、猫又が正体だともいう』。『昔話「猫檀家」などでも火車の話があり、播磨国(現・兵庫県)でも山崎町(現・宍粟市)牧谷の「火車婆」に類話がある』。『火車から亡骸を守る方法として、山梨県西八代郡上九一色村(現・南都留郡、富士河口湖町)で火車が住むといわれる付近の寺では、葬式を』二『回に分けて行い、最初の葬式には棺桶に石を詰めておき、火車に亡骸を奪われるのを防ぐこともあったという』。『愛媛県八幡浜市では、棺の上に髪剃を置くと火車に亡骸を奪われずに済むという』。『宮崎県東臼杵郡西郷村(現・美郷町)では、出棺の前に「バクには食わせん」または「火車には食わせん」と』二『回唱えるという』。『岡山県阿哲郡熊谷村(現・新見市)では、妙八(和楽器)を叩くと火車を避けられるという』。「奇異雑談集」の「越後上田の庄にて、葬りの時、雲雷きたりて死人をとる事」では、『越後国上田で行なわれた葬儀で、葬送の列が火車に襲われ、亡骸が奪われそうになった。ここでの火車は激しい雷雨とともに現れたといい、挿絵では雷神のように、トラの皮の褌を穿き、雷を起こす太鼓を持った姿で描かれている』(引用元に図有り)。「新著聞集」第五の「崇行篇」の「音誉上人自ら火車に乗る」には、文明一一(一四七九)年七月二日、『増上寺の音誉上人が火車に迎えられた。この火車は地獄の使者ではなく』、『極楽浄土からの使者であり、当人が来世を信じるかどうかにより、火車の姿は違ったものに見えるとされている』と出、同第十「奇怪篇」の「火車の来るを見て腰脚爛れ壊る」には、『武州の騎西の近くの妙願寺村。あるときに、酒屋の安兵衛という男が急に道へ駆け出し、「火車が来る」で叫んで倒れた。家族が駆けつけたとき、彼はすでに正気を失って口をきくこともできず、寝込んでしまい』、十『日ほど後に下半身が腐って死んでしまったという』とあり、同「奇怪篇」の「葬所に雲中の鬼の手を斬とる」では、『松平五左衛門という武士が従兄弟の葬式に参列していると、雷鳴が轟き、空を覆う黒雲の中から火車が熊のような腕を突き出して亡骸を奪おうとする。刀で切り落としたところ、その腕は恐ろしい』三『本の爪を持ち、銀の針のような毛に覆われていたという』とあり、また、同第十四「殃禍篇」の「慳貪老婆火車つかみ去る」には、『肥前藩主・大村因幡守たちが備前の浦辺を通っていると、彼方から黒雲が現れ「あら悲しや」と悲鳴が響き、雲から人の足が突き出た。因幡守の家来たちが引きおろすと、それは老婆の死体だった。付近の人々に事情を尋ねたところ、この老婆はひどい』吝嗇『で周囲から忌み嫌われていたが、あるとき』、『便所へ行くといって外へ出たところ、突然』、『黒雲が舞い降りて連れ去られてしまったのだという。これが世にいう火車という悪魔の仕業とされている』とする。「茅窓漫録」の「火車」には、『葬儀中に突然の風雨が起き、棺が吹き飛ばされて亡骸が失われることがあるが、これは地獄から火車が迎えに来たものであり、人々は恐れ恥じた。火車は亡骸を引き裂いて、山中の岩や木に掛け置くこともあるという。本書では火車は日本とともに中国にも多くあるもので、魍魎という獣の仕業とされており、挿絵では「魍魎」と書いて「クハシヤ」と読みが書かれている』(引用元に画像有り)。民俗誌の名作「北越雪譜」の「北高和尚」には、天正時代、『越後国魚沼郡での葬儀で、突風とともに火の玉が飛来して棺にかぶさった。火の中には二又の尾を持つ巨大猫がおり、棺を奪おうとした。この妖怪は雲洞庵の和尚・北高の呪文と如意の一撃で撃退され、北高の袈裟は「火車落(かしゃおとし)の袈裟」として後に伝えられた』と載る。また、『火車と同種のもの、または火車の別名と考えられているものに、以下のものがある』。『岩手県遠野ではキャシャといって、上閉伊郡綾織村(現・遠野市)から宮守村(現・同)に続く峠の傍らの山に前帯に巾着を着けた女の姿をしたものが住んでおり、葬式の棺桶から死体を奪い、墓場から死体を掘りおこして食べてしまうといわれた。長野県南御牧村(現・佐久市)でもキャシャといい、やはり葬列から死体を奪うとされた』。『山形県では昔、ある裕福な男が死んだときにカシャ猫(火車)が現れて亡骸を奪おうとしたが、清源寺の和尚により追い払われたと伝えられる。そのとき残された尻尾とされるものが魔除けとして長谷観音堂に奉納されており、毎年正月に公開される』。『群馬県甘楽郡秋畑村(現・甘楽町)では人の死体を食べる怪物をテンマルといい、これを防ぐために埋葬した上に目籠を被せたという』。『愛知県の日間賀島でも火車をマドウクシャといって、百歳を経た猫が妖怪と化すものだという』。『鹿児島県出水地方ではキモトリといって、葬式の後に墓場に現れたという』。『日本古来では猫は魔性の持ち主とされ、「猫を死人に近づけてはならない」「棺桶の上を猫が飛び越えると、棺桶の中の亡骸が起き上がる」といった伝承がある。また』、「宇治拾遺物語」では、『獄卒(地獄で亡者を責める悪鬼)が燃え盛る火の車を引き、罪人の亡骸、もしくは生きている罪人を奪い去ることが語られている。火車の伝承は、これらのような猫と死人に関する伝承、罪人を奪う火の車の伝承が組み合わさった結果、生まれたものとされる』。『河童が人間を溺れさせて尻を取る(尻から内臓を食べる)という伝承は、この火車からの影響によって生じたものとする説もある』。『また、中国には「魍魎」という妖怪の伝承があるが、これは死体の肝を好んで食べるといわれることから、日本では死体を奪う火車と混同されたと見られており』、先の「茅窓漫録」では、『「魍魎」を「クハシヤ」と読んでいることに加えて』、前にリンクさせた「耳袋」の『「鬼僕の事」では、死体を奪う妖怪が「魍魎といへる者なり」と名乗る場面がある』とある。個人的には、私は今一つの妖怪「片輪車」も、この「火車」の変形譚であると考えている。それは「見るな」の禁忌に触れることで、生きた子が食われてしまうという紋切型の構造を持ち、遺体を食うモンスターが、生きた人間をも食うに至るのは発展形態の当然の流れと考えているからである。典型的なそれは、私の「諸國百物語卷之一 九 京東洞院かたわ車の事」にとどめを刺す。是非、見られたい。挿絵付きで、私は業火の燃えるそれなんぞより、人体の一部をくっ付けて回る車輪の方が数十倍インパクトがあると考える人種である。私の「柴田宵曲 續妖異博物館 不思議な車」も参考になろう。

『「くはしや」を魍魎とする說あり』益軒の本草記載の杜撰を指弾した小野蘭山述の「本草綱目啓蒙」の巻之四十七「獣之四」の「寓類之怪」には以下のようにある(ここでは無条件で賛同しているようで、ちょっと意外)。国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像を視認し、カタカナをひらがなに直し、漢文部は訓読、句読点他(送り仮名・読みは推定)を添えた。

   *

罔兩  「くはしや」。「くはじや」【薩州。】。

魑魅の類(るゐ)なり。葬送の時、塗中にて、疾風・迅雷、暴(あからさま)に至りて、棺は損ぜずして、中の屍(しかばね)を取り去り、山中の樹枝・巌石等に掛け置くこと、あり。これを、「くはしや」と云ふ。東都及び薩州・肥前・雲州にもありと云ふ。京師には、これ、有ることを聞かず。又、『「淮南子」に載る「罔兩」は「水虎(がはたらう)[やぶちゃん注:原本の読み。]」のことなるべし。』と、「大和本草」に詳かにす。同名なり。「周禮(しうらい)」に、『方相氏、戈(ほこ)を執り、壙(くわう)[やぶちゃん注:墓穴。]に入る』と云ふ。方相氏は四つ目あるの假面(めん)[やぶちゃん注:原本の二字への読み。]を著(あらは)するを云ふ。是れ、罔兩を禦(ふせ)ぐ爲めなり。京師、九月十一日、東寺の尼寺に六孫王の祭あり。俗に「寶永祭」と云ふ。此の時、首に紅(しやぐま)[やぶちゃん注:原本の読み。]を蒙(かふむ)り、方相氏の假面を著けて、四神の旗を持るもの、あり。服は赤・黒・青・白、各(おのおの)一人なり。

   *

『河童と相撲とりて、病ひするを治ずる法、右の「木類」に莽草(しきみ)を用ひる事を記す』この『右の「木類」』というのは、本巻の「莽草」のそれではなく、「附錄卷之一」の「木類」の22コマ目の以下の追加記載である。以下に訓読して示すが、御存じない方もいると思うので、言っておくと、仏事に用いられるマツブサ科シキミ属シキミ Illicium anisatum は全植物体に強い毒性があり、中でも種子には強い神経毒を有するアニサチン(anisatin)が多く含まれ、誤食すると死亡する可能性もある。シキミの実は植物類では、唯一、「毒物及び劇物取締法」により、「劇物」に指定されている。以下の処方は間違っても使ってはならない。

   *

河太郎と相撲(しまふ)をとりたる人、正氣を失ひ、病ひするに、「しきみ」の木の皮をはぎ、抹香とし、水に、かきたて、吞(もま)すれば、忽ち、正氣になり、本復す。屢(しばしば)用ひて、效(しるし)ありと云ふ。「しきみ」は「莽草」なり。木なれども、「本草綱目」、「毒草類」に載せたり。「しきみ」の抹香を佛家及び世俗に燒く術者〔(じゆつしや)〕、「伊豆那(いづ〔な〕)の法」を行ふに、此の「荼耆尼天(だぎに〔てん〕)の法」なりと云ふ。「いづな」とは、信濃(しなの)の國の山の名なり、彼〔(か)〕の山に「だきに天」の祠〔(ほこら)〕ある故、山の名を以つて、其の法に名づけしなるべし。

   *

「伊豆那(いづ〔な〕)の法」は「飯綱(いづな)の法」で、「飯綱」(いづな)は妖術師が使役するダークな妖怪「管狐(くだぎつね)」のことを指す。これを語り出すと、また、エンドレスになるので、それは「老媼茶話之六 飯綱(イヅナ)の法」の本文と私の注を参照されたい。]

大和本草卷之十六 河童(かはたらう) (水棲妖獣河童)

 

【和品】

河童 處々大河ニアリ又池中ニアリ五六歲ノ小兒ノ如ク

村民奴僕ノ獨行スル者往々於河邊逢之則精神昏冒

スト云此物好ンテ人ト相抱キテ角力其身涎滑ニ乄捕定

ガタシ腥臭滿鼻短刀ニテ欲刺不中角力人ヲ水中ニ

引入レテ殺スコトアリ人ニ勝コトアタハサレハ沒水而見

ヱス其人忽恍惚ト乄如夢而歸家病コト一月許其症

寒熱頭痛遍身疼痛爪ニテ抓タルアト有之此物人

家ニ往々爲妖種々怪異ヲナシテ人ヲ惱ス叓アリ狐妖

ニ似テ其妖災猶甚シ本艸綱目蟲部濕生類溪鬼蟲

ノ附錄ニ水虎アリ與此相似テ不同但同類別種ナルヘ

シ於中夏之書予未見有此物

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

河童(かはたらう) 處々、大河にあり。又、池〔の〕中にあり。五、六歲の小兒のごとく、村民・奴僕の獨行する者、往々、河邊に於いて、之れに逢へば、則ち、精神、昏冒〔(こんぼう)〕すと云ふ。此の物、好んで人と相ひ抱〔(いだ)〕きて、力を角〔(きそ)〕ふ。其の身、涎滑〔(ぜんかつ)〕にして、捕り定めがたし。腥〔(なまぐさ)き〕臭〔ひ〕、鼻に滿つ。「短刀(わきざし)にて刺さん」と欲すれども、中〔(あた)〕らず。力を角ふて、人を水中に引き入れて、殺すこと、あり。人に勝つこと、あたはざれば、水に沒して見ゑず[やぶちゃん注:ママ。]。其の人、忽ち、恍惚として、夢のごとくにして、家に歸り、病むこと、一月〔(ひとつき)〕許り、其の症、寒熱・頭痛・遍身〔の〕疼痛〔なり〕。爪にて抓(か)きたるあと、之れ、有り。此の物、人家に、往々、妖を爲す。種々、怪異をなして、人を惱ます事あり。狐妖に似て、其の妖災、猶ほ、甚だし。「本艸綱目」〔の〕「蟲部・濕生類」〔の〕「溪鬼蟲」の「附錄」に、「水虎」あり、此れと相ひ似て、同じからず。但〔(ただ)〕、同類・別種なるべし。中夏の書に於いて、予、未だ、此の物、有るを見ず。

[やぶちゃん注:私は想像上の幻獣・妖怪であっても、水族として採用する。特に河童は私は本邦のオリジナルな特異水獣(妖怪)として採り上げぬ訳にはゆかぬ。その点で、益軒の「和品」とし、最後の謂いも完全に賛同するものである。私の河童に対する博物学的認識は、最近の電子化になる「怪談老の杖卷之一 水虎かしらぬ」の注で、やや詳しく注しているので、そちらを是非、参照されたい。

「昏冒」漢方では、完全な失神ではなく、重い眩暈(めまい)や立ち眩みを指すようである。

「角〔(きそ)〕ふ」当初は「くらぶ」と訓じてみたが、直後のそれでは、そうは読めないと感じたので、かく訓じておいた。

「涎滑」河童定番の生態であるが、涎(よだれ)のような粘液で全身が覆われており、それがべたつき、ぬるぬるするために、相撲をとっても、或いは捕獲しようとしてしても、上手く摑めないことを意味している。

『「本艸綱目」〔の〕「蟲部・濕生類」〔の〕「溪鬼蟲」の「附錄」に、「水虎」あり』「怪談老の杖卷之一 水虎かしらぬ」の私の注を参照。

「中夏」「中華」に同じい。漢籍。

 これを以って巻之十六のピック・アップを終わり、やっと本来の「附錄」に戻る。]

ブログ・アクセス1,510,000アクセス突破記念 梅崎春生「その夜のこと」+続編「冬の虹」合冊縦書ルビ版(オリジナル注附)公開

ブログ・アクセス1,510,000アクセス突破記念として梅崎春生の「その夜のこと」と続編「冬の虹」の合冊縦書ルビ版(オリジナル注附き)を公開した。

ブログ・アクセス1,510,000アクセス突破記念梅崎春生 冬の虹

 

[やぶちゃん注:昭和二九(一九五四)年三月号『小説新潮』に発表され、後の昭和三四(一九五九)年に刊行した作品集「拐帯者」(光書房)に収録された。

 読み始めれば、そこで予告した通り、すぐにこれが二ヶ月前の昭和二九(一九五四)年一月発行の『別冊小説新潮』初出で、同じ作品集「拐帯者」に本篇とセットで所収された、前回、ブログで電子化した「その夜のこと」の続編であることが判る。未読の方は、まずそちらから読まれたい。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第五巻」を用いた。

 今回は思うところあって、文中に軽く割注を入れて、最後に、本作のモデルとなった梅崎春生自身の過去(満二十一或いは二十二歳の時)の体験(事件)について注した。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが本日、先程、1,510,000アクセスを突破した記念として公開する。【2021年3月21日 藪野直史】]

 

   冬 の 虹

 

 月明りの下に、白っぽい大きな四角の建物があった。入口の柱に木札がかかっていて、夜目にもそれは『駒込警察署』と読めた。

 外套の襟を立てたまま僕が佇(た)っていると、巡査がうしろからじゃけんに僕の背をこづいた。

「さあ、上るんだ」

 この巡査は背が低く、顎(あご)の角ばった男で、言葉づかいに茨城あたりのものらしい訛(なま)りがあった。歳は三十前後かと思われる。犯行現場からここまで来るのに、自動車に乗れなかったので、それで露骨に僕に対して不機嫌になっていた。こんなに寒い夜だし、僕だっててくてく歩きたくはなかった。でも無一文だから仕方がない。

 うながされるまま、僕は重いあしどりで署の階段をのぼり始めた。僕のうしろから巡査が、巡査のうしろから霜多がつづいた。

 廊下を通って扉を押すと、そこはだだっぴろい大部屋で、夜更(ふ)けだと言うのに十人ばかりの刑事が立ったり腰かけたり、ストーブに掌をかざしたりしていた。ストーブの中で薪(たきぎ)は赤い焰を立てて、勢いよく燃えていた。僕たちが入って行っても、誰もこちらに振り向かなかった。へんにガヤガヤした落着かない厭な雰囲気だった。

 僕らを入口のところに待たせて置いて、巡査はつかつかと歩み入り、主任らしい男の机の前に立ち止った。僕の方を指差しながら、何かコソコソと報告しているらしい。主任も報告を受けながら、ちらちらと僕を横目でにらみつけているようだった。酔いもすっかり醒めはてたし、すこしずつ面白くない憂鬱な気分になってくる。

「ひょっとすると、俺は留置場に入れられるかも知れないな」

 僕は傍の霜多にそっとささやいてみた。すると霜多はびっくりしたような表情で僕を見た。

「ひょっとするとって、留置場入りはきまってるよ。とにかくケガさせたんだからな」

「そりゃ困ったな」

 と僕は落胆した。僕が切に欲していたのは、あたたかい蒲団と静かな眠り、それだけだったのだ。留置場入りは始めてだが、どうもそこにそんなものがあるとは常識としても考えられなかった。

「留置場入りは困るな。どうにかならんものかねえ」

「僕らも努力はしてみるよ。してはみるけれどね――」[やぶちゃん注:「僕ら」はママ。ここには、そうした「努力」が出来る他の人間は霜多以外にはいないから、或いは霜多の慌てぶりや、留置の責任を自分のみに限定されるのを半ば無意識に嫌ったことを示すためのものかも知れない。後で、霜多と他の友人への恨みを「僕」を漏らしていることから、霜多も、或いはこの時、他の友人らへ連絡して釈放の運動をしようという意識が頭を掠めたものかも知れない。]

 その時巡査がじろりと振り返ったので、霜多は口をつぐんだ。巡査は怒ったような顔付きで僕を手招いた。僕はふらふらとそちらへ歩いた。

「お前か、下宿の婆さんを殴ったのは」

 主任がにわかに眼を据(す)えて僕に怒鳴った。主任も頰(ほお)骨が突き出て、チョビ髭(ひげ)を生やし、顎骨が左右に張っていた。どうして警察官というのは、どれもこれも顎が四角張っているのだろう。僕はキッと見据えられて、思わず視線をうろうろさせた。

「はい」

「なぜ殴ったんだ」

 そこで僕は、今夜酒を飲んだこと、終電に乗り遅れた友人の霜多を愛静館に連れかえったこと、婆さんに客蒲団を出して呉れと頼んで断られたこと、僕が腹を立てて婆さんに糊壺を投げつけ、そして椅子をふり廻して大あばれをしたこと、以上の事情をカンタンに主任に説明した。下宿料がたまっていることなどは言わなかった。僕が説明し終ると、主任は僕をじっとにらみながら、低い声で訊(たず)ねた。

「あそこに立っているのが、その友達というやつか」

「そうです」

 主任は鉄の文鎮で机のはしをコツコツ叩きながら、すこし威嚇(いかく)的な声を出した。

「お前は一体学生のくせに、かよわい老人にケガさせるとは何事だ。今の報告によれば、婆さんの傷は全治二週間だぞ。悪いとは思わんか!」

「はい。悪かったと思います」

 出来るだけおだやかに僕は答えた。謝ればもしかすると許して呉れるかも知れない。そう考えたからだ。ところが頭を下げた僕を見て、主任は無雑作につけ加えた。

「それじゃ今晩はとまって行け」

 僕はとたんにがっかりして主任の顔を見た。主任はそっぽ向いて、さっきの巡査の方に顎でなにか合図をした。巡査がつかつかと僕に近づいて来た。

 

 霜多に別れると、僕はふたたび巡査に連れられて廊下に出、その留置場の方に歩かせられた。廊下は寒かった。僕はもう観念していた。『霜多のやつ、今晩どうするつもりかな』

 ちらと僕はそんなことを考えた。霜多ももう無一文の筈(はず)だし、こんなに夜は遅いし、どこで一夜を明かすのか。僕の方はお粗末ながら寝場所だけはチャンとあるわけなのだ。

 鉄の扉ががちゃんと開かれて、僕の身体はいきなりその中に押し入れられた。そこは留置場詰めの刑事の控えの間になっているらしかった。

「学生一人、願います」

 扉の外から巡査が言った。

 刑事が二人、火鉢に当っていた。その一人が僕を見て面倒くさそうに立ち上った。この刑事の顎もやはり下駄のように角張っていた。

「何だ、お前は。アカか」

「違います」

 アカではなく傷害罪であることに、僕はなにか自分に惨(みじ)めな屈辱をかんじた。小さな声でつけ加えた。

「下宿の婆さんにケガさせたんです」

 刑事の表情が軽蔑でゆがんだように感じられた。はき捨てるような口調だった。

「持ち物を全部ここへ出すんだ」

 うす暗い電燈の光の下に粗末なテーブルがある。僕はポケットの中から、学生証や煙草やマッチ、手袋や万年筆をとり出して、その上につぎつぎと並べた。刑事はその物件の名を一々紙に書きとった。

「それだけか?」

「これだけです」

 刑事は上目使いに僕を見て、僕の外套のポケットを上から押さえ、それから掌をポケットにつっこんだ。何かを摑(つか)み出した。

「何だあ、こりゃあ」

 拡げた掌の上に、マッチの軸(じく)の折れたのがたくさん乗っている。外套のポケットに手をつっこみ、マッチの軸をポキポキ折りながら歩くのが、その頃の僕の無意識の癖だった。刑事の掌にあるのはその折屑なのだが、自分の癖を現実の形として他人から示されるのは、はなはだしくイヤな気持のものだった。

「莫迦(ばか)な癖もあったもんだな」

 僕の説明を聞いて、刑事はそう言って鼻であざ笑った。

「さあ、バンドも外(はず)すんだ」

 留置場ではすべての紐(ひも)のたぐいは取上げられる。そのことは小説その他によって、予備知識として持っていたので、僕はすぐに素直に皮帯[やぶちゃん注:「バンド」と当て読みしておく。「かわおび」と読んでも構わない。]を外した。しかしいざ皮帯を外すと、ズボンがずり下りそうで、あやふやな不安定な感じだった。外套も脱がされるかと思っていたら、これはそのままでいいらしい。

 一人が僕を処理している間、も一人の刑事は火鉢にかがみこんで、じっとしている。僕に対して全然職業的興味さえ持っていない風(ふう)だった。

 この控え所からじかにコンクリートの廊下が伸び、その両側に鉄格子がずらずらと見える。そこが留置場にちがいない。区切りの具合から見て、八つか十ぐらいの房に分れているらしかった。午前三時過ぎのことだから、勿論そこらはしんと寝静まっていて、聞えるのは僕と刑事のぼそぼその話し声だけだ。

 刑事は僕の腕を摑(つか)んで、房(ぼう)の方に歩きながら、

「お前は運が良い奴だ。これが本富士署であって見ろ」

 と言った。そして、本富士署は建物が古いから設備も悪い、この駒込署は建ったばかりだから居心地がいいんだ、と妙なことを自画自讃した。そう言えばコンクリートの壁も汚れていないし、鉄格子もぴかぴかと光を弾いているようだった。

 刑事は左右の房をのぞいて歩き、そしてその一つの前に歩を止めた。小さいくぐり扉に頑丈な錠がかかっている。刑事は合鍵をさし込んで、ガチャリとそれを外した。

「さあ、この房の一番奥にもぐり込んで、さっさと寝るんだ」

 房は奥へ細長く、極端にうす暗い。鼠色の毛布をかぶって十人ばかりの男がいびきをかいている。妙な臭気が鼻に来た。毛布と壁との狭い間を僕は爪先立ちで奥へ歩いた。

背後で刑事がガチャリと錠をおろした。

(シラミがいるかも知れないな)

 床に立ったまま僕は考えた。昭和十二年のことだから、DDTなどという気の利いたものはない。その時鉄格子の外から刑事が僕をしかりつけた。

「何をぐずぐずしているんだ。さっさと寝ろ」

 僕はあわててそこに坐り、そして毛布の中にそっと足をさし込んだ。毛布は古びて毛もすり切れていた。そこに入っていた男がすこし体をずらして、僕の入る余地をつくって呉れた。僕は外套のまま毛布の中に横たわった。枕はもちろん無かった。僕の頭はじかに木質の床に触れた。寒さと冷たさが身体のしんまで沁み入ってきて、我慢しようとしても胴や股が小刻みに慄えた。就中(なかんずく)足の裏がこごえるように冷たかった。僕は自然にとなりの男に身体を押しつけて、そこから暖をとろうという形になっていた。そうでもしなければ凍え死んでしまいそうだった。

「何だ。何で入って来たんだい」

 となりの男が眼をさまして、僕にそうささやきかけた。

「ラジオかい」

「いや、なに」

 ラジオという言葉の意味がよく判らなかったので、僕はごまかした。

「人をケガさせたんだ」

「喧嘩か」

 男はそして眠そうに小さな欠伸(あくび)をした。

「まあ、いいや。早く寝ろよ」

 僕は男に背をぴったりと接して、眼をつむった。木の床の上に敷くのは毛布一枚だから、骨がゴリゴリと鳴り、あちこちが痛く、しびれるようにつめたかった。瞼を閉じても眠れるどころの騒ぎではなかった。

[やぶちゃん注:「駒込警察署」現在の東京都文京区本駒込二丁目に現存する(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。現在は文京区の北東部と豊島区のごく一部を管轄している。明治四〇(一九〇七)年十二月に本郷警察署(現在の本富士警察署)の分署として創設され、明治四十三年十二月に駒込警察署と改称、大正二(一九一三)年八月に、廃止された千駄木警察署の管轄を統合し、本郷駒込警察署となったが、昭和一二(一九三七)年には、再び、駒込警察署と改称している(当該ウィキを参照した)。最後に示す梅崎春生自身の事件は、その昭和十二年の出来事であるから、この再改称時に庁舎の一部が改装或いは増設されているものと思われる。

「本富士署」本富士(もとふじ)警察署。東京都文京区本郷七丁目で東京大学(当時梅崎春生が在籍していた(講義には出て一回もこなかったと大学時代の友人(最後の注を参照)は証言している)東京帝国大学の真南直近にある。当該ウィキを見ると、名称は警視庁第四方面三警察署(前身)→元富士町警察署→本郷警察署→本富士警察署→本郷本富士警察署と目まぐるしく改称しているものの、やはり、この昭和十二年に元の本富士警察署に名称を戻しているので、梅崎春生の記載は非常に正確であると言える。

「ラジオ」警察・犯罪用語の隠語。後で本文で説明されるので、ここでは記さない。]

 

 この新装なった駒込警察署留置場の第六房に、僕は翌日から、今日こそは釈放されるか釈放されるかと待ちこがれ、ついに足かけ一週間ここに入っていた。その一週間のあいだ、取調べもなければ、呼出しも一度もなかった。だからここにいるあいだ中、僕は、霜多その他の友人を心中でしきりに恨みつづけていた。

(俺のことはほったらかして、毎日遊んでいるのだろう)

 そう思うと腹が立って腹が立って、いても立ってもいられないほどだった。留置場の中では何もすることはないのだから、どうしてもひとつ事ばかり考えることになるのだ。

 一体どういうことになっているのだろう。その不安と腹立ちを更にあおるのは、確かに留置場の中の生活形式の故でもあった。今生活と書いたが、これは生活というよりも、しごく緩慢な儀式と言った方が近いかも知れない。ここでは行動というものはほとんど封じられている。睡眠と掃除と食事と排便。一日の行事は大体それだけで、あとは何もすることはないのだ。私語も禁じられている。(禁じられていても、刑事の眼をぬすんで僕らはおおむね私語をかわしていたが)とにかく十六年前のことだから、現在の留置場のあり方とは少々違っていた。[やぶちゃん注:「十六年前」本篇は昭和二九(一九五四)年三月発表であるから、発表年を勘定に入れなければ、最後に示す実際の事件の昭和十二年と一致する。]

 朝六時起床の合図。ただちにはね起きて毛布を手早くたたみ、房の内の掃除。房の外の通路の掃除は、在房者の中でも古手がこれを担当した。これは身体の運動にもなるし、良い役割だった。僕の房の一番古手は、仁木という三十前後の詐欺容疑の男だったが、これもまだ外の掃除をする資格はなかった。と言うのは、思想犯で半年近くいるのが、ここにも何人かいたからだ。十日や二十日では古手だとは言えなかったのだ。

 それから食事。塗りの剝げた木箱に麦混りの南京米の飯。朝はうすい味噌汁一杯。昼と夕方はヒジキの煮付け。量はごく少い。一日中ほとんど運動しない状態でも、この量では少な過ぎた。僕は最初の朝飯こそは不味(まず)くて食えず、箱ぐるみ仁木に進呈したが、次の食からは待ちかねてむさぼり食うようになった。[やぶちゃん注:「南京米」はインドシナ・タイ・ベトナム・中国等から輸入するインディカ米を嘗ては、こう、呼称した。]

 使所に行く時間もちゃんときまっている。一日四回ぐらいだったと思う。飲食の量がすくないから、結構その回数で間に合った。もっとも便所に近い老人なんかは、やはり四回ばかりでは困るようだったが。[やぶちゃん注:「便所」現行では房内の隅に配されてあるが、ここの当時の留置房には、トイレはなく、恐らくは外の通路の奥にあるもののように読める。]

 以上それだけで、あとは何することもない。あぐらをかいて壁にもたれ、一日中向き合ってじっとしている。房内のコンクリートの壁はまだ真新しい。しかし房の収容人員は大体きまっているし、同じところにあぐらをかき、同じ箇所に頭をもたせかけているので、壁のそこらの部分だけがうっすらと黒い汚れを見せている。坐る位置は、その房の一番古手が牢名主(ろうなぬし)然として、通路に最も近い食事差入口のそばに坐り、以下古い順序に打ちならぶ。つまり一等新参は一番奥というわけだ。

 そういうわけで、僕は最初の日は一番奥にいた。小さな窓の下の、壁の稜角のところだった。通路への視野もきかず、光線にも乏しく、たいへん憂鬱な場所だった。

 しかし二日目の夕方になると、僕の位置は大躍進をして、扉の方から三分の一ぐらいの場所に昇格していた。それはこの第六房というのは、比較的廻転率の早い房らしく、酔っぱらいとか家出人とかせいぜい一日か二日どまりで出で行くのが多く、躍進はそのせいであったが、牢名主の仁木が特別に僕をバッテキしたせいでもあった。バッテキのおかげで、僕はたしか二人か三人かを一挙に飛び越したと思う。

 仁本はもう十日余りもここに留められているらしかった。背は低いががっしりした体格で、額はせまく、毛深いたちだと見えて、ハリガネのような鬚(ひげ)が頰や顎に密生していた。仁本が着用しているのはドテラだったが、帯は取上げられているので、コヨリをもって帯の代用していた。留められた翌朝の食事後、僕は仁木に手招きされて、その傍まで膝行(しっこう)した。

「おい。ダイガク。一体お前は何をやったんだね」

 私語は禁じられているから、刑事の眼をぬすんで、腹話術みたいな含み声で問いかけてくる。僕も慣れないながら同じ要領でうけ答えした。ダイガクというのは大学生という意味で、最初の日からこの房での僕の通り名になっていた。制服のまま入れられたのだから、この呼称となったのも無理はない。ダイガクすなわち僕は仁木の訊間にこたえて、事件のすべてのいきさつをしゃべらされた。刑事の耳目をはばかってのことだから、時間も相当にかかった。

 訊(たず)ねるだけ訊ねると、仁木はふたたび手をふって、僕を下座にさがらせた。仁木の僕に対する態度は、他の在房の者に対するよりも、割に親切だった。その理由としては、朝飯を供出したせいかな、とその時僕は考えたのだが、それは必ずしも当ってはいなかった。

 仁木は僕がダイガク生であることに、ある親近感を感じたのは事実のようだった。それは二日目か三日目頃に、自分はある専門学校に行ってたことがあると、仁木が問わず語りに話したことでも判る。彼はその時他の同房の連中に軽蔑的に視線を動かしたようだった。僕はその奇妙な親近感をどうも素直には受取りかねた。照れるような気持で返事をためらった。

 しかし仁木が僕をバッテキしたのは、単にそれだけでなく、確かに僕を利用する下心からだったらしい。彼は当時房内にあって身動き出来ないから、どうしても誰かを摑(つか)まえて、至急に外部との連絡をとる必要があったのだ。ところがこの房に入ってくるのは、いずれもたよりにならない奴ばかりで、折角いろいろ頼んでみても、出房するとそのまますっぽかしてしまう。イライラしているところに、この僕が入房して来たというわけだ。ダイガク生で見たところ正直そうだし、話を聞くと、微罪だから直ぐに釈放されそうだし、というところで僕に眼をつけたのだろう。おそらく破格のバッテキというのも、僕への御機嫌取りの政策だったのだ。

 そして四日目頃には僕は仁木に次いで、この房の副名主に出世していた。場所も仁木と向い合って鉄格子からすぐのところだ。そして僕の頰や顎にも無精鬚(ぶしょうひげ)が密生し、鏡はないけれども、指でまさぐった感じでは相当に堂々としていて、いっぱしの副名主面となっているらしかった。いつ出房できるか予測もつかない、そのいらだちと立腹はあったけれども、それはそれとしてこうしてぐんぐん出世してみると、なにか嬉しいような気がするのは不思議なものだった。人間というものは、ある一定の世界に入れられると、その世界の中だけの感情が別に生じてくるものらしい。

 

 一週間ほどの間に、いろんな人物が入房し、また出房して行った。平素僕があまりつき合いがないような、そんな種類の人々が多かった。

 背がひょろひょろと高い、無銭飲食で入れられた男がいた。そいつはラジオと呼ばれていた。ラジオは無線だから、無銭飲食はふつうそう呼ばれる。このラジオは背は高いくせに、皮膚は青白く瘦せていて、不健康な風貌だった。歳は三十五、六に見えたが、実はもっと若かったかも知れない。本郷肴町の天ぷら屋で、酒を三本飲み天丼を四つ平らげて、それで警察につき出されたという話だった。ラジオは僕に話して聞かせた。[やぶちゃん注:「本郷肴町」「ほんごうさかなまち」と読む。現在の文京区向丘(むこうがおか)の旧町名。現在の一丁目に「肴町旭ビル」とあるので、この附近であろう。]

「天丼の五つ目のお代りを注文したんだな。すると向うでもおかしいと見たんだろうな。金を見せてくれと言いやがる。それで五杯目はオジャンよ」

 こんな瘦せた男のどこに天丼が四つも五つも入るのか、僕はちょっと理解できかねた。やはり彼の胃は病的に拡張していたのだろう。それにどうせ警察に突き出されるのは判っているので、ここぞとばかり食い溜めする気にもなったのだろうと思う。その看町の天ぷら屋と言うのは僕も食べに行ったことがある。値段の割にうまい良心的な店だった。留置場では毎日おかずはヒジキばかりなので、その話を聞いた時、あたたかい天ぷらの幻想がにわかに頭をかけめぐって、僕はそれを押さえるのに苦労をした。

 このラジオはすでに何度も留置場入りをした経験があるらしい。房内での態度も物慣れているし、それに入房して来た時、検査をどうごまかして来たのか、タバコを五本、マッチ軸を十本ばかり持ち込んできた。房内での喫煙は厳重に禁止されているが、入房者はさかんに工夫をこらして禁制物を持ち込む。刑事も四六時中各房を見張っているわけではないので、その油断を見すまして、せきばらいと一緒にマッチをつける。すばやくタバコに点火する。吸い込んだ煙は絶対にはき出さない。全部体内に吸収してしまう。タバコ自身から立つ生(なま)の煙は、掌でばたばたあおいで散らかしてしまう。こうやって廻し喫(の)みをするのだが、そういう時の一喫(す)いは眼がくらくらとするぐらい強烈だった。ラジオのおかげで僕もしばしばその配当にあずかった。

 このラジオは、無銭飲食というものは犯罪でないと確信しているようだった。それは彼の口ぶりでも判った。犯罪ではなく、一種のスポーツめいたものとして考えていたらしい。彼はいつかこんなことを言った。

「無銭をやられるのは、やられる方が悪いんだよ。客がラジオかどうか前もって見抜けないで、それで商売人と言えるかい」

 また、ワカラズヤという仇名の爺さんがいた。六十歳前後の、わりとちゃんとした服装をしているが、とにかく聞きわけのない爺さんだった。

 ワカラズヤは二晩房に留められ、三日目息子夫婦に引取られて出て行った。息子に養われているのだが、その息子夫婦が実に仲が良く、それでいたたまれなくて家出したという話だった。夜中に街をうろうろしていたのを怪しまれ、そして巡査にここに連れられて来た。

 爺さんのつもりでは、巡査の態度も比較的親切であるし、警察の宿直か何かに泊めてくれるのだろうと思って、トコトコついて来たらしいのだ。ところがいよいよ案内された室は、頑丈な鉄格子がはまっているし、内には人相のあまり良くないのがウヨウヨ入っているし、爺さんはたちまち仰天してあばれ出した。

「イヤだよう。牢屋に入るのはイヤだよっ」

 刑事がいくらなだめすかしても、爺さんはがんとして聞かない。手足をばたばたさせてあばれ廻る。留置場というものは、懲罰のためでなく、人身保護のためにもあるものだという刑事の説得も、爺さんには全然通じないもののようだった。とうとう刑事も二人がかりで、爺さんを抱きかかえるようにして、僕らの房に押し入れた。いざ押し込まれて見ると、爺さんはもう観念したものか、あばれるのをやめて、床にへたへたとうずくまった。うずくまったまま僕らには眼もくれず、しきりにブツブツと念仏をとなえている。仁木が含み声で話しかけてもろくに返事もしない。

 それから十分ぐらい経って、爺さんはいきなり鉄格子を摑んでゆすぶりながら、大声でわめき姶めた。今度は便所に行かしてくれと言うのだ。

「便所に行きたいよう。早く便所に行かせてくれえ」

 便所行きの時刻はちゃんときまっているし、言うなりに出してはシメシがつかない。そう刑事は思っているのだろう。知らぬふりをしている。また房から出せばも一度あばれられるかも知れない。そのうれいもあったようだ。刑事が知らぬふりをしているので、爺さんは地団太(じだんだ)踏んで更に声を張り上げた。

「早く出せえ。コラア、警官、出してくれえ、署長に言いつけるぞう」

 あまりわめき立てるので刑事も放っておけず、房の前にやって来た。

「静かにせえ。爺さん。明朝まで辛抱出来んか」

「出来るもんか。早く出せ。行かせないなら、ここでやってしまうぞう」

 刑事が通路にそのままぐずぐず立っていたものだから、爺さんはすっかり腹を立てて、小量ではあったが本当に房の隅に排出してしまった。房内でやられては僕らもたまったものではない。僕らは総立ちとなり、大さわぎとなり、ついに刑事も錠をあけるの止むなきにいたった。爺さんはそれで小走りで便所に走って行ったが、用が済んだあとで刑事から二、三度頭をこづかれたらしかった。しかしこの直接行動のおかげで、爺さんは在房中あと三度か四度、時間外の便所を許可されたと思う。

 この爺さんは便所だけでなく、あらゆる点においてワカラズヤだった。つまり留置場の中の習俗を一切受けつけないというわけだ。飯時になると、こんなポロポロ飯は胃に悪いからおかゆにかえてくれとわめくし、咽喉(のど)が乾いたからお茶を一杯持って来いと叫ぶし、僕らも少からずてこずった。爺さんにして見れば、家出はして来たが、何も悪事を働いたわけではなし、こんな拘束を受けるいわれがないという気特なのだろう。それは勿論そうだが、当時の留置場の常識としては、そんな言い分は通らない。しかし爺さんが自ら信じてこんなワカラズヤをやったのか、あるいは擬態としてそうふるまったのか、僕は今でもよく判らたい。とにかく爺さんは房内でも、特別あつかいと言うか仲間外(はず)れと言うか、そんな待遇を受けていた。坐る場所はもちろん一番奥の座だ。

 一度僕らがタバコの廻し喫みをしている時、爺さんが自分も喫いたいとわめきかけて、房内は大狼狽、あぶなく刑事に感づかれそうになったことがある。もし見付かれば懲罰を受けるから放っておけない。そこで僕は奥の座まで膝行して、爺さんを前にして、含み声で懇々(こんこん)と訓戒をあたえた。二十前後の青二才の僕が六十爺に訓戒をあたえるなんて、今思えば奇怪にして滑稽な話だが、あんな世界に住むとそうなるんだから仕方がない。(だから結論としては、あんな歪んだ世界を世の中に存在させなければいい)

 どんな訓戒を与えたかと言うと、どれほど息子夫婦が仲が良いか知らないが、家出して来るなんて不心得もはなはだしいこと、一旦ここに保護されたら房内のチツジョを乱しては困ること、息子が引取りにくるまでは隠忍自重するのが得策であることなどを、僕はじゅんじゅんとして説き聞かせた。

 すると爺さんはそんな僕に反撥したのか、房内では皆仲良くせよと言うけれども、お前さんたちは私にシラミをうつして迷惑をかけたではないか、というようなことを言い出して来た。そこで僕は、この留置場は近頃建ったばかりだから、よその留置場のようにナンキン虫がいない、それだけでも感謝すべきであること、シラミぐらいは我慢すべきであることなど説明した。実際この留置場にはナンキン虫はいなかった。ナンキン虫というやつは巣をつくり、そして夜な夜な人体をおそう習性を持っている。つまり『通い』なのだ。ところがここは建ったばかりで、ナンキン虫の巣くうような隙間がまだ全然ない。ナンキン虫が出ないのはそのせいだが、シラミの方は、そうは行かない。この虫はナンキン虫と違って『住込み』だから、巣なんか必要としないのだ。常住人体にくっついている。これを根絶させるのは割合に容易で、着ているものを全部脱いで、熱湯で煮れば済む。だけど留置場の中ではそんなことは出来ない。熱湯もないし、第一寒くって真裸なんかになれっこはない。こういうわけで、シラミ族は大いに繁栄し、爺さんのみならず僕もたいそう困っていた。

 しかしこの僕の訓戒も、お爺さんにはあまり効き目がなかったようだ。爺さんは最後までワカラズヤを押し通して、三日目の朝迎えに来た息子に引取られ、いそいそとして出て行った。

 それから一年ほど経った頃、僕はこの爺さんを電車の中で見かけたことがある。偶然僕と向き合って腰掛けていたのだ。僕が認めたと同時に、爺さんも僕を認めたらしい。一時妙な表情をして、視線をさりげなく窓外にうつしたようだった。十徳をかぶり、渋い御隠居という風に眺められた。ただそれだけだった。僕も爺さんに話しかけなかったし、もちろん爺さんも僕に話しかけて来なかった。話しかけて肩をヤアヤアと叩き合うには、僕らは年齢がちがい過ぎていた。もはや僕らは鉄格子の中のワカラズヤ対ダイガクではなかった。裕福な御隠居対貧乏大学生であり、そこに通じ合うものは何もなかったのだ。そして爺さんは顔をそむけたまま、次の駅でそそくさと下車して行った。やはリ僕と出会ったのはあまり愉快なことではなかったのだろうと思う。

[やぶちゃん注:「十徳」「じっとく」であろうが、不詳。大黒天が被っているいるような、還暦の祝いに被る丸頭巾・焙烙(ほうろく)頭巾のようなものか。]

 

 特別あつかいというと、白系露人が二人入って来たことがある。僕らから通路をへだてた向いの第七房だ。どんな容疑で入って来たのか知らないが、二人ともほとんど日本語がしゃべれなかった。外人が入房して来るのは珍しいことらしく、刑事たちもその取扱いに困ったようだった。

 この二人組がワカラズヤと同じく箱弁の食事を拒否した。ワカラズヤの場合は拒否しても通りっこないが、二人は露人だから拒否する根拠がある。こんなのは咽喉に通らないと主張することだって出来るのだ。頑として食べないものだから刑事もすっかり当惑したらしい。

 一体に留置場の刑事は、房内に何か事故があると、その成績に関係するものらしい。だから何時も威嚇的に、時には懐柔的な態度に出て、間違いが起きないようにする。たとえば、喫煙はここでは厳禁されているが、刑事の方から何か褒賞(ほうしょう)の意味でタバコに火を点けて、鉄格子越しに喫(す)わせてくれることも時折あった。もっともこんなことは、人の好い刑事の場合に限っていたが。

 だから露人拒食の件も放っておくわけには行かない。うっかりすると食事を与えなかったということになりかねないのだ。それは房付き刑事の責任なのだから、僕らはどうなるかとその成行きを見守っていた。

「コレ、ダメ。クエナイ。パンヲクレエ」

 と赤毛が拳をにぎり、それを振りながらさけぶ。体も大きいから声も大きい。刑事はしきりにぼやきながら、自分のふところから金を出したのかどうかは知らないが、そこらの店から食パンを買って来た。

 露人たちはそれを受取り、今度は合唱するように、二人してわめき出した。

「スープヲクレエ。スープヲクレエ」

 パンをあてがった以上、スープか何か与えないわけには行かないだろう。だから又もや刑事はぼやきながら飛び出して行って、野菜のたぐいを少々買い集めて来た。控えのところの火鉢に鍋をかけ、それで野菜スープをこしらえるつもりらしい。一時間余りもかけてゴトゴト煮て、どうにかそれらしきものをつくり上げたようだ。もっとも武骨な男手だから、どんな味のものが出来上ったことやら。

 それを丼に入れて持って行ったところが、露人たちはそれを一目見て、ちょっと匂いをかいだだけで、また大声でわめき出した。すっかり腹を減らしたと見えて、わめき声も険を帯びてきた。

「コレ、スープデナイ。ホントノスープヲ、ハヤククレエ!」

 鉄格子に摑(つか)まって地団太を踏んでいる。極端な片言の日本語だから、よく意味がくみとれないが、こんなインチキスープでなく、本物のスープを町で安く売っている、それを買って来てくれ、とわめいているようだった。身振りも手振りもそこに入る[やぶちゃん注:「そこにいる」で「どう見ても、そういうことを意味しているようにしか見受けられない様子である」の意であろう。]。それを眺めていた房内の一人が、やっとそれを了解したらしく、鉄格子の中から刑事に進言した。

「旦那、この連中はワンタンかラーメンを食べたいらしいですぜ」

 そこで刑事の一人がすぐに電話をかけ、やがてワンタン二つが店から届けられて来た。それを見て二人の露人は手を打ち合わせて大よろこびした。

「オオ、スープ。ホントノスープ」

 僕らは遠くからワンタンの湯気を眺め、かすかなコショウの香をかぎ、彼等二人の露人を祝福すると共に、ちょっとうらやましい気にもなった。そしてワンタンやラーメンがほんとのスープであり、いわゆる病人に与えるような野菜ソップはインチキスープであると、非常に役に立つ学問をした。[やぶちゃん注:「野菜ソップ」「ソップ」はオランダ語「sop」。スープの古い呼称。個人ブログ「ラメールアリス 神秘の扉」の『江戸の「野菜ソップ」を再現』に『江戸の町に出回っていたという「野菜ソップ」なるもの』を再現してみたとする記事があり、それは『主に根菜類を入れたスープ』で、牛蒡は『乱切り』にし、ジャガイモ・ニンジンは大きさによって四つか八つに切る』。『それに』蓮根と糸蒟蒻、『大根の葉も入れて』『コトコトと煮る』。『食すときに』、『塩で』、『ちょっと』、『味をつける』。『江戸の町では、地震や火事の後の炊き出し、川に落ちた人や歩き疲れた人などに、講単位で大鍋で作ってふるまったものだそうで、滋養汁とされていた』。『町角でも、「風邪ひきや」と称して売られていたものだとか。風邪をひいたときも、熱々の野菜スープを飲んで』二『日もぐっすり眠れば、たいてい治ってしまったというサプリメントのようなスープ』であったとある。]

 そういう具合にこの露人たちも、留置場の習俗をほとんど受付けなかった。受付けるにも言葉が通じないので、受付けようがないのだ。そのせいかこの露人たちは割に陽気だった。北方民族の強さか、こんな最低の生活も、そう苦にしている気配はなかった。もっとも彼等はある目の昼頃入房してきて、一晩泊り、そして翌朝出房という、ごく短い滞在だったけれども。

 定刻の便所通いは、第一房から順々に出される。最後が女人房の番ということになる。女人房は通路の一番奥にあった。女人房の広さは僕らのと同じらしいのだが、留められているのは、僕がいた間では三人か四人平均で、ゆったりとしていた。僕らの房は多い時は十三、四人も詰められて、夜マグロのように並んで寝ると、もう寝返りも打てなかった。その点女人房はめぐまれていた。

 で、僕らが全部用便が済んで、今度は女人の番となる。女人たちは便所へ行くのに、どうしても男の房の前を通らねばならない。その姿を眺めるのは、僕はそうでもなかったが、他の男たちにとっては愉しみのようなものであったらしい。目を皿のようにして眺めたり、ひそひそとささやき交したり、わざと大きなセキバライをしたりする。彼女らも帯紐のたぐいは没収されているので、着物はだらしなく着くずれていて、それで歩こうとするのだから、ある種の艶(なま)めかしさがあると言えば言えた。

 一人だけ若くて割に美しいのがいた。その女はここでは相当に古株らしく、人気も一番あるようだった。房の前を通る時、彼女は僕らにその横顔だけしか見せないが、それは陶器のようにつめたい感じのする横顔だった。仁木がそっと僕に教えてくれた。

「あれだよ。愛人を毒殺しようとして、失敗した女さ。そら、新聞に出てただろ」

 不幸にして僕はその新聞記事を読んだ記憶はなかった。彼女が通ると、男の房内のざわめきだのささやきだのセキバライなどが、わざとらしく高まってくる。その気配に乗じて先刻の露人の一人が、頓狂な声を立てたので、係りの刑事がすっかり怒ってしまって、控え所から飛び出して来た。

「誰だ。今、へんな声を出した奴は!」

「へえ。こいつです」

 第七房の名主が露人を指差して答えた。露人はキョトンとした顔で刑事を見ている。刑事はいまいましげに舌打ちをした。

「スープじゃわめくし、女を見りゃわめくし、実際やり切れない毛唐(けとう)だな。お前らが何かそそのかしたんだろう」

「へえ御冗談を。そそのかそうたって、言葉が通じませんや」

 刑事がプリプリしていることだけは判るらしく、露人はすこし恐縮の表情だった。刑事はふたたび舌打ちをして、全房の男たちに命令をした。

「みんな格子に背を向けて、壁の方を向け!」

 僕らはその通りにした。これで皆通路は見えなくなる。次の用便の時間のときも、僕らは壁に向わされた。うっかり頭をめぐらせたのを発見された者は、通路に出されてひっぱたかれた。刑事としては、それでシメシをつけたかったのだろうし、それに在房の連中が女に関心を持つことが腹立たしかったのだろう。なんと言っても刑事たちは、在房の僕らを人間以下、自分以下に見たがっていること明瞭だった。下級の刑事というものは、上からの圧力には弱い。ぺこぺこしている。その弱さが僕らに対する時には、逆に強さとして出て来る。必要以上に僕らを蔑視する傾きがある。僕は後年軍隊にひっぱられ、下士官という階級に接した時、やはりその刑事根性と同じようなものを感知した。これはある種の地位に置かれた日本人がおち入る特有の傾向らしい。

 そういう刑事たちの傾向は、男たちに対してだけではなく、女たちにも向けられていたようだ。新しい女が送られてくる。その女から帯紐を取上げたり、身体検査をするのは、控え所の刑事の役目だった。そんな場合にやはり行き過ぎのようなことがしばしば起きる。

「おい。お前らは皆壁を向いてろ!」

 そして僕らの眼を封じておいて、何かをこそこそとやるらしい。年若いきれいな女給が一人入って来た時もそうだった。女給になり立ての、まだ初心(うぶ)らしい女だったが、それに刑事は何かぼそぼそと命令している。会話の内容はよく聞えない。そんなぼそぼその会話が断続して、その揚句、

「まあこれも脱ぐの?」

 思い余ったような、怒ったような女の声がした。僕らは面壁のままだから、彼女が何を脱がされているかは見えないが、もちろん想像はつく。

「勝手なマネをしてやがるな!」

 僕の傍でラジオがそう呟いた。僕も同感だった。そんなことがしばしばあった。それに対して僕は公然と反感を表明することは出来ない。監督者としての刑事の地位は、やはり絶大であったからだ。

 

 我が房の名主仁木某は、その点なかなか要領が良かった。

 仁木は心の中では刑事というやつを、徹底的に軽蔑していた。しばしば僕に語ったように、彼は刑事というものは泥棒以下の存在だと信じていた。

 その癖仁木は、面と向っては実にうまく刑事に取入っていて、いつも可愛がられたり便宜をはかって貰ったりしていた。刑事の気持や感情をよく知っていて、そこでうまくおだてたりするので、刑事たちも暇をもて余すと、第六房の前にやって来る。そして世間話をしかけたり、からかいかけたりする。仁木はこのからかわれ方の実にうまい男だった。からかいに応じて、適当にしょげてみたりすねてみたり、壺にはまった応対をして、刑事の自尊心を満足させてやる。それで刑事もよろこんで、仁木の求めに応じて、タバコを喫ませてくれたりする。そのやり方はタバコに火をつけて、吸い口の方を鉄格子の間から差人れる。タバコ一本をすっかり房内に渡してくれるのではない。刑事の指がタバコの胴中をちゃんとつまんでいて、僕らの方から顔をそこに持って行き、幼児が母親の乳房に対するように吸いつくのだ。

 その配当にあずかるのは、仁木以下三番目か四香目の古手までで、あとはあぶれてしまう。刑事の方で手をひっこめるからだ。

 そして刑事が控え所へ戻って行くと、仁木は何とも憎たらしい顔をして、舌をべろりと出してみたりするのだ。それは刑事に対する嘲りでもあるが、同時にそういうオベンチャラを使った自分への自嘲かも知れなかった。

 仁木は詐欺容疑だった。詐欺の内容がどんなものか、くわしくは僕は知らないけれども、仁木が留置場に入るのはやはり始めてではないらしかった。そして仁木は詐欺行為を他の泥棒や傷害などより、はるかに高級なものだと自任している傾きがあった。まあ詐欺は知能犯に入るから、その自任もある意味では当然と言えるかも知れない。僕が見るところでは、大体累犯(るいはん)者は自分の仕事に自信を持っている気配がある。あのラジオが無銭飲食をスポーッ的に考えているのもその一例だ。やはり僕らの房に強姦未遂者が入って来たが、その男も自分の所業に優越を感じている節が見えた。その男の言を綜合すると、強姦というのは何も物質的な利益はない。それだけに純粋無雑の犯罪だと言う説なのだが、そういう理窟が成り立つかどうか。その間に伍(ご)して僕は僕の犯罪に全然自信がなかった。もっとも婆さん相手の傷害罪など、あまり威張れたものではない。

 今書いたように仁木は、軽蔑すべき刑事に対してもうまくふるまっていたが、同房者に対する態度もなかなか抜け目がなかった。彼は身辺にある種の妖気のようなものを持っていて、それで同房者を威圧するようなところがあった。新しい入房者があるとする、彼は房名主の位置から、じっと新入りを観察している。そしてたちまちその新入りの性格や傾向を見抜いてしまう風だった。仁木の言葉によれば、こんなところに入って来るような奴は、大ざっぱに二つに分類出来るということだった。

「一つは骨のある奴だな、勢い余って悪いことをするやつだ」

 すなわち叛骨(はんこつ)を持った奴、意識的に罪を犯す奴、そんなのが第一の分類に入る。第二の分類はその反対の者。無気力な奴。世間から追いつめられて罪を犯す奴。自主性のない犯罪者。仁木の分類によると、そういうことになるようだった。そして仁木は前者は認めるが、後者は全然認めなかった。鼻もひっかけないという態度をとった。だから房内における地位も、前者はどんどん昇進し、後者はいつまでもウダツが上らないということになる。その点仁木ははっきりしていた。

 この僕も昇進が非常に早かったところを見ると、筋金入りの犯罪者と仁木から認められたのかも知れない。有難いような情ないような気持だった。

 さて、僕が副名主になった頃から、仁木はしきりに僕の釈放を待ちのぞみ始めた。他人の出房を待望するなんて、へんな話だと言えるが、そのからくりは簡単だ。前にも書いたように、仁木は僕の出房に託して、房外との連絡をとりたかったのだ。

「いいかい。小田急線の経堂だよ。豪徳寺という駅の次の駅だ」

 僕はその頃東京に出て一年足らず、足を伸ばしたのもせいぜい新宿どまりで、小田急なんて電車に乗ったこともない。そこで仁木の説明もなかなか骨が折れる風だった。

「経堂という駅で降りる。出口はひとつしかない。そこを出て、今来た方向と逆の方向に道を戻る」

 なにしろ刑事の眼をぬすんでの会話だし、紙もなければ鉛筆もないし、説明に時間がかかる。つまり彼の依頼か命令かを綜合すると、先ず僕は釈放され、その足ですぐ小田急経堂へ行く。そしてその付近の田辺というソバ屋を訪ね、その田辺ソバ屋に働いている富岡という男に会う。それが僕の役割の第一段階らしい。

「その富岡てえのは、俺の仲間だ。年頃も大体俺と同じ位だが、俺より瘦せてて、目がギョロギョロしている。エノケンみたいな顔だと思えばいい。え。そいつは主にソバやウドンの配達をしているんだ」

 そこで僕は客をよそおって、その店に入る。もし富岡がいなければ、ソバでも食べながら待っている。とにかく富岡をつかまえて会う。その会い方も、あまり秘密めかしてこそこそしない方がいい。と言うのは、富岡はその店では不良ではなく、カタギとして雇われているからだ。こんな具合に仁木の注意や指図は、なかなかこまかかった。

「で、富公にだな、俺がここに入っていること、ブタ箱の中で俺に知り合ったということを言う。大体富岡はそのことを知っている筈(はず)だ。そしてだな、俺から富公への頼みとして、すぐに牛込の辰長というところに行って貰う。辰長と言えばすぐにあいつは判るよ。至急に話をつけて呉れって、それだけ言って呉れればいい」

「牛込の辰長に直ちに話をつけろ、それだけ言えばいいんですね」

 僕も声をひそめで、さも熱心そうにそう反問した。実を言うとこの僕が、釈放後直ちに経堂におもむき、ウドン屋[やぶちゃん注:ママ。]の富公に会い、そんな伝達をする、考えてみても全然現実感がなかった。出房すれば、他人ごとどころか、自分の問題が山積しているに違いないのに、何がウドン屋の富公か。しかしここでうわの空の応対をしていては、仁木の怒りを買うおそれがあるのだ。

「そうだ。それだけでいいんだ」

 仁木はそれ以上の内容を僕に打明けなかった。ただそれだけのことを、暇さえあれば僕に復命させ、僕の頭に叩きこむ方法をとった。今思えば、それはずいぶん僕を踏みつけにした話だ。すなわち僕にこの内容をほとんど知らせず、口先だけの使い走りをやらせようとしたわけだ。『ダイガク』の権威もてんで認められなかった勘定となる。

 それから仁木は、僕に何もお礼が出来ないからと言うわけで、手製の小さなワラジを三箇僕に呉れた。これはコヨリでつくった長さ三センチばかりのもので、留置場生活は退屈なものだから、こんなものでもつくって暇をつぶすのだ。もっともこんなワラジをつくるのは、留置場慣れのした奴に限っている。彼等は総じて、僕みたいに暇を持て余してイライラすることなく、どうにかやりくりして充実した一日を送っているようだった。ワラジつくりもその一方法なのだ。

 そんな貴重なワラジであるから、僕もていねいにお礼を述べ、内ポケットのなかに大切にしまい込んだ。しかしこんなものを呉れたから、経堂まで出かける気になったかと言うとそれはまた別問題だ。

 仁木が僕に使い走りをさせる。そのやり方にヒントを得て、実は僕もある出房者に中野の霜多への連絡を頼んだことがある。その男は月給取らしい風態で、泥酔して僕らの房に一晩留置されたのだ。僕はその下心があったので、入房の晩もちゃんと介抱してやったし、翌朝飯も食わずにションボリしているのを、近づいてなぐさめてやったりした。話を聞いてみると、市役所勤務の若い雇員で、係長宅に招かれて酒を飲み、帰りにまた泡盛(あわもり)屋に寄って飲み、それっきりあとは判らないのだと言う。おそらく道端ででもひっくり返っていて、保護のためにここに連れられて来たに違いないのだ。それならば朝の十時までに出房出来るだろうというのが、僕のねらいだった。[やぶちゃん注:「雇員」「こいん」。官庁などで正式の職員としてではなく、雇われて事務などを手伝う者。]

「大丈夫だよ。直ぐ出られますよ」

 雇員があんまりクヨクヨしているので、僕は肩をたたいてなぐさめた。しかし雇員は元気を取戻さなかった。

「ええ。でも、出られても、今日は遅刻になってしまう」

 こんなところに入れられたことより、入れられたことによって役所を遅刻する、そのことの方をクヨクヨしていたのだ。僕は学生だったから、勤め人のそんな神経はとても理解出来なかった。

「ねえ、それで一つ頼みがあるんだけど」

 と刑事の眼をぬすんで、僕は忙しくささやいた。

「中野の霜多という僕の友人のところに行って呉れませんか」

「ハア」

 と雇員はきょとんとした眼で僕を見た。

 僕はそこで、僕の事件を至急解決して欲しいと霜多に伝えて欲しいこと、そして霜多の住所の地図をいそがしく説明した。厘員はかしこまったような表情で、いちいちうなずいていた。それまでの僕の親切に対する感謝や同情の念が雇員のその態度に出ているように思えて、僕の言葉にも自然と力が入った。

「判りましたね。必ず行って呉れますね」

「ハア」と雇員はちらと僕を見てうなずいた。「もし出られたら、今晩にでも行って見ましょう。中野の霜多さんでしたね」

「そうです。是非お願いします。いずれ、お礼は、僕が出てからでも――」

 それから二十分も経たないうちに、雇員は呼び出されて出て行った。出て行く時、僕にむかって目くばせのようなものをした。

 目くばせもしたし、身分が役人だから約束を守るだろうと僕は安心していたが、後で判ったことだが結局この役人は僕との約束をすっぽかしたのだ。判った時は僕ももう出房していたのだから、そう腹も立たなかった。どうも留置場の内での約束なんて、あまりあてにはならないものだ。

 後年僕は軍隊に引っぱられ、苦労の日々の中で、僚友といろんな約束したり申し合わせしたりしたが、復員と同時にそんなことはケロリと忘れてしまった。状況としては同じようなものだろう。極限された状況の中での約束だの誓いだの言うものは、解放されたとたんに効力を失ってしまうものらしい。

 イライラした気持の日がそれから二日つづき、そして三日目の朝、朝食後、刑事が突然房外から僕の名を呼んだ。僕は坐った姿勢からたちまちはね起きた。

「頼んだぞ!」

 仁木の低いささやきを耳にして、僕は背をかがめて扉を出た。いろいろお世話になりました、と言うつもりだったが、外に出ると少し浮足立って、ついに失念してしまった。

 刑事は僕を控え所まで連れて来ると、そこに僕を待たせ、やがて僕の所持品をまとめたものを手にして戻ってきた。これで出房がハッキリした、と僕の胸はおどった。

「いいか。もうこんなところにやって来るんじゃないぞ。判ったな」

「はい、判りました」

 出られるとすれば何でも言うことを聞いてやる。そんな気持で僕は返事をした。所持品をすっかり身につけると、僕は房の方をふり返った。第六房の方は薄暗く、仁木の姿もほとんど認め難かった。

「こっちに来るんだ」

 と刑事が僕の腕を引っぱった。

 刑事に引っぱられて、僕は廊下に出た。廊下を少し歩いて、刑事はそこらの小部屋の扉を押した。その部屋の中に腰かけている霜多の姿が、ちらと目に入ったとたん、どうも僕の頰の筋肉は自ずからぐにゃぐにゃとゆるんだらしい。刑事が僕の肩をぐんとこづいた。

「ニヤニヤするんじゃない。この野郎。出られるかと思って――」

 僕は頰を引きしめようとしたが、やはりうまく行かなかった。刑事は部屋に入ると、霜多にていねいな口をきいた。

「どうも御足労かけましたなあ」

 そして僕の方を見て怒鳴るように言った。

「さっさと入って来るんだ!」

 僕と霜多とは同じ学生なのに、待遇がてんで違う。でもそれもそう気にしないことにした。あと何分かでここから解放される。解放されてしまえば、もうこっちのものだ。

 霜多を前にして、刑事は僕に対して最後の短い訓戒を与えた。短かったけれども、文句があまり月並だったので、僕はすこし退屈をした。すると刑事がまた僕を叱った。

「上の空で聞くな。この野郎!」

 それから刑事は霜多に向って、この僕を引渡すけれども、以後こんな事件を起さないように呉々(くれぐれ)も監視して欲しい、という意味のことを言った。どうも僕がここを出るについて身許保証人が必要で、その役目を霜多が引受けているらしい。僕はいささかシュンとなった。霜多はまったく落着きはらって、微笑さえうかべて刑事と応対している。

 それから十分後、僕らは署の玄関を背にして、大階段をゆるゆると降りていた。

「今日は割にあたたかいようだな」

 と、感慨をこめて僕は言った。空からは日の光がおちていた。冬の陽だったけれども、それは僕に大へん豊富な感じがした。風はなかった。

「さて」階段をすっかり降りて僕は霜多に話しかけた。「とにかく煙草一本呉れ。それからテンプラか何か、油っこいものが食べたいな。あそこの食事はなにしろひどいもんだよ」

 一本の煙草は、三分の一も吸わないのに、目がくらくらした。僕はそれを溝へ投げ捨て、それから何となく肴町の方に向って歩きながら、一週間も僕を放置したことについて、霜多にうらみ言を言った。すると霜多は、心外だという表情で僕を見た。

「そんな呑気な話じゃなかったんだぜ」

 と霜多は僕をきめつけた。

「あとでゆっくり話すけれども、あの婆さんはね、どうしても君を告訴すると頑張ってね、あぶなく君は告訴されかかったんだよ」

「へえ」

「示談にして貰うのに、僕は一週間かけ廻った。やっと五拾円という金をつくって、婆さんに渡したんだ。これで勘弁してやって呉れってね」

「五拾円?」

 と僕は目を剝(む)いた。そして次の瞬間、全身から力が抜け切ったような虚脱感が来た。娑婆に出たのは嬉しかったが、出たとたんに物すごく荒い風が吹きつけて来る。あとは黙って歩いた。

 そして僕らが入ったのは、肴町のテンプラ屋だった。あのラジオが無銭飲食をしたという店だ。天丼を二つ注文して、それが運ばれるのを待つ間に、戸外がにわかに暗くなって、サアッと通り雨が路上を走った。切実な話題を避けるために、僕は霜多にラジオという男の話をした。もちろん店の人に聞えないように。低い含み声でだ。霜多はあまり興味なさそうにそれを聞いていた。そして僕が話しながら、しきりに肩を動かしたり腕を動かしたりするものだから、ついに彼は口を開いた。

「しきりに動くようだが、シラミでもいるんじゃないかね?」

 天丼は旨かった。この世にこんな旨いものがあるかと思われるほど旨かった。僕は最後の一粒もあまさず、むさぼり食べた。

 二人前六十銭を支払って、のれんをくぐって表に出た時、霜多が小さな声で叫んだ。

「虹が!」

 僕も空を見た。西の方の空に、冬にはめずらしい大きな虹がいっぱいに出ていた。それは見たこともないような大きな虹だった。大きなアーチをつくって、その裾の方は七彩のまま頽れかかっていた。僕はのれんを摑んだまま、しばらくその色に目を凝らしていた。そして意識的に感傷におもむこうとしていたようだった。

 

[やぶちゃん注:さても最後に種明かしをする。底本全集の別巻の年譜によれば、昭和十一年の条の末尾に、梅崎春生は昭和十二(一九三七)年(時期不明)に、『幻聴による被害妄想から下宿の老婆をなぐり』、『一週間留置された』とある。より詳しい年譜が載る、所持する中井正義(まさよし)著「梅崎春生――「桜島」から「幻化」への道程」(昭和六一(一九八六)年沖積舎刊)の年譜でも、同じく昭和十一年の条の末尾に『自分で勝手に留年延長した一年を含めて大学での四年間は、何となく教室に出そびれて、試験日のほかは講義に一日も出席しなかった。例の怠け癖のせいであるが多少鬱病気味でもあったらしい。十二年になると、幻聴による被害妄想から、下宿の雇い婆さんを椅子でなぐりつけて負傷させ、留置場に一週間ほどぶちこまれたりもしている』とあって、時期は特定出来ない。先の全集別巻に所収されている親友松本文雄(熊本第五高等学校の同期生らしい。個人ブログ「五高の歴史・落穂拾い」の「かざしの園」という記事に「続龍南雑誌小史」(昭和九(一九三四)年度二百二十七号より二百二十九号)という本が示されており、その編集委員に『松本文雄、北野裕一郎、梅崎春生、柴田四郎、島田家弘』とある。春生は五高には昭和七年四月入学である。「昭和二〇(一九四五)年 梅崎春生日記」にも氏名が出る)の「旧友梅崎春生」(初出は昭和四一(一九六六)年十二月新潮社刊「梅崎春生全集②」月報)の一節に、

   《引用開始》

 昭和十一年か十二年、つまり、彼の大学一年か二年の九月、夏休みあけで上京した私は、梅崎拘留事件なるものを知った。どこかで酔っぱらって、夜おそく下宿に帰った彼は、ささいなことから、下宿の婆やと口論めいたことをはじめた。そして、その婆やが、何かのはずみで敷居に転び、かるい怪我をしたそうである。興奮した婆やは、医師の診断書をとり、それを証拠に、梅崎君を訴えたので、彼は、本富士警察署[やぶちゃん注:ママ。]の留置場に入ることになった。友人の一人が、勇をふるって貰い下げに行くと、全治五日間の診断書の処置に困っていた警察は、待っていましたとばかりに即時釈放。こんなことがあって、下宿も気まずくなり直ぐに引っこすものと思っていたら、一向にその気配がなく、はたの者がやきもきしていると、彼は、「俗人には判らぬ深謀遠慮でね」とにやにや笑う。もう一度、婆さんと喧嘩して、心頭に発するまで怒らせ、今度は、梅崎君の方で傷をうけ、そのあとは、診断書、婆さんの留置所入りというコースで復讐するのだそうだ。計画どおり旨く問屋がおろすかなと、半信半疑だったが、案の定、なかなか機会がなく、ついにくたびれて転居したけれど、この拘留生活には弱ったらしい。とは言え、お互に本名を呼ぶもののないこの社会では、この作家の卵も例外でなく、牢名主みたいな男から、テイダイ(帝大)という尊称を賜り、またとない見聞をした訳である。「寄港地」の時代のことであった。

   《引用終了》

というのが、私の縦覧したものでは、情報が多く書かれている一つかと思われる(最後の部分は多分に本篇に基づく記載であると思われる)。また、動別巻には、やはり五高時代の同級生で親友の、本篇の登場人物である「僕」の友人「霜多」のモデルである小説家霜多正次(しもたせいじ 大正二(一九一三)年~二〇〇三年:沖縄県国頭郡今帰仁村生まれ)が書いた「学生時代の梅崎春生」(初出は松本文雄のそれと同じ)が載るが、その一節に(最初に言っておくが、この事件には触れていない)、

   《引用開始》

 梅崎は京大の経済学部にいくつもりだといっていたが、私は、東京にこないかと彼にたびたびすすめた。東京で雑誌を出す計画がすすんでいて、ぜひ梅崎にも加わってもらいたかったからである。

 梅崎は東京にくることになり、どの科がいちばんラクかといってきたので、私は国文科がいいだろうといい、彼は昭和十一年に東大の国文科に入った。そしてさっそく「寄港地」という同人雑誌をはじめ、彼はそれに「地図」[やぶちゃん注:私は既にPDF縦書版を公開している。]を書いた。それは、それまで詩ばかり書いていた彼のさいしょの小説だった。

 大学でも、彼は教室にはぜんぜん顔を出さなかった。昭和十五年に卒業するまでの四年間、ただの一回も講義には出なかった。

 昭和十四年に書いた「風宴」[やぶちゃん注:「青空文庫」のこちらで読める。]という小説に、そのころの彼の生活がかなりくわしく描かれている。「どのみち退屈を食ってしか生きられぬ男」の頽廃の根をさぐろうとした作品であった。

 そのころ、梅崎は毎日のように私の下宿にやってきて、私をどこかへ誘い出した。それはたいてい映画か、喫茶店か、浅草のオベラ館か、あるいは不忍ノ池の附近をぶらついて暇をつぶし、やがて酒になる、という生活だった。朝の十一時ごろ起きて下宿屋の朝食?を食っていると、いつも決ったように梅崎がひょろひょろと蒼白い顔して私の部屋に入ってきた。そしてきょうはどうして一日をすごそうかという顔で、黙って坐るのだった。私はうるさいと思うこともあったが、けっきょく彼といっしょに、そのときの懐具合に応じて、どこかへ出かけた。

 彼がやってこないときは、私が彼の下宿に出かけていったが、そういうとき、彼はいつもフトンにもぐったまま額にタオルをのせて本を読んでいた。彼は寝るとき必ず病人のように額にタオル(ぬれたのでなく、乾いたの)をのせる習癖があった。そうしないと感覚が不安定になるのだといっていた。

 そういうふしだらな学生生活を私たちが送っていたのには、もちろん梅崎と私とでは、それぞれ個人的にも理由がちがっていたと思う。しかし共通して、当時私たちにそのような生活を強いる客観的な時代の雰囲気というものもあったと思う。

 たとえば、梅崎は「風宴」で、「本郷通りの並木の蔭に街燈が灯った。相変らず白痴のような表情した帝大の学生や、小癪な面構えをした洋装の小娘が、私に逆うようにして通り過ぎる。」と書いているが、当時私たちにとって、自分たちの同僚であるはずの「帝大生」は、やがて権力の座につくことを自負している「白痴のような」俗物にすぎなかった。

 こういう感覚は、たとえば芥川や久米、菊池などの時代まではなかったものだといっていいだろう。昭和のはじめプロレタリア文学運動がおこったころから、たとえば梶井基次郎などにそれがあらわれ、そして私たちの学生時代には、太宰治や高見順などによって、それは文学青年のあいだにほぼ支配的な感覚となっていた。

 そのうえ、二・二六事件から「支那事変」へと、時代はますます暗くなるばかりであった。そういういわば「暗い谷間」でのどこにも情熱のはけ口のない鬱屈した青春を、梅崎は「風宴」で定着したのである。

   《引用終了》

とあるのは非常に参考になろう。

 なお、この公開後、直ちに、前篇に当たる「その夜のこと」と本篇を合わせた縦書PDF版を作成して公開する予定である。]

2021/03/20

ブログ・カテゴリ「和漢才図会抄」始動 /「和漢三才圖會」巻第六十「玉石類」「珊瑚」

 

[やぶちゃん注:私は既に江戸前・中期の医師寺島良安(承応三(一六五四)年~?:生まれは出羽能代(一説に大坂高津とも)生まれの商人の子とされる。後に大坂に移って、伊藤良立・和気仲安の門人となり、医学・本草学を学んだ。後にこの業績が評価され、大坂城入りの医師となり、法橋に叙せられた。この間、明代の医学の影響を受けた著書を多く刊行した。その最晩年の事蹟は不明であるが、享保(一七一六年~一七三六年)の頃に没したとされる)の主著である正徳二(一七一二)年に刊行した類書(百科事典)「和漢三才圖會」(「和」は「倭」とも表記する。全三百巻から成り、明の類書「三才圖會」(明の一六〇九年に刊行された王圻(おうき)とその次男王思義によって編纂された。全百六巻)の分類・構成を参考にして執筆された本邦初の絵入り百科事典である。但し、本草部は、概ね、明の李時珍の「本草綱目」を基礎記載を用いている。本文は漢文体であるが、丁寧に訓点が打たれてある。私は本書を偏愛しており、サイトで「和漢三才圖會」の水族(海藻・海草・淡水藻の他に菌類・菌蕈類・蘚苔類・地衣類・シダ類等を含む)の部全七巻、

卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類

卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類

卷第四十七 介貝部

卷第四十八 魚類 河湖有鱗魚

卷第四十九 魚類 江海有鱗魚

卷第五十  魚類 河湖無鱗魚

卷第五十一 魚類 江海無鱗魚

及び、

卷第九十七 水草部 藻類 苔類

を、以下、一部を除いてブログで動物部の、

卷第三十七 畜類

卷第三十八 獸類

巻第三十九 鼠類

卷第四十  寓類 恠類(これはサイト版)

卷第四十一から巻第四十四 禽部

卷第五十二から巻第五十四 蟲部

を、実に十二年半かけてオリジナル電子化訓読注をし終えている。しかし、いろいろな電子化注をする中で、これは必要と思われるものを注の中で電子化することも多く、また、注が長くなるために、それを見送るケースもたまにあった。そこで、そうした部分電子化(巻ごと全部ではなく)を、独立して、気軽に電子化するために、ブログ・カテゴリ「和漢三才図会抄」を始動することにした。

 本文テキストの底本は一九九八年刊の大空社版CD-ROM「和漢三才図会」を用いた。但し、本文中に用いた各項目の画像データは、当該底本に発行者による著作権主張表記があるので、平凡社一九八七年刊の東洋文庫訳注版「和漢三才図会」が所載している美麗な画像を取り込んだものを用いている(一部の汚損等に私の画像補正を行っている)。なお、これについては文化庁の著作権のQ&A等により、保護期間の過ぎた絵画作品の複製と見做され(特に新たに描画したという記載は当該本にはない)、著作権は認められないと判断するものである(これに従えば、大空社版CD-ROM「和漢三才図会」もそれに相当するから、実際には使用して問題はないが、汚損のない「東洋文庫」版を用いることとする。言っておくと、私は一度も大空社版の画像を使ったことはない)。

 最初に訓点を除去した本文を示し(改行も一致させる。判読出来ない場合は、国立国会図書館デジタルコレクションの明三五(一九〇二)年中外出版社刊で校合した。正字か略字か判断に迷った場合は正字とした。二行目以降の一字字下げは無視した)、次にそれを書き下したものを後に載せ、最後に語注を附す。訓読文では、読みは、良安の振ったものは( )で示し、一部の難読と思われる箇所を〔( )〕で添え、本文の不全と判断した箇所には〔 〕で私が添えた字を示した。但し、送り仮名等は以上の電子化で良安の癖を十全に理解しているため、かなり自由に添えてある。ネット上には幾らでも原本画像があるので、そちらと対照されたい。

 まずは、水族の補填のための「和漢三才圖會」巻第六十「玉石類」の「珊瑚」から始める。]

 

Sango

 

さごじゆ   鉢擺娑福羅【梵書】

珊瑚【山乎】

サンフウ

Saogotenn

[やぶちゃん注:古い字体で表現出来ないので、「東洋文庫」から画像でトリミングした。]

本綱珊瑚生南海又從波斯國及師子國來生海底五七

株成林作枝柯狀居水中直而軟也見風日則曲而硬變

紅色者爲上中多有孔亦有無孔者枝柯多者更難得亦

有黑色者取之人乘大舶堕鐵綱於水底先人没水以鐡

發其根繫綱于舶上絞而出之失時不取則腐蠹但生於

海者爲珊瑚生於山者爲琅玕

珊瑚【甘平】去目翳消宿血爲末吹鼻止鼻衂今人用爲㸃眼

筯【俗云眼棒】治目翳

△按珊瑚淺紅色鮮明者稱阿媽港之產上也深赤者號

血玉下品也共大者希大抵作佩幐緖鎭玉其重一二

錢目至三四錢目者最奇也凡中齒試之眞者音鏗鏘

僞者音如柔今以鯨牙齒作玉形用紅花汁煮之熟時

入梅醋少許則色染入鮮明又以鹿角作玉用紅花汁

染成者僞之僞也

青珊瑚 枝柯不異珊瑚而正青色是疑琅玕矣

猩猩石 南京玉也紅色似珊瑚而肌理濃

 

○やぶちゃんの書き下し文

さごじゆ   鉢擺娑福羅(ハヒシヤフラ)【梵書。】

珊瑚【〔音〕「山乎〔(さんご)〕」。】

サンフウ

「本綱」に、『珊瑚、南海に生ず。又、波斯(ハルシヤ)國及び師子〔(シシ)〕國より來たる。海底に生じて、五、七株、林を成し、枝柯〔(しか)〕の狀〔(かたち)〕を作〔(な)〕す。水中に居るときは、直(すぐ)にして軟(やはら)かなり。風・日を見るときは、則ち、曲(まが)りて、硬(かた)し。紅色に變ずる者を、上と爲す。中に、多く、孔〔(あな)〕有り。亦、孔、無き者〔も〕有り。枝柯多き者、更に得難し。亦、黑色なる者、有り。之れを取るに、人、大舶〔(おほぶね)〕に乘り、鐵の綱を水底に堕(をろ)し、先づ、人、水に没して、鐡を以つて、其の根を發(をこ)し、綱を舶の上に繫(つな)ぎ、絞(しぼ)りて之れを出だす。時を失して、取らざるときは、則ち、腐(くち)て蠹(むしく)う[やぶちゃん注:ママ。]。但し、海に生ずる者を珊瑚と爲し、山に生ずる者を琅玕〔(らうかん)〕と爲す。』と。

珊瑚【甘、平。】 目の翳(かゝりもの)を去り、宿血を消す。末と爲して、鼻に吹けば、鼻衂〔(はなぢ)〕を止む。今人、用ひて、眼に㸃ずる筯(はし)と爲す【俗に云ふ、「眼棒」。】。目の翳を治す。

△按ずるに、珊瑚は、淺紅色の鮮明(あざや)かなる者を「阿媽港(アマカワ)の產」と稱し、上なり。深赤なる者、「血玉」と號〔(なづ)け〕、下品なり。共に、大なる者、希れにして、大抵、佩幐(きんちやく)〔の〕緖鎭玉(をじめ〔だま〕)に作る。其の重さ、一、二錢目より、三、四錢目に至る者、最も奇なり。凡そ、齒に中〔(あ)〕てて、之れを試むるに、眞なる者は、音、鏗-鏘(さやか)なり。僞れる者は、音、柔(やはら)かなるがごとし。今、鯨の牙齒を以つて、玉の形に作り、紅(べに)の花〔の〕汁を用ひて、之れを煮、熟する時、梅醋を少し許り入るるときは、則ち、色、染-入(しみこ)みて、鮮明なり。又、鹿角を以つて玉に作り、紅花汁を用ひて染め成す者は、僞(にせ)の僞(いつはり)なり。

青(せい)珊瑚 枝柯、珊瑚に異ならずして、正青色。是れ、疑ふらくは「琅玕〔(らうかん)〕」ならん。

猩猩石(しやうじやうせき) 南京玉なり。紅色。珊瑚に似て、肌理〔(きめ)〕、濃(こまや)かなり。

 

[やぶちゃん注:サンゴ類。刺胞動物門 Cnidaria 花虫綱 Anthozoa の内で、有意な石灰質の骨格を形成する種類の総称。現生種は、

花虫綱八方サンゴ亜綱ヤギ目サンゴ科 Coralliidae

及び、

花虫綱六放サンゴ亜綱 Hexacoralli

に含まれるものが殆んどである。詳しくは昨日公開した『「大和本草卷之三」の「金玉土石」類より「珊瑚」 (刺胞動物門花虫綱 Anthozoa の内の固い骨格を発達させるサンゴ類)』の私の注を参照されたい。以下、色違いの珊瑚が出るが、特に種同定はしない。悪しからず。

「さごじゆ」ママ。

「鉢擺娑福羅(ハヒシヤフラ)【梵書。】」「本草綱目」の巻八の「金石之一」の「珊瑚」の「釋名」に「鉢擺娑福羅【梵書。】」と出る。古代サンスクリットの漢音写。

「サンフウ」「珊瑚」は現代中国音で「shān hú」(シァン・フゥー)。

「波斯(ハルシヤ)國」ペルシャ。

「師子〔(シシ)〕國」旧セイロン、現在のスリランカ。

「枝柯」本来は「木の枝」の意。「柯」は「枝」に同じか、或いは「枝」よりも太いものを言うように思われる。

「風・日を見るときは」風波や太陽光の影響を受ける浅い海中に生ずる時は。

「綱」一貫して「綱」と記すが、太い鉄製の索繩に、細かな鉄の網を附けたものの謂いととっておく。

「琅玕」これは引用された「本草綱目」の「珊瑚」の前に示されてある。『「大和本草卷之三」の「金玉土石」類より「珊瑚」 (刺胞動物門花虫綱 Anthozoa の内の固い骨格を発達させるサンゴ類)』の注で書いたが、「大和本草」では、この「珊瑚」の後に「靑琅玕」として条立てしており、その「大和本草」の「靑琅玕」では、漢籍でも、その起原を海産と主張する者、陸産(陸地或いは山中から出土)する者の意見の錯綜が記されてあり、珊瑚由来とする説もあって、益軒も困って、陸・海ともに産するのが妥当であろうと終わっている。しかし、現在、少なくとも、本邦では「翡翠石」(ヒスイ)の最上質のもの、或いは「トルコ石」又は「鍾乳状孔雀石」或いは青色の樹枝状を呈した「玉滴石」と比定するのが妥当と考えられている(個人サイト「鉱物たちの庭」の「ひすいの話6-20世紀以降の商名と商流情報メモ」に拠った)から、私はそこでは珊瑚との関係性を認めないこととした。但し、「靑琅玕」の中には、日中ともに珊瑚が一部で含まれていた可能性は極めて高いとは思われ、実は「和漢三才図会」でも、まさにこの「珊瑚」の次に「琅玕」が載り、その挿絵は殆んど珊瑚なのだが、やはり良安もこちらは山中に産するものであるとしている。

「目の翳(かゝりもの)」白内障・緑内障・視野狭窄などを指すが、これは多分に鮮やかな色彩からの類感呪術的な処方と考えられる。

「宿血」体内に残留して種々の悪さを働く古い血の謂いであろう。

「末」粉末。

「筯(はし)」『俗に云ふ、「眼棒」』。ごく細い棒状に削って、それに珊瑚の粉末を附け、眼球に点眼するということであろうか。

「阿媽港(アマカワ)」マカオ。

「佩幐(きんちやく)〔の〕緖鎭玉(をじめ〔だま〕)」「佩幐」(おびぶくろ)は古代の旅行具で、保存食の乾飯(糒(ほしいい))などを入れて、腰に附けるように作った携帯用の袋を指す。ここはその口の止め具に珊瑚を飾ったものででもあろう。ファッションというよりも、一種の緊急糧物への邪気除けとしてであると私には思われる。

「一」「錢」は重量単位。一千匁が一銭。明治になって 一貫と同じで正確に三・七五キログラムに定義されたが、良安の謂いも、それと同じとは私には思われない。「東洋文庫」は同グラム数で示してある。

「青(せい)珊瑚 枝柯、珊瑚に異ならずして、正青色。是れ、疑ふらくは「琅玕〔(らうかん)〕」ならん」先の非海産物の出土宝石とするなら、それを珊瑚に似せて加工したものであろう。

「猩猩石(しやうじやうせき)」「南京玉」人工的に赤色に染色した陶製及びガラス製(こちらは「蜻蛉(とんぼ)玉」(トンボの複眼に喩えた)とも呼ぶ)の小さいビーズ(beads)のことであろう。]

大和本草卷之十六 海獺(あしか/うみをそ) (絶滅種ニホンアシカ)

 

海獺 海中ニアル獸ナリ和名アシカ又ウミヲソ本艸

綱目載タリ獺ノ形ニ似テ大也長四五尺體ハ長サニ比

スレハ小ナリ獺ノ形ニ似テ長シ頭モ如水獺遍身毛

アリ腹ニモ毛アリ毛ノ長三分許口小トガル齒ハ如犬

牙耳甚小ナリヒゲアリアラシ腹ニハ足ナシヒレ二アリ

テ廣ク長クウラニ皮アリ足ノ如ナリ尾ニモヒレアリ岐

アリテ兩ニワカル腹ノヒレヨリ廣ク爪各五アリ爪アル

所ノ先指ノ如クニワカルサキ小ク薄シ足ニハアラス是

モウラニ皮アリ岐ノ中間ヨリハ短シ獸ノ尾ノ如シ尾ノ

ヒレハ水カキナリ足ノ如シ海中ニテ立テハ半身ハ水上

ニアラハル身ハ水獺ノ如ク柔ニ乄囘旋スルコト自由ナ

リ海邊陸地ニ上リテ𪾶臥ス海人コレヲトル本艸ニ其性

ヲノセス大抵水獺ト性同カルヘシ

○やぶちゃんの書き下し文

海獺(あしか/うみをそ[やぶちゃん注:右ルビ/左ルビ]) 海中にある獸なり。和名「あしか」、又、「うみをそ」。「本艸綱目」に載せたり。獺〔(かはをそ)〕の形に似て、大なり。長さ、四、五尺。體は、長さに比すれば、小なり。獺の形に似て、長し。頭も水獺〔(かはをそ)〕のごとく、遍身、毛あり。腹にも、毛あり。毛の長さ三分許り。口、小し、とがる。齒は犬の牙〔(きば)〕のごとし。耳、甚だ小なり。「ひげ」あり、あらし[やぶちゃん注:「粗(あら)し」。疎らであることを言っていよう。]。腹には、足、なし。「ひれ」、二つ、ありて、廣く長く、うらに、皮、あり。足のごとくなり。尾にも、「ひれ」あり。岐(また)ありて、兩〔(ふたつ)〕にわかる。腹の「ひれ」より、廣く、爪、各〔(おのおの)〕五つあり。爪ある所の先(さき)、指のごとくに、わかる。さき、小さく、薄し。足には、あらず。是も、うらに、皮あり。岐(また)の中間よりは、短し。獸の尾のごとし。尾の「ひれ」は「水かき」なり。足のごとし。海中にて立てば、半身は水上にあらはる。身は水獺〔(かはをそ)〕のごとく、柔らかにして、囘旋すること、自由なり。海邊〔の〕陸地に上〔(のぼ)〕りて、𪾶臥〔(すいぐわ)〕す。海人、これを、とる。「本艸」に其の性〔(しやう)〕をのせず。大抵、水獺と性、同じやるべし。

[やぶちゃん注:これは確実に「大和本草卷之十六 海驢 (トド 或いは 絶滅種ニホンアシカ)」で同定候補として出した、既にヒトが絶滅させてしまった、

哺乳綱食肉(ネコ)目イヌ亜目鰭脚下目アシカ科アシカ亜科ニホンアシカ Zalophus japonicus

で完全同定される。ダブるのは何ら問題ない。何故なら、先のそれは漢籍から引用して、益軒が勝手に別立てして机上で考証したものに過ぎないからである。また、場所的に問題はあるが、トドも別候補として出してある。

 当該ウィキから引く。『北はカムチャツカ半島南部から、南は宮崎県大淀川河口にかけて』、『北海道・本州・四国・九州の沿岸域、伊豆諸島、久六島・西ノ島・竹島などの日本海の島嶼、千島列島、南樺太、大韓民国(鬱陵島)などに分布していた』。『さらに、古い朝鮮半島上の記録によると、渤海と黄海から東岸を含む広範囲に見られたとされる』(★☜★これは実は「大和本草卷之十六 海驢 (トド 或いは 絶滅種ニホンアシカ)」で私がニホンアシカ同定の有力な証拠の一つとしたものである)。『繁殖地は恩馳島・久六島・式根島・竹島で確認例があり、犬吠埼・藺灘波島・大野原島・七ツ島でも繁殖していたと推定されている』。『太平洋側では九州沿岸から北海道、千島、カムチャツカ半島まで、日本海側では朝鮮半島沿岸から南樺太が生息域。日本沿岸や周辺の島々で繁殖、特に青森県久六島、伊豆諸島各地(新島』『、鵜渡根島周辺、恩馳島、神津島)、庄内平野沿岸』、『アシカ島(東京湾)、伊良湖岬、大淀川河口(日向灘)なども生息地であった。三浦半島、伊豆半島(伊東、戸田・井田)、御前崎等にも、かつての棲息を思わせるような地名が残っている』。『縄文時代以降の北海道・本州・四国の遺跡で骨が発見されていることから、近年までは日本全国の沿岸部に分布していたと考えられている』。体長は♂で平均二・四メートル、♀で推定一・八メートル、体重は♂で平均四百九十四キログラム、メスで推定百二十キログラム。でアシカ属では最大種であった。アシカ属カリフォルニアアシカ Zalophus californianus と比較すると、体長で十%、体重で約三十%以上は大型であった。一方で、『外部形態や体色での判別は困難とされ』、『上顎の頬歯が』一『本ずつ多い傾向があ』ったという。♂は『全身が暗褐色で、頭頂部が隆起し』、『体毛が白化する』が、♀は『灰褐色で』、『背筋は暗灰色』であった。『カリフォルニアアシカの亜種とされることもあった』が、1950年に『奥尻島で発掘された頭骨を用いた比較から、大型であることや歯列から』一九八五年に『独立種とする説が提唱されている』。『遺跡から発掘された四肢の骨のDNAの分子系統解析から、カリフォルニアアシカとは』二百二十万年前に『分岐したと推定されている』。沿岸から二十『キロメートル以内の沿岸域に生息していた』。『竹島繁殖個体群は繁殖後に回遊』(同島個体群は韓国の竹島占有によって絶滅した)、『もしくは季節移動を行っていたと考えられている』。『同所的に分布するキタオットセイやトドと比較すると、大規模な回遊は行わない』。『ハダカイワシなどの魚類、ホタルイカなどの頭足類を食べていたと考えられて』おり、『死因として』は『天敵のシャチやサメ類、病原としてはフィラリア症、皮膚病、腸内寄生虫が挙げられている』。『婚姻様式は一夫多妻』で、五~六月に『交尾を行い、竹島では』四~五月に『集合し』、七~八月に『離散していた』。一回に一頭の『幼獣を産』んだ『と考えられている』。『生息環境として岩礁や海蝕洞があり』、『繁殖活動は繁殖期に限られた繁殖場でのみ行う特性であった』。『別名としてアジカ・アシカイオ・ウミオソ・ウミヨウジ・ウミカブロ・クロアシカ・トド・トトノミチ・ミチなどがある』。『小野蘭山の「本草綱目啓蒙」などから』は、『日本海側では本種がトドと呼称されていた可能性もある』(★☜★これも「大和本草卷之十六 海驢 (トド 或いは 絶滅種ニホンアシカ)」で私がニホンアシカ同定の有力な証拠の一つとしたものである)。『日本近海では』百六ヶ所のアシカ(三十五ヶ所)・トド(七十一ヶ所)の『名のつく地点が存在する、あるいは過去に存在していた』が、これらの『アシカとつく地点は銚子市以南日南市以北の太平洋岸および瀬戸内海、トドとつく地点は北海道岸・大船渡市以北の太平洋岸・島根県までの日本海岸に分かれる』。『トドとつく地点に関しては種トドの繁殖地と異なる地域(トドの繁殖地は北海道以北)が含まれること、日本海側で本種がトドと呼称されることもあったことから、本種が由来となっている可能性もある』(★☜★同前)。一九九一年の「環境庁レッドデータブック」で「絶滅種」と『判定された』。『これに対し』、二〇〇八年の時点では一九七四年の捕獲例など、五十年以内の生存報告例(「環境庁レッドデータブック」では過去五十年以上の信頼出来る生息情報がないものを「絶滅種」と評価する)が『あることから、絶滅種には該当しないとする反論もある』。『最後の生体発見例(後述)がある礼文島においても狩猟が盛んであった』。『江戸時代に執筆された』「和漢三才図会」には、『肉は食用には適さず、油を煎り取っていただけであると記されている』(私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 海獺(うみうそ) (アシカ類・ニホンアシカ)」を参照のこと)。『油脂は身を煮沸して抽出し、そのまま使用する以外にも石鹸や膠などの原料にも用いられた』。二十『世紀に入ってからは、必要部位を取り除いた後に残った肉と骨は肥料として販売され』、『昭和初期にはサーカス用途にも捕獲されていた』。『江戸時代に書かれた複数の文献においてニホンアシカに関する内容が記述されている』。シーボルトの「日本動物誌」には、『ニホンアシカのメスの亜成獣が描かれている。「相模灘海魚部」(彦根城博物館所蔵)にも、不正確ではあるが』、『ニホンアシカが描かれている』。二十『世紀初頭における生息数は』三万 から五万『頭と推定されている』。『江戸時代までは禁猟であった』。『例として紀伊藩では初代藩主徳川頼宣により禁令が出され、回遊期の狩猟およびアシカ島への上陸・衣奈八幡宮司である上山家を監視役に命じ』、『報告書の提出を義務付けるなどの対策を行っていた』。『高崎藩では藩主により』、『銚子での捕獲が禁止され、仮に捕獲する場合は』、『年に』一『回』のみ、『冥加金を』払った『漁師』一『人のみを許可していた』。しかし、『明治時代の政治的な混乱により、捕獲や駆除が野放しとなった』。『明治新政府により』、『捕獲が禁止されたり』、『保護策が江戸時代から受け継がれたところもあるものの、徹底はされなかった』。明治一二(一八七九)年に『神奈川県三浦市南下浦町松輪の海岸で捕獲されたメスのニホンアシカを描いた正確な絵図が』「博物館写生」(東京国立博物館蔵)に『残されている。少なくとも』一九〇〇『年代までは日本各地に生息していた。しかし』、十九世紀末から二十『世紀初頭にかけて、多くの生息地で漁獲や駆除が行われ、明治』四十『年代には銚子以南から伊豆半島の地域でみられなくなり、同時期の』明治四二(一九〇九)年の『記録では東京湾沿岸からも姿を消し、記録がある相模湾、三河湾周辺の篠島・伊良湖岬』、『瀬戸内海の鳴門海峡』『などの日本各地に生息していた個体群も』二十『世紀初頭には次々と絶滅に追いやられ、その棲息域は竹島などの一部地域に狭められていった』。『竹島周辺のアシカ漁は』、一九〇〇『年代初頭から本格的に行われるようになった。乱獲が懸念されたため、明治三八(一九〇五)年二月に『同島の所属を島根県に決定、同年』四『月に同県が規則を改定してアシカ漁を許可漁業に変更、行政が許可書獲得者に対し』て『指導して、同年』六『月には』、『共同で漁を行うための企業「竹島漁猟合資会社」が設立されて組織的な漁が始まり』、『同年』八『月には当時の島根県知事である松永武吉と数人の県職員が島に渡り、漁民から譲り受けたニホンアシカ』三『頭を生きたまま連れて帰り、県庁の池で飼育していたがまもなく死亡し』、『剥製』『にした、と山陰新聞(当時)が同年』八月に伝えている。『アシカ漁では平均して年に』千三百~二千『頭が獲られた』。一九〇四年から一九一一年までの約八年間で実に一万四千頭も『捕獲され』。『明治』・『大正年間の乱獲によって個体数・捕獲数共に減少していった』。『昭和初期には見世物として使用するため興行主(木下サーカス・矢野サーカスなど)から生きたままのニホンアシカを求める依頼が増えたが』。既にただそれだけの『需要に応える量を確保することが』最早『難しい状況になっており』、昭和一〇(一九三五)年頃には、年間捕獲数は二十~五十『頭まで落ち込んでしまった。捕獲量が最盛期のおよそ』四十分の一にまで『激減したことや、太平洋戦争勃発の影響で、戦中』の『アシカ漁は停止された』。『第二次世界大戦以降は』一九五一『年に竹島で』五十 ~六十『頭が確認されている』。一九五〇『年代以降の生息報告は礼文島沖・青森県久六島・島根県西ノ島・竹島・千島列島捨子古丹島・カムチャッカ半島南部に限定される』『ソ連実効支配地域でも』一九四九『年に南樺太の海馬島(モネロン島)での捕獲例』。一九六二『年に捨子古丹島での目撃例』、一九六七『年にカムチャッカ半島での死骸の発見例がある』。一九七〇『年代以降では』、一九七四『年に礼文島沖で本種と思われる鰭脚類の幼獣の捕獲例(下毛がなくキタオットセイとは明確に異なり、トドよりも小型で繁殖期が異なる)があるが』、『捕獲後』、『飼育されていたものの』二十『日後に死亡している』。一九七五『年に竹島で』二『頭の目撃例があったのを最後に、本種の生息は報告されていない』。『生息状況の確認が古文献や聞き取り調査に限られること、生息数減少の経緯が不明なことから、生息数減少の原因を究明することはほぼ不可能と考えられている』ものの、『可能性のある主因として生息環境の変化・捕獲圧が原因と考えられている』。『毛皮・剥製目的の乱獲、人間の繁殖地侵入による攪乱、エルニーニョ現象による食物の分布や生息数変動による可能も考えられている』。『衰退・絶滅の主な原因は、皮と脂を取るために乱獲されたことである』。『特に竹島においては大規模なアシカ漁による乱獲で個体数が減少したことが主要因とされ、研究者の一人である島根大学医学部(当時)の井上貴央も同様の見解を示して』おり、一九七〇年代の『韓国紙は竹島駐在の「警備隊員たちの銃撃で絶種」と報道しており、世界自然保護基金(WWF)の』一九七七『年度報告書では韓国人研究者さえ「最上の保護策は警備隊の島からの撤収だ」と主張している』。一九七六『年には、東亜日報が、アシカの生殖器が韓国で人気の精力剤の材料だったため、乱獲によってアシカが絶滅の危機に瀕していることを報道している』(以上の最後の部分は注から合成した)。一九五〇『年代には日本からの大量のビニール製品や』、『ソビエト連邦の原潜や核廃棄物の投棄など、著しく日本海が汚染された時期であり、生息環境が悪化していた点も指摘されている』。『残った数少ない個体も保護政策は実施されず、日本の鳥獣保護法では長期間保護対象外だったことや、竹島を不法占拠してきた大韓民国でも行われなかった(後に保護対象動物には指定されている)』。『韓国による竹島の軍事要塞化や在日米軍の軍事演習実施などの軍事関係も要因として指摘されている』(以下、剥製所在地等が記載されるが、略す)。なお、本条は益軒がオリジナル解説しているもので、「本草綱目」の記載は時珍は実物を見てないものか(益軒も実物を見た可能性は低いと思われ、他の本草書の絵図から細部を表現しているように私には思われる。実物を見た場合、このニホアシカに関してなら、益軒は実際に見たことを言うと考えるからでもある)。「本草綱目」(巻五十一下「獸之二」の内)も時珍は実物を見ていないようで、記載も以下の通り、あっさりしている。

   *

海獺【「拾遺」。】

集解藏器曰はく、「海獺、海中に生ず。獺に似て、大いさ、犬のごとし。脚下、皮、有り。胼拇(べんぼ)[やぶちゃん注:足の親指と人差し指が接合していて一つになっていること。]のごとし。毛、水に着きても濡ず。人、亦、其の肉を食ふ。海中に、又、海牛、有り。海馬・海驢等、皮・毛あり。陸地に在りて、皆、風潮を候(し)る。猶ほ、能く毛を起つるがごとし。說は、「博物志」に出づ」と。時珍曰はく、「大獱(とど)・小獺(かはうそ)、此れ、亦、獺なり[やぶちゃん注:川獺の類である。]。今人、其の皮を以つて、風領(ふうりやう)[やぶちゃん注:風を防ぐ襟のことか。]と爲す。云はく、『貂(てん)亞(つ)ぐ』と。如淳が「博物志」に注して云はく、『海獱は、頭、馬のごとく。腰より以下、蝙蝠(かはほり)に似て、其の毛、獺に似たり。大なる者、五、六十斤[やぶちゃん注:明代で三十キログラム弱から三十六キログラム弱。]。亦、烹(に)て食ふべし。』と。」と。

   *

時珍は海棲哺乳類を実見しておらず、水陸両用に棲息する哺乳類を一緒くたにする傾向が窺われる記載である。

「性」漢方生薬としての効能。御覧の通り、「本草綱目」に普通はある「主治」がない。]

2021/03/19

私は

私は――特定の国家や宗教・思想を無条件に支持したり、排撃したりすることで、悦に入ったり、逆に、それらを、ほくそ笑んで軽蔑している人間とは――永遠に無縁であり、悉く――激しく嫌悪する人間である――

「大和本草卷之三」の「金玉土石」類より「珊瑚」 (刺胞動物門花虫綱 Anthozoa の内の固い骨格を発達させるサンゴ類)

 

蘓頌曰生海底作枝柯狀明潤如紅玉宗奭

曰珊瑚有紅油色者細縱文可愛無縱文爲下品

時珍曰珊瑚生海底五七株成林謂之珊瑚林頌

曰有枝無葉生海底作枝柯狀宗奭曰有珊瑚枝幹

交錯高三四尺○篤信嘗見自吾本州海中所獲

叢生乎石上數寸之間而有根株十數條高者四

五寸各有枝柯二三朶者低一二寸其最低四五

分者亦多矣堅而如玉石如竹筍之生有遲速有

長短者每條多節色如白玉節間皆有細縱文

而周遍無空處如人工刻縷而成者疑是是珊瑚琅

玕之苗僅數寸故未成紅碧色者也

○やぶちゃんの書き下し文

蘓頌〔(そしよう)〕曰はく、『海底に生じて、枝柯〔(しか)〕の狀〔(かたち)〕を作〔(な)〕す。明潤にして、紅玉のごとし。』と。宗奭〔(そうせき)〕曰はく、『珊瑚、紅油色の者、有り。細〔き〕縱〔の〕文〔(もん)〕、愛すべし。縱文無きを下品と爲す。』と。時珍曰はく、『珊瑚、海底に生ず。五。七株、林を成し、之れを「珊瑚林」と謂ふ。』と。頌曰はく、『枝、有りて、葉、無く、海底に生じ、枝柯の狀を作す。』と[やぶちゃん注:重複はママ。]。宗奭が曰はく、『珊瑚、枝幹、交錯し、高さ、三、四尺。』と。

○篤信、嘗つて見る、吾が本州の海中より、獲〔れるを〕。石上〔せきしやう〕〕數寸の間〔(かん)〕に叢生し、根株、十數條、有り。高き者、四、五寸。各〔(おのおの)〕、枝柯、二、三朶〔(だ)〕有り。低き者、一、二寸。其の最も低〔きは〕、四、五分の者、亦、多し。堅くして、玉石のごとし。竹筍〔(ちくじゆん)〕の生ずる〔に〕、遲速、有り、長短、有るがごとく〔ん〕ば、每條、節〔(ふし)〕、多く、色、白玉のごとし。節の間、皆、細き縱文有りて周遍〔(しうへん/あまねくめぐら)〕す。空處〔くうしよ〕、無く、人工の刻縷〔(こくらう)〕して成れる者のごとし。疑ふらくは是れ、珊瑚琅玕〔(らうかん)〕の苗〔(なへ)ならんか〕。僅か數寸。故に未だ紅碧色を成さざる者なり。

[やぶちゃん注:刺胞動物門 Cnidaria 花虫綱 Anthozoa の内で、有意な石灰質の骨格を形成する種類の総称。現生種は、

花虫綱八方サンゴ亜綱ヤギ目サンゴ科 Coralliidae

及び、

花虫綱六放サンゴ亜綱 Hexacoralli

に含まれるものが殆んどである。

 八放サンゴ類のポリプは八個の触手と隔膜とを特徴とし、円筒形を成し、共肉内に埋まって群体を形成する。ポリプの口の下部には胃と体腔の分化していない腔腸(クラゲ・サンゴ・イソギンチャクなどの口に続く有意な機能分化が、一見、見られない袋状の器官。消化器と循環器の双方の働きをする。旧「腔腸動物門 Coelenterata」はクラゲ・サンゴ・イソギンチャクを含む刺胞動物とクシクラゲなどを含む有櫛(ゆうしつ)動物を纏めたタクソン(taxon:「分類群」の単数形)として門を形成しさせていたが、この二つのタクサ(taxa:「分類群」の複数形)を、それぞれ独立の門とする立場が有力となり、実は現在は使われることが少なくなった)があり、口は排出腔としても働く。受精は通常、海水中で行われ、受精卵は浮遊性のプラヌラ幼生を経て、着生生活に入り、その後は芽生によって成長する。ここで挙げられている装飾品として珍重される珊瑚或いはそれに似たものは、群体の分泌した石灰質(炭酸カルシュウム)の骨格で、本邦では、

Paracorallium 属アカサンゴ Paracorallium japonicum

Corallium 属モモイロサンゴ Corallium elatius

Corallium 属シロサンゴ Corallium konojoi

などが知られ、日本近海では四国沖・九州西部・小笠原・南西諸島の数十メートルから数百メートルの海底の岩石等に着生する。サンゴ網で採取され、宝飾品などに利用される。

 六放サンゴ類は六乃至その倍数の触手・隔膜を持つことを特徴とし、サンゴ礁を形成する、

花虫綱イシサンゴ目 Scleractinia のイシサンゴ類(Hard coral:ハード・コーラル)

は、これに含まれ、一般に暖海の浅海底に棲息し、種類が多い。また、群体を作らない深海性の種も知られる。サンゴ類はオルドビス紀(Ordovician period:地質時代の古生代前期における区分で、約4億8830万年前から約4億4370万年前までを指す。カンブリア紀(Cambrian period:約5億4200万年前を開始期とする)の後)は以来、地質時代に広く存在し、示準化石として重要なものも多い(主文は概ね平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。

「蘓頌」(そしょう 一〇二〇年~一一〇一年)は北宋の科学者で宰相。一〇四二年に進士に登第した。北宋で最高の機械学者であったとされ、第七代皇帝哲宗の命を受け、世界最初の天文時計「水運儀象台」を設計し、一〇九二年にそれが竣工すると、彼は丞相に任ぜられている。一〇九七年、退官。以下の他の引用もそうだが、どれも「本草綱目」の巻第八の「金石之二」の「珊瑚」から抜粋したものであるが、益軒は、ものによって、かなりの省略や継ぎ接ぎを行っているので、注意が必要である(ダブりもその悪しき結果である)。原文は以下。

   *

頌曰、「今廣州亦有、云生海底作枝柯狀、明潤如紅玉、中多有孔、亦有無孔者、枝柯多者更難得、采無時。謹按「海中經」云、『取珊瑚、先作鐵網沉水底、珊瑚貫中而生、歲高三二尺、有枝無葉、因絞網出之、皆摧折在網中、故難得完好者。不知今之取者、果爾否。漢積翠池中、有珊瑚高一丈二尺、一本三柯、上有四百六十三條、云是南越王趙佗所獻、夜有光景。晉石崇家有珊瑚高六、七尺。今並不聞有此高碩者。

   *

「枝柯」本来は「木の枝」の意。「柯」は「枝」に同じか、或いは「枝」よりも太いものを言うように思われる。

「宗奭」既出既注。「新編類要図註本草」と踏んで調べたところ、「宮内庁書陵部収蔵漢籍集覧」のこちらの巻第三の「珊瑚」が親本である。上部の第「4」を開き、下部中央の「□□□」ボタンをクリックしてページ表示を開き、「p.34」で当該部が読める。次のページが元であるが、時珍自身が切り張りと書き変えをしていることが判る(益軒より遙かにマシ)。「本草綱目」の引用は以下。比較されたい。

   *

宗奭曰、「珊瑚有紅油色者、細縱紋可愛。有如鉛丹色者、無縱紋、爲下品。入藥用紅油色者。波斯國海中有珊瑚洲、海人乘大舶墮鐵網水底取之。珊瑚初生磐石上、白如菌、一歲而黃、三歲變赤、枝幹交錯、高三、四尺。人沒水以鐵發其根、系網舶上、絞而出之、失時不取則腐蠹。

   *

「時珍曰はく……」以下。

   *

時珍曰、『珊瑚生海底、五、七株成林、謂之珊瑚林。居水中直而軟、見風日則曲而硬、變紅色者爲上、漢趙佗謂之火樹是也。亦有黑色者不佳、碧色者亦良。昔人謂碧者爲靑琅、俱可作珠。許慎「說文」云、「珊瑚色赤、或生於海、或生於山。據此說、則生於海者爲珊瑚、生於山者爲琅玕、尤可徵矣。互見琅玕下。

   *

最後の「琅玕」は「本草綱目」の「珊瑚」の前に示されてある。「大和本草」では、この「珊瑚」の後に「靑琅玕」として条立てしている。この「大和本草」の「靑琅玕」では、漢籍でも、その起原を海産と主張する者、陸産(陸地或いは山中から出土)する者の意見の錯綜が記されてあり、珊瑚由来とする説もあって、益軒も困って、陸・海ともに産するのが妥当であろうと終わっている。しかし、現在、少なくとも、本邦では「翡翠石」(ヒスイ)の最上質のもの、或いは「トルコ石」又は「鍾乳状孔雀石」或いは青色の樹枝状を呈した「玉滴石」と比定するのが妥当と考えられている(個人サイト「鉱物たちの庭」の「ひすいの話6-20世紀以降の商名と商流情報メモに拠った)から、私は「水族」として認めず、電子化しないこととした。但し、「靑琅玕」の中には、日中ともに珊瑚が一部で含まれていた可能性は極めて高いとは思われる。

「篤信」益軒の本名。

「竹筍」竹或いは筍(たけのこ)状に形成されること。

 以上を以って「卷之三」からのピック・アップを終わり、中途の「卷之十六」に戻る。]

「大和本草卷之三」の「金玉土石」類より「石燕」 (腕足動物の†スピリフェル属の化石)

 

石燕 小ニシテ燕ニ似タリ宗奭曰如蜆蛤之狀藥性

解曰形蚶而小其實石也

○やぶちゃんの書き下し文

石燕〔(せきえん)〕 小にして燕〔(つばめ)〕に似たり。宗奭〔(すうせき)〕が曰はく、『蜆〔(しじみ)〕・蛤〔(はまぐり)〕の狀〔(かたち)〕のごとし。』と。「藥性解〔(やくしやうかい)〕」に曰はく、『形。蚶〔(きさ/あかがひ)〕にして、小なり。其れ、實〔(じつ)〕は石なり。』と。

[やぶちゃん注:動物界 真正後生動物亜界 冠輪動物上門 Lophotrochozoa 腕足動物門 Brachiopoda 嘴殻亜門 Rhynchonelliformea †スピリフェル目スピリフェル科スピリフェル属Spirifer のスピリフェル類で、Spiriferida 目の代表種である。中国語で「石燕」、本邦では「燕石」(えんせき)の方が知られる。シルル紀(Silurian period:約4億4370万年前から約4億1600万年前まで)からペルム紀(Permian period:約2億9900万年前から約2億5100万年前まで。シルル紀とは石炭紀(Carboniferous period)とペルム紀(Permian period)を挟む)にかけて実に二億年余りもの間、世界各地に生存し、石炭紀に特に繁栄し、デボン紀に最盛であった化石動物。また、腕足動物及び有関節類の一グループの総称である。「スピリファー」とも呼ぶ。背殻内部に螺旋形の特殊な腕骨を有するのが最大の特徴で、属名はラテン語で「螺旋」を意味する「spira」という言葉に由来する(一八一六年命名)。前後の殻(一見すると二枚貝にしか見えないが、彼らはそれらとは体制が全く異なり(だから殻は左右ではないのである)極めて縁の遠い、完全に独立した「生きた化石」的な海産底生無脊椎動物である)を結ぶ長く強靭な蝶番(ちょうつがい)線を持ち、石灰質の殻(表面に放射状の線を有する)の形が「翼を広げたツバメ」に似ているため、、中国では古くから「石燕」と呼ばれて薬効があるとされており、粉末が漢方薬として用いられた。南方熊楠の幻の名論稿「燕石考」で知られる。グーグル画像検索「Spiriferをリンクさせておく。嘗ては漢方生剤の流れ品として安く数個持っていたのだが、皆、教え子にあげてしまったので、現物を見せられないのが悔しい。腕足動物門の学名‘Brachiopoda’はギリシャ語で「腕」を意味する‘brachium’と、「足」を意味する‘poda’を合成したものである。現生種はシャミセンガイ(三味線貝:腕足動物門舌殻亜門舌殻綱舌殻目シャミセンガイ科 Lingulidae のシャミセンガイ類(本邦産種の代表はLingula(リンギュラ・シャミセンガイ)属ミドリシャミセンガイLingula anatina :岡山県児島湾や有明海で食用とされる。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のこちらを参照されたい)や、チョウチンガイ(提灯貝:腕足動物門嘴殻綱テレブラツラ目 Terebratulida テレブラツラ亜目カンセロチリス Cancellothyrididae 科カンセロチリス亜科テレブラツラナ属タテスジチョウチンガイTerebratulina japonica 〔縦筋提灯貝:殻高17ミリメートル。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のこちらを参照〕や、テレブラツラ亜目ラクエウス上科ラクエウス科ラクエウス属ホオズキチョウチン Laqueus rubellus 〔鬼灯提灯40ミリメートル前後。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のこちらを参照〕)がいる。かの明治一〇(一八七七)年六月に来日し、東京大学に招聘されて初代理学部動物学教授となり、「大森貝塚」を発見し、進化論を本邦に移植したアメリカ人動物学者エドワード・シルヴェスター・モース(Edward Sylvester Morse 一八三八年~一九二五年)の専門は、実はこの腕足類のシャミセンガイであった。江ノ島に日本初の臨界研究所を作り、そこでシャミセンガイを採取している。今や、江ノ島には棲息していない。私は彼の石川欣一訳「日本その日その日」をずっと昔にブログでオリジナル注附き(モース自筆の全挿絵入り)で完結している

「宗奭」既出既注。そこで示した「宮内庁書陵部収蔵漢籍集覧」の北宋の医師宼宗奭(こうそうせき)の「新編類要図註本草」の南宋から元代(十三~十四世紀頃)に板行されたものの、その上部の第「5」を開き、下部中央の「□□□」ボタンをクリックしてページ表示を開き、「p.16」で、巻第五の「玉石部下品」にある「石鷰」(石燕に同じ。挿絵もある)が見られる。この引用箇所は次のページで、右頁の大罫三行目から記されてある。この「衍義」とは宗奭の書いた別な本草書「本草衍義」である。起こしておく。

   *

衍義曰【石鷰、今人用者、如蜆蛤。之狀色、如土、堅重。故只堕沙灘上。此說近妄。「唐本」注、永州土岡上、掘深丈餘之。形似蚶而小、重如石。則此自是二物、餘說不可取。潰虛積藥中多用。】

   *

「灘」は川・湖・海の岸辺の意。但し、益軒のこの引用は恐らく、この原本ではなく、「本草綱目」の巻十「金石之四」の「石燕」からの孫引きである。

「蜆」斧足綱異歯亜綱シジミ上科シジミ科 Cyrenidae のシジミ類。本邦産代表種三種は「大和本草卷之十四 水蟲 介類 蜆」の私の注を参照。但し、ここは漢籍の記載で、中国にはもっと多くの種がいることが確認出来る(但し、中国に分布しない海外種も並置されているので、総てが中国棲息種ではないので注意)。中文ウィキの「花蜆科」(シジミ科の中国名)を参照されたい。

「藥性解」「雷公炮制藥性解評注」(らいこう ほうせい やくしょうかい ひょうちゅう)の略。明の李中梓の漢方調剤書で、常用中薬三百三十五種の性味・帰経(きけい:薬物が人体のどの部位(適用範囲)に作用して薬効が表われるかを指し示しこと)・毒性・効能主治・使用禁忌・真偽弁別・炮制(漢方薬の原料を薬物に精製する方法。烘・炮・炒・洗・泡・漂・蒸・煮などの処置によって薬物の毒性や作用を弱めたり、除去したりして、治療効果を高め、製剤や貯蔵をし安くすること)などを記す。これは「本草綱目」には載らないので、原本を見たものと思われる。

「蚶」翼形亜綱フネガイ目フネガイ上科フネガイ科アカガイ属アカガイ Anadara broughtonii「大和本草卷之十四 水蟲 介類 蚶(アカガイ)」を参照。前後の殻の表面の放射状線は確かにアカガイに似ており、蝶番いをずうっと引き伸ばせば、素人目にはよく似ていると言える(但し、この蝶番いは独特で古生物学者や貝類研究者は間違えることは絶対にあり得ない)。]

母十周忌

ALSで召された聖子テレジア十周忌――

2021/03/18

「大和本草卷之三」の「金玉土石」より「眞珠」

 

眞珠 蚫蛤諸介類ノ腹中ニ有之アコヤ貝ニアルヲヨシトス又

蚫ニアルヲ上トス蚌アサリ貝ナトニモアリ凡眞珠價貴シ

輕粉ト燈芯ニ同シクシテ香盒ノ内ニ入レヲケハ久クアリテ

子ヲ生ス

○やぶちゃんの書き下し文

眞珠 蚫〔(あはび)〕・蛤〔(はまぐり)〕〔など〕諸介類の腹中に、之れ、有り。「あこや貝」にあるを、よしとす。又、蚫にあるを、上とす。蚌(どぶがい[やぶちゃん注:ママ。])・「あさり貝」などにもあり。凡そ、眞珠、價〔(あたひ)〕、貴〔たか〕し。輕粉〔(けいふん)〕と燈芯に同じくして、香盒〔(かふがふ)〕の内に入れをけば[やぶちゃん注:ママ。]、久しくありて、子を生ず。

[やぶちゃん注:前条「大和本草卷之十六 水獺(かはをそ) (絶滅種ニホンカワウソ)」で述べた通り、この「大和本草卷之三」の「金玉土石」に広義の「水族」とすべき記載を見つけたので、またまた、中断して挿入する。底本は従来通り、「学校法人中村学園図書館」公式サイト内にある宝永六(一七〇九)年版の貝原益軒「大和本草」(リンク先は目次のHTMLページ)の同巻之三のPDFを視認してタイプする。「眞珠」は32コマ目に出る。底本は従来通り、「学校法人中村学園図書館」公式サイト内にある宝永六(一七〇九)年版の貝原益軒「大和本草」(リンク先は目次のHTMLページ)の同巻之三のPDFを視認してタイプする。「眞珠」は32コマ目に出る。なお、そこまでの間にちょっと目を引いたものはある。例えば、「火類」に出現する「【外】夜、光り有る物の類」で(15コマ目)『海潮、夜、之れを擧れば、光あり。月夜に光なし』という一節で、これはヤコウチュウかウミホタルを指しているようではある。その少し後には、また、『鯛の肉・うろこ及び「いか」の肉、鮮(あたら)しければ、夜、ひかる。「たこ」の「ねはり」に、夜、光りあり』などとも出る。タイの肉はよく判らぬが(寄生虫か?)、イカのそれは発光バクテリア由来で、よく観察すれば、新鮮なそれを置いている魚屋などの店頭でも、容易に発光を見ることが出来る。「たこ」の「ねはり」はタコの足の付け根の部分(口器)であるから、やはり捕食した対象生物の持つ発光物質か、前の発光プランクトンやバクテリア由来であろう。ともかくも、雑駁な書き方で、凡そ「水族の部」に採り上げることは出来ない代物である。さらに「金玉土石」には「【外】花紋石」に(19コマ目)、『壹岐の島の長者が原の海岸に屛風岩と云ふ石』があって、そこには魚の細部に至るまで総て備わったものが石の中にある、というのは、かなり古い時代の魚類化石であり、25コマ目にも「石蟹」があって、明の王圻(おうき)の「三才図会」と「本草綱目」から引用しつつ、益軒も、海浜の軟石の中、或いは、欠けた石碑片で、完全に石化した蟹を見た、とあって化石だろうと考証しているように、孰れも古代の海産動物の化石であって、これらまで「水族の部」に採るとなると私には抵抗がある。化石海産動物でも無論、「水族」であるわけだが、その個体の種を同定するに足る詳しい形状が全く記されていないのだから、今までの「水族の部」に含めるのには私は相応しくないと考え、外した。但し、この次で、特異的に化石絶滅種を一つあげる予定である。それは明らかに例外的にその記載からほぼ間違いなく属同定が出来る化石だからである。

 真珠(pearl)である。アコヤガイ(斧足綱ウグイスガイ目ウグイスガイ科アコヤガイ(阿古屋貝)属ベニコチョウガイ亜種アコヤガイ Pinctada fucata martensii :阿古屋は現在の愛知県阿久比町(あぐいちょう:グーグル・マップ・データ)周辺の古い地名で、この辺りで採れた真珠を阿古屋珠(あこやだま)と呼んだことから、真珠を阿古屋と呼ぶようになったとも言うが、現行の町域は海に面していない)・クロチョウガイ(アコヤガイ属クロチョウガイ(黒蝶貝) Pinctada margaritifera :和名は貝殻を広げた形が蝶(チョウ)に似て黒いことに由る。沖縄県宮古などでの方言とする)・シロチョウガイ(アコヤガイ属シロチョウガイ(白蝶貝)Pinctada maxima :本種は本邦に棲息しない。オーストラリア・フィジー・タヒチ・インドネシア・フィリピンに分布するが、近代以降に日本が大規模に真珠採取をし、南洋真珠として知られた)・カラスガイ(斧足綱イシガイ目イシガイ科カラスガイ(烏貝)属カラスガイ Cristaria plicata :淡水貝。日本全国及び朝鮮半島・中国大陸・台湾・東南アジアに広く分布する。海抜百メートルよりも低い平地の池・湖・河川に棲息。和名はカラスのように真っ黒な貝の意)など、貝殻の内側が真珠層になっている貝類の中に異物が入った際、軟体の保護のためにこれを取巻いて形成される球状の真珠質の貝類の体内に形成される奇形凝固物である。その生成が自然の偶然によるものを天然真珠と呼び、アコヤガイを真珠母貝として、他種の貝の真珠層から作った球状の核とピース(母貝の外套膜の細胞小片) を挿入し、養殖して得たものを養殖真珠と呼ぶ。明治二六(一八九三)年に御木本幸吉がこの方法で初めて養殖に成功し、汎世界的に現在の殆んどの真珠は養殖真珠によるものである。日本では三重県の志摩半島を始めとして、中部以西の太平洋岸・日本海岸」瀬戸内海沿岸などの多くの湾内で養殖され、質・量ともに世界を圧倒している。養殖期間は小珠以下は半年以上一年未満、中珠以上は一年から三年ほどで、真珠の寸法・光沢・形状・色調などによって等級が分れる。良質の真珠は、古来より、宝玉として珍重され。ネックレス・ブローチ・指輪・宝冠などの装身具に加工されたものが各種遺跡から出土している。私は実は真珠好きである。その他の宝石には全く興味がないのだが、真珠だけは別物である。しかし、カフスやネクタイピンでは傷がつきやすいために、かえっていいものがなく、身につけようもない。悔しい。小学校六年生の時、なけなしのお年玉を溜めた小遣いで、母の誕生日に傷物を用いた千円の真珠のブローチを買ったのを思い出す(母は終生それを宝物としていた)。僕は、その時から、真珠に惹かれていたのだと思う。ちなみに、‘pearl’の有力な語源説としては、‘perna’という二枚貝を表すラテン語の俗化した(シチリア島とイタリア南部で使用されているロマンス語の一種であるシチリア語(sicilianu)由来とも言われる)‘perla’が元とされる。則ち、これも貝由来のようである。

「蚫〔(あはび)〕」現行の和名「アワビ」自体が腹足綱原始腹足目ミミガイ科 Haliotidae のアワビ属 Haliotis の総称であるので、国産十種でも、一般に知られている食用種のクロアワビ Haliotis discus discus ・メガイアワビ Haliotis gigantea ・マダカアワビ Haliotis madaka ・エゾアワビ Haliotis discus hannai (クロアワビの北方亜種であるが同一種説もあり)・トコブシHaliotis diversicolor aquatilis ・ミミガイ Haliotis asinina の六種を挙げておけば、とりあえずは主要な真珠形成種(或いは近世以前に真珠を産むアワビとして認識されていた種)は包括され得るものと私には思われる。因みに私自身、実際に食した際にクロアワビとトコブシの二例で、石灰化した小指の先ほどの真珠紛いの異物を見つけたことがある。なお、腹足綱Gastropoda(巻貝類)で自然真珠を形成するケースは二枚貝綱Bivalvia(二枚貝類)に比べると、遙かに少ない。これは殼口が異常に拡張形成されて、岩礁上で吸着・匍匐する彼らの生態上の特異性が、内面での真珠層形成の著しいことと相俟って、異物混入と真珠形成を生じやすいことによるのであろうが、非常に古くから、アワビが真珠を持つことは説話や伝承で残されており、中世以前は、恐らく、真珠は、まず、深海の巨大なアワビが持っており、妖しい光りを放つ宝玉として、やや妖怪的に記載されていることが多いように私には感じられる。益軒はアワビ類を「大和本草卷之十四 水蟲 介類 石決明」で既に出している。

「蛤〔(はまぐり)〕」「がふ」と読んで二枚貝全般としてもよいのだが、それでは、前の「鮑」とバランスが悪いから、斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ科ハマグリ亜科ハマグリ属ハマグリ Meretrix lusoria と、ハマグリ属チョウセンハマグリ Meretrix lamarckii(本邦では房総半島以南の太平洋側及び能登半島以南の日本海側に分布する。外来種ではないので注意。「チョウセン」は日本人が真正のものと異なるものに付けたがった悪しき和名に冠する補助語であり(カムルーチの異名のチョウセンドジョウのような正しい棲息地の一つであるケースもあるにはある)、私は差別的なものを感じるので、これこそ改名すべきものであると考えている。因みに、同じくハマグリでは三度、やはり石灰化した紛い珠を見つけており、他に大好物のマガキの中には、複数回、発見しており、最大級のものはパチンコ玉をやや小さくした大きなものさえあった。但し、真っ白な炭酸カルシウムの玉状のものだった。

「蚌(どぶがい)」益軒はこれをカラスガイの異名と考えていることは、「大和本草卷之十四 水蟲 介類 蚌」で明らかであり、多くの現代の一般人もそう思っている人が多いが、これは誤りである。

斧足綱古異歯亜綱イシガイ目イシガイ科ドブガイ属 Sinanodonta に属する大型のヌマガイ Sinanodonta lauta(ドブガイA型)

と、小型の、

タガイ Sinanodonta japonica(ドブガイB型)

の二種が「ドブガイ」であり、

イシガイ科イケチョウ亜科カラスガイCristaria plicata

及び同属の、琵琶湖固有種である、

メンカラスガイCristaria plicata clessini (カラスガイに比して殻が薄く、殻幅が膨らむ)

は全くの別種なのである。カラスガイとドブガイとは、その貝の蝶番(縫合部)で識別が出来る。カラスガイは左側の擬主歯がなく、右の後側歯はある(擬主歯及び後側歯は貝の縫合(蝶番)部分に見られる突起)が、ドブガイには左側の擬主歯も右の後側歯もない。私の「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部」の「蚌(どぶがい)」及び「馬刀(からすがい)」の項の注で詳細に分析しているので参照されたい。

「あさり貝」異歯亜綱マルスダレガイ上科マルスダレガイ科アサリ亜科アサリ属アサリ Ruditapes philippinarum 及びアサリ属ヒメアサリ Ruditapes variegatus(アサリよりも殻幅や套湾入が、若干、小さい)。これも私はビーズ玉のような小さなものを何度も発見したことがある。

「輕粉」古く中国から伝えられた薬品で、駆梅薬や白粉(おしろい)の原料にした白色の粉末。塩化水銀(Ⅰ)=甘汞 (かんこう)が主成分で、水に溶けにくく、毒性は弱い。「水銀粉」と書いて「はらや」とも呼び、また、「伊勢おしろい」とも称した。

「燈芯」蠟燭の芯であるが、これは恐らく紙製のそれではなく、単子葉植物綱イネ目イグサ科イグサ属イグサ Juncus decipiens の花茎の髄を乾燥させた非常に軽いそれであろう。

「同じくして」一緒にして。

「香盒」香を入れる小さな容器。漆器・木地・蒔絵 ・陶磁器などがある。香箱。

「久しくありて、子を生ず」化学的説明は出来ぬが、塩化水銀の影響を受けて真珠の表面が変成して剥離し、それが先の「燈芯」に附着して、小さな球のようになるものか? 私はここを読みながら、即座に本邦に古くからある謎の毛のような生物或いは物質である「ケサランパサラン」を想起した。一説に、ケサランパサランは、穴の開いた桐の箱の中で白粉を与えることで飼育が可能で、増殖したり、持ち主に幸せを呼んだりすると言われてきたからで、まさに、ここの益軒の謂いは、その飼育のシークエンスにそっくりだからである。その正体の考証は「想山著聞奇集 卷の壹 毛の降たる事」の私の注を、是非、どうぞ!

大和本草卷之十六 水獺(かはをそ) (絶滅種ニホンカワウソ)

 

水獺 和名ヲソ今俗ヲソヲ誤リテカハウソト云カハヲ

ソハ海獺ニ對シテ云世俗獺ノ性ヲシラス補益ノ能

アリトテ求メ食人多シ性寒ナレハ熱症ニ用テハ無

害虛冷ノ人陽氣不足セハ不宜食本艸曰消男子

陽氣不宜多食其肝ハ虛勞ヲ治ス是亦本艸ニ見

ヱタリ虛人ハ肉ヲ食フヘカラス

○やぶちゃんの書き下し文

水獺(かはをそ) 和名「をそ」。今、俗、「をそ」を誤りて、「かはうそ」と云ふ。「かはをそ」は海獺(うみをそ)に對して云ふ。世俗、獺〔(かはをそ)〕の性〔しやう〕を、しらず。「補益の能あり」とて、求め食ふ人、多し。性、寒なれば、熱症に用ては、害、無〔きも〕、虛冷の人、陽氣不足せば、食ふ宜〔(べ)か〕らず。「本艸」に曰はく、『男子の陽氣を消(け)す。多食す宜〔(べ)か〕らず。』と。其の肝は虛勞を治す。是れ亦、「本艸」に見ゑたり[やぶちゃん注:ママ。]。虛人は肉を食ふべからず。

[やぶちゃん注:底本で七条飛んで25コマ目。但し、途中で目を止めたて詳読したものは二つある。一つは17」コマ目の「ウニカウル」で、今一つは18」コマ目の「鮓答(ヘイサルハサル)」である。前者の「ウニカウル」は「宇無加布留」「ウンカフル」などとも記す、ポルトガル語の「ウニコール」(unicorne)で、これは原義は西洋の想像上の動物である一角獣(ユニコーン:ドイツ語:Einhorn/フランス語:licorne:角を持つ馬に似た姿で描かれることが多く、伝承は聖書に溯り、最強の動物で捕らえ難いが、処女(=聖母マリア)には馴れ親しむ。則ち、ユニコーンをイエス・キリストに見立てるキリスト教的寓意譚もある)であるが、実際のその正体は海棲哺乳類であるイッカク(鯨偶蹄目イッカク科イッカク属イッカク Monodon monoceros :一属一種)の♂の牙であるからである。しかし、益軒は『犀角ノ類ナルヘシ』と言ってサイの角の一種であろうと誤認していてイッカクへの言及がなく、以下、延々と薬効記載をするに終始しているので採らない。ただ、これは当時の主流の考証であって無理はない。本「大和本草」は宝永七(一七〇九)年に刊行されたが、例えば、「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 一角(うんかふる/はあた:犀角) (海獣イッカクの角)」で良安は『交趾(カウチ)』(ベトナム北部)で供給される『白犀の角』だと言っている(「和漢三才図会」は正徳二(一七一二)年成立)。なお、リンク先では私が「ウニコール」の細かな検証をしているので参照されたい。「ウニコール」の基原生物を陸獣のサイだとする、こうした大勢の妄説を退け、正しく鯨類であるイッカクの牙であるということを示し得たのは、杉田玄白の弟子で仙台藩江戸定詰藩医大槻玄沢(彼を藩に推薦してその実現に尽力したのは只野真葛の祖父工藤平助である)の「六物新志」(天明元(一七八一)年序。同八(一七八八)年知友らに頒布)と、在野の博物学者木村蒹葭堂の「一角纂考」(天明六(一七八六)年自序・寛政七(一七九五)年刊)まで待たねばならなかった。次に、後者の「鮓答」であるが、これは各種獣類の胎内結石或いは悪性・良性の腫瘍や免疫システムが形成した異物等を称するもので、「ウニコール」と同様に生薬や香料として古くから現在まで流通している。詳しくは「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 鮓荅(へいさらばさら・へいたらばさら) (獣類の体内の結石)」の私の注を参照されたいが、これには当然、香料の一種として珍重される「龍涎香(りゅうぜんこう)」=「アンバーグリス」(英語:Ambergris)が含まれ、体内異物と誤認される、魚類に見られる耳石(じせき)があるから、詳読した。すると、底本の19コマ目の一行目から三行目に、『本朝食鑑に曰、「病牛〔びやうぎう〕、眼黃(がんわい)なる者、必ず、黃〔たま〕[やぶちゃん注:これは鮓答の異名異訓。]有り。」と。又、魚の腹中にも石の如くなる物、稀にあり。眞珠も亦、貝の玉なり。此の類なるべし。淋病を患〔わづらふ〕る人に、石塊、生ずる如し。』(下線は私が附した)とあるが、この下線部分だけが、水族関連するだけであり、それは、耳石相当物については、「大和本草卷之十三 魚之下 石首魚(ぐち) (シログチ・ニベ)」やその前後で益軒が述べてしまっており、真珠は「大和本草卷之三」の「金玉土石」の一条(32コマ目)に別にある(うへえ! また、やらなきゃいけないものが増えた! はいはい、この後、すぐ始めますて)。また、「龍涎香」も既に「大和本草卷之十三 魚之下 龍涎 (龍涎香)」で電子化注してあるから、「水族の部」として採用する対象ではない。

 さても。本条に戻る。

 本邦のそれは日本人が滅ぼした、

食肉目イタチ科カワウソ属ユーラシアカワウソ亜種ニホンカワウソ Lutra lutra nippon

終わりに引く「本草綱目」のそれは、

カワウソ属ユーラシアカワウソ Lutra lutra

となる。益軒の記載は、「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 獺(かはうそ) (カワウソ)」に比べると、甚だ見劣りがする。そちらで絶滅に至る経緯も記しておいたが、益軒の言うように、本邦では薬として古くから捕獲されて積極的に食われていたことが窺える。特に、リンク先の「本草綱目」引用にもある通り、結核に効くという誤った触れ込みが、江戸時代に既に彼らを絶滅に導く悲劇の導火線となっていたのである。なお、そちらでも注しているが、「獺(かはうそ)」は「をそ(おそ)」とも呼ばれるが、小学館「日本国語大辞典」によれば、これは「かはをそ」「かわうそ」の略で、その語源説には「うををす」「ををす」(魚食)の略(「大言海」)、「おそる」(畏懼)と同根(「和句解」・「東雅」)、獣のくせに水中に入って魚を捕える獣にあるまじき「偽」(うそ)の存在の義(「名言通」)、妖獣譚で、よく、人を襲(おそ)う或いは化かすとされたところから(「紫門和語類集」)、水底を住居とすることからの「こ」の反切(「名語記」)とする説が示されてある。しかしどれも信じ難い。原形に獣・幻獣の「をそ」を探索すべきであろう。にしても、益軒は間が抜けている。冒頭で「かはうそ」は誤りだと言いながら、その正しい和名の「をそ」の語源を述べていない。益軒がよくやるいやらしい半可通である。

「虛冷の人」虚弱体質、或いは、体温が有意に低下するような疾患に罹っている人、或いは、消化器系疾患等によって衰弱している人。

『「本艸」に曰はく、『男子の陽氣を消(け)す。多食す宜〔(べ)か〕らず。』と』「本草綱目」巻五十一下の「獸之二」の「水獺」の「主治」に、『熱大小腸祕。消男子陽氣、不宜多食【蘇頌。】』とある。

「虛勞」過労による衰弱。「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 獺(かはうそ) (カワウソ)」の引用参照。

「虛人」漢方で明白に「虚証」を示している人、或いは病人。慢性的に虚弱で体力がない体質の人や、疾患によって機能が低下したり、生理的物質が有意に不足した、ある種、病的状態にある人を指す。]

2021/03/17

芥川龍之介書簡抄20 / 大正二(一九一三)年書簡より(七) 十二月三日附井川恭宛書簡

 

大正二(一九一三)年十二月三日・京都市京都大學寄宿舍内 井川恭樣 親披・消印四日・十二月三日 東京新宿にて 芥川龍之介

 

     長安尺素 一

フイルハアモニイ會があつた クローンのバツハが一番よかつた 會場は帝劇で舞臺の前に棕櫚竹やゴムの大きな鉢を舞臺と同じ高さにならべ舞臺はうすい綠にやゝ濃い綠で簡單なエジプト模樣を出した壁で圍ひ左右の WING に濃いクリムソンを使つたのが大へん快く出來てゐた ユンケルが來てゐた

一番出來の惡かつたのは中島かね子のブラームスとトーメ 樋口信平のヴエルヂイも振はなかつた

 

舞臺協會が惡魔の弟子と負けたる人とをやつた シヨウの飜譯には大へん誤譯があると云ふ噂がある 皆あまりうまくない 森のリチヤアドも貧弱だ 林千歲のダツヂヨン夫人は更に貧弱だ 金井のスウインドン少佐になると新派のくさみが甚しい 最よかつたのは佐々木のバーゴイン將軍だつた

負けたる人に至つては言語道斷だ あの脚本をしつてゐるものは誰でもよくかう拙劣に演じる事が出來るもんだと感心するにちがひない

 

フューザン會が順天中學のうしろの燒跡の自由硏究所と云ふとたん葺の假小屋の樣な所でやつてゐる 三並さんの画[やぶちゃん注:ママ。]が一番最初に出ててゐる[やぶちゃん注:「て」のダブりはママ。] 皆よくなかつた 唯赤い煙突が晴れた空に立つてゐるのが稍よかつた 最人目をひいたのは小林德三郞氏の江川一座(二枚あるがその一で見物席をかいたもの)と云ふ水彩と北山淸太郞氏の二三の小品であつた 莊八氏も大分腕を上げた 與里氏はフューザンの黑田淸輝の如くおさまつてゐる 同氏の作は劉生氏と共にあまり出來がよくない

 

独乙人[やぶちゃん注:「独」はママ。]で世界的にヴアイオリンの名手と云はれる DORA VON MOLLENDORFF の CONCERT が帝國ホテルにあつた ぺッツオルドが補助として出演する

ヴアイオリンは自分の今迄きいたどのメロヂイよりもうつくしいメロヂイをひいてくれた 自分は今でも水色のきものをきて濃い栗色の髮をかき上げながら彈くひとの姿を目の前に髣髴する事が出來る 實際あの絃の音は奇蹟のやうであつた

ぺッツオルドも出來がよかつた あの婆さんも當夜は黑天鷲絨に銀糸の繡[やぶちゃん注:「ぬひとり」。]のあるきものをきつて[やぶちゃん注:ママ。]すましてゐた 久保正夫にあつた

 

     長安尺素 二

石田君が愈一高歷史會の FOUNDER として第一會をひらいた 齋藤さんと慶應の何とか云ふ先生とが出席した其何とか云ふ人はウインデルバンドをよんでゐる人で石田君が師事してゐる人である 獨法と英法と文科とで會員が大分出來たと云ふ事だ 先生さへ來なければ出席して牛耳つてやるんだがなと久米が口惜しがつてゐる

 

一高の物理の敎室と攝生室との間に廊下が出來た 食堂の方の廊下も立派になつたさうである 瀨戶さんは國民新聞に現代の學生は意氣が消沈してゐるからもつと自省自奮自重しなければならんとか何とか三日つゞきで論じてゐる 校長としての評判は校内でも校外でも惡くはないらしい

 

ガルスウアシイの詩集 MOODS, SONGS AND DOGGERELS はベルグソンの流轉の哲學の思想を隨所に見得る點で注目に價すると云はれてゐる 始にある MY DREAM の終の三つのスタンザなぞはいゝと思ふ

 

大學に希臘印度美術展覽會が開かれてゐる 高楠さんや黑板さんの採集した希臘の古陶器や人形に欲しいものが澤山ある 貝多羅葉に經文をかくペンを陳列して置いた五本のうち二本盜まれたと云つて印哲の助手がこぼしてゐた

 

とりでがウオーレン夫人の職業とイエーツの幻の海をやる うまく行かないだらうと思つてゐるが三等は十五錢だから皆でみてやらうと久米が云つてゐる

 

根本は九月以來一ぺんも出てこない 谷森君はどこかで感化院にはいつてるときいたさうだ 實は耽溺の揚句に日本舘にかくれてゐるのである

佐野や石原や黑田も大分盛らしい

 

八木君が頭をのばした わける氣と見える 句あり「山羊の毛も刈らでくれけり秋の牧」

 

佐伯君と坂下君とは一日もやすまずに出てゐる 坂下君の鼻の赤いのは每日賄で生姜を食つたからださうだ 成瀨の云ふ事だからあんまりあてにもならない

 

成瀨は本鄕菊坂の何とか日米露(ヒメロ)と云ふ人の二階にゐたが今月から自宅から通ふさうだ 時計を九月に佐野にかしたのがかへつてこないと云つて悲觀してゐる

 

そのあとへ久米が移る筈になつてゐる 久米は月謝を佐野にかしたのがかへつて來ないと云つて悲觀してゐる 同人は目下玉乘の女を主人公にした小說起稿中

 

山宮さんにまじめにたのまれてとうとう又畔柳さんの會へ出た よむ本は SHAW 久保謙や久保勘や山宮さんや皆 SHAW は嫌ひだと云つてた むづかしくつてわからないからきらひなんだらうと思ふ 畔柳さんがこんな圖をかいた

[やぶちゃん注:底本の旧全集からトリミングした。正直言うと、私は図とは理解し易くするためのものでなくてはならない。こういう判ったような自己満足のチャートは百害あって一利なしとしか思わない人間である。]

 

114zu

 

Aは人間が TRANSCENDENTAL GOD を求める時代 Bは IDEAL を人間の本來に求める時代(遠くはプラトー 近くはメーテルリンク) Cは無理想の自然主義の時代 Dは現在の生活に理想を求める時代 この時代は大分して二となる(D‘) αは社會に對して個人を重くみる個人主義 βは社會を BETONEN する社會主義 これが動くとETGの三方向をとる Fはプラグマチズムの方向でどこ迄も平行線でゆく Fは科學者の人類観で滅亡を豫想する悲觀說 Eはベルグソン オイツケンのネオロマンチツクの哲學による樂觀說とするのださうだ

メエテルリンクの時よりは面白かつた 僕が SHAW AS A DRAMATIST をやつた

 

まだあるが長くなるから切上げる

文展の批評でもきゝたい 町三趣はよからう 海女の半双(海のない方)もよからう あとの半双も僕は人が云ふほど惡くは思はない

松本博士は廣業の四幅を日本畫に新紀元を與へるものだと云つた 僕にはわからない

   恭   君 梧下

 

[やぶちゃん注:「長安尺素」「長安」は帝都東京の比喩であろう。「尺素」は「せきそ」と読む。「素」は「帛」(はく)の意。「一尺余りの絹布」の意で、文字を書くのに用いたところから、「僅かの書き物」「短い手紙」の意。「尺牘(せきとく)」に同じい。

「フイルハアモニイ會」筑摩全集類聚版脚注に、『東京フィルハーモニー会』で、『男爵岩崎小彌太が主宰したもの』で、この年の『十一月二十七日』に帝国劇場で行われたそれは、『第七回』公演『に当たり、東京音楽学校・海軍音楽隊が演奏した』とある。岩崎小弥太(明治一二(一八七九)年~昭和二〇(一九四五)年)は後の大正五年に三菱財閥第四代目総帥となった実業家で、一高を経て明治三二(一八九九)年に東京帝国大学法科大学に入学するも、翌年に中退して英国に留学、明治三十八年にケンブリッジ大学を卒業して、翌年に帰国して三菱合資会社の副社長となっていたが、彼は一方で、当時東京音楽学校(現在の東京芸術大学)のドイツ人教師でチェロ奏者であったハインリヒ・ベルクマイスター(Heinrich Werkmeister 一八八三年~一九三六年)についてチェロを習い始め(腕前は不明)、明治の終わり頃からは、音楽家の留学援助(その一人がベルクマイスターの縁で東京音楽学校を出たばかりのかの山田耕筰であった)とオーケストラの育成に力を入れ、明治四三(一九一〇)年に英国時代の友人を誘って、音楽愛好家団体「東京フィルハーモニック・ソサエティー」を設立していた(この年中に解散)。

「クローン」ドイツ出身のヴァイオリニストで指揮者・音楽教師のグスタフ・クローン(Gustav Kron 一八七四年~?)。一八九六年から一八九八年までハンブルクの「楽友協会」で楽長とソリストを、一九〇〇年からかの「ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団」のソリストを務めた。この一九一三年一月から大正一〇(一九二一)年六月までと、再来日して一九二二年二月から大正一四(一九二五)年三月まで、東京音楽学校で弦楽・声楽・和声学・作曲・合唱・管弦楽を担当した。

「バッハ」バッハ好きの私としては芥川龍之介がかく称賛した演奏曲が知りたいところなのだが、ネット上では調べ得なかった。無伴奏バイオリン・ソナタの一曲か? 識者の御教授を乞う。

「WING」筑摩全集類聚版脚注には、『ここでは舞台の両脇』とある。

「クリムソン」crimson。クリムズン。深紅色・茜色。

「ユンケル」既出既注。リンク先の『大正元(一九一二)年八月三十日・「卅日夕 芥川龍之介」・出雲國松江市田中原町 井川恭樣・「親披」』の私の注の「ゆんける」を参照。

「中島かね子」既出既注であるが、再掲すると、中島は旧姓。「白樺」派の柳宗悦の妻で声楽家(アルト歌手)であった柳兼子(明治二五(一八九二)年~昭和五九(一九八四)年)。私は関心がないので、詳しくは当該ウィキを参照されたい。

「トーメ」フランスの作曲家フランシス・トーメ(Francois Thomé 一八五〇年~一九〇九年)。インド洋のモーリシャス島生まれで、幼少の頃にパリに移り住んだ。ピアノ小品の作曲家として知られており、代表作は「飾らぬ告白」(Simple aveu, romance sans paroles pour piano op. 25:「素朴な告白、ピアノのための言葉なきロマンス」作品二十五)など。パリ音楽院でマルモンテルにピアノを、デュプラートに音楽理論を師事した。ピアノ作品の他には、バレー音楽・オペラ・オーケストラ作品・宗教曲を作曲している。

「樋口信平」(?~大正九(一九二〇)年)はバス歌手。大正二(一九一三)年、東京音楽学校卒。主に母校の音楽会で活躍した。

「舞臺協會」日本の大正期の新劇団。その名称は一八九九年にロンドンに創立されてイギリスの近代劇運動を担った「ステージ・ソサエティ」(Stage Society)の訳語に由来する。大正二(一九一三)年に坪内逍遙が主宰した劇団「文芸協会」の解散直後に、同劇団の若手たち(加藤精一・佐々木積(つもる)・山田隆弥・吉田幸三郎ら)が設立したもので、この年の十一月二十八日に帝国劇場で第一回公演を以下の演目で行っている。同劇団には夏目漱石門下の評論家でドイツ文学者であった小宮豊隆が文芸面を担当していた。

「惡魔の弟子」アイルランドの文学者・脚本家・劇作家にして教育家・評論家ジョージ・バーナード・ショー(George Bernard Shaw 一八五六年~一九五〇年)の一八九七年の作品‘The Devil's Disciple’。筑摩全集類聚版脚注に、『リチャアド、ダッヂョン夫人、スウィンドン少佐・バーゴイン將軍は』孰れも『その登場人物。佐々木積の訳』とある。佐々木積(明治一八(一八八五)年~昭和二〇(一九四五)年)は長野県生まれの俳優。本名は佐々木百千万億(つもる)。早稲田大学露文科卒。「文芸協会」第一期生となり、卒業公演「ハムレット」に出演。協会解散後、この「舞台協会」を創設。後、大正五年には、ハルピンに渡り、陸軍軍属としてロシア語通訳となった。大正一〇年に「舞台協会」が再興されると、帰国、大正十三年には「同志座」を結成した。その後は東亜キネマや日活で活躍した。本義局は私は読んだことがないのでストーリーは知らないが、こちら(世界救世(メシヤ)教教主岡田自観(岡田茂吉)氏の論文集のサイト内)のこちらに、その芝居についての岡田氏の書かれたものと思われる記事(「バーナード・ショウ」。『栄光』第七十八号(昭和二五(一九五〇)年十一月十五日発行))があり、『実に面白くもあり、心を打たれた。その筋というのは、ここに英国のある小やかな町に、一人の牧師がいた。すると牧師の留守に警吏がやって来た。ある罪状のため警察へ連行の目的で来たのであるが、不在なので留守をしていた牧師夫人にその事を言った。夫人は非常に驚き恐れ、なす事を知らない有様だ。ところが、その少し前から来ていた一人の男があったが、それは町でも評判な不良青年で、綽名(あだな)を悪魔の弟子と言われているくらいだから推して知るべしだ。今警吏の前で震えている夫人を見るに見兼ねていた悪魔の弟子は何と思ったか、イキナリ』、『警吏に対(むか)って、その罪なら僕がやったんだから、僕を引張ってくれと名乗り出た。警吏も普段が普段のこの男として、そうに違いあるまいと、何の疑いもなく、警察へ引張って行ったのである』。『すると間もなく当の牧師が帰って来たので、夫人はその話をすると、牧師は見る見る顔色が変り、精神的苦悶の状明らかに見られる程だ』。『それは自分はその罪を何とかして逃れたいとその手段を日夜考えていた際とて、自分の卑怯な心理に自責の念が湧き起ったのだ。その醜い心をアザ笑うかのように、身を挺して犠牲になったのは誰あろう悪魔の弟子だったのだ。彼のその崇高なる聖者にも等しき勇気と、そうして愛の発露には流石(さすが)の牧師も慙愧(ざんき)の念をどうする事も出来なかった。これでは聖なる神の使徒たる自分は、悪魔の弟子にも劣るのではないかという訳で、確か妻君に対って懺悔をすると共に、悪魔の弟子を助けるべく警察へ急行し釈明し、軽い罪だったと見えて即座に釈放され、同行帰宅したのであった。直ちに悪魔の弟子に感謝と共に、賞め讃えたという筋であったと思う』とあった。

「負けたる人」ドイツの詩人・小説家・劇作家ヴィルヘルム・フォン・ショルツ(Wilhelm von Scholz 一八七四年~一九六九年:叙情的な象徴詩人として出発したが、新古典主義を提唱し、戯曲「コンスタンツのユダヤ人」(Der Jude von Konstanz:一九〇五)年などを発表。その後、古典的形式に神秘主義の思想を盛り込み、夢幻的なオカルトの世界と現実が交錯する二重の世界を描くなど、作風が一変した)が一八九九年に発表した戯曲(Der Besiegte:「打ち負かされし者」)。彼の作品主題はナチス・ドイツに歓迎され、それに迎合したとされて、現在のドイツでは全く顧みられない作家であるとのことである(当該ドイツ語ウィキに拠る)。筑摩全集類聚版脚注に、『翻訳は森鷗外』とある。作品内容は不詳。持っているのだが、読んでいない。先日、当該「選集」を引っ張り出したのだが、またまた、書籍の山積みの何処かに隠れて見当たらない。その内、読んで追記する。

「森」森英治郎(明治二〇(一八八七)年~昭和二〇(一九四五)年)は横浜生まれの俳優。京華中学中退。「文芸協会研究所」を経て、明治四四(一九一一)年、「文芸協会」に入る。見事な演技力で若手四天王の一人と称された。大正九(一九二〇)年、日活向島撮影所に、主演俳優として招かれ、、田中栄三監督作品「朝日のさす前」などに主演。一時は「舞台協会」に属したが、大正十二年には日活専属となった。溝口健二監督の初期の名作「霧の港」に沢村春子と主演。震災後は日活を退社し、「同志座」を結成、大正十五年に「宝塚国民座」の結成に参加して以来、舞台に専念した。満州への巡業慰問中に肺結核で倒れ、翌年に死去した。

「林千歲」(ちとせ 明治二五(一八九二)年~昭和三七(一九六二)年)東京市芝区琴平町生まれの俳優。本名は河野千歳。明治四十二年日本女子大学英文科入学。「文芸協会演劇研究所」に入り、この大正二年に第二期生として卒業している。この間、有楽座で協会公演「故郷」に松井須磨子と初舞台を踏み、「文芸座」公演など新劇初期に活躍した。大正九年、「国活角筈(つのはづ)撮影所」に入り、細山喜代松監督「短夜物語」で映画初出演を果たし、次いで巣鴨撮影所に所属、大正十一年に松竹蒲田へ招かれ、大久保忠素(ただもと)監督の「小夜嵐」に主演。池田義臣監督の「二つの道」以後、母親役から脇役に回り、昭和五(一九三〇)年に退社して、昭和八年には日活太秦に入った。昭和十七年の皇国映画配給の村上潤監督の「母の顔」で主演を演じている。

「金井」金井謹之助(明治二六(一八九三)年~二八(一九五三)年)は俳優。新国劇俳優として知られる。明治四十四年の「文芸協会」(彼は第二期生)第一回帝劇公演「ハムレット」で初舞台を踏んだ。大正六年、沢田正二郎の「新国劇」結成に参加、一時、離反したが、沢田の没後、新国劇再建のために尽力し、劇界の美談とされた。映画でも複数作品で主演をこなし、舞台では「沓掛時次郎」や「関の弥太っぺ」などを好演した。

「佐々木」既注の佐々木積。

「フューザン會」この大正二年に創設された美術団体。初めは「ヒュウザン會」と称したが、のち「フュウザン會」に改める。文展系の絵画に反発した高村光太郎・岸田劉生・斎藤与里(より)・木村荘八・萬鉄五郎(よろずてつごろう:私の非常に好きな画家である)らが組織し、機関誌『フュウザン(ヒュウザン)』を発行。後期印象派やフォーヴ風な個性的表現を志向し、当時の青年画家に大きな影響を及ぼしたが、翌年に解散した名前のそれはフランス語‘fusain’で「木炭」の意味である。

「順天中學」現在の東京都北区王子本町にある私立順天中学校・高等学校の前身。当時は東京府神田区中猿楽町(現在の神田神保町二丁目。グーグル・マップ・データ)にあった。

「自由硏究所」筑摩全集類聚版脚注に、『北山清太郎が設立した公開の絵画研究所。神田自由研究所のこと』とある。北山清太郎(明治二一(一八八八)年~昭和二〇(一九四五)年)は水彩画家・雑誌編集者で、同時代の若い画家たちを支援した人物として知られ、また、「日本初のアニメーション作家」の一人として知られる人物でもある。「日本水彩画会」大阪支部代表となり、「日本洋画協会」を設立、『現代の洋画』を発刊、「フュウザン会」の設立にも尽力し、展覧会開催を支援した。大正五(一九一六)年以降はアニメーションの世界に転じて、「北山映画製作所」を設立している。

「三並」画家三並花弟。「フュウザン会」所属。詳細事績不詳。

「小林德三郞」(明治一七(一八八四)年~昭和二四(一九四九)年)は洋画家。広島県生まれ。本名藤井嘉太郎(幼少期に伯父の養子となった)。明治四二(一九〇九)年東京美術学校西洋画科卒。「フュウザン会」所属。『ふくしま美術館所蔵品展示目録』(第百二十四号)の「再発見! 小林徳三郎」(PDF)に非常に細かい解説と年譜及び幾つかの作品のカラー画像が載る。必見! そこにはこの龍之介の書簡の引用もある。それを見ると、彼は「芸術座」の舞台装飾や書籍装幀なども手掛けている。

「江川一座」筑摩全集類聚版脚注に、『玉乗などの曲芸軽業の一座』とある。「大辞泉」の「江川の玉乗り」には、『明治初期から関東大震災前まで東京の浅草六区で興行していた江川作蔵一座の玉乗りの曲芸』とある。ウィキに、「江川の玉乗り」で知られる本名迫與三郎(さこよさぶろう)についての二代目「江川マストン」があるが、そこに、『「江川の玉乗り」は』明治一七(一八八四)年、『区画整理により』、『東京の「浅草公園六区」に見せ物小屋等が成立し始めたころから、関東大震災までの期間、常打ち』(じょううち)『小屋「大盛館」(現在の浅草新劇場の位置)で興行が行われた曲芸の一座で、幕末からのキャリアを持つ興行師・江川作蔵』★☜★『がこれを率いた』とある。『のちの二代目江川マストンは、初代マストンのもとで』大正六(一九一七)年、『江川 茶目(えがわ ちゃめ)の名で舞台に上がっている』。『同時期に軒を隔てた向こう側には第一共盛館(のちの大勝館)があり、青木一座が「青木の玉乗り」の興行を行い、競い合っていた』。『「江川の玉乗り」は小屋での見世物であり、大道芸ではなく、したがって江川は大道芸人ではない』とあり、『初代についてはほとんど知られていない』とある。これを見る限り、初代の江川マストンというのが、江川作蔵のようには読めるが、定かではない。なお、先の注に出した萬鉄五郎の「図版解説」(『美術研究』二〇〇九年三月・国立文化財機構東京文化財研究所発行。残念ながら、図版は総て除去されてある)として、田中淳氏の「萬鉄五郎  《軽業師》および《太陽と道》」(PDF)がこちらで読めるが、その絵「軽業師」は江川一座をこの前年の大正元(一九一二)年に描いたものらしい。そしてそこに、同年四月発行の雑誌『新小説』(一九一二年四月)にある「浅草研究」と題する特集記事の引用が掲載されてあり、その中の『高崎春月「池の向ふ歩き」は、当時の』『浅草のルポルタージュなかでも、ことに「玉乗り」の江川一座の見物記が含まれて』いるとして、以下が引用されている(漢字の表記はママ。踊り字「〱」は正字化した)。

   《引用開始》

大盛館の江川玉乗一座へ入る。入らはい入らはいといはれた言葉に連れられて、ウカウカと入つた。 そして又ウカウカと見物した。 綱渡りもあつた。 危険千萬な、心の躍るのを禁じられない様々な技藝が、様々な形に於て演じられた。世の中の種々な技藝が、漸く機械的にならうといふのに、この種の技藝が絶大な習練を要し演技者の自信を要し、而して多年の苦心努力を要するもので、今また多く世に容れられないものとなりつゝあるのを遺憾に思はずには居られない。我等は長くこの種の技藝を保存し置きたく思ふと同時に、この種の演技者を保護しなくてはなるまいと思ふ。先づ浅草の見世物を軒別に調査する必要がある。数年前まで今の大勝館の所に青木一座といふ玉乗があつた。今のオペラ館の所にも都踊があつた。世界館の所にも都踊式のものがあつた。電気館の所か、其所にも手踊があつた。○一も居た。海坊主も居た。書生剣舞加藤一座といふのも居た。兎に角常磐座を中心にしたあの附近は今でこそ総てを活動写真に、占領されて居るが、以前は日本式の見世物が並んで居たものである事を忘れてはならない。[やぶちゃん注:最後に引用注記があるが、省略した。]

   《引用終了》

文中の「○一」については、田中氏が『丸一(まるいち)と称された江戸太神楽の一派の名称である』とある。

「莊八」洋画家・版画家で随筆もよくした木村荘八(しょうはち 明治二六(一八九三)年~昭和三三(一九五八)年)。東京生まれ。「白馬会洋画研究所」に学び、岸田劉生とフューザン会・草土社を結成した。後に「春陽会」創立会員となる。小説の挿絵で名を馳せ、随筆家としても著名で、「東京繁昌記」の画文章は芸術院恩賜賞を受けている。また、邦楽評論家としても知られた。

「與里」洋画家。斎藤与里(明治一八(一八八五)年~昭和三四(一九五九)年)は埼玉県生まれ。本名は与里治(よりじ)。「京都聖護院洋画研究所」に学び、渡仏してローランスに師事。帰国後は後期印象派を日本に紹介し、岸田劉生らと「フュウザン会」を結成するなど、洋画界進展に大きな役割を果たした。後に大阪に移り、矢野橋村と大阪美術学校を設立した。

「DORA VON MOLLENDORFF の CONCERT」ドイツの女性ヴァイオリニストであるドーラ・フォン・メーレンドルフ(Dora Von Möllendorff 一八八六年~一九五九年)。同年十一月二十九日(土曜日)に帝国ホテルで鑑賞している。ネット上では邦文記載がまるでないが、英文サイトを見ると、彼女はこの頃、ヨーロッパで非常に成功したヴァイオリニストであったことが判った。

「ぺッツオルド」まず、既出既注の「ペツツオルド夫人」で、東京音楽学校教師として声楽の指導をした、ノルウェーのピアニスト・声楽家(ソプラノ)ハンカ・シェルデルップ・ペツォルト(Hanka Schjelderup Petzold 一八六二年~一九三七年)であろう。「補助として出演」とあるので、恐らくはピアノ伴奏をしたものであろう。

「久保正夫」(明治二七(一八九四)年~昭和四(一九二九)年)は芥川龍之介の一高・東帝大の後輩。大学では哲学を専攻し、第三高等学校講師となった。「フィヒテの哲学」などの翻訳で知られ、聖フランチェスコの関連書を多く訳し、友人であった劇作家の倉田百三とともに、大正時代の宗教文学ブームの先駆けを作った人物として知られる。

「石田」既出既注の後に歴史学者・東洋学者となった一高の同級生で親友の石田幹之助(明治二四(一八九一)年~昭和四九(一九七四)年:千葉市出身)のこと。

「FOUNDER」ファウンダー。創立者・始祖・開祖。

 「齋藤さん」斎藤阿具(あぐ 慶応四(一八六八)年~昭和一七(一九四二)年)は一高の教授で歴史学者(西洋史専攻)。夏目漱石の友人としても知られる。武蔵国足立郡(現在の埼玉県さいたま市)生まれ。明治二六(一八九三)年、東京帝国大学史学科卒業後、大学院に進み、明治三〇(一八九七)年に第二高等学校(現在の東北大学の前身)教授となったが、明治三六(一九〇三)年から三年間、ドイツ・オランダに留学した。この留学中に本郷区駒込千駄木町の家を漱石に貸し、漱石はここで「吾輩は猫である」を書いたため、「夏目漱石旧宅跡」として区指定史跡とされ、旧居記念碑が建っている(旧居は明治村に移築)。帰国後、第一高等学校教授となり、芥川龍之介・久米正雄・山本有三らを教えた。昭和八(一九三三)年、定年退官。名誉教授。日本とオランダの交渉史の研究で知られる。

「ウインデルバンド」ドイツの哲学者でハイデルベルク大学教授にして「新カント」派の代表であったヴィルヘルム・ウィンデルバンド(Wilhelm Windelband 一八四八年~一九一五年)。哲学史家としても知られる。

「攝生室」衛生室。保健室のこと。

「瀨戶さん」当時の第一高等学校長瀬戸虎記(とらき 明治二(一八七〇)年~大正九(一九二〇)年)。土佐国土佐郡高知生まれ。土佐藩士瀬戸直道の長男。高知尋常中学校から第一高等中学校英予科及び同校本科二部(理科)で学び、明治二九(一八九六)年、帝国大学理科大学物理学科を卒業後、岩手県立盛岡中学校教諭・東京高等師範学校教授・第六高等学校教授・長崎高等商業学校教授・文部省視学兼第一高等学校教授・文部省視学官などを歴任した後、この大正二(一九一三)年四月に第一高等学校長に就任していた。大正八(一九一九)年に病気で休職し、療養中に死去した。他に政府の臨時教育会議委員なども務めた。

「國民新聞」徳富蘇峰が明治二三(一八九〇)年に創刊した日刊紙。現在の『東京新聞』の前身の一つ。蘇峰が雑誌『國民之友』の発行に成功したのに気を良くして創刊したもので、当初は「平民主義」を唱え、平民主義の立場から政治問題を論じていたが、三国干渉問題を契機に帝国主義的国家主義の立場を採るようになり、明治後期から大正初期にかけては山縣有朋・桂太郎・寺内正毅ら藩閥勢力や軍部と密接な関係を持ち、「御用新聞」とも呼ばれる政府系新聞の代表的存在となっていた。筑摩全集類聚版脚注には、『瀬戸の談話は』「誠実なれ(『現代学生の欠陥)で十二月二日に掲載』とあるが、龍之介は「三日つゞきで論じてゐる」とあるからには、十二月一日或いはその前から書いていないとおかしい。

「ガルスウアシイの詩集 MOODS, SONGS AND DOGGERELS」イギリスの小説家・劇作家ジョン・ゴールズワージー(John Galsworthy 一八六七年~一九三三年)の一九一二発表の ‘Moods, Songs, and Doggerels’(「気紛れ、唄ども、ヘボ詩」)。‘Doggerel’(ドッゲル)は「内容も不真面目で、韻律も不揃いな下賤な詩」を指す語。一九一九年版であるが、‘Internet archive’のこちらで原本が読める

「ベルグソン」フランスの哲学者アンリ=ルイ・ベルクソン(Henri-Louis Bergson  一八五九年~一九四一年)。ここで龍之介が言う「流轉の哲學の思想」というのは名著とされる「物質と記憶」(Matière et Mémoire:一八九六年)に於ける心身の把握、実在とは持続の流動であると規定し、身体(物質)と心(記憶)を「持続の緊張と弛緩の両極に位置するもの」として捉えたことを指しているのであろう。

「MY DREAM の終の三つのスタンザなぞはいゝと思ふ」‘Internet archive’のこちらと次のページ。確かに。当時の龍之介好みの感じではする。

「高楠さん」仏教学者・インド学者高楠順次郎(たかくすじゅんじろう 慶応二(一八六六)年~昭和二〇(一九四五)年)。備後国御調(みつぎ)郡(三原市八幡町)の農家沢井家に長男として生まれた。当該ウィキによれば、幼い頃から祖父に漢籍を習ったが、旧家とはいえ、進学するだけの余裕はなく、十四歳で『小学校教員として働き始めた。その後、近隣出身で当時西本願寺を代表する学僧であった日野義淵(足利義山の子)や是山恵覚等の助力もあって』、二十一『歳の時、西本願寺が京都に創設したばかりの普通教校(現龍谷大学)に入学した。在学中は同志を集めて禁酒運動を始め』、『『反省会雑誌』(後の『中央公論』)を刊行した』。『その後、請われて神戸の裕福な高楠家の婿養子となり、その援助で英国に留学』(オックスフォード大学)し、その後、『ドイツやフランスにも留学。帰国すると』、『東京帝国大学で教鞭をとり』、明治三〇(一八九七)年に『梵語学講座を創設、自ら研究に励んだだけでなく、宇井伯寿』『など多くの逸材を育てた』。「大正新脩大蔵経」や「南伝大蔵経」『等の大規模出版物を次々と企画し』、『刊行した。さらに高楠は数々の高等教育機関の設立や運営にも携わり、その多くは今日』、『大学に発展している。知力』・『体力に恵まれ、たゆまぬ努力で巨大な業績を残したが、病気で家族を次々に失い』、『家庭的には恵まれたとはいえなかった。しかし自身は、祖父譲りの篤信の真宗信徒で、朝な夕な』、『仏壇に向かい』、『念仏を唱えていたという』。『子息の高楠正雄は出版社「大雄閣」を創業し、父の著書をはじめとした仏教関連書などを刊行している』とある。

「黑板さん」歴史学者(専門は日本古代史・日本古文書学)で東京帝国大学名誉教授黒板勝美(明治七(一八七四)年~昭和二一(一九四六)年)。旧大村藩士黒板要平の長男として長崎県彼杵郡(現在の長崎県東彼杵郡)に生まれた。大村中学校から熊本の第五高等学校を卒業後、明治二九(一八九六)年に帝国大学文科大学国史科を卒業し、帝国大学大学院に入学、同時に経済雑誌社に入り、田口卯吉の下でかの「国史大系」の校訂に従事した。明治三四(一九〇一)年、東京帝国大学史料編纂員となり、翌年には東京帝国大学文科大学講師を嘱託され、明治三十八年には史料編纂官兼東京帝国大学助教授となった。同年「日本古文書様式論」により東京帝国大学より文学博士の学位を授与されている。明治四十一年から二年間、私費で学術研究のために欧米各国に出張している。大正八(一九一九)年、史料編纂官兼東京帝国大学教授に就任した(翌年に史料編纂官を退任して東京帝国大学教授専任となった)。

「貝多羅葉」「ばいたらば」と読む。古代サンスクリット語の「木の葉」の意の漢音写。上古のインドに於いて針で彫りつけて経文を書き、紙の代わりに用いたタラジュ(単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科コウリバヤシ(行李葉椰子)亜科コウリバヤシ連コウリバヤシ属タラジュ(多羅樹)Corypha utan )の葉を指す。

「とりで」後の映画監督・脚本家・俳優で日本映画監督協会初代理事長となった村田実(明治二七(一八九四)年~昭和一二(一九三七)年:東京神田で大日本図書株式会社重役の一人息子として生まれ、東京高等師範学校附属小学校(現在の筑波大学附属小学校)から東京高等師範学校附属中学校卒業後、慶應義塾文科聴講生。帝劇文芸部の給仕から、作家の書生などを転々とした)が、明治四五(一九一二)年九月に実家の金でメーテルリンクなどに大きく影響を受けた演劇美術雑誌『とりで』を発行(翌年十月の八号までとされる。但し、年譜では観劇記録がない。龍之介自身、乗り気でない感じで、或いは見に行かなかったのかも知れない)し、その一歩で、同年十月に結成した新劇団「とりで社」。筑摩全集類聚版脚注によれば、これはその第二回公演とする。後に宝塚歌劇の演出家となる岸田辰弥や、舞踊家として海外で活躍することになる伊藤道郎、画家の木村荘八らが参加し、築地精養軒ホール・有楽座・福沢桃介邸の小劇場で公演を行い、この間に沢田正二郎・小山内薫らと知り合った。しかし家の経済に負担をかけたことから、翌大正三年には解散した。その後は喜多村緑郎門下などの新劇団を転々とし、下積み生活を送ったが、この間に父の事業が失敗した。後、「映画芸術協会」に参加、小山内薫の「松竹キネマ研究所」で「路上の霊魂」(大正九年)を監督した。洋画の手法を積極的に取り入れ、松竹の「蒲田調」に対し、男性的で重厚な日活現代劇の基礎を築いた人物として知られる。

「ウオーレン夫人の職業」バーナード・ショーの一八九四年(改訂の一九〇二年版もある)の戯曲‘Mrs Warren's Profession’。売春と結婚制度をテーマとしたため、イギリスでは劇場検閲制度によって上演禁止となった。筑摩全集類聚版脚注によれば、『この公演は村田実訳』とある。

「イエーツの幻の海」これは、アイルランドの詩人・劇作家ウィリアム・バトラー・イェイツ(William Butler Yeats 一八六五年~一九三九年)が一九〇一年に書いた一幕物の悲劇「海に騎(の)り行く者たち」(Riders to the Sea:一九〇四年)のこの時の邦訳題であろう。筑摩全集類聚版脚注によれば、『この上演は仲木貞一の訳』とある。前にも述べた通り、後に芥川龍之介の慫慂で、この井川恭が『新思潮』に翻訳することになる、あれである。仲木貞一(明治一九(一八八六)年~昭和二九(一九五四)年)は劇作家・編集者。当該ウィキを参照されたいが、この翻訳の記事は載っていない。

「根本」既出既注

「谷森」既出既注

「日本舘」「につぽんかん」(にっぽんかん)と読む。かの「浅草オペラ」(大正六(一九一七)年~大正一二(一九二三)年)の時代に浅草公園六区で初めてのオペラ常設館となった劇場・映画館(一八八三年十月開業。一九九〇年前後(既にピンク映画上映館となっていた)に閉鎖)。同所にあった根岸興行部の「金龍館」と競い合った。

「佐野」既出既注。例の「マント事件」の真犯人である。

「石原」既出既注

「黑田」既出既注

「八木」既出既注

『句あり「山羊の毛も刈らでくれけり秋の牧」』私は「やぶちゃん版芥川龍之介句集 三 書簡俳句」で芥川龍之介の最初期の一句として採用している。

「佐伯」既出既注

「坂下」坂下利吉。岩波新全集の「人名解説索引」に、『芥川の一高時代の同級生』でとし、『東京の生まれ』で、東帝大『哲学科卒』。愛媛『県立宇和島高等女学校長などを勤めた』とある。県立宇和島高等女学は現在の県立宇和島南高等学校も前身の一つ。同校校長在任は大正一五(一九二六)年から昭和六(一九三一)年であった。芥川龍之介を聴いたのもその時だったことになる。なお、「每日賄で生姜を食つた」というのは、この時、既に父母は東京にいなかったということであろうか。

「本鄕菊坂」ここ(グーグル・マップ・データ)。

「何とか日米露(ヒメロ)」不詳。この当て字の名前は妙に気になる。

「佐野にかしたのがかへつてこないと云つて悲觀してゐる」あいつじゃ、永久に帰ってこないよ、成瀬。もうとっくに質流れさね。

「玉乘の女を主人公にした小說起稿中」筑摩全集類聚版脚注には、『不明。浅草公園の芸人に取材して後に』久米正雄は『「手品師」(大正五年四月)を書いている』とある。同作は幸いにして、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらから読める。また、こちらの読書レビューによれば、『「手品師」のモデルは山本有三(第』三『次新思潮同人)。これに山本は怒り、その後、破船事件を挟んで二人は絶交状態に入』ったとある。私は久米正雄は夏目筆子への失恋後の筆禍といい、これといい、龍之介は最後まで彼を信頼したが(凄絶な遺稿「或阿呆の一生」(リンク先は私の古い電子テクスト)は冒頭の辞が彼に当てられて書かれてある)、私はそうした騒動が起こることを確信犯として行っているとしか思えない彼が、どうも好きになれないのである。

「山宮さん」一高・東帝大の一年上級の山宮允(さんぐうまこと 明治二三(一八九〇)年~昭和四二(一九六七)年)。後に詩人・英文学者となり、「日本詩人クラブ」の発起人の一人である。山形県生まれ。県立荘内中学校(現在の山形県立鶴岡南高等学校)から一高に進んだ。一高時代から『アララギ』の歌会に参加している。大正三(一九一四)年、帝大在学中に、中心となって第三次『新思潮』を豊島与志雄・山本有三・土屋文明・芥川龍之介・菊池寛・成瀬正一・久米正雄・佐野文夫・松岡譲とともに創刊した。大正四(一九一五)年に東京帝国大学英文科を卒業後、大正六年に川路柳虹らと「詩話会」を結成、大正七年には評論集「詩文研究」を上梓した。後、第六高等学校教授・東京府立高等学校教授・法政大学教授を務めた。ウィリアム・バトラー・イェーツやウィリアム・ブレイクの翻訳紹介で知られ、昭和二四(一九四九)年に日夏耿之介・西條八十・柳沢健らとともに「日本詩人クラブ」を創立、常務理事長を務めた。

「畔柳さん」英語学者で第一高等学校教授であった畔柳芥舟(くろやなぎかいしゅう 明治四(一八七一)年~大正一二(一九二三)年)。山形県生まれ、本名は都太郎(くにたろう)。東京帝国大学英文科卒。大学在学中から『帝国文学』などに論文を発表し、文芸批評家として注目された。明治三〇(一八九八)年に第一高等学校教授となり、後は「大英和辞典」(昭和六(一九三一)年冨山房刊・共著)などの編集に専念した。著書に「文談花談」(明治四〇(一九〇七)年春陽堂刊)・「世界に求むる詩観」(大正一〇(一九二一)年博文館刊)などがある。

「SHAW」バーナード・ショー。

「久保謙」筑摩全集類聚版脚注に、『大正六年東』帝『大英文卒、英文学者』とある。この七年後の大正九年四月に旧茨城県東茨城郡常磐村に設立された旧制水戸高等学校(現在の茨城大学の前身)で、創設以来、英語を教授したことが、ある論文に載っていた。

「久保勘」筑摩全集類聚版脚注に、『久保勘三郎。大正四年東』帝『大英文卒、英文学者』とある。

「TRANSCENDENTAL GOD」超自然的・形而上的な神。

「IDEAL」理想。

「プラトー」プラトン。

「BETONEN」「ベトゥネン」。ドイツ語。「重視する」の意。

「オイツケン」ドイツの新理想主義の哲学者ルドルフ・クリストフ・オイケン(Rudolf Christoph Eucken 一八四六年~一九二六年)。一九〇八年、「真理の倦むことのない探究と透徹した思想の逞しさ、世界に開かれた眼差し、温厚にして力強い叙述と、それによって理想的な世界観を代表し、発展させた」という理由により、ノーベル文学賞を授与されている。芥川龍之介の「大導寺信輔の半生――或精神的風景畫――」(大正一四(一九二五)年一月一日発行の雑誌『中央公論』発表)の草稿の「空虛」の中の一節で、『信輔も彼の友だちのやうに哲學を第一の學問にしてゐた。同時に又彼の「えらいもの」も哲學的を第一の條件にしてゐた。彼はその爲に何よりも先に哲學の中へ没頭した。當時の哲學はベルグソンに第一の座を讓つてゐた。信輔はまづ手當り次第に「時間と自由意志」へ侵入した。それは硝子の建築よりも透明を極めた建築だつた。彼はこの冷たい壮嚴の中を犬のやうに彷徨した。が、犬の求める肉は不幸にも其處には見當らなかつた。彼はベルグソンの建築を出た後、これも當時の流行だつたオイケンの門へはひらうとした。しかしオイケンの宗敎的情熱は忽ち彼を不快にした』と記している。私の「大導寺信輔の半生――或精神的風景畫――」(草稿附きの古い電子テクスト)を読まれたい。

「ネオロマンチツク」Neoromantic。新浪漫主義的。

SHAW AS A DRAMATIST」「劇作家としてのショー」。

「文展……」以下は総て既出既注。]

2021/03/16

只野真葛 むかしばなし (21)

 

○父樣實方(じつかた)の丈庵樣と申(まうす)ぢゞ樣は、心もち、ゆるゆるとして、溫順なる人なりしとぞ。[やぶちゃん注:「實方」は仙台叢書も同じ。「日本庶民生活史料集成」版では『實家』となっている。さて、ここで真葛は「丈庵」と言っているのだが、これは、以下が工藤平助の実の父である紀州藩江戸詰藩医長井基孝(長井大庵)及びその長井家についての叙述となっているから判るように、平助の養父工藤丈庵安世のことではなく、実父の思い出である。私は「大庵」の誤りか、判読の誤りのように思ったのだが(「大」と「丈」は崩しで似る)。しかしそうなると、「日本庶民生活史料集成」が修正注やママ注記をしていないのが不審となるので、調べて見ると、底本の鈴木よね子氏の解題では、実父を「長井常安」(養父の「常世」と混同されやすい名である)とし、当該人物を記したウィキの「長井基孝」(これが平助の実父の本名らしい)によれば、『平助の娘工藤あや子(只野真葛)の著作『むかしばなし』には長井大庵の名で記される。「基孝」は平助の墓誌による。『伊達世臣家譜』には「長井常安某」と記載される。丈庵、大雲、高基、孝基などとも記される』という、とんでもなくややこしいことが書いてあるのである(養父と同じ医号の「丈庵」とここのようにやらかしてしまうとなら、最早、誤読は不可避となってしまう)。少なくともしかし、「むかしばなし」では凡例注記して「大庵」で統一するか、補正注、或いは、せめてもママ注記を附して注意を促すのが、編者の最低限のなすべきことであろうと私は思う。

 ばゞ樣は、萬事に器用、手も繪もならはずに、よく御書ㇾ成しとなり。御子樣がた、男三人・女壱人、それは善助樣と父樣の間に有りしが、はやく不幸なり。

 其先祖[やぶちゃん注:ここでは実父長井家の話に転じているので注意。]は播州の城主にて有しを、いくさの時分に、秀吉のためにほろぼされ給へること、軍談物にも載りしことなり。それより、鄕士となりて、代々、播州に住居(すまゐ)被ㇾ成、家名、賀古(かこ)・長井と、ふたやうなりしとぞ。賀古川とて大河有(あり)、其(その)「運上(うんじやう)」[やぶちゃん注:河川を用いた運送業の権利。なお、江戸時代になると、雑税の一つとして、商・工・漁・鉱・運送などの営業者に対し、賦課した税をも「運上」と称した。]と「隱し田地」などの有しにて、ゆたかに暮していらせられしを、物、ふり、時、うつりて、公儀より、國々の「かくし田地」・諸運上などの、わたくし有(ある)ことなどを手入(ていれ)有し時、「川運上」・「かくし田(だ)」、共(とも)、のこらず、御取揚と成、せんかたなくて、大坂へ御いで被ㇾ成しは、ひぢゞ樣の代なり。

 いかに公儀のことにても、さやうに、むたいに御取上とは、なるまじきことなるを、其頃は、ひぢゞ樣、りつぱ好(ごのみ)にて、公儀御役人にあやまる心、露(つゆ)なく、

「此(この)川の儀は、手前(てまへ)、苗氏(みやうじ)をもて、名と成(なせ)し程のこと、數代(すだい)領し來りしものなれば、いづくまでも我物よ。」

など、少し、りきみ過(すぎ)しがあたり[やぶちゃん注:「返報」の意か。「徒(あだ)」の方が躓かぬ。]と成(なり)、いひつのりに成て、終(つひ)に、なさけなき目にあわせられし[やぶちゃん注:ママ。]とか、伺ひし。

[やぶちゃん注:「播州の城主」「日本庶民生活史料集成」の中谷栄子氏に注よれば、『播磨国の城主野口四郎座衛門、現在も野口の地名がある』とある。兵庫県加古川市加古川町の「ごくらくや仏壇店」公式サイト内の「加古川探訪」の「野口城跡」に、現在の加古川市野口町(のぐちちょう)にあった『「野口城」は室町時代に播磨の土豪・長井四郎左衛門尉国秀が築いたといわれています。「野口城」が歴史の舞台に上がったのは』、天正五~六年(一五七七~一五七八年)の『羽柴秀吉による播磨攻めの時で』籠城『戦法をとった別所長治の三木城の支城として加古川市内に点在する城の中で、一番最初に秀吉の攻撃を受けたのが「野口城」でした。城の周囲は沼が点在する湿地だったようで、守るに易く攻めるに難い地形を活かし、僅か三百名ほどの手勢で包囲して波のように押し寄せる秀吉の大軍を悩ませながら約』二『日間』、『守り通して善戦しました。しかし、やはり多勢に無勢で別所長治の三木城も包囲されていたことから』、『救援も補給も受けられず、ついに落城し』、『全員が討ち死にしたと伝えられています』とある。ここである(グーグル・マップ・データ航空写真。以下同じ)。

「賀古川」古くは加古川をかく書いた。旧野口城の西北約三キロメートル位置に加古川が流れる。加古川は播磨内陸部への重要な交通経路であった。]

 

 さて、ひぢゞ樣御かくれ後(のち)、たつきのために、ぢゞ樣は、醫業、御まねび被ㇾ成しなり。

 紀州家へ、めしかゝヘとならせられても、四十餘(あまり)まで、男子、三人、有ながら、御達(おたつし)しなかりし故、君(くん)、うたがはしくおぼしめされしや、ある時、御かたはら近く、めしよせられて、

「其方こと、としも五十におよびながら、跡目(あとめ)のことは、いかゞ心得たるぞ。」

と、たづねさせ給ふに、ぢゞ樣、さしうつむかれ、しばし、落淚、有て、

「有がたき思召(おぼしめし)に候。私ことは、かねて申上(まうしあげ)しごとく、先祖は長井四郞左衞門と申(まうし)て、一(ひとつ)の城の主(あるじ)とも申されし末(すゑ)の、いかに、たつきなければとて、永く長袖(ちやうしゆう)[やぶちゃん注:医師。]になり、きわまり[やぶちゃん注:ママ。]候はんことは、餘りに口惜しく、先祖へ對し不敬のことゝ存候間、私一代にて跡をたちし所存にて候。」

と申上られしを、君も、尤(もつとも)におぽしめされて、かくべつ、思召を以(もつて)、丈庵にかぎり、跡を武士になし被ㇾ下しは、有がたきことなり。君も君たり、臣も臣たりとやら、申にもあらんか。

 總領は先の四郞左衞門樣、次は善助樣、其ほどは善治と申せしとぞ。父樣は長三郞と申せし故、總領を長庵とは御付被ㇾ成しなり。

 四郞左衞門樣は、澁川流のやはらの傳授、取(とり)、書物も、はづかしからぬほどには御よみ被ㇾ成しなり。酒好(さけずき)にて、大酒なりし。折から、御はなしに、

「大ほね折(をり)てならひしこと、一生に、只、兩度(ふたたび)、役に立(たち)しとおもひし。一度(ひとたび)は若年の時分、亂心もの、拔身をさげて、藏にこもりしを、取手にたのまれしこと、有し。『いかに拔身を持(もち)しとて、亂心物をとらふるに、身ごしらへすべからず』とおもひて、うら付(つき)上下(かみしも)、つまはさみして、藏の戶をおし明(あけ)、すらすらと、よりて、刀(かたな)持(もつ)たる手を取(とり)、腕、まわせしに、何のことも、なかりし。」

と被ㇾ仰し。

 それより、二十年餘をへて、紀州家より賀々[やぶちゃん注:底本ではここに『(加賀)』という補正注が入る。]へ御緣組有し時、御付人(おんつきびと)の奧年寄仰付られ、ひしと、賀々へ、其(それ)、つとめ[やぶちゃん注:底本は「つめ」。これでも意味は通るが、私は「日本庶民生活史料集成」で訂した。]被ㇾ成しに、賀州家にては、上(うへ)より御世話有て、若もの共(ども)の武藝稽古所、有ㇾ之(これあり)、日ごとに、いどみあらそふことなりしに、

「誰は、つよいの、よくつかうの。」

と、いろいろ、いひ唱ふることなりしに、をぢ樣は、

『いまだしきまねびよ。』[やぶちゃん注:『修行が足りない、騒がしいばかりの連中じゃなぁ。』。]

と、御心中におぽしめしたるのみにて、何事も御顏にいだされぬ生(なり)[やぶちゃん注:様子の謂いであろう。]なりし故、

「柔・劍術のことしらぬ故、うちだまりて有(ある)人。』

と、心得たがひせしを、猶、をかしきことゝおぼしめして有しに、若者どもは、

「あの、何もしらぬ付人を、稽古場へ引いだして、紀州家の恥、さらさせん。」

と、いひあわせて、

「ちと、稽古場へ出(いで)られよ、出られよ。」

と、しきりにすゝめしを、益無(えきなき)ことゝ、いろいろ、御(おん)のがれ被ㇾ成しを、ぜひ、出ねば、ならぬやうにしかけし故、御出被ㇾ成しに、

「先づ、こゝを、とらへて、見られよ。」[やぶちゃん注:「まずは、さて、どんな方法でも結構。拙者を、捕まえて、みらるるがよい。」。]

と、いひし時、澁川流にて、御ひしぎ[やぶちゃん注:引き潰すこと。]被ㇾ成しかば、一向、うごかれず、『嘲弄せん』とおもひし人々は、かへりて、恥をかきたりしとぞ。氣味よきことにて有し。

[やぶちゃん注:「澁川流のやはら」関口新心流を源流として渋川伴五郎義方(よしまさ 承応三(一六五四)年~宝永元(一七〇四)年)が開いた柔術流派。当該ウィキによれば、『流祖の渋川伴五郎義方は、関口流柔術二代目関口八郎佐衛門氏業の門人で、天和初年』(元年は一六八一年)『に和歌山から江戸へ出て道場を開いた』。『新流を自称したが、教授内容は関口流の古法を墨守しており、渋川本家は「関口正統渋川流」と称した』。『門人には、義方の養子となり』、『二代目を継承して渋川友右衛門胤親と改名した弓道弾右衛門政賢(友右衛門とは別人とする有力説あり)の他、広島藩士森島求馬勝豊、甲府勤番士薬師寺方正政俊(前名は宮部小左衛門)、熊本藩士井沢蠕龍軒長秀(関口流居合として伝承)などがいる』。『以上のうち、渋川本家と薬師寺の甲州伝は、いずれも大正年間に絶流したが、森島と井沢の相伝は現在に及んでいる』とある。

「二十年餘をへて、紀州家より」加賀「へ御緣組有し時、御付人(おんつきびと)の奧年寄仰付られ、ひしと」加賀「へ其つめ被ㇾ成し」さて、ここに登場する実名人物は一切生没年が判らないのだが、この部分はある程度の時制限定のヒントになるのではあるまいか。紀州家から加賀藩へ最初にちゃんと輿入れした人物というのは、第七代紀州藩主徳川宗将(むねひろ 享保五(一七二〇)年~明和二(一七六五)年)の長女千間姫(寿光院)ではないかと私は推理するからである。]

大和本草卷之十六 膃肭臍 (キタオットセイ)

 

膃肭臍 奥州松前等ノ海ニアリ本艸宗奭曰其形

非獸亦非魚也但前脚似獸而尾卽魚身有短密

淡青白毛 事玄要言曰形如狗大如猫純黃色

又曰形如狐腳高如犬豕首魚尾○篤信昔其形

狀ヲ見シニ右二書ニ云ヘル處ヨクアヘリ膃肭臍トハ

其陰莖ナリ臍ニ連子テ用ル故ニ膃肭臍ト云ト時

珍イヘリ今外腎ヲ不用全體ヲ用テ藥トスルハ

誤ナリ本艸ニ肉ノ性ヲイハス或曰其肉ヲ久ク食

スレハ害人不可食藥ニハ只陰莖ヲ用ユ不用肉

○やぶちゃんの書き下し文

膃肭臍〔(をつとせい)〕 奥州・松前等の海にあり。「本艸」に、『宗奭〔(そうせき)〕が曰はく、「其の形、獸に非ず、亦、魚にも非ざるなり。但し、前脚、獸に似て、尾、卽ち、魚。身に短密〔にして〕淡〔き〕青白〔の〕毛、有り。」と』。

「事玄要言」に曰はく、『形、狗のごとく、大いさ、猫のごとし。純黃色。』と。又、曰はく、『形、狐のごとく、腳高〔(あしだか)なり〕。犬のごとく〔して〕、豕〔(ぶた)〕の首、魚の尾〔たり〕と。』。

○篤信〔(あつのぶ)〕[やぶちゃん注:益軒の本名。]、昔、其の形狀を見しに、右二書に云へる處、よく、あへり。『膃肭臍とは、其の陰莖なり。臍〔(へそ)〕に連〔(つら)〕ねて用ひる故に「膃肭臍」と云ふ』と、時珍、いへり。今、外腎[やぶちゃん注:通常は睾丸を指す。ここは陰茎と睾丸をセットにしたものを指すか。]を用ひずして、全體を用ひて藥とするは、誤りなり。「本艸」に、肉の性〔(しやう)〕を、いはず。或いは曰はく、「其の肉を久しく食すれば、人を害す。食ふべからず。藥には、只だ、陰莖を用ゆ。肉を用いず」と。

[やぶちゃん注:既に「大和本草卷之十六 海牛 (ジュゴン?・ステラダイカギュウ?・キタオットセイ〔一押し〕・アザラシ類)」で有力候補にしてしまった、哺乳綱食肉(ネコ)目イヌ亜目鰭脚下目アシカ科オットセイ亜科キタオットセイ Callorhinus ursinus  が出て来てしまった(私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 膃肭臍(をつとせい) (キタオットセイ)」も参照されたい)。しかも、ここでは益軒は実物(但し、これ、その生物体の標本ではなく、「膃肭臍」と称する漢方生剤をであろう。どんなものか? 東京の薬局「ハル薬局」公式サイト内のこちらに、ゴマフアザラシの陰茎及び睾丸とキャプションする写真がある)を見たと言っているから、これはまた、困ったもんだ。まあ、しかし、前者は漢籍の乏しい記載から条立てしたのだから、同じものを別物として益軒が誤認することは、これ、別段、おかしくも何ともないことなんである。私順列でピック・アップしてはフラットに記載を検討しており、ここで前言の同定比定を翻す気はさらさらないと言っておく。異論があれば、御教授戴ければ、恩幸これに過ぎたるはない。

『「本艸」に、『宗奭〔(そうせき)〕曰はく……』「本草綱目」の巻五十一下の「獸之二」の「腽肭獸」の一節である。長いが、行き掛かり上、この際、乗りかかった舟なれば、拘って訓読したものを示す。国立国会図書館デジタルコレクションの寛文九(一六六九)年板行の風月莊左衞門刊の当該部の訓点を一部で参考にした。下線太字は私が附した。

   *

肭獸【上は「烏」と「忽」の切。下は「女」と「骨」の切。「宋開寶」に附す。】

釋名 骨豽【「說文」に「貀」と作(な)す。「肭」と同じ。】。海狗【時珍曰、『「唐韻」に「腽肭」は肥ゆる貎(かたち)、或いは、「骨貀」と作す。訛(なまり)て「骨訥」と爲す』と。皆、畨言(ばんげん)[やぶちゃん注:異民族の言語。]なり。」と。】。

集解 藏器曰はく、『骨肭獸(こつどつじう)、西畨の突厥國(とつけつこく)[やぶちゃん注:六世紀に中央ユーラシアに存在したテュルク系遊牧国家。]に生(しやう)ず。胡人、呼びて、「阿慈勃他你(あじぼつたや)」と爲す。其の狀(かたち)、狐に似て、大きく、長き尾。臍(へそ)、麝香に似たり。黄赤色。爛骨に似たり。』と[やぶちゃん注:完全内陸で、これはオットセイではない。]。甄權(しんけん)曰はく、『腽肭臍、是れ、新羅國の海内なる狗の外腎なり。連なりて之れを取る。」と。李珣(りしゆん)曰はく、『按ずるに、「臨海志」に云はく、『東海の水中に出づ。狀、鹿の形のごとく、頭は狗に似て、長き尾なり。每日、出でて、卽ち、浮かぶ。水面に在り。崑崙家、弓矢を以つて、之れを射て取りて、其の外腎を隂乾しすること百日、味、甘く、香、美なり。』と。頌(しよう)曰はく、『今、東海の旁らに、亦、之れ有り。舊說、「狐に似て、長き尾。」と。今、滄州にて圖する所は、乃(すなは)ち、是れ、魚の類にして、豕(ぶた)の首たり。兩足、其の臍、紅紫色。上に紫の斑㸃有り。全く、相ひ類せず。醫家、多く之れを用ふ。「異魚圖」に云はく、『其の臍を試るに、臘月、衝風の處に干して、盂水に置きて、之を浸して、凍らざる者を真と爲すなり。』と。斆(かく)曰はく、『腽肭臍は僞る者の多し。海中に獸有り、號(な)づけて「水烏龍」と曰ふ。海人、其の腎を取りて、以つて「腽肭臍」に充つ。其の物自(おのづか)ら别なり。眞なる者は一對有り、則ち、兩(おな)じき重さ、薄皮にして、丸き核(さね)を裹(つつ)む。其の皮の上、自から、肉、有り。黄毛にして、一穴に三莖、之れを器の中に收めて、年年、濕潤し、新たなるがごとし。或いは睡れる犬の頭上に置く、其の犬、忽ち、驚きて跳び、狂へる者のごときは、眞と爲すなり。』と。宗奭曰はく、『今、登莱州に出づ。其の狀、狗に非ず、獸に非ず、亦、魚にも非ざるなり。但だ、前脚は獸に似て、尾は卽ち、魚なり。身、短にして淡青の白毛、有り。毛の上、深青の黑有り。久しきときは、則ち、亦、淡し。腹の脇の下、全き白色。皮、厚く、靱にして、牛皮のごとし。邊將(へんしやう)[やぶちゃん注:国境守備軍の将軍。]、多く取りて、以つて、鞍(くら)・韉(したぐら)を飾る。其の臍は、腹・臍の積冷・衰脾・腎勞極を治するに、功、有り。别に試ること待たざるなり。狐に似て、長き尾の說、今人、多く、之れを識ず。』と。時珍曰はく、『按ずるに、「唐書」に云はく、『骨貀獸(こつどつじう)、遼西營州[やぶちゃん注:渤海附近。]及び結骨國[やぶちゃん注:キルギス。]に出づ。』と。「一統志」に云はく、『腽肭臍、女直及び三佛齊國[やぶちゃん注:インドネシア・マレー半島・フィリピンに大きな影響を与えたスマトラ島のマレー系海上交易国家シュリーヴィジャヤ王国(六五〇年~一三七七年)。]に出づ。獸にて、狐に似て、脚高にして、犬のごとく、走ること、飛ぶがごとし。其の腎を取りて、油に漬け、「肭臍」と名づく。』。此れを觀るに、則ち、狐に似たるの説は無きに非ずなり。葢(けだ)し、狐に似、鹿に似たる者なり。其の毛色のみ、狗に似たる者の、其の足形なり。魚に似たるは、其の尾の形なり。藥に入るるに、外腎を用ひて、「臍」と曰ふは、臍を連ねて、之れを取ればなり。又、「異物志」に、『豽獸〔(どつじう)〕朝鮮に出づ。貍〔(たぬき)〕に似て、蒼黑色。前の兩足、無し。能く䑕〔(ねづみ)〕を捕ふ。』と。郭璞云はく、『晉の時、召陵、扶夷縣に一獸を獲る、狗に似て、豹文、角の兩脚に有り。』と。此れに據れば、則ち、豽(どつ)は、水・陸二種、有り。而して藏器が謂ふ所の、「狐に似て長尾なる者」、其れ、此の類か。』と。

膃肭臍 一名「海狗腎」。

修治 斆曰はく、『酒を用ひて、浸すこと、一日、紙に裹みて、炙(あぶ)り、香し。剉(きざ)み、搗き、或いは、銀の器の中に於いて、酒を以つて、煎り熟して、藥に合はす。』と。時珍曰はく、『漢椒・樟腦を以つてす。同じく收むるときは、則ち、壞(こは)れず。

氣味 鹹、大熱。毒、無し。李珣曰はく、『味、甘、香、美にして、大温。』と。

主治 鬼氣尸疰(ししゆ)[やぶちゃん注:邪気の侵入による消化不良と精神錯乱。]。夢に鬼と交はる。鬼魅・狐魅の心腹痛。中惡の邪氣の宿血・結塊・痃癖(けんびき)[やぶちゃん注:肩凝り。]・羸瘦(るいさう)[やぶちゃん注:脂肪組織が病的に減少した様態。]【藏器。】。男子の宿癥(しゆくちやう)[やぶちゃん注:腹部の異常な膨満。]・氣塊・積冷・勞氣・腎精衰損・多色・勞瘦悴を成すを治す【「藥性」。】。中(ちゆう)を補ひ、腎氣を益し、腰・膝を暖め、陽氣を助け、癥結を破り、驚狂癎疾を療す【「日華」。】五勞・七傷・隂痿・少力・腎虚・背膊・勞悶・面黑・精冷、最も良なり。【「海藥」。】

發明 時珍曰はく、『「和劑局方」、『諸虛損を治するに「腽肭臍丸」有り。今の滋補の丸藥の中に、多く、之れを用ゆ。精不足の者、之れを補ふに、味[やぶちゃん注:直(じか)に舌で舐めることか。]を以つてするなり。大抵、「蓯蓉(じふやう)」・「𤨏陽(さやう)」[やぶちゃん注:漢方生薬名。]の功と相ひ近し。亦、糯米・法麵[やぶちゃん注:麺類を製する法。]と同じく、酒に釀(かも)して[やぶちゃん注:酒に漬けて浸潤熟成させてその酒をの謂いであろう。]服すべし。』と。

   *

益軒が都合の悪い陸性獣類としか思われないところを総て無視して、海棲哺乳類に限定するような都合のいい恣意的な短文引用をしていることがお判り戴けるであろう。なお、「宗奭」とは北宋の医師宼宗奭(こうそうせき)が書いた「新編類要図註本草」と踏んで調べたところ、「宮内庁書陵部収蔵漢籍集覧」のこちらで南宋から元代(十三~十四世紀頃)に板行されたものが視認でき、その上部の第「16」を開き、下部中央の「□□□」ボタンをクリックしてページ表示を開き、「p.31」で、巻第二十九の「獸部下品」の「膃肭臍」が見られることが判った。左頁の終わりから大罫三行目から記されてあるのが、この引用箇所である。これは実は宗奭の別な本草書である「本草衍義」から引いたものであることもそれで確認できた。

「事玄要言」明の陳懋学(ちんぼうがく)撰の類書。一六四八年序。

「『膃肭臍とは、其の陰莖なり。臍に連ねて用ひる故に「膃肭臍」と云ふ』と、時珍、いへり」これはおかしい。臍と陰茎や睾丸は器官としては全く繋がっていないからである。だいたいからして、臍は母体と繋がっていた際の器官の瘢痕であって、器官ではないことは、言わずと知れたことである。それに、益軒先生よ? 時珍が言ってるんじゃないぜ! 「一統志」(ここは「大明一統志」。明朝の全域と朝貢国について記述した地理書で全九十巻。李賢らの奉勅撰。一四六一年完成された。その記事は必ずしも正確でなく、誤りも多い。刊本は一四五八年の経廠大字本が最良とされる。因みに「本草綱目」は時珍の没後三年後の一五九六年に南京で上梓されている)の引用だぜ? まあ、それに時珍は賛同してるわけで、間違いとも言わないけどね。]

大和本草卷之十六 海豹 (アザラシ類)

 

【外品】

海豹 山東志曰出寧海其大如豹文身五色叢居

水涯常以一豹護守如雁之類其皮可飾鞍褥順

和名抄水豹和名阿左良之○又子ツフト云モノア

リ是海豹ノ類ナルヘシ時珍曰海中有水豹是又

海豹ト同歟

○やぶちゃんの書き下し文

【外品】

海豹〔(あざらし/かいへう)〕 「山東志」に曰はく、『寧海に出づ。其の大いさ、豹のごとく、文身〔ありて〕五色〔たり〕。水涯〔(すいがい)〕に叢〔(むらが)〕り居〔を〕る。常に、一豹を以つて護-守〔(まも)〕り、雁〔(がん)〕の類〔ひ〕のごとし。其の皮、鞍〔(くら)〕・褥〔(しとね)〕を飾るべし。順が「和名抄」に、『水豹〔(すいへう)〕、和名、「阿左良之(あざらし)」。』と。

○又、「ねつふ」と云ふもの、あり。是れ、海豹の類〔(るゐ)〕なるべし。時珍曰はく、『海中、水豹、有り。』と。是れ、又、海豹と同じか。

[やぶちゃん注:食肉目イヌ亜目鰭脚下目アザラシ科 Phocidae のアザラシ類。十属十九種から成る。冒頭は漢籍であるが、日本近海の五種を挙げれば問題あるまい。それらは孰れも北海道を中心に分布する、

アザラシ科ゴマフアザラシ属ゴマフアザラシ Phoca largha (胡麻斑海豹。背面が灰色の地に黒い斑(まだら)模様が散らばる)

アザラシ科 Pusa 属ワモンアザラシ Pusa hispida (輪紋海豹。背中側に灰色の地に灰褐色から黒色の斑紋があり、斑紋は明灰色が縁取りされており、この点で前掲のゴマフアザラシの模様とは異なる。別名フイリアザラシ(斑入海豹))

ゴマフアザラシ属ゼニガタアザラシ Phoca vitulina (銭形海豹。和名は黒地に白い穴あき銭のような斑紋を持つことに由来する)

ゴマフアザラシ属クラカケアザラシ Phoca fasciata (鞍掛海豹。和名は、成獣の♂には、暗褐色から黒色の地に首・前肢・腰を取り巻く白い有意に太い帯があり、これが、馬具の鞍を掛けたように見えることに由来する)

アザラシ科アゴヒゲアザラシ属アゴヒゲアザラシ Erignathus barbatus (顎鬚海豹。名の通り、他のアザラシに比べ、ヒゲがよく発達しているが、このヒゲは実は顎からではなく、上唇付近から生えている)

となる。

 まず示さねばならないのは、メインの引用を前条「海牛」と同じソースを用いている点である。重複を厭わず出すと、「山東志」清代に三種の「山東通志」があるが、その内の清の学者杜詔(一六六六年~一七三六年)の編纂に成る山東地方の地誌の巻二十四に、以下の文字列を発見した。「中國哲學書電子化計劃」の影印本より起こした。

   *

海豹【出寧海州其大若豹文身五色叢居水涯常以一豹䕶守如雁奴之類其皮可飾鞍褥】海牛【出文登縣郡國志云不夜城有海牛島牛角紫色足似龜長丈餘尾若鮎魚性急捷見人則飛入水皮可弓鞬可燃燈】海驢【出文登縣郡國志云不夜城有海驢島上多海驢常於八九月乳産其毛可長二分其皮水不能潤可以禦水】

   *

既に「海牛」「海驢」が出た。しかし、言っている内容は同じでも、やはりこれも同文には見えない。ところが、やはり、別の「維基文庫」の「欽定古今圖書集成」の「登州府部彙考七」の「登州府物產考」のここを見ると、「海牛」「海驢」と同様に「山東志云」を外した酷似した文字列を見出せた。

   *

海豹 出寧海。其大如豹、文身五色,叢居水涯、常以一豹護守、如鴈奴之類。其皮可飾鞍褥。

   *

やはり、益軒は、前の二種の場合と同様に、「登州府物產考」なる書を参考にしているものと思われる。

「寧海」この地名は複数認められるが、前の二種が山東半島であることを考えると、現在の山東省台市の北東岸の海域(黄海から渤海に入る海峡の要の海域が北に当たる)北にを特異的に指しているように思われる(旧地名は内陸)。この黄海南部をこう読んだと思われる例としては、中華民国海軍巡洋艦に「寧海」(「ニンハイ」。同軍寧海級巡洋艦の一番艦。日中戦争で日本帝国海軍航空隊の空襲を受け、揚子江で航行不能となり、日本帝国海軍に捕獲された。後、太平洋戦争突入後の昭和一九(一九四四)年六月に「五百島(いほしま)」と改名して編入され、海防艦特殊艦に類別された(呉鎮守府籍)。海上護衛任務に従事していたが、同年九月十九日、御前崎南方でアメリカの潜水艦シャード(USS Shad,SS-235)の雷撃により沈没した)が、同軍水上偵察機に「寧海」がある(正式名は「辛式一型水上偵察機寧海號」。艦載されたのが同前の「寧海」であったことから同名で名指された。木製骨組みに羽布張り双フロートの複葉機で、機体強度が不足していたため、カタパルト射出が出来ず、デリック(英語:derrick:兵器や貨物などを吊り上げて移動させるクレーンの一種)を用いて水面に機を降ろしてから離水する方式が取られた)ことからも伺われるように思われる。

「文身」斑紋。

「五色」種や個体によって地肌や斑紋の色は変化に富む。概ね灰色・灰白色・白色・褐色・黒色で、五色は単に多様な色の変異があることを指すもので、多色カラーの謂いではない。

「水涯」海岸。

「一豹を以つて護-守〔(まも)〕り、雁〔(がん)〕の類〔ひ〕のごとし」ゼニガタアザラシ・クラカケアザラシ・アゴヒゲアザラシは一夫多妻型と推定されているが、ハーレムを形成するという記載はなく、ゴマフアザラシ・ワモンアザラシは一夫一妻型であるから、ここは、群れが海岸や岩礁に上がって休息する際に、一頭が警戒役としてあることを言っているものと思われる。

『順が「和名抄」に、『水豹〔(すいへう)〕、和名、「阿左良之(あざらし)」。』と』源順(みなもとのしたごう)の「和名類聚抄」(平安中期の辞書。承平年間(九三一年~九三八年)に勤子内親王の求めに応じて源順が編纂した)の巻十八の「毛群部第二十九」に、

   *

水豹(アサラシ) 「文選」、「西京の賦」に云はく、『水豹を搤(くひ)る』と。【和名、「阿左良之」。】。

   *

とある。「搤(くひ)る」は「締め付ける」で「縊」と同義であろう。

「ねつふ」「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 獵虎(らつこ) (ラッコ)」(「巻第三十八 獣類」の本項目の掉尾)に、「獵虎」の附録として、

   *

祢豆布(ねつぷ)

△按ずるに、此れも亦、蝦夷の海中に之れ有り。大いさ、四、五尺、黒色にして、毛、短く、疎〔にして〕[やぶちゃん注:粗くて。]、其の皮〔も〕、薄く、褥〔(しとね)〕と爲るに堪へず。止(たゞ)毛の履〔(はきもの)〕、或いは鞍の飾りと爲す。熊(くま)の障泥(あをり)に亞(つ)ぐ。然れども、上品ならず。

   *

とある。そこで私は注して、『「祢」は「禰」の略字であるが、生物種は分らん! 良安の書き方からは何らかの文献記載があるだろうに、検索で掛かってこない!! クソ!!! これで「巻第三十八 獣類」は終わるってえのに!!!! 識者の御教授を切に乞う!!!!!』と記したが(二〇一九年四月二十七日記事)、誰からも情報が寄せられていない。益軒のここでの謂いからは、アザラシの一種と考えてもよいようにも思われなくはない。そうなると、成獣の♂に暗褐色から黒色の地に首・前肢。・腰を取り巻く白い帯紋があるクラカケアザラシは外せ、最小のワモンアザラシも除外出来るようだから、ゼニガタアザラシか、ゴマフアザラシが候補にはなりそうだが? 引き続き、よろしくお願い申し上げる!!!

「時珍曰はく、『海中、水豹、有り』と」これは「本草綱目」の巻五十一上の「獸之二」の真正の哺乳類であるヒョウの「豹」の項の「集解」の一節に、突然、挿入されてある。まあ、アザラシでいいんでない? 益軒先生。]

大和本草卷之十六 海驢 (トド 或いは 絶滅種ニホンアシカ)

 

【外品】

海驢 山東志曰出文登海中狀如驢常於秋月登

嶋產乳其皮製爲雨具水不能潤○今案トヾト云

物海中ニアリ岩屋ノ内ニアカリ好ンテ子フル其肉ヲ

食フヘシ甘乄味クシラノ如シ皮ハ馬具トス其首馬ノ

如シ其大サ小馬ホトアリ是海驢ナルヘシ奥州松前

蝦夷及諸州海濱亦稀ニアリ

■やぶちゃんの呟き

【外品】

海驢〔(かいろ)〕 「山東志」に曰はく、『文登の海中に出づ。狀〔(かたち)〕、驢〔(ろば)〕のごとし。常に秋月に於いて、嶋に登る。產し、乳(ち)す。其の皮、製して、雨具と爲す。水、潤〔(うるほ)〕すこと、能はず。

○今、案ずるに、「トド」と云ふ物、海中にあり。岩屋の内にあがり、好んで、ねふる。其の肉を食ふべし。甘くして、味、「くじら」のごとし。皮は馬具とす。其の首、馬のごとし。其の大きさ、小馬ほど、あり。是れ、「海驢」なるべし。奥州・松前・蝦夷(ゑぞ[やぶちゃん注:ママ。])及び諸州の海濱に亦、稀にあり。

[やぶちゃん注:まず示さねばならないのは、メインの引用を前条「海牛」と同じソースを用いている点である。重複を厭わず出すと、「山東志」清代に三種の「山東通志」があるが、その内の清の学者杜詔(一六六六年~一七三六年)の編纂に成る山東地方の地誌の巻二十四に、以下の文字列を発見した。「中國哲學書電子化計劃」の影印本より起こした。

   *

海豹【出寧海州其大若豹文身五色叢居水涯常以一豹䕶守如雁奴之類其皮可飾鞍褥】海牛【出文登縣郡國志云不夜城有海牛島牛角紫色足似龜長丈餘尾若鮎魚性急捷見人則飛入水皮可弓鞬可燃燈】海驢【出文登縣郡國志云不夜城有海驢島上多海驢常於八九月乳産其毛可長二分其皮水不能潤可以禦水】

   *

既に「海牛」は出、本条の次が「海豹」である。しかし、言っている内容は同じでも同文には見えない。ところが、やはり、別の「維基文庫」の「欽定古今圖書集成」の「登州府部彙考七」の「登州府物產考」のここを見ると、「海牛」と同様に「山東志云」を外した酷似した文字列を見出せた。

   *

海驢 出文登海中、狀如驢、常以八・九月上島產乳。其皮製爲雨具、水不能潤。齊乘云、「海驢皮。」。今有獲之者、淺毛灰白、作鱸魚斑。又海海狸、亦上島產乳。

   *

やはり、益軒は、「海牛」の場合と同様に、「登州府物產考」なる書を参考にしているものと思われる。

 さて。「海驢」である。これは、漢籍でアシカ若しくはトドを指す。而して山東半島南岸という条件から、問題なく、既にヒトが絶滅させてしまった

哺乳綱食肉(ネコ)目イヌ亜目鰭脚下目アシカ科アシカ亜科ニホンアシカ Zalophus japonicus

或いは、本邦の北海道北部沿岸にも回遊してくる、

アシカ科トド属トド Eumetopias jubatus

の孰れかとなるが、確かに益軒は「トヾ」と書いてはいるものの、トドはが異様に大型(アシカ科 Otariidae 中最大で最大全長は三・三メートルを超え、体重は千百二十キログラムにも達する一方、♀は最大でも二・九メートルで、三百五十キログラムしかなく、観察した場合、ぱっと見でも大きさが異なることははっきり見てとれる)になる性的二型であるのに、その特異点が記されていないことと、現行のトドの棲息域が、北太平洋及びその沿海のオホーツク海・ベーリング海や、北海道からカリフォルニア州南部チャンネル諸島にかけてであり、繁殖地・上陸地を見ても、アリューシャン列島・千島列島・プリビロフ諸島・カムチャッカ半島東部・アラスカ湾岸・カリフォルニア州中部のサンタクルーズで、本邦には千島列島・宗谷海峡の個体群が、冬季に北海道沿岸部へ回遊するものの、朝鮮半島は現行では東岸北部(概ね朝鮮民主主義人民共和国)沿岸までで、黄海や渤海に回り込んで迷走する可能性は極めて低いと考えられるから、分が悪い(但し、引用原本は三百年前後も昔であるから、現行の分布域を以ってトドを外すことは出来ない)。但し、トドの皮革は利用されたし、食用としてもその肉は美味い(私は好きである)。私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 胡獱(とど) (トド)」も参照されたい。

 さて。翻って、ニホンアシカであるが、当該ウィキによれば、個体数の絶滅以前の分布域は、『北はカムチャツカ半島南部から、南は宮崎県大淀川河口にかけて』で、『北海道・本州・四国・九州の沿岸域、伊豆諸島、久六島・西ノ島・竹島などの日本海の島嶼、千島列島、南樺太、大韓民国(鬱陵島)などに分布していた』。『さらに、古い朝鮮半島上の記録によると』、渤海と黄海の東岸域を含む広範囲の半島周辺に見られた『とされる』とあるから、完全に条件をクリアーする。『繁殖地は恩馳島・久六島・式根島・竹島で確認例があり、犬吠埼・藺灘波島・大野原島・七ツ島でも繁殖していたと推定されている』。『太平洋側では九州沿岸から北海道、千島、カムチャツカ半島まで、日本海側では朝鮮半島沿岸から南樺太が生息域。日本沿岸や周辺の島々で繁殖、特に青森県久六島、伊豆諸島各地(新島』『鵜渡根島周辺、恩馳島、神津島)、庄内平野沿岸』、『アシカ島(東京湾)、伊良湖岬、大淀川河口(日向灘)なども生息地であった。三浦半島、伊豆半島(伊東、戸田・井田)、御前崎等にも、かつての棲息を思わせるような地名が残っている』。『縄文時代以降の北海道・本州・四国の遺跡で骨が発見されていることから、近年までは日本全国の沿岸部に分布していたと考えられている』とあるから、暖海にもある程度、適応していることが判り、黄海の山東半島南岸に嘗ては頻繁に現われたとしても、何ら問題ないのである。それでも益軒が「トド」と表記していることに拘る向きがあるかも知れないが、一般の日本語では出世魚のボラの最大級のそれを「トド」と呼ぶ如く、相対的に大きな生物を広く「とど」と読んできた歴史があり、多くの海棲哺乳類の大型個体を種を区別せずに「とど」と読んだ傾向があり、益軒も区別していないととるべきであろう。さらに、本来の正統な「トド」の和名語源はアイヌ語の「トント」に由来するものであって、「とどのつまり」のそれとは全く関係がない(と私は考えている)。ウィキの「トド」によれば、『これは』アイヌ語で『「無毛の毛皮」つまり「なめし革」を意味する』。『トドそのものは、アイヌ語でエタシペと呼ばれる』とある。また、続けて、『日本各地にトド岩という地名も散見されるが、過去においては日本ではトドとアシカ(ニホンアシカ)は必ずしも区別されておらず、アシカをトドと呼ぶ事も度々みられ、本州以南のトド岩の主はアシカであったようである』ともあるのである。但し、アシカに分が悪い点もある。それはアシカの肉は一般には――美味くなく、食用には不適――とされたことである。専ら採油と皮革に捕獲されたのである。私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 海鹿(あしか)」を参照されたいが、そこで良安も『其の肉、亦、甘美ならず、唯だ、熬(い)りたる油、燈油に爲るのみ。西國、處處にも亦、之れ有り。其の聲、畧(ち)と、犬に似て、「於宇(おう)」と言ふがごとし。蓋し、海獺・海鹿は一物なれど、重ねて出だして、考へ合はすに備ふ』と記している。「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 海獺(うみうそ) (アシカ類・ニホンアシカ)」も併せて見られたい。

「水、潤すこと、能はず」雨水は全く浸透することが出来ず、防水効果が抜群であうことを言う。

「ねふる」「眠(ねふ)る」。]

2021/03/15

譚海 卷之四 豆州南海無人島の事 附同國大島薩摩櫻島燒る事

 

○伊豆の東南海百里にあたりて無人島有。公儀より人の住居なるべき所にやと度々御用船遣(つかは)され、近來(ちかごろ)方角もよほど委しくしれたる事に成たりとぞ。此島元來四方(しはう)高巖(たかきいはほ)にして船を着(つく)べき所なし。波に船を打上(うちあげ)させて折よく岩の上に船をうちあげたる時相圖して岸にのぼる事也。波のよせくる首尾あしければ、船を巖(いはほ)にうちあてて損ずる事(こと)故(ゆゑ)、岸にのぼる波あひを待(まつ)事大事也とぞ。同所大島も又同じく波あひをみはからひて船をよせざれば、岸に寄付(よせつく)事成難(なりがた)しとぞ。此大島天明三年より燒はじめて、折々江戶の地までも地震の如くひゞく事あり。今二年へたれどなを[やぶちゃん注:ママ。]燒(やき)やまず、やけはじめたる比(ころ)は品川海上よりも夜分は火の餘光はるかに雲にうつりて見えたり。同じ比(ころ)薩州のさくら島もやけたり、是は一島殘りなく燒(やけ)くづれて海へやけ入(いり)、別にそれほどの島ちかき所に吹出したりとぞ。櫻島は廿萬石の田地ある所といへり。

[やぶちゃん注:この無人島が現在の何処を指すか、今一つ、条件が足りないのだが、四方が高い岩山であること、海岸が全面に岩礁性であること、本書が刊行された当時は無人島であった可能性が高いことなどを考えると(「譚海」は安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の凡そ二十年間に亙る彼の見聞奇譚をとり纏めたものであるが、ここで津村は「今二年へたれど」と言っていて、珍しくこの執筆時がほぼ天明五(一七八五)年であろうことが判明する特異点の記事となっている点にも注目されたい)、太平洋上の八丈島の南方六十キロメートルの位置にある伊豆諸島の一つである現在の東京都青ヶ島村青ヶ島(グーグル・マップ・データ)が一番に想起された。本土の伊豆下田から多少のカーブを描いて計測して二百七十キロメートルはある(「百里」は三百九十三キロメートルだが、これはもう遠距離のドンブリ表示と考えてよいから意味をなさない)。ここの名産の芋焼酎「青酎」は私の好きな焼酎である。

「同所大島」まあ、同じ伊豆諸島ではあるけどねぇ。青ヶ島だとすると、二百五十キロメートルぐらいは離れてるんですけど?

「大島天明三年より燒はじめて」伊豆大島の三原山は天明三(一七八三)年に噴火し、降灰があったが、実際にはこれは安永六(一七七七)年八月三十一日に三原山山頂火口から噴火が始まった、「安永の大噴火」の大規模な六年余りに亙ったマグマ性噴火の沈静期のそれに過ぎなかった。翌天明四年も噴火、天明六年にも噴火らしき現象があり、寛政元(一七八九)年頃に噴火して降灰があった。「安永の噴火」の完全な鎮静は寛政四(一七九二)年頃であった(ここは「気象庁」公式サイト内の「伊豆大島 有史以降の火山活動」のデータに基づいた)。

「江戶の地までも地震の如くひゞく事あり」近世から今日までの噴火では、現在のところ最後の大規模噴火であるから、軽々に大袈裟とは言えない。

「やけはじめたる比(ころ)は品川海上よりも夜分は火の餘光はるかに雲にうつりて見えたり」一九八七年十一月十五日から二十三日にかけての三原山の中規模噴火の際、私は二十一日の夜、友人と湘南に遊んだが、江ノ島の背後に直立して噴き上げるマグマの柱が手にとるように見えた。私はその時、千葉県の工場の燃焼煙突の炎だと勘違いしたほど、その紅蓮の炎ははっきりとしていたのを、今でも鮮やかに思い出す。

「同じ比薩州のさくら島もやけたり」これは「同じ比」と言っているが、「一島殘りなく燒くづれて海へやけ入、別にそれほどの島ちかき所に吹出したりとぞ」という叙述からは、安永八(一七七九)年十一月八日から始まった桜島の「安永大噴火」の伝聞情報が混ぜこぜになったものであろう。やはり「気象庁」の「桜島 有史以降の火山活動」のデータによれば、この日の『数日前から地震頻発、当日朝から海岸の井戸沸騰流出、海水』が『紫に変色』、午前十一時『頃から南岳山頂火口から白煙』、午後二時頃、『南岳南側中腹から黒煙を上げ』、『爆発、まもなく北東側中腹からも噴火』した。『翌日早朝から溶岩を流出。夜には北東沖で海底噴火が始まる。その後』、安永一〇・天明元(一七八一)『年までに海底噴火により』、『津波が発生、船が転覆する等の被害』が起こり、『海底噴火地域の隆起により』、『桜島北東海中に』八『つの小島が出現、その後接合あるいは水没して』五『島とな』った(「大正噴火」の後に更に一島が水没して現存するものは四島のみである)。この「安永大噴火」では死者が百五十余名にも上った。安永九(一七八〇)年にも海底噴火によって津波が発生、天明元(一七八一)年四月には高免(こうめん)沖の島で噴火が発生、津波を起し、死者八名・行方不明者七名・負傷者一名・船舶六隻損失、同年五月にも同じく高免沖で海底噴火が発生、翌年一月にも高免沖で海底噴火、天明三年九月にも南岳山頂火口で噴火が起こっている。]

甲子夜話卷之六 30 婦女の便所へ行を憚りと云事

6―30 婦女の便所へ行を憚りと云事

婦女の便所へ行に、手水にゆくと云は、小用のことは避て手を洗ふと計に申成すこと、體を得たる詞也。近頃は憚りにゆくとも云。其さして云を憚る意なるべし。「左傳」襄十五年、師慧過、將ニスㇾ私セント焉。其相、朝也。慧、無ㇾ人焉。相、朝也。何ランㇾ人。注曰。私小便、師慧樂師也と記せしを以見れば、其頃も便所にゆくには、人陰にゆきて見晴の處にはあらざる故なり。ある日此事を林氏に咄合ければ、林氏云、「漢書」に更衣とあるも、便所のことを語を淸く換て云たるなり。廁へ行には冠裳等脫して入り、出て原服を着れば、もとより更衣するなり。その詞を用て聞へる[やぶちゃん注:ママ。]やうに云る文章也。又、「越絕書」には起居と云たり。起-道傍と見へて、これは泄瀉して道ばたに便せる語を換て云にぞありける。

■やぶちゃんの呟き

「手水」「てうづ」(ちょうず)。

「計」「ばかり」。

「申成す」「まうしなす」。

「體」「てい」。

「其さして云を憚る」「それ、指して云ふをはばかる」。

『「左傳」襄十五年……』「注に曰く、『私は小便なり。師慧は樂師なり。』と。」は後代の注。大修館書店「廣漢和辭典」には⑬として『ゆばり。ゆばりする』とあって、まさにこの「春秋左氏伝」のこの部分が引かれてある。但し、静山は後半の大事な部分をカットしてしまっている。以下にソリッドに示す。師慧は宋に逃げた「鄭(てい)の尉氏・司(し)氏の乱」の残党との交換交渉で、鄭から宋に護送された盲目の楽師であった。会話の相手は「相」とは障碍者である彼の扶助役(介添え役)を指す一般名詞である。

   *

 師慧過宋朝、將私焉。私、小便。其相曰、朝也。慧曰、無人焉。相曰、朝也。何故無人。慧曰、必無人焉。若猶有人、豈其以千乘之相、易淫樂之矇。必無人焉故也。子罕聞之、固請而歸之。

   *

静山の訓点は不全なので従わず、全部を我流で訓読しておく(一九八九年岩波文庫刊の小倉芳彦氏の現代語訳を一部で参考にした。注も同じ)。

   *

 師慧(しけい)、宋の朝(てう)[やぶちゃん注:朝廷。]を過ぐ。將に私(ゆばり)せんとす。其の相(しやう)の曰く、

「朝(てう)なり。」

と。慧日く、

「人、無し。」[やぶちゃん注:「人はいないからね。」。]

と。相曰く、

「朝なり。何の故に、人、無からんや。」[やぶちゃん注:反語。「宋の御殿ですぞ!?人がいないなんてありえませんよ!」。]

と。慧曰く、

「必ず、人、無からん。若(も)し、猶ほ、人、有らば、豈に、其れ、千乘の相(しやう)を以て[やぶちゃん注:立派な一国(鄭)の宰相らの要請だからと言って。]、淫樂の矇(まう)と易(か)へんや[やぶちゃん注:反語。「賤しい盲目の芸人と反乱軍のメンバーを交換するなどということがあろうはずがない」。]。必ず、人、無きが故なり。」

と。

 子罕[やぶちゃん注:宋の高官(司城職)。]、之れを聞き、固く[やぶちゃん注:宋公。]請ひて、之れ[やぶちゃん注:師慧。]を歸す。

   *

「人陰」「ひとかげ」。人から見えない場所。

「見晴」「みはらし」。

「林氏」お馴染みの静山の友人である林述斎。

「咄合」「はなしあひ」。

「漢書」前漢の歴史を紀伝体で記した歴史書。八〇年頃成立。後漢の班固が撰し、妹の班昭らが補った。全百二十巻。後世の史書の模範とされた。

「更衣」確かに中文サイトの辞典に「便所へ行くこと」を避けるための婉曲表現とあった。

「語を淸く換て云たるなり」「ごを、きよく、かへて、いひたるなり」。

「冠裳等」「かんむり・もすそなど」。

「その詞を用て聞へる」(ママ)「やうに云る文章也」その言い換えの特定の語句を用いて、暗に解るように言った文章なのである。

「越絕書」(えつぜつしよ)は後漢初期に書かれた春秋戦国時代の呉(紀元前五八五年頃~ 紀元前四七三年)と越(紀元前六〇〇年頃~紀元前三〇六年)に関する書物。現行本は十五巻。同じく呉と越を扱った後漢の書に「呉越春秋」があり、内容も多く重なるが、成立年代は「越絶書」の方が早く、「呉越春秋」の記事の中には、この「越絶書」を元にした箇所が多くあるとされる。著者は呉越の無名の賢人とも、或いは、孔門十哲の一人子貢や呉王夫差によって遺体を辱められた悲劇の忠臣伍子胥などが挙げられている。成立年代は西暦五二年前後とされる。

「起居」「ききよ」。辞書等では確認出来なかったが、富士敬司郎氏のサイト「たまねぎ地獄」の「日本のトイレ」の「トイレの隠語」の中にあった。この章、なかなか面白いので、全部を引用させて戴く。

   《引用開始》

日本はトイレにさまざまな隠語を作ったことで知られます。ざっと挙げただけでも次のようなものがあります。

樋屋(といや)、厠(かわや)、廁(かわや)、川屋(かわや)、閑所、閑考所、隠所、装物所(よそものどころ)、鬢所(びんじょ)、便所、雪隠、雪陣、雪陳、青椿(せいちん)、惣雪隠(そうせっちん)、思按所、分別所、洗所(せんちょ)、大便所(だいへんちょ)、小便所(しょうせんちょ)、後架、更衣室、起居[やぶちゃん注:☜ここ。]、用達所、用立所、手洗、手水所(ちょうずしょ)、手水場(ちょうずば)、風呂、風呂屋、フール、せんだぶく、いきがめ、川便所、はばかり、不浄、御不浄、化粧室、山、お山、渡辺、おばさん、ばばから、つめ、遠方、杉屋、東司(とうす)、おとう(東司の隠語、皇室用語)、西浄、東浄、登司、毛司、茅司、洒浄(せんじょう)、高野山、持浄、流廁、廁院、軒、背屋、かど、WC、トイレ、etc

人前でトイレの話題を出すことがはばかられる接客業などでは、「雉(きじ)撃ちに行く」「花摘みに行く」「遠方に行く」などの言葉を使います。変わったところでは、大手百貨店Tの「仁久」というのがあります。「仁」は「4」、「久」は「~を重ねる」の意味で、つまりは「シーシー」というわけです。同じ理由で、香具師(やし)の間では「十六」と言うのが流行りました。「シーシー十六」というシャレです。

「雪隠(せっちん)」の語源については諸説あるようで、一般的には、鎌倉時代に「霊隠寺(禅宗)」の雪宝和尚が、トイレの中で大悟(さとり)を開いたことから、「霊隠寺」の「隠」、「雪宝和尚」の「雪」で「雪隠」と呼ぶようになった、という話が伝えられてますが、これには異論もあり、「青椿(せいちん)」がなまったという説もあるようです。

椿(つばき)は別名「避邪香」と呼ばれ、非常に匂いの強い植物です。また、葉も大きく、冬になってもその葉を落としません。そのため、トイレを覆い隠すのによく使われたのです。現在も旧家のトイレの周辺には、椿をはじめとする常緑樹が植えられていることが多いそうです。

「東司(とうす)」は寺院でよく使われる隠語です。禅寺のトイレが、主に東側に作られていたことからのネーミングですが、なぜか不思議なことに、北にあっても、西・南にあっても「東司」と呼ばれます。別の名で呼ぶ必要がある場合には、西は「西浄」、南は「登司」、北は「雪隠」などの呼称を使います。東側に作ることが多いのは、西側に作ると直射日光で排泄物が腐敗し、ウジが大発生することが多いからとも言われています。

   《引用終了》

「起-道傍」「道の傍らに起居(ききよ)す」。但し、「越絕書」を見てみたが、どうも見当たらない。

「泄瀉」(せつしや)は通常は下痢・腹下(はらくだ)しを謂う。

甲子夜話卷之六 29 同時、松本伊豆守、赤井越前守富驕の事

6-29 同時、松本伊豆守、赤井越前守富驕の事

此時は、勘定奉行の松本伊豆守、赤井越前守など云輩も、互の贈遺冨盛を極たり。京人形一箱の贈物などは、京より歌妓を買取て、麗服を着させ、それを箱に入て、上書を人形としたるなりしとぞ。又豆州、夏月は蚊幬を廊下通りより、左右の小室幾間も、隔なく往來するやうに造り、每室に妾を臥さしめ、夜中いづれの室に至るにも、幬中になるやうに設けたりしとかや。又子息の中に、癇症にて雨の音を嫌ものありしとて、屋上に架を作り、天幕を張ること幾間と云を知らず、雨の音を防しとなり。其奢侈想像すべし。

■やぶちゃんの呟き

「同時」前条の同時期を受けた謂い。

「松本伊豆守」松本秀持(享保一五(一七三〇)年~寛政九(一七九七)年)は幕臣。通称は十郎兵衛、伊豆守。代々、天守番を務める身分の低い家柄であったが、老中田沼意次に才を認められて勘定方に抜擢され、明和三(一七六六)年に勘定組頭、後に勘定吟味役となり、安永八(一七七九)年、勘定奉行に就任して五百石の知行を受けた。天明二(一七八二)年からは田安家家老も兼帯した。下総国の印旛沼及び手賀沼干拓などの事業や、天明期の経済政策を行った。また、田沼意次に仙台藩江戸詰医師工藤平助(私がブログ・カテゴリを作っている優れた女流文学者であった只野真葛の実父)の「赤蝦夷風説考」を添えて蝦夷地調査について上申し、本邦初の二回に及ぶ公式の調査隊を派遣した。それを受けて蝦夷地の開発に乗り出そうとしたが、天明六(一七八六)年の田沼意次の失脚(八月から十月)により、頓挫した上、同年閏十月には、田沼失脚に絡み、小普請に落とされ、逼塞となった。さらに「越後買米事件」の責を負わされ、知行地を減知の上、再び逼塞となった(天明八(一七八八)年五月に赦された)。

「赤井越前守」赤井忠皛(ただあきら 享保一二(一七二七)年~寛政二(一七九〇)年)天明二年に京都町奉行から勘定奉行となり、田沼意次の下で財務を担当したが、田沼の失脚とともに西丸留守居となった。

「富驕」「ふきやう」。

「冨盛」「ふせい」。

「極たり」「きはめたり」。

「贈物」「ざうもつ」と音読みしておく。

「買取て」「かひとりて」。

「上書」「うはがき」。

「人形としたるなりしとぞ」気持ち悪!

「豆州」「づしう」。

「蚊幬」「かや」。蚊帳に同じい。「幬」は「帳」に同じく「とばり」の意。

「廊下通り」「らうかどほり」。廊下にさえ隙間なく張り巡らしたのである。

「小室」「こしつ」。

「幾間」「いくま」。

「隔なく」「へだてなく」。

「每室に」「へやごとに」と返って訓じておく。

「妾」「せう」。側室。

「幬中」「ちうちゆう」。「かやうち」と訓じたくはなる。

「嫌もの」「きらふ者」。

「架」「たな」と訓じておく。

「幾間」「いくけん」。

「防し」「ふせぎし」。

「奢侈」「しやし」(しゃし)。度を過ぎて贅沢なこと。身分不相応に金を費やすこと。

甲子夜話卷之六 28 田沼氏權勢のとき諸家贈遺の次第

6-28 田沼氏權勢のとき諸家贈遺の次第

田沼氏の盛なりしときは、諸家の贈遺樣々に心を盡したることどもなりき。中秋の月宴に、島臺、輕臺を始め負劣らじと趣向したる中に、或家の進物は、小なる靑竹藍に、活潑にして大鱚七八計、些少の野蔬をあしらひ、靑柚一つ、家彫萩薄の柄の小刀にてその柚を貫きたり【家彫は後藤氏の所ㇾ彫。世の名品。其價數十金に當る。】。又某家のは、いと大なる竹籠に、しび二尾なり。此二つは類無しとて興になりたりと云。又田氏中暑にて臥したるとき、候問の使价、此節は何を翫び給ふやと訊ふ。菖盆を枕邊に置て見られ候と用人答しより、二三日の間、諸家各色の石菖を大小と無く持込、大なる坐敷二計は透間も無く並べたてゝ、取扱にもあぐみしと云。その頃の風儀如ㇾ此ぞありける。

■やぶちゃんの呟き

「田沼氏」田沼意次(享保四(一七一九)年~天明八(一七八八)年)は江戸中期の幕府老中。父田沼意行(もとゆき)は紀州藩の足軽で、徳川吉宗に従って江戸に入り、幕臣となった。意次は十五歳で西の丸附き小姓として仕え、元文二(一七三七)年に主殿頭(とのものかみ)、宝暦元(一七五一)年には御側御用取次となった。第九代将軍徳川家重の隠居後、第十代将軍家治の信任を得、明和四(一七六七)年七月に側用人に進み、一橋家や大奥との関係を深めて勢力を固めた。遠江相良(五万七千石)に城を築き、老中格として専横の振舞いがあったことから、家治の没後、領地も削られ、失脚した。世に「田沼時代」として知られる彼である。

「贈遺」(この「遺」は「贈る」に同じい)物品を贈ること。また、その物品。

「島臺」(しまだい)は客の接待や婚礼の儀などに用いる飾りの「台の物」。古くは「島形」と称し、蓬莱を象った島形や洲浜(吉祥の意味を持った置物。屈曲する海岸線の状態を表現した、ほぼ楕円形の板に、短い脚を付け、上に岩木・花鳥などを飾る。平安時代に流行したが,後世は上の飾りを省略して酒杯・肴などを置く形となった)形などがある。台上に肴を盛り,祝儀には松竹梅・鶴亀・尉(じょう)・姥(うば)を配して飾りとする。本来、古くに宮中などで草合(くさあわあせ:「合わせ物」遊戯の一種。五月五日の節供に、種々の草を採り集めて、その種類や優劣を競った。宮廷でも行われ、負けると衣服を脱いで、勝った者に与える風習があったとされる。鎌倉時代も子供の遊戯として残ったが、その後に衰えた。「競狩(きおいがり)」「闘草」(中国名由来)「草尽くし」とも称する)・花合(もとは平安時代の貴族の間で流行した「桜合」などにように、単に花を持ち寄り、左右に分かれてその優劣を競う遊びであったが、やがてこれに歌も詠み添えられるようになり、「歌合」の遊戯と結びつくに至ったもの。室町時代の記録には「七夕法楽」の「花合」のことがしばしば見られるが、これが華道の成立の淵源の一つとなったとされる)・根合(端午の節供などで左右に分かれて菖蒲(しょうぶ)の根の長短を比べ合い、歌などを詠んで勝負を決したもの。様々の意匠を凝らし、州浜などに飾りなどして出した。「菖蒲根合」「菖蒲合」とも呼んだ)など歌合の遊戯の際、その合せ物を載せたものという。

「輕臺」(しまだい)不詳。「島台」を簡略・軽量化したものか。

「負劣らじ」「まけじおとらじ」。

「靑竹藍」「あをだけかご」。

「活潑」活きのいい。

「大鱚」「おほぎす」。大型個体のスズキ目キス科キス属シロギス Sillago japonica 或いはそれによく似たアオギス Sillago parvisquamis も挙げてよいだろう。私の大和本草卷之十三 魚之下 きすご (シロギス・アオギス・クラカケトラギス・トラギス)」を参照されたい。

「計」「ばかり」。

「野蔬」「やそ」。野菜。

「靑柚」「あをゆず」。

「家彫」(いへぼり)は装剣金工細工の中でも、後藤派の彫った鐔(つば)や小道具などの総称。民間の町彫(まちぼり)に対する名称。後藤家は初代祐乗(ゆうじょう)以来、歴代の将軍家に抱えられ、装剣金工の制作に当たった家系で、江戸時代以降、将軍家を始めとして大名が正装する場合は、後藤派の制作になる装飾金具で刀剣を飾るのが定例であった。

「萩薄」「はぎ・すすき」。

「小刀」「さすが」。

「所ㇾ彫」「彫る所(ところ)」。

「しび」スズキ目サバ科マグロ族マグロ属 Thunnusの海水魚の中・大型個体の総称。クロマグロ・キハダ・メバチ・ビンナガなどが含まれ、これでは限定は出来ない。私の「大和本草卷之十三 魚之下 シビ (マグロ類)」を参照されたい。

「二尾」「にび」。

「類無し」「たぐひなし」。

「中暑」「ちゆうしよ」。「暑気中(あた)り」のこと。

「候問」「こうもん」。病中見舞い。

「使价」「しかい」。使者。「价」も「使」に同じい。

「翫び」「もてあそび」。楽しんで。

「訊ふ」「とふ」。

「菖盆」「しやうぼん」。ショウブ(菖蒲。狭義には単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科アヤメ属ノハナショウブ変種ハナショウブ Iris ensata var. ensata )を植え込んだ盆栽。アヤメ・ショウブ・カキツバタの識別法は私の「北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) たはむれ」の「菖蒲」の私の注を参照されたい。

「石菖」単子葉植物綱ショウブ目ショウブ科ショウブ属セキショウ Acorus gramineus。多年草。北海道を除く日本各地に自生し、谷川などの流れに沿って生える。庭園の水辺などにもよく植えられる。全体はショウブをごく細くした感じで、同じ芳香もあるが、各部が小型で、根茎は細くて硬く、葉も細く、幅は一センチメートルほど、長さ二十~五十センチメートルの線形を成し、ショウブと異なり、中肋が目立たない。四~五月頃、葉に似た花茎を出し、中ほどに淡黄色の細長い肉穂花序をつける。グーグル画像検索「Acorus gramineus」をリンクさせておく

「大なる坐敷二計」「おほきなるざしきふたつばかり」。

「透間」「すきま」。

甲子夜話卷之六 27 酒井忠勝、大猷院廟御忌日每に齋戒の事

6―27 酒井忠勝、大猷院廟御忌日每に齋戒の事

○、酒井讚岐守忠勝は、猷廟羣臣を捐玉ひし後、每月御忌に當る日、一室を淨掃し、沐浴齋戒し、麻上下を着して、自ら樣々の物を備へて、其入口を閉ぢ、人の來るを許さず。或時誤りて、一人其間へ走り入りしに、讚州奠供の前に平伏してありしが、振返りて、しいしいと言て手にて制したる形狀、眞に御前にある樣子なりしとなり。家來中密々語り合て、皆其至誠を感じけるとなん。

■やぶちゃんの呟き

「酒井忠勝」(天正一五(一五八七)年:三河~寛文二(一六六二)年:江戸)は当初は後に第二代将軍となる徳川秀忠の家臣。徳川家康家臣酒井忠利(後の川越藩初代藩主)の子。入道して空印と号した。慶長五(一六〇〇)年の「関ヶ原の戦い」に徳川秀忠に従って出陣した同十四年に讃岐守となり,同 十九年、下総国で三千石を領し、元和八(一六二二)年には七千石を加増されて深谷城主となった。寛永元(一六二四)年、老中となって二万石を加え、同三年には武蔵国忍(おし)藩五万石に封じられた。翌四年、同国川越で八万石、同九年に十万石で従四位下・侍従となり、同十一年には若狭国小浜十二万三千石に封ぜられた。同十五年、大老、翌年、左少将に昇任、明暦二(一六五六)年致仕。「日本王代一覧」・「日本帝王系図」などの編纂物がある。

「大猷院廟」さんざん既出の第三代将軍徳川家光の諡号。家光の没したのは慶安四年四月二十日(一六五一年六月八日)。

「羣臣を捐玉ひし後」「羣」は底本のママ。「捐玉ひし」は「すてたまひし」。主君の死を言う。

「奠供」「てんぐ・でんぐ」。供物を手づから伝え渡して仏前に供えること及びその儀式・祭壇・仏壇。

「しいしい」感動詞「しい」を重ねた語。強く制止する時に発する語。転じて、貴人の出入り・通行などの先払いの際に発する警蹕(けいひつ)の語として知られ、更に、現行の「しっ!」ように静かにするように促す時に発する語となった。言わずもがなだが、ここは原義の用法。

2021/03/14

毛利梅園「梅園介譜」 鱟 (カブトガニ・「甲之圖」(被覆甲面)及び「腹之圖」(甲下腹面の二図))

 

□上面図(「甲之圖」)

 

  カブトガニ

   ウンキウ  筑前

   鉢ガニ   安藝

   朝鮮ガニ  長﨑

 

 甲之圖

 

Kabutogani1

 

□下面図(「腹之圖」)

 

王世懋閩部疏曰瀕海諸部、以二鱟皮代ㇾ杓

銅千餘斤、又曰鱟之為ㇾ物介而中

坼厥血蔚藍、熟スレハ之純白尾鋭ニ而長シ觸レハ之

能刺ス。断テ而置ケハㇾ地ニ、其行郭索、雌常負ㇾ雄、觸

而逝レハ其雄亦就ㇾ斃

   鱟其形兜ノ鉢ニ似テ其甲如石其甲上下両ニ分ル

   頭圓下尖其腹各足五宛水カキノ豆螯(ハサミ)ナク

   各足皆螯アリ他ノ蟹ニ異リ大ナル者ハ上リ※ニ

   似リ乾タル者倉橋氏藏乞之寫

[やぶちゃん注:「※」=(上)「白」+(中)「比」+(下)「几」。]

腹之圖

 

Kabutogani2

 

     丙申十一月十三日眞寫

 

○やぶちゃんの書き下し文

□上面図(「甲の圖」)

  カブトガニ
   ウンキウ  筑前
   鉢ガニ   安藝
   朝鮮ガニ  長﨑

 甲の圖

 

□下面図(「腹の圖」)

王世懋(わうせいぼう)「閩部疏(びんぶそ)」に曰はく、『瀕海(ひんかい)の諸部、鱟(かぶとがに/コウ)の皮を以つて、杓(しやく)に代へ、歳(とし)に銅千餘斤を省(はぶ)く。』と。又、曰はく、『鱟の物(もの)と為(な)すに、介(かい)にて、中(なか)、坼(さ)き、厥(そ)の血、蔚藍(うつらん)なるも、熟すれば、之れ、純白たり。尾、鋭(するど)にて、長し。之れに觸(ふ)るれば、能(よ)く刺す。断(た)ちて、地に置けば、其の行くこと、郭索(かくさく)たり。雌、常に雄を負ふ。苟(かりそめ)に觸れても逝(ゆ)く。或いは、其の雄を得れば、亦、斃(へい)に就(つ)く。』と。

鱟、其の形、兜(かぶと)の鉢に似て、其の甲、石のごとく、其の甲、上下、両(ふたつ)に分かる。頭、圓(まる)く、下、尖(とが)る。其の腹、各(おのおの)、足、五宛(いつつづつ)水かきの豆(まめ)〔にて〕、螯(はさみ)なく、各(おのおの)の足、皆、螯あり。他の蟹に異なり、大なる者は、「上り※(のぼりだこ)」に似たり。乾きたる者、倉橋氏藏すを乞ひて、之れを寫(うつ)す。[やぶちゃん注:「※」=(上)「白」+(中)「比」+(下)「几」。]

腹の圖

     丙申(ひのえさる)十一月十三日、眞寫(しんしや)す。

 

[やぶちゃん注:本邦産は節足動物門鋏角亜門節口綱カブトガニ目カブトガニ科カブトガニ属カブトガニ Tachypleus tridentatus 。かなり知られているので言わずもがなであるが、通常の我々が知っている「蟹」(カニ)類は節足動物門甲殻亜門 Crustacea であるが、本カブトガニ類は鋏角亜門 Chelicerata であって、「カニ」と名附くものの、カニ類とは極めて縁遠く、同じ鋏角亜門 Chelicerata である鋏角亜門クモ上綱蛛形(しゅけい/くもがた/クモ)綱クモ亜綱クモ目 Araneae のクモ類や、その近縁の蛛形綱サソリ目 Scorpiones のサソリ類に遙かに近い種である(鋏角亜門には皆脚(ウミグモ)綱 Pycnogonida も含まれる。なお、現生カブトガニは全四種である)。また、古生代の仲間の形態を色濃く残している「生きている化石」である。以下の異名でから判る通り、本邦での嘗ての分布域は瀬戸内海から北九州沿岸にかけてであった。当該ウィキによれば、『日本国内の生息分布は、過去は瀬戸内海と九州北部の沿岸部に広く生息したが、現在では生息地の環境破壊が進み、生息数・生息地域ともに激減した』。『現在の繁殖地は岡山県笠岡市の神島水道、山口県平生町の平生湾、山口市の山口湾、下関市の千鳥浜、愛媛県西条市の河原津海岸、福岡県福岡市西区の今津干潟、北九州市の曽根干潟、大分県中津市の中津干潟、杵築市の守江湾干潟、佐賀県伊万里市伊万里湾奥の多々良海岸、長崎県壱岐市芦辺町が確認されているが、いずれの地域も沿岸の開発が進んだ結果、生息できる海岸は減少している。なお』、二〇一九年には長崎市のスーパー・マーケットで売られていた『魚介類のパックに交じっていた』生きた『個体が発見され、長崎ペンギン水族館にて飼育されている』。なお、『日本以外では、インドネシアからフィリピン、東マレーシア』、タイ、ミャンマー、バングラデシュ、『揚子江河口以南の中国沿岸』での別種二種の棲息が『知られて』おり、『東シナ海にも』棲息していて、韓国での『発見例もある』。また、北アメリカ東海岸の一部では有意に多くの別種一種の個体群が棲息する。則ち、現生四種とは、

カブトガニ属カブトガニ Tachypleus tridentatus (本邦産。全長(背甲の先端から尾節端まで)は♂で四十五~七十センチメートル、♀で五十五~八十五センチメートルで性的二型。現生カブトガニ中の最大種。属名「Tachypleus 」(タキプレウス)はギリシャ語由来で「速く泳ぐもの」、種小名「tridentatus 」(トリデンタトゥス)は「tri-」(三つの)+「dentatus」(鋸歯状の歯(棘)」の意。種小名の部位は「笠岡市立カブトガニ博物館」公式サイトのこちらで判る。意外にも甲殻中央後端(尾剣の出る部分の直上)のごく小さな棘状隆起である。前方背面の両側と中心にそれぞれ一対の複眼と単眼を有し、腹面の口器の前にも腹眼を持ち、この辺りはクモ類との相同性が窺える)

ミナミカブトガニ Tachypleus gigas (東南アジア産。種小名に反して体長は二十五~五十センチメートルと本邦のカブトガニよりも小型でる)

マルオカブトガニ属マルオカブトガニ Carcinoscorpius rotundicauda (東南アジア産。最大個体でも四十センチメートルと小型。属名「Carcinoscorpius 」は思うに、「Carcinos」(ギリシャ神話で英雄ヘラクレスがヒュドラを退治した際にヒュドラに加担してヘラクレスの踵を噛んだ蟹の怪物カルキノス。ヘラクレスに殺されたが、ヘラクレスの憎む女神ヘラによって蟹座の星となった)と「scorpius」(蠍(さそり)座」(スコルピウス) の合成であろう。外見「カニ」、本当は「サソリ」の仲間という知見から面白い命名と思う)

アメリカカブトガニ属アメリカカブトガニ Limulus polyphemus (メキシコ湾を含む北西大西洋沿岸産。ヨーロッパでも迷走個体が発見されている。体長は五十センチメートル。♀に比べて♂の比率が高いことが確認されている。属名「Limulus 」(リムルス) は「少し傾いた」の意、種小名「polyphemus 」はギリシア神話の単眼巨人キュクロプスの一人であるポリュペモスに由来するもので、嘗て、本種の眼は一つしかないと考えられていたことによる。実際には頭胸部の両側に単色性視覚機能を有する一対の大きな複眼があり、背甲に五個、腹面の口前方にも二個の単眼がある。単眼は胚・幼生期に既に形成されており、卵の中にあっても光を感じ取ることが出来る。複眼や中央単眼はそれより感度が劣るが、成体では主要な視覚器官となる。また、これらとは別に尾剣に光受容器が並ぶ。複眼は約一千個の個眼で構成されており、個々の個眼には三百個以上の細胞がある。この視覚感覚器官はウィキの「アメリカカブトガニ 」に拠った。アメリカカブトガニの視覚機能は非常に研究が進んでいる)

「ウンキウ」「筑前」「本朝食鑑」(医師で本草学者であった人見必大(ひとみひつだい 寛永一九(一六四二)年頃?~元禄一四(一七〇一)年:本姓は小野、名は正竹、字(あざな)は千里、通称を伝左衛門といい、平野必大・野必大とも称した。父は四代将軍徳川家綱の幼少期の侍医を務めた人見元徳(玄徳)、兄友元も著名な儒学者であった)が元禄一〇(一六九七)年に刊行した本邦最初の本格的食物本草書)や寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類」に(リンク先は私の古い電子化注。「鱟」の項を見られたい)、カブトガニの異名として『宇牟幾宇(うむきう)』(前者)『宇無岐宇』(後者)が載り、「本草綱目啓蒙」(江戸後期の本草学研究書。享和三(一八〇三)年刊。江戸中後期の本草家小野蘭山の「本草綱目」についての口授「本草紀聞」を孫と門人が整理したもの。引用に自説を加え、方言名も記している)には、これを筑前の方言とする。ここ(国立国会図書館デジタルコレクションの当該部の画像)。この異名の由来は未だに判らない。「笠岡市立カブトガニ博物館」公式サイトのこちらによれば、他に『岡山県「どんがめ」、広島県「だんがめ」、徳島県「びぜんがに」、愛媛県「かめごうら」「がわら」、福岡県や佐賀県などでは「はちがめ」、「がめ」、「うんきゅう」、大分県「うんぺこ」、「はちがんす」』とある。一つずっと感じているのは、甲部がそのように見えることから、「きゅう」は「臼」(歴史的仮名遣「きう」)ではないか? という疑いである。『「ウン」は?』と聴かれると困るのだが、例えば、あの完全に堅固にして寡黙な印象からは「吽」(口を閉じて出す音)が私には想起される。「吽臼」、如何でしょう?

「朝鮮ガニ」本邦では、通常のものと異なるものに「チョウセン~」と冠することは昔からよく行われてきたことは「チョウセンハマグリ」等のケースでお馴染みである(朝鮮半島に分布するカムルーチなどを「チョウセンドジョウ」と異名するのは真正と言える)から、蟹でないが、蟹っぽいごっついカブトガニの異名としては腑には落ちる。

「王世懋」(一五三六年~一五八八年)は明の漢民族出身の政治家で文人。

「閩部疏」「閩」は現在の福建省の広域旧称で、同地の地誌。原文は以下。「中國哲學書電子化計劃」の影印本で起こした。

   *

瀕海諸郡、以鱟皮代杓、歲省銅千餘斤。以蠣房代灰、眞石灰乃以配蔞葉檳榔啖、珍若食品。

鱟之爲物、介而中坼。厥血蔚藍、熟之純白。尾銳而長、觸之能刺。斷而置地、其行郭索、雌常負雄、觸苟而逝。或得其雄、雌亦就斃。

   *

「瀕海」海に面した地域。

「皮」カブトガニの甲殻部。

「杓」柄杓。

「歳に銅千餘斤を省く」そのままで柄杓代わりに常時使用でき、長持ちするし、一銭もかからない。而して、年に銅に換算すると、一千斤(明代の換算で五百九十七キログラム)が節約出来るというのであろうか。

「鱟の物と為すに」これがよく判らないのだが、「カブトガニをいろいろな流通物品(ここは特に漢方生薬の謂いを感じさせる)として商品化する場合は」の意か。

「介にて」魚介の物産としての意か。

「中、坼き、厥の血、蔚藍なるも、熟すれば、之れ、純白たり」本体の体幹を裂いて、そこから得られるカブトガニの血液のことであろう。「蔚藍」は濃い藍色を指す。カブトガニの血が「青い」とされるのは、採取してすぐに主成分のヘモシアニン(hemocyanin:アカガイ類やゴカイ類などを除き(彼らはヘモグロビン(hemoglobin)と似た鉄由来の呼吸色素エリトロクルオリン(erythrocruorin)を持つ)、海産動物の多くは血中リンパ液に溶存する形でこれを持つ)の酸化が始まり、濃い青(特に本邦でそうだが、古く「青」は濃い藍色を指した)に変色してしまうことによる。本来の彼らの血液は透明或いは乳白色を呈する。但し、酸素との結合力はヘモグロビンよりも弱く、化学に詳しくはないが、或いは一度、酸化したものが、時間を経て、分解還元されると、脱色するのか? 或いは、ヒトの血液と同じで、時間が経つと、酸化したヘモシアニンが沈殿して血餅(けつべい)となり、上澄みの血清が「純白」となることを言っているのかも知れない。

「断ちて」がよく判らない。「体の一部を切る」では、何となく意味が通じない。捕らえて、捕縄していたものを縄を断ってやると、の意か? 或いは、やはり前者で、切断した脚や本体が元気に動き出すさまを言っているのかも知れない。同じ仲間のクモ類でも、また、腔腸動物・軟体動物・昆虫類・多足類及びエビ・カニ(後者は自切線を有し、自ら切断する)・両生類・爬虫類でもごく普通によく見られる現象ではある。特に記述順列からから見ると、よく刺すところの後部端の尾剣(尾節)部分を切断して地面に置くと、前方の甲殻部だけで、何事もなく音を立てて素早く走り去る(次注)ということを言っているととるのが自然な気がする。

「郭索」蟹がかさこそと走り行くことを言う語のようである。

「苟に觸れても逝く」ちょっと人が触れるだけでも死んで(仮死して)しまうというのであろう。これは親しく見た訳ではないが、何となく腑に落ちる気がする。擬死は多くの動物で広く見られる現象である。同類のクモ類にも見られる。

「其の雄を得れば、亦、斃に就く」先の原文によれば、後半の主語は「雌」であり、ここは、「交尾を終えると直ちに死に至る」の謂いであろう。しかし、実際にはカブトガニは二十五年もの寿命を持つから、これは信じ難い。

「其の腹、各、足、五宛水かきの豆〔にて〕、螯なく」「笠岡市立カブトガニ博物館」公式サイトのこちらを見て戴くと、「前体」の「鋏角」と五対の「歩脚」の後ろのある、「後体」の「鰓脚」は、ぱっと見でも「豆」というのが腑に落ちるし、それらには脚と言っても螯(はさみ)はなく、「後体」の最前部の鰓蓋(えらぶた)を除くと、その「豆」状の「鰓脚」は「五対」あることが判る。

「上り※(のぼりだこ)に似たり。」(「※」=(上)「白」+(中)「比」+(下)「几」)ここをどう読むか、最も苦しんだ。何故、「たこ」=「凧」と読んだかは、大型のカブトガニは昔の凧(たこ)に似てはいないか? と思ったからである。因みに、「凧」は国字であって中国にはない。この奇妙な「※」の字はそれ自体が空を左右に振れる凧のように思われた。特に下の「几」は私には凧の脚のように見えたからである。

「倉橋氏」不詳であるが、「鸚鵡螺」(オウムガイ)でも「倉橋尚勝子」として、その図した貝殻を所持していた人物として登場している。

「丙申十一月十三日」。天保七年十一月十三日。グレゴリオ暦一八三六年十二月二十日。今から百八十六年前。 ]

大和本草卷之十六 海牛 (ジュゴン?・ステラダイカギュウ?・キタオットセイ〔一押し〕・アザラシ類)

 

[やぶちゃん注:「大和本草附錄巻之一」よりのピック・アップは終わったので、これより「大和本草附錄巻之二」(PDF)に移ろうとし、そちらから水族を選び出そうと、読み進めたところが、その「獸類」の追加記載の中に、標題なしで、信濃国の犀川に住む水棲妖獣の「犀」の記載があるのを見つけた。これを電子化しようとした瞬間――実は――水棲獣類も実はやっていない――ということに気づいてしまったのであった(やったと錯覚していたが、それは「和漢三才図会」のそれと混同していたのであった)。ここは、「大和本草附錄巻之二」の作業を、一旦、中断し、改めて「大和本草巻之十六」からの水棲獸類(幻獣・妖獣を含む)ピック・アップをやらずんばならなくなってしまった。また、お付き合い申し上げる。

 底本は従来通り、「学校法人中村学園図書館」公式サイト内にある宝永六(一七〇九)年版の貝原益軒「大和本草」(リンク先は目次のHTMLページ)の同巻之十六のPDF版を視認してタイプする。]

 

大倭艸草卷之十六    貝原篤信編錄

  獸類

 

[やぶちゃん注:「牛」から始まり、暫く陸生動物が続く。「犀」はあって「水牛」に似ているなどとあるが、水中に住むとは記していないし、これは実在するサイの伝聞記載であるから採らない。最初に出現するのは15コマ目の「海牛」である。]

 

【外】

海牛 山東志云出文登海中長丈餘紫色無角龜

足鮎尾性捷疾見人則飛入於海其膏可以燃燈

其皮可以爲弓鞬矢房

○やぶちゃんの書き下し文

【外】

海牛〔(かいぎう)〕 「山東志」に云はく、『文登の海中に出づ。長さ、丈餘。紫色、角〔(つの)〕、無し。龜の足、鮎〔(なまづ)〕の尾。性〔(しやう)〕、捷疾〔(せふしつ)〕。人を見れば、則ち、飛んで、海に入る。其の膏、以つて燈を燃〔(とも)〕すべし。其の皮、以つて弓鞬〔(きゆうけん)〕・矢房〔(やぶさ)〕と爲す。

[やぶちゃん注:哺乳綱アフリカ獣上目海牛(ジュゴン)目 Sirenia のカイギュウ類であるが、問題は語られている位置で、山東半島南側(後注参照)では、ジュゴン(海牛(ジュゴン)目ジュゴン科ジュゴン属ジュゴン Dugong dugon )の現在の棲息域には、到底、入らない。日本の南西諸島に少数のジュゴンが棲息するが、これはジュゴン分布域の北限だからである。東シナ海から黄海へ迷走した個体があったとしても、わざわざ地誌の物産の条に掲げるほど(後注参照)、頻繁にそれがあったなどというのは考え難いからである。そうなると――これはカイギュウ類の北方種で、人類が発見して僅か二十七年で多量捕獲を繰り返し、滅亡させてしまった(一七六八年頃。「登州府志」(後注参照)は一六六〇年に成立している)ジュゴン科ステラーダイカイギュウ亜科ステラーダイカイギュウ属ステラーダイカイギュウ Hydrodamalis gigas の若年個体である可能性である。同種の模式標本はベーリング島で、同種は専らベーリング海に限定棲息していたとされ、位置がこちらも離れるのだが、暖海性のジュゴンの北上を考えるよりも、恐らくは非常な古代に暖海性ジュゴン類から分岐した、寒冷適応型のステラーダイカイギュウ亜科 Hydrodamalinaeの、最後の生き残りだった彼らを登場させてやるべきだとも思うのである。ステラーダイカイギュウから搾り採られた油は臭いのしない良質の灯油となったことも記録に残っているからである(同じ海産哺乳類でも鯨油は燃焼時にかなりの臭さを感じる)。若年個体としたのは、彼らは現生カイギュウ類としては最大で、成体の体長は七メートルを超え、一説には最大八・五メートル、体重五~十二トンもあったと言われているからである。そうして、もし、これがステラーダイカイギュウであったとすれば、公的に知られているステラーダイカイギュウ発見よりも八十一年も前に漢籍に記載されていたということにもなるのである。ただ、「人を見れば、則ち、飛んで、海に入る」と言う部分は、ジュゴンやステラーダイカイギュウではあり得ず、寧ろ、角がなくて、♂に長い牙があればそれを言うだろうからして牙もなく、皮革が加工用に用いられたとなら、哺乳綱食肉(ネコ)目イヌ亜目鰭脚下目アシカ科オットセイ亜科キタオットセイ Callorhinus ursinus が現実的には無理がなく(現行では日本海を南限とする)、相応しいということになろう。私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 膃肭臍(をつとせい) (キタオットセイ)」も参照されたい。また、そうなれば、食肉目イヌ亜目鰭脚下目アザラシ科 Phocidae のアザラシ類も当然の如く、候補として登場させないとおかしい。種は本邦周辺でも複数いるので、私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 水豹(あざらし) (アザラシ)」を見られたい。まあ、その辺りで手打ちをするのが無難かなぁ。……次の条が「海驢」でその次が「海豹」となるとね(後述)……しかも同じ「山東志」に三つ並んで出てるわけよ(後掲)……「海驢」「海豹」とくるとねぇ……こりゃトドかアシカかアザラシなわけだからねぇ……しゃあないか……ね……だけどね……アザラシを示す「海豹」も、オットセイを示す「膃肭臍」も、この後に実は条立てして出てくるんだよなぁ…………

「山東志」清代に三種の「山東通志」があるが、その内の清の学者杜詔(一六六六年~一七三六年)の編纂に成る山東地方の地誌の巻二十四に、以下の文字列を発見した。「中國哲學書電子化計劃」の影印本より起こした。

   *

海豹【出寧海州其大若豹文身五色叢居水涯常以一豹䕶守如雁奴之類其皮可飾鞍褥】海牛【出文登縣郡國志云不夜城有海牛島牛角紫色足似龜長丈餘尾若鮎魚性急捷見人則飛入水皮可弓鞬可燃燈】海驢【出文登縣郡國志云不夜城有海驢島上多海驢常於八九月乳産其毛可長二分其皮水不能潤可以禦水】

   *

先に言っておくと、益軒は本条に続けて「海驢」と「海豹」を続けて出すが、総て冒頭が「山東通志曰」となっているのである。表記漢字に若干の異同があるものの、言っているコンセプトはだいた同じである。また、さらに検索をかけた結果、発見した。「維基文庫」の「欽定古今圖書集成」の「登州府部彙考七」の「登州府物產考」のここに、「山東志云」を外した酷似した文字列を見出せた。但し、膨大な類書である「古今圖書集成」は清の康熙帝が陳夢雷(一六五一年~一七四一年)らに命じて編纂を開始し、後、雍正帝の命で明の「永楽大典」に倣って蒋廷錫(一六六九年~一七二三年)等が増補し、一七二五年に完成したもので、版本は一七二八年の原刊本があるものの流通する刊本は少なく、益軒は一七一四年に没しているから、この刊本を見ることはなかった。しかし、先の「山東通志」と比べると、表記がほぼ相同である点で、この百科事典のもとになった「登州府部彙考七」の「登州府物產考」なるものと同じ親本を益軒が見ていることは疑いがない。

   *

海牛 出文登海中。長丈餘、紫色、無角、足似龜、尾若鮎魚。性捷、見人則飛入於海。其膏可以燃燈、其皮可以爲弓鞬矢房。

   *

そもそもが、登州は唐代から明初にかけての長きに亙って、山東半島の大部分を含む現在の山東省煙台市と威海市に跨る地域に設置された広域州(グーグル・マップ・データ。以下同じ)であったのである。

「文登」現在の山東省威海市文登区。山東半島東先端に近い南で海に面した地域である。

「丈餘」三メートル超え。

「龜の足、鮎〔(なまづ)〕の尾」漢名が「海牛」で、角がなく、カメの前肢に、巨大なナマズの尾のようだというのは、ジュゴンステラーダイカイギュウの形状を非常によく説明しており、他の種ではないと断言出来るほどに的を射ているのである(リンクはそれぞれの学名のグーグル画像検索。ステラーダイカイギュウの生体写真はどこにもない)。最有力のキタオットセイは尾ではなく、明確な左右に別れた後肢が確認出来るから、逆にここでは不利である。

「捷疾」敏捷で素早いこと。

「弓鞬」弓の本体を入れる弓袋。

「矢房」箙(えびら)のような矢を入れておく袋状のものか。]

南方熊楠「四神と十二獸について」(オリジナル詳細注附)の縦書PDルビ版公開版・2.3MB・28頁) 

同前の南方熊楠「四神と十二獸について」(オリジナル詳細注附)の縦書PDルビ版もサイトの「心朽窩旧館」に公開した(2.3MB・28頁)。 

「南方隨筆」底本 四神と十二獸について オリジナル詳細注附

 

[やぶちゃん注:本篇初出は大正八(一九一九)年八月二十五日発行の『人類學雜誌』第三十四卷八号。初出は「J-STAGE」のこちらで原本画像(PDF)で見られる。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらからの画像を視認した。冒頭にある通り、熊楠は大正三(一九一四) 年一月二十日発行の『人類學會雜誌』(第三十四巻六号)に載った考古学者八木奘三郎(やぎそうざぶろう)の論考「四神と十二肖屬の古𤲿」に触発されてこれを書いた。リンク先は私が先立って電子化したその論考である(同じく「J-STAGE」のこちらで初出原本画像PDF)が読め、私はそれを視認した)。まずは、そちらを先に読んで戴きたい。八木奘三郎の事蹟についても、私のブログ電子化の冒頭注を見られたい。

 初出及び平凡社「選集」と校合し、不審な箇所は訂した。それはただ五月蠅くなるだけなので、原則、注していない(例えば冒頭の「未聞」の「末聞」や「條々と」の「條々を」など。更に「未」(ひつじ)とあるべきところが致命的に多く「未」となっていたりするのである)。他にも漢籍などの引用で不審な箇所は可能な場合は漢籍原本を調べ、訂したが、これも、同前の理由で、原則、注していない(例えば冒頭の「淵鑑類函四四〇」の引用中の「玄武」は「元武」となっており、「其色黑、故曰玄元龜、有甲能捍禦」も読点位置を含め、一読不審であったため、「中國哲學書電子化計劃」のこちらで確認して総て訂した)。底本画像と比較されたい。頻繁に登場する「玄」は最終画のない「𤣥」であるが、この活字は私が生理的に嫌いなので、総て「玄」で表記した。また、漢文引用部は概ね読点のみの返り点もない白文であり、読み難いので、後に書き下してある「選集」のそれを参考にしつつ、我流で書き下して項末或いは段落末に挿入し、後を一行空けた。珍しく踊り字「〲」(古文引用)が出るが、正字に直した。]

 

 人類學雜誌三四卷六號に出たる、八木君の「四神と十二肖屬の古𤲿」を拜讀して大に未聞を聞きしを厚謝す。其中に就て予に分かり難き條々といささか氣付いたる事共を列ねて、八木君及び讀者諸彥の高敎を乞ひ參考にも供せんとす。[やぶちゃん注:「諸彥」は「しよげん」(しょげん)。「彦」は「優れた男性」の意。多くの優れた人。諸氏。]

一、一八三頁下段に、玄武の文字を釋して和漢名數より朱子の語を孫引して、「玄武謂龜蛇、位住北方。故日玄、身有鱗甲、故曰武とあれば云々」と述べらる。按ずるに淵鑑類函四四〇に、緯略曰、玄武卽龜之異名、龜水族也、水屬北、其色黑、故曰玄、龜有甲能捍禦、故曰武。世人不知、乃以玄武爲龜蛇二物。この緯略てふ書、何時誰が作りしか知らねど、其先後に引る書共の時代から推すに朱子より古く筆せられし者の如し。兎に角一說なるに付き爰に擧ぐ。

[やぶちゃん注:「玄武謂龜蛇……」「玄武とは龜蛇を謂ふ。位、北方に住す。故に玄と曰ふ。身に鱗甲有り。故に武と曰ふ」。

「淵鑑類函」清の康熙帝の勅により張英・王士禎らが完成した類書(百科事典)。一七一〇年成立。

「緯略曰……」「『緯略』に曰はく、『玄武、卽ち、龜の異名。龜、水族なり。水は北に屬し、其の色、黑、故に玄と曰ふ。龜、甲有り、能(よ)く捍禦(かんぎよ)[やぶちゃん注:守り防ぐこと。]す。故に武と曰ふ。世人、知らず。乃(すなは)ち玄武を以つて龜と蛇の二物と爲す。』と。」。熊楠が不詳とする「緯略」南宋の文人高似孫(こうじそん)の撰になる、恐らくは経書の目録であるが、現存しない。]

二、一八四頁下段に曰く、「又尙書以下の書を按ずるに、五行の水火木金土を中央及び四方に配し、又木火金水を東西南北春夏秋冬に當し事は書經樂記管子以下の書に見ゆれども靑赤黑白の色を曰はず、ただ周禮に方位と色とを記せし例あり。然れども此書世に漢儒の作と稱せらるれば、隨って爾雅の如きも其漢初に出し事は略ぼ推測するに足るべく、又色と方位、色と四神名との起源も、彼の漢代に在る事を察するに足るべし、中略、又始皇本紀に云々と記すれば、水德と黑、水と北方との關係上、方位と色彩の結合は已に秦代に行はれし有樣なれ共、是等は根本資料を明かにする必要有り、又假令右が秦代に在る事疑ひ無しとするも、猶周代の分は不明也、故に、予は其確實と信ずる點に從ひて漢代といえり」と。

 八木君の此文中予をして疑ひを抱かしむる者少なからず。先づ君の所謂樂記が禮記中に在る者ならば君の言は謬れり。禮記の樂記第十九に五行とか木火土金水とか云ふ事少しも見えず。扨禮記の月令第六に、孟春六月、天子居靑陽左个、乘鸞路、駕蒼龍、載靑旂、衣靑衣、服蒼玉云々、大史謁之天子曰、某日立春、盛德在木云々。天子親帥三公九卿諸侯大夫以迎春於東郊」孟夏之月、天子居明堂左个、乘朱路、駕赤騮、載赤旂、衣朱衣、服赤玉云々、大史謁天子曰、某日立夏、盛德在火云々。天子云々迎夏於南郊」次に中央土、其日戊巳、其帝黃帝云々、其から孟秋之月は天子、駕白輅、載白旂、衣白衣、服白玉、立秋の日、秋を西郊に迎ふ、孟冬之月、天子居玄堂左个、乘玄路、駕鐵驪、載玄旂、衣黑衣、服玄玉。立冬盛德在水、天子冬迎於北郊といふ風に、五行を、春夏中央秋冬の五時や東南中央西北の五方や靑赤黃白黑の五色に當て配れり。呂氏春秋は史記に呂不韋作十二紀八覽六論二十餘萬言、號曰呂氏春秋と有り。其十二紀は、孟春紀仲春紀季春紀といふ體に、每紀先づ十二月の月令を載せ、之に次ぐに他の四篇を以てし、紀每に五篇、但し季冬紀のみは六篇より成る故、六十一篇で十二紀を成す。此の呂氏の月令を通覽するに全く禮記の月令に基いて述し者の如く、殊に五行五時五方五色の配當は文字に些少の差ひ[やぶちゃん注:「ちがひ」。]有るのみ大要は相同じ。是れ周代既に方位の配當有りし證據に非ずや。加之[やぶちゃん注:「しかのみならず」。]、一八四頁上段に八木君は「四神の名稱は漢以前の書に見えざれば同(周?)代にこの稱呼有りしや否やは明かならず」と云れたれど、禮記の發端、曲禮上第一既に行くに朱鳥を前にして玄武を後にす、靑龍を左にして白虎を右にすと有り。是等は唯だそんな動物を𤲿いた旗を立た迄で之を四方の神としたるに非じと謂ふ人も有んが、次文に招搖(北斗第七星也)在上急繕其怒と有れば、件の四動物を北斗と等しく、神像としたるや疑ひ無し。但し禮記も呂氏春秋も亦漢儒の作る所といはゞば其れ迄なれど、果して左樣の說も有る者にや、大方の高敎を竢つ[やぶちゃん注:「まつ」。「俟つ」に同じい。]。

[やぶちゃん注:「孟春の月……」以下は各所を切り張り引用したものであるが、面倒なので、一括して訓読して示す。熊楠の挿入もそのままにしておく。

   *

『孟春の月、天子は靑陽の左个(さか)[やぶちゃん注:この「个」は部位・位置を指す。]に居(を)り、鸞路(らんろ)[やぶちゃん注:天子の乗る車の名。以下、同一箇所は同じ。]に乘り、蒼龍を駕し、靑旂(せいき)[やぶちゃん注:青い旗。]を載(た)て、靑衣を衣(き)、蒼玉を服(ぶく)し』云々。『大史、之れを天子に謁(つ)げて曰く、「某日[やぶちゃん注:暦によって移動するのでかく言った。その年の当該の日の意と考えればよい。]立春、盛德、木に在り。」と』云々。『天子、自(みづ)から三公・九卿・諸侯・大夫を帥(ひきい)て、以て春を東郊に迎ふ』、『孟夏の月、天子は明堂の左个に在り、朱路に乘り、赤騮(せきりゆう)[やぶちゃん注:「騮」は栗毛の駿馬。]を駕し、赤旂を載て、朱衣を衣、赤玉を服し』云々。『大史、之れを天子に謁げて曰く、「某日立夏、盛德、火に在り。」と』云々。『天子』云々、『夏を南郊に迎ふ』、次に『中央は土なり。其の日は戊巳(ぼし/つちのとみ)[やぶちゃん注:現行の干支の組み合わせでは存在しないが、古代にはあったものか。]、その帝は黃帝、云々」、其から、『孟秋の月は、天子、白輅(はくらく)[やぶちゃん注:「輅」は天子の車。]を駕し、白旂を載て、白衣を衣、白玉を服し、立秋の日、秋を西郊に迎ふ』、『孟冬(まうとう)[やぶちゃん注:初冬の陰暦十月。]の月、天子は玄堂の左个に在(あ)り、玄路に乘り、鐵驪(てつり)[やぶちゃん注:「驪」は黒毛の馬。]を駕し、玄旂を載て、黑衣を衣、玄玉を服す。立冬、盛德、水に在り。天子、冬を北郊に迎ふ』。

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「呂氏春秋」(りょししゅんじゅう:現代仮名遣)戦国末の秦の呂不韋が食客を集めて共同編纂させた書。紀元前二三九年完成。天文暦学・音楽理論・農学理論などの論説が多く見られ、自然科学史上、重要な書物とされる。

「呂不韋……」「呂不韋は十二紀・八覽・六論の二十餘萬言を作り、號(なづ)けて『呂氏春秋』と曰(い)ふ。」。

「招搖(北斗第七星也)在上急繕其怒」「招搖(しやうやう)上に在り、急(かた)く其の怒りを繕(つよ)くす。」。「招搖」は星の名。]

 

 予は支那書を讀むことを廢して既に二十年、今迨んでは[やぶちゃん注:「およんでは」。]何の知る所も無し。然れども纔かに記臆に存する處に據るも、なほ多少の言ふべき者無きに非ず。因て記臆に基づき座右の書を搜つて一二を述んに、左傳襄公二十八年蛇乘龍[やぶちゃん注:「蛇、龍に乘る。」。]、集解に蛇玄武之宿、虛危之星、龍歲星、歲星木也、木爲靑龍、失次出虛危下、爲蛇乘也。爰に見る龍は、東方の星宿ならで木星なれど、虛危の星を蛇とせるは史記天官書に北宮玄武虛危[やぶちゃん注:「北宮は玄武にして虛危なり。」。]といえると同樣、周代既に蛇を以て北方の神玄武の標識としたる也。又墨子貴義篇に、子墨子北之齊、遇日者、日者曰、帝、以今日、殺黑龍於北方、而先生之色黑、不可以北、子墨子不聽、遂北至淄水、不遂而反焉。日者曰、我謂先生不可以北、子墨子曰、南之人不得北、北之人、不得南、其色有黑者、有白者、何故皆不遂、且帝以甲乙殺靑龍於中於東方、以丙丁赤龍殺於南方、以庚辛殺白龍於西方、以壬癸殺黑龍於北方、以戊巳殺黃龍於中方、若以子惟言、則是禁天下之行者也。墨子の時代は確かならねど孟子や荀子に其說を載たれば此二子より前の人と見ゆ。亦以て周代既に五行に因める十干を五方位と五色とに配當せる說行れたるを知るべし。尤も、是迚も左傳も墨子も漢儒の假作と云ば詮方無し。然る上は予は左樣の見を抱く人に向て、全體今に在て漢以前の事實を觀るべき支那書は何に何なるやを示されん事を乞うの外無し。

[やぶちゃん注:末尾の八木の論考への不満は私も電子化している最中に激しく感じた。快哉!

「集解」晋の杜預の「春秋左氏伝」の注解書「春秋經傳集解」。

「蛇玄武之宿……」「蛇は、玄武の宿(しゆく)、虛危[やぶちゃん注:星宿の固有名の一つ。]の星なり。龍は歲星にして、歲星は木(もく)なり。木は靑龍と爲す。次(やどり)を失ひて虛危の下に出で、蛇の乘るところと爲すなり。」。

「子墨子……」「子墨子(しぼくし)、北して齊(せい)に之(ゆ)き日者(につしや)[やぶちゃん注:天文現象を用いた占術師。]に遇(あ)ふ。日者曰く、『帝、今日を以て、黑龍を北方に殺す。而るに先生の色、黑し。以て、北すべからず。』と。子墨子、聽かずして遂に北して淄水(しすい)に至り、遂(と)げずして反(かへ)る。日者曰く、『我、「先生、以て北すべからず」と謂へり。』と。子墨子曰く、『南の人、北することを得ずんば、北の人、南することを得ず。其れ、色は、黑き者有り、白き者有り。何の故にか、皆、遂げざらんや。且つ、帝は甲乙[やぶちゃん注:当該の日。]を以て靑龍を東方に殺し、丙丁を以て赤龍を南方に殺し、庚辛を以て白龍を西方に殺し、壬癸を以て黑龍を北方に殺し、戊己を以て黃龍を中方(ちゆうはう)に殺す。若(も)し、子の言を用ふれば、則ち、是れ、天下の行く者を禁ずるなり。』と。」。]

 

三、一八六頁に、八木君は「十二支に十二獸名を當し事は、彼の事物紀原に事始を引て、黃帝は立子丑十二辰以名月、又以十二名、獸屬之[やぶちゃん注:八木氏の論考では『黃帝立子丑十二辰以名ㇾ月、又以十二名獸ㇾ之』で南方の引用は不全な上に読点位置がおかしい。「子(ね)・丑(うし)十二辰を立てて、以つて、月を名づけ、又、十二の名の獸を以て、之れに屬(しよく)す」。]とあれども、これは支那人側の解釋にて、實は印度の十二獸が支那に移りてかの十二支と結合せるがごとし」と言わる。所謂印度の十二獸の事は次の(四)の條に論ずべし。今は唯だ支那の十二獸に就て言んに、一九一一年版エンサイクロペジア、ブリタンニカ、二八卷、九九五頁にクラーク女史は、支那で日の黃道を十二に分かち、十二獸に資て[やぶちゃん注:「よつて」。]之に名け順次日の進行に逆らふて進む者とせるは、特種奇異の組織で、支那自國に起こりしや疑ひ無しと有るは尤もながら、是は十二支の支那固有なるを言し迄にて、十二獸を十二支に當る[やぶちゃん注:「あつる」。]の支那固有なるを言たるに非ず。然れども十二獸を十二支に當るも亦實に支那固有の者と見ゆ。古今要覽稿五三一に、「凡そ十二辰に生物を配當せしは、王充論衡に初めて見えたれども、淮南子[やぶちゃん注:「抱朴子」の誤り。後注参照。]に山中未日稱主人者羊也といひ、莊子に未甞爲牧而牂生於奧と云るを、釋文に西南隅未地と云れば、羊を以て未に配當せしもその由來古し」とあり。錢綺曰く十二辰亦由列宿而定、如周時星紀、中有牛宿、故丑中屬牛、而今則牛宿在子宮、不在丑宮矣、周時元※1[やぶちゃん注:「※1」=「亻」+「号」。]中有虛宿、※2[やぶちゃん注:「※2」=「木」+「号」。]爲耗名、鼠能耗物、故子屬鼠、而今依月初宮法推之、則虛宿在亥宮、不在子宮矣。娶訾又名豕韋、故亥屬豬、今依古法則娶訾不爲亥宮、而爲戌宮(竹添氏の左氏會箋卷十四頁五六)。以て十二獸を十二支に當るは周時に始りしを知るに足る。

[やぶちゃん注:「一九一一年版エンサイクロペジア、ブリタンニカ、二八卷、九九五頁」一七六八年に初版が発行された英語で書かれた百科事典「ブリタニカ百科事典」(表記はラテン語で‘Encyclopædia Britannica’)。第二版はスコットランドの著述家で航空のパイオニアであったジェームズ・タイトラー(James Tytler 一七四五年~ 一八〇四年)の編集になり、一七七七年から一七八四年にかけて刊行された。‘Internet archive’のここで当該部分(左ページ)が読める。‘Chinese Zodiac signs.’がそれ。

「クラーク女史」上記の原本同巻の冒頭の筆者一覧に、アグネス・メアリー・クラーク(AGNES MARY CLERKE)という名で本項「Zodiac.」の執筆者として載る。彼女は当該ウィキによれば、一八四二年生まれで一九〇七年に亡くなったイギリスの天文学・天文学史についての著述を行った女性作家とあり、『アイルランド』『生まれ』で、『ロンドンで没した』。『早くから天文学に興味を持ち』、十五『歳の時には天文学について書くようになった。クラークの一家は』一八六一年に『ダブリン』、一八六三年に『クィーンズタウンに移り、数年後にクラークはイタリアを訪れ』、一八七七年まで『イタリアに留まった。主にフィレンツェの公共図書館で学び、作家となる準備をし』、一八七七年に『ロンドンに移った』。『最初の重要な作品であるCopernicus in Italy(『イタリア時代のコペルニクス』)はエジンバラ・レヴュー誌に』一八七七年に『掲載され』たが、それ以前の一八五五年に『出版されたA Popular History of Astronomy during the Nineteenth Century』(「十九世紀の天文学史」)』で有名になった。クラークは天文学者ではなかったが、天文学研究についての解説に秀でていた』。一八八八年には『ケープ天文台の所長デービッド・ギル夫妻の招きで』三『ヶ月も天文台に留まり、当時は新しい天文学の分野となった天体分光学についての知識を得た』。一八九二年には「英国天文協会」(British Astronomical Association)の会員となり、『英国天文協会の会合や王立天文学会の会合に参加した』。一九〇三年には『王立天文学会の名誉会員に選ばれた』。『月のクラーク・クレータは彼女の名に因んで命名された』ものであるとある。

「十二獸を十二支に當るも亦實に支那固有の者と見ゆ」私もそう思う。

「古今要覽稿」江戸後期の類書。五百六十巻。幕命により屋代弘賢が編集。文政四年から天保十三年(一八二一年から一八四二年)にかけて成立した。自然・社会・人文の諸事項を分類し、その起源・歴史などを古今の文献を挙げて考証・解説したもの。「五三一」のそれは国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで視認できる。上段末から下段冒頭にかけてである。

「王充論衡」「論衡(ろんこう)は後漢の文人で思想家の王充(二七年~一世紀末頃)が著した全三十巻八十五篇(その内の一篇は篇名のみ残って散佚)から成る自伝的思想書。実証主義の立場に立った自然主義論・天論・人間論や史観など多岐多様な事柄を説き、一方で、非合理的な先哲伝承や陰陽五行説・民俗的災異説を迷信論として徹底的に批判している。

「山中未日稱主人者羊也」この底本原文は「山中末日稱主人者半也」で訓読不能なほど致命的な誤字である。さらに屋代弘賢のとんでもない誤りがあって、これは「淮南子」にはなく、「抱朴子」の「内篇」の「登涉」に出現するものであることが、中文サイトを縦覧するうちに明らかとなった。「選集」にはその誤りを示す注もなく、ネット上の本篇の抜粋などでも、無批判に誤りを受け入れているものばかりで、総て「淮南子」を出典としている為体(ていたらく)である。私はこれだけでもこの電子化注をしている甲斐があったと思ったものである。「抱朴子」の当該部は「中國哲學書電子化計劃」のこちらを見られたい。山中の超常現象を解説した中に出る。所持する訓読本で訂した(「抱朴子」は私の愛読書である)。「山中」は南方熊楠の添えたもの。「未(ひつじ)の日に、主人と稱する者は、羊なり。」で、原本では因みにその後にセットで「稱吏者、獐也」(吏と稱する者は、獐(のろ)なり。)とある。

「莊子に未甞爲牧而牂生於奧と云る」「莊子」の「徐無鬼篇 第二十四」に出る。子綦(しき)が我が子(こ)の歅(いん)に宇宙の無為自然の不可知の絶対原理を語る中に出る(「荘子(そうじ)」は私が唯一、大学時代に徹底的に読み込んだ、数少ない漢籍の一つである)。

   *

未だ甞つて牧を爲さざるに、而も牂(めひつじ)は奧(おう)に生ず。

   *

「奧」は熊楠が添える通り、「西南隅未地」(西南の隅の未(ひつじ)の地)の意。「私はこれまで、牧畜などしたこともないのに、いつの間にか、不思議なことに、屋敷の西南の隅の未の方角の土地に、雌の羊が現われた。」の意。

「錢綺」(一七九八年~?)清代の学者。著書に「左傳札記」(「續修四庫全書」に収める。調べたところ、熊楠の引用はこの「春秋左氏伝」の注釈書であった。「中國哲學書電子化計劃」の影印本のここを見られたい。右の活字は信用してはいけない。機械的な翻字で誤りが多い)・「東都事略校勘記」・「南明書」がある。

「十二辰亦由列宿而定……」「十二辰も亦、列宿に由りて定まる。周の時の『星紀』のごときは、中に牛宿有り。故に丑は中の牛に屬(ぞく)す。而れども、今は、則ち、牛宿は子(ね)の宮(きゆう)に在(あ)りて、丑の宮に在らず。周の時、元※(「※1」=「亻」+「号」。「選集」では読みを『きよう』と振る。恐らくは「きょう」で「げんきょう」であろう。意味不明。星宿の細部名か占い卦の一つの呼び名か?)は、中に虛宿あり。※(「※2」=「木」+「号」。読み・意味(推定)は同前)は耗(まう)[やぶちゃん注:]の名となす。鼠は、能く物を耗(へら)す。故に子は鼠に屬す。丑は牛に屬す。而して今は、月の初めの交宮(かうきゆう)の法[やぶちゃん注:意味不明。星占法に於いて星宿の宮(きゅう)が旧暦の月の初めに交差(円形に配置した際の対の十二支か?)するように捉えて行われた儀式をでも指すか?]に依りて之れを推せば、則ち、虛宿は亥宮に在りて、子宮には在らず。娶訾(しゆし)は又、豕韋(しゐ)とも名づく。故に亥は豬に屬す。今は古法に依りて、則ち、娶訾を亥宮と爲さずして戌宮と爲す。」。

「竹添氏『左氏會箋』」元外交官にして漢学者の竹添進一郎(天保一三(一八四二)年~大正六(一九一七)年:「甲申政変」の折りには朝鮮弁理公使であり、後に漢学者として活躍した)「春秋左氏伝」の箋注本。明治三七(一九〇四)年明治講学会刊。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで視認出来るが、私は探す気になれない。悪しからず。]

 

四 前條の始めに引ける八木君の文の續きに曰く「こは宿曜經[やぶちゃん注:「すくえうきやう」。]抔に記載しあれども云々、山岡俊明の類聚名物考に曰く、「飜譯名義集に此十二支法、爲中乘之達觀也と見えたり、經には鼠牛虎兎龍蛇馬羊猿鷄狗猪の字を用ひ、此十二物は大權の聖者にして、年月日時に四天下を巡りて同類形の衆生を濟度すと說けり、此十二獸の名を支那にて古く用居たる[やぶちゃん注:「もちひをりたる」。]子丑等の字に配當したるを以て、我國にてねうしの訓を充たるなり[やぶちゃん注:「あてたるなり」。]」山岡の說は當時に於て卓見と謂べく、彼の鼠牛以下の獸名は確かに印度傳來に相違なく、夫が支那の子丑寅卯と結合せし事は疑ひ無るべきも[やぶちゃん注:「なかるべきも」。]、此點に就ては猶硏究の餘地あるにより五行の起源の論に移る」と(以上八木君の文)。相違なく疑ひ無かるべき由言て、扨猶硏究の餘地ありと云るゝ程故、一九一頁の結論にも「而して此類の智識が最初支那より印度に傳れるや否やは今俄に決する事能はざれども、其十二支に鼠牛虎の類が印度より流傳し、之に依て繪𤲿上に現はれしとすれば云々」と、結局支那より印度に傳へしや、印度より支那へ傳へしや、どちらとも片付けずに終られたるは、頗る物足らぬ心地ぞする。

[やぶちゃん注:最後の部分は私も強い不満を抱いた箇所である。

「宿曜經」唐代に、印度の二十八宿七曜などを述べた選訳書。「文殊師利菩薩及諸仙所說吉凶時日善惡宿曜經』が正式の書名で、中国密教の完成に努めた僧不空の訳になる。上下二巻。訳を史瑤が編し、それを楊景風が改めて、諸所に註記したものが、中唐初期の七六四年に完成した。基は印度の占星術で使われる暦学と占星法の書「ナクシャトラ」で、七曜・十二宮・二十八宿の関係によって一生の運命や一日の吉凶を判断する方法を説いたもの。地本邦へは平安初期に伝わり、「宿曜道」(すくようどう) の根本となった。

「山岡俊明の類聚名物考」「俊明」は「浚明」とも書き、「まつあけ」と読む。「類聚名物考」は江戸中期の類書(百科事典)で全三百四十二巻(標題十八巻・目録一巻)。幕臣で儒者であった山岡浚明(享保一一(一七二六)年~安永九(一七八〇)年:号は明阿。賀茂真淵門下の国学者で、「泥朗子」の名で洒落本「跖(せき)婦人伝」を書き、「逸著聞集」を著わしている)著。成立年は未詳で、明治三六(一九〇三)年から翌々年にかけて全七冊の活版本として刊行された。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で同刊本を視認したところ、ここに発見した(巻六の「天文部六」の「雜」の内の大項目「十干 十二支」の冒頭にある「刑德」中に出る(右ページ下段の四行目)。

「飜譯名義集」(ほんやくみやうぎしふ)は宋代に書かれた梵漢辞典。七巻本と二十巻本がある。南宋の法雲編。一一四三年成立。仏典の重要な梵語二千余語を六十四編に分類して字義と出典を記したもの。

「爲中乘之達觀也」「中乘の達觀と爲すなり」。]

 

 予は全く印度古今の曆象天文方位に就て學びし事無れど、種々讀書の際注意せしに、印度に十二支も無ければ、十二獸を十二支に充る事も無き樣也。フムボルトの論說に、印度墨西哥[やぶちゃん注:「メキシコ」。]共に、古く蛇や管や劇刀や日の迹や、犬の尾や家等の名を曆日に配當する由見え、其事頗る支那の十二獸を日に配當するに似たれど、印度墨西哥に右等の物名を方位に配せしを聞ず。又印度の二十七宿の名の内、支那十二獸の或る物に偶合せる有れど、偶合せぬ者の方多ければ、本と同源より出でたりと惟はれず。類聚名物考に略說されたる十二動物のことは、大集經卷廿四に出づ。其文難解又冗長の處少なからねば、佛敎大辭彙二、頁一六〇〇に載せたる撮要文を本經に照らし多少校訂して爰に出す。曰く、「閻浮提外東方海中の琉璃山に蛇馬羊住み、南方海中の玻黎山[やぶちゃん注:「はりさん」。]に猴鷄犬住み、西方海中の銀山に猪鼠牛住む、北方海中の金山に師子兎龍住み、東方の樹神南方の火神西方の風神北方の水神、何れも一羅刹女と共に各五百眷屬を有し、各自に三獸を供養す、其一々の獸は窟内に住み聲聞慈を修し[やぶちゃん注:「しやうもん、じを、じゆし」。]、晝夜常に閻浮提内を行き、人天に恭敬さる、曾て過去佛に於て深重願を發し一日一夜常に一獸をして遊行敎化し、餘の十一獸は安住修慈し周りて[やぶちゃん注:「めぐりて」。]復た始めしむ、七月一日鼠初めて遊行し、聲聞乘を以て一切鼠身衆生を敎化し、惡業を離れ善事を勸修せしむ、是の如く次第して十三日に至り鼠復た遊行す、斯て十二月を盡し十二歲に至り、亦復た是の如し、是故に此土多く功德有り、乃至畜獸も亦能く敎化し無上菩提の道を演說す下略」。件の大集經は東晉の代に北凉に入し天竺僧曇無讖譯せる所と、此僧涅槃等の經を携へて罽賓[やぶちゃん注:「けいひん」。北印度のカシミール地方若しくはガンダーラ地方にあったとされる国。]に之しに[やぶちゃん注:「ゆきしに」。]、彼國多く小乘を學び大乘を信ぜず、因て流轉して北凉に來たれり