芥川龍之介書簡抄21 / 大正二(一九一三)年書簡より(八) 十二月三十日附山本喜譽司宛書簡
大正二(一九一三)年十二月三十日・山本喜譽司宛(封筒欠)
あがらうあがらうと思つてゐるうちに今日になつてしまひました あしたは君が忙しいし年内には御目にかゝる事もあるまいかと思ひます
廿日に休みになつてから始終人が來るのです どうかすると二三人一緖になつて狹いうちの事ですから隨分よはりました それに御歲暮まはりを一部僕がうけあつたものですから本も碌によめずこんな忙しい暮をした事はありません
今日は朝から澁谷の方迄行つてそれから本所へまはり貸したまゝになつてゐた本をとつてあるきました 澁谷の霜どけには驚きましたが思ひもよらない小さな借家に思ひもよらない人の標札を見たのには更に驚きました 小さな竹垣に椿がさいてゐたのも覺えてゐる 小間使と二人で伊豆へ馳落ち[やぶちゃん注:「かけおち」。]をして其處に勘當同樣になつたまゝ暮してゐるときいたのに思ひがけず其人は今東京の郊外にかうしてわびしく住んでゐる。向ふが世をしのび人をさける人でさへなくばたづねたいと思ひましたがさうした人にあふ氣の毒さを思ふと氣もすゝまなくなります
君がこの人の名をしり人をしつてゐたら面白いのだけれど
伊藤のうちへもゆきました 四葉會の雜誌と云ふものを見て來ました あゝして太平に暮してゆかれる伊藤は羨しい
あんな心もちをなくなしてからもう幾年たつかしら
お正月にはひとりで三浦半島をあるかうかと思ひます かと思ふだけでまだはつきりきまつたわけではありません
「佇みて」と「咋日まで」とをもつて暖い海べをあるくのもいゝでせう
こないだ平塚が來てとまりました 伊豆へ旅行したいつて云つてましたがどうしましたかしら
君の話しが出ました 平塚は妬しい[やぶちゃん注:「ねたましい」。]位君の事を思つてゐるんです 自分のもののやうに君の事を云ふときは少しにくい氣がしていけません 僕が馬鹿だからこんな事を考へるのかもしれないけれど
廿二才がくれる 暮れる
大學へ行つてから新しい友だちは一人も出來ない 淋しいけれど自由です 自由だけれどものたりない事もある
何しろ二十二才が暮れる えらくなりたい ほんとうにえらくなりたい
三十日夜 龍
喜 譽 樣 梧下
[やぶちゃん注:満二十一の年の暮れにその行き過ぎるを惜しむ書簡。私に当てるなら、大学生活の最後の年末に当たる。私は社会人として神奈川の高校教師になることが決まっていた。龍之介は「大學へ行つてから新しい友だちは一人も出來ない 淋しいけれど自由です 自由だけれどものたりない事もある」「何しろ二十二才が暮れる えらくなりたい ほんとうにえらくなりたい」と記す。この「えらくなりたい ほんとうにえらくなりたい」という告白は私には彼の遺書的遺稿「或舊友へ送る手記」(昭和二(一九二七)年八月四日の雑誌『文藝時報』第四十二号に発表とされるが、死の当日の同年七月二十四日日曜日夜九時、自宅近くの貸席「竹村」で、久米正雄によって報道機関に発表されており、死の翌日の二十五日月曜日の『東京日日新聞』朝刊に掲載されている。リンク先は私の古い電子テクスト)の最後に添えられた以下を直ちに思い出す。
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附記。僕はエムペドクレスの傳を讀み、みづから神としたい欲望の如何に古いものかを感じた。僕の手記は意識してゐる限り、みづから神としないものである。いや、みづから大凡下の一人としてゐるものである。君はあの菩提樹の下に「エトナのエムペドクレス」を論じ合つた二十年前を覺えてゐるであらう。僕はあの時代にはみづから神にしたい一人(ひとり)だつた。
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「思ひもよらない人の標札」誰かは不詳。
「伊藤」不詳。山本に言っているところからは、三中時代の友人の伊藤和夫か。
「四葉會」不詳。
「お正月にはひとりで三浦半島をあるかうかと思ひます」現行の年譜ではそのような事実はない。代わりに、大正三年一月四日から六日まで、この書簡の相手である山本の一家或いは一族が持っていた鵠沼の別荘に六日まで滞在している。一月二十一日小野八重三郎宛書簡には、『始は三崎へ行かうと思つたが風が强くなつたんでやめた 僕はハンモツクにすら醉ふ人間である』『電話をかけえ山本に別莊はあいているかねときいたらあいていると云ふ答があつた そこで愈々そこへ行く事にした』という顚末が記されてある。
『「佇みて」と「咋日まで」』不詳。識者の御教授を乞う。
「平塚」既出既注。]
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