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2021/03/21

ブログ・アクセス1,510,000アクセス突破記念梅崎春生 冬の虹

 

[やぶちゃん注:昭和二九(一九五四)年三月号『小説新潮』に発表され、後の昭和三四(一九五九)年に刊行した作品集「拐帯者」(光書房)に収録された。

 読み始めれば、そこで予告した通り、すぐにこれが二ヶ月前の昭和二九(一九五四)年一月発行の『別冊小説新潮』初出で、同じ作品集「拐帯者」に本篇とセットで所収された、前回、ブログで電子化した「その夜のこと」の続編であることが判る。未読の方は、まずそちらから読まれたい。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第五巻」を用いた。

 今回は思うところあって、文中に軽く割注を入れて、最後に、本作のモデルとなった梅崎春生自身の過去(満二十一或いは二十二歳の時)の体験(事件)について注した。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが本日、先程、1,510,000アクセスを突破した記念として公開する。【2021年3月21日 藪野直史】]

 

   冬 の 虹

 

 月明りの下に、白っぽい大きな四角の建物があった。入口の柱に木札がかかっていて、夜目にもそれは『駒込警察署』と読めた。

 外套の襟を立てたまま僕が佇(た)っていると、巡査がうしろからじゃけんに僕の背をこづいた。

「さあ、上るんだ」

 この巡査は背が低く、顎(あご)の角ばった男で、言葉づかいに茨城あたりのものらしい訛(なま)りがあった。歳は三十前後かと思われる。犯行現場からここまで来るのに、自動車に乗れなかったので、それで露骨に僕に対して不機嫌になっていた。こんなに寒い夜だし、僕だっててくてく歩きたくはなかった。でも無一文だから仕方がない。

 うながされるまま、僕は重いあしどりで署の階段をのぼり始めた。僕のうしろから巡査が、巡査のうしろから霜多がつづいた。

 廊下を通って扉を押すと、そこはだだっぴろい大部屋で、夜更(ふ)けだと言うのに十人ばかりの刑事が立ったり腰かけたり、ストーブに掌をかざしたりしていた。ストーブの中で薪(たきぎ)は赤い焰を立てて、勢いよく燃えていた。僕たちが入って行っても、誰もこちらに振り向かなかった。へんにガヤガヤした落着かない厭な雰囲気だった。

 僕らを入口のところに待たせて置いて、巡査はつかつかと歩み入り、主任らしい男の机の前に立ち止った。僕の方を指差しながら、何かコソコソと報告しているらしい。主任も報告を受けながら、ちらちらと僕を横目でにらみつけているようだった。酔いもすっかり醒めはてたし、すこしずつ面白くない憂鬱な気分になってくる。

「ひょっとすると、俺は留置場に入れられるかも知れないな」

 僕は傍の霜多にそっとささやいてみた。すると霜多はびっくりしたような表情で僕を見た。

「ひょっとするとって、留置場入りはきまってるよ。とにかくケガさせたんだからな」

「そりゃ困ったな」

 と僕は落胆した。僕が切に欲していたのは、あたたかい蒲団と静かな眠り、それだけだったのだ。留置場入りは始めてだが、どうもそこにそんなものがあるとは常識としても考えられなかった。

「留置場入りは困るな。どうにかならんものかねえ」

「僕らも努力はしてみるよ。してはみるけれどね――」[やぶちゃん注:「僕ら」はママ。ここには、そうした「努力」が出来る他の人間は霜多以外にはいないから、或いは霜多の慌てぶりや、留置の責任を自分のみに限定されるのを半ば無意識に嫌ったことを示すためのものかも知れない。後で、霜多と他の友人への恨みを「僕」を漏らしていることから、霜多も、或いはこの時、他の友人らへ連絡して釈放の運動をしようという意識が頭を掠めたものかも知れない。]

 その時巡査がじろりと振り返ったので、霜多は口をつぐんだ。巡査は怒ったような顔付きで僕を手招いた。僕はふらふらとそちらへ歩いた。

「お前か、下宿の婆さんを殴ったのは」

 主任がにわかに眼を据(す)えて僕に怒鳴った。主任も頰(ほお)骨が突き出て、チョビ髭(ひげ)を生やし、顎骨が左右に張っていた。どうして警察官というのは、どれもこれも顎が四角張っているのだろう。僕はキッと見据えられて、思わず視線をうろうろさせた。

「はい」

「なぜ殴ったんだ」

 そこで僕は、今夜酒を飲んだこと、終電に乗り遅れた友人の霜多を愛静館に連れかえったこと、婆さんに客蒲団を出して呉れと頼んで断られたこと、僕が腹を立てて婆さんに糊壺を投げつけ、そして椅子をふり廻して大あばれをしたこと、以上の事情をカンタンに主任に説明した。下宿料がたまっていることなどは言わなかった。僕が説明し終ると、主任は僕をじっとにらみながら、低い声で訊(たず)ねた。

「あそこに立っているのが、その友達というやつか」

「そうです」

 主任は鉄の文鎮で机のはしをコツコツ叩きながら、すこし威嚇(いかく)的な声を出した。

「お前は一体学生のくせに、かよわい老人にケガさせるとは何事だ。今の報告によれば、婆さんの傷は全治二週間だぞ。悪いとは思わんか!」

「はい。悪かったと思います」

 出来るだけおだやかに僕は答えた。謝ればもしかすると許して呉れるかも知れない。そう考えたからだ。ところが頭を下げた僕を見て、主任は無雑作につけ加えた。

「それじゃ今晩はとまって行け」

 僕はとたんにがっかりして主任の顔を見た。主任はそっぽ向いて、さっきの巡査の方に顎でなにか合図をした。巡査がつかつかと僕に近づいて来た。

 

 霜多に別れると、僕はふたたび巡査に連れられて廊下に出、その留置場の方に歩かせられた。廊下は寒かった。僕はもう観念していた。『霜多のやつ、今晩どうするつもりかな』

 ちらと僕はそんなことを考えた。霜多ももう無一文の筈(はず)だし、こんなに夜は遅いし、どこで一夜を明かすのか。僕の方はお粗末ながら寝場所だけはチャンとあるわけなのだ。

 鉄の扉ががちゃんと開かれて、僕の身体はいきなりその中に押し入れられた。そこは留置場詰めの刑事の控えの間になっているらしかった。

「学生一人、願います」

 扉の外から巡査が言った。

 刑事が二人、火鉢に当っていた。その一人が僕を見て面倒くさそうに立ち上った。この刑事の顎もやはり下駄のように角張っていた。

「何だ、お前は。アカか」

「違います」

 アカではなく傷害罪であることに、僕はなにか自分に惨(みじ)めな屈辱をかんじた。小さな声でつけ加えた。

「下宿の婆さんにケガさせたんです」

 刑事の表情が軽蔑でゆがんだように感じられた。はき捨てるような口調だった。

「持ち物を全部ここへ出すんだ」

 うす暗い電燈の光の下に粗末なテーブルがある。僕はポケットの中から、学生証や煙草やマッチ、手袋や万年筆をとり出して、その上につぎつぎと並べた。刑事はその物件の名を一々紙に書きとった。

「それだけか?」

「これだけです」

 刑事は上目使いに僕を見て、僕の外套のポケットを上から押さえ、それから掌をポケットにつっこんだ。何かを摑(つか)み出した。

「何だあ、こりゃあ」

 拡げた掌の上に、マッチの軸(じく)の折れたのがたくさん乗っている。外套のポケットに手をつっこみ、マッチの軸をポキポキ折りながら歩くのが、その頃の僕の無意識の癖だった。刑事の掌にあるのはその折屑なのだが、自分の癖を現実の形として他人から示されるのは、はなはだしくイヤな気持のものだった。

「莫迦(ばか)な癖もあったもんだな」

 僕の説明を聞いて、刑事はそう言って鼻であざ笑った。

「さあ、バンドも外(はず)すんだ」

 留置場ではすべての紐(ひも)のたぐいは取上げられる。そのことは小説その他によって、予備知識として持っていたので、僕はすぐに素直に皮帯[やぶちゃん注:「バンド」と当て読みしておく。「かわおび」と読んでも構わない。]を外した。しかしいざ皮帯を外すと、ズボンがずり下りそうで、あやふやな不安定な感じだった。外套も脱がされるかと思っていたら、これはそのままでいいらしい。

 一人が僕を処理している間、も一人の刑事は火鉢にかがみこんで、じっとしている。僕に対して全然職業的興味さえ持っていない風(ふう)だった。

 この控え所からじかにコンクリートの廊下が伸び、その両側に鉄格子がずらずらと見える。そこが留置場にちがいない。区切りの具合から見て、八つか十ぐらいの房に分れているらしかった。午前三時過ぎのことだから、勿論そこらはしんと寝静まっていて、聞えるのは僕と刑事のぼそぼその話し声だけだ。

 刑事は僕の腕を摑(つか)んで、房(ぼう)の方に歩きながら、

「お前は運が良い奴だ。これが本富士署であって見ろ」

 と言った。そして、本富士署は建物が古いから設備も悪い、この駒込署は建ったばかりだから居心地がいいんだ、と妙なことを自画自讃した。そう言えばコンクリートの壁も汚れていないし、鉄格子もぴかぴかと光を弾いているようだった。

 刑事は左右の房をのぞいて歩き、そしてその一つの前に歩を止めた。小さいくぐり扉に頑丈な錠がかかっている。刑事は合鍵をさし込んで、ガチャリとそれを外した。

「さあ、この房の一番奥にもぐり込んで、さっさと寝るんだ」

 房は奥へ細長く、極端にうす暗い。鼠色の毛布をかぶって十人ばかりの男がいびきをかいている。妙な臭気が鼻に来た。毛布と壁との狭い間を僕は爪先立ちで奥へ歩いた。

背後で刑事がガチャリと錠をおろした。

(シラミがいるかも知れないな)

 床に立ったまま僕は考えた。昭和十二年のことだから、DDTなどという気の利いたものはない。その時鉄格子の外から刑事が僕をしかりつけた。

「何をぐずぐずしているんだ。さっさと寝ろ」

 僕はあわててそこに坐り、そして毛布の中にそっと足をさし込んだ。毛布は古びて毛もすり切れていた。そこに入っていた男がすこし体をずらして、僕の入る余地をつくって呉れた。僕は外套のまま毛布の中に横たわった。枕はもちろん無かった。僕の頭はじかに木質の床に触れた。寒さと冷たさが身体のしんまで沁み入ってきて、我慢しようとしても胴や股が小刻みに慄えた。就中(なかんずく)足の裏がこごえるように冷たかった。僕は自然にとなりの男に身体を押しつけて、そこから暖をとろうという形になっていた。そうでもしなければ凍え死んでしまいそうだった。

「何だ。何で入って来たんだい」

 となりの男が眼をさまして、僕にそうささやきかけた。

「ラジオかい」

「いや、なに」

 ラジオという言葉の意味がよく判らなかったので、僕はごまかした。

「人をケガさせたんだ」

「喧嘩か」

 男はそして眠そうに小さな欠伸(あくび)をした。

「まあ、いいや。早く寝ろよ」

 僕は男に背をぴったりと接して、眼をつむった。木の床の上に敷くのは毛布一枚だから、骨がゴリゴリと鳴り、あちこちが痛く、しびれるようにつめたかった。瞼を閉じても眠れるどころの騒ぎではなかった。

[やぶちゃん注:「駒込警察署」現在の東京都文京区本駒込二丁目に現存する(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。現在は文京区の北東部と豊島区のごく一部を管轄している。明治四〇(一九〇七)年十二月に本郷警察署(現在の本富士警察署)の分署として創設され、明治四十三年十二月に駒込警察署と改称、大正二(一九一三)年八月に、廃止された千駄木警察署の管轄を統合し、本郷駒込警察署となったが、昭和一二(一九三七)年には、再び、駒込警察署と改称している(当該ウィキを参照した)。最後に示す梅崎春生自身の事件は、その昭和十二年の出来事であるから、この再改称時に庁舎の一部が改装或いは増設されているものと思われる。

「本富士署」本富士(もとふじ)警察署。東京都文京区本郷七丁目で東京大学(当時梅崎春生が在籍していた(講義には出て一回もこなかったと大学時代の友人(最後の注を参照)は証言している)東京帝国大学の真南直近にある。当該ウィキを見ると、名称は警視庁第四方面三警察署(前身)→元富士町警察署→本郷警察署→本富士警察署→本郷本富士警察署と目まぐるしく改称しているものの、やはり、この昭和十二年に元の本富士警察署に名称を戻しているので、梅崎春生の記載は非常に正確であると言える。

「ラジオ」警察・犯罪用語の隠語。後で本文で説明されるので、ここでは記さない。]

 

 この新装なった駒込警察署留置場の第六房に、僕は翌日から、今日こそは釈放されるか釈放されるかと待ちこがれ、ついに足かけ一週間ここに入っていた。その一週間のあいだ、取調べもなければ、呼出しも一度もなかった。だからここにいるあいだ中、僕は、霜多その他の友人を心中でしきりに恨みつづけていた。

(俺のことはほったらかして、毎日遊んでいるのだろう)

 そう思うと腹が立って腹が立って、いても立ってもいられないほどだった。留置場の中では何もすることはないのだから、どうしてもひとつ事ばかり考えることになるのだ。

 一体どういうことになっているのだろう。その不安と腹立ちを更にあおるのは、確かに留置場の中の生活形式の故でもあった。今生活と書いたが、これは生活というよりも、しごく緩慢な儀式と言った方が近いかも知れない。ここでは行動というものはほとんど封じられている。睡眠と掃除と食事と排便。一日の行事は大体それだけで、あとは何もすることはないのだ。私語も禁じられている。(禁じられていても、刑事の眼をぬすんで僕らはおおむね私語をかわしていたが)とにかく十六年前のことだから、現在の留置場のあり方とは少々違っていた。[やぶちゃん注:「十六年前」本篇は昭和二九(一九五四)年三月発表であるから、発表年を勘定に入れなければ、最後に示す実際の事件の昭和十二年と一致する。]

 朝六時起床の合図。ただちにはね起きて毛布を手早くたたみ、房の内の掃除。房の外の通路の掃除は、在房者の中でも古手がこれを担当した。これは身体の運動にもなるし、良い役割だった。僕の房の一番古手は、仁木という三十前後の詐欺容疑の男だったが、これもまだ外の掃除をする資格はなかった。と言うのは、思想犯で半年近くいるのが、ここにも何人かいたからだ。十日や二十日では古手だとは言えなかったのだ。

 それから食事。塗りの剝げた木箱に麦混りの南京米の飯。朝はうすい味噌汁一杯。昼と夕方はヒジキの煮付け。量はごく少い。一日中ほとんど運動しない状態でも、この量では少な過ぎた。僕は最初の朝飯こそは不味(まず)くて食えず、箱ぐるみ仁木に進呈したが、次の食からは待ちかねてむさぼり食うようになった。[やぶちゃん注:「南京米」はインドシナ・タイ・ベトナム・中国等から輸入するインディカ米を嘗ては、こう、呼称した。]

 使所に行く時間もちゃんときまっている。一日四回ぐらいだったと思う。飲食の量がすくないから、結構その回数で間に合った。もっとも便所に近い老人なんかは、やはり四回ばかりでは困るようだったが。[やぶちゃん注:「便所」現行では房内の隅に配されてあるが、ここの当時の留置房には、トイレはなく、恐らくは外の通路の奥にあるもののように読める。]

 以上それだけで、あとは何することもない。あぐらをかいて壁にもたれ、一日中向き合ってじっとしている。房内のコンクリートの壁はまだ真新しい。しかし房の収容人員は大体きまっているし、同じところにあぐらをかき、同じ箇所に頭をもたせかけているので、壁のそこらの部分だけがうっすらと黒い汚れを見せている。坐る位置は、その房の一番古手が牢名主(ろうなぬし)然として、通路に最も近い食事差入口のそばに坐り、以下古い順序に打ちならぶ。つまり一等新参は一番奥というわけだ。

 そういうわけで、僕は最初の日は一番奥にいた。小さな窓の下の、壁の稜角のところだった。通路への視野もきかず、光線にも乏しく、たいへん憂鬱な場所だった。

 しかし二日目の夕方になると、僕の位置は大躍進をして、扉の方から三分の一ぐらいの場所に昇格していた。それはこの第六房というのは、比較的廻転率の早い房らしく、酔っぱらいとか家出人とかせいぜい一日か二日どまりで出で行くのが多く、躍進はそのせいであったが、牢名主の仁木が特別に僕をバッテキしたせいでもあった。バッテキのおかげで、僕はたしか二人か三人かを一挙に飛び越したと思う。

 仁本はもう十日余りもここに留められているらしかった。背は低いががっしりした体格で、額はせまく、毛深いたちだと見えて、ハリガネのような鬚(ひげ)が頰や顎に密生していた。仁本が着用しているのはドテラだったが、帯は取上げられているので、コヨリをもって帯の代用していた。留められた翌朝の食事後、僕は仁木に手招きされて、その傍まで膝行(しっこう)した。

「おい。ダイガク。一体お前は何をやったんだね」

 私語は禁じられているから、刑事の眼をぬすんで、腹話術みたいな含み声で問いかけてくる。僕も慣れないながら同じ要領でうけ答えした。ダイガクというのは大学生という意味で、最初の日からこの房での僕の通り名になっていた。制服のまま入れられたのだから、この呼称となったのも無理はない。ダイガクすなわち僕は仁木の訊間にこたえて、事件のすべてのいきさつをしゃべらされた。刑事の耳目をはばかってのことだから、時間も相当にかかった。

 訊(たず)ねるだけ訊ねると、仁木はふたたび手をふって、僕を下座にさがらせた。仁木の僕に対する態度は、他の在房の者に対するよりも、割に親切だった。その理由としては、朝飯を供出したせいかな、とその時僕は考えたのだが、それは必ずしも当ってはいなかった。

 仁木は僕がダイガク生であることに、ある親近感を感じたのは事実のようだった。それは二日目か三日目頃に、自分はある専門学校に行ってたことがあると、仁木が問わず語りに話したことでも判る。彼はその時他の同房の連中に軽蔑的に視線を動かしたようだった。僕はその奇妙な親近感をどうも素直には受取りかねた。照れるような気持で返事をためらった。

 しかし仁木が僕をバッテキしたのは、単にそれだけでなく、確かに僕を利用する下心からだったらしい。彼は当時房内にあって身動き出来ないから、どうしても誰かを摑(つか)まえて、至急に外部との連絡をとる必要があったのだ。ところがこの房に入ってくるのは、いずれもたよりにならない奴ばかりで、折角いろいろ頼んでみても、出房するとそのまますっぽかしてしまう。イライラしているところに、この僕が入房して来たというわけだ。ダイガク生で見たところ正直そうだし、話を聞くと、微罪だから直ぐに釈放されそうだし、というところで僕に眼をつけたのだろう。おそらく破格のバッテキというのも、僕への御機嫌取りの政策だったのだ。

 そして四日目頃には僕は仁木に次いで、この房の副名主に出世していた。場所も仁木と向い合って鉄格子からすぐのところだ。そして僕の頰や顎にも無精鬚(ぶしょうひげ)が密生し、鏡はないけれども、指でまさぐった感じでは相当に堂々としていて、いっぱしの副名主面となっているらしかった。いつ出房できるか予測もつかない、そのいらだちと立腹はあったけれども、それはそれとしてこうしてぐんぐん出世してみると、なにか嬉しいような気がするのは不思議なものだった。人間というものは、ある一定の世界に入れられると、その世界の中だけの感情が別に生じてくるものらしい。

 

 一週間ほどの間に、いろんな人物が入房し、また出房して行った。平素僕があまりつき合いがないような、そんな種類の人々が多かった。

 背がひょろひょろと高い、無銭飲食で入れられた男がいた。そいつはラジオと呼ばれていた。ラジオは無線だから、無銭飲食はふつうそう呼ばれる。このラジオは背は高いくせに、皮膚は青白く瘦せていて、不健康な風貌だった。歳は三十五、六に見えたが、実はもっと若かったかも知れない。本郷肴町の天ぷら屋で、酒を三本飲み天丼を四つ平らげて、それで警察につき出されたという話だった。ラジオは僕に話して聞かせた。[やぶちゃん注:「本郷肴町」「ほんごうさかなまち」と読む。現在の文京区向丘(むこうがおか)の旧町名。現在の一丁目に「肴町旭ビル」とあるので、この附近であろう。]

「天丼の五つ目のお代りを注文したんだな。すると向うでもおかしいと見たんだろうな。金を見せてくれと言いやがる。それで五杯目はオジャンよ」

 こんな瘦せた男のどこに天丼が四つも五つも入るのか、僕はちょっと理解できかねた。やはり彼の胃は病的に拡張していたのだろう。それにどうせ警察に突き出されるのは判っているので、ここぞとばかり食い溜めする気にもなったのだろうと思う。その看町の天ぷら屋と言うのは僕も食べに行ったことがある。値段の割にうまい良心的な店だった。留置場では毎日おかずはヒジキばかりなので、その話を聞いた時、あたたかい天ぷらの幻想がにわかに頭をかけめぐって、僕はそれを押さえるのに苦労をした。

 このラジオはすでに何度も留置場入りをした経験があるらしい。房内での態度も物慣れているし、それに入房して来た時、検査をどうごまかして来たのか、タバコを五本、マッチ軸を十本ばかり持ち込んできた。房内での喫煙は厳重に禁止されているが、入房者はさかんに工夫をこらして禁制物を持ち込む。刑事も四六時中各房を見張っているわけではないので、その油断を見すまして、せきばらいと一緒にマッチをつける。すばやくタバコに点火する。吸い込んだ煙は絶対にはき出さない。全部体内に吸収してしまう。タバコ自身から立つ生(なま)の煙は、掌でばたばたあおいで散らかしてしまう。こうやって廻し喫(の)みをするのだが、そういう時の一喫(す)いは眼がくらくらとするぐらい強烈だった。ラジオのおかげで僕もしばしばその配当にあずかった。

 このラジオは、無銭飲食というものは犯罪でないと確信しているようだった。それは彼の口ぶりでも判った。犯罪ではなく、一種のスポーツめいたものとして考えていたらしい。彼はいつかこんなことを言った。

「無銭をやられるのは、やられる方が悪いんだよ。客がラジオかどうか前もって見抜けないで、それで商売人と言えるかい」

 また、ワカラズヤという仇名の爺さんがいた。六十歳前後の、わりとちゃんとした服装をしているが、とにかく聞きわけのない爺さんだった。

 ワカラズヤは二晩房に留められ、三日目息子夫婦に引取られて出て行った。息子に養われているのだが、その息子夫婦が実に仲が良く、それでいたたまれなくて家出したという話だった。夜中に街をうろうろしていたのを怪しまれ、そして巡査にここに連れられて来た。

 爺さんのつもりでは、巡査の態度も比較的親切であるし、警察の宿直か何かに泊めてくれるのだろうと思って、トコトコついて来たらしいのだ。ところがいよいよ案内された室は、頑丈な鉄格子がはまっているし、内には人相のあまり良くないのがウヨウヨ入っているし、爺さんはたちまち仰天してあばれ出した。

「イヤだよう。牢屋に入るのはイヤだよっ」

 刑事がいくらなだめすかしても、爺さんはがんとして聞かない。手足をばたばたさせてあばれ廻る。留置場というものは、懲罰のためでなく、人身保護のためにもあるものだという刑事の説得も、爺さんには全然通じないもののようだった。とうとう刑事も二人がかりで、爺さんを抱きかかえるようにして、僕らの房に押し入れた。いざ押し込まれて見ると、爺さんはもう観念したものか、あばれるのをやめて、床にへたへたとうずくまった。うずくまったまま僕らには眼もくれず、しきりにブツブツと念仏をとなえている。仁木が含み声で話しかけてもろくに返事もしない。

 それから十分ぐらい経って、爺さんはいきなり鉄格子を摑んでゆすぶりながら、大声でわめき始めた。今度は便所に行かしてくれと言うのだ。

「便所に行きたいよう。早く便所に行かせてくれえ」

 便所行きの時刻はちゃんときまっているし、言うなりに出してはシメシがつかない。そう刑事は思っているのだろう。知らぬふりをしている。また房から出せばも一度あばれられるかも知れない。そのうれいもあったようだ。刑事が知らぬふりをしているので、爺さんは地団太(じだんだ)踏んで更に声を張り上げた。

「早く出せえ。コラア、警官、出してくれえ、署長に言いつけるぞう」

 あまりわめき立てるので刑事も放っておけず、房の前にやって来た。

「静かにせえ。爺さん。明朝まで辛抱出来んか」

「出来るもんか。早く出せ。行かせないなら、ここでやってしまうぞう」

 刑事が通路にそのままぐずぐず立っていたものだから、爺さんはすっかり腹を立てて、小量ではあったが本当に房の隅に排出してしまった。房内でやられては僕らもたまったものではない。僕らは総立ちとなり、大さわぎとなり、ついに刑事も錠をあけるの止むなきにいたった。爺さんはそれで小走りで便所に走って行ったが、用が済んだあとで刑事から二、三度頭をこづかれたらしかった。しかしこの直接行動のおかげで、爺さんは在房中あと三度か四度、時間外の便所を許可されたと思う。

 この爺さんは便所だけでなく、あらゆる点においてワカラズヤだった。つまり留置場の中の習俗を一切受けつけないというわけだ。飯時になると、こんなポロポロ飯は胃に悪いからおかゆにかえてくれとわめくし、咽喉(のど)が乾いたからお茶を一杯持って来いと叫ぶし、僕らも少からずてこずった。爺さんにして見れば、家出はして来たが、何も悪事を働いたわけではなし、こんな拘束を受けるいわれがないという気持なのだろう。それは勿論そうだが、当時の留置場の常識としては、そんな言い分は通らない。しかし爺さんが自ら信じてこんなワカラズヤをやったのか、あるいは擬態としてそうふるまったのか、僕は今でもよく判らたい。とにかく爺さんは房内でも、特別あつかいと言うか仲間外(はず)れと言うか、そんな待遇を受けていた。坐る場所はもちろん一番奥の座だ。

 一度僕らがタバコの廻し喫みをしている時、爺さんが自分も喫いたいとわめきかけて、房内は大狼狽、あぶなく刑事に感づかれそうになったことがある。もし見付かれば懲罰を受けるから放っておけない。そこで僕は奥の座まで膝行して、爺さんを前にして、含み声で懇々(こんこん)と訓戒をあたえた。二十前後の青二才の僕が六十爺に訓戒をあたえるなんて、今思えば奇怪にして滑稽な話だが、あんな世界に住むとそうなるんだから仕方がない。(だから結論としては、あんな歪んだ世界を世の中に存在させなければいい)

 どんな訓戒を与えたかと言うと、どれほど息子夫婦が仲が良いか知らないが、家出して来るなんて不心得もはなはだしいこと、一旦ここに保護されたら房内のチツジョを乱しては困ること、息子が引取りにくるまでは隠忍自重するのが得策であることなどを、僕はじゅんじゅんとして説き聞かせた。

 すると爺さんはそんな僕に反撥したのか、房内では皆仲良くせよと言うけれども、お前さんたちは私にシラミをうつして迷惑をかけたではないか、というようなことを言い出して来た。そこで僕は、この留置場は近頃建ったばかりだから、よその留置場のようにナンキン虫がいない、それだけでも感謝すべきであること、シラミぐらいは我慢すべきであることなど説明した。実際この留置場にはナンキン虫はいなかった。ナンキン虫というやつは巣をつくり、そして夜な夜な人体をおそう習性を持っている。つまり『通い』なのだ。ところがここは建ったばかりで、ナンキン虫の巣くうような隙間がまだ全然ない。ナンキン虫が出ないのはそのせいだが、シラミの方は、そうは行かない。この虫はナンキン虫と違って『住込み』だから、巣なんか必要としないのだ。常住人体にくっついている。これを根絶させるのは割合に容易で、着ているものを全部脱いで、熱湯で煮れば済む。だけど留置場の中ではそんなことは出来ない。熱湯もないし、第一寒くって真裸なんかになれっこはない。こういうわけで、シラミ族は大いに繁栄し、爺さんのみならず僕もたいそう困っていた。

 しかしこの僕の訓戒も、お爺さんにはあまり効き目がなかったようだ。爺さんは最後までワカラズヤを押し通して、三日目の朝迎えに来た息子に引取られ、いそいそとして出て行った。

 それから一年ほど経った頃、僕はこの爺さんを電車の中で見かけたことがある。偶然僕と向き合って腰掛けていたのだ。僕が認めたと同時に、爺さんも僕を認めたらしい。一時妙な表情をして、視線をさりげなく窓外にうつしたようだった。十徳をかぶり、渋い御隠居という風に眺められた。ただそれだけだった。僕も爺さんに話しかけなかったし、もちろん爺さんも僕に話しかけて来なかった。話しかけて肩をヤアヤアと叩き合うには、僕らは年齢がちがい過ぎていた。もはや僕らは鉄格子の中のワカラズヤ対ダイガクではなかった。裕福な御隠居対貧乏大学生であり、そこに通じ合うものは何もなかったのだ。そして爺さんは顔をそむけたまま、次の駅でそそくさと下車して行った。やはリ僕と出会ったのはあまり愉快なことではなかったのだろうと思う。

[やぶちゃん注:「十徳」「じっとく」であろうが、不詳。大黒天が被っているいるような、還暦の祝いに被る丸頭巾・焙烙(ほうろく)頭巾のようなものか。]

 

 特別あつかいというと、白系露人が二人入って来たことがある。僕らから通路をへだてた向いの第七房だ。どんな容疑で入って来たのか知らないが、二人ともほとんど日本語がしゃべれなかった。外人が入房して来るのは珍しいことらしく、刑事たちもその取扱いに困ったようだった。

 この二人組がワカラズヤと同じく箱弁の食事を拒否した。ワカラズヤの場合は拒否しても通りっこないが、二人は露人だから拒否する根拠がある。こんなのは咽喉に通らないと主張することだって出来るのだ。頑として食べないものだから刑事もすっかり当惑したらしい。

 一体に留置場の刑事は、房内に何か事故があると、その成績に関係するものらしい。だから何時も威嚇的に、時には懐柔的な態度に出て、間違いが起きないようにする。たとえば、喫煙はここでは厳禁されているが、刑事の方から何か褒賞(ほうしょう)の意味でタバコに火を点けて、鉄格子越しに喫(す)わせてくれることも時折あった。もっともこんなことは、人の好い刑事の場合に限っていたが。

 だから露人拒食の件も放っておくわけには行かない。うっかりすると食事を与えなかったということになりかねないのだ。それは房付き刑事の責任なのだから、僕らはどうなるかとその成行きを見守っていた。

「コレ、ダメ。クエナイ。パンヲクレエ」

 と赤毛が拳をにぎり、それを振りながらさけぶ。体も大きいから声も大きい。刑事はしきりにぼやきながら、自分のふところから金を出したのかどうかは知らないが、そこらの店から食パンを買って来た。

 露人たちはそれを受取り、今度は合唱するように、二人してわめき出した。

「スープヲクレエ。スープヲクレエ」

 パンをあてがった以上、スープか何か与えないわけには行かないだろう。だから又もや刑事はぼやきながら飛び出して行って、野菜のたぐいを少々買い集めて来た。控えのところの火鉢に鍋をかけ、それで野菜スープをこしらえるつもりらしい。一時間余りもかけてゴトゴト煮て、どうにかそれらしきものをつくり上げたようだ。もっとも武骨な男手だから、どんな味のものが出来上ったことやら。

 それを丼に入れて持って行ったところが、露人たちはそれを一目見て、ちょっと匂いをかいだだけで、また大声でわめき出した。すっかり腹を減らしたと見えて、わめき声も険を帯びてきた。

「コレ、スープデナイ。ホントノスープヲ、ハヤククレエ!」

 鉄格子に摑(つか)まって地団太を踏んでいる。極端な片言の日本語だから、よく意味がくみとれないが、こんなインチキスープでなく、本物のスープを町で安く売っている、それを買って来てくれ、とわめいているようだった。身振りも手振りもそこに入る[やぶちゃん注:「そこにいる」で「どう見ても、そういうことを意味しているようにしか見受けられない様子である」の意であろう。]。それを眺めていた房内の一人が、やっとそれを了解したらしく、鉄格子の中から刑事に進言した。

「旦那、この連中はワンタンかラーメンを食べたいらしいですぜ」

 そこで刑事の一人がすぐに電話をかけ、やがてワンタン二つが店から届けられて来た。それを見て二人の露人は手を打ち合わせて大よろこびした。

「オオ、スープ。ホントノスープ」

 僕らは遠くからワンタンの湯気を眺め、かすかなコショウの香をかぎ、彼等二人の露人を祝福すると共に、ちょっとうらやましい気にもなった。そしてワンタンやラーメンがほんとのスープであり、いわゆる病人に与えるような野菜ソップはインチキスープであると、非常に役に立つ学問をした。[やぶちゃん注:「野菜ソップ」「ソップ」はオランダ語「sop」。スープの古い呼称。個人ブログ「ラメールアリス 神秘の扉」の『江戸の「野菜ソップ」を再現』に『江戸の町に出回っていたという「野菜ソップ」なるもの』を再現してみたとする記事があり、それは『主に根菜類を入れたスープ』で、牛蒡は『乱切り』にし、ジャガイモ・ニンジンは大きさによって四つか八つに切る』。『それに』蓮根と糸蒟蒻、『大根の葉も入れて』『コトコトと煮る』。『食すときに』、『塩で』、『ちょっと』、『味をつける』。『江戸の町では、地震や火事の後の炊き出し、川に落ちた人や歩き疲れた人などに、講単位で大鍋で作ってふるまったものだそうで、滋養汁とされていた』。『町角でも、「風邪ひきや」と称して売られていたものだとか。風邪をひいたときも、熱々の野菜スープを飲んで』二『日もぐっすり眠れば、たいてい治ってしまったというサプリメントのようなスープ』であったとある。]

 そういう具合にこの露人たちも、留置場の習俗をほとんど受付けなかった。受付けるにも言葉が通じないので、受付けようがないのだ。そのせいかこの露人たちは割に陽気だった。北方民族の強さか、こんな最低の生活も、そう苦にしている気配はなかった。もっとも彼等はある目の昼頃入房してきて、一晩泊り、そして翌朝出房という、ごく短い滞在だったけれども。

 定刻の便所通いは、第一房から順々に出される。最後が女人房の番ということになる。女人房は通路の一番奥にあった。女人房の広さは僕らのと同じらしいのだが、留められているのは、僕がいた間では三人か四人平均で、ゆったりとしていた。僕らの房は多い時は十三、四人も詰められて、夜マグロのように並んで寝ると、もう寝返りも打てなかった。その点女人房はめぐまれていた。

 で、僕らが全部用便が済んで、今度は女人の番となる。女人たちは便所へ行くのに、どうしても男の房の前を通らねばならない。その姿を眺めるのは、僕はそうでもなかったが、他の男たちにとっては愉しみのようなものであったらしい。目を皿のようにして眺めたり、ひそひそとささやき交したり、わざと大きなセキバライをしたりする。彼女らも帯紐のたぐいは没収されているので、着物はだらしなく着くずれていて、それで歩こうとするのだから、ある種の艶(なま)めかしさがあると言えば言えた。

 一人だけ若くて割に美しいのがいた。その女はここでは相当に古株らしく、人気も一番あるようだった。房の前を通る時、彼女は僕らにその横顔だけしか見せないが、それは陶器のようにつめたい感じのする横顔だった。仁木がそっと僕に教えてくれた。

「あれだよ。愛人を毒殺しようとして、失敗した女さ。そら、新聞に出てただろ」

 不幸にして僕はその新聞記事を読んだ記憶はなかった。彼女が通ると、男の房内のざわめきだのささやきだのセキバライなどが、わざとらしく高まってくる。その気配に乗じて先刻の露人の一人が、頓狂な声を立てたので、係りの刑事がすっかり怒ってしまって、控え所から飛び出して来た。

「誰だ。今、へんな声を出した奴は!」

「へえ。こいつです」

 第七房の名主が露人を指差して答えた。露人はキョトンとした顔で刑事を見ている。刑事はいまいましげに舌打ちをした。

「スープじゃわめくし、女を見りゃわめくし、実際やり切れない毛唐(けとう)だな。お前らが何かそそのかしたんだろう」

「へえ御冗談を。そそのかそうたって、言葉が通じませんや」

 刑事がプリプリしていることだけは判るらしく、露人はすこし恐縮の表情だった。刑事はふたたび舌打ちをして、全房の男たちに命令をした。

「みんな格子に背を向けて、壁の方を向け!」

 僕らはその通りにした。これで皆通路は見えなくなる。次の用便の時間のときも、僕らは壁に向わされた。うっかり頭をめぐらせたのを発見された者は、通路に出されてひっぱたかれた。刑事としては、それでシメシをつけたかったのだろうし、それに在房の連中が女に関心を持つことが腹立たしかったのだろう。なんと言っても刑事たちは、在房の僕らを人間以下、自分以下に見たがっていること明瞭だった。下級の刑事というものは、上からの圧力には弱い。ぺこぺこしている。その弱さが僕らに対する時には、逆に強さとして出て来る。必要以上に僕らを蔑視する傾きがある。僕は後年軍隊にひっぱられ、下士官という階級に接した時、やはりその刑事根性と同じようなものを感知した。これはある種の地位に置かれた日本人がおち入る特有の傾向らしい。

 そういう刑事たちの傾向は、男たちに対してだけではなく、女たちにも向けられていたようだ。新しい女が送られてくる。その女から帯紐を取上げたり、身体検査をするのは、控え所の刑事の役目だった。そんな場合にやはり行き過ぎのようなことがしばしば起きる。

「おい。お前らは皆壁を向いてろ!」

 そして僕らの眼を封じておいて、何かをこそこそとやるらしい。年若いきれいな女給が一人入って来た時もそうだった。女給になり立ての、まだ初心(うぶ)らしい女だったが、それに刑事は何かぼそぼそと命令している。会話の内容はよく聞えない。そんなぼそぼその会話が断続して、その揚句、

「まあこれも脱ぐの?」

 思い余ったような、怒ったような女の声がした。僕らは面壁のままだから、彼女が何を脱がされているかは見えないが、もちろん想像はつく。

「勝手なマネをしてやがるな!」

 僕の傍でラジオがそう呟いた。僕も同感だった。そんなことがしばしばあった。それに対して僕は公然と反感を表明することは出来ない。監督者としての刑事の地位は、やはり絶大であったからだ。

 

 我が房の名主仁木某は、その点なかなか要領が良かった。

 仁木は心の中では刑事というやつを、徹底的に軽蔑していた。しばしば僕に語ったように、彼は刑事というものは泥棒以下の存在だと信じていた。

 その癖仁木は、面と向っては実にうまく刑事に取入っていて、いつも可愛がられたり便宜をはかって貰ったりしていた。刑事の気持や感情をよく知っていて、そこでうまくおだてたりするので、刑事たちも暇をもて余すと、第六房の前にやって来る。そして世間話をしかけたり、からかいかけたりする。仁木はこのからかわれ方の実にうまい男だった。からかいに応じて、適当にしょげてみたりすねてみたり、壺にはまった応対をして、刑事の自尊心を満足させてやる。それで刑事もよろこんで、仁木の求めに応じて、タバコを喫ませてくれたりする。そのやり方はタバコに火をつけて、吸い口の方を鉄格子の間から差人れる。タバコ一本をすっかり房内に渡してくれるのではない。刑事の指がタバコの胴中をちゃんとつまんでいて、僕らの方から顔をそこに持って行き、幼児が母親の乳房に対するように吸いつくのだ。

 その配当にあずかるのは、仁木以下三番目か四香目の古手までで、あとはあぶれてしまう。刑事の方で手をひっこめるからだ。

 そして刑事が控え所へ戻って行くと、仁木は何とも憎たらしい顔をして、舌をべろりと出してみたりするのだ。それは刑事に対する嘲りでもあるが、同時にそういうオベンチャラを使った自分への自嘲かも知れなかった。

 仁木は詐欺容疑だった。詐欺の内容がどんなものか、くわしくは僕は知らないけれども、仁木が留置場に入るのはやはり始めてではないらしかった。そして仁木は詐欺行為を他の泥棒や傷害などより、はるかに高級なものだと自任している傾きがあった。まあ詐欺は知能犯に入るから、その自任もある意味では当然と言えるかも知れない。僕が見るところでは、大体累犯(るいはん)者は自分の仕事に自信を持っている気配がある。あのラジオが無銭飲食をスポーッ的に考えているのもその一例だ。やはり僕らの房に強姦未遂者が入って来たが、その男も自分の所業に優越を感じている節が見えた。その男の言を綜合すると、強姦というのは何も物質的な利益はない。それだけに純粋無雑の犯罪だと言う説なのだが、そういう理窟が成り立つかどうか。その間に伍(ご)して僕は僕の犯罪に全然自信がなかった。もっとも婆さん相手の傷害罪など、あまり威張れたものではない。

 今書いたように仁木は、軽蔑すべき刑事に対してもうまくふるまっていたが、同房者に対する態度もなかなか抜け目がなかった。彼は身辺にある種の妖気のようなものを持っていて、それで同房者を威圧するようなところがあった。新しい入房者があるとする、彼は房名主の位置から、じっと新入りを観察している。そしてたちまちその新入りの性格や傾向を見抜いてしまう風だった。仁木の言葉によれば、こんなところに入って来るような奴は、大ざっぱに二つに分類出来るということだった。

「一つは骨のある奴だな、勢い余って悪いことをするやつだ」

 すなわち叛骨(はんこつ)を持った奴、意識的に罪を犯す奴、そんなのが第一の分類に入る。第二の分類はその反対の者。無気力な奴。世間から追いつめられて罪を犯す奴。自主性のない犯罪者。仁木の分類によると、そういうことになるようだった。そして仁木は前者は認めるが、後者は全然認めなかった。鼻もひっかけないという態度をとった。だから房内における地位も、前者はどんどん昇進し、後者はいつまでもウダツが上らないということになる。その点仁木ははっきりしていた。

 この僕も昇進が非常に早かったところを見ると、筋金入りの犯罪者と仁木から認められたのかも知れない。有難いような情ないような気持だった。

 さて、僕が副名主になった頃から、仁木はしきりに僕の釈放を待ちのぞみ始めた。他人の出房を待望するなんて、へんな話だと言えるが、そのからくりは簡単だ。前にも書いたように、仁木は僕の出房に託して、房外との連絡をとりたかったのだ。

「いいかい。小田急線の経堂だよ。豪徳寺という駅の次の駅だ」

 僕はその頃東京に出て一年足らず、足を伸ばしたのもせいぜい新宿どまりで、小田急なんて電車に乗ったこともない。そこで仁木の説明もなかなか骨が折れる風だった。

「経堂という駅で降りる。出口はひとつしかない。そこを出て、今来た方向と逆の方向に道を戻る」

 なにしろ刑事の眼をぬすんでの会話だし、紙もなければ鉛筆もないし、説明に時間がかかる。つまり彼の依頼か命令かを綜合すると、先ず僕は釈放され、その足ですぐ小田急経堂へ行く。そしてその付近の田辺というソバ屋を訪ね、その田辺ソバ屋に働いている富岡という男に会う。それが僕の役割の第一段階らしい。

「その富岡てえのは、俺の仲間だ。年頃も大体俺と同じ位だが、俺より瘦せてて、目がギョロギョロしている。エノケンみたいな顔だと思えばいい。え。そいつは主にソバやウドンの配達をしているんだ」

 そこで僕は客をよそおって、その店に入る。もし富岡がいなければ、ソバでも食べながら待っている。とにかく富岡をつかまえて会う。その会い方も、あまり秘密めかしてこそこそしない方がいい。と言うのは、富岡はその店では不良ではなく、カタギとして雇われているからだ。こんな具合に仁木の注意や指図は、なかなかこまかかった。

「で、富公にだな、俺がここに入っていること、ブタ箱の中で俺に知り合ったということを言う。大体富岡はそのことを知っている筈(はず)だ。そしてだな、俺から富公への頼みとして、すぐに牛込の辰長というところに行って貰う。辰長と言えばすぐにあいつは判るよ。至急に話をつけて呉れって、それだけ言って呉れればいい」

「牛込の辰長に直ちに話をつけろ、それだけ言えばいいんですね」

 僕も声をひそめで、さも熱心そうにそう反問した。実を言うとこの僕が、釈放後直ちに経堂におもむき、ウドン屋[やぶちゃん注:ママ。]の富公に会い、そんな伝達をする、考えてみても全然現実感がなかった。出房すれば、他人ごとどころか、自分の問題が山積しているに違いないのに、何がウドン屋の富公か。しかしここでうわの空の応対をしていては、仁木の怒りを買うおそれがあるのだ。

「そうだ。それだけでいいんだ」

 仁木はそれ以上の内容を僕に打明けなかった。ただそれだけのことを、暇さえあれば僕に復命させ、僕の頭に叩きこむ方法をとった。今思えば、それはずいぶん僕を踏みつけにした話だ。すなわち僕にこの内容をほとんど知らせず、口先だけの使い走りをやらせようとしたわけだ。『ダイガク』の権威もてんで認められなかった勘定となる。

 それから仁木は、僕に何もお礼が出来ないからと言うわけで、手製の小さなワラジを三箇僕に呉れた。これはコヨリでつくった長さ三センチばかりのもので、留置場生活は退屈なものだから、こんなものでもつくって暇をつぶすのだ。もっともこんなワラジをつくるのは、留置場慣れのした奴に限っている。彼等は総じて、僕みたいに暇を持て余してイライラすることなく、どうにかやりくりして充実した一日を送っているようだった。ワラジつくりもその一方法なのだ。

 そんな貴重なワラジであるから、僕もていねいにお礼を述べ、内ポケットのなかに大切にしまい込んだ。しかしこんなものを呉れたから、経堂まで出かける気になったかと言うとそれはまた別問題だ。

 仁木が僕に使い走りをさせる。そのやり方にヒントを得て、実は僕もある出房者に中野の霜多への連絡を頼んだことがある。その男は月給取らしい風態で、泥酔して僕らの房に一晩留置されたのだ。僕はその下心があったので、入房の晩もちゃんと介抱してやったし、翌朝飯も食わずにションボリしているのを、近づいてなぐさめてやったりした。話を聞いてみると、市役所勤務の若い雇員で、係長宅に招かれて酒を飲み、帰りにまた泡盛(あわもり)屋に寄って飲み、それっきりあとは判らないのだと言う。おそらく道端ででもひっくり返っていて、保護のためにここに連れられて来たに違いないのだ。それならば朝の十時までに出房出来るだろうというのが、僕のねらいだった。[やぶちゃん注:「雇員」「こいん」。官庁などで正式の職員としてではなく、雇われて事務などを手伝う者。]

「大丈夫だよ。直ぐ出られますよ」

 雇員があんまりクヨクヨしているので、僕は肩をたたいてなぐさめた。しかし雇員は元気を取戻さなかった。

「ええ。でも、出られても、今日は遅刻になってしまう」

 こんなところに入れられたことより、入れられたことによって役所を遅刻する、そのことの方をクヨクヨしていたのだ。僕は学生だったから、勤め人のそんな神経はとても理解出来なかった。

「ねえ、それで一つ頼みがあるんだけど」

 と刑事の眼をぬすんで、僕は忙しくささやいた。

「中野の霜多という僕の友人のところに行って呉れませんか」

「ハア」

 と雇員はきょとんとした眼で僕を見た。

 僕はそこで、僕の事件を至急解決して欲しいと霜多に伝えて欲しいこと、そして霜多の住所の地図をいそがしく説明した。厘員はかしこまったような表情で、いちいちうなずいていた。それまでの僕の親切に対する感謝や同情の念が雇員のその態度に出ているように思えて、僕の言葉にも自然と力が入った。

「判りましたね。必ず行って呉れますね」

「ハア」と雇員はちらと僕を見てうなずいた。「もし出られたら、今晩にでも行って見ましょう。中野の霜多さんでしたね」

「そうです。是非お願いします。いずれ、お礼は、僕が出てからでも――」

 それから二十分も経たないうちに、雇員は呼び出されて出て行った。出て行く時、僕にむかって目くばせのようなものをした。

 目くばせもしたし、身分が役人だから約束を守るだろうと僕は安心していたが、後で判ったことだが結局この役人は僕との約束をすっぽかしたのだ。判った時は僕ももう出房していたのだから、そう腹も立たなかった。どうも留置場の内での約束なんて、あまりあてにはならないものだ。

 後年僕は軍隊に引っぱられ、苦労の日々の中で、僚友といろんな約束したり申し合わせしたりしたが、復員と同時にそんなことはケロリと忘れてしまった。状況としては同じようなものだろう。極限された状況の中での約束だの誓いだの言うものは、解放されたとたんに効力を失ってしまうものらしい。

 イライラした気持の日がそれから二日つづき、そして三日目の朝、朝食後、刑事が突然房外から僕の名を呼んだ。僕は坐った姿勢からたちまちはね起きた。

「頼んだぞ!」

 仁木の低いささやきを耳にして、僕は背をかがめて扉を出た。いろいろお世話になりました、と言うつもりだったが、外に出ると少し浮足立って、ついに失念してしまった。

 刑事は僕を控え所まで連れて来ると、そこに僕を待たせ、やがて僕の所持品をまとめたものを手にして戻ってきた。これで出房がハッキリした、と僕の胸はおどった。

「いいか。もうこんなところにやって来るんじゃないぞ。判ったな」

「はい、判りました」

 出られるとすれば何でも言うことを聞いてやる。そんな気持で僕は返事をした。所持品をすっかり身につけると、僕は房の方をふり返った。第六房の方は薄暗く、仁木の姿もほとんど認め難かった。

「こっちに来るんだ」

 と刑事が僕の腕を引っぱった。

 刑事に引っぱられて、僕は廊下に出た。廊下を少し歩いて、刑事はそこらの小部屋の扉を押した。その部屋の中に腰かけている霜多の姿が、ちらと目に入ったとたん、どうも僕の頰の筋肉は自ずからぐにゃぐにゃとゆるんだらしい。刑事が僕の肩をぐんとこづいた。

「ニヤニヤするんじゃない。この野郎。出られるかと思って――」

 僕は頰を引きしめようとしたが、やはりうまく行かなかった。刑事は部屋に入ると、霜多にていねいな口をきいた。

「どうも御足労かけましたなあ」

 そして僕の方を見て怒鳴るように言った。

「さっさと入って来るんだ!」

 僕と霜多とは同じ学生なのに、待遇がてんで違う。でもそれもそう気にしないことにした。あと何分かでここから解放される。解放されてしまえば、もうこっちのものだ。

 霜多を前にして、刑事は僕に対して最後の短い訓戒を与えた。短かったけれども、文句があまり月並だったので、僕はすこし退屈をした。すると刑事がまた僕を叱った。

「上の空で聞くな。この野郎!」

 それから刑事は霜多に向って、この僕を引渡すけれども、以後こんな事件を起さないように呉々(くれぐれ)も監視して欲しい、という意味のことを言った。どうも僕がここを出るについて身許保証人が必要で、その役目を霜多が引受けているらしい。僕はいささかシュンとなった。霜多はまったく落着きはらって、微笑さえうかべて刑事と応対している。

 それから十分後、僕らは署の玄関を背にして、大階段をゆるゆると降りていた。

「今日は割にあたたかいようだな」

 と、感慨をこめて僕は言った。空からは日の光がおちていた。冬の陽だったけれども、それは僕に大へん豊富な感じがした。風はなかった。

「さて」階段をすっかり降りて僕は霜多に話しかけた。「とにかく煙草一本呉れ。それからテンプラか何か、油っこいものが食べたいな。あそこの食事はなにしろひどいもんだよ」

 一本の煙草は、三分の一も吸わないのに、目がくらくらした。僕はそれを溝へ投げ捨て、それから何となく肴町の方に向って歩きながら、一週間も僕を放置したことについて、霜多にうらみ言を言った。すると霜多は、心外だという表情で僕を見た。

「そんな呑気な話じゃなかったんだぜ」

 と霜多は僕をきめつけた。

「あとでゆっくり話すけれども、あの婆さんはね、どうしても君を告訴すると頑張ってね、あぶなく君は告訴されかかったんだよ」

「へえ」

「示談にして貰うのに、僕は一週間かけ廻った。やっと五拾円という金をつくって、婆さんに渡したんだ。これで勘弁してやって呉れってね」

「五拾円?」

 と僕は目を剝(む)いた。そして次の瞬間、全身から力が抜け切ったような虚脱感が来た。娑婆に出たのは嬉しかったが、出たとたんに物すごく荒い風が吹きつけて来る。あとは黙って歩いた。

 そして僕らが入ったのは、肴町のテンプラ屋だった。あのラジオが無銭飲食をしたという店だ。天丼を二つ注文して、それが運ばれるのを待つ間に、戸外がにわかに暗くなって、サアッと通り雨が路上を走った。切実な話題を避けるために、僕は霜多にラジオという男の話をした。もちろん店の人に聞えないように。低い含み声でだ。霜多はあまり興味なさそうにそれを聞いていた。そして僕が話しながら、しきりに肩を動かしたり腕を動かしたりするものだから、ついに彼は口を開いた。

「しきりに動くようだが、シラミでもいるんじゃないかね?」

 天丼は旨かった。この世にこんな旨いものがあるかと思われるほど旨かった。僕は最後の一粒もあまさず、むさぼり食べた。

 二人前六十銭を支払って、のれんをくぐって表に出た時、霜多が小さな声で叫んだ。

「虹が!」

 僕も空を見た。西の方の空に、冬にはめずらしい大きな虹がいっぱいに出ていた。それは見たこともないような大きな虹だった。大きなアーチをつくって、その裾の方は七彩のまま頽れかかっていた。僕はのれんを摑んだまま、しばらくその色に目を凝らしていた。そして意識的に感傷におもむこうとしていたようだった。

 

[やぶちゃん注:さても最後に種明かしをする。底本全集の別巻の年譜によれば、昭和十一年の条の末尾に、梅崎春生は昭和十二(一九三七)年(時期不明)に、『幻聴による被害妄想から下宿の老婆をなぐり』、『一週間留置された』とある。より詳しい年譜が載る、所持する中井正義(まさよし)著「梅崎春生――「桜島」から「幻化」への道程」(昭和六一(一九八六)年沖積舎刊)の年譜でも、同じく昭和十一年の条の末尾に『自分で勝手に留年延長した一年を含めて大学での四年間は、何となく教室に出そびれて、試験日のほかは講義に一日も出席しなかった。例の怠け癖のせいであるが多少鬱病気味でもあったらしい。十二年になると、幻聴による被害妄想から、下宿の雇い婆さんを椅子でなぐりつけて負傷させ、留置場に一週間ほどぶちこまれたりもしている』とあって、時期は特定出来ない。先の全集別巻に所収されている親友松本文雄(熊本第五高等学校の同期生らしい。個人ブログ「五高の歴史・落穂拾い」の「かざしの園」という記事に「続龍南雑誌小史」(昭和九(一九三四)年度二百二十七号より二百二十九号)という本が示されており、その編集委員に『松本文雄、北野裕一郎、梅崎春生、柴田四郎、島田家弘』とある。春生は五高には昭和七年四月入学である。「昭和二〇(一九四五)年 梅崎春生日記」にも氏名が出る)の「旧友梅崎春生」(初出は昭和四一(一九六六)年十二月新潮社刊「梅崎春生全集②」月報)の一節に、

   《引用開始》

 昭和十一年か十二年、つまり、彼の大学一年か二年の九月、夏休みあけで上京した私は、梅崎拘留事件なるものを知った。どこかで酔っぱらって、夜おそく下宿に帰った彼は、ささいなことから、下宿の婆やと口論めいたことをはじめた。そして、その婆やが、何かのはずみで敷居に転び、かるい怪我をしたそうである。興奮した婆やは、医師の診断書をとり、それを証拠に、梅崎君を訴えたので、彼は、本富士警察署[やぶちゃん注:ママ。]の留置場に入ることになった。友人の一人が、勇をふるって貰い下げに行くと、全治五日間の診断書の処置に困っていた警察は、待っていましたとばかりに即時釈放。こんなことがあって、下宿も気まずくなり直ぐに引っこすものと思っていたら、一向にその気配がなく、はたの者がやきもきしていると、彼は、「俗人には判らぬ深謀遠慮でね」とにやにや笑う。もう一度、婆さんと喧嘩して、心頭に発するまで怒らせ、今度は、梅崎君の方で傷をうけ、そのあとは、診断書、婆さんの留置所入りというコースで復讐するのだそうだ。計画どおり旨く問屋がおろすかなと、半信半疑だったが、案の定、なかなか機会がなく、ついにくたびれて転居したけれど、この拘留生活には弱ったらしい。とは言え、お互に本名を呼ぶもののないこの社会では、この作家の卵も例外でなく、牢名主みたいな男から、テイダイ(帝大)という尊称を賜り、またとない見聞をした訳である。「寄港地」の時代のことであった。

   《引用終了》

というのが、私の縦覧したものでは、情報が多く書かれている一つかと思われる(最後の部分は多分に本篇に基づく記載であると思われる)。また、動別巻には、やはり五高時代の同級生で親友の、本篇の登場人物である「僕」の友人「霜多」のモデルである小説家霜多正次(しもたせいじ 大正二(一九一三)年~二〇〇三年:沖縄県国頭郡今帰仁村生まれ)が書いた「学生時代の梅崎春生」(初出は松本文雄のそれと同じ)が載るが、その一節に(最初に言っておくが、この事件には触れていない)、

   《引用開始》

 梅崎は京大の経済学部にいくつもりだといっていたが、私は、東京にこないかと彼にたびたびすすめた。東京で雑誌を出す計画がすすんでいて、ぜひ梅崎にも加わってもらいたかったからである。

 梅崎は東京にくることになり、どの科がいちばんラクかといってきたので、私は国文科がいいだろうといい、彼は昭和十一年に東大の国文科に入った。そしてさっそく「寄港地」という同人雑誌をはじめ、彼はそれに「地図」[やぶちゃん注:私は既にPDF縦書版を公開している。]を書いた。それは、それまで詩ばかり書いていた彼のさいしょの小説だった。

 大学でも、彼は教室にはぜんぜん顔を出さなかった。昭和十五年に卒業するまでの四年間、ただの一回も講義には出なかった。

 昭和十四年に書いた「風宴」[やぶちゃん注:「青空文庫」のこちらで読める。]という小説に、そのころの彼の生活がかなりくわしく描かれている。「どのみち退屈を食ってしか生きられぬ男」の頽廃の根をさぐろうとした作品であった。

 そのころ、梅崎は毎日のように私の下宿にやってきて、私をどこかへ誘い出した。それはたいてい映画か、喫茶店か、浅草のオベラ館か、あるいは不忍ノ池の附近をぶらついて暇をつぶし、やがて酒になる、という生活だった。朝の十一時ごろ起きて下宿屋の朝食?を食っていると、いつも決ったように梅崎がひょろひょろと蒼白い顔して私の部屋に入ってきた。そしてきょうはどうして一日をすごそうかという顔で、黙って坐るのだった。私はうるさいと思うこともあったが、けっきょく彼といっしょに、そのときの懐具合に応じて、どこかへ出かけた。

 彼がやってこないときは、私が彼の下宿に出かけていったが、そういうとき、彼はいつもフトンにもぐったまま額にタオルをのせて本を読んでいた。彼は寝るとき必ず病人のように額にタオル(ぬれたのでなく、乾いたの)をのせる習癖があった。そうしないと感覚が不安定になるのだといっていた。

 そういうふしだらな学生生活を私たちが送っていたのには、もちろん梅崎と私とでは、それぞれ個人的にも理由がちがっていたと思う。しかし共通して、当時私たちにそのような生活を強いる客観的な時代の雰囲気というものもあったと思う。

 たとえば、梅崎は「風宴」で、「本郷通りの並木の蔭に街燈が灯った。相変らず白痴のような表情した帝大の学生や、小癪な面構えをした洋装の小娘が、私に逆うようにして通り過ぎる。」と書いているが、当時私たちにとって、自分たちの同僚であるはずの「帝大生」は、やがて権力の座につくことを自負している「白痴のような」俗物にすぎなかった。

 こういう感覚は、たとえば芥川や久米、菊池などの時代まではなかったものだといっていいだろう。昭和のはじめプロレタリア文学運動がおこったころから、たとえば梶井基次郎などにそれがあらわれ、そして私たちの学生時代には、太宰治や高見順などによって、それは文学青年のあいだにほぼ支配的な感覚となっていた。

 そのうえ、二・二六事件から「支那事変」へと、時代はますます暗くなるばかりであった。そういういわば「暗い谷間」でのどこにも情熱のはけ口のない鬱屈した青春を、梅崎は「風宴」で定着したのである。

   《引用終了》

とあるのは非常に参考になろう。

 なお、この公開後、直ちに、前篇に当たる「その夜のこと」と本篇を合わせた縦書PDF版を作成して公開する予定である。]

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