怪談老の杖卷之三 美濃の國仙境
怪談老の杖卷之三
○美濃の國仙境
陶淵明が桃源、劉氏が天台を始(はじめ)として、古今、仙家に遊べる說、甚(はなはだ)多し。多くは是、譬喩寓言、茫として影を捕ゆる[やぶちゃん注:ママ。]が如く、實跡を知る事なし。操觚(さうこ)風流の士の前にいふべくして、田夫野翁の疑惑をして、渙然(くわんぜん)たらしむること、あたはず。予、常に是を恨みとす。然るに、一日(ひとひ)、奇異の話を聞(きけ)り。
[やぶちゃん注:「陶淵明が桃源」言わずもがな、六朝の東晋末・宋初の名詩人陶潛(三六五年~四二七年)の散文「桃花源之記」。武陵 (湖南省) の漁夫が舟に乗って道に迷い、桃の林の中を行くうち、異境に達したが、そこは秦(統一国家成立は紀元前二二一年で紀元前二〇六年に滅亡)の頃に戦乱の世を逃れて隠れ住み、外界との接触を絶っている人々の村であったという。「桃源境」という語の由来となり、古代ユートピア思想の一典型として後代に大きな影響を与えた。本来は「桃花源詩」という五言詩に附せられた記であるが,陶淵明の著と仮託されている文言志怪小説集「捜神後記」にも収められている。
「劉氏が天台」「劉・阮、天台」。「列仙全傳」(前漢末の官僚劉向(りゅうきょう 紀元前七七年~紀元前六年)作とされるが、仮託で、後漢の桓帝(在位:一四六年~一六八年)以降の成立と推定されている)巻三や、六朝の志怪小説集「幽明錄」載る遊仙譚。「桃花源之記」に似ている。漢の漢の永平五年(西暦六二年)、劉晨(りゅうしん)と阮肇(がんちょう)の二人が薬草採りに天台山に分け入ったが、道に迷って十三日も歩き回ったものの、帰れなかった。飢えて死が迫った。その時、遙かな山巓に一本の桃の木があって、沢山、実がなっているのを見つけ、苦労して攀じ登り、その桃の実を食って元気を取り戻した。かくして山を下り、谷の水を飲んでいると、上流から蕪の葉が流れてき、またその後に胡麻飯を持った杯が流れてくるのを見つけた。これで人家があると知り、更に山を越えて行くと、大きな谷間で、二人の美人と出逢った。二美人が二人を家に導くと、そこは豪華な御殿で、多くの侍女もいた。二人はそれぞれこの二美人の婿となった。しかし十日経って、二人が帰りたいと言い出すと、前世からの福運でここに来たのだ、と説明して帰さず、そのまま半年が過ぎた。再び、帰還を望むと、罪業に引きずられているのだから仕方がない、と帰した。帰ってみると親類縁者や知人は総て死に絶えていて、村も全く変わっていた。訪ね当てたのは自分らの七代後の子孫であった。晋の太康八年(三八四年:行方不明になってから実に三百二十二年後)、二人は姿を消してしまったという。この中の仙境歓楽の様子が「劉阮天台」と称する画題となり多く描かれている。原文は私の「三州奇談卷之一 鶴瀧の記事」に示してあるので参照されたい。
「操觚」「觚」は「四角い木札」で古代中国に於いてこれに文字を書いたことから、詩文を作ること、文筆に従事することの意。
「渙然」疑問・迷いなどがすっかり解けるさま。]
京都西の洞院わたりに、荻沼(をぎぬま)半右衞門[やぶちゃん注:不詳。]といへる書生あり。弱冠[やぶちゃん注:数え二十歳。]の頃、美濃の國へ用事ありて行(ゆき)けるが、日暮(ひぐれ)て、逆旅(げきりよ)[やぶちゃん注:旅宿。]にやどりけるが、いまだ、日、高かりければ、やどの門先(かどさき)にたゝずみて、山川(さんせん)の氣色(けしき)など詠(なが)めたゝずみ居(をり)けるに、越後の大守、通りあひければ、逆旅のあるじ、年頃、七十有餘の老人、はしりいでゝ、いかにも屈敬(くつけい)の色をなし、餘所(よそ)ながら、拜する體(てい)也。何心もなく、見て居るうち、日もくれはてゝ、燈火(ともしび)つくる頃なれば、半右衞門は、傍(かたはら)により臥(ふし)て、まどろみける。
暫くありて、外より、是も、よはひ高く、よし有りとみゆる老人、來りて、主人と物語りし、酒など出(いだ)して、くみかはす體(てい)、こと外の中(なか)と見えて、たがひに奥底(あうてい)なき[やぶちゃん注:心の隔たりが全くない。]體なりしが、やがて、床(とこ)の上の書物を出し、會讀(くわいどく)[やぶちゃん注:同じ書物を読み合って、その内容や意味を考え、論じ合うこと。]するを、半右衞門、
『何ならん。』
と、耳をそばたて、聞ければ、易の文言をよむなり。たがひに、義理など、解せざる處は問ひあひ、通ぜざる所に至りては、
「扨も。邊鄙(へんぴ)のかなしさ、尋問(たづねと)ふべき師友もなき事よ。」
と、歎息する事、たびだびなり。
半右衞門も奇特におもひ、聞けるが、技癢(ぎやう)[やぶちゃん注:自分の技量を見せたくてうずうずすること。「癢」は「かゆい」或いは「はがゆい・もだえる」の意。]に堪(たへ)かね、おきなをりて、圍爐裏(ゐろり)へより、火にあたり、
「是は。御奇特に。御書物のせん義したまふ事よ。」
と、いひければ、主(あるじ)いふ樣は、
「御恥しく候へども、われら、幼少よりのすきにて、か樣に打寄、よみ候へども、あけてもくれても、兩人より外、友もなく、誠に固陋(ころう)[やぶちゃん注:古い習慣や考えに固執して新しいものを好まないこと。]寡聞、京都の御方(おかた)などへは、御耳に入るとも、憚(はばかり)なり。その上、草臥(くたぶれ)給ひて、ねむくおはしまさんに、御耳の端にて不遠慮の段、御免あれ。御酒(ごしゆ)など、召上れよ。」
とて、杯(さかづき)をさしけれぱ、半右衞門、
「われらも、書籍、好み申て、いさゝかの儒者にて候が、かやうに靜(しづか)なる山中にて、御樂しみあるは、羨しき義なり。拙者などは儒業(じゆぎやう)の名のみにて、ケ樣(かやう)に風塵に奔走して、年中、安き事もなく候。」
と、いひければ、兩人、手をうちて、
「何。儒を業となさるゝとは、耳よりなり。我等、師友を求めし誠(まこと)、天に通じ、今宵、君の此處にやどり給ひしものならん。」
と、悅び、なゝめならず、
「平(ひら)に。是へ御出ありて、御苦勞ながら、御講釋、賴む。」
よし、誠におもひ入(いれ)て云ひければ、
「是も、ふしぎの御緣なり。」
とて、絕(たえ)て[やぶちゃん注:全く。]辭する色もなく、紙、四、五枚が程、講釋したり。
元來、半右衞門、能辨にて、義理明らかに述べければ、みなみな、なみだをながし、悅び、
「ひらに。二、三日も逗留。」
と、留めけれど、
「用事あれば、罷越也(まかしこしなり)。歸りには、また、逗留して御世話になるべし。」
と立別れて、用事、おはりて、歸路に趣きければ、はや、其家の子共など、酒肴(しゆかう)を調へ、道まで迎(むかへ)に出て、
「大方、今日御歸りと被ㇾ仰候間、迎に來りたり。」
とて、殊の外、馳走し、兩人家(りやうにんいへ)より、子供、殘らず、つれ來りて、
「われらは老人にて、もはや、行末、賴みなし。忰どもを弟子に上げ申たし。」
とて、すぐに、師弟子の杯など取かはし、留(とど)めおきて、いろいろ、馳走しける。
あるじの翁、
「本(もと)は、越後、家(いへ)にて、名ある家なりしが、彼(かの)家の騷動のみぎり、御暇(おいとま)給はりて、もはや、武家の望みもなければ、此所にて、兩人ともに、田宅を買て、世をやすく暮す也。」
と、その外、いろいろ、めづらしき物語をしけるが、
「何も御馳走もなければ、此奧に内津(うつつ)といふ山奧に友達の侍るが、是は此方共(このはうども)と違(ちがひ)て、殊に風流なる老人にて、おもしろき處なれば、同道して御知(おし)り人(びと)に致し申べし。」
とて、いて[やぶちゃん注:「率(ゐ)て」の誤字であろう。]、二里計りも行けば、内津の山へかゝる。
[やぶちゃん注:越後の御家騒動は江戸前期にもあるが、本書は宝暦四(一七五四)年序であり、今までの話柄も比較的近い時制の設定を行っているから、これは江戸中期の越後高田藩松平家に起った「越後騒動」である。藩主光長は江戸在府が長く、国政の実権は光長の妹婿であった家老小栗美作守正矩や糸魚川城代荻田主馬らにあった。延宝二(一六七四)年、光長の嫡子綱賢(つなかた)が亡くなり、光長の弟永見長頼の遺子万徳丸が一旦は養嗣子となったが、荻田や光長の弟永見長良(ながみながよし:大蔵)ら、「家老小栗が自分の子掃部(かもん:大六(だいろく))を嗣子にしようとしている」と批難して対立、抗争に及んだ。幕府は荻田一派を非として処罰したが,荻田一派は将軍代替に伴い、再審を要求し、天和元 (一六八一) 年、綱吉の親裁により、小栗・荻田両派ともに処断。藩主光長は城地没収の上、伊予松山藩にお預けとなり、万徳丸も備前岡山藩預りとなった事件であろう。
「内津」初めて具体な地名が登場する。旧美濃で、この名で、山深いとなると、現在の愛知県春日井市と岐阜県多治見市を結ぶ内津峠(うつつとうげ:標高三百二十メートル)か(グーグル・マップ・データ航空写真)。当該ウィキによれば、「日本書紀」には、『日本武尊が当地で副将軍の建稲種命』(たけいなだねのみこと:豪族で尾張国造の一人)『が水死したという報を聞いて、「あゝ現(うつつ)かな」と嘆き悲しんだことが地名の由来とされている』とあり、『江戸時代には中山道での輸送に使われて』いたとある。この「うつつ」の意味も逆接的に仙境に利いていて、なかなかいい。]
其土地、淸川(せいせん)、ながれ、岩組(いはぐみ)、おもしろく、山々、幾重も入りまじはりて、行(ゆく)に順(したがひ)て、景色、かはり、中々、詞(ことば)に盡しがたし。
通(とほり)より、左のかたへ、ふみわけたるに、徑(こみち)のあるより、入(いり)て、谷へ下り、また、山へ登りて、木立深き中に、白壁づくりの家、見へたり。
大きなる門がまへにて、藏も幾むねといふ事なく、人も、おびたゞしく見へて、大きなる伽藍のごとくなる家にて、酒を造り、紙を漉(すき)、いろいろの業(わざ)をなす體(てい)なり。
あるじは、年ごろ、六十あまりなるが、
「客來(きやくらい)。」
と聞(きき)て、門まで迎ひに出(いで)て、
「京都よりのまれ人とは、貴客の事にて侍(はべら)ふか。よくこそ。」
とて、坐敷へ伴ひ、種々の名酒・佳肴を備へて、饗應する事、かぎりなし。
半右衞門も、あまりいたみ入りけれど、奧底なきもてなしに、興に乘じ、折からの詩作など、あいさつして居(を)るうち、小さきわらはの、きよげなるが出來りて、
「用意よく候。」
と申ければ、
「いざ。こなたへ。」
と、先へたちて、案内しければ、なほ、奧ふかく入りけるに、其坐敷の結構、言葉に述べがたく、庭には、名もしらぬ名花・名草、區(く)をわけて、樹(たて)ならべ、前には、諸山、開きわかれて、畫圖のごとく、庭におりて、くつをはき、白き石のしきならべたる一筋の道を行(ゆく)こと、百間[やぶちゃん注:約百八十二メートル。]計り、樹木のうちに入りて、夫より谷を下(くだ)りければ、自然のいはほを畫(ゑがき)たる[やぶちゃん注:比喩で「彫琢した」の意であろう。]流水あり。はしなどの結構なること、言葉、及ばず。
それより、亭ありて、「彩霞亭」と額をうちたり。
此内に美女、十六、七より十二、三の女子(をんなご)、十人ばかり居ならびて、珍膳をさゝげ、歌舞をなす事、京都の繁華といへども、いまだ見きかざる樂(たのし)みなり。
かく、結構なる所、此山中にあるべしとはおもひよらず、
『若(もし)、狐狸などの化(け)するや。』
と、あやしき程なれば、暇乞(いとまごひ)して歸らんとしけるを、せちにとめられて、夜もすがら、諷(うた)ひ、舞ひ、さまざまの風流をつくし、翌日、馬などしたてゝ、送りかへしける。
跡にて、委しく聞けば、此やどの老人の、おや、世にありしとき、召仕ひたる奴(やつこ)なるに、かく大きなる身上(しんしやう)になりしとかや。
老人の浪人せしきざみも、早速、來りて、
「かならず、かならず、外(ほか)へゆき給ふ事、なかれ。」
とて、引(ひき)とりて、我が近所におき、
「忠勤、おとろへざりし。」
と、いヘり。
あるじは、六十計(ばかり)とみえしが、やどの老人のいふは、
「あれにても、九十ばかりなるべし。われら、十ばかりになるとき、美濃へ引こみたりしを覺へおれり[やぶちゃん注:ママ。]。」
と、いへり。
「子孫、みな、長壽にて、家内、弐百人餘(あまり)暮しける。」
となん。
夫より、半右衞門も、折ふしは行きて、十日程づゝ逗留しけるが、誠に素封の富、南面、王の樂しみを極め、語(ことば)も心もおよばぬ榮華どもなりし。
今も、榮へおれるや、しらず。
半右衞門、のち、江戶靑山に來りて、名高き儒者となれり。
[やぶちゃん注:「南面、王の樂しみ」中国では古くより、天子は臣下に対面する際に陽の方位である南に面して座ったことから、天子となって国内を治めることを指し、ここは、それでのみ得られるような至上の歓楽を指す。]
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