芥川龍之介書簡抄25 / 大正三(一九一四)年書簡より(三) 五月十九日井川恭宛
大正三(一九一四)年五月十九日・京都市吉田京都大學寄宿舍内 井川恭樣・芥川龍之介
僕の心には時々戀が生れる あてのない夢のやうな戀だ どこかに僕の思ふ通りな人がゐるやうな氣のする戀だ けれども實際的には至つて安全である 何となれば現實に之を求むべく一に女性はあまりに自惚[やぶちゃん注:「うぬぼれ」。]がつよいからである二に世間はあまりに類推を好むからである
要するにひとりでゐるより外に仕方がないのだが時々はまつたくさびしくつてやり切れなくなる
それでもどうかすると大へん愉快になる事がある それは自分の心臟の音と一緖に風がふいたり雲がうごいたりしてゐるやうな氣がする時だ(笑ふかもしれないが) 勿論妄想だらうけれどほんとにそんな氣がして少しこはくなる事がある
序にもう一つ妄想をかくと何かが僕をまつてゐるやうな氣がする 何かが僕を導いてくれるやうな氣がする 小供の時はその何かにもつと可愛がられてゐたがこの頃は少し小言を云はれるやうな氣がする 平たく云ふと幸福になるポツシビリチーがかなりつよく自分に根ざしてゐるやうな氣がする それも仕事によつて幸福になるやうな氣がするのだから可笑しい
幸福夢想家だと君は笑ふだらう
無智をゆるす勿れ 己の無智をゆるす爲に他人の無智をゆるすのは最卑怯な自己防禦だ 無智なるものを輕蔑せよ(ある日大へん景氣がよかつた時)
オックスフォードの何とか云ふ學者が「ラムをよんで感心しないものには英文の妙がわからない ESSAY・ON・ELIA[やぶちゃん注:縦書。]は文學的本能の試金石だ」と云つた有名な話があるさうだ 上田さんのラム推奬の理由の一として御しらせする
試驗が近いんだと思ふとがつかりする 試驗官は防疫官に似てゐる 何となれば常に吐瀉物を檢査するからだ 眞に營養物となつたものを測るべき醫學者が來ない以上試驗は永久に愚劣に止るにちがひない ノートをつみ上げてみるとほんとうにがつかりする
キヤラバンは何處に行ける
みやれば唯平沙のみ見ゆ
何處に行ける
行きてかへらざるキヤラバンあり
スフインクスも見ずに
砂にうづもれにけむ
われは光の淚を流さゞる星ぞ
地獄の箴言をかゝざるブレークぞ
わが前を多くの騎士はすぎゆくなり
われも行かむと時に思へる
メムノンはもだして立てり
黎明は未來らず
暗し――暗し
何時の日か日の薔薇さく
ほのぼのと
何時の日かさくとさゝやく聲あり
象牙の塔をめぐりて
たそがるゝはうすあかり
せんすべなさにまどろまんとする
[やぶちゃん注:現行では、この冒頭に記される「戀」については、この頃の芥川龍之介が、結婚を熱望しながら、親族の反対によって、結果、夢破れた吉田弥生(以前は彼女を初恋の相手とすることが多かったが、今は前回に恋文の草稿(推定)を示した吉村千代が初恋と考えられいる)のことと採るのが一般的であるようだ。しかし、少なくともこの書き方を彼女一人に限定して読み解くことは、危険というより、表現上から、全く無理である。これはまさに男女を問わぬ多様な恋情(但し、龍之介が山本や井川かく書く時には女を作為的に匂わせている可能性は俄然高くなる)に駆られる青年龍之介の夢のような告解のポーズととる方が無難であると考えている。私は、「誰が初恋か」と議論は、母存在のトラウマとしての欠損感が異様に強く、女に惚れ易かった恋多き芥川龍之介にして、あまり意味を成さないように感ずる(但し、個人的には彼の女性への初恋は吉村千代と考えている)。寧ろ、彼の同性愛嗜好に着目すると、既に見てきた通り、幼馴染みの山本喜誉司や井川(後に恒藤姓)恭を筆頭とし、晩年の小穴隆一まで、非常に興味深い関係性が見えてくる。なお、芥川龍之介は未定稿で、「VITA SEXUALIS」及び「VITA SODMITICUS(やぶちゃん仮題)」を書いており、私は既に電子化し、別に詳細語注も附している(因みに言わずもがなであるが、本邦では男性の同性愛は古くからごく近代まで、普通の男性間に普通にあった。プラトンの「パイドロス」を読めば、ソクラテスの時代から、男女の愛は不全であり、男性同士の愛こそが至高であったのであり、「プラトニック・ラヴ」(Platonic love)とは「精神的な純潔なる愛」などではなく、「男対男の精神及び肉体双方の完成された愛」の謂いである)。
話が脱線した。もとに戻ると、吉田弥生については、一九九二年河出書房新社刊の鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」がよい。例えば、この二ヶ月後の、『七月二〇日~八月二三日、友人の堀内利器の紹介で彼の故郷千葉県一宮海岸に行き、約一カ月滞在する。午前中は読書と創作とにあてていたが、あまり熱心ではなく、もっぱら海水浴と昼寝を楽しんだ。幼なじみで初恋の人吉田弥生に二度目の手紙を書き、やがて結婚を申出るが、芥川家の反対で翌年二月頃破局を迎え、弥生はまもなく陸軍中尉金田一光男と結婚して去る。この事件は芥川の精神に大きな傷痕を残すことになる』とあり、その下方のコラム「破れた初恋」に以下のようにある。
《引用開始》
恋人吉田弥生は東京深川で明治二五年三月に生まれ、芥川とは同い年であった[やぶちゃん注:弥生は一八九二年三月十四日生まれで、芥川龍之介は同年同月三月一日生まれ。弥生は昭和四八(一九七三)年二月に亡くなっている。]。母よし(旧姓中村)は東京人、父長吉郎は岩手県盛岡出身で上京後、よしの家に寄寓して銀行に勤め、弥生の出生後、芝愛宕下の東京病院会計課長となり、一家は同地の病院構内に移った。
芥川の実家新原家は東京病院のすぐ近くであり、病院に[やぶちゃん注:敏三の経営する「耕牧舎」が。]牛乳を納めていたので敏三と長吉郎は知り合いとなり、一家で親しく交際し、龍之介と弥生は幼なじみであった。
弥生は東京高等女学校から青山女学院英文科に進み、同校を大正二年に卒業。英文学だけでなく、東西の美術や文学にも親しみ、短歌も作る才媛で、その容色とおちついた物腰で学友の間では評判であったという。
龍之介は新原の実家を通してなじんではいたが、中学以後は交渉がなく、ふたたび弥生の家を訪ねるようになるのは大学一年の五月頃からとみられる。
気の弱い龍之介は一人では行けず、友人の久米や山宮などを連れて行ったが、文学や美術や音楽など共通の話題があるので話ははずみ、訪問は楽しかった。
大正三年の秋頃弥生に縁談がもちあがり、その時龍之介は弥生を愛していることを知り、求婚の意志を芥川の家族に話すと猛烈に反対され、あきらめることになる。家族が反対したのは母よしが中村家の戸主であり、吉田に入籍前に弥生が出生したため戸籍の異動が複雑でその結果、弥生が非嫡出子として届出られたこと、吉田家が士族でなかったこと、龍之介と同年であったこと等があげられている。この事件で芥川は人間の醜さ、愛にすらエゴイズムのあることを認め、その人間観に重大な影響を与えられる。
《引用終了》
特に龍之介を乳飲み子の時から育ててきた同居する伯母で、龍之介が特に愛した(同時に憎悪もした)芥川フキ(道章のすぐ下の妹。生涯、未婚)は夜通し泣いて強く反対している。そこで、龍之介はその告白の翌朝、『むづかしい顏をしながら僕が思切』(おもひき)『ると云つた』(大正四(一九一五)年二月二十八日附井川恭宛書簡。これは後に電子化する)とある。結局、吉田弥生は大正四年四月下旬に同郷の岡山出身の陸軍将校金田一光男と結婚した。二〇〇三年翰林書房刊「芥川龍之介新辞典」の彼女の項を読むに、彼女はその後、特に芥川龍之介の影を引きずることはなかったようで、後(戦後)、芥川龍之介のことを語ることは殆んどなく、夫も龍之介のことを口にすることを激しく嫌い、訪ねてきた新聞記者を『激しい口調で門前払い』にしたとある。或いは、龍之介の呪縛に陥らなかった数少ない女性の一人だったと言えるのかも知れぬ。さればこそ、私の彼女への関心は以前から薄い。今後もディグする気は、ない。
「ポツシビリチー」possibility。可能性。実現性。発展可能性。将来性。
「仕事」芥川龍之介が作家としての意欲を示していることを暗示させていると私は読む。
「オックスフォードの何とか云ふ學者」不詳。
「ラム」イギリスの作家・エッセイストであったチャールズ・ラム(Charles Lamb 一七七五年~一八三四年)。特に「エリア随筆」(Eliana :一八六七年刊。「ESSAY・ON・ELIA」はそれ)はエッセイの傑作とされる。
「試金石」金などの貴金属の鑑定に用いられる黒色の硬い石英質の鉱石の別称。一般的には緻密な粘板岩。表面に金を擦(こす)り付け、その条痕 色を標準品のものと比較して純度を判定する。転じて、「物の価値や人の力量などを計る基準となる物事」を謂う。
「上田さん」明治三八(一九〇五)年刊の訳詩集「海潮音」で知られる、本邦にベルギー文学・プロヴァンス文学・象徴派・高踏派の詩を紹介した詩人・翻訳家・評論家の文学博士上田敏(明治七(一八七四)年~大正五(一九一六)年)のことであろう。
「營養物」「榮養」は嘗てはこうも表記した。
となつたものを測るべき醫學者が來ない以上試驗は永久に愚劣に止るにちがひない ノートをつみ上げてみるとほんとうにがつかりする
「キヤラバンは何處に行ける/みやれば唯平沙のみ見ゆ/何處に行ける」私は、複製色紙を所持する芥川龍之介の大正四年五月の芥川龍之介の漢詩風の章句、
*
不見萬里道
唯見萬里天
*
を直ちに想起する。芥川龍之介筆(芥川比呂志氏蔵。東京帝国大学在学中の写真裏面に記されたもの)。芥川龍之介二十三歳。大正四(一九一五)年五月十五日には悲恋に終わった初恋の人吉田弥生が結婚している。しかし、同月の十三日附の山本喜誉司宛書簡(後に掲げる)では早くも山本姪塚本文への愛情を表明してもおり、同年八月の恒藤との松江滞在によって復活を果たした龍之介は、十一月一日の『帝国文学』へ「羅生門」を発表し、その三日後の四日には「鼻」を起筆しており、この頃には文への思いも確固たるものになりつつあった。
「地獄の箴言」芥川龍之介が偏愛したイギリスの詩人で画家・銅版画家であったウィリアム・ブレイク(William Blake 一七五七年~一八二七年)の「天国と地獄の結婚」(The Marriage of Heaven and Hell :一七九〇年から一七九三年頃)。聖書の予言を模倣して書かれた一連の散文・詩とイラストを含むエッチング詩画集。後に彼と彼の妻キャサリン(Catherine Blake 一七六二年~一八三一年)によって着色されたものが有名。
「メムノン」エジプトのルクソールのナイル川西岸にある二体のアメンホテプⅢ世の像。「メムノンの巨像」とも呼ばれる。呼び名はギリシア伝説の「トロイア戦争」に登場するエチオピア王メムノーンに由来する。高さは孰れも約十八メートル。ウィキの「メムノンの巨像」によれば、『元々は、背後に同王アメンホテプ』Ⅲ『世の葬祭殿が控えており、その入口の部分であった。葬祭殿は第』十九『王朝ファラオ・メルエンプタハが自身の葬祭殿の石材調達のため』に『破壊した』。『向かって右側の像は紀元前』二七『年の地震により』、罅が『入り、夜明けになると、おそらく』は『温度差や朝露の蒸発のせいで、うめき声や口笛のような音を発していた。この現象を最初に報告したのは地理学者のストラボン』(ラテン文字転写:Strabo 紀元前六四年或いは六三年~紀元後二四年頃:古代ローマ時代のギリシア系の地理学者・歴史家・哲学者。全十七巻から成るギリシャ語で書かれた「地理誌」(ラテン文字転写:Geōgraphiká:ゲオグラフィカ)で知られる)『だった。彼は巨像が声を出しはじめてからまもなくして、エジプト総督アウレリウス・ガルスとそれを見物している。ストラボンは著書』の中では、『巨像が発している声なのか、近くにいる人間が声を出しているのか解らないと疑問を呈している』。『メムノンの巨像が声を出す現象は当時のガイドによって脚色され、メムノンの死別した母への呼び声だとされた。メムノンの巨像は声を聴こうと詰めかける人々で観光地化し』、『その中にはハドリアヌス帝』(第十四代ローマ皇帝プーブリウス・アエリウス・トライヤーヌス・ハドリアーヌス(Publius Aelius Trajanus Hadrianus 七六年~一三八年/在位:一一七年~一三八年)。ネルウァ=アントニヌス朝第三代皇帝)『と妻のサビナ』(Sabina)『もいた。サビナは』一三〇『年にメムノンの巨像を訪れ、「日の出後の最初の一時間のうちに、メムノンの声を二度聴いた」という証言を残している。現在もメムノンの巨像の台座には彼らが書き記した署名や詩が残されていて、エジプト総督や地方行政長官の肩書きを持つ人間が大勢訪れていたことが確認できる。その後、巨像はセプティミウス・セウェルス帝』(ローマ皇帝ルキウス・セプティミウス・セウェルス(Lucius Septimius Severus 一四六年~二一一年/在位:一九三年~二一一年)。セウェルス朝の創始者)『によって下に落ちていた像の上半身を取り付けられると、声を出すこともなくなったという』とある。筑摩全集類聚版脚注には、『朝の最初の』太陽の『光線にふれると音楽の愛が生じる』と記してある。
「未來らず」「いまだきたらず」。
「象牙の塔」ここは最原義(フランス語‘tour d'ivoire’)で「芸術至上主義の人々が俗世間を離れて楽しむ静寂・孤高の境地」の意である。]
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