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2021/03/02

「南方隨筆」底本 南方熊楠 厠神

 

[やぶちゃん注:「厠神」(かはやがみ)は大正三(一九一四)年五月発行の『人類學雜誌』二十九巻五号初出(リンク先は「J-STAGE」のPDF)。冒頭に出る、熊楠が触発された出口米吉氏の方の論考「厠神」はこれに先立って既に電子化してあるので、まずはそちらを読まれたい。

 本篇は、素人の私がさっと見ても、漢籍や経典引用の部分にはかなりの不審があり、ちょっと調べただけで多くは漢字の誤字であることが判った。一部は当該原文を探して確認し、或いはそれと並行して初出及び平凡社「選集」と対照し、正しい字を補ったり、訂したりしたが、それをいちいち指示するのは五月蠅いだけなので、原則、それらは注していない(かなりひどい。数十ヶ所に及んでいる。「人彘」を「人厠」と誤植したのを見た時は全身が脱力した)。但し、本篇は漢文原文の引用が訓点無しで、ごっそりと挿入されており、後注で読むとなると、読者自身が甚だ面倒に感じられると思うたので、特異的に当該漢文の後に訓読文を太字で挿入した。訓読には訓読されている「選集」を参考にはしたが、従えない読みが多く、私の我流で読んだ部分が殆んどである。本文のみに挑戦されたければ、太字を抜かして読まれればよい(但し、経文のそれは一部の漢字がかなり難読である)。訓読でも難解或いは意味不明な部分は後に注してある。書誌データの一部も「選集」で訂してある(これも特に指示はしていない)。

 

      厠       神

 

 自分の抄錄中より出口君の所輯(二九卷一號)を補はんに、君が玉手襁より引かれし、流行眼病を厠神に祈ること今も紀州にあり、田邊々には、眼病流行の際厠前に線香を焚き兩側に小き赤旗を樹て[やぶちゃん注:「たてて」。]祈り、又家内の人數程小き赤旗を作り厠壁に插し祈れば、かの病に罹らずと云ふ、厠神盲目なる故其爲に厠を掃除すれば神悅ぶ、孕婦[やぶちゃん注:「はらみめ」。]屢ば手づから掃除すれば美貌の子を生むと傳ふ、諸經要集卷八下、福田經云、佛自攝宿命所行、昔我前生爲婆羅奈國、近大道邊安設圊厠、國中人衆得輕安者莫不感義、緣此功德世々淸淨、累劫行道穢汚不汙、金色晃昱塵垢不著、食自消化無便利之患[やぶちゃん注:「『福田經』に云はく、『佛、自(みづ)から宿命の行(ぎやう)ずる所を說(と)くらく、「昔、我、前生(ぜんしやう)に婆羅奈(はらな)國の爲めに、大道の邊(ほとり)に近く、圊厠(せいし)[やぶちゃん注:「圊」も厠に同じい。]を安じ設(まう)く。國中の人衆、輕安を得る者、義に感ぜざる莫し。此の功德に緣りて、世々、淸淨なり。劫(こう)を累(かさ)ねて、道(だう)を行(ぎやう)じ、穢染(ゑぜん)も汙(けが)さず、金色(こんじき)、晃昱(くわいく)として塵垢(ぢんこう)も著かず、食、自(おのづ)から消化し、便利の患(わづらひ)無し」と。』。]、是は厠を立て公衆に便せし福報を述たるなれど、由來除糞人を極て卑めし印度にも不淨の掃除を必要とせしは、賢愚經に、除糞人尼提出家を許され得道せし事、除恐災患經に無類の美妓奈女前身塔地の狗糞を除きし功德もて、後身每に[やぶちゃん注:「つねに」。]胞胎臭處より生れず花中より生まれしことを記せり、四十年計り前和歌山で聞しは、厠神一手で大便、他の一手で小便を受く、如し[やぶちゃん注:「もし」。]人、厠中に唾吐けば不得已[やぶちゃん注:「やむをえず」。]口もて之を受く、故に厠中に唾吐けば神怒ると、又傳ふ、厠神盲[やぶちゃん注:「めしひ」。]にして人に見らるゝを忌めば、厠に入る者必ず燈を携え[やぶちゃん注:ママ。]咳して後入るべしと、是れ、其作法出口君が上の四一頁に引ける朝鮮の風に同じ[やぶちゃん注:「四一頁」は「三一頁」(初出4コマ目)の誤りではないか。しかし、空咳することは書かれておらず、物理的に必ずしも必要でない燈を灯すのは中国の風俗として出、朝鮮ではない。]、毘尼母經に、若上厠去時、應先取籌草至戶前、三彈指作聲、若人非人、令得覺知[やぶちゃん注:「若(も)し、厠に上り去(ゆ)く時は、應(まさ)に籌草(ちうさう)を取りて戶前に至り、三たび彈指(だんし)して聲を作(な)すべし。若し、人にても、非人にても、覺知するを得せしむ。」。]と有れば印度にも古く厠に入る前聲を發して人と鬼神に知しむる敎有りし也、雜譬喩經[やぶちゃん注:「ざつひゆきやう」。]に有一比丘、不彈指來、大小便臢汙中鬼面上、魔鬼大恚、欲殺沙門云々、[やぶちゃん注:「一比丘、有り。彈指して來たらず、大小便、中鬼の面上を臢汙(さんを)す。魔鬼、大いに恚(いか)りて、沙門を殺さんと欲すと云々。」。]大灌頂神呪經に厠溷中鬼[やぶちゃん注:「しこんちゆうき」。厠に巣食う悪鬼の名。「溷」も「厠」に同じい。]を載せ、卷七に噉人屎尿鬼[やぶちゃん注:「たんじんしにねうき」。同前の類いで、「人の屎(くそ)や尿(いばり)を好んで噉(くら)う鬼」の意。]を載す、正法念處經十六に、男若女、慳嫉覆心、以不淨食、誑諸出家沙門道士、言是淸淨、令其信用而便食之、或時復以非處應食、施淨行人、數爲此業、復敎他人、令行誑惑、不行布施、不持禁戒、不近善友、不順正法、樂以不淨而持與人、如是惡人、身壞命終、生惡道中、受于㖉托餓鬼、(魏言食唾)爲飢渴火、常燒其身、于不淨處、若壁若地、以求人唾、食之活命、餘一切食、生不得食、乃至惡業、不盡不壞不朽、故不得脫云々、若生人中、貧窮下賤、多病消瘦、鼻齆膿爛、生除厠家、或于僧中、乞求殘食、以自濟命[やぶちゃん注:「男、若しくは、女にして、慳嫉(けんしつ)もて心を覆(ふさ)ぎ、不淨食を以つて、諸出家・沙門・道士を誑(あざむ)き、『是れ、淸淨なり』と言ひて、其れ、信用せしめて、便(すなは)ち、之れを食はしめ、或る時は、復た、應に食ふべき處に非ざるものを以つて、淨行(じやうぎやう)の人に施し、數(しばし)ば此の業(おこなひ)を爲し、復た、他人をして、誑惑(きやうわく)を行ひせしめ、布施を行はせず、禁戒を持させず、善友に近づかせず、正法(しやうほふ)に順はざらしめ、不淨を以つて人に與ふを持つて樂しむ。是(かく)のごとき惡人は、身、壞(く)え、命、終らば、惡道の中(うち)に生じ、托餓鬼(きたがき)(魏にて「唾(つば)を食(の)むこと」を言ふ[やぶちゃん注:「托」の注。])の身を受く。飢渴の火の爲めに、常に其の身を燒かれ、不淨の處、壁、若しくは、地にありて、以つて人の唾を求め、之れを食みて命を活(い)かす。餘(ほか)の一切の食は、生(しやう)、食らふを得ず。乃(すなは)ち、惡業に至りて、盡きず、壞(く)えず、朽ちず。故に脫するを得ず云々。若(も)し、人中に生まるるも、貧窮にして下賤、多病にして消(おとろ)へ瘦せ、鼻、齆(ふさが)り、膿み爛れ、除厠(くみとり)の家に生まれ、或いは僧中に、殘食(ざんぱん)を乞ひ求め、以つて自(みづ)から、命を濟(たす)くのみ。」。]と云ひ、如此衆生、貪嫉覆心、或爲沙門、破所受戒、而被法服、自遊衆落、諂誑求財、言爲病者、隨病供給、竟不施與、便自食之、爲乞求故、嚴飾衣服、遍諸城邑、廣求所須、不施病者、以上因緣云々、生阿毘遮羅(疾行)餓鬼之中、受鬼神已、于不淨處、噉食不淨、常患飢渴、自燒其身、若有衆生、行不淨者、如是餓鬼、則多惱之、自現其身、爲作怖畏、而求人便、或示惡夢、令其恐怖、遊行冢間、樂近死屍、其身火燃、煙炎俱起、若見世間疫病流行、死亡者衆、心則喜悅、若有惡咒、喚之則來、能爲衆生、爲不饒益、其行迅疾、一念能走百千由旬、是故名爲疾行餓鬼、凡世愚人、所共供養、咸皆號之、以爲大力神通夜叉、如是種々、爲人殃禍、令人怖畏、乃至惡業不盡不壞不朽、故不脫得云々、若生人中、生呪師家、屬諸鬼神、守鬼神廟、[やぶちゃん注:「此くのごとき衆生、貪嫉もて心を覆ぎ、或いは沙門と爲るも、受くる所の戒を破り、而して法服を被(かぶ)りて、自(みづ)から衆落に遊び、諂(おもね)り誑(あざむ)きて財を求め、『病者の爲めに、病に隨ひて、供給す』と言ひて、竟(つひ)に施與せず、便(すなは)ち、自(みづ)から之れを食らふ。乞ひ求めんが爲め故に、衣服を嚴飾(ごんしよく)し、諸城邑(しよじやういう)を遍(めぐ)りて、廣く須(もと)めらるるを求め、病者に施さず、以上の緣に因りて云々」。「阿毘遮羅(「疾く行く」。)餓鬼(あびしやらがき)に生まれ、鬼身を受け已(をは)りて、不淨の處にて、不淨を噉ひ食ひ、常に飢渴に患(くるし)み、自(みづ)から其の身を燒く、若し、衆生の不淨を行ずる者有れば、是のごとき餓鬼、則ち、多く、之れを惱まし、自(みづ)から其の身を現じ、爲めに怖畏を作(な)して、而して人の便(すき)を求(うかが)ひ、或いは惡夢を示し、其れを恐怖せしめ、冢(つか)[やぶちゃん注:墓場。]の間を遊行しては、死屍に近(したし)むを樂しみ、其の身は火と燃え、煙・炎、俱(とも)に起こる。若し、世間に疫病流行し、死亡せる者の衆(おほ)きを見れば、心、則ち、喜悅す。若し、惡咒有りて、之れを喚(よ)べば、則ち、來たり、能く衆生の爲めに不饒益(ふねうやく)[やぶちゃん注:無慈悲な災厄。]を爲す。その行くや、迅疾にして、一たぴ念ずれば、能く百千由旬(ゆじゆん)[やぶちゃん注:凡そ八百八十万キロメートル。]を走る。是の故に名づけて疾行餓鬼(しつかうがき)となす、凡そ世の愚人、共に供養され、咸(あまね)く、皆、之れを號(とな)へ、以つて大力神通夜叉(だいりきじんづうやしや)と爲す。是のごとく、種々(しゆじゆ)に人に殃禍(わざはひ)を爲し、人をして怖畏せしむ。乃(すなは)ち、惡業は至り、盡きず、壞えず、朽ちず。故に脫するを得ず云々。若し、人中に生まるるも、呪師の家に生まれ、諸鬼神に屬して、鬼神の廟を守る。」。]斯る食不淨惡鬼を祀るより、自然厠神の觀念を生ぜしやらん、劉宋譯彌沙塞五分律廿七に有一比丘、在不應小便處小便、鬼神捉其男根、牽至屛處、語言大德應在此處小便[やぶちゃん注:「一比丘有り。應(まさ)に小便をすべからざる處に小便す。鬼神、其の男根を捉へ、牽きて屛處(へいしよ)[やぶちゃん注:仕切られた場所。]に至り、語りて言はく、『大德、應に此の處に在りて小便すべし。』と。」。]、これは厠神にあらず、僧が厠外に放尿したるをその處の鬼神が戒めたる也、增壹阿含經四四に、佛未來彌勒佛の世界を記す、鷄頭城中有羅刹鬼、名曰葉華、所行順法、不違正敎、常伺人民寢寐後、除去穢惡諸不淨者、又以香汁而灑其地、極爲香淨[やぶちゃん注:「鷄頭城の中(うち)に羅刹鬼あり。名づけて葉華(えふくわ)と曰ふ。行なふ所、法に順ひ、正敎(しやうぎやう)に違(たが)はず。常に人民の寢寐(しんび)したる後(のち)を伺ひ、穢惡(ゑを)したる諸不淨の者を除け去り、又、香汁を以つて其の地に灑(そそ)ぎ、極めて香淨と爲す。」。]これは好意もて人糞を掃除する鬼神也、印度の咒法中厠に關する者有り、例せば不空譯大藥叉女歡喜母並愛子成就法に、得貴人歡喜、取彼人門下土、以唾和作丸、加持一百八遍置於厠中、彼人必相敬順歡喜、[やぶちゃん注:「貴人の歡喜(くわんぎ)を得んとせば、彼(か)の人の門の下の土を取り、唾を以つて和(あ)へて丸(ぐわん)と作(な)し、加持すること、一百八遍し、厠の中(うち)に置かば、彼の人、必ず、相ひ敬順し、歡喜せん。」。]支那にも、厠中に祕法を行ひし例、明の祝穆の事類全書續集十に郭璞素與桓彜友善、每造之或値璞在婦間便入、璞曰、卿來他處自可徑前、但不可厠上相尋耳、必客主有殃、彜後因醉詣璞、正逢在厠、掩而觀之、見璞裸身被髮銜刀設醊、璞見彜撫心大驚曰、吾每囑卿勿來、反更如是、非但禍吾、卿亦不免矣、璞終受王敦之禍、彜亦死蘇峻之難、[やぶちゃん注:「郭璞(かくはく)、素(も)とは桓彜(くわんい)と友として善(よろ)し。每(つね)に之れに造(いた)り、或いは、璞、婦の間に在るに値(あ)ふも、便(すなは)ち、入る。璞曰く、『卿の他處(よそ)より來たる時は、自(おのづ)から徑(すぐ)に前(すす)むべし。但し、厠の上のみは相ひ尋ぬべからず。必ず、客・主に殃(わざはひ)あらん』と。彜、後、醉ふに因つて、璞を詣(たづ)ぬ。正(まさ)に厠に在るに逢ふ。掩(かく)れて之れを觀るに、璞、裸身・被髮して、刀を銜(くは)へ、醊(てつ)を設くるを見る。璞、彜を見て、心(むね)を撫(う)ちて、大きに驚きて曰はく、『吾、每に卿に『來たる勿れ』と囑(しよく)せるに、反つて更に是のごとし。但(ただ)、吾に禍(わざはひ)あるのみに非ず。卿も亦、免れざらん。』と。璞は終(つひ)に王敦(わうとん)の禍(くわ)を受け、彜も亦、蘇峻(そしゆん)の難に死す。」。]醊は字典に祭酹[やぶちゃん注:「さいらい」。「酹」は神を祀るに際して地面に酒を注ぐことを指す。]なりと見ゆれば、厠中に神酒を供えて[やぶちゃん注:ママ。]祀り行ひし也、甲陽軍鑑に、武田信玄每に軍謀を厠中に運らせしと有る如く、祕處では有り、且つ臭穢にして本主神外の鬼神忌みて近づかざるより、密法を修むるに便とせしならん、普明王經に、阿群佛法に歸し比丘となり、王一たび之を見んと望むも此比丘眼睛耀射にして當たり難きを以て、王之を厠中に請じ見る事有り、書紀二に猿田彥大神眼力强く、八十萬神皆目勝ちて[やぶちゃん注:「まかちて」。初出にルビ有り]。相問ふを得ずと有る如し、糞穢を以て邪視を破る事は、かつて本誌に述たり[やぶちゃん注:明治四二(一九〇九)年五月発行の『東京人類學雜誌』二百七十九号で、初出原題は「出口君の『小兒と魔除』を讀む」。後の「小兒と魔除」(リンク先は私のPDF一括版)。冒頭から「屎」を名に持つ人名リストがバーンと出る。]、無能勝三藏が譯せる穢蹟金剛說神通大滿陀羅尼法術靈要門經には、佛涅槃に入て諸天大衆皆來て供養せるも、螺髻梵王[やぶちゃん注:「らけいぼんわう」。]のみ來らず、千萬の天女に圍繞されて相娛樂す諸大衆その我慢を惡み、百千衆呪仙をして往て取り來らしむるに、梵王種々不淨を以て城塹(じやうざん)となし、諸仙各々犯咒(咒破らるゝ事)されて死す、復た無量の金剛衆をして往かしむるも七日迄取り得ず、如來大遍知力もて其左心より不壞金剛[やぶちゃん注:「ふゑこんがう」。]を化出[やぶちゃん注:「けしゆつ」。]し、不壞金剛往て梵王所を指させば、種々穢物變じて大地となり、螺髻梵王發心して如來所に至ると有り、梵王糞穢もて呪仙を破りし也、酉陽雜俎十四、厠鬼の名は頊天竺[やぶちゃん注:「ぎよくてんじく」。](一曰笙[やぶちゃん注:これは「いつにいはく「しやう」。で一書では「天竺」ではなく「天笙」とするの意。])上の八三頁[やぶちゃん注:ここは「選集」では「『人類学雑誌』二九巻二号の八三頁」とされてある。残念ながら、当該ページは「J-STAGE」では読めないので誰の論文かも判らない。]に淵鑑類凾より引れし厠神狀如大猪と云る話は、支那にも朝鮮琉球等と齋しく、厠に家猪[やぶちゃん注:ここは豚(ブタ)のこと。前の「大猪」も「大きな豚」であって野猪(イノシシ)のことではないので注意。]を畜て糞を食しむる風有りしに基くなるべく、漢書に、賈姬如厠、有野彘、入厠中、[やぶちゃん注:「賈姬(かき)、厠へ如(ゆ)く。野彘(やてい/ゐのしし)あり。厠の中に入れり。」。]又呂后が戚天人を傷害して厠中に置き人彘と名けし事有り、事類全書續十に、侍御史錢義方居常樂第、夜如厠、忽見蓬頭靑衣者數尺來逼、義方曰、汝非郭登、曰然、餘乃厠神每月出巡、(續玄怪錄)、[やぶちゃん注:「侍御史の錢義方、常樂第に居(を)り。夜、厠に如(ゆ)くに、忽ち、蓬頭・靑衣の者、長(たけ)數尺なるが、來たりて逼(せま)るを見る。義方曰はく、『汝は郭登にあらずや。』と。曰く、『然り。余は、乃(すなは)ち厠神なり。每月、出でて巡る』と。」。]類函厠の條に晉書陶侃甞如厠、見一人朱衣介幘劒履、曰以君長者、故來相報、若後當爲公矦、侃至八州都督、又庾翼鎭荊州、如厠見一物、頭如方相、兩眼大有光、翼擊之入地、因病而薨、[やぶちゃん注:「陶侃(とうかん)、甞つて厠に如(ゆ)き、一人の、朱衣にして、介幘(かいさく)をかぶり、劒をはき、履(くつ)をはけるものを見たり。曰く、『君、長者なるを以つて、故に來たりて相ひ報ず。君、後に當(まさ)に公侯たるべし。』と。侃、八州の都督に至れり。又、庾翼(ゆよく)、荊州に鎭(ちん)たり。厠に如(ゆ)き、一物(いちぶつ)を見る。頭は方相(はうさう)のごとく、兩眼、大いに、光、有り。翼、之れを擊てば、地に入れり。因りて病みて薨ず。」。]是れ人死して厠神となり、厠中に吉凶を告る神有り、又人を驚かす鬼物有りとせる也、類凾卷十七と二五八に歲時記と異錄傳を引て厠の女神の傳を載す、文差や[やぶちゃん注:「やや」。]相異なるを以て綜合して記さんに、廬陵歐明從賈客、道經彭澤湖、每以舟中所有、投湖中爲禮、後復過湖、忽有一人著禪衣乘馬、來候明云、是靑湖君使也、靑湖君感君有禮、故邀君、必有重遺、君皆勿取、但求如願、明既見靑湖君、乃求如願、如願者靑湖君之神婢也、靑湖君不得已、呼如願送明去、明將如願歸、所願卽得、數年大富、後正旦如願晚起、明醉撻之、走入糞壤中不見、今人、正旦以繩繫偶人、投糞壤中、云令願以此、[やぶちゃん注:「廬陵の歐明(わうめい)、賈客(こかく)[やぶちゃん注:商人。]に從ひ、道に彭澤湖(はうたくこ)を經(とほ)るに、每(つね)に舟中に有る所のものを以つて、湖中に投じて禮と爲す。後、復た、湖を過ぐるに、忽ち、一人(いちにん)有り、禪衣(ぜんえ)を著(き)て馬に乘り、來たって明に候(つか)へて曰く、『是(これ)は靑湖君が使ひなり。靑湖君、君の禮あるに感じ、故に君を邀(むか)ふ。必ず、重き遺(おくりもの)有らんも、君、皆、取る勿れ。但(ただ)、如願(じよぐわん)のみ、求めよ。』と、明、既に靑湖君に見(まみ)え、乃(すなは)ち、如願を求む。如願とは靑湖君の神婢なり。靑湖君、已むを得ず、如願を呼び、明を送り去らしむ。明は如願を將(つ)れ歸るに、願ふ所あらば、卽ち得(え)、數年にして、大いに富めり。後の正旦(ぐわんたん)、如願、晚(おそ)く起くるに、明、醉ひて之れを撻(う)つ。糞壤[やぶちゃん注:堆肥置き場。]の中(うち)に走りて入りて見えず。今人(きんじん)、正旦に繩を以つて偶人(ぐうじん[やぶちゃん注:傀儡(くぐつ)。人形。])に繋び、糞壤の中に投じ、『願ひのごとくならしめよ』と云ふは、此れを以つてなり。」。]淸湖君、一に靑洪君に作る、事類全書前集六には有商人過靑湖見淸湖君云々[やぶちゃん注:「商人有りて靑湖を過ぐるに、淸湖君に見ゆ云々」。]とせり、予幼かりし時亡母つねに語りしは、厠を輕んずるは禮に非ず、昔し泉州の飯(めし)と呼ぶ富家は、其祖先が元旦雪隱の踏板に飯三粒落たるを見、戴いて食ひしより打ち續き幸運を得て大に繁昌に及べりと、平賀鳩溪實記卷一三井八郞右衞門源内へ對面の事の條、源内の詞に、「是の三井家は誠に日本一の金持にして、鴻池抔よりも名譽の家筋也云々、凡そ富貴人と申すは泉州岸和田に住居致す飯の彌三郞と三井計と存ずる也」と有る飯氏なるべし、是れも厠を敬せしより其神幸運を與えし[やぶちゃん注:ママ。]とせしならん、倭漢三才圖會八一に白澤圖云、厠惟精名倚(上の三〇頁出口君が引きしには「停衣と名づく」とあり[やぶちゃん注:出口米吉「厠神」の初出の2コマ目(私の電子化はこちら)。正確には『白澤圖ヲ引テ厠神名停衣トアリ』である。])、著靑衣持白杖、知其名呼之者除、不知其名呼之則死、又云築室三年不居其中、見人則掩面、見之有福、居家必用云、厠神姓廓名登、是庭天飛騎大殺將軍、不可觸犯、能賜災福、[やぶちゃん注:以上は後注で同書の「厠」の項の全部を示す。]鬼神其名を人に知れて敗亡せし諸例は、「鄕土硏究」一卷七號なる「南方隨筆」に擧たり[やぶちゃん注:これは後の「續南方隨筆」で総括された「『鄕土硏究』一至三號を讀む」の一節。後注参照。]、廓登卽ち上に引る事類全書の郭登なるべし、厠神人を見て面を掩ふは日本で厠神に見らるゝを忌むと云ふに近きも、其面を見れば福有りと云ふは此邊で傳ふる所に反せり、熊野の或部分には今も厠を至極淸淨にし、四壁に棚を設け干瓢椎茸麪粉[やぶちゃん注:「むぎこ」。]氷豆腐等の食物及び挽臼等を置き貯へ、上に玉萄黍、蕃椒[やぶちゃん注:「たうがらし」。]等を懸下す、其體、一見のみでは不淨處と信ぜられず、予夜分始て之に入り、自ら夢裡に有るかと疑ひ、燈を携へて見廻り又身體諸部を撚り[やぶちゃん注:「ひねり」。]驗[やぶちゃん注:「けみ」。]せし程也、後ち其邊の人來る每に子細を尋ぬるも耻ると見えて一向然る事無しと答ふ、去年酒井忠一子に此事を語りしに、日向とかにも斯る風有る地方有り、古え厠を殊の外に重んぜし遺俗と聞りと話されつ、件の熊野山村の俗語に放蕩息子を罵りて、汝は親の雪隱に糞垂るべき者に非ずと云ふを攷ふれば、酒井子の言の如く厠を家の重要部と尊ぶ土俗も存せしにや、定めて彼諸村には多少厠神崇拜の遺風も傳はり居る事なるべければ再度自ら往て調査せんと欲す、序に言ふ、南洋のツイトンガ島民は、死人の魂が諸神に食れ竟れば[やぶちゃん注:「くはれをはれば」。]得脫すと信じ、島中最も重んぜらるゝ人の葬禮後、貴族の男六十人十四夜續けて死人の墓に大便し其人々の妻女來て之を取除く、是れ死人の魂諸神に食れて淨化し盡されたるを表す、又速かに得脫するを促がす者ならんとは椿事也(Waitz und Gerland, ‘Geschichte der Naturvölker, ’Band 6, s. 329, Leipzig, 1872)、又同卷三〇五頁に、新西蘭[やぶちゃん注:ニュージーランド。]の人、死して樂土に行ざる魂は糞と蠅を常食とすと云ひ、曾て此世なる幼兒を育てん迚樂土より還る婦人、途中其親族の死靈が住る村を通るに彼輩之に人糞を食へと迫る、其亡父の靈獨り之を制禦し、クマラ根二本を與えて[やぶちゃん注:ママ。]遁れ去らしむるに、惡靈二個なほ追來るを件の二根を抛て[やぶちゃん注:「なげうちて」。]遮り歸りし話有りと載たり、其事、書紀卷一、伊弉册尊已に黃泉之竈(よもつへぐひ)[やぶちゃん注:以上はルビではなく、本文。]して此世に還るを得ず、伊弉諾尊之を見て黃泉より逃出るを、醜女八人追ければ、尊黑鬘[やぶちゃん注:「くろみかづら」。]と湯津爪櫛[やぶちゃん注:「ゆつつまぐし」。]を投て葡萄と筍を化成し、醜女之を食ふ間に泉津平坂[やぶちゃん注:「よもつひらさか」。]に到り玉へえるに似たり、新西蘭の神話葬儀が糞に緣有る事如斯なれば必ず厠神に關する譚も行はれし事と察すれど、予の筆記不備にして只今其詳を知るに由無し。

 

 追 記

 種々の物を用て追ふ者を妨げし譚は日本と新西蘭の外にもあり、支那には梁の慧皎[やぶちゃん注:「ゑかう」。]の高僧傳八に、劉宋の釋玄暢北虜滅法の際平城より逃れ、路經幽冀、南轉將至孟津、唯手把一束楊枝一扼葱葉、虜騎逐追、將欲及之、乃以楊枝擊沙、沙起天闇、人馬不能前、有頃沙息、騎已復至、於是投身河中、唯以葱葉内鼻孔中、通氣度水、以八月一日〔元嘉二十二年〕達于揚州、[やぶちゃん注:「路(みち)に幽・冀を經(へ)、南に轉じて將に孟津に至らんとす。唯、手には一束の楊枝と、一扼(やく)の葱葉(ねぎ)とを把(も)てるのみ。虜騎、逐追(ちくつい)して、將に之れに及ばんとす。乃(すなは)ち、楊枝を以つて沙を擊つに、沙、起りて、天、闇(くら)み、人馬、前(すす)む能はず。頃(しばら)く有りて、沙、息(や)み、騎、已に復た至る。是に於いて身を河中に投じ、唯、葱葉を以つて鼻孔の中(うち)に内(い)れ、氣を通じて、水を度(わた)る。八月一日〔元嘉二十二年[やぶちゃん注:南北朝時代の劉宋の文帝の時代の年号。ユリウス暦四四五年。]〕を以つて揚州に達す。」。]歐州には希臘譚に、繼母魔質にして一男一女童を殺し食はんとし、二童犬の敎により逃るゝを魔母追來る、其時童男小刀を投れば廣原となり、次に櫛を投れば密林となり、最後に鹽を投れば浩海と成て遂に遁れ去るを得と有り、スカンヂナヴヰア譚に一童子巨鬼[やぶちゃん注:「トール」のこと。]に逐れ走る時其騎馬に敎えられて三物を携ふ、鬼逐うふ事急なるに臨み、先づ山査子[やぶちゃん注:「さんざし」。バラ目バラ科サンザシ属セイヨウサンザシ Crataegus monogyna。]の枝を投れば彼木の密林生じ、石を投れば大巖と成り、甁水を投れば大湖と成て鬼を障え[やぶちゃん注:「さえ」。遮(さえぎ)り。]童子脫するを得と有り (Tozer,‘Researches in the Highlands of Turkey,’1869,vol,ii,pp.276-274)、蘇格蘭[やぶちゃん注:スコットランド。]、印度等にも似たる譚有りて Clouston, ‘Popular Tales and Fictions,’ 1887, vol. i, pp. 439-443 に委細載せたり。

     (大正三年五月、人類第二十九卷)

 

[やぶちゃん注:「厠神」「ブリタニカ国際大百科事典」の「厠神」から引いておく(コンマをピリオドに代えた)。『便所の神のことで、便所神、雪隠 (せっちん) 神、おへや神などとも呼ばれている。厠とは便所のことで、その語源については、川の上あるいは川のほとりに設けられた川屋にあるとする説が有力である。その祀り方は地方によって異なり、便所をいつも清浄にして灯明をあげたり、人形を祀り』、『花を供えたり、小さな神棚を設けたり、新設するときに』は、『甕の下に人形を埋めたり,大病になった』際には、『願を掛けて』、『花や酒を供えたりする。また、お産とも関係が深く、妊婦が美しい子の誕生を祈願して厠を清めたり、臨月に便所にお参りをし』、『お産が軽くすむように祈願したりするが、これは排便の様子が』、『お産の様子に類似するところから生じた類感呪術の一種と思われる。関東地方には赤子の初外出に便所参りをする風習がある』。

「諸經要集」唐の律宗 (南山宗) の僧道世(?~六八三年)著。全二十巻。仏教の典籍の中から,特に善悪の行為と、それに対する報いについて抜き出し、三十部に分類して整理したもの。仏教文献を検索するのに便利な書物で、同じ著者に依る同じ範疇に属する書物に、かなり知られた「法苑珠林』(全百巻)がある。なお、以下に出る経典類は煩瑣なだけなので、注しない。

「婆羅奈(はらな)國」古代インドの王国。「ワーラーナシ」の漢音写で、別称「カーシー国」。マガダ国の西、コーサラ国の北にあり、現在のワーラーナシ(バラナシ・ヴァラナシ)(グーグル・マップ・データ)を中心とした地方。釈尊が成道後、波羅奈国の鹿野苑 (サールナート) で初めて五比丘に説法をしたことで知られ、アショーカ王がこれを記念して二石柱を建立している。

「穢染(ゑぜん)も汙(けが)さず」重語表現になっているが、ようは「一点の穢れも成さず」の意であろう。

「晃昱(くわいく)」(こういく)は明らかな光を発して輝くさま。「選集」は『晃々』とするが、経典類を検索したところ、「南方隨筆」の通りで正しいものを見出すことが出来た。

「除糞人」便器・便槽の糞尿を始末することを生業とする人々。

「除糞人尼提出家を許され得道せし事」芥川龍之介が(大正一四(一九二五)年九月発行の『文藝春秋』に発表した短篇「尼提(にだい)」に描かれている。「青空文庫」のこちらで読める(但し、新字新仮名)。

「除恐災患經に無類の美妓奈女前身塔地の狗糞を除きし功德もて、後身每に胞胎臭處より生れず花中より生まれしことを記せり」「大蔵経DB」の当該経典「仏說除恐災患經」から見出せた。以下。一部の漢字を正字化した。

   *

時有衆女。欲供養塔。便共相率。掃除塔地。時有狗糞。汚穢塔地。有一女人。手撮除棄。復有一女。見其以手除地狗糞。便唾笑之曰。汝手以汚不可復近。彼女逆罵。汝弊婬物。水洗我手。便可得淨。佛天人師。敬意無已。手除不淨。已便澡手。遶塔求願。今掃塔地。汚穢得除。令我來世勞垢消滅淸淨無穢。時諸女人。掃塔地者。今此會中。諸女人是。爾時掃地。願滅塵勞。服甘露味。爾時以手。除狗糞女。今柰女是。爾時發願。不與汚穢會。所生淸淨。以是福報。不因胞胎臭穢之處。毎因花生。

   *

そこで原版本の当該部も確認したが、「奈女」ではなく、「柰女」であった。但し、異体字なので問題はない。ウィキの「アンバパーリー」(彼女のことである。生没年は不詳)によれば、『アームラパーリー』とも。漢音写は『菴摩羅、菴没羅など多数』あり、漢訳では『㮈女、柰女、非浄護など』があり、『釈迦仏の女性の弟子(比丘尼)の』一人とする。『ヴェーサーリー(毘舎離)の人でヴァイシャ出身。ヴェーサーリー城外のマンゴー林に捨てられ、その番人に育てられたので、アンバパーリー』、則ち、『マンゴー林の番人の子といわれるようになった。アンバパーリーは、遠くの町にまで名声が伝わっていた遊女で、美貌と容姿、魅力に恵まれ、他にも踊りや歌、音楽も巧み、当然言い寄る客が引けを取らずとなって舞台等で莫大な稼ぎを得ていた』。『釈迦仏に帰依し、その所有していた林を僧団に献納した』。「長老尼偈註」に『よれば、出家し』、『高名な長老となった自分の息子ヴィマラ・コンダンニャの説法をきき、みずからも出家、比丘尼となり、阿羅漢果を得たとされる』。「テーリーガーター」では、『彼女の美貌に心を奪われた比丘衆に阿難が誡めのために偈を説いて』おり、「大般涅槃経」では、『リッチャヴィ(離車)族の公子らに先んじて釈尊を招待している。公子らがその招待を譲り受けんと乞うも』、『彼女は譲らなかったという。その所有していた菴摩羅樹苑(マンゴー樹園)を僧団に寄進した。後の天竺五精舎の』一『つ菴羅樹園精舎である。この件は諸文献に通じるエピソードである』。南伝「マハーヴァッガ」では、『彼女の美貌により』、『ますます多くの人々が街に引き寄せられてヴェーサーリーが潤ったという』。「雑阿含経」及び「長部註」に『よると、菴摩羅樹苑にて、彼女が来るのを見て、釈尊は弟子』衆に、『その美貌で心が揺れないよう』、『四念処を説いたとある』。「㮈女祇域因縁経」では、『彼女はヴェーサーリーのバラモンの㮈樹の肉瘤(にくこぶ)から生まれたとし、美人なるをもって』十五『歳の時に』七『人の王が求婚したが』、『すべて断った』といい、須漫と波曇と称した二人の娘も『彼女と同じように』、『各々』、『樹華より生まれたという。彼女と二女は共に』五百『人の女性を率いていたが、釈尊の説法を聞いて出家し』、『悟りを得たという』とある。さて、この「胞胎」とは、母胎内で胎児を包んでいる胞衣 (えな) を指し、胎生のことで、 胎生は「輪廻の迷い」を繰り返すことであることに注意。だから、そこからではなく、香良き清浄なる花から彼女たちは生まれたのである。

「厠中に唾吐けば神怒る」これは私もよく聴いた風俗であるが、この場合は、理由がよく判らない。或いは、唾は便ではなく、しかも眉唾などで知られる(一般には狐狸などが人を化かすに際しては、その人物の眉の本数を数えて知ることが必須条件とするというが、私はどうもあまりそれを信じていない)が、唾にはある種の生臭さがあり、それを妖魔が嫌うのではないかと私は考えており、厠神が元は鬼神であったという熊楠の挙げる例を考えるとなら、陰気である汚物である大便でも小便でもない、しかも腥い人間の体液(汚物ではない陽の生気に属するもの)だから、嫌悪し、怒るのではないかと考えたことを言い添えておく。

「厠神盲にして人に見らるゝを忌めば」物の怪・鬼神は先に見られる(見切られる)ことで、相手に負けるというのは民俗社会のお約束ごとである。ただ、ここで「厠に入る者必ず燈を携え[やぶちゃん注:ママ。]咳して後入るべし」というのは、目が見えなくても、光は感ずるのかとも思う。

「籌草(ちうさう)」不詳。当初は物理的に尻の後始末をする竹箆(たけべら)や拭き取る草かと思ったが、それは当たり前のことで書くべきことではないから違う。「籌」は占いに用いる竹製の算木を指すことが多いから、何らかの呪具のようにも思われる。

「彈指(だんし)」爪弾(つまはじ)きをすること。呪的には音を出して邪気を払う仕草として知られるが、ここは本来のそれが善神たる厠神となるとともに変容し、相手に「姿をお現わしになられませぬように」と事前の注意を促すという意に変化しているのかも知れない。

「非人」厠神以外の鬼神・神仏、果ては、物の怪。

「臢汙(さんを)」穢すこと。

「慳嫉(けんしつ)」自分の利益のためだけの物惜しみと嫉妬心。

「㖉托餓鬼」サイト「三蔵法師の館」の「餓鬼道」に、「食唾(じきた)餓鬼」を載せ、まさにこの原文を訳した通りに、『男、若し』く『は』、『女が』、『慳嫉で心を覆い、不浄の食を以て諸の出家の沙門・道士を誑かして、「この食は清浄であります。信用してください。」と言い、これを食べさせる。或いはまた浄行人に非所(食べる場所ではない)で施して食わせる。此の業』(ごう)『を数々造り、また他人にも教えて誑惑を行う。布施を行わず、禁戒を持たず、善友に近づかず、正法に順ぜず、不浄を楽しみ、さらに人にも教える。このような悪人は身壊れて命終し、悪道の中に生まれ、食唾餓鬼の身を受ける。常に其の身を焼かれる。不浄の処に於いて、壁、若しは地で、人の唾を求めて食べて自活する。余の一切の食は悉く食べることができない。悪業が尽きず壊れず朽ちないため、脱することができない。業が尽きてようやく脱することができる。此より命終して業に随って生死を流転して苦を受ける』とある。ウィキの「餓鬼」では、『食唾(じきた)、僧侶や出家者に、不浄な食物を清浄だと偽って施した者がなる。人が吐いた唾しか食べられない』とする。

「衆落」人々の集団。「聚落」「集落」に同じ。

「嚴飾」立派に飾ること。相応の上流階級の者たちをも信用させて布施を得るためである。

「諸城邑(しよじやういう)」それぞれの地方の城壁に囲まれた首都及びその周辺を領する諸侯・大夫の領地・封土。

「廣く須(もと)めらるるを求め」あらゆる求め得ることの出来るものはその総てを貪欲に求め。

「阿毘遮羅(「疾く行く」。)餓鬼(あびらがき)」サイト「三蔵法師の館」の「餓鬼道二」の「疾行餓鬼」に、同じくここを訳した如く、『此の衆生は貪嫉で心を覆い、若し沙門と為れば破戒するが、されども法服を着て集落に遊び、諂誑して財を求めて「病者には病に随って供給すべし。」と言いながら結局自分は施しを与えず、自ら之を食べる。乞求の為に衣服を飾り、諸の城邑を巡り、広く施を求め、病者には施さない。この因縁を以て身壊れて命終し、悪道に堕ち、疾行鬼の身を受ける』。『不浄の処に於いて不浄を食し、常に飢渇に患わされ、其の身を焼かれる。若しは』、ある『衆生が不浄を行うなら、この餓鬼はすぐにこの者を多く悩ます。其の身を自ら現して怖畏を与える。人の便りを求め、或いは悪夢を示し、恐怖を与える。塚の間を遊行し、死屍に楽近し、其の身は燃え盛って火炎が起こり、若し世間に疫病が流行して死亡者が出るならすぐに心が喜悦する。若しは悪呪が有って召喚されるなら直ぐにやって来て、衆生によく不利益になること』なす。『其の動作は迅疾で、一念でよく百千由旬を至る。この故に「疾行餓鬼」と名』づ『けられる。凡世の愚人の供養する所。咸いは皆之を「大力神通夜叉である」と号す。このように人に種種の災禍をもたらす。悪業は尽きず壊れず朽ちないため、脱することができない。業が尽きてようやく脱することができる。此より命終して業に随って生死を流転して 、苦を受ける。若し人に生まれるなら呪師の家に生まれて諸の鬼神に属し 、鬼神の廟を守る。余』、『業』(ごう)『を以ての故』に、こ『のような報いを受ける』とある。ウィキの「餓鬼」では、『疾行(しっこう)、僧の身で遊興に浸り、病者に与えるべき飲食物を自分で喰ってしまった者がなる。墓地を荒らし』、『屍を食べる。疫病などで大量の死者が出た場所に、一瞬で駆けつける』とある。

「呪師」この場合は狭義の魔神・淫祠邪教を崇める邪悪極まりない呪われた呪術師の限定。

「劉宋譯彌沙塞五分律」(みしやそくごぶりつ(みしゃそくごぶりつ))は南北朝時代の劉宋(四二〇年~四七九年)の建国直後に仏陀什(ぶっだじゅう)・竺道生(じくどうしょう)らによって訳された(四二二年から四二三年)「彌沙塞部和醯五分律」(みしゃそくぶわけいごぶりつ)。仏教教団(サンガ)を正しく維持運営してゆくために必要な教団規則と運営法を記した一つ。

「大德」個人的には上田秋成の「雨月物語 卷之五」の名作「靑頭巾(あをづきん)」(リンク先は私の古い電子化。私の高校教師時代の授業ノート及びオリジナルの現代語訳もある)以来、私は「だいとこ」としか読まない。

「羅刹鬼」羅刹天(らせつてん)は仏教の天部の一つである十二天に属する西南の護法善神。単に「羅刹」とも呼ぶ。当該ウィキによれば、『羅刹とは鬼神の総称であり、羅刹鬼(らせつき)・速疾鬼(そくしつき)・可畏(かい)とも訳される。また羅刹天は別名涅哩底王』(ねいりちおう/にりちおう)。『破壊と滅亡を司る神。また、地獄の獄卒(地獄卒)のことを指す時もある。四天王の一である多聞天(毘沙門天)に夜叉と共に仕える』。『ヒンドゥー教に登場する鬼神ラークシャサが仏教に取り入れられたもので』、『その起源は』『アーリア人のインド侵入以前からの木石水界の精霊と思われ、ヴェーダ神話では財宝の神クヴェーラ(毘沙門天)をその王として、南方の島、ランカー島(現在のスリランカ)を根城としていた』。「ラーマーヤナ」では、『クヴェーラの異母弟ラーヴァナが島の覇権を握り、ラークシャサを率いて神々に戦いを挑み、コーサラ国の王子ラーマに退治される伝説が語られている。概ね』、『バラモン・ヒンズー教では』、『人を惑わし』、『食らう魔物として描かれることが多い』が、『仏教普及後は、夜叉と同様に毘沙門天の眷属として仏法守護の役目を担わされるようにな』り、『十二天では「羅刹天」として西南を守護し、手にした剣で煩悩を断つといわれる。図像は鎧を身につけ左手を剣印の印契を結び、右手に刀を持つ姿で描かれる。全身黒色で、髪の毛だけが赤い鬼とされる』。『中国以東では羅刹の魔物としての性格が強調され、地獄の獄卒と同一視されて恐れられることが多かった』。十『世紀の延暦寺の僧』で、本邦の浄土教の祖である源信の「往生要集」は、『その凄惨な地獄描写で有名だが、そこでも羅刹は亡者を責める地獄の怪物として描かれている』。一般に『羅刹の男は醜く、羅刹の女は美しいとされ、男を羅刹娑・羅刹婆(ラークシャサ、ラークシャス、ラクシャーサ、ラクシャス、ラクシャサ、ラクササ)、女を羅刹斯・羅刹私(ラークシャシー)・羅刹女(らせつにょ)という。また』、『羅刹女といえば』、「法華経」の「陀羅尼品」に『説かれる十羅刹女が知られるが、これとは別の十大羅刹女や八大羅刹女、十二大羅刹女として、それぞれ名称が挙げられており、さらに』「孔雀経」では』七十二もの『羅刹女の名前が列記されている』とある。

「葉華(えふくわ)」竺法護(じくほうご 二三一年~三〇八年?:西晋の僧。遊牧民であった月氏(げっし)の出身。西域諸国を巡遊して経典を収集し、般若思想の仏典を中心に漢訳した。月氏菩薩・敦煌菩薩とも称された)の訳になる「彌勒下生經」(みろくげしょうきょう)にも「是時翅頭城中、有羅刹鬼、名曰葉華、所行順法、不違正敎、每向人民寝寐之後、除去穢惡不浄者、常以香汁而灑其地極爲香淨」(是の時、翅頭城の中に羅刹鬼有り。名を葉華と曰ふ。所行、法に順ひ、正教違はず、每(つね)に人民に向きて、寝寐の後、穢惡不淨の者を除け去り、常に香汁を以つて其地に灑ぎ、極めて香淨と爲す)とほぼ同じようにあり、この方が熊楠が引く「增壹阿含經」より古い漢訳と思われる。

「祝穆の事類全書續集」、南宋の学者祝穆(しゅくぼく 生没年不詳:彼の曾祖父祝確は朱熹の母方の祖父で、祝穆自身も朱熹に学んだ)類書で正しくは正篇は「古今事文類聚」で「續集」の他に「後集」「外集」もある。「中國哲學書電子化計劃」で影印本で当該部の「戒厠上相尋」(厠の上に相ひ尋ぬることを戒む)が読める。

「郭璞(かくはく)」空想地誌で魯迅も耽読した「山海經(せんがいきょう)」の最古の注釈で知られる西晋・東晋の文学者にして卜占家として有名であった郭璞(二七六年~三二四年)。河東郡聞喜県(現在の山西省運城市聞喜県)の人。文才と卜占術により、建国間もなかった東晋王朝の権力者たちに重用され、史書や「捜神記」などの志怪小説においては、超人的な予言者や妖術師として様々な逸話が残されている。卜占・五行・天文暦法に通じたのみならず、古典にも造詣が深く、「山海経」の他にも「爾雅」などに注したことで知られる。文学作品では「遊仙詩」・「江賦」などが代表作として残る。参照した当該ウィキによれば、低い家柄に生まれ、『訥弁であったが、博学で文章に巧みであった。また郭公なる人物から』「青囊中書」という『書物を授かり、これによって五行・天文・卜筮のあらゆる術に通じ、いにしえの』漢の「易経」の専門家『京房』(けいぼう)や三国時代の占い師として有名な管輅(かんろ)をも『凌ぐほどであったという』。後続同士の内乱である「八王の乱」によって『中原が戦乱に見舞われると、郭璞は筮竹で将来を占い、この地が遠からず異民族に蹂躙されることを予見した。そこで親類・友人たち数十家とともに江南に避難した。史書によると、江南までの道中、様々な術や予言を行い、それによって難を逃れたという』。『江南に来た郭璞は、その後、司馬睿』(えい)『(後の東晋の元帝)の腹心王導に招かれ、彼の参軍となり、その卜筮の術によって大いに重用された。司馬睿が皇帝に即位する前後、その将来を占い、銅鐸の出土や泉の出現などの東晋中興の正統性を裏付ける瑞祥を予見し、司馬睿の寵愛も受けるに至った』。『東晋が建国されると、郭璞は「江賦」「南郊賦」を献上し、それらは世間で大いに評判になった。元帝にも賞賛され、著作左郎に任じられ、ついで尚書郎に移った。皇太子司馬紹(後の明帝)からは、その才能と学識を尊敬され、当時の有力者であった』政治家温嶠(おんきょう)や庾亮(ゆりょう)『らと同等の待遇を受けた』。しかし、三二四年、司馬睿から大将軍の地位を賜った『王敦』(おうとん)が『反乱を企て、郭璞に』、『その成否を占わせたところ』が、『「成る無し」の結果がでた。占いを命じた王敦は、『かねてから郭璞が温嶠・庾亮らと親しく、彼らに自らの討伐をそそのかしていると疑っていたので』、その『結果に激怒し』、『郭璞を処刑した。享年』四十九。「王敦の乱」が『平定されると、弘農郡太守を追贈され、子の郭驁』(かくごう)『が父の後を継いで、官位は臨賀郡太守に至った』。

「桓彜(くわんい)」(二七六年~三二八年)は西晋末から東晋初期の官僚・政治家。譙国竜亢県(現在の安徽省蚌埠市懐遠県)の人。東晋の朝廷の運営や地方の統治で活躍したが、「蘇峻の乱で討死した。当該ウィキによれば、貧しい家柄の出であったが、『朗らかで早くから盛名を得』、『道徳的秩序や物事の本質を見極めることに長け、幼少の頃から』、『才は抜きん出ていた』という。『西晋に仕え、兗州』(えんしゅう)『の主簿』から、三〇一年三月には『斉王司馬冏』(けい)『の挙兵に赴き、騎都尉に任じられた』。その後、当時、安東将軍であった『司馬睿から逡遒』(しゅんしゅう)『県令に任じられ』、三一一年十二月には『江南に渡り』、既に『丞相』となっていた『司馬睿に仕えた』。その後、『丞相中兵属・中書郎・尚書吏部郎を歴任、朝廷内で名声を高め』、『河北から温嶠がやってくると、王導・周顗』(しゅうぎ)・『謝鯤・庾亮らとともに親交を結んだ』。『大将軍王敦が権力を握ると、桓彝は病と称して職を辞したが。後の『皇帝司馬紹から散騎常侍に任じられ、王敦討伐の密謀に参画した。王敦の乱平定後、万年県男に封じられた』。『丹陽尹温嶠の推薦を受け、司馬紹自ら詔勅を発して宣城内史に任じられた。桓彝は宣城を治める任に堪えられないと上疏した』ものの、『しばらくして、宣城内史就任を承諾した。郡内に善政を敷き、百姓らに親しまれた』。三二七年十二月、『冠軍将軍蘇峻が朝廷に対し、反乱を起こした。桓彝は兵を率いて建康に赴こうとした。長史裨恵』(ひけい)『は、宣城郡の兵は』少ない上に脆弱な上、『民は動揺しやす』かった『ため、備えを解いて』、『反乱が終わるのを待つことを勧めた』が、『桓彝は』色を変え、「『君主に無礼をする者には、たとえ、相手が強い鷹鸇(ようせん:「鸇」はハイタカ又はハヤブサ)で、自分が弱い鳥雀(うじゃく)であったとしても、これを追い払うべきものである』と言いうではないか。今、社稷に危機が迫っているのに、義を無くして、くつろぎ楽しんでおれようか」と怒り、『将軍朱綽』(しゅしゃく)『を遣わし、蕪湖で蘇峻軍を破った。桓彝は蕪湖に進んで屯した。蘇峻軍の将韓晃は桓彝を破り、宣城に進攻した。桓彝は広徳に退いた。韓晃は周囲の諸県を掠奪して帰還した』。三二八年五月、『桓彝は建康が陥落したと聞き、涙を流して歎き悲しみ、涇県に進んで屯した。この頃、州郡の多くが蘇峻に降伏していた。裨恵は蘇峻に使いを送り、友好を結んで災いを避けるように説いた。桓彝は「私は国から厚恩を受けており、義のために死ぬつもりだ。恥を忍んで、逆臣と通ずる』ことなど思いもよらぬ。『たとえ揃わずとも、私の考えに変わりはない」と断った。桓彝は将軍兪縦に蘭石を守らせた。蘇峻は韓晃に攻撃させた。兪縦は敗れ』、激戦の『末』、『討ち取られた』。『韓晃は宣城を攻めた。援軍はなく、韓晃軍は「桓彝が降伏すれば、礼をもって優遇する」と降伏を呼びかけた。将兵の多くは、偽りの降伏をして後々の機会を待つように勧めた。桓彝は従わず、抗戦の意志を変えなかった』。六月、『宣城は陥落、桓彝は韓晃に討ち取られた。享年』五十三。『蘇峻の乱平定後、廷尉を追贈され、簡と諡され』、『咸安年間に太常に改贈された』とある。『幼少から庾亮とは親交があり、雅で上品であったため』、『周顗に重用された。周顗は』、「彼の人品高潔なさまと言ったら、「思わず笑う人がいるに違いない」とまで嘆いたという。『江南に渡った際、桓彝は司馬睿の朝廷が微弱であるのを見て、軍諮祭酒周顗に「私は中原の混乱を避け、安全を求めて来たというのに、こんなに弱々しくては、どうして事を成すことができようか!」と憂いと懼れのため』、『楽しめずにいた。軍諮祭酒王導のもとを訪れ、ともに世事のことについて語り合った。その後、周顗に「管夷吾(管仲)を見た。もう憂うことなどないぞ」と喜んだ』という。(以下は本エピソードの訳)『占術者の郭璞と親交を結んでいた。桓彝はいつも郭璞の妻がいる間にやってきた。郭璞は妻に「卿が他所から来られたら、小道の前で迎えるように。ただし、廁に入っているときは様子を探らなければだめだ。必ず客や私に災いが有るだろう」と告げた。桓彝が酔って郭璞の家にやってきて、廁で郭璞と会ってしまった。郭璞は裸になって髪を振り乱し、刀を咥えて祭壇を設けた。郭璞は桓彝を見て、心をなだめつつ』、『大いに驚き』、『「あなたと私は友ではあるが、今、来てはいけなかった。もう少し遅ければ、このようにはならなかった!』 『災いは私だけでなく、あなたも免れないだろう。これは天が成したことで、誰に罪があろうか」と言った。郭璞は王敦の乱で、桓彝は蘇峻の乱でいずれも殺害された』とある。さても、これは注に「晋書」の巻七十二の「郭璞」からとするのだが、例えば、中文サイトのこちらで、そちらの部分を読めるのだが、その禁忌の戒め部分は婦人に郭璞は妻に言ったように書き分けられてはいないし、私自身「戒」とする以上、これは郭璞が桓彝に禁忌として言ったとしか読まなかったし、読めないのである。ともかくもこのシークエンスは――郭璞が――誰にも見られないようにして――厠の中で厠の神を祀る秘密の儀式を行っていた――この秘儀が人に見られた場合には――祭祀をしている自分だけでなく――それを見てしまった人間にも災いが齎される――と言っているということである(そもそもが、この戒を妻に言った場合には、覗き見するのは、妻の可能性が志怪小説なら非常に高くなる気がするから、そうした意味からも、先の訳は、ちょっと変であると私は思う)。最後に言っておくと、桓彝が戦死するのは郭璞が殺された四年後のことであった。郭璞の予言は見かけ上は当たっていたようには見えないこともない。

「甲陽軍鑑」江戸初期に集成された軍学書。全二十巻。甲斐の武田晴信・勝頼二代の事績によって、甲州流軍法や武士道を説いたもの。異本が多く、作者は諸説あるが、武田家の老臣高坂弾正昌信の遺記を元に、春日惣二郎・小幡下野(おばたしもつけ)が書き継ぎ、小幡景憲が集大成したと見られている。現存する最古の板本は明暦二(一六五六)年のもの。

「阿群」一応、「あぐん」と読んでおくが、どのような由来を持つ僧侶かは全く不詳。

「眼睛耀射にして當たり難きを以て」その目の瞳の輝き照射する眼光が眩しく鋭いために、直接に対面して向き合うことが出来にくいことから。

「書紀二に猿田彥大神眼力强く、八十萬神皆目勝ちて、相問ふを得ずと有る」「南方熊楠 小兒と魔除 (4)」の私の注で「日本書紀」の当該箇所の原文及び訓読を電子化してある。

「無能勝三藏」「能く勝れるもの無き三藏法師」の意で、玄奘(げんじょう 六〇二年~六六四年)の尊称の一つ。

「螺髻梵王」以下は梵天の伝承の一つか。

「呪仙」ありとある呪術呪文・仙術法を駆使して。

「城塹」城壁と塹壕。

「如來」この場合は涅槃を経て成った「釋迦如來」のことのようである。

「不壞金剛」本来は「極めて堅固で決して壊れないこと・志を堅く守って変えないこと」で仏の身体について言った語とされる。「金剛」は金石(きんせき)の中で最も硬いダイヤモンド、或いは金又は鉄鋼石であるが、ここは釈迦如来の体内から遣わした金剛力士として仏身の変化の一部とされてある。

「酉陽雜俎十四、厠鬼の名は……」巻十四「諾皋記上」の『「太真科經」說』で始まる一節に、

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厠鬼名頊天竺【一曰笙。】。(厠の鬼は「頊天竺(ぎよくてんぢく)」と名づく【一つに「笙」と曰ふ。】。

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とある。私が面白く思ったのは、それに続けて、

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語忘、敬遺、二鬼名、婦人臨產呼之、不害人。長三寸三分、上下烏衣。(「語忘と「敬遺」とは、二鬼の名なり。婦人の產に臨むに、之れを呼ばば、人を害せず。長(た)け三寸三分、上下(かみしも)は烏衣(うい[やぶちゃん注:黒い着物。])たり。)

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ことである。熊楠も言っているように排泄と出産及び厠は親和性が強いのである。

「淵鑑類凾」(底本では「凾」と「函」が混用されている。統一する必要はないのでそのまま電子化してある)は清の康熙帝の勅により張英・王士禎らが完成した類書(百科事典)。一七一〇年成立。巻三百五十の「厠一」の一節に(「中國哲學書電子化計劃」の影印本のこの最後から視認し、一部の漢字は正字化した)、

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紀聞曰宣城太守刁緬初爲玉門軍使有厠神形見狀如大猪遍體皆有眼出入溷中游行院内緬時不在官吏兵卒見者千餘人如是數日緬歸祭以祈福厠神乃滅旬日遷伊州刺史歷官至翰林左將軍 語林曰石崇厠常有十餘婢列皆佳麗藻飾置甲煎沈香無不畢具又與新衣客多不能著王敦爲將軍年少往脫故衣著新衣氣色傲然羣婢謂曰此客必能作賊 世說曰王大將軍敦初尙主如厠見漆箱中盛乾棗本以塞鼻王謂厠上下果食遂至盡既還婢擎金澡盤盛水琉璃碗盛澡豆敦自倒著水中而飮之謂之乾飯羣婢掩口而笑之葆光錄曰台州有民姓王常祭厠神一日至其所見著黃女子云某台州人也君聞螻蟻言否民曰不聞遂懷中取小合子以指㸃少膏如口脂塗民右耳下戒之曰或見蟻子側耳聆之必有所得民明旦見柱礎下羣蟻紛紜聽之果聞相語移穴去暖處傍有問之何故云其下有寶甚寒住不安民伺蟻出訖尋之獲白金十錠

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これは後学の方のために写し置いただけで、よく意味が判らぬのだが、ここに出る王敦って、さっき出た郭璞を殺した彼か? 何か、因縁っぽい!

「支那にも朝鮮琉球等と齋しく、厠に家猪を畜て糞を食しむる風有りし」これはかなり知られた話である。家屋の厠の下が豚舎になっていて、人糞を豚が餌にしていたのである。実は便所を意味する「溷」或いは「圂」とはもともとは「豚小屋」の意である。「豕」+「囗」の会意で、「説文」に「囗に從ひ、豕の囗中に在るに象る」とあり、「囲いに豚がいる」という字で、「囲いに豚を飼い、また、その傍らで用を足しては人糞を豚の餌とする」ことを見する。「溷」は排泄で「水が濁る」の意と、「豢」が「家畜」という意に通ずる。畑の肥料ばかりではなかったのだ! 驚く勿れ! 嘗ては、瀬戸内海の食用マガキの養殖場では、中型船で人糞を肥料として大々的に撒いていたのだ。我々の幼少の頃の生牡蠣は俺たちの糞で育ったのだ!

「賈姬」前漢の第六代皇帝景帝が寵愛した邯鄲の出の賈姫(趙敬粛王劉彭祖と中山靖王劉勝の生母)。ウィキの「郅都」(しつと:景帝時代の酷吏として知られる)によれば、景帝が彼女を伴って、上林苑へ狩りに出かけ、郅都も同伴した。時に、賈姫が厠で用を足した折りに、突然、野生の猪が彼女がいる厠に猛進した。景帝はこれを見て、郅都に目配せしたが、郅都は助けに行こうとしなかったので、景帝は自ら武器を取って、助けに行こうとした。すると郅都は景帝の前に平伏して言った。「側室が失われようとも、陛下には数多の側室が御座います。しかし、陛下はたったお一人であります。陛下の身に何かあった時には、漢の宗廟や御生母の竇(とう)太后はどうなされますか?」と直言した。景帝は行くのを止め、やがて猪は厠から出て来て、森林に立ち去ったという。幸い賈姫は無事だった。景帝の生母の竇太后はこれを聞いて彼に金百斤を与え、また、これ以来、郅都は天子や竇太后の信頼が絶大となり、重用された、とある。

「呂后が戚天人を傷害して厠中に置き人彘と名けし事」「呂后」呂雉(りょち 紀元前二四一年~紀元前一八〇年)。恵帝の母。中国で「三大悪女」として唐の武則天(則天武后)・清の西太后とともに名が挙げられる。高祖の没後、彼女の子である恵帝が即位して間もなく、呂后は、恵帝の有力なライバルであった高祖の庶子斉王劉肥や趙王劉如意の殺害を企てた。斉王の暗殺は恵帝によって失敗したものの、趙王を謀殺、その生母戚夫人を奴隷に落として両手両足を切断した上、両目を刳り抜いた上に、薬を用いて耳と声帯を潰し、その後、便所に置いて「人彘」(人豚(ひとぶた))と呼ばせ、そのさまを笑い転げながら見ていたと史書にはある(ウィキの「呂雉」に拠った)。

「郭登」中国伝来で本邦でも厠神の一名として知られた。ウィキの「加牟波理入道」(かんばりにゅうどう)によれば、『鳥山石燕の妖怪画集』「今昔画図続百鬼」に載る『日本の妖怪、および日本各地の厠(便所)の俗信に見られる妖怪。同画集では、『厠に現れる妖怪として口から鳥を吐く入道姿で描かれ、解説文には以下のようにあり、大晦日に「がんばり入道郭公(がんばりにゅうどうほととぎす)」と唱えると、この妖怪が現れないと述べられて』ある。所持する同画集(一九九二年国書刊行会刊「鳥山石燕  画図百鬼夜行」の原画図)により電子化した。仮名遣いは総てママである。

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  加牟波理入道(かんばりにうどう)

大晦日の夜厠(かはや)にゆきてがんばり入道郭公(ほとゝきす)と唱(とな)ふれば妖怪(よふかひ)を見ざるよし世俗(せぞく)のしる所也もろこしにては厠神(かはやかみ)の名を郭登(くはくとう)といへりこれ遊天飛騎大殺(ゆうてんひきだいさつ)將軍とて人に禍福(くはふく)をあたふと云郭登(くはくとう)郭公(かつこう)同日(どうじつ)の談(だん)なるべし

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同書解説に、この郭登は実在する明の武将とする。郭登(一四〇三年~一四七二年)である。実在した郭登については九州大学中国文学会二〇一七年十二月発行の『中国文学論集』所収の井口千雪氏の論文『明朝勲戚武定侯郭氏と文学 「諸葛の如き」定襄伯郭登PDF)が詳細を極めるが、彼が何故、厠神とされるかの記載は、残念ながらなく、不明である。ウィキの引用を続ける。『兵庫県姫路地方では、大晦日に厠で「頑張り入道時鳥(がんばりにゅうどうほととぎす)」と』三『回唱えると、人間の生首が落ちてくるといい、これを褄に包んで部屋に持ち帰って灯りにかざして見ると、黄金になっていたという話もある』。松浦静山の「甲子夜話」にも『これと似た話で、丑三つ時に厠に入り、「雁婆梨入道(がんばりにゅうどう)」と名を呼んで下を覗くと、入道の頭が現れるので、その頭をとって左の袖に入れてから取り出すと、その頭は』、『たちまち』、『小判に変わると記述されている』(私は「甲子夜話」の電子化注を行っているが(全部所持してはいる)、調べたところ「甲子夜話第三篇」にあるという情報は得たものの、探し得ていない。見つけたら、電子化し、ここにリンクを張る)。『一方で、この呪文が禍をもたらすこともあるといい、江戸時代の辞書』「諺苑」では、『大晦日に「がんばり入道ほととぎす」の言葉を思い出すのは不吉とされる』とあるという。『加牟波理入道とホトトギスの関連については、文政時代の風俗百科事典』「喜遊笑覧」に、『厠でホトトギスの鳴き声を聞くと不祥事が起きるとの俗信が由来で、子供が大晦日に厠で「がつはり入道ほととぎす」とまじないを唱えるとの記述があり(「がつはり」は「がんばり」の訛り)』、『中国の六朝時代の書』「荊楚歳時記」にも』同様に、『厠でホトトギスの鳴き声を聞くのは不吉と述べられている』。『また、ホトトギスの漢字表記のひとつ・郭公(かっこう)が中国の便所の神・郭登(かくとう)に通じるとの指摘もある』。『岡山県の一部では、加牟波理入道の俗信が見越し入道と混同されており、厠で見越し入道が人を脅かすといい、大晦日の夜に厠で「見越し入道、ホトトギス」と唱えると見越し入道が現れるなどといわれている』。『中国の巨人状の妖怪「山都」が日本に伝わり、厠神(便所の神)と混同された結果、この妖怪の伝承が発祥したとの説もある』(「山都」については、私の古い電子化注寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」にある「みこし入道 山都」を参照されたい)。『十返舎一九による読本』「列国怪談聞書帖」には『「がんばり入道」と題した以下の話がある』。『大和国(現・奈良県)で、淫楽に取りつかれた男が、一族の者に性癖を諌められたために剃髪して山中の小屋におり、白目をむいて女たちを見張るので、「眼張(がんばり)入道」とあだ名されていた』。『あるとき』、『入道の留守中に盗賊が小屋に忍び込むと、入道にさらわれた娘が閉じ込められていた。盗賊は娘を哀れんで』、『家から連れ出そうとしたところ、入道が帰って来て』、『娘を帰すまいとしたので、盗賊は入道を殺し、娘を親元に帰した』。『以来、白い着物姿の入道の霊が娘の家に現れるようになった。親が娘を隠すと、入道は娘を捜して村中の家、馬屋、便所を狂い歩き、村人たちを恐れさせた』。『しかしある晩、入道は犬に噛み殺されてしまった。夜が明けると、そこには白い着物をまとったキツネが死んでいた。人々は笑い、キツネが入道を真似た挙句に呆気ない最期を遂げたと言い合ったという』とある。

「陶侃(とうかん)」(二五九年~三三四年)は東晋初期の名将。鄱陽 (江西省) の人。荊州刺史として先に出た司馬睿の命を受けて流民集団杜弢 (ととう)の討伐に当たった。一旦、広州刺史に左遷されたが、後に再び荊州刺史となって。「蘇峻の乱」の平定に功があった。東晋最大の州鎮の統帥として大きな勢力を持ち、長沙郡公となり、在任のまま没した。彼をどうしても注したかったのは、彼の曾孫が、かの名詩人陶淵明であるからである。

「介幘(かいさく)」髻(もとどり)を覆い隠して髪を包むのに附けた頭巾。

「庾翼(ゆよく)」(三〇五年~三四五年)は東晋前期の政治家・武将・書家。潁川郡鄢陵県(現在の河南省許昌市鄢陵県)の出身。当該ウィキによれば、『風儀に優れ、幼くして経綸大略に通ずると評され』、『後に南蛮校尉・南郡太守・輔国将軍と叙任し』、三四〇年、『都督江荊司雍梁益六州諸軍事・安西将軍・』荊州刺史となり、『武昌に鎮した。庾翼は領地の地方都にまで軍令を行き届かせ、数年の内に官府の庫や人民たちの財までも充実させるなど』、『良政を敷いた』ことから、『黄河以南の地の人民から支持を得たという』。三四三年、『後趙の汝南郡太守である戴開が数千人を伴って投降してきた事を機に、庾翼も北伐の大志を抱くようになり、前燕の慕容皝と前涼の張駿に使者を送って期が来れば同調して起兵するよう求めた。またこれに伴って領内での賦役を強化するようになり、広州の海道の人を百姓として徒民させた』。『康帝(司馬岳)に庾翼は北伐を上表し、加えて鎮を対後趙の最前線である襄陽へと移すことへの許可を求め、承認も得ぬうちから六州から牛や驢馬を徴発し始めていたが』、『朝廷に却下され、続いて安陸への移鎮を求めるも』、『これも却下された。これらの行動を車騎参軍の孫綽に諌められるも』、『聞く耳』を『持たず、夏口へと勝手に軍団を移動させて再度襄陽への移鎮を上表すると、実兄の庾冰や桓温、譙王司馬無忌らの賛成によって襄陽への移鎮が承認され、都督征討諸軍事(後に征西将軍・南蛮校尉も追加)となり、庾翼の代わりに庾冰が武昌へと移り、後任に入った』。三四四年、『庾翼は桓宣に後趙に占拠されていた樊城の攻略を命じたが、桓宣は丹水の戦いで後趙の李羆の前に大敗を喫し、これに激怒した庾翼は桓宣を建威将軍に降格した上で峴山へと左遷した。同年中に成漢討伐に周撫と曹璩を向かわせたが、江陽で李桓に敗れた。また』、十一月に『庾冰が亡くなると』、『長子の庾方之に襄陽の守備を任せて夏口へと移り、庾冰の領兵を自らの指揮下に置き、朝廷からは江州・豫州刺史に任じられたが』、『豫州刺史は辞退し、替わりに楽郷への移鎮の許可を要求したが朝廷に拒否された』。三四五年、『背中の疽からにわかに発病して七月』『に亡くなった。享年』四十一であった。『朝廷より車騎将軍を追贈され、諡号は粛とされた。亡くなった際の官途は持節・都督江荊司梁雍益寧七州諸軍事・江州刺史・征西将軍・都亭侯。死に際して庾翼自身は次子である庾爰之を後継に望んだが、宰相何充は荊州の戦略的重要性から能力のある人間が当たるべき職務であるとして桓温を後任に据え、庾翼の持っていた強大な軍権をほぼそのまま桓温に引き継がせた』とある。悪性の腫瘍で亡くなったというのは、厠神を撃ったそれと親和性は感じられる。『東晋国内では書家としても著名であり「故史従事帖」などの作がある。草隷に優れ、当時においては王羲之と並ぶほどの人気があったという』。『桓温については若年』の時から『目を掛けており、明帝(司馬紹)に桓温を推挙する際に「若くして武略を知るので特別な職を与えるべき」「いずれ国の艱難を救う」と評した』という。

「方相(はうさう)」方相氏。本来は中国周代の官名。宮中にあって年末の大切な追儺 (ついな)の節会に於いて、悪鬼を追い払う役を担当した。黄金の四つ目の仮面を被り、黒い衣に朱の裳 を着し、矛と盾を持って、内裏の四方の門を回っては鬼を追い出した。グーグル画像検索「方相氏」をリンクさせておく。

「歲時記」六朝時代(二二二年~五八九年)の荊楚(現在の湖北・湖南省)地方の年中行事や風俗を記録した梁の宗懍(そうりん)の撰になる「荊楚歳時記」か。六世紀半ば頃の成立。

「異錄傳」不詳。前蜀(九〇七年~九二五年)の杜光庭撰の志怪小説集「錄異記」か。但し、以下の話は東晋の政治家・文人干宝(?~三三六年)の知られた志怪小説集「搜神記」に後半を除くと、概ね同型話で載るものである。

「廬陵」江西省。

「歐明(わうめい)」不詳。

「彭澤湖(はうたくこ)」現在の江西省にある鄱陽(はよう)湖。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「禪衣(ぜんえ)」僧衣でよい。

「靑湖君」「搜神記」では「靑洪君」。

「如願(じよぐわん)」語としては「願い事が叶う」の意。

「婢」侍女。

「後の正旦(ぐわんたん)、如願、晚(おそ)く起くるに、明、醉ひて之れを撻(う)つ。糞壤[やぶちゃん注:堆肥置き場。]の中(うち)に走り入りて見えず。今人(きんじん)、正旦に繩を以つて偶人(ぐうじん[やぶちゃん注:傀儡(くぐつ)。人形。])に繋び、糞壤の中に投じ、『願ひのごとくならしめよ』と云ふは、此れを以つてなり」この部分は「搜神記」にはなく、「神婢」の「如願」が「厠神」らしきものになった由来譚として形成されてある。しかし、何故に元旦に如願が寝坊したのかが、明らかでなく、後の風俗として、何故、繩で傀儡を縛り、肥溜めの中に投じ、「願いの通りにならしめよ」と呪文するようになったのかといった、核心部分が、孰れも上手く繋がらず、そこにこそ超自然の因果を感じさせはするものの、私にはやはり、竹で鼻を括ったような納得出来ない不快感が感じられる。酔ってやってはならないことを成してしまい、幸福が永遠に去るというのは、神話に於ける禁忌システムの発動ではあるのだが。

「平賀鳩溪實記」「鳩溪」は平賀源内(享保一三(一七二八)年~安永八(一七八〇)年)の号。竹窓櫟齋(ちくそうれきさい)なる不詳の人物による天明八(一七八八)年頃に書かれた源内の実録伝奇風の読物。その「卷一」の「三井八郞右衞門源内へ對面の事」は国立国会図書館デジタルコレクションの画像のこちら(写本。標題は「平賀實記」)から読める。遊女白糸を請け出して三井八郎右衛門(かの三井家総領家である北家の当主が代々名乗った名)に恩を売ったとったことが書かれている。但し、本書は実録性が疑われている。自制的には三井家四代目当主代三井高美(たかよし 正徳五(一七一五)年~天明二(一七八二)年)となろう。熊楠の引用はここの左頁五行目からで、重大な箇所「凡そ富貴人と申すは泉州岸和田に住居致す飯の彌三郞と三井計と存ずる也」ここの右頁の三~四行目に現われるが、ネット上では「泉州岸和田」の「飯の彌三郞」は如何なる人物か具体的には書かれているものが見当たらない。【202133日追記】私の各種のテクスト注に対して、いつも情報を頂戴するT氏より、これは「平賀鳩溪實記」や南方熊楠の表記に問題があり、この当時は(後述する)「食野」(めしの)であったと御指摘を受けた。ウィキの「食野家」(めしのけ)によれば、食野家は、江戸『中期から幕末にかけて和泉国日根郡佐野村(現在の大阪府泉佐野市)を拠点として栄えた豪商の一族。北前船による廻船業や商業を行うほか、大名貸や御用金などの金融業も行い、巨財を築いた。 屋号は「和泉屋」。同じく同地で栄えた唐金家(からかねけ)とともに、江戸時代の全国長者番付「諸国家業じまん」でも上位に記されている』。『食野家の出自は、楠木正成の子孫の大饗(おおあえ)氏。初代正久のときに武士から廻船業に乗り出したとされている』。「食野家系譜」などの『資料によると、食野家の廻船業は西回り航路が開かれて北前船が天下の台所に入港する』十七『世紀後半には』、百『隻近い船を所有して全国市場に進出するなど』、『大いに発展した。大坂から出航するときは木綿、綿実や菜種油などを運び、奥州からの帰りには米やニシンや干鰯(ほしか)などを運ぶなどして、廻船業や大名貸しなどで巨財を築き、大豪商となった。』。『摂津国西成郡春日出新田(現在の大阪市此花区春日出中)を入手し、さらに西道頓堀川付近、幸町や南堀江一帯に家屋倉庫を所有したほか、本拠である佐野村では豪壮な邸宅と海岸沿いの道路の両側に「いろは四十八蔵」と呼ばれた大小数十の倉庫群が建てられるなど、現在の泉佐野駅から浜側一帯が貝塚寺内や岸和田城下を凌ぐ「佐野町場(さのまちば)」として栄える中心的存在となった。岸和田藩では藩札の札元に任命されるなど、唐金家とともに同藩の財政を支える上で重要な役割を果していた』。宝暦一一(一七六一)年には『鴻池家、三井家、加島屋など』の『名だたる富豪と並んで同額の御用金を受け』、文化三 (一八〇六)年には『三井家とともに本家が』三『万石、分家が』一『万石の買米を命じられた。大名貸しでは岸和田藩はもちろん』、『尾張徳川家・紀州徳川家など』、実に『全国の約』三十『藩に』四百『万両ともいわれる多額の資金を用立てた』。しかし、『その後、幕末には廻船業が停滞したことや、廃藩置県で大名への莫大な貸金がほとんど返金されなかったこと、家人の放蕩などにより』、『一気に没落に至り、同家は同地に現存していない。屋敷跡は』弘化元・二(一八四五)年に『佐野村が買収し、現在の泉佐野市立第一小学校となっており、松の木と井戸枠、石碑が残されている。また』、『いろは四十八蔵も海岸筋に』八『棟が現存している』。『末裔にプロサッカー選手の食野亮太郎がいる』。『食野家の当時の発展ぶりを示すエピソードが多数残されている』。例えば、『地元の盆踊り(佐野くどき)では「加賀国の銭屋五兵衛か和泉のメシか」と唄われて』おり、『大名貸しをしていた紀州藩では、参勤交代の往復に紀州公が食野家に立ち寄ったといわれ、ざれ歌で「紀州の殿さんなんで佐野こわい、佐野の食野に借りがある」と唄われた』。また、『食野の当主(佐太郎を世襲)が、にわか雨で雨宿りした紀州公の家来』一千『人を』、『とりあえず』、飯櫃(めしびつ)『に残っていた冷や飯でまかなったことから、「佐太郎」は冷や飯の代名詞とされ、川柳に「佐太郎を三度いただく居候」や「佐太郎は茶金の上に腰を掛け」など唄われた』という。また、『井原西鶴の』「日本永代蔵」には、『唐金家とともにモデルとなったといわれている。(同作品中に』は『食野家の所有する千石船「大通丸」をもじった「神通丸」が登場する』。『上方落語「莨(たばこ)の火」に、気前のいいお大尽「食(めし)の旦那」として実名登場する』とある。また、T氏は、「国文学研究資料館(歴史資料)和泉国日根郡佐野村食野家文書」(大永二(一五二二)年~明治四二(一九〇九)年)の書誌データも紹介して下さった。それを見ると、『佐野村は現泉佐野市の北西端に位置し、北は大阪湾に面する大村で』、『和泉九カ浦の中で最も繁栄し』、『特に食野家と唐金家は廻船業と大名貸で財をなしたことで有名である。食野家の初代多右衛門正久は、大饗二郎左衛門正虎から分かれ、故があって大饗の姓を食と改め、武を捨てて商家となったと伝えられている』。「食野」はこの文書の初期のそれにあっては、「めし」・「食」であって、本文書群の中では元禄から享保(一六八八~一七三四年)頃から「食野」となっている。『食野家の存在を示す最も古い文書は売券』(ばいけん・うりけん:売り渡し証文。沽券)で、天正一五(一五八七)年八月附のもので、売却先を『「めし左太郎」』と記し、元和四(一六一八)年五月28日附のそれでは、『十良大夫』なる人物が『屋敷地を』『「めし二良左衛門尉」に売却していることなどから、天正年間から佐野に住居し、土地集積を行っていたことがわかる。食野家は』十七『世紀後半には全国市場に進出して活躍するが、その活動資金がどのように蓄積されたかについては未詳である。全盛期の主業は廻船業と大名貸で、この富を背景にして』、享保七(一七二二)年に『大坂春日出新田を入手し、さらに西道頓堀付近、幸町、堀江一帯にわたって家屋倉庫を所有している。本拠である佐野においても』、『富を象徴する豪壮な邸宅と海岸に沿う道路の両側に「いろは四十八蔵」を建てた』。『一方で』、『岸和田藩との関係も密接で、藩札の札元に任命されているし、藩財政を支える上で重要な役割を果している。幕末になると食野家は廻船業の停滞と、大名貸の焦げ付きが原因となって急速に衰退する』とある。則ち、同家は姓として、戦国末期には「めし」を、元禄頃からは「食野」を使ったことが判る。T氏は他にも、泉佐野市立中央図書館の「いずみさのなんでも百科」の「食野家」と、「新庄デジタルアーカイブ」内の「諸国家業じまん」番付表の画像を紹介して下さった。前者には、『本家は幼名佐太郎、次郎左衛門を襲名。分家は吉左衛門を名乗り』、『食野家は楠木氏の子孫で室町時代中頃にはすでに佐野に住んでいた』らしく、『大饗(おおあえ)氏を名乗ってい』『たが、初代正久のときに』『食を名乗り、武士を捨て』、『廻船業に乗り出し』たとし、『食の姓はいつしか 通りがいい食野に変わっていったようで』、『江戸時代中期の』宝暦一一(一七六一)年には『鴻池、三井、加島屋など名だたる富豪と並んで同額の御用金を受け、後期の』文化三(一八〇六)年には『三井とともに本家が』三『万石、分家が』一『万石の買米』(かいまい:米価引き上げなどの目的から幕府・諸藩が大名や市中の商人に米の買いつけを命じたこと。また、その米。幕府や藩自身が買い取る場合もあった)『を命じられるほどで』、『食野家の当時の発展ぶりは「加賀の銭屋か和泉のメシか」といわれるほどで、佐野くどきにも数々のエピソードが唄いこまれてい』るとある。後者の「諸国家業じまん」番付表では、東の大関(当時は横綱はないので最高位)に「三井八郎右ヱ門」が、西の大関に「飯野佐太郎」と記されてあるのが見られる。いつも乍ら、T氏に心より感謝申し上げるものである。

「倭漢三才圖會八一に白澤圖云、……」同書の「厠」の項を所持する原本から以下に訓読して示す。「【音 】」の実際の漢字が欠字なのは総て同じ。一部の読みや送り仮名は私が推定で附した。字の大小は項目の「廁」以外は無視した。

   *

かはや      圂【音 】 溷【音 】

 せつちん    圊【音 】 偃【音 】

【音差】     和名「加波夜」。

         俗云雪隱

ツアヽ

「說文」に徐氏が云はく、「廁、古へ之れを『清』と謂ふ。言ふこころは、其の不潔、常に當に清く之れを除くべきを以つてなり。

「白澤圖」に云はく、「厠の精を倚(い)と名づく。靑衣を著(き)、白き杖を持つ。其の名を知りて之れを呼べば、除く[やぶちゃん注:姿を隠す。]。其の名を知らずして之れを呼べば、則ち、[やぶちゃん注:声に出して呼んでしまったその人間は。]死す。又、云はく、室を築けば[やぶちゃん注:新築した家の廁には。]、三年、其の中に居らず。人を見るときは、則ち、面(おもて)を掩(おほ)ひ、之れを見れば、福、有り。」と。

「居家必用」に云はく、「厠の神【姓は】、廓、【名は】、登、是れ、『庭天飛騎大殺將軍』なり。觸れ犯(おか)すべからず。能く灾福(さいふく)[やぶちゃん注:「灾」は「災」の異体字。]を賜ふ。」と。

「五雜爼」に云はく、「今、大江[やぶちゃん注:長江。]より北の人家、復た厠を作らず。但し、江南は廁を作りて、皆、以つて、農夫と[やぶちゃん注:人糞を。]交易すればなり。江北には水田無き故、糞、用いる所、無し。其れ、地上に乾くを、然るの後(のち)、土に和して、以って田に漑(そゝ)ぐ。京師(みやこ)には、則ち、溝の中に停(とゞ)めて、春を俟(ま)ちて後(のち)、之れを發(あば)き、日中に暴(さら)す。其の穢氣(をき)、近づくべからず。」と。

   *

『「鄕土硏究」一卷七號なる「南方隨筆」に擧たり』既に注した通り、これは後の「續南方隨筆」(本書(五月刊)と同じ大正一五(一九二六)年十一月に同じ岡書院から出版)の中で単発初出などを総括した「『鄕土硏究』一至三號を讀む」の一節にある「呼名の靈」で、これは『鄕土硏究』三号の一五八頁に載る桜井秀氏の論考「呼名の靈」に対する熊楠お得意の触発された追加論考である。これは半世界的に神話・伝説に典型的に見られる「言上(ことあ)げ」の先に名指したものが勝つタイプの先手必勝型の「名指し」=「見切り」型のそれについての事例である。私は本書の電子化注の後に「續南方隨筆」に取り掛かる予定である(何時になるか判らぬが)。今、読まれたい方は、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のこちらから読め、「万葉文庫」のこちらで一九七一平凡社刊「南方熊楠全集第二巻」の新字新仮名に変えた電子化本文が読める。

「酒井忠一子」「子」は子爵の意。伊勢崎藩九代藩主で子爵酒井忠彰の子(次男以下)。生没年未詳。

「ツイトンガ島」南太平洋に浮かぶ約百七十の島群からなるトンガ王国(グーグル・マップ・データ)。イギリス連邦加盟国の一つ。オセアニアのうちポリネシアに属し、サモアの南、フィジーの東に位置し、首都のヌクアロファは最大の島トンガタプ島にある。サイト「ポリネシアの神話・伝説」の「トンガの島々と人々の起源(トンガ)」によれば、本来、この「ツイ・トンガ」とは『トンガの聖なる人々の系譜』を意味するという。その興味深い創世神話がリンク先に記されているので、是非、読まれたい。

「得脫」生死の境を脱して永遠の神の世界の存在となること。仏教用語の転用。

「Waitz und Gerland, ‘Geschichte der Naturvölker, ’Band 6, s. 329, Leipzig, 1872」ドイツの心理学者・人類学者フランツ・テオドール・ワイツ(Franz Theodor Waitz 一八二一年~一八六四年)と、ドイツの地理学者ゲオルク・コーネリアス・カール・ガーランド(Georg Cornelius Karl Gerland 一八三三年~一九一九年)の共著になる‘Anthropologie der Naturvölker’ (「原始人人類学」。全六巻で実際の著者はワイツ。一八五九~年一八六四年刊。第五・六巻をガーランドがワイツの死後に編集したもの)の第六巻‘Die Völker der Südsee. 3. Abt. Die Polynesier, Melanesier, Australier und Tasmanier.’(「南洋の人々」第三部[やぶちゃん注:これは第五巻からの続いたものである。]「ポリネシア人・メラネシア人・オーストラリア人・タスマニア人」)。ドイツ語が読める方は、‘Internet archive’のこちらで同六巻の全原本がある(一八七二年版)

「クマラ」。南アメリカ大陸、ペルー熱帯地方原産地とされる、ナス目ヒルガオ科サツマイモ属サツマイモ Ipomoea batatas の南洋一帯での呼称。当該ウィキによれば、例えば、ニュージーランドへは十『世紀頃に伝播し、「クマラ」(kumara)の名称で広く消費されている。西洋人の来航前に』、『既にポリネシア域内では広く栽培されていたため、古代ポリネシア人は南米までの航海を行っていたのではないかと推測されている』とある。

「其事、書紀卷一、伊弉册尊已に黃泉之竈(よもつへぐひ)して此世に還るを得ず、伊弉諾尊之を見て黃泉より逃出るを、醜女八人追ければ、尊黑鬘と湯津爪櫛を投て葡萄と筍を化成し、醜女之を食ふ間に泉津平坂に到り玉へえるに似たり」私の好きな「呪的逃走(呪物投擲逃走)」システムの起動を示す、本邦の神話の最初の出現である。「小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附原文 附やぶちゃん注(18) 神道の發達(Ⅰ)」の私の注で訓読文を示してあるので、是非、読まれたい。また、本神話や熊楠の以下に挙げるような西洋の類型譚については、福島秋穗氏の論文「記紀に載録された呪物投擲逃走譚について」(『国文学研究』一九七九年十月発行。「早稲田大学リポジトリ」のこちらPDFでダウウ・ロード出来る)が優れている。必読!

梁の慧皎の高僧傳」中国南朝梁の僧慧皎(四九七年~五五四年)の撰になるした中国への伝来以来、後漢(西暦六七年)から梁の西暦五一九年までの四百五十三年間に及ぶ期間の高僧二百五十七名及び附伝する二百四十三名から成る壮大な伝記である。高僧の伝記を集めたもの。「梁高僧傳」「梁傳」とも呼ぶ。全十四巻。五一九年成立。当該ウィキによれば、『慧皎以前にも、梁の宝唱撰の「名僧伝」のように数種の僧伝が既に存在していたが、慧皎は、それら先行する類書の編集方針に満足できず、自ら新たに「高僧伝」を撰しようと思い立ったと、巻末に収められる自序において述べている。具体的には、「名僧伝」等は、世間で有名な僧、あるいは著名な僧の伝記を集めている。しかし、仏教の教えの観点から言えば、たとえ無名であっても、すぐれた僧、高僧は居る筈である。そういった僧の伝記が失われてしまうのを恐れて、「高僧伝」という名を立て、また、その観点から見て相応しいと判断した僧の伝記を収録した、と述べている』。以下の当該部は、「中國哲學書電子化計劃」のここから影印本で原本が読める。第八卷の「齊蜀齊后山釋玄暢」である。

「劉宋」南北朝時代の劉宋(四二〇年~四七九年)。

「釋玄暢」北方の著名な高僧玄高の弟子で、師に従って平城に行くが、ここある通ように北魏の太武帝が仏教を弾圧して、滅法を行った際には劉宋に逃げ込んでいる。彼は三論・華厳に通じており、「法華文句」の中にも、その名が見える(以上は信頼出来る複数の仏教論文に拠った)。

「幽」幽州。漢代に設置されたそれは現在の河北省・遼寧省・北京市・天津市を中心とする地域に当たる。

「冀」冀州(きしゅう)。現在の山西・遼寧・河北・北京・天津・フフホト(呼和浩特)・ウランチャブ(烏蘭察布)など、七つの省市に分属する附近。

「孟津」河南省洛陽市孟津県(もうしんけん)附近(グーグル・マップ・データ)。黄河右岸。

「揚州」中国古代のそれは「九州」の一つで、淮河南岸から南シナ海沿岸までの地方が想定されているが、理化し易いのは、隋代以降の州で、現在の江蘇省揚州市(グーグル・マップ・データ)に相当する。

「希臘譚に、繼母魔質にして一男一女童を殺し食はんとし、二童犬の敎により逃るゝを魔母追來る、其時童男小刀を投れば廣原となり、次に櫛を投れば密林となり、最後に鹽を投れば浩海と成て遂に遁れ去るを得と有り」この話、非常に惹かれるのだが、その話を知らない。先の福島氏の論文にもぴったりくるものを見出せない。

「スカンヂナヴヰア譚に一童子巨鬼に逐れ走る時其騎馬に敎えられて三物を携ふ、鬼逐うふ事急なるに臨み、先づ山査子[やぶちゃん注:「さんざし」。バラ目バラ科サンザシ属山査子[やぶちゃん注:「さんざし」。バラ目バラ科サンザシ属セイヨウサンザシ Crataegus monogyna。]。]の枝を投れば彼木の密林生じ、石を投れば大巖と成り、甁水を投れば大湖と成て鬼を障え童子脫するを得と有り」同前。なお、セイヨウサンザシについては、呪的効果が知られ、例えば、吸血鬼を滅ぼすために胸に打ち込む杭は同種である必要がある。

「Tozer,‘Researches in the Highlands of Turkey,’1869, vol. ii, pp. 273-274」イギリスの牧師で作家・地理学者としても知られたヘンリー・ファンショー・トーザー(一八二九年~一九一六年)の「トルコ高地の研究」。‘Internet archive’で原本が見られ、当該部はこちらから。

「Clouston, ‘Popular Tales and Fictions,’ 1887, vol. i, pp. 439-443」スコットランドの民俗学者ウィリアム・アレクサンダー・クローストン(一八四三年~一八九六年)の「知られた話群と虚構」。Internet archive’で原本が見られ、当該部はこちらから。]

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