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« 「和漢三才圖會」巻第五十六「山類」より「地獄」 | トップページ | 芥川龍之介 孤獨地獄 正字正仮名版+草稿+各オリジナル注附 (サイト横書版) 公開 »

2021/03/27

芥川龍之介 孤獨地獄 正字正仮名版+草稿+各オリジナル注附

 

[やぶちゃん注:「鼻」の発表の二ヶ月後の大正五(一九一六)年四月発行の『新思潮』初出で、大見出し「紺珠十篇」(この総標題については「紺珠」という総表題で随想的小品を十篇並べるつもりだったということと、そうした一篇として別に「父」(リンク先は私の古い電子テクスト)があることが、初出後記で判明する。私の本文注の最後に示しておいた)のもとに「孤獨地獄」の標題で掲載され(目次は「孤獨地獄(小品)」)、後の第一作品集「羅生門」(大正六年五月二十三日阿蘭陀書房刊)及びその後の春陽堂の「新興文芸叢書第八篇」として刊行された短篇集「鼻」(十三篇所収だが、「西郷隆盛」を除いて総て「羅生門」既収で芥川龍之介の作品集には数えられていない)に収録された。

 因みに、これを私が始めて読んだのは、大学四年の一九七八年十月に入手した(父の知人の伝手で岩波書店本社で社員の方から一割引きで買った。裸でスズラン・テープで六巻ずつ縛られていて、神保町から中目黒まで素手でぶら下げて帰った。三日間、両手の指が血行不良で腫れ上がったのを思い出す)「芥川龍之介全集」を、その日から一月ほどかけて通読したその時だった。当時の私の日記にも本篇を読んで異様に感動した記載がある。

 本文の底本は、その旧全集一九七七年岩波書店刊「芥川龍之介全集」第一巻を使用した。但し、「青空文庫」版の新字正仮名版を加工データとして使用した(但し、この電子テクストには看過できない複数の問題点がある)。当該親本は作品集「鼻」のそれである。一読、非常な不審を感ずるのは、ルビで、如何にも不要な箇所に多く附されてあり、逆にあった方がよいと思われる人名や書名及び語などに振られていない点である。また、先行する同語に振られずに、後になってひょくり振られてあったりする。これは如何にも芥川龍之介らしからぬものである。私は初出の『新思潮』を見たことがないのだが、或いはこのルビは印刷を頼んだ印刷所の校正者によって勝手に附されたものではないかとも疑っている。そうしたことは、近年まで、かなり長い間、行われてきたことを多くの方は知るまい。丁寧に原稿に自分でルビを振っていた大作家は泉鏡花辺りで終わってしまい、「えッツ!?!」と思うような近現代の著名な作家も特定のケースを除いてルビを振ることはそんなに多くはなかったのである(詩歌の場合は別)。だいたいからして、あなた方は、ごく最近まで、ルビには拗音や促音を小さく表記印刷することはなかったことさえもご存知ないであろう。嘘だと思うなら、御自身の持っている、写植印刷が主になる三十年以上前の活版の出版物を見られるがいい。「本当だ!」と吃驚されるであろう。草稿のそれは岩波書店の新全集版(一九九七年刊)第二十一巻を参考底本として、恣意的に漢字を正字化して示した。踊り字「〱」は正字化した。

 本文・草稿ともに注をオリジナルに附した。【二〇二一年三月二十八日 藪野直史】]

 

 孤 獨 地 獄

 

 この話を自分は母(はゝ)から聞いた。母はそれを自分の大叔父(おほをぢ)から聞いたと云つてゐる。話の眞僞(しんぎ)は知らない。唯大叔父自身の性行(せいかう)から推して、かう云ふ事も隨分ありさうだと思ふだけである。

 大叔父は所謂大通の一人で、幕末(ばくまつ)の藝人や文人の間に知己(ちき)の數が多かつた。河竹默阿彌、柳下亭種員、善哉庵永機、同冬映、九代目團十郞、宇治紫文、都千中、乾坤坊良齋などの人々(ひとびと)である。中でも默阿彌は、「江戶櫻淸水淸玄」で紀國屋文左衞門を書(か)くのに、この大叔父を粉本(ふんぽん)にした。物故(ぶつこ)してから、もう彼是五十年になるが、生前一時は今紀文と綽號(あだな)された事があるから、今(いま)でも名だけは聞いてゐる人(ひと)があるかも知れない。――姓は細木(さいき)、名は藤次郞、俳名は香以、俗稱は山城河岸の津藤と云つた男である。

 その津藤(つとう)が或時吉原の玉屋で、一人の僧侶(そうりよ)と近づきになつた。本鄕界隈の或禪寺の住職で、名は禪超(ぜんてう)と云つたさうである。それがやはり嫖客(へうかく)となつて、玉屋の錦木と云ふ華魁に馴染(なじ)んでゐた。勿論、肉食妻帶が僧侶に禁(きん)ぜられてゐた時分の事であるから、表向(おもてむ)きはどこまでも出家ではない。黃八丈の着物に黑羽二重の紋付(もんつき)と云ふ拵へで人には醫者(いしや)だと號してゐる。――それと偶然近づきになつた。

 偶然と云ふのは燈籠時分の或夜(あるよ)、玉屋の二階で、津藤が厠(かはや)へ行つた歸りしなに何氣なく廊下(らうか)を通ると、欄干にもたれながら、月(つき)を見てゐる男があつた。坊主頭の、どちらかと云へば背(せい)の低(ひく)い、瘦ぎすな男である。津藤は、月(つき)あかりで、これを出入の太鼓醫者竹内(ちくない)だと思つた。そこで、通(とほ)りすぎながら、手をのばして、ちよいとその耳を引張(ひつぱ)つた。驚いてふり向く所を、笑(わら)つてやらうと思つたからである。

 所がふり向いた顏を見ると、反つて此方(こつち)が驚いた。坊主頭と云ふ事を除(のぞ)いたら、竹内(ちくない)と似てゐる所などは一つもない。――相手(あひて)は額(ひたひ)の廣い割に、眉と眉との間が險しく狹つてゐる。眼(め)の大きく見えるのは、肉(にく)の落ちてゐるからであらう。左の頰にある大きな黑子(ほくろ)は、その時でもはつきり見(み)えた。その上顴骨が高い。――これだけの顏(かほ)かたちが、とぎれとぎれに、慌(あはたゞ)しく津藤の眼にはいつた。

「何か御用かな。」その坊主(ばうず)は腹を立てたやうな聲(こゑ)でかう云つた。いくらか酒氣も帶びてゐるらしい。

 前に書くのを忘れたが、その時津藤には藝者(げいしや)が一人に幇間(ほうかん)が一人ついてゐた。この手合は津藤(つとう)にあやまらせて、それを默(だま)つて見てゐるわけには行かない。そこで幇間が、津藤に代(かは)つて、その客に疎忽の詑(わび)をした。さうしてその間に、津藤は藝者をつれて、匇々(さうさう)自分の座敷へ歸つて來た。いくら大通(だいつう)でも間が惡(わる)かつたものと見える。坊主の方では、幇間(ほうかん)から間違の仔細をきくと、すぐに機嫌を直して大笑(おほわら)ひをしたさうである。その坊主が禪超(ぜんてう)だつた事は云ふまでもない。

 その後で、津藤が菓子の臺(だい)を持たせて、向ふへ詑びにやる。向うでも氣(き)の毒(どく)がつて、わざわざ禮に來る。それから二人の交情が結(むす)ばれた。尤も結ばれたと云つても、玉屋の二階で遇(あ)ふだけで、互に往來(わうらい)はしなかつたらしい。津藤は酒(さけ)を一滴も飮まないが、禪超は寧、大酒家(たいしゆか)である。それからどちらかと云ふと、禪超の方が持物(もちもの)に贅をつくしてゐる。最後に女色(ぢよしよく)に沈湎するのも、やはり禪超(ぜんてう)の方が甚しい。津藤自身が、これをどちらが出家(しゆつけ)だか解らないと批評した。――大兵肥滿で、容貌(ようばう)の醜かつた津藤は、五分月代に銀鎖(ぎんぐさり)の懸守(かけまも)りと云ふ姿で、平素は好(この)んでめくら縞の着物に白木(しろき)の三尺をしめてゐたと云ふ男である。

 或日津藤が禪超に遇ふと、禪超は錦木(にしきゞ)のしかけを羽織(はお)つて、三味線をひいてゐた。日頃から血色(けつしよく)の惡い男であるが、今日は殊(こと)によくない。眼も充血してゐる。彈力のない皮膚が時々口許で痙攣(けいれん)する。津藤はすぐに何か心配(しんぱい)があるのではないかと思つた。自分(じぶん)のやうなものでも相談相手(さうだんあひて)になれるなら是非させて頂(いたゞ)きたい――さう云ふ口吻を洩(も)らして見たが、別にこれと云つて打明ける事もないらしい。唯、何時(いつ)もよりも口數が少くなつて、ややもすると談柄(だんぺい)を失(しつ)しがちである。そこで津藤は、これを嫖客(へうかく)のかかりやすい倦怠(アンニユイ)だと解釋した。酒色を恣にしてゐる人間(にんげん)がかかつた倦怠は、酒色で癒(なほ)る筈がない。かう云ふはめから、二人は何時(いつ)になくしんみりした話をした。すると禪超(ぜんてう)は急に何か思(おも)ひ出したやうな容子で、こんな事(こと)を云つたさうである。

 佛說によると、地獄(ぢごく)にもさまざまあるが、凡(およそ)先(ま)づ、根本地獄、近邊地獄、孤獨地獄の三つに分つ事が出來(でき)るらしい。それも南瞻部洲下過五百踰繕那乃有其獄と云(い)ふ句があるから、大抵は昔から地下にあるものとなつてゐたのであらう。唯(たゞ)、その中で孤獨地獄だけは、山間曠野樹下空中、何處(どこ)へでも忽然として現(あらは)れる。云はば目前の境界(きやうかい)が、すぐそのまゝ、地獄の苦艱(くげん)を現前(げんぜん)するのである。自分は二三年前から、この地獄(ぢごく)へ墮ちた。一切の事が少しも永續(えいぞく)した興味を與へない。だから何時(いつ)でも一つの境界から一つの境界を追(お)つて生きてゐる。勿論それでも地獄は逃(のが)れられない。さうかと云つて境界を變(か)へずにゐれば猶、苦しい思をする。そこでやはり轉々(てんてん)としてその日その日の苦(くる)しみを忘れるやうな生活をしてゆく。しかし、それもしまひには苦しくなるとすれば、死んでしまふよりも外はない。昔は苦しみながらも、死ぬのが嫌(いや)だつた。今では……

 最後の句は、津藤(つとう)の耳にはいらなかつた。禪超が又三味線の調子(てうし)を合せながら、低い聲で云(い)つたからである。――それ以來(いらい)、禪超は玉屋へ來なくなつた。誰も、この放蕩(はうたう)三昧(まい)の禪僧がそれからどうなつたか、知(し)つてゐる者はない。唯その日禪超は、錦木(にしきゞ)の許へ金剛經の疏抄を一册忘れて行(い)つた。津藤が後年零落して、下總の寒川(さむかは)へ閑居(かんきよ)した時に常に机上にあつた書籍(しよせき)の一つはこの疏抄である。津藤はその表紙(へうし)の裏へ「堇野や露に氣のつく年四十」と、自作(じさく)の句を書き加(くは)へた。その本は今では殘(のこ)つてゐない。句ももう覺えてゐる人は一人もなからう。

 安政四年頃の話である。母(はゝ)は地獄と云ふ語の興味(きようみ)で、この話を覺えてゐたものらしい。

 一日の大部分を書齋で暮(くら)してゐる自分は、生活の上から云つて、自分(じぶん)の大叔父やこの禪僧とは、全然沒交涉な世界(せかい)に住んでゐる人間(にんげん)である。又興味の上から云つても、自分は德川時代(とくがはじだい)の戲作や浮世繪に、特殊な興味を持(も)つてゐる者ではない。しかも自分(じぶん)の中にある或心もちは、動(やゝもす)れば孤獨地獄と云(い)ふ語(ことば)を介して、自分の同情を彼等(かれら)の生活に注がうとする。が、自分はそれを否(いな)まうとは思はない。何故と云へば、或意味で自分も亦(また)、孤獨地獄に苦しめられてゐる一人だからである。

                  ――五年二月――

 

[やぶちゃん注:「母」芥川龍之介の養母である芥川儔(トモ)(安政四(一八五七)年~昭和一二(一九三七)年)。

「自分の大叔父」儔の母は旧姓細木(さいき)で名を須賀と言ったが、彼女はかの森鷗外の史伝「細木香以」(大正六(一九一七)年九月十九日から同年十月十三日まで『大阪毎日新聞』と『東京日日新聞』に連載)に書かれた、幕末の俳人・商人で通人として知られた細木香以(さいきこうい 文政五(一八二二)年~明治三(一八七〇)年)の実の姉であった。ウィキの「細木香以」によれば、細木の『家は新橋山城町にある酒屋で姓は源、氏は細木、店の名は摂津国屋(つのくにや)』(香以は家を継いでから藤次郎を名乗ったことから「津國屋藤次郞」を約めて「津藤(つとう)」となったのである)『である。香以の祖父・伊兵衛の代から蔵造りの店に直し、山城河岸を代表する豪商となった。父の竜池が家を継ぐと』、『酒店を閉じて』、『大名(加賀藩・米沢藩・広島藩など)の用達を専業とする。竜池は秦星池』(はたせいち)『に書を』、『初代彌生庵雛丸(やよいあんひなまる)に『狂歌を習い、雛亀と称し、晩年には桃の本鶴廬』、『また』、『源仙と号』した。『俳諧をたしなみ、仙塢』(せんう)『と号した。竜池は劇場・妓楼に出入りし』、『戯作者の為永春水と交遊したので』、「梅暦」のなかで「津藤」』(つとう)『の名で登場し、俳優や文人のパトロンとして記憶された。この父の気性や趣味が香以に受け継がれたと考えられる』。『経を北静盧』(きたせいろ 江戸中期の民間学者)に、『書を松本董斎に学』んだ。天保九(一八三八)年』、十七『歳になった頃から料理屋や船宿に出入りし』、『芸者に』馴染みが『でき、新宿や品川の妓楼に遊ぶようになる』。天保一三(一八四二)年『頃から』、『継母の郷に預けられ』、『放蕩が激しくなったことにより、父から勘当されかけたこともある』という。安政三(一八五六)年九月、父『竜池が病死し、手代たちの反対を押し切る形で』、『本家を香以が継ぐことにな』った。『文人、俳優、俳諧師、狂言作者と交わり』、『豪遊の限りを尽くし、元禄時代の紀伊國屋文左衛門と比較されるほどであったが』、安政六(一八五九)年頃から『身代が傾き』始め、文久二(一八六二)年には『店を継母に譲り、自分は隠居して浅草馬道』(うまみち)『の猿寺』(教善院さる寺。現存しない。現在の浅草寺の東北直近の角にあった。「江戸マップβ版」の「江戸切絵図」の「今戸箕輪浅草絵図」で確認出来る)『の境内に居を移した』。『その後は仕送りと狂歌の判者、市村座の作者を職業として暮らす』。文久三(一八六三)年から、『下総国千葉郡寒川に移り』、慶応二(一八六六)年まで住んだが、明治元(一八六八)年に山城河岸の店は閉じられ、その二年後に香以は病死した。『行年四十九。法名は梅誉香以居士。先祖代々の墓がある駒込の願行寺に葬られ』た。ここで龍之介が記している通り、『香以によって後援されていた人としては仮名垣魯文』、九『世市川團十郎、河竹黙阿弥、瀬川如皐、条野採菊らがいる。魯文の弟子であった野崎左文は、「幕末動乱の頃、ともかくも戯作者として職を失わず、かろうじて命脈を伝え得たのはまったく香以のような後援者のおかげである」と評している』。『芥川龍之介の母は、香以の姪にあたる』とある。なお、森鷗外は「細木香以」の「十四」の末尾で龍之介の親戚であることを述べているが、翌大正七年の一月一日の『帝国文学』に同作への追記補記を記し、来訪した芥川龍之介と交わした談話から得たことを前半で記しているが、『香以の氏細木は、正しくは「さいき」と訓むのださうである。倂し「ほそき」と呼ぶ人も多いので、細木氏自らも「ほそき」と稱したことがあるさうである』とあり、龍之介の言として、『香以には姊があつた。其婿が山王町の書肆伊三郞である。そして香以は晩年を此夫婦の家に送るつた』。『伊三郞の女』(むすめ)『を儔(とも)と云つた。儔は芥川氏に適』(ゆ/おもむ)『いた。龍之介さんは儔の生んだ子である。龍之介さんの著した小説集「羅生門」中に「孤獨地獄」の一篇がある。其材料は龍之介さんが母に聞いたものださうである。此事は龍之介さんがわたくしを訪ふに先だつて小島政二郞』(まさじろう:龍之介より二歳年下。)『さんがわたくしに報じてくれた』とある。小島は芥川龍之介が信頼していた同世代作家の友人であるが(当時は慶応義塾大学在学中であったが、『三田文学』に文芸評論を書いて有力な新人として認められていた。鷗外が大正五年十一月に同誌に発表した当代の作家たちの作品を評論した「オオソグラフイ」(「オーソグラフィー」(orthography)は「社会的に認められている字の綴り方・正書法」の意)を高く評価したが、この鷗外の謂いからはそれ以前に鷗外に近侍していたということになる)、しかし、彼が始めて龍之介を訪ねたのは、慶応卒業間近の大正七年二月三日(塚本文と結婚式を挙げた翌日)であったから、これは文壇作家の誰彼からの聞き伝えであって、龍之介から小島が直接聴いたものではない。既に文壇情報屋としての小島の厭な側面が私には感じられる。ともかくも、この小島経由の鷗外の語りから、少なくともこの頃、芥川龍之介は芥川儔(トモ)を養母ではなく、実母であると周囲に語っていたと思われることが判る。二〇〇三年翰林書房刊の「芥川龍之介新辞典」の「芥川家」のコラム「森鷗外に答える」によれば、『狂人だったとされる実母』(養父芥川道章の妹(新原(にいはら))フク)『のことがここでは隠されていたことになろう。文壇では実母のことは余り知られていなかったととってもよいであろう。後に』「點鬼簿」(大正一五(一九二六)年十月一日発行の雑誌『改造』に発表。リンク先は私の古い電子化。芥川龍之介の作品でも私は三本指の一つ挙げる名品と思う)『で実母のことを明らかにした時、かなり強い告白性あったことになる』とある。また、その前に鷗外の後の「觀潮樓閑話(その二)」(『帝国文学』大正七(一九一八)年一月発行)から先のウィキのような抜粋でないものを引用して、『「芥川氏いはく。香以には姉があつた。其婿が山王町の書肆伊三郎である。そして香以は晩年を此夫婦の家に送つた。伊三郎の女』(むすめ)『を儔と云つた。儔は芥川氏に適いた。龍之介さんは儔の生んだ子である」』とある。以下、人物については、複数の辞書やウィキペディアを総合的に参考にした。人名については煩瑣になるだけなので、歴史的仮名遣は省略した。

「大通」(だいつう)は、江戸時代に遊里・遊芸などの方面の事情によく通じている人物を指した。

「河竹默阿彌」(文化一三(一八一六)年~明治二六(一八九三)年)は歌舞伎作者。江戸生まれ。本名は吉村新七。五代目鶴屋南北に入門し、天保一四(一八四三)年に二代目河竹新七を襲名後、四代目市川小団次のために生世話(きぜわ)物(歌舞伎の世話物の中でも写実的傾向の著しい内容・演出を持った作品群。文化・文政期(一八〇四年~一八三〇年)以降の江戸歌舞伎で発達した)を書いた。維新後は九代目市川団十郎のために活歴(かつれき)物(歌舞伎で従来の時代立役物の荒唐無稽を排して史実を重んじ、歴史上の風俗を再現しようとする演出様式。明治初期から中期にかけて、この団十郎らが主唱した)を、五代目尾上菊五郎のために散切(ざんぎり)物(歌舞伎世話狂言の一種で、明治初期の散切り頭・洋服姿などの新風俗を取り入れたもの。明治五(一八七二)年から同三十年代まで作られ、まさに黙阿弥の「島鵆月白波 (しまちどりつきのしらなみ) 」などが代表作)などの作品を提供した。明治一四(一八八一)年に引退して後に「黙阿弥」を名乗った。時代物・世話物・所作事と幅広かったが、本領は生世話物にあった。代表作は「蔦紅葉宇都谷峠(つたもみぢうつのやたうげ)」「靑砥稿花紅彩畫(あをとざうしはなのにしきゑ)」など。

「柳下亭種員」(りゅうかていたねかず 文化四(一八〇七)年~安政五(一八五八)年)は戯作者。特に合巻(ごうかん:江戸後期の文化年間(一八〇四年~一八一八年)以後に流行した草双紙の一種。それ以前の黄表紙などが五丁一冊であったものを、数冊合わせて一冊とし、長いものは数十冊にも及んだ。内容は教訓・怪談・敵討・情話・古典の翻案など多方面に亙り、子女のみならず、大人の読み物としても歓迎された。流行作者には柳亭種彦・曲亭馬琴・山東京伝らがいる)作者として活躍した。その実伝は諸説があって定説をみないが、元板倉藩士の出とも、江戸京橋の葉茶屋坂本屋に生まれたとも、また、小間物屋或いは古書商であったともされる。戯作界に入り、弘化元(一八四四)年から合巻に手を染める一方書肆を営んで坂本屋新七という。「白縫譚」(初編から三十八編)、「兒雷也豪傑譚」(十二編から三十九編)など、長編合巻を得意とし、いろいろと趣向を凝らすのには巧みであったが、独創性に乏しく、他人の作の嗣ぎ編を作るのに長じたと評される。

「善哉庵永機」(ぜんざいあん えいき 文政五(一八二二)年~明治二六 (一八九三)年)は俳人。「芭蕉全集」を編集したことで知られる。其角堂とも号し、細木香以との交遊も深かった。

「同冬映」筑摩全集類聚版脚注では、『同じく幕末の俳人』とする。論文等を確認してみたが、この龍之介の「同」というのは「善哉庵永機」と同じ「善哉庵」ではないように思われる。同一の深川湖十系の俳人ではあるが、「同」はそれこそ類聚版の注にある「同じく俳人の」の意でとっておく。

「九代目團十郞」歌舞伎役者九代目市川團十郞(天保九(一八三八)年~明治三六(一九〇三)年)。本名は堀越秀(ほりこし ひでし)。屋号は成田屋。俳句も好み、俳号に紫扇・團州などがある。五代目尾上菊五郎・初代市川左團次とともに、いわゆる「團菊左時代」を築いた。写実的な演出や史実に則した時代考証などで歌舞伎の近代化を図る一方、伝統的な江戸歌舞伎の荒事を整理して今日にまで伝わる多くの形を決定し、歌舞伎を下世話な町人の娯楽から日本文化を代表する高尚な芸術の域にまで高めることに尽力した。その数多い功績から「劇聖」(げきせい)と謳われた。また、歌舞伎の世界で単に「九代目」(くだいめ)というと、通常は彼のことのみを指す。

「宇治紫文」(うじ しぶん)は一中節(いっちゅうぶし:浄瑠璃の一種。初代都太夫一中(慶安三(一六五〇)年~享保九(一七二四)年)が元禄から宝永頃(一六八八年~一七一一年)かにかけて京都において創始した。先行する浄瑠璃の長所を取入れ、当時、勃興してきた義太夫節とは逆に、温雅で叙情的な表現を目指した。三味線は中棹を用い、全体的に上品、かつ、温雅・重厚を以てその特徴とする。当初は上方の御座敷浄瑠璃として出発し、世人に秘録愛好されたが、後に江戸に下って歌舞伎の伴奏音楽としても用いられた。その後、再び主として素浄瑠璃専門となって現代に至っている。上方では早く衰退し、現在では東京を中心に伝承されている)の三味線方の名跡。初代宇治紫文(寛政三(一七九一)年~安政五(一八五八)年)は、本名、勝田権左衛門。通称は雄輔。江戸浅草材木町の名主。一中節菅野派の家元二代目菅野序遊の門下であったが、後に都派に転じ、都一閑斎と名乗る。嘉永二(一八四九)年に「宇治紫文斎」と名乗って宇治派を樹立した。数十曲の新曲を残している。一方、二代目宇治紫文(文政四(一八二一)年~明治一二(一八七九)年)は初代の実子で名を福太郎と言った。最初は初代宇治紫鳳を名乗ったが、安政六(一八五九)年に二代目紫文を襲名。明治八(一八七五)年五月に隠居し、宇治閑斎翁を名乗った。細木香以は安政六年頃から左前になっているから、まず、ここは初代のことと考えてよい。

「都千中」(みやこ せんちゅう ?~明和二(一七六五)年頃)は一中節都派の太夫。都秀太夫千中とも。都三中の弟子か。享保(一七一六年~一七三六年)末頃から宝暦七(一七五七)年頃まで活躍した。享保一九(一七三一)年の春、江戸中村座で語った「夕霞淺間岳(ゆふがすみあさまがたけ)」が大当たりし、当時、江戸の市中で「鼠の糞と夕霞の歌本のない家はない」とまで言われた。この他、元文元(一七三六)年に「家櫻」、宝暦元(一七五一)年に「賤機(しづはた)」など多くの曲を語った。宝暦七年頃から舞台出演をやめ、男芸者になった。江戸においての一中節は、千中没後、殆んど劇場出演はなくなり、座敷浄瑠璃として吉原に残るのみとなった。

「乾坤坊良齋」(けんこんぼうりょうさい 明和六(一七六九)年~万延元(一八六〇)年)は講釈師。江戸生まれ。通称、梅沢屋良助。家業の貸本屋から初代三笑亭可楽の門に入って落語家菅良助(かんりょうすけ)となり、後、講釈師に転じた。創作も得意で、「笠森お仙」「切られ与三郎」などの講談を残し、合巻も手掛けている。

「江戶櫻淸水淸玄」(えどざくらしみづせいげん)はその名で安政五(一八五八)年に板行した黙阿弥の草双紙であるが、これは師の鶴屋南北の原作になるもので、一般にはそれを歌舞伎の世話物とした、通称「黑手組の助六」、本外題「黑手組曲輪達引(くろてぐみくるわのたてひき)」として知られるものである。初演は安政五年三月江戸市村座であった。

「粉本」ここは素材・材料の意。

「物故してから、もう彼是五十年になる」正確には四十六年。

「山城河岸」(やましろがし)現在の東京都中央区銀座六・七丁目(グーグル・マップ・データ。以下同じ)相当。

「吉原の玉屋」筑摩全集類聚版脚注に、『吉原江戸町一丁目にあった妓楼。楼主は玉屋山三郎』とある。現在の東京都台東区千束四丁目

「本鄕」現在の文京区本郷。寺が多く、特定出来ない。

「禪超」不詳。

「嫖客(へうかく)」現代仮名遣「ひょうかく」。花柳界で芸者買いなどをして遊ぶ客のこと。

「錦木」源氏名。「ADAEC」の「西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース」の夢中舎松泰(しょうたい)の「遊女銘々傳」(書中の最新の年記は第六冊にあり、慶応二(一八六六)年十一月)に、玉屋の筆頭に「錦木」の名が見え、錦木太夫が寛文(一六六一年~一六七三年)年中、江戸町二丁目の玉屋長左衛門抱えの錦木が、船頭と男伊達(おとこだて)との斬り合いの喧嘩を鎮めたことが載るが、これは彼女のずっと先代である。

「黃八丈」黄色地に茶・鳶色などで縞や格子柄を織り出した絹織物。初め、八丈島で織られたことから、この名がある。

「燈籠時分」筑摩全集類聚版脚注に、『吉原仲之町で旧暦七月一日より晦日まで茶屋に』は『燈籠を掲げ』たとある。

「太鼓醫者」筑摩全集類聚版脚注に、『医者の風体』(ふうてい)『をしている太皷もち』とある。

「顴骨」(正しくは「けんこつ」であるが、現行でも慣用読みで「くわんこつ(かんこつ)」と読んでおり、芥川も後者で読んでいよう。頰骨 (きょうこつ/ほおぼね)。頰(ほお)の隆起を成す骨。眼窩の底部外方の一対の骨。

「幇間(ほうかん)」読みはママ。歴史的仮名遣は「はうかん」が正しい。「幇」は「助ける」の意で、宴席などで客の機嫌をとり、酒宴の興を助けるのを職業とする男。太鼓持ち。男芸者。

「手合」(てあひ(てあい))は、ここではやや軽蔑していう「この類(たぐ)いの連中」の意。

「寧」「むしろ」。

「沈湎」沈み溺れること。特に、酒色に耽って荒(すさ)んだ生活を送ることを言う。

「大兵肥滿」(たいひやうひまん(たいひょうひまん))は、体格が太く、逞しく、肥え太っていること。

「五分月代」(ごぶさかやき)は、剃り上げておくべき月代の部分が五分(一・五センチメートル)ほども伸びてしまっていること。

「懸守(かけまも)り」神仏の護符を入れて身につける守袋。通常は筒形の容器の外側を錦の裂(きれ)で包み、その両端に紐や鎖をつけ、胸の前に下がるように作る。魔除けや災厄除けのため、神聖なものや神秘的な威力のあるものを身につける習慣は世界的に広く行われているが、特にこれを首にかけるという形式は、他の場所につけるよりも、一層そのものを尊び、これに対する強い信頼の心を表わしていると考えられる。護符以外のものでも、特に貴重なものや丁重に取り扱う必要のあるものを持ち運ぶ時、例えば、貴重な書類や大事な人の遺骨などは日本では古くから首にかけて歩く習慣が平安の時代からあった(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

「めくら縞」縦横とも紺染めの綿糸で織った無地の綿織物。紺無地。織り紺。青縞。盲地。

「白木(しろき)」通一丁目、藝材の東京都中央区日本橋一丁目に存在した江戸三大呉服店(後の二つは駿河町の「越後屋」と、大伝馬町の「大丸屋」)の一つである白木屋。後の「東急百貨店日本橋店」の前身に当たる。

「三尺」筑摩全集類聚版脚注に、『白木屋で売り出した柔小紋』(やわらかこもん:細かい模様を白抜きして単色で染めた日本の型染めの一つで、特に江戸小紋と呼ばれたそれであろう)『の三尺帯』。三尺帯は長さが反物用の鯨尺で約三尺(鯨尺のそれは曲尺(かねじゃく)の一尺二寸五分(約三十八センチメートル)を一尺とするので、一・一四メートル)ある一重(ひとえ)廻しの帯。

をしめてゐたと云ふ男である。

「しかけ」「仕掛け」。打掛(うちか)けの別称。江戸の遊里で用いられた用語であるが、遊女の着る小袖類を指していうこともあった。

「談柄(だんぺい)」元は僧侶が正式な談話の際に手に持つ払子(ほっす)の意であったが、転じて「話の種・話題」の意となった。

「倦怠(アンニユイ)」ennui。フランス語。

「恣に」「ほしいままに」。

「根本地獄、近邊地獄、孤獨地獄の三つに分つ」先般、電子化注した『「和漢三才圖會」巻第五十六「山類」より「地獄」』の私の詳注を参照されたい。その電子化がこの電子テクスト注の呼び水となったものである。

「孤獨地獄」孤地獄とも言う特異な地獄。この地獄は通常の地獄のように地下にあるのではなく、現世の山間・広野・樹下・空中などに忽然と孤立して散在して出現する地獄とされる。文字通りの現在地獄ということである。

「南瞻部洲下過五百踰繕那乃有其獄」「其」はママである。現行の電子化物では恐らく総てが「地獄」となっている。しかしこれは「其獄」でも正しい(後掲する引用を参照)。ただ「其」でも誤読することはない。仏典を検索しても、この文字列にぴったり当てはまるものはない。困っていろいろと検索を重ねたところ、サイト「蓮花寺佛教研究所」公式サイト内のこちらにある、『蓮花寺佛教研究所紀要第八号』(二〇〇〇年発行か。PDF)に乾英次郎氏の論文「芥川龍之介における仏教的〈地獄〉表象──原家旧蔵品との関りから――」の中に答えがあった。その「一 芥川・仏教・〈地獄〉」の中で本「孤獨地獄」を採り上げて考察される中で、この「佛說によると」以下の段落を総て引かれた上で、

   《引用開始》

 この中に「仏説」が引かれているが、芥川が「孤独地獄」を執筆するに際して、仏典に直接あたったとは考えにくい。清水康次が既に指摘しているが、上記の記述は、校註国文叢書『今昔物語』上巻(池辺義象編、博文館、大正四・七)所収「本朝付仏法」巻一(日本への仏教渡来・流布史)の「行基菩薩仏法を学び人を導く語」の注釈を参照したものと思しい。芥川の仏教的〈地獄〉観を規定する文章だと思われるので、全文を引用する。

[やぶちゃん注:以下、原本では全体が二字下げ。]

地獄 地獄界をいふ、獄は囚にして罪人を守りて罪室を出でしめざる也、この獄地下にある故にかくいふ

「婆沙論」に瞻部洲下過五百踰繕那乃有其獄といへり、地獄に三種あり、一に根本地獄二に近辺地獄三に孤独地獄これなり、根本地獄とは等活、黒縄、衆合、号叫、大号叫、炎熱、極熱、無間の八大地獄也、近辺地獄に四あり煻煨増屍糞増鋒刃増、烈河増、これなりこの四一大地獄の四方何れにもあり故に一大地獄に十六増の近辺地獄八大地獄百二十八増の近辺地獄あり、これに根本の八を合して総計百三十六地獄をなす、孤独地獄とは山問曠野樹下空中に忽然として現はるゝ地獄也。

 孤独地獄あるいは孤地獄・独地獄については、玄奘訳『阿毘達磨大毘婆沙論』巻一七二の中に「瞻部洲下有人地獄。瞻部洲上亦有邊地獄。及獨地獄或在谷中。或在山上。或在曠野。或在空中。於餘三洲唯有邊地獄獨地獄無大地獄」とある。ここには「樹間」という言葉が見えないが、『妙法蓮華経玄賛』巻一七二三では「即是山問曠野樹下空中」という句が揃って出て来る。地獄のある場所について、校註国文叢書『今昔物語』では「瞻部洲下過五百踰繕那乃有「其」獄」となっているが「孤獨地獄」では「「南」欧部洲下過五百瞳繕那乃有「地」獄」となっている。単なる誤写と考えるのが妥当であろうが、たとえば『往生要集』では八大地獄が「南瞻部洲下」にあるとしているので、芥川は前掲の注釈文以外にも〈地獄〉に関する情報源を持っていた可能性はある。

 芥川が「孤独地獄」を発表したのは、『今昔物語集』『宇治拾遺物語』にある鼻の長い僧侶の逸話に取材した「鼻」(『新思潮』大正五・三)を夏目漱石に賞賛され、一気に文壇の脚光を浴びたのと同時期である。芥川が新進作家として歩み出すスタート地点に、〈地獄〉というモチーフは既に存在していたのである。

   《引用終了》

とある。恐らく、乾氏は「其獄」が「地獄」に書き変えられてしまったテクストを見られたのであろう。だいたいからして、昭和四三(一九六八)年筑摩書房発行の「現代日本文学大系 43 芥川龍之介集」を底本とする 「青空文庫」版も「地獄」となってしまっており、岩波の旧全集をもとにしているはずの昭和四六(一九七一)年発行の「筑摩全集類聚」版も、あろうことか、「地獄」となってしまっているのである。しかも、筑摩全集類聚版脚注では出典を「倶舎論」(くしゃろん:インド仏教で最も著名な大徳世親菩薩の代表作。「阿毘達磨倶舎論」)とする)。さてもそこで、「具舎論」を調べたが、完全文字列一致はなかった。そこでダメ押しで「大正蔵検索」で「五百踰繕那」のワード検索したところが、「翻譯名義集」(宋代の梵漢辞典。南宋の法雲編。一一四三年成立。仏典の重要な梵語二千余語を六十四編に分類して字義と出典を記したもの)の一節として、

   *

獄故婆沙云贍部洲下過五百踰繕那乃有其獄

   *

と「南」を除き、しかも「其獄」のそれが、確かにあることが確認出来たのである。されば、勝手に誰もが書き変えてしまった「其獄」は、それでいいのだと私は確信したのである。因みに、乾氏の論文は非常に興味深い内容であるから、是非、全部を読まれんことを強くお薦めする。さて、一応、訓読しておくと、

   *

南瞻部洲(なんせんぶしう)下(か)、五百踰繕那(ゆぜんな)を過ぎて、乃(すなは)ち、其の獄、有り。

   *

で、「南瞻部洲」はサンスクリット語「ジャンブー・ドゥヴィーパ」の音写。閻浮提(えんぶだい)・閻浮洲・南閻浮提・穢洲・勝金洲などの漢訳語がある。本来は古代インドの宇宙説において世界の中心とされている須弥山 (しゅみせん) の南方に位置する大陸で、四大洲(他に東勝身洲=弗婆提(ほつばだい)・西牛貨洲(さいごけしゅう)=瞿陀尼(くだに)・北倶盧洲(ほくくるしゅう)=鬱単越(うったんおつ)がある)の一つ。北に広く南に狭い地形で縦横七千由旬 (ゆじゅん:古代インドにおける長さの単位サンスクリット語「ヨージャナ」の漢音写。ここに出る「踰繕那」は別表記。本来は「軛(くびき)に(牛を)つける」の意で、牛に車をつけて一日引かせる行程を指した。一由旬は約十二・十六・二十四キロメートルに相当するという各説がある) あるとされる。インドの地形に基づいて考えられたものだったが、後に仏教でこの人間界(現実世界)全体を指すようになった。閻浮提には大国が十六、中国が五百、小国が十万あるとされ、仏縁に恵まれていることに於いてはこの洲が第一であるとされる。「五百踰繕那」先の換算で六千から一万二千キロメートルに相当する。

「境界(きやうかい)」「青空文庫」版も筑摩全集類聚版も「きやうがい」。私は清音がいい。響きから「境涯」という私の嫌いな熟語がちらつき、不必要なニュアンスを与えていやな感じがするからである。物理的な時空間の位置存在世界が、ひいては自身の現存在意識総てが、瞬時にしてそのまま地獄に変容(メタモルフォーゼ(ドイツ語:Metamorphose)するのである。

「山間曠野樹下空中」筑摩全集類聚版脚注は『「倶舎論頌疏一〇」に見られる句』とするが(「倶舎論頌疏」は平安時代の円暉の撰になる「倶舎論」の要旨を解釈したもの)、私の調べた限りでは、同書第十にはその文字列はない。そこで、この文字列をやはり「大正蔵検索」で調べると、「阿毘達磨順正理論」(これは衆賢(サンガバドラ:紀元後五世紀頃のインドで活躍した学僧)の著した「倶舎雹論」(くしゃばくろん)と呼ばれる「倶舎論」へ反駁した仏教教理書である)

   *

孤地獄。或二一。各別業招。或近江河。山間曠野。或在地下空中餘處。

   *

とあるのが、最も近く、次に「佛頂尊勝陀羅尼經敎跡義記」の、

   *

諸餘孤露地獄別業招者。或近江河山間曠野。

   *

や、「一切經音義」の、

   *

地獄 梵云、捺落迦、此云、苦器、亦云、不可樂、亦云、非行非法行處也。或在山間曠野空中。今言地獄者在大地之下也。

   *

や、「祕密漫荼羅十住心論」の、

   *

餘孤地獄。或多二一各別業招。或近江河山間曠野。或在地下空中餘處。

   *

「唯(たゞ)、その中で孤獨地獄だけは、山間曠野樹下空中、何處(どこ)へでも忽然として現(あらは)れる。云はば目前の境界(きやうかい)が、すぐそのまゝ、地獄の苦艱(くげん)を現前(げんぜん)するのである。自分は二三年前から、この地獄(ぢごく)へ墮ちた。一切の事が少しも永續(えいぞく)した興味を與へない。だから何時(いつ)でも一つの境界から一つの境界を追(お)つて生きてゐる。勿論それでも地獄は逃(のが)れられない。さうかと云つて境界を變(か)へずにゐれば猶、苦しい思をする。そこでやはり轉々(てんてん)としてその日その日の苦(くる)しみを忘れるやうな生活をしてゆく。しかし、それもしまひには苦しくなるとすれば、死んでしまふよりも外はない。昔は苦しみながらも、死ぬのが嫌(いや)だつた。今では……」これは精神医学書の強い抑鬱状態の教科書的表現の言い換えだとしても納得出来る内容である。「境界」と言う禪超の表現を重視するならば、自分と、自分のいる時空間や対象との乖離が起こっている病的なものとしてあるとするならば、統合失調症や重い強迫神経症なども想起される。なお、底本の後記によれば、「しかし、それもしまひには苦しくなるとすれば、」の後には初出と「羅生門」には、続けて、

   *

(かう云つて禪超は口元の筋肉(きんにく)を引きつらせながら、泣くやうな顏をして笑(わら)つた。)

   *

とあると記す。

「金剛經」「金剛般若經」。正式には「金剛般若波羅蜜經」。大乗仏教の最初期の経典群の総称。これを名のる経典は数多く漢訳されて、「大正新脩(しんしゅう)大蔵経」に収められているものだけでも四十二経もあり、サンスクリット本やチベット語訳もかなり揃っている。大乗仏教の第一声を告げる経として、もっとも重要な経であるが、以後、次々と作られ、次第に増幅されて、最大のものは玄奘が訳した「大般若波羅蜜多経」は全六百巻に及ぶ。これはあらゆる経典中、最大のものである。一切の実体と実体的思想との否定を謳う「空(くう)」の思想を拠り所とする般若の知慧を説き、六波羅蜜の実践を推し進める内容を持つ。なお、密教が拠ったところの「理趣(般若)經」は、かなり後代になって書かれたものであり、また「金剛(般若)經」は禅の関係で流布し、「般若心經」は浄土教と日蓮宗を除く仏教全般に於いて広く愛誦され、書写も盛んであり、現在、最もよく知られるものとしてある。

「疏抄」(そせう(そしょう))は注釈したものの抄本。

「下總の寒川(さむかは)」現在の千葉県千葉市中央区寒川町

「堇野や露に氣のつく年四十」「堇野」は「すみれの」。森鷗外の「細木香以」の「十」には文久元(一八六一)年(先に示した通り、文久二年には店を継母に譲って、隠居した山城河岸没落の年)の香以四十の年の一句として、相似句、

 年四十露に氣の附く花野哉

が載る。私は「堇野や」の方が上手いと思う。

「安政四年」一八五七年。

「しかも自分(じぶん)の中にある或心もちは、動(やゝもす)れば孤獨地獄と云(い)ふ語(ことば)を介して、自分の同情を彼等(かれら)の生活に注がうとする。が、自分はそれを否(いな)まうとは思はない。何故と云へば、或意味で自分も亦(また)、孤獨地獄に苦しめられてゐる一人だからである」この最後のクレジット(大正五(一九一六)年二月)が正しいとすれば、芥川龍之介は執筆時、未だ満二十三歳である。しかし、この最後の如何にもにも見える憂鬱な告解は、二年前の大正三年秋の龍之介の初恋であった吉田彌生との外的な要因による破局が根には、ある。さて、平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版の「芥川龍之介全作品事典」の稲田智恵子氏の解説では、『この末尾に注目して芥川自身の孤独感を解題しようとするものが目立つ。しかし今後の研究ではあくまでテキストの中の「自分」として、作者と切り離して読みをしめすべきであろう』などと述べておられるが、勝手なテキスト論が「こゝろ」の学生と靜を結婚させるような場外乱闘に及ぶを見るに、私はそうした作者のディスクール(言説)であることを恣意的に乖離させて読むなどということは、到底、許されるものではないと考える人種である。大流行りのテクスト論は、究極において、遂に「小説にテーマなどない」、「文言を記号として捉えて自由に読み換え、読み終えた後に感想と展開を仮想構築して各自が勝手に楽しめばよい」という無謀にして不毛な文学論に堕すものとしか考えていない。さればこそ、私は、というより、後の芥川龍之介の自死に至る過程を知っている我々は、この「檣(ほばしら)の二つに折れた船」(「或阿呆の一生」。リンク先は私の草稿附き電子テクスト)のように彷徨う若き魂の告解に、いわく言い難い不吉な予言の響きを聴かざるを得ないのではないか? 芥川龍之介の残り後半生の十二年は、まさにしく、境界の迷宮を裏道を走りめぐるような「孤獨地獄」の中にあったと言えるように私には感ぜられるのである。

「――五年二月――「底本の後記によれば、『文末に日付、初出になし。初出は文末に行を改めて小字で一文がある』あって、以下の芥川龍之介の附記が示されてある。

   *

とうから、小說を書く外に、暇を見てかう云う小品を少しづゝ書いて行かうと思つてゐた。さうしてその數が幾つかになつたら發表するつもりでゐた。今、それを一つ切話して出すのは、全く紙數の都合からである。

   *

とある。]

 

 

草稿

 

[やぶちゃん注:以下、「孤獨地獄」の草稿を示す。底本は一九九七年刊の岩波の新全集「芥川龍之介全集」の第二十一巻に所収されているそれを(六種の断片で続いておらず、書き換え部分もある)、上記公開定稿を参考に、恣意的に漢字を正字化して示す。標題はない。纏まった部分の変わるところで「*」を挟んで前後を空けた。] 

 

 これは大叔父が母に話し 母が更に又自分に話した 或平凡な事實を書いて見たものである。

 大叔父は所謂大通の一人で 九代目團十郞 宇治紫文 都千中 乾坤坊良齋などの藝人から 默阿彌 春水 種員 永機 是眞 芳年などの文人や畫工とも 知己の間柄だつた男である。梅曆の中に出て來る千葉の藤兵エと云ふ人物は、春水がこの犬叔父を模型(モデル)にした。默阿彌の「江戶櫻淸水淸玄」の中の紀國屋文左エ門も やはりこの大叔父を書いたものだとか聞いてゐる。物故してから彼是もう五十年にはなるであらう。生前 今紀文と綽號(あだな)された事があるから 今でも少しは知つてゐる人があるかも知れない。――姓は細木名は藤次郞 俳名は香以 通稱は山岸河岸の津藤である

 

 *

 

で通つた事があるから、今でも少しは覺えてゐる人があるかも知れない。――姓は細木(さいき)、名は藤次郞、俳名は香以、俗稱は山城河岸の津藤と云つた男である。

 その津藤が或夜、玉屋の二階で、厠へ行つた歸りしなに、何氣なく廊下を通ると、欄干によりかかりながら、月を見てゐる男が眼に止つた。坊主頭に黃八丈の着物を着た 醫者と云ふ拵への男である。津藤はその橫顏を見て、これを出入の太鼓醫者竹内だと思つた。そこで通りしなに 手をのばして ちよいとその男の耳を引張つた。驚いてふりむく所を笑つてやらうと思つたからである。津藤にはその時封間が一人に 藝者が一人ついてゐた。さうして二人にはその男の竹内でないと云ふ事がよくわかつてゐた。そればかりではない。封間にはその男の誰だと云ふ事さへよくわかってゐた。そこで津藤がその男の耳を引張らうとした時に、慌てて袖を引かうとしたが、もう間に合はない。

 

 *

 

すぎながら、手をのばして、ちよいとその耳を引張つた。驚いてふり向く所を笑つてやらうと思つたからである。

 所がふり向いた顏を見ると反て此方が驚いた。竹内とは似もつかない男である。左の頰にある大きな黑子は、その時でもはつきり見えた。額の廣い割に、眉と眉との間が險しく狹つてゐる。色は女のやうに白い。――これだけの顏かたちが 月にそむいてゐながらも 慌しく津藤の眼にはいつた。云ふまでもなく この時耳を引張られた坊主が

 

 *

 

で通つた事があるから、今でも少しは覺えてゐる人があるかも知れない。――姓は細木(さいき) 名は藤次郞 俳名は香以、通稱は山城河岸の津藤と云つた男である。

 その津藤が或夜 吉原の玉屋の二階で 厠へ行つた歸りに 藝者を一人封間をつれて廊下を通ると欄干によりかかり

 

こで通りしなに 手をのばして ちよいその男の耳を引張つた。驚いてふりむく所を 笑つてやらうと思つたからである。

 その時、津藤には、藝者が一人に、封間が一人ついてゐた。始めからこの二人には その男の竹内でないと云ふ事がよくわかつてゐる。それ所ではない。封間はその男が何處の誰だと云ふ事までちやんと心得てゐる。そこで 津藤がその男の耳を引張らうとするのを見て、二人とも慌てて袖を引いて止めやうとした。が、もう間に合

 

 *

 

すぎながら、手をのばして、ちよいとその耳を引張つた。驚いてふり向く所を笑つてやらうと思つたからである。

 津藤には その時 藝者が一人に封間が一人ついてゐた。さうしてこの二人は 始から その男が竹内でないと云ふ事を知つてゐた。だから 津藤が耳を引張りさうにするのを見て二人とも慌てて袖を引いて止めやうとした。が、もう間に合はない。……向ふが驚けば 津藤も驚いた。ふり向いた坊主の顏を見ると、竹内とは似もつかない男である。津藤が驚けば坊主も驚いた。

 

 *

 

すぎながら、手をのばして、ち□[やぶちゃん注:底本の判読不能字。]いとその耳を引張つた。驚いてふり向く所を 笑つてやらうと思つたからである。

 その時 津藤には 藝者が一人に封間が一人ついてゐた。さうしてこの二人は始めからその男が竹内でない事を知つてゐた。だから津藤が耳を引張りさうにするのを見て 二人とも慌てて袖を引いて止めやうとした。が、もう間に合はない。向ふが驚けば津藤も驚いた。耳を引張られてふり向いた坊主が 竹内とは似もつかない男だつたからである。

 

[やぶちゃん注:「是眞」漆工芸家・絵師・日本画家柴田是真(ぜしん 文化四(一八〇七)年~明治二四(一八九一)年))であろう。名は順蔵、是真は号。日本の漆工分野において、近世から近代への橋渡しの役割を果たした名工である。

「梅曆」戯作者為永春水(寛政二(一七九〇)年~天保一四(一八四四)年:本名は佐々木貞高)の代表作の人情本「春色梅兒譽美」(しゅんしょくうめごよみ)の略称。天保三(一八三二)年から翌年にかけて刊行された。柳川重信・柳川重山画。美男子の丹次郎と女たちとの三角関係を描いた人情本の代表的作品とされる。参照した当該ウィキに梗概がある。登場人物のところに、『千葉の藤兵衛』として、『通い客(春水の遊び仲間であり』、『通人として知られた津藤こと豪商の摂津国屋藤兵衛がモデル)』とある。摂津国屋藤兵衛は細木香以の別通称の一つ。]

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