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2021/03/16

只野真葛 むかしばなし (21)

 

○父樣實方(じつかた)の丈庵樣と申(まうす)ぢゞ樣は、心もち、ゆるゆるとして、溫順なる人なりしとぞ。[やぶちゃん注:「實方」は仙台叢書も同じ。「日本庶民生活史料集成」版では『實家』となっている。さて、ここで真葛は「丈庵」と言っているのだが、これは、以下が工藤平助の実の父である紀州藩江戸詰藩医長井基孝(長井大庵)及びその長井家についての叙述となっているから判るように、平助の養父工藤丈庵安世のことではなく、実父の思い出である。私は「大庵」の誤りか、判読の誤りのように思ったのだが(「大」と「丈」は崩しで似る)。しかしそうなると、「日本庶民生活史料集成」が修正注やママ注記をしていないのが不審となるので、調べて見ると、底本の鈴木よね子氏の解題では、実父を「長井常安」(養父の「常世」と混同されやすい名である)とし、当該人物を記したウィキの「長井基孝」(これが平助の実父の本名らしい)によれば、『平助の娘工藤あや子(只野真葛)の著作『むかしばなし』には長井大庵の名で記される。「基孝」は平助の墓誌による。『伊達世臣家譜』には「長井常安某」と記載される。丈庵、大雲、高基、孝基などとも記される』という、とんでもなくややこしいことが書いてあるのである(養父と同じ医号の「丈庵」とここのようにやらかしてしまうとなら、最早、誤読は不可避となってしまう)。少なくともしかし、「むかしばなし」では凡例注記して「大庵」で統一するか、補正注、或いは、せめてもママ注記を附して注意を促すのが、編者の最低限のなすべきことであろうと私は思う。

 ばゞ樣は、萬事に器用、手も繪もならはずに、よく御書ㇾ成しとなり。御子樣がた、男三人・女壱人、それは善助樣と父樣の間に有りしが、はやく不幸なり。

 其先祖[やぶちゃん注:ここでは実父長井家の話に転じているので注意。]は播州の城主にて有しを、いくさの時分に、秀吉のためにほろぼされ給へること、軍談物にも載りしことなり。それより、鄕士となりて、代々、播州に住居(すまゐ)被ㇾ成、家名、賀古(かこ)・長井と、ふたやうなりしとぞ。賀古川とて大河有(あり)、其(その)「運上(うんじやう)」[やぶちゃん注:河川を用いた運送業の権利。なお、江戸時代になると、雑税の一つとして、商・工・漁・鉱・運送などの営業者に対し、賦課した税をも「運上」と称した。]と「隱し田地」などの有しにて、ゆたかに暮していらせられしを、物、ふり、時、うつりて、公儀より、國々の「かくし田地」・諸運上などの、わたくし有(ある)ことなどを手入(ていれ)有し時、「川運上」・「かくし田(だ)」、共(とも)、のこらず、御取揚と成、せんかたなくて、大坂へ御いで被ㇾ成しは、ひぢゞ樣の代なり。

 いかに公儀のことにても、さやうに、むたいに御取上とは、なるまじきことなるを、其頃は、ひぢゞ樣、りつぱ好(ごのみ)にて、公儀御役人にあやまる心、露(つゆ)なく、

「此(この)川の儀は、手前(てまへ)、苗氏(みやうじ)をもて、名と成(なせ)し程のこと、數代(すだい)領し來りしものなれば、いづくまでも我物よ。」

など、少し、りきみ過(すぎ)しがあたり[やぶちゃん注:「返報」の意か。「徒(あだ)」の方が躓かぬ。]と成(なり)、いひつのりに成て、終(つひ)に、なさけなき目にあわせられし[やぶちゃん注:ママ。]とか、伺ひし。

[やぶちゃん注:「播州の城主」「日本庶民生活史料集成」の中谷栄子氏に注よれば、『播磨国の城主野口四郎座衛門、現在も野口の地名がある』とある。兵庫県加古川市加古川町の「ごくらくや仏壇店」公式サイト内の「加古川探訪」の「野口城跡」に、現在の加古川市野口町(のぐちちょう)にあった『「野口城」は室町時代に播磨の土豪・長井四郎左衛門尉国秀が築いたといわれています。「野口城」が歴史の舞台に上がったのは』、天正五~六年(一五七七~一五七八年)の『羽柴秀吉による播磨攻めの時で』籠城『戦法をとった別所長治の三木城の支城として加古川市内に点在する城の中で、一番最初に秀吉の攻撃を受けたのが「野口城」でした。城の周囲は沼が点在する湿地だったようで、守るに易く攻めるに難い地形を活かし、僅か三百名ほどの手勢で包囲して波のように押し寄せる秀吉の大軍を悩ませながら約』二『日間』、『守り通して善戦しました。しかし、やはり多勢に無勢で別所長治の三木城も包囲されていたことから』、『救援も補給も受けられず、ついに落城し』、『全員が討ち死にしたと伝えられています』とある。ここである(グーグル・マップ・データ航空写真。以下同じ)。

「賀古川」古くは加古川をかく書いた。旧野口城の西北約三キロメートル位置に加古川が流れる。加古川は播磨内陸部への重要な交通経路であった。]

 

 さて、ひぢゞ樣御かくれ後(のち)、たつきのために、ぢゞ樣は、醫業、御まねび被ㇾ成しなり。

 紀州家へ、めしかゝヘとならせられても、四十餘(あまり)まで、男子、三人、有ながら、御達(おたつし)しなかりし故、君(くん)、うたがはしくおぼしめされしや、ある時、御かたはら近く、めしよせられて、

「其方こと、としも五十におよびながら、跡目(あとめ)のことは、いかゞ心得たるぞ。」

と、たづねさせ給ふに、ぢゞ樣、さしうつむかれ、しばし、落淚、有て、

「有がたき思召(おぼしめし)に候。私ことは、かねて申上(まうしあげ)しごとく、先祖は長井四郞左衞門と申(まうし)て、一(ひとつ)の城の主(あるじ)とも申されし末(すゑ)の、いかに、たつきなければとて、永く長袖(ちやうしゆう)[やぶちゃん注:医師。]になり、きわまり[やぶちゃん注:ママ。]候はんことは、餘りに口惜しく、先祖へ對し不敬のことゝ存候間、私一代にて跡をたちし所存にて候。」

と申上られしを、君も、尤(もつとも)におぽしめされて、かくべつ、思召を以(もつて)、丈庵にかぎり、跡を武士になし被ㇾ下しは、有がたきことなり。君も君たり、臣も臣たりとやら、申にもあらんか。

 總領は先の四郞左衞門樣、次は善助樣、其ほどは善治と申せしとぞ。父樣は長三郞と申せし故、總領を長庵とは御付被ㇾ成しなり。

 四郞左衞門樣は、澁川流のやはらの傳授、取(とり)、書物も、はづかしからぬほどには御よみ被ㇾ成しなり。酒好(さけずき)にて、大酒なりし。折から、御はなしに、

「大ほね折(をり)てならひしこと、一生に、只、兩度(ふたたび)、役に立(たち)しとおもひし。一度(ひとたび)は若年の時分、亂心もの、拔身をさげて、藏にこもりしを、取手にたのまれしこと、有し。『いかに拔身を持(もち)しとて、亂心物をとらふるに、身ごしらへすべからず』とおもひて、うら付(つき)上下(かみしも)、つまはさみして、藏の戶をおし明(あけ)、すらすらと、よりて、刀(かたな)持(もつ)たる手を取(とり)、腕、まわせしに、何のことも、なかりし。」

と被ㇾ仰し。

 それより、二十年餘をへて、紀州家より賀々[やぶちゃん注:底本ではここに『(加賀)』という補正注が入る。]へ御緣組有し時、御付人(おんつきびと)の奧年寄仰付られ、ひしと、賀々へ、其(それ)、つとめ[やぶちゃん注:底本は「つめ」。これでも意味は通るが、私は「日本庶民生活史料集成」で訂した。]被ㇾ成しに、賀州家にては、上(うへ)より御世話有て、若もの共(ども)の武藝稽古所、有ㇾ之(これあり)、日ごとに、いどみあらそふことなりしに、

「誰は、つよいの、よくつかうの。」

と、いろいろ、いひ唱ふることなりしに、をぢ樣は、

『いまだしきまねびよ。』[やぶちゃん注:『修行が足りない、騒がしいばかりの連中じゃなぁ。』。]

と、御心中におぽしめしたるのみにて、何事も御顏にいだされぬ生(なり)[やぶちゃん注:様子の謂いであろう。]なりし故、

「柔・劍術のことしらぬ故、うちだまりて有(ある)人。』

と、心得たがひせしを、猶、をかしきことゝおぼしめして有しに、若者どもは、

「あの、何もしらぬ付人を、稽古場へ引いだして、紀州家の恥、さらさせん。」

と、いひあわせて、

「ちと、稽古場へ出(いで)られよ、出られよ。」

と、しきりにすゝめしを、益無(えきなき)ことゝ、いろいろ、御(おん)のがれ被ㇾ成しを、ぜひ、出ねば、ならぬやうにしかけし故、御出被ㇾ成しに、

「先づ、こゝを、とらへて、見られよ。」[やぶちゃん注:「まずは、さて、どんな方法でも結構。拙者を、捕まえて、みらるるがよい。」。]

と、いひし時、澁川流にて、御ひしぎ[やぶちゃん注:引き潰すこと。]被ㇾ成しかば、一向、うごかれず、『嘲弄せん』とおもひし人々は、かへりて、恥をかきたりしとぞ。氣味よきことにて有し。

[やぶちゃん注:「澁川流のやはら」関口新心流を源流として渋川伴五郎義方(よしまさ 承応三(一六五四)年~宝永元(一七〇四)年)が開いた柔術流派。当該ウィキによれば、『流祖の渋川伴五郎義方は、関口流柔術二代目関口八郎佐衛門氏業の門人で、天和初年』(元年は一六八一年)『に和歌山から江戸へ出て道場を開いた』。『新流を自称したが、教授内容は関口流の古法を墨守しており、渋川本家は「関口正統渋川流」と称した』。『門人には、義方の養子となり』、『二代目を継承して渋川友右衛門胤親と改名した弓道弾右衛門政賢(友右衛門とは別人とする有力説あり)の他、広島藩士森島求馬勝豊、甲府勤番士薬師寺方正政俊(前名は宮部小左衛門)、熊本藩士井沢蠕龍軒長秀(関口流居合として伝承)などがいる』。『以上のうち、渋川本家と薬師寺の甲州伝は、いずれも大正年間に絶流したが、森島と井沢の相伝は現在に及んでいる』とある。

「二十年餘をへて、紀州家より」加賀「へ御緣組有し時、御付人(おんつきびと)の奧年寄仰付られ、ひしと」加賀「へ其つめ被ㇾ成し」さて、ここに登場する実名人物は一切生没年が判らないのだが、この部分はある程度の時制限定のヒントになるのではあるまいか。紀州家から加賀藩へ最初にちゃんと輿入れした人物というのは、第七代紀州藩主徳川宗将(むねひろ 享保五(一七二〇)年~明和二(一七六五)年)の長女千間姫(寿光院)ではないかと私は推理するからである。]

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