只野真葛 むかしばなし (19)
「父樣、養子にさだまりしは、至(いたつ)て、すみやかのことなりし。」
と、押本元長、かたりし。
工藤・長井のぢゞ樣がたは、幼きより、友達にて、共に遠き祖は由有(よしある)人の、おちぶれたるにて有し故、ことに御懇意なり。
御家へ、めしかゝへのせつ、奧へとほさるゝに、妻子持(さいしもち)でなければならず、
「養子もせねばならぬ。」
と、外にて御はなし被ㇾ成しを、其座の人、
「おかくいはずに、長井の末子(ばつし)を、もらはれよ。」
といひしを、
「それ。よし。」
と被ㇾ仰し故、すぐに長井へ傳へしに、
「よろしからん。」
とて、兩三日のうちに、かた付(つき)、すぐに對面に御いで被ㇾ成しとなり。
其時は十一と被ㇾ仰し。さて、後、十三にて、後(あと)引とり、なるべし。
元長は、もと、長井へ、十五、六にて草履取になりし人なり。心ざし誠なる故、樣々に御とりたて有(あり)て、弟子・若黨に被ㇾ成しを、其内、ぢゞ樣御不幸故、父樣、御せわにて衣躰(いたい)せし人なり。御弟子のはじめなり。後、長井樣の奧醫師と成(なり)て終る。子、なし。本草に器用にて、まねびし人なり。
[やぶちゃん注:「長井」真葛の父である仙台藩江戸詰医師工藤周庵平助の実の父は長井基孝大庵(もとたか 生没年不詳)は紀州藩藩医であった。当該ウィキによれば、『遠祖は播磨国の城主で、豊臣秀吉に滅ぼされ、そののちは郷士として比較的豊かに暮らして現地に暮らしていたという。基孝の父の代に田地調査の折に江戸幕府の怒りを買い、田畑を取り上げられて大坂に出ることとなった。父の没後、長井基孝は生計のために医業を身につけ、紀州藩に召し抱えられ、藩医となった。しかし、基孝は、医師であることを』寧ろ、『恥じており、医者は自分一代にしてほしいと紀州藩主に申し出ている』。『基孝の願いは聞き入れられ、柔術にすぐれた長男四郎左衛門(長井優渥』(「ゆうあく」と読んでおく。因みにこの熟語は一般名詞で「君が臣に対して懇ろに手厚いこと・恵みが厚いこと」を意味する語でもあるから、基孝が藩主に敬意を示してかく名づけたものかも知れない)『は武士として紀伊徳川家に仕え、弓術にすぐれた次男善助(長井基淳)は清水家に仕えることとなった。三男平助は、仙台藩第』五『代藩主伊達吉村の侍医であり、基孝の友人であった工藤安世が藩医として取り立てられる際、妻帯が条件であったため、上津浦ゑんと結婚するのと同時に』十三『歳で養子に出された』。延享三(一七四六)年頃の『ことであった。工藤安世没後、平助は安世の後を継ぎ』、『仙台藩医となった』とある。]
工藤ぢゞ樣の實母は、黑田樣へ、はやくより、御つとめ被ㇾ成しが、はじめ若殿御誕生の御だきもりに御上り、其とのゝ御世(みよ)となりし故、一人にて有しなり。
顏だて[やぶちゃん注:主語は若殿。]、りつぱに、鼻、たかく、殊の外、威《い》の有(ある)人にて、をそれぬ人、なし。思召(おぼしめし)に逢し人、壱人(ひとり)もなく、御殿中の人、おそれおのゝきて有しに、ばゞ樣ばかり、御氣に入にて、
「おゑん、おゑん。」
と被ㇾ仰し故、
「此人の氣に入(いる)人は、どのやうな人か、見たし。」
と、御殿の人、いひし、となり。
ばゞ樣の、萬人に、にくまれぬ御生(おうまれ)なること、是にて、しるし。
[やぶちゃん注:「黑田樣」不詳。知られた黒田氏は福岡藩藩主であるが、歴代、養嗣子が多い。以上の情報からでは、よく判らない。]
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