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« 只野真葛 むかしばなし (20) | トップページ | 怪談老の杖卷之四 厩橋の百物語 »

2021/03/09

怪談老の杖卷之四 藝術に至るの話 

怪談老の杖卷之四

 

    ○藝術に至るの話 

 上州烏川(からすがは)[やぶちゃん注:烏川は利根川右岸の支流(グーグル・マップ・データ)。上流は高崎を流れ、最上流は浅間山の東北の浅間隠山の北に当たる。]の邊に、□□□[やぶちゃん注:原本欠字とする。]といへる法師ありけり。

 本(もと)は大坂にて勝手よき町人なりしが、おかしき業(わざ)を好みて、終(つひ)に生產を破り、落魄無聊(らくはくぶりやう)の身となりぬ。

 まづ、鷄の玉子を投げあげて、箸を以て、挾みとる事を學びけるが、中々に玉子いくつといふ事もなく、破れける程に、家人、是を制して、

「無益なり。」

と諫めけれど、中々、承引せず、

「然らば、下に蒲團(ふとん)なりとも敷(しき)て、卵の破れぬ樣にして、習ひ給へ。」

と、いへば、答へていふ樣(やう)、

「たまごの破るゝにてこそ、『爰(ここ)にて、はさみ留(とめ)ん』とおもふ心、つよければ、自(おのづか)ら、手ごゝろに、味ひ、いできて、其道、成就こそするなれ、たまごをやぶらざらんまうけをせば、其道なるべからず。」

とて、人の嘲りをかへりみず、習ひける程に、年へて後は、十は十、百は百ながら、一ツもおとさず、はさみとりけり。

 かくして業は習ひけれども、產、漸く、是が爲に盡(つき)て、家を亡(なく)して、只、人の爲めに、たまごをはさみて、一座の興(きやう)を助け、それを家業の樣(やう)にて身を過(すぐし)たり。

 一年(ひととせ)、江戶へも來りけるが、傳馬町の桑名屋彌兵衞といふ者のがり[やぶちゃん注:「の方へ」。]、尋ね行て、主(あるじ)に逢ひて、いひけるは、

「此家に祕藏せらるゝ南京の皿、拾枚、有ㇾ之よし聞(きき)及びたり。願はくは、見たき。」と望みければ、彌兵衞、

「やすき事なり。」

迚、出(いだ)して見せけり。

 彼(かの)法師、皿を手に持(もち)て居(ゐ)けるが、

「某(それがし)に一ツのいやしき技藝あり。必(かならず)、驚き給ふな。」

と、いふを、あいづに、彼皿を向ひの床の上へ投げやりけるに、音もせず、手にて直(なほ)すよりも、靜(しづか)に居(ゐす)はりける。

 又、一ツを、投やりければ、ならびて、たがはず、其次へ直りぬ。

 十枚の皿、一ツも、あやまちなく居(ゐ)ならびたるに、あたかも、寸尺をはかりて、ならびたてたるがごとく、其間(ま)の長短、毫(がう)も、たがふ事なし。

 見る人、賞歎して、其妙に伏せずといふ事なし。

 此人、玉子をはさみ習ひてのちは、何にても、物のめあて・かね合(あひ)の事に、ならぬといふ事はなかりけり。

 常にきせるなど、いろいろ、手まさぐりにして、遊びなどしけるが、あるとき、傍に豆のありけるを、吸口の方へのせ、爪にてはじきやりければ、らう竹(ちく)のうヘを傳ひて、雁首(がんくび)にて、とまりけり。[やぶちゃん注:「らう竹」は「羅宇竹」で煙管(きせる)の火皿と吸い口とを繋ぐ竹の管を言う。「らう」は地名のラオスで、「羅宇」は当て字。ラオス産の竹を使ったことからという。]

 又、はじきやりて、豆、四粒を、皆、とめたり。

 末の豆、ひとつは、はぢく拍子に、さきなる豆にあたりて、飛びけるが、あやまたず、雁首の中へ入りける。其妙術、誠に神妙ふしぎ也。

 されば、物をふかくおもひ入れて、不ㇾ怠、習ひぬれば、妙處に至ること、皆々、此道理なり。芥子之助が豆と德利、みなみな、人の見る處なり。是、怪談にはあらねど、奇妙の話なれば、此にしるす。

 此法師、明和元年[やぶちゃん注:宝暦十四年六月二日(一七六四年六月三十日)改元。]、上州にて終れり。

 是も怪異の事にはあらぬが、珍らしき物語のあるなり。

 四ツ谷鹽町(しほちやう)といふ所に、近江屋新右衞門といふ人、有。[やぶちゃん注:「四ツ谷鹽町」現在の新宿区本塩町及び四谷三・四丁目相当(グーグル・マップ・データ)。町名は塩問屋の町であると同時に、当時の輸送機関である牛車の牛に塩を供給するための町でもあった(よくお世話になるサイト「江戸町巡り」のこちらを参照した)。]

 此小者に、名は何とかやいへる、十六、七の奴(やつこ)あり。

 此者の親は、彌兵衞とて、至極の不埓(ふらち)ものにて、酒を好み、夫(それ)ゆへ、身上(しんしやう)も潰(つぶ)して、中間奉公をして居(をり)けるが、男子、二、三人ありけるを、皆々、奉公させ、常に、子供の方(かた)を廻(まは)りては、わづかの給金の内を、せぶり[やぶちゃん注:「せびる」に同じい。]取りける程に、子供も、是を難儀して、

「此程(このほど)かしたる金は、主人に、割なく願ひ、かしたり。かへしたまへ。」

とて催促するをいとひて、[やぶちゃん注:ここからは「十六、七の奴」の「小者」が主語。]我が勤むる屋敷の名もいはず、元より一ツ家(いへ)に重年(ぢゆうねん)する事なく[やぶちゃん注:一年年季を次の年も継続して勤めることをしないこと。]、けふは、番丁に居れば、はや、牛込と、世上の臺所をかぞへて廻りける、しれものなりけり。

 爰に、天龍寺門前に八左衞門といへる、奉公人の肝煎(きもいり)を渡世とする男、あるとき、千駄ケ谷の何がしと云ふ、同じ仲間の家へ用事ありて行けるが、傍に、いと、やみほうけたる病人あり。八左衞門、つくづくと見ければ、我(われ)のしりたる者なれぱ、亭主にいふ樣は、

「是は彌兵衞にては無きか。」

といふ。

「いかにも。彌兵衞也。此者、此間より傷寒を煩ひて、ケ樣(かやう)にくるしみ居(を)れど、いづ方に、身寄(みより)の者有ㇾ之や、しらねば、我等、迷惑、言語同斷なり。わぬし、近付(ちかづき)ならば、身寄の者の有無は知りたらん。」

と問ひければ、八左衞門、

「此者には、れつきとしたる、をとこの子、二、三人もあり。其方(そのかた)へ渡してやられよ。」

といふ程に、亭主、よろこびて、子供の名・勤むる主人など聞きて、早速、新右衞門方へ人を遣はし、

「彌兵衞と申者、大病にて、存命、はかり難し。此子共、そこ元に相勤る由、相談致し度(たく)、尋來り候樣に。」

と云ひ遣しける。

 むすこは、是をきゝて、久しく逢はざる事なれば、驚きて、

『一兩日中に隙を貰ひ、見舞に行かん。』

と思ひけるうち、翌日、彌兵衞、死したり。

「只、今。」

と告來(つげきた)るに、主人も、ともに、驚き、先(まづ)、早速、千駄が谷へ行て、死人をみれば、やみほうけて、姿はかはりたれども、親に相違なし。

「扨も。かく早く死(しに)給ふをしらば、仕方もあるべきを、身持あしき人故、常にうらめしきとおもふばかりにて、逢ふたびに、しかりつけおく計(ばかり)にて、一日の孝行もせざりし事よ。」

と、口(く)どき、口どき、なげきけれども、甲斐なし。

 府中領[やぶちゃん注:武蔵国多磨郡府中(現在の東京都府中市内)にあった幕府領。]に惣領の子ありけるを、呼(よび)よせて、死骸をも、在所の旦那寺へ遣はし、形(かた)の如くのいとなみをして、跡を弔ひ、千駄谷の亭主へも、寸志の禮などおくりて、

「『親はなき、寄(より)』といへる世のことわざに違(たが)はず。なくてぞ、人は戀しかりけり。」[やぶちゃん注:「親はなき寄」「親は泣き寄り、他人は食い寄り」から)、「親子や親族など血縁の者は、何事につけても、真心から相談にのって呉れるということ。「親戚の泣き寄り」などとも言った。]

と、不孝にて過(すぎ)し事を、くやみ居(をり)ける。

 然るに、此新右衞門家に、十二、三の小ものあり。主人の使(つかひ)に市ヶ谷邊へ行きて、道くさをくひ、遊び居(をり)ける所へ、かの彌兵衞、此世にありし時の姿にて來り、後(うしろ)より、手を出して、目をふたぎけり。

「誰じや、誰じや。」

と云ひけれど、だまりて、ふたぎ居けるを、引放(ひきはな)し、顏を見ければ、彌兵衞也。「やれ、彌兵衞どのゝゆうれいが出たは。助け給へ。」

と、よばゝりて、色、眞靑になりて、逃けるが、うちに歸りて、

「やれ、恐ろしや、彌兵衞殿の幽靈につかまれまして。」

と、尾ひれをつけて、はなしけるを、

「何をかな、みて。」[やぶちゃん注:「どうせ、誰かを、見間違えたんじゃろ。」の意か。]

とて、とりあげざりしに、二、三日過(すぎ)て、今度は、近江屋へ來りぬ。

「それ、幽靈よ。」

と云程こそあれ、みせのもの共、皆、逃(にげ)て、内へ、はいる。

 彌兵衞は、心得ぬ顏色にて、上へあがり、此中(このうち)、これの小者に逢ひて、なぶりたれば、

「ゆうれいよ。」

とて、逃たりしが、

『氣違(きちがひ)の下地ならん。』[やぶちゃん注:「生まれつきの気狂い持ちなんじゃろう。」の意か。]

と案じ居りければ、

「けふは、皆々、ゆうれいといはるゝこそ、わけあるべし。」

と、いふ。

 その内、彌兵衞が子も歸りて、肝をつぶし、

「いかゞして來り給ふ。」

と云(いふ)に、彌兵衞、いよいよ、合點せず、

「われ、煩ひし事なく、そく才[やぶちゃん注:「息災」に同じい。]なり。千駄谷にて、はうぶりしは、人違(ひとちがひ)ならん。」

といふになりて、

「それ。」

と、いひ出して、俄に千駄谷の亭主・在所の兄へも、人、遣はし、よび集めて、詮議す。

 千駄谷にては、天龍寺前の八左衞門が口にて、人をやりて、その方(かた)たちへ知らせたり。

「元は、誰が親とも、誰が子ともしらぬ風來者なり。」

と、いふにぞ、いよいよ、人違ひにきはまりけれど、とかく、いひつのりて、すまず。

 終に、公裁(こうさい)に及びけるが、栗原何某殿[やぶちゃん注:不詳。]、町奉行の時の事なり。

 世忰共(よせがれども)[やぶちゃん注:弥兵衛の子供ども。]は干駄ケ谷を訴へ、千駄ケ谷は八左衞門を訴ふ。

 八左衞門、申けるは、

「わたくし千駄谷へ參り、病人を見候へば、彌兵衞によく似たれば、彌兵衞と申(まうし)、いかにも『彌兵衞』と申(まうす)に付(つき)、身よりの者の詮議になりて、子供の方(かた)を告知(つげし)らせ申(まうし)たる所、人違・不調法の段、恐れ入り奉りぬ。しかし、似たと申せば、是れほど、似たる者もなき事にて候。」

と、申ければ、町奉行、笑はせ給ひて、

「夫(それ)は、その方が見違(みちがひ)候段、相違あるまじ。そこに居る兄(あに)いどのが、似たればこそ、親とおもひて葬りたれ。いづ方のものといふ事はしれねど、因緣ありて弔ひ遣はしたるものとあきらむべし。たて。」

と宣(のたま)ふ。

 葬(はふり)の入用(いりよう)など、不身上(ふしんじやう)のもの[やぶちゃん注:経済的に困っている者。]、迷惑に及ぶ段、願ひければ、大(おほき)に呵(しか)り給ひて、

「其方共、現在の親を粗末に致せし段、申付(まうしつく)る筋(すぢ)あれども、寬大の御沙汰にて、さしゆるす處に、惡(に)くき奴(やつばら)なり。」[やぶちゃん注:対象が複数と思われるので「ばら」をつけた。]

と、呵られて、恐れ入りて、さがりけると、いへり。

 前代未聞、珍らしき物語なり。

[やぶちゃん注:標題は「藝、術(じゆつ)に至る」であるが、後者の話柄とは関係しないのが、まず、不満。内容も、前者はあってもちっともおかしくない奇談で怪談ではないし、後者は確信犯の疑似怪談で、明らかに落とし咄として作られてあって、息抜きのつもりかも知れぬが、リアリズムはあるものの、僅かな期待をも足元から掬われて読者も一緒に奉行から笑われた感じがして、私としては、何だか面白くも糞くもない。孝を諭すものとしても、親が親らしい存在でなく、子も最後のお裁きで豹変してしまい、全く機能していないから出来が悪いと言わざるを得ず、「名裁き」物としてなら、寧ろ、陳腐で、私は全く買わない。]

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