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2021/03/30

只野真葛 むかしばなし (25)

 

○父樣には權門方(けんもんがた)の御用は數年御勤被ㇾ成しが、「病用は御家中ばかりにて、上の御用にたゝぬ」ことゝて、折々、なげかせられしを、德三郞樣御二歲の秋、御大病の節、御奉藥被ㇾ仰付しを、殊の外、御悅(およろこび)にて有し。誠に御大病にて、人もなきものとし奉るほどのことなりしを、おもひの外に御本復被ㇾ遊しかば、其御ほうびとして、嶋ちゞみ二反・銀子五枚被ㇾ下し。有がたきことながら、御家にてこそ、御次男樣とて、をとしめ奉れども、世上にては、父君ましまさぬ御代の御次男樣故、御世つぎ同前とぞんじ上(あげ)し故、

「逢(あふ)人ごとに、『此ほどは大御手(おほおて)がらなり。さて、御ほうびはいか樣のしな被ㇾ下しや。』と、たづねらるゝ挨拶にこまりし。」

と被ㇾ仰し。

「其節《ふし》は、あかぬことのやうにおもはれしが、今となりて考れば、いさゝかにても御加恩がましきこと有(あり)て、人のたからと成(なり)はてなば、いかばかり心にかゝらん、何事なきぞ心やすき。」

と、かへすがへす、おもはれたり。

[やぶちゃん注:「德三郞樣」これは、実際に後の仙台藩第十代藩主となった伊達斉宗(なりむね 寛政八(一七九六)年~文政二(一八一九)年)の幼名である。寛政八年九月十五日(一七九六年十月十五日)に第八代藩主伊達斉村の次男として江戸袖ヶ崎の下屋敷にて誕生(母は喜多山美昭(藤蔵)の娘)したが、父斉村は既に同年七月二十七日に死去しており(仙台城で病没。享年二十三)、父の死去後の出生である。工藤丈庵平助は宝暦四(一七五四)年に二十一歳で工藤家三百石の家督を継ぎ、仙台藩江戸詰藩医を継いでいるから問題ない。寛政九(一七九七)年当時の平助は六十四歳(平助は寛政十二年十二月十日(一八〇一年一月二十四日)没)であった。斉宗は文化元(一八〇四)年に上屋敷に引越しており、同年に水痘を患ったが、後に全快している。逆に、文化六(一八〇九)年に兄で第九代藩主を形式上(後注参照)継いでいた周宗(生後一年足らずで仙台藩主を相続した。本来なら将軍の御目見を得た後継者でないため、相続出来ないはずであるが、斉村の死去を幕府や家臣に隠した上、親族の若年寄堀田正敦(近江国堅田藩主。後に下野国佐野藩主)や土井利謙(三河国刈谷藩主)、重村の正室で養祖母であった観心院とが協議し、幕府に対して末期養子での相続願いを出した上で襲封、同時に当代の第十一代将軍徳川家斉の三女綾姫と婚約した)が、文化六(一八〇九)年一月四日に十四歳で疱瘡に罹り、その後遺症のため、三年間、表に出られず、代わりに徳三郎(後の斉宗)が儀式や接客を担当した――というのは表向きで実際には疱瘡のために周宗は十四歳で没していた可能性が高い。文化八(一八一一)年に周宗の偏諱を受け、文化九(一八一二)年に兄周宗が〈初御目見なしの隠居〉という特例下の藩主就任に続く隠居を受けて家督相続した(以上は両兄弟の当該ウィキに拠った)。この事実はウィキの「工藤平助」にも載せられており、寛政九年七月には『第八代藩主伊達斉村の次男で生後』十『ヶ月の徳三郎(のちの』第十代藩主『伊達斉宗)が』、『熱病のため』、『重体に陥ったものの』、『平助の治療により』、『一命を取りとめた。平助はその褒賞として白銀』五『枚、縮』二『反を下賜された』とある。

「嶋ちゞみ」山繭糸を入れて織り出した縮緬。山繭糸は染色によって染まらないので自然と縞が出る。ちまちり。]

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