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2021/03/30

芥川龍之介書簡抄24 / 特異点挿入★大正二(一九一三)年或いは翌大正三年の書簡「下書き」(推定)★――初恋の相手吉村千代(新原家女中)宛の〈幻しのラヴ・レター〉――

 

[やぶちゃん注:以下は葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」(岩波書店一九七八年刊)の「書簡補遺」に載るものを底本とした。本書簡と思われるものは、実際に当該人物に送られたものであるかどうかは不明で、これは取り敢えず「下書き」と推定しておく。底本では最後に葛巻氏の注があり、吉村千代について、『編者の幼時、幼稚園の送り迎えをしてくれた、芝の実家の女中さん』とある。吉村ちよ(明治二九(一八九六)年十月二日~昭和四(一九二六)年十一月二十二日)は龍之介の実家にいた女中であった。二〇〇三年翰林書房刊「芥川龍之介新辞典」の彼女の項(「ちよ」の平仮名はそれに拠った表記)によれば、龍之介より四つ年下で、新原家(芝区新銭座町。現在の港区浜松町)へ入ったのは十五歳頃と推定されている。とすれば、明治四四(一九一一)年か、その前年(龍之介は十八、九歳の時で、芥川家が新宿の家(この家は本来は葛巻義定(義敏の実父)と龍之介の実姉ヒサの新居として新原敏三が建てたものであったが、二人が離婚したため、ここが芥川家に提供されたのであった)移った時期(明治四十三年十月)と合致する。しかも「ちよ」は葛巻氏の注にある通り、実はヒサ附き(専属)の女中であった(だから義敏の幼稚園の送迎をしている。義敏は明治四二(一九〇九)年生まれ)ことも判っている。されば、龍之介との接点が濃厚に見えてくるのである。御存じの通り、龍之介は芥川家の養子にやられたのだが、実父敏三は露骨に実家へ戻るように慫慂した(「點鬼簿」の「三」を参照されたい)。そうしたややこしい関係とは別に、龍之介は、無論、しばしば新原の家にも頻繁に出入りしていたのである。私は一枚の写真しか持たないが(「新潮日本文学アルバム」)、鼻筋の通った南方系の美人である(大正一〇(一九二一)年頃のもの)が、私の個人的感想に過ぎないが、どこか幸薄い感じを与える写真である。事実、誠実だったという彼女の後の半生は、「芥川龍之介新辞典」に少し詳しく書かれているのであるが、三十で亡くなった彼女は、少なくとも私には決して幸せだったという感じを受けない。私は、芥川龍之介が愛した女性は、多かれ少なかれ、龍之介の面影を引き擦って後半生を生きざるを得なかったと考えている(特に私が追跡した佐野花子片山廣子は間違いなくそうであるし、龍之介の妻文の友人で、文自身の懇請によって、晩年の龍之介の話し相手となり、帝国ホテルでの心中未遂の相手となった平松麻素子もそうであると思う)。私はその一人に、この吉村千代も加えるべきであると考える。ところが、「芥川龍之介新辞典」の「吉村ちよ」の記載(篠崎美生子氏執筆)の最後には、志賀直哉の「大津順吉」(大正元(一九一二)年九月発表)に登場する主人公順吉が惹かれる大津家の若い女中「千代」(「C」とも記す)との相同性を指摘し、『この手紙はむしろ、「大津順吉」的悲恋へのあこがれが、いかに当時の青年層に共有されていたかを示す資料として見た方がよいかもしれない』と記しているおられるのには、正直、大いに呆れかえった。作家論+テクスト論+文学史的検証を安易に綯い交ぜにし、カタをつけた上、鬼の首を捕ったようにぶち上げたこれは、私は「なんじゃ!?! こりゃアア!!」とジーパン刑事のように叫ぶしかなかった。『資料』かい? 芥川龍之介も、さぞ、微苦笑するだろうゼ!]

 

大正二(一九一三)年或いは同三年頃(推定)・吉村千代宛・(草稿)

 

今 芝からかへつた所。ひとりで之を書く。

ちよの事を思ふとさびしくなる、ひとりで本をよんでゐて ふと 今頃は何をしてゐるだらうと思ふとさびしくなる、もうみんな忘れてしまつたかしらと思ふとなほさびしくなる

このあひだ 得ちやんのうつした寫眞をみて「おばさんもお冬さんも ちよも皆 妙にうつつてゐる」と云つたら 太田さんが「おちよさんはからだがわるいから」と云つた。どこが惡いのだらうと思ふと 心配にさへなつてくる からだは大事にしないといけない

いつでも芝へ行つたかへりには 宇田川町の停留所まで わざとぶらぶらあるく さうして今にうしろで やさしい足おとがしはしないかと思ひながら 用もない道具屋の店をのぞいたり 停留場でいくつも電車をのらずにゐたりする、あつて一しよにあるいても 何一つはなせるのではなし その上 二入とも氣まりが惡くつて いやなのだけれど それでも 二人でゐると云ふ事はうれしい

まして二人だけで 二時間でも三時間でもゐられたら どんなにうれしい事だらうと思ふ たゞ さう云ふ時の來ることを いのるより外に仕方はない

前のやうにたびたび芝にゆかれないのでさびしいけれど がまんをしてゐる。あはないでゐるうちに ちよがみんなわすれてしまひそうな氣がする、だんだんゆびにもさはらせないやうになりさうな氣がする さう思うとさびしい。

ちよ ちよとよびずてにしたのはなぜだか自分にもわからない わるければもつとていねいに「さん」の字をつけます。

 

ぼくはこの頃になつて いよいよお前がわすれられなくなつた 今までもお前を愛してゐた事は愛してゐた、しかしこの頃は心のそこからお前の事を思ひ又お前のしあはせをいのつてゐる。

ぼくは今まで お前をじゆうにしない事をざんねんに思つてゐた。お前のからだをぼくのものにしない事をものたりなく思つてゐた、ぼくは今になつて かう云ふ事ばかり考へる愛はほんとうの愛ではないと云ふ事を知つた。これからのぼくには そんな事はどうでもいゝ、たゞお前とお前の心心ちとを かはゆく思つてゆかう 心のそこからお前をかはゆく思つてゆかう。

ぼくははじめ お前と一しよになれないなどと云ふ事は大した事だとは思はなかつた 一しよになれなくつても二人の心の中で思ひあつてゐればいゝと思つてゐたからだ。それが この頃では そうでなくたつた、お前がどこかへかたづくとしたら ぼくはどんなにつらいだろう。どんなにひとりでくるしい思ひをするのだろう[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、またぼくがよめをもらふにしても どんなに お前の事を思ひ出すだろう。どんなにお前をわすれずにゐるだろう。今のぼくから云へば どんな女でも お前よりぼくがかはゆく思ふ女はないと思ふ。ぼくのよめになる人にはきのどくだが ぽくはとてもその人をお前よりかはいゝとは思へないのにちがいない。ぼくがお前を思ふやうに お前もぼくを思つてくれるかどうかそれはぼくにはわからない。けれど ぼくだけについて云へば 一しよになれないお前をこんなにふかく こんなに心から愛すると云ふことは なんと云ふなさけない事だろうと思ふ

それをかんがへるとぼくはほんとう[やぶちゃん注:ママ。]にかなしくなる。ぽくはたつたつた一人、すきな人を見つけて そのすきな人と一しよにゐられない人げんなのだ、やかましく云へばそのすきな人の手にさへさわれない[やぶちゃん注:ママ。]人げんなのだ、さうしてそのすきな人がよその人のところにかたづくのを見てゐなければならない人げんなのだ。ぼくの心ぼそくなるのもむりはないだらう。

しかしお前もぼくも、一どはつよくなつて おたがひをわすれなければならない、ぼくはまへにぼくをわすれてはいやだとお前に云つたことがある。今では出來るならぼくの事なんぞすつかりわすれてしまつてくれと云ひたい、ぼくはとてもお前をわすれることは出來ないし、また わすれようとも思はないから、せめてお前がぼくをわすれてしまへば、ぼくの方でもお前をうらむし 一つには今までばかにされてゐたやうな氣がして はらがたつから そのいきほひでいくぶんかはお前の事もわすれられるかもしれないと思ふ、しかし それまでに ぽくはなんどなく[やぶちゃん注:ママ。]かわからないだろう[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。] いくぢのないはなしだけれど。

ぼくはほんとうに 今では心のそこからお前を愛してゐる。お前はだまつてゐるときも わらつてゐるときも ぼくにとつてはだれよりもかはゆいのだ 一生、だれよりもかはゆいのだ。たとヘぼくのじゆうにならなくとも かはゆいのだ さうして、ぼくがお前をかわゆがる[やぶちゃん注:ママ。]と云ふ事が お前のしあはせのじやまになりはしないかと思つて心ぱいしてゐるのだ、ぼくは心のそこから おまへのからだのじようぶ[やぶちゃん注:ママ。]な事とお前がしあはせにくらす事とをいのつてゐる

 

ぼくはこのごろ ほんとうにお前がわすれられなくなつた、今まではお前のからだをぼくのものにしないのをざんねんに思つてゐたが 今はそんな事はどうでもいゝ たゞぼくが心のそこからお前をかはゆく思ふやうに お前もぼくの事を思つてくれたらそれでたくさんだ。

このごろ ぼくはまた、お前がかたづく時の事をかんがへた。そうしたらどうしていゝのだかじぶんでもわからなくなつた お前がかたづくとしたらどんなにぼくはさびしひ[やぶちゃん注:ママ。]だろう どんなにぼくはつまらないだろう。とても一しよになれる事の出來ないお前をこんなにふかく こんなに心から愛すると云ふ事は ずひぶん[やぶちゃん注:ママ。]なさけない事だと思ふ。もしまたぼくがよめでももらふとしたら どうだらう、ぼくは どの女でもとてもお前ほどかはゆくは思はれないのにちがひない お前ほどしんようする氣にはなれないのにちがひない、さうだとしたら ぼくの不しあはせばかりではなくぼくのよめになる人の不しあはせにもなるだらう お前がかたづくにしても ぼくがよめをもらふにしてもどつちにしても ぼくはいやな思ひをするより外はない、もしお前がほんとう[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]に思つてくれるなら やつぱりお前がかたづく時でも ぼくがよめをもらふ時でも いやな氣がするだらう。して見ると わるいのは ぼくなのだ。はじめに お前がすきだと云ひ出した ぼくがわるいのだ。ぼくがさう云ひさへしなかつたら なんにもなかつたのにちがひないのだから。

しかし、これはお前もかんにんしてくれるだらうと思ふ

ぼくは、お前をいつまでも今のやうに思つてゐたい、いつまでも心のそこから 誰よりもかはゆく思つてゐたい、さうして出來るだけ よめなどをもらはずに お前一人をなつかしく思つてゐたい もつとも出來るだけお前もかたずかずにゐた方がいゝなどとは ぼくの口から云へたぎりではないけれども さうだつたらなほいゝやうな氣がする しかしこれは氣だけだ、ほんとうは ぼくの事なんかかまはずに いゝ所があつたらかたづいた方がいゝ、ぼくはどんなにつらくつてもがまんをする。さうして お前がかたづいた先の人としあはせにくらせるやうにいのつてやる、もしそのさきの人がお前をいぢめたりなんぞしたらしようち[やぶちゃん注:ママ。]しない、きつとぼくがかたきうちをしてやる。ほんとうのことを云へば、どこへもお前をやりたくない。やるにしても このままでやりたくない 十日でも一週間でも 一しよになかよくしてみたい お前のからだをぼくのものにしなくつても たゞ一しよにごはんをたべたり 外をあるいたりして見たい 誰も知つた人のない どこかとほいくにのちいさな村へ うちを一けんかりて そこにすむのだ。お前に ごはんをたいてもらつて ぼくが本をよんだり なにかかいたりする。

はたけへ くだもののなる木をたくさんうゑて その中へ小さなにはとり小屋もこしらへてやる。さうして二人で くだものをとつたり とりにえ[やぶちゃん注:ママ。]をやつたりするのだ 何をやるのも二人でするのでなくては つまらない それから そのくだものの木のかげで さう云ふふうにしづかに しあはせに ほんの一週間でもくらしてみたい(一生なら なほうれしいけれど)

ぼくは ほんとうに お前を愛してゐるよ お前もぼくのことさへわすれずにゐてくれゝばいゝ それでたくさんだ それより外のことをのぞむのは ぼくのわがまゝだと氣がついた たゞわすれずにゐておくれ

 

[やぶちゃん注:前掲の「芥川龍之介新辞典」の「吉村ちよ」のコラムの中の「片恋の歌」では、前の「芥川龍之介書簡抄13 / 大正二(一九一三)年書簡より(1) 二通」の山本喜誉司宛書簡大正二(一九一三)年三月二十六日附に記された短歌の四首を掲げ、『この片恋の対象は、以前は』知られた芥川龍之介の敗れた初恋の相手として著名な『吉田弥生と目されていたが、時期が早いことから、ちよを想う歌と考えられるようになった』とある。私には物理的傍証がなく、吉田でないとも言えぬし、「ちよ」だとも断定は出来ないと思う。「片戀」が想像上の仮想でないと断言も出来ぬからである。

「得ちやん」芥川の七つ下の異母弟新原得二(にいはらとくじ 明治三二(一八九九)年~昭和五(一九三〇)年)。龍之介の実父新原敏三と実母フクの妹で、フクの死後に敏三の後妻となったフユとの間の子。

「おばさん」不詳。

「お冬さん」フユであろう。

「太田さん」不詳。新原家の使用人か。]

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