「和漢三才圖會」巻第十四「外夷人物」より「飛頭蠻」
ろくろくび
俗云轆轤首
飛頭蠻
三才圖會云大闍婆國中有飛頭者其人目無瞳子其頭
能飛其俗所祠名曰蟲落因號落民漢武帝時因※國使
[やぶちゃん注:「※」=「忄」+(「遅」-「辶」)。「三才圖會」原本でも同じ。「東洋文庫」版では「稺」とする。]
南方有解形之民能先使頭飛南海左手飛東海右手飛
西澤至暮頭還肩上兩手遇疾風飄於海水外
南方異物志云嶺南溪峒中有飛頭蠻項有赤痕至夜以
耳爲翼飛去食蟲物將曉復還如故也
搜神記載呉將軍朱桓一婢頭能夜飛
太平廣記云飛頭獠善鄯之東龍城之西南地廣千里皆
爲鹽田行人所經牛馬皆布氊臥焉其嶺南溪洞中徃徃
有飛頭者而頭飛一日前頸有痕匝項如紅縷妻子看守
之其人及夜狀如病頭忽離身而去乃于岸泥尋蠏蚓之
類食之將曉飛還如夢覺其實矣
△按以上數說有異同闍婆國中所有之種類乎而其國
中人不悉然也於中華日本亦間謂有飛頭人者虛也
自一種異人而已
○やぶちゃんの書き下し文
ろくろくび
俗に云ふ、「轆轤首(ろくろくび)」。
飛頭蠻
「三才圖會」に云はく、『大闍婆國(だいじやばこく)の中、頭を飛ばす者、有り。其の人、目に瞳子(ひとみ)無く、其の頭、能く飛ぶ。其の俗、祠(まつ)る所、名づけて「蟲落」と曰ふ。因りて、「落民」と號す。漢の武帝の時、因※國〔(いんちこく)〕[やぶちゃん注:「※」=「忄」+(「遅」-「辶」)。「三才圖會」原本でも同じ。「東洋文庫」版では「稺」とする。]、南方に使ひす。解形の民、有り、能く、先づ、頭をして南海に飛ばしむ。左の手は東海に飛び、右の手は西澤に飛ぶ。暮れに至りて、頭、肩の上に還る。兩の手、疾風に遇へば、海水の外に飄(ひるがへ)る。』と。
「南方異物志」に云はく、『嶺南の溪峒の中に「飛頭蠻」有り。項(うなじ)に赤き痕(あと)有り。夜に至りて、耳を以つて、翼(つばさ)と爲し、飛び去り、蟲物を食ふ。將に曉(あけ)なんと〔せば〕、復た還りて故(もと)のごとし。』と。
「搜神記」に載(の)す。『呉將軍朱桓〔(しゆこう)〕が一婢(つかひもの)の頭、能く、夜、飛ぶ。』と。
「太平廣記」に云はく、『飛頭獠〔ひとうりやう〕は善鄯〔(ぜんぜん)〕の東、龍城の西南の地、廣さ千里、皆、鹽田たり。行人〔(かうじん)〕、經〔(へ)〕る所、牛馬、皆、氊〔(まうせん)〕を布(し)いて臥す。其の嶺南の溪洞の中に、徃徃〔わうわう〕、飛頭の者、有りて、頭の飛ぶ一日前に、頸(くびすぢ)、痕(きず)有りて、項(うなじ)を匝(めぐ)る〔こと〕紅き縷(すぢ)のごとし。妻子、看て、之れを守る。其の人、夜に及びて、狀、病(や)めるがごとくして、頭、忽ち、身を離れて、去る。乃〔(すなは)〕ち、岸泥に于(おい)て、蠏〔(かに)〕・蚓〔(みみず)〕の類を尋〔(もと)〕めて、之れを食ふ。將に曉けんと〔せば〕、飛び還りて夢の覺(さ)めたるがごとくにして、其れ、腹、實〔(み)〕つ。』と。
△按ずるに、以上の數說、異同有り。闍婆國の中に有る所の種類か。而〔れども〕、其の國中の人、悉く然るにはあらざるなり。中華・日本に於いて、亦、間(まゝ)、「飛頭人、有り」と謂ふ者は、虛(うそ)なり。自(みづか)ら一種の異人〔たる〕のみ。
[やぶちゃん注:所謂、「ろくろ首」でその起原はご覧の通り、中国「原産」である。本邦のそれは首がにょきにょきと伸びるのであるが、中華のそれは、切れて飛ぶのがオーソドックス。但し、切れた双方の断面は丸太のようなつるんとしたものらしく、その中央(推定)に糸のようなものが連絡して胴と首の間を繋げているとも言われる。それを見つけて、胴体を少しでも元の場所から移動させると、頭は永久に戻って接合合体することが不可能になるというのも、かなり一般的なお約束である。私の怪奇談には枚挙に暇がないのだが、私の注も含めて博物学的書誌学的によく纏まっているのは、まず、「柴田宵曲 妖異博物館 轆轤首」で、また、私がかなり注を拘った怪談物では、「古今百物語評判卷之一 第二 絕岸和尚肥後にて轆轤首見給ひし事」が参考になろう。そうして忘れてはならぬのが、「小泉八雲 ろくろ首 (田部隆次訳) 附・ちょいと負けない強力(!)注」である。恐らく、この怪異を世界的に日本の話として知らしめた功績は、これに尽きると言ってよい。是非、孰れも目を通されたい。失望させない自身はしっかりある。
「三才圖會」は絵を主体とした明代の類書。一六〇七年に完成し、一六〇九年に出版された。王圻(おうき)とその次男王思義によって編纂されたもので、全百六巻。本寺島良安の「和漢三才図会」はそれに倣ったもので、それを標題とするが、本草関係の記載は、概ね、明の李時珍の「本草綱目」に拠るものが殆んどである。引用は「人物第十二卷」の「大闍婆國」で、こちらとこちら(国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像)だが、飛頭蛮は後者での記載のみであり、前の図版は同国の民を描いてあるだけで、頭が飛ぶ姿は描かれていない。期待されて失望されるのは困るので、一言言い添えておく。
「大闍婆國(だいじやばこく)」インドネシアを構成する一島であるジャワ島(グーグル・マップ・データ。以下同じ)のこと。イスラム国家があった。
「祠(まつ)る所」祀っている対象の神。
「蟲落」この場合は、具体な昆虫ではなく、人に災いや病気を齎す禍々しい対象(本邦の「疳の虫」のような具合に)を「蟲」と名指しているものであろう。それに、飛頭蛮が虫類を捕食してくれるという伝承が類感したに過ぎまい。東南アジアには、飛翔する女性の首の邪悪な妖怪がいると信じられていると読んだことがあり、そうしたものとの親和性(本邦の御霊信仰と同等)もあるかも知れない。
「落民」「首が落ち離れる人」の謂いであろう。
「漢の武帝の時」在位は紀元前一四一年から同八七年。
「因※國〔(いんちこく)〕」(「※」=「忄」+(「遅」-「辶」)。「三才圖會」原本でも同じ。「東洋文庫」版では「稺」とする)不詳。「東洋文庫」訳の割注には、『西域にあったらしい国』とする。
「解形の民」自分の人体を自由に分離させることが出来る人間の意。
「海水の外に飄(ひるがへ)る」戻ることが出来なくなって、海の上に浮かんで漂流してしまう、の意。
「南方異物志」唐の房千里銭撰。一巻。
「嶺南」現在の広東省及び広西チワン族自治区の全域と湖南省・江西省の一部に相当する広域を指す。この附近。
「溪峒」渓谷の洞窟。
「項(うなじ)に赤き痕(あと)有り」実はこれが江戸時代の多くのいわれなき「轆轤首」イジメの一因であった。普通の人より撫で肩で、首が少し長く見える女性や、首の咽頭部辺りに少し濃い目の筋があったり、体質的にその筋が赤みを帯びて目立つ場合、「あの娘はろくろっ首だ!」という噂を立てたがったのである。実際にそうした疑似怪談が結構ある。そうした一本に私の「耳囊 卷之五 怪病の沙汰にて果福を得し事」というハッピー・エンドの話がある。見られたい。
「搜神記」六朝時代、四世紀の晋の干宝の著になる志怪小説集。神仙・道術・妖怪などから、動植物の怪異・吉兆・凶兆の話等、奇怪な話を記す。著者の干宝は有名な歴史家であるが、身辺に死者が蘇生する事件が再度起ったことに刺激され、古今の奇談を集めて本書を著したという。もとは 三十巻あったと記されているが、現在伝わるものは系統の異なる二十巻本と八巻本である。当時、類似の志怪小説集は多く著わされているが、本書はその中でも、比較的、時期も早く、歴史家らしい簡潔な名文で、中国説話の原型が多く記されており、後の唐代伝奇など、後世の小説に素材を提供し、中国小説の萌芽ということが出来る。先のリンクの後の二つで当該話の電子化と訓読をしてあるので参照されたい。話はもっとちゃんとしていて、首が離れた胴体の観察も記されてあるのである。
「呉將軍朱桓」[やぶちゃん注:孫権の下で将軍を務めた。「三国志」に伝が載る。
「一婢」一人の下女。
「太平廣記」宋の李昉(りぼう)ら十三名が編した類書(百科事典)。全五百巻。九七八年成立。太宗の勅命によって正統な歴史にとられない古来の野史・小説その他の説話を集め、内容によって神仙・女仙・道術・方士等、実に九十二項目に分類配列されてある。同前で先のリンクの後の二つ参照。
「飛頭獠」この「獠」は「獰猛な・凶悪な」の意味や「狩をする(犬)」などの意がある。しっくりくる意味である。
「善鄯」これは恐らく「鄯善」の転倒である。所謂、かの、中央アジアのタリム盆地のタクラマカン砂漠北東部(現在の新疆ウイグル自治区チャルクリク)あった都市国家楼蘭である。紀元前七七年に漢の影響下で国名を「鄯善」と改称している。
「龍城」「東洋文庫」割注に、『現在の熱河』(ねっか)『省朝陽県』とある。これは旧省名で、現在では、現在の河北省・遼寧省及び内モンゴル自治区の交差地域に相当する。「ジェホール」の呼び名がよく知られる。現在の遼寧省朝陽県はここだが、ここで言っているのはもっと西方でないとおかしいが、以下の数値でOKだ。
「千里」宋代の一里は五百五十二・九六メートル。五百五十三キロメートル。
「行人」旅人。
「經〔(へ)〕る所」通過した時の風景の描写。
「嶺南」ここは一般名詞の「山脈の南」と採る。
「岸泥」河川・池沼の岸辺の潟。
「腹、實〔(み)〕つ」腹はいっぱいになっている。怪奇談のリアリズムのキモの部分。というか、首が食ったカニやミミズは恐らく何らかの超自然のシステムによって、空間移動をして腹に入るとするのが面白かろう。
「闍婆國の中に有る所の種類か」この良安の考証はそれぞれの引用の場所が南北に複数ばらついているのであるから、不全である。「それぞれの国や地域の中に、そうした頭を分離して飛ばすことが出来る特別な人間がいるのか?」でなくてはおかしい。
『中華・日本に於いて、亦、間(まゝ)、「飛頭人、有り」と謂ふ者は、虛(うそ)なり。自(みづか)ら一種の異人〔たる〕のみ』という言説は良安にして「よくぞ、言って呉れました!」と快哉を叫びたくなる。動植物類で彼は安易に化生説を唱えているのを考えると、ここでは非常に賛同出来る科学的な見解を述べているからである。]
« 芥川龍之介書簡抄22 / 大正三(一九一四)年書簡より(一) 二通 | トップページ | 譚海 卷之四 奥州仙臺風俗の事 »