越後國里數幷日蓮上人まんだら義經謙信等故事
○越後國と信濃國とはうしろあはせの國にして、越後のながさ九十二里なれば、信濃の長さも九十二里なり。越後は長き國にて、北海より信濃のさかひまでは甚だせまく、六七里十里に及べる所のみ也。此九十二里さながら北國海道にて荒磯を行(ゆき)、「親しらず」などいふ所は殊に恐ろし。懸崖絕壁のもとを通ふ道にて、荒波うちよせて道をひたし、前後によくベき所なし、五六間のあはひ殊に難所也。北國海道越後までは田舍の風俗なり、能登國に入(いり)てやうやく人物かはれり。越後てらとまりに石川七左衞門といふもの有、日蓮上人佐渡へ流罪の時止宿ありし家なり。此もののかたに上人附屬のまんだらを所持せしが、前年身延山へ納めて、其請取證狀今に所持せりとぞ。又其家のむかひに酒屋あり、源九郞義經奧州くだりの時止宿ありし家にて、よしつね辨慶等の謝狀今に所持せしといへり。新潟といふ所は殊に繁華の都會なり。又其國の春日山は上杉謙信の古城跡也、高山にして山上に古井有、廣さ四五間ひでりにも水たゆる事なし。里民雨乞をするとき、石を此井に投ずればかならず雨降(あめふる)といふ。越後海道に出て望めば、目にかゝるものは佐渡の國と能登の國ばかり也。能登の出崎と佐渡のあはひは、わずかに四五間ばかりはなれたる樣に見ゆれども、廿里よをへだてたる所なり。晴天にはありありと山の姿手にとるほどにみゆるといふ。越後出雲崎の船問屋は關東屋彌平といふもの殊に大家也、四方入津(にふしん)の舟こゝにやどらずといふ事なく切れもの也。
[やぶちゃん注:「越後のながさ九十二里」三百六十一キロメートル。これはかなり大雑把な内陸直線の距離で、珍しく過小と言える。現行では、「新潟県統計年鑑」(二〇一八年)によれば、現在の新潟県の海岸線の総延長は六百三十四キロメートルにも及ぶからである。
「信濃の長さも九十二里」こちらは過大。信濃国は現在の長野県と岐阜県中津川市の一部が含まれるが、長野県で東西約百二十八キロメートル、南北約二百二十キロメートルで、南北距離で中津川をそのままドンブリで算入しても約二百五十キロメートルほどにしかならないと思われる。こちらは、どこをどう計算したものか、よく判らない。
「北海より信濃のさかひまでは甚だせまく、六七里十里に及べる所のみ也」二十三半から二十四キロメートル半であるが、現行、最も短いのはフォッサ・マグナの糸魚川線で、約十四キロメートルであるから、過大である。
「てらとまり」現在の新潟県長岡市寺泊上片町に寺泊港(グーグル・マップ・データ)はある。
「石川七左衞門」不詳。
「日蓮上人佐渡へ流罪の時止宿」確かに日蓮は流罪の際には寺泊から佐渡に渡らせている。
「附屬」謝礼として添えて与えたものの謂いであろう。
「まんだらを所持せしが、前年身延山へ納めて、其請取證狀今に所持せりとぞ」確認出来ない。この「まんだら」とは無論、「曼荼羅」で、「南妙法蓮華經」の文字に拠る独自の文字曼荼羅であろう。鎌倉の妙本寺にある日蓮「臨滅度時の御本尊」と呼称される「十界曼荼羅」のようなものと思われる。私の「鎌倉攬勝考卷之六」の「妙本寺」の項に画像を置いてある。参照されたい。
「其家のむかひに酒屋あり、源九郞義經奧州くだりの時止宿ありし家にて、よしつね辨慶等の謝狀今に所持せしといへり」源義経が奥州平泉の藤原秀衡を頼って逃げのびた際、一行が海上で遭難して寺泊へ漂着し、土地の豪族五十嵐邸へ身を寄せて、幾日間、逗留したという伝承がある。サイト「新潟伝承物語」の「弁慶の手掘井戸」に、『五十嵐氏は人々の目を避けるために、後庭にあった浴室に』一行を匿い、『従者の弁慶が義経の手洗いや』、『洗顔の用にと』、『わざわざ』、『その裏に井戸を掘ったと伝えられてい』るとある(地図有り)。
「春日山は上杉謙信の古城跡也」新潟県上越市中部にある春日山(かすがやま)。標高百八十九メートル。北に越後府中であった直江津と日本海を望み、南に高田城下を望み、高田平野を一望出来、戦国時代には、この山頂に後に上杉謙信の本拠地となる春日山城が築かれ、北陸地方屈指の城砦として名を馳せた。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。
「能登の出崎」狭義には七尾港の出崎(現在の矢田新町と万行町の境の海岸)を言うが、ここはその東北の能登観音埼のことであろう。但し、これを能登半島の狼煙(のろし)などのある出崎という一般名詞でとることも可能。
「四五間」七・五~九・一メートル。蜃気楼かい!
「廿里よ」七十八・五四キロメートル。先の能登観音崎からは百二十八キロメートル、狼煙の禄剛崎からなら、八十四キロメートル。禄剛崎は、中二の時、友人と能登半島を一周した時の、思い出の場所。その後も、二度行った、私の能登の特異点である。
「越後出雲崎」新潟県三島郡出雲崎町。
「船問屋」「關東屋彌平」現在の新潟県三島郡出雲崎町尼瀬(あまぜ)の、旧年寄に関東屋弥兵衛の名を古文書の中に確認出来る。
「切れもの」敏腕家。やり手。]