「和漢三才圖會」巻第五十八「火類」より「靈䰟火(ひとだま)」
ひとたま 人䰟火
靈䰟火
△按靈魂火頭團匾其尾如杓子樣而長色青白帶微赤
徐飛行去地髙三四丈遠近不定堕而破失光如煑爛
麩餅其堕處小黒蟲多有之形似小金龜子及鼓蟲未
知何物也偶有自身知魂出去者曰物出於耳中而不
日其人死或過旬余亦有矣凡死者皆非魂出也畿内
繁花地一歲中病死人不知幾万人也然人魂火飛者
十箇年中唯見一兩度耳【近年聞大坂三四箇墓所葬年中髙大槪二万人許他處
亦可以推量也】
玉は見つ主は誰ともしらねとも
結ひとゝめん下かへのつま
[やぶちゃん注:和歌は前行末に約四字空けて一行で示されているが、ブラウザでの不具合を考えて、改行して引き上げ、さらに上句と下句を分かち書きにした。]
拾芥抄云見人䰟時吟此歌可結所著衣裙【男左女右】
○やぶちゃんの書き下し文
ひとだま 「人䰟火」。
靈䰟火
△按ずるに、靈魂火〔(ひとだま)〕は頭、團(まる)く匾(ひらた)く、其の尾、杓子〔(しやくし)〕樣〔(やう)〕のごとくにして、長く、色、青白、微赤を帶ぶ。徐(しづ)かに飛行〔(ひぎやう)〕し、地を去ること、髙さ、三、四丈、遠近、定まらず。堕ちて、破(わ)れ、光を失ふ。煑爛(〔に〕ただ)れたる麩餅〔(ふもち)〕のごとく、其の堕つる處に、小さき黒き蟲、多く、之れ、有り。形、小さき金龜子(こがねむし)及び鼓蟲(まひまひむし)に似〔るも〕、未だ、何物といふことを知らざるなり。偶(たまた)ま、自身、魂(たま)、出で去るを知る者、有りて、曰はく、
「物、耳の中より、出づる。」
と。日ならずして、其の人、死す。或いは、旬余(とうかあま)り過ぐるも、亦、有り。凡(すべ)て、死する者、皆、魂〔(たましひ)〕、出づるに非ざるなり。畿内繁花の地、一歲の中〔(うち)〕、病死する人、幾万人といふことを知らず。然るに、人魂の火、飛ぶは、十箇年の中、唯だ、一兩度を見るのみ。【近年、大坂、三、四箇の墓、葬ふる所の年中の髙〔(たか)〕を聞くに、大槪、二万人許りなり。他處〔(よそ)〕も亦、以つて推量すべきなり。】
玉は見つ主〔(しゆ)〕は誰〔(たれ)〕ともしらねども
結びとゞめん下かへのつま
「拾芥抄〔(しふがいせう)〕」に云はく、『人䰟〔(ひとだま)〕を見る時、此の歌を吟じて、著る所の衣の裙(つま)を結ぶべし。』と。【男は左、女は右。】。
[やぶちゃん注:冒頭から一気に良安のオリジナルな解説に入り、恐らくは、概ね、自身の体験や資料によって語って、最後に人魂による災厄封じの和歌を引用して終わるというのは、少なくとも今まで私が電子化注した「和漢三才図会」の諸記事の中では、特異点中の特異点である。しかも、そこでは冷静な人魂観察の実体験が記されてあり、そこでは落下して破裂して消え、その消失した地面には、コガネムシ或いはカタツムリに似ているが、知っているそれらでは決してない奇妙な黒い虫が数多く蠢いていた、という未確認生物の目撃証言附きなのだ! これは人魂の目撃記載でも出色のリアリズムと言える! さらには、人魂が身体から抜けていった(幽体離脱)と述べた直話の人物が、ほどなく亡くなったという発言、逆に、魂が抜けたという証言が本人や周囲からあっても、十日余りも生きていたという事例を挙げた上で、「人が死ぬ場合、誰もが霊魂が抜けて(少なくとも可視的な)人魂となるわけではない」として、その証拠に、「私は今までの人生の中で実際に人魂を見たのは、ただの二度しかない」と述べ、畿内の都市部だけでも一年の間に病死する者の数は幾万人とも知れない。近年の当時の大坂(寺島良安は大坂城入医師で法橋であった)の幾つかの墓地の年平均の、正式に葬送された死者の数の総数を照会したところが、たった一年でも約二万人であった(こんな調査を真面目にした人物は後にも先にもそういるもんじゃあるまい)。他の地方も推して知るべしで、人魂が必ず死者から一つ出るとしたた、それこそ我々は毎日、数え切れぬほどの人魂を目撃しているはずだと、ミョーに現実主義的なキビしー批判を加えているのもまことに興味深いのである。片や、動植物の解説では平気で、「無」からそれらが生成したり、山芋が鰻に変ずるような化生説を平気で大真面目に述べている良安先生が、である。面白い! 実に、面白い! なお、「ひとだま」「人魂」は語としては非常に古くからある。「万葉集」の第第十六の巻末に「怕(おそろ)しき物の歌三首」の掉尾の一首(三八八九番)が、
*
人魂の
さ靑なる君が
ただ獨り
逢へりし雨夜(あまよ)の
葉非左し思ほゆ
*
「葉非左」は難訓でよく判らないが「はひさ」という人の名ととっておく。
「團(まる)く匾(ひらた)く」玉の部分は丸いが、球体ではなく、平たい円盤なのである。
「髙さ、三、四丈」約九メートルから十二メートル。かなり高い。
「煑爛(〔に〕ただ)れたる麩餅〔(ふもち)〕のごとく」落ちた状態の物理的な様子ではなく、弾けて落下して光を失うまでの、その様子は、麩で作った非常に柔らかい餅菓子が解けてぐにゃぐにゃになったような感じであったということであろう。
「其の堕つる處に、小さき黒き蟲、多く、之れ、有り。形、小さき金龜子(こがねむし)及び鼓蟲(まひまひむし)に似〔るも〕、未だ、何物といふことを知らざるなり」これは非常に重要な証言である。場所がどこであったのか、その虫の正確な形状を良安が記していないのは非常に不審である。せめても、死骸を採取しておくべきだった。本書で動物類の細かな記載をしている彼にして、大いに不満である。まあ、きっと、本書を企画する前の、若き日のやんちゃな時代の経験だったのだろう、と好意的にとっておく。
『「物、耳の中より、出づる。」と。日ならずして、其の人、死す』って、何らかの重篤な脳の疾患だったんではなかろうか?
「拾芥抄」正しくは「拾芥略要抄」。南北朝時代の類書で、実用生活便覧とも言える百科事典のようなもの。当初は全三巻であったらしいが、後に増補されて六巻本となった。編者は洞院公賢 (とういんきんかた) とする説と、洞院実煕 (さねひろ) とする説があるが、公賢原編・実煕増補とみる説が有力。但し、実煕以後の記事も含まれていることから、順次、増補されてきたものと思われる。内容は九十九部門に分かれ、生活百般・文芸・政治関係その他と、凡そ貴族として生活していくために必要な最低限の知識・教養を簡単に解説したものである。室町時代に最も重宝がられたが、江戸時代にも広く使われた。国立国会図書館デジタルコレクションのここに当該部を見つけた。
*
見人魂時歌
玉ハミツ主ハタレトモシラ子トモ結留メツシタカヱノツマ
誦此歌結所著衣妻【云男ハ左ノシタカヒノツマ云女ハ同右ノツマヲ云云】
*
但し、この歌は、もっとずっと昔の平安後期の保元年間(一一五六年~一一五九年)頃に公家で六条家流の歌人の藤原清輔が著した歌論書「袋草紙」に、既に、霊魂が憬(あくが)れ出でてゆくのを鎮め留(とど)める咒(まじな)いの古い呪歌として記載されてある。鎮魂歌であり、古来より、人魂や霊的な対象に遭遇した際、この歌を三誦し、男は左、女は右の褄を結んでおき、三日経った後、これを解くという風習があったことに由るといわれている。]