大和本草附錄巻之二 魚類 天蠶絲(てぐす) (釣り糸の天蚕糸(てぐす))
天蠶絲 漁人魚ヲ釣ニ用ル筋ナリ蟲ニテ作ルト云
異邦ヨリ來ル
○やぶちゃんの書き下し文
天蠶絲(てぐす) 漁人、魚を釣るに用ひる筋〔(すぢ)〕なり。蟲にて作ると云ふ。異邦より來たる。
[やぶちゃん注:起原生物は水族ではないが、「魚類」の項に記載されてあり、私としては無縁として排除出来ないと考え、特異的に採用した。古くは、釣り用に用いる釣り糸「天蚕糸(てぐす)」は、
昆虫綱鱗翅(チョウ)目ヤママユガ科ヤママユガ亜科 Saturniini 族 Eriogyna 属テグスサン Eriogyna pyretorum(ウィキの「天蚕糸」の解説では、これを本邦にも棲息するヤママユガ亜科ヤママユ属ヤママユ Antheraea yamamai と同一であるかのように書かれている部分があるが(最後まで読むとテグスサンが出るのであるが)、これは本篇で益軒が「異邦より來たる」と言っているように、国産の「てぐす」ではないので、ヤママユのそれではない。私は幾つかの資料と海外の鱗翅目の分類学サイトを確認して、やっと正確な分類の上位タクサを確定し得た)
から作られたものを最上品とした(グーグル画像検索「Eriogyna pyretorum」をリンクさせておく。かなり毛虫っぽい幼虫写真も一緒に出るのでクリックに注意)。
テグスサンは中国原産で、本邦には棲息しない。成虫は翅の開張長が九~十二センチメートルで、♂よりも♀の報が大形の性的二型で、前翅の中央部と外縁部及び後翅は白く、横脈上に大きな眼状紋を有し、紫黒色の環で縁取られている。前翅頂部には赤い斑紋があり、その内側に黒条がある。中国でも南部、殊に海南島で絹を生み出す「絹糸虫」(けんしちゅう)として飼養され、インドシナ半島や台湾でも飼育されている。年一回の発生で、幼虫はフウ(ユキノシタ目フウ科フウ属フウ Liquidambar formosana :これから同種は「楓蚕」とも呼ばれる)・クスノキ(クスノキ目クスノキ科ニッケイ属クスノキ Cinnamomum camphora )・ヤナギ(キントラノオ目ヤナギ科ヤナギ属 Salix )などで飼育される。繭或いは幼虫の絹糸腺(けんしせん)から採った糸は古くより「てぐす」と呼ばれ、優れた釣り糸や外科用の縫合糸などに利用されてきたが、化学繊維の発達によって、その需要は急激に減少してしまった。幼虫が成する繭は灰白色で堅く、楕円形を呈する。。なお、ウィキの「天蚕糸」の解説の内、本邦でヤママユの絹糸が独自に「てぐす」や高級絹織物の原材料として使用されていたことは事実であり、『日本ではもともと全国の山野に自然の状態で生息している蚕で、古くは木の枝についている繭を集めてきて糸に紡いだ。天蚕の餌となるクヌギ』(ブナ目ブナ科コナラ属クヌギ Quercus acutissima )『の枝に卵をつける「山つけ」という作業を経ることで、都合の良い場所で繭を得ることができる。こうした人工飼育を最初に始めたのは、長野県安曇野市の有明地区であるとされている』。『天蚕は家蚕に比べて史書に記録される機会が少なく』、文政一一(一八二八)年に刊行された「山繭養法秘伝抄」などが存在するだけである』。『長野県安曇野市穂高有明では、天明年間』(一七八一年~一七八九年)から『天蚕飼育が始められた。周辺は穂高連峰の山麓につながる高原で、松・杉とともにクヌギ』・ブナ科コナラ属カシワ Quercus dentata 『などが群生していたので、多数の天蚕が生息していた』。享和年間(一八〇一年~一八〇四年)に『なると、飼育林を設けて農家の副業として飼養され、文政年間』(一八一八年~一八三〇年)『には穂高や近郷の松本・大町等の商人により』、『繭が近畿地方へと運ばれ、広島名産の山繭織の原料にもなった。嘉永年間』(一八四八年~一八五四年)『頃には、糸繰りの技術も習得し』、百五十『万粒の繭が生産された』。明治二〇(一八八七)年から明治三十年頃が『天蚕の全盛期で、山梨県や北関東などの県外へ出張して天蚕飼育を行った。明治』三十一『年には有明村の過半数の農家が天蚕を飼育するに至る。面積』三千ヘクタール『からの出作分を含めて』八百『万粒の繭が生産され、天蚕飼育の黄金時代であった。しかし、焼岳噴火の降灰による被害や、第二次世界大戦により』、『出荷が途絶え、幻の糸になってしまった』。しかし、昭和四八(一九七三)年には『復活の機運が高まり、天蚕飼育が再開された。安曇野市天蚕センターで、飼育・飼育』『が行われている』とある。]
« 大和本草附錄巻之二 魚類 海人 (人魚その二) | トップページ | 芥川龍之介書簡抄22 / 大正三(一九一四)年書簡より(一) 二通 »