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2021/03/05

芥川龍之介書簡抄18 / 大正二(一九一三)年書簡より(5) 十一月一日附原善一郎宛書簡

 

大正二(一九一三)年十一月一日・新宿発信・原善一郞宛

 

        十一月一日午前大學圖書館にて

原君 カナヂアンロツキイの寫眞やバンフからの御手紙は確に落手致しました難有く御禮を申しあげます

もう今頃は紐育[やぶちゃん注:「ニューヨーク」。]で黃色くなつたプランターンの葉の落ちるのを見て御出の事と存じます東京もめつきり寒くなりました並木も秋の早い橡やすずかけは皆黃色く乾いてうすい鳶色の天鷲絨[やぶちゃん注:「ビロード」。]の樣に枯れた土手の草の上に柔なひわ色の羽をした小鳥が鳴いてゐるのを見ますとワイルドの「黃色のシムフォニイ」とか云ふ短い詩を思ひ出します

角帽をかぶつてからもう三月目です講義はあまり面白くありません美文學[やぶちゃん注:堀切透氏の「芥川龍之介書簡集」(新全集底本)では『英文学』となっている。]の主任はローレンスといふおぢいさんで頭のまん中に西洋の紙鳶[やぶちゃん注:「かみだこ」。凧。]の樣な形をした桃色の禿があります人の好い親切な人でよく物のわかつた人ですけれども殘念な事に文學はあんまりよくわかつてゐない樣ですいつでも鼠色のモーニングコートを着てズボンの下ヘカーキ色のゲートルをはいてゐます何故ゲートルなんぞを年中ズボンの下へはいてゐるのだかそれは未に判然しません今このおぢいさんの「Humuor in English Literature from Goldsmith to Bernard Shaw」「Plots&Characters in Shakespeare’s later plays」「English Pronounciation」をきいてゐます三番目のは Philological な講義でつまらないものです

文展がはじまりました吉例によつて少し妄評をかきます日本畫の第一科は期待以上に振ひませんでした小坂芝田氏や小室翠雲氏のさへ大した出來とは思はれません望月靑鳳氏の猿の毛描きがうまいと云つてほめる人もゐますさうした事をほめれば成程ほめる事がないでもありませんそれは文展の模倣が巧妙に出來上つてゐる事です文晁の惡い作より遙かにすぐれたものがあると云ふ事ですしかし之を自慢にするほど日本畫家は藝術的良心に訣陷はないでせうし又なからむ事を望みたいと思ひます津端道彥氏の「眞如」と云ふ佛畫の前へは東京觀光の田舍のおばあさんやおぢいさんが立つてをがんでゐますあんな手のゆがんだ片輪の佛さまをおがむ人たちはかあいさうです要するにこゝへ出品する人たちは見るも氣の毒な程貧弱な内生活をしてゐる人とより外は思はれません藝術にどれほどの理解と情熱があるかわかつたものではないと思ひます

第二科では私の興味を引いた作品が二あります一は牛田雞村氏の町三趣で一は土田麥僊氏の海女です町三趣はあまり遠近法を無視し過ぎた嫌がありますが私は之を今度の日本畫の中で最傑出した作だと思つてゐます「三趣」は朝と晝と夜とで朝の靜な町に漸く炊烟[やぶちゃん注:「すゐえん」。]がほのめいて石をのせた屋根には鳥の群がなきかはし人通のない往來を紅い着物をきた小兒が母親らしい女に手をひかれてあるいてゆくのも晝すぎの時雨に並藏[やぶちゃん注:「ならびぐら」。]の水におちる影もみえずぬれにぬれた柳の間うす白い川の面を筏の流れるのもそれぞれ興をひきますけれど宵の町の軒行燈[やぶちゃん注:「のきあんどん」。]のほの赤くともる頃を二人づれの梵論子[やぶちゃん注:「ぼろんじ」。虚無僧(こむそう)のこと。]が坂つゞきの町の軒づたひに尺八をふきながら下りてゆくなつかしさは此作家のゆたかな藝術的氣分を感じさせずにはおきません

海女は此頃またよみかへしたゴーガンの「ノアノア」の爲に一層興味を感じたのかもしれません土田氏は私の嫌な作家の一人です昨年の「島の女」も私の嫌な作品の一でしたしかし海女のすぐれてゐるのはどうしても認めなければならない事實です六曲の屛風一双へ砂山と海とをバックにして今海から出た海女と砂の上に坐つたり寢ころんだりしてゐる海女とを描いたものです泥のやうな灰色の中に黃色い月見艸もさいてゐます赫土の乾いたやうな色の船もひきあげてあります

砂山の向ふにひろがつてゐるウルトラマリンの海は不讚同ですけれどもねころんでゐる海女の肩から腰に及ぶ曲線や後むきになつた海女の背から腕に重みを託してゐる所や海草を運んでくる海女や小供の手足のリズミカルな運動は大へんによくかいてありますデッサンも「島の女」より遙に統一を持つてゐます槪して一双の中で右の半双海の出てゐる方はあまり感心しませんが左の半双は確に成功してゐます

唯誰もこの繪をほめる人のないのが悲觀です私の友だちは皆惡く云ひます先生にはまだ御目にかゝりませんが多分惡く云はれるだらうと思ひます私の知つてる限りではこの繪をほめたのは松本亦太郞氏だけです大觀氏は矢張たしかなものでした(咋年ほど人氣はありませんけれど)廣業氏の「千紫萬紅」はどうも感心しません栖鳳氏の「繪になる最初」は思ひきつて俗なものです山本春擧氏の「春夏秋冬」の四幅も月並です櫻谷氏の「驛路の春」は「勝者敗者」以來の作かもしれませんけれど私は一向心を動かされませんでした

玉堂氏の「夕月夜」と「雜木山」とも太平なものです「汐くみ」では多少なりとも何かつかまうとした努力がみえますけれど今年はまた元の銀灰色の霧と柔婉[やぶちゃん注:「じうゑん」素直で優しいこと。]な細い木立との中にかへつてしまひました何と云ふ安價なあきらめでせう

彫刻にも目ぼしいものは見當りませんでした又私には彫刻はまだよくわかりません世間の人も大抵はよくわかつてゐない樣な氣がします内藤伸氏の氣のきいた木彫が欲しいと思ひました藤井浩祐氏の「坑内の女」や「若者」も評判の惡い割に私にはよく思はれました

洋畫では石井柏亭氏が頭角を現はしてゐますこの人の心はとぎすました鏡のやうに冷に[やぶちゃん注:「ひややかに」。]澄んで居るのでせうその心の上に落ちる木の影石の影は寸毫も誤らない訓練を經た手でカンヴァスなりワットマン[やぶちゃん注:Whatman。画用紙。商標名。後注参照。]なりの上にうつされるのでせう此人の作品をみてゐると私はきつと森鷗外先生の短篇を思ひ出します今度の作品の中で船着きと云ふテンペラは其殊にすぐれたものだらうと思ひます「並び藏」と云ふ水彩「N氏の一家」と云ふ油繪もよく出來てゐました 南薰造氏は「瓦燒き」のやうな作品をもう見せてはくれませんけれどそれでも「春さき」はなつかしい作でした 土は皆春を呼吸してゐる丘と丘との間に僅にみえる紫がかつた海も春を呼吸してゐる低い木の芽うす白い桃の花「春」は今 MOTHER EARTH に KISS をしてゐるのです唯私は「瓦燒き」以來の南氏の作品をたどつてひそかに同氏の藝術的氛圍氣[やぶちゃん注:「ふんゐき」。雰囲気。]が比較的薄くなりつゝありはしないかと思はれない事もありません今から切に其杞憂に終らむ事を祈ります

かう上げてくると勢[やぶちゃん注:「いきほひ」。]藤島武二氏の「うつゝ」と齋藤豐作氏の「夕映の流」をも數へなければなりません「うつゝ」は TOUCH は實に達者なものです「夕映の流」は私にこんな氣分になる事の出來る作者を羨しく思はせました

其他不折は例の如く角のはえた「神農」と稱する老人の裸體をかいてゐますし吉田博氏は十年一日の如くあの董色を使つた「play of collars」に餘念のないやうに見うけられます

要するに多くの畫家はのんきですすべての氣分の和をその氣分の數の和で割つた商を描いてゐるんですある特殊の木なる槪念をある時間の槪念のうちに置いてかいてゐるのです彼等には天然色寫眞の發明は恐しい競走者の出現を意味するに違ひありません

Verdi の百年祭で音樂學校と帝國ホテルとで演奏會がありました兩方行つてみましたがあとの方で TROVATORE PRELUDE MISERERE のマンドリンをきゝましたザルコリがひくギターの太い澁い音が銀のやうなマンドリンの聲を縫つてゆくのがうれしう御座いました

   鳶色のギタラの絹をぬふ針かマンドリーヌのトレモロの銀

同じ日に藝術座が有樂座で音樂會をやりました新興藝術の爲に氣を吐く試みなんださうですがショルツのひいたドビュッシーや何かの外はあんまり感心したものはなかつたさうです前にかき落しましたが帝國ホテルでは RIGOLETTO の QUARTETTO がありました Soprano: Mrs. Dobrovolsky, Mezzo Soprano: Miss Nakajima, Tenor: Mr. Sarcoli, Baritone: Mr. Tham と云ふ順でしたがあの泣き佛と綽名した中島さんには大へん御氣の毒な話しですけれど西洋人が三人で日本人一人をいぢめてるやうできいててあんまりいゝ氣がしませんでした

自由劇場は帝劇でゴルキイの夜の宿をやりました昨夜行つてみましたが日本で演ぜられた此種類の芝居の中では一番成功したもののやうに見うけます役者の伎倆なり舞臺の裝置なりに始めて割引のない批判的の眼をむける事が出來且その結果それらの寧[やぶちゃん注:「むしろ」。]成功したのを認める事の出來たのは甚愉快です小山内さんはもつと愉快でせう

サロメはみましたか

鐘がなりました之から SWIFT と云ふ名前から早さうな西洋人の早い書取の授業をうけに行かなければなりません大急ぎで歌を二つ三つかいてやめます

   秋風よゆだやうまれの年老いし寶石商も淚するらむ

   秋たてばガラスのひゞのほの靑く心に來るかなしみのあり

   額緣のすゝびし金もそことなくほのかに靑む秋のつめたさ

   鳶色の牝鷄に似るぺッツオルド夫人の帽に秋の風ふく

   『秋』はいますゝりなきつゝほの白き素足に獨り町をあゆむや

               芥 川 生

追伸 これは講義をきゝながらかいてゐるのです今テニソンの「アサーの死」をやつてゐます「こゝのLはサイレントで發音はサッダアですサッダアは TO TAKE APART の意です」とか何とか SWIFT さんが云つてゐますこの人は私の見た西洋人の中で一番ジョンブルらしい西洋人ですその癖あめりか人でジョンブルではないのですが

講義をきゝながらかいた歌を御覽に入れます

     CONCERT にて

   ドヴロボルスキイ夫人も秋の夜はさびしと思ふことありや灯を

   ポンプの如く立ちてうたふそことなくさびしかりけり SIGNOR THAM

   秋の夜のホテルの廊を畫家南薰造のゆくにあひにけるかな

   バァナァドリーチとかたる黑服の女は梟によく似たるかな

   シニヨーリナ中嶋のきる紫の羽織もさむき夜となりにけり

     FREE THEATRE にて GORKY の〝夜の宿〟

   赤シヤツのすりのワシカも夕さればふさぎの虫がつのるなりけり

   のんだくれの役者のうたふ小唄より秋はランプにしのびよりけむ

   わが友のかげにかくれて歌つくるこの天才をさはなとがめそ

   肘つきてもの云ふときは SWIFT も白き牡牛の心ちこそすれ

之から LEADING の稽古がはじまるからやめます さやうなら

 

[やぶちゃん注:一箇所だけ行末改行で続く箇所に字空けを施した。

「原善一郞」「芥川龍之介書簡抄16 / 大正二(一九一三)年書簡より(3)」の四通目の「大正二(一九一三)年九月十七日(年月推定)・山本喜譽司宛」の本文及び私の注を参照されたい。そこで私が指摘したように、この洋行に出ている後輩への返信には、やはり、張り合おうとする負けん気が行間に窺われて仕方がない。

「カナヂアンロツキイ」カナディアン・ロッキー(Canadian Rockies)。アメリカ合衆国からカナダにかけて延びているロッキー山脈の内、カナダ国内のアルバータ州(バンフ・ジャスパー)、ブリティッシュ・コロンビア州、ユーコン準州を通る部分を指す。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「バンフ」一八八七年、カナダで最初に設立されたバンフ国立公園(Banff National Park)。私は一度、二十数年前、オーロラを見に訪れたことがある。

「プランターン」既出既注。但し、厳密なことを言うと、カナダのことを想起して言っているので、その場合は、本邦の「プラタナス」(ヤマモガシ目スズカケノキ科スズカケノキ属スズカケノキ Platanus orientalis 或いはスズカケノキ属モミジバスズカケノキ Platanus × acerifolia )ではなく、後者の原種で北米原産のスズカケノキ属アメリカスズカケノキ Platanus occidentalis となる。

『ワイルドの「黃色のシムフォニイ」とか云ふ短い詩』龍之介の好きなオスカー・ワイルド(Oscar Wilde)の詩‘Symphony In Yellow’。個人サイト「詩と音楽」のこちらに対訳が載る。

「ローレンス」ジョン・ローレンス(John Lawrence 一八五〇年~一九一六年)はイギリス人教師。苦学の末、パリ・ベルリン・プラハでの留学・勤務を挟んで、ロンドンとオックスフォード両大学を卒業、前者で数年、教鞭を取った後、明治三九(一九〇六)年東京帝大英吉利文学科で英語・英文学の教師となった。学位論文以外に研究業績はなく、本国では埋もれた存在であったが、ゲルマン語全体とギリシア・ラテンを縦横無尽に知り尽くした碩学であったと伝えられている。かの「お雇い外国人」として知られる同大で哲学・西洋古典学を講じたラファエル・フォン・ケーベル(Raphael von Koeber 一八四八年~一九二三年:ロシア出身のドイツ系ロシア人哲学者・音楽家。ロシア語名はラファエリ・グスタヴォヴィチ・フォン・キョーベル(Рафаэ́ль Густа́вович фон Кёбер))は彼を「文科大学の誇りにして、名誉である」と讃えている(サイト「大阪言語研究会」のこちら他を参考にした)。なお、芥川龍之介は自死の五ヶ月前の昭和二(一九二七)年二月二十一日発行の『帝國大學新聞』のシリーズ・コラム「その頃の赤門生活」の第二十七回(『芥川龍之介氏記』とする)の中で、

   *

       二

 僕達のイギリス文學科の先生は故ロオレンス先生なり、先生は一日僕を路上に捉へ、娓々々(びび)數千言を述べられてやまず。然れども僕は先生の言を少しも解すること能はざりし故、唯雷に打たれたる啞の如く瞠目して先生の顏を見守り居(ゐ)たり、先生も亦僕の容子に多少の疑惑を感ぜられしなるべし。突如として僕に問うて曰く、“Are you Mr. K. ?” 僕、答へて曰く、“No, Sir.” 先生は――先生もまた雷に打たれたる啞の如く瞠目せらるゝこと少時(せうじ)の後(のち)、僕を後(うしろ)にして立ち去られたり。僕の親しく先生に接したるは實にこの路上の數分間なるのみ。

   *

と回想している。引用は私のサイトの古い電子化から。

「Humuor in English Literature from Goldsmith to Bernard Shaw」この講義、既出既注。龍之介の訳を参考にして現代表記するならば、「ゴールドスミスよりバーナード・ショウに至る英文学上のユーモア」OUR、沙翁の後年期の戲曲に現れたる PLユーモア

「Plots&Characters in Shakespeare’s later plays」同前で「シェークスピアの後期戯曲に現われたる構想と性格」。

「English Pronounciation」後の部分は「Prononciation」のミス・スペル。「英語の発音」。

「Philological」言語学的。

「文展」「芥川龍之介書簡抄17 / 大正二(一九一三)年書簡より(4)十月十七日附井川恭宛書簡」で既出既注。

「吉例によつて少し妄評をかきます」この目出度い何時もの「仕来たり」であるところの「妄評」という表面的な謙辞の背後に、寧ろ、挑戦的なもの(龍之介の芸術への審美眼や批評力への自信)が表われていると私は感ずる。

「小坂芝田」(こさかしでん 明治五(一八七二)年~大正六(一九一七)年)は長野県生まれの南画家。本名は晴道。中村不折は母方の従兄に当たる。グーグル画像検索「小坂芝田」(私が絵が想起出来ない作家はこれを附す)。

「小室翠雲」(明治七(一八七四)年~昭和二〇(一九四五)年)は栃木県邑楽郡館林町(現在の群馬県館林市本町一丁目)生まれ(当時の邑楽郡は栃木県に属した)の南画家。本名は貞次郎。父桂邨も日本画家。翠雲は明治四〇(一九〇七)年の「文展」開設に当たっては、「正派同志会」を組織し、副委員長として「文展」をボイコットし、後も「文展新派」に対抗したことで知られる。グーグル画像検索「小室翠雲」

「望月靑鳳」(明治一九(一八八六)年~?)は神田生まれの日本画家。四条派の望月金鳳に師事、後に養子となった。その後、竹内栖鳳・山元春挙に学んだ。「文展」開設時には「正派同志会」の結成に評議員として参加している。しかし、第二回文展には出品し、「雪中群猿」で初入選、翌年第三回文展で「獅子」が、大正元年の第六回文展でも「群鹿」で褒状、この大正二年第七回文展の「猿」で三等賞を受賞している。当該の「猿」の画像は見当たらない(作品のヒット数が少ない)。

「文晁」江戸後期の画家谷文晁(たにぶんちょう 宝暦一三(一七六三)年~天保一一(一八四〇)年)江戸下谷根岸生まれ。通称文五郎。父は田安家の家臣で漢詩人としても知られた谷麓谷。十歳頃から狩野派の加藤文麗に絵を学び、十九歳の頃に南蘋(なんぴん)派の渡辺玄対に師事した。天明八(一七八八)年、田安徳川家に出仕して五人扶持となり、同年、長崎に遊学して清人の張秋谷に文人画を学んだ。寛政四(一七九二)年には白河侯松平定信付となり、翌年三月から四月にかけて、定信の江戸湾岸巡視に随従し、「公余探勝図」を制作している。宋・元・明・清の絵画や西洋画の研究の上に、土佐派・琳派・円山四条派などの画法をも摂取し、幅広い画業を示し、当時、江戸第一の大家とされた。私は好きな画家である。恐らくは、龍之介の言っている「惡い作」の方が私の好みであろうと推定される程度に好きである。

「津端道彥」(明治元(一八六九)年~昭和一三(一九三八)年)は越後生まれの日本画家。歴史人物画を得意とし、文展や日本美術協会などで受賞を重ね、大阪天満宮襖絵なども手がけた。「手のゆがんだ」「眞如」は残念ながら、ネット画像には見当たらない。グーグル画像検索「津端道彦」

「牛田雞村」(うしだけいそん 明治二三(一八九〇)年~昭和五一(一九七六)年)は横浜生まれの日本画家。本名は治(はる)。松本楓湖に入門し、巽(たつみ)画会に出品。大正三(一九一四)年の日本美術院の再興に参加し、同年には今村紫紅らと「赤曜会」を結成、大正六年の「鎌倉の一日」で院展樗牛賞を受賞。大和絵の伝統を踏まえた風景画を描いた。「町三趣」は惜しいかな、ネットには見出せない。グーグル画像検索「牛田雞村」

「土田麥僊」(つちだばくせん 明治二〇(一八八七)年~昭和一一(一九三六)年)は佐渡生まれの日本画家。「海女」は「独立行政法人国立美術館」公式サイト内のこちらで、京都国立近代美術館蔵の原画画像が見られる。

『ゴーガンの「ノアノア」』フランスの画家でゴッホとの交流で知られるウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャン(Eugène Henri Paul Gauguin  一八四八年~一九〇三年)のタヒチ島滞在の内、第一回目のそれを回想した随筆(Noa Noa:パリ・一八九三年~一八九四年)。大正元(一九一二)年から翌年にかけて『白樺』に小泉鉄による訳が連載され、この大正二年十一月十八日には(本書簡の十七日後)挿絵も添えて洛陽堂から出版された(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの当該原本)。後ゴーギャンは私の好きな画家で、「ノア」ノア」は高校以来の私の偏愛書の一つである。

「島の女」同前のサイトのこちらで東京国立近代美術館蔵の原画画像が見られる。龍之介の見解は正しく、明らかにこれは画題と言い、対象の選び方と言い、ゴーギャンの影響下に描かれたものである。「海女」もそれに続く同工異曲乍ら、優れてよく描かれており、特に龍之介の言うように左半幅が非常に優れている。しかし、岩波文庫「芥川龍之介書簡集」の石割透氏の注よれば、『前年出展の「島の女」は「褒状」を得たが、「海女」は』この『文展では評価されなかった』とある。

「ウルトラマリン」ultramarine。群青色。本来は天然の半貴石ラピスラズリ(lapis lazuli:方ソーダ石グループの鉱物である青金石(lazurite:ラズライト)を主成分とする。和名は瑠璃(るり))から作られたが、ヨーロッパの近くではアフガニスタンでしか産出せず、それが地中海を越えて海路で運ばれてきたため、「海を越えて(来る青)」という意で命名されたもので、海の色に基づく由来ではない。恐らく誤解しておられる方が多いと思われるので一言した。

「デッサン」フランス語の‘dessin’で素描。英語はドローイング(drawing)。但し、ここは広義の用法で、実在感を具えた絵画に求められる描画力・観察力の技能及びその処理・手順・技法力の熟知性を指している。

「先生」先に出た三中の恩師廣瀨雄であろう。

「松本亦太郎」(またたろう 慶応元(一八六五)年~昭和一八(一九四三)年)は高崎生まれの心理学者。東京帝大卒業後、エール大学・ライプチヒ大学に学び、京都帝大を経て、大正二(一九一三)年に東京帝大教授となった。両帝大に日本最初の心理学実験室を開設して精神動作学を提唱したほか、航空心理・芸術心理などの応用心理学の領域をも開拓、「日本の実験心理学の祖」とされる。また、「日本心理学会」を創設して初代会長となった。

「大觀氏」横山大観(明治元(一八六八)年~昭和三三(一九五八)年)は水戸生れの日本画家。橋本雅邦に師事。明治二九(一八九六)年、東京美術学校助教授となったが、二年後、校長であった岡倉天心らと辞職、「日本美術院」の創設に参加、大正三年に日本美術院再興を主導し、終始、近代日本画の中心作家として活躍した。

「廣業」寺崎広業(てらさきこうぎょう 慶応二(一八六六)年~大正八(一九一九)年)は秋田出身の日本画家。狩野派を小室秀俊に、四条派を平福穂庵に師事した。後に南画家菅原白龍にも学び、諸派の画法を取り入れ、「日本青年絵画協会」や「日本絵画協会」などで活躍、後に天心・大観らと「日本美術院」を創立、また「文展」開設に当たっては「国画玉成会」に参加し、審査員として同席に出品を重ねた。清新な山水画を多く描いたことで知られる。「千紫萬紅」はこの第七回文展出品作。秋田市立千秋美術館蔵。

「栖鳳」竹内栖鳳(元治元(一八六四)年~昭和一七(一九四二)年)は近代日本画の先駆者。戦前の京都画壇を代表する大家で、帝室技芸員・第一回文化勲章受章者。「繪になる最初」はやはりこの時の出品作。これ(当該ウィキの画像)。現在、重要文化財指定。

「山本春擧」(明治四(一八七二)年~昭和八(一九三三)年)は滋賀県生まれの円山四条派の画家。竹内栖鳳とともに近代京都画壇を代表する画家。「春夏秋冬」は「文化遺産オンライン」のこちらで見られる。

「櫻谷」木島桜谷(このしまおうこく 明治一〇(一八七七)年~昭和一三(一九三八)年)は京都市三条室町生まれの四条派の画家。本名は文治郎。四条派の伝統を受け継いだ技巧的な写生力と情趣ある画風で、「大正の呉春」(呉春は江戸中期の絵師で四条派の始祖)・「最後の四条派」などと称された。「驛路の春」は正確には「驛路之春」で「うまやぢのはる」と読むデジタル「朝日新聞」のこちらで画像が見られる(左矢印で部分が二部見られる)。この第七回文展の審査員であった。「勝者敗者」という作品は不詳。

「玉堂」川合玉堂(明治六(一八七三)年~昭和三二(一九五七)年)は愛知生まれの日本画家。初めは四条派を、後に橋本雅邦に師事して狩野派を学び、詩情溢れる穏健な風景画に独自の画風を打ち立てた。「夕月夜」はこの第七回文展で好評を博した一品。「足立美術館」公式サイトのこちらで見られ、同時に出品された「雜木山」も「東京藝術大学大学美術館所蔵作品データベース」のこちらで見られる。「汐くみ」は不詳。岩波文庫注で石割氏が『前年の文展で大胆な画法が注目された「潮」のことか』と述べておられる。出品と題名は確認出来たが、画像は見当たらない。

「内藤伸」(しん 明治一五(一八八二)年~昭和四二(一九六七)年)は島根県生まれの彫刻家(木彫)。上京して高村光雲に師事、明治三七(一九〇四)年、東京美術学校選科卒。文展出品の後、大正三(一九一四)年に日本美術院同人となり、翌年の再興院展にも出品したが、大正八年に脱退した。後に帝展審査委員・帝国美術院会員となり、昭和四(一九二九)年には「日本木彫会」を設立して主宰した。

「藤井浩祐」(こうゆう 明治一五(一八八二)年~昭和三三(一九五八)年)は東京生まれの彫刻家。明治四〇(一九〇七)年、東京美術学校彫刻科卒。第一回文展に出品し、以後、出品を続けた。明治四四(一九一一)年の文展出品「鏡の前」から三等賞を連続して四度、受賞している。後に日本美術院同人、以後、院展に出品。文展審査員・帝国美術院会員・帝国芸術院会員。戦後は日展運営会理事。昭和二八(一九五三)年より名を「浩佑」と改称している。日本風の裸女の鋳造物が多い。グーグル画像検索「藤井浩

氏の「坑内の女」や「若者」も評判の惡い割に私にはよく思はれました

「石井柏亭」(明治一五(一八八二)年~昭和三三(一九五八)年)は版画家・洋画家。東京府下谷区下谷仲御徒町(現在の東京都台東区上野)生まれ。本名は石井満吉。とし、初め、父で日本画家であった石井鼎湖に日本画を学んだが、後、洋画を志し、浅井忠・中村不折に師事し、さらに東京美術学校に学んだ。明治四三(一九一〇)年に渡欧、帰国後、二科会の創立に加わったが、後に退いて一水会を設立した。作品は平明な写実主義で貫かれている。文筆にも優れ、著作も多い。私の電子化では、ブログ・カテゴリ「北原白秋」の「北原白秋 邪宗門 正規表現版」で装幀と多数の主挿画を担当しており、画像で総てを示してある。PDF縦書一括版もあるが、挿絵はブログ・リンクとなっている(但し、直接ブログを探すよりは、結局は後者の方が簡単に見られる。「石井柏亭」で検索すればよい)。以下の龍之介の画題は正確ではない。彼は「船着き」・「並び藏」・「N氏の一家」と記しているが、正確には第七回文展に出品したその三つはそれぞれ、「滯船」(テンペラ)・「N氏と其一家」・「並藏」(素描淡彩)である。なお、この内、龍之介がかっている「滯船」は二等賞を受賞している(以上の最後の部分はサイト「東京文化財研究所」の「石井柏亭」に拠って確認した)。

「ワットマン」Whatman。画用紙。一七四〇年に創業したイギリスの画用紙の製造会社名及び商標名。創業者ジェームズ・ワットマンが考案した「Whatman紙」は現在でも高級水彩画用紙として知られる。

「森鷗外先生の短篇を思ひ出します」具体的にどの、或いは、どれらのそれを指すのか私には判らぬ。

「テンペラ」tempera painting。絵画技法の一つ。水と混和する展色剤の中で練り合せた顔料の絵具。水と油を混和し、浮化性と定着性を持たせるため、レチシンを含む卵黄のほか、アラビアゴム・蜂蜜などが加えられた。エジプト・メソポタミアの古代文明の時代から使われたが、特に初期ルネサンスのイタリアの画家たちが好んで使用した。筆の動きが円滑でないため、色調が固くなる嫌いがあるが、硬化後は変質せず、罅割(ひびわ)れや剥落が生じない利点がある。薄い透明な絵具の層が光沢を帯び、重ねられた刷毛(はけ)の跡が、視覚的に混り合う効果を持ち、後、油絵が生れるまで、色調を混合する技術も開発されて多用された。

「南薰造」(みなみくんぞう 明治一六(一八八三)年~昭和二五(一九五〇)年)は広島県賀茂郡内海町(現呉市安浦町)出身の画家。東京美術学校西洋画科卒。明治四〇(一九〇七)年から明治四十三年にかけてイギリスに遊学した。文展・帝展・新文展・日展で活躍し、昭和七(一九三二)年から昭和八年にかけては東京美術学校教授を務めた。油画家・水彩画家として知られるが、版画の制作にも携わった。晩年は郷里の安浦町で暮らし、瀬戸内海を描き続けた。岩波文庫の石割氏の注によれば、『「春さき」は三等賞受賞。「瓦焼き」は』二年前の明治四三(一九一一)年の『第五回展の出品作。南は『白樺』』派『と関りが深く、有島壬生馬』(うぶま:洋画家・小説家有島生馬(有島武郎の弟で里見弴の兄)の本名)『との滞欧記念美術展は、『白樺』主宰で一九一〇年に開催』されたとある。「春さき」は絵葉書を「ヤフオク」に出品されているものに同文展の絵葉書の画像を見つけたので、以下に示す。龍之介が気に入っている「瓦燒き」の方が発見出来なかった。

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「MOTHER EARTH」「母なる大地」。

「藤島武二」(慶応三(一八六七)年~昭和一八(一九四三)年)は薩摩藩士の家に生まれた、洋画家。日本の近代洋画壇にあって長く指導的役割を果たしてきた重鎮。ロマン主義的な女性を配した作品を多く残した。「うつゝ」は「文化遺産オンライン」のこちらで見られる。

「齋藤豐作」(とよさく 明治一三(一八八〇)年~昭和二六(一九五一)年)は埼玉県越谷生まれの洋画家。東京美術学校卒。黒田清輝(せいき)に師事し、明治三九(一九〇六)年に渡仏して印象派に傾倒、点描派風の画風を学んだ。帰国後、大正三(一九一四)年の二科会の創立に参加し、大正八年からはフランス人の妻とフランスのサルト県ベネベルにあった古城に住んだ。この「夕映」(ゆふばへ)「の流」(ながれ)は彼の代表作で、「文化遺産オンライン」のこちらで見られる。

「TOUCH」タッチ。筆致。

「不折」中村不折(慶応二(一八六六)年~昭和一八(一九四三)年)は江戸京橋八丁堀(現在の中央区湊)生まれの洋画家・書家。太平洋美術学校校長。夏目漱石「吾輩は猫である」の挿絵画家としてとみに知られ、島崎藤村の詩集「若菜集」の装幀も彼である。他にも正岡子規・森鷗外とも親しかった。「神農」という作品はこの文展に「老孔二聖の会見」とともに出品しているが、龍之介の言う「例の如く角のはえた」の「例の如く」という形容は私には意味が判らない。

「吉田博」(明治九(一八七六)年~昭和二五(一九五〇)年)は洋画家・版画家。旧久留米藩士の次男として久留米に生まれ、福岡県立修猷館に入学するも中退したが、明治二四(一八九一)年にその修猷館の図画教師であった洋画家吉田嘉三郎に画才を見込まれ、吉田家の養子となり、近代風景画家の第一人者として活躍した。明治三二(一八九九)年に渡米し、デトロイト美術館展・ボストン美術館展に出品、翌年にはパリで行われた万国博覧会に出品した。明治美術会を経て、太平洋画会の創立に参加した。明治三十六年には義妹のふじをとともに再び外遊し、翌年のセントルイス万博で銅牌を受賞している。明治三十九年に帰国して展覧会を開催、「兄妹画家」として評判を呼び、世相漫画にもなった。これは夏目漱石の「三四郎」や「虞美人草」のヒントになったと言われている。明治四〇(一九〇七)年に、ふじをと結婚した。同年の第一回文展で「新月」が三等賞を受賞し、続く翌年及び翌々年の文展で「雨後の夕」と「千古の雪」が孰れも二等賞を受賞した。大正九(一九二〇)年になって木版画を手がけ始め、昭和二(一九二七)年第八回帝展に「帆船(朝・午前・霧・夜)」を出品。昭和二二(一九四七)年、太平洋画会会長を務めた。欧米・エジプト・インドなどに渡って写生したほか、登山が一般的でなかった大正末期に日本アルプスに登り、二百六十点余りもの版画を連作している。グーグル画像検索「吉田博」

「play of collars」色彩の遊び。

「Verdi の百年祭で音樂學校と帝國ホテルとで演奏會がありました」「兩方行つてみました」イタリアのロマン派の作曲家で主にオペラを制作して「オペラ王」の異名を持つジュゼッペ・フォルトゥニーノ・フランチェスコ・ヴェルディ(Giuseppe Fortunino Francesco Verdi 一八一三年~一九〇一年)。新全集の宮坂覺氏の年譜に、龍之介はこの前月の下旬に、本邦で行われたヴェルディ百年祭の、東京音楽学校や帝国ホテルなどで行われた演奏会に出かけている(といってもこの書簡がそのソースである)。

「TROVATORE」ヴェルディ作曲になる全四幕のオペラ「イル・トロヴァトーレ」(Il Trovatore:「吟遊詩人」)。一八五三年にローマで初演。ヴェルディ中期の傑作の一つとされる。

「PRELUDE」プレリュード。前奏曲。

「MISERERE」「ミゼレーレ」(Miserere:ラテン語「哀れみ給え」)或いは「ミゼレーレ・メイ、デウス」(Miserere mei, Deus:同前で「神よ、我を憐れみ給え」)。イタリアの司祭で作曲家・歌手でもあったグレゴリオ・アレグリ(Gregorio Allegri 一五八二年~一六五二年)が「旧約聖書」の「詩篇」第五十一篇をもとに作曲した合唱曲。

「ザルコリ」アドルフォ・サルコリ(Adolfo Sarcoli 一八六七年~一九三六年)はイタリアの声楽家・作曲家。当該ウィキによれば、シエナ出身で、当初はマンドリン工房で働いていたが、『テノール歌手に転向した。プッチーニと親交があり』、「ラ・ボエーム」の『ロドルフォ役を演じ』、『上海で出演する契約だったが、辛亥革命で契約がふいになった』ため、『仕方なく』明治四四(一九一一)年に『来日し、声楽とギター、マンドリンを教えた』。『報知新聞記者の千葉周甫の協力で、三浦環ら帝国劇場歌劇部と』「胡蝶の夢」(作曲はハインリヒ・ヴェルクマイスター(Heinrich Werkmeister 一八八三年~一九三六年:ドイツ出身で日本で活躍した作曲家・指揮者・チェロ奏者)を『一幕やり、好評を得』たため、『帝劇と契約』した。『その後』、『日本に定住し、声楽教師として日本で初めてイタリアのベルカント唱法を伝え』、『原信子・関屋敏子・喜波貞子らを育てた。また』、『マンドリン・ギター教師としても鈴木静一らを育てた。伊藤信吉の』、「ぎたる弾くひと」に『よれば、萩原朔太郎は慶應義塾大学在学中、サルコリからマンドリンの指導を受けている』という。すこぶる腑に落ちる。

「鳶色」茶褐色。

「ギタラ」ポルトガル・ギター(Guitarra portuguesa:ポルトガル語)。十二弦のポルトガルの民族弦楽器。実際にはギターとの関連性は薄く、恐らくはイングリッシュ・ギターとシターン(Cittern:水滴型の共鳴体を持った撥弦楽器)との融合から生まれたと考えられている。

「トレモロ」tremolo。イタリア語で同音又は異なる二音を急速に反復させる奏法。主に弦楽器で用いる。

「藝術座」この大正二(一九一三)年に島村抱月や松井須磨子を中心に東京で結成した新劇の劇団。先の石割氏の注に、これは、発足当時の『芸術座が、音楽界刷新を目的に開催した音楽会。二〇日有楽座で開催。薄田泣菫、北原白秋などの詩に基づく創作曲をソプラノ歌手の薗部房子が歌った』とある。しかし、後、二人の急死により、大正八(一九一九)年に解散した。

「ショルツ」パウル・ショルツ(Paul Scholz 一八八九年~昭和一九(一九四四)年)はドイツのピアニスト・音楽家。ライプツィヒ生まれ。ハンブルク音楽院からベルリン高等音楽学校に進み、一九一二年卒。翌大正二(一九一三)年に来日し、東京音楽学校でピアノ教師として多くの弟子を育てた。九年後の退職の後も東京高等音楽学院(現在の国立音楽大学)教師などを務め、東京を拠点にピアニスト・音楽教師としての活動を続けて演奏活動や後進の育成を行った。東京で亡くなった。

「RIGOLETTO」ヴェルディが作曲した全三幕からなるオペラ。一八五一年初演(イタリアのヴェネツィア・フェニーチェ座)。当時のフランス文学界の巨匠ヴィクトル・ユーゴー(Victor-Marie Hugo 一八〇二年~一八八五年)の戯曲「王は愉しむ」(Le Roi s'amuse)が原作。一八五一年にヴェネツィアのフェニーチェ座で初演された。ヴェルディ中期の傑作とされ、彼のオペラの評判を不動のものにした作品とされる。因みに、当該ウィキによれば、『ユーゴーには著作権料に相当する金銭の受取が一切なかったため』、ユーゴ―は『立腹』し、『フランスで訴訟まで提起した(結果は敗訴)。このため』、『同オペラのパリ初演は他の世界諸都市に大きく遅れて』、六年後の一八五七年一月(イタリア座)となった。『しかしヴィクトル・ユーゴー自身、ヴェルディの効果的な重唱の用い方には驚嘆せざるを得なかった。同オペラのパリ初演に観客として』『招かれ』、『不承不承』出向いた『ユーゴーは』第三幕の四重唱を聴いて』、「四人に同時に舞台で台詞を言わせて、個々の台詞の意味を観客に理解させるのは、芝居では不可能だ」と『述べたと伝えられている』とある。私はオペラ嫌いで、幾つかは持っているものの、ちゃんと聴いたためしが殆んどない。そんな中で、これだけは特異点で聴いている。何故か? 私の偏愛するイタリア映画(厳密は公開はテレビ用シネマ)のベルナルド・ベルトルッチ(Bernardo Bertolucci 一九四一年~二〇一八年)監督作品「暗殺のオペラ」(Strategia del ragno:「蜘蛛の戦略」。一九七〇年公開(本邦公開は一九七九年八月)。原作はアルゼンチンの巨匠ホルヘ・ルイス・ボルヘス(Jorge Luis Borges  一八九九年~一九八六年)の小説「裏切り者と英雄のテーマ」(Theme of the Traitor and the Hero)で重要なシークエンスに用いられていたからである。

「QUARTETTO」カルテット。イタリア語。四重唱。

「Mrs. Dobrovolsky」筑摩全集類聚版脚注によれば、『ロシア大使館付武官夫人』。

「Miss Nakajima」中島は旧姓。「白樺」派の柳宗悦の妻で声楽家(アルト歌手)であった柳兼子(明治二五(一八九二)年~昭和五九(一九八四)年)。私は関心がないので、詳しくは当該ウィキを参照されたい。

「Mr. Tham」筑摩全集類聚版脚注に『不詳』とし、石割氏も注せず。

「自由劇場」劇作家・演出家・小説家小山内薫(明治一四(一八八一)年~昭和三(一九二八)年:広島生まれ。龍之介が引き継ぐ雑誌『新思潮』を創刊している)と歌舞伎俳優二代目市川左團次が始めた新劇運動。明治四二(一九〇九)年から大正八(一九一九)年にかけて九回の公演を行った。劇場や専属の俳優を持たない「無形劇場」で、年二回の公演を目標として会員制の組織とした。イプセンの「ジョン・ガブリエル・ボルクマン」や、このゴーリキーの「夜の宿」、チェーホフの「犬」などの翻訳劇の他、森鷗外・吉井勇・秋田雨雀などの戯曲を上演した。自由劇場は前後して発足した坪内逍遙の「文芸協会」とともに新劇運動の旗手となり、当時の知識人には好評を以って迎えられた。

「帝劇でゴルキイの夜の宿をやりました」自由劇場の第七回公演で、知られた社会主義リアリズムの作家マクシム・ゴーリキー(Макси́м Го́рький 一八六八年~一九三六年)が一九〇一年から一九〇二年にかけて執筆した戯曲「どん底」(На дне)のこと。この年の十月二十九日から三十一日まで帝国劇場で公演された。

「サロメ」「芥川龍之介書簡抄9」参照。

「SWIFT と云ふ名前から早さうな西洋人」ジョン・トランブル・スウィフト(John Trumbull Swift 一八六一年~一九二八年)アメリカのコネチカット州出身の英語教師。当該ウィキによれば、『イェール大学卒業後、コロンビア大学で法律学を学』んだが、明治二一(一八八八)年に『母国の大学卒業生を対象』とした『日本の中学校の英語教師として来日した』。『その後』、『一旦帰国し』たが、翌明治二十二年に『再来日』して、『YMCA』(Young Men's Christian Association:キリスト教青年会)『国際委員を務め、東京の神田美土代町に東京YMCA会館の建設に携わった。日本におけるYMCA運動の活性化に貢献した』。九『年後の』明治三一(一八九八)年に『YMCAを退職』し、『再度の帰国を挟』んで、三『度目の来日で』、『東京高等師範学校や東京帝国大学、東京商科大学で英語や英文学の教鞭を執った』。昭和三年に『東京で死去』した。この龍之介のちゃらかしは、英語の一般形容詞としての‘swift’には「速い・迅速な・つかの間の・即座の」の意があるからである。

『テニソンの「アサーの死」』ヴィクトリア朝イギリスの桂冠詩人アルフレッド・テニスン(Alfred Tennyson 一八〇九年~一八九二年:その美しい措辞と韻律から本邦でも愛読者が多い。私もその一人)が「アーサー王伝説」を元に書いたアーサー王や円卓の騎士たちが登場する「国王牧歌」(Idylls of the King)。十二の物語詩からなる。一八五六年から一八八五年の間に分割出版された。英文‘Wikisource’で全文が読める。

「こゝのLはサイレントで發音はサッダアですサッダアは TO TAKE APART の意です」「TO TAKE APART」は「離れて・離れること・ばらすこと」の意と思うが、「サッダア」はという単語を捜し得ない。

「ジョンブル」John Bull。「擬人化されたイギリスの国家像」或いは「擬人化された典型的イギリス人像」、「個々の保守的な典型的イギリス人」のこと。日本の「山田太郎」のようなもので、‘John’ はイギリス人に多い一般的な名で、‘Bull’は一般名詞では「去勢していない成長した雄牛・そのように大きくがっしりした男・強気な人物」を意味する。当該ウィキによれば、典型的なジョン・ブル像は、夜会服に半ズボン』に『ユニオンジャック柄のウェストコート(ベスト)の正装をした、中年太りの英国紳士で』『頭に着用している大きなトップ・ハットは』、『しばしば「ジョン・ブル・トッパー」として紹介される』とし(リンク先にカリカチャア有り)、『こうしたジョン・ブルのキャラクターは』一七一二年に『ジョン・アーバスノット』(John Arbuthnot 一六六七年~一七三五年:イギリスの医師で博物学者)『によって創作され、アーバスノットとガリバー旅行記の著者で友人のジョナサン・スウィフト、そして風刺家アレキサンダー・ポープらが手掛けた』パンフレット「Law is a Bottomless Pit」(「法律は底無しの沼」)に『掲載され』、『ついで』、『大西洋を渡ってアメリカの風刺漫画家トーマス・ナスト』(Thomas Nast 一八四〇年~一九〇二年:ドイツ系アメリカ人)『などによって一般に普及したと考えられて』おり、『ジョン・ブルのイメージは新聞の風刺漫画などでも用いられる』とある。見た目には、糞野郎のトランプそっくりだがね。

「ドヴロボルスキイ夫人」本文に出る通り、ソプラノ歌手。詳細不詳。

「SIGNOR」‘signor’はイタリア語で「~殿・~様」或いは「イタリア紳士」の意。

「バァナァドリーチ」イギリス人の画家・陶芸家バーナード・リーチ(Bernard Howell Leach 一八八七年~一九七九年)日本をたびたび訪問し、「白樺派」や「民芸運動」にも関わりが深い。「日本民藝館」の設立にあたり、柳宗悦に協力した。ロンドン留学中の高村光太郎と知り合って日本に共感と郷愁(幼年期に四年ほど在日していた)を抱くようになり、明治四二(一九〇九)年に来日して東京上野に居を構えた。この当時、彼は日本いたのである。

「シニヨーリナ」‘signorina’はイタリア語で「お嬢さん」。

「FREE THEATRE」先の「自由座」。

「ワシカ」「どん底」の登場人物で若い泥棒のワーシカ・ペーペル(Васька Пепел)。

「牡牛」前に出した‘John Bull’の‘Bull’に引っ掛けたもの。]

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