「南方隨筆」底本 四神と十二獸について オリジナル詳細注附
[やぶちゃん注:本篇初出は大正八(一九一九)年八月二十五日発行の『人類學雜誌』第三十四卷八号。初出は「J-STAGE」のこちらで原本画像(PDF)で見られる。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらからの画像を視認した。冒頭にある通り、熊楠は大正三(一九一四) 年一月二十日発行の『人類學會雜誌』(第三十四巻六号)に載った考古学者八木奘三郎(やぎそうざぶろう)の論考「四神と十二肖屬の古𤲿」に触発されてこれを書いた。リンク先は私が先立って電子化したその論考である(同じく「J-STAGE」のこちらで初出原本画像(PDF)が読め、私はそれを視認した)。まずは、そちらを先に読んで戴きたい。八木奘三郎の事蹟についても、私のブログ電子化の冒頭注を見られたい。
初出及び平凡社「選集」と校合し、不審な箇所は訂した。それはただ五月蠅くなるだけなので、原則、注していない(例えば冒頭の「未聞」の「末聞」や「條々と」の「條々を」など。更に「未」(ひつじ)とあるべきところが致命的に多く「未」となっていたりするのである)。他にも漢籍などの引用で不審な箇所は可能な場合は漢籍原本を調べ、訂したが、これも、同前の理由で、原則、注していない(例えば冒頭の「淵鑑類函四四〇」の引用中の「玄武」は「元武」となっており、「其色黑、故曰玄元龜、有甲能捍禦」も読点位置を含め、一読不審であったため、「中國哲學書電子化計劃」のこちらで確認して総て訂した)。底本画像と比較されたい。頻繁に登場する「玄」は最終画のない「𤣥」であるが、この活字は私が生理的に嫌いなので、総て「玄」で表記した。また、漢文引用部は概ね読点のみの返り点もない白文であり、読み難いので、後に書き下してある「選集」のそれを参考にしつつ、我流で書き下して項末或いは段落末に挿入し、後を一行空けた。珍しく踊り字「〲」(古文引用)が出るが、正字に直した。]
人類學雜誌三四卷六號に出たる、八木君の「四神と十二肖屬の古𤲿」を拜讀して大に未聞を聞きしを厚謝す。其中に就て予に分かり難き條々といささか氣付いたる事共を列ねて、八木君及び讀者諸彥の高敎を乞ひ參考にも供せんとす。[やぶちゃん注:「諸彥」は「しよげん」(しょげん)。「彦」は「優れた男性」の意。多くの優れた人。諸氏。]
一、一八三頁下段に、玄武の文字を釋して和漢名數より朱子の語を孫引して、「玄武謂龜蛇、位住北方。故日玄、身有鱗甲、故曰武とあれば云々」と述べらる。按ずるに淵鑑類函四四〇に、緯略曰、玄武卽龜之異名、龜水族也、水屬北、其色黑、故曰玄、龜有甲能捍禦、故曰武。世人不知、乃以玄武爲龜蛇二物。この緯略てふ書、何時誰が作りしか知らねど、其先後に引る書共の時代から推すに朱子より古く筆せられし者の如し。兎に角一說なるに付き爰に擧ぐ。
[やぶちゃん注:「玄武謂龜蛇……」「玄武とは龜蛇を謂ふ。位、北方に住す。故に玄と曰ふ。身に鱗甲有り。故に武と曰ふ」。
「淵鑑類函」清の康熙帝の勅により張英・王士禎らが完成した類書(百科事典)。一七一〇年成立。
「緯略曰……」「『緯略』に曰はく、『玄武、卽ち、龜の異名。龜、水族なり。水は北に屬し、其の色、黑、故に玄と曰ふ。龜、甲有り、能(よ)く捍禦(かんぎよ)[やぶちゃん注:守り防ぐこと。]す。故に武と曰ふ。世人、知らず。乃(すなは)ち玄武を以つて龜と蛇の二物と爲す。』と。」。熊楠が不詳とする「緯略」南宋の文人高似孫(こうじそん)の撰になる、恐らくは経書の目録であるが、現存しない。]
二、一八四頁下段に曰く、「又尙書以下の書を按ずるに、五行の水火木金土を中央及び四方に配し、又木火金水を東西南北春夏秋冬に當し事は書經樂記管子以下の書に見ゆれども靑赤黑白の色を曰はず、ただ周禮に方位と色とを記せし例あり。然れども此書世に漢儒の作と稱せらるれば、隨って爾雅の如きも其漢初に出し事は略ぼ推測するに足るべく、又色と方位、色と四神名との起源も、彼の漢代に在る事を察するに足るべし、中略、又始皇本紀に云々と記すれば、水德と黑、水と北方との關係上、方位と色彩の結合は已に秦代に行はれし有樣なれ共、是等は根本資料を明かにする必要有り、又假令右が秦代に在る事疑ひ無しとするも、猶周代の分は不明也、故に、予は其確實と信ずる點に從ひて漢代といえり」と。
八木君の此文中予をして疑ひを抱かしむる者少なからず。先づ君の所謂樂記が禮記中に在る者ならば君の言は謬れり。禮記の樂記第十九に五行とか木火土金水とか云ふ事少しも見えず。扨禮記の月令第六に、孟春六月、天子居靑陽左个、乘鸞路、駕蒼龍、載靑旂、衣靑衣、服蒼玉云々、大史謁之天子曰、某日立春、盛德在木云々。天子親帥三公九卿諸侯大夫以迎春於東郊」孟夏之月、天子居明堂左个、乘朱路、駕赤騮、載赤旂、衣朱衣、服赤玉云々、大史謁天子曰、某日立夏、盛德在火云々。天子云々迎夏於南郊」次に中央土、其日戊巳、其帝黃帝云々、其から孟秋之月は天子、駕白輅、載白旂、衣白衣、服白玉、立秋の日、秋を西郊に迎ふ、孟冬之月、天子居玄堂左个、乘玄路、駕鐵驪、載玄旂、衣黑衣、服玄玉。立冬盛德在水、天子冬迎於北郊といふ風に、五行を、春夏中央秋冬の五時や東南中央西北の五方や靑赤黃白黑の五色に當て配れり。呂氏春秋は史記に呂不韋作十二紀八覽六論二十餘萬言、號曰呂氏春秋と有り。其十二紀は、孟春紀仲春紀季春紀といふ體に、每紀先づ十二月の月令を載せ、之に次ぐに他の四篇を以てし、紀每に五篇、但し季冬紀のみは六篇より成る故、六十一篇で十二紀を成す。此の呂氏の月令を通覽するに全く禮記の月令に基いて述し者の如く、殊に五行五時五方五色の配當は文字に些少の差ひ[やぶちゃん注:「ちがひ」。]有るのみ大要は相同じ。是れ周代既に方位の配當有りし證據に非ずや。加之[やぶちゃん注:「しかのみならず」。]、一八四頁上段に八木君は「四神の名稱は漢以前の書に見えざれば同(周?)代にこの稱呼有りしや否やは明かならず」と云れたれど、禮記の發端、曲禮上第一既に行くに朱鳥を前にして玄武を後にす、靑龍を左にして白虎を右にすと有り。是等は唯だそんな動物を𤲿いた旗を立た迄で之を四方の神としたるに非じと謂ふ人も有んが、次文に招搖(北斗第七星也)在上急繕其怒と有れば、件の四動物を北斗と等しく、神像としたるや疑ひ無し。但し禮記も呂氏春秋も亦漢儒の作る所といはゞば其れ迄なれど、果して左樣の說も有る者にや、大方の高敎を竢つ[やぶちゃん注:「まつ」。「俟つ」に同じい。]。
[やぶちゃん注:「孟春の月……」以下は各所を切り張り引用したものであるが、面倒なので、一括して訓読して示す。熊楠の挿入もそのままにしておく。
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『孟春の月、天子は靑陽の左个(さか)[やぶちゃん注:この「个」は部位・位置を指す。]に居(を)り、鸞路(らんろ)[やぶちゃん注:天子の乗る車の名。以下、同一箇所は同じ。]に乘り、蒼龍を駕し、靑旂(せいき)[やぶちゃん注:青い旗。]を載(た)て、靑衣を衣(き)、蒼玉を服(ぶく)し』云々。『大史、之れを天子に謁(つ)げて曰く、「某日[やぶちゃん注:暦によって移動するのでかく言った。その年の当該の日の意と考えればよい。]立春、盛德、木に在り。」と』云々。『天子、自(みづ)から三公・九卿・諸侯・大夫を帥(ひきい)て、以て春を東郊に迎ふ』、『孟夏の月、天子は明堂の左个に在り、朱路に乘り、赤騮(せきりゆう)[やぶちゃん注:「騮」は栗毛の駿馬。]を駕し、赤旂を載て、朱衣を衣、赤玉を服し』云々。『大史、之れを天子に謁げて曰く、「某日立夏、盛德、火に在り。」と』云々。『天子』云々、『夏を南郊に迎ふ』、次に『中央は土なり。其の日は戊巳(ぼし/つちのとみ)[やぶちゃん注:現行の干支の組み合わせでは存在しないが、古代にはあったものか。]、その帝は黃帝、云々」、其から、『孟秋の月は、天子、白輅(はくらく)[やぶちゃん注:「輅」は天子の車。]を駕し、白旂を載て、白衣を衣、白玉を服し、立秋の日、秋を西郊に迎ふ』、『孟冬(まうとう)[やぶちゃん注:初冬の陰暦十月。]の月、天子は玄堂の左个に在(あ)り、玄路に乘り、鐵驪(てつり)[やぶちゃん注:「驪」は黒毛の馬。]を駕し、玄旂を載て、黑衣を衣、玄玉を服す。立冬、盛德、水に在り。天子、冬を北郊に迎ふ』。
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「呂氏春秋」(りょししゅんじゅう:現代仮名遣)戦国末の秦の呂不韋が食客を集めて共同編纂させた書。紀元前二三九年完成。天文暦学・音楽理論・農学理論などの論説が多く見られ、自然科学史上、重要な書物とされる。
「呂不韋……」「呂不韋は十二紀・八覽・六論の二十餘萬言を作り、號(なづ)けて『呂氏春秋』と曰(い)ふ。」。
「招搖(北斗第七星也)在上急繕其怒」「招搖(しやうやう)上に在り、急(かた)く其の怒りを繕(つよ)くす。」。「招搖」は星の名。]
予は支那書を讀むことを廢して既に二十年、今迨んでは[やぶちゃん注:「およんでは」。]何の知る所も無し。然れども纔かに記臆に存する處に據るも、なほ多少の言ふべき者無きに非ず。因て記臆に基づき座右の書を搜つて一二を述んに、左傳襄公二十八年蛇乘龍[やぶちゃん注:「蛇、龍に乘る。」。]、集解に蛇玄武之宿、虛危之星、龍歲星、歲星木也、木爲靑龍、失次出虛危下、爲蛇乘也。爰に見る龍は、東方の星宿ならで木星なれど、虛危の星を蛇とせるは史記天官書に北宮玄武虛危[やぶちゃん注:「北宮は玄武にして虛危なり。」。]といえると同樣、周代既に蛇を以て北方の神玄武の標識としたる也。又墨子貴義篇に、子墨子北之齊、遇日者、日者曰、帝、以今日、殺黑龍於北方、而先生之色黑、不可以北、子墨子不聽、遂北至淄水、不遂而反焉。日者曰、我謂先生不可以北、子墨子曰、南之人不得北、北之人、不得南、其色有黑者、有白者、何故皆不遂、且帝以甲乙殺靑龍於中於東方、以丙丁赤龍殺於南方、以庚辛殺白龍於西方、以壬癸殺黑龍於北方、以戊巳殺黃龍於中方、若以子惟言、則是禁天下之行者也。墨子の時代は確かならねど孟子や荀子に其說を載たれば此二子より前の人と見ゆ。亦以て周代既に五行に因める十干を五方位と五色とに配當せる說行れたるを知るべし。尤も、是迚も左傳も墨子も漢儒の假作と云ば詮方無し。然る上は予は左樣の見を抱く人に向て、全體今に在て漢以前の事實を觀るべき支那書は何に何なるやを示されん事を乞うの外無し。
[やぶちゃん注:末尾の八木の論考への不満は私も電子化している最中に激しく感じた。快哉!
「集解」晋の杜預の「春秋左氏伝」の注解書「春秋經傳集解」。
「蛇玄武之宿……」「蛇は、玄武の宿(しゆく)、虛危[やぶちゃん注:星宿の固有名の一つ。]の星なり。龍は歲星にして、歲星は木(もく)なり。木は靑龍と爲す。次(やどり)を失ひて虛危の下に出で、蛇の乘るところと爲すなり。」。
「子墨子……」「子墨子(しぼくし)、北して齊(せい)に之(ゆ)き日者(につしや)[やぶちゃん注:天文現象を用いた占術師。]に遇(あ)ふ。日者曰く、『帝、今日を以て、黑龍を北方に殺す。而るに先生の色、黑し。以て、北すべからず。』と。子墨子、聽かずして遂に北して淄水(しすい)に至り、遂(と)げずして反(かへ)る。日者曰く、『我、「先生、以て北すべからず」と謂へり。』と。子墨子曰く、『南の人、北することを得ずんば、北の人、南することを得ず。其れ、色は、黑き者有り、白き者有り。何の故にか、皆、遂げざらんや。且つ、帝は甲乙[やぶちゃん注:当該の日。]を以て靑龍を東方に殺し、丙丁を以て赤龍を南方に殺し、庚辛を以て白龍を西方に殺し、壬癸を以て黑龍を北方に殺し、戊己を以て黃龍を中方(ちゆうはう)に殺す。若(も)し、子の言を用ふれば、則ち、是れ、天下の行く者を禁ずるなり。』と。」。]
三、一八六頁に、八木君は「十二支に十二獸名を當し事は、彼の事物紀原に事始を引て、黃帝は立子丑十二辰以名月、又以十二名、獸屬之[やぶちゃん注:八木氏の論考では『黃帝立二子丑十二辰一以名ケㇾ月、又以二十二名獸一屬スㇾ之』で南方の引用は不全な上に読点位置がおかしい。「子(ね)・丑(うし)十二辰を立てて、以つて、月を名づけ、又、十二の名の獸を以て、之れに屬(しよく)す」。]とあれども、これは支那人側の解釋にて、實は印度の十二獸が支那に移りてかの十二支と結合せるがごとし」と言わる。所謂印度の十二獸の事は次の(四)の條に論ずべし。今は唯だ支那の十二獸に就て言んに、一九一一年版エンサイクロペジア、ブリタンニカ、二八卷、九九五頁にクラーク女史は、支那で日の黃道を十二に分かち、十二獸に資て[やぶちゃん注:「よつて」。]之に名け順次日の進行に逆らふて進む者とせるは、特種奇異の組織で、支那自國に起こりしや疑ひ無しと有るは尤もながら、是は十二支の支那固有なるを言し迄にて、十二獸を十二支に當る[やぶちゃん注:「あつる」。]の支那固有なるを言たるに非ず。然れども十二獸を十二支に當るも亦實に支那固有の者と見ゆ。古今要覽稿五三一に、「凡そ十二辰に生物を配當せしは、王充論衡に初めて見えたれども、淮南子[やぶちゃん注:「抱朴子」の誤り。後注参照。]に山中未日稱主人者羊也といひ、莊子に未甞爲牧而牂生於奧と云るを、釋文に西南隅未地と云れば、羊を以て未に配當せしもその由來古し」とあり。錢綺曰く十二辰亦由列宿而定、如周時星紀、中有牛宿、故丑中屬牛、而今則牛宿在子宮、不在丑宮矣、周時元※1[やぶちゃん注:「※1」=「亻」+「号」。]中有虛宿、※2[やぶちゃん注:「※2」=「木」+「号」。]爲耗名、鼠能耗物、故子屬鼠、而今依月初宮法推之、則虛宿在亥宮、不在子宮矣。娶訾又名豕韋、故亥屬豬、今依古法則娶訾不爲亥宮、而爲戌宮(竹添氏の左氏會箋卷十四頁五六)。以て十二獸を十二支に當るは周時に始りしを知るに足る。
[やぶちゃん注:「一九一一年版エンサイクロペジア、ブリタンニカ、二八卷、九九五頁」一七六八年に初版が発行された英語で書かれた百科事典「ブリタニカ百科事典」(表記はラテン語で‘Encyclopædia Britannica’)。第二版はスコットランドの著述家で航空のパイオニアであったジェームズ・タイトラー(James Tytler 一七四五年~ 一八〇四年)の編集になり、一七七七年から一七八四年にかけて刊行された。‘Internet archive’のここで当該部分(左ページ)が読める。‘Chinese Zodiac signs.’がそれ。
「クラーク女史」上記の原本同巻の冒頭の筆者一覧に、アグネス・メアリー・クラーク(AGNES MARY CLERKE)という名で本項「Zodiac.」の執筆者として載る。彼女は当該ウィキによれば、一八四二年生まれで一九〇七年に亡くなったイギリスの天文学・天文学史についての著述を行った女性作家とあり、『アイルランド』『生まれ』で、『ロンドンで没した』。『早くから天文学に興味を持ち』、十五『歳の時には天文学について書くようになった。クラークの一家は』一八六一年に『ダブリン』、一八六三年に『クィーンズタウンに移り、数年後にクラークはイタリアを訪れ』、一八七七年まで『イタリアに留まった。主にフィレンツェの公共図書館で学び、作家となる準備をし』、一八七七年に『ロンドンに移った』。『最初の重要な作品であるCopernicus in Italy(『イタリア時代のコペルニクス』)はエジンバラ・レヴュー誌に』一八七七年に『掲載され』たが、それ以前の一八五五年に『出版されたA Popular History of Astronomy during the Nineteenth Century』(「十九世紀の天文学史」)』で有名になった。クラークは天文学者ではなかったが、天文学研究についての解説に秀でていた』。一八八八年には『ケープ天文台の所長デービッド・ギル夫妻の招きで』三『ヶ月も天文台に留まり、当時は新しい天文学の分野となった天体分光学についての知識を得た』。一八九二年には「英国天文協会」(British Astronomical Association)の会員となり、『英国天文協会の会合や王立天文学会の会合に参加した』。一九〇三年には『王立天文学会の名誉会員に選ばれた』。『月のクラーク・クレータは彼女の名に因んで命名された』ものであるとある。
「十二獸を十二支に當るも亦實に支那固有の者と見ゆ」私もそう思う。
「古今要覽稿」江戸後期の類書。五百六十巻。幕命により屋代弘賢が編集。文政四年から天保十三年(一八二一年から一八四二年)にかけて成立した。自然・社会・人文の諸事項を分類し、その起源・歴史などを古今の文献を挙げて考証・解説したもの。「五三一」のそれは国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで視認できる。上段末から下段冒頭にかけてである。
「王充論衡」「論衡(ろんこう)は後漢の文人で思想家の王充(二七年~一世紀末頃)が著した全三十巻八十五篇(その内の一篇は篇名のみ残って散佚)から成る自伝的思想書。実証主義の立場に立った自然主義論・天論・人間論や史観など多岐多様な事柄を説き、一方で、非合理的な先哲伝承や陰陽五行説・民俗的災異説を迷信論として徹底的に批判している。
「山中未日稱主人者羊也」この底本原文は「山中末日稱主人者半也」で訓読不能なほど致命的な誤字である。さらに屋代弘賢のとんでもない誤りがあって、これは「淮南子」にはなく、「抱朴子」の「内篇」の「登涉」に出現するものであることが、中文サイトを縦覧するうちに明らかとなった。「選集」にはその誤りを示す注もなく、ネット上の本篇の抜粋などでも、無批判に誤りを受け入れているものばかりで、総て「淮南子」を出典としている為体(ていたらく)である。私はこれだけでもこの電子化注をしている甲斐があったと思ったものである。「抱朴子」の当該部は「中國哲學書電子化計劃」のこちらを見られたい。山中の超常現象を解説した中に出る。所持する訓読本で訂した(「抱朴子」は私の愛読書である)。「山中」は南方熊楠の添えたもの。「未(ひつじ)の日に、主人と稱する者は、羊なり。」で、原本では因みにその後にセットで「稱吏者、獐也」(吏と稱する者は、獐(のろ)なり。)とある。
「莊子に未甞爲牧而牂生於奧と云る」「莊子」の「徐無鬼篇 第二十四」に出る。子綦(しき)が我が子(こ)の歅(いん)に宇宙の無為自然の不可知の絶対原理を語る中に出る(「荘子(そうじ)」は私が唯一、大学時代に徹底的に読み込んだ、数少ない漢籍の一つである)。
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未だ甞つて牧を爲さざるに、而も牂(めひつじ)は奧(おう)に生ず。
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「奧」は熊楠が添える通り、「西南隅未地」(西南の隅の未(ひつじ)の地)の意。「私はこれまで、牧畜などしたこともないのに、いつの間にか、不思議なことに、屋敷の西南の隅の未の方角の土地に、雌の羊が現われた。」の意。
「錢綺」(一七九八年~?)清代の学者。著書に「左傳札記」(「續修四庫全書」に収める。調べたところ、熊楠の引用はこの「春秋左氏伝」の注釈書であった。「中國哲學書電子化計劃」の影印本のここを見られたい。右の活字は信用してはいけない。機械的な翻字で誤りが多い)・「東都事略校勘記」・「南明書」がある。
「十二辰亦由列宿而定……」「十二辰も亦、列宿に由りて定まる。周の時の『星紀』のごときは、中に牛宿有り。故に丑は中の牛に屬(ぞく)す。而れども、今は、則ち、牛宿は子(ね)の宮(きゆう)に在(あ)りて、丑の宮に在らず。周の時、元※(「※1」=「亻」+「号」。「選集」では読みを『きよう』と振る。恐らくは「きょう」で「げんきょう」であろう。意味不明。星宿の細部名か占い卦の一つの呼び名か?)は、中に虛宿あり。※(「※2」=「木」+「号」。読み・意味(推定)は同前)は耗(まう)[やぶちゃん注:]の名となす。鼠は、能く物を耗(へら)す。故に子は鼠に屬す。丑は牛に屬す。而して今は、月の初めの交宮(かうきゆう)の法[やぶちゃん注:意味不明。星占法に於いて星宿の宮(きゅう)が旧暦の月の初めに交差(円形に配置した際の対の十二支か?)するように捉えて行われた儀式をでも指すか?]に依りて之れを推せば、則ち、虛宿は亥宮に在りて、子宮には在らず。娶訾(しゆし)は又、豕韋(しゐ)とも名づく。故に亥は豬に屬す。今は古法に依りて、則ち、娶訾を亥宮と爲さずして戌宮と爲す。」。
「竹添氏『左氏會箋』」元外交官にして漢学者の竹添進一郎(天保一三(一八四二)年~大正六(一九一七)年:「甲申政変」の折りには朝鮮弁理公使であり、後に漢学者として活躍した)「春秋左氏伝」の箋注本。明治三七(一九〇四)年明治講学会刊。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで視認出来るが、私は探す気になれない。悪しからず。]
四 前條の始めに引ける八木君の文の續きに曰く「こは宿曜經[やぶちゃん注:「すくえうきやう」。]抔に記載しあれども云々、山岡俊明の類聚名物考に曰く、「飜譯名義集に此十二支法、爲中乘之達觀也と見えたり、經には鼠牛虎兎龍蛇馬羊猿鷄狗猪の字を用ひ、此十二物は大權の聖者にして、年月日時に四天下を巡りて同類形の衆生を濟度すと說けり、此十二獸の名を支那にて古く用居たる[やぶちゃん注:「もちひをりたる」。]子丑等の字に配當したるを以て、我國にてねうしの訓を充たるなり[やぶちゃん注:「あてたるなり」。]」山岡の說は當時に於て卓見と謂べく、彼の鼠牛以下の獸名は確かに印度傳來に相違なく、夫が支那の子丑寅卯と結合せし事は疑ひ無るべきも[やぶちゃん注:「なかるべきも」。]、此點に就ては猶硏究の餘地あるにより五行の起源の論に移る」と(以上八木君の文)。相違なく疑ひ無かるべき由言て、扨猶硏究の餘地ありと云るゝ程故、一九一頁の結論にも「而して此類の智識が最初支那より印度に傳れるや否やは今俄に決する事能はざれども、其十二支に鼠牛虎の類が印度より流傳し、之に依て繪𤲿上に現はれしとすれば云々」と、結局支那より印度に傳へしや、印度より支那へ傳へしや、どちらとも片付けずに終られたるは、頗る物足らぬ心地ぞする。
[やぶちゃん注:最後の部分は私も強い不満を抱いた箇所である。
「宿曜經」唐代に、印度の二十八宿七曜などを述べた選訳書。「文殊師利菩薩及諸仙所說吉凶時日善惡宿曜經』が正式の書名で、中国密教の完成に努めた僧不空の訳になる。上下二巻。訳を史瑤が編し、それを楊景風が改めて、諸所に註記したものが、中唐初期の七六四年に完成した。基は印度の占星術で使われる暦学と占星法の書「ナクシャトラ」で、七曜・十二宮・二十八宿の関係によって一生の運命や一日の吉凶を判断する方法を説いたもの。地本邦へは平安初期に伝わり、「宿曜道」(すくようどう) の根本となった。
「山岡俊明の類聚名物考」「俊明」は「浚明」とも書き、「まつあけ」と読む。「類聚名物考」は江戸中期の類書(百科事典)で全三百四十二巻(標題十八巻・目録一巻)。幕臣で儒者であった山岡浚明(享保一一(一七二六)年~安永九(一七八〇)年:号は明阿。賀茂真淵門下の国学者で、「泥朗子」の名で洒落本「跖(せき)婦人伝」を書き、「逸著聞集」を著わしている)著。成立年は未詳で、明治三六(一九〇三)年から翌々年にかけて全七冊の活版本として刊行された。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で同刊本を視認したところ、ここに発見した(巻六の「天文部六」の「雜」の内の大項目「十干 十二支」の冒頭にある「刑德」中に出る(右ページ下段の四行目)。
「飜譯名義集」(ほんやくみやうぎしふ)は宋代に書かれた梵漢辞典。七巻本と二十巻本がある。南宋の法雲編。一一四三年成立。仏典の重要な梵語二千余語を六十四編に分類して字義と出典を記したもの。
「爲中乘之達觀也」「中乘の達觀と爲すなり」。]
予は全く印度古今の曆象天文方位に就て學びし事無れど、種々讀書の際注意せしに、印度に十二支も無ければ、十二獸を十二支に充る事も無き樣也。フムボルトの論說に、印度墨西哥[やぶちゃん注:「メキシコ」。]共に、古く蛇や管や劇刀や日の迹や、犬の尾や家等の名を曆日に配當する由見え、其事頗る支那の十二獸を日に配當するに似たれど、印度墨西哥に右等の物名を方位に配せしを聞ず。又印度の二十七宿の名の内、支那十二獸の或る物に偶合せる有れど、偶合せぬ者の方多ければ、本と同源より出でたりと惟はれず。類聚名物考に略說されたる十二動物のことは、大集經卷廿四に出づ。其文難解又冗長の處少なからねば、佛敎大辭彙二、頁一六〇〇に載せたる撮要文を本經に照らし多少校訂して爰に出す。曰く、「閻浮提外東方海中の琉璃山に蛇馬羊住み、南方海中の玻黎山[やぶちゃん注:「はりさん」。]に猴鷄犬住み、西方海中の銀山に猪鼠牛住む、北方海中の金山に師子兎龍住み、東方の樹神南方の火神西方の風神北方の水神、何れも一羅刹女と共に各五百眷屬を有し、各自に三獸を供養す、其一々の獸は窟内に住み聲聞慈を修し[やぶちゃん注:「しやうもん、じを、じゆし」。]、晝夜常に閻浮提内を行き、人天に恭敬さる、曾て過去佛に於て深重願を發し一日一夜常に一獸をして遊行敎化し、餘の十一獸は安住修慈し周りて[やぶちゃん注:「めぐりて」。]復た始めしむ、七月一日鼠初めて遊行し、聲聞乘を以て一切鼠身衆生を敎化し、惡業を離れ善事を勸修せしむ、是の如く次第して十三日に至り鼠復た遊行す、斯て十二月を盡し十二歲に至り、亦復た是の如し、是故に此土多く功德有り、乃至畜獸も亦能く敎化し無上菩提の道を演說す下略」。件の大集經は東晉の代に北凉に入し天竺僧曇無讖譯せる所と、此僧涅槃等の經を携へて罽賓[やぶちゃん注:「けいひん」。北印度のカシミール地方若しくはガンダーラ地方にあったとされる国。]に之しに[やぶちゃん注:「ゆきしに」。]、彼國多く小乘を學び大乘を信ぜず、因て流轉して北凉に來たれり(高僧傳二)。小乘徒の大乘を信ぜざるは、主として大乘の所說が小乘ほど純ならず、動[やぶちゃん注:「やや」。]もすれば佛在世後の事共を書き加え[やぶちゃん注:ママ。]たるに由る。されば大集經所說の十二獸の如きも、クラーク女史が、西曆六世紀に印度の天文家が支那二十八宿を參照して印度の二十七或は二十八宿を定めたりと言る如く(エンサイクロペヂア、ブリタンニカ、十一板、二八卷、九九六頁)、印度如くは[やぶちゃん注:「もしくは」。]其近邊にて印度と支那との兩說を混合して作り出せりと惟はる。先づ大集經の十二獸には印度に多く產し、其經文に頻りに見ゆる犀象孔雀鸚鵡等を入れず、其十一獸は印度にも支那にも生ずる者なるは暗合としては餘りに過分ならずや。又此十二獸を印度に起て支那に傳えし[やぶちゃん注:ママ。]者とせんには、從來支那の十二支に恰好適應すべきを豫知して、其十二分の十一なる多數迄も支那に產する動物を選定せる印度人の神智に驚かざるを得ず。其よりも眞面目に攷ふるに、須彌は四寶より成るてふ經說に據て四海中の四寶山を作り、山每に三獸で四山に十二獸住むと立たるにて、虎無くて獅子有るは、故らに[やぶちゃん注:「ことさらに」。]印度臭く匂はさん迚、支那になき獸を採たる事、虎の代りに蒙古で豹、墨西哥で豹に近きオセロツトを入れたるに等し(ボーンス文庫本、プレスコツト墨西哥征服史三卷。三七六―七頁の注)扨支那の十二支と本來別流の者たる樣見せんため、支那で北にある鼠が印度で西、支那で南にある馬が印度で東ちう[やぶちゃん注:ママ。]風に捩り[やぶちゃん注:「もぢり」。]置き乍ら、十二獸を供養する樹神は東、火神は南、風神は西、水神は北に居るとせるは、支那特有の五行說に東木南火西金北水と定めたるに基きし馬脚を露はす。要するに大集經の十二獸は、支那の五行や十二支を聞及べる印度若くは印度と支那の道中に在し[やぶちゃん注:「ありし」。]或る國の人が作出せる事疑ひ無し。又摩訶止觀に載たる三十六禽は、寅に狸豹虎、戌に狗狼豺[やぶちゃん注:「うまいぬ」。]抔と、十二獸の獸一每に類似の動物二を添え[やぶちゃん注:ママ。]、十二を三倍して卅六禽とせり。密敎の星曼陀羅抔に出るを見て印度產の樣思ふ人も有んが、卅六てふ多數中に、獅子如き支那に無き者一つもなきが不審と云迄も無く、止觀の本文既に寅卯辰の九獸は東方木に、巳午未の九獸は南方火に屬す抔と、支那特有の五行說を述べ、自ら[やぶちゃん注:「おのづから」。]三十六禽は支那出來たるを立證せり。凡そ十二獸といふ事委陀[やぶちゃん注:「ヴェーダ」。]等の梵典にも、佛在世を距る[やぶちゃん注:「へだつる」。]こと遠からざる時編まれたる佛經等にも見えず。八木君がいへる宿曜經は大集經より三百餘年後れて譯されし者なれば、支那の思想を加え[やぶちゃん注:ママ。]し事一層多かるべく、且つ只今座右に之無きを以て爰に論ずるに及ばず。
三と四の條に述たる理由をもって、予は十二獸を十二支に當るは支那國有の法にて、其周[やぶちゃん注:紀元前一〇四六年頃~紀元前二五六年。抄出も底本も「同時」であるが、「選集」を採った。]時に始まり、其思想後年支那以外に傳はり佛經に載らるゝに及びしも、決して支那以外に起りて支那に入りし者ならずと斷ずる也。
[やぶちゃん注:私は熊楠の結論に無条件で賛同する。
「フムボルト」ドイツ(プロイセン王国)の博物学者・地理学者にして近代地理学の祖とさるフリードリヒ・ハインリヒ・アレクサンダー・フォン・フンボルト(Friedrich Heinrich Alexander, Freiherr von Humboldt 一七六九年~一八五九年)。出典不明。
「管」「かん」で「笛」の意であろう。
「大集經」「大方等大集經」(だいほうどうだいじっきょう:現代仮名遣)。中期大乗仏教経典の一つ。釈迦が十方の仏菩薩を集めて大乗の法を説いたもので、「空(くう)」の思想に加えて、密教的要素が濃厚なもの。
「佛敎大辭彙」大正三(一九一四)年に龍谷大学が刊行した仏教語彙辞典。
「エンサイクロペヂア、ブリタンニカ、十一板、二八卷、九九六頁」既出既注。原本はここ。
「オセロツト」食肉目ネコ亜目ネコ科オセロット属オセロット Leopardus pardalis 。当該ウィキによれば、『同じ地域に生息する』ヤマネコ類と『類似した外観をもつが、オセロットの体長は』六十五~百二十センチメートル、尾の長さは二十七~六十一センチメートル、体重九~十六キログラムあって、それらとは相対的に『大型である。体毛は短く、四肢は頑丈。黒い斑紋で縁取られたオレンジ色の斑紋(梅花紋)。種小名 pardalis は「ヒョウ」の意。地色は灰白色や黄色、濃褐色など個体によってさまざまで、体前方から後方に向かって黒く縁取られた斑が並んでいる。虹彩は褐色』。『主に南アメリカの熱帯雨林に生息しているが、メキシコやアメリカ・テキサス州の一部にも分布しており、草原や人間の集落近くに姿を現すこともある』。『夜行性で』、『その行動範囲は非常に広い。普段は単独で行動し、他の個体と出会うのは通常は交尾のためだけである。ただし、樹上や深い茂みの中で休息をとる日中は』、『まれに他の個体と場所を共有することもある。繁殖期については初夏と冬である、定まっていない、などの説がある。妊娠期間は約』七十『日で、一度の出産で』一~四『子を産む』。『他のネコ科の動物と異なり』、『泳ぎが上手く』、『樹上生活に適応しており』、『木登りも行うが、大抵は地上を行動圏としている。自身よりはるかに』小型の動物(サル・ヘビ・齧歯類・鳥類などを『捕食する』。『非常に鋭い視力を持つが、獲物を追跡するのに臭いを辿ることが研究によって判明している』。『毛皮は非常に高価なものとされ、また』、『人に慣れやすく』、『今なおヤマネコの中でペットとして最も人気のある種類であるため、乱獲が続』き、『多くの国で絶滅危惧種に指定されている』とある。
「ボーンス文庫本、プレスコツト墨西哥征服史」アメリカの歴史家で特にルネッサンス後期のスペインとスペイン帝国初期を専門としたウィリアム・ヒックリング・プレスコット(William Hickling Prescott 一七九六年~一八五九年)が一八四三年刊行したもの(The History of the Conquest of Mexico:「メキシコの征服の歴史」)。文庫名のそれは不詳。
「摩訶止觀」隋代の仏教書。全十巻。智顗(ちぎ)の教説を弟子の灌頂(かんじょう)が筆録したもの。五九四年成立。「天台三大部」の一つ。天台宗の修行法である観心を体系的に説いたもの。「天台摩訶止観」「天台止観」「止観」とも呼ぶ。
「委陀」「ヴェーダ」とは「知識」の意。インド最古の文献で、バラモン教の根本聖典を指す。起源は、アーリア民族の自然賛美の詩篇群で、紀元前一二〇〇年から紀元前五〇〇年の成立と推定され、リグ・サーマ・ヤジュル・アタルベの四ベーダ(祭式上の区別)から成る。内容上からジュニャーナカーンダ(哲学的宗教的思索部門)とカルマカーンダ(施祭部門)の二つに大別される。]
五 序でに述ぶ。五雜俎一五に、眞武卽玄武也、朱雀靑龍白虎爲四方之神、宋避諱改爲眞武、後因掘地得龜蛇、遂建廟以鎭北方、至今香火殆遍天下、而朱雀等神絕無崇奉者、此理之不可曉。琅邪代醉編二九に眞仙通鑑載、宋道君問林靈素、願見眞武聖像、靈素曰、容臣同張淨虛天師奉請、乃宿殿致齋、於正午時、黑雲蔽日、大雷霹靂、火光中見蒼龜巨蛇塞於殿下云々。是等には見えねど古來玄武を畫くに、必ず蛇が龜を纏ひ舌を出して見詰る體を以てす。予惟ふにこは蛇と龜と交わる相なるべし。博物志四に大腰無雄、龜鼉類也、無雄與蛇通氣則孕、細腰無雌蜂類也。これはジガ蜂が蜘蛛抔を其穴に引入れ卵を產付[やぶちゃん注:「うみつけ」。]するを見て、此蟲雌なく他の蟲を養ひ子とすと誤解し、又龜の生殖器は一寸見えぬ故、斯く甲裝したる者のいかに交尾すべきと思案に盡きて、龜に雄無く蛇と氣を通じて孕むと信じたる也。類函四四〇に化書曰、牝牡之道龜龜[やぶちゃん注:初出・底本は「龜々」であるが、「々」は中国にはない記号であるので好ましくないので正字化した。]相顧神交也、龜雖與蛇合、亦有以神交者。是は龜に牝牡あれども其交るは身を合さず、相顧み見た斗りで事濟み、蛇と交る時は身を合し若しくは眼で視合ふて事成るとす。本草網目四五、時珍曰龜雌雄尾交、亦與蛇匹、或云大腰に無雄者謬也と有て、明代既に龜雌雄有り、尾裏の生殖器を重ね交はるを知れるも、なほ舊說に泥んで[やぶちゃん注:「なづんで」。]亦蛇とも交ると信ぜり。龜のドイツ名 Schildkröte が被甲蟾蜍の義なる如く、凡て爬蟲共の面貌一般に相似る故、支那人龜を蛇頭龍頸抔形容し龜、蛇至て近き者と見、扨こそ龜長於蛇の辨も有りしなれ(莊子天下篇)。此龜蛇と交てふ謬說久しく支那人の心に浸潤せしは、五雜俎八に、今人以妻外淫者、其夫目爲烏龜、蓋龜不能交、而縱牝者與蛇交也と見るにて知らる。古歐州人も此二物を好淫とせしにや、アポロが龜となり蛇と化て王女ドルオペを犯す譚有り。七年前の夏、予の宅に龜を飼し池邊の垣下より、一蛇舌を出し頻りに龜に近づかんとするを予竹竿もて撲殺せし事あり。其何の爲たりしを知るに由なきも、蛇と龜多き地には蛇が龜を纏ひにかゝる位の事絕無と謂ふ可らず。支那に攝龜又鴦龜とて腹甲橫折して能く自ら開闔[やぶちゃん注:「かいかふ」。開閉。]し、蛇を見れば忽ち之を啖う龜ある由本草網目に出づ。予北米東南部の松林で數ば[やぶちゃん注:「しばしば」。]見たるクーター(箱龜)は腹甲折半して前後自在に動き、敵に遇へば全く首尾四肢を甲内に閉て間隙無し。明治十八年[やぶちゃん注:一八八五年。熊楠十八歳。]頃斯樣の龜を八重山島より東京へ持來り飼るを見し事あり。後ち英國學士會員ブーランゼー氏に質せしに、箱龜の種族一ならざれど悉く西半球の產也、米國の航客抔米國又墨西哥や中米地方の箱龜を八重山島に遺せし者なるべしと答へられたり。然れどもコロンブスの新世界發見より九百數十年前、陶弘景が鴦小龜也、處々有之、狹小而長尾、甲は占吉凶、正相反龜と述べ、新世界發見より五百數十年前、韓保昇が攝龜腹小、中心橫折、能自開闔、好食蛇也と言るを稽ふるに[やぶちゃん注:「かんがふるに」、]、西半球の者と種屬を同じくせざる迄も、一種の箱龜好んで蛇を食ふ者が支那に產する事疑を容れず。ユリノ木抔、長距離を隔てゝ米國東部と支那内地に產する例有れば、西半球に限ると惟はれたる箱龜が支那にも產すれば迚怪しむに足らず。果して然らば、龜が蛇と鬪ふて之を殺し食ふ處を畫きて、嚴寒劾殺[やぶちゃん注:「がいさつ」。罪を暴き訴えて殺すこと。]の北方の神を表示せるが玄武の本義ならん(說苑十九に孔子曰、南者生育之鄕、北者殺伐之域)[やぶちゃん注:「孔子曰く、『南は生育の鄕(がう)、北は殺伐の域なり。』と。」。]。予曾て小蛇又蜥蜴を殺して自宅の龜に與えしに[やぶちゃん注:ママ。]、忽ち食ひ了りし事なり。支那の攝龜に限らず、龜が蛇を殺し食ふ例は少なからじ。扨蛇が龜に食れ爭ふ内龜を纏ひ荐に[やぶちゃん注:「しきりに」。]舌を出す、其態、淫念熾盛にして之と交る如くなるより、之を陰陽和合子孫蕃殖の相として、四神の内玄武獨り永く亨祀[やぶちゃん注:「きやうし」。滞りなく祀ること。]されたる也。死殺を司どる北方の神を子孫蕃殖の神とは受け難き樣なれど、子生るゝと同時に親死するは原始生物の通規で、類函十六に引る尙書大傳に冬中也、物方藏於中、故曰北方冬也、陽盛則吁舒萬物、而養之于外、陰盛則呼吸萬物、而藏之于内、故曰、呼吸者陰陽之交接、萬物之始終也と云るは一理有り。新西蘭[やぶちゃん注:ニュージーランド。]土人は男女根は人命を壞る[やぶちゃん注:「やぶる」。]とし(Elsdon Best, “Maori Beliefs concerning the Human Organs of Generation,” Man, vol. xiv., no.8, pp. 132-133, 1914)、印度人はシヴァ神を幸福尊者と稱す。死は生を新たに始め破壞者實に再創者たれば也(エンサイクロペヂア、ブリタンニカ、十一板、廿五卷一六二頁)。
[やぶちゃん注:「五雜俎」「五雜組」とも表記する。明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で、遼東の女真が、後日、明の災いになるであろうという見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになるという数奇な経緯を持つ。ここに引かれる以下は、巻十五「事部三」の一節。
「眞武卽玄武也……」「眞武は、卽ち、玄武なり。朱雀・靑龍・白虎と與(とも)に四方の神たり。宋に、諱(いみな)を避け、改めて眞武と爲す。後に地を掘りて龜蛇(きじや)を得るに因つて、遂に廟を建て、以つて北方を鎭(しづ)む。今に至るまで、香火、殆んど、天下に遍(あまね)し。而して朱雀等の神は、絕えて崇奉する者、無し。此れ、理(ことわり)の曉(さと)るべからざるものなり。」。
「琅邪代醉編」(ろうやだいすいへん:現代仮名遣)は明の張鼎思の類書。一六七五年和刻ともされ、江戸期には諸小説の種本ともされた。
「眞仙通鑑載……」『「眞仙通鑑」に載せて、『宋の道君、林靈素を問(たづ)ね、眞武の聖像を見んことを願ふ。靈素曰く、「臣の張淨虛天師と同(とも)に奉請するを容(ゆる)せ。」と。乃(すなは)ち殿に宿し、齋(さい)を致す。正午の時に於いて、黑雲、日を蔽(おほ)ひ、大雷、霹靂して、火光の中に蒼龜・巨蛇の殿下を塞ぐを見ると云々』。親本の「眞仙通鑑」は元代の道士趙道一の編纂した道教の神々の伝記集「歷世眞仙體道通鑑」。歴代の神仙・道家の活動を諸書より集めて述べたもので、儒・仏・道の三教の伝説を取り込んで、僧や儒者も一緒くたにして「神仙」に仕立ててしまっているトンデモ本である。
「博物志」三国時代の魏から西晋にかけての政治家で文人の張華(二三二年~三〇〇年)の書いた幻想的博物誌にして奇聞伝説集である「博物志」全十巻を指す。以下は巻四の一節。
「大腰無雄……」「大腰(だいよう)は雄(をす)無し。龜(き)・鼉(だ)の類(るゐ)なり。雄、無くして、蛇と氣を通ずれば、則ち、孕む。細腰(さいよう)は雌(めす)無し。蜂の類なり」。実はこれには続きがある。「取桑蟲、則阜螽子呪而成子詩云、螟蛉有子螺臝負之是也。」(桑蟲(くはご)[やぶちゃん注:青虫。]を取り、則ち、螽子(いなご)阜(ふ)して[やぶちゃん注:岡に埋めて。]呪して、子を成す。「詩」に云ふ、「螟蛉 子 有り 螺臝(すがる) 之れを負ふ」は、是れなり。)で、最後のそれは「詩経」の「小雅」にある「小宛」(しょうえん)の第三章に出る一節であり、これよって、間違いなく、「細腰」がヂガバチを指していることを証明されるのである。「大腰」が如何なる生物なのか判らぬ。「龜・鼉」は広義のカメ類と鰐(ワニ)の類いとなれば、幻獣としての巨大ガメか巨大ワニか。因みに、この文の前には「兔舐毫望月而孕、口中吐子。舊有此說、餘目所未見也」とある。
「ジガ蜂」膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目アナバチ科ジガバチ亜科ジガバチ族 Ammophilini に属するジガバチ類で、世界では、ジガバチ属 Ammophila・エレモノフィラ属 Eremnophila・エレモカレス属 Eremochares・ホップラムモフィラ属 Hoplammophila・パラパサムモフィラ属 Parapsammophila・ポダロニア属 Podalonia の六属で約三百種を数える。「ファーブル昆虫記」でよく知られる通り、典型的な「狩り蜂」であり、総ての種が「狩り」を行う。当該ウィキによれば、『狩りは幼虫の食糧確保のために行なわれ』、『地面に穴を掘って巣(幼虫室と呼ぶ)を作った後、幼虫の食料にする獲物を捕らえて毒針で毒を注入する。獲物は全く動かなくなるが、これは神経を麻痺させてあるだけで、殺してはいない(死ぬと肉が腐って幼虫の餌とならなくなる)。その後、巣穴に獲物を運び入れ、卵を一つ(種によっては複数)産み付ける。雌は幼虫室を閉じて出ていき、二度と戻らない』。『幼虫は獲物の体の上で孵化し、獲物を殺して腐敗を起こすことのないよう、生命維持に影響を及ぼさない部位から順番に獲物を食べていく。獲物を食べ』尽くして、『巣穴と同じくらいの大きさまで成長すると、繭を作って蛹になり』、十『日ほどで羽化』し、『巣穴を出る』。『幼虫の食料として、ジガバチ属はアオムシを捕るが、これに対し』、同じアナバチ科 Sphecidae で似た形態や生態を持つものの、現行の分類学上はジガバチ亜科Ammophilinae ではないSceliphrinae 亜科 Sceliphrini 族 Sceliphron 属はクモ類を狩るので(例えば、本邦に南関東以南で既に侵入外来種として確認されて確認されているアメリカ原産のアメリカジガバチ Sceliphron caementarium はオニグモの仲間を狩る)、南方熊楠の謂いは必ずしも誤っているとは言えない。『非社会性で』『群れは作らない』とある。なお、本邦産のジガバチ属 Ammophila は三種で、各地に初夏から晩秋まで普通に見られるのは、サトジガバチAmmophila sabulosa nipponica・ヤマジガバチAmmophila infest 及び、大型の本州以南に分布する南方系の種で脚が黄赤色を呈し、翅も褐色を帯びる美しいが、分布が限られる、フジジガバチ Ammophila atripes japonica が、また、ホップランモフィラ属 Hoplammophila の山地性種である、ミカドジガバチHoplammophila aemulans の棲息が知られている。ジガバチの和名は「似我蜂」で、これは巣穴の掘削時と閉塞時に、胸部の飛翔筋の振動を頭部に伝えて、それで土壌を砕いたり、突き固めるが、その際に発生する音に由来し、虫を捕まえて穴に埋めた後、それに向かって「似我、似我」(我に似よ、我に似よ)と呪文しているのだ、という伝承に基づく。「ジガ、ジガ」と唱えたあと、埋めた虫が、後日、蜂の姿となって、地中より出現してきたように考えたことに由るものである。
「化書」南唐の譚峭撰の道教系の道学書。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで、明の陳継儒校訂で新井白蛾再校になる寶暦一〇(一七六〇)年刊本のここで当該部「道化巻第一」の「神交」が視認出来る(訓点附)。
「化書曰……」「化書(かしよ)」に曰く、『牝牡(ひんと)の道(だう)、龜と龜と相ひ顧みれば、神、交(まじは)ればなり』と。龜は蛇と合すと雖も、亦、以て、神交する者有り。」。
「時珍曰……」「時珍曰はく、『龜の雌雄は尾にて交はり、亦、蛇と匹(むつ)む。或いは、「大腰に雄無し」と云ふは謬(あやま)りなり。』」。
「龜のドイツ名 Schildkrote」シルト・クレーテ。女性名詞。カメ。スッポン。「Schild」は「被甲」=「楯」、「Krote」は「蟾蜍」=「ヒキガエル」の意(「厚かましい小娘」の意もある。
「龜長於蛇」「龜は蛇より長し」。荘子の友人で詭弁的命題の達人であった恵子(けいし)のそれの一つ。但し、このパラドクスは荘子の思想の根本概念の方便の一つでもある。
「今人以妻外淫者……」「今人(きんじん)、妻の外淫する者を以つて、其の夫を目(もく)して烏龜(うき)と爲す。蓋し、龜は交はる能はざれば、而して、牝なる者、蛇と交はるを縱(ゆる)すなり。」。「烏龜」は現代では臭亀(カメ目潜頸亜目リクガメ上科イシガメ科イシガメ属 Mauremys reevesii )さす。
「アポロが龜となり蛇と化して王女ドルオペを犯す譚あり」にゃべ氏のサイト「10ちゃんねる (* ̄ー ̄)y-~~~~」の「アポロンの恋人(ギリシャ神話54)」の「ドリュオペ」によれば、『彼女が山の中で父の家畜の番をしていたが、山の妖精たちと仲良くなり』、『一緒に遊んでいた時』、『それを見て、アポロンが彼女たちの中に亀の姿で近づく。彼女たちが、それをボールのようにして遊んでいたときに、ドリュオペの膝の上に乗った。その時、アポロンは本性を現して、蛇の姿となって』、『彼女の膝を割って入り』、『犯してしまったという。これは完全にレイプである』。『ただし、彼女にはまた「神ヘルメス」と交わって「牧神パン」の母となったという言い伝えもある』とあった。
「攝龜」(せつき)「鴦龜」(わうき)「本草綱目」の「攝龜」は巻四十五の「介之一 龜鱉類」の以下(そこに異名として「鴦龜」も載る)。
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攝龜【「蜀本草」。】
釋名 呷蛇龜【「日華」作夾蛇。】陵龜【郭璞。】鴦龜【陶弘景。】蠳龜【「抱朴子」。】恭曰、「鴦龜腹折見蛇、則呷而食之。故楚人呼呷蛇龜。江東呼陵龜。居丘陵也。」。時珍曰、「既以呷蛇得名、則攝亦蛇音之轉而、『蠳』亦『鴦』音之轉也。」。
集解 弘景曰、「鴦小龜也。處處有之、狹小而長尾。用卜吉凶、正與龜相反。」。保昇曰、「攝龜腹小中心橫折、能自開闔。好食蛇也。」。
肉 氣味 甘寒、有毒。詵曰、「此物噉蛇肉、不可食。殻亦不堪用。」。
主治 生研塗撲損筋脉傷【士良。】生搗罯蛇傷。以其食蛇也。【陶弘景。】
尾 主治 佩之辟蛇。蛇咬則刮末傅之。便愈。【「抱朴子」。】
甲 主治 人咬瘡潰爛燒灰傅之。【時珍、出「摘玄」。】
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攝龜【「蜀本草」。】
釋名 呷蛇龜(かふだき)【「日華」は「夾蛇」に作る。】陵龜【郭璞(かくはく)。】鴦龜【陶弘景。】蠳龜(やうだ)【「抱朴子」。】恭曰く、「鴦龜は、腹、折りて蛇を見るときは、則ち、呷(かふ)して[やぶちゃん注:「コウ!」と啼いて。]之れを食ふ。故、楚人(そひと)、「呷蛇龜」と呼ぶ。江東、「陵龜」と呼ぶ。丘陵に居すればなり。」と。時珍曰く、「既に『呷蛇』を以つて名を得れば、則ち、攝は亦、「蛇」の音の轉にして、『蠳』は亦、『鴦』の音の轉なり。」と。
集解 弘景曰く、「鴦は小龜なり。處處(しよしよ)に、之れ、有り。狹小にして、長き尾。用ひて吉凶を卜(うらな)ふ。正に龜と相ひ反す。」と。保昇曰く、「攝龜、腹、小にして、中心、橫折(わうせつ)し、能く自(みづか)ら開闔(かいかふ)す。蛇を好みて食ふなり。」と。
肉 氣味 甘、寒。毒、有り。詵(せん)曰く、「此の物、蛇肉を噉(くら)ふ。食ふべからず。殻も亦、用ふるに堪へず。」と。
主治 生(なま)にて研(けず)りて、撲損・筋脉傷に塗る【士良。】。生にて搗(つ)きて蛇傷を罯(おほ)ふ。其れ、蛇を食ふを以つてなり。【陶弘景。】
尾 主治 之れを佩(お)ぶれば、蛇を辟(さ)く。蛇、咬めば、則ち、刮(けず)り、末(まつ)にして、之れを傅(つ)く。便(すなは)ち愈ゆ。【「抱朴子」。】
甲 主治 人の咬み瘡(きず)・潰爛には、燒き灰にして、之れを傅之く。【時珍、「摘玄」に出づ。】
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「開闔」は「開閉」、「罯」は「覆う」の意。「狹小にして、長き尾。用ひて吉凶を卜(うらな)ふ。正に龜と相ひ反す」というのは、前者の形態が通常の亀とは反対であることを言っているのであろう。私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類」の「こかめ 攝龜」も参照されたい。「本草綱目」の引用部は以下。
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「本綱」に、『攝龜、小龜なり。處處の丘陵に居る。狹小にして、長き尾、腹、小さく、中心、橫に折れて、能く自ら開闔す。蛇を見るときは、則ち、呷(かふ)して之れを食ふ。故に、此の肉、食ふべからず【甲は亦、用ふるに堪へず。】。
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私はそこで、同定候補の一例と思われるものを挙げて、イシガメ科マルガメ属Cyclemysの仲間、又は同属のノコヘリマルガメCyclemys dentata としつつも『但し、この種が腹甲を開閉できるタイプであるかどうかは確認していない』としている。十四年前の私の古い電子注で、「あの忙しかった頃にこんなに真面目に考証をしていたのか」とびっくりした。
「クーター(箱龜)」カメ目潜頸亜目リクガメ上科ヌマガメ科ヌマガメ亜科アメリカハコガメ属カロリナハコガメ errapene carolina のこと。アメリカハコガメ属中の最大種で最大甲長は二十一・六センチメートル。背甲はドーム状に盛り上がる。「ハコガメ」(箱亀)の名の通り、頭部と四肢を甲羅に引き入れた後、腹甲を折り曲げ、箱の様に完全に蓋をすることが出来る。但し、分類学上、注意しなくてはいけないのは、これは真正のリクガメ上科イシガメ科ハコガメ(箱亀)属 Cuora とは縁も所縁もない全くの別種であることである。そもそもが真正のハコガメ属は新大陸には全く棲息しない。というか、インド北東部・バングラデシュ・ミャンマー・カンボジア・タイ・ラオス・ベトナム・インドネシア・シンガポール・ブルネイ・フィリピン・中国南部・台湾・日本(石垣島・西表島)にのみ分布する。以下の熊楠の疑問は正しい。恐らくは「ブーランゼー氏」の言うような気まぐれの移入繁殖なんぞではなく、分類学上、縁が甚だ遠い以上、平行進化の結果と考えるのが妥当である。熊楠が後で言っているのもそれである。
「ブーランゼー氏」「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(20:蟾蜍)」にも出るが、イギリスの動物学者を調べてみたが、不詳。両生類・爬虫類に詳しい人物のようではある。
「コロンブスの新世界發見」クリストファー・コロンブス(イタリア語:Cristoforo Colombo/英語:Christopher Columbus 一四五一年頃~一五〇六年:イタリアのジェノヴァ出身とされる、元は奴隷商人。大航海時代に於いてキリスト教世界の白人としては最初にアメリカ海域へ到達したとされていた。彼の実績により彼の子孫はスペイン貴族に列せられた)がバハマのサン・サルバドル島に上陸した一四九二年十月十二日を「コロンブスによるアメリカ大陸の発見と」呼ぶ(但し、コロンブスは自身が上陸した場所はインドであると誤認しており、新大陸を発見したという認識は全くなかったのでこの謂いは甚だ正しくない。事実上、アメリカ大陸が新大陸であるという事実を発見したのはイタリアの地理学者・天文学者であったアメリゴ・ヴェスプッチ(Amerigo Vespucci 一四五四年~一五一二年)で、彼は一四九七年から一五〇二年まで三度に亙ってスペイン・ポルトガルの船に同乗し、大西洋を横断し、一五〇三年頃、調査の結果をまとめた「新世界」(アメリゴがフィレンツェのメディチ家に報告した書簡体のもので、しかも、アメリゴ自身の原本は存在しない)の中で、大西洋を横断した先にあるのはインドでもアジアでもなく、全く異なる新大陸であることを指摘したのが正確な「アメリカ大陸」発見であった)。
「陶弘景」(四五六年~五三六年)明の李時珍の「本草綱目」に頻繁に引用される六朝時代の医師にして博物学者。道教茅山派の開祖でもあった。隠棲後は華陽隠居と称し、晩年には華陽真逸と名乗った。当該ウィキによれば、『眉目秀麗にして博学多才で詩や琴棋書画を嗜み、医薬・卜占・暦算・経学・地理学・博物学・文芸に精通した。山林に隠棲し』、『フィールド』・『ワークを中心に本草学を研究し』、『今日の漢方医学の骨子を築いた。また、書の名手としても知られ、後世の書家に影響を与えた』。『丹陽郡秣陵県(現在の江蘇省南京市江寧区)の人で、南朝の士大夫の出身。祖父の陶隆は王府参軍、父の陶貞宝は孝昌県令を務めた。幼少より極めて聡明で』、忽ちにして『書法を得、万巻の書を読破し』、十『歳のときに葛洪の』「神仙伝」に『感化され』、『道教に傾倒』、十五『歳にして』「尋山志」を』『著したという』二十『歳の頃、南斉の高帝に招聘され』、『左衛殿中将軍を任じられると』、『諸王の侍講(教育係)となり』、『武帝のときまで仕えた』、三十『歳の頃、陸修静の弟子である孫游岳に師事して道術を学び』、三十六で『職を辞し』、四九二年、『茅山(南京付近の山・当時は句曲山といった)に弟子ととも隠遁した』。「南史」には『陶弘景が致仕したとき皇帝の肝いりで盛大な送別会が催されたことが伝えられている』。四九九年には『三層の楼閣を建て、弟子の指導をするほか、天文・暦算・医薬・地理・博物など多様な研究に打ち込んだ。また仏教に深く傾倒し』た。『王朝が交替すると』、『梁の武帝は陶弘景の才知を頼り、元号の選定をはじめ』、『吉凶や軍事などの重大な国政に彼の意見を取り入れた。このため』、『武帝と頻繁に書簡を交わしたので「山中宰相」と人々に呼ばれるようになる。年を負う毎に名声が高まり』、『王侯・貴族らの多くの名士が門弟となった』かの「文選」の『編者として知られる昭明太子も教えを受けたひとりである』。『多岐に』亙る『著述を著し』、『その数』、四十四『冊に上った』。『陶弘景は前漢の頃に著された中国最古のバイブル的な薬学書』「神農本草経」を整理して五〇〇年頃に「本草経集注(ほんぞうきょうしっちゅう)」を『著した。この中で薬物の数を』七百三十『種類と従来の』二『倍とした。また』、『薬物の性質などをもとに新たな分類法を考案した。漢方医学における薬学の祖とも呼ばれ、いまなお』、『この分類法は使われている。唐代に蘇敬らが勅命により』「新修本草」を刊行しているが、これも実は「本草経集注」の内容を網羅的に継承して増補した内容のものであった。『道教の一派である上清派を継承し』、『茅山派を開いた。著書』「真誥」(しんこう:霊媒師楊羲に降りた真人が口授した教えを筆写したものを、弘景が後に編纂した上清派の経典)は『上清派の歴史や教義を記述した重要な文献となっている。仙道の聖地である茅山に入り、弟子とともに道館「華陽館」を建て』、『多くの門弟を育て』て、『優れた道士を輩出した』。書は、『王羲之や鍾繇』(しょうよう)『に師法し』、『淡雅な書風だった。陶弘景が書したとされる「瘞鶴銘」』(えいかくめい:「瘞鶴」とは「鶴を埋める」の意)『の碑文は後世に評価が高く』、『その革新的な書法に啓発された書家は数多い。とりわけ』、『北宋の黄庭堅は大きな影響を受け、独特のリズムを持つ革新的な書法を完成させた。また』、『梁武帝と書簡の中で書論を交わしているが、この書論は唐代になって張彦遠の』「法書要録」に収められ』て、『王羲之の書を最高位とする後世の評価を決定づけることになった』とある。
「九百數十年前」寧ろ、一千年前と言ってよかった。
「韓保昇」五代の後蜀(九三四年~九六五年)の学者(翰林學士)で本草家。「蜀本草」の著者(全二十巻であったが、原本は散佚した)。
「ユリノ木」モクレン目モクレン科ユリノキ亜科ユリノキ属ユリノキ Liriodendron tulipifera 。当該ウィキによれば、標準和名の意味は「百合の木」であるが、種小名 tulipifera は「チューリップ(のような花)をつける」の意であり、別名に「ハンテンボク」(半纏木:葉の形が半纏に似ることから)・「レンゲボク(蓮華木:花が蓮の花を思わせることから)・チューリップツリー(同じく花がチューリップを思わせることから。種小名と同じ発想)などとも呼ぶ。そこでは『北アメリカ中部原産』とするものの、二『種のみが知られ、北アメリカと中国に隔離分布する』とあり、シナユリノキ Liriodendron chinense は、『中国の長江以南やベトナムに自生する。花はユリノキより小さめで緑色。千葉県内などで栽培例がある。近年ではユリノキとの交配種も栽培される』とあった。
「西半球に限ると惟われたる箱龜が支那にも產すればとて怪しむに足らず」既に述べた通り、同じハコガメを和名の一部に持ち、その形態はよく似ているが、全くの縁の遠い別種である。
「說苑」「ぜいえん」(現代仮名遣)と読む。前漢の劉向(りゅうきょう)の撰、乃至は編になる故事・説話集。「漢書」の「楚元王伝」の中の「劉向伝」によれば、上古から漢代に至るまでの多くの書物から天子を戒めるに足る逸話を採録し、時の成帝を諫めるべく上奏されたものとある。
「龜が蛇を殺し食う例は少なからじ」カメには雑食性の種も多くあり、そうした中・大型のカメがヘビを食うことはあり得ないことではない。但し、それが「少なくない」と言えるかどうかは疑問である。寧ろ、大型のヘビが小さなカメや子ガメを丸呑みするケースの方が遙かに多いはずである。
「尙書大傳」(しょうしょたいでん:現代仮名遣)原本は漢の伏勝の撰になる「書経」お注釈書。
「冬中也……」「冬は中(うち)なり。物、方(まさ)に中に藏(をさ)む。故に曰く、北方は冬なり。陽、盛んなれば、萬物を吁舒(くじよ)して、これを外に養ふ。陰、盛んなれば、萬物を呼吸して、これを内に藏(をさ)む。故に曰く、『呼吸は陰陽の交接にして、萬物の始終なり』と。」「吁舒」は生命や存在を驚くべく永く保つことか。
「男女根」男女の生殖器。
「Elsdon Best」ニュージーランド生まれ。ニュージーランドのマオリの研究に重要な貢献をした民族学者エルズドン・ベスト(一八五六年~一九三一年)。
「“Maori Beliefs concerning the Human Organs of Generation,” Man,vol.xiv,no.8,pp.132-133,1914」「人間の生殖器官に関するマオリの信仰」。「ええっ!」とびっくりしたが、英文サイト「zenodo」の「66. Maori Beliefs Concerning the Human Organs of Generation」とあるこちらから当該部分がバッチり(!)ターゲットでPDFでダウン・ロードできるッツ!!
「印度人はシヴァ神を幸福尊者と稱す。死は生を新たに始め破壞者實に再創者たれば也(エンサイクロペヂア、ブリタンニカ、十一板、廿五卷一六二頁)」例によって‘Internet archive’のこちらで原本当該部が見られる。]
因みに言ふ、世間に舌を出すを、猥褻の意に取る人多きも、西蔵人[やぶちゃん注:チベットじん。]などは然らず、舌を出すを敬禮の作法とす(Sven Hedin, ‘Trans-Himalaya,’ vol. i, p.lxvcix, 1909)。是れ本と親愛を表するに起り、親愛の極は男女歡會の際に存するは言ふを俟たず。扨古今東西蛇を陰相となす例到る處に多し(Westropp and Wake, ‘Ancient Symbol Worship,’ 2nd ed., New York, 1875, passim)。觀佛三昧海經卷八に佛告阿難、我昔初成道時、伽耶城邊、住煕連河側、時有五尼犍、共領七百五十弟子、自稱得道、來至我所、以自身根、燒身七匝云々、卽作此語、我無欲故、身根如此、如自在天云々、時世尊告諸尼犍、汝等不知如來身分云々、今當爲汝少現身分、爾時世尊自空而下、卽於地上、化作四水、如四大海、四海之中、有須彌山、佛在山下、正身仰臥、放金色光云々、徐出馬藏、遶山匝、如金蓮花、花々相次、上至梵世。尼犍[やぶちゃん注:「にけん」。]が其根を以て自身を七匝[やぶちゃん注:「さふ」。現代仮名遣「そう」。仏語に「右繞三匝」(うにょうさんそう)があり、これは右回りに対象物の周囲を三度繞(めぐ)って対象者への敬意を表わす礼法があるが、ここは自身を崇するために自分の男根をにょっきりと伸ばして自身の身に七度もうねうねと繞らせたのである。]せしに、佛は其根を伸して須彌大山を七匝し、更に寶蓮花を現して之を蔽ふを見て、尼犍輩降伏出家せりと云ふ(蓮花を女根の標識とする事 Westropp and Wake に見ゆ)。この七匝の一件は、もと根を蛇に擬したる事疑ひ無し。蛇を婬事の標識とする理由は多々有るべきも、其舌を出して頻りに歡を求むるの狀有るも、亦其一大理由なるべし。知れ切た事の樣乍ら、東西の學者此說を出だせる有るを聞かず。由て爰に記して、其參考に供す。又因みに言ふ、交會の際口を接する動物は、蛇に限らず。類函四二三に、俗云、鴛交頸而感、烏傳涎而孕[やぶちゃん注:「俗に云ふ、『鴛(ゑん/をしどり)は頸を交へて感じ、烏(からす)は涎(よだれ)を傳へて孕む』と」。]。プリニウスの博物志にも、世に鴉は嘴をもつて交はる故に、其卵を食ふ婦人は口より產すと傳ふ。アリストテレス之を駁して、鴉も鳩も同樣雌雄好愛して口を接するを誤認せる也と言へりと載す。(紀州東牟婁郡請川村邊で孕婦鳩の巢を見れば難產す、鳩は口より子を產む故といふも、雌雄の鳩屢ば接口するより謬り來れる也)烏が相愛して口を接するは予も見たり。又予の宅に今も四十疋許り龜を飼るが、情欲發する時、雌雄見て啄き合ふ。其交會は泥水中でするらしく、唯一度陸上で會ふを見し事有るのみ。上に引る化書に牝牡之道龜龜[やぶちゃん注:前と同じ処理をした。]相顧神交と有るも尤もなる處有り。古え[やぶちゃん注:ママ。]支那人、烏が口を接するを見るの多きより嗚[やぶちゃん注:「を」。]の字を以てキツスを表す。康煕字典嗚の字に此義有るを言ず。思ふに佛經に此事多きより譯經者が用ひ始めたる者か。例せば根本說一切有部毘奈耶に鄔陀夷、覩彼童女、顏容姿媚、遂起染心、卽摩觸彼身、嗚唼其口、四分律藏に時有比丘尼、在白衣家内住、見他夫主、共婦嗚口、捫摸身體、捉捺乳、佛說目連問戒律中五百輕重事經下に聚落中、三歲の小兒抱嗚口、犯何事、答犯墮、外典にも賈充妻郭氏酷妒、有男兒名黎民、生載周、充自外還、乳母抱兒在中庭、兒見充喜踊、充就乳母手中嗚之、郭遙望見、謂充愛乳母、卽殺之、兒悲思啼泣、不飮他乳遂死、郭後終無子(世說惑溺篇)。是れ晉朝既に小兒や婦女を愛して之に接口する風有りし也。又說郛三一所收玄池說林に云く、狐之相媚必先吕。注に、以口相接、是れは吾邦の笑本に「跡は無言で口と口」[やぶちゃん注:底本「口と口」は三字分「✕」で伏字。「選集」を参考に復元した以下同じ。]抔と有る口と口を合せ作れる者、康煕字典に見へねど[やぶちゃん注:ママ。]、その音クと記臆す。斯る簡單なる字有るに氣付かず、接吻抔六かしく譯せしは遺憾也。明治十九年赤峰瀨一郞氏が桑港の景物を誇張して吹聽せし世界之大不思議とか云る書に、歐米人のキッス[やぶちゃん注:三字伏字。]は唇を專らとし日本人のは舌を主とすと有りし樣[やぶちゃん注:「やう」。]覺ゆるが、ルキアノスの妓女對話に、妓女レエナ富家の婦人メギラと對食の次第を述る内、希臘には男女親暱[やぶちゃん注:「しんじつ」。「親昵」とも書く。「昵懇」に同じい。]の際に限り日本流に嗚口[やぶちゃん注:「をこう」。]せしを徵すべき句有り。調査せば猶多々例有るべし。アラビア人波斯[やぶちゃん注:ペルシア。]人等亦然りしは千一夜譚の處々に散見す。印度にはカマ經[やぶちゃん注:「カーマ・スートラ」のこと。]に嗚す[やぶちゃん注:「をす」。]べき箇所八を擧ぐ。其第七は其唇[やぶちゃん注:二字伏字。]、第八は口内[やぶちゃん注:二字伏字。]とあれば、所謂歐米日本の兩流を兼行ふ也(‘Le Kama Soutra,’ tran. E. Lamairesse, Paris, 1891, p. 41)。最後に述ぶ、歐米人の書に、日本人本來キツスを知ずと云事屢ば見るが、是程大きな間違ひは有るまじ。其古く文章に見える一二を擧げんに德川幕府の初世に成る醒睡笑に、「兒[やぶちゃん注:「ちご」。]と寢[やぶちゃん注:「いね」。]たるに、法師口を吸ふ[やぶちゃん注:四字伏字。]迚如何有りけん、齒を一つ吸拔きたり」。足利氏の時編まれたる犬筑波集戀部に「首をのべたる曙の空」「きぬぎぬに大若衆と口吸[やぶちゃん注:二字伏字。「くちすひ」。]て」。御伽草子は當時兒女の普く玩讀せし物なるに、其中の物草太郞、妻と爲すべき女を辻取りせんと淸水の大門に立つに十七八歲の美女來る。太郞見て爰にこそ吾北の方は出來ぬれ、天晴疾く近づけかし、抱き付ん、口をも吸[やぶちゃん注:四字伏字。「すは」]ばやと思ひて待居たり。女太郞に捉へられて、「離せかし網の糸目の繁ければ、此手を離れ物語せん」太郞返歌に「何かこの、あみの糸目は繁くとも、口を吸[やぶちゃん注:三字伏字。「すは」。]せよ手をば釋さん[やぶちゃん注:「ゆるさん」。]」とあり。以て當時、情人と別るゝに嗚し、戲れに强て嗚するの風、今日の歐米同然本邦にも行れしを知るべし。鎌倉霸府[やぶちゃん注:初出も「選集」もママ。]の代に成りし東北院職人歌合に巫女「君と我、口を寄せてぞねまほしき、鼓も腹も打ち敲きつつ」。其より前、平安朝の書、今昔物語一九に、大江定基愛する所の美婦死せる其屍を葬らず、抱き臥して日を經る内口を吸けるに、女の口より惡臭出しに發起して遂に出家せりとあり。
(大正八年八月人類、三四卷)
[やぶちゃん注:「Sven Hedin, ‘Trans-Himalaya,’ vol. i, p.lxvcix, 1909」中央アジア探検で知られたスウェーデンの地理学者スヴェン・アンデシュ・ヘディン(Sven Anders Hedin 一八六五年~一九五二年)の一九〇九年刊の「トランス・ヒマラヤ――チベットでの発見と冒険」(Trans-Himalaya :Discoveries and Adventures in Tibet)。書名は、彼が、発見したヒマラヤ山脈の北にあってこれと平行し、カラコルム山脈に連なる山脈の名。「lxvcix」は「選集」の表記で、底本は「p.i. xvcix」であるが、前者はローマ数字としておかしく、後者の後半は「99」相当であるが、「Internet archive」で二〇一〇年版他を見てもよく判らない。但し、同版の「182」ページ六行目に礼儀としての舌を出すお辞儀が登場している。「カワイ肝油ドロップ」のサイト内の山崎怜奈氏の「よみきかせ」の「世界の挨拶の秘密」の冒頭の「チベットに行ったら、舌をぺろっと出して挨拶をしよう!」に(引用に際し、文中の「?」「!」の後に字空けを施した)、『チベットに行くと、子どもも大人も関係なく、みんな舌をぺろっと出して挨拶をします。日本人の常識からすると「からかわれるのかしら…」なんて思ってしまいますよね? ですが、チベットで舌を出すのはその反対の意味! 舌を出すのは、相手への敬いの気持ちを表しているんです。また、チベットには古くからの言い伝えで、悪魔には角があり、舌が黒いと言われています。なので、自分が悪魔でない証明として、帽子をとって角がないこと、そして、舌を出して舌が黒くないことを相手に見せるようになったと言われています。日本人の常識からする真逆なんですね~。チベット旅行の際は、舌をぺろっと出して挨拶しましょう!』とあった。しかし、少なくとも、この内容は熊楠が言うような男女の性的なそれが由来ではない(起源の考証はしないが、この引用の方が私は腑に落ちる)。
「Westropp and Wake, ‘Ancient Symbol Worship,’ 2nd ed., New York, 1875, passim」アイルランドの考古学者ホッダー・ミッチェル・ウェストロップ(Hodder Michael Westropp 一八二〇年~一八八四年)とアメリカのジャーナリストであったアレクサンダー・ワイルダーAlexander Wilder 一八二三年~一九〇八年)及び熊楠は記していないが、民俗学者(或いは人類学者)チャールス・スタニランド(Charles Staniland Wake 一八三五年~一九一〇年)の共著になる「古代の象徴崇拝」。‘Internet archive’のこちらで原本が読める。末尾の「passim」(パッシム)はラテン語で「散らされた」の意で、副詞で「引用書物の諸所に」の意。
「觀佛三昧海經」全十巻。「觀佛三昧經」とも呼ぶ。サンスクリット語やチベット語訳はなく、仏駄跋陀羅(ぶっだばっだら)による漢訳のみが現存する。仏涅槃後の衆生のために釈尊の色身(しきしん)の観想、大慈悲に満ちた仏心と仏の生涯の諸場面への念想、仏像の観察、さらに過去七仏・十方仏の念仏等を説く。観仏三昧によって釈尊を中心とした諸仏との見仏を実現しようとするもの。その「観仏」の背景には「般若経」や「華厳経」の思想、唯心や如来蔵の思想が窺われる(「新纂浄土宗大辞典」のこちらに拠った)。
「佛告阿難……」「佛(ほとけ)、阿難に告ぐ。我、昔、初めて成道(じやうだう)せし時、伽耶城(がやじやう)の邊(あた)り、煕連河(きれんが)の側(ほとり)に住む。時に五(いつ)たりの尼犍(にけん)有り。共に七百五十の弟子を領ず。自(みづか)ら『道を得たり』と稱し、來たりて我が所に至り、自身の根(こん)[やぶちゃん注:男根。]を以つて、身(み)を七匝(ひちさう)繞(ねう)すと云々」、「卽ち、此の語を作(な)す。『我、欲、無きが故に、身根、此(か)くのごとく、自在なること、天のごとし』と云々」、「時に世尊、諸尼犍に告げて、『汝等(なんぢら)は如來の身(しん)の分(ぶん)を知らず』と云々」、「『今、當(まさ)に汝が爲めに、少しく身の分を現はすべし』と。爾(そ)の時、世尊、空より下(くだ)り、卽ち、地上に於いて化(け)して四水(しすい)となるに、四大海(しだいかい)のごとく、四海の中(うち)に須彌山(しゆみせん)有り、佛は山下に在りて、身を正しうして仰臥し、金色(きんじき)の光りを放つと云々」、「徐(おもむ)ろに馬藏(めざう)[やぶちゃん注:仏・菩薩の体内に貫入して渦を巻いている内蔵された男根のことと思われる。]を出だして、山を遶(めぐ)ること七匝、金蓮花のごとく、花々は相ひ次(つ)いで、上(のぼ)りて、梵世(ぼんせ)に至る」。訓読にかなり苦しんだが、概ねこれで間違ってはいないと思う。以下に語注する。
・「伽耶城」インドのマカダ国の都城。現在、インド北東部ビハール州の州都パトナの南約百キロメートルのところにあるガヤー県(グーグル・マップ・データ。以下同じ)の県都ガヤーに相当する。
・「煕連河」釈迦が涅槃の前に最後の沐浴をしたとされるヒラニヤヴァティ河。跋提河(ばつだいが)とも呼ぶ。クシナガラの東一キロメートルほどの位置と多くの記載があるのだが、判らない。この中央附近に仏教寺院が集中しているのでこの辺りか。しかし川は見当たらない。
・「尼犍」ゴータマ・ブッダ在世当時に活躍していた六人の代表的なインドの自由思想家たちを「六師外道」(ろくしげどう)と呼び、道徳否定論を説いたプーラナ・カッサパ、七種の要素を以って人間の個体の成立を説いたパクダ・カッチャーヤナ、輪廻の生存は無因無縁であるとして決定論を説いたマッカリ・ゴーサーラ、唯物論を主張したアジタ・ケーサカンバラ、可知論を唱えたサンジャヤ・ベーラッティプッタ、ジャイナ教の祖師であるニガンタ・ナータプッタ(マハーヴィーラ)がいるが、この最後の人物(或いはその信者集団)がここに出る人物のように見える。ウィキの「六師外道」によれば、『マハーヴィーラ』は『ニガンタ・ナータプッタ』とも称し、漢訳で『尼乾陀若提子』、本名はヴァルダマーナで、『ジャイナ教の開祖』であり、『相対主義、苦行主義、要素実在説』をとった人物とあり、『サンジャヤの懐疑論が実践の役に立たないことを反省し、知識の問題に関しては相対主義(不定主義)の立場を取り、一方的な判断を排した』。『宇宙は世界と非世界からなり、世界は霊魂(ジーヴァ)・物質(プドガラ)・運動の条件(ダルマ)・静止の条件(アダルマ)・虚空(アーカーシャ)の五実体または時間(カーラ)を加えた六実体からなると』し、『宇宙はこれらの実体から構成され、太古よりあるとして、創造神は想定しない』とする。『霊魂は永遠不滅の実体であり、行為の主体として行為の果報を受けるため、家を離れて乞食・苦行の生活を行って』、業(ごう)の『汚れを離れ、本来の霊魂が持つ上昇性を取り戻し、世界を脱して』、『その頂上にある非世界を目指し、生きながら涅槃に達することを目指す』。『全ての邪悪を避け、浄化し、祝福せよ』という立場をとったらしい。彼の詳しい当該ウィキもある。参照されたい。
「プリニウスの博物志」古代ローマの博物学者・政治家(ローマ帝国の属州総督)・軍人。であったガイウス・プリニウス・セクンドゥス(Gaius Plinius Secundus 二三年~七九年:ヴェスヴィオ火山の大噴火の観測と被災者の救助の目的で近くの町に向かい、そこで罹災して亡くなった。文人で政治家の養子の男子と区別するために子の方を「小プリニウス」、父(養父)の彼を「大プリニウス」と称することが通行している)が著した博物学大全(Naturalis Historia)。全三十七巻。地理学・天文学・動植物学・鉱物学など、あらゆる学問分野についての知識に関して記述している。数多くの先行書を参照しており、必ずしも本人が見聞・検証した事柄だけではなく、怪獣・巨人・狼人間などの非科学的な内容も多く含まれているが、非常に面白い。古くから知られていたが、特にルネサンス期の十五世紀に活版印刷で刊行されて以来、ヨーロッパの知識人たちに愛読・引用されてきた博物学の古典である。科学史・技術史上の貴重な記述を含むほか、芸術作品についての記述は古代ローマ芸術についての資料として美術史上でも珍重された。また、後代の幻想文学にも大きな影響を与えた。私は雄山閣の全三巻の全訳版(中野定雄他訳・第三版・平成元(一九八九)年刊)を所持している程度にはファンである。ここで熊楠が言っているのは、第十巻「一五」の「33」のワタリガラス(スズメ目カラス科カラス属ワタリガラス Corvus corax :ユーラシア大陸全域と北米大陸に分布し、本邦では北海道で冬の渡り鳥として例年観察される)。の記載の一節である。上記の訳本からその「33」の総て引く(久しぶりに役に立った。四万六千円強もしたのだから、これくらいの引用はしたいもんだ。「注」は訳注である)。
《引用開始》
ワタリガラスは一腹でせいぜい五つの卵しか生まない。彼らは嘴で生み、あるいは交尾する(したがって懐妊している婦人がその卵を食べると口から分娩する。そしてとにかくそれを異に持ち込むと難産する)と一般に信じられている。しかしアリストテレスは、エジプトのトキについてと同様、ワタリガラスについてもそんなことは嘘だ、だが問題の接嘴[やぶちゃん注:「せつし」。](よく見かけることだが)は、ハトがよくやるように、接吻の一種だ、と言っている。ワタリガラスは自分たちが前兆で伝えることの意味を知っている唯一の鳥であるように思える。というのは、メドゥスの客が殺されたとき、ペロポンネソスとアッティカにいたワタリガラスはみんな飛び去ったから。彼らが喉がつまったかのように声を呑み込むような鳴き方をするときは、それはとくに凶兆だ。
注1 メドゥスはメディアの息子、メディア人にその名を与えたとされる。
《引用終了》
さて、アリストテレスの反駁であるが、岩波の「アリストテレス全集」の動物学パートの三巻分は所持している。調べてみたところ、見つけた。これは「動物発生学」(一九六九年刊の「アリストテレス全集」第九巻所収。島崎三郎訳)の第六章の冒頭部の一節である。〔 〕は訳者による補足である(これも電子化注で役立ったのは久しぶり!)。
《引用開始》
鳥類の発生についても事態は同様である。すなわち、「オオガラスとイビスは口で交わり、四足類のイタチ口で子を産む」という人々があるからである。これらは、現にアナクサゴラスやその他の自然学者たちのうちの或る人々も述べているところであるが、あまりに単純で軽率な説である。鳥類について見ると、人々が推理〔三段論法〕によって誤った結論に達してしまうのは〔次の点が根拠になっている〕。すなわち、オオガラスの交尾はめったに見られないが、互いに嘴で交わることはしばしば見られ、これはカラスの類の鳥ならみなすることであって、飼い馴らされたコクマルガラスを見ればよく分かる。これと同じことをハトの類もするが、彼らは明らかに交尾もするので、そのためにこんな話は起こりようがなかったのである。カラスの類は少産の〔卵を少ししか産まぬ〕動物に属するから、好色ではないが、彼らも交尾するところをすでに観察されている。しかし、精液がいかにして栄養分と同じように、何でも入ってくるものを調理する胃を通って子宮に達するのか、ということを人々が推論してみないのはおかしい。しかも、これらの鳥類にも子宮があるし、卵〔巣〕は下帯〔横隔膜〕のそばに見られるのである。また、イタチにも、他の四足類と同じ様式の子宮がある。とすると、この子宮から口までどうやって胎児は進むのであろうか。しかし、イタチがその他の裂足類[やぶちゃん注:中略。]と同様に、まるで小さい子を産み、しばしばその子を口にくわえて運ぶということが、こんな見解を作り出した所以なのである。
《引用終了》
ここに出る「オオガラス」については、訳注があり、『日本ではワタリガラス Corvus corax 』(斜体でないのはママ。以下も同じ)とあるので問題ない。さらに、「イビス」については、『「動物誌」第九巻第二十七章』『によると、エジプト産の鳥で、白いのと黒いのがあり、白いのはIbis religiosa, 黒いのはI. falcinellus(=igneus)とされる。いずれも日本のトキに近い鳥である』とある。「コクマルガラス」は、Corvus monedula とされる。これはカラス属ニシコクマルガラスで、分布は北アフリカからヨーロッパのほぼ全域・イラン・北西インド及びシベリアと広範囲に及ぶものの、本邦ではたった二例が北海道で記録されただけの迷鳥である。
「紀州東牟婁郡請川村」底本の初出も「淸川」であるが、そのような名の地名は牟婁郡にはなく、「選集」の「請川」で調べると、牟婁郡にあったので、それを採った。位置は「Geoshapeリポジトリ」の「歴史的行政区域データセットβ版」 にある「和歌山県東牟婁郡請川村」(うけがわむら)で旧村域が確認出来る(現在は田辺市。熊野本宮大社の南方直近。懐かしいな)。
「支那人、烏が口を接するを見るの多きより嗚の字を以てキツスを表す」大修館書店の「廣漢和辭典」には「接吻」の意は載らない。所持する「岩波中国語辞典」にも、ない。ネットの中日辞書にも、そんな用法は載っていない。ところが、中文サイト内の殷登國氏の「打開中國接吻史:嗚、嗚咂、做了個呂字,指的是同一件事?」という文章にキスとしての「嗚」の字の用法が載り、しかも、熊楠が引いている漢籍や仏典と同じものも掲げられてあった! 而して熊楠が示した文言小説集「世説新語」での用法によって、魏晋南北朝(一八四年~五八九年)の南朝宋(四二〇年~四七九年)の時代には一般的に使用されていたことは確実で、もっと古い時代に既に俗語としては盛んに使用されいた可能性がすこぶる高い感じがする。
「根本說一切有部毘奈耶」「こんぽんせついっさいうぶびなや」(現代仮名遣)と読む仏教経典。全五十巻。唐の七〇三年(初唐末期)に義浄によって漢訳された。部派仏教上座部系の根本説一切有部で伝えた律蔵で、比丘戒二百四十九条に、教訓物語を挿入した大部なもの。
「鄔陀夷……」「鄔陀夷(うだい)、彼(か)の童女の顔容姿(がんやうし)の媚(こび)を覩(み)て、遂に染心(ぜんしん)[やぶちゃん注:煩悩に穢れた心。ここは性欲。]を起こし、卽ち、彼(か)の身(み)を摩觸(ましよく)し[やぶちゃん注:撫で触り。]、その口を嗚唼(をしやう)す」。「鄔陀夷」不詳。釈迦の弟子の一人で「勧導第一」と称された人物がいるが、この話では、ちょっと違うように思われる。当該ウィキによれば、『仏典には』この「鄔陀夷」『ウダーイの名前が非常に多く登場し、似た名前もあるので混同しやすい』として、別な三名を挙げてある。「唼」には「すする・ついばむ」の意がある。
「四分律藏」仏教の上座部の一派である法蔵部(曇無徳部)に伝承されてきた律(戒律)。十誦律・五分律・摩訶僧祇律とともに「四大広律」と呼ばれる。この四分律は、これら中国及び日本に伝来した諸律の中では、最も影響力を持ったものであり、中国・日本で律宗の名で総称される律研究の宗派は、殆んどが、この四分律に依拠している。
「時有比丘尼……」「時に比丘尼有り。白衣(びやくえ)の家内に住みて在り。他(そと)に夫主(あるじ)を見るに、婦(をんな)と共に口を嗚(を)し、身體(からだ)を捫摸(もんばく)し[やぶちゃん注:撫でさすり。]、乳(ち)を捉(つか)み捺(お)す」。
「佛說目連問戒律中五百輕重事經」単に「五百問」と通称される。戒律関連の仏典の一つ。
「聚落中……」「聚落(じゆらく)の中(うち)にて、三歳の小兒を抱きて、口を嗚(を)す。『何ごとを犯せるか。』と。答へて、『堕を犯せり』と。」
「外典」「げてん」。古くは「げでん」。世間に行なわれる仏教以外の典籍を指す。
「賈充妻郭氏酷妒……」最後に「世說惑溺篇」とある通り、この「世說」は「世說新語」(せせつしんご)の本来の書名。南北朝時代の南朝宋の臨川王劉義慶が編纂した、後漢末から東晋までの著名人の逸話を集めた文言小説集。「宋史」(一三四五年完成)の「芸文志」に所収される際に「世説新語」の称が現れた。「世説新書」とも呼ばれる。私が好きな小説集の一つである。引用は「惑溺篇」の初めの方に載る。訓読する。
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賈充(かじゆう)[やぶちゃん注:賈充(二一七年~二八二年)は三国時代の魏から西晋にかけての武将・政治家。字は公閭(こうりょ)。妻に李婉・郭槐(宜城君)、子に賈黎民(れいみん)、娘に賈荃(せん)(司馬攸(しゅう)の妃)・賈濬(しゅん)・賈南風(西晋の第二代恵帝の皇后)・賈午(韓寿の妻)がいる。この郭氏賈南風の生母である。]の妻[やぶちゃん注:私の所持するものでは「後妻」とある。]郭氏、酷(はなは)だ妒(と)なり[やぶちゃん注:嫉妬深かった。]。男兒あり、名は黎民、生れて載周(さいしう)なり[やぶちゃん注:その時、丁度、満一歳であった。]。充、外より還るに、乳母(うば)、兒(こ)を抱(いだ)きて中庭に在り。兒、充を見て喜踊(きよう)す[やぶちゃん注:はしゃいだ。]。充、乳母の手の中に就(つ)きて之れを嗚(を)す。郭、遙かに望み見(み)て、『充は乳母を愛せり』と謂(おも)ひ、卽ち、之れを殺す。兒、悲思啼泣(ひしていきふ)して、他(ほか)の乳(ち)を飮まず、遂に死せり。郭、後、終(つひ)に、子、無し。
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「說郛三一所収玄池說林」「說郛」(せっぷ:現代仮名遣)は元末明初の陶宗儀による漢籍叢書。巻数は元は百巻であったらしい。様々な時代の書物を含むが、特に宋・元の著作が多く集められており、他には見えない筆記小説や元代の貴重な書籍を含む。題名は揚雄「法言」問神篇の『大いなるかな、天地の萬物の郭たるや、五經の衆說の郛たるや』(「郛」は「町の周りを囲む城壁」の意)に由来する。「玄池說林」は恐らく志怪小説的な随筆のように思われる。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちら(PDF)の「説郛」の72コマ目で佚文が読める。
「狐之相媚必先吕」「以口相接」「相ひ媚(こび)るに、必ず、先づ、吕(りよ/ろ)たり【口を以つて相ひ接すなり。】。」。この「吕」は「呂」の異体字であり、古代の竹管で作った楽律を調整する器具(管の長さによって音の高さを定めて低音の管から数えて奇数の六つの管を「律」、偶数の六つの管を「吕」と称したのであって、熊楠の言うような「接吻」を即物的に意味する「口」と「口」の意ではなく、思うに、女に化けた狐がまぐわう際に挙げる高い声(本邦なら狐は「かうかう」という高音の声を発する)を指しているように私は思う。Higonosuke氏のブログ「黌門客」の「富士崎放江『褻語』」でこれを問題にしておられ(注記号は除去したので、注はリンク先を見られたい)、
《引用開始》
阿辻哲次『タブーの漢字学』(講談社学術文庫2013,もと講談社現代新書)は、「『也』を『女陰』という意味で、文章の中で実際に使っている例はまったく残っていない」(p.77)、「『女陰』という意味を表すために『也』を使った例は実際には存在しない」(p.78)と書いたうえで、『日本霊異記』下巻第十八に、「門構えに也」字をかかる意味で使った例があることに言及しているが、すくなくとも江戸期の書物のなかに、「也」を単独で「女陰」の義に用いたものがあるという事実は面白い。
実は、阿辻先生も書かれているのだが、『説文解字』巻十二には、「女陰也象形」とある。従って源内の使用例は、説文学の浸透に因るものでもあろうか。
次に、「呂の字」(p.62)。短いので全文を引く。[やぶちゃん注:以下引用部を「*」で挟んだ。]
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『玄池説林』という支那の本に「狐の相媚るや必ず先づ呂す」とある。狐は淫獣で、交尾期が来ると頗る性慾放肆の態を為すといわれている。「呂す」は即ち口と口を接する義で、接吻のことである。外国からキツスという語が渡来した時、かかる簡単で、しかも要領を得ている一字名があるのに、ことさらにむつかしい接吻などという文字を選んだ当時の漢学者の気が知れぬと、世界的博識家紀州の南方熊楠先生が話された。ただし呂という字は『康煕字典』にないが、音はクであろうと附言されたが、『字源』にはリヨ・ロとある。
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「呂」などというありふれた字が『康煕字典』にない筈はない。念のため確認してみると、「丑集上 口部」四畫のところに出ている。熊楠ほどの人物がそれに気づかなかったというのは、どうにも解しがたい。
そも『玄池説林』は、抜書としてではあるが、『説郛』巻第三十一に収めてある。逸書とおぼしく、熊楠もこの「説郛本」を見たのであろう。早稲田大図書館蔵書の当該箇所を確認すると、「狐之相媚也必先呂」[やぶちゃん注:私が見る限り、それは「吕」であって「呂」ではない。上の「口」の第一画が下に少し下に延びているが、それは下方の「口」と同じであり、「呂」のような中間部での四画目ではない。甚だ不審である。]とあり、「以口相接」なる割注も見える。
これによれば、『玄池説林』中の「呂」字というのは、正確には、「口」を上下に重ねた形と知れる。確かに、「呂」字が「口」を上下に重ねた形で書かれることは珍しくなく、いやむしろ、活字でも手書き字でも当り前のようによくあることで、偶々手許にある『大廣益會玉篇』(澤存堂本、叢書「古代字書輯刊」に収める)をひもとくと、「呂」字は「呂」部にあり、「口」を上下に重ねた形で出ているし、江守賢治『解説字体辞典【普及版】』(三省堂1998)は、「口」を上下に重ねた形を「伝統的な楷書の形」とし、「呂」を「康煕字典の字体」(p.640)とする。
したがって、『玄池説林』中の字を、放江が「呂」だと「誤認」したのは已むをえないことである。
しかし、熊楠はそれとは別の字を想定していたのではないか。「音はクであろう」と述べた根拠が分らないが、『玄池説林』中の字は、態々「以口相接」という割注を附する以上、これは戯字であると考えられ、「呂」とは区別されるべきではないか。
《引用終了》
私はHigonosuke氏の見解に反論もしたくない代わりに、賛同もする気はない。読者の判断にお任せする。
「明治十九年赤峰瀨一郞氏が桑港の景物を誇張して吹聽せし世界之大不思議とか云る書」書名がなかなか検索に掛からないので、著者名赤峰瀬一郎(生没年未詳)で限定してみて、訳が分かった。熊楠も「とか云る書」と言っているのに気づくべきであった。これは書名が大きく異なり、「米國今不審議」が正しい(「不思議」ではなく「不審議」である)。明一九(一八八六)年十月實學會会英學校刊で、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで視認出来る。その「第五國風短歌」の章の「國風二章」の一節に以下のように出る。短歌評釈は底本では、全体が二字下げであるが、引き上げた。草書崩しの表記が多いが、総てひらがなで示した。踊り字は正字化した。
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口すふて別れむ夜半のつれなさを
わすれやはするけふの寺ゆき
この歌の意味をさとるには西洋接吻(くちすひ)の風俗をよく知らざる可らず
日本にては男女の仲にても餘程意味深長なる交際の塲合に到らざれば中々口をすふ事をせず且つ口を吻ふても舌をいだして接吻するは日本の風俗なる由なれども西洋にては然らずして男と女は抱きあひ或は差しよりて只唇を互に着(つ)けあはせて頰に接吻するなり
又しばしば男抔は一人が他入の額或は頰を吻ふて親愛の情を表す事あり
又羅馬法王の如きは足の指(ゆび)を英國女王は手の指を椅子に坐しながら人の吻はすると云ふ
かく接吻の禮式は西洋の社會にて欠くべからざる物なり特に女等が集會する時は其内心にては水火の如く敵對之者たりとも陽には此禮義を正しく行ふわ[やぶちゃん注:ママ。]常なり
然し通例は只手をひくのみなり若し又入中にて男が親子或は姊妹にあらね他人の妻女と接吻する時は、忽ち惡しき名高く成るは世の習慣なれば人々よく注意すれども妻と妻、處女と處女の會合に接吻の行るゝは中々盛なる者なり
扨この歌の心は昨夜逢ひみて別れし折に口をすひし其別れぎはのつれなさも今はお寺にゆき戀人に逢ふと思へばことごとくわするゝことかなと云ふ義なり
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なお、調べてみると、この人物、「米國政教之内幕」などというものもものしており、また、「データベース『えひめの記憶』」にある「愛媛県史 学問・宗教」(昭和六〇(一九八五)年発行)の「第二編 宗教」の「第四章 キリスト教」の「第三節 プロテスタント(新教)諸教会」の「2 旧組合教会」の記載中に、プロテスタントの』『伝道が定着し』、『教会が最も早く設立された』『今治で』は『連日』、『多くの求道者がきたり、聖書を研究して講話を聴き、その中には洗礼を受けたいと願い出る者もあ』って、明治『一一年五月』、『有志約三〇名が集まって「愛隣社」なるものを結成し』、『求道に努めた。そこで、組合教会内国伝道会社は、赤峰瀬一郎を』今治に『派遣し』、『約二か月滞在させた』とある人物が、同一人物である可能性もあるように思われる。
「ルキアノスの妓女對話」「ルキアノス」(一二〇年乃至一二五年頃~一八〇年以後)はギリシャ語で執筆したアッシリア人風刺作家。恐らくは「遊女の対話」などと訳されているものがそれらしいが、私は読んだことがない。
「カマ經」古代インドの性愛論書(カーマ・シャーストラ)で、推定で凡そ四世紀から五世紀にかけて成立した作品とされ、現存するものとしては最古の経典。エロい私は高校時代に読んだ。
「‘Le Kama Soutra,’ tran. E. Lamairesse, Paris, 1891, p. 41」ピエール=ウージェーヌ・ラマレス(Pierre-Eugène Lamairesse 一八一七年~一八九八年:フランスの土木及び鉱山技師で、一八六〇年から一八六六年にかけてインドに於いてダムや灌漑プロジェクトの建設を担当した一方、古代インドの作品に興味を持ち、それらをフランス語に翻訳したことで最もよく知られている)による既刊の英訳・仏訳に基づく二番目のフランス語訳版「カーマ・スートラ」である。フランス語原本の当該ページは‘Internet archive’のこちら。
「醒睡笑」落語家の元祖とも言われる戦国から江戸前期の浄土宗西山派の僧で茶人・文人でもあった安楽庵策伝(天文二三(一五五四)年~寛永一九(一六四二)年)が著した、戦国時代の笑話・奇談集。全八巻。元和九(一六二三)年成立。写本(広本)と版本(略本・狭本)があり、前者には千三十九話、後者には三百十一話の小咄(こばなし)を収める。跋文によると、当初は譜代大名で下総関宿藩初代藩主板倉重宗(天正一四(一五八六)年~明暦二(一六五七)年)の所望によって策伝が噺しをしたに過ぎなかったが、それがあまりにも面白かったため、草子にするように重宗に勧められて作ったものとあり、寛永五(一六二八)年三月十七日に重宗に進呈されている。本書は「落語の教科書」とも称され、高い評価を受けている。引用は、巻之六の一節だが、大事なオチが切られてしまっている(熊楠らしい意地悪な確信犯である)。鈴木棠三校訂岩波文庫版(一九八六年刊)を恣意的に正字化して示す。
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「兒といねたるに、法師の口をすふとて、如何ありけん、齒を一つすひ拔きたり。膽をつぶし、暇(いとま)ごひまでもなく、遁(に)げて歸り、靜かに火をとぼし見れば、麥飯にてぞ候ひける。ふたしなみなお[やぶちゃん注:ママ。]兒(ちご)のありさまや。
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この「ふたしなみ」は「不嗜み」(「ぶたしなみ」とも読むが、その場合は「無嗜み」とも書く)で「心得のないこと・普段の用意や心掛けが足りないこと」を言う。
「犬筑波集」(いぬつくばしゅう:現代仮名遣)は室町後期の俳諧集。山崎宗鑑編。享禄(一五二八年~一五三二年)の末から天文(一五三二年~一五五五年)初年前後の成立かとされる。卑俗で滑稽な表現を打ち出し、俳諧が連歌から独立する契機となった書で、「俳諧連歌抄」「新撰犬筑波集」とも呼ばれる。引用は所持する「新潮日本古典集成」(昭和六三(一九八八)年刊。木村・井口校注)では(一九五・一九六番)、
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首を延べたる明(あけ)ぼのの空
きぬぎぬに大若俗と口吸ひて
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とある。頭注に、訳して『首をのばしたのである。空も明け方になって。――それは実のところ、朝の別れに大若衆に接吻をしようとして。』とされ、『朝、何かのことで首を延ばしているのを、相手が自分よりも背丈が高い大若衆なので、伸び上がり首をのばして別れの接吻をしている姿に見立てた面白さ。背丈を逆にした趣向。』と評釈されてある。
「御伽草子」「中の物草太郞」御伽草子は本来は単一の作品(集)を表わす固有名詞ではなく、室町時代を中心に栄え、江戸初期には「御伽物語」や「新おとぎ」など「御伽」の名が入った多くの草子が刊行された。「御伽草子」の名で呼ばれるようになったのは十八世紀前期、概ね、享保年間(一七一六年~一七三六年)に大坂の板元渋川清右衛門がこれらを集めて、「御伽文庫」又は「御伽草子」と称して二十三編を刊行してからのことであった。但し、これも十七世紀半ばに、彩色方法が異なるだけで、全く同型・同文の本が刊行されており、渋川版はこれを元にした後印本であったのだが、元々「御伽草紙」の語が渋川版の商標のようなものであったことから、当初はこの二十三種のみを「御伽草紙」と言ったが、やがてこの二十三種に類する物語をも指すように変化した(ウィキの「御伽草子」に拠った)。その一篇である「物草太郞」は当該ウィキを読まれたい。大学の時、必修の「日本文学演習(近世)」の一つで、一年間付き合った結果、この話は生涯続くひどいアレルギとなった。同じ演習でも「雨月物語」の「菊花の約」の一年間はとても楽しかったのに。岩波大系本(昭和三三(一九五八)年刊・市古貞次校注)によれば、女の歌「離せかし網」(あみ)「の糸目」(いとめ)「の繁ければ」「此手を離れ物語せん」の「網目」について、『網の糸と糸との間のすきま。ここは網にかかっているように厳重に逃げ出すすきがないことと、人目が多いことをかけている。はなして下さい。網の糸目がつまっていて逃げ出すすきがないので、そうして人が多勢みているので、どうか手をはなして下さい。あなたの手を離れて(はなしてもらって自由になって)、お話をしましょう』とある。
「東北院職人歌合」総勢十名の職人たちを左右に番(つが)えて、経師(きょうじ:表具師)を判者として「月」と「恋」を題に和歌を詠み競わせた職人歌合絵の現存最古の作。参照した「ジャパンサーチ」のこちらによれば(絵巻の画像も視認出来る)、伏見宮貞成親王(ふしみのみやさだふさしんのう 永仁五(一三七二)年~正平三(一四五六)年)筆とされる奥書によれば、花園院(永仁五(一二九七)年~貞和四(一三四八)年)『周辺で制作されたという。もとは京都の門跡寺院曼殊院(まんしゅいん)に伝来した。鎌倉時代の初め』、建保二(一二一四)年の秋の頃、『京都にある藤原氏ゆかりの寺、東北院の念仏会』『に集まった職人たちが、貴族にならって歌合をしたという設定の歌合絵で』、『職人たちが左右に分かれて「月」と「恋」の歌を詠み、経師(表具や)が判者となって、歌の勝ち負けを決める歌合が描かれてい』る。『左右それぞれが向き合って座るように描かれているのは、伝統的な歌合絵の形式にならってい』るものの、『登場するのはみやびな貴族たちではなく、医師に陰陽師』、鍛冶屋と『大工、刀磨(とぎ)師と鋳物』『師、巫女』『と博打打ち、海人と行商人の計』十『人の職人たち』で、『身ぐるみはがれた博打打ちの哀れな姿など、当時の風俗をリアルに写して』おり、『詠まれている歌の内容も、お笑いやパロディ満載』で、『絵と同様、当時の職人たちの風俗や心情を伝えて』いる。例えば、『博打打ちの恋の歌』「我こひ(恋)はかたおくれなるすぐろくのわれても人にあはんとぞおもふ」と『百人一首にもある崇徳院の有名な』「瀨をはやみ岩にせかるる瀧川のわれても末に逢はむとぞ思ふ」の『パロディ』となっている。』『それに対する年老いた巫女の歌は』「君とわれくちをよせてぞねまほしき皷(つづみ)もはらもうちたゝきつゝなん」と、『もはや、すさまじい世界』が展開しているとある。
「今昔物語一九に、大江定基愛する所の美婦死せる其屍を葬らず、抱き臥して日を經る内口を吸けるに、女の口より惡臭出しに發起して遂に出家せりとあり」「大江定基」は出家して寂昭(じゃくしょう 応和二(九六二)年頃?~長元七(一〇三四)年:「寂照」とも表記)を名乗った平安中期の天台僧。参議大江斉光(ただみつ)の子。因みに、彼の出家の最初の動機は「今昔物語集」(巻第十九 參河守大江定基出家語(參河守大江の定基出家の語(こと))第二)や「宇治拾遺物語」(卷第四 七 三川の入道(にうだう)遁世の事)などで知られるが、愛する妻が死んでも、愛(いと)おしさのあまり、葬送せず、その亡骸の口を吸っていたが、遂に遺体が腐り出し、そのおぞましい腐臭に泣く泣く葬ったとする話である。後者は私の「雨月物語 青頭巾 授業ノート」で電子化しているので参照されたい。]
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