甲子夜話卷之六 31 松平左近將監、日光御參宮御請の事
6―31 松平左近將監、日光御參宮御請の事
松平乘邑、加判の列となり、いまだ筆末なりしとき、一日德廟召て御前に候じければ、年來日光山御參宮の思召あり。久しく中絕せしことなれば、差支可ㇾ申や如何との御尋なり。乘邑答奉るには、御先祖樣卸參拜のことは、恐ながら御尤の義に存上候。御筋合左樣有らる當き御こと、中絕は候へども御先蹤もこれ有ゆゑ、思召立たれ差支は有間敷御答申上て、政府に退き、同列中へ、かくかくの御尋故かくかく御答申上ぬと達けり。其後御參宮のこと仰出されしに、乘邑御用掛と命ぜられ、諸般のことども取調たるとき、道中御行列の先縱、文書散佚して傳らず。人々とやかく取計かねけるに、乘邑御右筆に紙筆を執らせ、口授して行列を立たりしに、大率其坐にて鹵簿は成けるとなり。英才の敏にして決斷のするどき、此類なりと云傳へり。
■やぶちゃんの呟き
「松平左近將監」「松平乘邑」松平乗邑(のりさと 貞享三(一六八六)年~延享三(一七四六)年)は大名で老中。肥前国唐津藩三代藩主・志摩国鳥羽藩主・伊勢国亀山藩主・山城国淀藩主・下総国佐倉藩初代藩主。官位は従四位下・侍従。唐津藩第二代藩主松平乗春の長男として誕生。元禄三(一六九〇)年に父の死により、家督を相続した。正徳元(一七一一)年には近江国守山に於いて朝鮮通信使の接待を行っている。享保八(一七二三)年、老中となり、下総佐倉に転封となる。以後、足掛け二十年余りに亙って、徳川吉宗の「享保の改革」を推進し、「足高の制」の提言や、勘定奉行の神尾春央(はるひで)とともに年貢の増徴や、大岡忠相らと相談して刑事裁判の判例集「公事方御定書」を制定し、幕府成立依頼の諸法令の集成である「御触書集成」を纏め、「太閤検地」以来の幕府の手による検地の実施などを行った。水野忠之が老中を辞任した後、老中首座となり、後期の「享保の改革」を牽引し、元文二(一七三七)年には勝手掛(かってがかり)老中となり、「金穀の出納を掌るべき旨仰をかうぶ」ることになった乗邑は、農財政の全てをも管掌することとなった。「大岡忠相日記」によれば、関東地方(じかた)御用掛の職を務めていた大岡忠相でさえも、「月番の無構(かまいなく)」(老中の月番に関わりなく)農政に関することは、全て、乗邑に報告するよう指示されている。当時は、吉宗が御側(おそば)御用取次を取次として老中合議制を骨抜きにして将軍専制の政治を行っていた。「大岡日記」によると、元文三(一七三八)年に大岡忠相配下の上坂安左衛門代官所による栗の植林を三ヶ年に渡って実施する件について、七月末日に、御用御側取次の加納久通より、許可が出たため、大岡が八月十日に勝手掛老中の乗邑に出費の決裁を求めたが、乗邑は「聞いていないので書類は受け取れない」と処理を、一時、断っている。この対応は例外的であり、当時は御側御用取次が実務官僚の奉行などと直接調整を行って政策を決定していたため、この事例は乗邑による、老中軽視の政治に対するささやかな抵抗と見られている。将軍後継問題に関しては、吉宗の次男の田安宗武を将軍に擁立しようとしていたが、長男の家重が後継と決定されたため、その経緯により、家重から疎んじられるようになり、延享二(一七四五)年に家重の信任の厚かった酒井忠恭(ただずみ)が老中に就くと、忠恭が老中首座とされ、次席に外された。同年十一月に家重が第九代将軍に就任すると、直後に老中を解任され、加増一万石も没収となり、隠居を命ぜられてしまった。次男乗祐への家督相続は許されたが、間もなく、出羽山形に転封を命ぜられた(以上はウィキの「松平乗邑」に拠った)。
「御請」「おんうけ」と読んでおく。
「加判」ここは幕府老中のこと。
「筆末」末席。
「德廟」吉宗の諡号。有徳院。
「年來」「としごろ」。
「久しく中絕せしことなれば」サイト「日本文化の入り口マガジン 和樂web」のこちらの
Dyson 尚子氏の記事によれば、第四代将軍家綱を最後に日光東照宮への将軍の参拝は長く途絶えていたとある。家光の時に「日光社参」は公的行事へと格上げされており、しかも家光は実に生涯に亙って十回(九回とする説他もある)もそれを行って訪問先も増えていったという。それまでは二年に一度の割合であったのを増やした上、諸大名らも随行させた。ところが、家光のその権現様への執着が裏目に出て、参拝の規模が拡大されたために、費用の支出が半端ないものに膨れ上がってしまったのであった。そのため、逆に「日光社参」の実現が困難となり、それでも、家綱は二度、「日光社参」を執行したが、第五代将軍綱吉・第六代将軍家宣に至っては、計画だけ立ち上がったものの、幕府財政上から、すぐに頓挫した。それを実に六十五年振りに復活させたのが第八代将軍吉宗であった。享保一二(一七二七)年七月、吉宗の将軍就任から既に十一年が経過していた。そんな折り、突然、吉宗は、来年に「日光社参」を行うことを宣言し、準備に掛からせたのであった。「享保の改革」は当時の破産寸前にあった幕府財政の立て直しにあった。また、一方で、初心に帰る「諸事権現様 定め通り」という復古宣言のもとに改革が行われたのでもあった。さすれば、吉宗の「日光社参」への意欲は、家光とほぼ同じか、それ以上のものだったのかも知れない。しかし、いざ、行ってみたところが、質素倹約はどこへやらで、吉宗の「日光社参」は仰々しい大層なものとなってしまう。『当日の参加者は、譜代大名と旗本らで約』十三万三千人にも達し、『荷物を運ぶなどの仕事を行う「人足(にんそく)」が』約二十二万八千人で、合わせて実に計三十六万人にも及んだ。『人が人なら、馬の数も』もの凄く、三十二万六千頭の『馬が集められたという』。『いやいや。もっと大変なのは、参加せざるを得ない武士たちだろう。家格に応じて、付き従う家臣や武具の数が定められていたからだ。もちろん、用意するのは自腹。これを受けて賃金や物価が暴騰し、幕府からは値段の据え置きを命じる法令も出される有様。これ以外にも、街道や宿場の整備方法など、ありとあらゆる法令が乱発。これらは総称して「社参法度(しゃさんはっと)」と呼ばれている』。他に『武士以外にも涙をのんだ人たちが』いた。『ちょうど』、『農繫期と重なって困り果てたのが、農民の方々』で、『大名行列が滞りなく行われるようにと、大事な時期に街道の整備などに人手を割かれたのである。たった』一『回の通行のために、道をならして砂を敷く。街路樹は枝を切って見栄えよく。さらには、街道沿いの家屋などには修繕がなされたという。当日は』十間(約十八メートル)ごとに、『火事に備えて手桶が置かれたのだ』そうである。約十三万人の移動は想像するだに、眩暈がする。『「子(ね)の刻」、つまり午前』零『時に先頭の秋元喬房(あきもとたかふさ)が出立。そこから次々と、大名や旗本の部隊が続く。ようやく』『吉宗が、約』二千『人の親衛隊と共に城を出たのが「卯(う)の刻」。午前』六『時であ』った。さても『最後尾は松平輝貞(まつだいらてるさだ)。時刻は「巳(み)の刻」、つまり午前』十『時』で『出発するだけで』十『時間も要している』。『無事に城を出た一行は、その道中を』四『日間かけて進んでいく。なお、日光東照宮までのルートはというと』、第二『代秀忠が通ったのと同じもので』、『江戸日本橋を出て、本郷追分(ほんごうおいわけ、東京都)で、中山道(なかせんどう)と分かれる。岩淵(いわぶち、東京都)から川口(埼玉県川口市)、鳩ヶ谷(はとがや、同市)、大門(だいもん、埼玉県さいたま市)と進み、岩槻城(いわつきじょう、同市)で』一『泊。幸手(さって、埼玉県幸手市)で日光街道に合流する。ここまでが「日光御成道(にっこうおなりみち)」と呼ばれる「日光社参」用のルートである。全長約』十二里三十町(約四十八キロメートル)の道のりであった。『その後、栗橋(くりはし、埼玉県久喜市)から利根川を渡って中田(茨城県古河市)へ。北上して古河城(こがじょう、同市)、宇都宮城(うつのみやじょう、栃木県宇都宮市)でそれぞれ』一『泊して、日光東照宮へ向かう。こうして』四『日目に、ようやく家康の神廟へと到着』した。『もちろん、到着後も気を抜けない。将軍が到着したらしたで、警護もやはり大変である。滞在はたったの』二『日間のみだが、領内の出入口は武士で固められ、午後』六『時半を過ぎると』、『閉門。領内の巡回のみならず、万が一のために、日光へと繋がるあらゆる主要道路が封鎖』された。『それだけではない。近くの宿場には大名や旗本が陣を置き、徳川御三家も約』十二キロメートル先に『本陣を置くほどの厳戒態勢だった』。『ただ』、『吉宗からすれば、周囲の苦労は別世界だったようで』、『日光に到着したその翌日が、ちょうど家康の命日である』四月十七日で、『吉宗は、心ゆくまで霊廟に拝礼し、目的を達成して満足げに往路を引き返した』。さて、この時、『吉宗がつぎ込んだ総額はというと』、これ、『ざっと見積もっても、この』一『回の「日光社参」で約』二十『万両以上。一両』七『万円に換算すれば、約』百四十『億円もの金額となる。質素とはほど遠い、絶叫する金額である』。『道中の利根川を渡るところだけで約』二『万両』で凡そ十四『億円』かかっている。これは、『通常なら』、『渡し船で利根川を渡る』ところを、『栗橋』と『中田』の『間に、臨時に橋が設置された』ためであった。『橋というのも「舟橋(ふなばし)」』で、『高瀬舟をズラッと並べて綱で繋ぎ、その上に板を敷くアレである。なんと繋いだ舟の数は』五十一『隻』だったという。『その上、板を何枚も重ねるだけでは足りず。当日は、馬が滑らないように板の上に白砂まで撒かれていたという』。しかも『欄干まであったというから』、『恐れ入る。もちろん、渡っている最中に揺れるなど』、『もってのほか』で、『両岸より太い綱(虎綱、とらつな)で固定された。工期に』四『ヶ月も費やしたのだが、「日光社参」の終了後に解体。なんとも、勿体ない話である』。『一体、ここまでして「日光社参」を行う必要があったのかと』、誰だって疑問に思うはず』で、『質素倹約を奨励していた当時は、どのように捉えられたのか』? 何故、『吉宗自身』、『矛盾と思わなかったのだろうか』? という素朴な疑問が生じる。『これには多くの理由が考えられる』。実は、『吉宗の将軍在位期間は約』三十『年』で、『そのうち、特に積極的な改革を推し進めたのが』、享保七(一七二〇)年から享保一五(一七三〇)年の間』で、『ちょうど』、六十五『年ぶりに「日光社参」を復活させた享保』一三(一七二八)『年は、その真っ只中の年となる』。『未だ途中ではあるが、この時点で既に自身の改革は大成功。だからこそ、莫大な費用がかかる「日光社参」も復活させることができたのだと。そう内外にアピールしたかったと考えられる』。『加えて、直系の血筋ではない』『吉宗だが、ことのほか、初代家康を尊敬する気持ちは強かったとも』言われる。『祥月命日の前日に悪夢を見ては申し訳ないと、一睡もしなかったという逸話もあるほどだ』。『そんな純粋な気持ちも、もちろんあってのことだが』、『吉宗の改革の目標は、初代家康の治世の回帰』に『加えて、家康の絶対的な権威を、直系ではない自分にそのまま引き継ぐ』という、『そんな狙いもあったのではないだろうか。家康を崇めることが、ダイレクトに自分に返ってくる。そんなしたたかなところも全く』なかった『とは言い切れない』。『しかし、それにしても』、『莫大な費用をかけ』過ぎで、『これらの理由で、そこまでの費用対効果は見込めないだろう』と、誰もがやはり感じる。『じつは、他にも理由がある。それ』は、『「日光社参」は、徳川勢力を総動員した軍事演習だったという』事実である。『江戸時代、諸藩は軍事行動が一切できず』、『軍事関係は、将軍が一手に掌握していた』。『そのため、軍事行動がなされる場合には、承認許可となる将軍の「黒印状(こくいんじょう)」が必要であった』。『今回の「日光社参」』では、『なんと、この黒印状』を以って『参加命令が出ているのである。言い換えれば、これは軍事行動にあたる』ということなのである。『そして、参加したのは、外様大名』『以外』であった。『つまり、旗本、譜代大名の徳川勢力を集結させて行われたのであ』った。『特に、戦国時代とは異なり、世は平和の時代』で、大袈裟に言えば、『馬に乗れない者や』、『草鞋』『の結び方さえ知らないという現代っ子の武士たちも』いたやも知れぬ。『平時はよいが、いざという時の避難訓練と同様』、『吉宗も軍事演習が必要だと判断したのだろう』。「徳川実紀」を見ると、『この「日光社参」に備えて、江戸城吹上(ふきあげ)にて行軍の予行演習がなされたとの記述がある。「日光社参」という名目で、戦とは無縁の生活に慣れ切った者たちに、実践とはいかないまでも、大規模な軍事演習を行ったのであ』った。こう見ると、『「日光社参」は、リスクマネジメントの』一『つといえるのかもしれない。武士』一人一人に『危機意識を持たせつつ、徳川勢力の団結を図る。同時に、これは、外様大名らの謀反の牽制となる示威行動でもあった』。『一石三鳥ほどの効果となれば、莫大な費用をかけても、お釣りがくる。頭脳明晰な』『吉宗なら、そんな計算をサクッとしたに違いない』。『最後に』。『この「日光社参」で、一番得をしたのは誰かというと』、『まさかの「罪人」』であった。『恩赦により』、実に百三十九『人の罪人が放免されたといわれている』。『武士も農民も』『準備や当日の社参で、てんてこまい。にもかかわらず、罪人が得をしたとは』、『何とも皮肉な話で』は『ある』。『皮肉といえば』、『神廟の中から、子孫の参拝を見ていた家康も』、『簡素な造り、簡素な参拝はどこへやら』『……』『きっと、目に涙をためて、言葉を失ったに違いない』と結んでおられる。Dyson 尚子氏の文章は実に楽しく読める。ちゃんと引用元でお読み戴きたい。
「御筋合」事の運びよう。
「左樣有らる當き御こと」「さやうあらるべきおんこと」。
「思召立たれ」「おぼしめちたたれ」て、それは。
「差支は有間敷御答」「さしつかへはあるまじきおんこたへ」
「政府」老中伺候の間。
「達けり」「たつしけり」。報告した。
「取計かねけるに」「とりはかりかねけるに」。具体的な行軍形態を計画しかねていたところが。
「立たりしに」「たてたりしに」。
「大率」「おほむね」。「槪ね」に同じい。
「鹵簿」「ろぼ」。儀仗 を備えた行幸・行啓や貴人の行列。
「成ける」「なりける」。口述筆記で行軍詳細は完成したのである。凄い!
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