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2021/03/08

芥川龍之介書簡抄19 / 大正二(一九一三)年書簡より(6) 十一月十九日附井川恭宛書簡

 

大正二(一九一三)年十一月十九日・京都帝國大學寄宿舎内 井川恭君 直披・十九日朝 芥川龍之介

 

菅さんの家へついたのは午後五時頃だつた

鎌倉から江の島へ行つて江の島から又由井ケ濱までかへつて來たのである 先生の家は電車(鎌倉藤澤間の)の停留所から一町[やぶちゃん注:百八メートル。]ほど離れてゐるがそれもおみやげに江の島から持つて來た榮螺を代る代るさげてあるく藤岡君と僕とには可成長い路のやうに思はれた

鼠がゝつた紺にぬられた木造の西洋建の窓にはもう灯があかくさしてゐる ごめん下さいと云ふと勢のいゝ足おとがして重い硝子戶があいた うすぐらい中に眼の凉しいかはいよ男の子の顏が見える「先生は御出でですか」とたづねると「はい」と會釋をしてすぐまたうすぐらい中にみえなくなる

靴をことこととならしながら待つてゐると菅さんの顏が玄關から出た「おはいり さあおはいり」

案内されたのは二階の先生の書齋だつた 戶口には斑竹へ白く字をうかせた聯がかゝつてゐる はいると四方の壁にも殆隙間なく幅がかけてあつた 悉支那人の書でそれが又悉何と考へてもよめさうもない字ばかりである 紫檀の机の上には法帖と藍い帙にはいつた唐本とがうづたかくつんである 隅のちがひ棚の上には古びた銅の置物と古めかしい陶器とがならんでゐる すべてが寂然として蒼古の色を帶びてゐるのである

今めかしいのは高い天井から下つてゐる電燈と廣い椽にすゑた籐椅子ばかり 白麻の緣をとつた疊も唐木の机も机の周圖に敷いた白い毛皮も靑い陶器の火入れも藍のつむぎの綿入をきた菅さんも何となく漢詩めいた氣分の中におさまつて見える

窓には帷がおりてゐたが晝は近く松林の上に海を見る事が出來るのであらう 窓のわきに黑い蝕んだ板がたてかけてゐる 上には模糊として文字のやうなものが蝸牛のはつた跡のやうにうすく光つてゐた あれは何ですときくと先生は道風ぢやと答へた 自分はしみじみ先生があの靑磁の甁に幽菊の一枝をさしあの古銅の香爐に一炷の篆煙を上らせないのを殘念に思つた 奧さんのなくなられたあとの三年間を先生は五人の御子さんの一緖に二人の下女を使つて此湘南の田園居に悠々とした日月を送つてゐられるのである 先生の書に於ける鑑識が天下に肩隨[やぶちゃん注:「けんずゐ」。]するもののない事は前からきいてゐた しかし書を作る上から云つても先生の造詣に及ぶものが何人ゐるであらう「此夏休みには日に一萬字づゝ書かうとしたがどうしても六七千字どまりぢやつた」と云ふ先生にとつて獨乙語の如きは閑余[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]の末技に過ぎないのであらう

自分たちはチヨコレートをすひながらこんな逸話をきいた

先生が此間なくなつた梠竹をたづねた事がある 三四度留守と稱して斷られたあげくにやつとあへた あふと七十余歲の梠竹は白鬚髯[やぶちゃん注:「はくしゆぜん」と読んでおく。しらひげ。]を撫しながら「お前さんは何用あつて來たのぢや」と云ふ

「書法についての御話がうけたまはりたくてまゐりました」

「わしは書法なんと云ふものはしりませんて さう云ふ事は世間に澤山話す人がゐるからその人たちにきゝなさい」

「その人たちの話がきゝたくないからあなたの所へあがつたんです」

この會話は先生の語(コトバ)[やぶちゃん注:ルビ。]をきいた通りにかいたのである

梠竹は何と云つても書法はしらないで押通す 先生もとうとう我を折つてかへつて來た さうすると一月あまりのうちに梠竹が死んだ。所が先生の親友に大井(?)哲太郞と云ふ詩人がゐる 詩の外に書もよくする人ださうだが梠竹と師弟のやうな關係で其上意氣相投ずる所から死ぬ迄親しく交つてゐたので先生がその人にあつた序に梠竹の話しをするとその人が云ふには

「そりやあ惜しい事をした あなたの來たあとで梠竹がわたしをよんで菅と云ふ男がこんな事を云つて來たがお前は同鄕だしどんな男か知つてゐるだらうと云ふから 知つてる所ぢやあない 支那に三年も行つてゐたこれこれかう云ふ男だと話してきかせると梠竹は大變殘念がつて 俺は早速鎌倉へ逢ひに行きたい お前案内をしてくれと云ひ出した 云ひ出してすぐ病氣になつて死んだのぢやから梠竹もあなた同樣殘念だらう」

と云ふ事だつた

自分はこんた話をきいてゐる中に非常に面白くなつた そこで書家の噂になると先生は「之はわしの先生がかいたのぢや ごらん」と云つて厚い紙にかいた五言の律詩を見せてくれた 字は六朝の正格である 不折の比ではない 自分は感心して見てゐた「たゞかいてゐたつて仕方がない かうしてみるがいゝ」先生はその紙を手に灯にすかすやうにして見せてくれた 字の劃が中央は黑く左右は銀のやうに墨がたまつて厚紙の上に字を凹彫にしたやうに見える「どうぢや かうなれば一家を成したと云へる 日本の書家には一人も之が出來ない」自分は愈感心した

先生は今度は李瑞淸の法帖をあけて「香」の字を指しながら

「この★を見なさい 内圓にして外方と云ふのが六朝の正体[やぶちゃん注:「せいたい」。ママ。]ぢや 日本の書家は之を能くしない」[やぶちゃん注:底本に挿入されてある芥川龍之介の直筆画像をトリミングして下に示した。]

Jikaku

大きな銅硯に唐墨をすつて鋒[やぶちゃん注:「ほこさき」。筆先。]の長い筆をひたすとそばの半紙の上へ同じ字をかいてみせる 内圓にして外方なる鉤が出來る

それから澤山の碑文や法帖や手簡や扇面をみせてくれた その中で「これが漢の古碑文ぢや 不折が復製を手に入れたと云うてうれしがつてゐたがわしのは原文だ」と云つて見せたくれた[やぶちゃん注:ママ。]のが最も古色を帶びたもので形容したら鳳篆龍章とも云ふやうな字が明滅して並んでゐた

かうしてゐるうちにいつか時がたつて汽車がなくなつてしまつた

先生は「とまつてゆきなさい」をくりかへす さう云へば一寸とまつて見たいやうな氣もする 何となく部屋のなかにみちてゐる瀟洒とした風韻が人を動す[やぶちゃん注:「うごかす」。]のだ そこでとうとうとめてもらう事にした 最後に先生は有合せの紙に

 

   沿河不見柳絲搖

   步向靑谿長板橋

   丁字簾前猶彷彿

   更誰間話到南朝

 

とかいてくれた

 

翌日先生の[やぶちゃん注:ママ。]一緖に東京へかへつてすぐ學校へ出て五時迄授業をうけたらへたへたになつた 文展の最終日にも行きそくなつてしまつた[やぶちゃん注:ママ。]

文展は昨日[やぶちゃん注:底本にママ注記。昨年の誤記であろう。]ほど振はなかつたが日本畫の第二部で牛田雞村の町三趣と土田麥僊の海女とがよかつた 唯癪にさはるのは久米の外に海女に同情を示す人がない事だ 石田君なんぞは全然不賛成だと云ふ(之は寧光柴榮に感じるが)谷森君のおぢさん(審査員)は「怪物」だと云つたさうだ 文展は大阪であるんだらう さうしたら殊にこの二つをみてくれ給へ 海女の海のウルトラマリンには僕も全然は賛成はしないが左の半雙の色調と海女の運動のよく現はれた點では成功が著しいと思ふ 町三趣は朝もいゝが夜が殊にいゝ(少し遠近法を無視しすぎて「夜」の石垣なんぞに變な所があるが)谷森君は「驛路の春」がすてきにすきださうだ

エレクトラはすこしほめすぎて大阪迄君をひき出したやうな氣がして恐縮だ 其後「夜の宿」を見て役者のどれよりも舞台[やぶちゃん注:ママ。]監督としての小山内氏の伎倆に敬服したが之はかく迄もない

帝國ホテルのヴエルヂイの紀念會があつた ドブロボルスキイと云ふ女のひとのうつくしいソロをきいた たゞおしまひの四部合唱に泣き佛の中島かね子さんとザルコリとタムとドブロボルスキイと出た時にはどうしても西洋人が四人で泣き佛をいぢめてるやうで氣の毒だつた ザルコリの音量は實際豐なものだと思ふ

大塚に地所をかりた 冬をこして二月頃から普請にかゝる 今より廣くなるから今度君がくるときにはもつと便利になる

石田君が一高へ歷史會を起した 講義をずべつて迄一高へ行つて世話をやいてゐる

山本のやつてる野外劇場は泉鏡花の紅玉を田端の白梅園でやつて失敗した 當事者の久米でさへ「見てられない位まづいんだからな」つて云つてた

谷森君は不相變眞面目にやつてゐる 佐野と根本とがずべつてゐる 成瀨は月謝を皆にかしてしまつた所へ月謝の催促が來たと云つて悲觀してゐる 根本なんぞは國から洋服をこしらへる金をとつてそれを使つてしまひ洋服は出來るとすぐ二度程きて勘定は拂ず[やぶちゃん注:「はらはず」。]に質へ入れてしまつたさうだ その金で今は三崎へ行つてゐる

まだあつた 黑田も石原もずべつてゐる 久米と成瀨は可成眞面目に學校へ出てゐる 佐伯君は大學の橡[やぶちゃん注:「とち」。]の木の下で午休みによく座禪をくんで腹式呼吸をやつてゐる

 

   DOVROVOLSKY夫人も秋の夜はさびしと思ふことありや灯を

   S1GJNORIA NAKAJIMAのきる紫の羽織もさむき夜となりにけり

   秋の夜のホテルの廊を画家南薰造のゆくにあひにけるかな

   バアナアドリイチと語る黑服の女はみゝづくによく似たるかな

        (帝國ホテルにて――四首)

[やぶちゃん注:第三首の「画」はママ。]

 

[やぶちゃん注:一箇所、行末改行で文が続いている箇所に字空けを施した。短歌の後書は実際には最終歌の下三字下げ位置から記されてある。

「菅さん」菅虎雄(すがとらお 元治元(一八六四)年~昭和一八(一九四三)年)はドイツ語学者で書家。芥川龍之介の一高時代の恩師。名物教授として知られた。夏目漱石の親友で、芥川龍之介も甚だ崇敬し、処女作品集「羅生門」の題字の揮毫をしたことで知られる。私の『小穴隆一「二つの繪」(31) 「影照」(6) 「暮春には春服」』に画像を掲げてあるので見られたい。以下、当該ウィキによれば、『筑後国御井郡呉服町(現・福岡県久留米市城南町)の医師、菅京山の次男として生まれた』。明治一三(一八八〇)年、十七歳の時に上京し、明治二四(一八九一)年、『日本初のドイツ文学士として帝国大学文科大学独逸文学科を』『卒業後』(サイト「e- ざ鎌倉・ITタウン」の『「鎌倉文士村」ができたわけ(2)』の「菅虎雄の存在と夏目漱石」には、入学時は東京帝国大学医学部で後に転部したとある)、『教師として、東京外国語学校、第五高等学校、第三高等学校教授等を歴任』、明治二九(一八九六)年には『漱石を五高へ招い』ている。明治四〇(一九〇七)年九月に『第一高等学校に着任』、以後、昭和一五(一九四〇)年三月に『依願退職するまで』、『同校ドイツ語教師として勤務した』。『息子の菅忠雄は文藝春秋社に務め、川端康成の創刊した同人誌『文藝時代』の同人』として小説を書き、芥川龍之介とも親しかった。『菅が帝大にいた時、英文学科の』二『年後輩に夏目金之助がいた。菅は、漱石を五高へ招いたり、円覚寺への参禪を促したり』して、二『人は生涯に渡って親友であり続けた。ちなみに、漱石は』明治三〇(一八九七)年四月十八日に『正岡子規宛の手紙に、「今春期休に久留米に至り高良山に登り、それより山越を致し発心と申す処の桜を見物致候。……」と書いている』が、『これは親友の管虎雄が病気のため五高を辞して、郷里久留米に引きこもったのを、見舞うための旅行であったようだ』(小宮豊隆「夏目漱石」)。『能書家としても知られ、漱石の墓碑銘は菅虎雄の手になる。なお、新全集の宮坂年譜によれば、菅家を訪問したのは、この書簡日附の三日前の十一月十六日(日曜日)のことであった。

「電車(鎌倉藤澤間の)の停留所から一町ほど離れてゐる」現在の「江ノ電」(江ノ島電鉄)である(但し、正確には当時は「横浜電気株式会社江之島電気鉄道部」)。菅の家の位置が今一つ判然としないが、「藤岡君と僕とには可成長い路のやうに思はれた」と言っているところを見ると、「長谷」駅で降りて、東方向の路地を迷ったもののように思われる(グーグル・マップ・データ航空写真。あの辺りは今でも路次がうねうねしているから腑に落ちる。私は大学時分に月に一度は鎌倉探索をしたが、その途次、まさにあそこで日暮れて袋小路に入ってしまい、仕方なく段差を飛び降りて、危うく足を折りそうになったことがあった。それを下らぬ小説にして同人誌に書いたのでよく覚えている)。前掲のサイト「e- ざ鎌倉・ITタウン」の『「鎌倉文士村」ができたわけ(2』の「菅虎雄の存在と夏目漱石」によれば、菅は明治四三(一九一〇)年から「鎌倉町由井ケ濱海岸通り 小林米珂莊」に『移り住み』、大正一〇(一九二一)年には「鎌倉町亂橋材木座一一六六番地」に移転、さらに昭和一三(一九三八)年には「鎌倉町二階堂一二九番地」に移って『没するまでここに住』んだとある。この「小林米珂莊」(こばやしべいかそう)とは漱石の「こゝろ」の冒頭にちらと出る「鎌倉海浜院ホテル」(現在の由比ガ浜海浜公園付近にあった)の取締役であったイギリス人法律家で明治期に日本に帰化して小林米珂(一八六三年~一九二九年:Joseph Ernest De Beckerのペン・ネームで日本の性風俗や法律についての著作も出版しており、小林米珂名義で日本で弁護士登録をし、他に日清蓄音器・帝国木製・帝国船舶の取締役のほか、鎌倉で不動産業も営んだ。ここはウィキの「小林米珂」に拠った)が、ホテルとは別に鎌倉町材木座(現在の鎌倉市由比ヶ浜)に九戸の借家「小林米珂荘」を経営しており、その一つに菅が住んでいたのである。

「藤岡君」既出既注

「斑竹」(はんちく)は表面に斑紋のある竹の総称。

「聯」(れん)は中国で対句を書いたり刻んだりした細長い札のこと。中国では装飾として柱に左右対称に対聯(ついれん)として掛けたりする。

「帷」筑摩全集類聚版脚注は『たれぎぬ』とルビする(編者の勝手なルビ)が、従えない。「とばり」で読みたい。

「一炷」「いつちゆう(いっちゅう)」或いは「いつしゆ(いっしゅ)」は香を炷(た)いて煙を立ち昇らせることを言う。

「篆煙」篆書の字のように曲折しうねるように立ち昇る烟のこと。

「チヨコレート」「すひながら」で判ると思うが、これはココアのことである。

「梠竹」梧竹の誤り。発音も異なり、芥川龍之介にしては痛い誤記である。中林梧竹(なかばやしごちく 文政一〇(一八二七)年〜大正二(一九一三)年八月四日)は書家。日下部鳴鶴・厳谷一六とともに「明治の三筆」の一人。名を隆経。梧竹は号。他に剣閣主人とも称した。出身は代々鍋島藩の支藩小城(おぎ)藩(現在の佐賀県小城市。グーグル・マップ・データ)の家臣の家柄であった。幼い頃は草場佩川に師事し、十九歳の時に江戸に遊学して山内香雪に書を学んだ。二十八歳で帰藩して小城藩士として藩校興譲館指南役などを勤めた。維新後に長崎に移り住み、明治一一(一八七八)年には清国の初代長崎領事の余元眉から中国最新書法の拓本提供を受けている。その後、元眉の帰国に同行して清に渡航、明治十七年に帰国して後は、東京銀座の洋服店「伊勢幸」の二階に約三十年間住みながら、九州・北海道・韓国など各地に揮毫の旅をした。明治三十年には七十一歳で、再び清に渡航して各地を巡遊、約二ヶ月後に帰国している。しかし、大正元(一九一二)年十月に中風による軽い左半身不随となり、翌年(まさに龍之介が菅を訪問したその時から僅か三月前である)の八月、郷里の梧竹村荘にて八十七歳の生涯を閉じた。明治書家にあっては珍しい造形型を追求した独特の書風を確立し、その新書風で書壇への影響力が大きかった。六朝の書法を探究して、多くの碑拓を請来したため、書というよりも、寧ろ、絵画的な味わいがある。また、水墨画も数多く残している。同じく「明治の三筆」に数えられる日下部鳴鶴や巖谷一六と比べると、梧竹が手がけた石碑は少ないが、現在、全国に五十基ほどが確認出来る。石碑の文字にも独特の書風が現れているものが多いが、一部は正統の楷書で書かれてある。彼は「天下無双」とも称された書家であった(以上はネット上の信頼出来る複数の記載を合成した)。

「大井」「哲太郞」不詳。筑摩全集類聚版脚注も『未詳』とする。

「不折」中村不折。既出既注

「李瑞淸」(一八六七年~一九二〇年)は清から中華民国初期に生きた江西省臨川出身の書家。

「法帖」古今の名筆を鑑賞し、手本とするため、原本を写し取って、これを木や石に刻み、さらに拓本にとって折帖仕立てにしたもの。中国の五代の文人としても優れていた南唐後主李煜(りいく)の作った「昇元帖」が最初のものとされるが、現存する最古のものは宋の九九二年に作られた「淳化閣帖」。その他、明の文徴明による「停雲館帖」、呉廷の「余清斎帖」、董其昌(とうきしょう)の「戯鴻堂帖」、清の乾隆帝勅撰になる「三希堂帖」などが著名である。本邦のものでは細井広沢の「太極帖」が古く、韓天寿の「酔晋斎法帖」などが優れている(「ブリタニカ」国際大百科事典に拠った)。

「この★を見なさい」「香」のこれとなると、二画と四画の合成箇所を指しているか。

「鳳篆龍章」筑摩全集類聚版脚注に、『鳳凰や龍のような篆書で書いた文章か』とある。検索をかけると、「龍章鳳篆」の熟語が中文サイトで見つかる。それを見ると、「皇帝・帝王の文章・詔・勅令に対する尊称」・「道教の呪符」とある。

「沿河不見柳絲搖……」以下の七絶を訓読しておくが、筑摩全集類聚版の本文を見ると、結句が「更誰間話烈南朝」となっていて、「更(さら)に誰(だれ)か間話(かんわ)せん烈南(れつなん)の朝(あさ)」と訓じてある。孰れにしても結句末が不審で私には読めない。訓読は誤魔化しで、意味は判らぬ。

沿河不見柳絲搖

步向靑谿長板橋

丁字簾前猶彷彿

更誰間話到南朝

 沿河(えんが) 柳絲(りうし) 搖らぐを見ず

 靑谿(せいけい) 步向(ほかう)すれば 長板橋(ちやうはんきやう)

 丁字(ちやうじ) 簾前(れんぜん) 猶ほ彷彿

 更に誰(たれ)か 間話(かんわ)せん 南(みんなみ)の朝(あした)に到れるを

「文展は……」以下の文展批評の内容は既出で、そちらでしっかり注してある

「久米」後の作家久米正雄。一高同級生で親友。後の第三次『新思潮』に参加した。芥川龍之介の凄絶な遺稿「或阿呆の一生」は冒頭の辞が彼に当てられて書かれてある。

「谷森君」既出既注

「驛路の春」「うまやぢのはる」と読む。」木島桜谷の出品作。既出既注。注の「櫻谷」を見られたい。

「エレクトラはすこしほめすぎて大阪迄君をひき出したやうな氣がして恐縮だ」「芥川龍之介書簡抄17 / 大正二(一九一三)年書簡より(4)十月十七日附井川恭宛書簡」参照。

『「夜の宿」を見て役者のどれよりも舞台監督としての小山内氏の伎倆に敬服した』既出既注

「帝國ホテルのヴエルヂイの紀念會があつた……」以下の音楽会とその批評も既出既注

「大塚に地所をかりた 冬をこして二月頃から普請にかゝる」これは実際には中止され、翌大正三年の十月末に終の棲家となる田端に家を新築して移ることとなる。

「石田君」後に歴史学者・東洋学者となった一高の同級生で親友の石田幹之助(明治二四(一八九一)年~昭和四九(一九七四)年:千葉市出身)のこと。

「ずべつて」怠ける。ずるける。不良少女の意の卑語「ずべ公」の「ずべ」はこれ。

「山本」一高時代の同級生(但し、山本の年齢は五歳上)で劇作家・小説家の山本有三(明治二〇(一八八七)年~昭和四九(一九七四)年)。本名は勇造。東京帝国大学独文科卒。明治四三(一九一〇)年、作家デビューは芥川龍之介よりも早く、第一高等学校在学中に戯曲「穴」を書き、雑誌『歌舞伎』に掲載され、上演もされた。この翌年の大正三(一九一四)年三月、第三次『新思潮』を豊島与志雄・菊池寛・久米正雄・芥川龍之介らと創刊した。大正五(一九一六)年から同十三年まで早稲田大学の講師を勤め、辞任後に作家生活に入った。大正九年には『人間』誌上に発表した「生命の冠」が井上正夫一座によって上演され、劇作家としての地歩を固め、「嬰児殺し」・「坂崎出羽守」・「同志の人々」・「女人哀詞」・「米百俵」など 二十編余の戯曲を執筆大正十二年頃からは小説も書きはじめ、「波」・「女の一生」・「真実一路」・「路傍の石」などで流行作家となった。その作品は、社会的視野に立って、生活の中の理想と現実の相克を追求し、広い読者層から支持された。国語問題にも尽力し、帝国芸術院会員・貴族院議員・参議院議員も務めた(ブリタニカ国際大百科事典に拠った)。

「野外劇場」前注に出る井上一夫の起こした「井上会」が、この年の十一月に行ったもの(筑摩全集類聚版脚注に拠る)。

「泉鏡花の紅玉」本邦唯一の幻想文学の巨匠泉鏡花(明治六(一八七三)年~昭和一四(一九三九)年)が大正二(一九一三)年七月に『新小説』に発表した一幕物の戯曲。本邦でのシュールレアリスム劇の嚆矢とも言える夢幻劇である。

「白梅園」田端の後の芥川龍之介の家に近くにあった料亭。ここの裏の「佐竹の原」と呼ばれた松林の草原で野外劇として上演された(上演時間四十五分。この詳細は吉田昌志氏の編になる『泉鏡花「年譜」補訂㈥(PDF・『学苑 日本文学紀要』第八百四十三号・二〇一一年一月発行)を見られたい。当時のメディアの諸評も載る、もの凄い労作である)。因みに後に芥川が結婚式を挙げたのも、実はこの料亭であった。

「當事者の久米」上記吉田氏のそれによれば、久米正雄はこの公演の発起人の一人で、大道具の絵も彼が描いたとある。

「見てられない位まづいんだからな」招待されて観劇した鏡花夫妻が頗る気の毒!

「佐野」後の戦前の日本共産党(第二次共産党)幹部佐野文夫(明治(二五(一八九二)年昭和六(一九三一)年)。当該ウィキによれば、『山形県米沢市生まれ。父は山口県立山口図書館長を務めた図書館学者・佐野友三郎。父の転勤に伴い、少年期を台湾、大分、山口で過ごす。第一高等学校に無試験で入り、菊池寛、井川(後の恒藤)恭、芥川龍之介と同級生となる』。『高校生時代、特にドイツ語に長け、在学中から西欧の哲学書を翻訳するほどの天才ぶりだった』。『この在学中に菊池寛との間で』「マント事件」(菊池寛が佐野の身代わりとなって同校を退学となった事件。明治四五(一九一二)年四月、佐野は日本女子大学校に通う倉田艶子(倉田百三の妹)とのデートに、一高のシンボルであるマントを着て行きたいと思ったが、自分のマントは質入れしていたため、他人のものを黙って着て行き、返さずにいた。二日ほど後、佐野と菊池は金に窮してマントを質入れすることにした。しかしそのマントはすでに盗難届が出されていたため、その夜、菊池は寄宿舎の舎監に呼び出された。しかし佐野は不在であり、菊池は親友を守るため、その場では「自分が盗んだ」として退出した。その後、帰寮した佐野に菊池がマントの件を質すと、佐野は親や親戚に合わせる顔がないと泣き出した。菊池は、そのまま自分が罪をかぶることを決意した。菊池は、佐野や他の同級生より四歳も年上(明治二一(一八八八)年生まれ)で親分気質があったことに加え、佐野には同性愛的慕情を抱いていたことから、佐野の将来を考え、自らが犠牲になる道を選んだとされる。菊池は後に、この事件をモデルにした作品青木の出京(『中央公論』大正七(一九一八)年十一月発行。リンク先は「青空文庫」)の中で、「自分が崇拝する親友を救うことこそ英雄的であると信じ、それに陶酔し、感激していた」とそのときの心情を主人公に語らせている。他にも、当時、菊池に大学に進学するだけの学資の当てがなかったことも一因であったともされる。ここはウィキの「マント事件」に拠った)が起きた。『事件の影響で』一旦、『休学して山口県で謹慎生活(秋吉台での大理石採掘)を送り、通常よりも遅れて』大正元(一九一二)年九月に『第一高等学校を卒業した』。『卒業後』は『東京帝国大学文科大学哲学科へ進』み、『在学中は第三次『新思潮』の創設に参加し、創刊号に「生を与ふる神―生命論三部作の一」という論文を発表した』。しかし、大正三(一九一四)年春に中退している。『中退の事情について、当時』、『芥川龍之介は井川恭に宛てた書簡で「何でも哲学科の研究室の本か何かもちだしたのを見つかって誰かになぐられて」と記している』(大正三(一九一四)年四月二十一日附。私は佐野文夫に興味がないので、この手紙は電子化する予定はない)。『中退後に山口県に戻り、約』二『年間』、『感化院に入院した』。『退院後は私立國學院の教員を務めた後』、大正七(一九一八)年に『大連にあった南満州鉄道の調査課図書館に就職した』が、三年後に退社し、大正一一(一九二二)年に『外務省情報部に入官するも、翌年』、『肺結核を理由に退職』している。また、この年に『市川正一と『無産階級』を創刊』し、翌年には『徳田球一の要請を受け』、『日本共産党(第一次)に入党』、翌大正一三(一九二四)年の『党協議会で解党』が『決議』されると、『党再建のため』、『再建ビューロー中央常任委員として残り、コミンテルン上海会議に荒畑寒村らと出席した』。大正一五(一九二六)年十二月に『山形県五色温泉で開かれた日本共産党第』三『回大会では中央委員長に選出された』。『党内では福本イズムを強く支持していた』。昭和二(一九二七)年、『日本共産党の使節団の一人としてモスクワを訪問し、コミンテルンの会合に出席した。モスクワ訪問時に赤の広場で他の日本共産党員たちとともに撮影された写真がモスクワで発見されている』。しかし、『福本イズムへの態度に一貫性が欠けるなどとして中央委員を罷免されたのち』昭和三(一九二八)年の「三・一五事件」で『検挙された』。『取り調べに対して党中央の秘密事項を供述し』、昭和四(一九二九)年には『獄中で事実上』、『転向し』ている。昭和五(一九三〇)年に仮出獄したが、翌年、死去した。死因は肺結核とされる。『菊池寛は、自著』「半自叙伝」の『なかで、佐野を「頭のいい男であるが、どこか狂的な火のようなものを持っていた」と評し』ている。また、『第一次共産党の関係者であった荒畑寒村、プロレタリア文学者の江口渙、労働運動研究者の山辺健太郎らは人格や行状、共産党指導者としての資質に批判的な見解を著書等で述べている』。『佐野と菊池寛の両名と親交のあった長崎太郎はマント事件の際、最初』、『佐野から「菊池は破廉恥なことをしたために退学になった」と聞かされ、後日』、『菊池から事件の真相を告げられて、改めて佐野を問い詰めても「菊池が、破廉恥をやったんだよ。何度言っても同じことだ」という反応を示したと記している』。『関口安義は佐野が「本質的にはやさしい人間」「決して根っからの悪人ではない」としながらも、「意志が弱く、弱点を見せまいと見栄を張ったり、嘘をついたりするところがあった」と評している』とある。

「根本」既出既注

「成瀨」一高・帝大時代の親友でフランス文学者となった成瀬正一(せいいち 明治二五(一八九二)年~昭和一一(一九三六)年)。東京帝国大学文科大学英文科卒。第四次『新思潮』の創刊に加わった。大学卒業後、間もなく、創作から研究の道に転じ、九州帝国大学法文学部教授としてフランス・ロマン主義思想を専門とし、特にロマン・ロランの翻訳・紹介で知られる。横浜市生まれで、成瀬正恭(まさやす:「十五銀行」頭取)の長男であったから、「月謝を皆にかしてしまつた」というのが腑に落ちる。

「三崎へ行つてゐる」遊びに、の意か。

「石原」石原登(明治二五(一八九二)年~昭和五九(一九八四)年)であろう。新全集の「人名解説索引」に(ピリオド・コンマを句読点に代えた。以下同じ)、『一高時代の同級生。兵庫県の生まれ』で、東京帝大『哲学科卒。教育学研究室助手を勤めた後、メキシコ』を『放浪、帰国して教護施設武蔵野学院教官を長年つとめ、晩年は女子教護院国立きぬ川学院の初代院長となるなど、生涯を非行少年教育に捧げた』とある。

「佐伯君」同前で、『一高時代の同級生。東京の生まれ』で、東京帝大『哲学科卒。静岡県視学官を経て、神奈川県立秦野中学校長』とある。

「DOVROVOLSKY夫人」既出既注。以下の「S1GJNORIA NAKAJIMA」・「南薰造」・「バアナアドリイチ」も同じ。]

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