怪談老の杖卷之二 化物水を汲
○化物水を汲
上總の浦方に、「大唐が鼻」とて、海の中へ、なり出(いで)し處あり。
あるとき、房州鉢田といふ所より、出(いで)しふね、此處につけて、水をくみけるが、上の草野に井戶ありて、いとうつくしき女、水を汲み居(をり)けれぱ、そばへよりて、待居けるを、彼(かの)女、
「わたし、汲(くみ)て進ぜ申べし。」
とて、になひ桶に一荷(ひとに)、汲みいれけり。
扨、荷ひて、船へ持行(もてゆき)ぬ。
「何方(いづかた)にて汲し。」
と問ひければ、
「此上の野中にて汲たり。よき井戶あり。よき娘もありて、くみてくれたり。女郞町にてもあるか。よき娘の、よき、きる物、きて、ものいひ・けはひ、常の娘にはあらず。」
と、いひけるを、船頭、きゝて、
「此上に、井戶も、なき筈(はず)なり。前方(さきがた)[やぶちゃん注:以前。]、此(この)はなにて、水くみにあがりし者、行方(ゆきがた)なくなりし事あり。はやく、船を出(いだ)せ。『あやかし』なり。」
と、さはぎければ、
「としや、おそし。」
と、船を漕出しけるに、はや、かの娘、來りて、海の中へ、飛こみ、およぎ來(きた)るを、櫓にて、なぐりければ、櫓へ、かぢりつきしを、たゝきはなして、
「ゑい。」
聲を出(いだ)し、こぎのけて、にげけり。
「かしこくも、船頭、心づきて、はやく船を出しける程に、皆々、いのちを助かりけり。左なくば、あやふかるべき事なり。」
と、いへり。
[やぶちゃん注:標題は「化物(ばけもの)、水を汲(くむ)」。
「大唐が鼻」現在の千葉県長尾郡太東岬(たいとうみさき)と考えられる(グーグル・マップ・データ)。
「鉢田」不詳。太東岬の北方に「八田」や「八日市」の地名があるが、現在のこれらは海浜部の地名ではない。候補地があれば、御教授願いたい。
「ゑい」感動詞で、力を込めたり、勇気を奮い起こしたり、決断したりしたときに発する語であるが、歴史的仮名遣は「えい」でよい。底本は無論、「ゑい聲」であるが、臨場感を出すために、かくした。
「あやかし」は現行では一般に「不思議なこと・妖怪」の意で汎用されるが、本来は「船が難破する際に海上に現れるという化け物」を指し、ここでは正統な使用法である。
「としや」不詳。「疾(と)しや」で、「早く! 早く!」の意か。
「こぎのけて」「漕ぎ退(の)けて」。辛くも漕ぎ退(しりぞ)けての意であろう。]