怪談老の杖卷之二 狐鬼女に化し話
○狐鬼女に化し話
麹町十二丁目、大黑屋長助といふ者の下人に、權助とて、十七、八の小僕あり。
或時、大窪百人町の御組(おんくみ)まで、手紙をもちて行(ゆき)、返事を取りて歸りけり。
はや、暮に及び、しかも、雨、つよくふりければ、傘をさし來りけるに、先へ立(たち)て、女のづぶぬれにて行(ゆく)ありければ、
「傘へ、はいりて御出被ㇾ成(おいでなされ)よ。」
と、聲をかけて、立より、其女の顏をみれば、口、耳のきわ[やぶちゃん注:ママ。]までさけて、髮かつさばきたるばけ物なり。
「あつ。」
と、いふて、卽座にたふれ、絕入(たえいり)けり。
その内に、人、見つけて、
「たをれものあり。」[やぶちゃん注:ママ。]
とて、所のものなど、立合ひ、吟味しければ、手紙あり。
まづ、百人町のあて名の處へ、人を遣はしければ、さきの人、近所など、出合(いであ)ひて、氣つけを用ひ、
「なにゆへ氣を失ひし。」
と尋ねければ、右のあらましを語りしを、駕(かご)にのせ、麹町へおくり返しぬ。
よくよく恐ろしかりしとみへて[やぶちゃん注:ママ。]、上下の齒、ことごとく、かけけり。
夫より、あほうの樣になりて、間もなく、死にたり。
「大久保新田近所には、きつねありて、夜に入れば、人をあやなす。」
と、いへり。
[やぶちゃん注:標題は「狐(きつね)、鬼女(きぢよ)に化(ばけ)し話」。都市伝説「口裂け女」の江戸版。
本篇は既に「柴田宵曲 續妖異博物館 雨夜の怪」の注で電子化しているが、今回は零からやり直した。
「麹町十二丁目」現在の千代田区麹町・平河町附近(グーグル・マップ・データ)。
「大黑屋長助」不詳。
「大窪百人町」後にある通り、「大窪」は「大久保」に同じい。現在の新宿区百人町一丁目から三丁目及び大久保三丁目相当(グーグル・マップ・データ)。よくお世話になる「江戸町巡り」の「百人町」によれば、『西大久保村の西に位置』し、『町名は近世、徳川氏の家臣・内藤清成が率いていた伊賀組百人鉄砲隊の同心屋敷地で、「大久保百人組大縄屋敷」、「大久保百人大縄屋敷」、「百人組大縄給地」、「百人組同心大縄地」等と俗称された場所であったことに由来する。はじめは陣屋形式の屋敷であったが』、寛永一二(一六三五)年から万治三(一六六〇)年『頃までに間口が狭く、奥行きの深い武家屋敷となった。俗に「南町(南百人町)」、「仲町(中百人町)」、「北町(北百人町)」と称する』三『本の通りがあった』。『江戸時代、幕府の下級武士たちは同じ職務で集団を作っており、これを「組」と呼んだ。当時、鉄砲を持って戦いに出た集団・鉄砲組の中で「同心」と呼ばれる武士たちが百人ずついた組を「百人組」といい、大久保の鉄砲百人組もこれにあたる。同じ組に属する者は纏まって屋敷を与えられたが、大久保の鉄砲百人組の屋敷のあったところが、ほぼ現在の百人町一丁目から三丁目にあたる』。『百人組は江戸の街の警護を担当した。その鉄砲術が江戸でも』、一、二『を争うほどの腕前であったという。JR新大久保駅前にある皆中稲荷』(かいちゅういなり:「総て中(あた)る」の意である)『はそれに因んでいる。嘗ては同じ由来を持つ青山百人町、市谷の根来百人町も存在したが、町名の統廃合で姿を消し、当地に大久保百人町に相当する地名が残るのみである』。『平和な江戸時代、警護以外に仕事は殆どなく、鉄砲隊は部下を食べさせていくために副業を行う必要があり、躑躅の栽培に手を出したところ、それが人気を得て、当町は躑躅の名所となった』とある(歴史の解説はもっと詳しく、戦国から近代にまで及んでいる。必見。
「大久保新田」不詳。そもそも大久保地区の北(百人町の北)は江戸時代には狭義の江戸御府内の外縁に当たり、意想外の田舎であった。「今昔マップ」を見ても、明治時代には原野である。]