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2021/03/24

譚海 卷之四 奥州仙臺風俗の事

 

○奥州仙臺にあそぶ人は、大木戶を入(いれ)ば越河といふ所にて入判といふものをもらふ。錢三文を出してもらふ事なり。せんだいを出るときは、いづくの出口にても又出判をとりて出(いづ)る、五錢をいだしてとる事也。又仙臺城下に釋迦堂といふ有、繁昌なる所にて、寺内に定芝居あり。常に江戶の戲者(やくしや)も往來して藝をのぶる所也。其土着に市川今五郞といふもの芝居の魁首(かいしゆ)にしてせんだいにては御(お)くに團十郞と號す。此寺境内ひろく、花樹數多(あたま)ありて、常に國人の遊觀たえずといふ。

[やぶちゃん注:「大木戶」現在の福島県伊達郡国見町(くにみまち)大木戸(グーグル・マップ・データ。以下同じ)のことであろう。この伊達郡は江戸時代は天和二(一六八二)年以降は一貫して天領であった。

「越河」宮城県白石市(しろいしし)越河(こすごう。歴史的仮名遣も判らないので、本文には振らない。

「入判」「出判」この藩の出入りにかかるシステムは不詳。ネットで検索しても、全く掛かってこないので、お手上げである。識者の御教授を乞う。読みも判らないので、取り敢えず「いりはん」・「ではん」と読んでおく。

「一文」江戸中・後期のそれは凡そ現在の十二円相当。

「釋迦堂」現在、宮城県仙台市宮城野区榴岡(つつじがおか)にある日蓮宗光明山孝勝寺境内にある釈迦堂(仙台市登録有形文化財)であろう。仙台市公式サイト内のこちらによれば、仙台藩四代藩主伊達綱村が生母三沢初子の冥福を祈るために榴ヶ岡に建てた持仏堂で、元禄八(一六九五)年の建立であったが、昭和四八(一九七三)年の宮城県立図書館建設に伴い(現在の同図書館は後に再度移転したもので、この当時に新築された同図書館は現在の「宮城県婦人会館」が建っている場所に建ったものであったから、そこが釈迦堂の旧地で、本篇の立地もそこと考えてよいだろう)、現在の孝勝寺本堂脇に移された。孝勝寺は初子が帰依し、葬られた寺院であった。釈迦堂は三間四方で、一間の向拝(こうはい)が付き、以前は四周に縁が廻らされていた。屋根は宝形造(ほうぎょうづくり)、本瓦葺形銅板葺で、正面中央間に折桟唐戸(おりさんからど)、その両脇に花頭窓(かとうまど)が付く。内陣には厨子を備え、釈迦像が安置されているとあった。孝勝寺は第二代藩主伊達忠宗の正妻振姫に続き、初子も帰依し、以後、仙台藩の厚い保護を受けた寺であった。この初子は、伊達騒動を素材とした人形浄瑠璃「伽蘿先代萩」(めいぼくせんだいはぎ)の重要な登場人物である政岡のモデルとさられ、寺から東に少し離れた飛び地にある。なお、本文ではその釈迦堂も寺の境内あったと書かれているが、実は孝勝寺は往時は相応の寺域であったのだが、今は周囲が住宅地に呑み込まれてしまっているのである。

「のぶる」「延ぶる」か。棧敷や観劇席を敷いて興行を行うの謂いであろうか。

「土着」地元の田舎歌舞伎の一座。

「市川今五郞」東北歴史博物館の笠原信男氏の論考「仙台の田植踊と歌舞伎」PDF・二〇二〇年の同館館長講座資料)によれば(注記号は省略した)、『仙台藩は公式には歌舞伎の上演を禁じていた。先に見た享保9年(172412月の史料に歌舞伎に触れたところがある。10人巳上は控えることの但し書きで、「かぶき等に紛(まぎ)れ候様(そうらうさま)成る義(ぎ)は仕らせ間敷事」としている。歌舞伎に紛れて10人以上で田植踊をしてはいけないということであろう。歌舞伎は享保9年(172412月以降に禁じられ、さらに、宝暦2年(1752)までには、腰に面をつける「はさミ人形」の人形浄瑠璃として上演されるようになった。以後、何度かの禁制を経て幕末まで、「歌舞伎は相成らず、人形操の申し立てにて候間、江戸より(歌舞伎)役者が参り候ても、こし(腰)へ人形の面を附ケ」て上演された』という興味深い面白い事実が記されてあった。さらに、『江戸時代後期の古今の書物に書かれた記事を抜き書きした冊子に初代市川団十郎(蝦蔵)の多賀城出身説が見え』、『「陸奥坪の碑の近きにわたり市川村といふ所あり、そこの浦にて捕海老を役者蝦とよべり、こは芝居役者市川蝦蔵が生まれし里なり」』という驚くべきことが記されてあり、さらに、まさに本篇(底本も同じ)を引いて、『また、仙台城下に御くに団+郎こと市川今五郎という役者がいた。「仙臺城下に釈迦堂といふ有り。繁昌なる所にて、寺内に定芝居あり。常に江戸の戯者(やくしゃ)も往来して芸をのぶる所也。その土着に市川今五郎といふもの芝居の魁首(かいしゅ)にして、せんだいにては御(お)くに団十郎と号す」。』(ここで笠原氏に振られたルビを本文の当該部に適用した)とし、『釈迦堂は、祭日前後に芝居上演が公認された、仙台城下の「六ケ所神事場」であるが、この史料が記された天明5年(1785)頃は常設であったらしい』とあうことから、実際には歌舞伎は役者が腰に人形の面をぶら下げで行われていたことが判るのである。

「魁首」座長。]

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