甲子夜話卷之六 29 同時、松本伊豆守、赤井越前守富驕の事
6-29 同時、松本伊豆守、赤井越前守富驕の事
此時は、勘定奉行の松本伊豆守、赤井越前守など云輩も、互の贈遺冨盛を極たり。京人形一箱の贈物などは、京より歌妓を買取て、麗服を着させ、それを箱に入て、上書を人形としたるなりしとぞ。又豆州、夏月は蚊幬を廊下通りより、左右の小室幾間も、隔なく往來するやうに造り、每室に妾を臥さしめ、夜中いづれの室に至るにも、幬中になるやうに設けたりしとかや。又子息の中に、癇症にて雨の音を嫌ものありしとて、屋上に架を作り、天幕を張ること幾間と云を知らず、雨の音を防しとなり。其奢侈想像すべし。
■やぶちゃんの呟き
「同時」前条の同時期を受けた謂い。
「松本伊豆守」松本秀持(享保一五(一七三〇)年~寛政九(一七九七)年)は幕臣。通称は十郎兵衛、伊豆守。代々、天守番を務める身分の低い家柄であったが、老中田沼意次に才を認められて勘定方に抜擢され、明和三(一七六六)年に勘定組頭、後に勘定吟味役となり、安永八(一七七九)年、勘定奉行に就任して五百石の知行を受けた。天明二(一七八二)年からは田安家家老も兼帯した。下総国の印旛沼及び手賀沼干拓などの事業や、天明期の経済政策を行った。また、田沼意次に仙台藩江戸詰医師工藤平助(私がブログ・カテゴリを作っている優れた女流文学者であった只野真葛の実父)の「赤蝦夷風説考」を添えて蝦夷地調査について上申し、本邦初の二回に及ぶ公式の調査隊を派遣した。それを受けて蝦夷地の開発に乗り出そうとしたが、天明六(一七八六)年の田沼意次の失脚(八月から十月)により、頓挫した上、同年閏十月には、田沼失脚に絡み、小普請に落とされ、逼塞となった。さらに「越後買米事件」の責を負わされ、知行地を減知の上、再び逼塞となった(天明八(一七八八)年五月に赦された)。
「赤井越前守」赤井忠皛(ただあきら 享保一二(一七二七)年~寛政二(一七九〇)年)天明二年に京都町奉行から勘定奉行となり、田沼意次の下で財務を担当したが、田沼の失脚とともに西丸留守居となった。
「富驕」「ふきやう」。
「冨盛」「ふせい」。
「極たり」「きはめたり」。
「贈物」「ざうもつ」と音読みしておく。
「買取て」「かひとりて」。
「上書」「うはがき」。
「人形としたるなりしとぞ」気持ち悪!
「豆州」「づしう」。
「蚊幬」「かや」。蚊帳に同じい。「幬」は「帳」に同じく「とばり」の意。
「廊下通り」「らうかどほり」。廊下にさえ隙間なく張り巡らしたのである。
「小室」「こしつ」。
「幾間」「いくま」。
「隔なく」「へだてなく」。
「每室に」「へやごとに」と返って訓じておく。
「妾」「せう」。側室。
「幬中」「ちうちゆう」。「かやうち」と訓じたくはなる。
「嫌もの」「きらふ者」。
「架」「たな」と訓じておく。
「幾間」「いくけん」。
「防し」「ふせぎし」。
「奢侈」「しやし」(しゃし)。度を過ぎて贅沢なこと。身分不相応に金を費やすこと。
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