只野真葛 むかしばなし (24)
○工藤のばゞ樣は、愛宕下(あたごのした)か、西のくぼか、たしかにはおぼへねど、五六萬石くらいの大名の家中に、筋、ことに、おりおり、御取あつかひ有し、一家老の初子(うひまご)にて、御兩親の祕藏なりしが、十六に成(なり)ても、幼な子のごとく、なでいつくしみてのみ、そだてられて、筆とることをさへ、ならはせられざりしとなり。
「人中(じんちゆう)見ならいのため。」
とて、十六の春、おなじ奧へ上られしに、かたへの人々、目引袖引(めひきそでひき)、
「十六になるものに、『いろは』をだに、をしへず、育てしことよ。」
と、わらひしを、御殘念におぼしめされ、
「いで、其事なら、人にわらはれじ。」
と、おぽし立(たち)て、文(ふみ)がらをひろひて、人の寢しづまりたるあとにて、手ならいを被ㇾ成しに、夏は蚊のくるしさに手ぬぐひを頰かぶりにしてならわせ[やぶちゃん注:ママ。]られしとなり。
利發のうへ、氣根もよかりしかば、半年にて、文を書(かき)ならい[やぶちゃん注:ママ。]、一年といへば、始(はじめ)わらひし人には、まして、とりまわし、文を書(かか)れし故、二年めには御代書(おだいしよ)まで仰付られしとなり【是は小家(せうか)のこと故、御引立の故に被二仰付一しことなり。大家とは、ことなり。】[やぶちゃん注:原割注。]。此事は、ワ、をさなきより、
「人といふものは、ならぬとて、すてぬものぞ。我などは、かやうにて有し。」
と、度々御敎訓に御はなし被ㇾ遊しことなり。
ばゞ樣、里の名、しかとおぽえねど、名なくてはまぎらはしき故、おしあてに、つけたり。石井氏、大右衞門とか、其ぢゞ樣の名は、いひし。
[やぶちゃん注:以下の紋所の真葛の自筆画。底本よりトリミングした。]
細輪に石疊の紋なりし。
ばゞ樣、弟宇右衞門といひし人、常に、きたりて、酒のみしも、おぼえたり。男と女の子有(あり)て、妻、不幸し、其後(そののち)、妻に「お秀」は來りしなり。
お秀は、旗本衆の家中の娘、おなじ奧につとめて、ばゞ樣と朋輩なりしが、髮結(かみゆひ)、もの縫(ぬひ)、細工に達し、作花(つくりばな)上手、人ざはりよく、殊の外、首尾よく、奧樣御ひいきの餘り、家中一番の家柄へ御世話にて被ㇾ成し人なり。
あしかれとは、かられしことには、あらざりしを、不仕合(ふしあはせ)は、其身に付(つき)たるものなれば、のがれがたし。
先(まづ)、まゝ子の惣領順治といひしが、十一くらい[やぶちゃん注:ママ。]にも有しが、大惡黨、其くせ、見目すがたのよきことは天晴(あつぱれ)美男にて、ぢゞばゞの大祕藏、まゝ母をいぢめて、
「髮をそろへてやらん。」
と、すれば、
「いたひ。いたひ。」[やぶちゃん注:ママ。]
と、顏、しかめて、ぢゞばゞに、母の手あたり、あらきていに見せ、萬事、そのふりに、こまらせる、くめんばかり。妹(いもと)は、七、八に成し、是、今の「はつえ」なり。とがもなきものを、むたいにいぢめまわす故、とりさゆれば、
「まゝ母は、妹のひいきばかりして、兄をあしくあたる。」
と、兩親の手まへ、あしく成(なり)、などゝいふ樣なことにて、日夜あけしき間(ま)もなく、其内懷姙の男子、「半くろ」なり。二、三の時、兩親、死去。やうやう、其身の世となり、「うれしや」と、おもひもあへず、宇右衞門といふ人は、一向、とりつまらぬ生(しやう)、
「若旦那、若旦那。」
と、いはれし内は人並らしかりしが、兩親無(なく)なりては、大べらぼうにて、御用もわからず、やたら、無性(むしやう)に借金ふへ[やぶちゃん注:ママ。]、公訴(こうそ)うつたへに成(なり)しが、身分不相應のことなりしを、かくべつの家がら故、一度は、すくひ被ㇾ下(くださる)といふことにて、
「尤(もつとも)おもだちたる親類よりも、おぎなへ。」
とて、父樣よりも三十兩御みつぎ被ㇾ成しとなり。柳原の熊谷與左衞門も、ばゞ樣御妹の子なれば、おなじつゞきにて、つぐのひ金、被ㇾ成しなり。それですんだことかとおもへば、
『餘り、借金おほくて、氣の毒。』
とて、座頭金(ざとう《かね》)三口有しを、かくして置しとなり。
「身代をつぶす人の了簡は別なものなり。」
と被ㇾ仰し。
「ねだれば、でる。」
と見て、一年過(すぎ)て、又、公訴に成し故、
「この度(たび)は、かんにん成がたき。」
とて、御いとま出(いだ)し、となり。
浪人被ㇾ成てより、工藤家より世話被ㇾ成しことは、おびだゝしきことなりし。尾張町ゑびす屋の隣に、間口三間の明棚(あきだな)有しを借りて、普請被ㇾ成、皆、此かたより、持出(もちだ)しにて、藥みせをひらき被ㇾ遣(つかはせられ)しなり。
みせびらきには、「三ますや三十郞」といふ獨樂(こま)まわしを賴(たのみ)、三日のうちは、獨樂、まはして、人に見せしなり。
諸(もろもろ)入用(いりよう)二百兩ばかりもつゐへしなり。
かへ名は安田與市として、のふれんは、紺に菊壽。其頃、きくじゆ、大はやりなりし。「藥、きゝて、壽、ながゝれ」とや、おぼしよりけん、花《くわ》らしきことにて有し。
されど、ほどもなく、與市、亂心して、仕方なく築地の弟子部屋の角(すみ)に、二疊敷の所(ところ)有しを、かりの牢にしつらひて、入(いれ)おきしが、夜の間に、ぬけいで、行(ゆき)がたしれず、色々たづねしかども、終(つひ)にみかけざりし。
其頃、半右衞門が弟の「とら次郞」、二(ふたつ)ばかりにて、乳のみ子なりし。
石井家へ來りて、お秀の心勞、誠に、あけしき間(ま)は、なかりしなり。
[やぶちゃん注:「工藤のばゞ樣」真葛の父方の(養)祖父に当たる工藤安世(やすよ 元禄八(一六九五)年~宝暦五(一七五五)年)の二十三歳年下の上津浦ゑん。
「愛宕下」愛宕ノ下は現在の港区新橋・西新橋附近。
「西のくぼ」西窪で東京都港区虎ノ門にあった旧地名か。
「筋、ことに」家柄、これ、特別で。
「いで、其事なら、人にわらはれじ。」「何の! そのようなことならば、人には笑われまいぞ!」。
「文(ふみ)がら」「文殻」。同役の女中らに送られてきて、読み終って不要になって捨てられた手紙。文反故 (ふみほうご) 。
「とりまわし」仕事の処理上の書類を順に取って回すために。
「御代書」奥方さまの右筆役。
「細輪に石疊の紋」正確には画像のそれに細輪はその外周に白い細輪があるものを指す。
「作花」造花。
「あしかれとは、かられし」よく意味が分からぬが、「あしかれ」は「良かれ悪しかれ」で、「かられしことには、あらざりしを」は「専ら、自身の強い意志や感情が原因となって生ずるものではないのだけれども」の謂いであろう。女として不平等な宿命的なものを感じやすい真葛の謂いとして、私には判る気がする。
「あらきてい」「荒き體」。
「そのふりに」「其の振りに」。そうした似非(えせ)の芝居をして。
「くめん」「工面」。せこく狡猾な工夫。
「とりさゆれば」「とり」は動詞の強調の接頭語で、「さゆ」は「障(さ)ふ」の訛りであろう。無体に妹をいじめるのを、やめるように仲に入ると、の意であろう。
「兩親の手まへ、あしく成(なり)」順治のことがお気に入りである、夫の父母の手前、彼の噓によって、気まずいこととなり。
「日夜あけしき間(ま)もなく」そんなこんなで、一時として気がさわやかに晴れる間もなく。
「半くろ」半九郎という名か。
「其身の世となり」父の両親へ気遣いをせずにすむ身となり。
「大べらぼう」話にならないほどの大馬鹿者・社会的失格者であること。
「公訴(こうそ)うつたへ」借金不返済で公事方に訴えられてしまうこと。
「身分不相應のことなりしを」現在の実質的な実態からは凡そ情状酌量などありえないはずのところだったのだけれども。
「かくべつの家がら故」父祖が格別の家柄であったことから。
「尤(もつとも)おもだちたる親類よりも、おぎなへ。」「最も近親である親類や親しい者たちも、この者のために、借金を肩代わりして補填してやれ。」という温情のとりなしが、お上からあったということを指す。
「父樣」真葛の父。実際には血も縁も繋がっておらず、親しくもなかったであろうに。
「柳原」現在の足立区南部の千住地域東部に位置する柳原か。
「熊谷與左衞門」不詳。
「座頭金」(ざとうがね)は「盲金 (めくらがね)」 とも呼んだ。江戸時代、盲人の行なった高利貸しの貸し金を指す。盲人は当道座(とうどうざ)という視覚障碍者仲間の組織を作っており、幕府は盲人保護という立場から当道座が所有する金を官金扱いにし、貸付け・利子を収める特典を許していた。「官金貸付け」とは「幕府の貸付金」を意味することから、貸倒れの危険も少なく、安全有利であったことから、町人たちは利殖のために資金を提供したし、盲人たちも幕府の庇護のもとに高利を得ることが出来たのである。
「御いとま出(いだ)し、となり」かくなっては、当時の彼を雇っていた主家の武家が暇を出したということである。
「尾張町」中央区銀座五・六丁目。
「ゑびす屋」「江戸名所図会」にも絵が載る有名な呉服店。現在の松坂屋の前身の一つ。松坂屋大阪店の前身であった「ゑびす屋呉服店」の創業者は、第八代将軍吉宗とは紀州での幼馴染みで、その屋号も吉宗から贈られた蛭子(ゑびす)の神像に由来すると伝えられている。吉宗が将軍になると、このゑびす屋も江戸に進出し、尾張町に店を構えたのであった。
「三間」五・四五メートル。
「此かた」工藤安世の家。だから、「藥みせ」なのである。
をひらき、被ㇾ遣しなり。
「三ますや三十郞といふ獨樂(こま)まわし」不詳。
「のふれん」「暖簾」元の発音の「のんれん」「のうれん」(「のん」「のう」は暖」の唐音)の音変化の訛り。元は禅家で簾(す)の隙間を覆って風除けとした布の帳(とば)りを指して言ったもの。ここは、今の「のれん」で、商家で屋号・店名などを記して軒先や店の出入り口に懸けておく布のこと。
「菊壽」「きくじゆ」歌舞伎俳優二代目瀬川菊之丞が使用し、安永・天明(一七七二年~一七八九年)頃に流行した染模様で、菊の花と寿の字を交互に染め出したもの。
「花《くわ》らしきことにて有し」意味不明。「日本庶民生活史料集成」では『花々しきことににて有し』で、躓かずに読める。
「弟子」工藤安世の弟子。
『半右衞門が弟の「とら次郞」』石井宇右衛門と「お秀」の間にできた子が先の「半ろく」で、この半右衛門であり、その下が「とら次郞」なのであろう。]
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