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2021/03/23

大和本草附錄巻之二 魚類 (触角が十メートル超あるエビの記載)

 

呉志曰王隱交廣記曰呉後復置廣州以南陽滕修

爲刺史或語修蝦鬚長一丈修不信其人後故至

東海取蝦鬚長四丈四尺封以示修修乃服之

○やぶちゃんの書き下し文

「呉志」に曰はく、『王隱が「交廣記」に曰はく、『呉、後〔(のち)〕に、復た、廣州を置き、南陽の滕修〔(とうしう)〕を以つて刺史と爲す。或るひと、修に語りて、「蝦〔(えび)〕の鬚〔(ひげ)〕、長きこと、一丈〔のものあり〕」と。修、信ぜず。其の人、後、故に東海に至り、蝦の、鬚、長さ四丈四尺〔ある〕を取りて、封じて、以つて、修に示す。修、乃〔(すなは)〕ち、之れに服す。』と。

[やぶちゃん注:本文中の人名「滕修」は「滕脩」が正しい。これは流石にいないと思うね。

「呉志」陳寿著の後漢の混乱期から西晋による中国統一までを扱った歴史書「三国志」の一部。当該部は全二十巻。

「王隱」(生没年不詳)は東晋(三一七年~四二〇年)の歴史家。唐代の「晋書」巻八十二には「王隠伝」が立てられてある。当該ウィキによれば、『代々、寒門の出であったが、年少から学問を好み、著述の志を持っていた。西晋に仕え、歴陽県令となった。私的に晋の事跡や功臣の行状を記録していたが、完成させることなく亡くなった』。『王隠は、普段から自身を儒学の教えに従って律し、後ろ盾を持とうとせず、博学多聞であった。父の事業を受け継ぎ』、『西晋の旧事をそらんじ、研究した』。『建興年間』(三一三年~三一七年)『に江南に逃れ、丞相軍諮祭酒涿郡の祖納と親しくなり、彼は王隠を元帝に推薦したが、東晋はいまだ草創の段階であり、史官が置かれていなかった』ため、『取り上げられることはなかった』。『大興元年』(三一八年)、『制度が整えられ、王隠は召されて郭璞と共に史官である著作郎となり、晋の史書を著すよう命じられた。また』、「王敦の乱」を『平定するのに功績があったとして平陵郷侯の爵位を賜った。時に著作郎の虞預は私的に晋書を纏めていたが、長江東南の生まれであった』ことから、『西晋の朝廷の事象を知らず、王隠のもとを何度も訪れ、彼の著書を盗み写した。この後に王隠は病にかかり、虞預は豪族であり貴人、権力者と交わりを結んでいたため、党派を組んで王隠を排斥し』、『免職とした』。『王隠は貧しく史書を書くのに用立てる資産もなかった』ため、『晋書を書き続けることができなかったが、武昌で征西将軍の庾亮』(ゆりょう)『を頼り、彼が筆と紙を提供してくれたため、晋書を完成させることができ』、『宮中にこれを献上した』七十『歳余り』で『家で亡くなった』。著作に「晋書」九十三巻・「交広記」・「蜀記」などがあるが、孰れも裴松之(はいしょうし)が「三国志」の『注釈として引用している。その他に』「王隠集」十巻がある。虞預著の王隠からの盗作が疑われる「晋書」に『おいて、王隠は著述を好んだものの、文章も音の響きも卑しく拙く、乱雑で非道徳である。その』「晋書」の『見るべきところは』、彼の『父が書いたところであり、文章の混濁して意味が不可解なところは王隠の書いたところであると、厳しい批判を載せている』。裴松之も「三国志」に引用した注釈で『厳しく批判しており、鍾会が龐徳』(ほうとく)『の遺骸を鄴』(ぎょう)『に埋葬した話などを』、『王隠の虚説と断じ』、『孫権が関羽を捕らえたおりに殺すのを惜しみ』、『臣下として用いようとした話では』、『智者の口を閉ざす所である』『などと終始』辛辣な『言を添えている』とある。

「交廣記」交州(漢から唐にかけて置かれた行政区域。現在のベトナム北部及び中国の広西チワン族自治区の一部などが含まれる)と広州(現在の広州市(グーグル・マップ・データ)を含む広域)の二州の地誌。

「南陽」現在の河南省南陽市付近。

「滕修」滕脩(とうしゅう ?~二八八年)は三国時代の呉から西晋にかけての政治家・武将。荊州南陽郡西鄂(せいがく)県の人。呉に仕えて将帥となり、西鄂侯に封ぜられた。孫晧(そんこう:呉の第四代皇帝)の時代には熊睦(ゆうぼく)の後任として広州刺史となり、甚だ威光恩恵を示した。参照した当該ウィキには本件が載り、『滕脩が広州刺史』(州の長官)『になった時、ある人が一丈もの長さの鬚を持つ蝦がいると語ったが、滕脩は信用できなかった。その人が後に徐州の東海郡へと出かけ、長さ四丈四尺の蝦を捕まえ滕脩の元に送ると、滕脩はやっと納得したという』とある。後に『中央に召し返されると』、『執金吾』(しつきんご:元は秦に於ける武官職名の中尉)『になった』。二六九年、呉の武将で政治家の『陸凱は亡くなる間際に「滕脩らは皆、清廉忠実・卓越秀才であり、社稷の根幹、国家の善き補佐であります。陛下は彼らにお訊ねになり、忠義を尽くせるようお取り計らい下さいますよう」と陳情している。またその際に、国の支えとなる人物の一人として滕脩の名を挙げている』。二七九年に『広州で郭馬らが反乱を起こすと、孫晧は』、『かねてより』、『滕脩の威光恩恵が民たちを心服させていると信じていたため、滕脩を使持節・都督広州諸軍事・鎮南将軍・広州牧に任じて討伐を命じ、後に陶璜・陶濬らを援軍として差し向けた』。『郭馬の反乱を平定していない』うち『に晋が攻め込んで来たので、滕脩は兵を率い』、『応戦しようと駆けつけたが、巴丘まで赴いたところで孫晧が既に降服したことを知ったため、喪服を着た上で涙を流しながら引き返した。広州刺史閭豊・蒼梧太守王毅とともに印綬を返上すると、詔勅により安南将軍に任じられた。広州牧・持節・都督の職階はそのまま留任とされ、武当侯に封ぜられた上で鼓吹を与えられて、南方の仕事を委任された』。『滕脩が南方にあること数年、辺境の夷狄たちも帰服した』。『死』後、『親族が洛陽に埋葬して欲しいと請願したことから、武帝はその気持ちに満悦して一頃の墓田を与え、声侯と諡した。後に子の上表により、忠侯と改められた』とある名臣である。

「一丈」東晋の一丈は二・四四メートル。

「四丈四尺」東晋の一尺は二四センチメートル強であるから、十・七二メートルとなる。

「封じて」封印して。人工的に細工した物でないことを証明するため。]

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