明恵上人夢記 90
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一、其の夜、夢に、常圓房【尼。】有りて云はく、「南都には、御事(おほんこと)を、『北京(ほくけい)の諸僧【山(ひえ)・寺(みゐ)等也[やぶちゃん注:それぞれの漢字への当て訓としてのルビである。]。】、尊重し奉る』とて歸敬(ききやう)し奉る。」と云ふ。心に思はく、『南都には、「北京に大事ある」とて大事にし、北京には又、「大事にせる一切の僧の中に尊重を蒙るべき」也。』と云々。
[やぶちゃん注:重大な「89」夢の続きであるのかも知れぬし、そうでない錯簡の可能性も疑われる。しかし、それを夢の内容から推理することは不可能である。しかし、河合氏のようなユング派であるなら、これを「89」夢と連関して解釈するのが普通ではないかと思うのだが、河合氏は何故か、これも、また、次の「91」(二つの夢記述のカップリングで、日附がなく、孰れも唐突に「又」で始まる)も全く採り上げておられない。フロイト派のような超自我の検閲が強力に夢に行われていると、考えるなら、寧ろ、やはり、「89」とも関連をつけた夢解釈が行われるようには思われる。但し、私は「89」夢の後に、「89」夢とは何の関係もない夢を連続して見ることは、最新の脳科学上から考えれば、何も奇異なことではないと感ずる人間である。夢は過剰になった記憶の整理のためにシステマティクに自動的機械的に脳の物理的機能として行われる現象であり、実は夢そのものには全く意味がないとするいう学説をも、私は決して否定しないからである。しかし、この夢、「其の夜」という指示語で始まること以外にも、やはり「89」との関連が私は激しく疑われると思われる箇所があり、河合氏が続けて考察されていないのを、実は不満に思っている。何故なら、登場するのが、明恵の姉妹である「常圓房」だからである。彼女は「65」に登場し、その夢を河合氏が明恵の夢の中でも特異点の夢の一つとして採り上げ、『唯一つ、彼の母と姉妹が出現している珍しい夢であ』り、『これは女性との「結合」を経験し、以後のより深い世界へと突入してゆこうとする明恵にとって、一度はその肉親に会うことが必要だったということであろう』とされ、『明恵の場合は』、『あるいは、慰めの意味で母』や姉妹『に会ったのであろう。母』と姉妹『は既に尼になっていて、仏門に帰依している。明恵は安心して深層への旅を志した』の『であろう』とまで述べておられるからである(リンク先ではソリッドに引用してある)。
「山(ひえ)」天台宗の比叡山延暦寺。
「寺(みゐ)」天台宗の三井寺、則ち、長等山(ながらさん)園城寺(おんじょうじ)。言わずもがなであるが、明恵は華厳宗である。]
□やぶちゃん現代語訳
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その夜、別に、こんな夢を見た――
私の姉妹の一人である常円房【既に尼となっている。】がおり、私に言うことには、
「南の奈良にておきましは、あなたさまのことを、『北の京都の諸々の知られた僧徒[明恵注:言うまでもないが、比叡山・三井寺などの僧徒を指す。]は、皆、尊重し申し上げている』と言うて、仏・菩薩の如く、崇敬しておりますよ。」
と。
しかし、私は心の中で思った。
『南の奈良に於いては、専ら、「北の京都には種々の現実上の直面する重大な問題がある」という観点から、「明恵は、暫く、大切にせねばならない」と考えているからに過ぎず、北の京都に於いては、これまた、「大事にしておかねばならない一切の僧徒の中でも、明恵は取り敢えず、現実上の諸問題を解決するために、特に尊重を蒙っても、まあ、しかるべき存在ではある」と考えているだけのことである。』
と……