譚海 卷之四 武州玉川百姓某才智の事
○武州玉川の邊(あたり)、府中に何がしと云もの有。此百姓、平生、才智にて、さまざま奇特なる事多き中に、一とせ、玉川の邊を通行せしに、百姓、大勢、集りて、畑の土中より大なる箱の、深さ廣さ二間四方もあるべき物を、六つ、掘(ほり)して騷合(さはぎあひ)たる所へ行かゝり、「是は何をする事ぞ」と尋ければ、「此箱年來(としごろ)土中に埋(うづま)りて、いつの代よりあるといふ事もしりがたき程の久敷(ひさしき)ものなり、年々畑作の妨(さまたげ)になるゆゑ、此度掘出(ひりいだ)せし」と云。「掘出して何やうの事にするぞ」と尋ければ、「何の用にたてんとも存ぜず、賣拂(うりはらひ)てなりとも片付べし」と云時、「いかほどに賣拂にや」と問ければ、「鳥目五六十疋ならば賣拂べし」といふ。「さらばわれは八十疋に買取べし」と約して、則(すなはち)價を遣し、「跡より取によこすべし」とて歸りしが、其後(そののち)一年にも取(とり)に來(きた)る事なし。二三年過(すぎ)又右の所を通りけるとき百姓見受て「此箱はいかゞいたさるゝや、かく三年に及ふまで取にもこされず、連々(つらつら)かたの如く朽損(くちそん)し[やぶちゃん注:「し」はママ。]侍る」といふ。此男聞て、「苦しからず、朽たらは[やぶちゃん注:ママ。]朽次第にしてをかれよ」といひて、其後又一年餘(あまり)をへて此男來り候時、百姓又見かけて、「もはや朽過(くちすぎ)ていかにもすべき樣なし、殊に所せきものにて畑作の進退にも妨になり侍るまゝ、ひらに引取申されよ」と云。「いやいや人を遣ひ引取(ひきとら)んとするにも人步(にんぷ)かゝりて詮方(せんかた)なし、此上は所せく思はれなば、燒すてて成(なり)とも仕𢌞(しまは)れよ」といひければ、百姓ら價を出し買取しものをかくいふはいぶかしくは思ひながら、餘りもちあつかひたる事なれば、「さらば買とられしぬしの左樣申さるるうへは、燒すて侍るべし」とて、終(つひ)に火をかけてやきすてたり。此男やきすてたるを見置て一日へて人を二三人つれ參り、此箱の燒たる跡の釘(くぎ)鐡物(てつもの)を殘りなく拾ひて歸り賣拂たるに、鐡ものの價三貫八百錢に成(なり)ぬるとぞ。『かゝる物をこしらへたるは普通の鐡物にはあらじ』と思ひて、さて買置て年月打捨置たる事也と、後に聞あざみて稱譽(しやうよ)しける。釘・かすがひなど殊に丁寧にせしもの也と、天明改元のとしの事也。
[やぶちゃん注:「府中」東京都府中市。玉川左岸。現在、府中市には多摩川に沿う形で古墳群が並び、国分寺跡もある(ともにグーグル・マップ・データ)。
「聞あざみて」「聞淺みて」話の始終を聞いてその意外なことに驚き、あきれかえって。
「稱譽」褒めたたえること。
「天明改元のとし」安永十年四月二日(グレゴリオ暦一七八一年四月二十五日)改元。]
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