大和本草附錄巻之二 「魍魎」 (中国版水怪)
魍魎 淮南子說狀如三歲小兒赤黑色赤目長耳
美髮左傳註疏魍魎川澤之神也○篤信曰此說
ヲ見レバ魍魎ハ河童ナルヘシクハシヤニアラス又クハ
シヤヲ魍魎トスル說アリ又河童ト相撲トリテ病
スルヲ治スル法右ノ木類ニ莽草ヲ用ル事ヲ記ス
○やぶちゃんの書き下し文
魍魎(まうりやう) 「淮南子」に說く、『狀、三歲の小兒のごとし。赤黑色、赤目、長耳、美髮。』と。「左傳」の「註疏」に、『魍魎は川澤〔(せんたく)〕の神なり。』と。
○篤信曰はく、此の說を見れば、魍魎は河童(かはたらう)なるべし。「くはしや」にあらず。又、「くはしや」を魍魎とする說あり。又、河童と相撲とりて、病ひするを治ずる法、右の「木類」に莽草(しきみ)を用ひる事を記す。
[やぶちゃん注:「大和本草附錄巻之一」よりのピック・アップは終わったので、これより「大和本草附錄巻之二」(PDF)に移る。底本は従来通り、「学校法人中村学園図書館」公式サイト内にある宝永六(一七〇九)年版の貝原益軒「大和本草」PDF版を視認してタイプする(後のリンク先は目次のHTMLページ)。前の「大和本草附錄巻之一」は植物パートであったが、配列が甚だ雑駁であった(分類項目が全く認められず、藻類もあちこちに散らばっていた)に対し、こちらは「禽類」・「獸類」・「魚類」・「蟲類」・「介類」・「水火]類幷土石類」・「藥類」の大項目分類が行われてあり、私も対応し易い。しかし、水族がそれらのどこかに混じり混んでいる可能性があるので、逐一、確認した。して、よかった。何故なら、早速、「獸類」の中に上記の不審な一条を見出したからである。既に述べた通り、私は幻想獣でも水棲のものは拾い上げる(実は次も、そう)。「魍魎」とは、本来の中国での原型は「魑魅魍魎」であって、山川草木金石水土のあらゆる自然の中に存在すると考えられた精霊(「すだま」と読むのが日本漢文では一般化している)・木霊(同前で「こだま」)などのアニマチズム(animatism:無生物にも意識があるとし、ある種の生命体に見えない現象・事物・物質は生きているとした原始信仰の初期的段階)的な存在霊や、その線上に生まれたアニミズム(animism:無生物であってもアニマ(anima:幽体・霊魂)を持つとする原始信仰)の世界観から想像されたさまざまな異人・幻獣・妖怪の総称であった。それが、分類好きな後代の人間たちよって「魑魅」と「魍魎」に分離されて(後の引用ではその逆が述べられているが、私は従えない。これらの単漢字は、もともと強い単独の個別的分類能(謂わば、種としての決定的独立性や識別性)を持っていないと私は思うからである)、人形(ひとがた)や幻獣へと変化・分類されていったものと思う。異論のある向きには次のように言おう。ウィトゲンシュタインが「論理哲学論論考」で述べている通り、そもそも「神は『名指すこと』は出来るが、『示すこと』は出来ない」のである。示された(分類された)その瞬間に、その零落は急速に始まり、神が下等な鬼神・妖怪へと堕天してゆくのである。話を戻す。本家の中国でもそうだが、それが移入された島国である本邦でも、それが海や河川の水界と強く結びついており、日本神話と相俟って、水精や水怪の形成を促したように私には思われる。益軒のぐちゃぐちゃした解説を注するには、ウィキの「魍魎」の内容がよく合うので、まず、それを引くと、『魍魎(もうりょう・みずは)または罔両、罔象は、山や川、木や石などの精や、墓などに住む物の怪または河童などさまざまな妖怪の総称』。『日本では水神を意味する「みずは」と訓じ、この語は他に「水波」「美豆波」「弥都波」などさまざまな漢字で表記される』(これは日本神話に登場する女神「みづはのめ」が現存する中では最も古い形象である。「古事記」では「彌都波能賣神」(みづはのめのかみ)、「日本書紀」では「罔象女神」(みつはのめのかみ)と表記され、祭神としては「水波能賣命」などとも表記される。「淤加美神」(おかみのかみ)とともに本邦の代表的な水神。「古事記」の「神産み」の段で、「加具土」(かぐづち)を産んだ際に陰部を火傷して苦しんでいた伊弉冉がした尿(いばり)から、「和久産巣日」(わくむすび)とともに生まれたとしている。「日本書紀」第二の一書では、伊弉冉が死ぬ間際に「埴山媛」(はにやまひめ)と「罔象女」を生んだとする)。『漢籍には、総称的な用法とは別に、具体的な姿や振る舞いを描写された魍魎が現れ』、「淮南子」には、『「罔両は状は三歳の小児の如し、色は赤黒し、目は赤く耳は長く、美しい髪をもつ」と記され』、「本草綱目」では、『「罔両は好んで亡者の肝を食べる。それで』「周礼」には、『戈(ほこ)を執って壙』(つかあな)『に入り、方良(罔両)を駆逐する、とあるのである。本性、罔両は虎と柏とを怖れ』る。『また、弗述(ふつじゆつ)』[やぶちゃん注:ママ。]『というのがいて、地下にあり死人の脳を食べるが、その首に柏を挿すと死ぬという。つまりこれは罔両である」と記されて』ある。「淮南子」に『よると、罔象は水から生じる』とし、また、「史記」では、『孔子は水の怪は龍や罔象であるとした』と記す。『これらから、魍魎も水の怪の総称とみなされるようになった。この意味は、山川の怪を意味する魑魅と対を成すようになった(あわせて魑魅魍)』。また、『亡者の肝を食べるという点から、日本では魍魎は死者の亡骸を奪う妖怪・火車と同一視されており』、『火車に類する話が魍魎の名で述べられている事例も見られる。江戸時代の根岸鎮衛の随筆』「耳袋」に『よれば、柴田という役人のもとに忠義者の家来がいたが、ある晩に「自分は人間ではなく魍魎」と言って暇乞いをした。柴田が理由を尋ねると、人間の亡骸を奪う役目が回ってきたので、ある村へ行かなければならないとのことだった。翌日、家来の姿は消えており、彼の言った村では葬儀の場が急に黒雲で覆われ、雲が消えると棺の中の亡骸が消えていたという』と出る。最後のそれは、私の「耳囊 卷之四 鬼僕の事」を見られたい。
「淮南子」「えなんじ」と呉音で読むことになっている。前漢の高祖の孫で淮南王の劉安(紀元前一七九年?~同一二二年)が編集させた論集。二十一篇。老荘思想を中心に儒家・法家思想などを採り入れ、治乱興亡や古代の中国人の宇宙観が具体的に記述されており、前漢初期の道家思想を知る不可欠の資料とされる。但し、現在の「淮南子」には以下の文字列を発見出来ない。散佚する前の原本にあったものらしい。「堀内元鎧 信濃奇談 卷の上 河童」の私の注の「魍魎狀如三歲小兒赤黑色赤目長耳美髯」を見られたい。なお、上記リンク先の原文には、本篇も引用されてある。
『「左傳」の「註疏」』「春秋左傳註疏」三国時代から西晋時代の魏・西晋に仕えた政治家・武将で学者の杜預(とよ 二二二年~二八四年)の「春秋左氏伝」の注釈書。
「篤信曰はく、此の說を見れば、魍魎は河童(かはたらう)なるべし」先の「大和本草卷之十六 河童(かはたらう) (水棲妖獣河童)」の本邦のオリジナリティの闡明からトーン・ダウンしてしまい、甚だ不満である。
「くはしや」「火車」「化車」であるが、これは専ら本邦で特異的に増殖した妖怪である。二種あって、後に混淆して行くが、古い方は、「今昔物語集」に登場する。「火車」についての資料としては、安澤出海氏のサイト内の「火車の資料」が網羅的で非常に優れている。私の「怪奇談集」を始めとして、諸電子化記事に頻繁に出現するのであるが、本記事の性格上、ここで、それらの妖怪学を開陳するわけにはゆかないのでウィキの引用でお茶を濁すと、まず「火の車」(ひのくるま)」によれば、『日本の怪異』・『妖怪』で平安後期の成立である「今昔物語集」を始め、いずれも江戸時代前期の「奇異雑談集」・「新著聞集」・「譚海」・「因果物語」などに『記述が見られ』、その基本的なコンセプトは、『悪事を犯した人間が死を迎えるとき、牛頭馬頭などの地獄の獄卒が、燃えたぎる炎に包まれた車を引いて迎えに現れるというもの。また文献によっては死に際ではなく、生きながらにして迎えが現れるといった事例も見られる』。「平仮名本因果物語」には、『「生ながら、火車にとられし女の事」と題し、以下の話がある。河内国八尾(現・大阪府八尾市)にある庄屋の妻は強欲な性格で、召使いに食事を満足に与えず、人に辛く当たっていた。あるとき、その庄屋の知人が街道を歩いていると、向こうから松明のような光が飛ぶように近づいて来た。光の中では、身長8尺(約2.4メートル)の武士のような大男』二『人が、庄屋の妻の両手を抱えており、そのまま飛び去って行った(画像参照)。彼は恐ろしく思って庄屋の様子を尋ねると、庄屋の妻は病気で数日間寝込んでおり、その』三『日目に死んでしまった。この妻は行いが良くなかったため、生きながらにして地獄へ堕ちたといわれたという』。『また、怪談集』「西播怪談実記」にも『「龍野林田屋の下女火の車を追ふて手并着物を炙し事」と題し、享保年間の火の車の話がある。播磨国揖保郡龍野町(現・兵庫県たつの市)の林田屋という商家で、以前から店に老婆とその娘が出入りしていたが、老婆が店に滞在中に風邪をひき、次第に症状が重くなった。手当ての甲斐もなく高熱が続き、ついには錯乱状態となった。娘は嘆き悲しんでそばを片時も離れなかったが、ある夕暮れに「ああ、悲しい。母を乗せて行ってしまうとは」と慌てて外へ駆け出した。商家の人々は娘が悲嘆のあまり正気を失ったかと思い、娘を引き止めると、たちまち娘が気絶したので、口に水を注いで正気に戻した。娘が盛んに熱がっており、見ると袖の下が火で焼け焦げていた。店へ戻ると、老婆は既に死んでいた。娘は、臨終のときになぜそばにいなかったのかと尋ねられると「絵で見た鬼の姿のような者が燃え盛る火の車を引いて、母を火の中へ投げ込んで連れ去って行った(画像参照)。取り戻したい一心で追いかけたものの車は空へ飛び去ってしまい、後のことは覚えていない」とのことだった』。『後に火の車は、葬式の場や墓場から死体を奪う猫の妖怪・火車』(後で別に引用する)『と混同されるようになり、前述の』「因果物語」や「新御伽婢子」などでは、『火の車のことが「火車」の題で述べられており、佐脇嵩之の妖怪画』集「百怪図巻」でも、『火の車を引く獄卒の姿が「くはしや」(火車)の題で描かれている例も見られる』。『近代では火車の名は地獄の獄卒ではなく、前述の猫の妖怪を指す方が多い』とあり、今一つの別に進化した「火車」(かしゃ)という妖怪は、ウィキの「火車(妖怪)」によれば、コンセプトは「火の車」と同根で、『悪行を積み重ねた末に死んだ者の亡骸を奪うとされる日本の妖怪で』、『葬式や墓場から死体を奪う妖怪とされ、伝承地は特定されておらず、全国に事例がある』。『正体は猫の妖怪とされることが多く、年老いた猫がこの妖怪に変化するとも言われ、猫又が正体だともいう』。『昔話「猫檀家」などでも火車の話があり、播磨国(現・兵庫県)でも山崎町(現・宍粟市)牧谷の「火車婆」に類話がある』。『火車から亡骸を守る方法として、山梨県西八代郡上九一色村(現・南都留郡、富士河口湖町)で火車が住むといわれる付近の寺では、葬式を』二『回に分けて行い、最初の葬式には棺桶に石を詰めておき、火車に亡骸を奪われるのを防ぐこともあったという』。『愛媛県八幡浜市では、棺の上に髪剃を置くと火車に亡骸を奪われずに済むという』。『宮崎県東臼杵郡西郷村(現・美郷町)では、出棺の前に「バクには食わせん」または「火車には食わせん」と』二『回唱えるという』。『岡山県阿哲郡熊谷村(現・新見市)では、妙八(和楽器)を叩くと火車を避けられるという』。「奇異雑談集」の「越後上田の庄にて、葬りの時、雲雷きたりて死人をとる事」では、『越後国上田で行なわれた葬儀で、葬送の列が火車に襲われ、亡骸が奪われそうになった。ここでの火車は激しい雷雨とともに現れたといい、挿絵では雷神のように、トラの皮の褌を穿き、雷を起こす太鼓を持った姿で描かれている』(引用元に図有り)。「新著聞集」第五の「崇行篇」の「音誉上人自ら火車に乗る」には、文明一一(一四七九)年七月二日、『増上寺の音誉上人が火車に迎えられた。この火車は地獄の使者ではなく』、『極楽浄土からの使者であり、当人が来世を信じるかどうかにより、火車の姿は違ったものに見えるとされている』と出、同第十「奇怪篇」の「火車の来るを見て腰脚爛れ壊る」には、『武州の騎西の近くの妙願寺村。あるときに、酒屋の安兵衛という男が急に道へ駆け出し、「火車が来る」で叫んで倒れた。家族が駆けつけたとき、彼はすでに正気を失って口をきくこともできず、寝込んでしまい』、十『日ほど後に下半身が腐って死んでしまったという』とあり、同「奇怪篇」の「葬所に雲中の鬼の手を斬とる」では、『松平五左衛門という武士が従兄弟の葬式に参列していると、雷鳴が轟き、空を覆う黒雲の中から火車が熊のような腕を突き出して亡骸を奪おうとする。刀で切り落としたところ、その腕は恐ろしい』三『本の爪を持ち、銀の針のような毛に覆われていたという』とあり、また、同第十四「殃禍篇」の「慳貪老婆火車つかみ去る」には、『肥前藩主・大村因幡守たちが備前の浦辺を通っていると、彼方から黒雲が現れ「あら悲しや」と悲鳴が響き、雲から人の足が突き出た。因幡守の家来たちが引きおろすと、それは老婆の死体だった。付近の人々に事情を尋ねたところ、この老婆はひどい』吝嗇『で周囲から忌み嫌われていたが、あるとき』、『便所へ行くといって外へ出たところ、突然』、『黒雲が舞い降りて連れ去られてしまったのだという。これが世にいう火車という悪魔の仕業とされている』とする。「茅窓漫録」の「火車」には、『葬儀中に突然の風雨が起き、棺が吹き飛ばされて亡骸が失われることがあるが、これは地獄から火車が迎えに来たものであり、人々は恐れ恥じた。火車は亡骸を引き裂いて、山中の岩や木に掛け置くこともあるという。本書では火車は日本とともに中国にも多くあるもので、魍魎という獣の仕業とされており、挿絵では「魍魎」と書いて「クハシヤ」と読みが書かれている』(引用元に画像有り)。民俗誌の名作「北越雪譜」の「北高和尚」には、天正時代、『越後国魚沼郡での葬儀で、突風とともに火の玉が飛来して棺にかぶさった。火の中には二又の尾を持つ巨大猫がおり、棺を奪おうとした。この妖怪は雲洞庵の和尚・北高の呪文と如意の一撃で撃退され、北高の袈裟は「火車落(かしゃおとし)の袈裟」として後に伝えられた』と載る。また、『火車と同種のもの、または火車の別名と考えられているものに、以下のものがある』。『岩手県遠野ではキャシャといって、上閉伊郡綾織村(現・遠野市)から宮守村(現・同)に続く峠の傍らの山に前帯に巾着を着けた女の姿をしたものが住んでおり、葬式の棺桶から死体を奪い、墓場から死体を掘りおこして食べてしまうといわれた。長野県南御牧村(現・佐久市)でもキャシャといい、やはり葬列から死体を奪うとされた』。『山形県では昔、ある裕福な男が死んだときにカシャ猫(火車)が現れて亡骸を奪おうとしたが、清源寺の和尚により追い払われたと伝えられる。そのとき残された尻尾とされるものが魔除けとして長谷観音堂に奉納されており、毎年正月に公開される』。『群馬県甘楽郡秋畑村(現・甘楽町)では人の死体を食べる怪物をテンマルといい、これを防ぐために埋葬した上に目籠を被せたという』。『愛知県の日間賀島でも火車をマドウクシャといって、百歳を経た猫が妖怪と化すものだという』。『鹿児島県出水地方ではキモトリといって、葬式の後に墓場に現れたという』。『日本古来では猫は魔性の持ち主とされ、「猫を死人に近づけてはならない」「棺桶の上を猫が飛び越えると、棺桶の中の亡骸が起き上がる」といった伝承がある。また』、「宇治拾遺物語」では、『獄卒(地獄で亡者を責める悪鬼)が燃え盛る火の車を引き、罪人の亡骸、もしくは生きている罪人を奪い去ることが語られている。火車の伝承は、これらのような猫と死人に関する伝承、罪人を奪う火の車の伝承が組み合わさった結果、生まれたものとされる』。『河童が人間を溺れさせて尻を取る(尻から内臓を食べる)という伝承は、この火車からの影響によって生じたものとする説もある』。『また、中国には「魍魎」という妖怪の伝承があるが、これは死体の肝を好んで食べるといわれることから、日本では死体を奪う火車と混同されたと見られており』、先の「茅窓漫録」では、『「魍魎」を「クハシヤ」と読んでいることに加えて』、前にリンクさせた「耳袋」の『「鬼僕の事」では、死体を奪う妖怪が「魍魎といへる者なり」と名乗る場面がある』とある。個人的には、私は今一つの妖怪「片輪車」も、この「火車」の変形譚であると考えている。それは「見るな」の禁忌に触れることで、生きた子が食われてしまうという紋切型の構造を持ち、遺体を食うモンスターが、生きた人間をも食うに至るのは発展形態の当然の流れと考えているからである。典型的なそれは、私の「諸國百物語卷之一 九 京東洞院かたわ車の事」にとどめを刺す。是非、見られたい。挿絵付きで、私は業火の燃えるそれなんぞより、人体の一部をくっ付けて回る車輪の方が数十倍インパクトがあると考える人種である。私の「柴田宵曲 續妖異博物館 不思議な車」も参考になろう。
『「くはしや」を魍魎とする說あり』益軒の本草記載の杜撰を指弾した小野蘭山述の「本草綱目啓蒙」の巻之四十七「獣之四」の「寓類之怪」には以下のようにある(ここでは無条件で賛同しているようで、ちょっと意外)。国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像を視認し、カタカナをひらがなに直し、漢文部は訓読、句読点他(送り仮名・読みは推定)を添えた。
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罔兩 「くはしや」。「くはじや」【薩州。】。
魑魅の類(るゐ)なり。葬送の時、塗中にて、疾風・迅雷、暴(あからさま)に至りて、棺は損ぜずして、中の屍(しかばね)を取り去り、山中の樹枝・巌石等に掛け置くこと、あり。これを、「くはしや」と云ふ。東都及び薩州・肥前・雲州にもありと云ふ。京師には、これ、有ることを聞かず。又、『「淮南子」に載る「罔兩」は「水虎(がはたらう)[やぶちゃん注:原本の読み。]」のことなるべし。』と、「大和本草」に詳かにす。同名なり。「周禮(しうらい)」に、『方相氏、戈(ほこ)を執り、壙(くわう)[やぶちゃん注:墓穴。]に入る』と云ふ。方相氏は四つ目あるの假面(めん)[やぶちゃん注:原本の二字への読み。]を著(あらは)するを云ふ。是れ、罔兩を禦(ふせ)ぐ爲めなり。京師、九月十一日、東寺の尼寺に六孫王の祭あり。俗に「寶永祭」と云ふ。此の時、首に紅(しやぐま)[やぶちゃん注:原本の読み。]を蒙(かふむ)り、方相氏の假面を著けて、四神の旗を持るもの、あり。服は赤・黒・青・白、各(おのおの)一人なり。
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『河童と相撲とりて、病ひするを治ずる法、右の「木類」に莽草(しきみ)を用ひる事を記す』この『右の「木類」』というのは、本巻の「莽草」のそれではなく、「附錄卷之一」の「木類」の22コマ目の以下の追加記載である。以下に訓読して示すが、御存じない方もいると思うので、言っておくと、仏事に用いられるマツブサ科シキミ属シキミ Illicium anisatum は全植物体に強い毒性があり、中でも種子には強い神経毒を有するアニサチン(anisatin)が多く含まれ、誤食すると死亡する可能性もある。シキミの実は植物類では、唯一、「毒物及び劇物取締法」により、「劇物」に指定されている。以下の処方は間違っても使ってはならない。
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河太郎と相撲(しまふ)をとりたる人、正氣を失ひ、病ひするに、「しきみ」の木の皮をはぎ、抹香とし、水に、かきたて、吞(もま)すれば、忽ち、正氣になり、本復す。屢(しばしば)用ひて、效(しるし)ありと云ふ。「しきみ」は「莽草」なり。木なれども、「本草綱目」、「毒草類」に載せたり。「しきみ」の抹香を佛家及び世俗に燒く術者〔(じゆつしや)〕、「伊豆那(いづ〔な〕)の法」を行ふに、此の「荼耆尼天(だぎに〔てん〕)の法」なりと云ふ。「いづな」とは、信濃(しなの)の國の山の名なり、彼〔(か)〕の山に「だきに天」の祠〔(ほこら)〕ある故、山の名を以つて、其の法に名づけしなるべし。
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「伊豆那(いづ〔な〕)の法」は「飯綱(いづな)の法」で、「飯綱」(いづな)は妖術師が使役するダークな妖怪「管狐(くだぎつね)」のことを指す。これを語り出すと、また、エンドレスになるので、それは「老媼茶話卷之六 飯綱(イヅナ)の法」の本文と私の注を参照されたい。]
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