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2021/03/22

大和本草附錄巻之二 (信濃国犀川に棲む水妖獣「犀」の記載)

 

賴朝ノ時信濃國犀川ニ犀スム由ヲ聞給ヒ泉小次

郎親衡ヲ召テ取ラシム親衡刀ヲヌキ持テ

水ニ入切コロス親衡ハ朝比奈三郎ニヒトシ

キ大力ナリ

○やぶちゃんの書き下し文

賴朝(よりとも)の時、信濃の國犀川(さいがは)に犀すむ由を聞き給ひ、泉小次郎親衡(ちかひら)を召して、取らしむ。親衡、刀(かたな)をぬき持ちて、水に入り、切りころす。親衡は朝比奈三郎にひとしき大力〔(だいりき)〕なり。

[やぶちゃん注:これは底本の8コマ目に出現し、標題がないものである。信濃国犀川に棲むとする幻想獣。

「賴朝ノ時」彼の生年は久安三年(一一四七)四月八日で、没したのは、「吾妻鏡」には当該年前後に欠損があり、リアル・タイムの記事ではなく、十二年も経過した後の相模橋供養での回想後出しで、建暦二(一二一二)年二月二十八日の条に、頼朝は同じ橋の新造供養の帰りに落馬し、程なく薨去した、と記す。これは同時代の記録・日記などから、建久一〇(一一九九)年一月十三日(ユリウス暦二月九日)で、ほぼ確定されている。実際の死因は不明である。脳卒中などが現実的には疑われる。

「信濃國犀川」信濃川水系で千曲川に合流する。ここ(グーグル・マップ・データ)。名前の「犀」は複雑な起原を持つ。まず、伝承上は、信濃国、現在の長野県内に伝わる二種の「小泉小太郎」伝承に基づくもので、一つは、長野県上田地域に伝わるもので、人間の父親と大蛇の母親との間に産まれた少年「小太郎」の話、今一つが「犀」に関わる、松本や北アルプス地域に伝わる「泉小太郎」の話で、こちらは、小太郎が自らの母親であった龍とともに松本盆地を治水・開拓する物語となっている。但し、この二つの伝説は同源と考えられている。ウィキの「小泉小太郎伝説」によれば、後者は、「信府統記」の要約では、『景行天皇』十二『年』(西暦機械換算では紀元御後八十二年)『まで、松本のあたりは山々から流れてくる水を湛える湖であった。その湖には犀竜』(★☜★:則ち、言わずもがなであるが、実在するサイ(哺乳綱奇蹄目有角亜目 Rhinocerotoidea 上科サイ科サイ属(タイプ属)Rhinoceros:博物誌は私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 犀(さい) (サイ)」を参照されたい)で、現ではなく、角を持った龍を指して「犀」と呼称しているのが原型である。この龍の種別は中国由来で角のある龍を「虬」(きゅう)と呼び、角のない龍を「螭」(ち)と呼ぶ。後者は本邦では「あまりょう」とも呼ぶ)『が住んでおり、東の高梨の池に住む白竜王との間に一人の子供をもうけた。名前を日光泉小太郎という。しかし小太郎の母である犀竜は、自身の姿を恥じて湖の中に隠れてしまう』。『筑摩郡中山の産ヶ坂で生まれ、放光寺で成人した小太郎は母の行方を捜し、尾入沢で再会を果たした。そこで犀竜は自身が建御名方神の化身であり、子孫の繁栄を願って顕現したことを明かす。そして、湖の水を流して平地とし、人が住める里にしようと告げた。小太郎は犀竜に乗って山清路の巨岩や久米路橋の岩山を突き破り、日本海へ至る川筋を作った』という話である。『大昔に山清路を人の手で開削して松本盆地を排水、開拓したとする』「仁科濫觴記」の『記述を根拠に、これを伝説の由来とする説がある』。『「泉小太郎」の名も、その功労者である「白水光郎」(あまひかるこ)の名が書き誤られたもの(「白」・「水」の』二『文字を「泉」の』一『文字に、「光」の』一『文字を「小」・「太」の』二『文字にといった具合に)であるという』とある。則ち、ここで泉親衡に退治された「犀」とは、本来、神聖なる四神の一つであった「龍」の、その一種であった「犀龍」が、「犀」という邪悪な水棲妖獣に分離・零落したものなのである。或いは、馴染みがない方も多いかと思われるが、本邦の水棲幻獣としての「犀」は必ずしもレアではない。ここに出た信濃の犀は、恐らくその中でも最もメジャーな存在とさえ言える。例えば、私の「柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(21) 「川牛」(1)」を見られたい。怪奇談では、「佐渡怪談藻鹽草 小川村の牛犀と戰ふ事」に牛と戰う妖獣「犀」が佐渡ヶ島に出現する。何故、見たこともない「犀」が江戸以前に本邦で妖獣として語られるのかと言えば、それはもう、偏えに漢方の万能解毒剤とされた「犀角」の中国からの伝来によるものである。例えば、「金玉ねぢぶくさ卷之七 蛙も虵を取事」での作者の語りを見られたい。因みに「犀川」の語源として腑に落ちるものを紹介すると、ウィキの「犀川(長野県)に、「仁科濫觴記」によれば、『崇神天皇の末の太子であり、垂仁天皇の弟にあたる仁品王(仁科氏の祖)が都より王町(現・大町市)に下った際、安曇平(安曇野の古称)が降水時に氾濫して水浸しになることを憂い、解決を命じた。治水工事に長けた白水郎(あまこ)の長の日光(ひかる)の指導の下、工事が施工され、川幅が広げられたため、氾濫は止んだ。この時、川幅を広げた場所が、山征(さんせい:山を切り開くこと)をした場所ということで』「山征場」或は「山征地」と『名づけられた。この治水工事の話が、「泉小太郎伝説』『」となって今日に伝えられていると考えられている』。因みに、「信府統記」などで『とりあげられている泉小太郎伝説は、龍によって犀川が開かれたことになっており、その開いた場所は、すべて』この治水で造成された『山清路』と『一致している。それらの理由から、この「山征場」あるいは「山征地」は、そのまま山清路に比定しても良いと考えられている』。『このとき、会議によって「山征」の矩規(規矩準縄)を話し合った場所を「征矩規峡(せいのりそわ)」と名付けた。この征矩規峡が』、江戸期の古文書の「安曇開基」・「仁科開基」などに『見られる「犀乗沢(さいのりざわ)」に比定される。犀乗沢の場所がはっきりとどこであったかは判っていないが』、「安曇開基」などに『よると、安曇野市豊科高家地区熊倉の東(尾入沢)界隈と書かれている』とあるのが、とどめを刺そう。

「泉小次郎親衡」(生没年不詳)は鎌倉前期の信濃国の武士。清和源氏で経基王五男の満快の流れを汲む。ここに出る通り、怪力で知られた。鎌倉幕府第二代将軍源頼家の遺児千手丸を擁立しようと画策したが、建保元(一二一三)年二月に事前に発覚し、幕府から送られた討手工藤十郎らを殺害し、行方を晦ました(その後は全くの行方不明である)。親衡に与みした武士は張本百三十人余・伴類二百人にのぼり、この中には、幕府草創の功臣和田義盛の子と甥も含まれていた。その処遇を巡って、和田氏と執権北条義時との間に亀裂が生じ、五月の「和田合戦」の一因となった(和田一族は滅亡)。なお、親衡の弟泉六郎公信は、その「和田合戦」では幕府方として戦い、討死している(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。ウィキの「泉親衡」にも、幕府の捕縛方との『奮闘ぶりにより』、『後世大力の士として朝比奈義秀と並び称され』、『様々な伝説を産んだ。江戸時代には二代目福内鬼外(森島中良)が』「泉親衡物語」と『題した読本を著している。一方、信濃国の民話に登場する先史時代の泉小太郎と同一視されることにより、竜の化身としたり』、『犀を退治したという昔話の主人公にもなっている』とある。また、『埼玉県川越市小ヶ谷町にある瑶光山最明寺の縁起によると、親衡は千寿丸とともに当地に落ち延びて出家し』、『「静海」と名乗り』、文永二年五月十九日(一二六五年七月三日)に八十八歳で没したとされ、静海の宝篋印塔も残るという』とある(実物を見たいものだ)。個人的には、このクーデタの事前失敗と彼の失踪は、いかにも怪しいと睨んでいる。寧ろ、後の有力な御家人豪族和田一族を滅亡させるための、迂遠な謀略ではなかったかとさえ私は考えている。北条義時という男はそういう狷介な男だと私は睨んでいるからである(実朝の暗殺も彼が仕組んだものと信じている。私が大学生の二十一の時に書いた拙作歴史小説である「雪炎」はそれを題材にしたものである)。因みにこの辺りは、私の「北條九代記 千葉介阿靜房安念を召捕る 付 謀叛人白状 竝 和田義盛叛逆滅亡 〈泉親衡の乱〉」を読まれたい。話を戻すと、この益軒の「親衡の犀退治」というのは、先の「泉小太郎」伝説に、この怪力で知られた酷似した通称を持つ「泉小次郎」を付会させただけのことである。

「朝比奈三郎」朝比奈義秀(安元二(一一七六)年?~建保元(一二一三)年?)は和田義盛の三男。鎌倉幕府御家人中で抜群の武勇をもって知られた。正治二 (一二〇〇) 年、第二代将軍源頼家が海辺遊覧の際、「水練の技を披露せよ」と命ぜられ、水中深く潜って鮫を手取りにして人々を感嘆させた。私の「新編鎌倉志卷之七」の「小坪村」を参照。僕の大好きなこの朝比奈義秀の鮫獲りと相撲のシーンが挿絵付きで出、私が注で「吾妻鏡」から引用もしてある。建保元(一二一三)年五月の「和田合戦」では、和田方の勇士として奮戦し、将軍(第三代の実朝)の居所を正面から攻め込み、多数の武士を倒した。敵兵は義秀を恐れて、彼の進路をつとめて避けたと伝えられている。和田方が敗北するに及び、義秀は海路、安房国へ向って逃走したが,その直後に戦死したらしい。なお、「源平盛衰記」は、和田義盛が先に木曾義仲の妾であった御前を娶って、義秀が生れたと伝えているが、「吾妻鏡」に義秀は建保元年で三十八歳とあることから、この説は成立しない(ここまでは「ブリタニカ国際大百科事典」の記載を一部で使用した)。私の「北條九代記 千葉介阿靜房安念を召捕る 付 謀叛人白状 竝 和田義盛叛逆滅亡 〈和田合戦Ⅱ 朝比奈義秀の奮戦〉」も参照されたいが、今一つ、「北條九代記 坂額女房鎌倉に虜り來る 付 城資永野干の寶劍」では、今一人の同時代の烈女で、私の好きな坂額姐さんと義盛の間に出来た子とする話が載る。]

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