甲子夜話卷之六 27 酒井忠勝、大猷院廟御忌日每に齋戒の事
6―27 酒井忠勝、大猷院廟御忌日每に齋戒の事
○、酒井讚岐守忠勝は、猷廟羣臣を捐玉ひし後、每月御忌に當る日、一室を淨掃し、沐浴齋戒し、麻上下を着して、自ら樣々の物を備へて、其入口を閉ぢ、人の來るを許さず。或時誤りて、一人其間へ走り入りしに、讚州奠供の前に平伏してありしが、振返りて、しいしいと言て手にて制したる形狀、眞に御前にある樣子なりしとなり。家來中密々語り合て、皆其至誠を感じけるとなん。
■やぶちゃんの呟き
「酒井忠勝」(天正一五(一五八七)年:三河~寛文二(一六六二)年:江戸)は当初は後に第二代将軍となる徳川秀忠の家臣。徳川家康家臣酒井忠利(後の川越藩初代藩主)の子。入道して空印と号した。慶長五(一六〇〇)年の「関ヶ原の戦い」に徳川秀忠に従って出陣した同十四年に讃岐守となり,同 十九年、下総国で三千石を領し、元和八(一六二二)年には七千石を加増されて深谷城主となった。寛永元(一六二四)年、老中となって二万石を加え、同三年には武蔵国忍(おし)藩五万石に封じられた。翌四年、同国川越で八万石、同九年に十万石で従四位下・侍従となり、同十一年には若狭国小浜十二万三千石に封ぜられた。同十五年、大老、翌年、左少将に昇任、明暦二(一六五六)年致仕。「日本王代一覧」・「日本帝王系図」などの編纂物がある。
「大猷院廟」さんざん既出の第三代将軍徳川家光の諡号。家光の没したのは慶安四年四月二十日(一六五一年六月八日)。
「羣臣を捐玉ひし後」「羣」は底本のママ。「捐玉ひし」は「すてたまひし」。主君の死を言う。
「奠供」「てんぐ・でんぐ」。供物を手づから伝え渡して仏前に供えること及びその儀式・祭壇・仏壇。
「しいしい」感動詞「しい」を重ねた語。強く制止する時に発する語。転じて、貴人の出入り・通行などの先払いの際に発する警蹕(けいひつ)の語として知られ、更に、現行の「しっ!」ように静かにするように促す時に発する語となった。言わずもがなだが、ここは原義の用法。
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