怪談老の杖卷之二 多欲の人災にあふ / 怪談老の杖卷之二~了
○多欲の人災にあふ
元文年中の事なり。
江戶中橋に上州屋作右衞門とて、質・兩替などする商人の娘に、お吉とてありけり。生れ付も、なみなみなる娘なりしが、殊の外、癪もちにて、折ふし、さし、おこりては、氣絕する事、度々なり。
「やがて、人にも嫁する年ぱいなれば、病身にてはよろしからず。湯治にても、さすべし。」と云けるが、幸(さいはひ)、高崎に父方の伯父ありて、江戶へ見舞に來りけるにたのみ、伊香保の湯へ、下女一人添て、遣はしける。
伯父方にて、暫く休息し、程近ければ、夜具・衣類は勿論、朝夕の菜の物まで馬一駄(むまいちだ)につけて、お吉をのせ、伯父、付添ひて、湯主(ゆぬし)金太夫といふもの方におちつき、養生しけるに、癪氣、段々に、心よく、中々、うつて、かはりたる樣子なれば、江戶へも書狀、遣はし、伯父も事なき機嫌なり。娘も、
「江戶よりは、氣もはれやかにて、よし。」
とて、三廻(みまは)りの餘(あまり)もありて、中々、江戶へ歸らんとも云はざりければ、伯父も、
「其體(てい)ならば、ゆるりと保養すべし。我も宿へ久しく見舞はねば、二、三日、高崎へ行て、また、來るべし。下女のさよを殘しおくなり。男ぎれなくて[やぶちゃん注:男っ気(け)がなくて。]、心細く思はんが、隣部屋の藤七殿をたのみおく間、萬事、此人をたのむべし。」
とて、爰かしこへ賴みおきて、高崎へ行きぬ。
お吉も、はや、湯治なれ、友だちも多ければ、
「少しも心細きこともなく、かならず、私(わたくし)事は、あんじずとも、御宿の御用そまつになき樣に御したゝめ被ㇾ成(ならる)べし。江戶へも、文(ふみ)遣はし候まゝ、御たよりに屆け給へかし。おさよばかりにて、少しも、さびしき事なし。」
とて、至極、きげんよく、出(いだ)し立(たて)てやりぬ。
此藤七と云ひしは、隣の部屋をかりて湯治しけるおとこにて、越谷(こしがや)邊のものなるよし。少し、いなかにて、小淨瑠璃にても語り、十分あぢをやるとおもふて居る男なるが、お吉が江戶風のとり廻はし、小(こ)りゝしきに、腰をぬかし、晝夜、入(いり)びたりて、
「折(をり)もあらば、口說きおとさん。」
と、いろいろ、おかしき身ぶりをし、いやらしき事計(ばかり)しかけける。
お吉は、江戶のまん中にて、朝夕、當世風の男を見て、心のいたりたる上、みかけと、ちがひ、おとなしく、じみなる生れなれば、此田舍をとこを、うるさがりて、下女のさよを相手に、常に笑ひものにしける間、藤七おもひ入(いれ)、ひとつも、きかず。
依(より)て、しあん[やぶちゃん注:「思案」。]して、伯父に取入り、尤(もつとも)らしくみせかけけるを、高崎の伯父、まうけにして、さい[やぶちゃん注:「菜」。飯のおかず。]ひとつ、拵へても、藤七方へおくり、手前にも、めづらしき料理出來れば、よびなど、殊の外、心やすくしたり。依ㇾ之(これによりて)、
「此度、高崎へ行(ゆく)あとは、こちへ來て寐てたもれ。お吉がさびしがるもしれぬ程に、そば、はなれぬ樣に、たのみます。」
など、賴み置きける。
田舍の人の、慮(おもんぱか)りなきこそ、きのどくなれ。
藤七は心にゑみをふくみ、
「伯父の留主(るす)に本意(ほい)を達せん。」
と、隨ぶん、色目をさとられず、賴もしく出(いだ)しやりて後は、自分の行李など、はこび來りて、偏(ひとへ)に、我がやどの如くしけるを、お吉は、
『うるさき事かな。』
と、おもひけれど、伯父の云ひつけなれば、力およばず、只、
「あい、あい。」
と計り、いふて、よらず障らず、ずいぶん、下女に内せういふて[やぶちゃん注:「内證言ふて」。こっそりと伝えて。]、そば、はなれぬ樣にしけるが、此下女も、守(も)り人の隙(ひま)なく、ふと、近所ヘ行(ゆき)、はなしける内に、かの藤七、小(こ)したゝるく口說(くどき)て、いろいろ、おどしごとなど云ひて、
「よしよし。此願、かなはずば、さしころして、我しなん。」
といふ樣に云ひけるにぞ、娘も恐ろしく、一寸(ちよつと)のがれに、
「いか樣(やう)とも。」
など、だまし、今宵、あふべき筈に云ひおき、
『下女、歸らば、迯やせん。家ぬしへや、斷らん。』
など、おもふうち、持病のしやく、再發して、むな先(さき)、板の如く、齒を喰ひしめ、
「うん。」
と、そりかへりぬ。
藤七は、
「なむ三寶。」
と、下女をよびて、
「やれ、お吉どのが。」
といふより、やどの亭主もかけつけ、さわぎまはりぬ。
藤七、生得(しやうとく)、淫欲ふかきものなるが、さき程より[やぶちゃん注:以前から。]、お吉がこと、よくいひなだめしを、僞(いつはり)とはしらず、欲情、火のごとくおこりければ、看病にかこつけ、
「それ、氣付(きづく)。」
と云へば、自(みづか)ら、口うつしにのませ、後(うしろ)よりだきしめなど、せわしき中に、ひとり、樂しみ居ける内、お吉、少し、人心ちつきて、みれば、藤七、我を抱(いだ)きて介抱する體(てい)。いよいよ、うるさくものはいはれず、只、顏をふり、いろいろするを、さよは、さつして、
「わたしが代りましよ。藤七樣、ちと、おやすみ。」
といへど、藤七、はなさず。
その内、みなみな、歸り、藥などのませて、少しは、しやく、しづまりし樣なれど、舌、すじばりて、呂律(ろれつ)わからず、殊の外になやみけるを、藤七も、誠のなみだをながし、いろいろ看病しけるが、とかく、その夜も、くるしがるものを、とらへ、いろいろ、ばかをつくしけるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、お吉は、氣をもみて、[やぶちゃん注:ここ、以下のシーンとつながりが上手くない。脱文があるか?]
「うん。」
と、のつけに、そりけるが、ふびんや、こと切(きれ)て、むなしくなり、宿のさわぎ、さよがなげき、よりくる人々、
「いとしや、いとしや。」
と計りにて、もはや、灸も通ぜず、次第に冷かへりてければ、此よし、又々、高崎へも追飛脚(おひびきやく)を出(いだ)し、死骸へは、屛風、引廻し、次の間に伽(とぎ)の人もあつまりけるが、皆、他人の水くさゝは、誰(たれ)なげくものもなく、藤七が、噂まじりに高笑(たかわらひ)して居(ゐ)けるうち、高崎の伯父、眞靑になりて、
「隨分、いそぎしが、間にあはざりし無念さよ。皆さまにも、さぞ、御世話。」
と、一禮、云(いひ)て、屛風の中(うち)へはいり、
「やれ、お吉か。かはいや。」
と、かけたるふすまを、まくりければ、こは、けしからず、藤七、お吉が死骸と抱き合(あひ)、前後もしらず、伏し居(ゐ)たり。
伯父も、
「ぎよつ。」
とせしが、
『他國の人の中、なまじいなる事をいひ出しては、外聞あしゝ。』
と、にくさまぎれに、したゝか、つらを、くはせければ、目をまはして、赤面して、迯(にげ)て出けり。
扨、お吉なきがらをば、高崎の寺へ葬り、さよを付(つけ)て、始末をきゝ、後悔すれども、甲斐なき事なり。
此事、湯入(ゆいり)どもより、宿へ吹(ふき)こみ、
「藤七は、ばか者なり。久しく、さしおくは、よろしかるまじ。」
と、宿の亭主、片わきヘよびて、
「そこ元、高崎の客衆の事、以の外の事也。江戶より來りし人々、さよが咄(はなし)にて、不ㇾ殘(のこらず)しりて、『貴樣をうち殺さん』と云へり。お爲(ため)を存じて申間(まうすあひだ)[やぶちゃん注:意味不明。「どうしようもないお前さんのことを、まんず、考えて、好意で申すのだが。]、今日中に、在所へ歸り給へ。」
と、おどしければ、
「よくこそ、しらせ下されたり。」
とて、こそこそと、荷物を拵(こしらへ)、出(で)て行(ゆき)けり。
扨、二、三日すぎて、處の子供、見付出して、
「おくの谷かげに、かの藤七、亂心して、いろいろに狂ひ居(を)る。」
と云ひければ、げん氣なる湯入(ゆいり)ども、
「それ、ぶちころせ。」
とて、二、三十人、
「我(われ)おとらじ。」
と、山へ行けるが、はるかの谷底に、藤七、さばき髮になり、帶も、ときひろげ、下帶もいづ方へおとせしや、所々、血だらけなるなりにて、ばうぜんと居たり。
そばに、大(おほい)なる木の、たをれて朽(くち)たるありし上へ、はひあがりて、女など媾會[やぶちゃん注:「まぐはひ」と当て訓しておく。]する心にや、いろいろ、えもいはれぬ身ぶりをしけるにぞ、みる人、面(おもて)を掩(おほ)ひて、二目と見る人は、なかりけり。
すべて、溫泉ある地は、中にも、山神(やまのかみ)の靈(れい)、いちじるく、婦女など、おかし、あなどるときは、罰を蒙ることあり。ことに、人、死して神靈なり。きたなき身を以て、神靈をけがし、山神を、あなどりし冥罰(みやうばつ)、立どころにむくひて、途中より亂心し、此山中へ入りしものならん。
「さるにても、心がらとはいひながら、むごき事なり。」
とて、だましすかして、山へともなひ來り、山の神へ御わびを申し、又々、入湯させければ、快氣したりけれど、右の恥辱、人の口に留(とどま)りて、在處(ざいしよ)へも、もどりがたく、乞食の樣(やう)になりて、いづちともなく、うせぬ。
若き娘持(もち)たる人、又、わかきものなど、あとさきの勘(かんが)へなく、色に耽(ふけ)るものには、よき禁(いまし)めなれば、怪談といふにはあらねども、記しおき侍りぬ。
[やぶちゃん注:最後に遠慮して但し書きするが、何の! 見事な怪談である!!! 標題は「多欲の人、災(わざはひ)にあふ」である。
「元文年中」一七三六年から一七四一年まで。徳川吉宗の治世。
「江戶中橋」中橋は複数地名に含まれるが、一番知られているのは、中橋広小路か。現在の中央区日本橋三丁目及び八重洲一丁目に相当する。中橋という橋があった。この附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。
「上州屋作右衞門」不詳。
「癪」近代以前の日本の病名で、当時の医学水準でははっきり診別出来ぬまま、疼痛を伴う内科疾患が、一つの症候群のように一括されて呼ばれていた俗称の一つ。単に「積(せき・しゃく)」とも「積聚(しゃくじゅ)」とも呼ばれ、また、疝気(せんき)と結んで「疝癪」などとも称した。平安時代の「医心方」には、陰陽の気が内臓の一部に集積して腫塊を形成し、種々の症状を発する、と説かれ、内臓に悪しき気が過剰に溜まって腫瘤のようなものができ、発症すると考えられていた。癪には日本人に多い胃癌なども含まれたと考えられている(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。
「湯主(ゆぬし)金太夫」伊香保温泉には同名の温泉ホテルが現存する。私も、昔、泊まったことがある。
「三廻(みまは)り」この「まはり」は助数詞で、この場合は祈願・服薬などで、七日を一期として数えるのに用いる。三週間。
「越谷」埼玉県越谷市。
「あぢをやる」気のきいた、味なことが出来る。
「とり廻はし」全体の風体(ふうてい)や物腰。
「小(こ)りゝしき」ちょいと凛々(りり)しい感じで。「小」はいい意味で、「わざとらしくない」ことを添える接頭辞であろう。
「まうけにして」渡りに舟として。ちょうど、いい男手と心得て。
「守(も)り人の隙(ひま)なく」ちょっと意味がとりにくいが、「守り人」は「お吉を守る人」の意で、それが「隙なく」=「ひっきりなしであり」、それで、時に気が緩んで、ちょっと近所に行って世間話がしたくなって、と続くのであろう。本篇、やや表現にこなれない部分が散見されるのが、玉に疵である。
「小したゝるく」「小舌怠く」。物の言い方が何となく(「小」)甘えたような調子であるさま。
「板の如く」非常に気になる発作症状である。この形容は見た目が、硬い板のようなかっちかちになっているか、身体が板状にピンと張ってしまったことを意味するとしか私には思われないからで、通常の「癪」というのは腹部や胸部激しい「差し込み」が発生して、しゃがみこんだり、中腰になって動けなくなることが私の知る限りでは、殆んどだからである。しかし、この表現は寧ろ、重い癲癇やヒステリー患者に見られる、頭と足先だけが床についてそのまま体が弓なりになって硬直する「ヒステリー弓(きゅう)」発作を想起させるからである。私は一つ、彼女の疾患はそうした重度の精神病であった可能性がある。内因・外因・心因かは判らないが、伊香保に来てすっかり平静になったこと、藤七の横暴によって再発したことから、これ自体は心因性のそれであるように思われる。但し、最後の死因は心不全であろうから、もともと(恐らくは先天的に)心臓に重い奇形或いは疾患があったものかとも思われる。
「口うつしにのませ」気付け薬を。
「せわしき」「忙(せわ)しき」。
「いろいろ、ばかをつくしける」所持する活字本は「ばか」は「破家」とある。意味不明。「いろいろ」とあるから、「はか」は「計・量・果・捗」で、「てごめ」にするための「種々の目論見」の意かと考えたが、一方で、これは「破瓜」で、処女を犯して交接することを暗示させているのではないか? とも疑った。この疑いは、最後の藤七の狂態をよく合うからでもある。
「のつけに」このままだと「最初に」だが、一度、発作で昏倒しているのだから、ピンとこない。「乘りつけに」で「上方へ向かって」で、伸び上がるように、急に、また、卒倒したのではないか?
「追飛脚を出し」追加の飛脚。書かれていないが、「さよ」は最初の発作の直後にその知らせを早飛脚で出しているのである。だから、伯父がこの直後にすぐに来たのである。
「かはいや」「可哀そうに」。
「ふすま」「衾」。今の掛布団相当。
「けしからず」「あるまじきことに」・「常識外れにも」・「異様にも」。ハイブリッドでいい。
藤七、お吉が死骸と抱き合(あひ)、前後もしらず、伏し居(ゐ)たり。
「なまじいなる事」異様なことは誰にでもわかることだから、敢えて口にすることは、事態を悪化させると考えたのである。
「くはせければ」殴ったところ。
「湯入ども」藤七のことを前から知っていた常連の湯治客。
「宿へ吹(ふき)こみ」宿の者に聞えよがしに批判を吹聴したのである。
「江戶より來りし人々、さよが咄(はなし)にて、不ㇾ殘(のこらず)しりて、『貴樣をうち殺さん』と云へり」これは金太夫の懲らしめのための作り話である。すんなり出払ってもらうための嚇しである。さればこそ、敬語がふんだんに使われていても、所謂、「慇懃無礼」そのものなのである。
「下帶」褌(ふんどし)。
「なり」「形(なり)。
「ばうぜん」「呆然」。
「そばに、大なる木の、たをれて朽たるありし上へ、はひあがりて、女など媾會する心にや、いろいろ、えもいはれぬ身ぶりをしける」ここが本篇の肝(キモ)の部分である。いいね!
「いちじるく」(その山の神の霊力は)想像を絶して激しく猛く。
「ことに、人、死して神靈なり」殊に、人であっても、亡くなれば、それは神霊となるのである。
「山へともなひ來り」彼が狂乱していたのは谷陰であった。]
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