南方熊楠を触発させて「四神と十二獸について」を書かせた八木奘三郎の論考「四神の十二肖屬との古𤲿」
[やぶちゃん注:南方熊楠の「「四神と十二獸について」を電子化注するに際して、これは別の人物の論考に触発されたものである故に、その原論考を先にここで示すこととする。
その原論考は、熊楠が冒頭で述べるように、大正三(一九一四) 年一月二十日発行の『人類學會雜誌』(第三十四巻六号)に載った、八木奘三郎(やぎそうざぶろう)の論考「四神と十二肖屬の古𤲿」である。「肖屬」(せうぞく(しょうぞく))とは「見える姿として象形された諸像」の意であろう。
筆者八木奘三郎(慶応二(一八六六)年~昭和一七(一九四二)年:南方熊楠より一つ年上)は考古学者。江戸青山(現在の東京都港区青山北町)で丹波国篠山藩(現在の京都府内)藩士の子として生まれた。明治二四(一八九一)年、帝国大学理科大学人類学教室に、標本取り扱い係として雇用され、坪井正五郎や若林勝邦らから教示を受けた。明治二七(一八九四)年、千葉県香取市の阿玉台(あたまだい)貝塚を発掘調査したが、この時、同貝塚から出土した縄文土器(阿玉台式土器)が、茨城県稲敷郡美浦村の陸平貝塚出土の縄文土器とは同じ形式だが、東京都品川から大田区にかけての大森貝塚出土の土器とは異なる形式であることに気づき、阿玉台・陸平(おかだいら)両貝塚の土器と、大森貝塚の土器との形式的な違いを、年代差によるものであると結論し、八木は大森貝塚の土器の方が年代的に古く、阿玉台が新しいとする編年を考えたが、その後の研究では順序が逆であることが判明している。しかし、「考古学黎明期であったこの時期に、この見解を導きだしたのは非凡である」という考古学者江坂輝彌による評価がある。明治三五(一九〇二)年、台湾に渡り、台湾総督府学務課に勤務し、大正二(一九一三)年には朝鮮半島に渡り、李王家博物館・旅順博物館・南満州鉄道に勤務した。昭和一一(一九三六)年に帰国して阿佐ヶ谷に住んだ。縄文時代だけでなく、朝鮮半島の古代遺物や古墳時代に関しても、多くの研究業績があり、徳富蘇峰と交流があった(以上は当該ウィキに拠った)。
底本は「J-STAGE」のこちらの原本画像(PDF)を視認した。基本、ここでは極力、必要と思われた部分(難読と判断したもの及び別論文や一部の不審を持った書名や不審・意味不明箇所など)以外には注を附さないこととする。そうしないと、何時まで経っても、本来の目的である熊楠の論考に移れないからである。なお、八木氏の表記は南方熊楠と似て、句点が甚だ少ない。また、頻繁に登場する「玄」は最終画のない「𤣥」であるが、この活字は私が生理的に嫌いなので、総て「玄」で表記した。傍点「●」は太字に代えた。引用の一部には不審があったため、原本等を確認して訂した箇所があるが、特にそれは指摘していない。初出と対応させれば、自ずとそれはお判り戴けることと思う。]
○四神と十二肖屬との古𤲿
八木奘三耶
[やぶちゃん注:以下の序辞は底本では全体が一字下げである。]
左の一篇は予が滿洲歴史地理學會の發會式に際して講演せしものなり、固より咄嵯の記述なるが上に資料乏しきを以て其詳細を盡すこと能はざれ共之を棄るは又鶏肋の感なきにあらず、因て本誌に掲げて看者の一粲に供せり、若し多少益する所あれば幸甚なり。
[やぶちゃん注:「鶏肋」「後漢書」楊修伝による故事成句。鶏の肋(あばら)骨には食べるほどの肉はないが、捨てるには惜しいところから、「たいして役に立たないが、捨てるには惜しいもの」の喩え。「一粲」は「いつさん(いっさん)」。「粲」は「白い歯を出して笑うこと」。一笑。謙辞。]
予は本日四神と十二肖屬との古書に就て述んとする考へなるが、元來此二者は俱に支那に發源して更に近隣諸國に移りし風習なれば、其本源を知るには是非とも同國の上代に溯りて硏究せざるを得ず、因て先づ四神と十二肖屬との起源、及び其ものゝ意義、幷に用途等に就て大體の要點を述べ、次に實物上の種類變化等をも說ん[やぶちゃん注:「とかん」と訓じておく。]と欲す。
(一) 四神の名稱と意義
支那にて四神と稱するは、玄武、朱雀、靑龍、白虎の四者にして、之を天地四方に配屬せしものなり、而して朱雀の赤き雀、靑龍の靑き龍、白虎の白き虎たることは此文字上にて既に明かなれども、玄武の文字は不明なり、而も右は「和漢名數」[やぶちゃん注:貝原益軒編の和漢の命数集成。但し、ここで引かれいるのは、その続編(上田元周重編)で、早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちら(PDF)の17コマ目の左頁の「○四神相應の地」に出る。]に朱子の語を引て。
玄武謂二龜蛇一、位住二北方一故日ㇾ玄、身有二鱗甲一、故曰ㇾ武。
とあれば、其身體に甲冑の如き鱗甲ある爲め斯く名けたる譯にして、他の鳥獸名とは異るを知る可し、而して何故四神に⑴龜蛇、⑵雀、⑶龍、⑷虎の四者を表せしやと云ふに、斯は天體の星形に象れりとの說やり、今其一例を曰んに。
伊藤東涯の制度通に。[やぶちゃん注:「制度通」は中国の制度の沿革及び、それに対応するところの本邦の制度との関係を各項別に記述した歴史書。儒学者伊藤仁斎の長男であった儒学者伊藤東涯(寛文一〇(一六七〇)年~元文元(一七三六)年)の著。成立は享保九(一七二四)年。]
[やぶちゃん注:以下の引用は底本では全体が一字下げ。]
蒼龍、朱雀、白虎、玄武ヲ四神相應ト云テ四方ニカクノゴトヰ鬼神ノ象アリト思フハ謨リナリ、本二十八宿ノ星象(卽ち形狀なり)ヨリ起ル、王者ハ天ニ體シテ行フニヨリテ、旗常ニコノ紋ヲ繪ガヰテ四方ノ星象ニカタドル、角・氐・房・心・箕・[やぶちゃん注:中黒はママ。]ノ七宿ソノ並ビヤウ龍ノ如シ、斗・牛・女・虛・危・室・壁ノ七宿ジノ並ビヤウ蛇ノ龜ヲマトフガ如シ、奎[やぶちゃん注:「けい」。]・婁・胃・昴[やぶちゃん注:「ぼう」。]・※・觜・參ノ七宿ソノ並ビヤウ虎ノ形ノ如シ、井・鬼・柳・星・張・翼・軫[やぶちゃん注:「しん」。]ノ七宿ソノ並ビヤウ短尾ノ鳥ノ如シ、是ヲ四方ノ色ニ配シテ蒼龍、朱雀、白虎、玄武ト云ナリ、ソノ詳ナルヿ[やぶちゃん注:「事(こと)」の約物。]爾雅釋天ノ疏ニアリ、云、四方皆有二七宿一、各成二一形一、東ハ成二龍形一、西方成二虎形一、皆南乄[やぶちゃん注:「シテ」の約物。]ㇾ首而北ㇾ足、南方成二鳥形一、北方成二龜形一皆西ㇾ首而東スㇾ尾。
[やぶちゃん注:「※」=(上)「已」+(下)「十」。「畢」の異体字。]
とあり、以て四神の由來と首尾の方向とを知る可し、然れども四神の名稱は漢以前の書に見へざれば、同代に此稱呼ありしや否やは明かならず、又其起源も初めより四者一時に生ぜしや否や判然せず、爾雅には春爲シ二蒼天一、夏爲二朱明一、秋爲二白藏一、冬爲二玄英一、とありて、此書は世に周公の作と稱すれば一見周初已に四季を四色に配せし事あり、隨て四神の四色も甚だ古く、又祖其起源(四神の)も周代に在らんかと思はるれども、其實爾雅は漢初の作ならんと云ふ說ありて、之を周初とは斷ず可からず、又尙書以下の書を按ずるに、五行の水・火・木・金・土を中央及び四方に配し、又木・火・金・水を東・西・南・北・春・夏・秋・冬に當てしことは書經、樂記・管子以下の書に見ゆれども、靑・赤・黑白の色を曰はず、唯だ周禮に方位と色とを記せし例あり、然れども此書世に漢儒の作と稱せらるれば、隨て爾雅の如きも、其漢初に出しことは略ぼ推測するに足る可く、又色と方位、色と四神名との起源も彼の漢代に在ることを察するに足る可し、而して四神の圖象も亦多くは僥代の器物上に創まれり[やぶちゃん注:「はじまれり」。]、但し秦瓦[やぶちゃん注:「しんぐわ(しんが)」。]と稱する瓦當[やぶちゃん注:「ぐわたう(がとう)」。軒丸瓦(のきまるがわら)の先端の円形又は半円形の部分。文様のある面。]中に四神を配せし例[やぶちゃん注:「れい」。]金石索に見ゆ、去れ共此もの果して秦代なりや、又右の圖が四神に相違なきや、是等の點甚だ疑はしき爲め今採らず、又史記の始皇本紀に
[やぶちゃん注:以下の引用は、底本では全体が一字下げ。]
始皇推シ二終始五德之傳一、以爲下周得二火德一、秦代ㇾ周、德從上所ㇾ不ㇾ勝、方今水德之始ナリ(中略)衣服、旌旗、節旗皆上ㇾ黑。
と記すれば水德と黑、水と北方との關係上方位と色彩との結合は已に泰代に行はれし有樣なれ共、是等は根本資料を明にする必要あり、又假令右が秦代に在ること疑ひなしとするも、猶周代の分は不明なり、故に予は其確實と信ずる點に從ひて漢代と云へり。
(二) 十二支の起源と右の意義
次に十二支の起源と其意義とを曰んに、斯は十干と相伴隨せること常なれば、便宜上二者併せ說くことゝなす可し。干支の原委を說て遺憾なしと云ふ書は世上多から
ざるが如し、而も予の知る所にては「淵海子平」[やぶちゃん注:現行の占いの四柱推命の元である宋の徐子平暦(九六〇年~一二七九年)撰になる算命学的易学書。]の記事尤も細密なるを覺ゆるにより先づ之を擧ぐ可し。
同書「論二天干地支所一ㇾ出」の章に曰く。
[やぶちゃん注:以下の引用は、底本では全体が一字下げ。]
切ニ以ルニ、奸詐生ジ、妖怪出ヅ、黃帝ノ時有ニ有テ二蚩尤神一、擾亂ス、當二是之時、黃帝甚憂ヒ二民之苦一、遂戰ヒ二蚩尤於涿鹿之野一、流血百里、不ㇾ能ㇾ治ルコトㇾ之。不ㇾ能ㇾ治ルコトㇾ之、黃帝於ㇾ是齋戒、築テㇾ壇祀リㇾ天、方ニシテㇾ丘禮スㇾ地ニ、天乃降ス二十干、十二支一、帝乃將テ二十干ノ圓一、布テ象二天形一、十二支ノ方ハ布テ象リ二地形一、始以ㇾ干爲シ天、支爲シㇾ地、合テ二光仰職門一、放ツㇾ之、然後乃チ能ク治ムル也、自後有二大撓氏一、爲二後人一憂ㇾ之曰、嗟吁黃帝ハ乃聖人ナリ、尙不ㇾ能ㇾ治二其惡煞一、萬一後世見ㇾ炎、被ラバㇾ苦、將タ何奈乎セントスル、遂に將タ二天干十二支一、分配シテ成スト二六十甲子一云。[やぶちゃん注:「布テ」「しきて」か。]
此書の記事によれば十干、十二支は天降物の如くなれども、是等は彼の河圖洛書[やぶちゃん注:「かとらくしよ」。古代中国に於ける伝説上の瑞祥とされる河図(かと)と洛書(らくしょ)という超自然的現象を総称したもの。「河」は黄河、「洛」は洛水を表す。易の八卦や洪範九疇の起源とされている。]と同樣信するに足らず、又其起源を黃帝とするは支那事物起源の通弊なれば採る可からず、而も十干を天圓と云ひ、十二支を地方と稱することは他書の謂はざる處にして、稍や面白き點なり、何となれば十二支を地方に表せし例は漢代の古鏡と璧の一種及び其記事等に往々散見すればなり、併し孰れにしても此干支の論は採る可からず、寧ろ事物起源に擧ぐる所却て正しかる可し、同書に曰く。
[やぶちゃん注:以下同前。]
甲子。世本日、大撓造ルト二甲子一、呂氏春秋曰、黃帝師ス二大撓一、黃帝内傳曰、帝既斬リ二蚩尤一、命ジテ二大撓一造リ二甲子一、正ㇾ時、「月分章句醫曰、大撓探リ二五行之情一、占二斗剛ノ所ヲㇾ建、於ㇾ是始作テ二甲乙一、以名クㇾ曰、謂フ二之幹一、作二子丑一[やぶちゃん注:底本は「ㇾ」。後文から誤りと断じて訂した。]以名ㇾ月、謂二之支一、支幹相配シテ以成二六旬一。
此記事の圓文は別に論するの價値なしと雖も、月介章句に「作二甲乙一、以名ㇾ曰、作二子丑一」と云ふ語は頗る正確なるが如し、何となれば十干の數は元來十進法にして十位を整敎とすれば、日數に當てし名に相違なく又十二支の數は一年十二ケ月より來れるにより十二敷と定まれるに相違なし、而して月令に「占二斗剛ノ所ㇾ建ス一、於ㇾ是始作二甲子一以名ㇾ曰、作二子丑一以名ㇾ月」とあるによれば、一旬卽ち十日の數も、一年十二ケ月の數も俱に北斗の劍先が運行する工合によりて命名せしが如くに思はれ、又十二支は月の出が大抵三日目より見ゆるにより(二日目より見ゆる事もあれど)其日より數へて十四日迄を十二に當て、滿月の十五日は盈虛の中心に置きし樣にも思はるれども、元來支那の天文曆數等に就ては予輩門外漢の容易く知り得ざる點あり、隨て其孰を孰れとも決し得ざれ共、何にせよ十干が日數より出で、十二支が月數より生ぜしことは略ぼ推測し得らる可く、又彼の淵海子平に十干を天圓に出で、十二支を地方に出ると云ふ事は、其起源說としては的中せざることを知る可し。(但し應用の古きは事實なり)
次に十二支に十二獸名を當てしことは彼の事物起源に事始を引て。
黃帝立二子丑十二辰一以名ケㇾ月、又以二十二名獸一 屬スㇾ之。
とあれども、之は支那人側の解釋にて、實は印度の十二名獸が支那に移りて彼の十二支と結合せるが如し、斯は宿曜經なぞに記載しあれども、巳に我邦人の言明せし文章あれば、次に之を述ることゝなす可し。
山岡俊明の類聚名物考に曰く。
[やぶちゃん注:以下同前。]
飜譯名義集に、「此十二支ノ法ハ二爲中渠之達觀一也、と見ヘたり、經には鼠・牛・虎・兎・龍・蛇・馬・羊・猿・鷄・狗・猪の文字を用ゐ、此十二物は大權の聖者にして、年・月・日・時に四天下を巡りて同類形の衆生を濟度す」と說けり、此の十二獸の名を支那にて古く用ゐ居たる子丑等の字に配當したるを以て我國にて、ねうしの訓を充てたるなり。
山岡の說は當時に於て卓見と謂ふ可く、彼の鼠、牛以下の獸名は確に印度傳來に相違なく、夫が支那の子丑寅卯と結合せしことは疑ひなかる可きも、此點に就ては猶硏究の餘地あるにより、右は後に說くことゝして以下五行の起源と配置とを一言す可し。
(三) 五行の起源
支那に於ける五行の記載は書の洪範に見ゆる文を以て始と爲す、然れども其實由來の古きことは二典に五嶽を置き、五歲に一度巡狩し、又五典、五常を敎へ、五刑を備へ、其他五瑞、五玉を班ち、五岐を修むるなど云へる事は皆な五行の思想を示すものなり、又居所に四門を設け、國に四岳を置くが如きも、皆な五數より來るものにて、中央の己れも其數に加はる事は明かなり、已に二典時代に斯る思想の見ゆる以上は假令五行の名なしと雖も其實ありしことは疑ひなく、隨て洪範にも箕子が「我聞ク在昔(ムカシ)[やぶちゃん注:二字へのルビ。以下の二箇所も同じ。]、※陻(フサ)ギ二洪水一、汨(ミダ)シ二陳ブ其五行一、(天帝)乃震怒シ」[やぶちゃん注:「※」―「魚」+「糸」。]云々と云へるならん、巳に支那最古の文章と稱せらるゝ二典(近來此文章を若く見る人あり、未だ其詳細を聞かざれども別に確證ありとも思はれず、且つ現存の他書を二典已前に當る次第にもあらざれば其最古たる點は動かざるなり)以下に五行思想の現はるゝ以上は今假に其起源を知ること能はざれども、年代の悠久なる點は疑ふ可からず[やぶちゃん注:ここ、行末改ページで句読点なし。]從て支那の漢民族は、天地・四方・上下・大小凡てのものに此の五行を配當して喜び居れり、例せば天に五星を置き、地に五嶽を設け、人に五倫を備へ、河に五色の河を置き、爵に五等を設け、罪に五逆を定むるが如く數ヘ來れば、殆んど際限なく、先づ天地萬物を此五行上にて律せんとする形迹を示せり、而して何故斯く五數を重んぜしやと云ふに、其起源は恐らく手指の數より來れるならん、此事は人類學上の硏究に涉れば絃には別に述べざる可きも、古く漢民族の用ひ居たる事物配合の數は甞て重野博士[やぶちゃん注:漢学者・歴史家で、日本で最初に実証主義を提唱した日本歴史学の泰斗にして日本最初の文学博士の一人である重野安繹(やすつぐ 文政一〇(一八二七)年~明治四三(一九一〇)年)か。]が結繩時代の遺風ならんと云はれしこと有り、乃ち彼の書經以下に見へたる、十二牧、九州、九族、八卦、七政、五行、三才なぞ云へる數は果して太古結繩の遺風に基くや否やを知らざれども、之を人類學上より見れば或は然らんかとも思はれ、又陰陽の二者は日月より來り三才は夫婦子供若くは祖父子より來り、五行は手指の五本より來りて、其後右の意義に哲學上の高尙なる論說を當て箝め[やぶちゃん注:「はめ」。]、以て時代精神に隨伴せしむるに至りしものならんと考ふ、然れども斯る事物の配合數は印度にもあり[やぶちゃん注:行末改ページで句読点なし。]例せば彌陀に三尊あり、佛に三寶あり、法身に三身あり又塔に五輪ありて地水火風空を表し、如來に四天王ありて四隅を守り、其他國に五天竺あり、天人に五衰あり、殊に天體には五星・七曜・九星・十二宮・二十八宿の類ありて、殆んど支那と一致せる點あるを見る、是等は世界民族閒に起る隅然の暗合もあらんが其特種の類に至りては決して右の如く斷ずること能はず、殊に天文學上の事柄、原素上の種類等に至りては必ずや一の本源地ありて夫れより四方に傳派せしに相違なし、但し此天文學上の一致は新城博士[やぶちゃん注:天文学者・中国学者で理学博士であった新城新蔵(しんじょうしんぞう 明治六(一八七三)年~昭和一三(一九三八)年)であろう。京都帝国大学総長で名誉教授。専門は宇宙物理学と中国古代暦術というハイブリッドな研究者であった。]の說によるに春秋戰國の頃支那より印度に渡り、更に中央亞細亞に傳播せしならんとの事なるが、予輩考吉學上の硏究結果によるも、支那と其の西南部諸國との交通は豫想外に古きにより、同氏と似よりの結論に達することは敢て難事にあらざる可し。
(四) 四神と十二肖屬との遺品
以上干支五行の說は極めて大略なれども、支那の事物硏究上には頗る有用なるに依り參考の爲め申述し次第なり、次に實物上に就て曰んに、支那に於て、四神、十二支を物體上に現はせしは碑石以下諸種の品にあれ共、其古くして且つ多きは鑑鏡の類なるが如し、此鏡の論は他日別に詳說す可きに依り、本日は單に其中の四神と十二支とのみを曰んに、支那の鏡鑑は人文の大に發達せし漢代の作品甚だ精巧にして、且つ最古に屬するが如し、而して其數も割合に多ければ當時の思想を窺ふには便宜ある次第なるが、今是等の品を見るに方形のもの絕無にして必ず之を圓形に造りしは一に天圓に象りしに相違なし、世には秦の方鏡を報じ、又漢の方鏡として其圖を揭ぐるものあれども信ずるこ[やぶちゃん注:ママ。「に」の誤植であろう。]足らず、當時は凡て圓形と見て可なり、而して古書によるに鏡は初め月に象りしとか或は日に象りしとか云へど、其背面の紋樣より考ふれば天圓と見るが穩當なる可し、去れば地方は多く鈕の周圍に示して天の地を覆ふ有樣を示せり、又其紋様なる四神十二支の如きは最初星形にて表せしにより、世人は之を乳と呼びて星と解せざれども、其實右は星を現はせしに相違なく、隨て四神は俗に四乳鏡と稱する四星を以て之を表し、中央の鈕を加へて五行の意味を明にせし實例多く之れ有り、其他七曜・九曜等も見へ、中には工人が無意義の數を示せし類もあれど、大抵は規則正しく之を現せり、而して十二支は初め鈕の周圍に十二個の乳を置しが、後には右に滿足せずして文字を加へ、更に一轉して帶外に十二肖屬を示すに至れり、此風は四神も亦同樣にて星外に圖象を示し、又乳と併せ圖せし例もあり、次に是等の四神と十二肖屬とを墳墓の棺槨[やぶちゃん注:「くわんくわく(かんかく)」。遺体を納める柩(ひつぎ)。]に書き、或は後者を人體形に變化し始めたるは何時頃なりやと云ふに、其起源は不明なれども、周代は諸侯、大夫の棺に雲氣を書𤲿くのみにて他の圖容なければ無論其風の行はれざりしを知る可く、漢に至て四神の描寫を初めたるが如し。
漢書董賢傳に日く。
[やぶちゃん注:以下、同前。]
董賢自殺伏スㇾ辜、死後父恭不ㇾ悔ㇾ過、乃復以二硃砂一𤲿ニ棺四時之色一、左蒼龍、右白虎、上著二金銀日月、玉衣、珠璧一。
董賢は前漢哀帝の臣にて、大司馬衞將軍の職に昇りしものなれば、四神を棺表に𤲿くことは古く前漢時代に行はれしことを知るに足れり[やぶちゃん注:董賢の生涯については当該ウィキを読まれたい。]、然れども當時の遺品は世に傳はらず、其今日に知られたる類は多く六朝以後の例なるにより、右の盛行せしは恐らく後漢より三國時代に在らんか、蓋し支那の古墳沿革は他日別に說く可きも、其六朝時代に屬する壁書の古墳は今日朝鮮の大同江兩岸又は扶餘地方、猶古き分は鴨綠江岸の通溝、卽ち高勾麗の舊都等に存在せり因て右の大略を曰んに、是等の古墳中、石槨内面の構造蛇腹式屋根形のものには往々四神の像あり、今其小地名を擧んか、大同江岸の分には平安南道の江西及び鶴林面、具池洞、梅山里、延東里、又は平讓の北方處々に在り、扶餘地方は僅に一個所に過ぎざれ共、猶將來發見の見込なしとせず、面して是等は朝鮮の三國時代、卽ち高勾麗、百濟、新羅等割據の時代にして支那は六朝頃に當れば、常時此國に右の風習盛行せしことは明かなり、猶右の中には支那の唐代卽ち新羅統一時代に屬するものもあれば、爾後連續せし有樣なるも、其の四神形は高麗に入りて壁𤲿に迹を絕ち、專ら石棺彫刻の上に遺風を留めたり。
以上述るが如く、支那にて棺面に四神を𤲿くことは前漢に始り、而して後漢書にも、木棺の表面に「鳥、黿[やぶちゃん注:「げん」。鼈に同じい。]、龍、虎」を書くことを記するにより、爾後漸次に發達し來りし迹を知れども.、其遺品の存否は不明なり、唯だ實物上にては鏡鑑に其類多く、又作柄の大にして且つ着色の鮮麗、運筆の奇拔なるは六朝時代に屬する古墳壁𤲿の外、他に見ること能はざるなり。
次に十二肖屬は四神と同樣鏡背に表示せし例最も古く、次は石棺彫刻の類なれども、之を人體形に𤲿きたるは支那の起源明かならず、併し朝鮮にては新羅統一時代に行はれしにより、唐代の盛行は略ぼ推測するに足れり只だ其已前に在りや無しやは今日未だ決定し居らざるなり、去れ共此時代に至りては朝鮮の文化も非常に進み、且つ交通頻繁となりて、唐風模倣の流行甚だしかりしにより、或は彼の風と新羅の風とは時期に大差なかりしやも圖られざるなり、若し然りとせば十二支の人體化は一に唐代に在りと謂ふも不可なかる可し、但し四神と十二支とは星形時代に於ては別に前後の隔りなきも、之を古墳に表せし點より見れば大差あり、卽ち四神描寫の時代には未だ十二肖屬の類[やぶちゃん注:「たぐひ」。]世に現はれず、反之て[やぶちゃん注:「これにはんして」。]十二肖屬の行はれし頃は四神の風漸次衰へたるが如し、但し此十二肖屬の人體化は最初首丈を鳥獸形に示し、身體のみを人間風となせしが、高麗卽ち五代以後に至りては、此全部を人間形となし、冠上の中央前立の邊に舊鳥獸形を表することゝなせり、今實例を擧げて之を日はゞ、朝鮮の慶州地方に存する王陵若くは金庾信の墓に存する腰石の浮彫り、又は墓中より出る小形の彫刻坐像は凡て前者に屬し、又開城附近に存する王陵の壁書及び石棺彫刻の分は後者に屬せり[やぶちゃん注:「金庾信」(キムユシン 五九五年~六七三年)は三国時代の新羅の将軍で新羅の朝鮮半島統一に最大の貢献をした人物として知られる。]、猶此十肖屬を墓側に立てし例は日本にもあり、卽ち奈良の元明天皇陵より出し七疋狐と稱するものは其類にて、本來は十二支の殘石なれども全部完備し居らざりしと、又偶ま狐に類する兎、狗の類殘れる爲め斯く傳稱せしものゝ如し、併し是等は人間風に立ち又は坐せし點のみが眞物と誤る譯にて手足と面貌とは猶ほ舊形を失はざるなり、去れば人體化の例としては確に古式を示すものにて、其類は未だ他國に見ること能はず[やぶちゃん注:読点なし。]故に學問上に取りてに實に得難き好資料と稱するを得可し。
(五) 結 論
以上述るが如く干支と四神とは支那の漢族間に發生し、其或ものは印度の古傳と結合せしも、本源は一に天體より出るが如く、又後世流れて各般の事物に應用せられし類には遂に人間化せしもあり、然れ共四神は龜蛇虎鳥の形體を變ずること能はず、十干は名稱以外に鎚化せず、單に十二支のみ數傳せしが、其源に溯れば文字以外の表示としては四神と十二支とは初め星形を用ひられ、後に鳥獸及び虫形と變ぜしなり、而して此類の智識が最初支那より印度に傳はれるや否やは、今俄に決すること能はざれども、其十二支に鼠、牛、虎の類が印度より流傳し、之に依て繪𤲿上に現はれしとすれば、其實例は夙に漢鏡に見ゆるにより、由來甚だ古きを知る可く、又其ものゝ日本、朝鮮等に流傳して種々變化し行く狀態を見れば、單に藝術上の巧拙を知る外に、思想上の異同と、應用上の如何とを知る媒[やぶちゃん注:「なかだち」。]ともなれば、其硏究上大に興味あるものと、云ふ可し。
已上は大略なれども本題の起源、沿革等を述べ盡せるにより、本日は之にて終結とす可し。
附言 講演の際は種々の材料を示せしも本誌には皆な之を省略せり。
[やぶちゃん注:最後の附言は、底本では全体が一字下げで二行に渡る。]
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