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2021/03/20

大和本草卷之十六 海獺(あしか/うみをそ) (絶滅種ニホンアシカ)

 

海獺 海中ニアル獸ナリ和名アシカ又ウミヲソ本艸

綱目載タリ獺ノ形ニ似テ大也長四五尺體ハ長サニ比

スレハ小ナリ獺ノ形ニ似テ長シ頭モ如水獺遍身毛

アリ腹ニモ毛アリ毛ノ長三分許口小トガル齒ハ如犬

牙耳甚小ナリヒゲアリアラシ腹ニハ足ナシヒレ二アリ

テ廣ク長クウラニ皮アリ足ノ如ナリ尾ニモヒレアリ岐

アリテ兩ニワカル腹ノヒレヨリ廣ク爪各五アリ爪アル

所ノ先指ノ如クニワカルサキ小ク薄シ足ニハアラス是

モウラニ皮アリ岐ノ中間ヨリハ短シ獸ノ尾ノ如シ尾ノ

ヒレハ水カキナリ足ノ如シ海中ニテ立テハ半身ハ水上

ニアラハル身ハ水獺ノ如ク柔ニ乄囘旋スルコト自由ナ

リ海邊陸地ニ上リテ𪾶臥ス海人コレヲトル本艸ニ其性

ヲノセス大抵水獺ト性同カルヘシ

○やぶちゃんの書き下し文

海獺(あしか/うみをそ[やぶちゃん注:右ルビ/左ルビ]) 海中にある獸なり。和名「あしか」、又、「うみをそ」。「本艸綱目」に載せたり。獺〔(かはをそ)〕の形に似て、大なり。長さ、四、五尺。體は、長さに比すれば、小なり。獺の形に似て、長し。頭も水獺〔(かはをそ)〕のごとく、遍身、毛あり。腹にも、毛あり。毛の長さ三分許り。口、小し、とがる。齒は犬の牙〔(きば)〕のごとし。耳、甚だ小なり。「ひげ」あり、あらし[やぶちゃん注:「粗(あら)し」。疎らであることを言っていよう。]。腹には、足、なし。「ひれ」、二つ、ありて、廣く長く、うらに、皮、あり。足のごとくなり。尾にも、「ひれ」あり。岐(また)ありて、兩〔(ふたつ)〕にわかる。腹の「ひれ」より、廣く、爪、各〔(おのおの)〕五つあり。爪ある所の先(さき)、指のごとくに、わかる。さき、小さく、薄し。足には、あらず。是も、うらに、皮あり。岐(また)の中間よりは、短し。獸の尾のごとし。尾の「ひれ」は「水かき」なり。足のごとし。海中にて立てば、半身は水上にあらはる。身は水獺〔(かはをそ)〕のごとく、柔らかにして、囘旋すること、自由なり。海邊〔の〕陸地に上〔(のぼ)〕りて、𪾶臥〔(すいぐわ)〕す。海人、これを、とる。「本艸」に其の性〔(しやう)〕をのせず。大抵、水獺と性、同じやるべし。

[やぶちゃん注:これは確実に「大和本草卷之十六 海驢 (トド 或いは 絶滅種ニホンアシカ)」で同定候補として出した、既にヒトが絶滅させてしまった、

哺乳綱食肉(ネコ)目イヌ亜目鰭脚下目アシカ科アシカ亜科ニホンアシカ Zalophus japonicus

で完全同定される。ダブるのは何ら問題ない。何故なら、先のそれは漢籍から引用して、益軒が勝手に別立てして机上で考証したものに過ぎないからである。また、場所的に問題はあるが、トドも別候補として出してある。

 当該ウィキから引く。『北はカムチャツカ半島南部から、南は宮崎県大淀川河口にかけて』、『北海道・本州・四国・九州の沿岸域、伊豆諸島、久六島・西ノ島・竹島などの日本海の島嶼、千島列島、南樺太、大韓民国(鬱陵島)などに分布していた』。『さらに、古い朝鮮半島上の記録によると、渤海と黄海から東岸を含む広範囲に見られたとされる』(★☜★これは実は「大和本草卷之十六 海驢 (トド 或いは 絶滅種ニホンアシカ)」で私がニホンアシカ同定の有力な証拠の一つとしたものである)。『繁殖地は恩馳島・久六島・式根島・竹島で確認例があり、犬吠埼・藺灘波島・大野原島・七ツ島でも繁殖していたと推定されている』。『太平洋側では九州沿岸から北海道、千島、カムチャツカ半島まで、日本海側では朝鮮半島沿岸から南樺太が生息域。日本沿岸や周辺の島々で繁殖、特に青森県久六島、伊豆諸島各地(新島』『、鵜渡根島周辺、恩馳島、神津島)、庄内平野沿岸』、『アシカ島(東京湾)、伊良湖岬、大淀川河口(日向灘)なども生息地であった。三浦半島、伊豆半島(伊東、戸田・井田)、御前崎等にも、かつての棲息を思わせるような地名が残っている』。『縄文時代以降の北海道・本州・四国の遺跡で骨が発見されていることから、近年までは日本全国の沿岸部に分布していたと考えられている』。体長は♂で平均二・四メートル、♀で推定一・八メートル、体重は♂で平均四百九十四キログラム、メスで推定百二十キログラム。でアシカ属では最大種であった。アシカ属カリフォルニアアシカ Zalophus californianus と比較すると、体長で十%、体重で約三十%以上は大型であった。一方で、『外部形態や体色での判別は困難とされ』、『上顎の頬歯が』一『本ずつ多い傾向があ』ったという。♂は『全身が暗褐色で、頭頂部が隆起し』、『体毛が白化する』が、♀は『灰褐色で』、『背筋は暗灰色』であった。『カリフォルニアアシカの亜種とされることもあった』が、1950年に『奥尻島で発掘された頭骨を用いた比較から、大型であることや歯列から』一九八五年に『独立種とする説が提唱されている』。『遺跡から発掘された四肢の骨のDNAの分子系統解析から、カリフォルニアアシカとは』二百二十万年前に『分岐したと推定されている』。沿岸から二十『キロメートル以内の沿岸域に生息していた』。『竹島繁殖個体群は繁殖後に回遊』(同島個体群は韓国の竹島占有によって絶滅した)、『もしくは季節移動を行っていたと考えられている』。『同所的に分布するキタオットセイやトドと比較すると、大規模な回遊は行わない』。『ハダカイワシなどの魚類、ホタルイカなどの頭足類を食べていたと考えられて』おり、『死因として』は『天敵のシャチやサメ類、病原としてはフィラリア症、皮膚病、腸内寄生虫が挙げられている』。『婚姻様式は一夫多妻』で、五~六月に『交尾を行い、竹島では』四~五月に『集合し』、七~八月に『離散していた』。一回に一頭の『幼獣を産』んだ『と考えられている』。『生息環境として岩礁や海蝕洞があり』、『繁殖活動は繁殖期に限られた繁殖場でのみ行う特性であった』。『別名としてアジカ・アシカイオ・ウミオソ・ウミヨウジ・ウミカブロ・クロアシカ・トド・トトノミチ・ミチなどがある』。『小野蘭山の「本草綱目啓蒙」などから』は、『日本海側では本種がトドと呼称されていた可能性もある』(★☜★これも「大和本草卷之十六 海驢 (トド 或いは 絶滅種ニホンアシカ)」で私がニホンアシカ同定の有力な証拠の一つとしたものである)。『日本近海では』百六ヶ所のアシカ(三十五ヶ所)・トド(七十一ヶ所)の『名のつく地点が存在する、あるいは過去に存在していた』が、これらの『アシカとつく地点は銚子市以南日南市以北の太平洋岸および瀬戸内海、トドとつく地点は北海道岸・大船渡市以北の太平洋岸・島根県までの日本海岸に分かれる』。『トドとつく地点に関しては種トドの繁殖地と異なる地域(トドの繁殖地は北海道以北)が含まれること、日本海側で本種がトドと呼称されることもあったことから、本種が由来となっている可能性もある』(★☜★同前)。一九九一年の「環境庁レッドデータブック」で「絶滅種」と『判定された』。『これに対し』、二〇〇八年の時点では一九七四年の捕獲例など、五十年以内の生存報告例(「環境庁レッドデータブック」では過去五十年以上の信頼出来る生息情報がないものを「絶滅種」と評価する)が『あることから、絶滅種には該当しないとする反論もある』。『最後の生体発見例(後述)がある礼文島においても狩猟が盛んであった』。『江戸時代に執筆された』「和漢三才図会」には、『肉は食用には適さず、油を煎り取っていただけであると記されている』(私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 海獺(うみうそ) (アシカ類・ニホンアシカ)」を参照のこと)。『油脂は身を煮沸して抽出し、そのまま使用する以外にも石鹸や膠などの原料にも用いられた』。二十『世紀に入ってからは、必要部位を取り除いた後に残った肉と骨は肥料として販売され』、『昭和初期にはサーカス用途にも捕獲されていた』。『江戸時代に書かれた複数の文献においてニホンアシカに関する内容が記述されている』。シーボルトの「日本動物誌」には、『ニホンアシカのメスの亜成獣が描かれている。「相模灘海魚部」(彦根城博物館所蔵)にも、不正確ではあるが』、『ニホンアシカが描かれている』。二十『世紀初頭における生息数は』三万 から五万『頭と推定されている』。『江戸時代までは禁猟であった』。『例として紀伊藩では初代藩主徳川頼宣により禁令が出され、回遊期の狩猟およびアシカ島への上陸・衣奈八幡宮司である上山家を監視役に命じ』、『報告書の提出を義務付けるなどの対策を行っていた』。『高崎藩では藩主により』、『銚子での捕獲が禁止され、仮に捕獲する場合は』、『年に』一『回』のみ、『冥加金を』払った『漁師』一『人のみを許可していた』。しかし、『明治時代の政治的な混乱により、捕獲や駆除が野放しとなった』。『明治新政府により』、『捕獲が禁止されたり』、『保護策が江戸時代から受け継がれたところもあるものの、徹底はされなかった』。明治一二(一八七九)年に『神奈川県三浦市南下浦町松輪の海岸で捕獲されたメスのニホンアシカを描いた正確な絵図が』「博物館写生」(東京国立博物館蔵)に『残されている。少なくとも』一九〇〇『年代までは日本各地に生息していた。しかし』、十九世紀末から二十『世紀初頭にかけて、多くの生息地で漁獲や駆除が行われ、明治』四十『年代には銚子以南から伊豆半島の地域でみられなくなり、同時期の』明治四二(一九〇九)年の『記録では東京湾沿岸からも姿を消し、記録がある相模湾、三河湾周辺の篠島・伊良湖岬』、『瀬戸内海の鳴門海峡』『などの日本各地に生息していた個体群も』二十『世紀初頭には次々と絶滅に追いやられ、その棲息域は竹島などの一部地域に狭められていった』。『竹島周辺のアシカ漁は』、一九〇〇『年代初頭から本格的に行われるようになった。乱獲が懸念されたため、明治三八(一九〇五)年二月に『同島の所属を島根県に決定、同年』四『月に同県が規則を改定してアシカ漁を許可漁業に変更、行政が許可書獲得者に対し』て『指導して、同年』六『月には』、『共同で漁を行うための企業「竹島漁猟合資会社」が設立されて組織的な漁が始まり』、『同年』八『月には当時の島根県知事である松永武吉と数人の県職員が島に渡り、漁民から譲り受けたニホンアシカ』三『頭を生きたまま連れて帰り、県庁の池で飼育していたがまもなく死亡し』、『剥製』『にした、と山陰新聞(当時)が同年』八月に伝えている。『アシカ漁では平均して年に』千三百~二千『頭が獲られた』。一九〇四年から一九一一年までの約八年間で実に一万四千頭も『捕獲され』。『明治』・『大正年間の乱獲によって個体数・捕獲数共に減少していった』。『昭和初期には見世物として使用するため興行主(木下サーカス・矢野サーカスなど)から生きたままのニホンアシカを求める依頼が増えたが』。既にただそれだけの『需要に応える量を確保することが』最早『難しい状況になっており』、昭和一〇(一九三五)年頃には、年間捕獲数は二十~五十『頭まで落ち込んでしまった。捕獲量が最盛期のおよそ』四十分の一にまで『激減したことや、太平洋戦争勃発の影響で、戦中』の『アシカ漁は停止された』。『第二次世界大戦以降は』一九五一『年に竹島で』五十 ~六十『頭が確認されている』。一九五〇『年代以降の生息報告は礼文島沖・青森県久六島・島根県西ノ島・竹島・千島列島捨子古丹島・カムチャッカ半島南部に限定される』『ソ連実効支配地域でも』一九四九『年に南樺太の海馬島(モネロン島)での捕獲例』。一九六二『年に捨子古丹島での目撃例』、一九六七『年にカムチャッカ半島での死骸の発見例がある』。一九七〇『年代以降では』、一九七四『年に礼文島沖で本種と思われる鰭脚類の幼獣の捕獲例(下毛がなくキタオットセイとは明確に異なり、トドよりも小型で繁殖期が異なる)があるが』、『捕獲後』、『飼育されていたものの』二十『日後に死亡している』。一九七五『年に竹島で』二『頭の目撃例があったのを最後に、本種の生息は報告されていない』。『生息状況の確認が古文献や聞き取り調査に限られること、生息数減少の経緯が不明なことから、生息数減少の原因を究明することはほぼ不可能と考えられている』ものの、『可能性のある主因として生息環境の変化・捕獲圧が原因と考えられている』。『毛皮・剥製目的の乱獲、人間の繁殖地侵入による攪乱、エルニーニョ現象による食物の分布や生息数変動による可能も考えられている』。『衰退・絶滅の主な原因は、皮と脂を取るために乱獲されたことである』。『特に竹島においては大規模なアシカ漁による乱獲で個体数が減少したことが主要因とされ、研究者の一人である島根大学医学部(当時)の井上貴央も同様の見解を示して』おり、一九七〇年代の『韓国紙は竹島駐在の「警備隊員たちの銃撃で絶種」と報道しており、世界自然保護基金(WWF)の』一九七七『年度報告書では韓国人研究者さえ「最上の保護策は警備隊の島からの撤収だ」と主張している』。一九七六『年には、東亜日報が、アシカの生殖器が韓国で人気の精力剤の材料だったため、乱獲によってアシカが絶滅の危機に瀕していることを報道している』(以上の最後の部分は注から合成した)。一九五〇『年代には日本からの大量のビニール製品や』、『ソビエト連邦の原潜や核廃棄物の投棄など、著しく日本海が汚染された時期であり、生息環境が悪化していた点も指摘されている』。『残った数少ない個体も保護政策は実施されず、日本の鳥獣保護法では長期間保護対象外だったことや、竹島を不法占拠してきた大韓民国でも行われなかった(後に保護対象動物には指定されている)』。『韓国による竹島の軍事要塞化や在日米軍の軍事演習実施などの軍事関係も要因として指摘されている』(以下、剥製所在地等が記載されるが、略す)。なお、本条は益軒がオリジナル解説しているもので、「本草綱目」の記載は時珍は実物を見てないものか(益軒も実物を見た可能性は低いと思われ、他の本草書の絵図から細部を表現しているように私には思われる。実物を見た場合、このニホアシカに関してなら、益軒は実際に見たことを言うと考えるからでもある)。「本草綱目」(巻五十一下「獸之二」の内)も時珍は実物を見ていないようで、記載も以下の通り、あっさりしている。

   *

海獺【「拾遺」。】

集解藏器曰はく、「海獺、海中に生ず。獺に似て、大いさ、犬のごとし。脚下、皮、有り。胼拇(べんぼ)[やぶちゃん注:足の親指と人差し指が接合していて一つになっていること。]のごとし。毛、水に着きても濡ず。人、亦、其の肉を食ふ。海中に、又、海牛、有り。海馬・海驢等、皮・毛あり。陸地に在りて、皆、風潮を候(し)る。猶ほ、能く毛を起つるがごとし。說は、「博物志」に出づ」と。時珍曰はく、「大獱(とど)・小獺(かはうそ)、此れ、亦、獺なり[やぶちゃん注:川獺の類である。]。今人、其の皮を以つて、風領(ふうりやう)[やぶちゃん注:風を防ぐ襟のことか。]と爲す。云はく、『貂(てん)亞(つ)ぐ』と。如淳が「博物志」に注して云はく、『海獱は、頭、馬のごとく。腰より以下、蝙蝠(かはほり)に似て、其の毛、獺に似たり。大なる者、五、六十斤[やぶちゃん注:明代で三十キログラム弱から三十六キログラム弱。]。亦、烹(に)て食ふべし。』と。」と。

   *

時珍は海棲哺乳類を実見しておらず、水陸両用に棲息する哺乳類を一緒くたにする傾向が窺われる記載である。

「性」漢方生薬としての効能。御覧の通り、「本草綱目」に普通はある「主治」がない。]

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