芥川龍之介書簡抄23 / 大正三(一九一四)年書簡より(二) 四通
大正三(一九一四)年二月四日・牛込區赤城元町竹内樣方 山本喜譽司樣(葉書)
土曜から風邪で寐てゐます 一時は9度6分程も熱が出てくるしみましたが今はもう大分よくなりました 君の手紙は床の上でよみました 返事が遲れてすみませんが 熱があつて何をするのも臆劫だつたのです 木曜には學校へ半日ばかり出てみやうかと思ひます 熱がさめた時に靑空をみたらうれしうござんした
草と木との中にわれは生きてあり日を仰ぎてわれは生きてあり草と木との如くに
[やぶちゃん注:短歌のために採用した。この八日後の二月十二日、第三次『新思潮』を創刊している。既注であるが、再掲しておくと、龍之介が傾倒していたフランスの作家アナトール・フランス(Anatole France 一八四四年~一九二四年)が一八八九年に書いた「バルタザール」(Balthazar)の翻訳で、「バルタサアル(アナトオル・フランス)」の標題で「柳川龍之介」名義であった。後の大正八(一九一九)年七月発行の雑誌『新小説』に「バルタザアル」の標題で「芥川龍之介譯」の署名で再録され、後の作品集「影燈籠」・「梅・馬・鶯」に収録された。編年体の旧「芥川龍之介」全集の第一巻巻頭に配されたそれである。ジョン・レイン夫人(Mrs. John Lane)の英訳(一九〇九年)からの重訳で、同人間では高評を博した。「青空文庫」のこちらで新字旧仮名で読める。]
大正三(一九一四)年三月十日井川恭宛(封筒欠)
一九一四、三、十 新宿にて
井川君
先達は早速イエーツを送つて下すつて難有う 又其節の八つ橋も皆で難有頂戴してゐる
手紙を出さうと思つてかいたのもうちの番頭が急病で死んだものだからいろんな事に紛れて遲れてしまつた 君は知つてゐるだらうと思ふがなくなつたのはうち(新宿の)の店にゐたおぢいさんだ 成瀨が電話をかけると牛のなくやうな返事をすると云つたおぢいさんだ
病氣は心臟の大動脈弁の閉鎖で發作後十五分ばかりでもう冷くなつてしまつた それ迄は下女と大正博覽會の話をしてゐたと云ふのだからかはいさうだ 見てゐるうちに耳から額へ額から眼へひろがつてゆく皮膚の變色を(丁度雲のかげが日向の野や山へ落ちるやうに)見てゐるのは如何にも不氣味だつた 水をあびたやうな汗がたれる かすれた聲で何か云ふ 血も少しはいた
今朝六時の汽車で屍體は故鄕(くに)へ送つたが二日も三日も徹夜をしたのでうちのものは皆眼ははらしてゐる 帳面をぶら下げた壁や痕だらけの机のある狹い店ががらんと急に廣くなつたやうな氣がする
こんな急な死に方をみると すべての道德すべての律法が死を中心に編まれてゐるやうな氣がしないでもない くにから死骸を引取りに來た親類の話によると、なくなつた晚にかけてない目ざまし時計が突然なり出したさうだ それから夜があけるとうちの前へ烏が一羽死んで落ちてゐたと云ふ 母や叔母や女中は皆氣味のわるさうな顏をしてこんな話をきいてゐた
一週間程前に巢鴨の癩狂院へ行つたら三十位の女の氣狂ひが「私の子供だ私の子供だ」と云つて僕のあとへついて來た 子でもなくして氣がちがつたのだらう 隨分氣味が惡かつた 中に神道に凝つてゐる氣狂ひがゐた 案内してくれた醫學士が「あなたの名は何と云ふんです」ときくと「天の神地の神奈落の神天てらす天照皇神むすび國常立何とか千早ぶる大神」と一息に答へた「それが皆あなたの名ですか」と云ふと「左樣で」とすましてゐる おかしくもありかはいさうでもあつた
そのあとで醫科の解剖を見に行つた 二十の屍體から發散する惡臭には辟易せずにはゐられなかつた 其代り始めて人間の皮膚が背中では殆五分近く厚いものだと云ふ事を知つた
屍体[やぶちゃん注:ママ。]室へ行つたら 今朝死んだと云ふ屍體が三つあつた 其中の一人は女でまだアルミのかんざしをさしてゐた
死ぬと直ぐ胸の上部を切つてそこから朱を注射するので土氣色の皮膚にしたゝつてゐる朱が血のやうで氣味が惡い
一緖に行つた成瀨はうちへ歸つても屍體のにほひが鼻についてゐてとうとう吐いてしまつたさうだ
[やぶちゃん注:この精神病院訪問や解剖実習見学は、大学の授業に有益性を全く持てずにサボってばかりいた一方で、既に作家を目指し始めていた学友久米正雄や松岡譲の意気込みの惹かれる形で、自身も創作への模索を始めており、それへの素材探索や意欲刺激を求めてのことであった。
「うちの番頭が急病で死んだ」この三月十四日土曜日に、実父新原敏三の耕牧舎の番頭であった松村泰次郎が急死した。
「先達は早速イエーツを送つて下すつて難有う」これは先行する推定三月二日の葉書で、『新思潮で愛蘭土文學號を出すさうだ イエーツの SECRET ROSE があいてゐたら送つてくれ給へ』と送ったのに井川がすぐに答えて送ってきたことへの返礼と考えられる。これについては。、「芥川龍之介書簡抄16 / 大正二(一九一三)年書簡より(3) 四通」の「大正二(一九一三)年九月十七日(年月推定)・山本喜譽司宛(封筒欠)」の私の注「YEATS の SECRET ROSE」を見て貰いたいが、恐らくは芥川龍之介の蔵書で井川に貸していたものと推定される。而して、その注で詳しく書いたが、この三ヶ月後の大正三(一九一四)年六月発行の『新思潮』(第五号。署名は目次が「柳川隆之介」、本文は「押川隆之介」)に、当該作品集中の一編である「The Heart Of The Spring」を『春の心臟』として翻訳して公開している(旧全集第一巻の三番目に所収)。新字正仮名であるが、「青空文庫」のこちらで読める。
「大正博覽會」東京大正博覧会。この十日後の大正三年三月二十日から七月三十一日にかけて東京府主催で東京市の上野公園地を主会場として開催された博覧会。詳しくは当該ウィキを読まれたいが、そこに『この博覧会では伝染病研究所、日本赤十字社などが出展した衛生経済館もあったが、これとは別に、不忍池上の』二『階建の仮設建築で二六新報社による』「通俗衛生博覧会」が『設けられ、人体の臓器などの実物標本』・模型類・『写真等が展示された』。『中には、東京帝国大学医学部から貸し出されたという「高橋お伝の全身の皮膚」なども展示されていた』とある。この書簡の死体の臭いという表現にちょっと違和感を感じているので(後述する)、敢えて引いておく。
「くにから死骸を引取りに來た親類の話によると、なくなつた晚にかけてない目ざまし時計が突然なり出したさうだ それから夜があけるとうちの前へ鳥が一羽死んで落ちてゐたと云ふ 母や叔母や女中は皆氣味のわるさうな顏をしてこんな話をきいてゐた」既に述べた、「椒圖志異」に見られる芥川龍之介の怪異蒐集趣味の現われである。
「一週間程前に巢鴨の癩狂院へ行つた」新全集の宮坂年譜に、この三月三日(月)頃に、成瀬正一と『東京府立巣鴨病院へ見学に行く。その後、さらに』東京帝大『医科大学で解剖を見学した』とある(この書簡が原資料)。
『三十位の女の氣狂ひが「私の子供だ私の子供だ」と云つて僕のあとへついて來た 子でもなくして氣がちがつたのだらう 隨分氣味が惡かつた』私はこの時、心底の恐怖と同時に、実母フクの面影が彼の心を掠めたに違いないと思うている。芥川龍之介の実母フクが亡くなったのは、龍之介満十歳の、高等小学校高等科一年の十一月二十八日のことであった(フク満四十二歳)。大正一五(一九二六)年十月一日発行の雑誌『改造』に発表した名品「點鬼簿」(リンク先は私の古い電子テクスト)の巻頭の「一」は母である。以下に全文を引く。
*
一
僕の母は狂人だつた。僕は一度も僕の母に母らしい親しみを感じたことはない。僕の母は髮を櫛卷きにし、いつも芝の實家にたつた一人坐りながら、長煙管ですぱすぱ煙草を吸つてゐる。顏も小さければ體も小さい。その又顏はどう云ふ譯か、少しも生氣のない灰色をしてゐる。僕はいつか西廂記を讀み、土口氣泥臭味の語に出合つた時に忽ち僕の母の顏を、――瘦せ細つた橫顏を思ひ出した。
かう云ふ僕は僕の母に全然面倒を見て貰つたことはない。何でも一度僕の養母とわざわざ二階へ挨拶に行つたら、いきなり頭を長煙管で打たれたことを覺えてゐる。しかし大體僕の母は如何にももの靜かな狂人だつた。僕や僕の姉などに畫を描いてくれと迫られると、四つ折の半紙に畫を描いてくれる。畫は墨を使ふばかりではない。僕の姉の水繪の具を行樂の子女の衣服だの草木の花だのになすつてくれる。唯それ等の畫中の人物はいづれも狐の顏をしてゐた。
僕の母の死んだのは僕の十一の秋である。それは病の爲よりも衰弱の爲に死んだのであらう。その死の前後の記憶だけは割り合にはつきりと殘つてゐる。
危篤の電報でも來た爲であらう。僕は或風のない深夜、僕の養母と人力車に乘り、本所から芝まで駈けつけて行つた。僕はまだ今日(こんにち)でも襟卷と云ふものを用ひたことはない。が、特にこの夜だけは南畫の山水か何かを描いた、薄い絹の手巾をまきつけてゐたことを覺えてゐる。それからその手巾には「アヤメ香水」と云ふ香水の匂のしてゐたことも覺えてゐる。
僕の母は二階の眞下の八疊の座敷に橫たはつてゐた。僕は四つ違ひの僕の姉と僕の母の枕もとに坐り、二人とも絕えず聲を立てて泣いた。殊に誰か僕の後ろで「御臨終々々々」と言つた時には一層切なさのこみ上げるのを感じた。しかし今まで瞑目してゐた、死人にひとしい僕の母は突然目をあいて何か言つた。僕等は皆悲しい中にも小聲でくすくす笑ひ出した。
僕はその次の晩も僕の母の枕もとに夜明近くまで坐つてゐた。が、なぜかゆうべのやうに少しも淚は流れなかつた。僕は殆ど泣き聲を絕たない僕の姉の手前を恥ぢ、一生懸命に泣く眞似をしてゐた。同時に又僕の泣かれない以上、僕の母の死ぬことは必ずないと信じてゐた。
僕の母は三日目の晩に殆ど苦しまずに死んで行つた。死ぬ前には正氣に返つたと見え、僕等の顏を眺めてはとめ度なしにぽろぽろ淚を落した。が、やはりふだんのやうに何とも口は利かなかつた。
僕は納棺を終つた後にも時々泣かずにはゐられなかつた。すると「王子の叔母さん」と云ふ或遠緣のお婆さんが一人「ほんたうに御感心でございますね」と言つた。しかし僕は妙なことに感心する人だと思つただけだつた。
僕の母の葬式の出た日、僕の姉は位牌を持ち、僕はその後ろに香爐を持ち二人とも人力車に乘つて行つた。僕は時々居睡りをし、はつと思つて目を醒ます拍子に危く香爐を落しさうにする。けれども谷中へは中々來ない。可也長い葬列はいつも秋晴れの東京の町をしづしづと練つてゐるのである。
僕の母の命日は十一月二十八日である。又戒名は歸命院妙乘日進大姉である。僕はその癖僕の實父の命日や戒名を覺えてゐない。それは多分十一の僕には命日や戒名を覺えることも誇りの一つだつた爲であらう。
*
芥川龍之介は母の狂気が遺伝して自分も発狂するのではないかという恐れを生涯、真剣に持ち続けてはいた(私はフクのそれは強度の心因性強迫神経症或いは統合失調症であったと考えており、龍之介の遺伝の恐れは杞憂であったと思っている)。しかし、以上の一篇は作家芥川龍之介独特のある突き放したような冷徹なポーズの中に、彼自身の、永遠に帰らない幼児期に背負ってしまった母の不在と喪失の絶対の悲しみを伝えて余りあるもの、と信じて疑わぬ者である。
「天てらす天照皇神」前が「あまてらす」であるから、ダブりを嫌って「てんしょうこうたいしん」(現代仮名遣)と読むのであろう。
「むすび」「かみむすびのかみ」の略。「古事記」では「神産巣日神」、「日本書紀」では「神皇産霊尊」、「出雲国風土記」では「神魂命」と書かれる。「産霊」は生産・生成を意味する言葉で、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)とともに創造の神格化したもの。女神の可能性が高い。「古事記」では少名毘古那神(すくなびこなのかみ)は彼女の子とされる。
「國常立何とか」国常立尊(くにのとこたちのみこと)であろう。「古事記」では神世七代の最初の神とされ、開闢神別天津神(ことあまつかみ)の最後の天之常立神(あめのとこたちのかみ)の次に現われた神で、独神(ひとりがみ)とであり、姿を現わさなかったと記される。「日本書紀」本文では天地開闢の際に出現した最初の神とし、「純男(陽気のみを受けて生まれた神で全く陰気を受けない純粋な男性)」の神と記す。原初的な土地神であることは間違いあるまい。伊勢神道や吉田神道及びその流れを汲む教派神道諸派でもこの神が重要な神されているが、日本近代宗教至上では大本(おおもと)教(正式には「教」はつけない)のそれが著名である。
「二十の屍體から發散する惡臭」これは解剖実習室の実習用遺体であり、それは腐敗死臭ではなく、その主たるものはホルマリンなどの腐敗防止薬の強烈な臭いである。母は既に終わり、私も妻もまた、同じく慶応大学医学部に献体している。まさに、その実習教材となるのである。
「人間の皮膚が背中では殆五分近く厚い」事実。ヒトは背中の皮膚が表皮の最も厚く、表皮が平均〇・一から〇・二ミリメートルで、真皮は四ミリメートルである。「五分」は十五ミリメートルであるが、これは、龍之介が、切開した皮膚の真皮(ここで静脈・動脈・神経が複雑に絡みあって走っている)の下にある以上を支える皮下脂肪層(これは個人差があるが、九ミリメートルにも及ぶ)を含めて言っているものと思われる。
「朱」水銀化合物。これを遺体に十全に注入すると、腐敗が抑制され、「永久死体」(法医学用語)となる。
◇
この二十二歳の時の経験が、如何に鮮烈であり、芥川龍之介の心影に深く鐫りつけられたかは、晩年の自死の決意前後にこれらがフラッシュ・バックして甦ることからも判る。遺稿「或阿呆の一生」(リンク先は私の古い電子化であるが、今朝、全面校訂を行った)である。それも二箇所で示される。一つは、「二 母」であり、今一つは、「九 遺體」である。以下に示す。
*
二 母
狂人たちは皆同じやうに鼠色の着物を着せられてゐた。廣い部屋はその爲に一層憂欝に見えるらしかつた。彼等の一人はオルガンに向ひ、熱心に讃美歌を彈きつづけてゐた。同時に又彼等の一人は丁度部屋のまん中に立ち、踊ると云ふよりも跳ねまはつてゐた。
彼は血色の善(よ)い醫者と一しよにかう云ふ光景を眺めてゐた。彼の母も十年前には少しも彼等と變らなかつた。少しも、――彼は實際彼等の臭氣に彼の母の臭氣を感じた。
「ぢや行(ゆ)かうか?」
醫者は彼の先に立ちながら、廊下傳ひに或部屋へ行つた。その部屋の隅にはアルコオルを滿した、大きい硝子(がらす)の壺の中に腦髓が幾つも漬つてゐた。彼は或腦髓の上にかすかに白いものを發見した。それは丁度卵の白味をちよつと滴らしたのに近いものだつた。彼は醫者と立ち話をしながら、もう一度彼の母を思ひ出した。
「この腦髓を持つてゐた男は××電燈會社の技師だつたがね。いつも自分を黑光りのする、大きいダイナモだと思つてゐたよ。」
彼は醫者の目を避ける爲に硝子窓の外を眺めてゐた。そこには空き罎の破片を植ゑた煉瓦塀の外に何もなかつた。しかしそれは薄い苔をまだらにぼんやりと白らませてゐた。
*
九 死 體
死體は皆親指に針金のついた札をぶら下げてゐた。その又札は名前だの年齡だのを記してゐた。彼の友だちは腰をかがめ、器用にメスを動かしながら、或死體の顏の皮を剝ぎはじめた。皮の下に廣がつてゐるのは美しい黃色の脂肪だつた。
彼はその死體を眺めてゐた。それは彼には或短篇を、――王朝時代に背景を求めた或短篇を仕上げる爲に必要だつたのに違ひなかつた。が、腐敗した杏(あんず)の匂に近い死體の臭氣は不快だつた。彼の友だちは眉間(みけん)をひそめ、靜かにメスを動かして行つた。
「この頃は死體も不足してね。」
彼の友だちはかう言つてゐた。すると彼はいつの間にか彼の答を用意してゐた。――「己(おれ)は死體に不足すれば、何の惡意もなしに人殺しをするがね。」しかし勿論彼の答は心の中にあつただけだつた。
◇
なお、ここで出る「友だち」(則ち、彼の伝手で人体解剖を見学させて貰えたのである)とは既出既注の、龍之介の江東小学校及び府立三中時代の同級生で、一高の第三部(医学)に入り、東京帝国大学医学大学に進んだ上瀧嵬(こうたきたかし 明治二四(一八九一)年~?)である。卒業後は医師となって、後に厦門(アモイ)に赴いた。詳しくは「芥川龍之介手帳 1-4」の私の注を参照されたい。]
大正三(一九一四)年四月四日・本鄕區西片町十番地 佐々木信綱樣 侍史・四月四日朝 新宿ニノ七一 芥川龍之介
肅啓
過日は御繁忙中參堂長座仕り御迷惑さこそと恐縮に存じ候
歌十一首 拙く候へども心の花に御揭載被下候はゞ 難有く存ず可く候 歌も人につきて學びたる事無之 語格は元より假名づかひさへも誤れる事多かる可く玉斧を乞ふを得ば幸甚に候
今朝の雪 寒威春杉を壓して火閤を擁さずば書もよみ難き程に候 匆々頓首
四月四日 芥川龍之介
佐々木先生梧下
[やぶちゃん注:「佐々木信綱」かの歌人佐佐木信綱(明治五(一八七二)年~昭和三八(一九六三)年)。歌誌『心の花』を発行する短歌結社「竹柏会」を主宰していた。この会には最後に芥川龍之介が愛することとなる片山廣子が既にいた。さて、ここで芥川龍之介は「十一首」と言っているが、十二首の誤りである。どうなったって? 勿論、全十二首完全に掲載されている。私の「やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集 附やぶちゃん注」の「紫天鵞絨」がそれである。
「火閤」「くわかふ(かこう)」で火燵のこと。]
大正三(一九一四)年四月七日・東京府下北豐島郡瀧野川村中里三五二 小野八重三郞樣・消印神奈川縣下浦局(転載)
夕月よ片目しひたる長谷寺の燈籠守はさびしかるらむ
夕されば韮水仙の黃なる花ほのかにさきてもの思はする
三浦半島の南にて 龍
[やぶちゃん注:三浦半島を旅した(期間は不明。因みに七日は月曜であるから、大学はサボっている可能性がある)折りの旅信。龍之介はこの前月の三月五日(水)頃にも三崎・城ヶ島逗子方面に遊んでいる。
「下浦」(したうら)は三浦半島の先の東京湾側の野比から剣崎方向の地名(グーグル・マップ・データ)。
「小野八重三郞」既出既注。東京生まれで、府立三中時代の一つ下の後輩。
「長谷寺」これは鎌倉の観音(本尊で木造十一面観音立像。像高九・一八メートルの巨像)で知られる長谷寺と推定される。この「燈籠守」とは、ただの像前の灯明の管理人であろうが、私は反射的に『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第四章 江ノ島巡禮(一二)~(一五)』(リンク先は私の電子化注)の夢幻的な素敵なシークエンスを想起してしまうのである。是非、読まれたい。
「韮水仙」私の好きな単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ネギ亜科ハナニラ属ハナニラ Ipheion uniflorum があるが、同種の花弁は青・白・淡紫・ピンクで、黄色はない。雄蕊は黄色いから、それを「黃なる花ほのかにさきて」と言っているものかとも思ったが、流石にそれはちょっとねと思う(アルゼンチン原産。有毒であるが、園芸品種では無毒で食用になるものもかなりある)。花弁が黄色のものとなると、ネギ亜科ハタケニラ(ステゴビル)属キバナハナニラ Nothoscordum sellowianum が現在はあるのだが(ブラジル南部・アルゼンチン・ウルグアイ原産)、この当時、このキバナハナニラが本邦に移入されていたかどうかは、ちょっとクエスチョンである(私は植物は苦手である)。]
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