フォト

カテゴリー

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 吾輩ハ僕ノ頗ル氣ニ入ツタ教ヘ子ノ猫デアル
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から
無料ブログはココログ

« 只野真葛 むかしばなし (21) | トップページ | 大和本草卷之十六 水獺(かはをそ) (絶滅種ニホンカワウソ) »

2021/03/17

芥川龍之介書簡抄20 / 大正二(一九一三)年書簡より(七) 十二月三日附井川恭宛書簡

 

大正二(一九一三)年十二月三日・京都市京都大學寄宿舍内 井川恭樣 親披・消印四日・十二月三日 東京新宿にて 芥川龍之介

 

     長安尺素 一

フイルハアモニイ會があつた クローンのバツハが一番よかつた 會場は帝劇で舞臺の前に棕櫚竹やゴムの大きな鉢を舞臺と同じ高さにならべ舞臺はうすい綠にやゝ濃い綠で簡單なエジプト模樣を出した壁で圍ひ左右の WING に濃いクリムソンを使つたのが大へん快く出來てゐた ユンケルが來てゐた

一番出來の惡かつたのは中島かね子のブラームスとトーメ 樋口信平のヴエルヂイも振はなかつた

 

舞臺協會が惡魔の弟子と負けたる人とをやつた シヨウの飜譯には大へん誤譯があると云ふ噂がある 皆あまりうまくない 森のリチヤアドも貧弱だ 林千歲のダツヂヨン夫人は更に貧弱だ 金井のスウインドン少佐になると新派のくさみが甚しい 最よかつたのは佐々木のバーゴイン將軍だつた

負けたる人に至つては言語道斷だ あの脚本をしつてゐるものは誰でもよくかう拙劣に演じる事が出來るもんだと感心するにちがひない

 

フューザン會が順天中學のうしろの燒跡の自由硏究所と云ふとたん葺の假小屋の樣な所でやつてゐる 三並さんの画[やぶちゃん注:ママ。]が一番最初に出ててゐる[やぶちゃん注:「て」のダブりはママ。] 皆よくなかつた 唯赤い煙突が晴れた空に立つてゐるのが稍よかつた 最人目をひいたのは小林德三郞氏の江川一座(二枚あるがその一で見物席をかいたもの)と云ふ水彩と北山淸太郞氏の二三の小品であつた 莊八氏も大分腕を上げた 與里氏はフューザンの黑田淸輝の如くおさまつてゐる 同氏の作は劉生氏と共にあまり出來がよくない

 

独乙人[やぶちゃん注:「独」はママ。]で世界的にヴアイオリンの名手と云はれる DORA VON MOLLENDORFF の CONCERT が帝國ホテルにあつた ぺッツオルドが補助として出演する

ヴアイオリンは自分の今迄きいたどのメロヂイよりもうつくしいメロヂイをひいてくれた 自分は今でも水色のきものをきて濃い栗色の髮をかき上げながら彈くひとの姿を目の前に髣髴する事が出來る 實際あの絃の音は奇蹟のやうであつた

ぺッツオルドも出來がよかつた あの婆さんも當夜は黑天鷲絨に銀糸の繡[やぶちゃん注:「ぬひとり」。]のあるきものをきつて[やぶちゃん注:ママ。]すましてゐた 久保正夫にあつた

 

     長安尺素 二

石田君が愈一高歷史會の FOUNDER として第一會をひらいた 齋藤さんと慶應の何とか云ふ先生とが出席した其何とか云ふ人はウインデルバンドをよんでゐる人で石田君が師事してゐる人である 獨法と英法と文科とで會員が大分出來たと云ふ事だ 先生さへ來なければ出席して牛耳つてやるんだがなと久米が口惜しがつてゐる

 

一高の物理の敎室と攝生室との間に廊下が出來た 食堂の方の廊下も立派になつたさうである 瀨戶さんは國民新聞に現代の學生は意氣が消沈してゐるからもつと自省自奮自重しなければならんとか何とか三日つゞきで論じてゐる 校長としての評判は校内でも校外でも惡くはないらしい

 

ガルスウアシイの詩集 MOODS, SONGS AND DOGGERELS はベルグソンの流轉の哲學の思想を隨所に見得る點で注目に價すると云はれてゐる 始にある MY DREAM の終の三つのスタンザなぞはいゝと思ふ

 

大學に希臘印度美術展覽會が開かれてゐる 高楠さんや黑板さんの採集した希臘の古陶器や人形に欲しいものが澤山ある 貝多羅葉に經文をかくペンを陳列して置いた五本のうち二本盜まれたと云つて印哲の助手がこぼしてゐた

 

とりでがウオーレン夫人の職業とイエーツの幻の海をやる うまく行かないだらうと思つてゐるが三等は十五錢だから皆でみてやらうと久米が云つてゐる

 

根本は九月以來一ぺんも出てこない 谷森君はどこかで感化院にはいつてるときいたさうだ 實は耽溺の揚句に日本舘にかくれてゐるのである

佐野や石原や黑田も大分盛らしい

 

八木君が頭をのばした わける氣と見える 句あり「山羊の毛も刈らでくれけり秋の牧」

 

佐伯君と坂下君とは一日もやすまずに出てゐる 坂下君の鼻の赤いのは每日賄で生姜を食つたからださうだ 成瀨の云ふ事だからあんまりあてにもならない

 

成瀨は本鄕菊坂の何とか日米露(ヒメロ)と云ふ人の二階にゐたが今月から自宅から通ふさうだ 時計を九月に佐野にかしたのがかへつてこないと云つて悲觀してゐる

 

そのあとへ久米が移る筈になつてゐる 久米は月謝を佐野にかしたのがかへつて來ないと云つて悲觀してゐる 同人は目下玉乘の女を主人公にした小說起稿中

 

山宮さんにまじめにたのまれてとうとう又畔柳さんの會へ出た よむ本は SHAW 久保謙や久保勘や山宮さんや皆 SHAW は嫌ひだと云つてた むづかしくつてわからないからきらひなんだらうと思ふ 畔柳さんがこんな圖をかいた

[やぶちゃん注:底本の旧全集からトリミングした。正直言うと、私は図とは理解し易くするためのものでなくてはならない。こういう判ったような自己満足のチャートは百害あって一利なしとしか思わない人間である。]

 

114zu

 

Aは人間が TRANSCENDENTAL GOD を求める時代 Bは IDEAL を人間の本來に求める時代(遠くはプラトー 近くはメーテルリンク) Cは無理想の自然主義の時代 Dは現在の生活に理想を求める時代 この時代は大分して二となる(D‘) αは社會に對して個人を重くみる個人主義 βは社會を BETONEN する社會主義 これが動くとETGの三方向をとる Fはプラグマチズムの方向でどこ迄も平行線でゆく Fは科學者の人類観で滅亡を豫想する悲觀說 Eはベルグソン オイツケンのネオロマンチツクの哲學による樂觀說とするのださうだ

メエテルリンクの時よりは面白かつた 僕が SHAW AS A DRAMATIST をやつた

 

まだあるが長くなるから切上げる

文展の批評でもきゝたい 町三趣はよからう 海女の半双(海のない方)もよからう あとの半双も僕は人が云ふほど惡くは思はない

松本博士は廣業の四幅を日本畫に新紀元を與へるものだと云つた 僕にはわからない

   恭   君 梧下

 

[やぶちゃん注:「長安尺素」「長安」は帝都東京の比喩であろう。「尺素」は「せきそ」と読む。「素」は「帛」(はく)の意。「一尺余りの絹布」の意で、文字を書くのに用いたところから、「僅かの書き物」「短い手紙」の意。「尺牘(せきとく)」に同じい。

「フイルハアモニイ會」筑摩全集類聚版脚注に、『東京フィルハーモニー会』で、『男爵岩崎小彌太が主宰したもの』で、この年の『十一月二十七日』に帝国劇場で行われたそれは、『第七回』公演『に当たり、東京音楽学校・海軍音楽隊が演奏した』とある。岩崎小弥太(明治一二(一八七九)年~昭和二〇(一九四五)年)は後の大正五年に三菱財閥第四代目総帥となった実業家で、一高を経て明治三二(一八九九)年に東京帝国大学法科大学に入学するも、翌年に中退して英国に留学、明治三十八年にケンブリッジ大学を卒業して、翌年に帰国して三菱合資会社の副社長となっていたが、彼は一方で、当時東京音楽学校(現在の東京芸術大学)のドイツ人教師でチェロ奏者であったハインリヒ・ベルクマイスター(Heinrich Werkmeister 一八八三年~一九三六年)についてチェロを習い始め(腕前は不明)、明治の終わり頃からは、音楽家の留学援助(その一人がベルクマイスターの縁で東京音楽学校を出たばかりのかの山田耕筰であった)とオーケストラの育成に力を入れ、明治四三(一九一〇)年に英国時代の友人を誘って、音楽愛好家団体「東京フィルハーモニック・ソサエティー」を設立していた(この年中に解散)。

「クローン」ドイツ出身のヴァイオリニストで指揮者・音楽教師のグスタフ・クローン(Gustav Kron 一八七四年~?)。一八九六年から一八九八年までハンブルクの「楽友協会」で楽長とソリストを、一九〇〇年からかの「ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団」のソリストを務めた。この一九一三年一月から大正一〇(一九二一)年六月までと、再来日して一九二二年二月から大正一四(一九二五)年三月まで、東京音楽学校で弦楽・声楽・和声学・作曲・合唱・管弦楽を担当した。

「バッハ」バッハ好きの私としては芥川龍之介がかく称賛した演奏曲が知りたいところなのだが、ネット上では調べ得なかった。無伴奏バイオリン・ソナタの一曲か? 識者の御教授を乞う。

「WING」筑摩全集類聚版脚注には、『ここでは舞台の両脇』とある。

「クリムソン」crimson。クリムズン。深紅色・茜色。

「ユンケル」既出既注。リンク先の『大正元(一九一二)年八月三十日・「卅日夕 芥川龍之介」・出雲國松江市田中原町 井川恭樣・「親披」』の私の注の「ゆんける」を参照。

「中島かね子」既出既注であるが、再掲すると、中島は旧姓。「白樺」派の柳宗悦の妻で声楽家(アルト歌手)であった柳兼子(明治二五(一八九二)年~昭和五九(一九八四)年)。私は関心がないので、詳しくは当該ウィキを参照されたい。

「トーメ」フランスの作曲家フランシス・トーメ(Francois Thomé 一八五〇年~一九〇九年)。インド洋のモーリシャス島生まれで、幼少の頃にパリに移り住んだ。ピアノ小品の作曲家として知られており、代表作は「飾らぬ告白」(Simple aveu, romance sans paroles pour piano op. 25:「素朴な告白、ピアノのための言葉なきロマンス」作品二十五)など。パリ音楽院でマルモンテルにピアノを、デュプラートに音楽理論を師事した。ピアノ作品の他には、バレー音楽・オペラ・オーケストラ作品・宗教曲を作曲している。

「樋口信平」(?~大正九(一九二〇)年)はバス歌手。大正二(一九一三)年、東京音楽学校卒。主に母校の音楽会で活躍した。

「舞臺協會」日本の大正期の新劇団。その名称は一八九九年にロンドンに創立されてイギリスの近代劇運動を担った「ステージ・ソサエティ」(Stage Society)の訳語に由来する。大正二(一九一三)年に坪内逍遙が主宰した劇団「文芸協会」の解散直後に、同劇団の若手たち(加藤精一・佐々木積(つもる)・山田隆弥・吉田幸三郎ら)が設立したもので、この年の十一月二十八日に帝国劇場で第一回公演を以下の演目で行っている。同劇団には夏目漱石門下の評論家でドイツ文学者であった小宮豊隆が文芸面を担当していた。

「惡魔の弟子」アイルランドの文学者・脚本家・劇作家にして教育家・評論家ジョージ・バーナード・ショー(George Bernard Shaw 一八五六年~一九五〇年)の一八九七年の作品‘The Devil's Disciple’。筑摩全集類聚版脚注に、『リチャアド、ダッヂョン夫人、スウィンドン少佐・バーゴイン將軍は』孰れも『その登場人物。佐々木積の訳』とある。佐々木積(明治一八(一八八五)年~昭和二〇(一九四五)年)は長野県生まれの俳優。本名は佐々木百千万億(つもる)。早稲田大学露文科卒。「文芸協会」第一期生となり、卒業公演「ハムレット」に出演。協会解散後、この「舞台協会」を創設。後、大正五年には、ハルピンに渡り、陸軍軍属としてロシア語通訳となった。大正一〇年に「舞台協会」が再興されると、帰国、大正十三年には「同志座」を結成した。その後は東亜キネマや日活で活躍した。本義局は私は読んだことがないのでストーリーは知らないが、こちら(世界救世(メシヤ)教教主岡田自観(岡田茂吉)氏の論文集のサイト内)のこちらに、その芝居についての岡田氏の書かれたものと思われる記事(「バーナード・ショウ」。『栄光』第七十八号(昭和二五(一九五〇)年十一月十五日発行))があり、『実に面白くもあり、心を打たれた。その筋というのは、ここに英国のある小やかな町に、一人の牧師がいた。すると牧師の留守に警吏がやって来た。ある罪状のため警察へ連行の目的で来たのであるが、不在なので留守をしていた牧師夫人にその事を言った。夫人は非常に驚き恐れ、なす事を知らない有様だ。ところが、その少し前から来ていた一人の男があったが、それは町でも評判な不良青年で、綽名(あだな)を悪魔の弟子と言われているくらいだから推して知るべしだ。今警吏の前で震えている夫人を見るに見兼ねていた悪魔の弟子は何と思ったか、イキナリ』、『警吏に対(むか)って、その罪なら僕がやったんだから、僕を引張ってくれと名乗り出た。警吏も普段が普段のこの男として、そうに違いあるまいと、何の疑いもなく、警察へ引張って行ったのである』。『すると間もなく当の牧師が帰って来たので、夫人はその話をすると、牧師は見る見る顔色が変り、精神的苦悶の状明らかに見られる程だ』。『それは自分はその罪を何とかして逃れたいとその手段を日夜考えていた際とて、自分の卑怯な心理に自責の念が湧き起ったのだ。その醜い心をアザ笑うかのように、身を挺して犠牲になったのは誰あろう悪魔の弟子だったのだ。彼のその崇高なる聖者にも等しき勇気と、そうして愛の発露には流石(さすが)の牧師も慙愧(ざんき)の念をどうする事も出来なかった。これでは聖なる神の使徒たる自分は、悪魔の弟子にも劣るのではないかという訳で、確か妻君に対って懺悔をすると共に、悪魔の弟子を助けるべく警察へ急行し釈明し、軽い罪だったと見えて即座に釈放され、同行帰宅したのであった。直ちに悪魔の弟子に感謝と共に、賞め讃えたという筋であったと思う』とあった。

「負けたる人」ドイツの詩人・小説家・劇作家ヴィルヘルム・フォン・ショルツ(Wilhelm von Scholz 一八七四年~一九六九年:叙情的な象徴詩人として出発したが、新古典主義を提唱し、戯曲「コンスタンツのユダヤ人」(Der Jude von Konstanz:一九〇五)年などを発表。その後、古典的形式に神秘主義の思想を盛り込み、夢幻的なオカルトの世界と現実が交錯する二重の世界を描くなど、作風が一変した)が一八九九年に発表した戯曲(Der Besiegte:「打ち負かされし者」)。彼の作品主題はナチス・ドイツに歓迎され、それに迎合したとされて、現在のドイツでは全く顧みられない作家であるとのことである(当該ドイツ語ウィキに拠る)。筑摩全集類聚版脚注に、『翻訳は森鷗外』とある。作品内容は不詳。持っているのだが、読んでいない。先日、当該「選集」を引っ張り出したのだが、またまた、書籍の山積みの何処かに隠れて見当たらない。その内、読んで追記する。

「森」森英治郎(明治二〇(一八八七)年~昭和二〇(一九四五)年)は横浜生まれの俳優。京華中学中退。「文芸協会研究所」を経て、明治四四(一九一一)年、「文芸協会」に入る。見事な演技力で若手四天王の一人と称された。大正九(一九二〇)年、日活向島撮影所に、主演俳優として招かれ、、田中栄三監督作品「朝日のさす前」などに主演。一時は「舞台協会」に属したが、大正十二年には日活専属となった。溝口健二監督の初期の名作「霧の港」に沢村春子と主演。震災後は日活を退社し、「同志座」を結成、大正十五年に「宝塚国民座」の結成に参加して以来、舞台に専念した。満州への巡業慰問中に肺結核で倒れ、翌年に死去した。

「林千歲」(ちとせ 明治二五(一八九二)年~昭和三七(一九六二)年)東京市芝区琴平町生まれの俳優。本名は河野千歳。明治四十二年日本女子大学英文科入学。「文芸協会演劇研究所」に入り、この大正二年に第二期生として卒業している。この間、有楽座で協会公演「故郷」に松井須磨子と初舞台を踏み、「文芸座」公演など新劇初期に活躍した。大正九年、「国活角筈(つのはづ)撮影所」に入り、細山喜代松監督「短夜物語」で映画初出演を果たし、次いで巣鴨撮影所に所属、大正十一年に松竹蒲田へ招かれ、大久保忠素(ただもと)監督の「小夜嵐」に主演。池田義臣監督の「二つの道」以後、母親役から脇役に回り、昭和五(一九三〇)年に退社して、昭和八年には日活太秦に入った。昭和十七年の皇国映画配給の村上潤監督の「母の顔」で主演を演じている。

「金井」金井謹之助(明治二六(一八九三)年~二八(一九五三)年)は俳優。新国劇俳優として知られる。明治四十四年の「文芸協会」(彼は第二期生)第一回帝劇公演「ハムレット」で初舞台を踏んだ。大正六年、沢田正二郎の「新国劇」結成に参加、一時、離反したが、沢田の没後、新国劇再建のために尽力し、劇界の美談とされた。映画でも複数作品で主演をこなし、舞台では「沓掛時次郎」や「関の弥太っぺ」などを好演した。

「佐々木」既注の佐々木積。

「フューザン會」この大正二年に創設された美術団体。初めは「ヒュウザン會」と称したが、のち「フュウザン會」に改める。文展系の絵画に反発した高村光太郎・岸田劉生・斎藤与里(より)・木村荘八・萬鉄五郎(よろずてつごろう:私の非常に好きな画家である)らが組織し、機関誌『フュウザン(ヒュウザン)』を発行。後期印象派やフォーヴ風な個性的表現を志向し、当時の青年画家に大きな影響を及ぼしたが、翌年に解散した名前のそれはフランス語‘fusain’で「木炭」の意味である。

「順天中學」現在の東京都北区王子本町にある私立順天中学校・高等学校の前身。当時は東京府神田区中猿楽町(現在の神田神保町二丁目。グーグル・マップ・データ)にあった。

「自由硏究所」筑摩全集類聚版脚注に、『北山清太郎が設立した公開の絵画研究所。神田自由研究所のこと』とある。北山清太郎(明治二一(一八八八)年~昭和二〇(一九四五)年)は水彩画家・雑誌編集者で、同時代の若い画家たちを支援した人物として知られ、また、「日本初のアニメーション作家」の一人として知られる人物でもある。「日本水彩画会」大阪支部代表となり、「日本洋画協会」を設立、『現代の洋画』を発刊、「フュウザン会」の設立にも尽力し、展覧会開催を支援した。大正五(一九一六)年以降はアニメーションの世界に転じて、「北山映画製作所」を設立している。

「三並」画家三並花弟。「フュウザン会」所属。詳細事績不詳。

「小林德三郞」(明治一七(一八八四)年~昭和二四(一九四九)年)は洋画家。広島県生まれ。本名藤井嘉太郎(幼少期に伯父の養子となった)。明治四二(一九〇九)年東京美術学校西洋画科卒。「フュウザン会」所属。『ふくしま美術館所蔵品展示目録』(第百二十四号)の「再発見! 小林徳三郎」(PDF)に非常に細かい解説と年譜及び幾つかの作品のカラー画像が載る。必見! そこにはこの龍之介の書簡の引用もある。それを見ると、彼は「芸術座」の舞台装飾や書籍装幀なども手掛けている。

「江川一座」筑摩全集類聚版脚注に、『玉乗などの曲芸軽業の一座』とある。「大辞泉」の「江川の玉乗り」には、『明治初期から関東大震災前まで東京の浅草六区で興行していた江川作蔵一座の玉乗りの曲芸』とある。ウィキに、「江川の玉乗り」で知られる本名迫與三郎(さこよさぶろう)についての二代目「江川マストン」があるが、そこに、『「江川の玉乗り」は』明治一七(一八八四)年、『区画整理により』、『東京の「浅草公園六区」に見せ物小屋等が成立し始めたころから、関東大震災までの期間、常打ち』(じょううち)『小屋「大盛館」(現在の浅草新劇場の位置)で興行が行われた曲芸の一座で、幕末からのキャリアを持つ興行師・江川作蔵』★☜★『がこれを率いた』とある。『のちの二代目江川マストンは、初代マストンのもとで』大正六(一九一七)年、『江川 茶目(えがわ ちゃめ)の名で舞台に上がっている』。『同時期に軒を隔てた向こう側には第一共盛館(のちの大勝館)があり、青木一座が「青木の玉乗り」の興行を行い、競い合っていた』。『「江川の玉乗り」は小屋での見世物であり、大道芸ではなく、したがって江川は大道芸人ではない』とあり、『初代についてはほとんど知られていない』とある。これを見る限り、初代の江川マストンというのが、江川作蔵のようには読めるが、定かではない。なお、先の注に出した萬鉄五郎の「図版解説」(『美術研究』二〇〇九年三月・国立文化財機構東京文化財研究所発行。残念ながら、図版は総て除去されてある)として、田中淳氏の「萬鉄五郎  《軽業師》および《太陽と道》」(PDF)がこちらで読めるが、その絵「軽業師」は江川一座をこの前年の大正元(一九一二)年に描いたものらしい。そしてそこに、同年四月発行の雑誌『新小説』(一九一二年四月)にある「浅草研究」と題する特集記事の引用が掲載されてあり、その中の『高崎春月「池の向ふ歩き」は、当時の』『浅草のルポルタージュなかでも、ことに「玉乗り」の江川一座の見物記が含まれて』いるとして、以下が引用されている(漢字の表記はママ。踊り字「〱」は正字化した)。

   《引用開始》

大盛館の江川玉乗一座へ入る。入らはい入らはいといはれた言葉に連れられて、ウカウカと入つた。 そして又ウカウカと見物した。 綱渡りもあつた。 危険千萬な、心の躍るのを禁じられない様々な技藝が、様々な形に於て演じられた。世の中の種々な技藝が、漸く機械的にならうといふのに、この種の技藝が絶大な習練を要し演技者の自信を要し、而して多年の苦心努力を要するもので、今また多く世に容れられないものとなりつゝあるのを遺憾に思はずには居られない。我等は長くこの種の技藝を保存し置きたく思ふと同時に、この種の演技者を保護しなくてはなるまいと思ふ。先づ浅草の見世物を軒別に調査する必要がある。数年前まで今の大勝館の所に青木一座といふ玉乗があつた。今のオペラ館の所にも都踊があつた。世界館の所にも都踊式のものがあつた。電気館の所か、其所にも手踊があつた。○一も居た。海坊主も居た。書生剣舞加藤一座といふのも居た。兎に角常磐座を中心にしたあの附近は今でこそ総てを活動写真に、占領されて居るが、以前は日本式の見世物が並んで居たものである事を忘れてはならない。[やぶちゃん注:最後に引用注記があるが、省略した。]

   《引用終了》

文中の「○一」については、田中氏が『丸一(まるいち)と称された江戸太神楽の一派の名称である』とある。

「莊八」洋画家・版画家で随筆もよくした木村荘八(しょうはち 明治二六(一八九三)年~昭和三三(一九五八)年)。東京生まれ。「白馬会洋画研究所」に学び、岸田劉生とフューザン会・草土社を結成した。後に「春陽会」創立会員となる。小説の挿絵で名を馳せ、随筆家としても著名で、「東京繁昌記」の画文章は芸術院恩賜賞を受けている。また、邦楽評論家としても知られた。

「與里」洋画家。斎藤与里(明治一八(一八八五)年~昭和三四(一九五九)年)は埼玉県生まれ。本名は与里治(よりじ)。「京都聖護院洋画研究所」に学び、渡仏してローランスに師事。帰国後は後期印象派を日本に紹介し、岸田劉生らと「フュウザン会」を結成するなど、洋画界進展に大きな役割を果たした。後に大阪に移り、矢野橋村と大阪美術学校を設立した。

「DORA VON MOLLENDORFF の CONCERT」ドイツの女性ヴァイオリニストであるドーラ・フォン・メーレンドルフ(Dora Von Möllendorff 一八八六年~一九五九年)。同年十一月二十九日(土曜日)に帝国ホテルで鑑賞している。ネット上では邦文記載がまるでないが、英文サイトを見ると、彼女はこの頃、ヨーロッパで非常に成功したヴァイオリニストであったことが判った。

「ぺッツオルド」まず、既出既注の「ペツツオルド夫人」で、東京音楽学校教師として声楽の指導をした、ノルウェーのピアニスト・声楽家(ソプラノ)ハンカ・シェルデルップ・ペツォルト(Hanka Schjelderup Petzold 一八六二年~一九三七年)であろう。「補助として出演」とあるので、恐らくはピアノ伴奏をしたものであろう。

「久保正夫」(明治二七(一八九四)年~昭和四(一九二九)年)は芥川龍之介の一高・東帝大の後輩。大学では哲学を専攻し、第三高等学校講師となった。「フィヒテの哲学」などの翻訳で知られ、聖フランチェスコの関連書を多く訳し、友人であった劇作家の倉田百三とともに、大正時代の宗教文学ブームの先駆けを作った人物として知られる。

「石田」既出既注の後に歴史学者・東洋学者となった一高の同級生で親友の石田幹之助(明治二四(一八九一)年~昭和四九(一九七四)年:千葉市出身)のこと。

「FOUNDER」ファウンダー。創立者・始祖・開祖。

 「齋藤さん」斎藤阿具(あぐ 慶応四(一八六八)年~昭和一七(一九四二)年)は一高の教授で歴史学者(西洋史専攻)。夏目漱石の友人としても知られる。武蔵国足立郡(現在の埼玉県さいたま市)生まれ。明治二六(一八九三)年、東京帝国大学史学科卒業後、大学院に進み、明治三〇(一八九七)年に第二高等学校(現在の東北大学の前身)教授となったが、明治三六(一九〇三)年から三年間、ドイツ・オランダに留学した。この留学中に本郷区駒込千駄木町の家を漱石に貸し、漱石はここで「吾輩は猫である」を書いたため、「夏目漱石旧宅跡」として区指定史跡とされ、旧居記念碑が建っている(旧居は明治村に移築)。帰国後、第一高等学校教授となり、芥川龍之介・久米正雄・山本有三らを教えた。昭和八(一九三三)年、定年退官。名誉教授。日本とオランダの交渉史の研究で知られる。

「ウインデルバンド」ドイツの哲学者でハイデルベルク大学教授にして「新カント」派の代表であったヴィルヘルム・ウィンデルバンド(Wilhelm Windelband 一八四八年~一九一五年)。哲学史家としても知られる。

「攝生室」衛生室。保健室のこと。

「瀨戶さん」当時の第一高等学校長瀬戸虎記(とらき 明治二(一八七〇)年~大正九(一九二〇)年)。土佐国土佐郡高知生まれ。土佐藩士瀬戸直道の長男。高知尋常中学校から第一高等中学校英予科及び同校本科二部(理科)で学び、明治二九(一八九六)年、帝国大学理科大学物理学科を卒業後、岩手県立盛岡中学校教諭・東京高等師範学校教授・第六高等学校教授・長崎高等商業学校教授・文部省視学兼第一高等学校教授・文部省視学官などを歴任した後、この大正二(一九一三)年四月に第一高等学校長に就任していた。大正八(一九一九)年に病気で休職し、療養中に死去した。他に政府の臨時教育会議委員なども務めた。

「國民新聞」徳富蘇峰が明治二三(一八九〇)年に創刊した日刊紙。現在の『東京新聞』の前身の一つ。蘇峰が雑誌『國民之友』の発行に成功したのに気を良くして創刊したもので、当初は「平民主義」を唱え、平民主義の立場から政治問題を論じていたが、三国干渉問題を契機に帝国主義的国家主義の立場を採るようになり、明治後期から大正初期にかけては山縣有朋・桂太郎・寺内正毅ら藩閥勢力や軍部と密接な関係を持ち、「御用新聞」とも呼ばれる政府系新聞の代表的存在となっていた。筑摩全集類聚版脚注には、『瀬戸の談話は』「誠実なれ(『現代学生の欠陥)で十二月二日に掲載』とあるが、龍之介は「三日つゞきで論じてゐる」とあるからには、十二月一日或いはその前から書いていないとおかしい。

「ガルスウアシイの詩集 MOODS, SONGS AND DOGGERELS」イギリスの小説家・劇作家ジョン・ゴールズワージー(John Galsworthy 一八六七年~一九三三年)の一九一二発表の ‘Moods, Songs, and Doggerels’(「気紛れ、唄ども、ヘボ詩」)。‘Doggerel’(ドッゲル)は「内容も不真面目で、韻律も不揃いな下賤な詩」を指す語。一九一九年版であるが、‘Internet archive’のこちらで原本が読める

「ベルグソン」フランスの哲学者アンリ=ルイ・ベルクソン(Henri-Louis Bergson  一八五九年~一九四一年)。ここで龍之介が言う「流轉の哲學の思想」というのは名著とされる「物質と記憶」(Matière et Mémoire:一八九六年)に於ける心身の把握、実在とは持続の流動であると規定し、身体(物質)と心(記憶)を「持続の緊張と弛緩の両極に位置するもの」として捉えたことを指しているのであろう。

「MY DREAM の終の三つのスタンザなぞはいゝと思ふ」‘Internet archive’のこちらと次のページ。確かに。当時の龍之介好みの感じではする。

「高楠さん」仏教学者・インド学者高楠順次郎(たかくすじゅんじろう 慶応二(一八六六)年~昭和二〇(一九四五)年)。備後国御調(みつぎ)郡(三原市八幡町)の農家沢井家に長男として生まれた。当該ウィキによれば、幼い頃から祖父に漢籍を習ったが、旧家とはいえ、進学するだけの余裕はなく、十四歳で『小学校教員として働き始めた。その後、近隣出身で当時西本願寺を代表する学僧であった日野義淵(足利義山の子)や是山恵覚等の助力もあって』、二十一『歳の時、西本願寺が京都に創設したばかりの普通教校(現龍谷大学)に入学した。在学中は同志を集めて禁酒運動を始め』、『『反省会雑誌』(後の『中央公論』)を刊行した』。『その後、請われて神戸の裕福な高楠家の婿養子となり、その援助で英国に留学』(オックスフォード大学)し、その後、『ドイツやフランスにも留学。帰国すると』、『東京帝国大学で教鞭をとり』、明治三〇(一八九七)年に『梵語学講座を創設、自ら研究に励んだだけでなく、宇井伯寿』『など多くの逸材を育てた』。「大正新脩大蔵経」や「南伝大蔵経」『等の大規模出版物を次々と企画し』、『刊行した。さらに高楠は数々の高等教育機関の設立や運営にも携わり、その多くは今日』、『大学に発展している。知力』・『体力に恵まれ、たゆまぬ努力で巨大な業績を残したが、病気で家族を次々に失い』、『家庭的には恵まれたとはいえなかった。しかし自身は、祖父譲りの篤信の真宗信徒で、朝な夕な』、『仏壇に向かい』、『念仏を唱えていたという』。『子息の高楠正雄は出版社「大雄閣」を創業し、父の著書をはじめとした仏教関連書などを刊行している』とある。

「黑板さん」歴史学者(専門は日本古代史・日本古文書学)で東京帝国大学名誉教授黒板勝美(明治七(一八七四)年~昭和二一(一九四六)年)。旧大村藩士黒板要平の長男として長崎県彼杵郡(現在の長崎県東彼杵郡)に生まれた。大村中学校から熊本の第五高等学校を卒業後、明治二九(一八九六)年に帝国大学文科大学国史科を卒業し、帝国大学大学院に入学、同時に経済雑誌社に入り、田口卯吉の下でかの「国史大系」の校訂に従事した。明治三四(一九〇一)年、東京帝国大学史料編纂員となり、翌年には東京帝国大学文科大学講師を嘱託され、明治三十八年には史料編纂官兼東京帝国大学助教授となった。同年「日本古文書様式論」により東京帝国大学より文学博士の学位を授与されている。明治四十一年から二年間、私費で学術研究のために欧米各国に出張している。大正八(一九一九)年、史料編纂官兼東京帝国大学教授に就任した(翌年に史料編纂官を退任して東京帝国大学教授専任となった)。

「貝多羅葉」「ばいたらば」と読む。古代サンスクリット語の「木の葉」の意の漢音写。上古のインドに於いて針で彫りつけて経文を書き、紙の代わりに用いたタラジュ(単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科コウリバヤシ(行李葉椰子)亜科コウリバヤシ連コウリバヤシ属タラジュ(多羅樹)Corypha utan )の葉を指す。

「とりで」後の映画監督・脚本家・俳優で日本映画監督協会初代理事長となった村田実(明治二七(一八九四)年~昭和一二(一九三七)年:東京神田で大日本図書株式会社重役の一人息子として生まれ、東京高等師範学校附属小学校(現在の筑波大学附属小学校)から東京高等師範学校附属中学校卒業後、慶應義塾文科聴講生。帝劇文芸部の給仕から、作家の書生などを転々とした)が、明治四五(一九一二)年九月に実家の金でメーテルリンクなどに大きく影響を受けた演劇美術雑誌『とりで』を発行(翌年十月の八号までとされる。但し、年譜では観劇記録がない。龍之介自身、乗り気でない感じで、或いは見に行かなかったのかも知れない)し、その一歩で、同年十月に結成した新劇団「とりで社」。筑摩全集類聚版脚注によれば、これはその第二回公演とする。後に宝塚歌劇の演出家となる岸田辰弥や、舞踊家として海外で活躍することになる伊藤道郎、画家の木村荘八らが参加し、築地精養軒ホール・有楽座・福沢桃介邸の小劇場で公演を行い、この間に沢田正二郎・小山内薫らと知り合った。しかし家の経済に負担をかけたことから、翌大正三年には解散した。その後は喜多村緑郎門下などの新劇団を転々とし、下積み生活を送ったが、この間に父の事業が失敗した。後、「映画芸術協会」に参加、小山内薫の「松竹キネマ研究所」で「路上の霊魂」(大正九年)を監督した。洋画の手法を積極的に取り入れ、松竹の「蒲田調」に対し、男性的で重厚な日活現代劇の基礎を築いた人物として知られる。

「ウオーレン夫人の職業」バーナード・ショーの一八九四年(改訂の一九〇二年版もある)の戯曲‘Mrs Warren's Profession’。売春と結婚制度をテーマとしたため、イギリスでは劇場検閲制度によって上演禁止となった。筑摩全集類聚版脚注によれば、『この公演は村田実訳』とある。

「イエーツの幻の海」これは、アイルランドの詩人・劇作家ウィリアム・バトラー・イェイツ(William Butler Yeats 一八六五年~一九三九年)が一九〇一年に書いた一幕物の悲劇「海に騎(の)り行く者たち」(Riders to the Sea:一九〇四年)のこの時の邦訳題であろう。筑摩全集類聚版脚注によれば、『この上演は仲木貞一の訳』とある。前にも述べた通り、後に芥川龍之介の慫慂で、この井川恭が『新思潮』に翻訳することになる、あれである。仲木貞一(明治一九(一八八六)年~昭和二九(一九五四)年)は劇作家・編集者。当該ウィキを参照されたいが、この翻訳の記事は載っていない。

「根本」既出既注

「谷森」既出既注

「日本舘」「につぽんかん」(にっぽんかん)と読む。かの「浅草オペラ」(大正六(一九一七)年~大正一二(一九二三)年)の時代に浅草公園六区で初めてのオペラ常設館となった劇場・映画館(一八八三年十月開業。一九九〇年前後(既にピンク映画上映館となっていた)に閉鎖)。同所にあった根岸興行部の「金龍館」と競い合った。

「佐野」既出既注。例の「マント事件」の真犯人である。

「石原」既出既注

「黑田」既出既注

「八木」既出既注

『句あり「山羊の毛も刈らでくれけり秋の牧」』私は「やぶちゃん版芥川龍之介句集 三 書簡俳句」で芥川龍之介の最初期の一句として採用している。

「佐伯」既出既注

「坂下」坂下利吉。岩波新全集の「人名解説索引」に、『芥川の一高時代の同級生』でとし、『東京の生まれ』で、東帝大『哲学科卒』。愛媛『県立宇和島高等女学校長などを勤めた』とある。県立宇和島高等女学は現在の県立宇和島南高等学校も前身の一つ。同校校長在任は大正一五(一九二六)年から昭和六(一九三一)年であった。なお、「每日賄で生姜を食つた」というのは、この時、既に父母は東京にいなかったということであろうか。

「本鄕菊坂」ここ(グーグル・マップ・データ)。

「何とか日米露(ヒメロ)」不詳。この当て字の名前は妙に気になる。

「佐野にかしたのがかへつてこないと云つて悲觀してゐる」あいつじゃ、永久に帰ってこないよ、成瀬。もうとっくに質流れさね。

「玉乘の女を主人公にした小說起稿中」筑摩全集類聚版脚注には、『不明。浅草公園の芸人に取材して後に』久米正雄は『「手品師」(大正五年四月)を書いている』とある。同作は幸いにして、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらから読める。また、こちらの読書レビューによれば、『「手品師」のモデルは山本有三(第』三『次新思潮同人)。これに山本は怒り、その後、破船事件を挟んで二人は絶交状態に入』ったとある。私は久米正雄は夏目筆子への失恋後の筆禍といい、これといい、龍之介は最後まで彼を信頼したが(凄絶な遺稿「或阿呆の一生」(リンク先は私の古い電子テクスト)は冒頭の辞が彼に当てられて書かれてある)、私はそうした騒動が起こることを確信犯として行っているとしか思えない彼が、どうも好きになれないのである。

「山宮さん」一高・東帝大の一年上級の山宮允(さんぐうまこと 明治二三(一八九〇)年~昭和四二(一九六七)年)。後に詩人・英文学者となり、「日本詩人クラブ」の発起人の一人である。山形県生まれ。県立荘内中学校(現在の山形県立鶴岡南高等学校)から一高に進んだ。一高時代から『アララギ』の歌会に参加している。大正三(一九一四)年、帝大在学中に、中心となって第三次『新思潮』を豊島与志雄・山本有三・土屋文明・芥川龍之介・菊池寛・成瀬正一・久米正雄・佐野文夫・松岡譲とともに創刊した。大正四(一九一五)年に東京帝国大学英文科を卒業後、大正六年に川路柳虹らと「詩話会」を結成、大正七年には評論集「詩文研究」を上梓した。後、第六高等学校教授・東京府立高等学校教授・法政大学教授を務めた。ウィリアム・バトラー・イェーツやウィリアム・ブレイクの翻訳紹介で知られ、昭和二四(一九四九)年に日夏耿之介・西條八十・柳沢健らとともに「日本詩人クラブ」を創立、常務理事長を務めた。

「畔柳さん」英語学者で第一高等学校教授であった畔柳芥舟(くろやなぎかいしゅう 明治四(一八七一)年~大正一二(一九二三)年)。山形県生まれ、本名は都太郎(くにたろう)。東京帝国大学英文科卒。大学在学中から『帝国文学』などに論文を発表し、文芸批評家として注目された。明治三〇(一八九八)年に第一高等学校教授となり、後は「大英和辞典」(昭和六(一九三一)年冨山房刊・共著)などの編集に専念した。著書に「文談花談」(明治四〇(一九〇七)年春陽堂刊)・「世界に求むる詩観」(大正一〇(一九二一)年博文館刊)などがある。

「SHAW」バーナード・ショー。

「久保謙」筑摩全集類聚版脚注に、『大正六年東』帝『大英文卒、英文学者』とある。この七年後の大正九年四月に旧茨城県東茨城郡常磐村に設立された旧制水戸高等学校(現在の茨城大学の前身)で、創設以来、英語を教授したことが、ある論文に載っていた。

「久保勘」筑摩全集類聚版脚注に、『久保勘三郎。大正四年東』帝『大英文卒、英文学者』とある。

「TRANSCENDENTAL GOD」超自然的・形而上的な神。

「IDEAL」理想。

「プラトー」プラトン。

「BETONEN」「ベトゥネン」。ドイツ語。「重視する」の意。

「オイツケン」ドイツの新理想主義の哲学者ルドルフ・クリストフ・オイケン(Rudolf Christoph Eucken 一八四六年~一九二六年)。一九〇八年、「真理の倦むことのない探究と透徹した思想の逞しさ、世界に開かれた眼差し、温厚にして力強い叙述と、それによって理想的な世界観を代表し、発展させた」という理由により、ノーベル文学賞を授与されている。芥川龍之介の「大導寺信輔の半生――或精神的風景畫――」(大正一四(一九二五)年一月一日発行の雑誌『中央公論』発表)の草稿の「空虛」の中の一節で、『信輔も彼の友だちのやうに哲學を第一の學問にしてゐた。同時に又彼の「えらいもの」も哲學的を第一の條件にしてゐた。彼はその爲に何よりも先に哲學の中へ没頭した。當時の哲學はベルグソンに第一の座を讓つてゐた。信輔はまづ手當り次第に「時間と自由意志」へ侵入した。それは硝子の建築よりも透明を極めた建築だつた。彼はこの冷たい壮嚴の中を犬のやうに彷徨した。が、犬の求める肉は不幸にも其處には見當らなかつた。彼はベルグソンの建築を出た後、これも當時の流行だつたオイケンの門へはひらうとした。しかしオイケンの宗敎的情熱は忽ち彼を不快にした』と記している。私の「大導寺信輔の半生――或精神的風景畫――」(草稿附きの古い電子テクスト)を読まれたい。

「ネオロマンチツク」Neoromantic。新浪漫主義的。

SHAW AS A DRAMATIST」「劇作家としてのショー」。

「文展……」以下は総て既出既注。]

« 只野真葛 むかしばなし (21) | トップページ | 大和本草卷之十六 水獺(かはをそ) (絶滅種ニホンカワウソ) »