怪談老の杖卷之三 小豆ばかりといふ化物
○小豆ばかりといふ化物
麻布近所の事なり。貳百俵餘(あまり)程取りて、大番(おほばん)勤むる士あり。
此宅には、むかしより、化物ありと云ひけり。主人も左(さ)のみ隱されざりしにや、ある友だち、化物の事を尋ねければ、
「さして、あやしきといふ程の事にもあらず。我等、幼少より、折ふし、ある事にて、宿にては馴(なれ)つこに成りて、誰(たれ)もあやしむものなし。」
と、いひけるにぞ、
「咄しの種に見たきもの也。」
と望みければ、
「やすき事也。來りて、一夜(ひとよ)も、とまり給へ。さりながら、何事もなきときもあるなり。四、五日、寐給はゞ、見はづし給ふまじ。」
と、云ひけるにぞ、好事(かうず)の人にてやありけん、
「幾日なりとも、參るべし。」
とて、其夜、行(ゆき)て、寐(い)ぬ。
「此間なり。」
といふ處に、主人とふたり、寐て、はなしけるが、さるにても、『いかなるばけものにや』と、ゆかしき事、かぎりなし。主(あるじ)に尋れば、
「まづ、だまりて、見たまへ。さはがしき夜(よ)には、出(いで)ず。」
と、息をつめて聞居(ききをり)ければ、天井の上、
「どしどし」
と、ふむ樣(やう)なる音、しけり。
「すはや。」
と聞居ければ、
「はらり」
「はらり」
と、小豆(あづき)をまく樣なる音、しけり。
「あの、おとか。」
と、きゝければ、亭主、うなづき、小聲になりて、
「あれなり。まだ、段々、藝あり。だまつて、見給へ。」
と、いひければ、夜着をかぶり、いきをつめて居けるに、かの小豆のおと、段々に、高くなりて、後(のち)は、壹斗(いつと)程の小豆を、天井の上ヘ、はかる樣なる體(てい)にて、間(ま)ありては、また、
「はらはら」
と、なる事、しばらくの間にて、やみぬ。
また、聞ければ、庭なる路次下駄(ろしげた)、
「からり」
「からり」
と、飛石(とびいし)のなる音して、水手鉢(てうづばち)の水、
「さつさつ」
と、かけるおと、しけり。
「人や、する。」
と、障子をあけて見ければ、人もなきに、龍頭(りゆうづ)のくびひねりて、水、こぼれ、又、水、出(いで)やむにぞ、客人も驚きて、
「扨々、御影(おかげ)にて、はじめて、化ものを見たり。もはや、こはき事は、なしや。」
と、いひければ、
「此通りなり。外に、なにも、こはき事なし。時々、上より、土・紙くづなど、おとす事あり。何も、あしき事はせず。」
と、いはれける。
其後、かたりつたへて、心やすきものは、皆、聞きたりけれども、習ひきゝては、よその者さへ、こはくも、おもしろくも、なかりけり。
まして其家の者ども、事もなげにおもひしは理(ことわ)りなり。
しかれども、かの士、一生、妻女なく、男世帶(をとこじよたい)にて暮されけり。妾(めかけ)ひとり、外(そと)にかこひおき、男女の子、三人ありけり。
女などのある家ならば、かく、人もしらぬ樣にはあるべからず、いろいろの尾ひれをつけて、いひふらすべし。
「世の怪談」とて云ひふらす事は、おくびやうなる下女などが、厠にて、猫の尾をさぐりあて、又は、鼠に、ひたひをなでられなどして、云ひふらす咄し、多し。
この「小豆ばかり」は、何のわざといふ事を、しらず。
[やぶちゃん注:「小豆ばかり」これは「小豆計り」で、あたかも小豆を計量するために升にでも移しているかのような音を立てるこちに因むのであろう。最後のややくだくだしい「当世怪談考」らしきものや、その前の大番の主人の私生活を細かに描写するなど、かなりリアリズムに徹しようとする姿勢が見られ、妖怪「小豆研ぎ」なんどの眉唾ではなく、ポルター・ガイスト(Poltergeist)現象の都市伝説の真実味を、いや増しにさせる手法など、他の江戸怪談にはまず見受けられない、はなはだ上手いと私は思う。
「大番」将軍を直接警護する現在のシークレット・サーヴィス相当職であった五番方(御番方・御番衆とも言う。小姓組・書院番・新番・大番・小十人組を指す)の中でも最も歴史が古い衛士職。大番頭の下に与力が配され、一組に附き、十騎(「騎」与力の数詞)配属された。
「路次下駄」露地下駄(ろじげた)に同じ。本来は雨天や雪の場合に露地を歩く際に履く下駄で。柾目の赤杉材に竹の皮を撚(ひね)った鼻緒を付けた下駄。数寄屋下駄(すきやげた)とも呼ぶ。ここは私邸内の庭下駄。
「龍頭(りゆうづ)のくび」筧などで引き込んだ水か、高い位置に桶を設えて竹などで蛇口・水栓を作ってあるようである。なかなかお洒落だ。今まで、こうした手水鉢の細部描写は私は見たことがない。]