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2021/03/22

只野真葛 むかしばなし (22)

 

○善助樣は、弓にて、淸水(しみず)へ、めしかゝへられし人なり。弓稽古のはじめは、米田新八(よねだしんぱち)といふ弓の師、有しが、其父米田何がしは、眞實に弓好(ゆみずき)にて、ふかく執心こめて有しが、其頃、さし矢、大(おほ)ばやりにて有しを、

「何卒、通し矢の射越《いこし》せん。」

と願へども、其身の骨組(ほねぐみ)、弓術にそなはらぬを、遺恨におもひ、

「男子をまうけて、射させばや。」

と、おもひたち、所々を、ありきて、丈夫の女を見るに、上總の國にて、米俵を兩手に持(もち)、かろがろと、さし上(あげ)し女、有。

 すぐに、こひうけて、妾(めかけ)とし、ほどなく、はらみしかば、

「さてこそ。男子出生(しゆつしやう)うたがひなし。弓は、かれたるが、よき。」

とて、あらきの弓三十丁、あつらへたり。

 ある懇意の人、いふ。

「いかに願(ねがは)れしことなりとて、まづ、出生の男・女をみてこそ、あつらへられめ、餘りはしり過(すぎ)たる仕(し)かたなり。」

と、いさめしに、米田、かしらをふりて、

「いや。是は、たがふまじ。多年の執心、いかでか、むなしかるべきや。今、見られよ。」

と、いひしにたがはず、大の男子、出生なり。

 悅(よろこぶ)こと、かぎりなく、そだて上(あげ)て後(のち)、弓をひかするに、身のたけ六尺にこして、角力《すまふ》とりのごとくなる大兵(たい《ひやう》)にて、十分に引けば、矢づか、伸び過(すぎ)、是も、おもひのまゝならず。

「汝、我(わが)こゝろざしをつぎて、生付(うまれつき)、弓によろしきものを、見たてゝ、弟子となし、とほし矢いさせて、亡㚑(《まふ》れい)に手向(たむけ)よ。」

と、いひて、身まかりし、となり。

 新八は、父が遺言、身にしみて、道行人(みちゆくひと)も、あだに見ず、其(その)うみ付(つき)を、心中にたづねて有しが、ふと、ぢゞ樣と懇意になりて、來(き)かよひしが、善助樣、十か、十一、二の頃とや、遊びて有しを見て、橫手を打(うつ)てよろこび、有しことゞもを語(かたり)つゝ、

「何卒、此御次男、私が弓の弟子に致したし。」

と深切に申せしかば、ぢゞ樣も御悅(およろび)有(あり)て、それより、弓術、まねばせられし人なり。

 さほど、心にかけて尋ねしにて、生(しやう)、弓射(ゆみ《い》)に筋(すぢ)・骨《ほね》そなはりしと見立(みたて)、

「父のこゝろざしをとげん。」

と、おしへたてしこと故、かくべつ、上達のことに有しとぞ。

 父樣幼年の時分、善助樣、高田馬場にて、さし矢けいこ有しを、いつも御覽被ㇾ成しが、

「四、五人ならびて、おなじくいだす矢の、善助樣のは、二、三間、はやく行(ゆき)し。」

と被ㇾ仰し。十八、九、廿ばかりのころ京都へ御のぼり、こゝろ見に千射(せん《い》)を被ㇾ成しが、暫時に御仕舞被ㇾ成しとなり。

 とほらぬ矢は、少々ばかりにて有しが、誠の通し矢は、おびたゞしき物入(ものいり)にて、中々、自力におよばず、千射(せん《い》)ばかりにて、やみしぞ、口惜しき。

 是より、引つゞき、行(ぎやう)なさらんには、天下に名をもふるわる[やぶちゃん注:ママ。]べきに、御運、つたなかりしことは、世上に武藝をはげみしは、ゆうとく院樣御代の故なりしを、京に出入(でいり)三年御いでのうちに、御他界にて、順信院樣御代となり、江戶へ御下り御覽あれば、武藝の「ぶ」の字も、いふ人、なく、亂舞(らんぶ)一めんの代となり、とかくする内、新八も死去、弓いることは、もとより、心におこらぬ心なり。

 廿二、三の若ざかり、あそぶかたが、おもしろく、三味線けいこと變じて、はたと、弓を御すて被ㇾ成しは惜しむべきことなり。

[やぶちゃん注:「善助」真葛の父工藤平助の実父長井基孝の次男。平助は三男。

「淸水」清水徳川家。江戸幕府第九代代将軍家重の次男重好(延享二(一七四五)年~寛政七(一七九五)年)を家祖とする。時制的に初代の彼である。

「米田新八」弓道研究室の松尾牧則氏のサイト「弓道人名一覧」にある読みに従った。そこには「米田新八」の他に、米田新八良(よねだしんぱちろう)・米田新八郎知益(よねだしんぱちろうともえき)・米田新八郎正長(よねだしんぱちろうまさなが)といった面々が載る。柳沢吉保が抱えた弓の名手に『米田新八(後伴内)』がいたらしい。こちらで発見したので言い添えておく。

「通し矢の射越《いこし》」「通し矢」は弓術の一種目。「堂射」(どうしゃ)・「堂前」(どうまえ)などとも称した。京都蓮華王院(三十三間堂)の本堂西側の軒下(長さ約百二十一メートル)を、南から北に矢を射通す競技。幾つかの種目があったが、一昼夜に南端から北端に射通した矢の数を競う「大矢数」が有名。江戸前期に最盛期となり、有力藩の後ろ盾のもと、多くの射手が挑戦して記録更新が相次いだ。しかし中期以降は大規模な「通し矢」競技は行われなくなった。京都三十三間堂の他、「通し矢」用に作られた江戸三十三間堂や東大寺大仏殿回廊でも行われた。通し矢用に工夫された技術・用具は現代の弓道にも影響を与えている、とウィキの「通し矢」にあった。

「かれたるが、よき」エイジングを経たものがいいということであろう。

「あらきの弓」「荒木の弓」。荒木(切り出したままで皮を剝していない材木)で作った弓。丸木弓。また、強弓をも言う。

「六尺にこして」一メートル八十二センチメートルを有に越して。

「矢づか」「矢束」。矢の長さ。ここは、彼の腕の長さの方が長く、矢の長さが足りなくなってしまうことを言っているようである。

「亡㚑(《まふ》れい)」「㚑」は「靈」の略字。

「道行人も、あだに見ず」普通に外を歩いている折りにも、通り過ぎる人々の骨柄(こつがら)を品定めし。

「うみ付」生まれつきの弓道家となれる体軀。

「高田馬場」現在のこの「茶屋町通り」と「早稲田通り」に挟まれた細長い一帯(グーグル・マップ・データ。「古地図 with MapFan」で正確に確認出来る)には、寛永一三(一六三六)年に第三代将軍徳川家光により、旗本達の馬術の訓練や流鏑馬などのための馬場が造営された。なお、先般、必要があって調べてみたが、ここは明治を向えるまでは、一応、馬場としてあったが、江戸中期以降は、動物の死骸や埋葬あてのない人骨を捨てる場所として知られていたということを知った。

「さし矢」「差し矢」。近距離間での弓射法で、直線的に矢数を射ること。

「二、三間」三・六四~五・四五メートル。

「ゆうとく院樣御代」徳川吉宗(貞享元(一六八四)年~寛延四年六月二十日(一七五一年七月十二日))の諡号「有德院」。戒名は「有德殿贈正一位大相國」。江戸幕府第八代将軍(在職は享保元(一七一六)年から延享二(一七四五)年九月二十五日:引退。但し、自分が死去するまで大御所として実権を握り続けたから、ここはそこまでと考えてよい。死因は再発性脳卒中と推定されている)。

「京に出入三年御いでのうちに」善助は吉宗逝去の前後三年ほど、江戸の清水家と京都を頻繁に行き来していたらしい。

「順信院樣御代」「惇信院」の誤字。吉宗長男で第九代徳川家重(正徳元(一七一二)年~宝暦一一(一七六一)年七月十三日:在任:延享二(一七四五)年~宝暦一〇(一七六〇)年:彼は死去する前年の五月十三日に長男家治に将軍職を譲って大御所を称した)の諡号。戒名は「惇信院殿仙蓮社高譽泰雲大居士」。死因は尿毒症と推定されている。

「亂舞」原義は「入り乱れて踊りまわること・酒宴の席などで楽器にあわせて歌い踊ることで「らっぷ」とも読む。狭義には特に「『五節(ごせち)の帳台の試(こころ)み』(五節第一日の丑の日に天皇が直衣(のうし)・指貫(さしぬき)を着て、常寧殿又は官庁の大師の局(つぼね)に出で、舞姫の下稽古を観覧した儀式)や『寅の日の淵酔(えんずい)』(後に「えんすい」とも読んだ。平安以降、宮中の清涼殿「殿上の間」に殿上人を召して催した酒宴。参会者は朗詠・今様などを歌い、歌舞を楽しんだ。正月三が日の中の吉日又は新嘗祭などの後に行われた。「宴水」)に参加した殿上人などが「びんたたら」などという歌を歌って舞ったこと」を指すが、ここは、そのような乱れたどんちゃん騒ぎを呈することから転じて、天下泰平の御世が続き、将軍も一向に尚武の思い入れがなくなって、江戸八百八町がすっかりたるみ切って、「人が、何かにつけて、すぐに過度に喜んだり、興奮したりして跳ね踊ること」に喩えたものであろう。]

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