只野真葛 むかしばなし (26) /「むかしばなし 一」~了
○桑原のをぢ樣・をば樣は、世上の人には、よく、したしみ、下人などにも、めぐみふかき人なりしが、工藤家へ對しては、〆(しめ)が怨念のなすわざにや、あくまで、卑しめ、をとしめて、恥をあたへ、『こゝろよし』とおもはれしなり。【桑原家は、はやりで、さかりなり。工藤家は貧にて有し故、病家より、進物も少しなり。】[やぶちゃん注:原頭註。]
そのかたはしを、一ツ、いはゞ、夏むき物の、味のかはる時、諸方より、魚類をもらひかさね、義理首尾のなるだけは、人にくれつくし、上下(うへした)、食(くひ)あきて後(のち)、
「おけば、くさるゝ、犬にやらうか、工藤家へやらうか。」
といふ時ばかり、物を送らるゝ故、何をもらひても、
「又、あまし物ならん。」
と、うき心の先立(さきだち)て、うれしとはおもはず、うらみをかくして、こなたよりは、わざわざ、とゝのへたる物にて、禮をせしなり。
今の隆朝(りゆうてう)代(だい)となりては、いや、ますますに、何のわけもなく、工藤家ヘ衰《をとろふる[やぶちゃん注:ママ。]》が、よろこばしき下心にて有し。
先年の大火に類燒以後は、源四郞、かんなん申(まうす)ばかりなく、やうやう、もとめし藪小路の家へいるやいなや、枕もあがらぬ大病、終(つひ)に、はかなく成し後、日頃いやしめ、をとしめられし桑原へ、跡式《あとしき》のすみしぞ、口をしき。
隆朝は、若氣のいちずに、人のおもはんこともはからず、煙の中より、やうやうと、からく、たすけし諸道具・家財、家内の人の見る前にて、「見たをしや[やぶちゃん注:ママ。]」をよびて、うり拂(はらひ)、金五十兩となしたるは、むざんなることなりし。
「かゝることゝしりたらば、何しにか、助けいだしけん、いつそ、燒いてしまへばよかつた。」
と、家内の人は心中になげき、うらみて有しなり。
「書物は、養子方へ、ゆづりに。」
とて、わたしたちしをも、引(ひき)いだして、うり代(しろ)なせしとは聞しが、『誠か、うそか』と思ひて有しを、さる人の、
「此地の本屋にて、父の判のすわりし本を見あたりし。」
とて、
「哀(あはれ)、はかなき代(しろ)や。あれ程、名だかき人のもたれし書の、いくほどもなく散行(ちりゆく)は、いかなる人か、あとに立(たち)し。」
と、なげき語しことありし。
他人の目にだにも、なげかはしく見ゆるを、まさしき子の身として、いかで、うらみをふくまざらめや。
[やぶちゃん注:「隆朝」真葛の母方の祖父で仙台藩医桑原隆朝如璋(りゅうちょうじょしょう 元禄一三(一七〇〇)年頃~安永四(一七七五)年:如璋は医号であろう。読みは推定)の後を継いだ、真葛の母「お遊」の弟桑原隆朝純(じゅん)。既に注した通り、真葛の弟源四郎は父平助が病没(寛政一二(一八〇〇)年。享年六十七歳)した翌享和元(一八〇一)年に家督を継いで同じく仙台藩番医となり、その翌年には近習を兼ねたが、父の死から七年後の文化四(一八〇七)年十二月六日に未だ三十四の若さで過労からくる発病(推定)により、急死した。これによって、工藤家は跡継ぎが絶えたため、母方の従弟である桑原隆朝如則(じょそく:読みは推定)の次男で、まだ幼かった菅治が養子に入り、後に工藤周庵静卿(じょうけい:読みは推定)を名乗ることとなった(「跡式《あとしき》のすみし」はそれを指す)。男兄弟がいなくなったとはいえ、未婚の女子もある以上、婿養子という形の相続もあり得たが、桑原如則の思惑に押し切られる形で話が進んだという。如則は、また、ここに書かれている通り、工藤家の大切な家財道具や亡父平助の貴重な蔵書を、家人がいる前で、悉く、売り払ってしまったのである(以上はウィキの「只野真葛」に拠った)。
「先年の大火」江戸三大大火の一つである「文化の大火」。文化三年三月四日(一八〇六年四月二十二日)に発生。出火元は芝の車町(現在の港区高輪二丁目)の材木座付近で、午前十時頃に出火し、薩摩藩上屋敷(現在の芝公園)・増上寺五重塔を全焼し、折しも西南の強風にあおられて木挽町・数寄屋橋に飛び火し、さらに京橋・日本橋の殆んどを焼失、更に火勢止むことなく、神田・浅草方面まで燃え広がった。翌日の降雨によって鎮火したものの、延焼面積は下町を中心に五百三十町に及び、焼失家屋は十二万六千戸、死者は千二百人を超えたとされる。このため、町奉行所は被災者のために江戸八ヶ所に「御救小屋(おすくいごや)」を建て、炊き出しを始め、十一万人以上の被災者に御救米銭(支援金)が与えられた。
「かんなん」「艱難」。
「藪小路」愛宕下藪小路。現在の虎ノ門一丁目(グーグル・マップ・データ)の内。
「見たをしや」「見倒し屋」歴史的仮名遣は「みたふしや」が正しい。品物・古物を極めて安く評価して買い取るのを職業とした屑屋・古道具屋・古着屋などの類い。]
○源四郞、進代(しんだい)、御國わたりにて有しを、とかく、燒印(やきいん)のまちがい、でくるにより、願(ねがひ)の上、やうやう、江戶わたりに被二仰付一しに、存生中(ぞんしやうちゆう)、一度も、うけとらず、桑原家の手に、いる。はじめより、骨をらずにうけとることゝ成しを、家内の人、見聞ては、
「『犬、骨折(ほねをり)て、鷹に、とらする』とかいふ、たとへのごとし。」
と、口惜しがりて有しも、ことわりなり。
今は、やつかい、壱人もなく、ますます、桑原家のとめる世と成(なり)はてしを、親に孝ある人の、おめおめと、見しのぐべきことかは。
源四郞があとは、すてたるものとして、
『哀(あはれ)、我身、御みやづかへの御緣もあらば、身を八ツにさくとても、工藤平助といふ一家の名ばかりは、殘さんものを。』
と、天にいのり、地にふして、おもひ、やむとき、なし。
[やぶちゃん注:「進代」身代。
「御國わたりにて有し」禄が仙台の本城から給付されたということか。
「燒印(やきいん)のまちがい、でくる」意味不明。給付状の禄高の証明印に誤りがあったということか。
「江戶わたり」江戸藩邸で処理した直接の禄給付ということか。
「犬、骨折て、鷹に、とらする」「犬、骨折つて、鷹の餌食(えじき)となる」。鷹狩りでは犬が、折角、骨折って追い出した獲物も、鷹に取られてしまう。苦労して得たものを他人に横取りされることの喩え。
これを以って「むかしばなし 一」は終わっている。]