毛利梅園「梅園介譜」 鱟 (カブトガニ・「甲之圖」(被覆甲面)及び「腹之圖」(甲下腹面の二図))
□上面図(「甲之圖」)
鱟 カブトガニ
ウンキウ 筑前
鉢ガニ 安藝
朝鮮ガニ 長﨑
甲之圖
□下面図(「腹之圖」)
王世懋閩部疏曰瀕ㇾ海諸部、以二鱟皮ヲ一代ㇾ杓ニ
歳ニ省ク二銅千餘斤ヲ一、又曰鱟ノ之為ㇾ物、介ニ而中
坼厥ノ血蔚藍、熟スレハ之純白尾鋭ニ而長シ觸レハ 之能
刺ス、断テ而置ケハ ㇾ地ニ、其行ヿ郭索、雌常負フㇾ雄、觸テㇾ苟ニ
而逝ク或ハ得レハ二其雄ヲ一亦就ㇾ斃ニ
鱟其形兜ノ鉢ニ似テ其甲如ㇾ石ノ其甲上下两ニ分ル
頭圓下尖ル其腹各足五宛水カキノ豆螯(ハサミ)ナク各
足皆螯アリ他ノ蟹ニ異リ大ナル者ハ上リ※ニ
似リ乾タル者倉橋氏藏乞之寫
[やぶちゃん注:「※」=(上)「白」+(中)「比」+(下)「几」。]
腹之圖
丙申十一月十三日眞寫
○やぶちゃんの書き下し文
□上面図(「甲の圖」)
鱟 カブトガニ
ウンキウ 筑前
鉢ガニ 安藝
朝鮮ガニ 長﨑
甲の圖
□下面図(「腹の圖」)
王世懋(わうせいぼう)「閩部疏(びんぶそ)」に曰はく、『海の瀕(みぎは)の諸部、鱟(かぶとがに/コウ)の皮を以つて、杓(しやく)に代へ、歳(とし)に銅千餘斤を省(はぶ)く。』と。又、曰はく、『鱟の物(もの)と為(な)すに、介(かい)にて、中(なか)、坼(さ)き、厥(そ)の血、蔚藍(うつらん)なるも、熟すれば、之れ、純白たり。尾、鋭(するど)にて、長し。之れに觸(ふ)るれば、能(よ)く刺す。断(た)ちて、地に置けば、其の行くこと、郭索(かくさく)たり。雌、常に雄を負ふ。苟(かりそめ)に觸れても、逝(ゆ)く。或いは、其の雄を得れば、亦、斃(へい)に就(つ)く。』と。
鱟、其の形、兜(かぶと)の鉢に似て、其の甲、石のごとく、其の甲、上下、两(ふたつ)に分かる。頭、圓(まる)く、下、尖(とが)る。其の腹、各(おのおの)、足、五宛(いつつづつ)水かきの豆(まめ)〔にて〕、螯(はさみ)なく、各(おのおの)の足、皆、螯あり。他の蟹に異なり、大なる者は、「上り※(のぼりだこ)」に似たり。乾きたる者、倉橋氏藏すを乞ひて、之れを寫(うつ)す。[やぶちゃん注:「※」=(上)「白」+(中)「比」+(下)「几」。]
腹の圖
丙申(ひのえさる)十一月十三日、眞寫(しんしや)す。
[やぶちゃん注:図は正式な「梅園介譜」(今までの電子化では、梅園の別な人物が模写した「梅園介譜」も底本として交っており、そちらも「梅園介譜」であることには変わりがないので、そのままとした。現在、それぞれ図及び解説文を、漸次、改訂中である。悪しからず)の国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの「20」コマと「21」コマの図を用いた。本邦産は、
節足動物門鋏角亜門節口綱カブトガニ目カブトガニ科カブトガニ属カブトガニ Tachypleus tridentatus
で、かなり知られているので言わずもがなであるが、通常の我々が知っている「蟹」(カニ)類は、節足動物門甲殻亜門 Crustacea であるが、本カブトガニ類は、鋏角亜門 Chelicerata であって、「カニ」と名附くものの、カニ類とは極めて縁遠く、同じ鋏角亜門 Chelicerata である鋏角亜門クモ上綱蛛形(しゅけい/くもがた/クモ)綱クモ亜綱クモ目 Araneae のクモ類や、その近縁の蛛形綱サソリ目 Scorpiones のサソリ類に遙かに近い種である(鋏角亜門には皆脚(ウミグモ)綱 Pycnogonida も含まれる。なお、現生カブトガニは全四種である)。また、古生代の仲間の形態を色濃く残している「生きている化石」である。以下の異名から判る通り、本邦での嘗ての分布域は、瀬戸内海から北九州沿岸にかけてであった。当該ウィキによれば、『日本国内の生息分布は、過去は瀬戸内海と九州北部の沿岸部に広く生息したが、現在では生息地の環境破壊が進み、生息数・生息地域ともに激減した』。『現在の繁殖地は岡山県笠岡市の神島水道、山口県平生町の平生湾、山口市の山口湾、下関市の千鳥浜、愛媛県西条市の河原津海岸、福岡県福岡市西区の今津干潟、北九州市の曽根干潟、大分県中津市の中津干潟、杵築市の守江湾干潟、佐賀県伊万里市伊万里湾奥の多々良海岸、長崎県壱岐市芦辺町が確認されているが、いずれの地域も沿岸の開発が進んだ結果、生息できる海岸は減少している。なお』、二〇一九年には長崎市のスーパー・マーケットで売られていた『魚介類のパックに交じっていた』生きた『個体が発見され、長崎ペンギン水族館にて飼育されている』。なお、『日本以外では、インドネシアからフィリピン、東マレーシア』、タイ、ミャンマー、バングラデシュ、『揚子江河口以南の中国沿岸』に、別種二種の棲息が『知られて』おり、『東シナ海にも』棲息していて、韓国での『発見例もある』。また、北アメリカ東海岸の一部では有意に多くの別種一種の個体群が棲息する。則ち、現生の四種は、
カブトガニ属カブトガニ Tachypleus tridentatus (本邦産。全長(背甲の先端から尾節端まで)は♂で四十五~七十センチメートル、♀で五十五~八十五センチメートルで性的二型。現生カブトガニ中の最大種。属名「Tachypleus 」(タキプレウス)はギリシャ語由来で「速く泳ぐもの」、種小名「tridentatus 」(トリデンタトゥス)は「tri-」(三つの)+「dentatus」(鋸歯状の歯(棘)」の意。種小名の部位は「笠岡市立カブトガニ博物館」公式サイトのこちらで判る。意外にも甲殻中央後端(尾剣の出る部分の直上)のごく小さな棘状隆起である。前方背面の両側と中心にそれぞれ一対の複眼と単眼を有し、腹面の口器の前にも腹眼を持ち、この辺りはクモ類との相同性が窺える)
ミナミカブトガニ Tachypleus gigas (東南アジア産。種小名に反して、体長は二十五~五十センチメートルと本邦のカブトガニよりも小型である)
マルオカブトガニ属マルオカブトガニ Carcinoscorpius rotundicauda (東南アジア産。最大個体でも四十センチメートルと小型。属名「Carcinoscorpius 」は思うに、「Carcinos」(ギリシャ神話で英雄ヘラクレスがヒュドラを退治した際にヒュドラに加担してヘラクレスの踵を噛んだ蟹の怪物カルキノス。ヘラクレスに殺されたが、ヘラクレスの憎む女神ヘラによって蟹座の星となった)と「scorpius」(蠍(さそり)座」(スコルピウス) の合成であろう。外見は「カニ」だが、本当は「サソリ」の仲間という事実知見からみて、非常に面白い命名と思う)
アメリカカブトガニ属アメリカカブトガニ Limulus polyphemus (メキシコ湾を含む北西大西洋沿岸産。ヨーロッパでも迷走個体が発見されている。体長は五十センチメートル。♀に比べて♂の比率が高いことが確認されている。属名「Limulus 」(リムルス) は「少し傾いた」の意、種小名「polyphemus 」はギリシア神話の単眼巨人キュクロプスの一人であるポリュペモスに由来するもので、嘗て、本種の眼は一つしかないと考えられていたことによる。実際には、頭胸部の両側に単色性視覚機能を有する一対の大きな複眼があり、背甲に五個、腹面の口前方にも二個の単眼がある。単眼は胚・幼生期に既に形成されており、卵の中にあっても、光を感じ取ることが出来る。複眼や中央単眼は、それより感度が劣るが、成体では主要な視覚器官となる。また、これらとは別に、尾剣に光受容器が並ぶ。複眼は約一千個の個眼で構成されており、個々の個眼には三百個以上の細胞がある。この視覚感覚器官については、ウィキの「アメリカカブトガニ 」に拠った。アメリカカブトガニの視覚機能は非常に研究が進んでいる)
である。
「ウンキウ」「筑前」「本朝食鑑」(医師で本草学者であった人見必大(ひとみひつだい 寛永一九(一六四二)年頃?~元禄一四(一七〇一)年:本姓は小野、名は正竹、字(あざな)は千里、通称を伝左衛門といい、平野必大・野必大とも称した。父は四代将軍徳川家綱の幼少期の侍医を務めた人見元徳(玄徳)、兄友元も著名な儒学者であった)が元禄一〇(一六九七)年に刊行した本邦最初の本格的食物本草書)や、寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類」に(リンク先は私の古い電子化注。「鱟」の項を見られたい)、カブトガニの異名として『宇牟幾宇(うむきう)』(前者)『宇無岐宇』(後者)が載り、「本草綱目啓蒙」(江戸後期の本草学研究書。享和三(一八〇三)年刊。江戸中後期の本草家小野蘭山の「本草綱目」についての口授「本草紀聞」を孫と門人が整理したもの。引用に自説を加え、方言名も記している)には、これを筑前の方言とする。ここ(国立国会図書館デジタルコレクションの当該部の画像)。この異名の由来は未だに判らない。「笠岡市立カブトガニ博物館」公式サイトのこちらによれば、他に『岡山県「どんがめ」、広島県「だんがめ」、徳島県「びぜんがに」、愛媛県「かめごうら」「がわら」、福岡県や佐賀県などでは「はちがめ」、「がめ」、「うんきゅう」、大分県「うんぺこ」、「はちがんす」』とある。一つずっと感じているのは、甲部がそのように見えることから、「きゅう」は「臼」(歴史的仮名遣「きう」)ではないか? という疑いである。『「ウン」は?』と聴かれると困るのだが、例えば、あの完全に堅固にして寡黙な印象からは「吽」(口を閉じて出す音)が私には想起される。「吽臼」、如何でしょう?
「朝鮮ガニ」本邦では、通常のものと異なるものに「チョウセン~」と冠することは昔からよく行われてきたことは「チョウセンハマグリ」等のケースでお馴染みである(朝鮮半島に分布するカムルーチなどを「チョウセンドジョウ」と異名するのは真正と言える)から、蟹でないが、蟹っぽいごっついカブトガニの異名としては腑には落ちる。
「王世懋」(一五三六年~一五八八年)は明の漢民族出身の政治家で文人。
「閩部疏」「閩」は現在の福建省の広域旧称で、同地方の地誌。原文は以下。「中國哲學書電子化計劃」の影印本で起こした。
*
瀕海諸郡、以鱟皮代杓、歲省銅千餘斤。以蠣房代灰、眞石灰乃以配蔞葉檳榔啖、珍若食品。
鱟之爲物、介而中坼。厥血蔚藍、熟之純白。尾銳而長、觸之能刺。斷而置地、其行郭索、雌常負雄、觸苟而逝。或得其雄、雌亦就斃。
*
「瀕海」海に面した地域。
「皮」カブトガニの甲殻部。
「杓」柄杓。
「歳に銅千餘斤を省く」そのままで柄杓代わりに常時使用でき、長持ちするし、一銭もかからない。而して、年に銅に換算すると、一千斤(明代の換算で五百九十七キログラム)が節約出来るというのであろうか。
「鱟の物と為すに」これがよく判らないのだが、「カブトガニをいろいろな流通物品(ここは特に漢方生薬の謂いを感じさせる)として商品化する場合は」の意か。
「介にて」「魚介の物産として」の意か。
「中、坼き、厥の血、蔚藍なるも、熟すれば、之れ、純白たり」本体の体幹を裂いて、そこから得られるカブトガニの血液のことであろう。「蔚藍」は濃い藍色を指す。カブトガニの血が「青い」とされるのは、採取してすぐに主成分のヘモシアニン(hemocyanin:アカガイ類やゴカイ類などを除き(彼らはヘモグロビン(hemoglobin)と似た鉄由来の呼吸色素エリトロクルオリン(erythrocruorin)を持つ)、海産動物の多くは血中リンパ液に溶存する形でこれを持つ)の酸化が始まり、濃い青(特に本邦でそうだが、古く「青」は「濃い藍色」を指した)に変色してしまうことによる。本来の彼らの血液は透明或いは乳白色を呈する。但し、酸素との結合力はヘモグロビンよりも弱く、化学に詳しくはないが、或いは一度、酸化したものが、時間を経て、分解還元されると、脱色するのか? 或いは、ヒトの血液と同じで、時間が経つと、酸化したヘモシアニンが沈殿して血餅(けつべい)となり、上澄みの血清が「純白」となることを言っているのかも知れない。
「断ちて」がよく判らない。「体の一部を切る」では、何となく意味が通じない。「捕らえて、捕縄していたおいたものの縄を断ってやると」の意か? 或いは、やはり前者で、切断した脚や本体が、元気に動き出すさまを言っているのかも知れない。同じ仲間のクモ類でも、また、腔腸動物・軟体動物・昆虫類・多足類及びエビ・カニ(後者は自切線を有し、自ら切断する)・両生類・爬虫類でもごく普通によく見られる現象ではある。特に記述順列からから見ると、よく刺すところの後部端の尾剣(尾節)部分を切断して地面に置くと、前方の甲殻部だけで、何事もなく、音を立てて、素早く走り去る(次注)ということを言っていると、とるのが自然な気がする。
「郭索」蟹がかさこそと走り行くことを言う語のようである。私はもとは「がさごそ」の中国語のオノマトペイアであると考えている。
「苟に觸れても逝く」ちょっと人が触れるだけでも死んで(仮死して)しまうというのであろう。これは親しく見た訳ではないが、何となく腑に落ちる気がする。擬死は多くの動物で広く見られる現象である。同類のクモ類にもよく見られる。
「其の雄を得れば、亦、斃に就く」先の原文によれば、後半の主語は「雌」であり、ここは、「交尾を終えると直ちに死に至る」の謂いであろう。しかし、実際にはカブトガニは二十五年もの寿命を持つから、これは信じ難い。
「其の腹、各、足、五宛水かきの豆〔にて〕、螯なく」「笠岡市立カブトガニ博物館」公式サイトのこちらを見て戴くと、「前体」の「鋏角」と五対の「歩脚」の後ろのある、「後体」の「鰓脚」は、ぱっと見でも「豆」というのが腑に落ちるし、それらには脚と言っても螯(はさみ)はなく、「後体」の最前部の鰓蓋(えらぶた)を除くと、その「豆」状の「鰓脚」は「五対」あることが判る。
「上り※(のぼりだこ)に似たり。」(「※」=(上)「白」+(中)「比」+(下)「几」)ここをどう読むか、最も苦しんだ。何故、「たこ」=「凧」と読んだかは、大型のカブトガニは昔の凧(たこ)に似てはいないか? と思ったからである。因みに、「凧」は国字であって中国にはない。この奇妙な「※」の字はそれ自体が空を左右に振れる凧のように思われた。特に下の「几」は私には凧の脚のように見えたからである。
「倉橋氏」本カテゴリで最初に電子化した『カテゴリ 毛利梅園「梅園介譜」 始動 / 鸚鵡螺』に出る、梅園にオウムガイの殻を見せて呉れた「倉橋尚勝」であるが、彼は梅園の同僚で幕臣(百俵・御書院番)である。国立国会図書館デジタルコレクションの磯野直秀先生の論文「『梅園図譜』とその周辺」(PDF)を見られたい。
「丙申十一月十三日」。天保七年十一月十三日。グレゴリオ暦一八三六年十二月二十日。今から百八十六年前。【以上は2022年2月2日に再校閲し、図を自筆本に換え、解説文及び注も再度、校訂した。】]
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