怪談老の杖卷之三 吉原の化物
○吉原の化物
和推(わすい)といへる俳諧師ありけり。或とき、人にいざなはれて新吉原へ行(ゆき)しに、夜更(よふけ)て、
「用事を、かなへん。」
とて、厠へ行ぬ。
いたく醉ければ、足もとも定らず、ふみまたぎて、たれんとしけるが、何やらん、ある樣に覺えければ、よく見るに、女の首なり。
「ぎよつ」
と、せしが、不敵なる法師なりければ、少(すこし)もさわがず、
「そつ」
と、外へ出て、覗きてみて居(をり)ければ、此首、ふりかへり、笑ふ體(てい)、死(しし)たる者に、あらず。
法師、手をのばして、髮をからまき、引(ひき)ければ、首ばかりにてはなく、紅(べに)がのこの、古き小袖を着たる女なり。
「ぐつ」
と、引(ひき)あげければ、上へ引出(ひきいだ)しぬ。
裙(すそ)は、不淨にそまりて、くさき事、堪(たへ)がたし。
「何ものぞ。」
と、いへど、笑ふばかりにて、あいさつなし。
和推、若き者をよびて、
「しかじかの事ありし。」
と云ひければ、はしり來りて見て、
「手前の女郞衆(ぢよらうしゆ)なり。此比(このごろ)、時疫(はやりやまひ)を煩(わづらひ)て、引(ひき)こみ居(をり)しが、いつの間に、はいりぬらん、むさき事かな。」
とて、皆、よりて、裸にして、水をかけ、洗ひけり。
和推、打(うち)わらひて、
「扨は。ばけものゝ正體見たり。『左あらん』とおもひし事よ。」
とて、事もなげに、二階へ上りて寐(い)ぬ。
翌朝、若い者方(ものがた)より、いひ出して、みな人、和推が心の剛(かう)なりし事を感じけり。
うろたへたらん武士は、及ぶまじき、ふるまひなり。
酒をよく飮みけるが、是等は「上戶(じやうご)の德(とく)」ともいふべし。
韓退之(かんたいし)が文集の中に、厠の神の崇(たたり)にて、厠へ入りし事ありしと覺へぬ。よからぬ【不祥。】[やぶちゃん注:「よからぬ」の傍注。]事なるべし。
[やぶちゃん注:疑似怪談だが、短篇ながら、映像と臭いがよく伝わってくる。
「和推といへる俳諧師」享保年間の江戸の俳諧師に和推(二世調和)が実在する。松尾真知子氏の論文「享保時代の江戸俳壇 和推(二世調和)の動向」(PDF・『国文論叢』一九九四年三月発行所収)参照。
「新吉原」浅草北部にあった遊郭。サイト「錦絵でたのしむ江戸の名所」のこちらによれば、当初は日本橋葺屋町(ふきやちょう)の東側(グーグル・マップ・データ。以下同じ)に開設されたが、明暦二(一六五六)年に移転を命ぜられ、翌年の「明暦の大火」の後、浅草千束村(吉原弁財天本宮をポイントした)へ移った。これ以前を「元吉原」、以後を「新吉原」と呼ぶ。最盛期には三千人の遊女を抱えており、『日本堤から衣紋坂を通り、堤から遊郭が見えないように曲がった五十間道を経て、大門をくぐって入る。日本堤から衣紋坂へと曲がる東角に柳があり、客が振りかえって名残を惜しむ位置にあるために「見返り柳」と呼ばれる。周囲には「御歯黒溝(おはぐろどぶ)」と呼ぶ堀をめぐらし、出入り口は大門一か所として、遊女の脱走を防いだ。中央の大通り「仲之町」には、春には桜を、秋には紅葉を移植するなど、人工的な楽園を演出した』とある。このサイトはヴィジュアルが豊富でとても楽しい。お薦めである。
「法師」僧だったわけでは無論、ない。俳諧師は僧形だったから、かく言ったものである。
「紅がのこ」「紅鹿子」。
「むさき事かな」ここはもろに「きたならしい限りじゃ!」。
「韓退之が文集の中に、厠の神の崇にて、厠へ入りし事ありし」中唐の詩人・思想家で「唐宋八家文」の一人韓愈(七六八年~八二四年)の字(あざな)。儒家でも特に孟子を尊び、道教・仏教を排撃したことで知られ、柳宗元とともに「古文復興運動」に努めた。「厠の神の崇にて、厠へ入りし事ありし」(便槽に落ちたということであろう)という話は知らない。識者のご教授を乞う。
「よからぬ【不祥。】事なるべし」これは一応、この厠の中に落ちてしまった女郎を限定しているととっておく。]