譚海 卷之四 豆州南海無人島の事 附同國大島薩摩櫻島燒る事
○伊豆の東南海百里にあたりて無人島有。公儀より人の住居なるべき所にやと度々御用船遣(つかは)され、近來(ちかごろ)方角もよほど委しくしれたる事に成たりとぞ。此島元來四方(しはう)高巖(たかきいはほ)にして船を着(つく)べき所なし。波に船を打上(うちあげ)させて折よく岩の上に船をうちあげたる時相圖して岸にのぼる事也。波のよせくる首尾あしければ、船を巖(いはほ)にうちあてて損ずる事(こと)故(ゆゑ)、岸にのぼる波あひを待(まつ)事大事也とぞ。同所大島も又同じく波あひをみはからひて船をよせざれば、岸に寄付(よせつく)事成難(なりがた)しとぞ。此大島天明三年より燒はじめて、折々江戶の地までも地震の如くひゞく事あり。今二年へたれどなを[やぶちゃん注:ママ。]燒(やき)やまず、やけはじめたる比(ころ)は品川海上よりも夜分は火の餘光はるかに雲にうつりて見えたり。同じ比(ころ)薩州のさくら島もやけたり、是は一島殘りなく燒(やけ)くづれて海へやけ入(いり)、別にそれほどの島ちかき所に吹出したりとぞ。櫻島は廿萬石の田地ある所といへり。
[やぶちゃん注:この無人島が現在の何処を指すか、今一つ、条件が足りないのだが、四方が高い岩山であること、海岸が全面に岩礁性であること、本書が刊行された当時は無人島であった可能性が高いことなどを考えると(「譚海」は安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の凡そ二十年間に亙る彼の見聞奇譚をとり纏めたものであるが、ここで津村は「今二年へたれど」と言っていて、珍しくこの執筆時がほぼ天明五(一七八五)年であろうことが判明する特異点の記事となっている点にも注目されたい)、太平洋上の八丈島の南方六十キロメートルの位置にある伊豆諸島の一つである現在の東京都青ヶ島村青ヶ島(グーグル・マップ・データ)が一番に想起された。本土の伊豆下田から多少のカーブを描いて計測して二百七十キロメートルはある(「百里」は三百九十三キロメートルだが、これはもう遠距離のドンブリ表示と考えてよいから意味をなさない)。ここの名産の芋焼酎「青酎」は私の好きな焼酎である。
「同所大島」まあ、同じ伊豆諸島ではあるけどねぇ。青ヶ島だとすると、二百五十キロメートルぐらいは離れてるんですけど?
「大島天明三年より燒はじめて」伊豆大島の三原山は天明三(一七八三)年に噴火し、降灰があったが、実際にはこれは安永六(一七七七)年八月三十一日に三原山山頂火口から噴火が始まった、「安永の大噴火」の大規模な六年余りに亙ったマグマ性噴火の沈静期のそれに過ぎなかった。翌天明四年も噴火、天明六年にも噴火らしき現象があり、寛政元(一七八九)年頃に噴火して降灰があった。「安永の噴火」の完全な鎮静は寛政四(一七九二)年頃であった(ここは「気象庁」公式サイト内の「伊豆大島 有史以降の火山活動」のデータに基づいた)。
「江戶の地までも地震の如くひゞく事あり」近世から今日までの噴火では、現在のところ最後の大規模噴火であるから、軽々に大袈裟とは言えない。
「やけはじめたる比(ころ)は品川海上よりも夜分は火の餘光はるかに雲にうつりて見えたり」一九八七年十一月十五日から二十三日にかけての三原山の中規模噴火の際、私は二十一日の夜、友人と湘南に遊んだが、江ノ島の背後に直立して噴き上げるマグマの柱が手にとるように見えた。私はその時、千葉県の工場の燃焼煙突の炎だと勘違いしたほど、その紅蓮の炎ははっきりとしていたのを、今でも鮮やかに思い出す。
「同じ比薩州のさくら島もやけたり」これは「同じ比」と言っているが、「一島殘りなく燒くづれて海へやけ入、別にそれほどの島ちかき所に吹出したりとぞ」という叙述からは、安永八(一七七九)年十一月八日から始まった桜島の「安永大噴火」の伝聞情報が混ぜこぜになったものであろう。やはり「気象庁」の「桜島 有史以降の火山活動」のデータによれば、この日の『数日前から地震頻発、当日朝から海岸の井戸沸騰流出、海水』が『紫に変色』、午前十一時『頃から南岳山頂火口から白煙』、午後二時頃、『南岳南側中腹から黒煙を上げ』、『爆発、まもなく北東側中腹からも噴火』した。『翌日早朝から溶岩を流出。夜には北東沖で海底噴火が始まる。その後』、安永一〇・天明元(一七八一)『年までに海底噴火により』、『津波が発生、船が転覆する等の被害』が起こり、『海底噴火地域の隆起により』、『桜島北東海中に』八『つの小島が出現、その後接合あるいは水没して』五『島とな』った(「大正噴火」の後に更に一島が水没して現存するものは四島のみである)。この「安永大噴火」では死者が百五十余名にも上った。安永九(一七八〇)年にも海底噴火によって津波が発生、天明元(一七八一)年四月には高免(こうめん)沖の島で噴火が発生、津波を起し、死者八名・行方不明者七名・負傷者一名・船舶六隻損失、同年五月にも同じく高免沖で海底噴火が発生、翌年一月にも高免沖で海底噴火、天明三年九月にも南岳山頂火口で噴火が起こっている。]
« 甲子夜話卷之六 30 婦女の便所へ行を憚りと云事 | トップページ | 大和本草卷之十六 海驢 (トド 或いは 絶滅種ニホンアシカ) »