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2021/04/30

伽婢子卷之四 入棺之尸甦恠

 

    ○入棺之尸甦恠

[やぶちゃん注:標題は「につくわんのしかばね、よみがへるあやしみ」とルビがある。以下の挿絵は「新日本古典文学大系」版を用いた。]

 

Yomigaeri

 

 いにしへより、今につたへて、世にいふ。

「およそ、人、死して、棺にをさめ、野邊におくりて後に、あるひは、うづむべき塚の前に甦り、或は、火葬する火の中より、甦るものあり。皆、家に歸さず、打殺(〔うち〕ころ)す事、若(もし)は、病(やまひ)重くして絕死(ぜつし)する者、若(もし)は、氣のはずみて、息のふさがりし者、或は、故ありて、迷塗(めいど)を見る者あり。是等は、定業(ぢやうごふ)、天年、未だ盡ず、命籍(みやうじやく)、未だ削(けつら)ざる者なれども、本朝の風俗は、『死する』とひとしく、尸(かばね)を納(おさ)め、棺に入て、葬禮をいそぐ故に、たとひ、甦(よみがへ)るとても、葬場(さうば)にて、生(いき)たるをばもどさずして、打殺す。」

 誠に殘りおほし。

 されば、異國にしては、人、死すれば、まづ、「殯(かりもがり)」といふ事をして、直(すぐ)に葬送は、せず。

 此故に、書典(しよでん)の中に、死して、三日、七日、十日ばかりの後に甦り、迷途(めいど)の事共、語りけるためしを、多く記(しる)せり。

 それも、十日以後は、また甦るべき子細も、なし。

 頓死・魘死(おびへしに)などは、心すべし。

 されば又、

「葬禮の場にて甦りしをば、家にもどさず、打殺すものなりといひ傳ふる事も、故あり。」

といふ。

 京房(けいばう)が「易傳」に、

「至陰爲陽下人爲上、厥妖人死復生」(至陰(しいゐん)、陽と爲り、下人(かじん)、上(かみ)と爲る。厥(これ)、妖人(えうじん)死(し)せり、復(ま)た生(よみが)へる。)

と、いへり。

「死人、久しくありて後に甦る事は、これ、下剋上の先兆(せんてう)なり。」

といふ。

 此故に、甦りても、打殺す事なりと聞こゆ。

 大内義隆の家の女房、死(しに)けるを、野に送り出し、埋(うづ)まんとせしに、俄に甦りぬ。

「打殺さんは、無下〔むげ〕に、かはゆし。」

とて、連れて歸りしに、髮は剃り落としぬ。

 是非なく、尼になり、衣を着て、半年ばかりありて、又、死たり。

 其年、果して、家臣陶(すゑ)尾張守がために、義隆は國を追出〔おひいだ〕されたり。

 永祿年中に、光源院殿の家の下部(しもべ)、俄に死〔しに〕けるを、二日迄、置(をき)けれども、生出(いきいで)ざりければ、若き下部(しもべ)ども、尸(かばね)を千本に送りて埋まんとするに、忽(たちまち)に甦る。

「打殺して埋まん。」

といふに、此者、手を合せ、泣き叫びて、

「助けよ。」

といふ。

 さすがに、

「不敏(〔ふ〕びん)の事。」

とて、つれてかへり、部屋に置ければ、四、五日の内に、日ごろの如くなりたり。

 その年、五月に三好・松永、反逆(ほんぎやく)を起しぬ。

「尸(かばね)は陰氣にして、甦れば、陽に成りたる也。是れ、下として上を犯す先兆也。」

といふが故に、

「葬所(さうしよ)にて甦りし者は、二たび、家にもどさず、打殺す。」

と也。

 此(この)理〔ことわり〕は、ある事歟(か)、なき事歟。

 さもあれ、死人(しにん)の一族は、殘り多く侍らんものを。

 

[やぶちゃん注:漢文部は白文を示し、訓点に従って読んだものを後ろに附した。これは怪奇談というよりも、寧ろ、蘇生を凶兆とする言い伝えを評釈(それを示すために多く鍵括弧を附した)という体裁で示したもので、怪奇譚としては、今一つ、面白味を欠く。この手のものは枚挙に暇がなく、私も好むことから、複数の類型怪談を電子化しているが、私は断然、三坂春編(みさかはるよし 元禄一七・宝永元(一七〇四)年?~明和二(一七六五)年)が記録した会津地方を中心とする奇譚(実録物も含む)を蒐集したとされる寛保二(一七四二)年の序を持つ「老媼茶話(らうあうさわ(ろうおうさわ))」の「入定の執念」を推す。私の偏愛する一篇で、ブログ新翻刻注版と、古いサイト版訳注版があるので参照されたい。

「棺」江戸時代の土葬の場合の棺桶は、樽や桶のような縦型の「座棺」で、遺体は手足を折り曲げた「体育座り」のような状態で納められた。これは二人いれば、担いで埋葬することが出来るという、至って実用的意味が、まず、あったものであろう。

「皆、家に歸さず、打殺(〔うち〕ころ)す事、」文章としては以下への繋がりが悪い。後で述べる通り、これ(その場で打ち殺すこと)が通例であったのだから、「打殺す事を常軌とす。」とでも添えて切って解釈するべきところである。実際、江戸時代、こうした仮死状態で葬送されてしまい、その途中で生き返るケースは、ままあった。その場合、放逐されるのはいい方で(その場合、当時は被差別民となることになる)、実際に打ち殺されたという事例も知っている。その場合、被差別民であった穢多・非人が打ち殺す役を命ぜられ、最悪の場合、蘇って殺された者の死体は埋葬もされず、刑場や牛馬の死体置き場に捨てられたという記事も読んだことがある。特に公儀の「仕置き」(死罪ではないレベルのそれ)の結果として「死んでしまった」と見做された者が蘇生してまった場合は、後者の処理が必ず行われたようである。信じられない方のために因みに言っておくと、氏家幹人氏の「武士道とエロス」(一九九五年講談社刊)によれば、かの知られた高田馬場が、『ふだんは白骨の捨場になっていると、延宝八年(一六八〇)に天野弥五右衛門』長重(旗本・先手鉄炮頭・知行二千五百石余)が記した「思忠志集(しちゅうししゅう)」に『高田馬場、馬乗之儀遠ク、白骨捨場ニ成候事』と『書きとめているのである。一口に「白骨」といっても、必ずしも人骨とは限らず牛馬犬猫の骨も含まれていたとは思われるが、それにしても、将軍代替りの折にハレの流鏑馬が華々しく催されるその同じ場所が、あたかも無縁墓地のようであったとは……。すくなからぬ驚きを感じないではいられな』い、と記しておられるのである。本「伽婢子」の刊行は寛文六(一六六六)年で、かく天野が記す僅か十四年前である。既に白骨の放置は始まっていたのではあるまいか? ともかくも、身分によるであろうが、「葬送のシステム」が既に起動してしまって、相続などの後処理が進行している中では、「甦(よみがえ)り」は決して歓喜すべきものではなかったことが多いことは認識しておく必要がある。

「絕死(ぜつし)」「氣のはずみて、息のふさがりし者」孰れも仮死状態(一過性の呼吸停止・呼吸減衰・心停止などの心肺機能の一時的低下)になることを言う。

「故ありて、迷塗(めいど)を見る者あり」本書でも「地獄を見て蘇(よみがへる)」の孫平のように、蘇生後に「冥途を見てきた」と語り出す事例である。怪奇談には仮死まで行かなくとも、人事不省中に地獄に行って帰ってきたとするものは、これまた、枚挙に暇がない。一つ、私の「小泉八雲 閻魔の庁にて  (田部隆次訳) (原拠を濫觴まで溯ってテツテ的に示した)」をリンクさせておこう。

「定業(ぢやうごふ)」前世から定まっている善悪の業報 (ごうほう) 。決定業 (けつじょうごう) 。定まった「生死」(「天年」天然自然と正法(しょうぼう)があらかじめ定めた命数・生存期間)から外れれば、それは、無効である。

「命籍(みやうじやく)」「死籍(しせき)」に同じ。地獄の閻魔王のところに保管されているとされた、死者の名と死すべき命数を記した帳籍。「未だ削(けつら)ざる者」とあるからには、死がその帳簿通りに正しく発生し、地獄の審判が終了すれば、その名は削除されるということになる。

「殘りおほし」「親しい親族にとっては、情の上では、やはり心残りが多い」というのであろう。心情的には非常に納得出来る。

「異國」先に「本朝」として述べたから、この場合は外国、中国(後注参照)を指すと考えてよい。但し、「殯(かりもがり)」=「殯(もがり)」の習俗は本邦にも古代からある。高貴な人物は、蘇生を望む残された者たちの気持ちもあって、天皇の「殯宮」(もがりのみや:「万葉集」には「あらきのみや」とする)はよく知られているから、この限定は不審である。

「死して、三日、七日、十日ばかりの後に甦り、迷途(めいど)の事共、語りけるためしを、多く記(しる)せり。それも、十日以後は、また甦るべき子細も、なし」「新日本古典文学大系」版脚注に、『蘇生説話の多くは十日以内。中には塚中より十数年後に蘇り、父に帰還を拒絶された話(太平広記三七五・崔涵)もある。「趙簡子死シテ七日ニシテ甦ル。…程子ノ曰ク、死シテ復(また)甦ル者有リ。故ニ礼ニ三日ニシテ斂』(れん)『ス。イマダ三日ニナラズシテ斂スルハ皆之(これ)殺スノ理有リ遺書』事文前集五十一・死・七日復甦」。』とある。「太平広記」の「再生一」の「崔涵」は「中國哲學書電子化計劃」のここから(「塔寺」を出典とする。影印本を選んだ)。「趙簡子」は春秋時代の晋の政治家趙鞅(ちょうおう ?~紀元前四七六年)のこと。

「頓死」急死。予兆のない俄かな異常な死の意。

「魘死(おびへしに)」恐懼のためのショック死。但し、この語は古くは「睡眠中に魘魅(えんみ:物の怪・夢魔・恐ろしい夢)に襲われたまま、眠りから目覚めないこと」を指す語であるから、この場合の仮死状態に非常によく合致する。

「葬禮の場にて甦りしをば、家にもどさず、打殺すものなりといひ傳ふる事も、故あり」この理由は以上の文脈では必ずしも明らかでない。寧ろ、古い汎世界的な信仰としての、死んだ者の死骸は、文字通り、魂が抜けてしまった「骸」=「から」=「空」であり、そこには邪悪な悪霊や魔の物が入り込んで、生き返ったように見せ、禍いを齎すとしたもので説明されるべきである。了意は敢えて意味深長に「故あり」とのみ出して、以下の凶事の予兆説を展開する枕としたのである。

「京房(けいばう)」京房(紀元前七七年~紀元前三七年)は前漢の「易経」の大家。元の姓は「李」であったが、自ら「京」氏に改姓した。

「易傳」ウィキの「京房」によれば、『京房の著作として『京房易伝』が残っているが、これは『漢書』五行志にしばしば引用されている『京房易伝』とはまるで一致せず、『漢書』の引用の方が信頼できるものであるとされている』とある。

「至陰爲陽下人爲上、厥妖人死復生」前注引用に従い、「中國哲學書電子化計劃」で「漢書」の当該部を見つけた。影印の後ろから二行目と最終行にかけて類似する文字列を見る。

   *

「不則爲私、厥妖人死復生。」。一曰、「至陰爲爲陽、下人爲上。」。「六月、長安女子有生兒、兩頭異頸面相鄕、四臂共匈俱前鄕。」。

   *

この前半の二つの異文を、了意は恣意的に合成したものと思われる。

「至陰(しいゐん)、陽と爲り、下人(かじん)、上(かみ)と爲る。厥(これ)、妖人(えうじん)死(し)せり、復(ま)た生(よみが)へる。」意味はよくは判らぬが、

   *

「死」という究極の「陰」が変じて、真逆の「陽」として「生」者に戻るということは、陰陽説から見れば、あってはならない異常な事態であり、さればこそ、人間社会に喩えれば、身分が「下」の人間が何らの理論的裏付けなしに、突如、「上」となることに外ならない。これは、妖しげな人間が既に死んだのに、再び蘇るように見えるということで、確かに予兆されることである。

   *

という意味で了意は採っていると私は思うのである(本当にそうかどうかはよく判らぬが、引用した後半部は明らかに先天性奇形の双頭型の結合双生児の出生を示しているが、それも凶兆の最たる現われとするものなのであろう。さすれば、チェルノブイリ原発の事故後の出来事ははまさに「ニガヨモギ」の星の落下による致命的な汚染の「黙示録」の再来と言えるであろう)。「新日本古典文学大系」版脚注には、『京房易伝第二句「下の者が上に剋(か)つ」の思想。鎌倉中期から応仁の乱の最盛期を経て、戦後時代を通じる時代精神となった』とある。

「大内義隆」(永正四(一五〇七)年~天文二〇(一五五一)年)は既出既注だが、再掲しておく。戦国武将。大内義興の長男。周防・長門・安芸・石見・筑前・豊前の守護。大友氏・少弐(しょうに)氏と戦い、九州北部を掌握した。文学・芸能を好み、明・朝鮮と交易し、また、フランシスコ・ザビエルに布教の許可を与えた。重臣陶晴賢(すえはるかた)の謀反に遭い、長門の大寧寺で自刃した。

「家の女房」「新日本古典文学大系」版脚注には、『侍女、もしくは側室。後者とするなら、義隆の最初の正妻は万里小路』(までのこうじ)『殿の息女で、次いでそのお付きであった』「おさいの方」『が、さらに広橋殿の息女も側室であったという(大内義隆記)。なお、室町殿物語一・大内義隆、九州発向の事では、持明院基規の息女も妻とされ、義隆自害後、入水したと記す』とある。

「無下〔むげ〕に」捨てて顧みないでいるには。

「かはゆし」見るに忍びない。可哀そうで見ておられぬ。

「義隆は國を追出〔おひいだ〕されたり」注した通り、追い出されるどころか、追い詰められて自害している。

「永祿」一五五八年~一五七〇年。室町幕府将軍は足利義輝・足利義栄(よしひで)・足利義昭であるが、実際には以下から「永禄の変」の年であるから、永禄元年から永禄八(一五六五)年四月以前の閉区間となる。

「光源院殿」第十三代将軍足利義輝(天文五(一五三六)年~永禄八(一五六五)年/在職:天文一五(一五四七)年~没年)の戒名「光源院融山道圓」の院号。松永久秀の長男久通と三好三人衆(三好長慶の死後に三好政権を支えて畿内で活動した三好氏の一族或いは重臣であった三好長逸(ながやす)・三好宗渭(そうい)・岩成友通(ともみち))が主君三好義継(長慶の養嗣子)とともに清水寺参詣を名目に集めた約一万の軍勢を率いて、二条御所に押し寄せ、「将軍に訴訟(要求)あり」と偽って、取次ぎを求め、御所に侵入し、義輝は殺された(「永禄の変」)。享年三十。討死とも自害とも語られており、定かではない。

「千本」「新日本古典文学大系」版脚注に、『京都市上京区今出川町から北の地域。蓮台野の墓地を控え、閻魔堂や釈迦堂があった』とある。この附近

「不敏(〔ふ〕びん)」「不憫」「不愍」の当て字。可哀そうなこと。憐れむべきさま。

「その年、五月に三好・松永、反逆(ほんぎやく)を起しぬ」「永禄の乱」は永禄八(一五六五)年五月十九日(ユリウス暦一五六五年六月十七日/グレゴリオ暦換算六月二十七日)で、この日に義輝は没している。

「さもあれ」「然もあれ」。それにしても。ともかくも。ままよ。さもあらばあれ。ここは「それにしても」がいい。何故なら、やや判りにくい「死人(しにん)の一族は、殘り多く侍らんものを」というのは、「死んじまった者の遺族や一族当人どもは、皆、平然と、永く生き残っているというのに強い疑義と批判である。これは、「蘇生した人間を残ってぴんぴんしている連中が、打ち殺すということは人道に悖る」ということを最後に了意は述べているのだと思うからである。了意は「悪人正機」を奉ずる浄土真宗の僧である。基本に於いて、正法(しょうぼう)が認めた命数に満ちていないのだからこそ正当に甦ったのであり、その者を打ち殺すということは仏法の絶対の「理」に於いて認められないからである。仮に、悪しき霊が憑依して生き返ったかのように見えている物の怪であっても、それは、そもそも、正しき阿弥陀如来の不可思議な光=力によって調伏されるはずのものなのであって、人が安易に殺すべきものではあり得ないし、正真正銘の物の怪ならば、寧ろ、物理的に殺すことは凡人には出来ないはずだ、というような疑義が漏れ出たもののようにも、私には思われるのである。

2021/04/29

伽婢子卷之四 一睡卅年の夢

 

   ○一睡卅年の夢

 亨祿四年六月に、細川高國と同名(どうみやう)晴元と、攝州天王子にして合戰す。

 高國、敗北して、尼が崎まで落行〔おちゆき〕つゝ、道、せばくして、自害したり。

 家人(けにん)遊佐(ゆさの)七郞は、牢浪して、芥川の村に隱れ居たりしが、

『京都に上りて、如何なる主君にも仕へ奉らん。』

と思ひ、中間(ちうげん)一人、めし連れて、都に赴く。

 山崎の寶寺(たからてら)にまうでゝ、やすみ居たるに、しきりに、ねふり、きざしければ、東の廊下に、暫く、臥(ふし)侍べりし。

 夢に……見るやう……

……寺の門前に出〔いで〕ければ、一人の夫男(ぶをとこ)、一つの籃(かご)に楊梅子(やまもゝ)を入れて、休み居たり。

 遊佐、立寄りて、

「誰(たれ)が家の者ぞ。」

と問(とへ)ば、

「山崎の住人交野(かたのゝ)次左衞門が家に召つかはるる者也。交野殿は、將軍家に屬(しよく)して、打死し給ひ、一人の娘、おはします。西の郊(をか)の石尾(いしをの)源五殿は、三好に打たれ給ひ、今は孀(やもめ)にて、歸り住み給ふ。年、いまだ、廿一也。母は六十有餘にて、才覺、すぐれ給へり。『一門の末ならば、重ねて、聟に取り、家督を讓り參らせむ』と仰せあり。」

と語る。

 遊佐、これを聞て、吃(きつ)と思ひめぐらせば、

『交野が妻は、我が姨(をば)也。久しく、便り、うしなひ、何方〔いづかた〕にありとも聞かざりける。扨は。山崎に住給ふか。尋行〔たづねゆ〕きて、名のらばや。』

と思ひ、男に具(ぐ)して尋行たりければ、姨(をば)に、まがひもなく、互ひに名のり合ひけるに、姨、嬉しさのあまり、淚を流し、内に呼び入れて、一族の行衞を尋ね問ふに、それかれ、多くは、皆、打死して、七郞ばかり、わづかに、ながらへたり。

 姨のいふやう、

「我が賴りとては、娘、たゞ一人、あり。和殿〔わどの〕は又、みづからが甥也。睦(むつ)まじく、戀しきぞや。京にのぼらずとも、あれかし。聟になして、心安く見ばや。」

といふ。

 遊佐、嬉しく思ひ、やがて約束し、

「明日(あす)こそ吉日なれ。」

とて、親しきともがらを呼び集めて、さまざま、調(とゝのへ)て、緣を結ぶ。

 妻の女房を見れば、顏かたち、みやびやかに美くしかりければ、いとゞ嬉しさ、限りなし。

 婚禮の用意、はなはだ、花麗なり。

 日ごとに、客を集めて、酒宴におよぶ。

 遊佐も樂しみにほこりて、思う事もなし。

 或日、京都より、兩使あり、將軍より召給ふ。

 急ぎ、上洛しけるに、公方(くばう)の御氣色、こゝろよく、すなはち、一萬貫の所知(しよち)を下され、河内守に任ぜらる。

 かくて、京都に伺公(しこう)する事、二年、其の間(あひだ)に、公方の相伴衆(しやうばんしゆ)になされ、威勢高く、肩を並ぶる人、なし。

 すでに御暇(いとま)給はりて、山崎に歸り、要害の地を點じて、家、造り、夥しう取り立〔たて〕たり。召使ふ上下の侍、出入〔いでいる〕ともがら、數しらず、門外には、繋ぎ馬の、たゆる隙〔ひま〕もなく、諸方より、つどひ來る使者、日ごとに多し。

 早や、三十年の星霜(せいざう)を經て、男子(なんし)七人・女子三人をもちたり。

 男子四人をば、京都にのぼせて、將軍家に奉公せしむ。

 女子二人は、津國(つのくに)・河内の間(あひだ)に遣はして、武家の名高き細川なにがしの新婦(よめ)となし、兄弟を聟とす。

 内外(うちど)にかけて、八人の孫をまうけ、一家の繁昌、この時にあたれり。

 かゝる所に、思ひかけず、敵三千餘騎にて押寄せ、四方より、要害に火をかけ、閧(とき)をつくりて、せめ入〔いつ〕たり。

 妻子、驚きて、泣き叫び、家人は恐れて、落ちうせければ、防ぐべき力なく、腹を切らんとする所に、敵、はや、打入〔うちいつ〕て、引〔ひつ〕くみ、いけどるほどに、これに組みあふて、押し返し、刎(は)ね返す……と覺えて……

……汗水になりて……

……夢は、さめたり。

 遊佐、起きあがりて、中間に、

「今は、何時(〔なん〕どき)ぞ。」

と問ふに、

「日は、未だ、未(ひつじ)の刻。」

と答ふ。

 只、一時のあひだに、卅年を經たり。

「思へば、是れ、『邯鄲一炊(かんたん〔いつ〕すい)の夢』、よきもあしきも、此世は夢也。」

と、さとりて、中間には、いとま取らせ、我身は、直(すぐ)に發心(ほつしん)して、高野山に籠りて、道心堅固(けんご)の修行者(しゆぎやうじや)となりぬ。

 

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[やぶちゃん注:夢落ちであるので、特定的に「……」を使用した。挿絵は「新日本古典文学大系」版をトリミング補正した。幅は前後していない。左幅は夢から醒めたシーンを描いている。最後に述べている通り、中唐の伝奇小説沈既濟撰の「枕中記」をコンパクトにした感じの話である。私のサイトには、『芥川龍之介「黃粱夢」 附 藪野直史注・附 原典 沈既濟「枕中記」全評釈・附 同原典沈既濟「枕中記」藪野直史翻案「枕の中」 他』という強力なページがある。

「亨祿四年六月に、細川高國と同名(どうみやう)晴元と、攝州天王子にして合戰す。高國、敗北(はいぼく)して、尼が崎まで落行〔おちゆき〕つゝ、道、せばくして、自害したり」戦国初期の享禄四年六月四日(一五三一年七月十七日)に摂津大物(現在の兵庫県尼崎市大物町。グーグル・マップ・データ。以下同じ)で行われた合戦「大物崩(だいもつくず)れ」。赤松政祐・細川晴元・三好元長の連合軍が、細川高国・浦上村宗(うらがみむらむね)の連合軍を破った戦い。「天王寺の戦い」「天王寺崩れ」とも呼ぶ。当該ウィキによれば、「桂川原の戦い」(大永七(一五二七)年二月京の桂川原一帯で行われた戦い。詳しくは当該ウィキを読まれたいが、これが後注する「堺公方」誕生の契機となった)で『敗れて近江に逃れた管領細川高国は、伊賀、伊勢、備中、出雲を巡ったが』、『救援を拒絶された。管領の権威が失墜した高国に援軍を差し向ける勢力が』ない中で、『備前守護代の浦上村宗が要請に応じた。高国と村宗の関係は赤松氏の庇護下に在った』室町幕府第十二代将軍『足利義晴の身柄を拘束するなどの協力関係にあり、村宗は管領である高国の権勢を借りて播磨統一を果たしたいという野心があり、桂川原で敗北した窮状を打開したい高国との利害は一致していた』。享禄三年七月に『村宗の念願であった播磨統一を成し遂げると、今度は高国の宿願を果たすため、摂津へ侵攻、池田久宗(信正)が守備する池田城を翌』享禄四年三月六日に陥落させ、その翌日には、『京都を警護していた晴元派の木沢長政が突然の撤退』をし、『代わって』、将軍山城(しょうぐんやまじょう)にあった『高国の兵が京に侵攻』して京を『奪回した』。『堺公方』(大永七(一五二七)年から享禄五(一五三二)年にかけての足利義維(よしつな:室町幕府第十一代将軍足利義澄の次男(実際には足利義晴より年長で長男とされる)で第十代将軍足利義稙の養子。後の第十四代将軍足利義栄(よしひで)の父。「堺公方」「平島公方」「堺大樹(さかいたいじゅ)」(「大樹」は「将軍」の意)とも呼ばれた。義維はこの時期、和泉国堺にあって、異母兄の将軍足利義晴と対峙し、堺公方の奉行人はほとんど幕府同様に文書を発給していたことから、その体制を「堺幕府」と呼ぶ研究者さえいる)『側は、三好元長を総大将に立て直しを図り、三好軍』一万五千名と、『阿波から堺に上陸した細川持隆の援軍』八千名が、『摂津中嶋に陣取った細川・浦上連合軍を攻撃し』(「中嶋の戦い」)、『一進一退の攻防が続いていた』。『ここで播磨守護の赤松政祐』(まさすけ)『が高国の援軍として同年』六月二日に『西宮の六湛寺に着陣したが、神呪寺(兵庫県西宮市)に陣変えを行い』『同日晩、高国と村宗から直々に着陣の挨拶をうけ』た。しかし、六月四日、『神呪寺にいた赤松政祐が晴元方に内応して高国・村宗軍を背後から攻撃したため、勝敗が決した。赤松政祐は以前から父・赤松義村の仇を討つために村宗を狙っていたのである。政祐は出陣する前から』、『堺公方の足利義維へ密かに質子』(ちし:人質)『を送って裏切りを確約していた。この赤松軍の寝返りは細川軍の動揺をもたらし、浦上軍に従っていた「赤松旧好の侍、吾も吾もを神呪寺の陣へ加わり」(『備前軍記』)と寝返りを誘発した』。『そのような状況で赤松軍が中嶋の高国陣営を奇襲すると、それに呼応して三好軍が攻撃をしかけたので、村宗とその宿老島村貴則を始め、侍所所司代松田元陸・伊丹国扶・薬師寺国盛・波々伯部兵庫助・瓦林日向守ら主だった部将が戦死した。中嶋の野里川』(この「野里川」は恐らく、淀川の分流か支流の名であろう。消滅したその名残が判る「今昔マップ」の当該地をリンクしておいた。現在の淀川(旧地図では「新淀川」とある)の左岸の、封じられて、片方が新淀川に開いた不全な三日月湖のようなその岸辺に「野里」の地名が認められ、現行も地名の「野里」は残っている)『は死人で埋まり、「誠に川を死人にて埋めて、あたかも塚のごとく見ゆる、昔も今も末代もかかるためしはよもあらじと人々申也」(『細川両家記』)と書かれるほどの敗戦であった』。『三好元長が前線に出てくる「中嶋の戦い」からの』二『ヶ月間こそ膠着状態に陥ったものの、それまでの細川・浦上連合軍は連勝を重ねて戦意も高く、有利であった。だが、新たに参戦した赤松政祐には細川・浦上連合軍の背後(西宮方面)から、続いて正面(天王寺方面)の三好軍からも攻撃されたことによって打撃を受けた』。『この結果、それまでの膠着状態から戦局が崩れて』、高国の滅亡に繋がった。そこから地名と相俟って「大物崩れ」と呼ばれるようになった。『敗戦の混乱の中、高国は戦場を離脱。近くの大物城への退避を行おうとしたが、既に赤松方の手が回っていたため』、『尼崎の町内にあった京屋という藍染屋に逃げ込み』、『藍瓶をうつぶせにして』、『その中に身を隠していたが、三好一秀に』六月五日に『捕縛された』。『尼崎で高国を捜索した一秀は』、「まくわ瓜」を『たくさん用意し、近所で遊んでいた子供達に「高国のかくれているところをおしえてくれたら、この瓜を全部あげよう」と言うと』、『子供達はその瓜欲しさに高国が隠れていた場所を見つけたという計略が逸話として伝わっている』。『そして同月』八日、『仇敵晴元の命によって高国は尼崎』の広徳寺で『自害させられた』。『一方、破れた浦上軍の将士達は生瀬口(兵庫県宝塚市)から播磨に逃げ帰ろうとしていたところを赤松軍の追撃に遭い、ほぼ全滅したと伝えられる。赤松政祐は伏兵を生瀬口や兵庫口に配置し、落ち延びる兵を攻撃したからである』。「永正の錯乱」(永正四(一五〇七)年に室町幕府管領細川政元が暗殺されたことを発端とする管領細川氏(細川京兆家)の家督継承を巡る内訌。背景には京兆家を支えてきた内衆などの畿内の勢力と、政元の養子の一人細川澄元を擁する阿波の三好氏などとの対立があり、これに将軍足利義澄に対抗して復権を目指す前将軍足利義稙の動きも絡んでいた。複雑な情勢の推移を経て、政元の暗殺から一年後に畿内勢が支持する別の養子細川高国が家督に就き、足利義稙が将軍に返り咲いたが、これに逐われた足利義澄・細川澄元・三好氏の勢力が巻き返しを図り、畿内に於いて長期に亙って抗争が繰り返されることとなった)から始まった、細川家の養子三兄弟の争いは、この「大物崩れ」によって、最後の養子であった細川高国が自害させられて、終焉を遂げた。

「家人(けにん)遊佐(ゆさの)七郞」言わずもがな、細川高国の家人だったという設定。「新日本古典文学大系」版脚注には、『管領畠山氏の家臣で、代々河内の守護代を勤めた遊佐氏の名を利用したか』とあり、『享禄以前に畠山尚順(ひさのぶ)は細川高国方についている』とする。

「芥川の村」現在の大阪府高槻市芥川町(あくたがわちょう)。

「山崎の寶寺(たからてら)」京都府乙訓郡大山崎町銭原(ぜにはら)にある真言宗天王山宝積寺(ほうしゃくじ:古くは山号は「補陀洛山」)のこと。本尊は十一面観音。七二四年に聖武天皇の勅命を受けた行基による開基と伝える。聖武天皇が、夢で竜神から授けられたという「打出」と「小槌」(打出と小槌は別々のもの)を祀ることから、「宝寺」(たからでら)の別名があり、「銭原山宝寺」「大黒天宝寺」とも呼ぶ。この寺は天王山(標高二百七十メートル)の南側中腹にあるが、この附近は山城国(京都府)と摂津国(大阪府)の境に位置しており、古くから交通・軍事上の要地でもあった。

「夫男(ぶをとこ)」「夫」は「人夫」で、「雇われ人夫風の男」の意。

「楊梅子(やまもゝ)」ブナ目ヤマモモ科ヤマモモ属ヤマモモ Morella rubra の果実。六月頃に黒ずんだ赤い色の実を結ぶ。甘酸っぱくて美味い。結実期から、少なくとも遊佐は一年以上は浪人して芥川に潜んでいたということになる。

【翌朝追記】Facebookで読者の方から『たのしみに拝読しています。楊梅になにか典拠はあるのでしょうか。楊梅ですから季節は初夏か中夏の頃おいですね。』と戴いたので、今朝、以下のように、それに答えた。

   *

 原拠は明代の叢書「五朝小説」(魏・晋・唐・宋・明の小説を所収)の中の伝奇小説「夢遊録」の「桜桃青衣」で、「中國哲學書電子化計劃」のこちらで、原本影印が読めます(右手のは機械翻字で誤りが多いですから、画像を視認して下さい。上記リンクの「55」から「62」までです)。

 その冒頭の「55」(主人公は科挙に受からぬ范陽の盧子で、遊んだ道端の寺に入って説経を聴きつつ、倦んでしまい、講莚で居眠りをして見る夢という設定ですが、その最終行に夢の始まりのところで、「夢に精舎の門に至り、一靑衣を見る。一籃の櫻桃を携へて下坐に在り。」(訓読は私の勝手流)とあります。以下の展開はその青衣(婢女(はしため))の主家が親族で、娘が孀となっているのを妻として、有力な縁戚の力で大出世をします。そして、たまたま、嘗ての寺の見かけて懐かしく思い、中に入ってみると……という感じです。「枕中記」のコンセプトも大枠は同じで、波乱はあるものの、大往生で終わるのは、「仕官の文学」である中国文学では、喩え、伝奇小説でも、これが正統な形と言えます。原拠でも本篇のような急転直下の修羅場などはありません。こうしたコペルニクス的転回を示す思想は、正道の「仕官の文学」から漏れた大多数の文士が、逆に「遊仙の文学」へと転じ、それに仏教の無常観が強い影響を与えた結果と私は思っています。

 「櫻桃」は文字通り「サクランボ」ですが、ウィキの「サクランボ」を見ると、『中国には昔から華北・華中を中心に、カラミザクラ(シナノミザクラ、支那桜桃、 Prunus pseudocerasus )がある。口に含んで食べることから一名を含桃といい』、『漢の時代に編纂された礼記『月令』の仲夏(旧暦』五『月)の条に』「是月也、天子乃以雛嘗黍、羞以含桃、先薦寢廟」『との記述がある。江戸時代に清から日本に伝えられ、西日本でわずかに栽培されている』。『これは、材が家具、彫刻などに使われる。暖地桜桃とも呼ばれる。「桜桃」という名称は中国から伝えられたものである』とあり、今、我々が食べている『セイヨウミザクラが日本に伝えられたのは明治初期で、ドイツ人のガルトネルによって北海道に植えられたのが始まりだとされる』。『その後、北海道や東北地方に広がり、各地で改良が重ねられた』とありますから、了意は馴染みのない「桜桃」を「楊桃子」に変えたものでしょう。ヤマモモは本邦では関東以南の低地や山地に普通に自生していますから。

   *

私は本書の電子化では、原則、原拠考証は避けることにしているが、以上はそれなりに面白味がある注になろうかと思ったので、ここに添えることとした。

「山崎の住人交野(かたのゝ)次左衞門」不詳。「新日本古典文学大系」版脚注に、『近くの地名交野(大阪府枚方市)より命名したか』とある。現在の大阪府枚方市及び交野市の広域旧地名ということ。

「西の郊(をか)」不詳。「新日本古典文学大系」版脚注も同じ(以下の人物も含めてのようである)。

「石尾(いしをの)源五殿」不詳。

「三好」三好元長であろう。

「吃(きつ)と」素早く。即座に。

「和殿〔わどの〕」「わとの」とも。二人称代名詞。対等以下の相手に向かって親愛の気持ちをこめて用いる語。「そなた」。

「京にのぼらずとも、あれかし。」「何も、未だ落ち着かぬ都へなぞ上らずとも、よろししゅう御座いましょうほどに。」。

「聟になして、心安く見ばや。」「娘婿となして、何の心配もないように、ご面倒を見ましょうぞ。」。

「兩使」正使と副使の二名。

「公方(くばう)」第十二代将軍足利義晴(在職:大永二(一五二二)年~天文一六(一五四七)年)。

「一萬貫」あるQAサイトの答えを参考にすると、戦国時代の米一万貫は三千トン、銭一万貫をそれで換算すると、約九億円とあった。

「所知(しよち)」知行地。

「伺公(しこう)」「伺候」に同じ。

「相伴衆(しやうばんしゆ)」室町中期以降、宴席などで将軍の相伴役として伺候した者。山名・一色・細川・畠山・赤松・佐々木などの有力な諸家から特に選ばれた。

「點じて」地勢的・軍事的によく調べて。

「夥しう取り立〔たて〕たり」目的語が欠けているように見えるが、知行地の農地をも、よく差配して、莫大な収穫と利益を得、いやさかに豊かになったということであろう。

「繋ぎ馬の、たゆる隙〔ひま〕もなく」各地からの名士の到来、引きを切らず。

「津國(つのくに)」「攝津國」。「新日本古典文学大系」版脚注に、『代々細川家の所領であった』とある。

「武家の名高き細川なにがし」宗家(京兆家)の傍流。和泉上守護家(後に細川幽斎(養子)が出る)辺りか。

「内外(うちど)」内孫と姻族の外孫。

「敵」夢であるから、対象の事実候補を想定すること自体が無駄である。戦国好きの方なら、誰彼を想定仮定して挙げられるのかも知れぬが、生憎、私は戦国には全く冥い。悪しからず。因みに、「新日本古典文学大系」版脚注は、この「一一四」ページの脚注の番号に錯雑がある。

「未(ひつじ)の刻」午後二時前後。]

大和本草附錄巻之二 介類 葦蟹(あしがに) (アシハラガニ)

 

葦蟹 仙覺カ萬葉集ノ註ニ云海邊ニ人馬ナドノ音ヲ

キヽテハシリ出ル白キカニナリ○篤信謂凡如此非

常ノ產物非佳品其性モ亦不好不可食

○やぶちゃんの書き下し文

葦蟹(あしがに) 仙覺が「萬葉集」の註に云はく、『海邊に、人馬などの音を、きゝて、はしり出づる、白き「かに」なり。』と。

○篤信〔(あつのぶ)〕、謂はく、「凡そ、此くのごとく、非常の產物、佳品に非ず、其の性も亦、好からず。食ふべからず。」と。

[やぶちゃん注:これは、まず、和名から(近年、以下の三属に分離された)、

甲殻亜門軟甲(エビ)綱十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目短尾(カニ)下目イワガニ上科モクズガニ科 Cyclograpsinae 亜科アシハラガニ属アシハラガニ Helice tridens(甲幅三センチメートルほど。干潟を徘徊するカニとしては大型。甲羅は僅かに横長の長方形で厚みがある。両眼の間が窪み、甲側縁には三個の鋸歯を有する。鉗脚は左右同大で、太くて丸っこく、表面は滑らかである。生体の体色はほぼ全身が青緑色だが、鉗脚は淡黄色で白っぽくも見え、甲も淡黄色の縁取りがある。鉗脚は左右同じ大きさである。本邦では本州以南に分布する。河口や内湾の砂泥干潟や、その上側にある塩沼に生息する。砂泥に直径三~四センチメートル、深さ四十センチメートルほどの巣穴を掘って生活するが、海から遠く離れることはない。また和名に「アシハラ」とあるが、ヨシ原より、やや海側に多い。潮の引いた砂泥上で活動するが、昼よりも夜が活発である。食性は雑食性であるが、主食はヨシの葉などの植物質の分解過程のデトリタスとする。繁殖期は夏で、この時期には抱卵した♀が見られる。孵化して海中に放出されたゾエア幼生は三週間ほどでメガロパ幼生に成長し、海岸へ戻ってくる。成熟するのに二年、寿命は数年ほどとみられている)

或いは、

Cyclograpsinae 亜科 Pseudohelice 属ミナミアシハラガニ Pseudohelice quadrata (甲幅二センチメートルほど。アシハラガニに似るが、小型で、体格も丸みがある。体色は濃褐色で、白黒の斑点が散在する。本邦では伊豆大島以南の西日本に分布する。アシハラガニと異なり、砂泥地ではなく、礫地や転石地を好み、巣穴からはあまり出てこない)

Cyclograpsinae 亜科 Helicana 属ヒメアシハラガニ Helicana japonica (甲幅二センチメートルほど。生体の体色は緑褐色で、全身に細かい白斑がある。相模湾以西の西日本に分布し、河口域の軟泥干潟に巣穴を掘って生息する。アシハラガニに比べて肉食性が強く、ハクセンシオマネキやチゴガニ等を捕食する)

となろう(以上は概ねウィキの「アシハラガニに拠った)。

「萬葉集」巻十六の「乞食者(ほかひびと)の詠(うた)二首」の二番目(三八八六番)に、

   *

おし照るや 難波の小江(をえ)に 廬(いほ)作り 隱(なま)りて居(を)る 葦蟹(あしがに)を 大君召すと 何せむに 吾(わ)を召すらめや 明(あけら)けく 吾が知ることを 歌人(うたびと)と 吾を召すらめや 笛吹きと 吾を召すらめや 琴弾きと 吾を召すらめや かもかくも 命(みこと)受けむと 今日今日と 飛鳥に到り 立てれども 置勿(おくな)に至り 築(つ)かねども 都久野(つくの)に至り 東(ひんがし)の 中(なか)の御門(みかど)ゆ 參り來て 命受くれば 馬にこそ 絆(ふもだし)掛くもの 牛にこそ 鼻繩(はななは)はくれ あしひきの この片山の もむ楡(にれ)を 五百枝(いほえ)剝ぎ垂れ 天光(あまて)るや 日の異(け)に干し 囀(さひづ)るや 唐臼(からうす)に搗(つ)き 庭に立つ 手臼(てうす)に搗き おし照るや 難波の小江の 初垂(はつたり)を 辛く垂れ來て 陶人(すゑひと)の 作れる瓶(かめ)を 今日行き 明日取り持ち來(き) 吾が目らに 鹽塗り給ひ 腊(きたひ)賞(はや)すも 腊賞すも

 右の歌一首は、蟹の爲に痛(いたみ)を述べて作れり。

   *

講談社文庫の中西進全訳注版によれば、『蟹運びの集団が所作をもって歌った歌謡で、蟹の立場に立つ痛みを述べる要素と、貢上者への奉仕とを謳う。蟹踊りは応仁記』にもあるとする。以下、同注やその他を参考に、私の感想も交えて簡単に語注する。

・「廬(いほ)」蟹の掘った巣穴。「ほかいびと」のあばら家も暗示させて、自らを献上する葦蟹にも喩える導入である。

・「隱(なま)りて」「なばりて」と同じで「隠れて」。

・「吾(わ)を召すらめや」雌(めす)の蟹は「ししびしお」(塩漬け)の食材として召すとして、儂は「蟹踊り」の技芸を見せるために召されたか? という洒落とする。

・「飛鳥」は河内飛鳥(現在の大阪府羽曳野市東部・南河内郡太子町などを指す旧地域。この中央附近。グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

・「置勿」は奈良県大和市奥田かとする。

・「都久野」は奈良県橿原市の桃花野(つきの)とするが、これは鳥屋ミサンザイ古墳(宣化天皇身狭桃花鳥坂上陵(むさのつきさかのえのみささぎ)附近のことか。

・「絆(ふもだし)」馬を使役するために胴回りを縛る腹掛けか。

・「鼻繩(はななは)」牛を繩で繋ぐための牛の鼻に通した輪状の「はなぐり」と繩。思うに、献上する葦蟹は逃げ出さないように藁で脚と腹とを藁で縛られていることをも以上で匂わせているように私は感じる。それは「ほかいびと」の蟹踊りの召し出しの「縛り」にも繋がるであろう。

・「はくれ」「佩くれ」。

・「もむ楡(にれ)」「延喜式」に、ニレ(バラ目ニレ科ニレ属ハルニレ Ulmus davidiana var. japonica )の皮を揉んで粉にしたもを使った「楡木(にれぎ)」という名の漬物が記録されている。

・「五百枝(いほえ)剝ぎ垂れ」先の調味料を作るために「五百枝も剥いで」(乾すために)「吊り垂らして」。

・「囀(さひづ)るや」以下の臼音の比喩。

・「唐臼(からうす)」は足踏み式だから「手臼」が応じる。

・「初垂(はつたり)」砂で雑物を漉した最初の精製された「辛く」濃い潮水。これで葦蟹を漬ける。

・「腊(きたひ)」本来は「ほじし」と訓じ(音は「セキ・シャク」)、「保存用に重ねた干し肉」の意だが、ここは蟹を細かく擂り潰して塩漬けにしたものを指している。所謂、佐賀の郷土料理として知られる私の好きな「蟹(がん)漬け」である。今や、中国産の蟹で作られている。

   *

『仙覺が「萬葉集」の註』仙覚(建仁三(一二〇三)年~文永九(一二七二)年以後)は鎌倉時代の天台僧で「万葉集」の研究者。俗姓未詳。東国生れ(常陸国とする説有り)で、北条時政に滅ぼされた豪族比企氏の出身であるとされる。「万葉集」を研究し、まず、諸本の校訂に努め、無点歌に新点を加えて後嵯峨天皇に奏上し、また、書写本を宗尊親王に奉っている。さらに万葉注釈書の先駆(古注と称する)をなす「万葉集註釈」を文永六(一二六九)に完成させた。比企一族所縁の妙本寺でこの古注の研究に励んだことから、本堂左手に顕彰碑が建つ。

「篤信」貝原益軒の本名。

「非常の產物」救荒時の食料。

「其の性も亦、好からず。食ふべからず」モクズガニ(短尾下目モクズガニ科モクズガニ亜科モクズガニ属モクズガニ Eriocheir japonicus )とは異なり、淡水域には立ち入らないので、ウェステルマン肺吸虫症(扁形動物門吸虫綱二生亜綱斜睾吸虫目住胞吸虫亜目住胞吸虫上科肺吸虫科Paragonimus 属ウェステルマン肺吸虫 Paragonimus westermanii :ヒトを最終宿主とする)の危険性は低い。]

大和本草附錄巻之二 介類 片貝(かたがひ) (クロアワビ或いはトコブシ)

 

片貝 䗩ノ類ナリヨメノサラニ似テ少大ニシテ㴱シ味

ヨシ鰒ノ如クフタナシ故ニ片貝ト云其肉モ亦蚫ニ似

タリ貝ノ色内外黑シ味ヨシ頗佳品ナリ毒ナシ。ナシ

モノトス海岸ニ附生ス。其大七八分䗩ハ本書ニ載タ

リ又福州府志曰老蜯牙似䗩而味厚シ一名牛蹄

以形名是片貝乎

○やぶちゃんの書き下し文

片貝(かた〔がひ〕) 䗩(よめのさら)の類なり。「よめのさら」に似て、少し大にして、㴱〔(ふか)〕し。味、よし。鰒(あはび)のごとく、ふた、なし。故に「片貝」と云ふ。其の肉も亦、蚫〔(あはび)〕に似たり。貝の色、内外〔(うちそと)〕、黑し。味、よし。頗る佳品なり。毒、なし。「なしもの」とす。海岸に附〔きて〕生〔(しやう)〕ず。䗩は、本書に載せたり。又、「福州府志」に曰はく、『老蜯牙、䗩に似て、味、厚し。一名「牛蹄」。形を以つて、名づく』〔と〕。是れ、「片貝」か。

[やぶちゃん注:これはなかなか悩ましい。同定は最後に回す。

「片貝(かた〔がひ〕)」所謂、アワビのような腹足類の巻が極度に緩んで、貝口が大きく開き、外蓋(がいさい)がなく、軟体部で直接に岩礁面に吸着している貝類を広範に指す語である。なお、未だにアワビやトコブシ及びカサガイの類を「一枚貝」と平然と呼称している記載が甚だ多いが、真の一枚貝の多くは、古生代(約五億四千百万~約二億五千百九十万年前)の化石種で絶滅種であり、我々一般人が真の「一枚貝」の生体を見ることは、まず、あり得ない。「生きた化石」として現生種の棲息が確認された最初は、軟体動物門貝殻亜門単板綱 Monoplacophora Tryblidiida Tryblidioidea 上科ネオピリナ Neopilinidae 科ネオピロナ属ネオピリナ Neopilina galatheae で、一九五二年にデンマークの海洋調査船「ガラテア」号がパナマ沖の深海底から発見し、それ以降、現在では南・北アメリカ西岸及びアラビア半島のアデン沖や、大西洋南部や南極海の深海から七属二十種ほどが知られている。厳密には単板類(正真正銘の唯一の「一枚貝」類である)は古生代カンブリア紀からデボン紀に栄えた原始的形態をもつ軟体動物で、殻は笠形を成し、殻頂は前方に位置してやや高く、前方に尖る。軟体部は眼や触角を欠き、外套腔には五~六対の鰓を有し、肛門は後方にある。足は大きく、収足筋痕は左右に八対を有する(太字部は概ね「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「䗩(よめのさら)」「䗩は、本書に載せたり」とある通り、「大和本草卷之十四 水蟲 介類 ヨメノサラ(ヨメガカサ)」で、腹足綱前鰓(始祖腹足)亜綱笠形腹足上目カサガイ目ヨメガカサ(嫁が笠)上科ヨメガカサ科ヨメガカサ Cellana toreuma のことである。詳しくはリンク先の本文及び私の注を読まれたい。なお、本種は別名を「ヨメノサラ」(嫁の皿)とも呼ぶが、これは貝殻を皿に喩えて、「平たい皿で食い扶持を減らす」という「嫁いびり」に繋げた呼称である。

「㴱〔(ふか)〕し」「深」の異体字。殻高が高いことを言っている。

「鰒(あはび)」「蚫〔(あはび)〕」現行の和名「アワビ」自体は腹足綱原始腹足目ミミガイ科 Haliotidae のアワビ属 Haliotis の総称である。当該種一覧は「大和本草卷之十四 水蟲 介類 石決明 (アワビ)」を見られたい。

「なしもの」塩辛或いは魚醤(うおびしお)

「福州府志」清の乾隆帝の代に刊行された福建省の地誌。同書の「乾隆本」を見ると。

   *

老蜯牙、似蟲戚而味厚、一名牛蹄、以形名。

   *

とあるものの、同書の「萬歷本」では、

   *

老蚌牙【「閩書」。】 似蟲戚而味厚。一名牛蹄、以形似之。

   *

とあって、「閩書」(びんしょ:明の何喬遠(かきょうえん)撰になる福建省(閩は福建省の旧名)の地誌「閩書南産志」)からの引用である。

「老蜯牙、䗩に似て」「老蜯」は老蚌」に同じだが、これは非常にまずい。何故なら、この老蚌は二枚貝である斧足綱古異歯亜綱イシガイ目イシガイ科ドブガイ属 Sinanodonta に属する大型のヌマガイ Sinanodonta lauta(ドブガイA型)及び、小型のタガイ Sinanodonta japonica(ドブガイB型)の二種が「ドブガイ」、及び、全くの別種であるイシガイ科イケチョウ亜科カラスガイCristaria plicata を指すからである。これについては、『「大和本草卷之三」の「金玉土石」より「眞珠」』の私の注で詳しく書いたのでそちらを見られたいが、そうなると、同定に向けてきたかのように見えた流れが、一挙に瓦解してしまうからである。この場合の「牙」は「ガ」と読んで、「天子や将軍の旗。或いは、その旗の立っている陣営」の意で、「䗩に似て」とは、カサガイの類と同じく、殻の頂きが明瞭に軍旗のように立ち上がって見えることを言っているのではなかろうか。一方で、叙述から見るに、この「牙」というのは貝柱のことと採ると、これ、非常に腑に落ちる

「味、厚し」「濃厚」の意。

「牛蹄」中国では腹足類の内で殻頂が鋭く尖っている貝類にこの名を冠することが多い。その中には、腹足綱古腹足目ニシキウズガイ目ニシキウズガイ上科 Trochoidea の種が含まれており、例えば「牛蹄鐘螺」=ニシキウズガイ科ニシキウズ亜科ダルマサラサバテイラTectus niloticus や、お馴染みのサザエまでがそこに出てくる。これは、またまた、厄介な謂いである。但し、所謂、カサガイ類の大型種を「牛蹄」というのは腑に落ちはする。

 さて。これは如何なる種か? 当初、私は、「鰒(あはび)のごとく、ふた、なし。故に「片貝」と云ふ。其の肉も亦、蚫〔(あはび)〕に似たり」「味、よし。頗る佳品なり」という部分から、

古腹足目ミミガイ上科ミミガイ科トコブシ属フクトコブシ亜種トコブシ Sulculus diversicolor supertexta

に比定しようと思ったのだが、その後の「貝の色、内外〔(うちそと)〕、黑し」というのが気になった。しかし、これを「牛蹄」から連想して、「シッタカ」で知られる古腹足亜綱ニシキウズ上科クボガイ科コシダカガンガラ属バテイラ Omphalius pfeifferi pfeifferi なんぞに比定することは、見た目が全くの巻貝であって、美味いものの、アワビには味も形も似ちゃいない、外蓋がないとするのも外れで、全く不可能だ。されば、「貝の色」は「貝殻」の色ではなく、生体のトコブシの「裏表」の謂いならば、黒くてもおかしくない。無論、単純に、

ミミガイ科クロアワビ Haliotis discus discus

としても、問題はない。寧ろ、「頗る佳品なり」と言い切るところは、こっちに分があるように見えはする。]

大和本草附錄巻之二 蟲類 蝦苗(あみ) (アミ) / 蟲類~了

 

蝦苗 和名 アミ泥海ニ生ズ生ナルヲナシ物トス乾

タルヲモ食フ有小毒孕婦不可食堕胎產婦及金

瘡アル人不可食又發瘡疥性不良食スベカラズ猫

クラヘバ不產子

○やぶちゃんの書き下し文

蝦苗〔(かべう)〕 和名「あみ」。泥海に生ず。生なるを「なし物」とす。乾したるをも食ふ。小毒、有り。孕婦〔(はらめ)〕、食ふべからず。胎〔(こ)〕を堕〔(おろ)〕す。產婦及び金瘡〔(きんさう)〕ある人、食ふべからず。又、瘡疥〔(さうかい)〕を發す〔る〕性〔(しやう)あるもの〕、良〔から〕ず。食すべからず。猫、くらへば、子を產まず。

[やぶちゃん注:甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱フクロエビ上目アミ目 Mysida 及びフクロエビ上目ロフォガスター目 Lophogastrida に属する膨大な種(アミ類は全世界で約一千種が知られ、本邦近海でも約二百種は棲息する)を含む小型甲殻類の総称。ウィキの「アミ(甲殻類)」によれば、によれば、『体は頭胸部・腹部・尾部に分かれる。頭部には発達した』二『対の触角と、可動』する『柄の先についた眼を持つ。また、尾部の先端は扇状に発達し、全体としてエビ類に酷似した外見であるが、アキアミ』(軟甲綱十脚目根鰓亜目サクラエビ科アキアミ属アキアミ Acetes japonicus )『のような小型のエビ類やオキアミ』(軟甲綱真軟甲亜綱ホンエビ上目オキアミ目 Euphausiacea のオキアミ類)『とは分類学上』、全く『異なるグループに属する。一般には「イサザ」「イサダ」とも呼ばれる』が、『この呼び名も、例えばツノナシオキアミ』(オキアミ目オキアミ科オキアミ属ツノナシオキアミ Euphausia pacifica )『のようなオキアミ類などに使われる場合があるので注意を要する。体長は最小種で』二ミリメートル『程度、最大種であるロフォガスター目』オオベニアミ科オオベニアミ属『オオベニアミ Gnathophausia ingens では』三十五センチメートルを超える。一般には五ミリメートル程度から三センチメートル前後までの小型種が殆んどである。

「蝦苗」形状からエビの子どもと中国で言ったもの。

「なし物」塩辛或いは魚醤(うおびしお)。現在でもよく見かける。

「小毒、有り」摂餌対象の植物プランクトン由来の毒性は否定出来ない。一個体の濃縮含有量は微々たるものであろうが、同一箇所で毒化した個体を多量に採取して食えば、中毒する可能性はある。それ以外に、益軒の言うように、「瘡疥〔(さうかい)〕」(ここは広義のでき物や発疹・湿疹の類)「を發す〔る〕性〔(しやう)あるもの〕、良〔から〕ず。食すべからず」で、甲殻類アレルギのある者はちょっと食しただけでくるだろう。

「孕婦〔(はらめ)〕、食ふべからず。胎〔(こ)〕を堕〔(おろ)〕す」思うにこれは実際の作用ではなく、「猫、くらへば、子を產まず」と同じで、「蝦苗」という名の類感呪術的ニュアンスを私は感ずる。

「金瘡〔(きんさう)〕」刃物などで生じた傷。]

大和本草附錄巻之二 蟲類 海馬(かいば) (タツノオトシゴ)

 

海馬 入門云背カヾマリ如竹節紋長二三寸色黃

褐ナリ。シヤコト云說アリ。シヤコニハアラズ別也此物ザ

コノ内ニマジリテ有之

○やぶちゃんの書き下し文

海馬(かいば) 「入門」に云はく、『背、かゞまり、竹の節〔(ふし)〕の紋のごとし。長さ、二、三寸。色、黃褐なり。』と。「しやこ」と云ふ說あり。「しやこ」にはあらず。別なり。此の物、ざこの内にまじりて、之れ、有り。

[やぶちゃん注:トゲウオ目ヨウジウオ亜目ヨウジウオ科タツノオトシゴ亜科タツノオトシゴ属 Hippocampus のタツノオトシゴ類。外見の形態分類に従った伝統的博物学や本草学では、「蟲類」は現行の昆虫類よりも遙かに範疇が広い。概ね水産・陸産を問わず、無脊椎動物大部分や、魚やその他の尋常生物には見えない奇体な印象を与える生物群もここに体よく押し込まれた。既に益軒は「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 海馬」で挙げている。本邦の当該標準和名種はタツノオトシゴ Hippocampus coronatus 。中国では全長が二十から三十センチメートルに達するような大型種である、タカクラタツ Hippocampus trimaculatus ・クロウミウマ Hippocampus kuda ・オオウミウマ Hippocampus kelloggiなどの一個体或いは雌雄個体の全乾燥品が漢方薬「海馬(かいま)」として珍重されてきた歴史がある(如何にもな強精・強壮剤としてである。現在、そのためにこうした大型種は激減してしまった)。私の『神田玄泉「日東魚譜」 海馬 (タツノオトシゴ)』と、サイト版の栗本丹洲(「栗氏千蟲譜」巻七及び巻八より)「蛙変魚 海馬 草鞋蟲 海老蟲 ワレカラ 蠲 丸薬ムシ 水蚤」も見られたい。

「入門」明の李橚(しゅく。但し、李梃(てい)ともする)「醫學入門」。一五七五年成立。中国古今の医説の要説を述べ、経絡から臓腑の解説、諸科の診断と治療法、本草の性質概説、歴代医学者の名まで網羅する。全七巻。「内集」の巻二「本草分類」内に、

   *

海馬 出西海。大小如守宮蟲、首若馬、身如蝦、背傴僂有竹節紋、長二三寸、色黃褐、以雌雄各一爲對。

   *

とある。

「しやこ」甲殻亜門軟甲綱トゲエビ亜綱口脚目シャコ上科シャコ科シャコ Oratosquilla oratoria「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 蝦蛄」を参照。博物画は『毛利梅園「梅園介譜」 蝦蛄』にトドメを刺す。

「ざこ」「雜魚」。]

2021/04/28

大和本草附錄巻之二 魚類 すず (ダツ) / 大和本草附錄巻之二 魚類~了

 

スヾ ハ海魚也二尺許橫セバクタテ長シ馬鮫魚ノ

形ニ似タリ色モ亦似タリ○漁人ノ曰骨多ク味不好

且有小毒非佳品

○やぶちゃんの書き下し文

「すゞ」は海魚なり。二尺許り。橫、せばく、たて、長し。馬鮫(さはら)魚の形に似たり。色も亦、似たり。

○漁人の曰はく、「骨、多く、味、好からず。且つ、小毒、有り。」〔と〕。佳品に非ず。

[やぶちゃん注:大きさから、

条鰭綱ダツ目ダツ亜目ダツ上科ダツ科ダツ属ダツ Strongylura anastomella (全長一メートルほど。日本海と東シナ海を含む西太平洋の温帯域に分布する。日本でも北海道南西部以南で見られるが、南西諸島と小笠原諸島には分布しない。私は刺身を食べたことがあるが、まあ、美味くも不味くもなかった)

の他、本邦近海には、同属の、

リュウキュウダツ Strongylura incisa (全長七十センチメートルほど。ダツに比べて頭部の鱗が大きい。日本では南西諸島に分布する)

や、

ハマダツ属ハマダツ Ablennes hians (全長一・二メートルに達し、体側に黒っぽい横縞模様が出ることで他の種類と区別できる。全世界の熱帯・温帯域に広く分布し、本邦では本州以南の沿岸に分布する)

ヒメダツ属ヒメダツ Platybelone argalus(全長五十センチメートルほどで、ダツ類の中では小型種。尻鰭が背鰭よりも前にあること、目が体長の割には大きいことで他の種類と区別する。本邦では南西諸島・小笠原諸島に分布する)

テンジクダツ属テンジクダツ Tylosurus acus (全長一メートルほど。本邦の沿岸表層域で普通に見られる。下顎に角のような下向きの突起が出ることが多い)

テンジクダツ属オキザヨリ Tylosurus crocodilus(全長一・三メートルに達する。生きている時は鰓蓋に青い横縞が一本入り、背面は濃紺、側面は銀白色、腹面は白い。他のダツ類に比べて、より太く、頭部が短い。明瞭な尾柄隆起があり、尾鰭は強く二叉する。最大全長一・五メートル、最大重量六・三五キログラムの記録があるという。私は高校時代(一九七二~一九七四年)に高岡市伏木の国分港と小矢部川の間の防波堤上から、本種の超巨大個体を目撃した。恐らくは一・五メートルはあった。体を悠々と優雅にくねらせて、私の目の下水面を通って行った。鰓の青い横縞をはきり覚えており、背部の紺色が、秋の陽に虹色に輝いて見えた。大きさに慄然としつつも、どこかで幻界にあって時空が止まったのような気持ちを味わったのを忘れない。友人も父母も全く信じてくれなかったが

である。なお、本種は物理的な海産の超危険動物としてよく知られている当該ウィキによれば、『捕食の際』には、『小魚の鱗で反射した光に敏感に反応し、突進する性質がある。暗夜にダツが生息する海域をライトで照らすと、ダツが激しく突進してきてヒトの体に突き刺さることがある』『ので』、『夜間の潜水はとくに注意が必要である。実際にダツが人体に刺さって死傷する事故も発生しており』、『沖縄県の漁師には、鮫と同じくらいに危険視されている』。『ダツが刺さった時は』、『むやみに抜くと』、『出血多量に陥る場合があるので、抜かずにダツを殺してから慎重に病院に行く』とあるほどである。なお、サヨリ(ダツ目トビウオ亜目サヨリ科サヨリ属サヨリ Hyporhamphus sajori )や、時にサンマ(トビウオ亜目サンマ科サンマ属サンマ Cololabis saira )も異名で「スズ」と呼ぶが、ここはサイズと、本巻で「大和本草卷之十三 魚之下 鱵魚(さより)」が出ていること(サンマが出ていないのはちょっと不審だ)、及び、スズキ目サバ亜目サバ科サバ亜科サワラ族サワラ属サワラ Scomberomorus niphonius に似ているとあること、食味を評価していないことから、総合的にダツの異名ととった。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のダツのページに、岡山県笠岡市採取で「スズ」の異名を掲げる。

「小毒、有り」不審。ダツに毒性があるというのは聴いたことがない。]

大和本草附錄巻之二 魚類 ふなしとぎ (コバンザメ)

 

フナシトギ ハ海魚也長二尺許其形頭ヨリ下ハ不扁

シテ而圓シ頭ハ少シ扁シ背ノ近首處多橫文シテ而

促レリ橫文二十三アリ橫ニ連レリ其間三寸許背

ノ橫文ヲ以船板ニ付テ不離生ナルヲ爼上ニヲケバ

取付テ難分

○やぶちゃんの書き下し文

「ふなしとぎ」は、海魚なり。長さ、二尺許り。其の形、頭より下は扁〔(ひらた)〕からずして、圓〔(まろ)〕し。頭は、少し、扁〔(ひらた)〕し。背の首に近き處、橫文〔(わうもん)〕多くして、而して促(しま)れり。橫文、二十三あり。橫に連なれり。其の間、三寸許り。背の橫文を以つて、船板に付(つ)きて離れず。生〔(なま)〕なるを爼上〔(そじやう)〕にをけば、取り付きて、分れ難し。

[やぶちゃん注:「サメ」とつくが「鮫」とは全く無縁な、軟骨魚類でない、

条鰭綱スズキ目コバンザメ科コバンザメ属コバンザメ Echeneis naucrates

である。この一篇のために、先に『栗本丹洲「栗氏魚譜」より「小判鮫」 (コバンザメ)』を図附きで電子化注しておいた。また、ちょっと奇体な絵だが、私の「栗本丹洲 魚譜 白のコバンザメ」も見られたい。

「ふなしとぎ」この異名も『栗本丹洲「栗氏魚譜」より「小判鮫」 (コバンザメ)』の注で考証しておいた。

「促(しま)れり」これは「促音」という語で判る通り、「迫る・隙間がなくなる)」の謂いで、細かな横紋が相互にキュッと締まっているというのである。最初のリンク先の引用で示されている通りの吸盤部の構造と非常にマッチした簡便にして正しい表現と言える。

「橫文、二十三あり」前記引用に『十八から二十八枚の明瞭な隔壁がある』とあるから、この数字もいい。

「橫に連なれり」ここは「橫」ではなく、「前後」とすべきところかも知れぬが、前記引用でも『横(背骨と垂直方向)』とあるから問題ない。]

栗本丹洲「栗氏魚譜」より「小判鮫」 (コバンザメ)

 

[やぶちゃん注:底本は国文学研究資料館所蔵「祭魚洞文庫旧蔵水産史料」の中の「栗氏魚譜 錦■翁蔵巻」(「■」は判読不能字か。「巢」或いは「窻」に近いか。こちらの二コマ目を参照されたい。刊記は文政二(一八一二)年で栗本丹洲は宝暦六(一七五六)年生まれで、天保五(一八三四)年に没しているから、生存中の写本であり、これは「栗本魚譜」の原図の筆致を最もよく伝えている第一級の資料とされるものである)の画像を使用し、視認して文字を起した。以下に示した画像は同館所蔵資料のそれ(当該画像はこれ)であり、オープン・データであるので、使用可能である。まず、「翻刻1」でそのままのものほぼ原型通りに起こし、「翻刻2」では文章として繋げ、概ねカタカナをひらがなとし、句読点・記号・濁点を施し、一部で推定で送り仮名を施し(原本には訓点や読みは一切振られていない)、漢文部は推定訓読した。また、一部の難読と思われる箇所に推定で歴史的仮名遣で読みを添えた。]

 

0319_007

 

[やぶちゃん注:「国文学研究資料館所蔵」のもの。補正・トリミング等は加えていない。言わずもがな、中央下方の左右対称の黒いそれは虫食いの穴である。]

 

□翻刻1

                 咽機那

小判鮫

 越中ニテ小判イダヽキト云[やぶちゃん注:「イダヽキ」はママ。]

 筑前ニテフナシドキト云至

 大者ハ二三尺アリ極テ腥気

 アリシカモ粘滑甚シ

 

此魚性喜ンデ頭上ノ印ノ如キ処ニテ

物ニ吸着テハナレズ大者ハヨク舶底

着テ動カサズ舟ニアヤカシノ付キタ

ル云ハ是ナリ因テ此魚をアヤカシ𪜈

云ルヨシ假令死シテモ頭上ノ平ナル

処ヲ盆或板ナトノ平ナルモノヽ上

ニ着ケ尾ヲ引立レハ板スイツキ離レ

ズモチ上ルモノナリ是他魚ト異ナリ水府漁人

草履鮫ト云頭上艸鞋ノ状アル故ニ此名ヲ得又

大魚ヲ獲ル前ニ此魚先得ラルヽヿアリ大魚ノ

先駆ナリトテ神棚ニ上ケ供祭ス是ニ因テ漁人

告ノ神ノ甚四郞ト云大平御覧引臨海異物志有印魚即是也大魚將死印魚先封之ト云

ト符合ス此魚大魚口邉ニアリテ他ノ食ヲ止テ餓サシムル故ニ遂ニ人ノ為ニ得ラル

トナリ利瑪竇坤輿図云咽機那魚生海中好粘着舩底不動ト亦此物ナリ

 

 

□翻刻2

                 咽機那(いんきな)

小判鮫

 越中にて「小判イダヽキ」と云ひ、筑前にて「フナシドキ」と云ふ。至つて大なる者は、二、三尺あり。極めて腥(なまぐさ)き気(かざ)あり。しかも、粘滑、甚し。

 

此の魚、性、喜んで頭上の印のごとき処にて、物に吸ひ着きて、はなれず。大なる者は、よく舶底に着きて、動かさず。「舟に『アヤカシ』の付きたる」と云ふは、是なり。因りて、此の魚を「アヤカシ」とも云へるよし。假令(たとひ)死しても、頭上の平なる処を、盆或いは板などの平なるものゝ上に着け、尾を引き立つれば、板、すいつき、離れず、もち上がるものなり。是れ、他魚と異(い)なり。水府(すいふ)の漁人、「草履鮫(ざうりざめ)」と云ふ。頭上に艸鞋(わらぢ)の状(かたち)ある故に、此の名を得。又、大魚を獲る前に、此魚、先づ、得らるゝこと、あり。「大魚の先駆なり」とて、神棚に上げ、供(そな)てへ祭(まつり)す。是に因りて、漁人、「告(つげ)の神(かみ)の甚四郞(じんしらう)」と云ふ。「大平御覧(たいへいぎよらん)」に「臨海異物志」を引き、『印魚、有り、即ち、是れや、大魚、將に死せんとするに、印魚、先づ、之れを封(ふう)ず』と云へると符合す。「此の魚、大魚の口の邉(あたり)にありて、他(ほか)の食を止(とど)めて、餓ゑさしむる故に、遂に人の為めに得らる」となり。利瑪竇(りまとう)の「坤輿図(こんよず)」に云はく、『咽機那魚、海中に生(しやう)ず。好んで、舩底に粘着して、動かず』と。亦、此の物なり。

[やぶちゃん注:スズキ目コバンザメ科コバンザメ属コバンザメ Echeneis naucrates である。荒俣宏氏の「世界大博物図鑑2 魚類」(平凡社一九八九年刊)の「コバンザメ」の記載によれば、属名「エケネイス」は、ギリシャ語で「船を引き止めるもの」の意とある。我々の世代では「コバンイタダキ」(小判戴(頂)き)の異名の方が親しいが、あくまで標準和名は「コバンザメ」である。当該ウィキによれば、『コバンザメ属 Echeneis は、全世界の熱帯・亜熱帯域に分布し、最もよく見られるコバンザメ類であるEcheneis naucrates と、メキシコ湾から南米北岸にかけて分布する Echeneis neucratoides (英名:Whitefin sharksucker)の』二種から構成される。英名は「白い鰭を持ったサメの乳飲み子(或いは「鮫に吸い付く者」。‘sucker’にはズバリ「吸盤」の意もある。但し、「白い鰭」というのは実際には、本邦のコバンザメと同じく体側の上下にある目立つ白線模様を指しているものと思われる)」。最大で一メートル強で二・三キログラムになるが、通常は七十センチメートル程度。体長は体高の八~十四倍程あり、背鰭は三二から四十二の軟条で、臀鰭は二十九~四十一の軟条からなる。頭部の背面に背鰭の変化した『小判型の吸盤があり、これで大型のサメ類やカジキ類、ウミガメ、クジラなどに吸い付き、餌のおこぼれや寄生虫、排泄物を食べて暮らす(片利共生)。吸盤には横(背骨と垂直方向)に』十八から二十八枚の明瞭な『隔壁がある』。『この隔壁は』吸着せずに泳いでいる際には、『後ろ向きに倒れており、動いている大きな魚の体表などの面に吸盤が接触すると』、『これら』が『垂直に立ちあがる』ようになっている。この時、『隔壁と隔壁の間の水圧が』、『周囲の海水の圧力より小さくなり、これによって吸盤は』対象物に『吸いつく。吸いついたコバンザメを後ろに引くと』、『隔壁の間の水圧はさらに小さくなるので吸盤はさらに強く吸いつく。反対にコバンザメを前に押すと隔壁がもとの位置に倒れるとともに』、『吸盤内の水圧が上がり、吸盤は』吸着物から『はずれる。このしくみによって、彼らは自分がくっついた大きな魚などが速く泳いでも』、『振り払われずにすみ、また』、『離れたいときは大きな魚などより』も、少しだけ『速く泳ぐ』ことで『簡単に離れることができる。また、隔壁には』〇・一ミリメートル『ほどの細かい骨が付いており、吸盤で吸い付くとともに骨が滑り止めともなっている』。『体側には太い黒線と、その上下を走る細い白線がある』。『生息深度は』二十~五十メートルで、『大型の海洋生物・船などに付着して生活するが、サンゴ礁の沿岸では単独で見られることも多』く、『幼魚はサンゴ礁域で掃除魚』(Cleaner fish:他種の魚の古い傷んだ皮膚組織や外部寄生虫を食べる習性をもつ魚類の総称)『として生活することもある』。『成魚に付着することもある』。『また、付着せずに砂地に集まって近くの生け簀の餌のおこぼれを食べるものが奄美大島で確認されている』。『一般に食用にされることはないが、まれに定置網などに入り、産地や漁業者などは食用にする。白身魚であり』、『美味と言われている』とある。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のコバンザメのページでも、食味を非常に高く評価しておられる。一度、食べてみたいものだ。私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「舩留魚(ふなとめ)」も参照されたい。なお、変わったところでは、コバンザメを懐にしていると裁判に勝てるという驚きの風習が、「南方熊楠 西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語 (異れる民族間に存する類似古話の比較硏究) 7」に出る。本文及び私の「印魚(コバンフネ)」(コバンザメのこと)の注を見られたい。

「咽機那(いんきな)」現代中国語では「イェンヂィーナァー」。但し、小野蘭山の「重修本草綱目啓蒙」の巻三十の「無鱗魚」の「鮫魚」の中のここ(国立国会図書館デジタルコレクションの当該原本画像)に(推定(「肉几(まないた)の」以外の読みも)訓読した)に、

   *

咽機哆魚【「坤輿地圖」。】「コバンザメ」。一名「コバンウヲ」・「コバンイタダキ」・「フナシトギ」・「アヤカシ」・「ワラジザメ」【水戶。】・「フナシトギ」【丹後。】・「フナスイ」【能州。】 「舟トリ」【薩州】・「舟トメ」・「ヤスタ」【土州。】。長さ、二、三尺、皮に細沙あり、形、圓(まどか)にして、黃・赤・微黑色。頭は微(かすかに)扁(ひらた)く、上、平(たひら)にして、二十三の橫刻、連ること、三寸許り、小判の形のごとし。刻(きざみ)ごとに刺沙(しさ)あり、この處、よく物に粘著(ねんちやく)して、離れず。故に此の魚、數多く船底に粘する時は、舟、動かずして害を爲す。已に死する者も、肉几(まないた)の上に粘著す。肉は食ふべし。

   *

と三字目が違う。「哆」は音「シ・シャ」で中国の文語で「ドゥオ」。調べたところ、勝負は蘭山にあった。田中茂穂著の「日本產魚類圖說」第二十一巻(大正(一九一六)刊)の「137.コバンザメ 咽機哆魚」の標題(国立国会図書館デジタルコレクションの当該部画像)がそうなっているからである(同書には同種の図版も載る。時計回り回転ボタンを押されたい)。なお、ここでは蘭山も食用を推奨していることが判る。

『越中にて「小判イダヽキ」と云ひ』写本時の誤りと思われる。同じ栗本の「異魚図纂」(国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像。なお、その書誌データから、絵師(本図の上の一尾を除いたもので、それ以外のタッチは酷似する)は奥倉辰行(おくくらたつゆき)とある。これは江戸神田多町で青物商(八百屋)を営んでいた甲賀屋長右衛門と通称した人物で、安政六(一八五九)年に没しているが、優れた魚類図譜を残している)では、正しく「小判イタゞキ」となっている。他に富山では「コバンカジキ」(「小判舵木」であろう)「フナドメ」とも呼ぶ。

『筑前にて「フナシドキ」と云ふ』意味不明。一つ考えたのは「船足(ふなあし)を退(ど)く」或いは「船足を研(磨)ぐ」で、船足を削(そ)ぐの謂いか。後者の方が無理がない気はする。なお、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のコバンザメのページには他に別名として、丹洲と蘭山が挙げた以外には、「コバニオ」「コバンウオ」「コバスイツキ」「スナチドリ」「スナジドリ」「ゾオリツベタ」「ソロバンウオ」「ツチウオ」「ハダシタビ」「ピンピ」「フナイタ」「フナイトル」「フナエトリ」「フナスイツキ」「フナスリ」「フナツキ」「フナドメ」「フナヒッツイ」「フナヤトリ」「ヤイチャ」「ヤスダ」「ヤスダイ」「ヤスダノコバン」「ヤスナ」「ヤスラ」がある。しきりに出る「ヤス」は思うに、魚体と、吸着したそれが突き刺さったように見えることから、漁具の一種である長い柄の先に数本に分かれた鋭い鉄鎗をつけた魚介を突いて捕らえる「簎・矠」(やす)由来のように感じられた。なお、先の荒俣宏氏のそれによれば、「コバンウオ」は和歌山・広島の地方名とし(コンマを読点に代えた)、『茨城でワラジザメ、福島でゾウリベッタ、富山でハダシタビ』、『新潟のフナスイ、フナスツキや』、『出雲のフナツキ』、『高知のスイツキ』を挙げられ、『この魚が船を止めると言う俗信から、富山でフナドメ、高知でフナトメ、鹿児島でフナトリなど』と呼ぶとある。

「極めて腥(なまぐさ)き気(かざ)あり」釣り人のブログ記事で内臓が非常に臭いとあったが、これは必ずしも全体言える属性ではないようである。雑食性であるから、摂餌物によっては強い磯臭さを放つことは、コバンザメに限らず、内湾系の魚類ではまま見られる現象である。

「粘滑、甚し」不審。コバンザメが粘液を多量に出すとする記載は見当たらない。

「アヤカシ」現行では不思議な対象や「妖怪」の意で広く用いられることが多くなったが、第一義としては、本来は「狭義に海の怪異や海の妖怪の名」として用いるのが正しく、「船が難破する際に海上に現れるという化け物」で、「舟幽霊」や「海坊主」に強い親和性を持った海産妖怪を指す。私の「怪談登志男卷第四 二十、舩中の怪異」などを参照されたい。

「他魚と異(い)なり」異様な吸着器を持っているから、他に見られない異魚だというのである。

「水府」水戸の唐風の呼び方。

「艸鞋(わらぢ)」「草鞋」に同じ。

「大平御覧」「太平御覽」が正しい。宋初期の第二代皇帝太宗の命により李昉(りぼう)・徐鉉(じょげん)ら十四名による奉勅撰になる全一千巻に及ぶ膨大な類書(百科事典)。九七七年から九八三年頃の成立。同時期に編纂された「太平広記」・「冊府元亀」・「文苑英華」と合わせて「四大書(宋四大書)」と称される。引用は「鱗介部十二」の「印魚」で、

   *

臨海異物志曰、印魚、無鱗、形似䱜【音錯】。形、額上四方如印、有文章。諸大魚應死者、印魚先封之。

(「臨海異物志」に曰はく、『印魚、無鱗にして、形、䱜(さく)に似る【音、「錯」。】。形、額の上の四方に印のごとくなる文章(もんしやう)有り。諸々の大魚、應に死せんとすべき者は、印魚、先づ、之れを封(ふう)ず。』と。)

   *

「臨海異物志」は正確には「臨海水土異物志」で、三国時代の呉の武将沈瑩(しんえい ?~二八〇年)の撰になる博物学的地誌。「䱜」は鮫(サメ。或いはその中の一種)を指す。なお、現代中国語では「コバンザメ」は「鮣」「長印魚」「吸盤魚」と呼ばれている。

「印魚、有り、即ち、是れや、大魚、將に死せんとするに、印魚、先づ、之れを封(ふう)ず」まあ、丹洲の解釈するように、「この小判鮫は、大きな魚の口辺部に強力に附着し、その大魚の摂ろうとする餌を、皆、食ってしまって、大魚を餓えさせてしまうがために、吸着している大魚が弱ってしまい、同時に小判鮫自身も弱ることとなり、ために、人に捕獲されてしまう」という意味でよかろう。あまり理解されているとは思われないので言っておくと、コバンザメは大型のサメ類の外部体表のみでなく、口腔内にも吸着する内部寄生もする。私は実際に映像で見たが、多数のコバンザメが口腔内壁に附着しているのを見た。あれは、相応に寄生されたサメにとってはかなりの負担であろうと思われるほどにいたのである。されば、彼らが寄生した大魚を弱らせるというのは必ずしも誤りとは言えないと思われる。ただ、大きなサメの胃から明らかに捕食されたコバンザメが見つかっており、一方的にコバンザメの一人勝ちというわけではないらしい。但し、吸着寄生は幼魚・若魚の時とし、成魚は自由生活する個体も多いともあり、必ずしも何時も人の褌というわけでもないようである。

「利瑪竇」イタリア人イエズス会司祭で宣教師であったマテオ・リッチ(Matteo Ricci:中国名「利瑪竇」(Lì Mǎdòu) 一五五二年~一六一〇年)。ゴア・マカオを経て、一六〇一年に北京に入り、漢文教書「天主實義」や世界地図「坤輿萬國全圖」などの出版を通じて布教を図った人物として知られる。

『「坤輿図」に云はく、『咽機那魚、海中に生(しやう)ず。好んで舩底に粘着して、動かず』』かの「坤輿万国全図」のどこにそれが書いてあるのか、私は探し得ていないが、平野満氏の論文「『芝陽漫録』とその著者松平芝陽」(PDF・一九九八年三月発行『明治大学図書館紀要』所収)の「『芝陽漫録』にみえる本草記事と芝陽の本草学」の中に『⑴』として、

   《引用開始》

大槻玄沢は『蘭婉摘芳』(第三編巻八)「○印魚集説」として印魚(コバンザメ・アヤカシ)についての栗本丹洲の論稿「アヤカシノ図説並二其考証」(文政四歳次辛巳七月念八日誌)を収めている。その中で丹洲は、「アヤカシ」について西洋の説や谷川淡斎(士清)の『和訓栞』の説などの諸説とともに「源芝陽紀聞ノ随筆アリ」といい、「松平芝陽貞幹随筆曰」として芝陽の説にふれている。また「芝陽氏紀聞中ノマンボウニ附ク云々」として、印魚がマンボウに付いた例を「芝陽氏紀聞」から引用する。「冬月ニハ偶東都魚肆ヘモ持来ルコトアリ。去年庚辰ノ冬、飯田町中坂ノ魚店ニ釣リテアリ。長二尺許、人々奇観トスト、芝陽語リキ」あるいは「予懇友芝陽去年飯田町中坂魚店ニテ親ク賭ラレ、珍奇ナリトシテ予ニ語リシ時又右ノ奇話ヲ以テ演説シタリキ。速ニ随筆ニ収入スヘシト悦ハレシ」という。

『芝陽漫録』には「咽機那魚 和名コバン魚、又アヤカシ」[春―十九オ]の記事はあるが、ここにいわれるような魚店での見聞ではなく利瑪竇(マテオリッチ)[やぶちゃん注:ルビではなく、本文。]の『坤輿万国図』中の「咽機那魚」を引用したごく短い記事である。丹洲に語ったとおり芝陽が随筆に収めたとすれば、それは未発見の巻ということになる。あるいは、宍戸が編集の際に捨て去った可能性も皆無ではないが、宍戸の関心が本草学にあった

ことを考慮すればあり得ないだろう。宍戸の入手した『芝陽漫録』の中には上記の逸話がなかったと考える。やはり『芝陽漫録』には「アヤカシ」説を含む未発見の巻があると思う。

   《引用終了》

と述べておられる。]

2021/04/27

伽婢子卷之四 夢のちぎり

 

        ○夢のちぎり

 大永の比ほひ、舟田左近(ふなたさこん)といふ者あり。武門を出〔いで〕て、凡下(ぼんげ)となり、山城の淀といふ所にすみけり。心ざま、優(ゆう)にして、なさけ深く、しかも無雙(ぶさう)の美男(びなん)なり。家、富(とみ)て、ゆたかなりければ、人みな、あしくもいはず。年廿二になるまで、妻をもむかへず、たゞ色好みの名をとりたり。

 橋本といふ所に田地(でんぢ)をもちければ、秋のすゑつかた、

「田を、からせむ。」

とて、舟にのりつゝ、ゆくゆく、橋本の北に酒賣る家ありて、住居(すまひ)、にぎにぎしう、内の躰(てい)、奇麗に見ゆ。

 舟田は、舟(ふね)を家のうしろの岸につけて、酒を買(かふ)て、のまんとす。あるじ出て、

「こなたへ。」

とて、よび入しに、かけづくりにしたる亭(てい)に、のぼる。

 亭の西の方には、ふりたる柳、枝たれて、紅葉にまじはり、嵐〔あらし〕にちりおち、下葉うつろふ萩が露、枝もと、をゝに、おもげなり。秋をかなしむ蟲のこゑ、をばながもとに、よはりゆき、籬(まがき)の菊は咲き匂ひ、袖のかほりを誰(たれ)ぞとも、あだにゆかしき心地ぞする。

 北の方を見渡せば、淀の川波、浮きし沈む、鷗の聲は、をちこちに、あそぶ心ぞ、しらまほし。「楊枝(やうじ)が島」もほどちかく、「渚(なぎさ)の院」もこゝなれや。水野を過〔すぎ〕て山崎や、「うど野」につゞく三嶋江まで、たゞ一目にぞ見わたさるゝ。

  あるじ、盃(さかづき)出し、酒すゝめて、

「是は松江(ずんがう)の鱸魚(ろぎよ)にはあらねども、かの玄惠(げんゑ)法印が庭(には)の訓(をしへ)に名をほめたる淀鯉(よどごい)の鱠(なます)とて、とりそなへて出したり。又、これは吳中(ごちゆう)の蓴菜(じゆんさい)には侍べらねど、貫之(つらゆき)が、詠〔なが〕めにつみたる、水野の澤(さは)の根芹(ねぜり)にて侍べる。」

など、心ありげにもてなしければ、舟田、あるじの心を感じて、數盃(すはい)をかたぶけたり。

 その家に、むすめあり。年十八ばかり、未だいづかたにも緣を結ばず、亭に續きたる一間(ま)の部屋に住みけり。親、もとより、ゆたかなりければ、哥雙紙(〔うた〕さうし)なんど、おほくもとめてよませ、手はすぐれねども、物かく事、流るゝが如し。心ざま、やさしく、なさけあり。舟田が、亭にありけるを見て、心惑ひしつゝ、帳(ちやう)の隙(ひま)よりさしのぞき、或は、顏を、皆ながら、さしあらはし、或は帳の外に立ち、又、内に引籠り、又、帳より外に出つゝ、耻かしさも忘れて、こがるゝばかり、なまめきたり。

 舟田、これをみるに、女のかほかたち、世にたぐひなく美しく、輝(かゝや)くばかりに覺えて、知らず、わが魂(たましゐ)も、女のたもとに入〔いり〕ぬらん、たがひに心を通はせて、目と目を見合せ侍べりしか共、更に一言葉(〔ひと〕ことば)をいふべきよしもなく、日、すでに、傾(かたふ)きしかば、舟田は、暇乞(いとまごひ)し、座を立〔たち〕て、舟に乘り、我が宿に歸りしかども、たゞ、その人の面影のみ、身にしむ秋の、風さえて、ひとり、まろねの床の上、しらぬ淚ぞ、おちにける。

 その夜〔よ〕の夢に、橋本の酒うる家にゆきて、後(うしろ)の川岸より、門に入〔いり〕、直(すぐ)に女の部屋にいたりぬれば、部屋の前には、小さき「つくり庭」ありて、さまざまに疊(たゝみ)たる岩組(〔いは〕ぐみ)、峯よりくだる谷のよそほひ、ふもとよりつたふ道の續き、風情おもしろく、山より山のかさなれるに、洲濱(すはま)の池は、水淸く、さゝやかなる魚、おほくあそび、汀(みぎは)に生(おふ)る忍草(しのぶ〔ぐさ〕)、窓に飛びかふ螢火の、消え殘りたる秋の暮、鈴虫の聲、かすかなり。

 軒には、小鳥の籠、ひとつかけて、たきしめらかしたる香のにほひ、心もつれて、こがるらむ。つくえには、うつくしき甁(かめ)に、菊の花、すこしさして、硯箱あり。床(とこ)には「源氏」・「伊勢物語」、其外、おもしろく書(かき)たる双紙(さうし)を積み重ね、壁に寄せたる東琴(あづまごと)は、思ひをのぶるなぐさめかと、目とまる心地して立たりければ、女は、是れを見て、嬉しげに近づき、うち笑みて、舟田が手をとり、閨(ねや)に入て、

「心に積もる言の葉、百夜(もゝよ)も盡きじ。」

と、うち佗び、

「互ひに契りをかはしまの、水のながれて終(つゐ)にまた、末は逢瀨(あふせ)をならしばや、しばし人目を忍ぶ草、その關守こそつらからめ。」

など、さまざま語らひけるほどに、人の別れを思ひ知らぬ、八聲(〔や〕こゑ)の鳥もけうとげに、はや、『明がた』と打ちしきれば、灯火(ともしび)の色、いとしろく、窓の本(もと)に、夢はさめたり。これより、每夜、夢のうちに行通〔ゆきかよ〕〕ひて、契りをなさぬ夜は、なし。

 ある夜の夢には、女、琴をひきて「想夫戀(さうふれん)」の曲をなす。その爪音(つまをと)、たえにして、ひゞきは雲路(くもぢ)にいたるらむと、いとゞ情(なさけ)ぞ色まさりける。

 ある夜の夢には、又、かの家に行たりければ、女、白き小袖を縫(ぬひ)たりしに、舟田、ともし火をかきあぐるとて、小袖のうへに燈花(ちやうじがしら)をおとして、痕(あと)、つきたり。

 又、ある夜の夢には、女、白かねの香合(かうばこ)を、をくる。舟田、水精(すいしやう)の玉を、あたへたり。夢、さめぬれば、香合は舟田が枕もとに、あり。わが水精の玉は、なし。大きにあやしみ思ひて、

 君にいま逢ふ夜あまたのかたらひを

   夢としりつゝさめずあらなむ

とうち詠(なが)めて、あまりに堪(たへ)がたかりければ、舟に棹さして、橋本にゆきつゝ、かの家に立〔たち〕いり、酒を求めしに、あるじ、出て、舟田をみて、はなはだ喜び、内に呼びいれて、殊更に、もてはやす。

 かくて、物語しけるやう、

「それがし、たゞひとりの娘を持つ。年いまだ甘(はたち)に足らず。去年〔こぞ〕、秋の暮に、君、こゝに酒飮み給ふ時、娘見まゐらせしより、思ひ初めて、終(つゐ)に病(やまひ)となり、たゞ欝々として、ねぶれるが如く、ひとり言(ごと)するありさま、酒に醉(ゑひ)たるに似たり。醫師をたのみて治(ぢ)すれども、露ばかりのしるしも、なし。陰陽師(をんやうじ)にはらひせさするに、猶、おもくわづらひて、心地、たゞしからず。折々は『舟田左近』と、名をよぶ事、あり。しかも、昨日、いふやうは、『明日(あす)は君、必ず、こゝにおはしまさん』と、いひけれども、『例の狂氣より、いふ事ならん』と思ひ侍べりしが、君、けふ、來り給へり。これ、ひとへに、神の告(つげ)給ふ所ならん。願はくは、君、これを妻とし給へ。侘びてすむ、それがしの跡、殘りなく、參らせむ。」

といふ。

 

Yumeenotigiri

[やぶちゃん注:以上の挿絵は「新日本古典文学大系」版を用いた。左近が娘との婚意を告げ、主人がそれを受け入れて、やおら、娘の部屋で対面した大団円シーンである。小さくて分かりにくいが、左幅の棚の上に積まれた草紙に「古今」「万や」(万葉)の題箋が貼られているのが見える。但し、怪奇談集の挿絵としては、頗るつまらぬものである。]

 

 たがひに名字をあらはし、やがて領掌(れうじやう)して、娘(むすめ)の部屋に入ければ、部屋の躰(てい)、庭の面(おも)、みな、夢に見たるに違(たが)はず。

 女、其のまゝ枕をあげ、心地、たゞしくなりぬ。

 その顏容(かほかたち)・ものいひ・聲(こは)つき、聊(いさゝか)も、夢にかはらず。

 かくて、女、かたるやう、

「去〔さん〕ぬる秋のころ、君を見そめまゐらせしより、その物思ひ、むねに塞がり、面影、すでに、身をはなれず、夜ごとに君に契るといふ夢をみる事、いかにとも、いはれを、しらず。」

といふに、舟田が夢も、そのごとくに、小袖に灯花(とうくわ)の落〔おち〕たる痕あり。琴を彈きたる曲の名、香合(かうばこ)の事、みな、夢は、同じ夢也。

 是れを聞〔きく〕に、おどろき、あやしまずといふこと、なし。

 まことに、神(たましゐひ)の行〔ゆき〕かよふて、ちぎり、あさからず、「わりなきなからひ」とぞ聞えし。

 

[やぶちゃん注:今回は底本の漢字表記を元禄版のかな書きと対照し、敢えて漢字をひらがなに直した箇所が有意にある。流れの美しい和歌的な文脈のリズムをなるべく澱ませぬようにしたいと考えたからである。挿絵は底本のものを用いた。

「大永」戦国時代の一五二一年から一五二八年まで室町幕府将軍は足利義稙(よしたね)・足利義晴。

「舟田左近(ふなたさこん)」不詳。

「凡下(ぼんげ)」中世に於いて、侍身分に属さない一般庶民の称。「甲乙人」「雑人 (ぞうにん)」などとも呼んだ。

「山城の淀」京都府京都市伏見区の南端に当たる淀地区(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。桂川・宇治川・木津川が合流して淀川となる部分で、水運の要衝であった。

「橋本」京都市八幡市橋本。三川の合流点の左岸の船泊りで、石清水八幡宮の門前町及び京阪を結ぶ大坂道の宿場町として栄えた地でもある。

「田をからせむ」使役になっているのは稲刈りを雇いの百姓に刈らせるのを監督するためである。

「ゆくゆく」副詞で「行く道すがらに」の意。

「にぎにぎしう」「賑ぎ賑ぎしく」。

「かけづくり」「懸造」。水辺(川岸・池沼・湖・海岸・人口の庭の池など)の岸や崖などの高低差が有意にある土地に、長柱や貫(ぬき:柱等の垂直材間に通して支える水平材)で床下を固定し、その上に建物を建てる建築様式。「崖造」「舞台造」などとも呼ぶ。ここは挿絵では、川から水を引き込んで作った庭の泉池の上に張り出してあるように見える。立地場所から見て、相当に管理をちゃんとしないと、水害に襲われると話柄に関係ないことを危ぶむのは、僕の悪い癖。

「下葉うつろふ萩が露」「古今和歌集」の巻第四の「秋歌 上」の詠み人知らず(後書に一説に柿本人麻呂とする)の一首(二一一番)に、

 夜(よ)を寒み衣(ころも)かりがねなくなべに

    萩の下葉(したば)もうつりひにけり

とあるのに基づくか。「夜(よ)を寒み衣」までが「衣を借りる」と同音異義となって「かりがね」の序詞となっている。

「枝もと、をゝに、おもげなり」「をゝに」は「ををる」という動詞を形容動詞化したもので、元は「撓(をを)る」で、「枝や葉が撓(たわ)む」の意であるが、多くの場合、「花が枝もたわわに咲いているさま」を表わすのに用いる。万葉以来の古語である。「後撰和歌集」の巻第六の「秋 中」の詠み人知らずの一首(三〇四番)に、

 秋萩の枝もとをゝになり行くは

    白露重く置けばなりけり

があるが、これはしかし、萩の枝が花が咲く前から伸びてたるんで撓(しな)るようになる生態を、花の重さではなく、白露の重さのせいであったのだった、と風雅に意味づけしたものであり、而して、この一首は「万葉集」の巻十の大伴宿禰像見(おおとものすくねかたみ)の一首(一五九五番)、

 秋萩の枝もとををに置く露の消(け)なば消(け)ぬとも色に出(い)でめやも

のインスパイアともとれる。こちらの歌は明らかに恋歌で、露のように儚く消えてしまっても、この想いを人に知られたりはすまい、その恋心を顔色に表わしたり、そんな素振りを見せたりはするまい、という意味で、それを元歌とするならば、本編の伏線となっている。

「秋をかなしむ蟲のこゑ、をばながもとに、よはりゆき」「新後拾遺和歌集」の巻第五の「秋歌下」の津守国冬の一首、

   嘉元の百首の歌奉りけるに

 浪を越す尾花がもとによわるなり

    夜寒の末の松蟲のこゑ

に基づく。

「籬(まがき)の菊は咲き匂ひ、袖のかほりを誰(たれ)ぞとも」「新千載和歌集」の伏見院の一首、

 咲き匂ふ菊の籬(まがき)の夕風に

    花の宿かす袖の白露

に基づく。「袖のかほりを誰(たれ)ぞとも」は未だ現れない娘の伏線を感じさせる。

「あだにゆかしき心地」儚くもなんとなく心惹かれる心地。

「淀の川波、浮きし沈む、鷗の聲は、をちこちに」「新日本古典文学大系」版脚注では、筆者浅井了意の地誌「出来斎京土産」の七に載る、

 雲雀あがるみづ野うへ野を詠(なが)めれば

    霞流るゝ淀の河波

を参考歌として挙げる。

「あそぶ心ぞ、しらまほし」「浮きたってくるこの風流の思いを、しっかりと味わってみたいものだ」の意か。

「楊枝(やうじ)が島」「新日本古典文学大系」版脚注に、『改修前の宇治川が淀川に合流する淀小橋近くにあった小島。千鳥の名所』とある。橋本の北で見える位置となると、「今昔マップ」のここの砂州が切れた細長い楊枝のようなそれ(現在の淀川河川公園内)らしく思われる。

「渚(なぎさ)の院」「伊勢物語」の第八十二段、通称「渚の院」の舞台となるそれだが、大阪府枚方市渚に比定されており、位置的には橋本より四キロメートル以上も下流であるので、不審だが、ここは道行文(次注参照)の調子で、旧跡の名勝跡を読み込むことのみが念頭におかれているのであろう。

「こゝなれや」「新日本古典文学大系」版脚注に、『道行文によく使われる言い回し』とある。

「水野」現在の京都市伏見区淀美豆町(よどみづちょう)。

「山崎」橋本の淀川対岸に当たる大阪府三島郡島本町(しまもとちょう)、及び、その北に接する京都府乙訓郡大山崎町(おおやまざいちょう)の広域地名。

「うど野」大阪府高槻市鵜殿。淀川左岸で先の渚の対岸の少し上流。

「三嶋江」高槻市三島江。橋本からは十キロメートル以上下流の淀川左岸。

「松江(ずんがう)の鱸魚(ろぎよ)」蘇軾の「後赤壁賦」の一節に、

客曰、「今者薄暮、舉網得魚、巨口細鱗、狀似松江之鱸。顧安所得酒乎。」。

(客、曰はく、「今は薄暮、網を舉げて、魚を得たり。巨口・細鱗、狀(かたち)、松江の鱸(すずき)に似たり。顧ふに、安(いづ)くの所にか、酒を得ん。」と。)

とある通り、松江(ずんごう)、則ち、江蘇省の呉淞江(ごしょうこう:江蘇省南東部から上海西部を流れる黄浦江の支流。全長百二十五キロメートル。太湖の瓜涇口(かけいこう)に発し、呉江県北部を東に流れ、上海に入り、蘇州河とよばれ、外白渡(がいはくと)橋に至り黄浦江に注ぐ。太湖流域の主排水路であり、同時に内陸水路として太湖東岸と上海とを結び、長江三角州の東西幹線交通路の一つ)は古来より、高級食材の一種に挙げられている「松江鱸魚」(スンジャンルユイ:或いは「四鰓鱸」とも呼ばれる)の獲れる川として知られていた(現在の呉淞江では水質汚染によって激減しており、「幻しの魚」となっている)。確かに本邦の「鱸」、

スズキ目スズキ亜目スズキ科スズキ属スズキ Lateolabrax japonicus

も想像を絶する内陸の上流域まで遡上は出来る。詳しくは私の「大和本草卷之十三 魚之下 鱸魚(スズキ)」を見られたいが、実はスズキは本邦以外には朝鮮半島東部及び南部と沿海州にしか分布しない。則ち、呉淞江にいる「松江鱸魚」は本種スズキではあり得ないのである。では「松江鱸魚」は何かというと、スズキとは似ても似つかぬ、異形と言ってもいい、

スズキ目カジカ科ヤマノカミ属ヤマノカミ Trachidermus fasciatus

なのである。同種は「降河回遊」の生活史を持つ中型のカジカ類の一種であり、東アジア沿岸に広く分布するものの、本邦では有明海奥部と筑後川を始めとする、その流入河川に限られている(本邦では汚染により激減して絶滅危惧IB (EN)に指定されている)。されば、「後赤壁賦」(湖北省黄岡市黄州区にある赤壁は長江を河口から遡ること、実に九百キロメートル弱も上流の左岸に位置する)の「巨口・細鱗、狀(かたち)、松江の鱸(すずき)に似たり」というのも、そのヤマノカミか、或いはその近縁種の淡水カジカではないかと思われる。しっかりした漢詩紹介のサイトなどでも、無批判に鱸(スズキ)と訳して、何の注も附さないものが多いので、一言、言っておく。

「玄惠(げんゑ)法印」玄慧(?~正平五/観応元(一三五〇)年)は「玄惠」とも書き、「げんね」とも読む、鎌倉末期から南北朝時代にかけて活躍した天台宗の僧侶で儒者。「元亨釈書」を著した禅僧虎関師錬の弟とする説もあるが、不詳。延暦寺で修学し、法印権大僧都にまで昇った。禅にも深い関心を寄せ、また、程朱学にも詳しく、後醍醐天皇の侍読となって、天皇や側近の公卿たちに古典を講じた。その講義の席が後醍醐天皇を中心とする鎌倉幕府転覆計画の場であったという話があるが、これは「太平記」によって流布したものである。「建武の新政」の瓦解後には、足利氏に用いられて「建武式目」の起草に関与したとも伝えるが、これも不詳である。「源平盛衰記」の編者の一人ともされ、彼は等持院で足利直義の前で「太平記」を朗読したともされる。「太平記」の第二十七巻には「玄慧法師末期事」が記されてあるのだが、一説には「太平記」の四十巻本の内、巻初の第一巻から第十巻までは玄慧の作であり、第十一巻と第十二巻も玄慧が関わったのではないかという説もあるが、これもまた、不詳である。

「庭(には)の訓(をしへ)」寺子屋で習字や読本として使用された「庭訓往來(ていきんわうらい)」の作者が玄慧という説がよく言われるものの、これも確証に乏しい。擬漢文体で書かれ、衣食住・職業・領国経営・建築・司法・職分・仏教・武具・教養・療養など、多岐にわたる一般常識を内容とする実用書であるが、内容は一年十二ヶ月の往信・返信各十二通と八月十三日の一通を加えた二十五通から構成されており、多くの単語と文例が学べるように工夫されている。「手本系」・「読本系」・「注釈本系」・「絵入り本系」の多種が多く存在し(古写本で三十種、板本で二百種に達する)、時代を超えて普遍的な社会常識も多く扱ってあるため、江戸時代に入っても寺子屋などでの教科書としてよく用いられた。「庭訓」とは、「論語」の「季子篇」の中にある、孔子が庭を走る息子を呼び止めて詩や礼を学ぶよう諭したという故事に因んだもので、父から子への教訓や家庭教育を意味している(以上は当該ウィキに拠った)。

「淀鯉(よどごい)」読みはママ。国立国会図書館デジタルコレクションの榎本直衛編「繪入 庭訓徃来」(明治一四(一八八一)年刊)の四月復状の諸国名産の列挙部分のここ(左ページ四行目)に「淀鯉(よどのこひ)」とある。また、後代のものだが、寛政九(一七九七)年刊の平瀬徹斎著になる諸国物産書の「日本山海名物図会」の巻五の「淀鯉」(早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原本の当該部画像。それを視認して以下に起こした。読みは一部に留め、一部に濁点・記号を打った。標題は底本では囲み文字であるが、太字に代えた。■は判読出来なかった字)に、

   *

淀鯉

鯉は河魚(かはうを)の㐧一上品。「神農本草」に「鯉を魚の王とす」といへり。山城國淀の產を名物とす。中にも淀城の水車(みづくるま)のあたりに住(すむ)鯉、一(ひと)しほ、賞翫する也。しかれども、水車の邊(ほとり)にて網打(あみうつ)ことは、淀の御城より御制■(せいたう)あれば、猟師、みだりに魚を取(とる)こと、叶はず。鯉の大小は「一年物」・「二年物」・「三ねんもの」とて、年にとりて、高下(かうげ)を、わかつ。年久しくへたるほど、魚は、おほきし。

   *

とある。なお、淀城はここにあった。

「鱠(なます)」切り分けた魚肉に調味料を合わせて生食する料理を広く指す。全くの刺身の他、本邦では後代には酢漬けにしたものが専ら言われるようになった。

「吳中(ごちゆう)の蓴菜(じゆんさい)」「蓴羹鱸膾」(じゅんこうろかい)の頭の部分を指す。「晉書」の「文苑傳」の「張翰」に「翰、因見秋風起、乃思吳中菰菜、蓴羹、鱸魚膾、曰、人生貴得適志、何能羈宦數千里以要名爵乎。遂命駕而歸。」(翰、秋風の起こるを見るに因りて、乃(すなは)ち、吳中の「菰(まこも)の菜(さい)」・「蓴(じゆんさい)の羹(あつもの)」・「鱸魚(ろぎよ)の膾(なます)」を思ひ、曰はく、『人生は、志しの適(かな)ひて得るを貴(たふと)ぶ。何ぞ能く宦(くわん)に羈(つな)がる數千里を以つて、名爵(みやうしやく)を要せんや。』と。遂に駕を命じて歸る。)とあるのに基づく(「宦」は「官」に同じ)。ウィキの「張翰(晋)」が上手く前後を含めて解説に代えてあるので、参考にすると、晋(二六五年~四二〇年))の文人張翰(生没年不詳)は呉の大鴻臚の張儼の子として生まれた。文章を得意とし、任官に拘らなかったため、当時の人に「江東の歩兵」(歩兵校尉だった竹林の七賢の一人で代表的詩人阮籍のこと)と称された。洛陽に行った際、斉王司馬冏(けい)に認められて大司馬東曹掾となったが、秋風が立つのを見て、故郷呉郡呉県の真菰(単子葉類植物綱イネ目イネ科エールハルタ亜科 Ehrhartoideae Oryzeae族マコモ属マコモ Zizania latifolia 。水辺に群生し、成長すると大型になり、人の背丈程まで高くなる。その新芽に黒穂菌(くろぼきん)の一種である Ustilago esculentaが寄生して肥大したものを「真菰筍(まこもだけ)」と呼んで食用にする。古くは「万葉集」にも登場し、中国や東南アジア諸国でも食用・薬用とされる。私も一度、食したことがあるが、とても美味しい)料理・蓴菜(私の好きな淡水水草であるスイレン目ハゴロモモ科ジュンサイ属ジュンサイ Brasenia schreberi 。天然の菱の実や蓴菜を採ったことがある私は私の世代(昭和三十二年生まれである)では珍しいであろう。本邦では以前は「めなは」「ぬなは」などもと呼んだ)の吸い物・鱸魚の膾(先に見た通り、ヤマノカミ Trachidermus fasciatus のそれ)を思い出し、「人生は心に満足を得られるのが大切なのだ。どうして数千里の異郷で官につながれて、名利や爵位を求められようか!」と言い放ち、故郷への思いを述べた「首丘の賦」(惜しくも本文は現存しない)を書くと、官を捨てて故郷に帰った。まもなく司馬冏が敗れたことから、人々は皆、張翰が時機をよく見ていたと讃えたという。

「貫之(つらゆき)が詠〔なが〕めにつみたる」「新日本古典文学大系」版脚注に、『貫之集他に見出せないが「沢の根芹」は、恋の歌に用いられる』とある。「根芹」セリ目セリ科セリ属セリ Oenanthe javanica のこと。同種は別名を「シロネグサ」(白根草)。今は多くの人が緑の葉ばかりを食するものと思い込んでいるが、若い白い茎や根に独特の香りがあって美味いのである。私は昔、今は消えてしまった裏山の農業用水池の湿地で、よく、亡き母と、初春、二人で摘んだ……バスケットいっぱいに……あの時だけが、私は真に幸せだった気がする……

「水野」不詳。「新日本古典文学大系」版脚注は、「本草綱目啓蒙」の第二十二巻の「水斳」(「セリ」のこと)の最後の箇所を引いて(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの原本の当該画像。左頁四行目から)、根芹は『城州宇の産、根、最(もつとも)長』く、名の通り、『莖・葉を去(さり)て根を賞す』とあるから、この「水野」は地名ではなく、一般名詞であって「水」気の多い「野」、湿地のことを言っているのかも知れない。

「心ありげに」如何にも彼を気に入ったと見えて(或いはある種の目論見を持ってか)非常に手厚く。娘の存在を事前に匂わせる仕掛けという感じがするが、ややこれ見よがしで、私は好まぬ形容である。

「哥雙紙(うたさうし)」例えば「源氏物語」や七代集などから和歌を抜き出した歌の本。或いは和歌についての初心者向けの歌学書。

「手はすぐれねども」手跡は決して上手くはなかったけれども。

「物かく事、流るゝが如し」文章を書くことにかけては、まさに「流麗」と評するに足る力を持っていた。

「なまめきたり」意識してではなく、自然と艶っぽい表情となった。

「知らず、わが魂(たましゐ)も、女のたもとに入〔いり〕ぬらん」倒置法によって強調してあり、ここが本篇の展開点となっていることが判る。実際には「たがひに心を通はせて」とあって、この瞬間、魂が相互に憬(あくが)れ出でて、交感してしまったのである。

「しらぬ淚ぞ、おちにける」「人知れず、涙を落した」、誰にも語れぬ、しかも、相手にも自身のこの切ない思いを伝えられぬ、という多重な動機に基づく落涙である。

「つくり庭」所謂、坪庭に人工的に作った、自然をコンパクトに模したパロラマ風の小庭(と言っても次の池の叙述からは、かなり大きい)。

「洲濱(すはま)の池」その「つくり庭」に、これまた、人工的に作った池。それは河川・湖・海の洲や浜や岸に想像の中で読み換えられる。

「忍草(しのぶ〔ぐさ〕)」特定の植物を指していない。本来は「偲(しの)ふ種(くさ)」で、ある過去の時間を懐かしむ種(たね)の意。思い出すための縁(よすが)で、後に「忍ぶ草」と混用して盛んに歌や文に読み込まれた。

「たきしめらかしたる香のにほひ、心もつれて、こがるらむ」敢えて他動詞「薰(た)きしめる」にさらに他動詞を作る接尾語「かす」を添えて「如何にも~そのようにさせる」という強調形にすることで、単なる事実のそれを、燃えて燻(くすぶ)り立つ「縺(もつ)れ」るように燃え上がる「心」が恋「焦(こが)」れるのであろう、と畳みかけた表現となっている。

「東琴(あづまごと)」和琴(わごん)の別名。中国から渡来した琴(きん:長さ約一・二メートル。弦は七本。琴柱(ことじ)は用いずに左手で弦を押さえて右手で弾く。上代に日本に渡来したとされるが、現在は絶えた)・箏(そう:長さ一・八メートル前後の中空の胴の上に絹製の弦を十三本張って柱(じ)で音階を調節し、右手の指に嵌めた爪で演奏する。奈良時代に中国から伝来した。雅楽用の楽箏(がくそう)の他に箏曲用の筑紫箏(つくしごと)や俗箏(ぞくそう)等が生き残っている)の唐琴(からごと)に対して、日本式の琴(こと)をいう。古代に早くに生まれた。六弦で、右手に琴軋(ことさき)を持って弦を搔き鳴らし、また、時として左手指で弦を弾いて鳴らす。神楽や雅楽などを奏する時に用いた。弦を束ねる尾部が猛禽の鵄(とび)の尾に似ているので、別名を「鵄尾琴(しびごと)」とも呼ぶ。後には七弦・八弦のものも生まれた。倭琴(やまとごと)とも言う。言っておくと、私の妻は五歳から琴を習い、日本初の「邦楽研究所」第一期生であった(高校教師をしながらであったため、練習が足りず、演奏に満足出来なかったために、仲間に迷惑をかけるからと、私が止めるのも聴かずに卒業演奏直前に自ら退学してしまった)。

「互ひに契りをかはしまの」「新日本古典文学大系」版脚注に、『「契りを交はす」に「川島」を掛ける。川島は』一般名詞の『川中島のことで、二分された流れが』、『やがて合流するごとく、離れ離れになった二人が末に再会する喩えに使われる。「この河島の行末は逢ふ瀬の道になりにけり」(謡曲・加茂物狂)』とある。「加茂物狂(かもものぐるひ)」は四番目物。宝生・金剛・喜多流。作者不詳。三年振りに東国から都に戻った男が、賀茂明神の社前で物思いに沈んだ妻と再会する筋立て。

「末は逢瀨(あふせ)をならしばや」「新日本古典文学大系」版脚注に、『「逢ふ瀬を為す」に「楢柴』(ならしば)『を掛ける。楢柴はナラ』(ブナ目ブナ科コナラ属 Quercus の落葉性の広葉樹の総称。本邦の自生種は以下の六種。クヌギ Quercus actissima ・ナラガシワ Quercus aliena ・ミズナラ Quercus crispula ・カシワ Quercus dentata ・コナラ Quercus serrata ・アベマキ Quercus variabilis )『の枝を集めた薪』(たきぎ)『ともコナラの別称とも言う。ここでは』次の文の頭の『「しばし」と言うための序詞』に過ぎないとある。

「關守こそつらからめ」二人の逢瀬を妨げんとする者は、さぞ、情け容赦もないであろうけれど、そんなことは何のことなく無意味だ、という逆接の反語である。

「八聲(〔や〕こゑ)の鳥」朝を告げる鷄(にわとり)のこと。

「けうとげに」「気疎氣に」。如何にも面白くない、「聴きたくもない!」という感じで。

「『明がた』と打ちしきれば」「明け方だよ!」と嫌らしく続けざまに繰り返し鳴くので。

「想夫戀(さうふれん)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『「想夫恋」と書いて、「夫をもふてふとよむ想夫恋といふ楽」(平家物語六・小督)の意とするが』(誰が?)、『もとは「相府恋蓮」(徒然草二一四段)、また「想夫憐」(白氏文集六十七)という唐楽の曲名。「想夫恋 さうふれん」(大全)』と注する。「徒然草」のそれは(前半のみ引く)、

   *

 想夫戀といふ樂(がく)は、女、男を戀ふる故の名にはあらず。本(もと)は「相府蓮(さうふれん)」、文字の通へるなり。晉の王儉(わうけん)、大臣として家に蓮(はちす)を植ゑて愛せし時の樂なり。これより、「大臣」を「蓮府(れんぷ)」といふ。

   *

「たえ」ママ。「妙(たへ)」。

「いとゞ情(なさけ)ぞ色まさりける」ひどく彼女への情が激しく燃え上がったことだった。

「燈花(ちやうじがしら)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『行灯(あんどん)の灯心の先端にできることのある黒いかたまり。これを吉兆とした』とある。

「白かねの」銀製の。

「侘びてすむ、それがしの跡」謙遜もいい加減にしてほしいね!

「領掌(れうじやう)」相手の申し出や事情などを納得して承知すること。

『「わりなきなからひ」とぞ聞えし』「超自然の神仏の御縁によって決し断ち切れることのあに永劫の契りの仲じゃて!」と大いに評判となったということじゃった。]

2021/04/26

大和本草附錄巻之二 魚類 穴きすご (トラギス或いはシロギスの大型個体)

 

穴キスゴ 既ニ本編ニ記セリ常ノキスゴヨリ甚大ナリ

凡キスゴ漢名未詳以膾殘魚キスゴトスベカラス

○やぶちゃんの書き下し文

穴きすご 既に本編に記せり。常の「きすご」より、甚〔だ〕大なり。凡そ、「きすご」、漢名、未だ詳らかならず。「膾殘魚」を以つて「きすご」とすべからず。

[やぶちゃん注:益軒の言っているのは、「大和本草卷之十三 魚之下 きすご (シロギス・アオギス・クラカケトラギス・トラギス)」のこと。詳しくは、そちらの本文と私の注を見られたいが、そこで私は最終的にそこに出る「穴きすご」をスズキ目ワニギス亜目トラギス科トラギス属トラギス Parapercis pulchella に比定した。しかし、ここでは『常の「きすご」より、甚〔だ〕大なり』とのみ言っているだけで、リンク先のようには、体色が赤いことを言っていないのである。そうなると、ちょっと問題が違ってくる。益軒が『常の「きすご」』と言った場合、それはスズキ目キス科キス属シロギス Sillago japonica 或いは アオギス Sillago parvisquamis ということになる。そのデカい奴はトラギスではない。想像するにシロギスの大型個体である。さて、「アナキスゴ」で検索を掛けてみた。すると、グーグルブックスで小田淳著「『何羨録』を読む―日本最古の釣り専門書」(一九九九年つり人社刊)の「釣り方のこと」の173ページが掛かってきた。そこにキス(これは釣り人の本であるから基本、正統のシロギスをまず比定してよい。ただ、後文ではアオギス或いはトラギスの名も出るには出る)『三歳以上は腹は黄色で赤みがあり、背は黒く目立ち大きいものは鱗が荒く、大サイ(ニゴイ)』(コイ目コイ科カマツカ亜科ニゴイ属ニゴイ Hemibarbus barbus )『などのようである』とあって、「大和本草」の「アナキスゴ」とは『これがそうであろう』と述べた上で、『ある人、十一月末の暖かい日に三枚洲(中川「荒川」の南の沖辺り)辺りへカレイ突きに行って、引き潮に舟を流していって、浅場の深さ七、八寸あるところを見ると、大小のキスが数多くいた。川のキスは沖へ出ずに、穴を掘って附して暖かい日にはでるのだろうという』。『根釣りの人がいうのには、柾木(鈴ヶ森の沖辺り)で水が澄んでいる時、水底を見ると、ことごとく穴があり、その穴からキス、ハゼなどが頭を出し』ていたとある。これで「穴」の意が判った。されば、二種を比定しておくこととした。

『凡そ、「きすご」、漢名、未だ詳らかならず』シロギスは中国東部の海辺にも分布しているから、漢籍に載らないというのはおかしい。当該種の中文ウィキを見ると、「青沙鮻」「沙腸仔」の別名を見るが、古い本草書では今のところ見当たらない。発見したら、追記する。なお、中国でも「キス科キス属」を「鱚科鱚属」とするが、この「鱚」は日本からの逆輸入の和製漢字であるから、これで漢籍を調べるのは徒労である。

『「膾殘魚」を以つて「きすご」とすべからず』益軒先生の指摘は正解。では、「膾殘魚」とは何か? それはまた、迂遠な説明が必要なのだ。私の「大和本草卷之十三 魚之上 鱠殘魚(しろうを) (シラウオ)」の「鱠殘魚(しろうを)」の私の注を参照されたい。]

大和本草附錄巻之二 魚類 (魚類の食に於ける属性論)

 

生魚ハ食シテ不泥滯消化シヤスシ煮モ炙ルモ皆ヨシ

鹽淹乾燥日久或爲鮓者皆消化シ難シテ滯ル譬

ヘバ生地黃ハ大寒トイヘ𪜈宜通シテ不泥熟地黃ハ

卻テ泥滯スルガ如シ葢生物ハ陽氣猶殘リテ化シヤ

スク熟物ハ既ニ生氣ヲ失テ化シガタシ生物ヲ畏レ

テ拘ハリ泥ムベカラズ然レ𪜈毎物生ヲ好ミ熟ヲ忌ニハ

非ズ食物ノ性ヲ辨ズルニ此理ヲ知ベシ

○やぶちゃんの書き下し文

生魚〔なまうを〕は食して泥滯〔(でいたい)〕せず、消化しやすし。煮(に)るも、炙(あぶ)るも、皆、よし。鹽淹〔(しほづけ)〕・乾燥、日、久しく、或〔いは〕鮓〔(すし)〕と爲す者は、皆、消化し難くして、滯〔(とどこほ)〕る。譬(たと)へば、生地黃〔(しやうぢわう)〕は大寒といへども、宜〔(よろ)しく〕通じて、泥〔(なづ)〕まざれども、熟地黃〔(じゆくぢわう)〕は卻〔(かへつ)〕て泥滯〔(でいたい)〕するがごとし。葢〔(けだ)し〕、生物〔(なまもの)〕は陽氣、猶ほ、殘りて、化〔(くわ)〕しやすく、熟物〔(じゆくもつ)〕は既に生氣を失つて、化しがたし。生物〔(なまもの)〕を畏れて、拘〔(こだ)〕はり、泥〔(なづ)〕むべからず。然れども、毎物〔(まいぶつ)〕、生を好み、熟を忌〔(い)む〕には非ず。食物〔(しよくもつ)〕の性〔(しやう)〕を辨ずるに、此の理〔(ことわり)〕を知るべし。

[やぶちゃん注:「泥滯〔(でいたい)〕」腹中にあって滞留して消化が上手く進まないこと。

「鹽淹〔(しほづけ)〕」塩漬け。

「乾燥」干物。

「日、久しく」上の二種を受けて、「塩蔵及び乾燥させて有意な長い日数を経た」は、「鮓〔(すし)〕と爲す」と並列であって、ともに「者は」に掛かる。

「生地黃〔(しやうぢわう)〕」キク亜綱ゴマノハグサ目ゴマノハグサ科アカヤジオウ(赤矢地黄)属アカヤジオウ Rehmannia glutinosa の根を陰干しした生薬。

「大寒」漢方で体を冷やす作用が最も強いことを指す。

「泥〔(なづ)〕まざれども」「泥滯」に同じで体内で滞留してしまい、排出されずに、却って悪い証を呈したりすることを指す。

「熟地黃〔(じゆくぢわう)〕」生地黄を酒と一緒に蒸して作った生薬。但し、酒が含まれるため、性は寒が殺がれて温に近くなる。

「卻〔(かへつ)〕て」「却つて」に同じ。

「毎物〔(まいぶつ)〕」どんな摂餌対象であっても。]

大和本草附錄巻之二 魚類 油ばゑ (アブラハヤ・タカハヤ)

 

油ハヱ 形ハハエヨリマルク小鱸ニ似タリ長二三寸ウロ

コニヌメリアリ油イロナリ味ヨシ油多ク常ノハエニ異

リ山川ニアリ又黑㸃處々ニアル者有之是吹鯋ナ

ルベシ

○やぶちゃんの書き下し文

油はゑ 形は、「はえ」より、まるく、小〔さき〕鱸〔(すずき)〕に似たり。長さ二、三寸。うろこに、ぬめり、あり。「油いろ」なり。味、よし。油、多く、常の「はえ」に異なり、山川〔(さんせん)〕にあり。又、黑㸃、處々にある者、之れ有り、是れ、吹鯋〔(すなふき)〕なるべし。

[やぶちゃん注:純然たる淡水魚で、下線の中・上流域に棲息するウグイ亜科アブラハヤ(油鮠)属アムールミノー亜種アブラハヤ Rhynchocypris logowskii steindachneri となるが、実は私は「大和本草卷之十三 魚之上 モロコ (アブラハヤ)」で既に「もろこ」を本種に比定してしまっている。体表のぬめりが強く、油を塗ったようにぬるぬるするというのが「油」の由来らしい。また、益軒も言っている通り、見た目の背部の色が鬱金色で油っぽい色にも見える。ここでは序でに、同種との識別が難しいチャイニーズミノー亜種タカハヤ(高鮠) Rhynchocypris oxycephalus jouyi も挙げておくこととする。両者の識別は「大阪府立環境農林水産総合研究所」こちらが詳しいが、それでも、『これらの』識別『特徴は個体差が大きく、産地によっても異なるため』、『完全な区別点とはいえない』とある。なお、タカハヤも「大和本草卷之十三 魚之上 ※(「※」=「魚」+「夏」)(ハエ) (ハヤ)」の本邦の代表的な「はや」(本邦に「ハヤ」という和名種はいない)六種の中には既に挙げてある。

『形は、「はえ」より、まるく』この場合、益軒はコイ科Oxygastrinae 亜科ハス属オイカワ Opsariichthys platypus・Oxygastrinae 亜科カワムツ属ヌマムツ Nipponocypris sieboldii・Oxygastrinae 亜科カワムツ属カワムツ Nipponocypris temminckii を「ハエ」と認識している可能性が高い。これら三種は口吻部がアブラハヤやタカハヤよりも相対的に尖って見えるからである。

「小〔さき〕鱸〔(すずき)〕に似たり」いや、似てないと思いますよ! 益軒先生! スズキ(スズキ目スズキ亜目スズキ科スズキ属スズキ Lateolabrax japonicus )の幼魚でも、成魚と同じで口が大きくて下顎が上顎より前に出てますぜ?

「黑㸃、處々にある者、之れ有り、是れ、吹鯋〔(すなふき)〕なるべし」「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のタカハヤのページを見ると、全身に細かな斑模様が見えるのは、タカハヤの特徴とするが、同じサイトのアブラハヤのページの画像を見ると、「う~ん」と唸りたくなる。しかし、ともかくも「吹鯋〔(すなふき)〕」=「大和本草附錄巻之二 魚類 吹鯋 (「ゴリ」類或いはカジカ・ウツセミカジカ等)」というのは勘弁してほしいです! 益軒先生! ただ、先に示したは「大阪府立環境農林水産総合研究所」の「アブラハヤの吻」のキャプションに『河床を掘り起こすためノミ状となる』とある写真を見ると、「砂」をぶいぶい「吹き」そうな感じには見えはする。]

芥川龍之介書簡抄51 / 大正四(一九一五)年書簡より(十七) 山本喜誉司宛

 

大正四(一九一五)年十一月二十一日・牛込區赤城元町竹内樣方 山本喜譽司樣 直披・十一月廿一日夜 芥川龍之介

 

 喜譽司樣

 上瀧の妹をもらへない譯――⑴僕に愛のない事 興味さへない事 ある同情だけしかない事 ⑵僕のうちで必反對する事 ある點で上瀧をこの頃 僕のうちで好かない事 ⑶その後 どんどん上瀧の方の緣談が進行してゐる事 ⑷貰ふ事からの幸福の豫感が少い事

 僕の手紙をかいた譯――⑴僕のハイラアテンに關するいろいろな事は君に知つて貰ふ必要があると思つた事 云ひかへれば ハイラアテンの問題に關して何にも(今後も)君にかくさないつもりでゐた事 ⑵僕にその時の心理をかく事を强いる半藝術的要求があつた事 ⑶殆 無意志的に 僕の愛を文ちやんに向けるものを要求(特に君からと云ふ譯でなくとも)してゐた事 そして之は その話のあとの寂しさから 生まれた要求だと云ふ事

 ⑴⑵⑶は原因の大さに比例する番号

追伸一 この事は一切誰にも(おばあさんや姊さんは勿論)云はない事 云ふと間違が起りやすいから さうして存外大きな不幸が生れ得る事だから

                   龍

追伸二 僕に全然 この前の手紙で implicit に何か云はうとしてゐる氣のない事 さう云ふ事を明に出來なかつたのは 僕の失策だと思つて後悔してゐる事 しかし もし その上にも 僕が何か implicit に云はうと思つてゐると考へる人があつたら その人は僕を侮辱する人だと信ずる事

追伸三 僕の手紙をかいた譯の⑵と⑶とは入れかはつた方がよささうだと思ふ事 もらへない理由の⑴と⑷とはいつか詳しく話したいと思ふ事

追伸四 とにかく 全然 この話は 單なる一事件として 僕に起つた事 さうして それは 僕の生活の進路をかへる 何の力も持つてゐなかつた事

追伸五 この手紙の返事をなる可く早く貰ひたい事(返事と云ふ程の事はなくとも)(來ればなほいゝ 火曜の午後の外は大抵ゐるつもり)それからくれぐも 追伸一に氣をつけてくれる事

                   龍

 

[やぶちゃん注:底本は岩波旧全集に戻る。「龍」の署名は実際には前の行の下方にある。

「上瀧」複数回既出既注。

「ハイラアテン」Heiraten。ドイツ語。「ハイラーテン」。「結婚」。

「implicit」英語。「暗に示された・暗黙の」。]

芥川龍之介書簡抄50 / 大正四(一九一五)年書簡より(十六) 谷森饒男宛

 

大正四(一九一五)年十月六日・田端発信・牛込區辨天町 谷森饒男宛(葉書)

 

 1 平安朝にて無位無官の人間が佩きたる太刀はどんなものに候や。矢張後鞘などかけたるもに候や。柄は葛卷か鮫か又は柄糸にてまきしものに候や。

 2 無位無官の人間のかぶりものはどんな物に候や。普通の折鳥帽子に候や。

 3 同上の人間のはき物はどんなのか。普通に候や。藺の履などは少し上等すぎまじくや。

 右三件、國史大辭典にては埒あかず候間御尋ね申上候。何とぞ御敎示下され度願上候。匁々。

   五日

         田端四三五 芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:本書簡は岩波版旧全集には所収しない。岩波新全集で初めて公にされたものらしく、岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)に載る(私は新全集の書簡部を所持しない)。ここでは恣意的に漢字を正字化して示した。私がこれを採ったのは、前にも述べたが、現在、かの「羅生門」(大正四年十一月一日発行『帝国文学』初出)の脱稿が、この書簡を出した前の九月と推定されているからである。底本の石割氏の「佩きたる太刀」への注に、『これら谷森への問いは、「羅生門」発表直前に平安時代の風俗を確認しようとしたのか、新たな作品の構想に必要であったのかは不明。因みに「羅生門」では「聖柄の太刀が鞘走るらないやうに」とある』とあり、「折鳥帽子」の注にも、『「羅生門」では「揉烏帽子が」とある』とされるのである。私にはこれが「羅生門」と無関係とは、到底、思えないのである。実際の「羅生門」の決定稿の脱稿はこの書簡の直後だったのではあるまいか?

「谷森饒男」既出既注であるが、再掲する。谷森饒男(にぎお 明治(一八九一)年~大正九(一九二〇)年)は一高時代の同級生。一高への入学は芥川龍之介の入学の前年であるが、同期となった。非常な勉強家で卒業時の成績は官報によれば、井川・芥川に次いで三番で、東京帝大入学後は国史学を専攻し、大正五年七月に論文「検非違使を中心としたる平安時代の警察状態」を提出して東京帝国大学文科大学史学科を卒業、その後、東大史学会委員として編纂の任に当たり、優れた平安時代研究をもものしたが、惜しくも、結核のために満二十八で夭折した。芥川龍之介との交流を考証したものは、高重久美(くみ)氏の論文「歴史学者谷森饒男と芥川龍之介 ―第一高等学校時代の交友と文学―」(大阪市立大学国語国文学研究室文学史研究会『文学史研究』二〇一七年三月発行。PDFでこちらで読める)が恐らく唯一である。

「後鞘」不詳。読みも不詳。「あとざや」か。所謂、太刀の鞘の先の部分の石突(いしづき)金物のことを指しているか。刀剣用語でもヒットしない。

「柄糸」「つかいと」。刀の柄に巻く組糸(平たい紐)のこと。

「藺の履」「ゐのくつ」。「藺履(ゐぐつ)」。藺草(いぐさ)で編んで紙の緒を付けた裏張のない草履。

「國史大辭典」底本の石割氏の注に、明治四一(一九〇八)年に『八代国治らの編集で吉川弘文館刊』で、大正二(一九一三)年には『増補改訂版が刊行された。日本最初の本格的な日本史辞典』とある。]

芥川龍之介書簡抄49 / 大正四(一九一五)年書簡より(十五) 井川恭宛夢記述

 

大正四(一九一五)年十月一日・田端発信・井川恭宛(転載)

 

井川君

黑い古ぼけた門をくゞると 凸凹した敷石が不景氣な玄關迄つゞいてゐる 間口は三間もあるだらう 柱が腐つて床板が土につく位根太[やぶちゃん注:「ねだ」。]の下つた玄關である その玄關に小學校の敎壇にあるやうな机と倚子を据ゑてかち栗のやうな窮屈な顏をした男が端然とひかえてゐる 患者はすべて この男の前へ出て恭しく 病狀をのべ立てなければならない 僕は一寸 區役所へ税をおさめに行つた時の事を思ひ出した

審問がすむと古曆や廣告で穴をふさいだ襖をあけてその男が「どうかあちらへ」と云つた そこでその「あちら」へ來た 來て見ると「あちら」と「こちら」とは非常な相違である 第一「あちら」では天井が高くつて疊が新しくつて根太が丈夫さうで その上 庭に大きな金網の小屋があつて小屋の中に小鳥が二三十匹飼つてあつて――かう觀察の步(?)をすゝめて來た時に突然「どうもいけませんねえ」と云ふ聲がした その聲は又舌のたりないやうな 鼻のつまつたやうな妙な聲である 君はこれが如何なる人間の口から發音されたと思ふ? 恐らく次の行をよむ迄は見當がつかないのに相違ない この聲の所有者は朱ぬりの鳥籠に飼はれた一羽のかけすである かけすはそれから「まあ御養生なさい」とつけ加へた かちぐりの書生よりは遙に氣が利いてゐる 僕は大きな机の前へ尻を据えてこのかけすの慰安の辭をきゝながら氣長に朝日の煙を鼻の穴から出してゐた すると又妙な男が出て來て前のかちぐりと少しもちがはない審問を開始した 唯この男は頗[やぶちゃん注:「すこぶる」。](?)慓悍な獰猛な顏をしてゐる 鬚髮逆指瞋目閃々とでも形容したら 或はこの男のむかつぱらを立つたやうな顏つきが幾分でも眼底に彷弗するかもしれない 一通り審問がすむと男は「ぢやあこちらへ」と云つて一段高い次の間へ僕をつれて行つた今度は「こちら」が甚堂々としてゐる 西洋風に白い漆喰をぬつた天井でアッカンサスの葉が輪になつたまん中から電[やぶちゃん注:ママ。「電球」「電燈」の脱字か。]が根のやうにさがつてゐる 廣さは三十疊もあるかもしれない 壁には陳其美の額と東鄕大將の額とが日支の國威を爭つてゐる 僕はこの部屋の寢臺の上にねかされた 寐ると云つても僕のの外に二つあつてその上にはどこかの奧さんと血色の惡い待合のおかみのやうな女とがねてゐるのである そこで僕は帶をといて腹を出しておとなしくあをむけにねた するとその男が僕の腹にうち粉をふつて それから 勿体らしい顏をして 按腹をやり始めた その時僕の寢臺のそばヘ來て立つた男がある 上衣をぬいでゐるからホワイトの胸が楯のやうに光つてゐる その上に緣の少し脂づいた折襟がある その襟の上には馬鹿のやうな泰平な顏がある その顏はうすい髭をはやしてゐる 僕はねながらその顏をみてゐた するとその顏が微笑した さうしてうすい髭が動いた その男はかう云ふのである「醫者はきゝません胃病と云へば曹達[やぶちゃん注:「ソーダ」。]ばかりのませます」僕はその時これが高野太吉氏だなと思つた「どうもいけませんねえ まあ御養生なさい」かけすが又かう云ふ 僕はいゝ心もちになつて眼をつぶつた

    一九一五年十月一日夜

 

[やぶちゃん注:「三間」五・四五メートル。

「かけす」本邦の本州産はスズメ目カラス科カケス属カケス亜種カケス Garrulus glandarius japonicus。漢字表記は「橿鳥」(かしどり)「懸巣」「鵥」がある。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 橿鳥(カケス)」を参照されたい。

「かちぐりの書生」おせちの「搗ち栗・勝ち栗」で、古武士のように高慢な感じの書生の謂いか。

「鬚髮逆指瞋目閃々」「鬚髮(しゅはつ)逆指(げきし)し 目を瞋(いか)らこと 閃々(せんせん)」か。「鬚(ひげ)も髪も、空を指して逆立ち、ぎらぎらと目を怒らしている」と謂った形容であろう。

「アッカンサス」シソ目キツネノマゴ科ハアザミ連ハアザミ属 Acanthus 。アザミ(キク目キク科アザミ亜科アザミ連アザミ属 Cirsium )に似た形の葉は、代ギリシア以来、建築物や内装などの装飾のモチーフとされる。特にギリシア建築のオーダー(円柱)の一種であるコリント式オーダーは、アカンサスを意匠化した柱頭を特色としており、ギリシアの国花でもある。大型の常緑多年草で、地中海沿岸(北西アフリカ・ポルトガルからクロアチア)の原産。葉には深い切れ込みがあり、光沢があって、根元から叢生して長さ一メートル、幅二十センチメートルほどになる。晩春から初夏に高さ二メートルほどの花茎を出し、緑又はやや紫がかった尖った苞葉とともに花をつける。花弁は筒状で、色は白・赤など。乾燥・日陰・寒気にも強い。その名はギリシア語で「棘(とげ)」の意である(以上はウィキの「アカンサス」に拠った)。

「陳其美」(ちん きび)は清末民初の政治家・軍人・革命家で、上海の革命派「中国同盟会」に属した(庶務部長)。一九一一年の「辛亥革命」に於いて、十月の武昌起義の勃発とともに、上海での蜂起を計画し、十一月三日に決起、成功して滬(こ)軍都督となった。その後の十二月二日には南京を占領、孫文を迎え入れ、中華民国の成立に大きく貢献した。中華民国時代となって一九一三年七月の「第二革命」では上海討袁軍総司令に推戴され、同月十九日に上海独立を宣言したが、陸海軍の正規部隊の支持を得られず、9月に敗北、11月に日本へ亡命した。一九一四(大正三)年七月に東京で「中華革命党」が成立すると、陳其美もこれに加わり、総務部長に任命された。その後、帰国して袁世凱討伐活動に従事し、上海で蜂起を画策するも、失敗に終わった。一九一六年からは「護国戦争」(第三革命)に呼応して、引き続き、上海等で反袁活動を続けが、資金不足などが原因で活動は停滞、同年五月、北京政府側の軍人張宗昌が放った刺客によって暗殺された(以上は当該ウィキに拠った)。

「東鄕大將」「日本海海戦」の連合艦隊司令長官東郷平八郎(弘化四(一八四八)年~昭和九(一九三四)年)。

「ホワイト」ワイシャツのことか。

「高野太吉」大分出身の医師で亡命中の孫文の胃病の治療を担当した。大正五(一九一六)年に「抵抗養成論」を著している。参照した立命館アジア太平洋大学 孔子学院」のこちらには、『孫文はその著書の中で高野を名医と紹介している』とある。]

芥川龍之介書簡抄48 / 大正四(一九一五)年書簡より(十四) 矢羽真弓宛(当時の田端駅が現在位置にはなかったことが判る自宅の案内図附き)

 

大正四(一九一五)年九月二十一日・田端発信・矢羽眞弓宛

 

Akutagawaketizu

 

勿論いゝ加減な地圖です動坂からなら←[やぶちゃん注:上向き矢印。]の通りにお出でになるのが一番近い筈です私自身は先輩の所へ行くと氣がつまつていやですからあなたもさうぢやあないかと思つて心配してゐますそれさへなければ遊びに來て下さい

    廿一日夜       芥川龍之介

   矢羽眞弓樣梧下

 

[やぶちゃん注:本書簡は既に述べた田端駅が現在地になかったことを示す芥川家への詳細な地図が載るので採った(再度、「今昔マップ」の大正後期の比較地図を掲げておく)。龍之介の自筆の地図のキャプションは、中央に、

「僕の家」(旧宅跡はここ。グーグル・マップ・データ(以下同じ))

とあり、その右手奥(南東方向)に、

「白梅園」(龍之介が三年後に結婚式(内祝言。よく出る近くの天然自笑軒は披露宴が行われた場所)を挙げた料亭。大正二年に泉鏡花の「紅玉」が野外劇として上演された(既出既注)のもここ)

とあり、その下方に、

「交番」・「そばや」(蕎麦屋)・「肴屋」(魚屋)

とあり、その「肴屋」の右手のは、

「薬屋」

で、その「肴屋」の左手に、

「小料理屋」

とある。左下方は、

「廣瀨先生」(既出既注の三中の恩師(当時の近々に転居してきたもの)の家)

「瀧の川小学校」(瀧野川小学校。ここに現存するが、ここで龍之介が指示するのは、位置的に見て、同小学校の田端分教場だったのではないかとも思われ、後に同小学校から分割されて滝野川東高等小学校となり、それが現在の北区立田端中学校となっているもののように私は推理した)

で、右下方は、

「至動坂」(「至る動坂」の意。「動坂」はここ

河川名と橋名は、

「音無川」(石神井(しゃくじい)用水のこの附近での別名。現在は下水道となって完全に暗渠化している)

「谷田橋」(交差点名として残る)

である。而して、上部(西方向になる)の左手から、

「新ステ」(ー)「シヨン駅」

「旧ステーシヨン駅」

とあるのが判る。

「矢羽眞弓」(明治二九(一八九六)年~昭和五八(一九八三)年)は長野生まれ。後に瀧澤姓に改姓。三中及び一高の龍之介の四年後輩で、後に東京帝大建築科を卒業し、数件の建築をしたが(現存建築は皆無)、後は建築学者として教職者となった。神戸高等工業学校教授。]

芥川龍之介書簡抄47 / 大正四(一九一五)年書簡より(十三) 井川恭宛

 

大正四(一九一五)年九月二十一日・消印二十二日・京都市吉田町京都帝國大學寄宿舍内 井川恭君・九月廿一日夜 田端四三五 芥川龍之介

 

あれ以來每日平凡にくらしてゐる 學校は今學年から火木金土の午前だけしか出ない だから大分ひまだ 論文がこだはつてゐて何をしても氣になつていけない 尤も氣になつても何かしてゐるがトーデの本でミケルアンジエロのシスチナのチヤペルの画をみて感心した 感心したでは足りない 頭から足の先までふるひ動かされたとでも云つたらいゝかもしれない あゝ行かなくつちやあ噓だと思つた 何しろ今の所画ではミケロアンジエロほど僕の心を動かす人はない あればたつた一人レムブランドだ レンブランドは二度目のおかみさんの肖像のColour reproductionを手に入れてよかつた レムブランドが落魄した時に自画像なんかたつた三ペンスでうつたさうだ 今はどんな復製でも三ペンスよりは高い 次いではゴヤだ ゴヤはドンナイサベラと云ふのに感心した かう云ふ偉大な作家は皆人間の爲に最後の裁判の喇叭のやうな聲をあげて自分の歌をうたつてゐる その爲にどの位僕たちは心安く生きてゆかれるかしれない この頃は少し頭から天才にのぼせてゐる

櫻の葉が綠の中に點々と鮮な黃を點じたのを見て急に秋を感じてさびしかつた それからよく見ると大抵な木にいくつかの黃色い葉があつた さうしたら最[やぶちゃん注:「もつとも」。]的確に「死」の力を見せつけられたやうな氣がしたので一層いやに心細くなつた ほんとうに大きなものが目にみえない足あとをのこしながら梢を大またにあるいてゐるやうな氣がした

新聞は面白くよんだ(自分のはあまり面白くもよまなかつたが)「秋は曆の上に立つてゐた」と云ふのに感心した まつたく感心してしまつた 定福寺の詩は未に出來ない その代り竹枝詞を一つ作つた

   黃河曲裡暮烟迷

   白馬津邊夜月低

   一夜春風吹客恨

   愁聽水上子規啼

あまりうまくない

矢代幸雄氏は美術學校の講師になつた 西洋繪画史と彫刻史の講義をやるのだから盛である そこで彫刻の本をさがしに美術學校の圖書館へはいつたらたつた一册うすい本があつた しかもそれが Famous Tales of ltalian Sculptors と云ふのだからふるつてゐると思ふ 尤も美術學校の先生中でABC[やぶちゃん注:縦書。]がよめる人は矢代氏獨りなのださうだ すべての方面で隨分いろんな事がいゝ加減に行つてゐるらしい いつまでそれですんでゆくわけもなからうからその内にどうとかなるのだらうが それにしても大分呆れ返る

   わが指の爪のほそさに立つ秋のあはれはいとゞしみまさりけむ

   秋風はふきぬべからし三越の窓ことごとく白く光れる

   ふき上げの水もつめたくおつるおつる橡(マロニエ)の葉のわらけちるあはれ(これは大分窮した)

   橡(マロニエ)の黃なる木ぬれにゆきかよふ風をかなしときゝつ行くも(同上)

どうも今日は歌をつくるやうな氣分になつてゐなさうだからやめる又かく

   廿日夜             龍

  恭   君

 

[やぶちゃん注:「學校は今學年から火木金土の午前だけしか出ない」言わずもがな、最終学年で講義自体が減ったからである。今までのようにサボっているわけではない。

「論文がこだはつてゐて何をしても氣になつていけない」既出既注。芥川龍之介の卒業論文はイギリスの詩人・工芸家・思想家(マルクス主義者)ウィリアム・モリス(William Morris 一八三四年~一八九六年)を対象とした「ウィリアム・モリス研究」であった。

「トーデ」ドイツの美術史家ヘンリー・トーデ(Henry Thode 一八五七年~一九二〇年)。イタリア・ルネサンスと当時のドイツ芸術(因みに彼はリヒャルト・ワーグナーの二番目の妻コジマの生んだ長女が妻であった)を専門としたが、第三帝国の政策に加担したため、現在は殆んど評価されていない。

「ミケルアンジエロのシスチナのチヤペルの画」言わずもがな、ミケランジェロの代表作で、バチカン宮殿のシスティーナ礼拝堂の祭壇に描かれたフレスコ画「最後の審判」(Giudizio Universale )。

「レムブランド」ネーデルラント連邦共和国(現在のオランダ)の画家レンブラント・ハルメンソーン・ファン・レイン(Rembrandt Harmenszoon van Rijn 一六〇六年~一六六九年)。

「二度目のおかみさんの肖像」私の好きなレンブラントは、私生活は放縦にして病的な浪費家で、特に女性関係が複雑と言うより泥沼であったのではっきりと限定は出来ないが(詳しくは当該ウィキを参照されたい)、思うに、「ヘンドリッキエ・ストッフェルドホテル・ヤーヘルの肖像」(英語:The Hendrickje Stoffels :一六五五年)ではないかと推定する。同ウィキに当該画像があるのでリンクさせておく。但し、彼女は元家政婦で愛人の一人であり、法的にレンブラントの妻とされたのは彼女の死(一六六三年七月末・三十八歳)の数年前だったと推定されている。

「Colour reproduction」色再現。原色版。

「レムブランドが落魄した時に自画像なんかたつた三ペンスでうつたさうだ」当該ウィキの「無一文へ」を参照されたい。現行のレートで三ペンスは四円弱である。

「ドンナイサベラ」スペインの画家フランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス(Francisco José de Goya y Lucientes 一七四六年~一八二八年)の「ドーニャ・イサベル・デ・ポルセルの肖像(Retrato de Isabel Porcel :一八〇五年)ではないかと推定する。英語版ウィキの“Portrait of Doña Isabel de Porcel ”にある画像をリンクさせておく。

「かう云ふ偉大な作家は皆人間の爲に最後の裁判の喇叭のやうな聲をあげて自分の歌をうたつてゐる その爲にどの位僕たちは心安く生きてゆかれるかしれない この頃は少し頭から天才にのぼせてゐる」「羅生門」の脱稿(但し、決定稿ではないと考える)はこの書簡を出した九月と推定されており、「鼻」の脱稿は翌五年一月であった。

「新聞」『松江新報』。既注。私の注の『但馬の何とか溫泉は大へんよささうな氣がする そこでぼんやり一日二日くらして それから「やくもたつ出雲」へはいりたい』を見られたい。

は面白くよんだ(自分のはあまり面白くもよまなかつたが)「秋は曆の上に立つてゐた」と「定福寺」「常福寺」の龍之介の記憶違い。既出既注

「竹枝詞」個人サイト「詩詞世界 碇豊長の詩詞」のこちらに、『竹枝詞とは、民間の歌謡のことで、千余年前に、楚(四川東部(=巴)・湖北西部)に興ったものといわれている。唐代、楚の国は、北方人にとっては、蛮地でもあり、長安の文人には珍しく新鮮に映ったようだ。そこで、それらを採録し、修正したものが劉禹錫や、白居易によって広められた。それらは竹枝詞と呼ばれ、巴渝の地方色豊かな民歌の位置を得た。下って唱われなくなり、詩文となって、他地方へ広がりをみせても、同じ形式、似た題材のものは、やはりそう呼ばれるようになった。現在も「□□竹枝」として、頭に地名を冠して残っている』。『竹枝詞をうたうことは、「唱竹枝」といわれ、「唱」が充てられた』。『後世、詩をうたいあげることを「賦、吟、詠」等というのと大きく異なる』。『竹枝詞という呼称は、詩題に似ているが違うものである。強いて言えば、形式を表す点では詞牌に列するものであり、実際にその扱いを受けているものである』。『竹枝詞の形式は、七言絶句と似ているものがほとんどである』。『竹枝を七絶と比較して見てみると、七絶との違いは、平仄が七絶より緩やかであって、あまり気にしていない。謡ったときのリズム感を重視するためか、同じことば(詩でいえば「字」)が繰り返してでてくることが屡々ある。また、一句が一文となっている場合が多く、近体詩の名詞句のみでの句構成などというものはあまりない。聞いていてよく分かるようになっている。これらが文字言語としての詩作とは、大きく異なるところである。また、白話が入ってくることを排除しない』。『共通する点は、節奏は、七絶のそれと同じで、押韻も第一、二、四句でふむ三韻。この形式での作詞は根強く、現代でも広く作られている。現代の作品は、生活をうたった、典故を用いない、気軽な七絶という雰囲気である』。『竹枝詞の内容は、男女間の愛情をうたうものが多く、やがて風土、人情もうたうようになる。用語は、伝統的な詩詞に比べ、単純で野鄙であり、典故を踏まえたものは少ない。その分、民間の生活を踏まえた歌辞(語句)や、伝承は出てくる。対句も比較的多い。男女関係を唱うものは、表面の歌詞の意味とは別に裏の意味が隠されている。似たフレーズを繰り返した、言葉のリズム、言葉の遊びというようなものが感じられる』。『これらの特徴は、太鼓のリズムに合わせ、楽器の音曲にのり、踊りながら唱うということからきていよう』とある。以下の芥川龍之介の「竹枝詞」は「芥川龍之介漢詩全集 附やぶちゃん訓読注+附やぶちゃんの教え子T・S・君による評釈」の「九」を見られたい。

   黃河曲裡暮烟迷

   白馬津邊夜月低

   一夜春風吹客恨

   愁聽水上子規啼

「矢代幸雄氏」既出既注

「Famous Tales of ltalian Sculptors」「イタリアの彫刻家の有名な物語」。

「橡(マロニエ)」フランス名の「マロニエ」(marronnier)。但し、既出既注の「橡」を参照のこと。]

久しぶりに書きたい夢を見た

私は教員になった二十二で、ひどく田舎の地に赴任することになった。私は友人家族の世話で、一面の畑の奥の山渓の古アパートに入った。そこは鉄道が敷かれているものの、一時間に一本しか(それも蒸気機関車)来ない。アパートの大家は川漁の達人だった。

引越の日には近くに住む友人の母と娘(少女)が手伝いに来てくれ、一晩、泊まっていった。ところが、翌朝、目覚めて見ると、少女一人しかいなかった。私が尋ねると、

「私は、初めから、一人でした。」

と平気な顔をしている。

 汽車の汽笛が聴こえた。少女が、

「あれに乗らないと遅れてしまうわ!」

と言った。[やぶちゃん注:ここまでは総てにつけて「つげ義春」風。]

 私は大急ぎで背広に着替えて、それを翼のように翻しながら、畑の中を突っ切って、線路を跨ぎ、何んとか間に合って、汽車に飛び乗った。昇降口から身を乗り出して背後を見ると、少女が手を振っている。私は、

「今夜は料理を作るから、待っていて!」

と叫ぶ自分を、俯瞰で撮っていた。[やぶちゃん注:このシーンは唐突に「誓いの休暇」風。]

 その晩、私は豪華なパエリアを作って少女と食事をした。

 翌朝は日曜日で、少女を家まで歩いて送り届けた。そこは昔の大船の山間であった。私は少女にいろいろな場所を案内しつつ、この少女と別れるのがひどく淋しい気がしていた。

 その時、気がついたのだ。

『この少女は友人の母親の少女時代の姿だ。』

 しかし、それを口に出そうとした時、少女は右手の人差し指を立てて、私の唇に押し当てた。[やぶちゃん注:ここでまた、突然、「つげ義春」風。]

 少女の家に着いた。しかし、母はいない。老いた父親が迎えて呉れた。私はそこの厨房を借りて再び渾身のパエリアを作り、三人で黙って食べた。

 少女は涙を流しながら。…………

   *

 何か哀しい気持ちになって目が覚めた。因みに、この少女は「北の国から」の中嶋朋子の螢にそっくりだった。

2021/04/25

伽婢子卷之四 地獄を見て蘇

 

伽婢子卷之四

 

    ○地獄を見て蘇(よみがへる)

 

 淺原新之丞は、相州鎌倉の三浦道寸が一族の末なり。才智ありて、辯舌人にすぐれ、儒學を專らとして、佛法を信ぜず、迷塗流轉(めいどるてん)の事・因果變化(へんげ)のことわりを聞いては、さまざま、言(いひ)かすめて、誂(そしり)あなどり、僧・法師と雖も、うやまはず、口にまかせて、誹謗し、理を非にまげて、難じ破る。

 其隣に、孫平とて、有德(うとく)なる者あり。若かりし時より、欲心深く、慳貪放逸(けんどんはういつ)にして、更に後世〔ごぜ〕を願はず、川狩(かはかり)を好みて、常の慰みとす。

 ある時、心地わずらひて、俄にむなしく成りたり。

 妻子・一門、驚き歎きて、願(ぐわん)、たて、祈禱しけり。

 胸のあたり、末(ま)だ溫かなりければ、まづ、葬禮をば、せず、まづ、僧を請じ、佛前を飾り、經、よみけるに、三日といふ暮方(くれがた)に、よみがえりて語りけるやう、

「我、死して、迷塗(めいど)に赴きしに、其道、はなはだ、暗し。又、こととふべき人も、なし。かくて、『一里ばかり行〔ゆく〕か』と覺えし、一つの門にいたり、内に立入しかば、一つの帳場(ちやうば)あり、冥官(みやうくわん)、きざはしに出て、我を招きて、

『汝、死してこゝに來る。妻子、歎きて、金銀を散らし、祈禱・佛事、とりどりに營む故に、此功力(くりき)によつて、二たび、娑婆に歸し遣(つかは)す也。』

と、のたまふ。我、嬉しくて、門を出〔いで〕て歸ると覺えて、よみがへりたり。」

といふ。

「まことに祈禱・佛事の功力(くりき)は、むなしからざりけり。」

とて、喜ぶ事、限りなし。

 淺原、是を聞て、大〔おほき〕に嘲り笑ひて、曰く、

「世のむさぼり深き邪欲・奸曲の地頭・代官どもは、賄(まひなひ)得ては、非道をも正理(しやうり)になし、物を與へざれば、科(とが)なきをも罪におとす。此故に、富(とめ)る者は非公事(ひくじ)にも勝(かち)、貧き者は道理にも負(まけ)を取る。これ、此世ばかりの事かと思ふに、迷塗の冥官も私(わたくし)あり。金銀だに、多く散じて佛事をだに、よく營めば、或は死しても、よみがへり、或は地獄もうかぶとかや。貧(まづし)きものは、力、なし。善惡のむくひは、多く錢金を散らす人こそ、來世も心安けれ。むかし、漢の韋賢(ゐけん)が言葉に、『子に黃金萬贏(まんえい)をのこさむより、如(しか)じ、子に一經(けい)を敎へんには』と、いへり。地獄の沙汰も錢によるべし。閻魔王も、金だにあれば、罪は赦す。韋賢が言葉は詮(せん)なし。」

と、いひて、手をうちて、笑ひ、あざける。

 扨、かくぞ、よみける。

 おそろしき地獄の沙汰も錢ぞかし

   念佛〔ねぶつ〕の代〔しろ〕に欲をふかかれ

家に歸り、ともしびのもとに、唯、獨り、坐し居たりけるに、怱ちに、二(ふたり)の鬼、來れり。

 其有樣、すさまじく、身の毛よだちけるに、

「これは閻魔王よりの使(つかひ)なり。急ぎ、參るべし。」

とて、淺原が兩の手を引〔ひつ〕たて、門を出〔いで〕て、走る。

 步むともなく、飛〔とぶ〕ともなく、須臾(しばし)の程に、一つの帳場にいたりぬ。

 世間の評諚場(ひやうぢやうば)の如し。

 

Jigoku1

[やぶちゃん注:閻魔大王の前に巻物(浅原の生前の記録)を広げているのが、地獄の書記官の一人(一般には「倶生神(ぐしょうじん)」と呼ばれる、個々の人間の一生に於ける善行と悪行の一切を記録し、その者が死を迎えた後に、生前の罪の裁判者たる地獄の十王(特に本邦ではその中の閻魔大王に集約されることが多い)に報告するという書記官で、有名どころでは司命神(しみょうじん)と後で出てくる司録神(しろくじん)などがいる)。閻魔の右手の方にいる同様の服を着ているのが、同じ書記官の一人。左手に卒塔婆(上に「シ」と書かれている)のようなものを抱えている。「新日本古典文学大系」版脚注ではこれが『命のふだか』とされる。なによりも私がそのフォルムを偏愛する地獄のアイテム「人頭杖(にんとうじょう)」が、左幅の右手に配されてあるのがいい(右幅の楕円形のそれは今一つの必須アイテムである死者の生前の善悪の行為を映し出すという鏡「浄玻璃」である)。女の首と鬼の首が高台の上に置かれている。この首は生きており、前に亡者を控えさせると、生前の善行と悪行を総て喋るのである。どっちがどっちかって? それは意想外に女の首が悪事を、鬼の首が良い行いを語るんさ!

 

 御殿の奧には、大王と覺しき人、玉の冠(かふり)を載き、絪(しとね)の上に坐(ざ)し、冥官は、その左右に、位に依りて、坐せり。

 二の鬼、淺原を其前の庭に引〔ひき〕すゆる。

 大王、いかれる聲を出して、

「汝は、儒學を縡(こと)として、佛法を異端と貶(おとし)め、深き道理をしらずして、みだりに誹(そし)り、あざける。いでや、『迷塗の事は、なし』といふ、此科(とが)、口より出たり。速く、拔舌奈梨(ばつぜつないり)に遣(つかは)し、その舌を拔き出し、犁(からすき)を以て、鋤返(すきかへ)せ。」

と、の給ふ。

 淺原、首(かうべ)を地につけて、

「我、更に非道の罪なし。儒の敎を守りて、『君臣・父子・夫妻・兄弟・朋友の五倫(りん)の道、よこしまならじ』と、たしなみ、天理性分(〔てん〕りせいぶん)の本然(ほんぜん)を說(とき)て、其德を仰ぐ。更に佛道を修(しゆ)せずといふとも、地獄に落〔おつ〕べき、いはれ、なし。」

といふ。

 大王、のたまはく、

「『冥官も私あり、善惡のむくひは貧富(ひんふう)による』とて、『念佛の代に、欲を深かれ』といふ歌は、誰(た)が詠みしぞ。」

と怒り給ふ。

 淺原、答へていふやう、

「古しへ、三皇五帝の世には、天堂(〔てん〕だう)・鬼神の事を述べず。三代の時に至りて、山川(さんせん)の神をまつる事、初めて、これ、あり。後漢(ごかん)の世に、佛法、傳り、夫より、天堂・地獄・因果の理を示す。こゝに於て、山川にも靈(れい)あり、社頭にも主(ぬし)あり、木佛・繪像(ゑぞう)、みな、奇特(きどく)を現(げん)ず。世の人、是に溺れて、性理(せいり)を失ひ、惡をなして、改めず、科(とが)を犯して、ほしいまゝ也。つよきは弱(よわき)を凌(しの)ぎ、富るは貧しきをあなづり、親に孝なく、君に忠なく、一家(〔いつ〕け)、睦(むつま)しからず、財寶をむさぼり、邪欲をかまへ、義を知らず、節をまもらず、利に走りて、恩を忘れ、唯、『金銀だに散(ちら)して、佛事供養を營めば、罪深きも、科重きも、地獄をのがれて、天堂に生ず』といふ。若〔もし〕、よく、かくの如くならば、惡人といふとも、富貴(ふうき)なれば、天上に生れ、貧者は善人も地獄に落〔おつ〕べし。閻魔の廳と雖も、富貴なる惡人、大佛事をなせば、淨土に遣すといはゞ、貧者のうらみ、なきにあらず。是、廉直の批判にあらず。私(わたくし)と言〔いふ〕べし。我、この事を思ふが故に、一首の狂歌を詠みて、此責(せめ)に遇ふ。大王、深く察し給へ。」

といふ。

 大王。聞て、宣はく、

「此理、よこしまならず、陳(のぶ)るところ、實(まこと)也。みだりに罪を加へ難し。此誹(そし)りある事は、孫平が佛事・祈禱に金銀多く散じたる故に、二たび、娑婆に歸されたりと沙汰せし故也。急ぎ、孫平を召來れ。」

と、の給ふ。

 須央(しばらく)の間に、孫平を召し來〔きた〕る。

「手杻・首械(てかせ・くびかせ)を入れて、直(すぐ)に地獄に遣はし、淺原をば、娑婆に送り歸せ。」

とあり。

 二人の、冥官、座を立〔たち〕て、淺原を連れて、庭を出〔いづ〕る。

 淺原、言ふやう、

「我、人間にありて儒學をつとめ、佛經に說(とく)ところ、地獄の事を聞ながら、信(しん)を起さず。今、すでに、こゝに來〔きた〕る。願くは、地獄の有樣を見せて、我に、いよいよ、信を起さしめ給へかし。」

といふ。

 冥官、聞て、

「さらば、司錄神(しろくじん)にとふべし。」

とて、西のかた、廊下を過〔すぎ〕て、一つの殿(でん)に行く。

 善惡二道の記錄、山の如くに積たり。

 冥官、

「しかじか。」

といふに、司錄神、簿(ふだ)を出〔いだ〕したり。

 冥官を、これ、とりもち、淺原を連れて、北のかた、半里ばかり行けるに、銅(あかがね)の築地(ついじ)高く、鐵(くろがね)の門、きびしき城に至る。

 黑煙、天におほひ、叫ぶ聲、地を響かす。

 午頭・馬頭(ごづ・めづ)の鬼、あまた、鐡棒・鐡叉(てつしや)を橫たへ、門の左右に立たり。

 二人の冥官、さきの簿(ふだ)を渡し、淺原を連れて、内に入て、見せしむ。

 罪人、數知らず、獄卒、捕へて、地に伏せ、皮を剝ぎ、血を絞り、腹をさき、目を剜(くじ)り、耳をそぎ、鼻を切り、手足をもぎて、肉をそぐ。

 罪人、泣き叫び、苦(く)を悲しむ聲、地にみちたり。

「これは、むかし、人間にありし時、山海に、獵(かり)、漁(すなどり)、殺生を營みし者也。」

 

Jigoku2

[やぶちゃん注:この絵師はかなり律儀で、以下のそれぞれの悲惨な各々の地獄の内容を描き込んである。]

 

 又、或所には、銅(あかゞね)の柱を二本、立〔たて〕並べ、男と女と二人を傑(はりつけ)にして、獄卒、劍(けん)をもつて、腹を斷(たち)さき、銅の湯を、銚子(てうし)に盛(もり)て、流しかくるに、五臟六腑、爛れ燃(もえ)て、わき流るゝ。

 男も女も、只、首ばかり、柱に殘りて、泣き叫ぶ。

 淺原、其故をとふに、冥官、答へて曰く、

「是は娑姿にありし時、この男は藥師(くすし)なり。此女の夫(をつと)、病深きを療治せしむるに、藥師と女と、まさなきみそかごとして、夫に惡しき藥を與へ、女、あらけなく當りて、殺しつゝ、夫婦(ふうふ)となりき。二人ながら、死して今、此苦(く)を受(うく)る。」

といふ。

 又、或所には、尼・法師、多く、裸にて、熱鐵(ねつてつ)の地に蹲(うづく)まり居たるを、獄卒、來りて、牛馬(ぎうば)の皮を着(きせ)、履(おほ)ふに、尼も法師も、そのまゝ牛馬になる。是に、磐石(ばんじやく)を負(おふ)せ、くろがねの鞭(むち)を以て、是を打つに、皮、破れ、肉(しゝむら)、そげて、血の流るゝ事、瀧の如し。

 淺原、又、問うて、曰く、

「これ、人間にありし時、尼となり、法師となりて、田、作らずして、飽まで食(くら)ひ、機(はた)おらずして、暖(あたゝか)に着て、形は出家ながら、戒律を守らず、心に慈悲なく、學道なくして、徒らに施物(せもつ)もらひける者共也。此故に、畜生となりて、信施(しんせ)を償ふ。」

と云(いふ)。

 又、或所を見れば、俗人、多く、牛馬となりて、苦を受く。

「これは、昔、代官として百姓を取り倒し、妻子を沽却(こきやく)せしめたり。百姓辛苦の脂(あぶら)を、はたりとる、是も施物に同じからずや。」

と云。

 最後に、ある地獄に至る。

 猛火(みやうくわ)、殊更にもえあがり、數百人、くろがねの地に坐し、手杻・首械をさされ、五體、さながら、もえこがれ、焰(ほのほ)、みちみちたり。

 毒蛇(じや)來りて、其身をまとひ、血を吸ふ。

 又、鐵(くろがね)の嘴(くちばし)ある鷹、飛び來り、罪人の肩を踏(ふま)へて、眼(まなこ)を喙(つい)ばみ、肉(しゝむら)を引き裂き、食(くら)ふ。

 泣き叫ばんとすれば、猛火のけふり、咽(のど)に迫り、苦しみ、いふばかりなし。

 肉、盡きて、骨、現はれ、死すれば、凉しき風、吹き來り、又、元の如くにして、蘇(よみがへ)る。

 淺原、其故をとふに、曰く、

「是は、往昔(そのかみ)、鎌倉の上杉則政(のりまさ)の子息龍若(りうわか)殿のめのとご妻鹿田(めかた)新介、その弟長三郞、同三郞助、その外、親類、都合廿人、すでに則政沒落の時、主君龍若殿をつれて、敵(かたき)北條氏康(うぢやす)に渡して、降人(がうにん)に出たり。主君を殺したる天罸、あたり、此廿人、みな、氏康に殺され、死して、此地獄に落ちて、億萬劫(おくまんごふ)を經(ふ)るといふとも、浮ぶ時、あるべからず。其外の輩(ともがら)も、皆、主君を殺し、不忠を抱き、國家を亡ぼしける者共也。」

と、こまごまと語る。

 其より、淺原、冥官につれて、門を出〔いづ〕る、と覺えしかば、忽ちに蘇り、

「隣の孫平は如何に。」

と問ければ、其夜、又、むなしくなれり。

 是れによりて、淺原、儒學を捨てて、建長寺にいたり、參學して、醒悟發明(せいごはつめい)の道人(だうにん)となりけり。

 

[やぶちゃん注:挿絵は「新日本古典文学大系」版のものを使用した。

「淺原新之丞」不詳。

「三浦道寸」三浦義同(よしあつ 宝徳三(一四五一)年或いは長禄元(一四五七)年~永正一三(一五一六)年)は戦国初期の武将で東相模の大名。一般には出家後の「道寸」の名で呼ばれることが多い。北条早雲の最大の敵であり、平安時代から続いた豪族相模三浦氏の事実上の最後の当主。鎌倉前期の名門三浦氏の主家は、宝治元(一二四七)年に北条義時の策謀による「宝治合戦」で滅亡したが、その後三浦氏の傍流であった佐原氏出身の三浦盛時によって三浦家が再興され、執権北条氏の御内人として活動し、「建武の新政」以後は足利尊氏に従い、室町時代には浮き沈みはあったが、三浦郡・鎌倉郡などを支配し、相模国国内に大きく勢力を拡げた。道寸は扇谷上杉家から新井城(三崎城とも)主三浦時高の養子に入る(先に義同の実父上杉高救(たかひら)が時高の養子であったとする説もある)。しかし、時高に高教(たかのり)が生まれたために不和となり、明応三(一四九四)年に義同は上杉時高及び高教を滅ぼし、三浦家当主の座と、相模守護代職(後に守護。時期不明)を手に入れた。その後、北条早雲と敵対するようになり、道寸父子は新井城(グーグル・マップ・データ)に籠城すること三年、家臣ともども凄絶な討ち死をした。なお、この落城の際、討ち死にした三浦家主従たちの遺体によって城の傍の湾が一面に血に染まり、油を流したような様になったことから、同地が「油壺」と名付けられたと伝わる(以上は所持する諸歴史事典とウィキの「相模三浦氏」及び「三浦義同」を主に参考にした)。

「迷塗」「冥途」の当て字。

「言(いひ)かすめて」「言ひ翳めて」。言葉巧みに誤魔化して。

「理を非にまげて」道理を、無理矢理、へし曲げて。しかしそれで相手を必ず論難して勝ったわけだから、この浅原という男は相当に狡猾な悪智慧者ではあったのである。

「慳貪放逸(けんどんはういつ)」「慳貪」は吝嗇(けち)で欲深く、しかも思いやりがなく、邪見なこと。「放逸」勝手気儘に振舞い、且つ、その行いが常識や道徳から外れていることを言う。

「川狩(かはかり)」川漁。

「帳場(ちやうば)」「廰場」の当て字であろう。冥府の役所。

「奸曲」「姦曲」とも書く。心に悪巧みを持っていること。

「非公事(ひくじ)」道理を全く外れた著しく不当で非論理的な裁判。

「漢の韋賢(ゐけん)」韋賢(紀元前一四三年~紀元前六二年)は前漢の政治家。儀礼や「書経」・「詩経」に通暁し、「鄒魯の大儒」(彼は魯国の騶(すう)県の出身)と呼ばれた。中央に徴用されて博士となって第八代皇帝昭帝に「詩経」を教授した。昇進して大鴻臚(九卿(きゅうけい)の一つ。帰順した周辺諸民族(「蛮夷」)を管轄した)に至り、昭帝が跡継ぎなしに崩御したことから、大将軍霍光らとともに宣帝(武帝の曾孫であったが、在野していた)を皇帝に擁立し、その功績で関内侯を賜り、後に長信少府・扶陽侯に封ぜられた。紀元前六七年に高齢を理由に丞相を引退することを申し出て許され、金百斤と屋敷を賜った。丞相が自ら引退するようになるのは彼が最初であった。参照した当該ウィキによれば、子は四人おり、『長男の韋方山は早くに死に、次男の韋弘は東海太守となり、三男の韋舜は魯の父祖の眠る墳墓を守』って『出仕せず、四男の韋玄成は丞相になった。漢において親子』二『代で丞相となったのは韋賢・韋玄成と』、『周勃・周亜夫、曹操・曹丕の計』三『組だけである』。『故郷の騶では、韋氏が経書』(五経のこと)『を学んで栄えたことから、「子孫に金を遺すよりも経書を遺す方が良い」という諺が生まれたという』とある。

「萬贏(まんえい)」稼いだあり余らんばかりの数万の大金。

「おそろしき地獄の沙汰も錢ぞかし念佛〔ねぶつ〕の代〔しろ〕に欲をふかかれ」「ふかかれ」は「深くあれ」の縮約だろう。上句は所謂、「地獄の沙汰も金次第」で、下句は、「念仏なんぞ、役には立たぬ、その代わり、しっかり、がっつり、欲深(ぶか)であれ!」という謂いであろう。

「絪(しとね)」縄を編んだ敷物。

「縡(こと)として」それだけを唯一正当なものと心得て。

「いでや」感動詞。「あろうことか、何んと!」。

「迷塗の事は、なし」冥途(あの世)などというものは存在しない。

「拔舌奈梨(ばつぜつないり)」「地獄」を意味するサンスクリットには「ナラカ」の「ニラヤ」があり、後者の漢音写に「泥梨・奈利」がある。一般的にはポピュラーな地獄の責め苦ではあるが、名前として「抜舌地獄」というのは私は聴いたことがない。「新日本古典文学大系」版脚注には、『地獄絵に亡者を柱に縛り付け、引き出した舌をたたき広げて杭で固定し、その上を牛にひかせた犁(からすき)で鋤き直す図として描かれる』とあった。

「たしなみ」「嗜み」。好んでそのことに励んで修行し。

「天理性分(〔てん〕りせいぶん)の本然(ほんぜん)」天道が我々に生得的(アプリオリ)に与えている生来の正しい精神の本来の姿。

「冥官も私あり。」「まあ、冥途の審判官の中にも、ひそかに悪巧みをする者がおる。」閻魔の突然の衝撃の告白じゃて!!! 分が悪いと判断したものか、指弾の切り口を狂歌批判にスライドさせて、お茶を濁そうとする。

「三皇五帝」中国古代の伝説上の聖天子八名の総称。「三皇」は「燧人 (すいじん) 」・「伏羲 (ふっき) 」・「神農」(或いは伏羲の妻女媧 (じょか) を数えることもあり、「五帝」との互換が行われるケースもある。また、全く別に「天皇」・「地皇」・「人皇」とするものもある)。「五帝」は「黄帝 (こうてい) 」・「顓頊(せんぎょく)」・「帝嚳 (こく)」・「堯 (ぎょう)」・「舜 (しゅん)」(その後の「禹」を含めることも多い)であるが、これも命数に異同がある。この伝承は戦国時代に纏められたものである。

「天堂(〔てん〕だう)」天上界にあって神・仏・神仙が住むという殿堂。具体に言ってしまうと矛盾が生じるので言わない。言うべきでないと思う。所謂、漠然とした超自然的な「天道」の世界・存在である。

「三代」中国の古代国家である夏(か 紀元前一九〇〇年頃~紀元前一六〇〇年頃:史書に記された中国最古の王朝。殷の湯王に滅ぼされたとされるが、長らく伝説とされてきたが、近年の考古学資料の発掘により実在の可能性が出てきた)・殷・周。

「後漢(ごかん)の世に……」「新日本古典文学大系」版脚注に、『仏教の中国伝来は諸説あるが、後漢の』第二代皇帝『明帝』(在位:五七年~七五年)『の時とするのが通説』とある。

「天堂」この場合は、「地獄」と対として「因果の理」に搦められるならば、六道輪廻の最上位である「天上道」を示すことになる。但し、そもそもが浅原は仏教をてんで信じていないわけだから、この「天堂」は彼にとっては別に輪廻から解脱して行く永遠の「極楽浄土」でも、これ、全然、問題ないことになるのである。

「性理(せいり)」人の本性。「朱子学」では「人間の本性又は物の存在原理」も含む。浅原は性善説に立っているようである。

「あなづり」〕「侮り」「あなどる」の古形。軽蔑し。

「廉直の批判」心が清らかで私欲がない誠実な裁決。

「此誹(そし)りある事は、孫平が佛事・祈禱に金銀多く散じたる故に、二たび、娑婆に歸されたりと沙汰せし故也。急ぎ、孫平を召來れ」ここには誤魔化しがある。というより、閻魔が「冥途にだって私的忖度はある」と告白したことから判る通り、実は閻魔自身が孫平のケースの生還に関わっていることを強く疑わせるのである。その証拠に、そうした忖度をした冥官を調べ上げようとしていないことから明らかだ。どこかの「桜」の国の首相と同じ穴の貉というわけである。

「人間」六道の人間道(にんげんどう)。

「簿(ふだ)」地獄を自由に行き来出来る特別見学許可証である。

「銅(あかがね)の築地(ついじ)高く、鐵(くろがね)の門、きびしき城に至る」「新日本古典文学大系」版脚注には、『高々と続いた銅の城壁。等活地獄』(八大地獄の第一で、殺生を犯した者が落ちるとされ、獄卒の鉄棒や刀で肉体を寸断されて死ぬが、涼風が吹いてくるとまた生き返り、同じ責め苦にあうとされる)『の二番目刀輪処(とうりんしょ)は鉄壁で囲まれ、内に猛火が燃えさかっている』とある。

「鐡叉(てつしや)」鉄でできた「刺股・指叉」。江戸時代、罪人などを捕らえるのに用いた三つ道具の一つで、二メートル余りの棒の先に、二又に分かれた鉄製の頭部を附けたもの。これで喉首を押さえるもの。

「これは、むかし、人間にありし時、山海に、獵(かり)、漁(すなどり)、殺生を營みし者也」再召喚された孫平が送られる地獄を最初に示す。

「まさなきみそかごと」尋常ならざる秘密の関係。不義密通。

「あらけなく當りて」ひどく粗暴に扱って。

「そげて」「削げて」。

「畜生となりて、信施(しんせ)を償ふ」しかし、これは結局、六道の「畜生道」と同じで、今一つ、ピンとこない。同様に、次の場面も同じ。しかし、芥川龍之介の傑出した児童文学「杜子春」(リンク先は私の古い電子テクスト)の地獄のラスト・シークエンスでは、私は何らの違和感を抱かないから、不思議。

「沽却(こきやく)」女衒や女郎屋に売り払うこと。

「鐵(くろがね)の嘴(くちばし)ある鷹、飛び來り、罪人の肩を踏(ふま)へて、眼(まなこ)を喙(つい)ばみ、肉(しゝむら)を引き裂き、食(くら)ふ」叫喚地獄のメインの他に同時語句には十六種の辺縁地獄あり、その一つの「髪火流処(はっかるしょ)」は五戒を守っている人に酒を与えて戒を破らせた者が落ちる地獄とされ、熱鉄の犬が罪人の足に噛み付き、鉄の嘴を持った鷲が、頭蓋骨に穴を開けて脳髄を啄み、狐たちが内臓を食い尽くすとされる。

「鎌倉の上杉則政(のりまさ)」正しくは、上杉憲政(天正七(一五七九)年~大永三(一五二三)年)。戦国時代の武将で関東管領。山内上杉家憲房の長子。大永五(一五二五)年に父憲房が病没した際、未だ幼少であったため、一時、古河公方足利高基の子憲寛が管領となり、享禄四(一五三一)年九歳の年、同職に就任したが、奢侈放縦な政治で民心を失った。天文一〇(一五四一)年、信州に出兵し、同十二年には河越の北条綱成を攻めるなど、南方の北条氏と戦ったが、相次いで敗れ。同十四年の「河越合戦」でも、北条氏康に敗れて上野平井城に退く。この戦いでは倉賀野・赤堀など有力な家臣を失い、上野の諸将は出陣命令に応じず、同二十一年には平井城を捨てて、越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼った。永禄三(一五六〇)年、景虎に擁されて、関東に出陣し、翌年三月には小田原を囲んだ。帰途、鶴岡八幡宮で上杉の家名を景虎に譲り、剃髪して光徹と号した。しかし、天正六(一五七八)年三月に謙信が病没すると、その跡目を巡って、上杉景勝は春日山城本丸に、同景虎は憲政の館に籠って相争うこととなり、城下は焼き払われ、景虎方は城攻めに失敗して敗北、翌年三月に憲政の館も攻められ混戦の中、殺害され(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)、

の嫡子龍若は小田原で斬首された。

「妻鹿田(めかた)新介」前注の通り、憲政の嫡子龍若を自身の存命をかけて裏切って北条氏康に引き渡した元上杉家家臣。

「醒悟發明(せいごはつめい)」迷いが晴れて悟りを得ること。]

芥川龍之介書簡抄46 / 大正四(一九一五)年書簡より(十二) 井川恭宛献詩

 

大正四(一九一五)年九月十九日・田端発信・井川恭宛(転載)

 

  詩四篇

 井川君に獻ず

 

   I 受胎

いつ受胎したか

それはしらない

たゞ知つてゐるのは

夜と風の音と

さうしてランプの火と――

熱をやんだやうになつて

ふるへながら寢床の上で

ある力づよい壓迫を感じてゐたばかり

夜明けのうすい光が

窓かけのかげからしのびこんで

淚にぬれた私の顏をのぞく時には

部屋の中に私はたゞ獨り

いつも石のやうにだまつてゐた

さう云ふ夜がつゞいて

いつか胎兒のうごくのが

私にわかるやうになつてくると

時々私をさいなむ

胎盤の痛みが

日ごとに强くなつて來た

あ神樣

私は手をあはせて

唯かう云ふ

 

   Ⅱ 陣痛

海の潮のさすやうに

高まつてゆく陣痛に

私はくるしみながら

くりかへす

「さはぐな 小供たちよ」

早く日の光をみやうと思つて

力のつゞくだけもがく小供たちを

かはゆくは思ふけれど

私だつてかたわの子はうみたくない

まして流產はしたくない

うむのなら

これこそ自分の子だと

兩手で高くさしあげて

世界にみせるやうな

子がうみたい

けれども潮のさすやうに

高まつてゆく陣痛は

何の容赦もなく

私の心をさかうとする

私は息もたえだえに

たゞくり返す

「さはぐな 小供たちよ」

 

   Ⅲ めぐりあひ

何年かたつて

私は私の子の一人に

ふと町であつた事がある

みすぼらしい着物をきて

橦木杖をついた

貧弱なこの靑年が

私の子だとは思はなかつた

しかしその靑年は

挨拶する

「おとうさまお早うございます」

私は不愛相に

一寸帽子をとつて

すぐにその靑年に背をそむけた

日の光も朝の空氣も

すべて私を嘲つてゐるやうな

不愉快な氣がしたから

 

   Ⅳ 希望

こんどこそよい子をうまうと

牝鷄のやうに私は胸をそらせて

部屋の中をあるきまはる

今迄生んだ子のみにくさも忘れて

 

こんどこそよい子を生まうと

自分の未來を祝福して

私は部屋のすみに立止まる

ウイリアム・ブレークの銅版畫の前で

          一九一五 九月十九日

                龍 之 介

 

[やぶちゃん注:全体が四字下げであるが、これは私には、芥川龍之介の新生、それも作家芥川龍之介の新生を予告する詩篇のように思われる。

「橦木杖」は「しゆもくづゑ(しゅもくづえ)で普通は「撞木杖」と書く。頭部が丁字形になった杖。但し、「橦」も音が「シュ」であり、「天秤棒や旗竿などの真っ直ぐな棒」・「鐘を撞(つ)く棒」の意や、動詞で「突く・突き破る」の意があるから違和感はない。]

芥川龍之介書簡抄45 / 大正四(一九一五)年書簡より(十一) 井川恭宛夢記述

 

大正四(一九一五)年八月三十一日(年月推定)・田端発信・井川恭宛(転載)

 

車が止つたから下りて見ると内中原町の片側が燒けて黑く焦げた柱が五六本立つてゐる間から煙が濛濛と立つてゐた 火は見えない 燒けた所の先は大へん賑な通りで淺黃のメリンスらしい旗に賣出しと書いたのが風に動いてゐる そのわきに稻荷の鳥居がたくさんならんでゐる そこで「なる程 桑田變じて海となる だね 大へんかはつたね」と云ふと格子戶をあけて立つてゐた君が「うん變つたよ」と云つた

すると車夫がまだ立つてゐたから蟇口を出して「いくらだい」ときくと「三十錢頂きます」と云ふ 生憎細いのがないので五十錢やるとおつりを三十錢よこした「これでいゝのかい」と云ふと「この通り三十錢頂きました」と云つて車夫が掌をひろげて目の前へ出した 見ると成程十錢の銀貨が三つ日に燒けた皮膚の上に光つてゐる「さうさう三十錢と三十錢で五十錢だつた」と思ひながら うちへはいつた 見るとうちの容子も大へん變つてゐる 濠の水が緣側のすぐ先まで來ておまけにその水の中から大きな仁王の像が二つぬいと赤い半身を出してゐるから奇拔である「これは定福寺の仁王かね」「あゝ定福寺の仁王だよ」

こんな會話を君と交換してゐる内に外で誰か君をよぶ聲がした「春木の秀さんがよびに來たから一寸失禮する」かう云つて君が出て行つたあとでさうつと懷の短刀を拔いてみた さうして仁王の肩の所を少し削つてみた すると果して豫想通りこの仁王は鰹節の仁王であつた

それから その短刀を持つて外へ出ると長い坂が火事のある所と反對の方角につゞいてゐる その上の方に杉の皮で張つた堺があつて その塀の所に君が小指ほどの大きさに立つてゐる「おおい」と云ふと君の方でも「おおい」と云ふ 何でもあの家の向ふが海で海水浴をやつてゐるのにちがひない そこで一生懸命に走つてその坂を上り出した 坂は長い いくら上つても上の方に道がつゞいてゐる 始は短刀を拔き身のまゝぶら下げて登つた 中ごろでは口へ啣へながら登つた 最後に鞘へおさめて 元の通り懷へ入れた 坂はのぼつてものぼつてもつきない この坂をのぼつてから汽車へのると今度はトンネルが澤山あるんだなと思つた 來るときにはさう苦にならなかつたがかへりは大へんだなと思つた すると眼がさめた

ゆうべねる前によんだ君の手紙がこんぐらかつてこんな變な夢になつたのである

詩は當分出來ない 從つて定福寺の老佛へ獻じる事も先づ覺束かないだらう

そゞろに松江を思ふにたへない

   粽解いて道光和尙に奉らむ

   馬頭初めて見るや宍道の芥子の花

   武者窓は簾下して百日紅

    卅一日早曉       芥川龍之介

   井 川 恭 樣

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介の残した筆記の中でも特異点と言える非常に興味が満載の夢記述である。夢記述のチャンピオンを自負する自分としては、井川の前書簡が読めないのが、非常に惜しい。

「定福寺」島根県松江市法吉町にある曹洞宗の常福寺(グーグル・マップ・データ。以下同じ)の誤り。本尊は十一面観世音菩薩。私の『井川恭著「翡翠記」二十三』『二十四』『二十五』『二十六』を読まれたい(「翡翠記」の最後を飾る場面であるが、ここの和尚と奥方に優しくされたことと合わせて爽やかなコーダとなっている。実はその『二十六』で既にこの書簡は私がその注で電子化しているが、今回は全くゼロから新たに起こした決定版である)。ここから北に向かった「新山城跡」とあるのが、この寺を中継地として以上のリンク先の中で井川と龍之介が登ったのが、この「眞山」なのである(国土地理院図で山名を確認出来る。標高は二百五十六・二メートル)。「やぶちゃん版芥川龍之介句集 二 発句拾遺」の「松江連句(仮)」にも、

   *

  定福寺

禪寺の交椅吹かるゝ春の風  阿[やぶちゃん注:芥川龍之介。]

   *

そこで私は協力者とともに、『「定福寺」は「常福寺」の誤りである。松江市法吉にある曹洞宗の寺。「交椅」は寺院に見かける上位僧の座る背もたれのついた折り畳み式の椅子のこと。なお、この誤りについては旧全集書簡番号一八九井川恭宛の大正四(一九一五)年十二月三日付芥川龍之介書簡に「定福寺へはまだ手紙を出さずにゐる 中々詩を拵へる氣にならない「定」の字はこの前の君の手紙で注意されたが又わすれてしまつた「定」らしいから「定」とかく それとも「常」かな「淨」ではなささうだ」とあって、芥川の思い込みの頑なさが面白い。とりあえず芥川龍之介これが誤字と認識していたという事実を示しておく』と注した。さらに、

   *

   直山

蕨など燒く直山の烽火かな  井[やぶちゃん注:井川恭。]

   *

とある。そこで私は協力者とともに、『当初、私は無批判に、この「直山」は、石見銀山の産地であった御直山(おじきやま)と呼ばれた代官所直営の操業地のことを言うか、等と言う好い加減な注を附していた(ここに石見銀山では如何にも場違いであった)。その後、この「直山」について、極めて大切な情報を入手した。「松江一中20期ウェブ同窓会・別館」を運営されている知人からの指摘である。以下にそのメールの一部を引用する。

   +

これは「眞山」のことではないでしょうか? 少し後に、「再 眞山」、さらに「三度 眞山」とありますが、それ以前には「眞山」がなく、この「直山」しかないようです。眞山は松江の市街地の北側にあって、市民に親しまれている山です(私は登ったことがないのですが……)。井川と芥川も登っています(『翡翠記』五十七ページ)。また、「定福寺」と「三度 眞山」に出てくる定福寺やそこの梵妻の話も『翡翠記』の同じ場所に出てきます。

   +

気がつかなかった! 一応、私のタイプ・ミスかもしれないと思い、確認してみたが、岩波版新全集は確かに「直山」としており、他はすべて「真山」(しんやま)である(私のポリシーで旧字に変換してあるが)。これは間違いなく芥川か井川の「真山」の誤記もしくは新全集編集上の誤判読である。井川が出身地の地名を誤記することは考えにくいから、誤記(または誤転写)したのは芥川龍之介である可能性が高い(実際、本連句でも芥川は「常福寺」とすべきところを「定福寺」と記している)。更に言えば、本作が山梨県立文学館所蔵の原稿写真から起こされたものである以上、旧字の「眞」と「直」の類似性からも新全集編者の判読ミスも充分ありうると思われる。言わば、最新の岩波版新全集の校訂を、この知人と私はやったことになる。快哉! 真山は「しんやま」と読み、「新山」とも書く。平安時代末期、平忠度の築城と伝えられ、永禄六(一五六三)年、毛利軍が、尼子氏の拠点白鹿(しらが)城攻略ために、吉川元春をここに布陣した。現在は本丸・一の床・二の床・三の床・石垣の一部を残すのみである。

   +

この「松江連句(仮)」は新全集で初めて公開されたものであるが、「眞(=真)山」の誤判読であり(致命的に三ヶ所もある)、現地居住の井川が誤ることはあり得ず、芥川龍之介の誤記か、または旧新編集者の誤判読である。これは今後、訂正されるか、注記を施さなければ、鑑賞出来ないレベルの誤りである。他に、

   *

梵妻(だいこく)の鼻の赤さよ秋の風

  (この句を定福寺の老梵妻にささげんとす)   阿

   *

この句の「梵妻」とは「僧侶の妻」を言う語。嘗ては僧侶の「隠し妻」を指した。「ぼんさい」とも読み、また「大黒」とも書く。大黒は厨房に祀られる神であることから、寺院の「飯炊き女」を指したが、そこから転じて、妻帯を認められない宗派に於いて、世を憚って「飯炊き女」と偽って隠し持ったことによる。

「老佛」「老仏爺」の意であろう。中国語では「ラァォフォーイエ」で、この呼称は中国史上の悪女西太后が周囲に自分のことをかく呼ばせたことで専ら知られる悪名であるが、原義は「仏のように慈悲深い人」という尊称で、ここは世話になった常福寺の和尚のことを指している。

「そゞろに松江を思ふにたへない」芥川龍之介が如何にこの松江旅行に心打たれかがよく伝わってくる。この旅を経てこそ、吉田弥生との破恋からの龍之介の新生があったと言ってよい感懐であると言える。

「粽解いて道光和尙に奉らむ」「粽」は「ちまき」。「道光和尙」は江戸時代前期の黄檗宗の禅僧鐡眼道光(てつげんどうこう 寛永七(一六三〇)年~天和二(一六八二)年)。当該ウィキによれば、『畿内の飢えに苦しむ住民の救済にも尽力し、一度は集まった蔵経開版のための施財を、惜しげもなく飢民に給付し尽くした。しかも、そのようなことが、二度に及んだという』。『鉄眼の主著である』「鐡眼禪師假名法語」は、元来は』、『ある女性に向けて法を説いたものであった』。『はわかりやすく平明な表現で仏教の真理を説き明かした、仏教の最良の入門書と言える。終生、法嗣をたてず、弟弟子に当たる宝洲に寺を付嘱した。その奇特な行ないによって』、「近世畸人傳」(江戸後期の歌人で文筆家伴蒿蹊(ばんこうけい 享保一八(一七三三)年~文化三(一八〇六)年)が書いた奇人伝の傑作)の『巻二に立伝されている』とある。同項は「日文研」のこちらで挿絵とともに原文(新字)が読める。ここは、自由闊達な常福寺の和尚を彼にカリカチャライズしたものであろう。

「馬頭初めて見るや宍道の芥子の花」「松江連句(仮)」では、

 馬頭初めて見るや馬潟(まがた)の芥子の花

と推敲している。「馬頭」は馬頭観音であろう。但し、音数律から「めづ」と読ませているかと思われる。「馬潟」(島根県松江市馬潟町(まかたちょう))。このルビは芥川が附けたものと思われるが、「まかた」が正しい。

「武者窓は簾下して百日紅」「松江連句(仮)」では、

 武者窓に簾下ろして百日紅

となっている。「武者窓」は「武家窓」とも呼び、天守や櫓又は大名屋敷の長屋門の武家長屋などに用いられた太い竪格子の窓。格子が横に入った窓は「与力窓」と呼ぶ。

 なお、新全集宮坂年譜には、この八月の条の冒頭に、『この頃、塚本文への想いが芽生え始める。山本喜誉司に「正直なところ時々文子女史の事を考へる」などと書き送っている【190】』とあるのだが(最後の数字は新全集書簡番号)、私は新全集の書簡部を所持しておらず、旧全集には八月のパートにはそのような書簡なく、調べてみると(こういう時には一九九四年に岩波書店から出た宮坂覺氏の旧全集を対象とした強力な「芥川龍之介全集総索引」の「人名索引」が甚だ便利である。この本のお蔭でどれほど調査時間が短縮できたことか「芥川文」の「文子女史」で一発で判った)、「正直なところ時々文子女史の事を考へる」と言う文字列は底本の旧全集書簡番号「二一六」の山本宛書簡であることが判った。ところが、この書簡は旧全集では翌年の大正五年八月一日として入れてある。しかし、確かに「Y」というイニシャルでしめす明らかな吉田弥生に纏わるそれは、大正四年のものとする方がしっくりくる内容ではあるように見える。新全集では確認がなされて、移動したものであろう。但し、私はその移動理由などの理由も判らないので、そのまま大正五年の部分で電子化することとする。

2021/04/24

芥川龍之介書簡抄44 / 大正四(一九一五)年書簡より(十) 井川恭宛松江招待旅行感謝状

 

大正四(一九一五)年八月二十三日・井川恭宛・(封筒欠)

 

大へん御世話になつて難有かつた 感謝を表すやうな語を使ふと安つぽくなつていけないからやめるが ほんとうに難有かつた

難有く思つただけそれだけ胃の惡い時には佛頂面をしてゐる自分が不愉快だつた だからさう云ふときは一層佛頂面になつたにちがひない かんにんしてくれ給ヘ

汽車は割合にすいてゐたが京都へはいる時には非常な雷雨にあつた それから翌日は一日雨でとうとうどこへもよらずにどしや降りの中を東京へかへつた 途中で根岸氏が東京へゆく人を一人紹介してくれたので大抵その人と一しよにだべつてゐた 大分おんちだつた

非常にくたびれたので未に眠いが今日は朝から客があつて今まで相手をしてゐた それで之をかくのが遲れしまつた 詩を作る根氣もない 出たらめを書く 少しは平仄もちがつてゐるかもしれない

     波根村路

   倦馬貧村路

   冷煙七八家

   伶俜孤客意

   愁見木綿花

     眞山覽古

   山北山更寂

   山南水空𢌞

   寥々殘礎散

   細雨灑寒梅

     松江秋夕

   冷巷人稀暮月明

   秋風蕭索滿空城

   關山唯有寒砧急

   擣破思鄕万里情

     蓮

   愁心盡日細々雨

   橋北橋南楊柳多

   櫂女不知行客淚

   哀吟一曲采蓮歌

君にもらつた葡萄がいくら食つても食ひつくせなくつて弱つた 最後の一房を靜岡でくつた時には妙にうれしかつた 桃は橫濱迄あつた 旅行案内のすみヘ

   葡萄嚙んで秋風の歌を作らばや

と書いた まだ駄俳病がのこつてゐると思つた

京都では都ホテルの食堂で妙な紳士の御馳走になつた その人は御馳走をしてくれた上に朝飯のサンドウイツチと敷島迄贈つてくれた さうして画の話や文學の話を少しした わかれる時に名をきいたが始めは雲水だと云つて答へない やつとしまひに有合せの紙に北垣靜處と書いてくれた「若い者はやつつけるがいゝ 頭でどこ迄もやつつけるがいゝ」と云つた 後で給仕長にきいたら男爵ださうである 四十に近いフロツクを着た背の高い男だつた 一しよにのんだペパミントの醉で汽車へのつてもねられなかつた すると隣にゐた書生が僕に話しかけた 平凡な顏をした背のひくい靑年である 一しよに音樂の話を少しした 何故音樂の話をしたかは覺えてゐない 所がその靑年はシヨパンの事を話し出した シヨパンの數の少い曲のうつしくさ[やぶちゃん注:ママ。]は音と音と間にある間隙に前後の音が影響するデリカシイにあると云ふのである あとでその人のくれた名刺をみたら高折秀次としてあつた 僕はこの風采のあがらない靑年がシヨルツと一しよにシヨパンのノクテユルヌを彈いたのをきいた事がある 高折秀次氏は昨年度の音樂學校卒業生の中で一番有能なピアニストなのである

僕はこの二人の妙な人に偶然遇つた事を面白く思つた 何となく日本らしくない氣がするからである

うちへかへるとアミエルがきてゐた

皆樣によろしく 殊にわが敬愛する完ちやんによろしく云つてくれ給へ もう一つの手紙は公[やぶちゃん注:「おほやけ」。]の御礼の手紙だ

    廿三日夜九時     芥川龍之介

   井 川 恭 樣

 

[やぶちゃん注:書簡中の漢詩四首は既にサイト版の芥川龍之介漢詩全集 附やぶちゃん訓読注+附やぶちゃんの教え子T・S・君による評釈」で総て訓読して注釈も附してあるのでそちらを見られたい。

「根岸氏」不詳。しかし、かく井川に書き送っているからには、井川の知っている人物である。しかし、京都に一人で一泊したはずの龍之介が、この井川と共通の知人「根岸氏」なる人物に、どこでどうやって逢い、東京まで行くという、その「根岸氏」の知り合いを紹介してくれるという事実は、何か妙におかしい気がする。一番、自然なのは、松江を立つ際にこの、井川の知人である根岸氏が京都まで同行し、二人は京都で降りたが、その根岸氏の会社関係等の知人で翌日東京に立つ人物がいたことから、話し相手として紹介しておいて、そこで別れたというシチュエーションである。ともかくも、この根岸なる人物が判らないのはちちょっと痛い(筑摩全集類聚版脚注には注がない)。

「大分おんちだつた」この一文、筑摩全集類聚版ではカットされている。この「音痴」は自分の能力や他人の思惑にお構いなく、何かというと熱くなって喋りまくる人という意味であろう。

「都ホテル」明治二三(一八九〇)年に油商西村仁兵衛が華頂山麓に保養遊園地「吉水園」を創業し、十年後の明治三十三(一九〇〇)年にその園内に「都ホテル」を創業、以来、日本最大の観光地京都の迎賓館として最高級ホテルとして君臨し続けたそれ。現在の正式名称はウェスティン都ホテル京都」(グーグル・マップ・データ)。

「敷島」当時の煙草の銘柄。多くの作家の小説に登場する。明治三七(一九〇四)年六月二十九日から昭和一八(一九四三)年十二月下旬まで生産・発売された。参照した当該ウィキによれば、『発売当初は国産の高級たばこであった。なお、「口付」は現在のフィルターとは異なり、紙巻きたばこに「口紙」と呼ばれるやや厚い円筒形の吸い口を着けたもので、喫煙時に吸いやすいようにつぶして吸ったものである。敷島には、江戸時代から高級葉として知られる国分種など鹿児島産在来葉と水府葉(茨城県久慈地方で産した良質の葉)が』六十%『も使用されていた(同じ口付銘柄の朝日は』『四十%)』(「朝日」は私も大学生の初めの頃に吸ったことがある。口付は二箇所で互い違いに十字に潰すのが正統と教わった記憶がある)。

「雲水」行脚僧。

「北垣靜處」北垣確(読み及び生没年未詳)は画家で第三代京都府知事で当時は枢密顧問官を勤めていた北垣国道(くにみち天保七(一八三六)年~大正五(一九一六)年)の長男。同志社予備校に明治二〇(一八八七)年九月入校するも、翌年には同志社英学校を退校して慶応中学に転校、その後、京都市立工芸美術学校を出て、日本画家となり、「北垣静處」と号した。大礼使典儀官(天皇の即位の儀式の執行担当官)も務め、父と同じく男爵であった。以上は国立国会図書館の「レファレンス協同データベース」のこちらと、父親北垣国道のウィキを参考にした。当時、「四十に近」かったとすれば、明治一〇(一八七七)年前後の生まれか。

「ペパミント」リキュールの一種であるペパーミント酒(Peppermint liquor)。ペパーミント(シソ目シソ科ハッカ属ペパーミント Mentha × piperit の花を枝ごと、水蒸気蒸留して抽出した精油)をアルコール液に溶かして砂糖及び各種の芳香油エッセンスなどを加え、緑色色素で着色したもの。

「高折秀次」高折宮次(たかおりみやじ 明治二六(一八九三)年~昭和三八(一九六三)年:龍之介より一つ年下)。この大正四(一九一五)年に東京音楽学校器楽科を卒業し、大正十四年にドイツに留学して、レオニード・クロイツァー(Leonid Kreutzer ロシア語: Леонид Давидович Крейцер/ラテン文字転写:Leonid Davidovič Krejcer/カタカナ音写:レオニート・ダヴィードヴィチ・クレーイツェル 一八八四年或いは一八八三年~昭和二八(一九五三)年:ドイツと日本で活躍したロシア・サンクトペテルブルク生まれのピアニストで指揮者。昭和八(一九三三)年の再来日後、近衛秀麿の求めに応じてドイツに帰らず、死去するまで東京音楽学校(現在の東京芸術大学)教授を勤め、茅ヶ崎市に定住した)に師事し、翌大正十五年以降は母校で教えた。戦後の昭和二五(一九五〇)年に北海道大学教授となり、以後、北海道学芸大学教授・洗足学園大学教授を歴任した。演奏活動の他にウィーンやワルシャワでの国際音楽コンクールの審査員を務め、皇太后美智子にもピアノを教えている。著書に「ショパン名曲奏法」がある(以上は日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠った)。

「シヨルツ」パウル・ショルツ(Paul Scholz 一八八九年~昭和一九(一九四四)年)はドイツのピアニスト・音楽家。ライプツィヒ生まれ。既出既注であるが、再掲すると、ハンブルク音楽院からベルリン高等音楽学校に進み、一九一二年卒。翌大正二(一九一三)年に来日し、東京音楽学校でピアノ教師として多くの弟子を育てた。九年後の退職の後も東京高等音楽学院(現在の国立音楽大学)教師などを務め、東京を拠点にピアニスト・音楽教師としての活動を続けて演奏活動や後進の育成を行った。東京で亡くなった。

「ノクテユルヌ」フランス語「ノクチュルヌ」(nocturne)。夜想曲。ショパンの全二十一曲がピアノ曲のそれとして最も知られる。

「アミエルがきてゐた」人ではない。スイスの哲学者・詩人で文芸評論家でもあったアンリ・フレデリック・アミエル(Henri Frédéric Amiel 一八二一年~一八八一年)の三十年に渡って書かれ、死後に出版された「アミエルの日記」のことである(Tagebuch :「ターゲブー」ドイツ語で「日記」。一八三九年~一八八一年)。一万七千ページに及ぶもの)。ウィキの「アンリ・フレデリック・アミエル」によれば、これは彼の死後、発見されたもので、発見されて間もなく、二巻本として刊行されるやいなや、『その思想の明晰さ、内省の誠実さ、個々の正確さ、実存の諦念的な幻想や自己批判的な傾向などにより、世間の耳目を引き寄せた。この日記は』十九世紀末から二十『世紀の』、『スイスのみならず』、『ヨーロッパの作家たちにも大きな影響を及ぼした。その影響をこうむった作家の中には、レフ・トルストイも挙げられる。日本でも戦前から翻訳され、河野与一訳(岩波文庫全』四『巻)や土居寛之抄訳(白水社)で長く読まれている。「心が変われば行動が変わる/行動が変われば習慣が変わる/習慣が変われば人格が変わる/人格が変われば運命が変わる/運命が変われば人生が変わる」が有名である』とある。私も二十代前半に岩波版を買ったものの、一巻目でリタイアした。

「完ちやん」井川の下の弟。末っ子。関口安義氏のシンポジウム記録・論文「文学青年から法科志望へ―恒藤恭の新たな出発―」(PDF)の注の⑴に、井川恭は八人兄弟の第五子で、上に三人の『姉(フサ(房)、シゲ(繁)、セイ(清)と一人の兄、亮ががおり、下に一人の妹、サダ(白)と二人の弟、真と完がいた』とある。彼自身の名からみて、「かん」と読んでよかろう。

「もう一つの手紙は公の御礼の手紙だ」こちらの方は旧全集には載らない。

「廿三日夜九時」帰宅した翌日の夜である。]

芥川龍之介書簡抄43 / 大正四(一九一五)年書簡より(九) 松江便り三通

 

大正四(一九一五)年八月六日・松江発信・芥川道章宛・(絵葉書)

 

松江へ安着いたしましたから御安心下さいまし

汽車の中では天氣が惡かつたおかげで少しも暑い思をしずにすみました

松江は川の多い靜な町で所々に昔の土塀がそのまゝのこつてゐます 雨の中を井川君と車で通つた時にその土塀の上に向日葵の黃色い花のさいてゐるのが見えました

井川君の家は御濠の前で外へ出ると御天主が頭の上に見えます

 

[やぶちゃん注:先の八月二日の葉書通りの行程と時程で芥川龍之介は松江に着いた。松江では井川恭の配慮で、気兼ねなく滞在出来るように、借家が用意されていた。その位置と志賀直哉との奇縁は「芥川龍之介書簡抄41 / 大正四(一九一五)年書簡より(七) 井川恭宛」の私の注で記してあるので参照されたい。松江には十七日間滞在し、八月二十一日に松江を出発し、当日は京都のホテルに一泊して、翌二十二日に田端に帰宅している。]

 

 

大正四(一九一五)年八月十四日・松江発信・藤岡藏六宛(自筆絵葉書)

 

松江へ來てからもう十日になる大抵井川君とだべつてくらしてゐる湖水や海で泳いだりもした本は殆よまない少し胃病でよわつてゐる松江は川の多い靜な町である町はづれのハアン先生の家もさびしい井川君のうちは濠の岸にある濠には蘭や蒲が茂つてゐる中で時々かいつぶりが鳴く丁度小さな鳴子をならすやうな聲だ廿日頃に東京へかヘる 匆々

    十四日午後      芥 川 生

 

[やぶちゃん注:「ハアン先生」言わずもがな、小泉八雲(出生名:パトリック・ラフカディオ・ハーン Patrick Lafcadio Hearn 一八五〇年六月二十七日~明治三七(一九〇四)年九月二十六日:帰化(入籍)は明治二九(一八九六)年二月十日)である。彼は、明治二三(一八九〇)年八月末に松江に到着し、島根県尋常中学校英語教師となったが、翌年十一月に熊本の第五高等学校に転出した。ここで龍之介の言っているハーンの旧宅はここ(現在の小泉八雲記念館。グーグル・マップ・データ。以下同じ)。因みに、私は小泉八雲の来日後に刊行した作品の総ての作品の訳(全て私のオリジナル注釈附き)をブログカテゴリ「小泉八雲」で公開している。これは私の電子化注の特異点と自負している。

「カイツブリ目カイツブリ科カイツブリ属カイツブリ亜種カイツブリ Tachybaptus ruficollis poggei 。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鸊鷉(かいつぶり)」を参照されたい。YouTube miyakowasure001氏の「カイツブリの鳴き声(パラボラ集音マイク使用)」をリンクさせておく。]

 

 

大正四(一九一五)年八月二十一日・松江発信・淺野三千三宛・(絵葉書)

 

出雲は楯縫秋鹿(アイカ)十六(ウプ)類などとゝふ地名から中海にあるそりこ舟まで何となく神代めいてゐますこの大社も社殿の建築が上代の住宅の形式と一つになつてゐるので一層古事記めいた興味を惑じます杵築は靑垣山をうしろに靜な海にのぞんだ神さびた所です

 

[やぶちゃん注:「楯縫」(たてぬひ)は出雲国(島根県)にあった旧郡名。明治中期まであった郡域は現在の出雲市の一部に当たる。当該ウィキの地図を参照。宍道湖の西岸で出雲大社の東方までが相当する。

「秋鹿(アイカ)」現在の島根県松江市秋鹿町(あいかちょう)。宍道湖の中央北に縦にある。

「十六(ウプ)類」島根県出雲市十六島町(うっぷるいちょう)の誤り。島根半島西北端に当たる。岩海苔の一種である十六島海苔(紅色植物門紅藻亜門ウシケノリ綱ウシケノリ目ウシケノリ科アマノリ属ウップルイノリ Porphyra pseudolinearis の産地として知られる。貝原益軒は「大和本草卷之八 草之四 紫菜(アマノリ) (現在の板海苔原材料のノリ類)」で『「ウツフルヒ」とは海中の苔をとり、露を打ちふるひてほす故に名づくと云ふ。この苔の名によりて、其の島の名をも「うつふるひ」と云ふ』などと、まことしやかに記しているものの、私はその注で述べた通り、他の海藻類だとするならまだしも、この岩礁にへばり付いているウップルイノリは、摘み採って「笊で水切りする」のであって、「打ち振って」処理するタイプの海藻ではないから、私は信じ難い。現在も朝鮮語の古語で「多数の湾曲の多い入江」という意とする説、アイヌ語説(発音的にはそれらしく、アイヌ語では一説に「松の木が多いところ」若しくは「穴や坂や崖の多いところ」という意味である可能性が高いとされる)、十六善神(じゅうろくぜんしん:四天王と十二神将とを合わせた計十六名の、「般若経」を守る夜叉神とされる護法善神のこと)信仰と関連するなど、諸説あるものの、定かでない。なお、この話をすると「島が十六あるんじゃないの?」と聴かれることしばしばであるが、ご覧の通り(グーグル・マップ・データ航空写真)、島や岩礁は十六どころじゃない、もっといっぱいある。私の寺島良安の「和漢三才圖會 卷第九十七 水草 藻類 苔」の「雪苔(ゆきのり)」及び「大和本草卷之八 草之四 黑ノリ (ウップルイノリ)」も参照されたい。

 なお、芥川龍之介松江滞在中の様子は既に述べた通り、私の、

ブログ・カテゴリ「芥川龍之介」で、二十六回分割で『井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む)』

を、さらに、

サイト版『芥川龍之介「松江印象記」初出形』

も公開している。また、他に、

「やぶちゃん版芥川龍之介句集 二 発句拾遺」の「松江連句(仮)」

なども、是非、見られたい。これは松江の方の非常な協力を得て注を施したもので、岩波新全集にまで誤って活字化されている井川の句の前書の誤り(「直山」は「眞山」(しんやま)の旧全集編集者の判読の誤りで、それが現在までそのままとなっているのである)を発見しているのである。

芥川龍之介書簡抄42 / 大正四(一九一五)年書簡より(八) 井川恭宛三通

 

大正四(一九一五)年七月二十一日・消印二十六日・出雲國松江市内中原御花畑一八七 井川恭樣・七月二十一日 田端四三五 芥川龍之介

 

出かけるのが遲れたのは實はたのまれた飜譯物があつてそれが出來上るまでは東京をはなれられないからである この月末迄にまだ百五十枚はかかなければならない 考へてもいやになる

出雲は涼しいかね 東京の暑さは非常なものだ 大抵九十度以上になる 裸でじつと橫になつてゐても汗がだらだらでる だから弱つた事も一通りではない これで二十何時間も汽車へのつてゐたら茹り[やぶちゃん注:「ゆだり」。]はしないかなどゝも思ふ 兎に角出雲へゆく迄の間が大分暑さうだが今をはづすと一寸行く機會もないだらうと思ふから事故の起らない限り八月一日か二日位に東京をたたうと思ふ 八月上旬は僕が每年東京を出る時になつてゐるのである

實はしばらく手紙がこなかつたので或は都合が惡くなつたのかと思つて中途半ぱな心配も少しした、

何にしてもかう暑くつてはやり切れないから用のすみ次第出たいと思ふ その爲に吳々も出雲の湖水の上のすゞしからむ事を祈る

   八雲たつ出雲の國ゆ雲いでて天ぎらふらむ西の曇れる

   はろかなる出雲の國ゆ天津風ふきおこすらむ領巾(ひれ)なす白雲

   そのむかし出雲乙女は紅の領巾(ひれ)ふりふりて人や招(ま)ぎけむ

   紅の領巾ふる子さへ見えずなりて今あが船は韓國に入る

   いづちゆく天の日矛ぞ日の下に目路のかぎりを海たゝヘけり

   こちごちのこゞしき山ゆ雲いでて驟雨(はやち)するとき出雲に入らむ

   その上の因幡の國の白兎いまも住むらむ氣多の砂山

    七月廿一日

   井 川 君 案下

 

[やぶちゃん注:「出かけるのが遲れたのは實はたのまれた飜譯物があつてそれが出來上るまでは東京をはなれられないからである この月末迄にまだ百五十枚はかかなければならない 考へてもいやになる」前回分の私の「今月の末までは手のぬけない仕事がある」の注を参照。

「九十度」華氏。摂氏三十二・二度。

「韓國」「からくに」。この前後の歌は、雲の形容としての「領巾(ひれ)」(古代の服飾具の一つ。女性が首から肩に掛けて左右に垂らして飾りとした布帛(ふはく))の連想から、かなり自由勝手な想像を働かせてシチュエーションを複数の和歌や伝説伝承に合成して詠んでいる。最初に、男にあどけなく美しく領巾振る出雲の純真な乙女のイメージは万葉世界に遡り、次いで、この三韓征伐の出征兵士との別れに領巾振る女、それは再び「万葉集」にフィード・バックし、肥前国松浦の東に住んでいたという伝説の美女松浦佐用姫(まつらさよひめ:任那救援に赴く途中の大伴狭手比古と契り、その離別に際して山に登って領巾を振り続けて遂に石に化したという)のイメージを出雲に移したかと思えば、またまた遡っては、「天の日矛」(あめのひぼこ)の渡来シーンにすげ替えている。「天の日矛」は「天日槍」とも書き、記紀の伝承に登場する新羅からやってきた王子の名で、「古事記」には「天之日矛」として出、他に「海檜槍」「天日桙」とする。伝承では以下の通り。彼の男根に日が当たり、女が赤い玉を生む。天之日矛がそれを手に入れると、赤い玉は女と化したので彼は彼女を妻としたが、女は祖国であった日本の難波へ逃げ帰ったので、天之日矛はそれを追って来日する。しかし、難波へは入れず、但馬の出石(いづし)に留まって多遅摩俣尾(たぢまのまたを)の娘前津見(まへつみ)を娶り、子孫を成したという(その後裔の一人が神功皇后)。「日本書紀」は渡来時期は垂仁三年(機械換算紀元前二四)とし、播磨・淡路・山背(現在の京都府)・近江・若狭、そして但馬への歴訪を語ってる(後裔に田道間守(たじまもり))。天日槍伝承は「播磨国風土記」・「筑前国風土記逸文」などにも多様な構成で見え、早い段階から各地に浸透したことが推定されている。天日槍は数種の神宝を招来するが、ともに但馬の出石神社との関りを示唆している。伝承の基礎は出石神社を奉斎する一族の始祖伝承に、矛槍を祭具とする太陽信仰・各地の渡来系氏族伝承が融合して形成されたものと考えられている(以上の「天の日矛」以下は主文を「朝日日本歴史人物事典」に拠った。思うところあって人名は歴史的仮名遣で附した)。兵庫県豊岡市出石町宮内にある但馬國一宮出石(いずし)神社(グーグル・マップ・データ)が「天の日矛」伝説と深い関わりを持つが、ここは龍之介が今回の旅でプレに宿泊することとなる城崎の十七キロメートルほど南南東の奥の位置にあり、近い。

「氣多」(けた)は「古事記」の大国主命の伝承で語られる「因幡の白兎」の舞台で、現在の鳥取県鳥取市白兎周辺(グーグル・マップ・データ)。]

 

 

大正四(一九一五)年七月二十九日・出雲國松江市内中原御花畑 井川恭樣・自筆絵葉書

 

Iwa
 
 

Mouh

 

差支へさへなければ三日に東京をたつ

五日には松江へゆけるだらう

よろしく御ねがひ申します

                   龍

 

[やぶちゃん注:ルノアール風の絵。この年の春、ルノアールの原画を見て、龍之介はいたく感動している。「大正四(一九一五)年四月十四日・田端発信・井川恭宛(転載)」を見られたい。画像は底本(岩波旧全集)のもの(上)と、所持する「もうひとりの芥川龍之介展」の冊子「もうひとりの芥川龍之介」(一九九二年産經新聞社発行)のもの(下)とをトリミングして補正せずに示した。後者の方が地塗りのタッチは比較的よく判るか(後者ではキャプションに『泣く女』とするが、まあ、そうだろうが、これは同図録の編者の施したものである。なお、同冊子は末尾に「禁無断転載」とするが、パブリック・ドメインの作品を単に平面的に撮影したものに著作権は発生しないというのが文化庁の正式見解である)。]

 

 

大正四(一九一五)年八月二日・田端発信・井川恭宛・(葉書・転載)

 

明三日午後三時廿分東京驛發

 四日午前五時廿七分京都驛着

 〃 〃 七時廿分 〃  發

 〃 午前十一時卅九分城崎着(一泊)

 五日午前九時八分    發

 〃 午後四時十九分松江着

大體右の如き豫定にてゆくべく候 匆々

 

2021/04/23

大和本草附錄巻之二 魚類 吹鯋 (「ゴリ」類或いはカジカ・ウツセミカジカ等)

 

吹鯋 別是一種山谿小魚也大如指狹圓而長身

有黑㸃嘗張口吹沙其味美故魚麗之詩稱馬鱨

鯊コレ也ゴリ。ウロヽコ。ハゼ。ドンホ。カジカノ類也

○やぶちゃんの書き下し文

吹鯋 別に是れ、一種、山谿〔(さんけい)〕の小魚なり。大〔いさ〕、指のごとく、狹く、圓〔まる〕くして、長し。身に黑㸃有り。嘗つて、口を張りて沙を吹く。其の味、美〔(よ)〕し。故、「魚麗」の「詩」に稱す「馬鱨鯊」、これなり。「ごり」「うろゝこ」「はぜ」「どんほ」。「かじか」の類なり。

[やぶちゃん注:渓谷に棲息する淡水魚で、食用とされ、しかも味がよく、円(頭部)くて長く、黒点を有し、異名に「ごり」「うろゝこ」となると、これは「大和本草卷之十三 魚之上 ゴリ」の注で示した、広義の「ゴリ」類(多数の縁遠い種群を多数含む)或いは、そこで限定同定候補とした、所謂、金沢料理の至宝「ゴリ料理」の材料となる、

条鰭綱カサゴ目カジカ科カジカ属カジカ Cottus pollux (日本固有種。体長は15~17cm前後。北海道南部以南の日本各地に分布。「ドンコ」の異名でも知られ、ここに出る「杜父魚」(とふぎょ)も現行ではこのカジカの異名とされることが多い。「大和本草卷之十三 魚之下 杜父魚 (カジカ類)」も参照されたい)

カジカ属ウツセミカジカ Cottus reinii (日本固有種。体長は10~17cm程度。北海道南部・本州・四国・九州西部の分布(主に太平洋側とも)。嘗ては琵琶湖固有種とされたが、全国的に広がっている小卵型の個体群と琵琶湖産のそれは遺伝的な差が僅かにしかないことが判明している)

カジカ属アユカケ Cottus kazika (日本固有種。体長は5~30cm程度で上記二種よりも大型個体が出現する。「カマキリ」は異名。胸鰭は吸盤状ではなく、分離している。鰓蓋には一対の大きい棘と、その下部に三対の小さい棘を持ち、和名は、この棘に餌となる鮎を引っ掛けるとした古い伝承に由来する)

等が挙げられる。私は富山に六年間居住していた関係上、三種孰れも食したことがあるが、孰れも美味い。特に正月の甘露煮でアユカケ(頭部が非常に巨大であった)を食べた時のそれは忘れられない。現在はどれも個体数が激減し、「ゴリ料理」は幻しの域に入りつつある。先の本巻分では、かなり細かく考証したので、詳しくはリンク先を見られたい。

「吹鯋」原本の国立国会図書館デジタルコレクションの当該部の画像を視認しても判るが、この二字の右手には熟語を示す「-」が引かれてある。しかも当て訓がないとなれば、これは「スイサ」と音読みするべきであろうか。或いは訓じて「すなふき」でもよいか。「鯋」は「鯊」(はぜ)と同字であるから、「川床の砂を吹くハゼ様(よう)の魚」の意である。但し、彼らは純然たるベントス食ではなく、摂餌対象は底生生物の他に水棲昆虫や小魚である。

「嘗つて」意味不詳。或いは、過去の幼魚期に川底の砂を吹いて水棲昆虫の幼体などを食すことを言っているものか? アユカケではそれが確認されていることが、当該ウィキで判る。

『「魚麗」の「詩」に稱す「馬鱨鯊」、これなり』これは「詩経」の「小雅」の「白華之什」の中にある詩「魚麗」篇を指す。

   *

 魚麗

魚麗于罶鱨鯊

君子有酒旨且多

魚麗于罶魴鱧

君子有酒多且旨

魚麗于罶鰋鯉

君子有酒旨且有

   *

 魚麗

魚麗(うをやな)に罶(か)かるは 鱨(ぎばち)に鯊(すなふき)

君子に酒有り 旨(うま)く 且つ 多し

魚麗に罶かるは 魴(おしきうを)に鱧(やつめうなぎ)

君子に酒有り 多く 且つ 旨し

魚麗に罶かるは 鰋(なまづ)に鯉

君子に酒有り 旨く 且つ 有り

   *

訓読は田中和夫氏の論文「『毛詩正義』小雅「魚麗」篇譯注稿――毛詩注疏 巻第九 九之四 魚麗」――」(二〇一一年十二月宮城学院女子大学発行『日本文学ノート』所収。こちらからPDFをダウン・ロード出来る)を参考にした。通釈と解説は個人ブログ「温故知新 故きを温め新しきを知る」の「魚麗(ぎょろ) 詩経」が明治書院「詩経」からで、手っ取り早いかとは思われる。「魚麗」は魚を捕るための仕掛けである竹で編んだ籠状の梁(やな)。「罶」は本来は梁を指すが、それを動詞化した。「鱨(ぎぎ)」は訓からナマズ目ギギ科ギバチ属 Tachysurus の類であろう(毒針を有する)。「魴(おしきうを)」条鰭綱コイ目コイ科コイ亜科 Megalobrama 属ダントウボウ Megalobrama amblycephala 。中国名は「武昌魚」。中国では属名はまさに「魴属」である。なお、本種は霞ケ浦に中国から移植されている。「鯊(すなふき)」は、しかし、カジカとは異なる。何故なら、カジカ類はそもそもが、日本固有種だからである。中国の淡水産のそれを同定することは私には出来ない。悪しからず。ともかくも、益軒が鬼の首捕ったようにブチ挙げているのは、誤りであるとはっきり言える。というより、もうお判りかと思うが、益軒は本詩篇をちゃんと読めてないのである。彼は「鱨鯊」を三文字で、魚の名前とやらかして(稱」が確信的な証拠)、しかも「」を馬と誤読するという致命的な多重の誤りをやらかしてしまっているのである。完全な外れとは言えないものの、はっきり言うと、書かない方がよかった部類だと私は思う。前の二字をないものとしてあげたい気持ちが強く働く。

『「ごり」・「うろゝこ」・「はぜ」・「どんほ」。「かじか」の類なり』「どんほ」は恐らく「杜父(とほ)魚」の訛りであろう。大和本草卷之十三 魚之下 杜父魚 (カジカ類)」で広義の「かじか」類の、益軒の挙げている異名を列挙した。

   *

「川(カハ)ヲコゼ」・「石(イシ)モチ」・「チンコ」・「子(ネ)マル」・「ドンホ」・「杜父(トホ)」・「道滿(ダウマン)」・「河鹿(カジカ)」・「ゴリ」・「ダンギボフズ」

   *

で、さらに標題の「杜父魚」がある。しかし実はそれ以外にも、「石伏(イシブシ)」・「石斑魚(イシブシ)」・「霰魚(アラレウオ)」・「川鰍(カワカジカ)」・「グズ」・「川虎魚(カワオコゼ)」など多彩である。川魚は内陸性であるから、地方名が相互に関わりを持つことが海水魚に比べて非常に低い(閉鎖的命名)とは言えるけれども、かく異名が異常に多いこと自体が「かじか」と呼ばれる魚が実は多岐の種に及んでいることの一つの証左ともなると私は考えている。]

伽婢子卷之三 梅花屛風 / 伽婢子卷之三~了

 

   ○梅花屛風(ばいかのびやうぶ) 

 天文のすゑ、京都の兵亂、打續き、三好と細川家、年を重ねて合戰に及び、その時の公方(くばう)は光源院源義輝公、しばしば、是を鎭めんと謀(はかり)給へども、威、輕く、權、薄くして、更に是を用ひ奉る人、なし。

 こゝに周防の國山口の城主太宰大弐義隆は、そのころ、從二位の持從に補任せられ、兵部卿を兼官して、權威高く西海に輝きしかば、公卿・殿上人、多く、義隆を賴みて、周防の國に下り、山口の城に身を隱し、世の亂(みだれ)を逃れ、京の騷ぎを免がれ給ふ。

 然るに、義隆、久しく武道を忘れ、詩歌風詠の遊びを事とし、侫人(ねいじん)を近づけ、國政をないがしろにし、物の上手と言えば、諸藝者、多く集めて、晝夜、榮耀をほしいまゝにせられしかば、その家老陶(すへ)尾張守晴賢、謀反して、義隆を追出し、長門の大亭寺に押詰め、義隆、つひに自害せらる。

 尾張守は、豐後の國主大友入道宗麟が舍弟三郞義長を、山口の城に迎へて、主君とし、政道、執(とり)行ふ。

 此時に當つて、前〔さきの〕關白藤原尹房(たゞふさ)、前左大臣藤原公賴(きんより)は、山口の城を迯出〔にげいづ〕るに度(ど)を失ふて、流矢にあたりて、薨じ給ふ。從二位藤原親世(ちかよ)は髮を剃りて逃れ出給ふ。

 其中にも、中納言藤原基賴卿は、謀〔はかりごと〕逞しく、しかも諸藝に渡り、繪、よく書給ひ、手跡・哥の道に賢きのみならず、武道を心に掛け、馬にのりて手綱の曲(きよく)を究め、水練に其術を傳へ、半日ばかりは、水底〔みなそこ〕にありても、物とも思はず、又、よく、水を泳ぎ、潜る事、魚の如し。

 これは殊更に、義隆、都に上りける時は、官加階の事、よろず、執(しつ)し申給ひて、禁中の事、とかく懇ろに取まかなひ給ふ故に、此度〔このたび〕、京都の兵亂にも、別義を以て、山口によびくだし參らせ、かしずき、もてなし、城の外に家造りして置き奉らる。

「此上は。」

とて、妻妾(さいせう)・奴婢(ぬび)まで、よびくだし、暫くは心安くおはしけるに、俄に、陶(すゑ)が謀反、起こりしかば、中納言殿は北の方・家人(けにん)等、重寶(ちやうはう)の道具ども、船に取積み、夜もすがら、山口の城を迯げ逃れて、京都を心ざして上られたり。

 安藝の國に入て、「高砂(たかさご)」・「たゞの海」まで漕つけて、風あしければ、鹽がゝりし給ふ。

 北の方、なくなく、かくぞ、聞えし。

  たゞの海いかにうきたる船のうへ

   さのみにあらきなみまくらかな

 夜ふけがた、月、傾(かたふ)きけるに、中納言殿、酒、取りいださせ、北の方もろともに、少しづゝ打飮み、破子(わりご)やうの物、取開らき、舟人にも食はせなむど、し給ふ。

 舟人は、こゝより一里ばかり東のかた、能地(のうち)といふ所の者なるが、船に積みたる諸道具・財寶、皆、金銀をちりばめ、絹・小袖、多く見えしかば、舟人、忽ちに惡心をおこし、

『今宵、此ともがらを殺し、財寳を奪ひとり、德つかばや。今の世は、所々、みだれ立〔たち〕て、さして咎むる人も有まじ。』

と思ひ、夜、いたく更て、月も入はて、暗き紛れに、家人等男女三人は、海へ投げ入たり。

 

Bb1

 

 中納言殿、聞付けて、起立ち給ふ所を、後(うしろ)にまはりて、はねあげ、海に投げ入たり。

 北の方、

「これは、いかに。」

と、のたまふを、舟人、捕へていふやう、

「心安く思ひ給へ。君をば殺すまじきぞ。わが子、二人あり。太郞には新婦(よめ)迎えて、次郞には、まだ、妻もなし。わが新婦にすべし。」

とて、舟を出し、能地の家に歸り、財寳・小袖やうの物、出し、賣りけり。

 北の方、

「心地、少しあしければ、よくならんまで、待給へ。次郞殿と夫婦になり侍べらん。」

とありしに、舟人、嬉しげ也。

 九月十三夜、舟人、子ども・新婦・姑、打つれて、舟に乘りつゝ出て遊び、夜ふけ方、皆、酒に醉(ゑひ)て、前後も知らず、臥たりけるを、中納言殿の北の方、ひそかに岸にあがり、足に任せて、夜もすがら、走り迯げつゝ、夜の明方に狐崎(きつねさき)の「かれいの山」もとに、かゝぐりつき給ふ。

 步みもならはぬ濱路・山道を凌ぎ越ゆるに、

「跡より、追手(おうて)やかゝるらん。」

と、悲しく、怖ろしく、足は、ちしほのくれなゐの如く、茨(いばら)に搔破(かきやぶ)り、石に損ぜられ、兎角して、明〔あけ〕はなれたる霧のまぎれより見れば、林の中に、家あり。

 

Bb2

 

 門の内に走り入ければ、經讀み、念佛する聲、聞え、尼一人、立出て、

「是は。こゝもとには見馴れぬ人なり。如何なれば、朝まだきに、かちはだしにて、是へは、おはしける。」

と問に、北の方、

「みづからは、和布苅(めかり)のとまりに住ものにて侍べり。我夫は、去年、都に上りて、うたれ、孀(やもめ)となりて、姑(しうとめ)に仕へ參らするに、姑の心、はしたなく、又、小姑、つらく當り、剩へ、あらざる濡衣、着せて、浮き立ち、よる晝、ものうき事、いふばかりなし。今夜、『十三夜の月見に』とて、家内、舟に乘りて、酒、飮みつゝ、みづからに、酌、取らせ侍べり。過ちて、盃を海に落しぬ。さだめて恐ろしき責(せめ)に逢ひ侍べらん事の悲しさに、夜に紛れて逃げ走り、是(これ)まで、さまよひ參りて侍べり。」

といふて、淚を流す。

 尼のいふやう、

「同じくは是より家に歸り給へ。我等、送りて、姑の託言(わびこと)すべし。若し又、ここもとにして夫(をとこ)持ち給はんには、然るべき媒(なかだち)を賴みて參らせむ。とにかくに、世の常ならぬ御有さまの、痛はしさに申すぞや。」

といふに、北の方、更に受(うけ)こはず、唯、

「尼になして、たべ。」

とばかり仰せけり。

 尼のいふやう、

「此所は、昔、淳和天皇の后、出家して武庫(むこ)の山に籠り、『如意比丘尼』と申き。此人、修法のいとま、こゝに來り、浦島子(うらしまがこ)が箱を納め、空海和尙を以て、供養したまへる寺なれども、時世移りしかば、幽かなる跡となり、其時作り給へる、櫻木の如意輪觀音の胸の内に、かの箱を納められ、靈佛にておはしけるに、國の守(かみ)、掠め取り、其家、共に燒(やけ)、亡(ほろ)び給へり。然るに、此寺は、濱近くして、波の音、騷がしく、人影まれに、蓬・葎(よもぎ・むぐら)しげりつゝ、たまたま友とするものは、うしろの山に叫ぶ猿の聲、前なる潮(しほ)に千鳥のなく音〔ね〕、松吹く風、岸うつ波、これより外には、言問(ことゝ)ひ交(かは)す者、なし。同行〔どうぎやう〕の尼三人、何れも五十ばかりの年にて、召使はるゝ侍者(じしや)の尼も、齡(よは)ひは若かけれども、おこなひは、愼めり。今、君、美しき花の姿を墨染にやつし、柳の髮を剃り落として、尼となり給はんは、いと惜しき事ながらも、愛着・執心を切り離れて、誠の道に入ぬれば、身は幻の如く、命は露に似たり。今、出家し給はゞ、坐禪の床に妄念の雲を拂ひ、燈明の光に無明の闇を照し、香の煙は、おのづから心法の穢(けがれ)を拂ひ、花を摘めば、ひたすら煩惱の焰、凉くなり、朝(あした)には、粥を食(じき)し、午(むま)の剋(こく)に齋(とき)を行ひ、緣に隨ひ、あるに任せて、年月を送る。恨もなく、嫉みもなし。心靜かに、身穩か也。徒(いたづら)に世にかゝはりて、苦しき物思ひに來世の愁へを求めむよりは、世を厭うて出離(しゆつり)の道を行はんには、まさるべからず。」

と述べられたり。

 北の方、やがて、佛前にまうで、髮切りて剃らせ、法名「梨春」とぞいひける。

 もとより、此女房は、いとけなき時より、歌・草紙讀み、手ならふ事を、のみ、書典(しよでん)を讀みては、文字(もんじ)、ことごとく覺えし人なりければ、出家して幾程もなきに、内典(ないでん)・經論の深き理〔ことわり〕を悟れり。

 院主の尼公も、後には皆、此梨春に尋ねてこそ、佛法の理、經論の文義(もんぎ)をも會得せられけれ。

 梨春、かくぞ、口すさびける。

 中々にうきにしづまぬ身なりせば

   みのりの海のそこをしらめや

まことに、「佛種は緣より起る」とは、これらぞ、ためし也ける。

 常には奧深く引籠り、聖敎(しやうげう)に眼(まなこ)をさらし、容易(たやす)く人にも、逢ふ事、なし。

 或日、一人の俗、來りて、院主の尼公に、

「心ざす事、侍べり。經讀みて給(たべ)。」

とて、布施物(ふせもの)參らせ、一幅の梅の繪を、

「供養のため。」

とて、佛前に打置たり。

 尼公、是を取りて、屛風におされたり。

 梨春、是を見るに、まさしく、我箱に入〔いれ〕たる繪なり。

 尼公に、

「如何なる者の、奉りし。」

と、とふに、

「是は能地の舟人、此寺の檀那にて、來〔きた〕る。世にいふ、『此者は、人を殺し、剝掠(はぎかすめ)て世を渡る』といふ、誠か、知らず。」

と語る。

 梨春、

『さては。疑ひなく、彼(か)の舟人よ。』

と、思ひながら、色にも出〔いだ〕さず、筆を取りて、繪の上に書けるは、

 わがやどの梅の立枝〔たちえ〕を見るからに

   思ひの外に君や來まさむ

 尼公、更に其下心(した〔ごころ〕〕を知らず、唯、美しき筆の跡を譽めたるばかり也。

 古歌の言葉を少し引直しける、いと思ひ入りたる心、ありけむ。

 備後の國鞆(とも)の住人品治(ほんぢ)九兵衞といふ者、子細ありてこの寺に來り、

「屛風の繪と歌と。何れも、不思議の筆跡なり。」

と、見咎め、尼公に請(こひ)受けて歸り、わがすむ所に立〔たて〕て、もてあそぶ。

 こゝに中納言基賴卿は、敢(あえ)なく、水中に突落され給ひしか共、元より、水練の達者なれば、波をくゞり、潮(うしほ)をしのぎて、十町許りの末にて、岸にあがり、それより、足に任せて、備後の國鞆の浦まで落ち來り、山名玄番頭(げんばのかみ)が家にいたり、

「奉公せん。」

と、のたまふを、人々、世の常ならぬ有樣を見咎め、山名に、

「かうかう。」

と、いひければ、出〔いで〕て對面し、奧に呼入て、こまごまと、とひ聞けるに、ありの儘に語り給ふ。

「扨は。痛はしき御事かな。京都も未だ靜かならねば、上り給ふとも住所(すみ〔どころ〕)あるべからず。暫くこれにおはして、世の變をも見給へ。」

とて、とゞめおく。

 品治九兵衞は玄番頭が家人なりければ、

「かやうの物、求めたり。」

と物語するに、中納言殿、心もとなく、取寄せて見給ふに、覺えず、淚ぞ、流されける。

 山名、あやしみて、問ければ、中納言殿、

「是は某(それがし)の書きたる繪なり。此歌は、まさしく、我妻の手跡也。『たゞの海』にて、妻子・家人、皆、水中に沈められし。財寶は、殘らず、舟人の爲に取られぬらん。妻は如何にして、命、生(いき)けん。此畫(ゑ)は、何の故に、此歌をかきて出〔いだ〕しぬらん。」

と、のたまふ。

 山名、則ち、品治(ほんぢ)をめして、つぶさに尋ねければ、院主の尼公(あまぎみ)、はじめよりの事を語りけり。

 梨春に對面して、

「ありの儘に語り給へ。」

といふに、

「今は何をか包み侍べらん。」

とて、舟人の有樣、語り給ふにぞ、疑ひもなく、中納言殿の北の方とは知られけれ。

 

Bb3

 

「扨は。」

とて、鞆の浦へ呼び迎へ參らせ、中納言殿と對面しては、たゞ夢のやうにぞ覺え給ひける。

 かはる姿とて、互ひに衰へ給ふ有さま、今更、哀れぞ、まさりける。

 暫く、鞆におはしける間(あひだ)に、京都の世の中、移り替り、三好・松永、滅びて、義昭將軍、武運、開けしかば、都に上らむとし給ふ處に、中納言殿、俄に、いたはりつき、て空しくなり給ふ。

 梨春は直(すぐ)に尼になり給ひ、廿日ばかりののち、打續きて、夢に、『中納言殿、さそひ來り給ふ』と見て、程なく、北の方も、むなしくなり給ふ。

 山名、是を、同じ所に埋み奉りけり。

 中陰のはての日、二つの塚より、白き雲、立のぼり、西をさして行くか、と見えし。

 異香(いきやう)、すでに山谷〔さんこく〕にみちみちたり。

 時の人、奇特(きどく)の思ひを、なしけり。

 

伽婢子卷之三終

 

[やぶちゃん注:本篇の挿絵は特異的に底本の昭和二(一九二七)年刊の日本名著全集刊行會編「江戶文藝之部」第十巻「怪談名作集」を用いた。「江戸怪談集」及び「新日本古典文学大系」版は擦れ・白飛びや、人物の顔が潰れていたりで、見るに堪えないからである。

「天文のすゑ……」既に同一の作品内時制で歴史的な内乱の事実やそれに関わった武将らについては、さんざん注してきたので、ここでは省略する。話柄そのものに関わらない歴史上の人物も省略するか、簡単なものに留めた。最後に「三好・松永、滅びて、義昭將軍、武運、開けしかば」とあることから、本話柄内時制は歴史的には天文一七(一五四八)年頃(翌天文十八年六月末には三好長慶が主筋である管領細川晴元に逆らって三好政長(宗三)を討伐した「江口の戦い」が起こっている)から天正六(一五七八)年頃までという、特異的に三十年という長い設定となることになる。室町幕府第十五代にして最後の将軍となった足利義昭は、混迷する京都の統御力を完全に失い、天正四(一五七六)年二月に西国の毛利輝元を頼って、その勢力下にあった備後国の「鞆の浦」に移った(ここは嘗て足利尊氏が光厳上皇から新田義貞追討の院宣を受けた由緒ある場所であり、第十代将軍足利義稙(よしたね)が大内氏の支援の下で京都復帰を果たした地でもあった)。義昭はこの地から京都への帰還や信長追討を目指して全国の大名に御内書(室町幕府の将軍家が発給した文書の名称。様式は公式文書の御教書(みぎょうしょ)に対して、私的な普通の書状の形ではあるが、次第に公的意義を持つようになった。将軍以外の関係者の副状(そえじょう)が添えられた場合もあった。なお、徳川将軍家もこの御内書を用い、花押の代りに印を押しているものもある)を発給した。天正四(一五七六)年に三好長治が自害に追い込まれて阿波の三好家中が混乱すると、天正六(一五七八)年、輝元は三好義堅(十河存保)を三好氏の当主と認めて和睦し、連合して織田氏に対抗しようとした。義昭自身は当初、和睦に反対であったが、最終的に同意して近臣真木島昭光(まきしま あきみつ)に仲介を命じた。しかし、織田氏と結んだ土佐の長宗我部元親の讃岐・阿波侵攻によって、目論見は水泡と化したのであった(後半部分はウィキの「足利義昭」に拠った)。

「太宰大弐義隆は、そのころ、從二位の持從に補任せられ」大内義隆(永正四(一五〇七)年~天文二〇(一五五一)年)は天文一七(一五四八)年に従二位に昇叙した。兵部卿・大宰大弐・侍従は如元。

「物の上手と言えば」何につけ、「これこれの物の上手がおります」と御注進されるや。

「長門の大亭寺」大寧寺の誤り。現在の山口県長門市深川湯本にある曹洞宗瑞雲萬歳山大寧(たいねい)護国禅寺(グーグル・マップ・データ)。

に押詰め、義隆、つひに自害せらる。

「藤原尹房」(明応五(一四九六)年~天文二〇(一五五一)年)は天文一四(一五四五)年以降、次男良豊とともに大内義隆を頼って周防国山口に滞在していたが、陶晴賢の謀反事件に遭遇し、陶の兵によって殺害された。

「藤原公賴」三条公頼(明応四(一四九五)年~天文二〇(一五五一)年)は天文二〇(一五五一年)八月に大内義隆を頼って下向していたが、直後、同じく陶晴賢の謀反に巻き込まれて殺害された。

「度(ど)を失ふ」ひどく慌てて心の平静を失う。周章狼狽する。

「從二位藤原親世」「新日本古典文学大系」版脚注に、『正しくは従三位。「従三位藤親世五十八、右兵衛督。九月日於防州落髪云云」』(「公卿補任」天文二十年)とある。

「中納言藤原基賴卿」本話の男の主人公であるが、「新日本古典文学大系」版脚注には、『京都将軍家譜・下・義輝に「中納言基頼従二位藤親世等剃髪逃走」とする人物の名を借りるが、これは陶晴賢謀反のとき山口にあって落髪した(公卿補任・天文二十年)という権中納言藤原(持明院)基規を誤ったものか』とある。但し、後者はサイト「公卿類別譜」のこちらによれば、持明院基規(本名は家親とし、「系図纂要」では『名は基親』ともある)は明応元(一四九二)年生まれで陶晴賢の謀反の際に死亡したとある。

「謀〔はかりごと〕逞しく」智謀術数に長け。

「手綱の曲(きよく)」手綱捌き。

「殊更に、義隆、都に上りける時は、官加階の事、よろず、執(しつ)し申給ひて、禁中の事、とかく懇ろに取まかなひ給ふ故に、」大内義隆のこの時の従二位昇叙というのは、武家では将軍以外には例のないことで、それについて、この主人公基頼が、万事万端の執り回しを――特に禁中に対する細かな配慮などを綿密に執り賄い申し上げた、という業績を指している。

「高砂(たかさご)」「新日本古典文学大系」版脚注では、『安芸国の高崎浦(現広島県竹原市高崎町)か』とされる。ここ

「たゞの海」現在の広島県竹原市忠海町(ただのうみちょう)。ここ

「鹽がゝり」「潮係り」。潮目が変わるのを待って舟を岸近くに係留すること。

「破子(わりご)」「破籠」とも書く。食物を入れて携行する容器。檜の白木の薄板を折って円形・四角・扇形などに造り、中に仕切りをつけて蓋をしたもの。平安時代、主に公家の携行食器として始まったが、次第に一般的になり。曲物(まげもの)による「わっぱ」や「めんぱ」などの弁当箱へと発展した。

「能地(のうち)」広島県三原市幸崎町(さいざきちょう)能地(のうじ)(国土地理院図)。岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」(一九八九年刊)の注には、『海賊の寄港地であったことがある』とあり、この舟人もその血を臭わせているとも読める。

「はねあげ」抱えた状態から前方へ向かって放り投げ。

「狐崎(きつねさき)」広島県福山市鞆町(ともちょう)後地(うしろじ)にある狐崎(国土地理院図)。

「かれいの山」「新日本古典文学大系」版脚注に、「大道中名所鑑」の下より引いて、『「きつねさきより三町ほど下にかれいと申山あり」』とし、『「下」は西の方角を意味する』とのみある。この距離と方位に従えば、山という感じではないが、国土地理院図の「室浜」という鼻がそれらしい。グーグル・マップ・データ航空写真で同じ場所を見ると、狐崎から小室浜海岸を挟んで西の、こんもりとした三崎であり、背後にはお誂え向きに寺もある。

「かゝぐりつき」やっとの思いで到着し。迷ったあげくに辿りつき。

「和布苅(めかり)のとまり」現在、尾道から向島を経て因島に架かる因島大橋(グーグル・マップ・データ)の下の海峡は「和布瀬戸(めかりせと)」と呼ばれ、国土地理院図で調べると、向島のここに「布刈鼻」を見出せる。この附近か。

「浮き立ち」乱れて、騒がしくなり。

「同じくは」「それならいっそのこと」。

「受(うけ)こはず」孰れの提案も受け入れようとせず。

「此所は、昔……」「新日本古典文学大系」版脚注に、『以下は元亨釈書十八、本朝神社考五、本朝烈女伝九等に伝える如意尼の伝承を備後鞆の海辺に立つこの尼寺に付会する』とある。鎌倉末期の禅僧虎関師錬が書いた日本初の仏教通史「元亨釈書」(元亨二(一三二二)年上呈)にのそれは、ここ(国立国会図書館デジタルコレクション。右頁二行目から)。但し、全漢文。しかし、以下の注の引用と対応すれば、概ね読める。

「淳和天皇の后、出家して」天皇の没したのは承和七(八四〇)年で、次の注を見る通り、出家は全くの自身の意志である。

「武庫(むこ)の山」現在の六甲山系。具体には以下の甲山(かぶとやま)。「新日本古典文学大系」版脚注には、『元亨釈書に如意尼の籠った地を「号此地神呪寺」とする』とある。この寺は兵庫県西宮市甲山山麓に真言宗神呪寺(かんのうじ:神咒寺とも表記する)として現存する。当該ウィキによれば、『寺号の「神呪寺」は、「神を呪う」という意味ではなく、甲山を神の山とする信仰があり、この寺を神の寺(かんのじ)としたことによるという。なお、「神呪」(じんしゅ)とは、呪文、マントラ、真言とほぼ同義で、「仏の真の言葉」という意味がある。開山当時の名称は「摩尼山・神呪寺(しんじゅじ)」であり、「感応寺」という別称もあったようだ』。「元亨釈書」の『「如意尼伝」に神呪寺の開基について、載っている』。『それによると、神呪寺は第』五十三『代淳和天皇の第四妃(後の如意尼)が開いたとする。一方』、「帝王編年記」(神代から鎌倉後期の後伏見(退位一三〇一年)に至る年代記。成立は南北朝中期(一三六四年~一三八〇年)と考えられている。撰者は僧永祐と伝えが確証はない)には、『淳和天皇皇后の正子内親王が』天長四(八二七)年に『橘氏公、三原春上の二人に命じて真言宗の寺院を造らせた』。『皇太子時代の淳和天皇は夢告に従い、四天王寺創建に伴って聖徳太子が開基した京都頂法寺にて、丹後国余佐郡香河(かご)村の娘と出会い、これを第四妃に迎えた。香河では小萩(こはぎ)という幼名が伝わり、この小萩=真名井御前をモデルとした小萩観音を祀る寺院がある。古代、丹後の国は中央氏族とは別系統の氏族(安曇氏などの海人系氏族)の勢力圏であり、大王家に対し』て『后妃を出す氏族であった。この余佐郡の娘、小萩は日下部氏の系統である可能性が高い』。『『元亨釈書』によれば、淳和天皇第四妃真名井御前=如意尼は、如意輪観音への信仰が厚く、念願であった出家するために』天長五年に『ひそかに宮中を抜け、頂法寺=六角堂で修行をしてその後、今の西宮浜(御前浜)の浜南宮(現西宮神社)から廣田神社、その神奈備山、甲山へと入っていった。この時、妃は空海の協力を仰ぎ、これより満』三『年間、神呪寺にて修行を行ったという』。天長七年に『空海は本尊として、山頂の巨大な桜の木を妃の体の大きさに刻んで、如意輪観音像を作ったという。この如意輪観音像を本尊として』天長八(八三一)年十月十八日に『本堂は落慶した。同日、妃は空海より剃髪を受けて、僧名を如意尼とした。如意尼が出家する以前の名前は、真井御前(まないごぜん)と称されていた』。『この時、如意尼と一緒に出家した二人の尼、如一と如円は和気清麻呂の孫娘であった』。『空海は海人系の氏族の出身だったといわれる』。元天長(八二三)年、『空海は雨乞い争いで、妃の水江浦島子の筐を借り受けて、勝ちを得たという。また、神呪寺の鎮守は弁才天であるが』、「元亨釈書」にも『登場するこの神とは』、『六甲山系全体を所領とする廣田神社祭神、撞賢木厳魂天疎向津姫(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ)またの名瀬織津姫のことであり、水を支配する神でもあり、水運に関係のある者は古来より信仰を深めてきた』。『鎌倉時代初期には、源頼朝が再興する。境内の近くには源頼朝の墓と伝えられている石塔がある』。『戦国時代には兵火により、荒廃した。現在の本堂は江戸時代の再建』。『当初の寺領は淳和天皇より』、百五十『町歩の寄進があり、合わせて』二百五十『町歩となったが、現在は境内地の』二十『町歩』のみである。『山号は「武庫山」(六甲山のこと)であったが、光玄大和尚が現在の「甲山」に変更し』た。『神呪寺の本尊・如意輪半跏(はんか)像は、河内観心寺、大和室生寺の如意輪観音像と合わせて、日本三如意輪と呼ばれている。家業繁栄・商売繁盛のご利益があるとされ、秘仏となっている。融通さん、融通観音とも称されている』とある。この本尊は『平安』『当時の本尊』ではあるが、『寺伝にいう空海の時代の作ではなく』、十『世紀後半から』十一『世紀前半の作とされる。如意輪観音像には』六臂像と二臂像が『あるが、この像は』六臂像で、しかも、『通常の如意輪観音像は右脚を立て膝とするが、本像は右脚を斜めにして左脚の上に乗せた珍しい形をしており、頭部が斜め上向きになっている点と合わせ、図像的に』は非常に『珍しい作例である』。

「浦島子(うらしまがこ)」前記引用で意味が判る。

「心法(しんほう)」心。正確な歴史的仮名遣は「ほふ」。「法」は普通は「はふ」であるが、仏教用語では「ほふ」と表記する慣例がある。

「朝(あした)には、粥を食(じき)し、午(むま)の剋(こく)に齋(とき)を行ひ」既に注したが、前者の粥のみが僧の食事(「齋」。食事も身を清める精進であるからこの漢字を使い、その正式な一回きりの「とき」料を「時」に掛けて、それ以外の非正式な食事を、意味も併せて「非時(ひじ)」と言う)の正式なもので、一日一回、午前中にしか食事は出来ない。「新日本古典文学大系」版脚注はあたかもこの後半のものもその正しい「齋」のように書いているが、これはおかしい。午前と午後のはざかいの午(うま)の時であろうと、これは既に二度目の食事となって紛れもない「非時」である。

「歌・草紙讀み、手ならふ事を、のみ」この「のみ」は非常に特殊な用法で、副助詞の限定強調を指示するそれを、「のむ」という動詞の連用形のように転じて、「専らにする」という意で使用しているようにしか見えない(「新日本古典文学大系」版脚注もそう理解して注されてある)。そうした識読と書写・書道をもっぱらの日常としてきたことを謂う。

「内典(ないでん)」ここは仏教の主要経典。

「經論」主に経典の内の「經」(仏説を文学的に表現したもの)と「論」(当該経典の内容を論理的に述べたもの)を教義には言う。ここは経の評註を言っていると考えてよい。

「佛種は緣より起る」「法華経」の「方便品第二」の「未來世諸佛 雖說百千億 無數諸法門 其實爲一乘 諸佛兩足尊 知法常無性 佛種緣從起 是故說一乘」(敢えて訓読すると、「未來世の諸佛 百千億 無數の諸々の法門を說くと雖も 其れ實(まこと)には一乘の爲(ため)なり 諸佛兩足の尊 法は常に無性(むしやう)なり 佛種は緣に從ひて起こる 是の故 一乘を說く」)に基づく。「無性」とは「無自性」の略で「現実的な儚い実体というあやふやな存在をもともと持っていないこと」を謂う。

「聖敎(しやうげう)」釈迦 の説いた仏教の正法 (しょうぼう)

「心ざす事」ここは「供養のため」と称しており、読経を所望して布施を出しているので、全く以って誠実な、当人が故人と認識している人物の追善供養を指している。

「屛風におされたり」屏風絵として押し張られた。屏風絵としてお仕立て(させ)なさった。挿絵のような大振りの屏風であったなら、これは尼らの手仕事では到底、無理である。

「わがやどの梅の立枝〔たちえ〕を見るからに思ひの外に君や來まさむ」言わずもがな、この「君」とは本来の元夫である中納言藤原基頼である。これに「古歌の言葉を少し引直しける、いと思ひ入りたる心、ありけむ」(これは作者の登場した語りと読むのは風情ぶち壊しである。言わずもがな、彼女を受け入れて呉れたここの庵主の尼の心内語である)とあるが、これは前記の岩波文庫の高田氏の注で「古歌」が判る。「拾遺和歌集」の巻第一の平安中期の貴族・歌人であった平兼盛の一首(番)、

    冷泉院御屛風の繪に、

    梅(むめ)の花ある家に

    まらうど來たる所

 わが宿の梅の立ち枝や見えつらむ

      思ひのほかに君が來ませる

である。この原歌を知らなくても、彼女の歌が既にして伏線となっていることが容易に伝わってくる。

「備後の國鞆(とも)」現在の広島県福山市鞆地区の沼隈半島南端にある港湾及びその周辺

通称「鞆の浦(とものうら)」で知られる。当該ウィキによれば、『瀬戸内海の海流は満潮時に豊後水道や紀伊水道から瀬戸内海に流れ込み瀬戸内海のほぼ中央に位置する鞆の浦沖でぶつかり、逆に干潮時には鞆の浦沖を境にして東西に分かれて流れ出してゆく。つまり』、『鞆の浦を境にして潮の流れが逆転する。「地乗り」と呼ばれる陸地を目印とした沿岸航海が主流の時代に、沼隈半島沖の瀬戸内海を横断するには』、この『鞆の浦で潮流が変わるのを待たなければならなかった。このような地理的条件から』、『大伴旅人などによ』り、「万葉集」に『詠まれるように、古代より潮待ちの港として知られていた。また、鞆は』「魏志倭人伝」に『書かれる「投馬国」の推定地の一つともなっている』。『江戸時代の港湾施設である「常夜燈」、「雁木」、「波止場」、「焚場」、「船番所」が全て揃って残っているのは全国でも鞆港のみであ』り、『江戸時代中期と後期の町絵図に描かれた街路も』、『ほぼすべて現存し、当時の町絵図が現代の地図としても通用する。そのような町は港町に限らず、全国でも鞆の浦以外には例がない』。以下、「歴史」の項。中世には『一帯は渡辺氏の支配下にあった』。建武三(一三三六)年には福岡の「多々良浜の戦い」に『勝利した足利尊氏が京に上る途中』、『この地で光厳上皇より新田義貞追討の院宣を賜る。南北朝時代には鞆の浦沖から鞆にかけての地域で北朝と南朝との合戦(鞆合戦)が幾度もあり、静観寺五重塔などの貴重な文化財が失われた』。『戦国時代には毛利氏によって鞆中心部に「鞆要害」(現在の鞆城)が築かれるなど』、『備後国の拠点の一つとなっていた』。『足利義昭は』天正二(一五七三)年に『織田信長に』よって、『京を追放された後、毛利氏などの支援のもと』、『渡辺氏の援助で』天正四(一五七六)年に『鞆に拠点を移し』、『信長打倒の機会を窺った。伊勢氏や上野氏・大館氏など幕府を構成していた名家の子弟も義昭を頼り』、『鞆に下向していたとされる。このことから「鞆幕府」と呼ばれることもある』。『また、前述のように足利尊氏が室町幕府成立のきっかけになる院宣を受け取った場所でもあるため、幕末の歴史家頼山陽は』「足利(室町幕府)は鞆で興り、鞆で滅びた」と『喩えた』。『尼子氏滅亡に際しては播磨国上月城より移送途中に誅殺された山中鹿之助の首級が鞆に届けられ』、『足利義昭や毛利輝元により実検が行われた。この遺構として首塚が現在も残されている』。「近世」の項。『江戸時代になると備後国を領有した福島正則によって鞆要害を中心に市街地を取り囲む大規模な城郭「鞆城」の築城が始まるが、これが徳川家康の逆鱗に触れ工事は中止された。その後、福島氏に代わり、徳川家康の従弟水野勝成が備後福山藩の領主となり、鞆城跡には奉行所(鞆奉行所)が設置された。このとき勝成の息子で』二『代藩主である水野勝俊は鞆に住んでいたため「鞆殿」と呼ばれた。また、朝鮮通信使の寄航地にも度々指定され』、正徳元(一七一一)年の第八回『通信使では従事官の李邦彦が宿泊した福禅寺から見た鞆の浦の景色を「日東第一形勝」(朝鮮より東の世界で一番風光明媚な場所の意)と賞賛した(この文を額にしたものが福禅寺対潮楼内に掲げられている)』。『しかし、航海技術が発達』するに伴い、「地乗り」(島々に沿って航行すること)から「沖乗り」(沖合を直行して航行すること)が『主流になったことにより』、『鞆の浦で潮待ちをする必要性』が『薄れていったことなどから、備後地方の港湾拠点は尾道に大きく傾いていった』とある。私は映像ロケ地としてのそれには一切、関心がないが、出不精の私でも、何時か行ってみたいところである。

「品治(ほんぢ)九兵衞」不詳。

「見咎め」単に「見て、何とも言えず、不審に思って」の意。絵が素人のものとも覚えず、添えられた歌が、これまた、意味深長な含みを持っていたからである。

「もてあそぶ」賞翫した。

「十町許り」千九十一メートルほど。

「山名玄番頭(げんばのかみ)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『未詳。備後国は康暦』(こうりゃく)『元年〔一三七九〕以来』、『山名氏が守護職に任じられたので、その一族であろう』とある。

「世の常ならぬ有樣を見咎め」海を凡そ一キロも泳ぎ渡って徒裸足のままに出現したのだから、恐ろしく汚れていたであろう。その見た目、乞食体(てい)の者が「奉公致したし」ときりり礼儀正しく落ち着き払って申し出るのを、よくみれば、どうも尋常の出自のものとは思われなかったので、山名へ言上に及んだのである。

「品治九兵衞は玄番頭が家人なりければ」『「かやうの物、求めたり。」と物語するに』という展開はジョイントを焦り過ぎた。暫くして、酒宴でも開いて、品治が気を利かせて屏風を持ち込むといった自然なスラーが欲しいところだ。

「心もとなく」何か妙に不安で落ち着かない気がして。「梅の花」の絵と含みある和歌に何やらん激しい胸騒ぎがしたのである。

「妻子・家人、皆、水中に沈められし」にも拘わらず、か弱き「妻は如何にして、命、生(いき)けん」!? 「財寶は、殘らず、舟人の爲に取られぬらん」はずにも拘わらず、「此畫(ゑ)は、何の故に」しかも、この「妻の手跡」の「此歌をかきて出〔いだ〕しぬらん」(最後の部分は「新日本古典文学大系」版脚注では『寺外へ持ち出すことを許したのか』と訳されてある。確かに逐語的な完全訳はそうだろうが、どうも台詞としては腰が砕ける。寧ろ、「この含みある歌を書いたものが、どうして、ここに出てきたのかッツ?!」という叫びであるべきである)!? という激しい不審と驚愕である。

「山名、則ち、品治(ほんぢ)をめして、つぶさに尋ねければ、院主の尼公(あまぎみ)、はじめよりの事を語りけり」こういうお手軽なカット・バック処理はちょっと勘弁だねぇ。

「中納言殿、俄に、いたはりつき、て空しくなり給ふ」この結末は話柄内時制が長いことも物理的に災いしている。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『大内氏滅亡以来二十五年を経過し、中納言殿のモデルが持明院基規とすると、八十五歳を越えている』とある。されば、ここはコーダを急いだというより、話柄内での時制上の非現実感を押さえようとするなら、かくせざるを得なかったとも言えるのである。寧ろ、続く夢見の誘いのシーンが私は上手いと思う。]

2021/04/22

大和本草附錄巻之二 魚類 「神仙傳」の「膾」は「鯔魚」を「最」も「上と爲す」とするに就いて「ぼら」と「いな」に比定 (ボラ) / 魚類 撥尾(いな) (ボラ)

 

神仙傳云介象與吳王論膾何者最美象曰鯔魚爲

上○ボラトイナトノ膾尤ヨシト也

撥尾 子魚之小者子魚一名鯔魚ボラ也【スバシリハイナヨリ大】

○やぶちゃんの書き下し文

「神仙傳」に云はく、『介象、吳王と論ず。「膾〔(なます)〕は何に者が最も美(よき)や。」。象、曰はく、「鯔魚〔(しぎよ)〕を上と爲〔(な)〕す。」と。』と。

○「ぼら」と「いな」との膾、『尤もよし』と、なり。

撥尾(いな) 子魚〔(しぎよ)〕の小者。子魚、一名「鯔魚〔(しぎよ/なよし)〕」。「ぼら」なり【「すばしり」は「いな」より、大〔なり〕。】

[やぶちゃん注:連関するので二項を纏めて示した。これは、言わずもがな、

ボラ目ボラ科ボラMugil cephalus

で、益軒は本巻の「大和本草卷之十三 魚之下 鯔魚(なよし) (ボラ・メナダ)」で既に出生魚としてのボラを詳述している。現行のボラの出世魚としての異名は、そちらの私の注を参照されたい。

「神仙傳」四世紀初めの晋(三一七年~四二〇年)の道士にして神仙道研究家であった葛洪(二八三年~三四三年:江南の貴族の出身)の著になる仙人の伝記集。全十巻。同人の名著道学書「抱朴子」(三一七年)と並ぶ、中国史上、最も重要な仙人伝で、広成子(こうせいし:古代の伝説的仙人)・老子以下 九十二名の神仙の道を極めたとされる人物及び伝承上の架空人物の伝記を収める。本書は理論書である「抱朴子」と表裏を成すもので、神仙の歴史的存在性を証明することと、先行する同種の書である劉向 (りゅうきょう) の「列仙伝」を補うことを目的として、仙書・諸子の書及び伝説を集めて著わしてある。但し、「漢魏叢書」や「説郛(せっぷ)」などの叢書に収められてある、現在、我々が読んでいるものは、葛洪と同時代の郭璞 (かくはく) の伝が入っていることなどから、後世の改編と考えられている。以下の引用は、巻九の「介象」の一節。介象は会稽出身の道士。邪気禁圧の術を得意とし、市中の人を総て座ったままで動けないさせたり、身を隠して草木鳥獣に変ずるなど、様々な仙術を使うことができた。三国時代の呉の初代皇帝孫権(一八二年~二五二年/在位:二二九年~二五二年:劉備と連合して曹操の南下を食止めた「赤壁の戦い」で知られる覇王)がいたく気に入り、かなり長い間、彼の元で厚遇されている。これはその中の一節であるが、あまりに部分的で「神仙伝」の趣がない。表記の関係から、「太平御覧」(北宋・九七七年~九八四年)の「飲食部二十」の「膾」に「神仙伝」からとして引くものを示す。

   *

與吳主共論膾魚何者最美、象曰、「鯔魚爲上。」。吳主曰、「論近魚耳、此海中出、安可得耶。」。象曰、「可得耳。」。乃令人於殿庭中作方坎、汲水滿之、幷求釣。象起餌之、垂綸於坎中、不食頃、果得鯔魚。吳主驚喜、問象曰、「可食否。」。象曰、「故爲陛下取以作生、安敢取不可食之物。」。乃使廚下切之。吳主曰、「聞蜀使來、有蜀姜作齏甚好、恨時無此。」。象曰、「蜀姜豈不易得。愿羌所使者幷付直。」。吳主指左右一人、以錢五十付之。象書一符、以著靑竹杖中、使行人閉目騎竹、竹止便買姜、訖、復閉目。此人承其言、騎竹、須臾已至成都、不知是何處、問人、人言蜀市、乃買姜。于時吳使張溫先在蜀、既於市中相識、甚驚、便作書寄其家。此人買姜畢、投書負姜、騎杖閉目、須臾已還到吳、廚下切膾亦適了。

   *

所持する平凡社「中国の古典シリーズ4 抱朴子 列仙伝・神仙伝 山海経」の沢田瑞穂先生(この方の著作は好きで多く所持している)の訳を引用する。

   *

 また呉王が、膾(なます)にする魚は何が最も美味(うま)いかということについて話しあったとき、介象は、「鯔(ぼら)の膾が最上です」と答えた。「いや、この近辺の魚についていっているのだ。あれは海でとれるもので、手に入るはずがない」と呉王がいった[やぶちゃん注:呉はが長江流域にあったが、首都は建業(現在の南京付近)で完全な内陸であった。]。すると介象は、「手に入りますとも」といって、戸前の庭に方形の穴を据らせ、それに水をいっぱい汲み入れさせた。そして釣鈎(つりばり)を請い受けると、介象は立ち上がってそれに餌をつけ、釣糸を穴に垂れた。しばらくすると鯔が釣れたので、呉王は驚喜して、「それは食べられるのか」と訊いた。「わざわざ陛下のために釣って膾にしようとしたものゆえ、食べられぬ物を釣るはずがござりましょうか」といって、台所へやって緋調理させることにした。

 呉王がいった、「蜀(しょく)からきた使者のいうには、蜀の生薑(しょうが)を刻んでヷ(あえ)ると、まことに美味(うま)いとのことであるが、こんな時にそれがないとは残念至極じゃ」すると介象が、「蜀の生薑を手に入れるくらい、わけはありませぬ。どうか使者に代金を渡してお差し遣わし願いたい」といったので、呉王は近習(きんじゅう)の一人を指名し、それに銭五十文を渡した。

 さて介象は一通の護符を認(したた)めると、これを青竹の杖の中に納め、使者には目を閉じて杖に跨(またが)らせ、杖が止まったところで生薑を買い求め、それが済めば再び目を閉じるように指示した。使者は教えられたとおり杖に跨ると、しばらくして止まった。見ると、すでに成都(せいと)に着いていたが、それが何処(どこ)だかわからない。人に訊ねて、やっとそれが蜀の市中であることを知ったので、生薑を買いととのえた。

 そのころ、呉の使者の張温(ちょうおん)というものが先に蜀にきていたのであるが、市中で出遇ってびっくりし、手紙を書いて、自分の家に届けてくれと託(ことづ)けた。使者は生薑を買ってしまうと、手紙をもち生薑を背負い、杖に乗って目を閉じると、程なく呉に帰り着いた。おりしも合所では魚を膾(なます)に刻み終ったばかりであった。

   *

なお、沢田先生は補注で、『膾にする魚を釣る話および生薑を蜀に買いにゆく話は、『後漢書』一一二左慈伝では、魏の曹操と左慈とのことになっている』とある。私もそちらで先に知っていた。

「ぼら」「いな」後者が成魚でも若いやや小さなものである。一般に「ボラ」の出世名は、

 「ハク」(約2㎝~3㎝)「シギョ」

   ↓

 「オボコ」「スバシリ」(約318㎝)「エブナ」

   ↓

 「イナ」(約1830㎝)「エブナ」「ナヨシ」

   ↓

 「ボラ」(約30㎝以上)=「クチメ」「コザラシ」

   ↓

 「トド」(特に大型の個体)

の順で、関東では一般には、「オボコ」→「イナッコ」→「スバシリ」→「イナ」「ボラ」→「トド」である。

「撥尾(いな)」ボラは成魚になると、尾で強く水面を叩いて飛び上がる習性がある(理由は不明。体表の寄生虫を除去すいるためとも言うが、怪しい)ことによる漢字表記。

「子魚〔(しぎよ)〕」『一名「鯔魚〔(しぎよ/なよし)〕」』音を別字で示したもの。孫権絡みであるから、「君子魚」の意味を込めたものとも思われる。

『「すばしり」は「いな」より、大〔なり〕』不審。これは現行のそれとは反対である。但し、これらの出生名には地方によってブレ(前後の入れ替え)があるので、当時の福岡ではそうであったものかも知れない。]

芥川龍之介書簡抄41 / 大正四(一九一五)年書簡より(七) 井川恭宛

 

大正四(一九一五)年七月十一日・田端発信・井川恭宛(転載)

手紙はうけとつた 早くと云ふ事だけれど 今月の末までは手のぬけない仕事がある それからでよければ早速ゆく 醫者にきいたら 日本中ならどこへでもゆくがいゝと云ふ事であつた 僕自身から云つても大分行つてみたい 今 かなり忙しくくらしてゐる 本もろくによめない ごくprosaic な用があるのだから困る

三並さんが小腦をいためて三學期中學校をやすんでゐた 今月末から諏訪へゆくさうだ

藤岡君はプラトン全集を懷にして御獄へ上つた

成瀨はローレンスに落されたので 奮然として信州白骨の溫泉へ思索にゆくさうだ

 

但馬の何とか溫泉は大へんよささうな氣がする そこでぼんやり一日二日くらして それから「やくもたつ出雲」へはいりたい「いづも」とかなでかいてみてゐると國中もぢやもぢやした毛が一ぱいはえてゐさうな氣がする 僕の「いづも」と云ふ觀念は甚あいまいである だから期待の大小によつて 印象を損はれやうとは思はれない 之に反して石見となると「つぬしはふ」と云ふ枕詞が災して 國中 一枚の岩で出來上つてゐてその上にやどかりがうぢやうぢやはつてゐるやうな氣がする 何にしても 縹渺としてさう云ふ遠い所へゆくんだと思ふと變な心もちがする 第一途中にあるトンネルと陸橋が少し氣になる 陸橋から汽車が落ちたら大へんだね 八十もあるトンネルだからその中の一つ位は雨がふるとくづれるかもしれなからう さう思ふと心ぼそい 一體江戶つ子と云ふものは 旅なれないものだからね

出まかせに詩をかく

      I

   こゝあはれはドンホアン

   紅いマントをひきかけて

   ひるはひねもすよもすがら

   市をひそひそあるきやる――

   市のおと女は窓のかげ

   戶のうしろからそつとみて

   こはやこはやとさゞめけど

   一どみそめた面ざしは

   終(つひ)の裁判(さばき)の大喇叭

   なりひゞくまでわすられぬ――

   こひとおそれの摩訶不思儀

 

   ドミニカ法師の云ふことにや

   羊の趾爪(けづめ)犬の牙

   地獄のつかひ惡魔(デアボロ)が

   紅いマントの下にゐて

   市のおと女を一人づゝ

   こひの彈機(はぢき)につりよせる――

   こゝにあはれはドンホアン

   心もほそく身もほそく

   ひるはひねもすよもすがら

   市をひそひそあるきやる――

   こひとおそれの摩訶不思儀--

 

      Ⅱ

   月輪は七つ

   日輪は十一

   その光にてらされて

   のそのそとあるいてく

   きりん 白象 一角獸

   地にさくのは百合と牡丹

   空にとぶのは鳳凰 ロック サラマンダア

   山は 靑い三角形をならべ

   その下に弓なりの海

   海には 金の雲が下りて

   その中にあそぶ赤龍白龍

   岸には 綠靑の栴檀木

   その下にねころぶパン人魚セントオル

   月輪は七つ

   日輪は十一

   荒唐の國のまひるを

   のそのそとあるいてく

   東洋は日本の靑年

 

      Ⅲ

   われは今桃花心木の倚子の上に

   不可思儀の卷煙艸をくゆらす

   その匂と味とは ものうき我をかりて

   あるひは 屋根うらのランプの下に

   あるひは ノオトルダアムの石像の上に

   あるひは 若葉せるプラターヌの

   ほのかなる木かげの上に(そとをゆくパラソルをみよ)

   あるひは 穗をぬける蘆と蘆薈と

   そことなくそよげる中に(そこになるタムボリンをきけ)

   あるひは ヘロヂアスの娘の饗宴に

   あるひはジアンダルクの火刑に

   ほしいまゝなる步みをはこばしむ

   不可思儀の卷煙艸をくゆらすとは

   わがオノーレ ド バルザックの語なり

                    龍

  井 川 君

 

[やぶちゃん注:前に一度注したが、この「転載」というのは、角川書店版「芥川龍之介全集別巻」からのそれである。既に述べた通りで、これも一度、『芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「十三」――注にて芥川龍之介井川恭宛書簡五通を電子化(龍之介作戯詩含む)――』で電子化しているが、今回は読み込みから総てゼロから起こしてある。

「今月の末までは手のぬけない仕事がある」新全集の宮坂覺氏の年譜の同年七月の頭に、『この月、第四次「新思潮」の刊行資金を工面するため、久米正雄、松岡譲、菊池寛』(当時は京都帝大文学部英文学科本科二年生)『らと分担して翻訳することを決める』。『月末の締切で、約百五十枚を引き受けた』というのがその顕在的な「仕事」の内容である。一九九二年河出書房新社刊の鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」によれば、その翻訳とは、ロマン・ロランの「トルストイ伝」であり、『本は成瀬正一訳として』この翌年の対象『五年三月、新潮社』から刊行され、『雑誌発刊にはその印税をあて、以後は会費制とした』とある。この翻訳のことは次の井川宛書簡(後日電子化する)の冒頭にごく手短かに記されてある。また、他にも、『この月、新原得二の受験勉強の世話をするため、二週間ほど芝の新原家に滞在する』とある。偶然ではあろうが、芝は通院にも近く、都合がよかったに違いない。また、更に別件もあって、七月二十三日には実は翌大正五年八月一日発行の第四次『新思潮』に発表する「仙人」を早くも脱稿しているのである。しかも、この作品、典拠をアナトール・フランスの「聖母の軽業師」に採り、舞台を昔の中国としたものであるが(「青空文庫」のここで読めるが、新字新仮名である)、かの「羅生門」(現在、最初期草稿執筆はこの大正四年中と推定されている)のための習作ともされる作品なのである。則ち、弥生との破恋をバネとして、まさに彼がそこで周囲に感じた「人間の中のエゴイズム」を主題とした具体的な小説創作への蠢動が、いやさかに燃え上がる前夜が、ここに既にあったのである。

「prosaic」散文的・殺風景な・面白くない。

「三並さん」龍之介と井川の共通の恩師である一高のドイツ語嘱託教師であった三並良。既出既注

「藤岡君」複数回既注の、一高以来の共通の友人で後の哲学者藤岡蔵六。

「御獄」「御嶽」(おんたけ)の誤りであろう。

「ローレンス」既出既注

「信州白骨の溫泉」長野県松本市安曇(あづみ)にある白骨(しらほね)温泉(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

『但馬の何とか溫泉は大へんよささうな氣がする そこでぼんやり一日二日くらして それから「やくもたつ出雲」へはいりたい』『芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「十三」』の本文出るように、龍之介は恐らく井川に勧められたのであろう、かの城崎温泉で二泊して松江に入った。なお、龍之介が、終生、畏敬した志賀直哉の名篇「城の崎にて」は、この二年後の発表されたものである(大正六(一九一七)年五月・白樺派同人誌『白樺』)。但し、志賀に関わって数奇な体験は松江であった。龍之介は松江に十六日も滞在したが、井川はそのために自分の実家に近い家を借りた。である。ところが、この家は前年の大正三年に作家志賀直哉が三ヶ月程滞在した家であり、志賀の小説「堀端の住まひ」の舞台でもあったのである。これは井川の特別な配慮によるものではなく、全くの偶然であったとされるが、まさにここで芥川は、松江の印象記を書いた。そしてそれを、龍之介に逢う以前から既にして山陰文壇の常連であつた井川が、予てより自分の作品発表の場としていた地方新聞『松江新報』に芥川来遊前後を記した随筆「翡翠記」を連載、その中に「日記より」という見出しを付けた芥川龍之介名義の文章を、三つ、離れて掲載したのであった(後にこれらを合わせて「松江印象記」として昭和四(一九二九)年二月岩波書店刊の第一次元版と通称する「芥川龍之介全集」の最終配本となった「別册」で公開された。従って、現在の「芥川龍之介全集」に作品の一つのように載っている「松江印象記」という日記或いは随想の題名は芥川龍之介自身によるものではないのである)。私は既にブログ・カテゴリ「芥川龍之介」で、二十六回分割で『井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む)』を、さらにサイト版『芥川龍之介「松江印象記」初出形』も公開している。

『「いづも」とかなでかいてみてゐると國中もぢやもぢやした毛が一ぱいはえてゐさうな氣がする 僕の「いづも」と云ふ觀念は甚あいまいである だから期待の大小によつて 印象を損はれやうとは思はれない 之に反して石見となると「つぬしはふ」と云ふ枕詞が災して 國中 一枚の岩で出來上つてゐてその上にやどかりがうぢやうぢやはつてゐるやうな氣がする 何にしても 縹渺としてさう云ふ遠い所へゆくんだと思ふと變な心もちがする 第一途中にあるトンネルと陸橋が少し氣になる 陸橋から汽車が落ちたら大へんだね 八十もあるトンネルだからその中の一つ位は雨がふるとくづれるかもしれなからう さう思ふと心ぼそい 一體江戶つ子と云ふものは 旅なれないものだからね』久しぶりに陽性の悪戯っ子っぽい龍之介の笑顔が見える! 座布団二枚!! なお「つぬしはふ」はママ。「つのさはふ」が正しい。「いは(岩・石)」「石見(いはみ)」「磐余(いはれ)」などに掛かる枕詞であるが、原語義や掛かる理由も未詳とされるが、一説に、「つの」は「綱」と同義で、「蔦(つた)」を指し、「蔦さ這ふ」ところの「岩」からというのは、私は違和感なく受け入れられる。

「こゝあはれはドンホアン」「ゝ」の右手に底本編者によるママ注記が打たれてある。確かにちょっと躓かないでもない。「こはあはれドンホアン」と勝手に脳内で文字を組み替えてしまった私がいるが、第二連七行目の「こゝにあはれはドンホアン」の龍之介の誤脱字である。「ドンホアン」は好色の姦計ドン・ファン(スペイン語:Don Juan)。当該ウィキをどうぞ。無論、自己をカリカチャライズしたもの。

「不思儀」ママ。芥川龍之介の書き癖。

「ドミニカ」ドミニコ会の創設者にしてカトリックの聖人でスペイン生まれの「グスマンの聖ドミニコ」(ラテン語:Dominicus/Dominico/スペイン語名:ドミンゴ・デ・グスマン・ガルセス(Domingo de Guzmán Garcés 一一七〇年~一二二一年)をカリカチャライズしたか。そもそも‘domingo’はスペイン語で「安息日」の意である。

「惡魔(デアボロ)」「デアボロ」はルビ。スペイン語で‘Diablo’(ディアブロ)は「悪魔」の意。ボローニャの方言ではディアベル(diavel)。

「彈機(はぢき)」バネ。発条(ぜんまい)。機械仕掛けの如き巧妙な誘惑って感じか。

「月輪」私が「がちりん」と読みたくなるが、まあ「げつりん」だろう。所謂、太陽や月にかかる淡い光の輪である「ハロ」(halo)・暈(かさ)・円光・光暈(こううん)で、それが七重・十一重に掛かるということか? しかし「七」と「十一」の命数は不明。識者の御教授を乞う。「Ⅰ」の最終行「東洋は日本の靑年」からは、龍之介が、新たに、ある種の聖なる光りに導かれて行く自分自身を擬えているようにも見える。

「ロック」ロック鳥(ちょう)。原語はペルシア語で、英語では‘roc’。中東・インド洋地域の伝説に登場する巨大な白い鳥。三頭のゾウを持ち去って巣の雛に食べさせほど、大きく、力が強い怪鳥と。「ルフ」とも呼ばれる。当該ウィキをどうぞ。

「サラマンダア」サラマンダー(ラテン語:salamandra/英語:salamander)は四大精霊の内で「火」を司る神獣・精霊・妖精(elementals)。サラマンドラ。手に乗る位の小さなトカゲもしくはドラゴンのような姿をしており、燃える炎の中や溶岩の中に住んでいるという。当該ウィキをどうぞ。

「栴檀木」「せんだんぼく」。ムクロジ目センダン科センダン Melia azedarachの別名。別名、楝(おうち)。五~六月の初夏、若枝の葉腋に淡紫色の五弁の小花を多数、円錐状に咲かせる(ここから「花楝」とも呼ぶ)。因みに、「栴檀は双葉より芳し」の「栴檀」はこれではなく全く無縁の異なる種である白檀の中国名(ビャクダン目ビャクダン科ビャクダン属ビャクダンSantalum album )なので注意(しかもビャクダン Santalum album は植物体本体からは芳香を発散しないからこの諺自体は頗る正しくない。なお、切り出された心材の芳香は精油成分に基づく)。これはビャクダンSantalum album の原産国インドでの呼称「チャンダナ」が中国音で「チャンタン」となり、それに「栴檀」の字が与えられたものを、当植物名が本邦に伝えられた際、本邦の楝の別名である現和名「センダン」と当該文字列の音がたまたま一致し、そのまま誤って楝の別名として慣用化されてしまったものである。本邦のセンダン Melia azedarach の現代の中国語表記は正しく「楝樹」である。グーグル画像検索「楝の花」をリンクさせておく。但し、ここでは明らかに聖なる異界のそれであり、他との並列を考えれば、仮想された実在しない芳香栴檀様の香りを放つ神仙の聖木(せいぼく)ととるべきである。芥川龍之介は晩年の詩稿でもこの実在する方の木を登場させている。私のサイト版芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯 澄江堂遺珠 Sois belle, sois triste.、或いは、ブログ版「やぶちゃん版「澄江堂遺珠」関係原資料集成Ⅳ ■3 推定「第二號册子」(Ⅱ) 頁12~34」を参照されたい。]

「パン」ギリシア神話に登場する牧人と家畜の神。神パーン(ラテン文字転写:Pān)。半獣神サテュロス(ラテン語:Satyrus)と同じく四足獣のような臀部と脚部及び山羊のような角に顎鬚を蓄えた獣神。山野を走り回っては好んで笛を吹く。好色で酒好きの暴れ者。

「人魚」ここのそれは西洋のマーメイド。

「セントオル」ギリシア神話に登場する半人半獣の種族ケンタウロス(ラテン語: Centaurus)馬の首から上が人間の上半身に置き換わったような姿をしている。パーンやサテュロスと同じような属性を持つが、中には出自の異なる知的な者もおり、医学の祖とされるケイローンやアスクレーピオスなどは賢者にして不死とされる。

「荒唐」「くわうたう(こうとう)」。「荒」も「唐」も「大きくて広いこと」の意。ここはそのままの意。なお、転じて「荒唐無稽」のように「言うことに根拠がなく、とりとめのないこと」の意で用いることの方が多い。

「桃花心木」ムクロジ目センダン科マホガニー属 Swietenia のこと。センダン科の常緑大高木。高さ約三十メートルになる。葉は羽状複葉。夏に黄緑色の花を咲かせ、卵形の実を結ぶ。材は紅黒色で堅く、磨くと、光沢が出るので、高級家具材などにする。北アメリカのフロリダ・西インド諸島の原産。龍之介も「マホガニイ」或いは「マホガニー」と読んでいる可能性が甚だ高い。

「プラターヌ」フランス語‘Platane’で、ヤマモガシ目スズカケノキ科スズカケノキ属スズカケノキ Platanus orientalis 。属の学名である「プラタナス」と呼ばれることが多いが、本邦で見かける「プラタナス」は、本種よりもスズカケノキ属モミジバスズカケノキ Platanus × acerifolia であることの方が多い。以前の電子化した書簡では「プランターン」「プランターヌ」と音写を誤っていたが、ここは正しい。

「蘆薈」「ろくわい(ろかい)」で、単子葉植物綱キジカクシ目ススキノキ科ツルボラン亜科アロエ属 Aloe のアロエのこと。但し、「蘆」との並置からこれは「アロエ」とは読んでいないと思われる。

「タムボリン」タンバリン(tambourine)。

「ヘロヂアスの娘の饗宴」不詳。一つ思いつくのは、古代イスラエルの領主(在位:紀元前四年~紀元後三九年)ヘロデ・アンティパス(紀元前二〇年?~?)で、彼は洗礼者ヨハネを処刑したことで知られるが、共観福音書に於いてはその理由を、存命中の兄弟の妻であったヘロディア(これは別表記で「ヘロディアス」とも呼ぶ)を妻に迎えたことををヨハネに非難されたからとする。この「娘」が「妻」だったならば、それで腑に落ちるのだが。他にヘロディアス(Herodias)は中世ヨーロッパの幾つかの文献で言及されている、夜に騎行する女たちが従う女神又は神話的女性の多様な名の一つであるが、これでは「娘の饗宴」の部分が説明不能となってしまう。やはり前者か。

「オノーレ ド バルザック」フランスの近代リアリズム小説の代表者オノレ・ド・バルザック(Honoré de Balzac 一七九九年~一八五〇年:「ド・バルザック」の「ド」は貴族を気取った自称)。当初、パリで法律を修めたが、文学を志して小説・戯曲を乱作した。一方で、さまざまな事業を興したものの、孰れも失敗して膨大な借金を背負い、これを賠償すべく決意も新たに初めて本名で書いた小説「梟(ふくろう)党」(Les Chouans :一八二九年)で認められる。以後、驚異的な多作ぶりを発揮し、「ウジェニー・グランデ」(Eugénie Grandet :一八三三年)・「絶対の探求」(La recherche de l’absolu :一八三四年~一八三五年)・「ゴリオ爺さん」(Le Père Goriot :一八三五年)などの傑作を次々と発表した。その間にも、新聞経営や土地投機を試みたり、代議士に立候補したりするが、またしても悉く失敗している。その後、欧州各地を旅行し、やがてジャンル群『人間喜劇』(La Comédie humaine :一八三一年~一八五〇年)という壮大な構想を発案して、「谷間の百合」(Le Lys dans la vallée :一八三六年)・「幻滅」(Illusions perdues:一八三七年~一八四三年)・「従妹ベット」(La cousine Bette :一八四六年)・『従兄ポンス或いは二人のミュジシャン』(Le cousin Pons ou les deux musiciens :一八四七年)などの著名な作品を書いた。しかし、長年に亙る心身の酷使のため、一八五〇年に十八年来の恋人であったハンスカ夫人と結婚して間もなく、亡くなった。生涯に渡って負債には悩まされ続けた。「小説の天才」・リアリズム小説の祖とされると同時に、悪徳から神性に至る人間社会の全的世界像を創造しようとした偉大なる「幻視家」(ボードレール評)としても評価されている(以上は主文を平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。

「語」これは「こと」と読みたい。]

2021/04/21

譚海 卷之四 越中國一村平氏子孫住居の事

 

○越中國に一村平家の餘類ばかり住(すめ)る所あり、其村の人俗名なし、今に名乘(なのり)をもつて稱する事なり。加賀守殿へ每年目見(めみ)へする時も、みな名乘をもちて謁する事也。重の字をなのる人多し、此村無役にて只(ただ)守(かみ)の乘馬の老(おい)たるを預け給はりて、飼(かひ)たつる事を勤(つとむ)る斗(ばか)り也とぞ。

[やぶちゃん注:越中五箇山(ごかやま)のこと。現在の富山県南西端に位置する南砺(なんと)市の旧・平(たいら)村と旧・上平村と旧・利賀(とが)村の三村を合わせた地域を指す。ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)。「譚海 卷之一 越中國五箇莊の事」の冒頭注参照。

「名乘」職業上など特別な用途のためにつけた本名以外の名や号。私は大学時分、五箇山の合掌造りの旧家羽馬家に泊まったことがあるが、羽馬(はば)姓は多く、概ね、住んでいる場所の地形などを添えて「~の羽馬」と名乗っておられたのを思い出す。

「重の字をなのる人多し」現在もそうかどうかは不明。

「たつる」「養う」の意であろう。]

只野真葛 むかしばなし (28)

 

「母樣の歌は、三島などは、殊に、ほめたりし。」

と、父樣被ㇾ仰し。書とめなども、なし。

○「春月おぼろなり」といふ題にて、

  名殘なく曇なはてそ月影のかすむは春のならへなりとも

といふ歌ばかり、いかがしてか、今も、おぼへたり。

[やぶちゃん注:「三島」江戸日本橋の幕府御用の呉服商にして国学者・歌人・能書家としても知られた三島自寛(享保一二(一七二七)年~文化九(一八一二)年)。本名は景雄。既出既注。]

大和本草附錄巻之二 魚類 かはごふぐ (イトマキフグ或いはハコフグ)

 

カハゴフグ 形如河魨魚長サ口ヨリ尾マデ八寸五分バカ

リ目ヨリ尾サキマテ左右ニカド有故ニ背ハ平ナリ其

形方也口ノ下ノヒレキハニイキ出シ左右ニアリ遍身

褐色有花紋花紋ノ色白シ腹ハ淡白ニシテ花紋ア

リ口小ナリ腹ノ内膓少クシテ空虛ナリスベテ肉ナク

骨ナシ尾ノミ有肉尾ハ別物ヲツギテ挾メルカ如シ

後門ハ甚小也針ヲ入ルホドアリ是スヾメブク[やぶちゃん注:ママ。]ノ類異

魚ナリ圖ハ別ニ載タリ

○やぶちゃんの書き下し文

かはごふぐ 形、河魨魚〔(ふぐ)〕のごとく、長さ、口(くち)より尾まで、八寸五分ばかり。目より尾さきまで、左右に「かど」有り。故に背は平〔(ひらた)〕なり。其の形、方なり。口の下のひれぎはに「いき出し」、左、右にあり。遍身、褐色。花紋有り。花紋の色、白し。腹は淡白にして花紋あり。口、小なり。腹の内、膓、少(すくな)くして、空虛なり。すべて、肉、なく、骨、なし。尾のみ、肉、有り。尾は、別物をつぎて挾(はさ)めるがごとし。後門は甚だ小なり。針を入〔(いる)〕るほど、あり。是れ、「すゞめぶく」の類〔にて〕、異魚なり。圖は別に載せたり。

[やぶちゃん注:サイズが「八寸五分」=二十五・七センチメートルとデカ過ぎるのがかなり気になるが、叙述内容はちょっと見には概ね、

フグ目フグ亜目イトマキフグ(糸巻河豚)科イトマキフグ属イトマキフグ Kentrocapros aculeatus

に同定出来るとも言えなくはない。当該ウィキによれば、『相模湾以南から東シナ海にかけて分布する。ハワイからも報告がある』。『砂泥の海底付近を遊泳して生活する底生魚で、分布水深は100-200mとやや深い』。『体は六角形の断面をもち、体長13-15cmほどに成長する。体は硬い甲板で被われる。尾鰭の主鰭条が11本であること(ハコフグ科は10本)、臀鰭の軟条数が10-11本であること(ハコフグ科は8-9本)、背鰭と臀鰭の後方には甲板が達しないことなどから、ハコフグ科と鑑別される。肉は無毒であるが、食用として利用されることはない』とある。

 食用にされないというのは、あらゆるネット記載で一致しており、そのためであろう、皮の毒性への言及はない。しかし、形の似ているフグ目モンガラカワハギ亜目ハコフグ上科ハコフグ科 Ostraciidae は一般的にフグ毒として知られているテトロドトキシン(tetrodotoxin)は持たない代わりに、皮に溶血性の神経毒パフトキシン(Pahutoxin)を持ち、個体によっては内臓に海産毒として悪名高い猛毒パリトキシン(palytoxin)に似たものを蓄積している。イトマキフグの皮にバフトキシンがないとは言えず、フグ類に共通する摂餌生物由来の毒がイトマキフグの内臓にないとも断言は出来ないので、一応、注意喚起はしておく。

 しかし、ここからがまた、問題なのだ。何故わざわざ、かく書いたというと、やはり大きさが不審だからである。ハコフグ類は辞書によって大きさがまちまちで、最大で四十センチメートル内外(「ブリタニカ国際大百科事典」)、最小で十五センチメートル内外(平凡社「百科事典マイペディア」)、小学館「日本大百科全書」で中をとって三十センチメートルに達するとあり、益軒のサイズに相応しい。さらに言えば、私の『毛利梅園「梅園魚譜」 ハコフグ』では、『皮籠海豚(カハゴフグ)』を標題とし、異名で『ハコフグ』を挙げており、絵を見れば一目瞭然、それは、

フグ目ハコフグ上科ハコフグ科ハコフグ属ハコフグ Ostracion immaculatus

以外の何者でもないのである。そして、ハコフグ派に寄って立って改めて益軒の叙述を見ると、「花紋」というのは、寧ろ、ハコフグ科 Ostraciidae の方に遙かに分(ぶ)がある(華麗な「花紋」という意味に於いて)叙述として見えてくるのである。

 しかし、だ。ハコフグだったら、食えるし、内臓はからっぽじゃないぞ?! う~ん……悩ましい!

「かはごふぐ」最後に「圖は別に載せたり」とある通り、「附錄卷」の図があるが(国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像。右頁下段。この巻は後に画像を添えて電子化する)、そこの標題に「皮籠海豚(カハゴフク)」(「海豚」はママ)とある。「皮籠」は革籠とも書き、竹や籐などで編んだ上に動物の皮革を張った蓋附きの籠(かご)を指す。後には紙張りした箱や行季(こうり)なども指した。小学館「日本国語大辞典」にも『「いとまきふぐ(糸巻河豚)」の異名』として載る。しかし、おかしい。そこで例として引用するのは、本書の後代の小野蘭山の「本草綱目啓蒙」の記載で(執筆動機の一つは本「大和本草」の誤りが多いことを指弾するだめとも言われている)、同四十八巻本の第四十巻「無鱗魚」の「河豚」はここからなのだが(国立国会図書館デジタルコレクション)、この箇所の左頁八行目から載るものの、そこで小野は、『一種カハゴフグ、一名ハコフグ 海スヾメ【阿州】 サメブクトウ【土州】』(以下略)とやらかしていて、どこにも「イトマキフグ」とは言っていなのだ。以下の記載はイトマキフグともハコフグともとれる内容であり、後者ならば、明らかな誤りである。私は天下の「日本国語大辞典」の載せる例としては、甚だ不適切であると思うのである。さて。よくその絵を見てみよう。

この附録の絵は「イトマキフグ」と「ハコフグ」と、どっちに、似ているか?

参考にするために、グーグル画像検索のKentrocapros aculeatus と、Ostracion immaculatus をリンクさせておく。イトマキフグは生体時は体躯の前後がハコフグに比して遙かに寸詰まっている。ここでも「ハコフグ」に分があるのである。

「河魨魚〔(ふぐ)〕」中国語。現在も同じ。「維基文庫」のこちらを参照。

「其の形、方なり」これは寸詰まっているだけ、今度は「イトマキフグ」に分がある

『口の下のひれぎはに「いき出し」、左、右にあり』「ひれぎは」は「鰭際」。「いき出し」は鰓孔のこと。「口の下」に胸鰭が近く、その前方に鰓孔があるという謂い方は、同前で、「イトマキフグ」に分がある

「花紋の色、白し」これは孰れも当たらない不審の特異点。

「腹は淡白にして花紋あり」これはハコフグに超有利。イトマキフグの背甲殼様部分は背鰭の起部後端辺りまでしか覆われていないで腹は真っ白で模様はないの対し、ハコフグ類は背鰭よりも後ろまで覆われているからである。

「尾は、別物をつぎて」(接ぎて)「挾(はさ)めるがごとし」これは観察者の印象によって異なる。「人工的にくっ付けたようだ」というと、ハコフグの方がそれらしく見えるが、しっかり寸詰まっている体に「チョコン!」出ているイトマキフグの尾もそう見えてくる。

「後門」肛門。

「すゞめぶく」現行では「スズメフグ」はフグ目フグ亜目フグ科トラフグ属ショウサイフグTakifugu snyderi の異名としてあるが、私は直ちに、ハコフグ科コンゴウフグ属ウミスズメ Lactoria diaphana を想起する。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページをリンクさせておく。但し、だからと言ってハコフグに有利とは言えない。これは「箱みたようなフグ」のことに違いなく、ならば、寧ろ、よりキューヴィクなイトマキフグの方がそれらしいからである。]

大和本草附錄巻之二 魚類 ぬめりごち (ネズッポ科或いはヌメリゴチ・ベニテグリ)

 

ヌメリゴチ 水フキノ兩ワキニ針二アリ○シヽゴチ色赤シ

頭ニイラサ有長四五寸アリ

○やぶちゃんの書き下し文

ぬめりごち 水ふきの兩わきに、針、二つあり。

○しゝごち 色、赤し。頭に「いらさ」有り。長さ四、五寸あり。

[やぶちゃん注:種としてなら、スズキ目ネズッポ亜目ネズッポ科ネズッポ属ヌメリゴチ Repomucenus lunatus を挙げてよい。秋田県以南の日本海側と、福島県から高知県に至る太平洋側、及び、朝鮮半島南岸・西岸に分布する。全体に縦扁(特に頭部が上下から潰されたような平らな形を成す)しており、細長い。釣り上げると、体表全面の皮膚から多量の粘液を出し、ヌルヌルしていることから、この和名となった。ネズッポ科 Callionymidae の最大の特徴は、上向に開いた小さな鰓孔の前鰓蓋骨に、大きくて強い棘があることであり、これが相似種の比較同定にも用いられ、ある種では交尾の際に相手を引っ掛ける鉤として使用するものあるという(引っ掛けると結構、痛い。私自身、手の甲を切って出血したことがあるので注意が必要)。♂は第一背鰭の第一棘が糸状に長く伸び、第四鰭膜の後端に半月形の黒斑を有する。尻鰭全体が黒い。成熟した♂には明瞭な生殖突起が確認出来る。♀の第一背鰭はどの棘も伸びず、一様に黒色を呈する。尻鰭の縁辺部が白い。産卵の際には雌雄各一尾で特定の行動をとるとされている。ネズッポ科の共通属性として、小型の甲殻類・多毛類などを摂餌するが、砂中に潜り込む習性はないようである。あまり大きくならず、概ね成体でも二十センチメートルほどの個体が多い。「ネズッポ」とも呼び、それを正式和名として載せる書籍やサイトが多いが、正規の魚類学論文で「ヌメリゴチ」を採用しているものが確認出来た岩坪洸樹・目黒昌利・本村浩之氏共著「鹿児島湾から得られたネズッポ科魚類 2 種チビヌメリ Paradiplogrammus curvispinnis とヌメリゴチ Repomucenus lunatus の南限記録PDFNature of Kagoshima Vol. 39, Mar. 2013)ので「ヌメリゴチ」を採る。広く「ネズッポ」はネズッポ科の海産魚の総称、或いは、同科の複数種の地方名として汎用されてはいる(同科の種は世界で百八十種以上、本邦だけでも三十八種が分布する。多くの種は沿岸の海域に見られるが、一部に淡水や汽水域を棲息域とする種もある)。さても。本種は私はキス釣りの外道としてよく知っている。ヌメリと臭みが仕掛けに附着するので嫌う釣り人が多いが、私は天ぷらや味噌汁にしたら、シロギスなどより遙かに美味いと感ずる好きな魚である。そうしたある程度まで共通した属性生態と奇顔とでよく知られているためか、ネズッポ科の総称には地方名・異名が非常に多い。鹿児島で「ゴツババ」「シックイ」、福岡で「メゴチ」(これと「ネズミゴチ」は他の地方でも広く用いられているが、これはネズッポ類で最も高価に取引されるネズッポ属ネズミゴチ Repomucenus curvicornis がいること、さらに「メゴチ」は全く無縁――「形状がちょっと似ている」と言う人もいるが、全然、違う――のスズキ目カサゴ亜目コチ亜目コチ科メゴチ属メゴチ Suggrundus meerdervoortii が正式和名としているので注意)、高知・大阪で「ノドクサリ」、浜名湖で「ネバリゴチ」、富山県新湊で「ベトゴチ」、小名浜で「ニガジロ」など、あまり彼らにとっては有り難くない名が多く、少し可哀そう。

「しゝごち」「色、赤し」とあるところからは、やや深海性のネズッポ科ベニテグリ属ベニテグリ Foetorepus altivelis に比定してよかろう。WEB魚図鑑」の同種を見られたい。そこに『体長17cmに達する』とあり、「長さ四、五寸あり」を体長ととれば、概ね一致をみる。「ししごち」とは「獅子鯒」で、異形の頭部と真っ赤なそれで甚だ腑に落ちるが、この異名は現在は確認出来ない。

「いらさ」「鹿児島弁ネット辞典」のこちらに、「いらさ」は原義は「枝のついた竹」の意とし、『「棘笹(いらささ)」の転訛です。「棘(いら)」とは、古語で「棘(とげ)」のことです』とある。前記「WEB魚図鑑」のリンク先に、本種は第一背鰭の第一棘が『雌雄ともに長く伸びている』とある。]

2021/04/20

芥川龍之介書簡抄40 / 大正四(一九一五)年書簡より(六) 井川恭宛

 

大正四(一九一五)年六月二十九日(推定) 田端から 井川恭宛(転載)

 

井川君

手紙はよんだ 色々有難う 僕はまだ醫者へ通つてゐる 四日目每に田端から高輪迄ゆくんだから大分厄介だ 生活は全然ふだんの通りだがあまりエネルギイがない 體の都合で七月の上旬か中旬迄は東京にゐなくてはいけないだらう それからでよければ出雲へは是非行きたい 尤も醫者にきいて見なければ 確な事はわからないけれど

試驗中は時間を醫者に切られたので大分忙しくてよはつた 十五日にすんだ時はせいせいした その時いゝ加減に字を並べて

   放情凭檻望  處々柳條新

   千里洞庭水  茫々無限春

と書いた それほど 樂な氣がしたのである

桑木さんの試驗には非觀した Begriff の價値と云ふ應用問題が出た この大問題を一頁で論じるのだから苦しい

そのあとですぐロオレンスの試驗があつた Dickens の月給と Dickens の親父のとつてゐる月給とどつちがどつちだかわからなくつて弱つた この前入れるのをわすれたから問題を入れておくる

每日ぶらぶら日を送つてゐる 碌に本もよまない

ジャン・クリストフは矢代君が橫濱から來て ミケルアンジェロやトルストイの一しよに持つて行つてしまつた[やぶちゃん注:「の」はママ。] 一册も今手許には殘つてゐない 矢代君は 桑木さんの試驗にしくぢつたので 銀時計が貰へさうもないつて非觀してゐた 之より先三井君や井上君のやうに二囘特待生になつてゐた人たちが 桑木さんに運動して 試驗にノートを持つてゆく連中と持つてゆかない連中とを拵へる事に成功した 所が桑木さんはノートを持つて行つた連中には大分問題を附加してハンディキャプをつけた そこで矢代君が非觀するやうな事になつたのである 笑止にも氣の毒な氣がする

僕の中學の先生が 僕のうちの近所に住んでゐるが二年許前に奧さんを貰つてからまるで前とはちがつた生活をして日を送つてゐる それをみると輕蔑するより先に自分もあゝなりはしないかと云ふ掛念が先きへ起る 本は一册もよまずものは一切考へず 唯「何と云つても飯を食はなければ」と云ふやうな漠然とした考へを持つてゐるだけでしかもその考を最[やぶちゃん注:「もつとも」。]實人生に切實な思想のやうに考へて すべての學問藝術を閑人の遊戲のやうに考へて 學校ヘ出る事と 菊を作る事とに一日を費して 誰でもいつか一度はさう云ふ考へになると云ふやうな事を仄めかして豫言者のやうに「さう云つてゐられる内が仕合せさ」と云ふやうな事を苦笑しながら云つて その癖全然パンを得る能力しかない人間を輕蔑して 細君に對しては細い事まで神經質に咎め立てゝ 愛することも出來ず 憎む事も出來ず 生ぬるい感情を持つてゐて 自分の生活には感覺の欲望が可成な力を持つてゐる癖に少しでもさう云ふ傾向のある人間の事を惡く云つて 一切の道德と外面的な俗惡な社會的な意味に解釋して 自分は一かどの道德家の如く心得て――血色の惡い奧さんと寒雀のやうにやせた赤ん坊とを見ると不快な感じしか起らない

僕の向ふの家――板倉と云ふ華族だが――では此頃每日 義太夫を語る 非常な熱心家でのべつに一つ所ばかり一週間も稽古するんだが 靜な語り物だといゝが。此頃は累身賣り[やぶちゃん注:「かさねみうり」。]の段で大きな聲で笑ふ所があるんだから耐らない 人爲的な妙な笑ひ聲を 午後一時から午後四時に亘つて每日「あはゝえへゝ」ときかされる 腹が立つがどうにも仕方がない そこへうしろの小山と云ふ畫かきのうちでは小兒が病氣なので 蓄音機をのべつにやる「はとぽつぽはとぽつぽお寺のやねからとんで來い」と云ふ奴を金屬性の音でつゞけさまにやられるのだから非觀だ とにかく鳴物は甚よろしくない

僕の弟が 勉强しすぎて 神經衰弱になりかゝつたのには弱つた 勉强する事は自分の弟ながら 感心する程するが 其割に出來ない事にも又自分の弟ながら 感心する程出來ない 試驗や何かで出來そくなふとしくしく泣き出すんで叔母や何か大分困つてゐる

帝劇で「わしもしらない」をやつてゐる 君の遂によまなかつた釋迦の芝居である 大へんに評判がいゝ 僕は文壇の全體に亘つて 何か或氣運のやうなものが動き出したやうな氣がする 自然主義以後の浮薄な羅曼主義のカッツェンヤムマアももうそろそろさめていい時分だ 何か出さうな氣がする 誰か待たれてゐるやうな氣がする 武者小路が 靴の紐をとく資格もないやうな人間が

こないだ戀愛三昧を見た パアフオーメーションはまるで駄目だがシュニツラアには感心する 人情ものもあゝなると實にいゝ あればかりでは少し心細いが大作のあひまに  Neben werk としてあゝ云ふものを書いてゆけるといいと思ふ ウィンナであの芝居を見たらさぞ面白からう

今更らしい事を云ふやうだが あゝ云ふ芝居をみるとその芝居に直接關係してゐる藝術家がかつた奴が實に癪にさはる その次にはあゝ云ふ芝居へ出る女優の旦那なる物が生意氣千萬な眞似をしてゐる その次に日本の劇曲家は悉くいやな奴である 西洋でも矢張さうかもしれないが

こないだワーグネルを五つ許りきいた 二つばかりよくわかつた トリスタン・ウント・イソルデはいゝな あんなものをかいてバイロイトに總合藝術の temple を建てやうとしたのだと思ふと盛な氣がする

ワーグネルと云へば獨文科の口頭試驗に上田さんがある學生に「君の論文の題は何だい」ときいたら その人が「ヴアハナアです」と云つたさうだ すると上田さんが「こんなえらい人の名前の發音さへさう間違つてる位ぢやあ落第させてもいゝ」と云つて怒つたのでその人が「ぢやあワグナアですか」と云ふと「ちがふちがふ」と云ふ又「ワグネルですか」と云ふと矢張「いかん」と云ふ とうとう「私にはわかりません」と云つたら「よく覺えておき給ヘワアグネルだ」つて敎へたさうだ そこで僕もワーグネルとかく 之は山本文學士にきいた話だ

山宮文學士は豫定通り文部省へ出るさうだ 僕が「何故あんな所へ行くんです」つてきいたら「あゝ云ふ所へ行つてゐると高等學校の口がわかりますしね それに官學に緣故がある 德ですよ 私立の學校へゆくと恩給がありませんからね」と答へた 山宮學士の百年子孫の計を立ててゐるのには驚嘆する外はない

 特に四の第二首に君に捧げて東京をしのぶよすがとする[やぶちゃん注:「第二首に」の「に」はママ。以下の短歌は評番号も含めて全体が三字下げであるが、引き上げた。]

   一

うき人ははるかなるかもわが見守(みも)る茄子の花はほのかなるも

   二

あぶら火の光にそむきたどたどといらへする子をあはれみにけり

庖厨の火かげし見ればかなしかる人の眉びきおもほゆるかも

   三

藥屋の店に傴僂(くぐせ)の若者は靑斑猫を數へ居りけり

   四

うつゝなく入日にそむきおづおづと切支丹坂をのぼりけるかも

流風入日の中にせんせんと埃ふき上げまひのぼる見ゆ

   五

思ひわび末燈抄をよみにけりかひなかりけるわが命はや

これやこの粉藥のみていぬる夜の三日四日(みかよか)まりもつゞきけらずや

 

[やぶちゃん注:実は本書簡以降(旧全集書簡番号で一六五(本書簡)・一六六・一六八・一六九・一七〇(以上は総て井川恭宛)及び松江到着の翌日に養父芥川道章に宛てた一通(一七一)までは、一度、『芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「十三」――注にて芥川龍之介井川恭宛書簡五通を電子化(龍之介作戯詩含む)――』で電子化しているが、今回は読み込みから総てゼロから起こしてある。

「僕はまだ醫者へ通つてゐる 四日目每に田端から高輪迄ゆくんだから大分厄介だ」かかっていた病院が高輪附近にあったようだ。先に示した新全集宮坂年譜の五月に、『中旬 体調を崩す。一時は結核ではないかと心配し、週に二回ほどの通院が翌月末まで続いた』とあるのと一致する。わざわざ遠くまで通院しているところから見ると、思うに、これは北里柴三郎が明治二五(一八九二)年に創設した「伝染病研究所」に、その二年後に附設された元「伝染病研究所附属病院」ではないか? ここはこの翌年の大正五(一九一六)年に「東京帝国大学附置伝染病研究所附属病院」に改められている。現在の東京大学医科学研究所附属病院(グーグル・マップ・データ)で港区白金台であるが、まあ、東で接する高輪と呼んでもおかしくない。

「體の都合で七月の上旬か中旬迄は東京にゐなくてはいけないだらう それからでよければ出雲へは是非行きたい 尤も醫者にきいて見なければ 確な事はわからないけれど」井川が失恋の痛手による芥川龍之介の精神状態を気にかけ、急遽、上京した際、彼の保養を兼ねて強く松江に来ることを慫慂したことは既に注したが、そこで引いた翰林書房刊の「芥川龍之介新辞典」の「松江」の項に、龍之介は『医者と相談し、途中』、『城崎(きのさき)で一泊するということで』、遂に彼の一高以来、井川から聴かされ、念願であった松江行が、この大正四年八月三日午後三時二十分『東京駅発の夜行で出発』することになるのである。

「試驗中は時間を醫者に切られたので大分忙しくてよはつた」ちょっと意味がとり難いが、一日の試験勉強の時間が制限されたという意味か。

「放情凭檻望  處々柳條新  千里洞庭水  茫々無限春」私が勝手に訓読したものは、

 放情 檻(らん)に凭(もた)れ 望めば

 處々 柳條(りふでう) 新たなり

 千里 洞庭の水

 茫々 無限の春

である。「芥川龍之介漢詩全集 附やぶちゃん訓読注+附やぶちゃんの教え子T・S・君による評釈」の「四」を参照されたい。

「桑木さん」哲学者で文学博士の桑木厳翼(くわき げんよく 明治七(一八七四)年~昭和二一(一九四六)年)であろう。帝国大学文科大学哲学科を首席卒業し、大学院に進学、東京専門学校講師・第一高等学校教授・東京帝大文科大学講師・同助教授を経て、明治三九(一九〇六)年に京都帝国大学文科大学教授(これで井川が知っていておかしくない)。大正二(一九一四)年東京帝国大学教授。専門はカントであった。

「非觀」ママ。何度も使っているので彼の当時の慣用語のようである。悲観と同義か、その重いものであろう。

「Begriff」ドイツ語。「ベグリッフ」。概念・観念。語源は「包括する」「把握する」。フランス語‘concept’。

「ロオレンス」既出既注

「Dickens」ヴィクトリア朝時代を代表するイギリスの小説家で、主に下層階級を主人公とし、弱者の視点で社会を諷刺したチャールズ・ジョン・ハファム・ディケンズ(Charles John Huffam Dickens  一八一二年~一八七〇年)であるが、この問題文は彼に就いての評伝か何かか。

「ミケルアンジェロ」前後、孰れもフランスの作家ロマン・ロラン(Romain Rolland 一八六六年~一九四四年)の作品。「ジャン・クリストフ」(Jean-Christophe )が一九〇四年から一九一二年の長編小説で、この「ミケルアンジェロ」は一九〇五年に書かれたイタリア・ルネサンスの名匠ミケランジェロ(Michelangelo)の芸術研究「ミケランジェロ」(Michel-Ange )であろう。但し、彼には翌年に書かれた「ミケランジェロの生涯」(Vie de Michel-Ange )もあるので確定は出来ない。「トルストイ」は、前に注で述べた、一九一一年に書かれた「トルストイの生涯」(La Vie de Tolstoï )である。

「矢代君」後の美術史家・美術評論家矢代幸雄(明治二三(一八九〇)年~昭和五〇(一九七五)年:龍之介より二歳年上)。横浜生まれ。横浜商業学校から神奈川県立第一中学校へ転校し、第一高等学校英法科を経て東京帝国大学法科大学に入学するも、文科大学英文科に転じ、この翌年大正四(一九一五)年に卒業。絵もよくし、一高時代から大下藤次郎主宰の日本水彩画研究所に通い、大学時代には第七回文展に入選している。実家があまり裕福でなく、自作の水彩画を売ったり、美術書の翻訳をしたりして、学費の足しにしていたが、成績優秀で学資免除の特待生となっている。結局、大学を首席で卒業、大学院に進み、東京美術学校(現在の東京芸大)・第一高等学校・東京師範学校で教職を務めた。大正一〇(一九二一)年から大正一四(一九二五)年にかけて欧州留学し、フィレンツェに住んでいたアメリカ人美術史家でイタリア・ルネサンス研究で著名だったバーナード・ベレンソン(Bernard Berenson 一八六五年~一九五九年:リトアニア出身に師事し、サンドロ・ボッティチェッリ(一四四五年~一五一〇年)の研究を行った。研究成果をまとめた英文の著“Sandro Botticelli ”(ロンドン:一九二五年)が国際的評価を得、その後も、華族らによって組織された学術振興のための財団法人「啓明会」から資金援助を得て、ボッティチェッリ研究のための現地調査を行っている。この欧州滞在の折り、川崎造船社長で美術収集家であった松方幸次郎のロンドン・パリでの絵画購入に同行し、印象派や当時評価を高めつつあったポスト印象派の作品購入にアドヴァイスし、「松方コレクション」の形成に関わった。帰国後、帝国美術院付属美術研究所主任・美術研究所主事・帝国美術院幹事・帝国美術研究所所員・美術学校教授を経て、昭和一一(一九三六)年に美術研究所(現在の東京文化財研究所)所長に就任した。戦後は文化財保護委員・東京国立文化財研究所所長を務めた。参照した当該ウィキによれば、『日本における西洋美術史研究の祖であると同時に、滞欧歴が長く海外の知己も多いコスモポリタンとしての立場から、日本美術の紹介と国際的認知にも努めた。戦後には、日本を世界の中の「文化国家」にしようという使命感のもと、美術・文化財にまつわる制度整備にも尽力している』とある。

「銀時計が貰へさうもないつて非觀してゐた」前記経歴から杞憂であったわけである。

「三井君」後のドイツ文学者三井光弥(明治二三(一八九〇)年~昭和二七(一九五二)年)。山形県鶴岡市生まれ。東京帝大独文科大正四(一九一五)年卒。大正六年に雑誌『思林』(後に『動静』から『文潮』へ改題)を創刊し、昭和一九(一九三四)年まで通巻百七十二号まで発行した。シュニッツラー・ストリンドベルヒ・ヘッセの作品などを多数紹介・翻訳した。著書に「独逸文学十二講」「独逸文学に於ける仏陀及び仏教」「父親としてのゲーテ」などがある。

「井上君」後の文部官僚で「日本国憲法」の審議に参加した井上赳(たけし 明治二二(一八八九)年~昭和四〇(一九六五)年)。島根県生まれ。一九三〇年代の国語読本である「小学国語読本」(通称「サクラ読本」)の中心編集者であった。県立松江中学校から一高(同期に近衛文麿・山本有三・土屋文明がいる)、東京帝大文科大学国文学科を卒業、大正一〇(一九二一)年、鹿児島県の第七高等学校造士館教授であった折り、大学の先輩であった国文学者で、当時、文部省図書監修官であった高木市之助に誘われ、同じ文部省図書監修官となり、以後、二十年に亙って、国定教科書の編集に関わった。大正一四(一九二五)年から一年刊、教科書研究のために欧米に留学している。昭和六(一九三一)年から「小学国語読本」編纂に着手し、従来、巻一の冒頭で「単語」から教えていたものを、井上は「サイタ サイタ サクラガ サイタ」に象徴されるように、「文」から習うように改めた。また、「源氏物語」や「東海道中膝栗毛」などを教材に取り入れるなど、文学教育の要素も強化した。この読本は昭和八年から実施された。昭和一六(一九四一)年の国民学校への移行に際し、「ヨミカタ」・「初等科国語」(通称「アサヒ読本」)を石森延男らと編集した。「アサヒ読本」は軍部からの圧力に屈せず、児童中心主義を守り通したことで知られる。昭和一九(一九四四)年、図書局廃止(国民教育局へ改組後、学徒動員局となる)に抗議して辞職した。戦後は昭和二一(一九四六)年から翌年まで、衆議院議員を務め、「日本国憲法」などの審議に参加し、その際、二十六条二項の正文中で、「children」の訳語に「子女」を提言したのは井上であった。後、東京文科大学(現在の二松学舎大学)・共立薬科大学の教授を務めた。当時の唱歌の教科書は「国語読本」と密接な関係にあったことから、井上は文部省唱歌の作詞も手がけており、人口に膾炙している「電車ごっこ」(「新訂尋常小学唱歌」所収・信時潔作曲)や「花火」(『うたのほん』所収・下総皖一(しもおさかんいち)作曲)などは、実に彼の作詞であった。

「僕の中學の先生」三中の恩師廣瀨雄(ひろせたけし 明治七(一八七四)年~昭和三九(一九六四)年)。既出既注こちらの注での引用では、田端文士村形成の重要人物として評価されているが、さても、彼がこの辛辣極まりない批評を加えている書簡を読んだとしたら(没年から見て、その可能性は非常に高い)、どう思ったであろう。かなり、気になるところだ。

「板倉と云ふ華族」調べれば、判るだろうが、その気にならない。悪しからず。

「累身賣りの段」歌舞伎の「薫樹累物語(めいぼくかさねものがたり)」(初演は明治三七(一九〇四)年、歌舞伎座)の一段。もとは新内節「鬼怒川物語」の一段で、こちらは安永 (一七七二年~一七八一年)頃に一世鶴賀若狭掾作曲とされる。

「小山と云ふ畫かき」小山栄達(明治一三(一八八〇)年〜昭和二〇(一九四五)年)。小石川生まれ。洋画と日本画の双方を学び、東京勧業博覧会・日本美術院等で褒状を受賞、明治三八(一九〇五)年、戦画博覧会を開催し、注目を集めた。大正六(一九一七)年に芸術社を創立し、文展・帝展で活躍した。大正三(一九一四)年頃に田端四三四番地に居住していた旨、サイト「田端文士村記念館」のこちらにあった。芥川家は田端四三五であるから、間違いない。

「僕の弟」新原得二(明治三二(一八九九)年~昭和五(一九三〇)年)。龍之介の七つ下の異母(実母フクの死後に後妻に入った道章・フクの末妹のフユ)弟。上智大学中退。父敏三に似た激しい性格で、岡本綺堂について、戯曲「虚無の実」を書いたりもしたが、本人自身が文筆への興味を失い、後には日蓮宗に入れ込んでしまい、後年の芥川を悩ませた。異母弟とはいえ、以上の通りで、血が濃い故に、龍之介はなんとかしてやろうという気持ちが強くあったに違いない。しかし、龍之介の遺書には、実姉ヒサ及びこの得二とは義絶するようにという指示があった伝えられている(芥川龍之介遺書全6通 他 関連資料1通 ≪2008年に新たに見出されたる遺書原本 やぶちゃん翻刻版 附やぶちゃん注≫」参照。但し、当該部は遺族による確信犯の部分的焼却によって現存しない)。

「わしもしらない」武者小路実篤による戯曲「わしも知らない」。釈迦と釈迦族滅亡を描いたもので、大正三(一九一四)年一月に『中央公論』に掲載され、翌年のこの年に帝国劇場で文芸座によって上演された。実篤の戯曲作品で初めての上演で、十三代目守田勘弥が釈迦、二代目市川猿之助が流離王を演じた。私は読んだことがない。詳しくは当該ウィキを参照されたい。

「カッツェンヤムマア」Katzenjammer。ドイツ語で「二日酔い」の意。

「武者小路が 靴の紐をとく資格もないやうな人間が」芥川龍之介は志賀直哉(作家になってからは常にその文体・表現には彼のそれを羨望し続けた)とともに武者小路の作品に親しんでいた。例えば、大正六(一九一七)年八月発行の『文藝俱樂部』に寄せた「私の文壇に出るまで」では(この注のために先ほどブログで電子化した)、「高等學校を卒業して大學に入つてからは、支那の小說に轉じて、『珠邨談怪』や、『新齋諧』や、『西廂記』、『琵琶記』などを無闇と讀んだ。又日本の作家のものでは、志賀直哉氏の『留女』をよく讀み、武者小路氏のものも殆ど全部讀んだと思ふ」と述べている。しかし、一方で大正八(一九一九)年一月の『中央公論』に発表した自伝的小説「あの頃の自分の事」では、『我々四人は、又久米の手製の珈琲を啜りながら、煙草の煙の濛々とたなびく中で、盛にいろんな問題をしやべり合つた。その頃は丁度武者小路實篤氏が、將にパルナスの頂上へ立たうとしてゐる頃だつた。從つて我々の間でも、屢氏の作品やその主張が話題に上つた。我々は大抵、武者小路氏が文壇の天窓を開け放つて、爽な空氣を入れた事を愉快に感じてゐるものだつた。恐らくこの愉快は、氏の踵に接して來た我々の時代、或は我々以後の時代の靑年のみが、特に痛感した心もちだらう。だから我々以前と我々以後とでは、文壇及それ以外の鑑賞家の氏に對する評價の大小に、徑庭があつたのは已むを得ない。それは丁度我々以前と我々以後とで、田山花袋氏に對する評價が、相違するのと同じ事である。(唯、その相違の程度が、武者小路氏と田山氏とで、どちらが眞に近いかは疑問である。念の爲に斷つて置くが、自分が同じ事だと云ふのは、程度まで含んでゐる心算ぢやない。)が、當時の我々も、武者小路氏に文壇のメシヤを見はしなかつた。作家としての氏を見る眼と、思想家としての氏を見る眼と――この二つの間には、又自らな相違があつた。作家としての武者小路氏は、作品の完成を期する上に、餘りに性急な憾があつた。形式と内容との不卽不離な關係は、屢氏自身が『雜感』の中で書いてゐるのにも關らず、忍耐よりも興奮に依賴した氏は、屢實際の創作の上では、この微妙な關係を等閑に附して顧みなかつた。だから氏が從來冷眼に見てゐた形式は、『その妹』以後一作每に、徐々として氏に謀叛を始めた。さうして氏の脚本からは、次第にその秀拔な戲曲的要素が失はれて、(全くとは云はない。一部の批評家が戲曲でないやうに云ふ『或靑年の夢』でさへ、一齣一齣の上で云へばやはり戲曲的に力强い表現を得た個所がある。)氏自身のみを語る役割が、己自身を語る性格の代りに續々としてそこへはいつて來た。しかもそこに語られた思想なり感情なりは、必然性に乏しい戲曲的な表現を借りてゐるだけ、それだけ一層氏の雜感に書かれたものより稀薄だつた。「或家庭」の昔から氏の作品に親しんでゐた我々は、その頃の――「その妹」の以後のかう云ふ氏の傾向には、慊らない[やぶちゃん注:「あきたらない」。]所が多かつた。が、それと同時に、又氏の雜感の多くの中には、我々の中に燃えてゐた理想主義の火を吹いて、一時に光焰を放たしめるだけの大風のやうな雄々しい力が潜んでゐる事も事實だつた。往々にして一部の批評家は、氏の雜感を支持すべき論理の缺陷を指摘する。が、論理を待つて確められたものゝみが、眞理である事を認めるには、餘りに我々は人間的な素質を多量に持ちすぎてゐる。いや、何よりもその人間的な素質の前に眞面目であれと云ふ、それこそ氏の闡明した、大いなる眞理の一つだつた。久しく自然主義の淤泥にまみれて、本來の面目を失してゐた人道(ユウマニテエ)が、あのエマヲのクリストの如く「日昃きて[やぶちゃん注:「かたぶきて」。]暮に及んだ」文壇に再[やぶちゃん注:「ふたたび」。]姿を現した時、如何に我々は氏と共に、「われらが心熱(もゑ[やぶちゃん注:ママ。])し」事を感じたらう。現に自分の如く世間からは、氏と全然反對の傾向にある作家の一人に數へられてゐる人間でさへ、今日も猶氏の雜感を讀み返すと、常に昔の澎湃とした興奮が、一種のなつかしさと共に還つて來る。我々は――少くとも自分は氏によつて、「驢馬の子に乘り爾[やぶちゃん注:「なんぢ」。]に來る」人道を迎へる爲に、「その衣を途に布き[やぶちゃん注:「みちにしき」。]或は樹の枝を伐りて途に布く」先例を示して貰つたのである』とも述べている(引用は岩波旧全集に拠った。全文は「青空文庫」のこちらで読めるが、新字体である)。翰林書房刊「芥川龍之介新辞典」の「武者小路実篤」の項(瀧田浩氏執筆)では、本書簡のこの部分について、『文意は明瞭ではないが、「あの頃の時分の事」同様、文壇の空気を大きく動かす者への評価と感謝、そしてある種の軽侮が見える。「待たれてゐる」「誰か」はむしろ芥川自身と意識されているようだ。「靴の紐をとく資格もない」は、キリストの先駆者、洗礼者ヨハネの自らに対することばだ。ヨハネの「後に来る者」=「メシヤ」の役目をも主体的に受けとめようとするかに見える文壇の先行者武者小路に対し、芥川はヨハネの位置を冷たく差し出している』と述べられ(非常に同感する)、続く「クリストと偶像」では、『芥川が文壇に登場する以前に、千家元麿や岸田劉生など後発の文学者・芸術家が武者小路のもとに集まり出していたためもあろうか、武者小路は芥川に冷談である。「芥川君の死」(『中央公論』1927・9)は、数少ない彼による言及であるが、「芥川君については正確な印象を得てゐない」「第一あまり読んでゐない」「五六の作品で見た処では真実さがいく分不足してゐるやうに思つた」と素っ気ないことばが並ぶ。それに対して、芥川は晩年の発言の中でも、武者小路を「道徳的な力」においてはホイットマンにたとえ、また晩年敬愛の深かった志賀直哉と「大小の比較はできない」と語っている(「新潮合評会」『新潮』1927・2)』。『武者小路は自身の創作の目標について「他人を描くのも自分を描くのも要するに唯自分のモヌメント[やぶちゃん注:底本では傍点「・」。以下同じ。]を立てる事に外ならない」(「作品上の自他」『文章世界』1912 ・ 6 傍点は引用者による、以下同じ)と書いたことがあったが、芥川は「闇中問答」』(遺稿。私の古い電子化がある)『の中で「僕」に「若し最大の多力者だつたとすれば、あのゲエテと云ふ男のやうに安んじて偶像になつてゐたであらう」(『文芸春秋』1927・9)と、語らせている。「西方の人・続西方の人」(『改造』1927・8~9)』(私の「西方の人(正續完全版)」がある)『で、芥川が自身をも投影しつつ「私のクリスト」と呼んだのは、「みづから燃え尽きようとする一本の蝋燭」のような無垢なロマン主義者であった(「ヨハネはロマン主義を理解出来ないクリストだつた」)。無垢なクリストたちの彼岸に、清濁併せのむ多力なゲエテたちがいる。「続西方の人」の末尾は、後代のクリストたちのゲエテヘの嫉妬であった。芥川の武者小路への思いは、偶像になりえる彼の多力さへの軽蔑と嫉妬ではなかっただろうか』と評しておられる。因みに私は、中学二年の時に「その妹」や「真理先生」を読んだが、全く感銘しなかった。今も彼の作品を読みたいとは毫も思わぬ。あ奴の色紙のお蔭で「日々是好日」という文字列には激しい嫌悪を感じるほど、嫌いである。

「戀愛三味」オーストリアの医師で小説家・劇作家でもあったアルトゥル・シュニッツラー(Arthur Schnitzler 一八六二年~一九三一年)の一八九六年戯曲(原題:Liebelei :「恋愛遊戯」)。森鷗外の訳(大正二(一九一三)年)が知られるから、これもそれか。

「パアフオーメーション」performance(演技)を performation(穿孔)という綴りを想起してしまった誤りか。

「Neben werk」作家の主な重厚なテーマ作品群とは別の傍系の気軽な感じで捜索した軽演劇的作品の意か。

「ワーグネル」楽劇王ヴィルヘルム・リヒャルト・ワーグナー(Wilhelm Richard Wagner 一八一三年~一八八三年)のネィティヴの音写は「リヒャルト・ヴァグナー」が近いか。

「temple」「殿堂」の意。

「上田さん」上田整次(明治六(一八七三)年~大正一三(一九二四)年)。石川県出身で明治二八(一八九五)年東京帝大独文科卒。文学博士。四高(金沢)・五高(熊本)教授を経て、明治四〇(一九〇七)年に母校東の助教授となった。明治四十二年にドイツに留学して帰国後、フローレンツの後任としてドイツ語学・ドイツ文学の講座を担当、この書簡の翌年の大正五年に教授に就任した。ヨーロッパの劇場史・戯曲論を研究し、没後、「沙翁舞台とその変遷」が刊行されている。

「山本文學士」山本有三のこと。但し、彼は一高時代に落第して中退し、東京帝大文科大学独文学科選科で龍之介らと同級になったのだが、選科生には学士号は与えられなかった。或いは本科転学していたかも知れないが、判らぬ。

「山宮文學士は豫定通り文部省へ出る」複数回既出既注の山宮允(さんぐうまこと)は大正四(一九一五)年に東京帝国大学英文科を卒業後、自身が言っている通り、大正八年には第六高等学校教授となっているから、文部省勤務(部局不詳)は四年ほどである。なお、後の大正十四年から翌年にかけて文部省在外研究員として渡欧しており、彼の経歴と立ち回り方を見るにまさに「官學に緣故があ」ったこと、「德ですよ 私立の學校へゆくと恩給がありませんからね」という孫子の計略ならぬ「百年子孫の計を立てて」生きたさまがよく判るね。

「うき人ははるかなるかもわが見守(みも)る茄子の花はほのかなるも」末句が六音であるため、底本では「も」にママ注記が打たれてある。「も」は、いいとは思わないが、「哉」の崩しの誤判読の可能性はある。弥生の面影。「かなしかる人の眉びきおもほゆるかも」も同じ。

「あぶら火の光にそむきたどたどといらへする子をあはれみにけり」弟得二がモデルであろう。

「傴僂(くぐせ)」脊柱奇形を主症状とする、所謂、「傴僂(せむし)」。

「靑斑猫」鞘翅(コウチュウ)目ゴミムシダマシ上科ツチハンミョウ科アオハンミョウ(青斑猫)Litta vesicatoria 。本邦には棲息しない。この種を乾燥させたものを漢方では「莞菁」(芫青:ゲンセイ)と称し、英名は虫名から「spanish fly」と称し、毒物「カンタリス」(cantharis/英名:cantharide)とも呼ぶ。日本産マメハンミョウ(豆斑猫)Epicauta gorhami や中国産のオビゲンセイ属 Mylabris の体内に一%程度含まれ、乾燥したものでは「カンタリジン」を〇・六%以上含む。不快な刺激臭を持ち、味は僅かに辛い。本品の粉末は皮膚の柔らかい部分又は粘膜に付着すると激しい掻痒感を引き起こし、赤く腫れて水疱を生ずる。発疱薬(皮膚刺激薬)として外用されるが、毒性が強いために通常は内用しない(利尿剤として内服された例もあるが、腎障害の副作用がある)。なお、カンタリジンは以前、一種の媚薬(催淫剤)「スパニッシュ・フライ」として使われてきた歴史がある。詳しくは、私の「耳囊 卷之五 毒蝶の事」の「莞菁(あをはんめう)」を見られたいが、このスパニッシュ・フライ、芥川龍之介の最晩年に彼が盛んに、盟友小穴隆一に対して、何度も「手に入れて僕に呉れ」と言っていたことが、『小穴隆一 「二つの繪」(11) 「死ねる物」』他に何度も出る。但し、彼は催淫剤としてではなく、自殺するための毒薬として所望しているのである(但し、それは表向きで、やはり、妻文との夜の営みのために催淫剤として求めていた可能性も私はあると考えている)。

「切支丹坂」現行では東京都文京区小日向のここに現存するが、その東側の庚申坂が本当の切支丹坂ともされる。

「流風」「ながれかぜ」か。突風。

「せんせん」シチュエーションから言って、「ひらひらと動くさま」或いは「光り輝くさま」の意の「閃閃」であろう。

「末燈抄」親鸞(承安三(一一七三)年~弘長二(一二六三)年)の書簡集。親鸞は長岡での配流が許されて後、東国に二十年留まって布教をし、文暦元(一二三四)年頃、京へ帰った。それ以後は、主に書簡を交換する形で門弟との連絡を密にしたが、親鸞の曾孫覚如の次男従覚(慈俊)が元弘三(一三三三)年四月(鎌倉幕府滅亡の前月)、諸国に散在する親鸞の書簡や短編の法語二十二通を集め、全二巻に纏めたもの。]

《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版) 私の文壇に出るまで

 

[やぶちゃん注:大正六(一九一七)年八月発行の『文藝俱樂部』に「私の文壇に出るまで」の標題を大見出しとして、「文壇諸家立志物語()」の副題で掲載され、初出誌では、『初めは歷史家を志望』との見出しが付されてあると、底本(以下)の後記にある。

 芥川龍之介は、この年の五月二十三日に、処女作品集「羅生門」(阿蘭陀書房)を刊行している。

 底本は一九七七年岩波書店刊の旧「芥川龍之介全集」第一巻を用いた。

 原本では傍点が「・」(人名・作家名)と「△」(書名・作品名)の二種が用いられているが、前者を下線で、後者を太字で示すことにした。また非常に多くのルビが振られてあるが、特に読みが振れるもの、難読と思われるもののみに附すこととした。「私」は途中で一箇所「わたし」と振られてあるので「わたし」で通読してよい。「德富蘆花」の「富」はママである。

 ブログで書簡を抄出して注釈を行っているうちに、本篇がネット上で電子化されていないことに気づいたので、急遽、行った。従って、注は附さない。]

 

  私の文壇に出るまで

 

 私は十位の時から、英語と漢學を習つた。高等小學の三年から第三中學に入つた。恰度上級には後藤末雄久保田萬太郞の兩氏があつた。私は大層溫和(おとな)しかつた。そして書くことは好きであつたけれども、五年の時に唯一度學校の雜誌に『義仲論』といふ論文を出したきりで、將來は歷史家にならうと思つてゐた。私が中學を卒業した年から、無試驗入學が始まつて、第一高等學校の英文科に入學した。その時分には、もう歷史をやるといふ志望は放擲してしまつた。それでは作家にならうといふ考があつたかといふと、さうではなかつた。まあどうかして英文學者にでもならうといふつもりでゐた。そして讀書をした。高等學校の三年間は、さうして過ぎた。その間にはまだ久米松岡成瀨菊池達と親しくしてはゐなかつた。

 大學一年の時、豐島だの、山宮だの、久米だので第三次の『新思潮』をやつた。その時短篇を初めて書いた。それは題を『老年』にといふのであつた。雜誌は一年ならずして廢(よ)した。三年になつてから、『新思潮』の次を出した。それから小說を書き出して、今日(こんにち)まで作家になるとも、ならないともつかずに小說を書いて來た。まづ本街道は右の通りである。

 少し脇道に入つて、私のこれまで讀んだものなどに就いて話せば、小學時代、私の近所に貸本屋(かしぼんや)があつて、高い棚に講釋の本などが竝んでゐたが、私はそれを端から端まですつかり讀み盡してしまつた。さういふものから導かれて、一番最初に『八犬傳』を漬み、讀いて『西遊記』、『水滸傳』、馬琴のもの、三馬のもの、一九のもの、近松のものを讀み初めた。德富蘆花の『思ひ出の記』や、『自然と人生』は、高等小學一年の時に讀んだ。その中で『自然と人生』は幾らか影響を受けたやうに思つた。中學時代には漢詩を可成り讀み、小說では泉鏡花のものに沒頭して、その悉くを讀んだ。その他夏目さんのもの、さんのものも大抵皆讀んでゐる。中學から高等學校時代にかけて、德川時代の淨瑠璃や小說を讀んだ。その時分から近松の中に出て來る色男、文化文政の色男といふものに對する同情は、決してもつことが出來なかつた。次には西洋のものを色々讀み始めた。當時の自然主義運動によつて日本に流行したツルゲネーフイブセンモウパツサンなどを出鱈目に讀み獵(あさ)つた。高等學校を卒業して大學に入つてからは、支那の小說に轉じて、『珠邨談怪』や、『新齋諧』や、『西廂記』、『琵琶記』などを無闇と讀んだ。又日本の作家のものでは、志賀直哉氏の『留女』をよく讀み、武者小路氏のものも殆ど全部讀んだと思ふ。殊にロマンローランの『ジヤン・クリストフ』には甚(ひど)く感動させられて、途中でやめるのが惜しくて、大學の講義を聽きに行かなかつたことがよくあつた。しかし、私は遂に藤村の詩だとか、『天地有情』といつたやうな日本の詩からは、何等の影響をも受けないでしまつた。かうして、今迄のところでは、甚(はなは)だ平凡な一介の讀書子として來た。それ以外に何にもありはしない。ただ夏目先生の許ヘ一年ばかり行つてゐるうちに、芸術上の訓練ばかりでなく、人生としての訓練を叩き起されたと云ふ氣がする。

 

2021/04/19

伽婢子卷之三 牡丹燈籠

 

   ○牡丹燈籠

 年每(としごと)の七月十五日より廿四日までは、聖靈(しやうりやう)の棚をかざり、家々、これを祭る。又、いろいろの燈籠を作りて、或は、祭の棚にともし、或は、町家(まちや)の軒にともし、又、聖靈の塚に送りて、石塔の前にともす。其燈籠のかざり物、或は、花鳥、或は草木、さまざま、しほらしく作りなして、其中に、ともし火、ともして、夜もすがら、かけおく。是を見る人、道も、さりあえず、又、其間(あひだ)に踊子どもの集り、聲よき音頭に、頌哥(せうが)、出〔いだ〕させ、振(ふり)よく、踊る事、都の町々、上下、皆、かくの如し。

 天文戌申(つちえさる)の歲(とし)、五條京極に萩原新之丞(おぎはら〔しんのじよう〕)といふ者あり。

 近きころ、妻に後(をく)れて、愛執(あいしふ)の淚、袖に餘り、戀慕の焰(ほのほ)、胸をこがし、ひとり淋しき窓のもとに、ありし世の事を思ひ續くるに、いとゞ悲しさ、かぎりもなし。

「聖靈祭りの營みも、今年はとりわき、此妻さへ、無き名の數(かず)に入〔いり〕ける事よ。」

と、經、讀み、囘向(ゑかう)して、終(つひ)に出〔いで〕ても遊ばず、友だちのさそひ來(く)れども、心、たゞ、浮立(うきた)たず、門(かど)にたゝずみ立〔たち〕て、うかれをるより、外は、なし。

 いかなれば立(たち)もはれなず面影の

   身にそひながらかなしかるらむ

と、うちながめ、淚を押拭(をしぬぐ)ふ。

Bd1
  

 十五日の夜、いたく更けて、遊びありく人も稀になり、物音も靜かなりけるに、一人(ひとり)の美人、その年、廿(はたち)ばかりと見ゆるが、十四、五ばかりの女(め)の童(わらは)に、美しき牡丹花(ぼたんくわ)の燈籠、持たせ、さしも、ゆるやかに打過〔うちすぐ〕る。

 芙蓉のまなじり、あざやかに、楊柳(やうりう)の姿、たをやかなり。

 かつらのまゆずみ、みどりの髮、いふばかりなく、あてやか也。

 萩原、月のもとに是を見て、

『是は。そも、天津乙女(あまつをとめ)の天降(あまくた)りて、人間〔じんかん〕に遊ぶにや、龍の宮の乙姬の、わたつ海(み)より出〔いで〕て慰むにや、誠に、人の種(たね)ならず。』

と覺えて、魂(たましゐ)、飛び、心、浮かれ、みづから、をさえとゞむる思ひなく、めで惑ひつゝ、後(うしろ)に隨ひて行く。

 前(さき)になり、後(あと)になり、なまめきけるに、一町ばかり西のかたにて、かの女、うしろに顧みて、すこし笑ひて、いふやう、

「みずから、人に契りて待侘(〔まち〕わび)たる身にも待べらず。唯、今宵の月に憧(あこがれ)出て、そゞろに、夜更け方、歸る道だに、すさまじや。送りて給(たべ)かし。」

と、いえば、萩原、やをら、進みて、いふやう、

「君、歸るさの道も遠きには、夜〔よ〕、深くして、便(びん)なう侍り。某(それがし)のすむ所は、塵(ちり)、塚たかく積りて、見苦しげなるあばらやなれど、たよりにつけてあかし給はゞ、宿かし參らせむ。」

と戲ふるれば、女、打笑(うちえ)みて、

「窓もる月を、獨り詠〔なが〕めてあくる侘しさを、嬉しくも、の給ふ物かな。情〔なさけ〕によわるは、人の心ぞかし。」

とて、立〔たち〕もどりければ、萩原、喜びて、女と手を取組つゝ、家に歸り、酒、とり出し、女の童に酌とらせ、少し打飮み、傾(かたふ)く月に、わりなき言の葉を聞くにぞ、「今日を限りの命ともがな」と兼(かね)ての後〔のち〕ぞ思(おもは)るゝ。

 萩原、

 また後のちぎりまでやは新枕(にひまくら)

   たゞ今宵こそかぎりなるらめ

と云ひければ、女、とりあえず、

 ゆふなゆふなまつとしいはゞこざらめや

   かこちがほなるかねごとはなぞ

と、返しすれば、萩原、いよいよ嬉しくて、互にとくる下紐(〔した〕ひも)の結ぶ契りや新枕(にゐまくら)、交(かは)す心も隔(へだて)なき、睦言(むつごと)は、まだ、盡きなくに、はや、明方にぞ、なりにける。

 萩原、

「その住(すみ)給ふ所はいづくぞ、『木の丸殿〔きのまるどの〕』にはあらねど、名のらせ給へ。」

といふ。

 女、聞て、

「みずからは、藤氏(ふぢうぢ)のすゑ、二階堂政行の後〔あと〕也。其比(そのころ)は、時めきし世もありて、家、榮え侍りしに、時世移りて、あるかなきかの風情にて、かすかに住侍べり。父は政宣、京都の亂れに打死(うちじに)し、兄弟、皆、絕(たへ)て、家、をとろへ、我が身獨り、女(め)のわらはと、萬壽寺のほとりに住侍り。名のるにつけては、耻かしくも、悲しくも侍べる也。」

と、語りける言の葉、優しく、物ごし、さやかに愛敬(あいぎやう)あり。

 すでに、橫雲、たなびきて、月、山の端に傾(かたふ)き、ともし火、白う、かすかに殘りければ、名ごり盡せず、起き別れて歸りぬ。

 それよりして、日、暮るれば、來たり、明がたには、歸り、夜每に通ひ來(く)ること、更に約束を違(たが)へず。

 萩原は、心、惑ひて、なにはの事も思ひ分けず、唯、女の、わりなく思ひかはして、

「契りは、千世〔ちよ〕も、變らじ。」

と通ひ來(く)る嬉しさに、晝といへども、又、こと人に逢ふ事、なし。

 斯(かく)て、廿日餘りに及びたり。

Bd2
 

 隣の家に、よく物に心得たる翁(おきな)のすみけるが、

『萩原が家に、けしからず、若き女の聲して、夜每に歌うたひ、わらひあそぶ事のあやしさよ。』

と思ひ、壁の隙間より、覗きて見れば、一具(〔いち〕ぐ)の白骨(はくこつ)と、萩原と、灯(ともしび)のもとに、さしむかひて、坐〔ざ〕したり。

 萩原、ものいへば、かの白骨、手あし、うごき、髑髏(しやれかうべ)、うなづきて、口とおぼしき所より、聲、響き出〔いで〕て、物語りす。

 翁、大〔おほ〕きに驚きて、夜の明くるを待ちかねて、萩原を呼びよせ、

「此程、夜每に客人(きやく〔じん〕)ありと聞ゆ。誰人〔たれぴと〕ぞ。」

といふに、更に隱して、語らず。

 翁のいふやう、

「萩原は、必ず、わざはひ、あるべし。何をか、包むべき。今夜、壁より、覗き見ければ、かうかう侍べり。凡そ、人として命〔いのち〕生きたる間〔あひだ〕は、陽分(やうぶん)、いたりて、盛(さかん)に淸(きよ)く、死して幽靈となれば、陰氣はげしく、よこしまにけがるる也。此故に、死すれば、忌(いみ)、ふかし。今、汝は、幽陰氣(ゆういんき)の靈(りやう)と、同じく座して、これをしらず。穢(けが)れて、よこしまなる妖魅(ばけもの)と共に寢て、悟(さとら)ず。忽ちに眞精(しんせい)の元氣を耗(へら)し盡して、精分を奪はれ、わざはひ來り、病(やまひ)出侍〔いでは〕べらば、藥石・鍼灸の、をよぶ所にあらず。傳尸癆瘵(でんしらうさい)の惡証(あくしやう)を受け、まだ、もえ出〔いづ〕る若草の年を、老先(をい〔さき〕)長く待〔また〕ずして、俄に黃泉(よみぢ)の客(かく)となり、苔(こけ)の下に埋〔うづ〕もれなん。諒(まこと)に悲しきことならずや。」

といふに、荻原、始めて、驚き、恐ろしく思ふ心づきて、ありの儘に語る。

 翁、聞て、

「萬壽寺のほとりに住〔すむ〕といはば、そこに行きて、尋ね見よ。」

と、敎ゆ。

  荻原、それより、五條を西へ、萬里小路(までのこうぢ)より、こゝかしこを尋ね、堤のうへ・柳の林に行きめぐり、人に問へども、知れるかた、なし。

 日も暮(くれ)がたに、萬壽寺に入て、しばらく、やすみつゝ、浴室(ふろや)の後ろを北に行きてみれば、物ふりたる魂屋(たまや)、あり。

Bd3
 

  差寄(さしよ)りてみれば、棺(くはん)の表(おもて)に、

「二階堂左衞門尉政宣が息女彌子(いやこ)吟松院(ぎんせうゐん)冷月禪定尼(れいげつぜんじやうに)」

と、あり。

 かたはらに、古き伽婢子(とぎぼうこ)あり。

 うしろに、

「淺芽(あさぢ)」

といふ名を書(かき)たり。

 棺の前に、牡丹花(ぼたんくは)の燈籠の古きを、かけたり。

『疑ひもなく、これぞ。』

と思ふに、身の毛のよだちて、恐ろしく、跡を見返らず、寺を走り出て歸り、此日比〔このひごろ〕、めで惑ひける戀も、さめ果て、我が家も、おそろしく、暮〔くる〕るを待かね、明(あく)るをうらみし心も、いつしか忘れ、

「今夜(こよひ)、もし、來らば、いかゞせん。」

と、隣の翁が家に行て、宿をかりて、明(あか)しけり。

 さて、

「いかゞすべき。」

と、愁へ歎く。

 翁、を敎へけるは、

「東寺(とうじ)の卿公(きやうのきみ)は、行學(ぎやうがく)、兼備(かねそなへ)て、しかも驗者(げんじや)の名あり。急ぎ、ゆきて、賴み參らせよ。」

といふ。

 荻原、かしこにまうでゝ、對面(たいめん)を遂げしに、卿公、仰せけるやう、

「汝は、妖魅(ばけもの)の氣に、精血(せいけつ)を耗散(がうさん)し、神魂(しんこん)を昏惑(こんわく)せり。今、十日を過〔すぎ〕なば、命は、あるまじき也。」

と、のたまふに、荻原、ありの儘に語る。

 卿公、すなはち、符(ふ)を書〔かき〕て與へ、門(かど)に、おさせらる。

 それより、女、二たび、來らず。

 五十日ばかりの後〔のち〕に、或日、荻原、東寺に行きて、卿公に禮拜〔らいはい〕して、酒に醉(え)ひて、歸る。

 さすがに、女の面影、戀しくや有〔あり〕けん、萬壽寺の門前近く、立寄〔たちよ〕りて、内を見いれ侍りしに、女、忽ちに前に顯はれ、甚(はなは)だ恨みて、いふやう、

「此日比、契りしことの葉の、はやくも僞りになり、薄き情(なさけ)の色、見えたり。初めは、君が心ざし、淺からざる故にこそ、我身を任せて、暮に行き、あしたに歸り、何時(いつ)まで草のいつ迄も絕(たへ)せじとこそ、ちぎりけるを、卿公とかや、なさけなき隔(へだて)のわざはひして、君が心を餘所(よそ)にせしことよ。今、幸(さいわい)に逢ひまゐらせしこそ、嬉しけれ。此方(こなた)へ、入給へ。」

とて、荻原が手を取り、門より、奥に、連れてゆく。

Bd4
 

 

 めしつれたる荻原が男は、肝を消し、恐れて迯げたり。家に歸りて、人々につげければ、人皆、驚き、行て見るに、荻原、すでに、女の墓に引込〔ひきこま〕れ、白骨と、うちかさなりて、死して、あり。

 寺僧(じそう)たち、大〔おほき〕に恠しみ思ひ、やがて、鳥部山に墓を移す。

 その後〔のち〕、雨降り、空曇る夜〔よ〕は、荻原と女と、手を取組み、女(め)の童(わらは)に牡丹花の燈籠、ともさせ、出〔いで〕てありく。

「是に行逢〔ゆきあ〕ふものは、重く煩(わづら)ふ。」

とて、あたり近き人は怖れ侍べりし。

 萩原が一族(ぞく)、これをなげきて、一千部の「法華經」を讀み、「一日頓寫(〔いちにち〕とんしや)の經」を墓に納めてとぶらひしかば、重ねて現はれ出〔いで〕ずと也。

 

[やぶちゃん注:挿絵は「新日本古典文学大系」版を用いた。恐らく、知られた「牡丹燈籠」の最初期の正統的翻案物の名篇として、本書の中でも最も人口に膾炙している一篇である。「伽婢子」という書名も私は了意が遺愛の本篇に基づいてつけたものと考えている。事実、本作は格段に詞章が選りすぐられて、漢籍の翻案を感じさせぬ、近世怪談の白眉の一つとしてよいと考えている。今回の電子化をしながら、私は新之丞ととりわけて彌子に強く感情移入してしまい、目頭が熱くなったことを告白しておく。私自身、高校時代より、原話の「牡丹燈記」(明の瞿佑の作になる志怪小説集「剪燈新話」中の一篇)から激しく偏愛し続けているもので、原本・関連書籍・評論など、特異的に多数所持している。本話譚は本書と同時代的な怪談集「奇異雑談(ぞうたん)集」(著者不詳・貞享四(一六八七)年板行であるが、ずっと以前から写本が残されており、実際の編著は明暦・万治・寛文(一六五八年~一六七三年)期とされる)の第六巻の「女人、死後、男を棺の内へ引込みころすこと」や、後の上田秋成の「雨月物語」の巻之三の「吉備津の釜」及び卷之四の「蛇性の淫」などのように、原話を素材転用したもの、大ヒットの火付け役となった三遊亭円朝の「牡丹燈籠」(後半は復讐譚に転じて原話全体は複雑である。円朝による創作は彼が二十三、四の頃、文久三(一八六三)年か翌年と推定され、最初の出版は速記本で明治一七(一八八五)年に東京稗史出版社から出た)はもとより、その後、明治二五(一八九二)年七月に三代目河竹新七により「怪異談牡丹燈籠」として歌舞伎化されて、五代目尾上菊五郎(天保一五(一九〇三)年~明治三六(一九〇三)年)主演で歌舞伎座で上演されて大当たりとなるなど、近代に至るまで実に枚挙に暇がない。ここでは、そうした中の本篇のインスパイアの一篇で、先般、電子化した「御伽比丘尼卷四 ㊀水で洗煩惱の垢 付 髑髏きえたる雪の夜」と、小泉八雲の『小泉八雲 惡因緣 (田部隆次訳) 附・「夜窓鬼談」の「牡丹燈」』を示しておくに留める。さて、そうした私には強い思い入れがあるものであるからして、今回は、特異的に底本のそれと、元禄本の影印とを細かく対照し、最良の校訂本文を目指し(但し、読み易さを考え、本文の漢字表記や和歌の濁点表記などは底本を概ね優先し、送り仮名を元禄本の表記をもとに添えた)、句読点もかなり考えて打って、電子化してある。以下、注はあくまでストイックに附すことにした。

「聖靈(しやうりやう)の棚」盂蘭盆会の精霊棚(しょうりょうだな)。

「しほらしく」歴史的仮名遣は「しをらしく」が正しい。華美でなく派手でもなく可憐な感じで。健気(けなげ)なさまに。

「踊子どもの集り」盆踊りである。「新日本古典文学大系」版脚注に、『天文から文禄年間』(一五三二年から弘治を挟んで一五七〇年)『にかけては、盆の前後に風流(ふりゅう)』(中世芸能の一つて、華やかな衣装や仮装を身につけて、囃し物の伴奏で群舞したもの。後には華麗な山車(だし)の行列や、その周りでの踊りを指すようになった。民俗芸能の「念仏踊り」・「雨乞い踊り」・「盆踊り」・「獅子舞い」などの元となった)『の灯籠踊が盛んとなり、公家方から、町へ繰り出されて、路次の万灯会とも称されて隆盛を見た。以後』、『様々な風流踊が出現し、盆の行事として継承された』とある。ここでは、しかし、その踊りや歌・囃子・音頭取り声などのそれは、決して読者の耳を騒がせず、寧ろ、新之丞には、そのざわめきがすうっと遠のくように、先年に妻を失った傷心の新之丞の心象を対位法的に描出する役割を担って、優れたSE(サウンド・エフェクト)としても効果をあげているのである。

「頌哥(せうが)」(現代仮名遣「しょうが」。私は清音の「せうか」の方が好みである)ここでは仏教の有難い德や、亡き人の功徳・功績などを偲んで礼讃した歌の意。

「振(ふり)」舞踊の所作。

「天文戌申(つちえさる)の歲(とし)」天文十七年。その七月十五日はユリウス暦で八月十八日で、グレゴリオ暦換算で八月二十八日に当たる。前後を見ると、二年前の天文十五年末に足利義輝が室町幕府第十三代将軍に就任しており、十七年の大晦日には長尾景虎(後の上杉謙信)が兄晴景に代わって家督を継いで越後春日山城に入城、翌十八年には美濃国斎藤道三の娘濃姫が尾張の織田信長に嫁いでいる。

「五條京極」現在のこの中心附近(グーグル・マップ・データ)。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、平安古来の本来の「五条通り」は、そこの二本北の「松原通」で、現在の京極町と接するところが当該地であったが(「平安条坊図」参照)、このまさに話柄内時制である天正一七(一五八九)年に、『秀吉が方広寺建立のために大橋を移築して以来、二筋南の通』(旧「六条坊門小路」)『を称するようになった』とある。なお、所持する太刀川清氏の論考「牡丹灯記の系譜」(一九九八年勉誠社刊)には、典拠との比較を通して、卓抜な見解が示しされてある。

   〈引用開始〉

 事件の展開と人物の関係をそのままにする翻案では、時代、場所そして人物の設定は重要である。それでも翻案は翻訳と違って漢臭があってはならない。「牡丹灯龍」の天文戊申の十七年(一五四八)は足利将軍義輝の時代、応仁の乱(一四六七-一四七七)後の疲弊した京の町の一圃、五条京極に設定された。原話で喬生の住む鎖明嶺下は『剪灯新話句解』によると鎖明嶺は寧波府の南にあって高さ数十丈の山らしいが、高田衛氏によると、そこは寧波府の明州の目抜き通りであった(『百物語怪談集成』月報 昭和六二年 国書刊行会)が、至正庚子の二十年二三六〇)頃は原話の冒頭の「方氏之浙束ニ拠ルヤ」とあって元末の群雄の一人方国珍がこの辺一帯を占拠していたらしく、応仁の乱後の京都もこの明州の事情に似たところがあったであろう。それでも五条京極は東西に通じる五条大路と南北に通る東京極通りの交叉する京の目抜き通りであったから孟蘭盆の精霊祭も賑やかであった。しかしそれよりもこの五条は『源氏物語』の夕顔の巻の舞台でもある。源氏が夏の夕暮、病の乳母を見舞ったとき、五条の大路のほとりのあやしい垣根のうちに見た女、それが落魄の美女夕顔である。了意は原話の符女にこの夕顔の女のイメージを重ねていたのではなかったか。十七歳で亡くなったあとは家人にも捨て去られ、いまだに仮殯のままであった原話の美女を、了意は弥子として、父は応仁の乱で討死し、兄弟みな絶えてひとり万寿寺の近くで詫び住居する女にかえたのは、確かに「夕顔」が関っている。しかもその万寿寺も、天正年間に京都の万寿寺町(束山区)に移る前は下京五条通りにあった寺である(江本裕『東洋文庫伽婢子』昭和六三年 平几社)から、これもその界隈である。

 弥子に夕顔の女のイメージがあるなら、金蓮を浅茅と名づけたことには、これまた『源氏物語』の「蓬生」の巻が関っていた。源氏の離京のあとも、ひたすらその米訪を信じて浅茅が原の故宮の屋敷に侘び住いして日を送る末摘花に、世に忘れ去られた符女の面影を見、さらにその侍女に及んだのである。「夕顔」に関って「五条」が、そして万寿寺という設定が出来上り、さらに金蓮を浅茅とすることで『源氏物語』を想定しながら、「牡丹灯籠」は始まるのである。

   《引用終了》

そうだ! 私がこの弥子に惹かれるのは、私の好きな夕顔の面影あればこそなのだ!

「うかれをる」ここは特異的にネガティヴな意味。空虚でアンニュイな喪失感に心を奪われて、ぼうっとしていて、やや正常でない気鬱なさまに陥っていることを指す。先に述べたように、盆踊りのさんざめきの「浮かれ居る」それと、真逆のコントラプンクト(Kontrapunktである。

「いかなれば立(たち)もはれなず面影の身にそひながらかなしかるらむ」岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」(一九八九年刊)の脚注によれば、「新拾遺和歌集」巻十四の「恋四」にある寿暁法師の一首、

    題しらず

 いかなれば立ちも離れぬ面影の身にそひながら戀しかるらん

を改変したものとされ、ここでの新之丞の込めた『歌意は「なぜだろう、亡き妻の面影がこんなにも側にありながら、こんなに悲しいのは」の意』とある。

「さしもゆるやかに打過〔うちすぐ〕る」雅びな女人であてもそれ以上にはとても出来まいというほどに緩やかに風雅に通り過ぎてゆく。既にして、彼女が実は現実の世界の女でないことが、ここで仄めかされているのだと私は思う。異界との接触のスイッチがここで起動して、画面がスローモションになるのである。

「芙蓉」読みは「ふよう」でよいが、ビワモドキ亜綱アオイ目アオイ科 Malvoideae 亜科フヨウ属フヨウ Hibiscus mutabilis ではなく、ここは古くから美女の形容として多用されたそれで、蓮(はす:ヤマモガシ目ハス科ハス属ハス Nelumbo nucifera)の花を指す。

「楊柳(やうりう)」キントラノオ目ヤナギ科ヤナギ属シダレヤナギ Salix babylonica

「かつらのまゆずみ」底本(昭和二(一九二七)年刊日本名著全集刊行會編「江戶文藝之部」第十巻「怪談名作集」)では「かづらのまゆ」であるが、どうもおかしい感じがした。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の元禄版に従った。「新日本古典文学大系」版も「かつらのまゆずみ」である。「桂の黛(まゆずみ)」で「桂」は中国の伝説で月の世界に生えているという木を指し、転じて、「月」を意味し、三日月のような形に細く引いた美しい眉墨を指す美称語である。「萩原、月のもとに是を見て」に応じている。

「あてやか」「貴やか」人柄や容姿・態度・物の様子などが上品で美しいさま。

「なまめきけるに」何気ないふうを装いながら、相手にそれとなく内心を仄めかしたところが。

「一町」百九メートル。

「そゞろに……」何とも言えず、「夜更け方」の暗い道を、かくも女二人で「歸る道」は、もうそれだけで「すさまじや」(「凄じや」)、「ひどく恐ろしゅう御座います」というのである。

「やをら」静かに。そっと。

「進みて」二人の前に進み出て。

「便(びん)なう侍り」とても貴女さまにとってよろしからざる危ういことにて御座います。

「たよりにつけて」私を頼りになろうかと思うて戴いて。

「戲ふるれば」好色の意図を内に秘めつつ、言いかけたところ。

「窓もる月を、獨り詠〔なが〕めてあくる侘しさを、嬉しくも、の給ふ物かな。情〔なさけ〕によわるは、人の心ぞかし。」「窓から漏れ来る月の光を、たった独り、眺めては、夜明けを迎えるは、まことに、侘しきもの……さても、まっこと、嬉しくも、お言葉をおかけ下さりました。人の優しさにほだされるのは……これ、また、人の心に常で御座いましょうほどに。」。

「わりなき言の葉を聞くにぞ」とても言いようもないほどに深い自分への思いを匂わせて語るのを聴くにつけても。

「今日を限りの命ともがな」「小倉百人一首」にも採られている「新古記和歌集」の巻第十三の「恋歌三」(同巻巻頭)の儀同三司母(ぎどうさんしのはは)の一首(一一四九番)、

    中關白通ひそめ侍けるころ

 忘れじの行く末まではかたければ

    今日(けふ)を限りの命ともがな

の下句を引いた。儀同三司母は中(なかの)関白藤原道隆の室で伊周・定子・隆家らの母。歌意そのものが、男の心の変わり易きを言い、だから、「今夜こうしてお逢しているこのままに死んでしまいたい」とする。しかし、そこには命をかけてもいいという女の激しい思いがある。が、しかし、同時にこれは、新之丞をも道連れにした本篇のカタストロフの不吉な予兆でもある。

「兼(かね)ての後〔のち〕ぞ思(おもは)るゝ」枕をともにした後、二人が深い縁(えにし)で結ばれるであろうという確信が、新之丞の腑に落ちてゆくのである。但し、次の一首からは、逢瀬自体の属性としての儚さを読みつつ、それへのやや臆病な気持ち(亡き妻への気持ちをもとにするのであろう)も含められた印象はある。但し、岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」の脚注では、『不吉な予兆にならねばいいがと、萩原の行く末が案じられることだ』と作者が直接に登場して伏線を張っていると解釈しておられる。確かに、ここは文章の流れから見ると、ちょっと澱みがあり、そう捉えると、腑に落ちるとも言える。

「また後のちぎりまでやは新枕(にひまくら)たゞ今宵こそかぎりなるらめ」「新日本古典文学大系」版脚注を見ると、原歌を山科言緒(ときお 天正五(一五七七)年~元和六(一六二〇)年:公家)編の歌学書(部立アンソロジー)「和歌題林愚抄」(安土桃山から江戸前期の成立)「恋二」の「初遇恋」の国冬(鎌倉中・後期の住吉神社神主で歌人の津守摂津守国冬(文永七(一二七〇)年~元応二(一三二〇)年)であろう)の歌を一部変えて用いたとする。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで後代の再板(寛政四(一七九二)板)であるが、原本に当たることが出来た。ここの「7」が「戀」の巻で、その全巻(PDF)だと、「21」コマ目、HTMLだと、ここの左頁の終わりから行目である。起こす。右頁に部立「戀部二」とあり、最上段に「初遇戀」とある。

   *

 又のちのちきりたのまぬ新枕たゝこよひこそかきりなるらめ

   *

本編のインスパイアと比較するために整序すると、

   *

 また後のちぎりたのまぬ新枕ただ今宵こそかぎりなるらめ

   *

である。了意の改変の方がぼかしが入っていて、この話柄中では寧ろ、違和感がない。

「ゆふなゆふなまつとしいはゞこざらめやかこちがほなるかねごとはなぞ」『「いつだって夕べに待っているよ」と言うて下されば、毎夕、来ぬことがありましょうや。そのように思い侘びて、不吉な前言をおっしゃるは、何故?』という謂いであろう。しかしこれも、実は不祥なる伏線となるのである。

「睦言(むつごと)は、まだ、盡きなくに、はや、明方にぞ、なりにける」「古今和歌集」の巻第十九の「雑体」(「雜躰(ざつてい)」)の凡河内躬恒の一首(一〇一五番)、

    題しらず

 むつごともまだ盡きなくに明けにけり

    いづらは秋の長してふ夜は

をインスパイアした。下句は「何処へいってしまったのか? 『秋の夜長』というその夜は?」の意。

「木の丸殿〔このまるどの〕にはあらねど、名のらせ給へ」切り出したままで加工していない丸木で造った粗末な宮殿。「きのまろどの」とも読む。普通名詞だが、一般には斉明天皇が百済支援の出兵に際し、筑紫の朝倉(現在の福岡県朝倉市山田。グーグル・マップ・データ。以下同じ)に造った行宮(あんぐう)(「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『のち天智天皇の御所と伝承され』、『用心のために往還の人々を名乗らせて通したという故事による』とあり、この新之丞の謂いの後半部はそれを受けたもの)を指すことが多い。高田衛氏は先の岩波の脚注で、これは「新古今和歌集」の巻十七の「雑歌 中」の天智天皇の歌とされる一首(一六八九番)、

 朝倉や木の丸殿(まろどの)に我がをれば

    名のりをしつつ行くはたが子ぞ

に基づくとされる。

「藤氏(ふぢうぢ)のすゑ、二階堂政行の後〔あと〕」二階堂氏は藤原姓で藤原南家乙麻呂流工藤氏の流れで、初代工藤行政(生没年未詳:母が源頼朝の外祖父で熱田大宮司であった藤原季範の妹であった)は文官として頼朝に仕え、建久三(一一九二)年十一月二十五日に中尊寺を模して建立させた永福寺(ようふくじ:二階建ての仏堂があった。現存しない)の近くに邸宅を構えたことから二階堂行政を称したとされる。建久四(一一九三)年に政所別当となり、強力な幕府ブレインであった大江広元の片腕として活躍、初期鎌倉政権を支えた実務官僚として知られる。ウィキの「二階堂氏」の「信濃流二階堂氏」によれば、『鎌倉時代の二階堂行政の子・行光の流れで、行盛の代から政所執事を独占した。相次ぐ当主の急逝や隠岐流』(二階堂行政の子行村流)『に執事職を奪われたことで衰退するが、室町時代になると再び勢いを取り戻し、室町幕府評定衆として活躍した。細かく分けると、行盛の子である行泰を祖とする「筑前家」』、『同じく行盛の子である行綱を祖とする「伊勢家」』、『同じく行盛の子である行忠を祖とする「信濃家」』『に分けられる』。三『家とも鎌倉幕府の滅亡や観応の擾乱で足利直義方に付いたことで大きな打撃を受けたが、赦された後は勢力を持ちなおして、康安元年』(一三六一年)『の畠山国清失脚後は、行春(筑前家)、行詮(伊勢家)、氏貞(信濃家)が備中家の行種と持ち回りで鎌倉府の政所執事に就任し、永享の乱による鎌倉府崩壊まで執事職を独占した』。『足利持氏期に執事を務め、その使者としてたびたび室町幕府と交渉した二階堂盛秀は系譜不明であるが、信濃守の受領名から伊勢家の行朝の系統と推察される』。『京都にいた信濃家の二階堂行直(高衡)・行元兄弟は政所執事を務めた。行元は叔父の高貞(行広)の養子となり、観応の擾乱では足利直義に従ったが、やがて京都に復帰する。政所執事は後に伊勢貞継に奪われたものの、子孫は評定衆として定着する』。『行元の系統は忠広(元栄)・之忠・忠行と継承され、忠行の代に再び政所執事となる。これは足利義政の元服を足利義満の先例を元に行おうとした際に、義満元服時の政所執事が二階堂行元であったことから、今回も二階堂氏の政所執事が相応しいと言う意見が出たことによる(当時の伊勢氏と二階堂氏は縁戚関係にあり、長く執事職を独占してきた伊勢氏が忠行に執事を譲ることを同意したのも大きい)』。『忠行の子である二階堂政行』(★☜これが彼★)『は足利義尚の腹心として伊勢氏・摂津氏と権勢を争った』。『だが、義尚が急死するとその反動で失脚に追い込まれ』た。『その後、嫡男である二階堂尚行が継承し、足利義澄の元服の際には義満・義政の例に倣うということで伊勢氏から』一『日だけ政所執事を譲られているが』、『父に先立って病死している』。『尚行の急死後は弟の有泰、その子とみられる晴泰に継承されている。晴泰は足利義昭の時代まで活動しているのが知られるが、義昭が織田信長に追放された後の消息は不明である』とある。以下、「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『室町幕府でも執事などをつとめた名家で、二階堂政行(山城守)は長享元年(一四八七)九月の足利義尚による近江出兵に随陣している』とある。二階堂政行については、忠行の子で、通称は左衛門、将軍足利義政より偏諱を賜ったとあり、その子に二階堂尚行(又三郎・室町幕府政所執事(将軍足利義澄元服の一日のみ)・将軍足利義尚より偏諱を賜う)と二階堂有泰(評定衆・中務大輔)とあるのみである。

「政宣」「新日本古典文学大系」版脚注には、『「政宣」の名は寛政重修諸家譜に見えない。政行の次は有泰。「有泰(ありやす) 天文五年正月二十日従四位下」(同)。戦死の記事もなく、この女(弥子)の父には相応しない』とある。

「京都の亂れに打死(うちじに)し」「新日本古典文学大系」版脚注には、『特定はできないが、本話の』時制の『二十年前の大永七年〔一五二八〕には、京都桂川で細川高国が柳本賢治』(たかはる)『方に敗北し、将軍足利義晴を奉じて近江に逃れるという大きな戦乱があった。以後、京都周辺は細川方と三好方の争いが続き、これらを背景としたか』とある。

「絕(たへ)て」表記はママ。

「萬壽寺」現在は移転して京都市東山区本町にある臨済宗で東福寺塔頭の万寿寺。嘗ては天龍寺・相国寺・建仁寺・東福寺とともに「京都五山」の一つとして栄えたが、永享六(一四三四)年)の火災後に衰微し、天正年間(一五七三年~一五九二年)には五山第四位の東福寺の北側にあった三聖寺の隣地に移転している。旧寺地はこの中央附近である。了意の語りでは、その衰微した末期をロケーションとすることになる。なお、この位置は新之丞に居宅からは実測でも六百メートルほどで、そう遠くはない。

「さやかに」はっきりとした。

「愛敬(あいぎやう)」可愛らしさ。魅力。

「なにはの事」「新日本古典文学大系」版脚注に、『事の次第。「難波」によく掛けられる』とある。前掲書で高田氏は『なにくれの事も』と訳された上で、「源氏物語」の「澪標」の一節を使用例として引いておられる。

「わりなく」「理無(わりな)く」。「その対象が理性や道理では計り知れない」ことを意味し、ここでは「冷たい理屈・分別を超えて親しい・非常に親密である」ことを言う。

「けしからず」怪しく奇妙なことに。妻の一周忌にして不思議なことではある。

若き女の聲して、夜每に歌うたひ、わらひあそぶ事のあやしさよ。』

「一具(〔いち〕ぐ)」一揃い。

「今夜」今朝未明。

「死すれば、忌(いみ)、ふかし」死んだ者が出れば、その穢れを厭うて、早々に遠く避けて、重く忌むのである。

「精分」健全な陽気に満ちた精気。元禄本や「新日本古典文学大系」版は「性分」であるが、気に入らないので、底本で採った。

「をよぶ」ママ。

「傳尸癆瘵(でんしらうさい)」漢方用語としてはそれぞれに意味を与えているが、「傳尸」も「癆瘵」も孰れも肺結核の古称である。

「惡証(あくしやう)」漢方では、自覚症状及び他覚的所見から、互いに関連し合っている症候を総合して得られた状態(体質・体力・抵抗力・症状の現れ方などの個人差)を意味する漢方独特の用語としてある。その甚だ悪性の様態を言う。なお、底本では「証」は「證」であったが、元禄本の判読を採用した。

「浴室(ふろや)」所謂、江戸時代の民間の営業用の「銭湯」ではなく、万寿寺の僧の浴室である。「新日本古典文学大系」版では右に『よくしつ』とルビし、左に『ふろや』と意解訓のルビを附す。同脚注に、『「ゆどの」「ゆや」とも。禅門では山門の右に位置し、跋陀婆羅』(跋陀婆羅尊者(ばったばらそんじゃ。跋陀婆羅菩薩とも呼ぶ。「水」によって悟りを開いたとされることから、浴室や水場で祀ることが多い)『の像を安置する「湯屋 風呂也。北嶺相国寺よりはじまる。鈸※(はつせ)菩薩は湯の音(こゑ)に得導(とくだう)するゆへ[やぶちゃん注:ママ。]にもちゆ」(新撰庭訓抄・九月往状)』(「※」=「方」+「它」。)とある。ウィキの「銭湯」によれば、『日本に仏教伝来した時、僧侶達が身を清めるため、寺院に「浴堂」が設置された。病を退けて福を招来するものとして入浴が奨励され、貧しい人々や病人・囚人らを対象としての施浴も積極的に行うようになった』。『鎌倉時代になると』、『一般人にも無料で開放する寺社が現れて、やがて荘園制度が崩壊すると入浴料を取るようになった。これが銭湯の始まりと言われている』。「日蓮御書録」によれば、文永三(一二六六)年に弟子の武士『四条金吾(四条頼基)にあてた書に「御弟どもには常に不便のよし有べし。常に湯銭、草履の値なんど心あるべし」とあることから、詳細は不明ながら、このころにはすでに入浴料を支払う形の銭湯が存在したと考えられている』。『なお、建造物として現存する最古の湯屋は東大寺に』延応元(一二三九)年再建、応永一五(一四〇八)年に『修復されたもので、「東大寺大湯屋」として国の重要文化財にも指定されている』。『室町時代、京都の街中では入浴を営業とする銭湯が増えていった。この頃、庶民が使用する銭湯は、蒸し風呂タイプの入浴法が主流だった』。『また、当時の上流階層であった公家や武家の邸宅には入浴施設が取り入れられるようになっていたが、公家の中には庶民が使う銭湯(風呂屋)を、庶民の利用を排除した上で時間限定で借り切る「留風呂」と呼ばれる形で利用した者もいた』。『なお、室町時代末期に成立した『洛中洛外図屏風』(上杉本)には当時の銭湯(風呂屋)が描かれている』とある。

「魂屋(たまや)」御霊屋(みたまや)。仏壇。前者は狭義には神道のそれだが、弥子は戒名で仏葬である。

「伽婢子(とぎぼうこ)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『原話は「盟器婢子」。「盟(明)器(めいき)」は中国古代からの習俗としての死者への副葬品。「婢子(ひし)」は婢女の意で、埋葬時に添えられた人形のことか。句解』(「剪燈新話句解」尹春年(一四三四年〜?:朝鮮朝の文人)訂正・林芑(生没年未詳:同前)集釈。慶安元(一六四八)年京都で板行された影印本が同岩波本の最後に総て画像で載る。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の同書の「巻二」の「牡丹燈記」がこちらPDF)の27コマ目からも総て視認出来る)『注「芻人」も葬具の人がた』(上記リンクの「30」コマ目。右頁の本文六行目の割注。但し、表記は「蒭人」(「芻」の異体字で「乾燥させた草」。それで作ったフィギアである))。『ここも弥子葬礼時に添えられた人形のこと。「伽婢子 トギボフコ〈又云露仏。本名天倪(アマカツ)〉(書言字考)、「ハウコ 大きな人形」(日葡)』とある。前掲書で高田氏は、『這う子にかたどった布製の呪術的人形』とされ、「はうこ(ほうこ)」の語源が明かされおり、さらに『江戸時代には庶民が幼児の祓(はら)いの具として用い、夜の守りとして犬張子を添えて飾った。又、嫁入りに持参したり、棺の中に入れていっしょに埋葬したりした』とあって目から鱗の注となっている。

「東寺(とうじ)」京都市南区九条町にある真言宗の根本道場で密教研学の中心拠点であった八幡山東寺(全ロケーションが入るように配した)。教王護国寺とも呼ぶ。

「卿公(きやうのきみ)」不詳。「新日本古典文学大系」版脚注には、『高僧を敬った言い方か』とある。

「精血(せいけつ)」漢方で人体を構成する基本物質とするもの。生命活動を維持するための肉体に必須な栄養物質及びそれに支えられた健常な精神も含むのであろう。正常な心身総体の生物的代謝と精神的エネルギを指すととっておく。

「神魂(しんこん)」生者の持つ正常な霊魂。

「昏惑(こんわく)」眩(くら)まされ、惑わされている状態。

「符(ふ)」護符。後の有象無象の牡丹灯籠譚では小賢しい展開のアイテムとして活用される。

「おさせらる」「押させらる」。「しっかりと貼り付けるように」と、お命じになった。

「禮拜〔らいはい〕」仏教では「らいはい」と読む。

「内を見いれ侍りしに」門外から寺の中を遠く覗いたのである。

「何時(いつ)まで草のいつ迄も」「何時(いつ)まで草(ぐさ)」は「何時迄草・常春藤」のなどと書き、セリ目ウコギ科 Aralioideae 亜科キヅタ(木蔦)属キヅタ Hedera rhombea のこと。当該ウィキによれば、常緑の蔓性木本。落葉性のツタ類(全く異なるブドウ目ブドウ科ツタ属 Parthenocissus tricuspidata 或いは同属種)に対し、常緑性で、冬でも葉が見られることから「フユヅタ」(冬蔦)とも呼ばれ、その葉をデザインした紋は、『ほかの樹木や建物などに着生する習性から』、「付き従うこと」に『転じて、女紋として用いられることがあった。蔦が絡んで茂るさまが』、『馴染み客と一生、離れないことにかけて』、『芸妓や娼婦などが用いたといわれる』ともあった。高田氏は前掲書脚注で、『「何時まで」の序詞。「いつまで草のいつまでも変らぬ友とこそ」(謡曲『松虫』)』と注されておられる。

「絕(たへ)」ママ。

「餘所(よそ)にせし」本来は「いい加減にして顧みないでいる・疎かにする・棚に上げる・放っておく」の意であるが、ここは新之丞の意識を、彼女から離させて、別な方へ向けたことを非難している。

「幸(さいわい)」ママ。

「恠しみ思ひ」奇体にして、まがまがしいことだと思い。弥子の霊を邪霊・悪鬼と断じて、体よく寺域から京の日常世界の辺縁へ追い出したのである。

「鳥部山」鳥辺野。京都市東山区の清水寺の南側に広がる野。「徒然草」の「化野(あだしの)の露、鳥部山の烟」で知られる通り、古く平安初期から京都近郊の葬送地の一つとして知られた。この附近(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「その後〔のち〕、雨降り、空曇る夜〔よ〕は、荻原と女と、手を取組み、女(め)の童(わらは)に牡丹花の燈籠、ともさせ、出〔いで〕てありく」『「是に行逢〔ゆきあ〕ふものは、重く煩(わづら)ふ」とて、あたり近き人は怖れ侍べりし』とは言わずもがな、鳥部山の墓地の近くでは、ない。五条・京極・万寿寺辺りの二人にとって懐かしい場所に、である。

「一日頓寫(〔いちにち〕とんしや)の經」追善供養のために大勢の者が集まって分担し、一部の経を一日で書写し終えること。多くは「法華経」を写す。「法華経」は二十八品、「一部八巻」と呼ばれ、総字数は六万九千三百八十四文字とされ、四百字詰の原稿用紙に換算すると、百七十三枚余となる。]

2021/04/18

大和本草附錄巻之二 魚類 フカノ類 (サメ類)

 

フカノ類スデニ本編ニ載タレ𪜈詳ナル事ヲ又コヽニ記ス

○ヲロカト云。フカアリ○一丁ト云。フカアリ○ウサメ○

白フカ○カセフカ右五種何レモ甚大キ也何モ人ヲ食

人ヲクラフ。フカハ油多シ不可食只油ヲ煎シ取○ツノ

ジハモダマニ似タリ只背スヂニ角ノ如ナル物二三アリ

是モダマニカハレリツノジモ。キモニ油多シ煎ジテ燈油

トス洋海ニアリ○ホウフカ色白シ○ス子ブカ色白し

○オホセ。尾ノキハニ角アリ性ツヨシ切テモ其肉生テ

ウゴク○サヾエワリ橫廣シヒキガヘルノ形ノ如シ○

ツノコ其形オホセニ似タリ腹ニ角アリ○ツマリフカ

頭ノ兩方ニ穴二アリ○カイメト云魚コチノ形ニ似タリ

長一二尺扁クウスシ頭ハスキノサキニ似タリウスシ

故ニ又スキノサキトモ云味ハフカニ似テカロシ生ニテモ

湯ビキテモ酢ミソニテサシ身ニシテ食ス肉白シ皮ニ

近所ハ赤シ口ハ腮ノ下ニアリ頭廣ク身ヨリ大ナリウ

スシ頭ノ兩ノ傍モヒレノ如シ形モ色モコチニヨク似タリ

頭ハコチヨリ廣ク大ニシテウスシ尾モコチノ如クニシテ

岐ナシ右ノフカノ類數品何モ味ハ相似タリ料理モ同シ

○やぶちゃんの書き下し文

「ふか」の類、すでに本編に載せたれども、詳〔か〕なる事を、又、こゝに記す。

○「をろか」と云ふ「ふか」あり。

○「一丁」と云ふ「ふか」あり。

○「うさめ」。

○「白ふか」。

○「かせふか」。

右五種、何れも甚だ大きなり。何れも人を食ふ。人をくらふ「ふか」は、油、多し。食ふべからず。只、油を、煎〔(せん)〕じ取る。

○「つのじ」は「もだま」に似たり。只、背すぢに、角のごとくなる物、二、三あり。是れも「もだま」に、かはれり。「つのじ」も、「きも」に、油、多し。煎じて、燈油とす。洋海(なだ〔うみ〕)にあり。

○「ほうふか」。色、白し。

○「すねぶか」。色、白し。

○「おほせ」。尾のきはに、角、あり。性〔(しやう〕〕、つよし。切りても、其の肉、生きて、うごく。

○「さゞえわり」。橫、廣し。「ひきがへる」の形のごとし。

○「つのこ」。其の形、「おほせ」に似たり。腹に角あり。

○「つまりふか」。頭の兩方に、穴、二〔(ふた)〕つあり。

○「かいめ」と云ふ魚、「こち」の形に似たり。長さ、一、二尺、扁(ひら)く、うすし。頭は、「すき」のさきに似たり。うすし。故に又、「すきのさき」とも云ふ。味は、「ふか」に似て、かろし。生にても、湯びきても、酢みそにて、さし身にして食す。肉、白し。皮に近き所は、赤し。口(くち)は腮〔(えら)〕の下にあり。頭、廣く、身より、大なり。うすし。頭の兩の傍〔(かたはら)〕も、ひれのごとし。形も色も「こち」に、よく似たり。頭は「こち」より廣く、大にして、うすし。尾も「こち」のごとくにして、岐(また)、なし。右の「ふか」の類數品〔(すひん)〕、何〔(いづ)〕れも、味は、相ひ似たり。料理も同じ。

[やぶちゃん注:★最初に注意喚起しておくと、底本としている「学校法人中村学園図書館」公式サイト内にある宝永六(一七〇九)年版の貝原益軒「大和本草」PDF版は、同学園の公式サイトが、先日、完全に大改造したため、リンク先が総て変更されている。私の膨大な過去記事のリンクを総て直すわけには行かないので、よろしくご理解あれ。ただ、旧リンクをクリックすると、同学園のホーム・ページに出るから、「検索」で「貝原益軒アーカイブ」で到達は出来る。★

 さて、益軒の言っている本編のそれは、「大和本草卷之十三 魚之下 フカ (サメ類(一部に誤りを含む))」であるが、それ以外にも、ここの記載と合わせて確認する必要があるものとして、「大和本草卷之十三 魚之下 鱧魚(れいぎよ)・海鰻(はも) (ハモ・ウツボ他/誤認同定多数含む)」がある。後者にはここに出る「つのじ」や「もだま」の名が出現するからである。まずはそちらの二項をお読み戴きたい。

「をろか」「大和本草卷之十三 魚之下 フカ (サメ類(一部に誤りを含む))」に『○「をろか」と云ふ大ぶかあり。人を食す。」あり』と出る(「をろか」の表記はママ)。そこで私は軟骨魚綱板鰓亜綱『メジロザメ目メジロザメ科イタチザメ属イタチザメ Galeocerdo cuvier としたい。「をろか」は不明(「愚か」は歴史的仮名遣では「おろか」で一致しない)』と注した。追加情報はない。

「一丁」同前で、『○「一(いつ)ちやう」と云ふ「ふか」あり。口、廣くして、人を喰〔(くら)〕ふ。甚だたけくして、物をむさぼる』とある。そこで私はかなり長い考証をしたので参照されたい。そこではいろいろ考えた末に、ネズミザメ目ネズミザメ科ホホ(ホオ)ジロザメ属ホホ(ホオ)ジロザメ Carcharodon carcharias を有力候補としたが、それに変更はない。

「うさめ」不詳。

「白ふか」「大和本草卷之十三 魚之下 フカ (サメ類(一部に誤りを含む))」に『「白ふか」、味、尤も美なり』と出、そこで私はメジロザメ目ドチザメ科ホシザメ属シロザメ Mustelus griseus に比定した。

「かせふか」同前で『○「かせぶか」。其の首、橫に、ひろし。甚だ大なるあり』と出、メジロザメ目シュモクザメ科シュモクザメ属 Sphyrna の別名として同定した。なお、ここでも益軒はシュモクザメが「人を食ふ」と述べているが、同前の「一(いつ)ちやう」の注で示した通り、シュモクザメが人を襲って食べるという実証事例は世界的にも全くと言っていいほどない(その姿の異様さから「人食い鮫」と思い込んでいる人は今も多いが)ことは、再度、言っておきたい。

『人をくらふ「ふか」は、油、多し。食ふべからず』本当にそうかどうかは不詳。そもそも「人食いザメ」はスティーヴン・スピルバーグ(Steven Spielberg)監督の映画“Jaws”1975年・アメリカ)以来の都市伝説と言ってよい。「講談社」公式サイト内の沼口麻子氏の『「人食いザメ」なんてこの世に存在しない、と断言できる理由 『ジョーズ』で貼られた悲しきレッテル』に、『世間でよく言われる「人食いザメ」とは、わたしたち人間がサメに対して抱いている勝手なイメージです。彼らが好んで人を食べるなんてことはありえません』。『データもそれを物語っています』。『アメリカ人の死因を調べた統計調査によれば、1959年から2010年までの約50年間で、サメに襲われて死亡した人は26人。年間平均で05人ほどです』。『ちなみに、同じ期間に落雷が原因で亡くなった人は1970人、年間平均で379人。サメに襲われて死ぬ確率は、実は雷に撃たれて亡くなるよりもはるかに低いのです』とあるのを読めば、一目瞭然である。既に書いたが、世界に棲息するサメの中で、人を積極的に襲い、捕食することがあることが確実とされている種は、実は、三種しかいない。まず、映画「ジョーズ」で知られる、

ネズミザメ目ネズミザメ科ホホ(ホオ)ジロザメ属ホホ(ホオ)ジロザメ Carcharodon carcharias

それと同様に危険度が高い以下の二種、

メジロザメ目メジロザメ科イタチザメ属イタチザメ Galeocerdo cuvier

メジロザメ目メジロザメ科メジロザメ属オオメジロザメ Carcharhinus leucas

だけであることを認識して戴きたい。また益軒の言う「人食い鮫は油(=脂)が多いので食ってはならない』というのは、本当にそうかどうかは判らぬ(恐らくは他のサメに比べてそんな特異性はない。言っとくが、私は深海底に適応したサメ類の肝臓の肝油のことを言っているのではない。脂が多くて食えないとなら、鯨やマンボウなんぞを食べる文化は日本では生まれるはずもないわ)。しかし少なくとも上記三種の内の前の二種は本邦でも盛んに食用にされている。

「つのじ」「大和本草卷之十三 魚之下 フカ (サメ類(一部に誤りを含む))」に、『○「つのじ」。「ふか」類なり。北土及び因幡・丹後の海にあり。其の皮、鮫のごとくにして、灰色。長さ三、四尺あり。筑紫にて「もだま」と云ふ魚に似たり。肝に、脂、多し。味よからず。賎民は食ふ。其の肝、大なり。肝に、油。多し。北土には是れを以つて燈油とす。西土にて「つの」と云ふも同物なるべし。背に刀のごとくなるひれあり』とあり、また、「大和本草卷之十三 魚之下 鱧魚(れいぎよ)・海鰻(はも) (ハモ・ウツボ他/誤認同定多数含む)」には、『或いは曰く、『丹後の海に「つのじ」と云ふ魚あり。これ、鱧なるべし』と云ふ〔も〕非なり。「つのじ」は「ふか」の類〔にして〕皮に「さめ」あり。筑紫にて「もだま」と云ふ魚に能く相ひ似たり。鱧とは別なり』と記している。それらでさんざん考証したが、「ツノジ」はメジロザメ目ドチザメ科ホシザメ属ホシザメ Mustelus manazo 或いは、ホシザメ属シロザメ Mustelus griseus の異名としてもあるのであるが、それ以上に実は、「サメ」とは遠い昔に分かれてしまった、現行の生物学上は狭義の「サメ」ではない、軟骨魚綱全頭亜綱ギンザメ目ギンザメ上科ギンザメ科ギンザメ属ギギンザメ類(軟骨魚綱全頭亜綱ギンザメ目 Chimaeriformes 或は代表種ギンザメ目ギンザメ上科ギンザメ科ギンザメ属ギンザメ Chimaera phantasmaの異名として、現在も広汎に見られる呼称である。私の『栗本丹洲 魚譜 異魚「ツノジ」の類 (ギンザメ或いはニジギンザメ)』(丹洲の同「魚譜」には六図に及ぶギンザメ類が描かれている。私のカテゴリ「栗本丹洲」を参照)や、『博物学古記録翻刻訳注 ■17 「蒹葭堂雑録」に表われたるギンザメの記載』を見られたい。ここで益軒が言っている「背すぢに、角のごとくなる物、二、三あり」というのはギンザメの様態記載として肯ずるものである(多くの種で第一背鰭が独立して一棘を成し(強くはないが有毒腺を持つ)、その背後の背鰭が高く突き出る)。ところが、それでは、実は決着しない。益軒の呼称と比定種には、彼自身の中で激しい混乱があって、彼の『「もだま」に似たり』という謂いもそれに拍車をかける。私は「大和本草卷之十三 魚之下 フカ (サメ類(一部に誤りを含む))」で、この「もだま」は当初、メジロザメ目ドチザメ科ホシザメ属ホシザメ Mustelus manazo と断定した(それに至るまでの考証では「1」から「5」までの候補とその理由を挙げたので見られたい)。ところが、他の益軒に記すそれらの属性を並べてみると、これが、ホシザメでもギンザメでもない感じがあるのである。而して私の結論としては、益軒が――「つのじ」や、それが似ている「もだま」――と言う場合、彼は実は、エイのように平たい、

軟骨魚綱板鰓亜綱カスザメ目カスザメ科カスザメ属カスザメ Squatina japonica

或いは、その近縁種の、

カスザメ属コロザメSquatina nebulosa

の類を念頭に置いていたように考えられるのである。

「ほうふか」不詳。

「すねぶか」不詳。

「おほせ」「大和本草卷之十三 魚之下 フカ (サメ類(一部に誤りを含む))」に、『○「をほせ」。其の形、守宮(やもり)に似て、見苦し。又、蟾蜍〔(ひきがへる)〕に似たり。海水を離れて、日久しく、死なず。首の、方大に、尾、小なり。其の肉を片々にきれども、死なず、猶ほ、活動す。味、よし。肉、白し』と出る。板鰓亜綱テンジクザメ目オオセ科オオセ属オオセ Orectolobus japonicus でよい。但し、益軒のその記載は、ここでも同じく、「切りても、其の肉、生きて、うごく」と記し、どうも怪しいものを感じる。そちらで、拘って考証したので、是非、参照されたい。

「さゞえわり」「榮螺割(さざゑわり)」で、ネコザメ目ネコザメ科ネコザメ属ネコザメ Heterodontus japonicus の異名としてよく知られる。「大和本草卷之十三 魚之下 フカ (サメ類(一部に誤りを含む))」で既注。

「つのこ」ウィキの「オオセ」を見ると、日本近海では上記の一科一属一種のみとあるから、近縁種ではない。学名のグーグル画像検索を見て戴くと判るが、口の辺縁には複数の皮弁(ぼよぼよした突起)がかなりあり(七~十本で、先端がこれまた二叉する)、特に大型になるとこれらが腹側に下がって見えるので、それを別種と見たものかも知れない。

「つまりふか」ツノザメ目ツノザメ科ツノザメ属ツマリツノザメ Squalus brevirostris であろう。漢字表記は「詰まり角鮫」かと思われる。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページを参照。但し、「穴、二〔(ふた)〕つあり」は不審。鰓孔が四対しかないサメはいない(サメ類のそれは五~七対)と思うが?

「かいめ」これはその益軒の詳述記載から、間違いなく、前の「大和本草附錄巻之二 魚類 エイノ類 (エイ類)」に出た、「すぶたゑい」(簀蓋鱝)、則ち、サメではなく、エイの一種である、

エイ上目サカタザメ目サカタザメ科サカタザメ属サカタザメ Rhinobatos schlegelii

或いは、同属の、

コモンサカタザメ Rhinobatos hynnicephalus

である。「カイメ」は福岡県の地方名として現在も現役である。語源は判らぬが、或いは、その形から「橈鮫」(かいさめ・かいざめ)が縮約したもののようにも思えた。]

芥川龍之介書簡抄39 / 大正四(一九一五)年書簡より(五) 山本喜譽司宛短歌三十首

 

大正四(一九一五)年・六月頃(年月推定)・山本喜譽司宛・(封筒欠)

ひたぶるに文かきつゞけ憂き事を忘れむとするわが身かなしも

ひたぶるにかくは何文(なにぶみ)鷄(くだかけ)のなくをもしらずかくは何文

文かけどかなしさ去らず灰皿のチユリツプの花見守(みも)りけるはや

夜もすがら露西亞煙艸をすひすひてあが泣き居れば口腫れにけり

ものなべてわれにつらかり消えのこる雪の光もわれにつらかり

かくばかり思ひなやむを誰か知るあが戀ふ人の目見しほりすと

ありし日の印度更紗の帶もなほあが眼にありにつげやらましを

あぶらびの光ほそけみあが見守(みも)る寫眞も今はせんなきものを

すべしらにあが戀ひ居ればしぬのめの光ひそかにふるへそめけり

ほのぼのといきづく春の水光(みづびかり)あが思ふ子ははろかなるかも

あさあけの麥の畑にほそぼそと鳥はなけどもなぐさめられず

どうにでもなれどうにでもなれとつぶやきて柳の花をむしりけるかも

ねころびてあが思(も)ひ居ればみだらなる女(をみな)のにほひしぬび來にけり

眼つぶれど肌のぬくもりかなしくもあにこそ通へいらがなしくも

ひとりゆく韮畑(かみらばたけ)の夕あかり韮(かみら)かなしもあがひとりゆく

鳥羽玉の夜さりくればかなしげに額(ぬか)をふせつゝ下泣ける子も

あが友は賢(さか)しかるかもわれを見てますらさびねと云ひにけるかも

垂乳根の母はいとしもあが戀を知らなくたゞに「な泣きそ」と云ふ

夜をこめてわがかく文の拙さにあが下泣けば鷄(くだかけ)もなく

わするべきたどきも知らず夜をこめてひそかに啜るベルモツトはや

せんすべもなければ君ゆおくり來し寫眞をみつゝ時かぞへけり

この寫眞かはゆかるかも木の下に童(わらべ)女童(めわらべ)笑みつどひけり

「夏なれば木の下の人一やうに團扇をもてり」とつぶやきしかも

忘れましさにこの女童を戀ひむとぞいく度ひとりつぶやきにけむ

みづからの頭(かうべ)をうちていらゝかに「しつかりしろ」と云ひにけらずや

折ふしは「世間しらず」をよみさしてさしぐむ我となりにけるはや

しかはあれどトルストイをよむ折ふしは淚はらひてますらをさぶれ

かにかくに心荒びぬあたゝかくこの心にもふりね春雨

この心よみがへるべきすべもがなあを戀ひぬべき淸(すが)し女(め)もがな

翠鳥(そにどり)のあをき帶してあに來けむ少女(むすめ)かなしもかなし少女も

  いい加減にずんずんかいた歌ばかり

  この次の水曜にドイツ語の試驗 あとはやすみ

  この手紙よみ次第やぶく事     龍

 

[やぶちゃん注:最後の書信は全体が二字下げでベタ表記二行であるが、字空け位置で分割した。

「鷄(くだかけ)」古式は清音で「くたかけ」。朝早くからやかましく鳴く鷄(にわとり)を罵って言った古い蔑称。語源は、「御伽比丘尼卷四 ㊄不思議は妙妙は不思議付百物語の注で私が引用した南方熊楠の話が面白い。

「ものなべてわれにつらかり消えのこる雪の光もわれにつらかり」この年(推定が正しければ)の年初の歌稿或いは追想吟。以下も初夏に至るまでのそれらは、そう捉えてよい。

「見しほりす」「見し欲りす」。「し」は文節強調の副助詞であろう。

「ありし日の印度更紗の帶もなほあが眼にありにつげやらましを」「ありに」はママ。「あるに」の意のつもりであろう。

「ほそけみ」「み」は原因・理由を添える接尾語。以下の係助詞「も」と対応する。

「すべしらに」「術知らに」。どうしようということも判らずに。

「しぬのめ」「東雲(しののめ)」に同じ。

「ねころびてあが思(も)ひ居ればみだらなる女(をみな)のにほひしぬび來にけり」北原白秋の明治四四(一九一一)年刊の第二詩集「おもひで」に載る、私の偏愛する「接吻」を想起させる(リンク先は私の「北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版)」のそれ)が、この前後三句は「柳」に「みだらなる女」――而して――「あに」(あそこに)「こそ通」ふのだ、「いらがなしくも」(苛立つような激しい哀しみ故に)――とくると、先に注で示した、吉田弥生との失恋の『破恋の痛手から逃れるため』に龍之介が頻繁に『吉原遊郭通い』をしたとする関口安義氏の見解が真実味を帯びてくる。

「韮(かみら)」「香(か)」おりの強いニラ(単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ネギ属ニラ Allium tuberosum )の古名「みら」で、「匂いの強い韮」の意。既に「古事記の「中つ巻」の歌謡に出る。半球形の散形花序で白い小さな花を多く咲かせるが、花期は八~九月でここでは花は咲いていないので想起映像に注意。

「下泣ける子」「人知れず、忍び泣く子」で龍之介の心象風景である。

「ますらさびね」「益荒(ますら)さびね」。「雄々しく立派であれ!」。

「母」養母芥川儔(とも)。

「たどき」「方便(たどき)」。「たづき」の上代の表現。手だて。

「ベルモツト」vermouth。フランス語。リキュールの一種。ワインにブランデーや糖分を加え、それに苦蓬(キク亜綱キク目キク科キク亜科ヨモギ属ニガヨモギ Artemisia absinthium )・りんどう・しょうぶ根などの香料や薬草によって香味をつけた混成ワイン。食前酒に用いられる。呼称自体はドイツ語のニガヨモギを指す“wermut”(ヴェーァモート)に由来する。

「君ゆ」君から。あなたより。

『「夏なれば木の下の人一やうに團扇を應てり」とつぶやきしかも』以下の二首とともに、所謂、ニューロシスな独語傾向が窺える。

「世間しらず」武者小路実篤が大正元(一九一二)年に洛陽堂から刊行した書き下ろしの恋愛小説「世間知らず」。私は読んだことがないが、楊琇媚氏の論文「武者小路実篤『世間知らず』論――主人公の自己成長に着目して(PDF・『日本研究』二〇〇八年三月発行)で梗概が判る。

「トルストイをよむ」直近では、既出の通り、「イワン・イリイチの死」を含む小説集を二月から三月にかけて読んでいる。

「さぶれ」そのものらしく振る舞う。已然形終止なのは、確定条件の逆接を示すためのもの。

「翠鳥(そにどり)」「翡翠(かわせみ)」の古名。ブッポウソウ目カワセミ科カワセミ亜科カワセミ属カワセミ亜種カワセミ Alcedo atthis bengalensis が本邦種。博物誌は和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴗(かはせび)〔カワセミ〕」を見られたいが、注には芥川龍之介に絡んだ、これから後の書簡に関わる添え書きとリンクをしてある。]

2021/04/17

伽婢子卷之三 鬼谷に落て鬼となる

 

    ○鬼谷(きこく)に落(おち)て鬼(をに)となる

 若州(じやくしう)遠敷郡(をにふのこほり)熊川(くまかは)といふ所に、蜂谷(はちや)孫太郞といふ者あり。家、富み榮えて、乏(ともし)き事、なし。この故に、耕作・商賣の事は心にも掛けず、只、儒學を好みて、僅(わづか)に其(その)片端(かたはし)を讀み、

「是に過〔すぎ〕たる事、あるべからず。」

と、一文不通(〔いち〕もんふつう)の人を見ては、物の數ともせず、文字學道(もんじがくだう)ある人を見ても、

「我には優(まさ)らじ。」

と輕慢(けうまん)し、剩(あまつさ)へ、佛法をそしり、善惡因果のことわり、三世流轉の敎(をしへ)を破り、地獄・天堂・裟婆・淨土の說をわらひ、鬼神(きじん)・幽靈の事を聞〔きき〕ては、更に信ぜず、

「人、死すれば、魂(こん)は陽に歸り、魄(はく)は陰にかへる。形〔かたち〕は土となり、何か、殘る物、なし。美食に飽(あき)、小袖着て、妻子ゆたかに、樂(らく)をきはむるは、佛よ。麁食(そしい)をだに、腹に飽(あか)ず、麻衣(あさぎぬ)一重(え)だに、肩を裾に、妻子を沽却(こきやく)し、辛苦するは、餓鬼道よ。人の門〔かど〕にたち、聲をばかりに、物を乞(こふ)て、わけをくらひて、きたなしとも、思はず、石を枕にし、草に臥(ふし)て、雪、降れども、赤裸(あかはだか)なる者は、畜生よ。科(とが)を犯し、牢獄に入られ、繩をかゝり、頚(くび)をはねられ、身をためされ、骨を碎かれ、或は、水責(〔みづ〕ぜめ)・火刑(ひあぶり)、磔(はりつけ)なんどは、地獄道也。これを取扱ふ者は、獄卒よ。此外には、總て、何も、なし。目にも見えぬ來世の事、まことにもあらぬ幽靈の事、僧・法師・巫(かんなぎ)・神子(みこ)のいふ所を信ずるこそ、おろかなれ。」

と云ひ罵り、たまたま諫むる人あれば、四書六經(りくけい)の文(もん)を引出(ひき〔いだ〕)し、邪(よこしま)に義理をつけて、辨舌にまかせて、いひかすめ、放逸無慚なる事、いふばかりなし。

 時の人、「鬼孫太郞」と名付て、ひとつ者にして、取合(とりあは)ず。

 或時、

「所用の事に付〔つき〕て、敦賀に赴く。」

とて、唯一人、行けるが、日〔ひ〕たけて家を出たりければにや、今津川原(いまづ〔かはら〕)にして、日は暮(くれ)たり。

 江州北の庄、兵亂(ひやうらん)の後なりければ、人の往來(ゆきき)も、まれなり。たやすく宿かす家も、なし。

 河原おもてに出〔いで〕て、見渡せば、人の白骨(はくこつ)、ここかしこに亂れ、水の流(ながれ)、ものさびしく、日は暮はてゝ、四方〔よも〕の山々、雲、とぢこめ、立寄るべき宿も、なし。

「いかゞすべき。」

と思侘(おもひわ)びつゝ、北の山ぎはに、少し茂りたる松の林あり。

 こゝに分入〔わけいり〕て、樹の根をたよりとし、すこし、休み居(ゐ)たれば、鵂鶹(ふくろう)の聲、すさまじく、狐火(きつねび)の光り、物凄く、梢に渡る夕嵐〔ゆふらん〕、いとゞ、身にしみて、何となく心細く思ふ所に、左右を見れば、人の死骸、七つ、八つ、西枕・南かしらに、臥(ふし)倒れてあり。

 蕭々(せうせう)たる風のまぎれに、小雨(こさめ)、一とほり、音づれ、電(いなびかり)、ひらめき、雷(いかづち)、なり出〔いで〕たり。

 かゝる所に、臥倒れたる尸(しかばね)、一同に、

「むく」

と起(おき)上り、孫太郞を目掛けて、よろめき、集(あつま)る。

 

Kikoku1

 

 恐ろしさ、限りなく、松の木に登りければ、尸(しかばね)ども、木のもとに立寄り、

「今宵の内には、此者は、取るべき也。」

と、のゝしる間(あひだ)に、雨、ふり止み、空、晴れて、秋の月、さやかに輝き出たり。

 たちまちに、ひとつの夜叉(やしや)、走り來れり。

 身の色、靑く、角(つの)、生(おひ)て、口、廣く、髮、亂れて、兩の手にて、尸をつかみ、首を引拔き、手足をもぎ、是をくらふ事、瓜(うり)をかむが如くにして、飽(あく)までくらひて後(のち)、わが登り隱れたる松の根を枕として臥(ふし)たれば、鼾睡(いびき)の音、地に響く。

 孫太郞、思ふやう、

『此〔この〕夜又、睡り覺めなば、一定〔いちぢやう〕、我を引おろして、殺し、くらはん。たゞ、よく寢入たる間に、逃げばや。』

と思ひ、靜かに樹(き)をくだり、逸足(いちあし)をいだして、走り逃げければ、夜叉は目を覺(さま)し、隙間(すきま)もなく、追(をひ)かくる。

 山の麓に古寺あり。軒、破れ、壇、くづれて、住僧もなし。

 うちに、大體(〔だい〕たい)の古佛(こぶつ)あり。

 こゝに走入(はしり〔いり〕)て、

「助け給へ。」

と佛に祈り、後(うしろ)に廻(まは)りたれば、佛像のせなかに、穴、あり。

 孫太郞、此穴のうちに入て、腹の中に、忍び隱れたり。

 夜叉は、あとより駈(かけ)入て、堂の内を搜しけれども、佛像の腹までは思ひ寄らざりけむ、出て去(さり)ぬ。

 

Kikoku2

 

『今は、心安し。』

と思ふ所に、この佛像、足拍子、ふみ、腹をたゝきて、

「夜叉は、是を求めて、とりにがし、我は、求めずして、おのづから得たり。今夜の點心、まうけたり。」

と、うたふて、

「からから」

と打笑ひ、堂を出て、步みゆく。

 かしこなる石に躓きて、

「はた」

と倒れ、手も足も、うちくだけたり。

 孫太郞、穴より出て、佛像にむかひ、

「我をくらはんとして、禍ひ、其身にあたれり。人を助くる佛の結構。」

と罵りながら、堂より東に行けば、野中に、ともしび、かゞやきて、人、多く、坐〔ざ〕してみゆ。

 是に力を得て、走り赴きければ、首なきもの、手なき者、足なきもの、皆、赤裸にて、並び坐したり。

 孫太郞、きもをけし、走りぬけん、とす。

 ばけもの、おほきに怒りて、

「我等、酒宴する半(なかば)に、座〔ざ〕をさます事こそ、やすからね。とらへて、肴(さかな)にせむ。」

とて、一同に立〔たち〕て、追(をひ)かくる。

 

Kikoku3

Kikou32

[やぶちゃん注:上が岩波文庫版、下が「新日本古典文学大系」版。下は清拭が面倒なので、荒い粒子が見えたままに添えてある。悪しからず。] 

 

 孫太郞、山ぎはにそふて、はしりければ、川、あり。

 ながるゝともなく、渡るともなく、向(むかひ)にかけあがれば、妖(ばけもの)は立〔たち〕もどりぬ。

 孫太郞、足(あし)にまかせて、ゆく。

 耳もとに、猶、どよみのゝしる聲、きこえて、身の毛(け)よだち、人心〔ひとごこ〕ちもなく、半里ばかりゆきければ、月、すでに、西にかたふき、雲、くらく、草しげりたる山間(〔やま〕あい[やぶちゃん注:ママ。])に行〔ゆき〕かゝり、石につまづきて、ひとつの穴に、落入〔おちいり〕たり。

 その深き事、百丈ばかり也。

 やうやう、落〔おち〕つきければ、なまぐさき風、吹〔ふき〕、すさまじき事、骨(ほね)に、とをる[やぶちゃん注:ママ。]。

 光り、あきらかになりて、見めぐらせば、鬼(おに)のあつまりすむところなり。

 あるひは、髮、赤く、兩の角(つの)、火のごとく、あるひは、靑き毛、生(をい)て、つばさあるもの、又は、鳥のくちばしありて、牙(きば)、くひちがひ、又は、牛の頭(かしら)、けだものゝおもてにして、身の色、あかきは、靛(べに)[やぶちゃん注:ママ。]のごとく、靑きは藍(あゐ)に似たり。目の光は、いなびかりの如く、口より、火焰を吐く。

 孫太郞が來るを見て、互(たがひ)に曰く、

「これ、此國の障(さは)りとなる者ぞ。取逃(とりにが)すな。唯、つなげよや。」

とて、鐵(くろがね)の杻(くびかせ)[やぶちゃん注:ママ。]をいれ、銅(あかゞね)の手械(てかせ)さして、鬼の大王の庭の前に、引すゆる。

 

Kikoku4

 

 鬼の王、大きに怒りて、曰(いはく)、

「汝、人間にありて、漫りに三寸を動かし、唇を飜(ひるが)へし、『鬼神(おにがみ)・幽靈、なし』といふて、さまさま、我等をないがしろにし、辱(はぢ)をあたふる、いたづら者也。汝、書典(しよでん)に眼(まなこ)をさらす。

 「中庸」に曰(いはく)、『鬼神の德、それ、盛(さかん)なるかな』と。

 「論語」に曰、『鬼神を敬して、之を遠ざく』と。

 「易」の「暌卦(きのくわ)」に曰、『鬼を一車にのす』と。

 「詩」の「小雅」に日、『鬼(き)をなし、蜮(こく)をなす』と。

 その外、「左傳」には晉の景公の夢、鄭(てい)の大夫(たいふ)伯有(はくいう)が事、皆、鬼神をいへり。

 唯、「怪力亂神を言はず」と云へる一語を、邪(よこしま)に心得て、みだりに鬼神(きしん)を悔る事は、何のためぞ。」

とて、則ち、下部(しもべ)のおにゝおほせて、散々に打擲〔ちやうちやく〕せしむ。

 鬼の王のいはく、

「その者の長(たけ)、たかく、なせ。」

と。

 鬼ども、あつまりて、くびより手足まで、ひきのばすに、にはかに、身の長(たけ)三丈ばかりになり、竹の竿(さほ)のごとし。

 鬼ども、笑ひ、どよめき、をしたてゝ、あゆまするに、ゆらめきて、打〔うち〕たをれたり。

 鬼の王、又、いひけるは、

「其者を、身の長(たけ)、短かく、せよ。」

と。

 鬼ども、又、とらへて、團子(だんご)のごとく、つくね、ひらめしかば、にはかに、よこはたがりに、みじかくなる。

 突立(つきたて)て、あゆまするに、

「むぐむぐ」

として、蟹(かに)のごとし。

 鬼共、手を打て、大〔おほき〕に、わらふ。

 こゝに、年老たる鬼の云ふやう、

「汝、常に鬼神(きしん)をなきものと、いひやぶる。今、この形〔かたち〕を、長く、みじかく、さまざま、なぶり、もてあそばれ、大なる辱(はぢ)を見たり。まことに不敏(びん)[やぶちゃん注:ママ。「不憫」の当て字。]の事なれば、宥(なだめ)あたへん。」

とて、手にて提(ひつさげ)、なげしかば、孫太郞、もとのすがたに、なる。

「さらば、是より、人間〔にんげん〕に返すべし。」

といふ。

 鬼ども、みな、いはく、

「此者を、只、返しては、詮(せん)なし。餞(はなむけ)すべし。」

とて、ある鬼、

「われは、雲路を分(わく)る角(つの)を、とらせん。」

とて、兩(ふたつ)の角を、孫太郞が額(ひたひ)に、をく。

 ある鬼は、

「われ、風にうそぶく嘴(くちばし)を、あたへん。」

とて、鐡(くろがね)のくちばしを、孫太郞がくちびるに、くはへたり。

 ある鬼、

「我は、朱(あけ)にみだれし髮(かみ)を、ゆづらん。」

とて、紅藍(べに)の水にて、髮を、そめたり。

 ある鬼、

「我は、みどりにひかる晴(まなこ)を、あたへん。」

とて、靑き珠(たま)、ふたつを、目の中に、をし入〔いれ〕たり。

 

Kikoku5

[やぶちゃん注:これは、「新日本古典文学大系」版であるが、これはかなり限界まで拘って、清拭しておいた。] 

 

 すでに送られて、あなを出〔いで〕つゝ、

『家に、かへらん。』

と思ひ、今津川原(いまづかはら)より、道にさしかゝれば、雲路を分る、兩の角、さしむかひ、風にうそぶく、くちばし、とがり、朱(あけ)にみだれし髮、さかしまにたちて、火のごとく、碧(みどり)の光りをふくむ、まなこ、輝き、さしも、おそろしき、鬼のすがたとなり、熊川にかへり、家に入たれば、妻も下人も、おそれ、おどろく。

 孫太郞、なみだを流し、

「かうかうの事ありて、此すがたになりしか共(ども)、心は、ゆめゆめ、かはらず。」

といふに、妻は、

「中々。此有樣、目の前に直(ぢき)に見るも、なさけなく、悲し。」

とて、孫太郞がかしらに、かたびら、打掛(うちか)けて、唯、なき、悲しむより外はなし。

 幼(いとけ)き子供は、怖れ、なきて、逃げ、あたりの人、集りて、手をうちて、恠しみ、見る。

 孫太郞も、物憂く覺え、戶を閉ぢて、人にも逢はず、物をも食(くは)ず、打籠(うちこも)り、思ひに亂れて、煩(わづら)ひ付き、遂に、むなしくなりぬ。

 そののち、時々は、元の孫太郞が姿にて、幻の如く、家のめぐりを步(あり)きけるを、佛事、營みければ、二たび、見えずとぞ。

 

[やぶちゃん注:本篇では挿絵(全四部七幅)の内、幾つかを「新日本古典文学大系」版ではなく、岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」(一九八九年刊。国立国会図書館本底本)のそれを用いてみた。汚損の印象が前者よりも軽く、清拭が遙かに簡単だからである。但し、「新日本古典文学大系」版とは、少し異なっており、そちらでは、三枚目の河原の亡者のそれは、中央奥と手前の灯明台の右横の亡者の首が存在しない。筆のタッチを見るに、これは旧所蔵者のものを、子ども辺りが付け加えてしまったもののように見える。それはそれで、却って透けてみる頭部のようで面白い。しかし、本文と矛盾するので、その一枚のみ前者の版を並置した。また、最終画は後者が蜂谷の子どもと小者の顔が白くとんでしまっていることから、前者を採用した。なお、元禄版では閻魔庁の一枚しか載っていない。

「若州(じやくしう)遠敷郡(をにふのこほり)熊川(くまかは)」現在の福井県三方上中郡(みかたかみなかぐん)若狭町(わかさちょう)熊川(くまがわ)(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。現在の三方上中郡若狭町の南端に当たり、山間部であるが、福井県と滋賀県の境にあり、小浜と近江・京都を結ぶ「若狭鯖街道」の宿場熊川宿として栄えた地である。

「蜂谷(はちや)孫太郞」不詳。

「一文不通(〔いち〕もんふつう)」無学文盲。

「文字學道(もんじがくだう)」学識を持ち、学問の道に志していること。「學道」は、特に「仏道を学んで修行すること」を指すことが多い。

「破り」否定し。

「天堂」ここでは前後から、六道の最上位で、人間道(にんげんどう)の上に位置する三善道のトップである天上道(他に天道・天上界・天上・天有(てんぬ)・天界(てんかい/てんがい)・天趣などの異名有り)のことであろうが、あまり聴かない異名ではある。我々のいる人間道の地上から遙か上方にあると考えられており、六道の中では相対的には最も苦悩の少ない世界とされ、輪廻の中にあって最高最勝の果報を受ける有情が住む清浄な世界とされる。そこに住むのは天人であり、長寿にして空を飛ぶなどの神通力も有し、六道の中では、相対上、最も快楽に満ち、苦しみは殆んどないとされる。但し、天道も所詮、輪廻のサイクルとしての六道の一つに過ぎず、天人も衆生であって、悟りを開いているわけではなく、而して当然、煩悩からも解放されてはいない。従って、何時かは死に、また、輪廻転生せねばならぬのである(その天人が死ぬ前に現われる穢れの予兆現象を「天人五衰」と呼ぶのである)。

「裟婆」人間道と同義。

「魂(こん)は陽に歸り、魄(はく)は陰にかへる」古代中国では、人間の霊的存在は「魂」と「魄」の二様があり、死ぬと「魂」は空に消え、「魄」は地深くに去るとされた。

「小袖」大袖(朝廷の即位・朝賀等の最も重要な儀式に用いる礼服(らいふく)の上の衣。小袖の上に着し、袖口が広く、袂が長い)或いは広袖(平袖(ひらそで)。袖口の下を縫い合わせていない袖。長襦袢・丹前・夜着などに用いる。)。の着物に対して、袖口が縫い詰まった着物を指す。当初は筒袖で、平服或いは大袖の下着として用いられたが、鎌倉・室町頃から表着とされるようになり、袂の膨らみのついた現在の着物のような形となり、衣服の代表的種別となった。縫箔・摺箔・絞染・友禅染など、あらゆる染織技術が応用され、桃山・江戸時代を通じ、最も華やかな衣服となった。

「麁食(そしい)をだに、腹に飽(あか)ず」「粗食をさえも、口にして、腹を満たす暇(いとま)さえ惜しんで」。後半部は原文自体の表現が意味上は上手くない。

「麻衣(あさぎぬ)一重(え)だに、肩を裾に」「麻一重の粗末な着物をさえ、肩を裾と間違えて結んでいるのにも気づかぬほどに、馬車馬のように働き」。同前。

「妻子を沽却(こきやく)し」以上で注したように、生活をぎりぎりまで詰まらせて刻苦勉励して働いても、結果、金に困って、妻や子を女衒(ぜげん)に売り払うこととなり。

「わけ」「分」。これで既に「少しばかりの食い残し。残飯」の意。分け与えた物の意ではないので注意!

「これを取扱ふ者」獄吏だけではなく、刑事事件を扱う奉行などの上下官吏全般を指す。則ち、蜂谷は仏教の地獄思想は現実社会の表象、喩え以外の何物でもないと喝破しているのである。現在の地獄思想は中国で、偽経を元にまさしくそうした現世の辛苦の鏡としての世界として形成され、浄土教がそれを体系化し、本邦でも広く信ぜられるようになったのであって、この蜂谷という男は、如何にもしったかぶった感じで厭な奴であるが、その言っているところはある意味で如何にも腑に落ちると言える。或いは、浄土真宗の僧であった作者浅井了意も、どことなく、そうした考えを持っていはしなかったろうか、と、ふと、思わせる蜂谷の口つきではある。

「六經(りくけい)」儒教の基本的な教学書としては「五経」が知られるが、古くは六つあったとされ、既知のそれに儀礼に関わる音楽について述べたものとされる「楽経」(がっけい)が挙げられていた。しかし、これは命数のみで、当該書は全く伝わっておらず、一説には秦の「焚書」で失われたとも、また、もともと存在しなかったともされる。但し、「楽経」の注釈書とされる「楽記」(がっき)なるものが、前漢の戴聖によって「礼記」(らいき)の中に所収されてはいる。そもそも「六経」は、先秦の儒家系の知識人が必須教養としたジャンルとしての詩・書(君子思想)・礼・楽(がく)という文学・政治及び規範的文化的素養を兼ね備えた四つの科(学問分野)は、戦国時代から漢代にかけて、儒教の正統的文献として次第に経典化されて整備されていったが、その過程で儒家はそれに加えるに、春秋 (歴史学・政治学)と易 (哲学・修身) の二つの教科をつけ加え、この命数としての「六経」を基本経典をシンボライズするものとして絶対定義させたのであった。後、武帝の「経学博士」の設置の際、「楽」を除いた五経、「易」・「書」・「詩」・「礼」・「春秋」がその必須教学の対象となったのである。

「いひかすめ」「言ひ掠め」上手く誤魔化して言いくるめ。

「放逸無慚」我儘で恥知らずなこと。

「ひとつ者」小学館「日本国語大辞典」に『誰も相手にしてくれないもの。仲間はずれ』とある。

「今津川原(いまづ〔かはら〕)」滋賀県高島市今津町。琵琶湖の北西岸。熊川から敦賀に行くのは、若狭湾を北右回りに廻るルートよりも、一度、琵琶湖に出て、塩津を経て、北上するコースの方が、遙かに整備されていたものと思われる。以下、初期設定のロケーションは今津川沿いであるから、こことなる(国土地理院図)。

「江州北の庄、兵亂(ひやうらん)の後なりければ」「新日本古典文学大系」版脚注に、『天正十一』(一五八三:グレゴリオ暦改暦の年。その実施が最も早かった国々ではユリウス暦一五八二年十月四日(木曜日)の翌日を、グレゴリオ暦一五八二年十月十五日(金曜日)とした)『年、秀吉軍により北庄城』が『落城(太閤記六)』しているので、了意は本篇の作品内時制を『この時の兵乱に託すか。柴田勝家も、その豪胆さから「鬼柴田」と称された(同)』とある。越前の北庄城(きたのしょうじょう)は、サイト「城郭放浪記」の「越前 北庄城」を参照されたい(地図有り)。現在の福井駅の南西直近にあった。

「鵂鶹(ふくろう)」これはちょっと問題がある。読みに従うなら、

フクロウ目 Strigiformes(メンフクロウ科 Tytonidae(二属十八種・本邦には棲息しない)及びフクロウ科 Strigidae(二十五属二百二種)の二科二十七属二百二十種が現生)

或いはそのフクロウ科 Strigidae に属する種群

或いは種としては、

フクロウ属フクロウ Strix uralensis

がいるものの、この漢字表記の方は、

フクロウ目フクロウ科 Strigidae の中で、羽角(うかく:所謂、通称で「耳」と読んでいる突出した羽毛のこと。俗に哺乳類のそれのように「耳」と呼ばれているが、鳥類には耳介はない)を有する種の総称俗称である「ミミヅク」を指す

からである。さらに面倒なのは、「ミミヅク」類をフクロウ類に含める場合と、含めずに区別して独立した群のように用いる場合があるが、鳥類学的には単一の分類群ではなく、幾つかの属に分かれて含まれており、しかもそれらはフクロウ科の中で、特に近縁なのではなく、系統も成していない非分類学的呼称であるからである(但し、古典的な外形上の形態学的差異による分類としては腑に落ちる)。則ち、「ミミズク」として代表的な種を示すことが難しいのである。人によっては、「『ふくろう』てルビするんだから、フクロウでいいじゃん。」と言う御仁がいるかも知れぬが、それは出来ない相談なのである。まず、フクロウとするならば、「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鴞(ふくろふ) (フクロウ類)」の私の注を見て戴きたいが、本州中部に分布する

フクロウ属フクロウ亜種モミヤマフクロウ Strix uralensis momiyamae

とすればいいように思われるかも知れぬけれども、そうは問屋は卸さないわけで、今度は「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鴟鵂(みみづく) (フクロウ科の「みみづく」類)」の方の、まず、本文をしっかり見て貰いたいわけだ。そこに、江戸時代の本草学のバイブルである明の「本草綱目」の引用の最後の部分で、

   *

鴟鵂の小さき者、「鵂鶹〔いひとよ〕」と爲す。

   *

(「いひとよ」の読みは私が附した和訓。以下を参照)とあるからだ。則ち、時珍は――「鵂鶹」とは現在のミミズクの小型の種を言う――とわざわざ限定して言っているからである。そこで私は以下のように注を附した。

   *

「鵂鶹〔いひとよ〕」(音「キウリユウ(キョウリュウ)」)小学館「日本国語大辞典」に「いいとよ」(歴史的仮名遣「いひとよ」)の項を設け、この「鵂鶹」の漢字を当て、『「いいどよ」とも』(こちらの濁音形が古形)とした上で『「ふくろう(梟)」の古名』とし、「日本書紀」の皇極天皇三(六四四)年三月の条を引き、「岩崎本」訓読で『休留(イヒトヨ)<休留は茅鴟なり>子を豊浦大臣の大津の宅の倉に産めり』と出すのに従ってルビを振った。但し、「本草綱目」はこれを、「ミミズクの小型種」の名としていると読めるが、前注で出した大修館書店「廣漢和辭典」の「鵂」の使用例を見ても、「鶹」の字を単独で調べてみても、孰れもミミズクのことを指すだけで、特別な小型の限定種を指しているようには思われない。

   *

とした。されば、私はどちらとも言い難いのである。ただ「フクロウ」と無批判に注するわけにはいかないのである。これは私の全くのオリジナルな伝統的古典的博物学趣味に基づく注であり、これは私の注の特色としてどうしても省略出来ない部分なのである。

「夜叉(やしや)」サンスクリット語の「ヤクシャ」及びパーリ語の「ヤッカ」の漢音写で、インド古代から知られる半神半鬼。本来は「光のように速い者」、「祀られる者」を意味し、神聖な超自然的存在と捉えられていたらしい。しばしば、悪鬼羅刹(らせつ)とも同一視される。後に仏教では毘沙門天の従者として仏法を守護する八部衆の一神に位置づけられた。人に恩恵を与える寛大さと、殺害する凶暴さとの両極属性を併せ持つところから、その信仰には、強い祈願と慰撫の儀礼を伴う場合が多い。なお、「夜叉女」(やしゃにょ:「ヤクシニー」の漢音写)も、地母神としての優しさと同時に残忍さを持つことで知られる。

「一定〔いちぢやう〕」必ずや。

「逸足(いちあし)をいだして」脱兎の如くに速走(はやばし)りをして。

「隙間(すきま)もなく」間髪を入れず。直ちに。

「大體(〔だい〕たい)」大振りであること。

「『助け給へ。』と佛に祈り、後(うしろ)に廻(まは)りたれば、佛像のせなかに、穴、あり。孫太郞、此穴のうちに入て、腹の中に、忍び隱れたり」羅刹(らせつ)に追われた肥後の書生が、心中観音を祈請し、墓穴(実は遠い有難い上人のそれ)に逃げ込んで、難を逃れるという構成がかなり酷似した話がある。「今昔物語集」巻第十二の「肥後國書生免羅刹難語第廿八」(肥後國に書生、羅刹の難を免れたる語(こと)第二十八)がある。「やたがらすナビ」のこちらで、新字の原テクストが読める。

「夜叉は是を求めてとりにがし、我は求めずして、おのづから、得たり。今夜の點心、まうけたり。」「夜叉は、こ奴を求めつつも、取り逃がし、儂(わし)は、欲しがってもおらぬに、自然と、まあ! ここに〈仏、自分の腹を指さして〉、瓢箪から駒で、貰うたわい! 今宵の非時(ひじ)の軽食を、さあぁて! いただくとしよう」。脚本風に訳した。「非時」とは、本来、仏僧は一日に午前中に一食しか食事を摂ることは許されないが、それでは身が持たないので、午後に非公式の食事を摂る。それを、かく呼ぶ。

「我をくらはんとして、禍ひ、其身にあたれり。人を助くる佛の結構。」「我を喰らわんとした故、かくなり災いが、その身に降りかかったればこそじゃて。よく言うであろう、『人を助くるが仏の路』と。その伝家の宝刀のお蔭で我は救われたというわけさ。」という皮肉を言っているのである。夜叉の実在を恐れながら、それを棚上げして、あくまで仏法を蔑ろにする立場を崩さない蜂谷は、救いようがない中途半端な毀仏無鬼論者と言える。

「座〔ざ〕をさます」座の興を醒ます。

「やすからね」「とんでもなく面白くない奴じゃ!」。

「ながるゝともなく、渡るともなく、向(むかひ)にかけあがれば」今津川の川波にすっかり流されたというわけでもなく、かといって、しっかり徒渉したという感じでもないままに、向こう岸に駆け上がるところ。しかし、この川は最早「今津川」ではなかった。図らずも「三途の川」を蜂谷は渉ってしまったのであった。

「どよみ」「響み」。大声で騒ぎ。

「百丈」三百三メートル。ここでそれを示すのも阿呆臭いほどに地獄にしては、しょぼい距離だ。『「和漢三才圖會」巻第五十六「山類」より「地獄」』の私の注を参照されたい。

「とをる」「徹(とほ)る」。

「靛(べに)」読み不審。この「靛」の字は「青色・藍色」を指す。

[やぶちゃん注:ママ。]のごとく、靑きは藍(あゐ)に似たり。目の光は、いなびかりの如く、口より、火熖を吐く。

「此國の障(さは)りとなる者ぞ」勘違いしてはいけない。鬼の獄卒が言うのであるから、現世の人間界を「此」の「國」と言っているのではない。「此國」とは取りも直さず、「地獄」である。地獄にとってさえ、「蜂谷は地獄にとって大いなる禍いとなる禍々(まがまが)しき者だ!」と叫んでいるのである。

「杻(くびかせ)」これは「手械(てかせ)」を指す漢語である。「新日本古典文学大系」版脚注でも問題としてあり、了意は本書の中でも頻繁に用い乍ら、統一した訓を附しておらず、ブレが生じていることを指摘されておられる。なお、「かせ」は「枷」(音「カ」)とも書くが、この本来の訓の「かし」が音変化「かせ」である。

「引すゆる」他動詞ヤ行下二段活用「据ゆ」の連体形。既に鎌倉時代に用例がある。ここは余情を込めた連体止めとなっている。

「三寸」舌。「舌先三寸」で承知。

「唇を飜(ひるが)へし」口角、泡を飛ばして、論難することを指す。

「汝、書典(しよでん)に眼(まなこ)をさらす」「お前は、常に書物に眼を通しておるな。」という確認。

『「中庸」に曰(いはく)、『鬼神の德、それ、盛なるかな』と』「中庸」第十六章に、

   *

子曰、鬼神之爲德、其盛矣乎。視之而弗見、聽之而弗聞、體物而不可遺、使天下之人、齋明盛服、以承祭祀、洋洋乎、如在其上、如在其左右。詩曰、神之格思、不可度思、矧可射思。夫微之顯、誠之不可掩、如此夫。

   *

既存の訓読は「詩経」の「大雅」の「抑編」の引用部が気に入らないので、我流で示す。

   *

 子曰く、「鬼神の德、其れ、盛んなるかな。之れを視れども、見えず、之れを聽けども、聞えず、物を體(たい)して、遺すべからず、天下の人をして齋明盛服(さいめいせいふく)させ、以つて祭祀を承(う)けしめ、洋々乎(やうやうこ)として、その上に在るがごとく、其の左右に在るがごとし。「詩」に曰く、『神の格思(いたること) その思(こと)度(はか)るべからず 矧(いはん)やその思(こと)射(いと)ふべけんや』と。夫れ、微(び)の顯(けん)にして、誠(せい)の掩(おほ)ふべからざる、此くのごときかな。

   *

「怪力亂神を語らず」と豪語した孔子にして珍しく鬼神を解説した部分、と言ってもそれは、御覧の通りの、「不可視にして、何時もそれを超感覚として天地・周囲に感ずる対象であると」する。「洋洋乎」は広々としたさま・ゆったりしたさま・限りないさま。「詩経」のそれは、「鬼神の至るのは何時のことなのか知ることは出来ない」し、「ましてや、鬼神を「射(いと)ふ」=「厭(いと)う」=嫌がって無視することは、それ、不可能なことだ」という意であろう。以下、『鬼神とは、不可視の「微」なる本体が、たまたま、示現して「顕」かなものになったかのように見えたものに過ぎず、鬼神の真の徳であるところの「誠」(まこと)は人間如きの知によって解明し得るような対象ではない。さても、鬼神とは、そのような対象なのである』と言っているものと私は解する。そもそもが中国の「鬼」は、本源的にフラットな「死者」の意であり、それは概ね「古えの人々或いは自身の先祖の死者の霊」の意であることを押さえておかずに、専らおぞましいモンスターとしての邪鬼としての鬼しかイメージ出来ない日本人には、これらの漢籍を理解することは出来ない。

『「論語」に曰、『鬼神を敬して、之を遠ざく』と』「論語」「雍也(ようや)第六」の一節。

   *

樊遲問知。子曰、務民之義、敬鬼神而遠之。可謂知矣。

   *

樊遲(はんち)、「知」を問ふ。子曰く、「民の義を務め、鬼神を敬して、之れを遠ざく。これ、『知』と謂ふべし。」と。

   *

孔子の「知」の理解は、「人民が、日常を保つために、やるべきことを総て行い、死者の御霊(みたま)は敬いつつも、それは日常にあっては遠いところに置いておく」というのである。「鬼神」、則ち、超自然的現象や対象はこれを否定せず、謙虚に敬いはするけれども、現実の生活には、これらを拘わらせないことが、人知のあるべき姿である、とするのである。

『「易」の「暌卦(きのくわ)」に曰、『鬼を一車にのす』と』「易經」の「火澤暌」(かたくき)の一節の「上九 暌孤。見豕負塗。載鬼一車。先張之弤。後說之弤。」(上九 睽(そむ)きて孤(ひとり)なり。豕(ゐのこ)の塗(どろ)を負(を)うを見、鬼(き)を一車に載(の)す。先には之れに弤(ゆみ:弓)を張り、後には之れに弤を說(と)く。)。私は四書五経中、最も「易経」に興味がないので(暗示が過剰で、諸解釈が横行しているからである)解説する気にならないが、引用部は、諸解説を見るに、判り易いものによれば、「鬼神が車に乗っているように見えた。まずはそれを弓で射殺そうとしたが、よくよく見れば、それは錯覚であり、それは鬼神ではなかった。されば、疑い晴れ、弓を捨てた」ということか。本邦の「幽霊の正体見たり枯れ尾花」的な感じか。

『「詩」の「小雅」に日、『鬼(き)をなし、蜮(こく)をなす』と』「詩經」の「小雅」の以下。

   *

爲鬼爲蜮、則不可得。有靦面目、視人罔極。作此好歌、以極反側。賦也。蜮、短狐也。江淮水皆有之。能含沙以射水中人影。其人輒病。而不見其形也。靦、面見人之貌也。好、善也。反側、反覆不正直也。○言汝爲鬼爲蜮、則不可得而見矣。女乃人也。靦然有面目與人相視、無窮極之時。豈其情終不可測哉。是以作此好歌、以究極爾反側之心也。

   *

 鬼たり、蜮たらば、則ち、得べからず。靦(てん)たる面目(めんぼく)有りて、人を視ること、極まり、罔(くら)し。此れ、好(よ)き歌を作りて、以つて、反側を極む。賦なり。蜮は「短狐」なり。江淮の水に、皆、之れ、有り。能く沙を含みて、以つて水中の人影を射る。其の人、輒(すなは)ち病む。而して、其の形は、見えざるなり。「靦」は、面(むか)ひて人を見るの貌(かたち)なり。「好」は、善きなり。「反側」は反覆して正直ならざるなり。

   *

私の「和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蜮(いさごむし) 附 鬼彈」が参考になる。私はそこで、この「蜮」を、通常は目に見えない(見えにくい或いは、たまに奇体な虫として見える)種々の人体寄生虫症、卵や幼虫・成虫の経口感染のみならず、皮膚から直接侵入するタイプのフィラリア症、及び、日和見感染でも重篤な症状を引き起こす他生物の寄生虫の感染症などを含むものが、この「蜮に射られる」ことの正体なのではないかと確信的に考えた。さすれば、それは事実に於いては真の「鬼神」の範疇からは外れることになる。

『「左傳」には晉の景公の夢、鄭(てい)の大夫(たいふ)伯有(はくいう)が事、皆、鬼神をいへり』前者は「病、膏肓(こうこう)に入る」(「肓」は横隔膜の上の部分、「膏」はその上方にある心臓の下の部分。実際の臓器ではない)の原拠。「春秋左氏傳」の「成公十年」(紀元前五八一年。「新日本古典文学大系」版脚注では『成公十三』とするが、誤りであろう。「成公」は春秋時代の「晉」(晋)(しん 紀元前十一世紀~紀元前三七六年)の)の君主(在位:紀元前六〇〇年~紀元前五八一年)。

   *

晉景公疾病。求醫于秦。秦伯使醫緩爲之。未至、公夢、疾爲二豎子、曰、「彼良醫也。懼傷我。焉逃之。」其一曰、「居肓之上、膏之下、若我何。」醫至曰、「疾不可爲也。在肓之上、膏之下、攻之不可。達之不及、藥不至焉。不可爲也。」公曰、「良醫也。」厚爲之禮而歸之。

   *

 晉の景公[やぶちゃん注:晋の王(在位:紀元前五九九年~紀元前五八一年)。]、疾(やまひ)病(へい)なり。醫を秦に求む。秦伯醫(しんぱくい)緩(かん)をして、之れを爲(をさ)めしむ。未だ至らざるに[やぶちゃん注:その医師緩が来国する前に。]、公の夢に、疾(やまひ)、二豎子(にじゆし)[やぶちゃん注:二人の子ども。]と爲(な)りて、曰はく、

「彼は良醫なり。我を傷つけんことを懼(おそ)る。焉(いづ)くにか、之れを逃(のが)れん。」

と。

 その一(いつたり)、曰はく、

「肓(こう)の上、膏(こう)の下に居(を)らば、我を若何(いかん)せん。」

と。

 醫、至りて曰はく、

「疾、爲むべからざるなり。肓の上、膏の下に在りて、之れを攻むるは不可なり。之れに達せんとするも、及ばず、藥、至らず。爲むべからざるなり。」

と。

 公曰はく、

「良醫なり。」

と。

 厚く之れが禮を爲(な)して之れを歸(かへ)らしむ。

   *

後者は、同書の「昭公七年」(紀元前五三五年。昭公は魯の第二十五代君主。在位は紀元前五四一年から紀元前五一〇年)の以下。

   *

鄭人相驚以伯有曰、「伯有至矣。」。則皆走。不知所往、鑄刑書之歲二月、或夢伯有介而行曰、「壬子、余將殺帶也。明年壬寅、余又將殺段也。」。及壬子、駟帶卒、國人益懼。齊燕平之月、壬寅、公孫段卒、國人愈懼。其明月、子產立公孫洩及良止以撫之、乃止。子大叔問其故、子產曰、「鬼有所歸、乃不爲厲、吾爲之歸也。」。大叔曰、「公孫洩何爲。」。子產曰、「說也。爲身無義而圖說、從政有所反之以取媚也。不媚不信、不信、民不從也。」。及子產適晉、趙景子問焉曰、「伯有猶能爲鬼乎。」。子產曰、「能。人生始化曰魄、既生魄、陽曰魂、用物精多、則魂魄强、是以有精爽、至於神明。匹夫匹婦强死、其魂魄猶能馮依於人、以爲淫厲。況良霄。我先君穆公之冑、子良之孫、子耳之子、敝邑之卿、從政三世矣、鄭雖無腆、抑諺曰、『蕞爾國』、而三世執其政柄、其用物也弘矣。其取精也多矣。其族又大、所馮厚矣,而强死、能爲

鬼、不亦宜乎。」。

   *

紀元前五四三年に鄭の貴族伯有が反乱を起こし、国の武器庫を押さえたものの、彼の兄弟によって殺される(襄公三十年)。それから八年後、鄭の国内に伯有の霊の噂が流れ、鄭の人々が恐怖に襲われ、慄いたというのである。長いので訓読しないが、廣野行雄氏の論文「誰が賈探春の母か―「紅楼夢」読解の一前提―」PDF・『駿河台大学論叢』第三十七号・二〇〇八年)の「Ⅲ」に非常に分かり易い全訳が載るので参照されたい。そこでは、恨みを持って死んだ者は貴賤を問わず、祟りを成すことが語られてあり、それを祀って遠ざけるという、本邦の御霊信仰と同義の内容が記されてある。

「つくね」「捏(つく)ねる」。手で捏(こ)ねて丸く団子のように固めること。

「ひらめしかば」平たく潰したところ。

「よこはたがり」「新日本古典文学大系」版脚注では、『足を広げて立つ』とするが、どうもイメージし難い。寧ろ、用法としては、やや難があるが(「がり」は人或いは代名詞について「その人の方」という方向を指す接尾語だからである)、「橫側許(よこはたがり)」か。横側面方向に向かって、ぺったりと平たくなったのである。

「いひやぶる。」「論難しよったな。」。

「宥(なだめ)あたへん。」「ここらで許してやろうぞ。」。

「人間〔にんげん〕に返すべし」老婆心乍ら、これは、「人間の姿に戻してやろう」ではなくて、「人間道に帰してやろう」の意である。

「詮(せん)なし」折角の仕置きも無駄になる。

「餞(はなむけ)」地獄へ来たことを証する餞別。

「うそぶく」ここは「息を吹きかけて大音を発する」の意。

「くはへたり」「加へたり」でもいいが、ここは「啣へ」させ「たり」の方が面白い。

「紅藍(べに)」二字への読み。紅色と青色。又は紫色。植物の「茜(あかね)」の古名や「紅花(べにばな)」の異名でもあるが、ここは地獄の一丁目、相応しくない。亡者の垂らした血のりで出来たどす赤いそれである。

「晴(まなこ)」この漢字は「眼晴」で瞳(虹彩)を限定する。

を、あたへん。」

「かたびら」「帷子」。「袷(あわせ)」の「片枚(かたひら)」だけの意で、裏を附けない衣服の総称。単衣(ひとえ)。

「手をうちて」嘗ては盛んに用いられた、何かを初めて見た時の驚きを表わす動作である。必ずしもポジティヴなものだけでなく、こうしたまがまがしいものに対しても用いた。]

2021/04/16

芥川龍之介書簡抄38 / 大正四(一九一五)年書簡より(四) 井川恭宛一通短歌三十二首

 

大正四(一九一五)五月十三日・消印十四日・京都市吉田京都帝國大學寄宿舍内 井川恭樣 親剪・五月十三日 田端四三五 芥川龍之介

 

熱があつてねてゐる なほつたら君の手紙の返事をかかうと思つてゐたが急になほりさうもないから之をかく ねながらかくんだから長い事は書けない 肺かと思つて大分心配した 試驗のしたくが出來ないんでこまる 大へん不愉快だ

 

枕邊の藤の垂(たり)花ほのぼのと計溫表にさき垂りにけり

かすかるかなしみ來る藤浪のうすむらきをわが見守る時[やぶちゃん注:「かすかる」はママ。]

水藥の罎にかゝれる藤の花わが知らなくにこぼれそめけり

人妻の上をしぬびて日もすがら藤の垂花わが見守るはや

ほのぼのと戀しき人の香をとめば藤はかそけく息づきにけり

うすくこくにほへる藤の花がくり NOTE-BOOK に塵おける見ゆ

むらさきの藤さく下にちらばへるオブラードこそやらはましけれ

[やぶちゃん注:ここに抹消された一首があるが、判読不能の旨、底本「後記」ある。]

ひたものにたへがたければ藤の花花つみにつゝわが戀ふるなる

したしかる人みなとほしひえびえと夕さく藤はほのかなるかも

[やぶちゃん注:同前で、ここに抹消された二首があるが、判読不能。]

はつ夏の風をゆかしみ窓かけをひけばかつちる藤の垂り花

藤の花ゆりゆるゝむたほそぼそ香こそとひ來れ物思(ものも)へとふごと

のみすてしコツプの水にほのかなる藤のむらさきちれりけるかも

心ぐし藤の垂り花たまさぐりたまさぐりつゝもの思ひにけれ

床ぬちに汗を流してわがあれば額かいなづる藤の花かも

熱いでゝやゝ汗ばめるわが肌をかいなづる風は藤のした風

うつゝなく眼を細むれば藤の花睫毛のひまにさゆらげるかも

[やぶちゃん注:同前で、ここに抹消された一があるが、判読不能。]

さきのこる鉢の藤はも夕かけてほの白みたる鉢の藤はも

やゝ疼(うづ)む注射のあとをさすりつゝわがひとり見る藤の花房

しくしくと注射の針のわが肌を剌すがに來るかなしみもあれ

日和雨ふりやまなくにしくしくと注射のあとの痛みやまずも

日和雨しくしくふりて濡椽の藤に光るとかなしきものか

きらゝかに日和雨ふる濡椽の藤はいつしかうなだれてけり

熱臭き小床ゆ出でゝ濡椽の藤の虫とる午のつれづれ

灯ともせば藤の垂り花ひそひそと NOTE-BOOK に影おとしけり

月かげと灯(ほ)かげとさして藤の影敷布(シート)にさすはあはれなるかも

あが友はいかにかあらむ入澤の池の藤浪みつゝかあらむ

春日野の藤の花さき春日野の松の葉もえて夏づきにけむ

すくよかにあが友ありね此日頃あがいたつきは未怠らず

むらさきの藤散り散れどこの日頃わがいたつきは未怠らず

 

試驗注射をしてみたが反應がない 肺ではなささうだ もうぢきなほるだらうと思ふ 心配する程の事はない ゑはがきを難有う 皆大へんよろこんだ

あが父は眼鏡を二つかけにけり都踊りの画はがき見ると

豚(ぶた)じもの父は寢吳蓆(ねござ)にはらばひて都踊りの画はがき見たり

[やぶちゃん注:同前で、ここに抹消された一があるが、判読不能。]

打日さす都踊りの繪はがきをあがながむれば祇園ししぬばゆ

打日さす都大路の遲櫻誰が木履(こぼこぼ)ゆちりそめにけむ

 

    十三日            龍

   恭   樣 梧下

 

[やぶちゃん注:短歌群と書信の間は一行空けた。抹消部分は底本の「後記」に従って、注記挿入及び再現を行った。既に述べた通り、吉田弥生の結婚式は四月月末、金田一光男と弥生の婚姻届はこの二日後の五月十五日に届け出された。新全集宮坂年譜では、この五月の頭に『初旬 吉田弥生への思いが薄れ始め、次第に落ち着きを取り戻す。「Yの事は一日一日と忘れてゆきます」』(この前の大正四(一九一五)年五月二日・牛込荻赤城元町竹内樣方 山本喜譽司樣 直披・五月二日朝 田端四三五 芥川龍之介」参照)『などと記している』とする。しかし、一方で、続けて同月の『中旬 体調を崩す。一時は結核ではないかと心配し、週に二回ほどの通院が翌月末まで続いた』とあり、その後に丸括弧補足で、『破恋の痛手から逃れるための吉原遊郭通いの影響も指摘されている』(関口安義氏の説)ともある。ここに記した歌群にも「人妻」として弥生の影は、未だ全体に色濃く、ナーバスでメランコリックである。私が「吉田弥生恋情歌群」と呼んだ一連の短歌も「やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集 附やぶちゃん注」で参照されたい。

「試驗のしたくが出來ないんでこまる」学年末試験は六月十日から十六日であった。

「ほのぼのと戀しき人の香をとめば」の「とめば」は「尋・求・覓めば」で、「さがしもとめんとすれば」の意。

「オブラード」薬包のオブラート。

「やらはましけれ」「遣らはましけれ」「やる」は「追いやる・追放する」で、「打ち払って捨ててしまいたくなることだ」の意。

「ひたものに」「直物に」。副詞」一途に。只管(ひたすら)。矢鱈と。

「むた」不詳。或いは、「むた(共・與)」で、形式名詞で、「~と一緒にあること」「~とともにしていること」の意を作るそれか。「搖り搖るる」とともに「ほそぼそ」と微かに「香」を送って、の意で、納得は出来るが、しかし、この語は名詞又は代名詞に格助詞「の」「が」を添えた語に接続して、全体を副詞的に用いるものであり、もしそうだとしたら、用法としては全くの誤りである。「やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集 附やぶちゃん注」を見られると判るが、龍之介は初期作品にこの「の」+「むた」を複数回使用している。

「心ぐし」心が晴れずに鬱陶しい。切なく苦しい。万葉以来の古語。

「床ぬち」「とこぬち」病臥の床の中。

「額」「ぬか」。かいなづる藤の花かも

「剌すがに」この「がに」は接続助詞で、この場合は、動詞の連体形に付いて、程度・状態について「~そんなふうに・~のほどに」の意。万葉以来の古語であるが、この用法は上代の接続助詞「がね」の東国方言とも考えられている。中古以降は和歌に、また、東国地方以外でも用いられた。「終助詞」とする説もある。以上は「学研全訳古語辞典」の解説に拠った。

「日和雨」「ひよりあめ」。天気雨。

「濡椽」「ぬれえん」。芥川龍之介に限らず、明治の作家の多くは「緣」とすべきところを、「椽」と書く傾向が甚だ多い。これは完全な誤用であるが、慣用語として広く使用されてしまっている。「椽」は「たるき」で屋根を支えて棟から軒に渡す建材を指す語であって、縁側を指すことはないし、音も「テン・デン」であって「エン」ではない。

「敷布(シート)」sheet。シーツ。

「入澤の池」不詳。次の一首の「春日野の藤の花さき」は奈良の藤の花の美しさで知られる春日大社であるが、この名の池は確認出来ない。単なる一般名詞としての用法か。京や奈良には私は冥いので判らぬ。識者の御教授を乞う。

「いたつき」「勞(病)き」で病気のこと。

「試驗注射」ツベルクリン皮膚検査のことであろう。

「豚(ぶた)じもの」「じもの」は接尾語。名詞に付いて「~のようなもの」「~のように」の意を表わす上代語。

「木履(こぼこぼ)ゆ」「ゆ」は自発の意を表わす上代の助動詞。「木履(こぼこぼ)」は底が深く彫り込んである丸下駄である、主に幼女が履く木履(ぼくり・ぼっくり)から、それで歩く際の擬音語「こぼこぼ」で、ここは「自然にぽっとりと落ちて」の意であろう。]

2021/04/15

伽婢子卷之三 妻の夢を夫面に見る

 

伽婢子卷之三

 

    ○妻の夢を夫(をつと)面(まのあたり)に見る

 周防山口の城主大内義隆の家人(けにん)、濱田(はまたの)與兵衞が妻は、室(むろ)の泊(とまり)の遊女なりしが、濱田、これを見そめしより、わりなく思ひて、契り深く語らひ、つひに迎へて本妻とす。

 かたち、うつくしく、風流(ふうりう)ありて、心ざま、情(なさけ)深く、歌の道に心ざしあり。

 手も、うつくしう、書きけるが、然るべき前世の契りにや、濱田が妻となり、互に妹脊の語らひ、此世ならずぞ、思ひける。

 主君義隆、京都將軍の召によりて上洛し、正三位の侍從兼(けん)太宰(だざいの)大貳に補任せられ、久しく都に逗留あり。濱田も、めしつれられ、京にありけり。

 妻、これを戀て、間(ま)なく時なく、待ちわび侍べり。

 比は八月十五夜、空くもりて、月の見えざりければ、

 おもひやる都の空の月かげを

    いくへの雲かたちへだつらむ

と、うちながめ、ねられぬ枕を、ひとり、傾(かたふ)けて、あかしかねたる夜を恨み、臥したり。

 其日、義隆、國にくだり給ひて、濱田も、夜、更(ふく)るまで、城中にありて、漸(ようや)く、家に歸る。

 その家は惣門(そうもん)の外(そと)にあり。

 

Hamada

 

 雲、おほひ、月、くらくして、さだかならざりける道の傍ら、半町[やぶちゃん注:五十四メートル半。]ばかりの草むらに、幕、打まはし、燈火(ともしび)あかくかゝげて、男女十人ばかり、今宵の月にあこがれ、酒宴する、と見ゆ。

 濱田、思ふやうは、

「國主歸り給ひ、家々、喜びをなす。誰人〔たれぴと〕か、こよひ、こゝに出〔いで〕て遊ぶらん。」

と恠しみて、ひそかに立寄り、白楊(やなぎ)の一樹(き)繁げりたる間に、隱れてうかゞひ見れば、わが妻の女房も、その座にありて、物いひ、笑ひける。

「是は。そも如何なることぞ。まさなきわざかな。」

と怨み深く、猶、その有樣をつくづくと見入たり。

 座上にありける男、いふやう、

「如何に。こよひの月こそ殘り多けれ、心なの雲や。是に、など、一詞(〔ひと〕ことば)のふしも、おはせぬか。」

といふ。

 濱田が妻、辭しけれども、人々、しひて、

「哥〔うた〕、よめ。」

と、すゝむれば、

 

 きりぎりす聲もかれ野の草むらに

    月さへくらしこと更になけ

 

と、よみければ、柳陰にかくれて聞ける濱田も、あはれに思ひつゝ、淚をながす。

 座中の人は、さしも、興じて、さかづきを、めぐらす。

 かくて、十七、八と見ゆる少年の前に、さかづきあれども、酒を受けざりしを、座中、しひければ、

「此女房の哥あらば、飮(のみ)侍らん。」

といふ。

 女房、

「一首こそ、思ふ事によそへても、よみけれ、免し給へ。」

といふに、きかず。

 さて、かくなむ。

 

 ゆく水のかへらぬけふをおしめたゞ

    わかきも年はとまらぬものを

 

 さかづき、あるかたにめぐりて、濱田が妻に、

「又、歌うたひ給へ。」

といふに、今樣一ふしを、うたふ。

 

 さびしき閨(ねや)の獨ねは

 風ぞ身にしむ荻(をぎ)はらや

 そよぐにつけて音づれの

 絕ても君に恨はなしに

 戀しき空にとぶ雁に

 せめて便りをつけてやらまし

 

その座に儒學せしとみえし男、いかゞ思ひけん、打淚ぐみて、

 

 螢火穿白楊

 悲風入荒草

 疑是夢中遊

 愁斟一盃酒

[やぶちゃん訓読文:底本には結句に返り点がないので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の元禄本で補った。承句は底本の読みは『うたがふらくはこれむちうのあそび』であるが、気に入らないので、手を加えた。

   *

 螢火(けいくわ)は白楊(はくやう)を穿(うが)ち

 悲風 荒草(くわうさう)に入る

 疑ふらくは 「是れ 夢中の遊びか」 と

 愁へ 一盃の酒を斟(く)む

   *]

 

と吟詠するに、

「いかで今宵ばかり夢なるべき。すべて、人の世は、皆、夢なるものを。」

とて、濱田が妻、そゞろに淚を流す。

 座上の人、大〔おほき〕に怒りて、

「此座にありて、淚を流す、いまいましさよ。」

とて、濱田が妻に、盃を投げかけしかば、額にあたる。

 妻、怒りて、座の下より、石をとりだし、投(なげ)たりければ、座上の人の頭(かしら)にあたり、血、走りて、流るゝ事、瀧のごとし。

 座中、驚き、立騷ぐか、と見えし。

 ともしび、消えて、人もなく、唯、草むらに、蟲のみぞ、殘りたる。

 濱田、大に怪しみ、

「さては、我妻、むなしくなりて、幽靈の顯れ見えけるか。」

と、いとゞ悲しくて、家に歸りければ、妻は臥してあり。

「如何に。」

と驚かせば、妻、起あがり、喜びて語るやう、

「餘りに待わびてまどろみしかば、夢の中に十人ばかり、草むらに酒飮み遊びて、歌を望まれ、其中にも、君のみ戀しさをよそへて、うたひ侍べり。座上の人、みずからが淚を流す事を忌みて、盃を投げかしを、みずから、石を取(とり)て、打ち返すに、座中、さはぎ立〔たつ〕、と覺えて、夢、さめたり。『盃の額に當りし』と覺えしが、夢、さめて、今も頭(かしら)の痛くおぼゆ。」

とて、歌も詩も、

「かうかう。」

と語る。

 白楊(やなぎ)の陰にして見きゝたるに、少しも、違はず。

 濱田、つらつら思ふに、

『白楊陰(やなぎかげ)に隱れてみたりし事は、我妻の夢のうちの事にてありける。』

と、なむ。

[やぶちゃん注:詩歌は総て前後を一行空けた。「今樣」(室町小歌。後注参照)は句分けを並列させた。

「大内義隆」(永正四(一五〇七)年~天文二〇(一五五一)年)戦国武将。大内義興の長男。周防・長門・安芸・石見・筑前・豊前の守護。大友氏・少弐(しょうに)氏と戦い、九州北部を掌握した。文学・芸能を好み、明・朝鮮と交易し、また、フランシスコ・ザビエルに布教の許可を与えた。重臣陶晴賢(すえはるかた)の謀反に遭い、長門の大寧寺で自刃した。

「濱田與兵衞」不詳。

「室(むろ)の泊(とまり)」旧兵庫県揖保郡室津(むろつ)村、現在の兵庫県たつの市御津町室津(みつちょうむろつ。グーグル・マップ・データ。以下同じ)。播磨灘に面する港町。湊町として実に約千三百年もの歴史を持ち、奈良時代に行基によって五つの湊が整備され、江戸時代には栄華を極め、宿場町としても栄えた。近代に至るまで多くの文人墨客を魅了した景勝地でもある。

「わりなく」この上もなく。どうしようもないほどに。

「此世ならずぞ、思ひける」の主語は二人である。二世・三世の契りの意を添えて、相思相愛のさまを言う。

「將軍」室町幕府第十二代将軍足利義晴(永正八(一五一一)年~天文一九(一五五〇)年/在職:大永二(一五二二)年~天文一五(一五四七)年)。義澄の子。細川高国に擁立されて将軍となったが、実権がなく、その後、三好氏に圧倒され、しばしば近江国に逃れ、天文十五年に将軍職を長子義輝に譲り、四年後に病死した。

「主君義隆、の召によりて上洛し、正三位の侍從兼(けん)太宰(だざいの)大貳に補任せられ」「新日本古典文学大系」版脚注に、義隆の『正三位昇位は』「本朝将軍記」では、『天文十六年二月』『とするが』、「公卿補任」『では天文十五年』とあるとする。前者では、義晴が将軍職を退いており、史実に合わない。後者ならば、義晴の譲位は天文十五年十二月(一五四七年一月)であるから、問題ない。

「間(ま)なく時なく」絶える間もないほどに。

「おもひやる都の空の月かげをいくへの雲かたちへだつらむ」岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」(一九八九年刊)では、「新葉和歌集」の『巻三に「菖蒲ひく今宵ばかりや思ひひやる都も草の枕なるらむ」とあり、そのすぐ後に「君があたり幾重の雲か隔つらむ伊駒の山の五月雨の頃」の歌がある』。この『傍線部を合せて、新作した歌であろう。旅の夫を恋』慕う『歌で、歌意は、「都の夫をしのんで月を見ようとしたが、その月さえ、多くの雲がおしつつんで見せてくれないことよ」。』とある。

「比は八月十五夜」仮に天正十五年のこととするならば、ユリウス暦一五四六年の九月九日、グレゴリオ暦換算で九月十九日に当たる。

「城中にありて」大内氏の居館(守護館)であった大内氏館は現在の山口県山口市大殿大路(おおどのおおじ)附近にあった。浜田与兵衛は重臣の一人であるから、その居館の「惣門(そうもん)」(居城外郭の表大門)の外のごく近くに住まいを構えていたのである。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『大内氏の惣門は、館跡の南』西『方』の『下堅小路』(しもたてこうじ。ここ)と『久保小路』(下堅小路の南。ここ)『の交わる辺りに位置した。門以南が町地であった』とあるから、浜田の屋敷はこの附近にあったか。

「國主歸り給ひ、家々、喜びをなす。誰人か、こよひ、こゝに出て遊ぶらん。」「国主様がお帰り遊ばされて、民草は家々で心静かにそれを喜んでおる。にも拘わらず、それを『我、関せず』のふうを見せて、浮かれ出ておる! これ、一体、何者が、かくも、御城の近くにて、無礼にも遊びほうけておるのか!?!」と、甚だ「恠」(あや)しみ、憤っているのである。

「白楊(やなぎ)」ここは挿絵からも通常のキントラノオ目ヤナギ科ヤナギ属シダレヤナギ Salix babylonica ととってよい。

「まさなきわざかな」「国主の足下であってはならない濫り事じゃ!」。

「など」「どうして」「何故に」。ここは反語である。

「一詞(〔ひと〕ことば)のふしもおはせぬか。」「この残念なる景色のさまに対し、どうして、誰も、歌の一つなりと、ものさぬとは、これ、いかがなものか?」。

「きりぎりす聲もかれ野の草むらに月さへくらしこと更になけ」「かれ野」は「聲も嗄(か)れ」と「枯れ野」に、また、「かれ」は「枯れ」に「離(か)れ」も掛けられている。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、これは原拠である「五朝小説」に所収されてある「夢遊録」の中の「張生」の『原話の張生の妻の』詠んだ詞の『翻案歌』であるとされる。』「五朝小説」は明代に編集された伝奇・志怪小説の叢書で、魏・晋・唐・宋・明のそれらが収められているもので、「伽婢子」の原拠としては、最近になって判ったものである(「新日本古典文学大系」の解題に拠る)。私は基本的に本書の原拠考証には手を出さない(手を出すと、注がエンドレスになるからであり、そもそも私は私の奇体な怪奇談集蒐集癖に従って成しているのであって、学術的なものとして本電子化注を目指そうなどとはさらさら思っていないからである。関心のある方は「新日本古典文学大系」版で詳細に考証されてあるので、そちらを参照されたい)つもりだったが、ここはそこを少しだけ覗き見しておく。原拠のそれは、「中國哲學書電子化計劃」のここで電子化されており(但し、本サイトは校訂を経ていない機械判読の電子化がそのまま出されてあり、とんでもない誤判読が頻繁にあるので注意。ここでもそれがシッカリ恐ろしくある)、そこでは影印本も見ることが出来る(これ)。さて、この短歌の原拠となったそれは、

   *

衰草絡緯聲切切

良人一去不復還

今夕坐愁鬢如雪

   *

である。本篇の原拠との精密な対比分析が行われてある花田富二夫氏の論文「近世初期翻案小説『伽婢子』の世界 〈遊女の設定〉」PDF)の冒頭に、本話の全編の訓読文が載るので、それを参考に訓読すると、

   *

衰草(すいさう)に歎ずる絡緯(たくゐ)の聲 切切たり

良人 一(ひと)たび去つて 復た還へらず

今夕(こんせき) 愁ひに坐して 鬢(びん) 雪のごとし

   *

「衰草」は枯れかけた弱った草でいいが、「絡緯」は一筋繩ではいかない。これは、漢籍に出るのであるからして、現代の中国と同じく「広義のキリギリス」を指すが、現行では、

◎直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目キリギリス下目キリギリス上科キリギリス科キリギリス亜科 Tettigoniinae の中国産種

であって、本邦のキリギリス

○キリギリス亜科 Gampsocleidini 族キリギリス属ニシキリギリスGampsocleis buergeri (近畿地方から九州地方に棲息)

及び、

○ヒガシキリギリスGampsocleis Mikado (青森県から岡山県に棲息。詳しくは「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 莎雞(きりぎりす)」私の注を参照)

とは全く異なり、本邦の、キリギリス亜科ヤブキリ族ヤブキリ属ヤブキリTettigonia orientalis と同属の

Tettigonia chinensis などが「中国のキリギリス」

であるようである。

「でも、ここは山口が舞台なんだから、ヒガシリキリギリスでええんでないの?」

という方がいるかも知れないが、それはさても――致命的に二重に――誤っている

一つは、彼女は兵庫の室津の遊女だったからで、仮にここで鳴いているは確かにニシキリギリスであっても、

彼女のイメージの中のそれはヒガシキリギリスのそれである可能性が高い

という仮定に加え、さらに困ったことに、実は、

彼女だけではなく、作者の浅井了意や出版当時の江戸時代の読者全員が、この「きりぎりす」を現在のキリギリスではなく、現在のコオロギだと認識していたというとんでもない大問題

が後に控えているからなのである。先リンク先の私の注の最後を見て戴きたいのだが、

「きりぎりす」は古典文学研究者の間では、まことしやかに、一律に――「きりぎりす」は「キリギリス」ではなく、「こほろぎ」、則ち、現在の蟋蟀(コオロギ)だ――とされている

からなのである。

但し、私は、この、生物学に疎い上に頭の硬い非博物学的な文学者が、明治になって突如、《「鈴虫」相互交換「松虫」説》と一緒に、伝家の宝刀の如く、この《「螽斯」相互交換「蟋蟀」説》をぶち上げたことを致命的な誤りと考える人種である。それについては、「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蟋蟀(こほろぎ)」で芥川龍之介の「羅生門」の『唯、所々丹塗(にぬり)の剝げた、大きな圓柱(まるばしら)に、蟋蟀(きりぎりす)が一匹とまつてゐる』を例に、硬直したアカデミズムが如何なる誤った見解を教育で植え込んでいたかを指弾してあるので、そちらを見て戴くこととし、ここでは繰り返さない。

個人的には、確かに、ある種の和歌の中で「きりぎりす」の鳴き声とあるのは、あの、やや喧(やかま)しく感じるキリギリスのそれよりも、ある種の淋しさをも感じさせる「こおろぎ」の方が相応しいと感覚的に感ずるケースは、ままある。しかし、それも私の個人的な感性上のものに過ぎないであって、近世までの標準的日本人の一般的な秋の虫に対する汎日本的な感じ方が、今の私の感じ方と全く同じであったなどとは、毫も思いはしない。ただ、では、どこぞの学者先生の誰かの意見こそ絶対に正しいというわけにも、これ、ならないのは明白である。則ち、この論争や同定比定に決着をつける者は未来永劫、出てこないということである。さすれば、この本篇の和歌の「きりぎりす」は、

直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科コオロギ亜科 Gryllinae に属するコオロギ類

である可能性もまた、どうしても挙げねばならないということなのである。

「さしも」その歌のなんともしみじみとした風情に。

「しひければ」「强ひければ」。

「一首こそ、思ふ事によそへても、よみけれ、免し給へ。」「先ほどは『一首だけ』とのことなればこそ、気ののらぬままに、仕方なく、今の私の憂えた心にことよせて、詠んだまでのことですのに、もう、どうか、まず、ご勘弁下さいまし。」。

「さて、かくなむ」そこで、仕方なく、次のように詠んだ。

「ゆく水のかへらぬけふをおしめたゞわかきも年はとまらぬものを」同前なので同じ仕儀で示す。原話のそれは、

   *

落花徒繞枝

流水無返期

莫恃少年時

少年能幾時

   *

落花 徒(いたづ)らに 枝を繞(めぐ)り

流水 返るに 期(とき)無し

恃(たの)む莫(な)かれ 少年の時

少年 能く幾時(いくばく)ぞ

   *

である。

「さかづき、あるかたにめぐりて」盃の酒がその場にある会衆方総てに一巡したところが。

「今樣」ここは平安末のそれではなく、室町時代に上方を中心に流行した「室町小歌」。「小歌」とは本格的で伝統的な歌曲「大歌(おおうた)」に対して、民間で歌われる世俗的な歌謡や「猿楽能」や「田楽能」の「謡(うたい)」及び「狂言小歌」などを指す。永正一五(一五一八)年にはこの「小歌」に関する最も古い文献である「閑吟集」(作者はある「桑門」(遁世者)とあるのみで未詳。三百十一首を収録)が成立している。詩型は「七五七五」形・「七七七七」形・「七五七七」形など、雑多。「狂言小歌」の中には、当時、流行していた歌謡を劇中歌の形でそのまま取り入れたものもある(以上は主文を「文化デジタルライブラリ―」のこちらに拠った)。

「さびしき閨(ねや)の獨ねは 風ぞ身にしむ荻(をぎ)はらや そよぐにつけて音づれの 絕ても君に恨はなしに 戀しき空にとぶ雁に せめて便りをつけてやらまし」同前なので同じ仕儀で示す。原話のそれは、

   *

怨空閨

秋日亦難暮

夫婿斷音書

遭天鴈空度

   *

空閨を怨み

秋日 亦 暮れ難し

夫婿(ふせい) 音書を斷ち

遙天の鴈(がん) 空を度(わた)る

   *

後の二句とインスパイアされた「今樣」も蘇武の「雁書」(がんしょ)の故事を示し、それが「その座に儒學せしとみえし男、いかゞ思ひけん、打淚ぐみて」を引き出すようになっている。

「螢火穿白楊……」の五言絶句は原拠に従うが、結句が改変されてある。原拠のそれは、

   *

螢火穿白楊

悲風入荒草

疑是夢中遊

愁迷故園道

   *

「愁迷故園道」は「愁ひて迷ふ 故園の道」。「故園」は故郷に同じ。しかし、またしても了意の改変は、前例と同様、漢詩を弄ることに於いて初歩的な致命的なミスを犯している。鉄則の押韻が「酒」では「草」と合わないのである。

「そゞろに」感極まって。ひどく。「何とはなしに」の意もあるが、このシークエンスには前の意の方がよい。

「驚かせば」眼を醒まさせたところが。

「みずから」二箇所ともに自称の一人称。]

芥川龍之介書簡抄37 / 大正四(一九一五)年書簡より(三) 山本喜譽司宛二通(塚本文初出書簡)

 

大正四(一九一五)年四月二十三日(推定)・山本喜譽司宛・(封筒欠)

 

相不變さびしくくらしてゐます

すべての剌戟に對して反應性を失つたやうな――云はゞ精神的に胃弱になつたやうな心細さを感じてゐます この心細い心もちがわかりますか(僕は誰にもわからないやうな又わからないのが當然なやうな氣がしますが)私は今心から謙遜に愛を求めてゐます さうしてすべてのアーテイフイシアルなものを離れた純粹な素朴なしかも最も恒久なるべき力を含んだ藝術を求めてゐます 私は隨分苦しい目にあつて來ました 又現にあひつゝあります 如何に血族の關族[やぶちゃん注:ママ。]が稀薄なものであるか 如何にイゴイズムを離れた愛が存在しないか 如何に相互の理解が不可能であるか 如何に「眞」を見る事の苦しいか さうして又如何に「眞」を他人に見せしめんとする事が悲劇を齎すか――かう云ふ事は皆この短い時の間にまざまざと私の心に刻まれてしまひました 言語はあらゆる實感をも平凡化するものです かうならべて書いた各の事も文字の上では何度となく私が出合つた事のある思想です しかし何時でもそれは單に所謂「思想」として何の痕跡も與へずに私の心の上を滑つて行つてしまひました 私は多くの大いなる先輩が私よりも幾十倍の苦痛を經て捉へ得た熾烈なこれらの實感を輕々に看過した事を呪ひます(同時に又現に看過しつゝある輕薄なる文藝愛好者を惡み[やぶちゃん注:「にくみ」。]ます)さうして一足をそれらの大なる先輩の人格に面接する道に投じた事を祝福したいと思ひます しかしそれは曙でも「寂しい曙」でした 山脈と云ふ連鎖なくして孤立してゐる峯々はとりもなほさず私たちの個性です 成程日の上る時にそれらの峯の頂は同じやうに輝くでせう しかしそれは峯の相互に何等の連絡のある事をも示しては居ないのです 美に對し善に對し眞に對しひとしく惝悅の心があるにしても個人は畢境[やぶちゃん注:ママ。]個人なのと同じやうに私は二十年をあげて輕薄な生活に沒頭してゐた事を恥かしく思ひます さうしてひとり藝術に對してのみならず生活に對しても不眞面目な態度をとつてゐた自分を大馬鹿だと思ひます はじめて私には藝術と云ふ事が如何に偉大な如何に嚴肅な事業だかわかりました そして如何にそれが生活と密接に連絡してしかも生活と對立して大きな目標を示してゐるかわかりました 私にどれだけの創作が出來るか私がどれだけ「人間らしく」生きられるかそれは全くわかりません 唯今の私には醉生夢死しさうな心細い氣がするだけです 願くはこの心細さが來るべき力に先立つものであつてくれる事を 來るべき希望に先立つものであつてくれる事を私はこのさびしさを何かによつて忘れ得やうとするのを卑怯だと思ひます しかしたえず私がこのさびしさから逃れやうとしてゐる事も亦止むを得ない事實です 私には誰もこの service をしてくれる人がないとしか思はれません そして唯之を誰かに訴へる事によつてのみ少しは慰められる事がありはしないかと思ひます たびたび君に長い手紙をかくのはその爲です ですからよんでもよまなくつてもかまひませんもうやめます それからうちでは私に誰かきめておかないとあぶないと思ふものですからしきりに候補者を物色してゐます 私の母は文ちやんの推賞家で私の從姊は上瀧の妹の推賞家で私のうちへよく來る女の人は私の一番嫌な馬鹿娘の推賞家です 私はあまりその相談には與りません[やぶちゃん注:「あづかりません」。]

二三日前に芝へ行つたらYが來てゐました 私は居ないふりをしてあはずに次の部屋で聲ばかりきいてゐました

Yが「此頃はどちらへも出ませんの」と云つてゐました 姊の話ではYが急にふけたと云ふ事です あとで隨分心細そござんした[やぶちゃん注:ママ。]

私は學校を出ても二三年は獨りでゐるつもりです さうして誰でも私の家族の中で賛成者の多い女を貰ひます それがうまく私のすきな人と一致すれば格別ですがさもなければ一生を comedy にして哂つて[やぶちゃん注:「わらつて」。]くらしてしまひます

しかしその comedy は私にとつて眞劍な tragic‐comedy ですけれど

おばあさまと姊さまとには是非お出でになるやうに申上げて下さい 私のうちのものは文ちやんの一度お出でになる事を希望してゐるやうです 私に一度君を通じておばあさまや姊さまと一しよにお出でなる事をすゝめろと云ふ hint を吳へますから それから又八洲さんも大へん皆見たがつて居ます これは僕がよく出來るつて吹聽するからです 兎に角おばさまたちに是非お出下さいましと申上げて下さい ほんとうに是非それとは別にひまだつたら來ませんか 來月になると試驗勉强で忙しくなりますから

    廿三日            龍

   喜 誉 司 樣 梧下

 

[やぶちゃん注:以上の内、「Y」という人物の話が出るが、これはまさに失恋の相手吉田彌生のことである。次の書簡も同じ。

「惝悅」「しやうえつ(しょうえつ)」と読み、「驚いてエクスタシーからぼんやりすること」を意味する。

「service」助力・援助。

「私の母」養母芥川儔(とも)。

「文」塚本文(あや 明治三三(一三〇〇)年七月四日~昭和四三(一九六八)年九月十一日)は長崎県の生まれ。父塚本前五郎は海軍軍人で、「日露戦争」に於いて、軍艦初瀬の参謀(海軍少佐)として参戦し、戦死した。そのため、母の鈴は、娘文と弟八洲(やしま 明治三六(一九〇三)年~昭和一九(一九四四)年)を連れて母の実家であった本所相生町(現在の墨田区両国三丁目)の山本家に寄寓していた。そこに住んでいた山本喜誉司が鈴の末弟であり、近所に住んでいた芥川の親友であったことから、二人は幼馴染みであったのである。最初に対面したのは明治四〇(一九〇七)年で、初対面の時は龍之介は満十五、塚本文は七歳であった。この書簡時は龍之介二十三、文十四歳であった。

「私の從姊」実の姉ヒサのこと。芥川龍之介は自分が養子であることを公には取り立てて言っていない。「芥川龍之介 孤獨地獄 正字正仮名版+草稿+各オリジナル注附」を参照。同テクストはサイト版及びPDF縦書版もある。

「上瀧」「かうたき」と読む。上瀧嵬(こうたきたかし)は龍之介の江東小学校及び府立三中時代の同級生で、当時は東京帝大医科大学学生。既出既注。

「私のうちへよく來る女の人」不詳。

「私の一番嫌な馬鹿娘」不詳。]

 

 

大正四(一九一五)年五月二日・牛込荻赤城元町竹内樣方 山本喜譽司樣 直披・五月二日朝 田端四三五 芥川龍之介

 

此頃は少しおちついてゐます

しかし やつぱり淋しくつて仕方がありません 何時この淋しさがわすれられるか 誰がこの淋しさを忘れさせてくれるか それは僕にとつて全く「鎖されたる書物」です

僕は社會に對してエゴイストです(愛國心と云ふやうなものも僕にはエゴの擴大としてのみ意味があると思はれます)そしてその主張の中に强みも弱みもあると思つてゐます その弱みと云ふのは個人の孤立(イゴイズムから來る必然の歸結としではないのですが[やぶちゃん注:ママ。])と云ふ事で强みと云ふのは個人の自由と云ふ事です 僕はこの弱みを――孤立の落莫をみたしてくれるものは愛の外にないと思つてゐます すべての屬性を(位爵 金力 學力等の一切)離れた靈魂そのものを愛する愛の外にないと思つてゐます この愛の焰を通過してはじめて二つの靈魂は全き融和を得る事が出來るのではないでせうか この愛の焰に燃されてはじめて個人の隔壁は消滅する事が出來るのではないでせうか 僕が「餓え渴く如く」求めてゐるのはこの愛です

しかし果してかう云ふ愛がこの世で得られるでせうか 相互の完き理解――しかも理知を超越した不可思儀な理解が女の人の手から求める事が出來るでせうか――不幸にも僕はネガチフにしか答へられません しかし僕は心からこのネガチフがアツフアマチブになる事を望んでゐます さうする事の出來る事實が現れる事を望んでゐます

この愛がなくして生きるのにはあまりに若い「自分」です この愛以外の愛に安んじて生きるのに餘りに年をとつた「自分」です 僕は心からこの愛を求めてゐます

この愛を求めるさびしさがわかりますか 世間と隔離した個性の國に「自分」と「藝術」とのみを見て捗どらない修業道を步いてゆくさびしさがわかりますか

所詮僕は幸福にはなれない人間なのかもしれません この意味で 偉大な先輩の中には不幸な生涯を送つた人が澤山あります 殊にゴツホ――しかし僕は幸福になる事を求めます この愛の淨罪界へはひる事を求めます

 

紀念祭の時はあへないでがつかりしました あの時しみじみ日本の SEX は外光の下にみるべきものではないと思ひました あさましい程おしろひのはげた知つてゐる人の顏をみた時にはたまらなく下等な氣がしました

僕のすきな人が一人あるんです 名前も所もしらない人なんですがもうどこかの奧さんなんでせう 少しはいからからな會では時々あひます 昨夜も人道會の慈善演藝會であひました 大へんにSeelen‐haftig  な顏をしてゐます さうして大へんにじみななりをしてゐます 尤も昨夜は異人とうまく話をしてゐるのをみて少しいやになりましたが此頃は大抵な人が嫌です(自分もきらひ)電車へのると右のすみから左のすみまでいやな奴ばつかりです 馬鹿男と馬鹿女が日本中に充滿してゐるやうな氣がします 大學は生徒も先生も低能兒ばかり

文ちやんは勿論僕の所へ來る人ではないでせう しかしその理由は君の云ふ正反對です 僕の方が無資格です 僕は身分のひくい敎育のあまりない僕だけを愛してくれる そして貧しい暮しになれた女がゐる事を夢みます(そのくせその結局夢なのもよく知つてゐるんですが)それほど僕は女の人から理解は望めないと云ふ事を信じるやうになつてゐるんです 云ひかへると唯愛だけ――普通の愛だけで滿足しなくてはならないと思つてゐるんです(さう思ふとほんとうにひとりぽつち[やぶちゃん注:半濁点であることに注意。]でさみしくなります)さうしてその愛を求める資格が又大抵な人に對して僕には缺けてゐるのです 文ちやんの塲合もその通り

たゞ淋しいので僕のゆめにみてゐる人の名を時時文ちやんにして見るだけ その外に何にもありません しかし文ちやんは嫌な方ぢやありません ゆめにみてゐる人の名につけてみる位ですから

目下の僕には從つて文ちやんを理解する必要もありません しかしイマヂナリイにある位置へ自分を置いて考へると少しはさびしさを忘れるので高輪へはゆくかもしれません(極稀に)但僕のうちでは僕の持つてゐる興味の三倍位の興味を文ちやんに持つてゐます

これでおしまひ。Yの事は一日一日と忘れてゆきます

正直に云へば僕は反省的な理性に煩される事なしに――云はゞ最も純に愛する事が出來たのは君を愛した時だけだつたと云ふ氣がしてゐます

夜はいつでもゐます(來週の土曜は例外)ひまがあつたらいらつしやい

    一日夜            龍

   喜 譽 司 樣 梧下

 

[やぶちゃん注:この手紙の直前の四月末に吉田彌生は金田一光男と結婚式を挙げているが、新全集宮坂年譜には、この『結婚式の前日に中渋谷の斎田家で』彌生と『最後の会見をする』とある。この斎田家というのは、以前の私の注で富田砕花の箇所に添えた「シオン教会」と同義で、「白鳥省吾を研究する会」のサイトの「白鳥省吾物語 第二部 会報十一号」の「一、対立する新進詩人たち 大正四年~六年」の一節に、『「斎田武三郎氏 この人は小生の青年期の庇護者で小著第一詩集(大正4年)を献呈した在阪の事業家で、基督教の篤信家でしたが、東京の假寓を解放?して基督の説教所用に充てるほどの篤志家でした」』とあり(これは『富田砕花の手紙の下書き』によるものとある)、『この東京渋谷にあった斎田家は「シオンの家」と呼ばれていたらしい。そこには、吉井勇、森戸辰男、中川一政、金子光晴、福田正夫、白鳥省吾他の人々が訪ねている』とあり、さらに驚くべきことに、『この斎田家の令嬢の女学校友達に帝大一年生の芥川竜之介が初恋をして、彼女の実家の千葉県一の宮に訪ねたりしたらしい』(これは不審。彌生の実家が千葉一宮であるというのは初耳で、或い既に示した通り、彌生にラヴ・レターを書いた場所を誤認混同しているように思われる)。『そして相手の女性の結婚式の前日に、富田砕花のところで会見したらしい。この女性は芥川を嫌っていたらしく』(原記者白鳥省吾の又聴きの憶測)、『ヒコポンデリックになり、不眠症になったようである。それでも芥川はなかなかこの女性を諦めきれなかった様子が『文人今昔』』(白鳥省吾著の随筆。昭和五三(一九七八)年新樹社刊)『には紹介されている。省吾は後に』、『室生犀星を通じて芥川竜之介と「句会などで一緒になり、酒席を田端の自笑軒や竹むらで二三回」同席しているらしい』。なお、『この斎田家を富田砕花は翌年には出ていたようである』とある。

「アツフアマチブ」affirmative。肯定的な。

「紀念祭」不詳。以下の下劣なシークエンスからは一高か帝大の何らかの紀念祭か。

「人道會」この年に設立された日本に於ける動物愛護運動団体の先駆けとなった「日本人道会」であろう。ブログ「帝國ノ犬達」のこちらによれば、『鍋島侯爵を会長として、動物虐待防止会や動物愛護会に続いて』、『大正4年に設立され』、『主力メンバーの多くが』、『新渡戸万里子(メアリー・パターソン・エルキントン。新渡戸稲造夫人)やアメリカ領事館附武官バーネット大佐夫人などといった』、『在日外国人で占められており、我が国に欧米式の動物愛護精神を広める上で大きな役割を果たし』たとあり、『活動内容は少年少女、女学校生徒、警察官に対する動物愛護教育、ボーイスカウトやミッションスクールとの交流、荷役牛馬用飲料水槽の増設、野犬安楽死処分用炭酸ガスチャンバーの寄付、捨犬猫の救護所設置など、多岐に亘』ったとある。

「Seelen‐haftig」「ゼーレン・ハフティク」か。岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)の注では、『誠実な』とある。因みに同書の本文ではハイフンを除いた「Seelenhaftig」で載る。ドイツ語の辞書を引いても、私にはどうしてこういう意味になるのか、よく判らない(私はドイツ語は全く分からない)。「haftig」が「附帯性の」の意味でネットで機械翻訳されるところをみると、寧ろ、「Seele」(人・人間)のそれで、「如何にも人道的で御座います的な面相」であるということを言っているのではなかろうか?

「高輪」この時、塚本鈴と文はここにいたか。

「正直に云へば僕は反省的な理性に煩される事なしに――云はゞ最も純に愛する事が出來たのは君を愛した時だけだつたと云ふ氣がしてゐます」この「君」とは無論、この書簡を宛てている山本喜誉司のことである。]

ブログ・アクセス1,520,000アクセス突破記念 梅崎春生 ある顚末

 

[やぶちゃん注:昭和二二(一九四七)年十月号『文芸』初出。翌昭和二十三年二月思索社刊の作品集「日の果て」に収録された。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第二巻」を用いた。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。一部、文中に注を附した。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが昨日の初更に1,520,000アクセスを突破した記念として公開する。【2021415日 藪野直史】]

 

 あ る 顚 末

 

 彼は先刻ついでに買い求めて来た風邪マスクを顔にかけ、そして立ち上って背広の上に釣鐘マントを羽織った。マントは今日同僚の家を訪ねて借りて来たものである。母親が急病で北海道まで帰るからと嘘(うそ)をついて、それと共にスキイ帽まで借用して来たのだった。スキイ帽はかなり古びていて、縁についた兎の皮は白っぽく汚れていた。彼は壁からそれを取りおろして目深に冠った。机の上に斜に立てた卓鏡に彼の頰がぼんやり映った。彼は一寸身体を構えて、暫(しばら)くの間鏡面に眼を据(す)えていた。風邪マスクはおそろしく大型で、手術する時お医者さまがつけるような、頰も唇も鼻も一緒におおってしまう式のものだった。だから目深な廂とマスクのために顔はほとんど隠されて、彼が鏡で見ているのは自分の眼だけであった。眼のいろは暗く、その癖きらきら光っていた。彼はそれに視線を固定させたまま、此のたくらみが実は残酷で野卑な所業であることを、膜を隔てたようにうすうすと感じ始めていた。

 突然脅(おび)えたように彼は顔を動かした。境の唐紙(からかみ)が幽(かす)かに鳴ったからである。マスクを素早くむしり取って、身体をそちらに構えた。音はそれ切りで止んだ。マントをずり落しながら彼は忍び足で唐紙に近づいた。そして指をかけて音のしないように少し開(あ)けた。

 細長い四畳の部屋には薄暗い電燈がぼんやり点(とも)っていて、部屋のすみに積み上げた蒲団に背をもたせ、老婆がうとうとと居眠りをしていた。老婆の重みが唐紙にかかったものらしかった。彼の気配で老婆はふと眼をひらいた。まぶしげな顔で彼を見たが、直ぐ何時もの愛想笑いが皺(しわ)になって彼女の頰に浮び上って来た。

「ついうとうとしちまって」老婆は弁解するように呟(つぶや)いた。そして背を起して坐りなおした。「いいあんばいに今夜は暖くてねえ」

「いや別に用事はなかったんだよ」彼は老婆が座蒲団を動かそうとするのに、少しあわてて掌を振った。「一寸出掛けようと思ったんでね」

 此の薄暗い部屋には、蒲団と炊事道具と壁にかかった二三枚の着物だけしか無かった。着物は赤い裾裏を見せてだらりとぶら下っていた。彼の視線は二三度そこに走った。

「で、泉(せん)さんも留守なんだね」

 彼はふと苦しそうな声でそう訊ねた。泉が留守なことは、彼は先刻からはっきり知っていたのである。老婆の浮べた愛想笑いに、光線の加減かへんに狡猾な影が走ったようだった。心を見抜かれたように彼はすこし赧(あか)くなった。老婆がぼんやりした声で答えた。

「ほんとに、あの子も貴方さまにも失礼ばかり申し上げて、昔から聞かない子でござんしてな、内地に帰ってからというものは、ほんとに片意地なふるまいばかりで」

 今朝起きぬけに聞いた泉の尖った声を彼は想い出していた。それは老婆をなじる声音だったが、隣室の彼をはばかってか低く押殺した調子であった。老婆はそれに二言三言抗弁した。抗弁というより哀願するような口調だった。顔を枕につけたまま彼はその会話を聞いていた。老婆は電気按摩器を買って呉れといっているのだった。そこの露店で売っていて、売子が老婆の背中に試みて呉れたがそれがほんとに具合が良かったという話だった。泉の声が少し荒くなると老婆の声はぽつんと消えて、暫(しばら)くして寝返りを打って黙り込んだ気配であった。此の老婆は何故聞きわけのない子供のように寝覚めに物をほしがるのだろう。二三日前は洗濯盥(たらい)だった。その前はラジオに衣裳簞笥(たんす)だった。

「食べるものにも事欠いているのに、そんなもの買えるわけないじゃないの」

 洗濯盥をほしがった朝は老婆は何時になく頑強であった。小さなバケツでは洗濯し切れないというのである。着物など丸洗いする時は少しずつ漬けて、部分部分を揉み洗うから、老婆の力ではうっかりすると二三時間も一枚にかかるのだった。いくら貧乏しても盥ぐらい買えない筈はないというのが老婆の言い分であった。

 だから昨日彼が紙幣を包んで泉に渡そうとしたのは、これで盥を買うように、というつもりであった。しかし彼は黙ってそれを差出した。上げるとも貸すのだとも言わなかった。それはどちらでも彼にはよかった。泉が受取って呉れさえすれば良かった。それが紙幣であることを知った時、泉は突然硬い顔になってそれを押返そうとした。

「こんなもの頂けません」

 包みを渡そうとする手と押戻そうとする手がもつれて、泉が立ち上ろうとした時、泉の掌がはずみで彼の頰に触れたのだ。それは平手打のような音を立てた。金包みは掌から離れて畳の上に落ちた。彼は始めて真蒼な顔になった。泉は立ち上ったまま、いじめられた幼児のような切ない表情をたたえて彼を見おろしていた。そして絞り出すように叫んだのだ。

「それは侮辱というものよ。ほんとに侮辱というものよ」

 打たれた部分が熱くなって来るのを感じながら、彼はじっとその言葉に堪えていた。老婆が泉の片意地なふるまいと言ったのは、具体的にはこれを指しているに違いなかった。その時老婆はびっくりしたような顔でその争いを見ていたのだった。――

 薄笑いを浮べた老婆の顔に、では頼みます、と低く言い残して彼は再び音を立てないように唐紙をしめた。自分の部屋の風景がまた彼に戻って来た。畳にすべり落ちていたマントを拾い上げながら、彼はも一度部屋の中を見廻した。低い机が一脚と座蒲団と、洗濯した靴下をかけた衣桁(いこう)、此の部屋に見えるものはそれだけだった。壁にかかった古い星座表の真下の部分が白くなっているのは、本箱のあった跡だった。彼はそれを中身もろとも、一週間ほど前に売飛ばしていたのだった。泉に渡そうとしたのもそれの一部分であった。

 彼はマントを背にかけ、釦(ボタン)をひとつひとつとめた。修道僧が着るような長いマントで、裾は足首の近くまで垂れていた。スキイ帽を先刻から冠ったままであることに、彼はその時気付いた。老婆がへんな薄笑いを浮べていたのも、部屋の中でこんなものを冠っている彼をおかしく思ったのかも知れなかった。ふとそんなことを考えながら、彼は机の上から此の間の金包みを拾い上げ、丸めてマスクと一緒に、マントをはねて上衣のポケットに収めた。鏡の中に再び彼の顔が映った。彼は瞬間それに視線を止めた。そして呟いた。

「――囚人みたいな眼をしている」

 眼は少し血走っていて、顔を鏡に近づけると、白眼の部分に糸蚯蚓(みみず)のように走る細い血管がはっきり見えた。眼球は茶色に透っていて、電球の形が小さく映っていた。彼は手を伸ばして鏡をパタリと倒した。

 へんに荒々しい精気が身内にあふれていたにも拘(かかわ)らず、彼の気分はむしろ沈欝に折れ曲っていた。机の上に残っていた配給の焼酎の残りをコップにうつすと、彼は静かにそれをあおった。匂いのある熱い液体が咽喉(のど)を焼いて、そのまま拡がるように胃の方におちて行った。庭に出る縁側から彼は靴をつけて地面に降りた。ぼこぼこした土を踏んで表の方に廻ろうとすると、井戸端に泉の小さなバケツが置いてあって、中には布片が黒く沈んでいるのだった。月の光が水の中にも射していた。手押ポンプの木の台に、真中の部分が凹型に磨(す)り減った洗濯石鹸が置き忘れられていた。地面に溜った水たまりに靴を入れないように注意しながら、そこを廻り抜けると門をくぐって露地に出た。長い片側塀に沿って二三度折れ曲り、彼は明るい広い道に出た。生ぬるい夜風の中を、彼は顔を上げてまっすぐ駅の方にすすんで行った。

 街の両側には明るい店舗が並んでいて、人通りも可成り多かった。月は出ていたが、西の空に黒い雲がひろがるらしく、風はなまぬるく湿気を帯びていた。どの店舗にも二三人お客が入っていて、品物を眺めたり金を渡したりしていた。ラジオ屋からは音楽が街に流れ出ていた。彼が耳にとめたのは女声合唱のアンニイロウリイの終末の旋律であった。すぐそれは終ってアナウンサーの声がし、にぎやかな別の歌が始まった。彼は顔を上げたまま、急ぎ足で舗道を歩いた。靴の踵(かかと)の触れる音がカツカツと身体に響いて来た。

(あんな店に入って食事をするのは、どういう人達だろう?)

 戦争が終ってから出来た二階建の支那料理屋で、内部は八分通り客が詰って莨(たばこ)を喫ったり食事をしたりしていた。白い服を着た給仕人が調子をつけたような歩き方で皿を運ぶのも眺められた。

(こんな場所ではこんなに沢山紙幣がやりとりされているのに、何故自分たちの方には廻って来ないのだろう?)

 彼は突然、それは侮辱というものだ、と叫んだ泉の語調を鋭く思い出していた。その時泉の顔は歪(ゆが)んで今にも泣き出しそうだったが、眼だけはぎらぎらと獣のようにひかっていたのであった。憎しみに満ちたその瞳を、彼は血の気を失った顔で受止めていたのだ。

(金を融通しようとするのが、何故侮辱ということになるのか?)

 見ず知らずの男からも金を受取っているのではないかと思うと、急に不快な濁った焦噪が胸いっぱい拡がって来るのを感じながら、彼は急ぎ足で中華飯店や麻雀荘や果物屋の前を通り抜けた。釦をとめてあるので、マントの裾だけが変な形に風にふくらんだ。道の果てる処に省線の駅の燈が見えた。彼はそれに向ってまっすぐ進んで行った。

 灰色の駅の建物に彼は入って行った。まだお客が出入りしたり黒い制服の駅員が動いたりしているのに、荷受台の下にはもはや浮浪児が二人抱き合って寝込んでいたりするのだった。駅の時計は八時三分前を指していた。彼は窓口の人造石の台に金を出しながら、小さな声で或る駅名を言った。そして切符とつり銭を受取った。白い小貨幣が石の台にふれてカチカチ鳴った。

 それは十日程前、泉がそこの陸橋に居るのを彼が見た、その駅の名であった。それは此処から電車で二十分位かかる小さな駅だった。彼は役所の所用で、その方面に行き、そして遅くなったのだった。はじめ彼が泉を見つけたのは遠くからだった。少くとも車道ひとつをななめに隔てていた。泉は向う側の歩道の、燈をちょっと避けた場所にぼんやり立っていたのである。彼はふと眼を疑ったが、それは首にかけたショールの色で泉に紛れもなかった。黒い生地に暗赤色の花模様が浮き出たものであった。彼はゆっくり陸橋を渡り終えると、突然立ち止った。そして外套の襟を立て、反対側のたもとに背をもたせ、悟られないようにちらちら横目で泉のいる方を眺め始めた。何故泉がこんなところに立っているのか。ある予感のために彼の胸はすでにしめつけられていたのだ。この予感が当らないようにと、彼は心の中で何度も繰り返しながら、もし泉が何でもなくあそこに立っているものとしたら、俺はこの予感を持ったということだけであの女を侮辱した事になる、と彼はまた考えた。そう思うと急に甘い切なさが彼の胸にのぼって来た。しかし泉があそこに立っているとしても、俺までが何のために物蔭にひそんでそれを監視しようとするのか。そんな思いが胸をかすめるのを感じながら、それでも彼は頑固にそこから離れないでいた。そして彼は引下げた帽子の廂(ひさし)から、燃えるような眼で時々小さな泉の姿を眺めた。泉はショールがなびくのを気にしながら、時々不安そうに位置を換えた。陸橋の下から吹上げて来る風は冷たくて、やがて彼の足尖(あしさき)から背筋まで鈍痛を伴った冷感がひろがって来た。陸橋の下を電車が通り、歩廊の前に軋(きし)みながら止ると、暫くして階段をのぼって来た降客が次々に改札口から流れ出て、駅の前で四方に散って行った。それでも泉はぼんやり佇っていた。何か終末を見届けようとするための不安が、しきりに彼の心をおびやかしていたが、彼もまたじっと背をもたせ、そしてしんしんと長い時間が経った。電車のつくのが段々間遠になり、降りる客も次第にまばらになって行った。改札に立っている駅員が鋏をかちゃかちゃ鳴らしながら、勤め終えて帰り仕度した同僚とふざけているのが、彼の眼に小さく見えた。それは非常に平和な情景に見えた。彼の心にさむざむと喰入った想念から、へんに遠くかけ隔たっていた。彼は何となく舌を鳴らして唾をはいた。そして彼がも一度顔を泉のいる方に向けたその時、彼は全身の血がひとつに凝集したような衝動を受けて立ちすくんだ。

 泉が男と話していたのだ。彼の眼には男の幅広い後姿が見えた。薄色の春外套を着たその姿は、たしかにちょっと前改札口を抜げて来た降客の一人に違いなかった。泉の姿はそのかげにかくれていて、ショールの端だけがちらと見えた。それは極く短い時間だった。ふっと泉が先に立って歩き出すと、男の身体があわてたようにそれに続いた。二人の姿はもつれながら陸橋をむこうに渡り、そして線路の崖の上に沿った道に折れた。

 そこまで見届けた時、彼は背を冷たい橋欄から離して歩き出した。彼は駅の建物の方には行かず、ぼんやり彼等が消えた方に陸橋を渡ろうとしていたのだ。しかし彼は突然せき止められたように立ち止った。

(俺はあとをつけようとまでする積りなのか?)

 彼は歩道と車道の間に立ちすくんだまま、そう考えた。ひややかな戦慄がその時彼の背筋を奔(はし)り抜けた。あとをつけずともすべては明白な筈だった。彼が此処で監視していたのが既に一時間に近かったから、泉はその前の時間を加算すると、相当長い間立っていたことになるのだ。人と待合せるのに、こんな寒いのに、一時間以上も待っている筈がない。彼は凝然とそんな事を考えた。それはあの肩幅の広い男が行きずりの男であるに違いないということだった。

 暫くして彼はゆっくり車道を横切り、さっき泉の佇っていた場所に来た。手すりに掌をのせると、ひやりと冷たかった。彼はそして身体をのりだして線路の谷間を見下した。幾条ものレエルがキラキラ光りながら走っていた。歩廊の側は明るかったが、反対側は暗い崖になっていて、その上の道を彼等が歩いて行った筈だった。そこらあたりに燈が見えないところを見ると焼跡に違いなく、暗い空には星がいくつも光っていた。何か荒涼たるものが次第に彼を満たし始めていたのである。明るい駅の歩廊に電車を待つ人が思い思いの姿勢で動いたり立ち止ったりしていた。皆暖かそうな服装をしているようであった。そして暗い崖の上ではどんなことが起っているのか。手袋をつけていない掌に、しんしんと冷たさが沁み入って来るのを堪えながら、彼はしばらく暗い崖の上を見詰めていた。やがて彼の顔は土偶のように血の気を失い始めて来た。……

 

 改札を通る時歩廊に電車は入ってした。マントの裾が脚にからまるので急げないうちにベルが鳴って、彼が歩廊に来た時は扉がしまったばかりのところだった。電車は彼一人を残して静かに動き出した。

 それからいくらも待たないうちに、また次の電車が入って来た。今度のはかなり空いていたけれども、彼は腰掛には掛けず柱のところに立った。動き出して歩廊を拔けると、扉の外は闇となり、扉の硝子は暗く鏡のように車内を映し出した。彼は白いエナメル塗(ぬり)の支柱を握って立っている自分の姿をその硝子鏡の中に認めた。硝子の中の彼はスキイ帽をまぶかに乗せ、大きなマントをゆったりとまとっていた。彼は暗い笑いを頰に走らせた。

(これでマスクを掛けたら、泉には俺だということが判らないだろう!)

 出がけにあおった一杯の焼酎が、今ほのぼのと廻って未るらしく、兇暴な欲念がともすれば腹の底から湧き上って来るようであった。彼はひそかにそれを押殺しながら、硝子扉の中の自像に見入っていた。マントはだらりと垂れてほとんど足首までおおっていた。あいつは大男だからな、彼はぼんやり呟いた。今日会った同僚のことを彼は考えていたのだった。その同僚は畳んだマントの上に兎の皮のついたスキイ帽をのせ、彼の方に押しやりながらこんなことを聞いた。

「で、病気の方はもう良いのかね」

 もう大丈夫なんだと彼は答えた。あの日陸橋の上で長いこと立っていたからそれで風邪を引いたらしく、彼はずっと欠勤をつづけていたのである。同僚は更に重ねて言った。

「北海道に帰るのも良いが、出来るだけ早く戻って来るが良いよ」

「何故?」

「行政整理があるらしいのだ」

 此の男は彼と同じく都庁につとめていた。

「行政整理って、そんな事が出来るのか。組合があるんだからそんな一方的なことは出来ないだろう」

「ところが財政がおそろしく詰っているらしいんでね」

 同僚はそこでいろいろ説明をして、結局組合もそれを承認するだろうということを付け加えた。彼はそれを聞きながら次第に不安になって行った。

「それで具体的に言うと、どんな連中が整理されるんだね」

「そりや先ず出勤などの成績が良くないものが先になるだろうな。任意に辞表を出させる形にしてしまうのさ」

「出さねばどうなるんだね」

「それはどうなるだろう。僕は知らん。しかしその時出せば退職金がぐんと多くなるのだ。あとで整理されるより得になるように出来てるんだ」

「そいつに皆、ひっかかるんだな」と彼はその時厭な顔をして呟いた。今年に入ってからも彼は口実をつけて何や彼やと休暇ばかり瑕っていた。こんなことが整理に影響するに違いなかった。今度の風邪にしても本当は始め二日ほど寝ただけで、あとはごろごろ寝たり起きたりして暮していた。役所のことが気懸りでないことはなかったが、どうにも出勤する意力が湧いて来なかったのである。食物のせいか身体が変にだるいからでもあったが、陸橋の上で見たあの光景が少からず影響をあたえていることも彼には否定出来なかった。あの夜泉は十二時頃戻って来たのだ。土を踏む幽かな跫音(あしおと)がして玄関をそっとあける音がつづいたのを、まだ眼を覚ましていた彼ははっきり聞いたのだった。寝床の中で彼は全身を緊張させて、泉の気配を感じ取っていた。隣室でそっと床をのべる衣ずれの音がして泉はかるいせきをした。そして床にすべり込んだらしかった。そのせきの音が妙に泉の肉体を歴然と感じさせた。彼は嫉妬に似たものがありありと胸中に燃え出すのを感じながら、寝床の中の泉の白い肉体を思い浮べていた。今まではそういう想像が湧いて来ると、彼は強いてそれを打消していたのだったが。……

 泉たちが隣室に入って来て、もう半年近くなるのであった。それまでは此の六畳と四畳という二部屋の変な造りの家を、彼ひとりで占領していたのだ。家主の話では、泉たちは家主の遠縁にあたるということだった。だから彼も一部屋さく気になったのだった。あとで泉に聞くと、親類でも何でもなく、此の部屋に入るために家主に沢山の権利金を払ったという話であった。大陸から引揚げて来たばかりで、泉は髪を切って総髪にしていたが、それがかえって女らしい効果を上げているように彼には思えた。眼が大きく濡れた感じで、ちょっと映画女優のマアゴという女に似た顔立ちをしていると彼は思った。老婆と弟と三人で引揚げて来たのだが、弟は船の中で病死して、その水葬礼の話を泉は彼にして聞かせた。それは弟を思う純粋な気持にあふれていて、彼は思わず感動した。キヤンパスに包んだ屍体が青い海に沈められようとする時、老婆が惑乱して手すりを越えようとして、船員たちが背中からしっかり抱きかかえていなければならなかったことなどを、泉は少し亢奮(こうふん)した口調で彼に話して聞かせていた。[やぶちゃん注:「映画女優のマアゴ」メキシコ生まれのアメリカの女優マーゴ(Margo 一九一七年~一九八五年:本名はマリア・マルゲリタ・グアダルーペ・テレサ・エステラ・ブラド・カスティーリャ・オドネル(María Marguerita Guadalupe Teresa Estela Bolado Castilla y O'Donnell)。代表作で私が見たことがあるのはフランク・キャプラ(Frank Russell Capra)監督作品の空想冒険映画「失はれた地平線」(Lost Horizon :一九三七年)。ハリウッドの「赤狩り」で苦しめられた。当該ウィキを読まれたい。]

「お婆さんはそれからがっくり、歳を取んなすったのよ」

 大陸ではどんな暮しをしていたのか知らないが、持って来た荷物もほとんど無く、男手の弟が病死したとあっては、たちまち生活に困るのは目に見えていた。しかし泉たちは内地にたどりついたということだけで、その時は満足しているように見えた。それから唐紙ひとつ隔てて二つの生活が始まった。彼も縁側から出入するようにしたし、泉たちも唐紙をみだりに開くことなどはなく、ひっそり暮している風だった。そして半年近く経ったのだ。――

 電車がガタンととまって、彼の姿をうつした硝子扉が軋(きし)みながら開いた。身をひるがえして彼は扉の外に出た。長い歩廊にはなまぬるい風が吹いていた。彼は階段の方に歩きながら、ぼんやりと斜を見上げた。そこには陸橋が黒々とかかっているのだった。橋梁(きょうりょう)の下は暗く沈んでいたが、陸橋の上にはちらほら人や自転車が通るのが小さく見えた。泉はいないかも知れない。そんな疑念がふとその時彼の心に浮んでいた。彼女は今日黄昏(たそがれ)時に家を出て行ったのである。彼は階段を一歩一歩登りながら、ポケットからマスクを取出し、それでいそいで顔をおおった。そしてスキイ帽の廂(ひさし)をぐいと引下げた。マスクを出す時彼はポケットの中の、あの金包みにもふと触れていたのだ。

(あの時泉は、俺の顔を意識して打ったのか?)

 どんな表情をして自分があの金包みを差出したかを考えると、彼は思わずマスクの中で、后を嚙んだ。あの日以来思い出すたびに自己嫌悪に陥るのは、泉から頰を打たれたということではなくて、すべてその一点にかかっているのだった。盥(たらい)を買うように、と思って差出したけれど、それは自分の心への言訳にすぎなくて、泉が見抜いたのは彼の表情にぎらぎら露呈していた欲望であるのかも知れなかった。それは侮辱だと泉が叫んだのも、金を出そうとした彼の心をそんな風に受取ったからに違いなかった。それを思う度に何ものへとも知れぬ痛烈な憤怒が、彼の心をしたたか衝き上げて来るのであった。今夜の此の野卑で残酷なたくらみも、その底に此の気持を根深くひそめていることを、彼は始めからはっきりと意識していたのである。しかし此の卑しい所業が今度首尾よく完了したところで、自分も泉も今よりは一層惨めになるだけの話で、二人とも決して幸福になる筈がないことを考えると、背骨が冷たくなるような深い絶望感が、ふと彼を摑んで来るのだった。

 階段を登り切ると彼はマスクの中で青ざめたまま、切符を若い駅員に渡して改札を通り抜けた。そこの売店を曲ったところから陸橋が始まるのである。マントの裾を身体を曲げてはばたくと、彼はまっすぐ立って陸橋の歩道をあるき出した。さっき部屋にいた時のあらあらしい精気が、その時再び身内によみがえって来た。十五米おき位に燈が点っていて、歩いて行く彼の顔は暗い隈をつくったり又ぼうと明るみに浮んだりした。彼はするどく気を配りながら、一歩一歩すすんで行った。三分の二を渡り終えても彼は泉の姿を認めなかったのだ。あとの三分の一はしらじらと風が吹きぬけていて、人影はひとつも見当らなかった。彼は身体全体がふくれ上って来るような妙な衝動に襲われながら、それでも歩調をみださず、橋を渡り終えた。たもとの影にも誰もいなかったのだ。彼はそこで愕然としたように立ち止った。そして湧き上って来るはげしいものを押潰して呟いた。

「これは一体どうした事だろう」

 頭の内側に弾(はじ)け散る火花みたいなものを感じながら、暫(しばら)く彼は首を廻して暗い崖沿いの道を見詰めていた。突然ある言いようのない汚辱感が彼の胸にひろがって来たのである。此の場末の駅の陸橋に、借物の帽子とマントをまとい大きなマスクをかけてやって来た自分の姿が、それも只みにくい交尾慾のためはるばるやって来た自分のあり方が、我慢出来ない醜悪なものとして彼の意識に鋭く折れ込んで来たのだった。彼は微かな呻きを洩(も)らしながら短い間をそれに堪え、そして靴を鳴らして廻れ右をした。靴は舗石にすれてギシギシと厭な音を立てた。そして今来た道を戻り出した。夜風が頰をかすめた。

 半分も渡らない時、彼はふと反対側の歩道のたもとに、見覚えあるショールが風をはらんでなびいたのを視野の端にとらえて、ぎくりとして立ち止った。立ち止ったのは瞬間だけで、彼は直ぐぎごちない足どりを踏み出していた。それはあの夜彼がひそんでいたあたりであった。彼は顔をまっすぐ立てたまま、眼だけを最大限に横に廻して進んで行った。泉はあそこにいたのだ。何気ない風(ふう)に手すりにより、ぼんやり線路の谷間を見おろしている風であった。彼は動悸が高まって来るのを意識に入れながら、そして陸橋を渡り終えた。もはや先刻の汚辱感が、次第に他のものと交替して行こうとするのを、嘔(は)きたいような抵抗と一緒に感じ取りながら、彼は明るい売店の前に立ち止って顔を硬ばらせたまま、並べてある雑誌などに暫く無意味な眼を走らせていた。

(此のまま電車に乗って戻ってしまおうか)

 彼は胸の奥を吟味するようにそんなことを考えた。しかしその考えは唇の先だけで果敢なく消えた。彼はマスクの上の眼を急にたけだけしく光らせながら、泉のいる方向にゆっくりむき直った。泉の姿は先刻の位置からやや移動していた。淡い燈の光が斜に彼女の頬を照らし出していた。泉は掌を上げてほつれ毛を整えるような仕草を二三度くり返した。彼はマントの中で手を組合せると、あらあらしい動作で歩道に戻り、両側に注意するふりを装いながら車道を一気に通り抜けた。そしてふと顔を背(そむ)けて泉の側(そば)に立ち止った。腕をマントの間から出して、予定していたような動作で軽く泉の肩にふれた。

 泉はぎょっとしたように肩を引いたが、ふと彼を見た瞳が大きく濡れたように輝いて、直ぐ低い声で早口にささやいた。

「こっちよ」

 粟立つような緊迫の中で、彼はその声をはっきり捕えていた。

 泉は肩をふってショールを引上げると、そのまま小刻みな足どりで歩き出した。彼も黙ってそれに続いた。泉の髪の匂いが幽(かす)かにただよった。それは泉の部屋の匂いと同じものだった。彼は老婆ひとりがいるあの四畳間を、突然頭によみがえらせていた。泉は外套を着ていなくて、赤い毛糸の上衣だけだった。そして脚は素足だった。白いふくら脛が光をかげらせながら小刻みに動いた。ある生理的な予感が歪んだ形のまま幽かに高まって来るのを感じながら、彼はマントの釦(ぼたん)を内側からひとつ外していた。夜の塵を集めて風が走るらしく、舗石にかさかさと鳴った。

 陸橋のたもとから直角に折れると、暗い瓦礫(がれき)の散らばった凸凹道になるらしかった。千切れた黒雲の断(き)れ目から、月の光は青く落ちるのだが、道は凸凹のまま少しずつ登り坂になるらしい。泉に遅れまいと道を歩き悩みながら、彼はちらちらと眼の下の線路を隔てた歩廊に視線をおとしていた。歩廊に佇(た)つ人々は此の前見たと同じようにおだやかな形で電車を待っているのだが、此の暗い坂路をのぼる彼の今の眼には、何故かそれがおそろしく無感動な重圧となってのしかかって来るように見えるのであった。それに堪えながら、彼は瞼をあげた。ここらはずっと焼跡らしく、やがて目慣れて来た彼の視野に、瓦礫の暗みからそこだけ残った白い門柱や立ち枯れた樹々の形がぼんやり浮び上って来た。先に立った泉の後姿がほっと肩を落すと、一寸佇ちどまって彼を待ち、いきなり彼の脇に身を寄せて来た。

「風邪でもひいたの?」

 それは柔かく屈折した声だった。すべてをあずけたように身体をもたせて来て、そのまま歩調がゆるんで来た。彼はマントをはねて右手で泉の身体を半分抱きながら、その安心し切ったような泉の肉体のゆるみに、ふと激しい嫉妬がのぼって来るのを意識した。彼が黙っていると泉は首を廻して彼の顔を見上げた。

「だって、そんなマスクをかけているからさ」

 投げやりな調子だったけれども、顔は何か戸惑った表情だった。彼は次第に指先に力をこめながら、此の肉体が今日の昼間、隔絶された存在として彼の身辺にあった事を考えていた。泉が今身体の重みを彼にあずけるのも、彼を見知らぬ男と信じているからこそだと思うと、彼は二重にも三重にも錯綜(さくそう)した不思議な感情がはげしくひろがって来るのを感じてレた。しかしその情感は何か不倫の臭いを伴っていて、それが暗く歪んだまま彼の欲望をそそるらしかった。破局的な予感に脅えて、彼はその瞬間背筋をぶるっと慄わせた。泉は急に身体をはなして、危いわよ、とささやいた。道が尽きてこわれた石の階段になっていたのである。

 階段の両脇には四角な混凝土(コンクリート)の門柱が立残っていて、細長い白いエナメル塗りの門標がはめこんであるのを彼は見た。階段を登るとひろびろとした廃址(はいし)の感じは、此処はたしかに学校の跡にちがいなかった。崖に沿って茂みがつづき、やがてそれが断(き)れた処に奇蹟のようになだらかに凹んだ場所があって、泉はそこに入って行った。そして泉はぎごちなくそこにすわった。月の光は此処にも静かに落ちていた。彼は凹地の縁に立って、黙って泉を見下していた。彼は泉の顔に、ある苦痛のいろが漲(みなぎ)って居るのを見ていたのである。泉はやがて力尽きたように仰向けに上半身をたおした。彼はそれに視線を据え、悔恨に似た痛切なものをひとつひとつ潰しながら、静かにマントの釦をゆるめ始めていた。

 時間がしゅんしゅんと流れた。

 泡立った擾乱(じょうらん)が彼の意識をひたし始めていた。さまざまの想念や記億が千切れ雲のように彼の頭をよぎった。彼は泉の肉体に、感覚の全体を集中しようと努力しながら、それを邪魔する黒い影のようなものをひしひしと感じていた。それが何であるのか判らなかったが、それは冷たく確実に彼の背をおびやかしていた。彼はそれから逃れる為に、意識をぼんやりした一つの流れに乗せようとした。彼は過去に眺めた泉の影像を思い浮べた。弟の水葬礼を物語る泉の表象が、その時浮び上って来た。それを聞いた時の感動が匂いを伴うようにしてよみがえって来た。

(俺は何時から泉にある感情を持ち始めたのだろう)

 それは彼の記憶になかった。極めて徐々に確実にその感情は彼の意識下にはぐくまれていたらしかった。あの夜薄色の春外套を着た男の後姿を見た瞬間、それは嫉妬という形ではっきり彼の心に浮んで来たのだった。泉の不幸を実体として目撃した一瞬が、彼が愛情と自認するものの起点になっていた。そこに何か錯乱があるらしかった。意識下にひそんでいた泉への愛情と、不幸の形式への彼の傾倒が、何か乱れた交叉をつづけていて、彼は静かに身体を動かしながら、突然今日の同僚のことを思い出した。

(あの時の不安が尾を引いているんだな?)

 同僚の口ぶりは何気ないようでいて、どこか故意に彼をおびやかす調べを帯びていたのだ。まだ一度も欠勤した事のないという血色の良い同僚の顔には、絶えず冷たい薄笑いが浮びつづいていたのだった。暗い坂路をのぼる時歩廊を眺めおろしたあの漠然たる畏怖も、今彼の胸の中でそこに結びついていた。世俗の軌道から正に外(はず)れかかろうとしている自分が、何故泉の不幸を自ら確めようとして、マントやマスクを用意したのか。今夜のことは俺が案出した陰惨な遊びに過ぎなかったのではないか、という荒涼とした思いが突然彼の胸をいっぱい満たしてきた。彼はにがいものを口の中に感じながら、大きく瞼を見開いて泉の顔貌を真下に見詰めた。泉は眼を閉じて、薄い眉根を寄せていた。それは明かに陶酔の表情ではなかった。何かを堪え忍ぶ表情だった。月の光の中で、泉の顔は暗く歪んでふと別人に見えた。泉はその時うすく眼をひらいて彼を見た。疑惑がふと眼の中に浮んだようだった。彼はあの何物へとも知れぬ憤怒が俄(にわか)に再び胸を貫くのを感じながら、清らかなものがすべて死滅したことをその瞬間ありありと知覚した。

(泉への愛情を俺が抱いていたとしても、それはマスクを買求めた瞬間で終ってしまったのだ!)

 風がそうそうと茂みをゆるがせていた。凹地の中からはもはや柔かい若草の匂いが立っていたけれども、地面は冷たく湿気を帯びていた。崖の下の線路の遠くから、貨物列車の音らしい鈍重な響きが、幽かに空気をゆるがせて伝わって来た。それは幽かに幽かにゆっくりと、そして次第に力を増しながら調子を早めて、空気と地面をゆるがせて彼の身体に伝わって来た。彼はその時彼の感覚がひとつの流れにのって、ようやくある陶酔の座に入って行くのを自覚した。若草の匂いにまじって、茴香(ういきょう)に似た甘い体臭が大気にひろがった。貨車の響きは段々早く、段々音律を強めて近付いて来る。それは極めて徐々に。徐々に力強く。そそるような甘美な響きとなり、そして顔を反らした彼の表情に、貨物列車の前燈が血のように赤い光茫を突然投げかけた。その光茫は段々強ぐなる。タンタンタンと響く格調が、俄に轟然たる音の流れとなって、彼の全細胞を満たした時、泉の右手が豆蔓(つる)のように伸びて、彼のマスクを指にからめたと思うと、白い布片は生き物のようにひらめいて地面に落ちた。それはおそろしい瞬間だった。彼はその姿勢のまま甘美な Orgasm が急激に凝集した苦痛に取って代られるのを直覚した。赤光にまみれた表情を外らす間もなく、彼は病獣のようにうめき声を立てた。口辺に泡をふきながら彼は、その瞬間総身の苦痛をひとところに絞り上げて Spermatism 完了した。腕の下から必死に身をよじって逃れ出る泉の肉体を感じながら、彼の身体からやがて苦痛は潮のようにゆるやかに引いて行った。彼は芝草に掌を支え、凝然と瞼を上げた。貨車の響きは崖下を通過した瞬間から、急速に衰え薄れて行くらしかった。[やぶちゃん注:「茴香」セリ目セリ科ウイキョウ属ウイキョウ Foeniculum vulgare はフェンネル(Fennel)のこと。当該ウィキによれば、『ウイキョウの若い葉および果実は、甘い香りと苦みが特徴』とするが、『この芳香は女性ホルモン(エストロゲン)』(Estrogen)『と同じ働きをする』『植物性エストロゲン』である『フィトエストロゲン』(Phytoestrogens:内分泌系により産生されたものではなく、フィトエストロゲン植物を摂取したことによる外因性の物質が内分泌された女性ホルモンのように機能するところの外因性エストロゲン様の振る舞いをする物質を指す語)『が豊富に含まれている』とある。]

 泉は凹地の縁に身をもたせて、乾き切った眼を大きく見開いて彼を凝視していた。月光を正面に受けたその顔は、紙のように蒼白かった。眼だけがするどく彼の顔に突刺さって来たのだ。それは憎悪とか驚愕をのり越えた空虚な眼のいろだった。かぎりなく深く、無量のむなしさをたたえた挑線であった。彼は必死になって、それに堪えていた。錯乱しようとするものを全身で支えていた。突然表情を全く喪ったその顔は、やがてくずれ始めて来た。泉は子供のように行儀よく両掌を顔に当て、静かに泣き始めた。その頃になって彼はやっと立ち上っていた。ねばねばした感触に堪えながら、彼はすべり落ちたマントを拾い上げていた。マスクは白い塊りになって、芝草の上に転がった。

(結局俺は始めから泉の肉体がほしかっただけの話なのさ!)

 彼はよろめきながらマントを羽織ると、身体をこごめてマスクを拾い上げ、顔をゆっくりおおった。泉の肉体をそっと盗んで、代償として此の間の金包みを置いて来る。始めから漠然と計画していたのはそれであった。そうすることで彼の気持は全部整理がつく筈であった。ところがマスクを剥ぎ取られるという茶番が入ったばかりに、何か順調に行っていたものがばらばらに乱れてしまったのだ。彼は強いて自分の心にそう言い聞かせようとした。

(そんな事はざらにある話じゃないか。引揚げ娘が生活に困って淫売になったというだけの話じゃないか。隣室の小役人がそれを知って仮装してその娘を買ったというだけの事じゃないか。まったく何でもない愚劣な話じゃないか)

 彼は凹地を出て崖の鼻に立った。崖は石垣を畳んで垂直に切り立っていた。遙(はる)か下方をくろぐろとレエルが幾条も走っているらしかったが、彼の眼に映るものはただ黒い闇の茫漠とした拡がりだけであった。身体がばらばらに千切れそうな深い疲労が彼に起って来た。Spermatism はあったにも拘らず充足感は少しも残っていなかった。彼はじっと闇の底に眼を放っていた。眼球だけが脱落してその中に沈んで行くようで、彼はその感じを忍びながら、ふと太古から俺はこんな姿勢で此処に立っていたのではないか、という錯覚に落ちていた。そして此のたくらみの最初から、此の終末を予感しつづけていたことを、彼は今判然と思い起していた。彼は更に身体をすすめた。靴の先は両方とも二寸位ずつ、崖の鼻から宙に浮いた。その時冷たい笑いが自ずと彼の鼻の辺にのぼって来た。

(俺の身体は今、背中を指一本で押しても、他愛なく此の闇の中に転落してしまうじゃないか)

 背後の凹地は颶風(ぐふう)の眼のように静まりかえっていた。泉の嗚咽(おえつ)は今までとぎれながら続いていたのだが、それすらも聞えなくなってしまった。粘ったものが一滴脚をつたって流れ落ちた。彼はふと身慄いしながら、あのポンプ台の上に置き忘られた石鹸のいろを聯想(れんそう)した。月の光に照らされて、それは白っぽく透きとおっていた。側にはバケツが黒い布を沈ませていた。戸板ひとつ隔てたところでは電気按摩器の夢を見ながら老婆がうとうとと眠り呆けているのだろう。……[やぶちゃん注:「颶風」ここは台風と同義。]

 彼は背面に神経を集めながら、まだ泉は立ち上らないのかと、頭の片すみでぼんやり考えあせっていた。あの泉の眼のいろをのぞいた瞬間のおそろしさは、まだなまなましく残っていた。頭を烈しく振って彼はその感覚から逃げようとした。そして乱れた頭で彼は自分の位置を手探りしているのだった。ただ一突きで俺は飛翔(ひしょう)出来る。その時俺にはとても良いことが起るに違いない。早く辞表を出せぱどっさり退職金が貰えるように、何か素晴らしいものが俺に落ちて来るだろう。すべてはそれからの話だ。――

 崖の鼻にあやうく安定を保ち、彼はしきりにそんなことを呟きながら、そのまま瞳を定め、闇の中の虚ろな一点に見入って行った。

 

2021/04/14

芥川龍之介書簡抄36 / 大正四(一九一五)年書簡より(二) 失恋後の沈鬱書簡四通

 

大正四(一九一五)年三月九日・京都市吉田京都帝國大學寄宿會内 井川恭君 直披・田端四三五 芥川龍之介

 

イゴイズムをはなれた愛があるかどうか イゴイズムのある愛には人と人との間の障壁をわたる事は出來ない 人の上に落ちてくる生存苦の寂莫を癒す事は出來ない イゴイズムのない愛がないとすれば人の一生程苦しいものはない

周圍は醜い 自己も醜い そしてそれを目のあたりに見て生きるのは苦しい しかも人はそのまゝに生きる事を强ひられる 一切を神の仕業とすれば神の仕業は惡むべき嘲弄だ

僕はイゴイズムをはなれた愛の存在を疑ふ(僕自身にも)僕は時々やりきれないと思ふ事がある 何故こんなにして迄も生存をつゞける必要があるのだらうと思ふ事がある そして最後に神に對する復讐は自己の生存を失ふ事だと思ふ事がある

僕はどうすればいゝのだかわからない

君はおちついて画をかいてゐるかもしれない そして僕の云ふ事を淺墓な誇張だと思ふかもしれない(さう思はれても仕方がないが)しかし僕にはこのまゝ囘避せずにすゝむべく强ひるものがある そのものは僕に周圍と自己とのすべての醜さを見よと命ずる 僕は勿論亡びる事を恐れる しかも僕は亡びると云ふ豫感をもちながらも此ものの聲に耳をかたむけずにはゐられない。

每日不愉快な事が必起る 人と喧嘩しさうでいけない 當分は誰ともうつかり話せない そのくせさびしくつて仕方がない 馬鹿馬鹿しい程センチメンタルになる事もある どこかへ旅行でもしやうかと思ふ 何だか皆とあへなくなりさうな氣もする 大へんさびしい

    三月九日           龍

   井 川 君

 

 

大正四(一九一五)年三月九日・田端発信・藤岡藏六宛

 

わが心ますらをさびね一すぢにいきの命の路をたどりね

かばかりに苦しきものと今か知る「淚の谷」をふみまどふこと

ほこらかに恆河砂びとをなみしたるあれにはあれどわれにやはあらぬ

かなしさに淚もたれずひたぶるにわが目守(まもる)なるわが命はも

罌粟よりも小(ち)さくいやしきわが身ぞと知るうれしさはかなしさに似る

われとわが心を蔑(なみ)しつくしたるそのあかつきはほがらかなりな

いやしみしわが心よりほのほのと朝明(あさあけ)の光もれ出でにけり

わが友はおほらかなりやかくばかり思ひ上がれる我をとがめず

いたましくわがたましひのなやめるを知りねわが友汝(な)は友なれば

やすらかにもの語る可き日もあらむ天つ日影を仰ぐ日もあらむ

あかときかはたたそがれかわかねどもうすら明りのわれに來たれる

わが心やゝなごみたるのちにして詩篇をよむは淚ぐましも

 

少しおちついてゐる今日にも君の所へ行かうかと思ふがもう少しまつ事にする自分がもがいてゐる時に人が落ちついてゐるのを見るのは苦しいから

 

[やぶちゃん注:短歌群は三字下げであるが、引き上げた。書信本文との間を一行空けた。

「藤岡藏六」一高以来の友人。当時、東京帝大哲学科在籍。後に哲学者となった。複数回既出既注。吉田弥生とのことは、ある程度まで彼に話してあるのであろう。

「淚の谷」後の歌に出る「旧約聖書」の「詩篇」の第八十四章六節に出る。「明治元譯(もとやく)聖書」を引く。

   *

かれらは淚の谷をすぐれども其處をおほくの泉あるところとなす また前の雨はもろもろの惠をもて之をおほへり

   *

「恆河砂びとを」「ごうがしやびと(ごうがしゃびと)を」。恒河(ガンジス川)の砂のように沢山の人々を。

「なみしたる」「無(なみ)したる・蔑したる」。「なみする」は「無(な)し」の語幹に、形容詞・形容動詞の語幹に付いて名詞をつくる接尾語「み」の付いた「なみ」に、動詞「す」の付いたもので「そのものの存在を無視する・ないがしろにする・あなどる」の意。

「あれ」心理的・空間的・時間的に自分からも相手からも遠い対象を指し示す代名詞。

「われにやはあらぬ」反語的疑問であろう。

「罌粟」「けし」。]

 

 

大正四(一九一五)年三月九日・京都市吉田京都帝國大學寄宿會内 井川恭君 直披・三月十二日 東京田端四三五 芥川龍之介

 

井川君         十二日夜十二時

僕は愛の形をして hunger を恐れたそれから結婚の云ふ事に至るまでの間(可成長い 少くとも三年はある)の相互の精神的肉體的の變化を恐れた 最後に最[やぶちゃん注:「もつとも」。]卑むべき射倖心として更に僕の愛を動かす事の多い物の來る事を恐れた しかし時は僕にこの三つの杞憂を破つてくれた 僕は大体に於て常にジンリツヒなる何物をも含まない愛を抱く事が出來るやうになつた 僕はひとりで朝眼をさました時にノスタルジアのやうなかなしさを以て人を思つた事を忘れない そして何人[やぶちゃん注:「なんぴと」。]にも知らるゝ事のない何人にもよまるゝ事のない手紙をかいてひとりでよんでひとりでやぶつたの事[やぶちゃん注:ママ。]も忘れない

僕は今靜に周圍と自分とをながめてゐる 外面的な事件は何事もなく平穩に完つて[やぶちゃん注:「をはつて」。]しまつた 僕とその人とは恐らく永久に行路の人となるのであらう 機會がさうでないやうにするとしても僕は出來得る限りさうする事につとめる事であらう 唯恐れるのは或一つの機會である しかしそれは唯運命に任せるより外はない

僕は霧をひらいて新しいものを見たやうな氣がする しかし不幸にしてその新しい國には醜い物ばかりであつた 僕はその醜い物を祝福する その醜さの故に僕は僕の持つてゐる、そして人の持つてゐる美しい物を更によく知る事が出來たからである しかも又僕の持つてゐる そして人の持つてゐる醜い物を更にまたよく知る事が出來たからである

僕はありのまゝに大きくなりたい ありのまゝに强くなりたい 僕を苦しませるヴアニチーと性慾とイゴイズムとを僕のヂヤスチファイし得べきものに向上させたい そして愛する事によつて愛せらるゝ事なくとも生存苦をなぐさめたい

この二三日漸[やぶちゃん注:「やうやく」。] chaos をはなれたやうなしづかなそのわりに心細い狀態が來た 僕はあらゆる愚にして滑稽な虛名を笑ひたい しかし笑ふよりも先[やぶちゃん注:「まづ」。]同情がしたくなる 恐らくすべては泣き笑ひで見るべきものかもしれない

僕は僕を愛し僕を惜むすべての STRANGERS[やぶちゃん注:縦書。]と共に大學を出て飯を食ふ口をさがしてそして死んでしまふ しかしそれはかなしくもうれしくもない しかし死ぬまでゆめをみてゐてはたまらない そして又人間らしい火をもやす事がなくては猶たまらない たゞあく迄もHUMAN[やぶちゃん注:縦書。]な大きさを持ちたい

かいた事は大へんきれぎれだ 此頃僕は僕自身の上に明な[やぶちゃん注:「あきらかな」。]變化を認める事が出來る そして偏狹な心の一角が愈 sharp なつてゆくのを感じる 每日學校へゆくのも砂漠へゆくやうな氣がしてさびしい さびしいけれど僕はまだ中々傲慢である

                  龍

 

[やぶちゃん注:複数個所で行末詰めで、字空けとした方がよいと判断した箇所に一字空けを施した。今まで、その都度、この注を入れてきたが、これを以って以下同前とし、この注は省略する。

「愛の形をして hunger を恐れた」『愛というイメージの中に、「飢えた感じ・異様なひもじさ・強過ぎる熱望や渇望」といった過剰な属性が加わることを恐れた』の意か。

「可成長い 少くとも三年はある」吉田弥生は同い年の幼馴染みであった(「芥川龍之介書簡抄25 / 大正三(一九一四)年書簡より(三) 五月十九日井川恭宛」の鷺只雄氏の引用「破れた初恋」を参照)から、初対面からは長い。「少くとも三年はある」というのは、鷺氏が言っておられるように、『龍之介は新原の実家を通して』彼女に『なじんではいたが、中学以後』(龍之介の府立第三中学校入学は明治三八(一九〇五)年四月で十三歳)『は交渉がなく、ふたたび弥生の家を訪ねるようになるのは大学一年の五月頃』(ともに二十一歳。この大正四年は二十四であるから、「三年」が腑に落ちる)『からとみられる』と言う内容と合致する。

「射倖心」「射幸心」とも書く。幸運や偶然によって何の苦労もなくして思いがけぬ利益を得ることを期待する心理。ここは、そのよう特に性的な媚の射幸心を以って意識的或いは無意識的に芥川龍之介に向かって作用する或いは作用を仕掛けようとする対象の動きを指している。

「ジンリツヒ」sinnlich。ドイツ語「ズィンリヒ」。ここは「性的な・官能的な・肉感的な」の意。

「ノスタルジア」英語‘Nostalgia’ はギリシャ語(ラテン文字転写:nostos(return home)+algos(pain))が語源で「故郷をかえりみることの痛み」であり、それは日本人の考ええいる「ノスタルジック」という語の軽さとは大いに異なり、嘗ては「懐郷病」とも訳された「死に至るほどの郷愁」の謂いである。

「ヴアニチー」vanity。ヴァニティ。虚栄心。自惚(うぬぼ)れ。

「ヂヤスチファイ」justify。「正しいとする・正当だと理由附ける・自分の行為を正当に弁明する・正当性を示す・正当な理由とする・罪がないとして許す」。

「chaos」混沌。無秩序。大いなる混乱。

「STRANGERS」見知らぬ人・他人・不慣れな人・未経験者。]

 

 

大正四(一九一五)年四月十四日・田端発信・井川恭宛(転載)

 

 うちへかへつて「丁度うまく汽車が間にあつてね、十時五十何分かに品川から立ちましたよ」と云つたら「さうかい」と云つて、母や伯母が淚を流した。おやぢまで泣いてゐる。年をとるとセンチメンタルになるものだなと思つた。

 それから午少しすぎに、三並さんと藤岡君が來た。三並さんと畫や漢學の話をした。

 三並さんのやうに、いい加滅な所で妥協してゆくのが現代の日本では一番安全な道だらうと思ふ。

 少しとぶ。

 昨日帝劇へ行つた。梅幸のお園、お富、松助の蝙蝠安に感心して歸つて來た。

 行くときに警視廰の前を通つたら、何となく芝居へゆく事が惡いやうな氣がした。飯も食へなくて泥棒をしてつかまつて、ここへつれて來られる人がゐる事を考へたからである。しかし十步ばかりあるく中に、そんな事は全然氣にならなくなつた。それから芝居をみてゐる中に、自分は何を見てゐるのだらうと思つたら急に心細くなつた。芝居でなくて役者を見るより外に仕方のない事を知つたからである。しかし松尾太夫の冴えた肉聲をきいてゐる中に、これも亦何時の間にか忘れてしまつた。

 又とぶ。

 博物館へ來てゐるルノアルの石版やエチングを見て又可成感心した。

 畫をみるのに文學的内容を入れてみるのはまだいい、一番愚劣なのは、描かれてゐる對象を實世界に引入れて、その中へ自分を置いて考へる奴である。バアの石版畫をみて、かう云ふ所でパンチをのんだらいいだらうと思ふ男が可成ゐる。賞際もゐた。おかげで、踊子やオーケストラのうつくしい畫をおちついて見てゐる事が出來なかつた。

 又とぶ。

 浮世繪の會へ行つて、廣重を可成みて來た。そのあくる日、本所へ行つてかへりに一の橋のわきの共用便所へはいつた。あの便所は橋の側の往來よりは餘程ひくい河岸にある。丁度、夕方で、雨がぽつぽつふつてゐた。便所を出ると、眼の前に一の橋の橋杭と橋桁が大きく暗い水面に入り違つてゐる。河は夕潮がさして、石垣をうつ水の音がぴちやぴちやする。橋の上を通る傘や蓑、西の空のおぼつかない殘照、それから河を下つて來る五大力――すべてが廣重であるのに驚いた。

 ぐづぐづしてゐると、今人は古人に若かずと云つて笑はれるだらうと思ふ。

 又とぶ。

 僕はよく獨りでぶらぶらあるく。東京の町をあるく。三越へはいつたり、丸善に入つたりする。

 さうすると時々とんでもないものを見る事が出來る。さうして、さう云ふもののつくる mood に沒入して、暫すべてを忘れてしまふ事が出來る。

 さういふ mood をつくるものにはいろいろある。家、空、人、電車、並木――それらのすべての雜多なコムビナチオンに加へられる光と影とのあらゆるグラード。その代りに、之は獨りでないとうまく行かない。すきな人も、嫌な人も、同樣に二つの異つた方面からこの興味を破壞するから。

 又とぶ。

 櫻がよくさいた。櫻の歌四首。

 

ひなぐもる空もわかなく櫻花ををりにををりさきにけるはや

これやこの道灌山の山櫻ちりたまりたる下水なるかも

あしびきの尾の上の櫻ひえびえと夕かたまけて遠白みたれ

遲櫻夕ひそかにさきてありこの畫室(アトリエ)に人の音せず

 

 又とぶ。

 時々大へんさびしくなる。

 こんな事は云つてもはじまらないからとばす。

 ビアズレーの畫をかなり澤山まとめてみて感心した。ビアズレーの畫は感受的にのみ興味があると君は云つたかと思ふ。僕はその意味がわからない。(内容の上の興味がないと云ふのなら反對)ひまな時でいいから、もう少しくはしくその事をかいて貰へるといいと思ふ。とぶ。

 のどをいためて濕布をしてゐた。鏡で朝、顏をみたら、頸のまはりへ白い布をまきつけてゐるのが、非常に病人らしくみえた。そこで濕布をやめにしてしまつた。さうして帝劇へ行つて、夜の冷い空氣を吸ひながらうちへかヘつて來た。そのせゐで又のどが痛くなつた。のど佛の中に八面體の結晶が出來たやうな氣がするのには困る。

 又とぶ。

 今日も電車の中の顏が悉く癪にさはつた。sinnlich と云ふ顏に二種類ある。こつちにsinnlich な心もちを起させる顏と、顏そのものが sinnlich な顏と。――電車の中の顏は皆後者である。

 帝劇でもいやな奴に澤山あつた。貧乏ないやな奴よりは、金のあるいやな奴の方が餘程下等な氣がする。

 みんなからよろしく

    四月十四日午後

 

[やぶちゃん注:短歌四首は全体が三字下げだが、引き上げ、前後を一行空けた。この書簡は底本の岩波旧全集の「後記」によれば、恒藤(井川が婿養子に入って改姓した)恭著の「旧友芥川龍之介」(昭和二七(一九五二)年河出書房刊)からの転載とある。冒頭の一段は、何故か判らぬが、新全集の宮坂年譜に漏れているものの、先行する一九九二年河出書房新社刊の鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」によれば、この四月上旬、『春休み中』、『恒藤』(この時はまだ「井川」)『恭が芥川家に滞在』したのであり、その帰りを見送った後に家に帰ったところのシークエンスを語ったものである。流石! 井川! 傷心の芥川龍之介のために京から遙々、やってきていたのだ! 翰林書房刊の「芥川龍之介新辞典」の「松江」の項に、三月九日附(差出三月十二日)の吉田弥生との失恋告白以降の書簡に井川は『危機を感じ、三月二十二日に『上京し、田端の芥川家に行く』とあり、しかも、その時、井川から傷心を慰める方途として、『松江行きの話が出るのは、この夜が最初であった』とある。

「三並さん」三田の統一教会牧師で、一高のドイツ語嘱託教師でもあった三並良(みなみはじめ 慶應元(一八六五)年~昭和一五(一九四〇)年)。愛媛県生まれ。独逸学協会・新教神学校卒。ドイツ人シュレーダーと小石川上富坂に日独学館を創立し、若き学生らの教育に尽くした。

「藤岡君」前の書簡の藤岡蔵六。

「梅幸のお園」六代目尾上梅幸(明治三(一八七〇)年~昭和九(一九三四)年)。帝国劇場の落成(明治四四(一九一一)年)ともに女形としては異例の座頭(劇場専属の興行責任者)格として迎えられ、以降、帝劇を中心として活躍した名女形である。「お園」は心中物の「艶容女舞衣」(はですがたおんなまいぎぬ)。栢莚氏のブログ「栢莚の徒然なるままに」の「大正44月 帝国劇場 宗十郎大奮闘」の演目から確定出来た。

「お富、松助の蝙蝠安」通称「切られ与三(よさ)」「お富与三郎」「源氏店(げんやだな)」などの名で知られる世話物の名作「与話情浮名横櫛」(よわなさけうきなのよこぐし)。主人公与三郎に悪事を仕込むのが無頼漢の蝙蝠安(こうもりやす)で、右頰に蝙蝠の刺青を入れているのが通称の由来。「松助」は四代目尾上松助(天保一四(一八四三)年~昭和三(一九二八)年)。

「松尾太夫」三代目常磐津松尾太夫(明治八(一八七五)年~昭和二二(一九四七)年)。本名は福田兼吉。逗子生まれ。明治三九(一九〇六)年に三代目を襲名。明治四四(一九一一)年に帝国劇場の専属、昭和五(一九三〇)年には松竹専属となった。

「バアの石版畫をみて、かう云ふ所でパンチをのんだらいいだらうと思ふ男が可成ゐる」ルノアールのどの石版画を指すのかは不詳。

「本所」「一の橋」一之橋。サイト「東京の橋」のこちらを参照。地図リンク有り。

「五大力」(ごだいりき)は元は江戸時代に主として関東・東北地方で使われた百石乃至三百石程度の小回しの荷船。本来は海船だが、ある程度まで河川を上れるように喫水の浅い細長い船型とし、小型は長さ三十一尺(約九・四メートル)、幅八尺(約二・四メートル)、大型は長さ六十五尺(約十九・七メートル)、幅十七尺(約五メートル)ほどで、河川航行に備え、棹が使えるように、舷側に長い「棹走り」(板張りの台)を設けるのを特徴とする。海から直ちに河川に入れるので、江戸湾の内外では米穀・干鰯(ほしか)・薪炭などの商品輸送に重用された。「木更津船」はその代表的なもので、単に「五大力」とも呼ぶ。関西では「イサバ」がこれに当たる。この大正の末年頃には姿を消したという。

「コムビナチオン」ドイツ語の‘Kombination’か。結合。

「グラード」フランス語の「grade」か。階梯。

「ひなぐもる」「日曇る」。

「ををりにををり」「ををる」は「撓(をを)る」で、枝や葉が撓(たわ)むの意であるが、多くの場合は、花がいっぱいに咲いた様子に用いる。万葉以来の古層の古語である。

「道灌山」現在の東京都荒川区西日暮里四丁目(グーグル・マップ・データ)にある高台である。田端・王子へ連なる台地の中でも、一際狭く、少し高い場所にある。名称の由来は、江戸城を築いた室町後期の武将太田道灌の出城址という説、鎌倉時代の豪族関道閑(せきどうかん)の屋敷址という説、狐が住んでいた又は稲荷が祀られていたことから「稲荷山」(とうかやま)と呼ばれたものが訛ったという説があると当該ウィキにあった。

「ビアズレー」既注のワイルドの戯曲「サロメ」の挿絵で知られるヴィクトリア朝の世紀末美術を代表するイギリスのイラストレーター(詩人・小説家でもあった)オーブリー・ヴィンセント・ビアズリー。

「のど佛の中に八面體の結晶が出來たやうな氣がするのには困る」座布団一枚!]

芥川龍之介書簡抄35 / 大正四(一九一五)年書簡より(一) 井川恭宛 龍之介の吉田彌生との失恋告白書簡

 

大正四(一九一五)一月二十八日・京都市京都帝國大學寄宿舍内乙一八 井川恭君 直披・二月廿八日朝 龍

 

ある女を昔から知つてゐた その女がある男と約婚をした 僕はその時になつてはじめて僕がその女を愛してゐる事を知つた しかし僕はその約婚した相手がどんな人だかまるで知らなかつた それからその女の僕に對する感情もある程度の推側以上に何事も知らなかつた その内にそれらの事が少しづゝ知れて來た 最後にその約婚も極大体の話が運んだのにすぎない事を知つた

僕は求婚しやうと思つた そしてその意志を女に問ふ爲にある所で會ふ約束をした 所が女から僕へよこした手紙が郵便局の手ぬかりで外へ配達された爲に時が遲れてそれは出來なかつた しかし手紙だけからでも僕の決心を促すだけの力は與へられた

家のものにその話をもち出した そして烈しい反對をうけた 伯母が夜通しないた 僕も夜通し泣いた

あくる朝むづかしい顏をしながら僕が思切ると云つた それから不愉快な氣まづい日が何日もつゞいた 其中[やぶちゃん注:「そのうち」。]に僕は一度女の所へ手紙を書いた 返事は來なかつた

一週間程たつてある家のある會合の席でその女にあつた 僕と二三度世間並な談話を交換した 何かの拍子で女の眼と僕の眼とがあつた時僕は女の口角の筋肉が急に不隨意筋になつたやうな表情を見た 女は誰よりもさきにかヘつた

あとで其處の主人や細君やその阿母さんと話してゐる中に女の話が出た 細君が女の母の事を「あなたの伯母さま」と云つた 女は僕と從兄妹同志だと云つてゐたのである

空虛な心の一角を抱いてそこから歸つて來た それから學校も少しやすんだ よみかけたイヷンイリイツチもよまなかつた それは丁度ロランに導かれてトルストイの大いなる水平線が僕の前にひらけつゝある時であつた 大ヘんにさびしかつた

五六日たつて前の家へ招かれた禮に行つた その時女がヒポコンデリツクになつてゐると云ふ事をきいた 不眠症で二時間位しかねむられないと云ふのである その時そこの細君に贈つた古版の錦繪の一枚にその女に似た顏があつた 細君はその顏をいゝ顏だ云つた[やぶちゃん注:ママ。] そして誰かに眼が似てゐるが思出せないと云つた 僕は笑つた けれどもさびしかつた

二週間程たつて女から手紙が來た 唯幸福を祈つてゐると云ふのである

其後その女にもその女の母にもあはない 約婚がどうなつたかそれも知らない 芝の叔父の所へよばれて叱られた時にその女に關する惡評を少しきいた

不性な[やぶちゃん注:ママ。「無精(ぶしやう)な」の慣用。]日を重ねて今日になつた 返事を出さないでしまつた手紙が澤山たまつた 之はその事があつてから始めてかく手紙である 平俗な小說をよむやうな反感を持たずによんで貰へれば幸福だと思ふ

東京ではすべての上に春がいきづいてゐる 平靜なるしかも常に休止しない力が悠久なる空に雲雀の聲を生まれさせるのも程ない事であらう すべてが流れてゆく そしてすべてが必[やぶちゃん注:「かならず」。]止るべき所に止る 學校へも通ひはじめた イヷンイリイツチもよみはじめた。

唯かぎりなくさびしい

    二月廿八日          龍

   恭   君 梧下

 

[やぶちゃん注:非常に変則的な形で悪いのだが、前回と同様、この失恋の相手である吉田彌生については「芥川龍之介書簡抄25 / 大正三(一九一四)年書簡より(三) 五月十九日井川恭宛」の私の冒頭注の太字より後の部分でこの前後の経緯をコンパクトに記しておいたので、そちらを読まれたい。ここでは基本、繰り返さない。なお、この翌三月一日、芥川龍之介は二十四歳になる。この年は閏年ではないから、この日が二月の晦日であった。

 ここに書かれた出来事どもについても、例えば、現在、最も纏まった新全集の宮坂覺氏の年譜でも、同年一月具体な日付け等は、一切、判っていない。同年譜には、この大正四年一月に纏めた形で(実はこの一月部分は一月十一日に彼の好きなアイルランドの作家ジョージ・バーナード・ショー(George Bernard Shaw 一八五六年~一九五〇年)の戯曲『セント・ジュアン』(Saint Joan: A Chronicle Play in Six Scenes and an Epilogue :「聖ジュアン:六場とエピローグから成る史劇」。ジャンヌ・ダルクとその処刑を、客観的に、社会と葛藤する一人の人間としてのジャンヌと、その審判を巡る当時の社会と人々の在り方を描いたもの。一九二三年初演で、一九二五年にショウはこれを以ってノーベル文学賞を受賞している。この時、彼がそれを読んだというのはちょっと不審なのだが、ショウは既に一九一三年にこの戯曲を書こうと思い立っているから、或いはその構想を記したもの或いはシノプシスを記したものを既に書いていたものか? しかし当該作品の英文ウィキには初演以前に書かれたものがあったり、それが出版された事実は見出せない。やはり不審)を読了したという記事一つきりで、その後に、纏めた文章で、『この頃、吉田弥生との恋が破恋に終わる』。『求婚まで考えたが。家族中の反対を受け、結局は断念することとなった。この破恋は、直接的にも間接的にも以後の人生に大きな影響を及ぼした』。『翌月』二十八日には『破恋後、初めて井川恭に初恋と破恋の経緯を書き送り』(以上の書簡がそれ)、『また』三月九日『には、井川や藤岡蔵六に破恋の痛手と寂しさを告白している』(後に電子化する)。『そして』四月二十三日、『山本喜誉司に「イゴイズムを離れた愛」の不在を確信したことを伝えることになる』(後に電子化する)とある。則ち、宮坂氏はここに書かれた総ての事件は一月中に起ったものと解しておられる。当該年譜の二月には、ここに出るトルストイの「イワン・イリッチの死」を含む英訳本の作品集( Lyof N, Tolstoy IváIlyich, and other stories”。英訳者不詳)の読了記事のみが載りしかし、言っておくと、不思議なことにその日附は二月二十二日である。書簡末尾の日付は「二月廿八日」と書かれている。しかも本書簡の最後は「イヷンイリイツチもよみはじめた」である。不審である。この日の深夜に読み終えたとしても、この年譜の日付はおかしい、龍之介の受けたダメージが異様に大きく、仮定推定であるが、一ヶ月弱か一ヶ月半ばかりもかかってやっとこの井川宛書簡が書けるまでに落ち着いたということが判る。

 この井川宛の衝撃的告白は、当然、この前回に電子化した僅か二ヶ月ほど前の大正三年十二月末の吉田弥生宛のラヴ・レター(私は下書きと推定する)との極端な変容に驚かされると同時に、そのラヴ・レターにある、ある特殊に微妙な雰囲気が、ここで、気になり出す。再掲すれば、

   *

こは人に御見せ下さるまじく候

YACHANとよびまつらむも

かぎりあるべく候 いつの日か

再 し・ゆ・う・べ・る・とが哀調を 共

にきくこと候ひなむや

   *

(「YACHAN」は縦書き)であるが、この

――幼馴染みで、昔から「やっちゃん」と愛称で呼んでおりましたが、そう、親しみを込めてあなたを呼べるのは、もう、限りのあることとなったように思います。しかし、何時の日か、また、再び、ともに寄り添ってシューベルトの哀しい調べを一緒に聴いて下さりはしまいか?――

という書面の持つニュアンスである。

 吉田弥生に陸軍中尉金田一光男との縁談の話が持ち込まれたことが記されてあるのは、私の持つ古い年譜では、一九九二年河出書房新社刊・鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」で、そこで鷺氏は、『龍之介は新原の実家を通して』弥生に『なじんではいたが、中学以後は交渉がなく、ふたたび弥生の家を訪ねるようになるのは大学一年の五月頃からとみられ』、しかも『気の弱い龍之介は一人では行けず、友人の久米や山宮などを連れて行ったが、文学や美術や音楽など共通の話題があるので』、『話ははずみ、訪問は楽しかった』。ところが、『大正三年の秋頃』(☜)、『弥生に縁談がもちあがり、その時龍之介は弥生を愛していることを知り、求婚の意志を芥川の家族に話すと猛烈に反対され、あきらめることになる』「芥川龍之介書簡抄25 / 大正三(一九一四)年書簡より(三) 五月十九日井川恭宛」の私の注の鷺氏の引用参照)とある。鷺氏は弥生への恋心が、縁談話が持ち上がったことによって急激に顕在化したとする。

 一方、新全集宮坂年譜で吉田弥生の記事を調べると、大正三年七月の五月の項に冒頭に文章で、『この頃、吉田弥生への恋心が芽生え始める。井川恭には「僕の心には時々恋が生まれる」と書き送っており』(「芥川龍之介書簡抄25 / 大正三(一九一四)年書簡より(三) 五月十九日井川恭宛」がそれ)、『久米正雄、山宮充』(さんぐうまこと)、『富田砕花』((明治二三(一八九〇)年~昭和五九(一九八四)年)は後の詩人。岩手県盛岡市生まれ。本名は富田戒治郎(かいじろう)。日本大学植民学科卒。明治四四(一九一一)年に与謝野鉄幹の門下に入り、清新な短歌で歌壇の俊英として注目を浴びた。後に詩作に移り、ホイットマンを本邦に紹介した一人でもあった。恐らく龍之介と知り合いになったのは、弥生絡みであって、弥生の女学校時代の同級生斉田文子の家が、砕花が寄寓しており、しかも龍之介も出入りしていた「シオン教会」であったことに拠るものと思われる(これは二〇〇三年翰林書房刊関口安義編「芥川龍之介新辞典」を参考にした)。また、後には谷崎潤一郎と富田と龍之介と三人で親しい交流があった)『らと連れ立って弥生の家へ遊びに行ったという』とあって、鷺氏よりもワン・シーズン強早い。しかもこれは、芥川龍之介の短歌で大正三(一九一四)年五月発行の『帝國文學』に「柳川隆之介」の署名で掲載された十一首からなる「桐 (To Signorina Y. Y.)」によって強い確実性が証明される。この添え辞「Signorina Y. Y.」の「Signorina」はでイタリア語‘signorina’(シニョーラ)で、「~嬢」「令嬢・お嬢さん」の未婚女性の意であり、「Y. Y.」のイニシャルはほぼ確実に吉田弥生に同定してよいからである。さらに言えば、この短歌の末尾には『(四・九・一四・)』とあって、これは一九一四(大正三)年四月九日を意味するから、実は宮坂年譜の五月よりも一ヶ月も前に本歌群が書かれていることを思えば、この大正三年の春には既に龍之介の吉田弥生への恋慕は顕在的に固まっていたことが証明されるのである。試みに頭の四首のみを示す。

   *

 君をみていくとせかへしかくてまた桐の花さく日とはなりける

 君とふとかよひなれにしあけくれをいくたびふみし落椿ぞも

 廣重のふるき版畫のてざはりもわすれがたかり君とみればか

 いつとなくいとけなき日のかなしみをわれにおしへし桐の花はも

   *

全篇は「やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集 附やぶちゃん注」を参照されたい。

 一方、出版としては、新全集刊行後である二〇〇三年翰林書房刊の「芥川龍之介新辞典」の「失恋事件」の項では(栗栖真人筆)、先に私が挙げた「桐」歌群の存在を掲げ、『同年の』後の短歌雑誌『『心の花』にも何度か恋歌を寄稿している』とされ(上記の私の歌集を参照)、『同年秋頃、弥生に縁談が持ち込まれたことを知った芥川は、弥生に求婚したいと家人に話すが猛反対を受け遂に断念する。家人の反対の理由は吉田家が士族ではなかったこと、弥生が非嫡出子であったこと』(「芥川龍之介書簡抄25 / 大正三(一九一四)年書簡より(三) 五月十九日井川恭宛」の私の注の鷺氏の引用により詳しく載る)、『当時の赤新聞』(現在で言うゴシップ専門の真実性の怪しい低級新聞の通称)『に取り上げられた女学生の中に弥生の名もあったことが挙げられるが』(これはしかし本書簡の終わりの方の、『芝の叔父の所へよばれて叱られた時にその女に關する惡評を少しきいた』がそれではないかと思われ、それは最初の家人の猛反対の理由には含まれていなかったのではないかと私は考えている)、『婚約の話進行中の相手に求婚するという芥川の姿勢が旧時代的な養家の反発を買った面もある』という『指摘や』、『芥川が実家に奪還されることへの養家の危惧という見方もある』(既に述べた通り、吉田の父吉郎と龍之介の実父新原敏三は親しかった)とある。特にここには新しい情報はないが、秋に弥生に金田一光男との縁談が起こり、それが現に進行している中で、十二月末の龍之介が彼女にラヴ・レターを送り、一月になるや、弥生への求婚・結婚の宣言を龍之介は養家にしたのである。本文に従えば、しかし、この求婚宣言を弥生に直接逢って伝えようとしたことは判り、呆れた糞事情によって会えなかったものの、その後に弥生からのきた「手紙だけからでも僕の決心を促すだけの力は與へられた」とあることから、ある程度(求婚宣言許諾の具体ではなく、弥生がそれなりに龍之介のことを大切に思っているという確信に過ぎない。それを龍之介は自己の中で過剰に肥大させて彼女は私との結婚を望むはずだと勝手に思い込んだ可能性の方が大きい気もする)の弥生の理解はあったものらしい。龍之介だけの一方的な突っ走りであったというわけではないようではある。しかし、直接逢ってはっきり言わずに宣言するというのは、やはり甚だ無謀(縁談進行中の女性に対して)であるし、少なくとも私には、養家の反対もまた、決して理不尽とは思われない

 なお、宮坂年譜によれば、陸軍将校金田一光男と吉田弥生の結婚式は同年四月末で、婚姻届が届け出されたのは同年五月十五日のことである。

「伯母」芥川フキ(安政三(一八五六)年~昭和一三(一九三八)年)は実母の姉で、道章の妹。幼少時に片眼を傷つけ、そちらの視力は失われていたらしい。生涯、独身を通し(彼女は婚期に於いて失恋を体験しており、それが未婚であった理由ともされる)、養子となった龍之介の養育に当たった。龍之介にとっては生涯を通じて影響を与えた人物であり、文との新婚時代の一時期を除いて一緒に暮らした。彼はこの伯母の愛情を「有り難い」と感じながらも、時には苦痛や嫌悪を抱くこともあったようである。大正七(一九一八)年一月発行の雑誌『文章倶樂部』に発表された「文學好きな家庭から」(リンク先は私の古い電子化)では、「伯母が一人ゐて、それが特に私の面倒を見てくれました。今でも見てくれてゐます。家中で顏が一番私に似てゐるのもこの伯母なら、心もちの上で共通點の一番多いのもこの伯母です。伯母がゐなかつたら、今日のやうな私が出來たかどうかわかりません」と述べる一方、遺稿「或阿呆の一生」(同前)の「三 家」では、『彼は或郊外の二階の部屋に寢起きしてゐた。それは地盤の緩い爲に妙に傾いた二階だつた』。『彼の伯母はこの二階に度たび彼と喧嘩をした。それは彼の養父母の仲裁を受けることもないことはなかつた。しかし彼は彼の伯母に誰(たれ)よりも愛を感じてゐた。一生獨身だつた彼の伯母はもう彼の二十歲の時にも六十に近い年よりだつた』。『彼は或郊外の二階に何度も互に愛し合ふものは苦しめ合ふのかを考へたりした。その間も何か氣味の惡い二階の傾きを感じながら』とも述べているのを見ても、そのアンビバレントな感覚が見てとれる。サイト「芥川龍之介人物録」の彼女の項によれば、『芥川の妻文も「めったに私どもに土産など買って来たことはありませんでした。それでも伯母には、本当によく気がついて土産を買ってかえりました」とその気遣いの様を述べて』おり、『関口安義氏は、芥川にとって老人たちの目が「監視の眼」として写り、「いつも養父母と伯母に遠慮がちな生活を送っていた」としている』。『フキは、芥川の死後』、『痴呆症になって、死去した』とある。何より、龍之介は自死する直前、辞世とした、

    自嘲

 水涕や鼻の先だけ暮れのこる

を主治医で俳人でもあった下島勳(いさおし(歴史的仮名遣「いさをし」):俳号は空谷)に渡すようにと頼んだ相手が、このフキであったのである。私の『小穴隆一 「二つの繪」(3) 「Ⅳ」』及び「やぶちゃん版芥川龍之介句集 四 続 書簡俳句(大正十二年~昭和二年迄) 附 辞世」の最後尾も参照されたい。

「ある家のある會合」不詳。可能性の一つとして先に注で示した「シオン教会」が挙げられ得るか。

「イヷンイリイツチ」ロシアの巨匠レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ(Лев Николаевич Толстой/ラテン文字転写:Lev Nikolayevich Tolstoy 一八二八年~一九一〇年)が一八八六年に発表した「イワン・イリイチの死」(Смерть Ивана Ильича)。岩波文庫の解説に、『一官吏が不治の病にかかって肉体的にも精神的にも恐ろしい苦痛をなめ』、『死の恐怖と孤独にさいなまれながら』も『諦観に達するまでを描く』。『題材には何の変哲もないが』、『トルストイの透徹した観察と生きて鼓動するような感覚描写は』、『非凡な英雄偉人の生涯にもまして,この一凡人の小さな生活にずしりとした存在感をあたえている』とある。因みに、私はまさにこの岩波文庫の米川正夫訳を高校一年の時に読み、激しく感動した。私は中学一年の時に「復活」でのめり込み、貧しい私の机の前には、トルストイの肖像写真が貼られてあった。

「ロラン」既出既注のフランスの作家ロマン・ロラン(Romain Rolland 一八六六年~一九四四年)。彼は一八八七年には「戦争と平和」を読み、トルストイと文通までしており、一九一一年には大著「トルストイの生涯」(La Vie de Tolstoï )をもものしている。

「ヒポコンデリツク」hypochondriac。心気症。医学的な診察や検査では明らかな器質的身体疾患がないにも拘わらず、ちょっとした身体的不調に対して自分が重篤な病気に罹患しているのではないかと恐れたり、既に重篤な病気にかかってしまっているという強い思い込み(観念連合)に捉われる精神疾患。一種のノイローゼで、「不眠症」は典型的なその症状の一つである。

「芝の叔父」不詳。養家の芥川家ならば、道章の弟芥川顕二がおり、実父の新原家ならば、慶太郎と元三郎(彼が本家を嗣いでいる)がいる。芝というと、実父敏三の居宅であるから、後者のどちらかである可能性が強い。

「その女に關する惡評を少しきいた」冒頭注の太字部を参照。

「學校へも通ひはじめた」講義に何の価値も見出せなかった彼が大学に通い始めたというのは、新規巻き直しどころではなく、『どうともなれ』的なやけのやんぱちの様相にあることを感じさせる。実際、立ち直るのは五月の初旬頃とされる(宮坂年譜)。]

2021/04/13

芥川龍之介書簡抄34 / 大正三(一九一五)年書簡より(十二) 吉田彌生宛ラヴ・レター

 

[やぶちゃん注:以下の手紙の相手である吉田彌生については、非常に変則的な形で悪いのだが、「芥川龍之介書簡抄25 / 大正三(一九一四)年書簡より(三) 五月十九日井川恭宛」の私の冒頭注の太字より後の部分でこの前後の経緯をコンパクトに記しておいたので、そちらを読まれたい。ここでは繰り返さない。これは葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」(岩波書店一九七八年刊)の「書簡補遺」の中にあるもので、葛巻氏の割注解説は『大正三年末、詩稿と共に』とだけある。しかし、この葛巻氏の説明には私は甚だ不審を抱いている。何故なら、これはそのまま引用書の「書簡補遺」の解説と軌を一にしたものとして理解するなら――大正二年の年末に詩稿と一緒に芥川龍之介が吉田彌生に当てて送った書簡原本――ということになるからである。例えば、先の彼女宛の芥川龍之介のそれである「芥川龍之介書簡抄27 / 大正三(一九一四)年書簡より(五) 吉田彌生宛ラヴ・レター二通(草稿断片三葉・三種目には七月二十八日のクレジット入り)」は、標題でも示した通り、葛巻氏が割注解説ではっきりと『草稿断片』と明記しているから、現存(「芥川龍之介未定稿集」刊行当時)していても何ら、問題ないし、不思議でも何でもないのであるが、この解説には「草稿」とか「下書き」という言葉がないのが極めて不審なのである。そもそもが、現在まで、芥川龍之介が吉田彌生に送った書簡というのは全集には載っていないのである。最初のリンク先の注で私が纏めたように、後の吉田彌生、結婚してからの金田一彌生は、その後、終生、芥川龍之介に関連した談話をすることはなかったとされており、夫光男に至っては、戦後、龍之介に関わるインタビューをしに来た記者を邪見に追い返してさえいるのである。さすれば、岩波の第一次以降の「芥川龍之介全集」に彼女宛の書簡が載らないのも、恐らくは当時の編集者が求めた書簡貸与依頼にも一切、終生、応じなかったし、今もそんなものが現存するという話は、この葛巻氏の「未定稿集」以外には私は知らないのである。第一次の編集者の一人であった葛巻が、その時か、或いはその後、個人的に彼女に接触し、借り受けたものという可能性も全否定は出来ないものの、知る限りの彌生の様子や金田一家の雰囲気からして、私は芥川龍之介の生前のとっくの昔に原書簡は廃棄されている気がするのである。寧ろ、これは詩稿が含まれているため、芥川龍之介が下書きしたものを筐底に詩稿用の保存として残していたものを、葛巻は実際に送られた書簡のように出したのではないか? と考えた方が、遙かに現実的で自然なのである、とだけは、どうしても言っておかねばならない。そもそもが、この解説の「詩稿」がどのようなものなのかも葛巻は言っていないし、同「未定稿集」の「詩」のパートにもそれと確かに名指し示すことが出来得るものは載っていないと私は断言してよいと考えている。或いは、私の「やぶちゃん版芥川龍之介詩集」の中の未定稿詩篇の中にはあるのかも知れないし、ないのかも知れない。それは判らぬ。だいだいからして、詩稿と一緒に送られたものならば、詩を添えて示すか、同書の「詩」のパートに載せてこの吉田宛書簡に添えてあった詩だと示しておくべきであろう。既に全集に収録されているのであれば、それを名指すべきで当然である(こうした不全性や怪しい感じ(資料を恣意的に小出しにしているのではないかという疑惑)が葛巻氏が芥川龍之介研究者から甚だ不人気な理由なのである)。或いは、単に、葛巻は、この『詩稿』という言葉で、詩稿の断片に中に彌生宛の草稿らしきもの・下書きらしきものがあった言ったつもりだったのかも知れぬが、それはそれで、甚だ致命的な手抜かりであると言わざるを得ぬのである。

 

大正三(一九一五)年十二月末・吉田彌生宛

 

こは人に御見せ下さるまじく候

YACHANとよびまつらむも

かぎりあるべく候 いつの日か

再 し・ゆ・う・べ・る・とが哀調を 共

にきくこと候ひなむや

 

[やぶちゃん注:「YACHAN」は縦書き。]

大和本草附錄巻之二 魚類 エイノ類 (エイ類)

 

エイノ類 スブタヱイ。カイメニ似タリカイメヨリヒラタ大

ナリ目口ヒレ尾カイメニ同○ウシヱイノ色黑シ○

トビヱイ子ヅミ色龜ノ頭ノ如シ○鳥エイ味赤エイ

ニマサル味カロクヨシ○カラスヱイ是モ色黑シ○コンヒ

ラエイ形ヨコヒロシ○サエイ色赤黑右何レモ味同シ

○やぶちゃんの書き下し文

「えい」の類

すぶたゑい 「かいめ」に似たり。「かいめ」より、ひらた〔し〕。大なり。目・口・ひれ・尾、「かいめ」に同じ。

○「うしゑい」の色、黑し。

○「とびゑい」 ねづみ色。龜の頭のごとし。

○「鳥えい」 味、「赤えい」にまさる。味。かろく、よし。

○「からすゑい」 是れも、色、黑し。

○「こんぴらえい」 形、よこ、ひろし。

○「さえい」 色、赤黑。

右、何れも、味、同じ。

[やぶちゃん注:「エ」と「ヱ」の混用はママである。但し、「鱝・鱏」(エイ類)の「えい」は歴史的仮名遣では「えひ」が正しく、これらは総て誤表記であるので注意されたい。「大和本草卷之十三 魚之下 海鷂魚(ヱイ) (アカエイ・マダラトビエイ)」があるが、そこで私が注した通り、その記載は概ね、軟骨魚綱板鰓亜綱エイ上目エイ亜区トビエイ目アカエイ科アカエイ属アカエイ Dasyatis akajei 及び、「鳥ゑい」とするトビエイ目トビエイ科マダラトビエイ Aetobatus narinari の記載と読んだ。さすれば、この二種以外のものにここでは同定を試みることとするが、なかなか手強い。

「すぶたゑい」「簀蓋鱝」でこの異名を、魚類異名表(PDF)に見出せるのだが、種同定されていない。意味は「簀の子板で出来た鍋の蓋のようなエイ」のように思われる。しかし、それは概ね一般的なエイを呼んでも通じる。さて、そこでいろいろ探ってみたところが、「重修本草綱目啓蒙」の巻四十の「無鱗魚」の「海鷂魚」(エイ)の一節に(国立国会図書館デジタルコレクションの当該部画像。左ページの一行目)、

   *

一種「スブタエイ」は犂頭鯊(カイヅブカ)に似て扁大なり。目・口・鰭・尾、皆、犂頭鯊におなじ。

   *

と出るのを見つけた。この犂頭鯊(カイヅブカ)は、

サカタザメ(エイ区エイ上目サカタザメ目サカタザメ科サカタザメ属サカタザメ Rhinobatos schlegelii :「坂田鮫」と書くが、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のサカタザメのページを見ると、この『「さかた」は「逆田」なのではないか? すなわち』、『田を耕す「鋤」に似たサメという意味』とあって、目から鱗であった)

の異名である。所謂、尖頭状を呈し、ちょっと左右に開いた後頭部分がエイっぽいが、胴体が細長く超スマートなエイとサメの合いの子みたような種である。小野蘭山の謂いなら、そいつか、その近縁種としか読めないのだが、「スブタエイ」に似たものとしては「サカタザメ」の中には「テンガイエブタ」(和歌山県湯浅)ぐらいしか見当たらない。そもそもが形態からして、彼はエイの名を附さない異名が圧倒的に多いのである(脱線だが、この仲間は、古くから、乾して加工し、腹部側(奇体な顔にシミュラクラ(simulacra)する)を見せて「怪物」「宇宙人の死体」などとして好事家に取引されていたのを思い出す。「devilfish」或いは「ジェニー・ハニヴァー」(英語:Jenny Haniver)と呼ぶ。「栗本丹洲 魚譜 カツベ (メガネカスベの腹部か?)」の私の注を参照されたい)。ところが、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のアカエイのページを見るに、「マエノエブタ」(三重県・和歌山県など紀州)・「ブタ・チャンガラブタ」(岡山県)・「エブタ」(和歌山県紀の川市・和歌山市雑賀崎・湯浅・和深)や「カセブタ」などスブタに親和性のある異名が見出せるのである。ところがどっこいで、益軒は続けて『「かいめ」に似たり。「かいめ」より。ひらた』く、「大」きく、ところが、『目・口・ひれ・尾、「かいめ」に同じ』とのたもうているのだ。この「かいめ」というのは

九州・福岡志賀島・長崎でサカタザメの異名

としてあるのである。若い頃を除いて福岡藩から殆んど出なかった益軒のフィールド内である。さればこそ、これはもう、サカタザメに比定するしかないのではなかろうか? 当該ウィキによれば、『大韓民国、中華人民共和国、台湾、朝鮮民主主義人民共和国、日本』、『太平洋北西部(茨城県および新潟県以南から東シナ海・南シナ海にかけて)』に分布する温帯の南方系種である。『三角形に突出した吻を有する。前方に延びた胸びれと吻が融合し』、『体板を形成する。胸びれの後縁と腹びれの前縁は密接する』。『第一背びれの基部が腹びれよりもかなり後方にあることで、他属と識別できる』。『他のエイ同様に体は扁平であり、長い尾部を有する』。『上面から見ると、菱形の体に尾がついたような姿をしており、サカタザメ科の仲間はこの外見上の特徴からギターフィッシュ(guitarfish)の英名を持つ』。『分類上の問題があり、おそらくは太平洋北西部のみに分布し』、『他の地域からの報告は誤同定であること・日本近海でも吻の形状から二型に分かれること・仮にこの二型が独立種となった場合に東アジアの他地域での分布状況がわからないなどの問題点がある』。『近海の砂底に生息し、冬場はやや深い場所に移動する』。『卵胎生で』、六月頃に六~十尾ほどの『胎児を産む』。『サカタエイ(和歌山県)、サカタ(関西・長崎県)、スキ(関西・鳥羽市)、スキサキ(高知県・宇和島市・小野田市・島根県)、コオト(松山市)、カイメ(福岡県)、トオバ(東京都)など』。『上記のように分類上に問題があることと、生息数の推移に関するデータが不足していることから』、『本種の生息状況に関しては不明とされている』。『底引網で漁獲される。魚肉練り製品の原料のほか、ふかひれとしても利用される』。『鮮魚は関西では刺身にもされ』、『湯引きや洗いにして酢味噌でも食される』とある。因みに、「カイメ」の語源は不明である。

「うしゑい」トビエイ目アカエイ科アカエイ属ウシエイ Dasyatis ushiei 。本邦産のエイの中では巨大種で、二メートル以上になる。アカエイよりも体色が黒い。種小名がアカエイと同じくズバリ、「ウシエイ」というのも珍しいが、実際、日本近海でしか見られないようである。

「とびゑい」「ねづみ色」で「龜の頭のごとし」で、軟骨魚綱板鰓亜綱トビエイ目トビエイ科マダラトビエイ Aetobatus narinari でよかろうか(斑であることを言っていないのは気にはなる)。私の『毛利梅園「梅園魚譜」 海鷂魚(マダラトビエイ?)』を参照されたい。

「鳥えい」益軒は別種としたいらしいが、これも私はマダトビエイとするしかない。個体観察を述べずに、味のことしか言っていないから、生体や解体前の個体を見ていない可能性があり、この同定でいいと思う。本文の「大和本草卷之十三 魚之下 海鷂魚(ヱイ) (アカエイ・マダラトビエイ)」でもそう同定したからである。

「からすゑい」名と色から、トビエイ目アカエイ科カラスエイ属カラスエイ Pteroplatytrygon violacea でよかろう。当該ウィキによれば、『カラスエイ属は単型』(たんけい:monotypic:一属一種)『体盤は横長でくさび型。鋭い歯と鞭のような尾、長い毒針を持つ。体色は紫から青緑。体盤幅59cm程度まで成長する。水温19°C以上の外洋域に生息し、季節回遊する。外洋に生息する唯一のアカエイ類で、通常は100m以浅で見られる。底生のアカエイ類と異なり、羽ばたくように泳ぐ』。『餌は遊泳性の無脊椎動物や小魚。活発な捕食者で、胸鰭で獲物を包み込む。産卵期のイカのような季節性の餌も利用する。無胎盤性胎生で妊娠期間は短く、年間2回・4-13匹の仔魚を生む。出産は赤道付近で、時期は場所によって異なる。漁業者を除いて遭遇することは少ないが、尾の棘は危険である。経済価値はあまりなく、混獲されても捨てられる。捕食者の減少により』、『個体数は増えている』。『ほぼ世界中の熱帯から暖帯、緯度52°N-50°Sの外洋域に生息している。西部大西洋ではグランドバンクからノースカロライナ・メキシコ湾・小アンティル諸島・ブラジル・ウルグアイ、東部大西洋では北海からマデイラ諸島・地中海・カーボベルデ周辺・ギニア湾・南アフリカ沖、西部太平洋では日本からオーストラリア・ニュージーランド、東部太平洋ではブリティッシュコロンビアからチリ、また、ハワイ・ガラパゴス・イースター島からも報告されている。インド洋からはあまり報告がないが、インドネシア南西部では一般的である』。『外洋で見られるほぼ唯一のアカエイ類で』、『海底より』も『外洋に生息するのが特徴で、通常100m以浅で見られる』。『海底に近づくこともあり、九州パラオ海嶺の330-381mの深度でも捕獲されている』。『水温19°C以上を好み、15°Cを下回ると死滅する』。『暖水塊を追って季節回遊を行』ない、『北西大西洋では、12-4月はメキシコ湾流の近くで、6-9月は北方の大陸棚で見られる。地中海でも同じような回遊を行うと考えられているが詳細は分かっていない。太平洋では冬季を赤道の近くで過ごし、春になるとより高緯度の沿岸部に移動する』。『太平洋には2つの個体群が存在し、1つは中米からカリフォルニア、もう1つは中央太平洋から日本・ブリティッシュコロンビアまで回遊する』。『南東ブラジルのカボ・フリオ沖では晩春から夏に冷たい湧昇流が見られるため、深度45mより上の暖水塊が存在する領域に閉じ込められる』。『横長でくさび型の体盤、突出しない眼、紫の体色が特徴』(これは水揚げされた場合、明らかに黒っぽく見える。後の「★☜部★」も参照)。『体盤は厚くくさび型で、長さは幅の約3/4。前縁は弧を描き、後縁はほぼ真っ直ぐに尾に続いている。吻は短く先端は丸い。眼は小さく、他のアカエイ類と違い突き出さず、すぐ後方に噴水孔がある。鼻孔間に短くて広い鼻褶があり、口は小さく少し曲がる。口角に深い溝があり、下顎の凹みに合わせて上顎の中央が少し突出する』。『口底を横切って、0-15に分岐した乳頭突起の列がある。上顎には25-34、下顎には25-31の歯列がある。雌雄共に鋭く尖った歯を持つが、雄の方が長く鋭い』。『腹鰭の縁はほぼ真っ直ぐで両端は少し丸くなっている』。『鞭のような尾は体盤の2倍の長さになる。根元は太いが、急激に細くなり非常に長い。前方から約1/3の場所に、鋸歯状の棘が尾に沿って生えている。先の棘が抜ける前に次の棘が生えることがあり、この場合は2本存在する。低い皮褶が棘の基部から尾の先端の手前まで伸びる。若魚の皮膚は完全に滑らかだが、年と共に背面中央に小さな棘が現れ、眼の間から棘の基部にかけてを覆う』。『背面は暗紫色から青緑色、腹側はそれより少し明るい色である。捕まえたり触ったりすると、濃い黒の粘液』(★☜★)『が滲み出し体を覆う』。『体長1.3m・体幅59cm程度』で、『1995-2000年にかけて行われた飼育実験での最大個体は、雄は体幅68cm・体重12kg、雌は体幅94cm・体重49kgであった』。『羽ばたいて泳ぐ』。『遊泳性であるため、底生の近縁種とは様々な点で異なっている。ほとんどのアカエイ類は体盤をうねらせることで推進するが、この種はトビエイと同じように胸鰭を羽ばたかせることで泳ぐ。この泳ぎ方は小回りが効かないが、揚力が発生し』、『推進効率が高い』。『後ろ向きに泳ぐこともでき、小回りの効かなさを補っている』。『獲物を視覚に頼って見つけると考えられている。他のアカエイ類と比べ』、『ロレンチーニ器官』(Ampullae of Lorenzini:微弱な電流を感知する電気受容感覚(英語版)の一種で、サメ類の頭部に広く分布し、摂餌対象を探す方法の一つとして利用している)『の密度が1/3以下であり、覆っている面積も少ない。だが、背面・腹面共に同数程度存在し、トビエイ類よりは多い。30cmまでの距離で1nV/cm以下の電場を感知でき、海水の動きによって発生する電場を捉えられる可能性もある。機械受容器である側線は、他のアカエイ類に似て背面・腹面の広範囲を覆っている』。しかし、『機械刺激より』、『視覚刺激の方に敏感である』。『雄は雌よりも深い場所に生息し、おそらく水平方向にも棲み分けていると考えられる』。『捕獲個体は空腹時にマンボウを攻撃することが観察されている』。『ヨゴレ』(汚。「ヨゴレザメ」とも呼ぶ。軟骨魚綱メジロザメ目メジロザメ科メジロザメ属ヨゴレ Carcharhinus longimanus )『・ホホジロザメ・ハクジラなどの大型捕食者の獲物となる』。『体色は特徴のない背景の中で保護色となる』。『尾の毒針は潜在的に他魚を遠ざけている』。『活発な捕食者であり、獲物を胸鰭で包み込んでから口に運ぶ。滑らかな獲物を捉えて切断するため、アカエイ類には珍しく鋭く尖った歯を持つ』。『餌の種類は多様であり、端脚類・オキアミ・カニの幼生などの甲殻類、イカ・タコ・翼足類などの軟体動物、ニシン・サバ・タツノオトシゴ・カワハギなどの魚類、クシクラゲ、クラゲ、多毛類などを食べる』。『11-4月のカリフォルニア沖では、繁殖のために集まった大量のイカを捕食する』。『1-2月のブラジル沖では、小魚に引き寄せられて沿岸に集まったタチウオの群れを捕食する』。『幼体は1日に体重の6-7%の餌を消費するが、成体では1%程度になる』。『他のアカエイ類のように、無胎盤性の胎生である。胚は卵黄栄養で育ち、その後組織栄養(タンパク質・脂質・粘液で構成された"子宮乳")に移行する。子宮乳は妊娠子宮絨毛糸(trophonemata)と呼ばれる、多数の糸状に伸長した子宮上皮から分泌され、胎児の広がった噴水孔から給餌される。卵巣・子宮は左側のみが機能し、年2回繁殖可能である』。『繁殖行動は、北西大西洋では3-6月、南西大西洋では晩春に見られる』。『雌は1年以上精子を蓄えることができ、適切な環境を選んで妊娠することができる』。『受精卵の塊は両端が先細りになった被膜に包まれているが、皮膜はすぐに破れ卵を子宮内に放出する』。『妊娠期間はエイの中で最も短い2-4か月であり、その間に胚の重量は100倍にもなる』。『人が遭遇することは少なく、攻撃的ではないが、扱う際には尾の棘に注意しなければならない。死亡例が2例あり、マグロ延縄漁従事者が捕獲個体に刺された例、別の漁業者が刺されて数日後に破傷風で死亡した例がある』。『水族館では長い間』、『飼育されてきた』。『インドネシアなどでは肉や軟骨を利用することもあるが、ほとんどの場合はその場で投棄される。延縄・刺し網・巻き網・底引き網などで大量に混獲されていると考えられている。延縄で混獲された場合、漁業者は棘を警戒し、舷側に叩きつけることで釣り針を外す。このことで口や顎に深刻なダメージを受け死ぬ個体が多い。この混獲量に関しては未だデータがない』。『だが、太平洋での調査では1950年代から個体数は増え続けている。これは商業漁業によってサメやマグロのような高次捕食者が減少したためだと考えられている』とある。

「こんぴらえい」不詳。エイ類の大型個体か。金毘羅なら、金毘羅権現で海神・水神の信仰対象であるから、魚の異名についていて不思議じゃないのだけれど、意外なことに、探してみたが、見当たらない。逆に恐れ多いのか?

「さえい」不詳。]

伽婢子卷之二 狐の妖怪 / 伽婢子卷之二~了

 

   ○狐の妖怪

 

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 [やぶちゃん注:右図から左図へと絵巻風に展開する。]

 江州武佐(むさ)の宿(しゆく)に、割竹(わりたけの)小彌太といふものあり。元は甲賀(こうか)に住(すみ)て、相撲(すまふ)を好み、力量ありて、心も不敵なりけるが、中比〔なかごろ〕、こゝに來り、旅人に宿(やど)かし、旅館(はたご)を以つて、營みとす。

 ある時、所用の事ありて、篠原堤(しのはらつゝみ)を行きけるに、日すでに暮かゝり、前後に人跡〔じんせき〕もなし。

 只、我獨り、道をいそぐ其間(そのあひだ)、道の傍らに、一つの狐、かけいでゝ、人の曝髑髏(しやれかうべ)を戴き、立あがりて、北に向ひ、禮拜(らいはい)するに、かの髑髏、地に落(おち)たり。

 又、とりて、戴きて、禮拜するに、又、落たり。

 落れば、又、戴く程に、七、八度に及びて、落ざりければ、狐、すなはち、立居(たちゐ)心のまゝにして、百度ばかり、北を拜む。

 小彌太、不思議に思ひて、立とまりて見れば、忽に、十七、八の女〔をんな〕になる。

 その美しさ、國中には並びもなく覺えたり。

 日は暮はてゝ、昏(くら)かりしに、小彌太が前(さき)に立(たち)て、聲、打あげ、物哀れに啼きつゝ、行く。

 元より、小彌太は不敵者なれば、少しも怖れず、女のそばに立寄り、

「如何に。これは誰人(たれ〔びと〕)なれば、何故に、日暮て、たゞひとり、物悲しく啼(なき)叫び、いづくをさして、おはするやらん。」

といふ。

 かの女、なくなく答へけるは、

「みづからは、是より、北の郡(こほり)余五(よご)といふ所の者にて侍べり。このほど、『山本山(〔やま〕もと〔やま〕)の城を責(せめ)とらん』とて、木下藤吉郞とかや聞えし大將、はせむかひ、其引足〔ひきあし〕に、余五・木下(きのもと)のあたり、皆、燒拂ひ給へば、みづからが親兄弟は、山本山にして、打死(うちじに)せられ、母は、おそれて、病出〔やみいで〕たり。かゝる所へ、軍兵〔ぐんびやう〕、打入〔うちいり〕て、家にありける財寳は、一つも殘さず、奪ひ取たり。母、聲をあげて恨みしかば、切殺(〔きり〕ころ)しぬ。みづから、怖ろしさに草むらの中に隱れて、やうやうに命をつぎけれ共、親もなく、兄弟もなし。賴む陰(かげ)なき孤子(みなしご)となり、いづくに身をおくべき便りもなければ、『今は唯、身を投げて死なばや』と思ひ侍べるに、悲しさは堪えがたくて、人目をも知らず、啼侍べるぞや。」

といふ。

 小彌太、聞て、

『まさしく、狐の化けて、我をたぶらかさんとす。我は又、此狐をたぶらかして、德、つかばや。』

と思ひ、

「げにげに、哀れなる御事かな。親兄弟も、皆になりて、立よるかげもおはしまさずは、幸(さいわひ)に、それがしの家、まことに貧しけれ共、一人を養ふほどの事は、ともかうも、し侍べらん。我(わが)家の事、心にしめて、まかなひ使はれ侍べらば、賴もしく見とゞけ侍べらん。」

といふ。

 女、大〔おほき〕によろこびて、

「あはれみ思召し、やしなうて給らば、みづからがため、父母の生れかはりと思ひ奉らん。」

とて、打連れて、武佐の宿(しゆく)に到り、小彌太が妻に對面して、さきのごとくに、かきくどき、なきければ、妻もあはれに思ひ、ことさら、形の美くしきを見て、いたはり、いつくしむ。

 小彌太、露ばかりも、妻に、狐の事を語らず。

[やぶちゃん注:「江州武佐(むさ)」現在の滋賀県近江八幡市武佐町(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。中山道の六十六番目の宿で、この後、「守山宿」・「草津宿」・「大津宿」を経て京都(三条大橋)に着く。

「割竹(わりたけの)小彌太」「新日本古典文学大系」版脚注に、『竹を割るほどの強力の持ち主の意を込めた命名か。あるいは「割竹」は丸竹の先を割った、罪人をたたく刑具』に使用したもの(箒尻(ほうきじり)と称し、江戸時代に敲(たたき)や拷問に用いた棒で、割竹二本を麻糸で包み、その上を観世紙縒(かんぜこより:和紙を細長く裂いて縒(よ)ったもの、或いはその「紙縒り」を縄状に縒り合わせたもの)で巻く)であるから、『情け容赦を知らないの意か』とある。

「中比〔なかごろ〕」「語り物」にあって「執筆時制からあまり遠くない昔」の意を示す語として頻繁に用いられる語であるが、ここは小弥太の生活史を語っている中での用法であるから、『「中年」になってから』の謂いである。

「篠原堤(しのはらつゝみ)」近江八幡市の南西隣りの滋賀県野洲市の大篠原に今もある、中山道沿いの西池の西北の堤。ここがそれであること、この堤が平安末期には築かれてあったことが判る「公益財団法人滋賀県文化財保護協会」公式サイト内の「新近江名所圖会 第68回 現代に残る「過去」-大篠原の西池と堤」を読まれたい。

「一つの狐、かけいでゝ、人の曝髑髏(しやれかうべ)を戴き、立あがりて、北に向ひ、禮拜(らいはい)するに、かの髑髏、地に落(おち)たり。又、とりて、戴きて、禮拜するに、又、落たり。落れば、又、戴く程に、七、八度に及びて、落ざりければ、狐、すなはち、立居(たちゐ)心のまゝにして、百度ばかり、北を拜む。小彌太、不思議に思ひて、立とまりて見れば、忽に、十七、八の女〔をんな〕になる」これは妖狐が人間に化ける呪法の定規法である(なかなか手間がかかることが判る)。江戸前・中期の俳人岡西惟中(いちゅう 寛永一六(一六三九)年~正徳元(一七一一)年:鳥取生まれ。後に岡山から大坂に移り住んだ)の随筆「消閑雑記」に(「国文学研究資料館」公式サイト内の「電子資料館」内の影印本の当該部を視認し、漢文部は訓読(一部推定)した)、

   *

○狐はあやしきけもの也。常に人にばけて、たふらかし、また、人の皮肉(ひにく)に入てなやまし、あらぬ妙をなす事多し。「抱朴子(はうぼくし)」に曰はく、『狐(こ)、壽は八百歳也。三百歳の後(のち)、變化(へんげ)、人の形と為る。夜、尾を撃(うつ)て、火、出だし、髑髏を載(いたゝ)き北斗を拜み、落ちざるときは、則ち、人に變化(へんげ)す』と。これほと、修行(しゆぎやう)なり、功、つみたるものなれども、一旦、やき鼡(ねつみ)の香くはしきを見て、たちまち、わなにかゝり、命をうしなふ。人も、また、おなし。智惠・才覚(かく)、拔群(ばつぐん)のうまれつきにて、かくのことくの人も道にまとひ、利にまとひて、生涯(しやうがい)をうしなふ事、狐に同しきものなり。「人、以つて、狐にしかざるべし」か。

   *

ここの出る「やき鼡」(「燒鼠」)は鼠をあぶって焼いたもの或いは油で揚げたもので、狐の好物とされ、罠の餌に用いた。最近の私のものでは、「奥州ばなし おいで狐の話幷ニ岩千代權現」に妖狐が「油鼠(あぶらねづみ)に通(つう)を失ふ」とある。これは道教・神仙道の理論実践書「抱朴子」(東晋の葛洪(かっこう)撰。四世紀初頭の成立)の引用で判る通り、中国伝来で、後の晩唐の官僚文人段成式(八〇三年~八六三年)撰の荒唐無稽な怪異記事を蒐集した膨大な随筆「酉陽雜俎」(ゆうようざっそ:八六〇年頃成立)の「巻十五 諾皋記(たくこうき)下」の一節にも、

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舊說野狐名紫狐、夜擊尾火出。將爲怪、必戴髑髏拜北斗、髑髏不墜、則化爲人矣。

(舊說に、『野狐は「紫狐」と名づく。夜、尾を擊ちて、火を出だす。將に怪と爲(な)るに、必ず、髑髏を戴き、北斗を拜し、髑髏、墜ざれば、則ち、爲して人と化す』と。)

   *

ちなみに、「しゃれこうべ」という語は「されかうべ」の転化で、「され」は動詞「曝(さ)れる」の連用形からで「風雨に曝(さら)されて肉が落ちた頭骨」の意。「野曝(晒)(のざら)し」である。なお、当初は「女」を「むすめ」と読もうと思うたが、「十七、八」とする年齢、後の段で男と契ってからも、読みが一斉に振られていないことから、「をんな」とした。「心のまゝにして」は変化叶ったことから、「思う存分」歓喜して例謝(恐らくは北斗七星)しているのである。

「小彌太が前(さき)に立(たち)て」小弥太の行く道の先に立って。騙さんとすること、明白。化けざまを総て見られていて気づかなかったこと、なかなか化けられなかったことからみて、未だ若い狐で、これが人に化けた始めでもあったか。

「余五(よご)」旧伊香郡(いかぐん:古くは「いかご」)の余呉地区は現在は長浜市であるが、かなりの広域である。南部は琵琶湖の最北端で、羽衣伝説で知られる余呉湖付近であるが、北部は岐阜・福井県境まで殆んどは峡谷を伴う険しい山岳地帯である。

「山本山(〔やま〕もと〔やま〕)の城」滋賀県長浜市湖北町山本にあった。サイト「城郭放浪記」の「近江 山本山城」によれば(地図有り)、『築城年代は定かではない。平安時代末期に山下兵衛尉義経が籠った山下城がこの城であったと云われる。その後』、『京極氏の被官阿閉』(あつじ)『氏の居城となったが、永正年間』(一五〇四年〜一五二一年)『頃には浅見氏の居城となっていた。 浅見氏は一時期』浅井亮政(あざいすけまさ)と『対立したが』、『後にその傘下に組み込まれ』、『再び阿閉氏が城主となった』。『織田信長による』主城『小谷城攻撃では、阿閉』淡路守貞征(さだゆき)の『籠る山本山城が天正元』(一五七三)『年』、『羽柴秀吉』の『謀略によって開城となり、小谷』(おだに)『城は孤立し』、『落城した』とある。この部分、ウィキの「阿閉貞征」を見ると、実は貞征は秘かに『信長に内応し』て『山本山に織田軍を引き入れたため、小谷城は孤立し』、『主家滅亡の遠因をつく』り、貞征は八月八日には子とともに『信長に降参し、後』、『すぐに朝倉攻めの先手を務め』ているとある(その後、天正一〇(一五八二)年の「本能寺の変」の後、彼は『明智光秀に加担して、秀吉の居城・長浜城を占領し』、「山崎の戦い」に参加して『先鋒部隊を務めるが、敗戦。秀吉方に捕縛され』、『一族全て処刑された』とある)。「新日本古典文学大系」版脚注によると、「木下藤吉郞」は『この合戦の戦功を認められ』、『浅井氏の旧領を得て、木下から羽柴に改姓』したとある。さて、本文では、山本山城へ「木下藤吉郞」が「はせむかひ、其引足〔ひきあし〕」をした(一回、兵を撤退させた)とあるのは、実は、その内応を受けての「やらせ」のポーズであり、さればこそ、貞征は直ぐに投降し、山本山城は落城ではなく、開城となり、信長の配下となったことが判る。

「余五」これは琵琶湖北岸の余呉湖周辺。

「木下(きのもと)」現在の長浜市木之本町(きのもとちょう)

「おそれて、病出〔やみいで〕たり」恐ろしさのあまり、気分が悪くなり、病み臥せってしまった。

「德、つかばや」『一つ、こちらが知らんふりをし、上手く扱って、なんでもいいから、逆にこやつを上手く使って、逆にこっちが何かせしめてやろう!』。

「皆になりて」皆、死んでしまって。

「我(わが)家の事、心にしめて、まかなひ使はれ侍べらば」「我が家の家政(旅宿経営)に就いて、性根を据えて、なにくれとなく学び励み、使用人となるということを厭わぬとのことでありますならば」。

「賴もしく見とゞけ侍べらん。」「まずは、そなたを信頼して、暫くは、これ、様子を見てやろうとは存ずる。」。

「小彌太、露ばかりも、妻に、狐の事を語らず」この措置はなかなか思い切れるものではない。下手をすれば、小弥太の家産そのものを乗っ取られたり、潰されたり、命を失わぬとも限らぬのだから。彼の深謀遠慮は阿閉貞征も舌を巻くとも言えようか。

 

 天正のはじめ、江州、漸(やう)やく靜(しづか)になり、北の郡(こほり)は木下藤吉郞、是を領知し給ふに、石田市令助(いちのすけ)、京より下りける次に、武佐の宿、小彌太が家に留(とゞ)まり、かの女を見て、限りなく愛(めで)まどひ、

「如何にもして、此女を我に與へよ。」

と、いはれしかば、小彌太いふやう、

「歷々の諸大名、みな、望み給へども、今に、いづかたへも、參らせず。それがし、身すぎのたより、よろしく宛(あて)おこなひ給はゞ、奉らん。」

といふ。

 石田、聞て、金子百兩を出し與へ、女を買(かい[やぶちゃん注:ママ。])とり、打ちつれて、岐阜に歸られたり。

 女、いと、才覺あり、よろづにつきて、さかざかしう利根(りこん)にして、人の心にさきだち、物をまかなふ事、石田が思ふ如くなれば、本妻をも、かたはらになし、只、此女を寵愛す。

 されども、女は、少〔すこし〕も、高ぶるけしきもなく、本妻の心をとりて、

「みづからは妾(おもひもの)なり。いかでか、本妻の心をそむき奉らんや。」

とて、夜晝、まめやかに仕へ侍べりしかば、本妻も、さすがに憎からず、ねんごろに、いとほしみけり。

 出入〔いでいる〕ともがらにも、ほどほどにつきて、物なんど、取らせけり。あるひは、絹小袖・ふくさ物・針・白粉(おしろい)やうの類(たぐひ)、いつ、もとめおくとも見えねど、取出(とり〔いだ〕)して、賦(くばり)つかはす。

 しかも、其身、麻績(をうみ)つむぎ・物縫ひ・ゑかき・花結び迄、くらからず、侍べり。

「石田が家にこそ、賢女を求めけれ。」

と取沙汰あり。

 半年ばかりの後、石田、又、京都に上る。

 女、いふやう、

「必ず、忠義をもつぱらとして、私を忘れ、千金より重き御身を、小細(ささい)の事に替(かへ)給ふな。御内(みうち)の事は、みづからに任せ給へ。」

とて出〔いだ〕し立て、京にのぼらせたり。

[やぶちゃん注:「北の郡(こほり)」「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『近江国琵琶湖北岸』の『諸郡の総称』で、旧『浅井氏の領国にほぼ重なる』とある。

「石田市令助(いちのすけ)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『市令は市正(いちのかみ)の唐名。「市令」も漢名のつもりであろうが、市司(いちのつかさ)の次官』は「助」ではなく、『市佑(いちのすけ)』であるとあった。目から鱗。岩波文庫の高田衛氏の注では、『石田三成の父』(石田正継(?~慶長5(1600)年)。近江国坂田郡石田村(現在の滋賀県長浜市石田町)出身の地侍或いは京極氏の被官であったか。「関ヶ原の戦い」で息子に先んじて自害した)『を連想させる設定』とある。

「歷々の諸大名、みな、望み給へども、今に、いづかたへも、參らせず」時間経過から見ても、これは完全な噓としか読めない。「德」「つかばや」の小弥太の意識が敏感に感応して始動したのである。

「それがし、身すぎのたより、よろしく宛(あて)おこなひ給はゞ、奉らん。」「拙者の世過ぎの糧につき、よろしく、何かあてがって差配し下さるとなら、差し上げましょう。」。「新日本古典文学大系」版脚注には、『「宛(充)て行ふ」は多く』、『役職や知行を下し与える場合に用いる語で、ここは、戯れて主従関係に擬しおもねっている』と注しておられる。

「さかざかしう利根(りこん)にして」非常に賢く、それはまた、生まれつきの利発さであり、口のきき方も上手であったがため。

「百兩」ウィキの「両」によれば、天正年間の「一両」=「米四石」=「永楽銭一貫文」=「鐚銭(びたせん)四貫文」とほぼ等価であったとある。先にある換算サイトでは、戦国時代の一貫文を現在の十五万円相当とするとあったので、これを永楽銭で換算すれば、一千五百万円相当、鐚銭では三百七十五万円相当となる。お好みで解釈されたい。

「岐阜」「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『信長は、美濃稲葉城を攻略した翌年の永禄十一(一五六八)年に「井ノ口」を旧名の「岐阜」に復したという』とある。

「人の心にさきだち、物をまかなふ事、」人がどう考え、感じているかを事前に素早く察知して。この場合は、直後に「石田が思ふ如くなれば」とするものの、「本妻の心をとりて」(察して)常に彼女を立てたが故に、「本妻も、さすがに」(夫の言う好評化や想像した以上の仕え方をしたので(「夜晝、まめやかに仕へ侍べりしかば」)、改めて感心し)、この女を「憎からず」思ったというのであればこそ、不特定多数の人間に対してもそうであったと考えてよかろう。妖狐ならではの読心術による、そつのない仕舞わしと言える。

「かたはらになし」そっちのけにして。

「出入〔いでいる〕ともがら」石田市令助の屋敷に出入りする武士の配下の下男・下女及び御用伺いの商人や家作の者たち。

「ほどほどにつきて」その身分や立場に応じた相応な。

「ふくさ物」「袱紗・服紗・帛紗」は、ここは「茶の湯」で、茶道具を拭い清めたり、茶碗その他の器物を扱うのに用いたりする、縦九寸(約二十七センチメートル)・横九寸五分(約二十九センチメートル)の絹布。

「針」身分の低い女性には有難かったであろう。

「いつ、もとめおくとも見えねど」何時、何処で買い求め、何処に蓄えておいたものかもまるで判らぬのだが。

「賦(くばり)つかはす」配り、与えるのである。

「麻績(をうみ)つむぎ」「苧績紡(をうみつみ(おうみつみ))ぎ」は苧(からむし:イラクサ目イラクサ科カラムシ属ナンバンカラムシ変種カラムシ Boehmeria nivea var. nipononivea)の繊維を撚り合わせて糸にすること。ウィキの「カラムシ」によれば、『茎の皮から採れる靭皮繊維は麻などと同じく』、『非常に丈夫である。績(う)んで取り出した繊維を、紡いで糸とするほかに、糾綯(あざな)って紐や縄にし、また荒く組んで網や漁網に用い、経(たていと)と緯(よこいと)を機(お)って布にすれば』、『衣類や紙としても幅広く利用できる。分布域では自生種のほかに』六千『年前から』、『ヒトの手により』、『栽培されてきた』古代からの長い利用の歴史がある。なお、同ウィキによれば、カラムシの花言葉は「あなたが命を断つまで」「ずっとあなたのそばに」』そして、『他にも「絶対に許さない」がある』とある。病的に執拗(しゅうね)きものである。

「ゑかき」「繪描き」。「新日本古典文学大系」版脚注に、次の『花結びとともに女性の嗜みとされた手芸』とある。この場合の「手芸」は広義の「手先の技術」としての絵描きであると思われるが、女性のそれは大和絵の一種である葦手絵(あしでえ:樹木・草花・岩などの一部を図案化したものに、さらに文字を装飾的に組み込んだ絵)のように、装飾的な料紙の下絵にしたり、それが発展して次第に装飾的模様へと変化し、工芸品としての蒔絵や服飾などに用いられるようになったのであった。

「花結び」「飾り結び」とも。紐を使って装飾的に結ぶ手法。当該ウィキによれば、『日本では、そのうち特に、中国から伝わった結びをもとに発達したものを指』し、「花結び」とも『呼ばれる。一般に』「組み紐」と『呼ばれることも多いが』、「組み紐」の方は『糸を組んで紐を作る工芸であり、紐を結んで作る』「飾り結び」とは『別である』。『日本の』「飾り結び」は、『仏教とともに伝わったいくつかの結びと、遣隋使が持ち帰った下賜品に結ばれていた紅白の麻紐が起源とされる(水引と同じ)』。『飾り結びは中国のものと共通するものも多いが、日本で独自に考案されたものも数多くある。特に茶道においては、仕服(茶碗・茶入れなどを入れる袋)を封じる紐に飾り結びを施すことで、装飾性を増すとともに、知らぬ者が開封した場合に元通りにしにくくすることで、みだりに開封できないようにする鍵の役目を持つ結びが多数』、『考案された。これらを特に』「花結び」と『呼ぶこともある』とる。

「小細(ささい)な事に替(かへ)給ふな」「小細」は「些細」の当て字。「採るに足らぬことに気をとられてはなりませぬ」。既にして後にくる事態を予知していたのである。

「みづからに」「みづから」には前に出た一人称自称である。]

 

 京にして、高雄の僧、祐覺(ゆうがく)僧都に對面す。

 祐覺、つくづくと見て、

「石田殿は、妖恠に犯されて、精氣を吸れ給ふ。はやく療治し給はずは、命を失ひ給ふべし。此相(さう)、それがし、見損ずまじ。」

といふに、石田、更に信ぜず、

「我をあざむく賣僧(まいす)の妄語、今に始めず。」

とて、打笑ひしが、程なく、心地、わづらひ付き、面(おもて)の色、黃に瘦(やせ)て、身の肉(しゝむら)、かれて、膏(あぶら)、なし。唯(たゞ)、

「うかうか」

として、物事、正しからず。

 家人等、驚き、さまざま醫療すれども、しるしなし。

 此時に、高雄の僧のいひし事を思ひ出して、祐覺を請じて、見せしむ。

 僧のいはく、

「此事、我、更に見損ずまじ。初め、わがいふ事を信ぜずして、今、この病、現れたり。佛法の道は慈悲をさきとす。祈禱を以て是を治(ぢ)せむ。早く國に歸りて待(まつ)べし。我も下りて、しるしを、あらはさん。」

と、いはれしかば、家人等、驚き、祐覺ともろ友に、夜を日につぎて、岐阜に歸り、壇を飾り、廿四行(がう)の供物、二十四の燈明、十二本の幣をたて、四種の名香(めいかう)をたきて、一紙の祭文(さいもん)をよみて、禳(はらひ)して、いはく、

 

「維年(これとし) 天正歲次(としのやどり)甲戊(きのへいぬ[やぶちゃん注:ママ。])今月今日 石田氏某 妖狐の爲に惱さる

 夫(それ) 二氣 はじめて別れ 三才 巳にきざし 物と人と おのおの 其類(たぐひ)にしたがうて 性分(せいぶん) その形をうけしよりこのかた 品位(しなくらゐ) みな ひとしからず

 こゝに狐魅の妖ありて 恣まゝに恠をなし 木の葉を綴りて衣とし 髑髏(しやれかうべ)をいたゞきて鬘(かつら)とし 貌(かたち)をあらため 媚(こび)を生ず

 渠(かれ) 常に氷(こほり)を聽〔きき〕て水を渡り 疑(うたがひ)を致す事 時として忘れず 尾を擊(うつ)て 火を出〔いだ〕し 祟(たゝり)を作(なす)こと 更に止(やま)ず

 此故に 大安(〔だい〕あん)は羅漢の地に奔(はし)り 百丈は因果の禪を詰(なじ)る 千年の恠(くわい)を兩脚(〔りやう〕きやく)の譏(そしり)にあらはし 一夫の腹を双手の賜(たまもの)に破らしむ

 粤(こゝ)に石田氏某(それがし)は軍戶(ぐんこ)の將師 武門の命士也

 何ぞ妄りに汝が腥穢(せいゑ)を施して其精氣を奪ふや

 身を武佐の旅館によせて 愛を良家の寢席に興(おこ)さしむ

 汝が狀(かたち)は綏々(すいすい) 汝が名は紫々(しゝ)

 式(もつ)て 其醜(みにくき)をいひ 唱(となへ)て 其恧(はぢ)を示す者也

 首丘(しゆきう)は其本(もと)を忘れざる事をいふと雖も 虎威(こゐ)を假(かる)の奸(かたましき)ことは 隱すべからず

 汝 今 すみやかに去(され) 速かに去(され)

 汝 知らずや 九尾 誅せられて 千載にも赦(ゆるし)なき事を

 誰か 汝が妖媚(えうび)を いとひにくまざらん

 もし すみやかにしりぞき去(さら)ずば 州郡(しうぐん)大小の神社を驚かし 四殺(せつ)の劔(けん)を以て殺し 六害(りくがい)の水に沈めん」

 

Youko2

 [やぶちゃん注:上の挿絵は、左右はシークエンス上は繋がるように描かれているが、同一場面ではないので注意。]

と、讀(よみ)終りしかば、俄に、黑雲(くろくも)、棚引(たなび)き、大雨、降り、雷電、夥しく鳴渡りければ、女、はなはだ、恐れまどひ、そのまゝ倒れて、死(しゝ)けり。

 家人等〔けにんら〕、驚き、立〔たち〕よりて見れば、大なる古狐(ふるきつね)なり。

 首(かしら)に、人のしやれかうべを戴きて、落〔おち〕ずして、あり。

 此女の手より、人に遣はし與へたる物ども、取よせて見れば、「絹小袖」と見えしは、皆、芭蕉の葉、「白粉」といひしは、糠埃(ぬかほこり)也。「針」かとおもひしは、松の葉也けり。

 石田氏が心地、快然と凉(すゞ)やかになり、忽(たちまち)に平復して、此物どもを見るに、恠しき事、限りなし。

 狐の尸(かばね)をば、遠き山の奧に埋み、符(ふ)を押(をし[やぶちゃん注:ママ。])て、跡を禳(はら)ひ、丹砂(たんしや)・蟹黃(かいわう)なんど、調合の藥を服(ぶく)せしめて、その根本(こんぽん)を補ひ、さて、武佐の小彌太を尋ねさするに、女を賣(うり)て、德つき、家を移して、いづち行けるとも、知らず。

 まさに、狐魅(こみ)、よく人を惑はし、祐覺僧都の法驗(はうけん)を感歎しけるとぞ。

 

伽婢子卷之二終

 

[やぶちゃん注:佑覚僧都の祭文は底本では全体が一字下げ(元禄本は三字下げ)であるが、引き上げて、その代わり、前後を一行空け、句読点をわざと振らずに、読み易く区切れるところで改行を施した。この方が呪文らしい感じが出ると感じたからである

「高雄」京都府京都市右京区梅ヶ畑付近を指す地名で、ここはそこにある真言宗高雄山(たかおさん)神護寺。

「祐覺(ゆうがく)僧都」不詳。「新日本古典文学大系」版脚注では、源頼朝に決起を促した『神護寺の文覚に重ねるか』とされ、『文覚は法力ある験者で、優れた相人』(そうにん:人相見)『ともされ』、文覚を主人公とした『幸若』舞『の「文学」』(もんがく)『では、壇を築き、一八〇本の幣串(へいかん)』(神に供える幣帛を挟んだ串。祓(はらえ)に用いる。多くは本体に白木の棒を用いる)『を立てて平氏に対する調伏の法を行っている』とある。私もこの意見には賛同する。

「我をあざむく賣僧(まいす)の妄語、今に始めず。」「儂(わし)を欺(ざむ)く売僧(まいす)の妄言、出鱈目じゃ! んなことは、今に始まったこっちゃ、あ、る、ま、い、よ、ってえんだ!!」。「賣僧」の「まい」は「賣(売)」の慣用音、「す」は「僧(僧)」の唐宋音。特に禅宗に於いて同宗の中の僧形で物品の販売などをした堕落僧のことを指した。転じて、「一般に僧としてあるまじき行為をする僧」、また、僧侶を罵って言う卑語。「糞坊主」に等しい。

「唯(たゞ)うかうかとして、物事、正しからず」常に異様にぼんやりとした感じで、見当識がない、生気がない、正気を失ったような感じで、することなすこと、これ、尋常普通でない。

「思ひ出して、祐覺を請じて見せしむ」市令助の一の家臣が主語であろう。その場にいなかったとしても、直後に市令助が腹を立てて、そうしたことを周囲に語ったことは容易に想像される。

「此事、我、更に見損ずまじ」「この有様(病態)は、どうじゃ! 我ら、やはり、最早、見損じたのではなかったわッツ!」。

「廿四行(がう)の供物」「新日本古典文学大系」版脚注は『未詳』とするが、岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」(一九八九年刊)では、『阿弥陀の二十四本願(等覚経)にもとづく、二十四種の供物』とある。腑に落ちる。一般に阿弥陀は如来となるに当たって四十八誓願を立てて、それが成就されない限り、自分は如来とならないと言っていることは存知であろう(因みに、その第十六誓願では、「たとひ、われ佛を得たらんに、十方の衆生、至心信樂して、わが國に生ぜんと欲(こ)ひて、乃至十念せん。若(も)し、生ぜずは、正覺を取らじ。ただ、五逆と誹謗正法(しやうほふ)とをば除く。」という核心のそれで、ここでは阿弥陀は生きとし生ける全衆生を救うことが出来ぬとなら、私は如来とならないと言っているのであり、これは絶対の予定調和であって、阿弥陀が既に如来となっているおいうことは、我々衆生(あらゆる時空間に於ける人間)は既に極楽往生が定まっているといことを指しているという真理が示されているわけである。なお、例外の「五逆」は「殺父」・「殺母」・「殺阿羅漢」(聖者を殺すこと)・出仏身血)(仏の身を傷つけ、血を流させること)・「破和合僧」(仏弟子の集団を乱すこと)の罪を犯す者、「誹謗正法」は「唯一真実の正法(しょうぼう)である仏法を謗(そし)る者を指す)。ところが、この阿弥陀の誓願の数は初期の漢訳経では「二十四誓願」であるものが、「無量寿経」などでは倍の「四十八誓願」となって、そちらの方が今に説かれる命数として有名になってしまったのである。これは、その二十四誓願に応じた数の種類の供物ということである。それぞれが何か特定のものであった可能性が高いがそれは私には判らない。

「祭文(さいもん)」通常は祭りの際に神に捧げる祝詞(のりと)の意であるが、「新日本古典文学大系」版脚注では、特にここでは、『祝詞に対し、個人的或いは中国伝来の祭などの読まれる』とある。この注は中国由来の漢文訓読型の文体「祭文(さいぶん)」、祭時に於いて神霊に対して誦される文章で、中国では死者葬送・雨乞・除災・求福を目的とするそれが存在し、以下の冒頭の「維年(これとし)」(いねん)は必ずその発語の辞とされるものである。

「天正歲次(としのやどり)」「さいじ」。古くは「さいし」と清音。「歳」は「歳星」、則ち、木星、「次」は「宿り」の意。昔、中国では木星が十二年で天を一周すると考えられていたところから、「としまわり」「とし」「干支」の代語・指示語となったもの。

「二氣 はじめて別れ」混沌(カオス)の原初態から陰陽の気が天地開闢の時に分離し。

「三才 巳にきざし」天・地・人の三つの「働き」(「才」)を現わし、そこから転じて「宇宙の万物」を現わす。ここはその三者それぞれの全時空間の境界的上の差別化が生ずることを謂う。

「物と人と おのおの 其類(たぐひ)にしたがうて」ここではヒトとそれ以外の対象物(人以外の生物を総て含む)を二分化して、差別化することで「人」を上に挙げる。

「性分(せいぶん)」「新日本古典文学大系」版脚注は、『未詳。性質を異にし、それぞれの外形を与えられて、の意か』とされる。腑に落ちる。

「氷(こほり)を聽〔きき〕て水を渡り 疑(うたがひ)を致す事」

「渠(かれ)」彼。

「氷(こほり)を聽〔きき〕て水を渡り 疑(うたがひ)を致す事」これは直ちに諏訪湖を渡る狐の話を私は想起する。私の『堀内元鎧「信濃奇談」 諏訪湖』「甲子夜話卷之三 23 諏訪湖幷同所七不思議の事」を見られたい。但し、これは「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 狐(きつね)(キツネ)」にも、『「三才圖會」に云はく、『狐は、古へ、淫婦の化する所なり。其の名を「紫(し)と曰ふ。善く氷を聽く。河の氷、合(あ)ふ時[やぶちゃん注:氷結する時。]、氷を聽きて、下水、聲無きときは、乃ち、行く』と。』とあって中国でも古くから観察されている習性で、本邦でも広く各地の伝承に多く残されてもおり、また、「新日本古典文学大系」版脚注でも、『疑い深いことをいう成語の「狐疑」を説明する故事』とし、二例の水音を量って後に氷った川を渡るという習性をそうした広げた属性として理解しているケースを示してある。

「尾を擊(うつ)て 火を出〔いだ〕し」妖火の狐火は一説に狐同士が尾を打ち合わせて火を起こしたものともされ、尾の先に灯るともされる。私の「想山著聞奇集 卷の壹 狐の行列、幷讎をなしたる事 附 火を燈す事」等、参照されたい。 

「大安(〔だい〕あん)は羅漢の地に奔(はし)り」「新日本古典文学大系」版脚注に、『「大安」は唐代の僧。則天武后の寵用する読心術に長けた女性と対決し、その正体を狐と見破った(太平広記四四七・大安和尚)』とある。「太平広記」(北宋の太宗の勅命により李昉(りぼう)ら十二が九七七年から翌年にかけて編纂した類書。「太平御覧」・「文苑英華」・「冊府元亀」と合わせて「四大書」と称せられる。全五百巻・目録十巻)のそれは巻四百四十七の「狐一」の「大安和尚」で出典は「広異記」(唐代伝奇の一つ。戴孚 (たいふ) 著。八世紀後半(中唐)の成立。諸書に佚文として見られるのみ)で、以下が原文。訓読は自然勝手流。

   *

唐則天在位、有女人自稱聖菩薩。人心所在、女必知之。太后召入宮,前後所言皆驗、宮中敬事之。數月、謂爲眞菩薩。其後大安和尙入宮、太后問見女菩薩未。安曰、「菩薩何在。願一見之。」。敕令與之相見。和尙風神邈然。久之、大安曰、「汝善觀心、試觀我心安在。答曰、「師心在塔頭相輪邊鈴中。」。尋復問之。曰、「在兜率天彌勒宮中聽法。」。第三問之、「在非非想天。」。皆如其言。太后忻悅。大安因且置心于四果阿羅漢地、則不能知。大安呵曰、「我心始置阿羅漢之地、汝已不知。若置于菩薩諸佛之地、何由可料。」。女詞屈、變作牝狐、下階而走、不知所適。

   *

 唐の則天、在位のとき、女人有りて自から「聖菩薩(しやうぼさつ)」を稱す。人の心在り所、女、必ず、之れを知れり。太后、宮に召し入るに、前後に言ふ所、皆、驗(しる)し。宮中、之れを敬事す。數月にして、

「眞の菩薩たり。」と謂へり。

 其の後、大安和尙、入宮し、太后、問ひて、

「女菩薩を見しや未だしや。」

と。安曰はく、

「菩薩、何くにか在る。願はくは之れを一見せん。」

と。敕令して、之れと相ひ見(まみ)ゆ。

 和尙、風神邈然(ばくぜん)として[やぶちゃん注:あたかも風神の気骨をもって悠然と立ち向かふこと。]、之れ、久し。

 大安曰はく、

「汝、善(よ)く心を觀るとなり。試みに我が心の安(いづ)くに在るや、觀よ。」

と。答へて曰はく、

「師が心、塔頭相輪の邊りの鈴の中に在り。」

と。尋ねて、復た、之れを問ふに、曰はく、

「兜率天の彌勒の宮中に法を聽きて在り。」

と。第三に、之れを問ふに、

「非非想天に在り。」[やぶちゃん注:天上界における最高の天である有頂天の異名。非想非非想天とも。]

と。

 皆、其の言のごとし。太后、忻悅(きんえつ)す[やぶちゃん注:甚だ満足して喜んだ。]。

 大安、因りて、且に置心を四果阿羅漢地[やぶちゃん注:修行者の到達出来る最高地。]に置くに、則ち、知る能はず。

 大安、呵して曰はく、

「我、心、始めより阿羅漢の地に置けるに、汝、已だ知らず。若し、菩薩・諸佛の地に置(を)るとせば、何に由(ゆゑ)料(はか)れるべし。」

と。女、詞に屈し、牝狐(ひんこ)に變じ作(な)して、階(きざはし)を下りて走り、適(ゆ)く所を知らず。

   *

「百丈は因果の禪を詰(なじ)る」中唐の禅僧百丈懐海(えかい 七四九年~八一四年)。この話は私のすこぶる好きな話である。私の「無門關 二 百丈野狐」で原文・訓読・藪野狐禪現代語訳もある。そこでこの意味は判る。この場合の「詰(なじ)る」というのは、全問答の一つの手法で、「相手を問い詰めて責める」形を以って「煩悩・迷妄を破り、断ち切らせる」の意である。何なら、その「無門關」(全)サイト版もある。訳の面白さにかけては、ちょっと自信があるぜ!

「千年の恠(くわい)」千年の寿命を以って妖狐と化したもの。

「兩脚の譏(そしり)」冒頭で女に化ける際にそうした通り、二本足で立った狐のことであろう。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『腹黒い人を罵る語』とする。

「一夫の腹を双手の賜(たまもの)に破らしむ」岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」は注せずにスルー、「新日本古典文学大系」版脚注は『未詳』。私も判らない。

「粤(こゝ)に」発語の辞。「ここに」「さて」の意。漢字は音(呉音「エチ」・「オチ」。漢音「エツ」)の仮借に過ぎない。

「軍戶(ぐんこ)」武家。

「命士」名立たる選ばれし精鋭の武士。

「腥穢(せいゑ)」なまぐさくてけがれていること。

「身を武佐の旅館によせて 愛を良家の寢席に興(おこ)さしむ」恐らくはこの妖狐は割竹小弥太が自分が狐であることを知っていることや、小弥太がその上で自分を利用して金儲けを目論んでいることも、実はお見通しだったのだと私は思う。しかも、それらを総て知ったうえで、知らんぷりをして、小弥太の宿屋では、心底、「身」を尽くしたのである。謂わば、自分がステージを上げて、より騙すに足る、恰好な傲慢な相手と接触を持つ機会を伺い、まさにそれに応えるように小弥太は彼女を高直で売り払い、さても彼女は遂に「愛」を口実として惑わし、悠々と精機を吸い取るに(それで妖狐のステージがいやさかに上がるわけだ)申し分のない単細胞男市令助の「愛」(=精気)をうまうまと手に入れた、というわけなのである。この構造は、妖狐譚としては、かなり特異的で非常に面白い

「綏々(すいすい)」岩波文庫「江戸怪談集(中)」脚注に、『独行して配偶者を求める艶な様子。古来』、『狐についてよく言われる』とある。

「汝が名は紫々(しゝ)」岩波文庫「江戸怪談集(中)」脚注に、『狐の別名。中国で、紫という昔の淫婦が化して狐になったという』とある。私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 狐(きつね)(キツネ)」を参照。

「式(もつ)て」(その名は)以って。

「恧(はぢ)」「恥」に同じ。

「首丘(しゆきう)は其本(もと)を忘れざる事をいふ」岩波文庫「江戸怪談集(中)」脚注に、『狐が死ぬ前にその首を元住んでいた丘の方へける意。「狐死、正丘首、仁也」(『礼記』)に拠る』とある。これは本邦の狐狸譚でも、しばしば言われる。彼らの死に当たっての礼節の表現なのである。

「虎威(こゐ)を假(かる)の奸(かたましき)こと」言わずもがな、漢文でよくやった、「戦国策」の「楚策」の「虎の威を借る(狐)」のこと。

「九尾」本邦の妖狐の女王九尾狐。中国の伝説に見える尻尾が九つに分かれた狐。本来は天下が太平になると出現するとされる祥瑞の一つであった。「古本竹書紀年」には、夏(か)の伯杼子(しょし)が東征して「狐の九尾なる」を得たといい、「山海経」の「海外東経」には、「青丘国にいる狐は九尾である」とあるように、東方の霊獣と考えられていたらしい。「白虎通」では、「九尾は子孫が殖えることを象徴する」と説明し、また「呉越春秋」には、「禹(う)は九尾狐を見て塗山氏の娘を娶った」とあるように、実は、意外な祥瑞観念の背後には、婚姻と子孫の多産などの生命力に関する狐信仰があったものと考えられている(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。岩波文庫「江戸怪談集(中)」脚注には、妖狐化してからについて、『天竺では斑足(はんそく)太子の塚の神、唐土では』西『周の幽王の后褒姒(ほうじ』:笑わなかったことで知られ、それが国を亡ぼす契機となったことで有名)、『または殷の紂王の妲妃(だっき)、日本に渡来して鳥羽院の寵姬玉藻前(たまものまえ)となって、院を悩ました妖狐は九つの尾を持っていたという伝説。那須で射殺されて殺生石となったとする』とある。ウィキの「九尾の狐」も参照されたい。それによれば、朝鮮やベトナムにもいたという。

「千載にも」長い年月を経ても。

「四殺(せつ)」「六害(りくがい)」「新日本古典文学大系」版脚注に、孰れも『易の算木占いの盤を九つに区切った』中の『四区と六区の名称』とされ、ここでは『算を置きながら九図の名を呪文のように唱えたものか』と記されたあと、『ここでは霊力を備えたものの喩え』とする。

「此物どもを見るに、恠しき事、限りなし」前段の『此女の手より、人に遣はし與へたる物ども、取よせて見れば、「絹小袖」と見えしは、皆、芭蕉の葉、「白粉」といひしは、糠埃(ぬかほこり)也。「針」かとおもひしは、松の葉也けり』という変成実態を見てのことであろう。

「符(ふ)」強い妖物は死滅後もいろいろな災いを起すのでそれを封じるための護符であろう。

「丹砂(たんしや)」辰砂に同じ(中国の辰州で産する砂の意)。水銀の硫化鉱物。六方晶系で結晶片は鮮紅色でダイヤモンド光沢を持つ。多くは塊状又は土状で赤褐色。低温熱水鉱床中に産し、水銀の原料や朱色の顔料として古くから用いられている。有機水銀や水に易溶性の水銀化合物に比べ、水に難溶であることから毒性は低いと考えられており、現在でも鎮静薬・催眠薬として使用されている。

「蟹黃(かいわう)」カニ類の消化器官・卵巣を含む、所謂、「味噌」。漢方薬であるが、中文サイトを見てもかかってこない。やっと見つけたのは、「青空文庫」の齋藤茂吉の「念珠集」の「5 漆瘡」で、そこに漆瘡に『生蟹黄調塗』とあったとある。ぴんと来ないが、まあ、卵巣なら、精気の回復には向いてるってか?

「根本」漢方で謂うところの生命力の核心部分。]

2021/04/12

私の中の図書館が消えた…………

凡そ二十年に亙って構築した約180ギガバイトの電子データ・ベースを入れた外附けディスクが、昨夜、突然、壊れた。今日、ネット上の修復ソフトなどでも試みたが、だめで、電気店にも行き、そこで示された販売会社のサイトも見たが、最悪、復元には想像を絶する費用(30万以上)がかかることが判った。2010年までのごく一部は、それ以前の古い外附けディスクに僅か五分の一の37ギガバイト生き残っていたが(本体を本棚に差し込んでとっくに忘れていたもので、コード類を探すのに往生した)、その後の十一年分、ほぼ毎日欠かさず定期巡回をして蒐集し続けたもの、及び、電子化した自身のワード原稿や画像など一切が消失した。総て分野別にフォルダを作り、その中でも細かく分類した、一種の私の築いた一人きりの空想図書館であったのだ。既に消失した優れた宮沢賢治のサイトの全データや、私的に頂戴した原本画像や絵画画像などもそこに、皆、入れてあり、なんとも悔やまれる。――カチ、カチ、カチ、カチ――という音が夕刻に、ディスクから、微かに四度、聴こえた。あの、ノックが永遠の、別れだった…………

正直言うと、「物理的喪失」という感じはそれほど強くない。
……これは、前の十年間で得たデータが生き残っていたことが先程判ったからで、今の私の日本文学の電子テクスト作成の強い味方(加工用データ)になっているのは半分ぐらいが、その頃の蒐集データ群にあるからである。この中には、当時、高校教師ということで、ダウン・ロードが許可された「国文学資料館」の幾つかの「岩波古典文学大系」の電子データが含まれている。
……ここで言っておくと――在野人となってしまうと、教育機関・研究機関所属の者だけに閲覧が許されているデータが実は非常に多いのに憤慨している。
……例えば、慶應の雑誌『三田文学』のバック・ナンバーがそうだ。原民喜の電子データでは、まず私のブログのそれは「そんじょそこらのものとは違うぞ」と、質・量ともに自負するものであるが、初出(民喜は戦後も漢字で旧字を使っていた可能性が頗る高い。原稿画像から起こしたテクスト作成の際、それを強く感じたのである)を見る権利がそんな私にはないのが、如何にも理不尽で堪らないのである。
……しかし……今までの十年の巡回蒐集が……一瞬に消え去ってしまったことで……「私の十年が無駄であった」という如何にもなメランコリックな精神的喪失感の虚脱が……夕べから……ずっと……襲っているのである…………


2021/04/11

芥川龍之介書簡抄33 / 大正三(一九一四)年書簡より(十一) 井川恭宛二通

 

大正三(一九一四)十一月三十日・京都市京都帝國大學寄宿舍内 井川恭樣・卅日 芥川生

 

引越して一月ばかりは何やかやで大分忙しかつた 此頃やつと壁もかはいたし植木屋も手をひいたので少し自分のうちらしいおちついた氣になつたがまだしみじみした氣になれないでこまる

學校へは少し近くなつた その上前より餘程閑靜だ 唯高い所なので風あてが少しひどい 其代り夕かたは二階ヘ

上ると靄の中に駒込臺の燈火が一つづーゝともるのがみえる

地所が三角なので家をたてた周圍に少し明き地が出來た これから其處に野菜をつくらうと云ふ計畫があるがうまく行くかどうかわからない 庭には椎の木が多い 楓や銀杏[やぶちゃん注:「いてふ」。]も少しはある

たゞ厄介なのは田端の停車揚へゆくのに可成急な坂がある事だ それが柳町の坂位長くつて路幅があの半分位しかない だから雨のふるときは足駄で下りるのは大分難澁だ そこで雨のふるときには一寸學校がやすみたくなる やすむとノートがたまる 此頃はそれで少しよはつてゐる 近所にポプラア倶樂部を中心とした画かき村があるだけに外へでると黑のソフトによく逢着する 逢着する度に藝術が紺絣を着てあるいてゐるやうな氣がする

步いても大學迄四十分位でゆかれるさうだ 之はまだあるた[やぶちゃん注:ママ。]事がないんだから確には云へない 僕は山の手線で上野へ行つてあれから觀月橋を渡つて岩崎の橫を本鄕臺へ上る 不忍池のまはりは博覽會の建物ののこりが立つてゐて甚汚い 其中に敗荷が風に鳴つてゐるのが氣の毒な氣がする 此分では今にほんとうにヨツトを浮べるやうな事になるかもしれない

セエゾンが來たので音樂會や繪の會が大分ある こなひだ近代音樂會で未來派の音樂をきいた あれなら僕にも作曲が出來る

繪の會では美術院と二科會がよかつた 文展はだめ

二科會でみた梅原良三郞氏の椿にはすつかり感心してしまつた あの人が個人展覽會をやるといゝと思ふ 美術院では安田靫彥氏のお產の褥がよかつた 今村氏の熱國の春も面白い 大觀と觀山(殊に觀山)には不感服

文展では世間の人が今更のやうに滿谷氏のポストイムプレシヨニズムになつたのを騷いでゐるがポストイムプレシヨニスチツクになつたのは滿谷氏ばかりぢやあない 文展のどの洋画にだつて(不折氏のやう人[やぶちゃん注:ママ。]のは別)影響の跡はみとめられる

それから前にかき落したが巽画會[やぶちゃん注:「たつみぐわくはい」。]も一寸面白かつた 木村莊八氏が大分うまくなつた 岸田劉生氏がボツチシエリやセガンチニのやうな色と線とをつかひ出したのも面白い が、その眞似をしてモナ・リサの複寫のやうな馬鹿な画をかいた奴もゐた

この次の日曜にはフイルハアモニイがある 戰爭なんぞあると音樂會できつと靑島陷落歌と云ふやうなものをやるからたまらない

音樂會で思ひ出したが靑島陷落の日に慶應の英語會へ行つたらユンケルが圓い座蒲團のやうな帽子をかぶつたおかみさんと一しよに來てゐた さうして「獨乙皇帝の野心は遂に破られたり」だの「獨乙の軍國主義は破產せり」だのと云ふ演說をへんな顏をしてきいてゐた 少し氣の毒だつた

此頃僕はだんだん人と遠くなるやうな氣がする 殆誰にもあはうと云ふ氣がおこらない 時々は隨分さびしいが仕方がない 其代り今までの僕の傾向とは反對なものが興味をひき出した 僕は此頃ラツフでも力のあるものが面白くなつた 何故だか自分にもよくわからない たゞさう云ふものをよんでゐるとさびしくない氣がする さうして高等學校にゐた時よりも大分ピユリタンになつた

この前の君の手紙に繪の事があつたから云ふが繪にも僕は好みがちがつて來た ほんとうと云ふとおかしいかもしれないが此頃になつてほんとうにゴーホの繪がわかりかけたやうな氣がする さうして之がすべての画に對するほんとう[やぶちゃん注:ママ。]の理解のやうな氣がする もつと大膽に云へば之がすべての藝術に對するほんとうの理解かもしれないと思ふ

之だけでは何の事だか君にはわからないのにちがひない けれども語にすると肝じんの所がにげさうな氣がするしこれでも事によると君が同感するかもしれないと思ふから之だけにしておく

兎に角僕は少し風むきがかはつた かはりたてだからまだ余容[やぶちゃん注:ママ。「余裕」の誤記。]がない 僕は僕の見解以外に立つ藝術は悉く邪道のやうな氣がする そんな物を拵へる奴は大馬鹿のやうな氣がする だから大がいの藝術家は小手さきの器用なバフーンのやうな氣がする 大分鼻いきが荒いがまじめなんだからひやかしてはいけない それから天才の眞似をしてるんでもないから心配しなくつてもいゝ 余裕がないから切迫してゐる 切迫してゐるとすぐ喧嘩腰になりさうでいけない 一体僕は人の感情を害するやうな事をするのは大嫌なのだが此頃は反意志的に害しさうで困る 山宮さんなんか大分氣をるくして[やぶちゃん注:ママ。]ゐるらしい 兎に角僕がよくないのだ

君が京都にゐる中に一ぺんゆきたい 鼻息のあらい時にゆくと君があきれてしまふかもしれない 尤もいくらあらくつても自分のものがいゝと思つてゐるわけではない 人のものがあんまり卑怯でのんきだから不愉快なのだ 同時に自分のものも其仲間入りをするかもしくは其以下になりやすいのだから猶不愉快なのだ でも少し位あらいのではあきれまいと思ふからやつぱり行きたい 要するに君が京都へいつたのはよくない あはうと思つても一寸あへないのはおそろしく不自由だ 手紙では埒があかないし(僕はいやになるほど文がまづい いくらほんとうをかいてる氣でもよみなほすとうそとしや[やぶちゃん注:ママ。]思へないやうな語ばかりならべてあるんだいやになる)ゆくには遠いし甚よくない

何だかする事が澤山あつて忙しい 体は大へんいゝ 胃病は全く癒つた

いつか寮で君が云つたやうに朝おきた時にミゼラブルな氣もちがする事だけは少しもかはらない 醫科の男に何故だらうつてきいてみたら血液の後頭部へどうとかする具合だらうつて云つた その男もあまりよくわかつてゐないのだから僕はなほさらわからない

新思潮はとうの昔癈刊した それでもあれがあつたおかげで皆かいたものがすぐ活字になる權利を得てゐる 久米が少し肺尖になつた 今逗子にゐる ロメオとジユリエツトを坪内さんの譚から重譯してゐる 同人の中で正直な所僕は豐島君にだけ多少の興味を持つてゐる

僕はこの頃今までよんだ本を皆よみかへしたいやうな氣がする 何もわからずによんでゐたやうな氣がして仕方がない

世の中にはいやな奴がうぢやゐる そいつが皆自己を主張してるんだからたまらない 一体自己の表現と云ふ事には自己の價値は問題にならないものかしら ゴーホも「己は何を持つてゐるか世間にみせてやる」とは云つたが「どんなに醜いものを持つてゐるかみせてやる」とは云はなかつた

一しよに一高を出た連中ともめつたにあはない 谷森君には時々昔の本をかりるから別

それからこんな事がある 三週間ばかり前に八木君がどこかの庇髮[やぶちゃん注:「ひさしがみ」。]とあるいてゐるのにあつた 何でもさむい風のふく晚で宵の口だつたけれど白山の通りでは大がい戶がしまつてゐたと思ふ 二人で活動寫眞か何かへゆく所らしい 所があつて「やあ」と云ふ おぢぎをして二三步ゆきすぎると僕はたまらなくおかしくなつて來た 君には想像できるかどうかしらないがとにかく可笑しくつて可笑しくつてどうにも出來なくなつた(其癖何故だかわからないのだから不思儀[やぶちゃん注:ママ。]だ)さうしてとうとう「あは…」と笑つてしまつた だが笑ひ聲がきこえるとわるいと思つたからいきなり向ふ見ずにかけ出してしまつた 半町[やぶちゃん注:約五十四メートル半。]ばかりかけてからでも笑がとまらなかつた あんなおかしな事は始めてだ

未だに何故おかしかつたのだかよくわからない

画がかけたら水彩を一枚でも二枚でもくれないか 僕の所の壁にかけるのだから おちついた靜な画がいゝ 贅澤を云つてすまないけれど

長崎君やなんかによろしく 尤も面倒だつたらよろしく云はなくつてもいゝ 京都にゐる人は君以外に思出す事は殆ない

こなひだ逗子へ行つた時の事を思出して出來るそばからかく

  驛路(はゆまぢ)はたゞ一すぢに靑雲(あをぐも)のむかぶすきはみつらなれるかも

  烏羽玉の烏かなしく金の日のしづくにぬれて潮あみにけり

  海よ海よ汝より更に無窮なる物ありこゝに汝をながむる

  ねまくほしみ睫毛のひまにきらめける海と棕櫚とをまもりけるかも

  嗄聲(からごへ[やぶちゃん注:ママ。])に老いたる海はしぶきつゝ夕かたまけて何かつぶやく

  わが聞くは海ひゞきか無量劫おちてやまざる淚の音か

  夕されば海と空とのなからひにくゞまりふせる男の子ちさしも

  この海のかなたにどよむ海の音のありやあらずや心ふるへる

もうやめ ずゐぶんまづい「鳥羽玉の」と云ふのだけ少し歌らしいやうだ

 

[やぶちゃん注:「駒込台」この中央附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。芥川家の北西或いは西直近に当たり、同一の台地上にある。

「柳町の坂」恐らくは市谷柳町の焼餅坂であろう。個人サイト「東京散歩」の「焼餅坂」を参照されたい(地図有り)。私は一度、芥川龍之介の自宅周辺を未明に歩いたことあるが、田端駅からの坂はかなりの急坂ではある。この坂というと、私はその坂の上の方に芥川龍之介のシルエットを幻視するのを常としているが、実は当時、田端の駅は現在地にはなかった「今昔マップ」のこちらを見られたい。一時的に現在の北西に三百メートルほどの、現在の山手線と京浜東北線が分岐する直前位置に移動していたのである(後に、また現在の元の位置に戻った)。則ち、ここで彼が「長」い「坂」と言っているのは、推測するに、現在の「八幡坂通り」が「田端高台通り」に接した、その東北を下る坂と考えられるのである(この中央附近)。話を戻す。私の幻視は萩原朔太郎の「芥川龍之介の死」(『改造』昭和二(一九二七)年九月号初出。リンク先は私の古い電子テクスト)の「13」に拠るものである。

   *

         13

 その夜さらに、室生犀星君と連れだち、三人で田端の料理屋で鰻を食べた。その時芥川君が言つた。

「室生君と僕の關係より、萩原君と僕のとの友誼の方が、遙かにずつと性格的に親しいのだ。」

 この芥川君の言は、いくらか犀星の感情を害したらしい。歸途に別れる時、室生は例のずばずばした調子で、私に向かつて次のやうな皮肉を言つた。

「君のやうに、二人の友人に兩天かけて訪問する奴は、僕は大嫌ひぢや。」

 その時芥川君の顏には、ある悲しげなものがちらと浮んだ。それでも彼は沈默し、無言の中に傘をさしかけて、夜の雨中を田端の停車場まで送つてくれた。ふり返つて背後をみると、彼は悄然と坂の上に一人で立つてゐる。自分は理由なく寂しくなり、雨の中で手を振つて彼に謝した。――そして實に、これが最後の別れであつたのである。

[やぶちゃん注:「最後の別れ」には「○」の傍点があるが、ここでは太字とした。]

   *

「ポプラア倶樂部」既注

「觀月橋」不忍池(グーグル・マップ・データ)の中央にある弁天島(寛永寺を建立した天海が不忍池を比叡山の傍の琵琶湖に見立て、中之島として築いたもの)には、この七年前の明治四〇(一九〇七)年三月から七月まで開催された東京勧業博覧会(東京府主催。政上野公園を第一会場、不忍池畔を第二会場、帝室博物館西側を第三会場として開催された。不忍池に飾られたイルミネーションや、同所に設けられたウォーター・シュート及び観覧車などが評判になった。イルミネーションは夜の会場を楽しむ観客が、多数、集まり、夏目漱石の「虞美人草」(初出は同年六月から十月に『朝日新聞』連載)の舞台にもなっている)のために、弁天島から西に向かって「観月橋」が架けられていた。この橋は昭和四(一九二九)年に撤去されて、代わりに現在の弓形の桜並木の遊歩道が造られて、池は現在の四分割された形となった。

「岩崎の橫を本鄕臺へ上る」「岩崎」は筑摩全集類聚版脚注に、『三菱商事を起した岩崎家の邸』宅で、『不忍(しのばず)池畔にあ』ったとある。現在の旧岩崎邸庭園。ここ。その「橫」の「本鄕臺へ上る」坂は無縁坂で、登り切ったところが、東京帝国大学医科大学に入る旧「鐡門」(通用門)があった(現在のそれは二〇〇六年再建の新しいもの)。

「博覽會」東京大正博覧会。既出既注。この十日後の大正三年三月二十日から七月三十一日にかけて東京府主催で東京市の上野公園地を主会場として開催された博覧会。

「敗荷」枯れた蓮(はす)。

「今にほんとうにヨツトを浮べるやうな事になる」前注した東京勧業博覧会の際の不忍池のイルミネーションやら、ウォーター・シュートやら、観覧車やらを苦々しく思い出した龍之介が、「何でもアリ」の「とんでもない破廉恥で奇天烈で場違いなこと」の例として挙げたもの。

「セエゾン」既出既注。saison。セゾン。フランス語で「季節・時候・時期・シーズン」で、ここは「時機・時宜」の意で、日本で言うところの「芸術の秋」といった限定的な謂いであ「近代音樂會で未來派の音樂をきいた」新全集宮坂年譜に、この十一月四日(土曜)に『近代音楽鑑賞会(神田青年会館)に出かける』とある。イタリアの「未來派」(フトゥリズモ(Futurismo)の音楽(ルイージ・ルッソロ(Luigi Russolo 一八八五年~一九四七年)が知られる)だったら、龍之介でなくとも、私でも「あれなら僕にも作曲が出來る」と感じる(私は幾つかを聴いたが、二度と聴きたくない)。

「美術院」美術団体「日本美術院」。明治三一(一八九八)年に東京美術学校校長を排斥されて辞職した岡倉天心を中心に創設され、天心とともに教職を辞した橋本雅邦を始め、横山大観・下村観山・寺崎広業・菱田春草などの日本画家・彫刻家・工芸家ら十数名が集って、東京谷中初音町(一時は茨城県五浦(いづら)に研究所を設けて、美術研究と「院展」と呼ぶ展覧会を開催して力作を発表した。また『日本美術』を発刊、在野派として明治末期の美術界に著しい業績を挙げた。その後、経営困難や天心の渡米などで一時中絶していたが、この大正三(一九一四)年九月に大観・観山に木村武山・今村紫紅・小杉放庵・安田靫彦(ゆきひこ)らが加わって再興した(この時、「再興日本美術院」と称したが,その後、「日本美術院」・「院展」と呼んで現在に至っている)。後に洋画部と彫刻部が解散して、現在は日本画だけとなっている。

「二科會」美術団体。「文展」(次注参照)第二部(洋画)の二科制設置の建議を文部当局に拒否されて「文展」を脱退した石井柏亭・坂本繁二郎・梅原龍三郎・小杉放庵ら十一名によって、この大正三年に結成された。同年十月の第一回展以来、会員に変動はあるが、常に新傾向の作家を吸収し、毎年秋季に展覧会を開催、大正八(一九一九)年に彫刻部を設けた。昭和一九(一九四四)年に太平洋戦争のため、一時、解散したが、翌年の敗戦後に東郷青児らを中心として再建が企図され、昭和二一(一九四六)年に第三十一回展が開催された。新たに工芸部・写真部・漫画部・商業美術部を設置し、多角的な展覧会を開き、今日に至る。

「文展」「文部省美術展覧会」の略称。明治四〇(一九〇七)年に黒田清輝・正木直彦らの建議により、政府が開設した最初の官製展覧会(「官展」の別称となる)。各派総合の美術展として美術振興に貢献したが、官製としての制約が優れた新人作家の離反を齎した。大正八(一九一九)年に「帝国美術院展覧会」(帝展)に改組されたが、昭和一二(一九三七)年には「帝国美術院」の廃止に伴って復活した。昭和二一(一九四六)年に「日本美術展覧会」(日展)と改称している。

「梅原良三郞」洋画家梅原龍三郎(明治二一(一八八八)年~昭和六一(一九八六)年)の旧名。京都生まれ。この大正三(一九一四)年までは「梅原良三郎」を名乗っていた。ヨーロッパで学んだ油彩画に、桃山美術・琳派・南画といった日本の伝統的な美術を自由奔放に取り入れ、絢爛な色彩と、豪放なタッチが織り成す装飾的な世界を展開し、昭和の一時代を通じて日本洋画界の重鎮として君臨した。因みに、私は彼の絵に「感心し」たことは只の一度もない。

「安田靫彥」(明治一七(一八八四)年~昭和五三(一九七八)年)は東京府出身の日本画家・能書家。本名は新三郎。東京美術学校教授。芸術院会員。前田青邨と並ぶ歴史画の大家として知られ、青邨とともに焼損した法隆寺金堂壁画の模写にも携わった。この「お產の褥」(「しとね」か)は「御產の禱(いのり)」という画題の誤記。現在、東京国立博物館蔵。これ(Facebookの個人の「美人画集」の画像)。「紫式部日記」に着想を得たとされる名品である。

「今村氏の熱國の春」日本画家今村紫紅(明治一三(一八八〇)年~大正五(一九一六)年)。横浜市出身。本名は寿三郎。初めは歴史画を好んで描き、晩年には新南画を開拓しようとしたが、惜しくもこの二年後に三十五歳で早逝した。大胆で独創的な作品は画壇に新鮮な刺激を与え、後進の画家に大きな影響を与えた。「熱國の春」とあるが、これは「熱國の卷」の誤り。現在、東京国立博物館蔵で重文指定。参照した当該ウィキに画像がある

「觀山」日本画家下村観山(明治六(一八七三)年~昭和五(一九三〇)年)。和歌山出身。本名は晴三郎。当該ウィキによれば、代々紀州藩に仕えた小鼓方幸流の能楽師の三男として生まれた。明治一四年年八歳の時、『一家で東京へ移住。父は篆刻や輸出象牙彫刻を生業とし、兄』二『人も後に豊山、栄山と名乗る彫刻家となった。観山は祖父の友人だった藤島常興に絵の手ほどきを受け』た。『常興は狩野芳崖の父・狩野晴皐の門人だったことから、芳崖に観山を託す。観山初期の号「北心斎東秀」は芳崖が授けととされ』、明治十六年観山十歳の『頃にはもう』その号を『使用していたとされる』。明治十九年に『芳崖が制作で忙しくなると、親友である橋本雅邦に紹介して師事させ』た。明治二二(一八八九)年、『東京美術学校(現・東京藝術大学)に第一期生として入学。卒業後は同校で教えていたが』、明治三一(一八九八)年に『岡倉覚三(天心)が野に下ったときに行動を共にし』、『横山大観、菱田春草とともに日本美術院の創設に参加した』。明治三六(一九〇三)年二月には『文部省留学生として渡英』し、同年十二月に帰国している。明治三十九年に『天心が日本美術院を茨城県北部の五浦海岸へ移した際』には、『大観、春草、木村武山とともに同地へ移住し』、『画業を深めた』。大正六(一九一七)年、帝室技芸員。この時の出品作は「白狐」(二曲一双)で「文化遺産オンライン」のこちらで見られる。なお、筑摩全集類聚版脚注によれば、横山大観の出品作は「山路」であったとある。個人ブログ「クラシック音楽とアート」の「大観の樹木|山路 松並木 若葉|生誕150年」がよい。画像も大きい

「滿谷氏」洋画家満谷国四郎(みつたにくにしろう 明治七(一八七四)年~昭和一一(一九三六)年)。岡山賀陽郡門田村(もんでむら:現在の総社市門田)出身。当該ウィキによれば、『叔父の堀和平は県下で洋画の草分けと言われた人』物で、『幼い国四郎は堀家に行くたびに』、『和平の画技を見て』、『強い感銘を受けた。さらに、浅尾小学校では代用教員をしていた』洋画家『吉富朝次郎に愛され、岡山中学校(現・岡山県立岡山朝日高等学校)で松原三五郎に画才を認められた。明治二四(一八九一)年、『中学を三年で退学。徳永仁臣をたよって上京するとき、吉富朝次郎から「総社は東洋画の大家雪舟を出した地である。君も大いに頑張って西洋画の第一人者となり給え」と励まされた』という。『東京で五姓田芳柳に師事し、次いで小山正太郎の画塾「不同舎」で苦学力行して』、明治三一(一八九八)年、『油絵「林大尉の死」を発表した。明治美術館創立十周年記念展の会場に明治天皇がたまたま見に来られ、その絵の前にしばらく立ち止まられて感激され、たいへんほめたたえられたといわれている。その作品が宮内省の買上げという光栄に浴し』翌年には『「妙義山」が外務省に』、明治三三(一九〇〇)年の『「尾道港」は再び宮内省に買上げとなり、彼の名声が一挙にたかまった。同年には『水彩画「蓮池」を』、『フランスで開かれた大博覧会へ出品して三位になり』、『銅メダルを獲得し』ている。『鹿子木孟郎』(かのこぎたけしろう)『らとアメリカ経由でフランスへ渡り、ジャン=ポール・ローランスの門に学』び、明治三十五年に『帰国するや、吉田博・丸山晩霞等と語らって「太平洋画会」を創立し、その理事となった。第二回太平洋画展に「楽しきたそがれ」、明治四十年の『東京勧業博覧会には「戦の話」「かりそめのなやみ」を発表し』え一等を受賞、『翌年の文展に「車夫の家族」などを次々に発表』して、遂に彼は『三十四歳という若さで文展審査員のひとりに挙げられた。この頃は、社会風物を鋭く描いた時期である』。明治四十四年、『大原孫三郎の援助で再度渡欧し、パリで初歩からデッサンに取り組み』、『勉強した。新しい研究成果を身につけて』大正元(一九一二)年に『帰朝、後期印象派などの影響により、幾分』、『象徴主義的な画風へと転じた。そのころの作に「椅子による裸婦」「長崎の人」などがある』。『その後、画面は次第に醇化され、独自の画境が切り開かれていった』。その後の『四度にわたる中国旅行で、明治リアリズムからの蝉脱を模索していた国四郎は、大陸の自然や風物に接し、「十五老」(国四郎のもじりで、九・二・四老)と称して、油絵具を使いながら、彼の絵には東洋画の落ち着きと、気品が加わった。また筆やすみを使って、山水を描く南画風の絵も描くようになり、いっそう独特の画境を示すようになった』。大正一四(一九二五)年には『帝国美術院会員となり、太平洋画会の一員として多くの後進を指導し、岡山県人では吉田苞・柚木久太・片岡銀蔵・三宅円平・石原義武らを育てた』。『晩年の作品は、的確なフォルム、温か味のある色彩により、平明で装飾的な画面を作りあげている。「女ふたり」「緋毛氈」などの彼の代表作がこの頃の作品である』。『中村不折は国四郎を評して「幸か不幸か満谷君には文章が書けぬ。しゃべるのも下手だ。それで自分というものの吹聴や説明がうまくできぬのだ。そこで君は黙って仕事をしていくより他はない。なんらのかけひきもなく、ただ作品そのもの、言いかえれば芸術の力のみによって、ひた押しに押して行こうとするのが満谷君である。」と言っている』。また、『総社市立総社小学校校長室に掲げられている「フランス・ブルターニュ半島の風景」は、国四郎の遺志によって』、昭和一二(一九三七)年に『遺族によって贈られたものである』が、『その当時の校長重政良一は、「満谷国四郎略伝」の中で、「我等ニハ是ノ如キ大先輩アリキ 出デヨ 第二ノ満谷国四郎、第三ノ雪舟禅師 今此ノ文ヲ草シテ未来ノ画聖ヲ待望シ必ズ出ズベキコトヲ確信ス。諺ニ『二度アルコトハ三度アル』ト」と記している』とある。

「ポストイムプレシヨニズム」ポスト印象主義(Post-Impressionism/フランス語:Post-impressionnisme)。「後期印象派」と訳されるが、意味がおかしい。「印象派」の後に、フランスを中心として主に一八八〇年代から活躍したそれぞれに「印象派」のレッテルを越えようとした画家たちを指す呼称である。一般にはフィンセント・ファン・ゴッホ、ポール・ゴーギャン、ポール・セザンヌなどを代表者とする。

「不折氏」中村不折。「芥川龍之介書簡抄18 / 大正二(一九一三)年書簡より(5) 十一月一日附原善一郎宛書簡」で既出既注。ここに出、また注で述べた同時代の画家たちの多くも、そちらで私が注してあるので、見られたい。

「巽画會」(たつみがかい)は、明治二九(一八九六)年に深川在住の村岡応東・遠山素香・大野静方(しずかた)の三名が発起人となって発足した。当該ウィキによれば、『新傾向派の青年画家の拠点となり、後に上野竹の台五号館で展覧会を開催するまでに発展した。やり手の南米岳が経営にあたり、京都にまで範囲を及ぼし』、明治四十三年には『審査員に鏑木清方、菱田春草、山田敬中、上原古年、高橋広湖、今村紫紅、木島桜谷、菊池契月、上村松園、尾竹竹坡、尾竹国観、山内多門、町田曲江、信近春城、安田靫彦、田中頼章、小室翠雲などがあたるようになった。また、会の機関紙『多都美』』(後に『たつみ』・『巽』と改称)『を出版し』とある。

「木村莊八」(しょうはち 明治二六(一八九三)年~昭和三三(一九五八)年)は洋画家・版画家・随筆家。当該ウィキによれば、『牛鍋チェーン店のいろは牛肉店を創立経営した木村荘平の妾腹の八男として、東京市日本橋区吉川町両国広小路(現在の東京都中央区東日本橋)のいろは第』八『支店に生まれる』。父の死後、浅草から京橋の『いろは』『支店』を移り住み、『帳場を担当しながら』、『兄・荘太の影響により』、『文学や洋書に興味を持ち、小説の執筆などをして過ご』した。著書「東京の風俗」所収の『自伝的文章「私のこと」によると、旧制京華中学校』四『年生の頃から』、『学校へはほとんど行かず、芝居見物と放蕩に熱中したという』(明治四三(一九一〇)年同校卒)。その翌年、『長兄の許可を得て』、『白馬会葵橋洋画研究所に入学し』、『画家を目差すこととなる』。明治四十五年には、『岸田劉生と知り合い親交を深め、斎藤與里の呼びかけで岸田らとともにヒュウザン会』(既出既注)『の結成に参加した』。大正二(一九一三)年に、、『いろは牛肉店』を辞めて独立、『美術に関する著作・翻訳を行う傍ら』、『洋画を描き注目された』。大正四年、『劉生たちと共に草土社を結成』大正十一年まで『毎回出品する。二科展や院展洋画部にも出品を重ね』、大正七年の院展出品作「二本潅木」では『高山樗牛賞を受賞した』。大正一一(一九二二)年、『春陽会創設に客員として参加し』、大正十三年に『同正会員となり』、『そこで作品の発表を続けた』。この年『以降は挿絵の仕事が増し』てゆき、昭和一二(一九三七)年には『永井荷風の代表作』「濹東綺譚」(『朝日新聞』連載)に『おいても』、『挿絵を担当し』、『大衆から人気を博した』。『他に描いた挿絵は大佛次郎の時代小説』を多く手掛けた。『新派の喜多村緑郎を囲み、里見弴、大佛次郎、久保田万太郎等と集まりを持っていた』。昭和二〇(一九四五)年頃には、『新版画といわれる木版画「猫の銭湯」などを発表している』。『晩年となった戦後は、文明開化期からの東京の風俗考証に関する著作』「東京の風俗」・「現代風俗帖」など『を多数出版』し『た。多忙のため』、『病気(脳腫瘍)の発見が遅れ、短期で悪化し』、亡くなったとある。

「岸田劉生」(明治二四(一八九一)年~昭和四(一九二九)年)は洋画家。東京生まれ。ャーナリスト岸田吟香(ぎんこう)の四男。黒田清輝らの白馬会研究所に学び、雑誌『白樺』の同人と交わり、ポスト印象派を知り、大正元年、高村光太郎らと「ヒュウザン会」を起こした。大正四年には木村荘八らと「草土社」を結成、静物画や風景画に独特の細密表現を完成した。なお、木村も岸田も巽画会展洋画部の審査員として参加していた

「ボツチシエリ」初期ルネサンスで最も業績を残したフィレンツェ派の代表的画家サンドロ・ボッティチェッリ(Sandro Botticelli 一四四五年~一五一〇年)。フィレンツェ生まれ。本名はアレッサンドロ・ディ・マリアーノ・フィリペーピ(Alessandro di Mariano Filipepi)。「Botticelli」は彼の兄が太っていたことからついた「小さな樽」という兄弟族の綽名。代表作は言わずと知れた「ヴィーナスの誕生」(La Nascita di Venere :一四八五年頃)。

「セガンチニ」イタリアの画家ジョヴァンニ・セガンティーニ(Giovanni Segantini 一八五八年~一八九九年)多くの風景画を残し、「アルプスの画家」として知られるが、「悪しき母たち(Le cattive madri :一八九四年)などの幻想的な作品は、「世紀末芸術」の一つに数えられることがある。

「モナ・リサの複寫のやうな馬鹿な画をかいた奴もゐた」不詳。出品リストでも見れれば、或程度は特定出来そうだが。

「この次の日曜にはフイルハアモニイがある」筑摩全集類聚版脚注には、『第十四回が十二月六日から帝劇で開かれている』とある。既出既注の岩崎小弥太の作った音楽愛好家団体「東京フィルハーモニック・ソサエティー」のそれである。但し、年譜ではそれを聴き行った事実は見当たらない。

「靑島陷落」第一次世界大戦中のこの大正三(一九一四)年十月三十一日から十一月七日にドイツ帝国の東アジアの拠点青島(チンタオ)を日本・イギリス連合軍が攻略した「青島の戦い」。当該ウィキによれば、『日本の戦争で最初に航空機が投入された戦いであり、航空機同士の空中戦や都市への爆撃も実施され、飛行機に対抗する高射砲も運用された』。『しかし、大量の装備の上陸や輸送路の確保に慎重を期し、山東半島上陸から青島砲撃までに』二ヶ月もの『時間を要したものの、砲撃後』一『週間で決着がついた戦いは、国民に「弱いドイツ軍相手にだらだらと時間をかけた」という誤った印象を与え、メディアなどからは「神尾の慎重作戦」と揶揄された』『が、結果的にこの戦いを短期間で決着に持ち込めたのは、補給路や装備の十分な確保により』、『断続的な飽和攻撃を敵に与える事が出来た事によるものであ』った。『この戦争で日本は満洲』―大連―芝罘(しふう)『間通信線の所有』及び『運用権を譲り受けた』とある。

「ユンケル」一高のドイツ語のドイツ人講師。複数回既出既注。

「ラツフ」rough。粗野。

「ピユリタン」Puritan。原義はイングランド国教会の改革を唱えたキリスト教のプロテスタント(カルヴァン派)の大きなグループで市民革命の担い手となった。日本語では「清教徒」と訳されるが、ここでは彼らの属性である「禁欲的生活者」の意で用いている。

「ゴーホ」オランダのポスト印象派の画家フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホ(Vincent Willem van Gogh 一八五三年~一八九〇年)。芥川龍之介はこれ以降、終生、彼の作品を愛した。遺稿「或阿呆の一生」(リンク先は私の草稿附き電子テクスト)でも、以下のように登場させている。

   *

       七 畫

 彼は突然、――それは實際突然だつた。彼は或本屋の店先に立ち、ゴオグの畫集を見てゐるうちに突然畫(ゑ)と云ふものを了解した。勿論そのゴオグの畫集は寫眞版だつたのに違ひなかつた。が、彼は寫眞版の中(うち)にも鮮かに浮かび上る自然を感じた。

 この畫に對する情熱は彼の視野を新たにした。彼はいつか木の枝のうねりや女の頰の膨らみに絕え間ない注意を配り出した。

 或雨を持つた秋の日の暮、彼は或郊外のガアドの下を通りかかつた。ガアドの向うの土手の下には荷馬車が一台止まつてゐた。彼はそこを通りながら、誰(たれ)か前にこの道を通つたもののあるのを感じ出した。誰(たれ)か?――それは彼自身に今更問ひかける必要もなかつた。二十三歲の彼の心の中には耳を切つた和蘭人(オランダじん)が一人、長いパイプを啣(くは)へたまま、この憂欝な風景畫の上へぢつと鋭い目を注いでゐた。……………

   *

「バフーン」buffoon。英語。古語で「道化師・おどけ者」の他に、転じて「馬鹿げた面白いことをする奴」・「下品な輩」「馬鹿者」の意がある。

「山宮さん」一高・東帝大の一年上級の山宮允(さんぐうまこと 明治二三(一八九〇)年~昭和四二(一九六七)年)。既出既注

「ミゼラブル」miserable。惨めな・不幸な・哀れな・悲惨な。

「醫科の男」恐らく既出既注の江東小学校及び府立三中時代の同級生上瀧嵬(こうたきたかし 明治二四(一八九一)年~?)。一高の第三部(医学)に入り、東京帝国大学医学部を卒業後、医師となった。

「新思潮はとうの昔癈刊した」第三次『新思潮』はこの大正三年九月の九月号までの全八号を以って廃刊となった(恐らくは主に発行資金調達の経済的理由と推測される)。芥川龍之介が同誌に発表した作品は、

第一号(大正三年二月十二日発行)に翻訳「バルタサアル(アナトール・フランス)」(リンク先は「青空文庫」の新字正仮名版。以下、何も注していないそれは同所のもの)

第三号(同四月一日発行)に翻訳『「ケルトの薄明」より(イエーツ)』と書評「未來創刊號」(詩人三木露風が結成した未来社の同人雑誌『未來』の大正三年二月十五日東雲堂書店発行の同雑誌創刊号の作品評。ネット上に電子化物は見当たらない)

第四号(同五月一日発行)に小説「老年」(「青空文庫」版であるが、これは新字新仮名)

第五号(同六月一日発行)に翻訳「春の心臟―W. B. Yeats―」

第七号(同八月一日発行)に評論「シング紹介」(これは永く幻しとされていたもの。リンク先は新全集を参考に私が独自に電子化した草稿附き)

第八号(同九月一日発行)に「靑年と死と(戲曲習作)」(私の古い電子化)

であった。総て「柳川隆之介」名義である。

「肺尖」肺尖部肥厚。肺野の一番上の尖った部分の肺尖部胸膜肥厚のこと。結核の初期症状や予後に生ずることがあるが、活動性炎症の所見が見られない場合は、殆んどが昔の肺炎や胸膜炎の痕跡で放置して構わない。

「坪内さん」坪内逍遙(安政六(一八五九)年~昭和一〇(一九三五)年)。この久米正雄の重訳版「ロメオとジユリエツト」は大正四(一九一五)年一月に新潮社の新潮文庫で刊行されている。大正十一年の同社の「泰西戯曲選集」の第一編の再刊本が国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで視認出来る。

「豐島君」豊島与志雄(明治二三(一八九〇)年~昭和三〇(一九五五)年)は福岡出身。龍之介より二つ年上。一高から東京帝国大学仏文科に入学。第瑣三次『新思潮』の創刊に加わり、同誌創刊号に処女小説「湖水と彼等」を発表して認められた。知的な内省と鋭敏な神経で綴る幻想的な説話性に富む作風で、地味ながら独自の文壇的地位を占めた。大正六(一九一七)年にヴィクトル・ユゴーの「レ・ミゼラブル」を翻訳、これがベスト・セラーとなり、翻訳が主、創作が従の活動が続いた。昭和一〇(一九三五)年、東京大学講師となり、以後、晩年まで諸大学の教授職にあった。戦後は「日本ペン倶楽部」(当時の会名)の再建に尽力し、昭和二二(一九四七)年には再建された「日本ペンクラブ」の幹事長に就任した。昭和二七(一九五二)年には旧訳の「ジャン・クリストフ」がまたしても大当たりとなった。代表作は短編小説集「生あらば」(新潮社・大正六(一九一七)年)、中編小説「野ざらし」(新潮社・大正一二(一九二三)年)、随筆集「書かれざる作品」(白水社・昭和八(一九三三)年)、長編小説「白い朝」(河出書房・昭和一三(一九三八)年)、短編小説集「山吹の花」(筑摩書房・昭和二九(一九五四)年)等があり、また、数多くの児童文学作品も書いている。創作家としてよりも、名訳者として名を残した。また、太宰治が晩年に豊島与志雄を最も尊敬し、山崎富栄を伴って、親しく交際し、太宰の葬儀では葬儀委員長を務めた(以上は主に当該ウィキに拠った)。

「谷森君」既出既注

「八木君」既出既注の八木実道(理三)であろう。同前で、『一高時代の同級生。愛知県の生まれ』。東京帝大『哲学科卒。宇都宮高等農林学校教授を経て、第三高等学校』(現在の京都大学総合人間学部及び岡山大学医学部の前身)『生徒主事兼教授』とある。

「庇髮」女性の束髪の一つ。入れ毛を使って前髪と鬢 (びん)とを膨らませ、庇のように前方へ突き出して結う髪形。明治三十年代頃、女優川上貞奴が始めてから、大正の初めにかけて流行し、また、女学生が多く用いたことから、「女学生」の異称ともなったが、ここはそれである。

「長崎君」既出既注であるが、再掲しておくと。一高時代の同級生で井川とも親しかった長崎太郎(明治二五(一八九二)年~昭和四四(一九六九)年)。高知県安芸郡安芸町(現在の安芸市)生まれ。旧同級だった芥川龍之介や菊池寛らとも親交を持った。一高卒業後、井川と同じく京都帝国大学法科大学に進学(さればこそここに名が出て腑に落ちる)、大正六(一九一七)年の卒業後は日本郵船株式会社に入社、米国に駐在し、趣味として古書や版画を収集し、特にウィリアム・ブレイクに関連した書籍の収集に力を入れた。同一三(一九二四)年に欧州美術巡覧の後に帰国した。翌十四年、武蔵高等学校教授となり、昭和四 (一九二九) 年には母校京都帝国大学の学生主事に就任した。同二十年、山口高等学校の校長となり、山口大学への昇格の任に当たった。同二四(一九四九)年には京都市立美術専門学校校長となったが、ここも新制大学へ昇格、翌年、京都市立美術大学学長となって、多くの人材を育てた。

「こなひだ逗子へ行つた時」既出既注

「驛路(はゆまぢ)」宿駅の古語。

「嗄聲(からごへ)」「からごゑ」が正しい。しゃがれ声。この一首は全体が擬人法。

「無量劫」「むりやうごふ(むりょうごう)」仏語。限りなく長い時間。永劫。

「なからひ」「仲らひ」は「男女・夫婦・血族などの人と人との間柄・人間関係・一族」の意であるが、ここはどうも、「中間に」の意で用いていているとしか思えない。まあ、その「ちさし」「男の子」を海と空の自然の中に正しく育まれた存在としてという意味で原義に繋げているとも読める。私もまさにそんな情景を、遠い二十歳の昔、見たことがあり、写真に撮ったことがあるから、この一首は非常に打たれるものがある。]

 

 

大正四(一九一五)年一月一日・消印大正三(一九一四)十二月三十一日・攝津國武庫郡西の宮香櫨園深田樣方 井川恭君・(葉書)

 

  隆達にまなびて

薔薇はすがれて、さうよの

いのちの春が來るのは

いつであらうぞの

 一月一日

 

[やぶちゃん注:半今様(はんいまよう)風の芥川龍之介自作の歌謡である。

「隆達」近世初期の流行歌謡隆達節(りゅうたつぶし)或いは、それを創始したとされる高三隆達(たかさぶりゅうたつ 大永七(一五二七)年~慶長一六(一六一一)年)のこと。「隆達小歌」とも呼ぶ。隆達は泉州堺の薬種商の末子に生まれ、日蓮宗顕本寺の僧となったが、兄隆徳の没後、還俗した。生来、器用な彼は、連歌・音曲・書画などに才能を現わし、自ら、小歌を作詞してこれを歌い、名声を得た。この隆達節が最も流行したのは文禄・慶長期(一五九二年~一六一五年)で、その後、元禄・宝永期(一六八八年~一七一一年)頃まで、永く流行し続けた。曲節自体は現存しないが、恐らく先行する数種の音曲を折衷し、そこに彼独自の節回しを加えたものと思われる。伴奏には主として扇拍子(閉じた扇で掌や板の台などを敲いて拍子をとること)や一節切(ひとよぎり:尺八の前身ともされる真竹製の縦笛。節が一つだけあるのを特徴としたため、この名を得た)・小鼓などが用いられた。自筆・他筆を含めて五百首以上の歌詞が現存するが、その総てが隆達の作というわけではない。内容の七割以上は恋歌で、詞型は七五七五調の半今様型が最も多く、近世小歌調の七七七五調はきわめて少ない。その意味で、隆達節は中世歌謡から近世歌謡への過渡的小歌として、歴史上。重要視されている(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。]

2021/04/10

私の怒り

「放射能汚染された処理水投棄が安全だ」というのであれば、全投棄水を均等に全国の海に接した都道府県に振り分け、それぞれに「適切な海域」に投棄するように政府は命ずるべきである。――「復興五輪」などと「噓」ぶいている中で、これを強行しようとする日本に――全世界の国はNOを訴えるべきである――

伽婢子卷之二 眞紅擊帶

   ○眞紅擊帶(しんくのうちをび)

 越前敦賀の津〔つ〕に、濱田の長八とて有德(うとく)人ありて、二人の娘を、もちたり。

 その隣(となり)に、若林長門守が一族、檜垣(ひがきの)平太といふもの、武門を離れ、商人(あきびと)となり、金銀ゆたかにもちて、住〔すみ〕侍べり。

 是(これ)に一人の子あり。平次と名づく。長八が娘と、おなじ年頃にて、いとけなき時は、常に出合〔いであ〕ひて、遊びけり。

 平太、すなはち、

「長八が姊娘(あねむすめ)を、我が子の妻とすべき。」

よし、媒(なかだち)を以て、いはせければ、やがて、受けごひけり。

「さらば、其しるしに。」

とて、酒・さかなとゝのへ、眞紅(しんく)の擊帶(うちおび)ひとつ、娘に、とらせたり。

 天正三年の秋、朝倉が餘黨、おこり出〔いで〕て、虎杖(いたどり)・木芽峠(きのめたうげ)・鉢伏(はちふせ)・今條(いまでう)・火燧(ひうち)・吸津(すひづ)・龍門寺(りうもんじ)、諸方の要害に楯(たて)ごもる。

 其中に、若林長門守は、河野の新城に籠りしかば、信長・信忠父子、八萬餘騎を率(そつ)して、敦賀(つるが)に着陣あり、木下藤吉郞におほせて、河野(かうの)の城をとりかこませらる。

 檜垣平太は、若林が一門なれば、敦賀にありて、とがめられむ事をおそれ、一家を開(あけ)のきて、所緣につきて、京都にのぼり、五年までとどまりつゝ、その間に、敦賀のかたへは、風のたよりも、なし。

 長八が娘は、年、すでに十九になり、容顏(ようがん)うつくしかりければ、人皆、これを求むれ共、娘、更に聞入れず、

「みづから、いとけなき時より、一たび、平次に約束して、今、たとひ、捨てられたりとも、又、こと夫(をつと)をまうくべきや。その上、平次、もし、生(いき)てかへり來らば、誠に恥ずかしき事なるべし。」

とて、朝夕は、深く引籠り居たりけるが、平次が行方〔ゆくへ〕の戀しさ、露〔つゆ〕忘るる隙〔ひま〕なく、只、かりそめの手すさみにも、其人の事のみ、あらまされて、人しれぬ物思ひに、淚を流すばかりなり。

 つひに、思ひくづをれて、病(やまひ)のゆかに臥し、半年餘(あまり)の後、つひに、むなしく成ければ、二人の親、大〔おほき〕になげき悲しみつゝ、「小鹽(こしほ)」といふ所のてらに、埋みけり。

 母、その娘の額(ひたひ)をなで、平次がつかはしける眞紅の帶を取出(とり〔いだ〕)し、

「是は、いましの夫の、とらせたる帶ぞや。跡にとどめて、何にかせむ。黃泉(よみぢ)までも、見よかし。」

とて、むなしき娘が腰に結びて、おくり、埋みけり。

[やぶちゃん注:「擊帶」「新日本古典文学大系」版脚注には、『糸組みの帯』で、『組目をへらで打ち固めるところからの名。平打ち・丸打ちの二種があり、挿絵』(最初に掲げたものの駕籠の下方に落ちているそれ)『に見る網状の帯は丸打ちで、近世初期(十六世紀末十七世紀初頭)に流行した。本書巻八ノ三』の「歌を媒(なかだち)として契る」『にも』「花田の打帶一すぢ繩のやうなる」『とある。当時の風俗画によれば、主に少女や若い女性が着用し、体に数回巻いて大きく蝶結びにしたのち、房のついた両端を長く垂らした』と非常に詳しい説明が載る(但し、この注の冒頭で『別名、名古屋帯』とされておられるのだが、現行の和服業界では、「名古屋帯」は、近代(大正期)に考案された、速やかに締めることの出来る帯の名称として現に流通しているので、そこは外したことをお断りしておく)。岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」(一九八九年刊)では、ここで結納品としてこれを贈ることは『縁を結ぶしるしとして用いられた』とあることで、縁起物としてのそれが腑に落ちる。

「越前敦賀の津」現在の福井県敦賀市の「湊」の意。ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「若林長門守」若林九郎左衛門。「怪奇談集」の「三州奇談」の注で非常にお世話になった昭和一七(一九三二)年金沢文化協会刊の日置謙氏の編になる「加能郷土辞彙」(「金沢市図書館」のこちらの使い勝手が非常によい)の「若林長門」によれば、『ワカバヤシナガト 若林長門 一向一揆の首領で、石川郡劔城』(白山山麓の加賀舟岡城の別名)『に居た。天正二』(一五七四)『年本願寺顯如の命により、長門は越前に入り、七里賴周』(しちりよりちか:本願寺の坊官(寺院の最高指導者(別当・三綱)などの家政を担当した僧。当該組織をも指し、行政機関に於ける「政所」に相当する)『と共に軍事を督した』(彼はこの時、朝倉景鏡(かげあきら)を倒し、越前を加賀と同じく一向宗門徒領国にする功に与(くみ)した)『が、三年八月織田信長は羽柴秀吉を派して一揆を討伐せしめるや、八月十碁五日秀吉は海を渡つて河野浦に上陸し』、『新城を攻め、長門等』が『之を防いだが』、『敗れて遁走し、戰死二』、『三百人に及んだ。總見記にこの時長門も亦歿したと記するのは誤である。長門は八年金澤御坊の陷落後も尙存命してゐたが、柴田勝家は之を討たんと欲し、十月七日自ら粟生に陣し、柴田勝政等をして柏野に進擊せしめた。長門は敵の先鋒と爭ふこと少許』(すこしばかり)『の後』、『松任に退き、若し舊領を安堵するを得ば降を容れんことを申出で、勝政は佯』(いつは)『つて之を許したので、長門は子雅樂助』(「うたのすけ」であろう)『・甚八郞と共に、勝家の恩を謝せんが爲その本營に赴いた。勝家乃』(すなは)ち部下の三人を『一室に伏せしめ、長門の一禮するを待つて之を斬り、二子も亦別室で殺され、勝家は十一月二十日附の注文で、是等の首を安土に送つたといふ。併し關屋政春古兵談には、長門が越前丸岡に至つて柴田勝政に謁した際殺されたのであるとしてゐる』とある人物である。正直、「新日本古典文学大系」版脚注よりも実事績がはっきり判る。

「受けごひけり」「諾(うけご)ひけり」。受諾した。

「さらば、其しるしに」「とて」「眞紅(しんく)の擊帶(うちおび)ひとつ、娘に、とらせたり」「新日本古典文学大系」版脚注に、『婚約成立のしるしとして』、『結納に帯を贈る風習があった』として、「女重宝記」(おんなちょうほうき)の巻之二の「嫁取言入ならびに日取の事」を引用する。所持する一九九三年社会思想社刊本を参考に、国立国会図書館デジタルコレクションの原本当該部の画像を見て示すと(右頁後ろから三行目)、

   *

中(ちう)より下(した)のたのみ[やぶちゃん注:男方から女形への結納を「賴み」と呼ぶことが同条の最初の方に記されてある。]には、帶又は金銀に樽・さかな、そゆるもあり。

   *

とあってここと一致する。「中より下」というのは身分(経済状況の差を含む)の違いを言っているようである。

「天正三年」(一五七五年)「の秋、朝倉が餘黨、おこり出〔いで〕て」「新日本古典文学大系」版脚注に、『八月越前国朝倉が余党おこりて下間和泉守』(足羽郡司であった下間(しもつま)頼俊のこと。後に出る下間頼照の長男)『虎杖の城にたてごもる。石田正光寺』(福井県鯖江市杉本町にある旧石田山西光寺、現在の石田殿西光寺(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。後の幕末の万延元(一八六〇)年に関白九條兼実から直筆の殿号額を下賜されて寺院では全国で唯一の殿号寺院となった)。天正三(一五七五)年西光寺第五世真敬の時、木芽峠に山寨を構え、信長勢と戦ったが、多勢に無勢、真敬は木芽峠で自刃した。以上は竹内敏夫氏のサイト「写真で訪れる蓮如の里 吉崎御坊とその周辺」の「西光寺」に拠った)『は木芽峠に要害をかまへ、阿波賀三郎兄弟』(阿波賀景賢(あばが かげたか)と弟か。朝倉孝景の家臣)『下間筑後守』(下間頼照(らいしょう 永正一三(一五一六)年~天正三(一五七五)年)は頼俊の父。通称、筑後法橋。顕如によって一向一揆の総大将として越前国に派遣されて平定し、実質的な本願寺領としたことから、実際には越前守護又は守護代として在住していたと考えられる。この年の織田の侵攻では、頼照は観音丸城に立て籠もったが、地元の一揆勢の十分な協力を得られなかったこともあり(一揆の主力であった地元勢力は大坂から派遣された頼照らによって家臣のように扱われることに激しい不満を抱いていた。実際に天正二(一五七四)年には反乱を起こして頼照ら本願寺勢力によって弾圧された経緯があった)、織田方の猛攻に拠点の城は落城、頼照は海路をのがれようとしたが、同宗内で対立していた真宗高田派の門徒に発見されて首を討たれて死んだ。ここは当該ウィキに拠った)『今条と火燧が城と二箇所をかため、大垣円幸寺』(不詳)『吸津の城にこもり、河野の新城には若林長門守たてごもり、三宅権之丞』(不詳。最初の織田侵攻の際に織田勢を破った人物ではある)『は竜門寺にこもる』とある。

「朝倉が餘黨」前注から判る通り、実は織田に討たれた朝倉義景(天文二(一五三三)年~天正元(一五七三)年)の残党ではなく、一向一揆勢を指す。ウィキの「石山合戦」によれば、『天正元年、信長は朝倉義景と浅井長政を相次いで滅ぼし、義景の領国であった越前には義景の元家臣前波吉継を守護代に任じて統治させた。しかし、吉継は粗暴な振る舞いが多くなり、翌年』一『月に富田長繁ら国人領主と結んだ一向一揆によって殺された。さらに一向一揆と結んだ国人領主も』、『次々と』、『一揆により』、『織田方の役人を排斥し、越前は加賀一向一揆と同じく』、『一向一揆の』勢力権にある『国となった(越前一向一揆)。これにより、信長はせっかく得た越前を一向宗に奪われることになった』。『これを知った顕如は、はじめ』『七里頼周』(しちりよりちか:武将にして本願寺坊官)『を派遣し、その後下間頼照を越前守護に任じた。こうして本願寺と信長の和議は決裂し』、四月二日、『石山本願寺は織田家に対し』、『再挙兵した』。『本願寺は長島・越前・石山の』三『拠点で信長と戦っていたが、それぞれが政治的に半ば独立しているという弱点があ』り、『信長はそれを最大限に活用して各個撃破に』出、七月、『信長は大動員令を発して長島を陸上・海上から包囲し、散発的に攻撃を加えるとともに補給路を封鎖して兵糧攻めにした。長島・屋長島・中江の』三『個所に篭った一揆勢はこれに耐え切れず』、九月二十九日には『降伏開城した。しかし、信長はこれを許さず』、『長島から出る者を根切に処した。この時、降伏を許されなかった長島の一揆勢から捨て身の反撃を受けたため、残る屋長島・中江の』二『個所』で『は柵で囲んで一揆勢を焼き殺した。指導者であった願証寺の顕忍(佐堯)は自害し』ているとある。

「虎杖(いたどり)」「新日本古典文学大系」版脚注では地区を示して、『福井県南条郡今庄町板取。北陸道の宿駅であるとともに軍事的な要衝としてしばしば合戦の場となり、虎杖城、西光寺城』(ここ)『などが築かれた』とある。但し、板取は現在は福井県南条郡板取であり、虎杖城自体は現在の行政地名では、その境界域の外に当たる福井県南条郡南越前町八飯(やい)に城跡がある

「木芽峠(きのめたうげ)」同じ板取地区のここにある。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『今庄』(旧板取地区を含んだ福井県南条郡南越前町今庄地区)『と敦賀との間にある木ノ目峠』(木ノ芽峠が正しい。国土地理院図)。『敦賀を経由して京都へ向かう北陸街道の枝道、西近江路の要衝。峠道を挟むように城の遺構がある』とある。個人サイト「街道の風景」の「木ノ芽峠」が非常に詳しい。必見!

「鉢伏(はちふせ)」ここ(国土地理院図)。個人サイト「城郭放浪記」の「越前 鉢伏城」がよい。

「今條(いまでう)」前の注で示した旧今庄地区のこと。「新日本古典文学大系」版脚注には、『北陸街道の宿駅で南に』木ノ芽峠、『西に山中峠、北に湯尾峠を控えた交通の要衝』とある。

「火燧(ひうち)」南今庄協会直近の今庄地区のここに城跡がある。

「吸津(すひづ)」福井県敦賀市杉津(すいづ)。地図を見ても、岡崎山砦・杉津砦・河野丸砦の山寨跡が確認出来る。

「龍門寺(りうもんじ)」福井県武生(たけふ)市本町に現存する曹洞宗の寺院附近にあった城。ここ。「城郭放浪記」の「越前 龍門寺城」によれば、天正元(一五七三)年に『富田長繁によって築かれたと云われる。もともと龍門寺があった所と云われる』。天正元年、『織田信長によって朝倉氏が滅ぼされると、朝倉氏の家臣であった富田長繁は』、『いち早く信長に降って、府中を領し』、『龍門寺城を居城とした』。翌天正二年に『一向一揆が起こると』、『それに加担して確執のあった守護代桂田長俊(前波』(まえば)『吉継)を敗り、更に魚住景固』(うおずみかげかた)『父子を謀殺して越前一国を支配した。長繁は織田信長に越前守護の朱印状を要求するなど』、『地位を固めようとしたが』『悪政を施』(し)『いたため』、天正三(一五七五)年に『一向一揆の襲撃を受け、この戦いの最中』(さなか)、『家臣の小林三郎次郎吉隆に裏切られ』て『討死にした』。同年、『越前を再び平定した織田信長は北庄城に柴田勝家を置くとともに、越前府中に前田利家・佐々成政・不破光治を柴田勝家の目付として配置し』、『府中城には前田利家、小丸城には佐々成政、龍門寺城に不破光治が入り』、『合わせて十万石を領した』。天正八年、『不破光治は没し、不破直光が家督を相続したが、賤ヶ岳合戦後は前田利家に仕えた』とあり、『現在の龍門寺一帯が龍門寺城跡である』とされ、天正一六(一五八八)年になって、『再び龍門寺が再建されて現在まで続いているが、城域はもっと広く本町一帯であったと考えられて』おり、『明瞭な遺構は残っていないが』、『寺の南側にある墓地が堀跡の名残として周囲より一段低い位置になっている』とある。この附近か(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「河野の新城」現在の福井県南条郡南越前町河野。「新日本古典文学大系」版脚注には、『府中(武生市)と西街道で結ばれ、敦賀へ船の便があった』とあるだけで「城」については述べていない(私の示した同一の場所を指している)。ただ、調べてみても、この地区に城塞があったことを確認出来ない。識者の御教授を乞う。

「開(あけ)のきて」住んでいたところを引き払って立ち退いて。

「みづから」「自ら」であるが、ここは「妾(わらは)・私」で自称の人称代名詞。中古からあって、古くは男女ともに用いたが、近世では女性語となった。

「こと夫(をつと)」「異夫」。

「かりそめの手すさみにも」気晴らしのために歌などを詠んで書いてみたり、遊戯をしたり、物見遊山をしたりしてみても。

「あらまされて」自然に胸中に思い巡らされて。

「思ひくづをれて」「思ひ崩折れて」。重い心身症のような状態になったのであろう。

『「小鹽(こしほ)」といふ所のてら』「新日本古典文学大系」版脚注には、『未詳。似た地名に越前国南仲条郡王子保(福井県武生市大塩町)があるが、菩提寺としては遠過ぎるか』とあり、調べると、ここで、ちょっと遠過ぎて、あり得ない。後で四十九日の墓参のシーンが出るが、駕籠を使うとは言え、女連れで、朝に出でて、夕暮れに戻ってこれるような距離(往復で六十キロメートルはある)では物理的にないからである。一方、岩波文庫「江戸怪談集(中)」では、『敦賀郊外の地名。「をしほの西光寺にをくりて土葬にいたし」(平仮名・因果物語』巻四の六)』とある。この寺が現在の福井県敦賀市大比田の西光寺であるとすれば、往復で二十六キロ程度で、まあ、一日で行けぬ距離ではない(但し、侍女を歩かせてのそれは、かなりきつい気はするが)。

「むなしき娘が腰に結び」これが執心の契機となっていることに注目しなくてはならない。

「おくり」野辺の送りをし。]

 

 三十日あまりの後、平次、すなはち、來りぬ。

 長八、これをよびいれて、

「如何に。」

と問へば、答へていふやう、

「若林長門守が、河野の新城に楯籠りしかば、信長公、八萬餘騎にて此敦賀に着陣あり。もし、『若林が一族なり』とて、尋ねいましめられん事を恐れて、とる物もとりへず、京都にのぼり、所緣につきて、暫く住居(すまひ)せし所に、打續きて、二人の親、むなしくなりければ、往昔(そのかみ)の契約、わすれがたくて、ここに歸り來れり。」

といふ。

 濱田夫婦、淚を流していふやう、

「姊娘は、そのころより、そこの御事を思ひあこがれ、病を受けて、去〔いん〕ぬるつきの初めつかた、つひに、むなしくなり侍り。久しく便りのなかりつる事を、さこそ恨み思ひけむ。これ、見給へ、硯の蓋に書おきたり。」

とて、なくなく、取り出して、平次に見せたり。

 その歌に、

 せめてやは香(か)をだににほへ梅(むめ)の花

   しらぬ山路のおくにさくとも

平次、是を見るに、我身のつらさ、今更に思ひ知られて、悲しき事、かぎりなし。

 佛持堂にまいり、位牌の前に花香たむけ、念佛となふれば、二人の親、うしろに來りつつ、

「これこそ、汝が戀ける平次の手向〔たむけ〕なれ。よくよく、うけよ。」

とて、ふしまろび、悲しみ歎きければ、平次を初めて、家にある人、皆、一同に聲をそろへてなきけるも、あはれなり。

 濱田夫婦、いふやう、

「今は父母もおはせねば、獨身〔ひとりみ〕となりて、心細かるらむ。今、姊娘の死したればとて、餘所(よそ)にやは見るべき。同じくは、此家におはして、ともかうも、身の業(なりはひ)をいとなみ給へ。」

とて、家の後ろに、住所〔すみどころ〕しつらひて、とゞめおきたり。

[やぶちゃん注:「すなはち」(前触れもなく)急に。

「せめてやは香(か)をだににほへ梅(むめ)の花しらぬ山路のおくにさくとも」「香」は「音信」を、「しらぬ山路のおく」に「平次のいる知らぬ異郷」を、平次への変わらぬ思慕の念を梅の花の香りの漂いに掛けたもの。岩波文庫「江戸怪談集(中)」によれば、「千載和歌集」の「巻第一 春歌上」一の道因法師の一首(六二番)、

   花の歌とてよめる

 花ゆゑに知らぬ山路はなけれどもまどふは春の心なりけり

に基づくとある。上手くインスパイアしてある。

「我身のつらさ」平次が彼女にかけてしまった辛い思いを知って、己(おのれ)の薄情に思い到ってつらく思うているのである。

「佛持堂」持仏堂。持仏や先祖の位牌を安置した室。仏間。言わずもがな、浄土真宗であろう。

「餘所(よそ)にやは見るべき」「どうして赤の他人のように冷たく突き放すことが出来ようか、いや、出来はせぬ」。]

 

Sinkunoutiobi

[やぶちゃん注:武家が用いる高級な駕籠に(二人乗りと思われ、妹娘の奥に長八の妻が乗るか)奥には前に被(かづき)をした侍女二人、杖を突いて両脇差を指し、釘貫(くぎぬき)紋をあしらった裃を着ているのが長八であろう。下人一人(こちらも両脇差)と挟箱を負うた下男もいる。平次は長脇差一本である。これから、我々が想像する以上に浜田長八は分限者であることが判る。但し、彼が武士であるかというと、戦国時代の本百姓の村長(むらおさ:江戸時代の名主・肝煎クラス)では名字帯刀(事実上の安全のためにである)した者が多かったから、そうと早合点することは出来ない。ただ、平次の父檜垣平太は若林九郎左衛門の一族とあり、彼の方から浜田長八に娘を嫁に呉れと「頼み」をしているからには、浜田も事実上の武士格であったと考えて構わない。なお、駕籠舁きが頭部に死者のする三角巾をしていることに気づかれるであろう。これは実は現在でも、地方によって、葬儀の折りに火葬場や墓へ向かう送迎の運転手を親族が行う場合に行われる葬送儀礼として残っている。私が思うには、原初、死者の亡骸は魂のない「骸(から)」であることから、悪霊がそこに入り込み易いと考えられたことから、複数の死者を生者が演じることによってその侵入を阻止する目的があったものと考えている。四十九日の法要にそれをやる習慣が、今、残っているかどうかは定かでないが、少なくとも江戸時代にはそうした習慣(その意味認識はなかっただろうが)が実行されていたことを証明する挿絵として重要である。

 

 かくて、四十九日の中陰、とりおこなひ、家、こぞりて、「小鹽」の墓にまうでつゝ、平次をば、留主(るす)せさす。

 下向のとき、日すでに誰(たそ)がれに及びて、平次は、門に出〔いで〕むかふ。

 みな、をのをの、入〔いり〕たりけるに、いもうと娘、今年、十六歲なるが、乘物の内より、何やらむ、おとしけり。

 平次、ひそかにひろふてみれば、眞紅の帶也。

 ふかくおさめて、内に入つゝ、わが住〔すむ〕かたに歸り、ともしびのもとに、物思ひつゞけて、ひとり、座し居たり。

[やぶちゃん注:「中陰」中有(ちゅうう)に同じ。「四有(しう)」。生有(しょうう:衆生生まれる瞬間)・本有(生まれて後、死ぬまでの身)・死有・中有の一つ。死有から次の生有までの間で、人が死んでから次の生を受けるまでの期間。七日間を一期とし、第七の四十九日までの間を指す。

「平次をば、留主(るす)せさす」彼を連れて行かないのは、彼がつらいと思うことを考えたのではなく、冥界に存在を異にする娘の執心を憚ってのものであろう。しかしそれは帯を結んだ時点で無効となっていたのである。

「誰(たそ)がれ」古くは「たそかれ」と清音。語源は「誰 () そ彼 (かれ) は」で、「暗くなって人(或いは魔物。さればこそ別に「逢魔が時」とも呼ぶ)の見分けがつきにくい時分」の意で、夕方の薄暗い頃、夕暮れを指す。

「ふかくおさめて」懐深く収めて。字背に「秘かに」(誰にも気づかれぬうちにさっと)の意が強く籠められてある。]

 

 夜ふけ、人、しづまりてのち、妻戶を音づるゝもの、あり。

 戶をひらきて見れば、妹娘(いもとむすめ)なり。

 そのまゝ内に入て、囁(さゝや)きいふやう、

「みづから、姊にをくれて、嘆きにしづめり。向(さき)に眞紅の帶を投(なげ)しを、君、ひろひ給ふや。ふかき宿世(すくせ)、わすれがたくして、これまで、しのびてまいり侍べり。契りをむすびて、偕老のかたらひをなさん。」

といふ。

 平次、きゝておどろき、いふやう、

「ゆめゆめ、あるべき事ともおぼえず。御父母(〔おん〕ちゝはゝ)のなさけありて、我をやしなひ給ふだにあるを、ゆるされもなくして、正(まさ)なきことをおこなひ、もし、もれなん後〔のち〕をば、いかゞせむ。とく、とく、歸り給へ。」

といふ。

 妹、大にうらみ、いかりて、云やう、

「わが父、すでにむこの思ひをなし、此家に、やしなへり。みづから、こゝに來れる心ざしをむなしくなし給はゞ、身をなげて死なんに、必ず、後〔のち〕の悔みをなし、生をかへても、怨みまいらせむ。」

といふ。

 平次、力なく、その心に、したがひけり。

 曉になりて、妹は、おきて、いにけり。

[やぶちゃん注:「妻戶」一般には両開きの板戸で、家屋の端(つま:角)に設けた外部に通ずる戸の意。

「姊にをくれて」姉に先立たれて。

「向(さき)に」先ほど。

「ふかき宿世(すくせ)」前世からの非常に親密な因縁。古く中古より、夫婦・親子の縁は二世(或いは前者の相愛するものは三世とも)、主従は三世の縁と言う。

「偕老のかたらひ」偕老同穴の「語らひ」(男女が契りを交わすこと)。夫婦が仲睦まじく添い遂げること。夫婦の契りが堅く仲睦まじい喩え。「夫婦がともに睦まじく年を重ねて、死後は同じ墓に葬られる」の意から。「偕」は「ともに」の、「穴」は「墓の穴」の意。出典は「偕老」の方は「詩経」の「邶風(はいふう)」にある「撃鼓」で、「同穴」は同じ「詩経」の「王風」にある「大車(たいしゃ)」の句に基づく。なお、生物としての海綿動物門六放海綿綱リッサキノサ目 Lyssacinosida カイロウドウケツ科カイロウドウケツ属カイロウドウケツ Euplectella aspergillum と、その網目構造内の胃腔の中に、雌雄で片利共生する十脚(エビ)目抱卵亜目オトヒメエビ下目ドウケツエビ科ドウケツエビ Spongicola venusta については、私の「生物學講話 丘淺次郎 第五章 食はれぬ法 (二)隠れること~(7) / ドウケツエビの注はちょいと面白いぜ!」を参照されたい。

「正(まさ)なきことをおこなひ」父上の許しを得ずに交わって、道理に外れたことを行い。

「むこの思ひをなし」私(妹娘)の婿としたつもりで。

「いにけり」「去にけり」。]

 

 それよりは、ひたすらに暮に來りて、朝(あした)にかへる。

 よひよひごとの關守をうらむるばかり、うちとけて、わりなく契りけり。

 三十日ばかりの後、ある夜、又、來りて、平次に語るやう、

「今までは、人、更にしらず。されども、ことは、もれやすければ、もし、あらはれて、うきめをやみん。君、我をつれて、垣をこえて、跡をくらまし給へ。心やすく、偕老を契らん。」

といふ。

 平次も、此うへは、わりなき情の捨難くして、うちつれて忍び出つゝ、三國(みくに)の湊に被官のものありける、それがもとに行て、

「かうかう。」

と名のり、

「賴む。」

よし、いひければ、かひがひしくうけいれて、一年ばかり、かくれ住〔すみ〕侍べり。

[やぶちゃん注:「よひよひごとの關守うらむるばかり」「毎夜毎夜の逢瀬を邪魔する者をいつもいつも恨むほどに、一夜として来ぬ日はなく、繁く」の意。「伊勢物語」第五段、

   *

 むかし、男ありけり。東(ひむがし)の五條わたりに、いと忍びて行きけり。みそかなる所なれば[やぶちゃん注:人に知られては困る秘かな通い場所であったので。]、門(かど)よりもえ入らで、童(わらは)べの踏みあけたる築地(つひぢ)のくづれより、通ひけり。人しげくもあらねど[やぶちゃん注:その家は人の出入りがたいして多くはなかったのだけれども。]、たび重なりければ、あるじ、聞きつけて、その通ひ路(ぢ)に、夜ごとに人をすゑてまもらせければ、行けども、え逢はで歸りけり。さて、よめる、

  人知れぬわが通ひ路の關守は

    宵々ごとにうちも寢ななむ

[やぶちゃん注:「うちも寢ななむ」は「眠ってしまってほしいものだ」の意。「うちも」は「うち」が強調の接頭語で、「も」も係助詞で強意。「なむ」は願望の助詞。]

と、よめりければ、いといたう、心やみけり[やぶちゃん注:主語は女。]。あるじ、許してけり。

 二條の后(きさき)にしのびて參りけるを、世の聞えありければ、兄人(せうと)たちのまもらせ給ひけるとぞ。

[やぶちゃん注:「許してけり」警護を緩くした。「二條の后」在原業平と悲恋で知られる藤原高子(たかいこ)。後の清和天皇の女御となった。]

   *

に引っ掛けたもの。

「ことは、もれやすければ、もし、あらはれて、うきめをやみん」「新日本古典文学大系」版脚注に、『秘密の漏れやすいことをいう諺の「言(こと)ノ洩レ易キハ禍(わざはひ)ヲ召』(まね)『ク之』(の)『媒(なかだち)也」に即した表現。原拠は臣軌・慎密章』とある。「臣軌」(しんき)は、中国唐代の典籍で六七五年に高宗の皇后武則天の命を受けた周思茂(しぼう)・元万頃(ばんけい)・范履冰(りひょう)・苗神客(びょうしんきゃく)・胡楚賓(そひん)により編纂された、儒家の伝統的な道徳概念を基礎として、臣下の心構えや忠君を説いたもの。二巻十編(国体・至忠・守道・公正・匡諌・誠信・慎密・廉潔・良将・利人)より構成されており、当時の官人及び科挙受験者たる挙人らの必読の典籍とされた。中国では早くに原本が失われたが、本邦では後世まで伝わり、江戸末期に林述斎により、編纂された「佚存叢書」などに収録されている(以上は当該ウィキに拠った)。

「垣をこえて」「新日本古典文学大系」版脚注には、『家の垣を踏み破って。「垣を越す」には道理や決まりを破るの意味もある』とあった。目から鱗の優れた注である。

「三國(みくに)の湊」福井県坂井市三国町。敦賀との位置関係が判るようにリンクさせた。

「被官のもの」「新日本古典文学大系」版脚注に、『本百姓に隷従する水呑百姓や商家の下男下女など』、『身分の低い者』を指すとし、『平次の家で侍の時分に召し使っていた下人か』とある。

「かひがひしく」「甲斐甲斐しく」。即座に、頼もしくも。]

 

 女、ある時、いふやう、

「父母のいましめのおそろしさに、君と、つれて、こゝには迯(にげ)來りけれ。すでに一年の月日を過〔すぐ〕したれば、二人の親、さこそ、みづからを思ひ給ふらめ。今は、いかにも、つみ、ゆるし給はん。いざや、古鄕にかへらん。」

といふ。

 平次、

「此上は。」

とて、つれて、敦賀にかへり、まづ、女をば、舟にをきて、我身ばかり、濱田が家にいたり、案内(あんない)して、對面(たいめん)をとげていふやう、

「さても、我、さしも、いたはりおぼしけるを、御ゆるされもなく、まさなきわざして、不義の名をかうふりし事、そのつみ、かろからずといへども、すでに年を重ねぬれば、今は、いかりもゆるくなり給はん。此故に、これまで、つれて、歸り侍べり。罪、ゆるし給はんや。」

といふ。

[やぶちゃん注:「いましめ」駆落ちに対する勘当などの懲戒。

「さこそみづからを思ひ給ふらめ」「みづから」は先の一人称自称。「さぞかし、私のことを思って心配なさっておられることでしょう」。

「此上は。」「そう言うのであれば、そうしよう。」。

「舟にをきて」浜田の家が敦賀湾に近いか、笙の川或いは井の口川の河口からそう遠くない位置にあったことが窺える。

「案内して」来意を告げて、取り次ぎを頼み。

「さしも、いたはりおぼしけるを」あれほどまでに、私めを労わって下さり、よきように計らって下さったにも拘わらず。

「御ゆるされもなく、まさなきわざして」お許しもないのに、およそ道理から外れた行いをなし。

「不義」不義密通。]

 

 濱田、聞て、

「それは、いかなる御事ぞ。更に、心得がたし。」

といふ。

 平次、ありのまゝにかたりて、眞紅の帶を取出して、みせたり。

 その時、濱田、大〔おほき〕におどろき、

「此帶は、そのかみ、姊に約束せし時に給はりし物也。姊、むなしくなりければ、棺におさめて、うづみ侍べり。又、妹は、やまひおもく、床にふしてあり。君とつれて、他國にゆくべき事、なし。」

とて、

「舟にとゞめをきたり。」

といふをきゝて、人をつかはしてみするに、舟には、ふなかたの外は、更に、人、なし。

[やぶちゃん注:「舟には、ふなかたの外は、更に、人、なし。」「ふなかた」は船頭。私は個人的にはこの部分は甚だ不満である。ここは平次自らが舟に赴いて彼女を連れてくるべきであった。それは私が最後の注で語る、本話の本当の原話に沿うものであり、その原々話の驚愕のシークエンスこそが、本話の幻想性を最も高らかに掲げるものとなったはずだからと考えるからである。さらに言えば、こうした結果、次の頭の『「是は。そもいかなる事ぞ。」とて、濱田夫婦は驚き、うたがふ』というシーンが、浜田夫婦が驚き、疑う理由が、『平次は気狂いになったのではないか?』という上手くない感じのシーン挿入になってしまうばかりだからでもある。

 

「是は。そもいかなる事ぞ。」

とて、濱田夫婦は驚き、うたがふ處に、妹の娘、そのまゝ、床より立あがりて、さまざま、口ばしりて、

「我、すでに平次に約束ありながら、世をはやうせしかば、をくり捨られて、塚の主〔あるじ〕となされしかども、平次に、ふかきすぐせの緣、あり。此故に、今、又、こゝに來れり。ねがはくは、我が妹をもつて、平次が妻となしてたべ。然らば、日比〔ひごろ〕の病(やまひ)も、いゆべし。これ、みづからが、心に望むところなり。もし、此事をかなへ給はずは、妹が命をも、おなじ道にひきとりて、我が黃泉(よみぢ)の友とせむ。」

といふ。

 家うちの人、みな、驚きあやしみて、其身をみれば、妹のむすめにして、その身のあつかひ・物いふ聲・こと葉は、皆、姊の娘に、少しも、たがはず。

 父の濱田、いふやう、

「汝は、巳に、死したり。如何でか、其跡までも、執心深くは思ふぞや。」

と。

 物(もの)の氣(け)、答へていふやう、

「自(みづか)ら先世(せんぜ)に深き緣ある故に、命こそ短かけれ共、閻魔大王に、いとまを給はり、此一年餘りの契りを、なし侍べり。今は、迷塗(よみぢ)に歸り侍べる。必ず、みづからがいふ事、たがへ給ふな。」

とて、平次が手をとり、淚をながし、暇乞(いとまごひ)して、又、手を合せ、父母を拜みつゝ、さて、いふやうは、

「かまへて、平次の妻となるとも、女の道、よく守り、父母に孝行せよや。今は是までぞ。」

とて、

「わなわな」

と、ふるひて、地に倒れて、死入(しに〔いり〕)たり。

 人々、驚き、容(かほ)に、水、そゝぎければ、妹、よみがへり、病は、忽ちに、いえたり。

 先の事共を問ひけるに、一つも、覺えたる事、なし。

 是によりて、つひに、妹娘を以て、平次と夫婦になしつゝ、さまざま、佛事をいとなみ、姊娘が跡をとぶらひ侍べり。

 これを聞(きく)人、

『きどくのためし。』

に思ひけり。

[やぶちゃん注:「妹」の肉体に姉の亡魂が憑依して口走っているわけだが、そうなると、妹が平次のところに夜這いをかけたのも妹ではなく、妹の化けた姉の化身であったということになる。しかも姉の亡霊は妹を一年余り病臥させていたことになり、妹の実存在のキャラクターが作品としては全く描けていないのである。或いは「この妹は、ある意味、ひどく可哀そうだとは言えないか?」という読者が必ずいた(いる)に違いないという感じを私は持つ。私自身が本話の初読時にその違和感を強く持ったからである。本話の最大の瑕疵はまさにそこにあるとさえ私は思うのである。そうして、後に示す原々話が卓抜であるのは、まさにそうしたものが完全に解消されているからでもあるのである。

「世をはやうせしかば」「世を早うせしかば」。早世(早逝)してしまったので。

「をくり捨られて」「をくり」はママ。野辺の送りも形ばかりに、捨てるように葬られて。夭折・早世した若者の葬儀は、古くは、一般には、半人前の存在、則ち、魂が正常でないものと考えられ、意想外に質素で簡略化された形で行われるのが普通であったと私は認識しており、この謂いは見かけ上は実は私には全く違和感はないのである。

「身のあつかひ」身振り。仕草。

「物(もの)の氣(け)」「物の怪」。則ち、ここまで了意は、姉の亡魂を〈執心に凝り固まった御霊(ごりょう)〉のように捉えて描出していることが判るのであり、ここまでの姉の霊が妹に憑依して喋りまくるシークエンスは、実は我々が思うよりも、もっと陰惨で、かなり気味の悪い怪奇場面として語っているのだということを認識しておく必要があるのである。それがやっと明るく透明な感じになるのは、「平次が手をとり、淚をながし、暇乞(いとまごひ)して、又、手を合せ、父母を拜みつゝ」、「かまへて」(副詞。意志・命令の表現を伴って「きっと・必ず・なんとしても」の意)「、平次の妻となるとも、女の道、よく守り、父母に孝行せよや。今は是までぞ」と言いおくシーンであるが、その後にも「わなわな」「と、ふるひて、地に倒れて、死入(しに〔いり〕)たり」(最後は気絶したという意)という怪奇シーンを添えているのからもよく判る。怪奇譚としては〈お約束〉であり、「別にいいじゃん」と言う方もあろうが、私は気に入らない。それほどに原々話が優れているからである。

「迷塗(よみぢ)」は「迷途」の誤字か当て字。「迷途」自体が「冥途」の誤字である。

「きどくのためし」「奇特の例」。「非常に珍しく不思議な出来事の一つ」の意。

 さて。本篇は確かにの明の瞿佑(くゆう)撰の志怪小説集「剪燈新話」の巻之一の「金鳳釵記」(きんぽうさいき)が種本ではあるのだが、一読、「金鳳釵記」自体が明らかに唐代伝奇の陳玄祐(げんゆう)撰の名作「離魂記」を焼き直したものに過ぎないことは明白である。しかも、了意なら「離魂記」を読んでいなかったとは思われないのである。「金鳳釵記」を私は高く評価しない。されば、「青空文庫」の田中貢太郎の邦訳版ででも読まれるが、よろしかろう。「離魂記」は少し古い私の電子化物で正字漢字に不全があるが、「無門關 三十五 倩女離魂」で原文・訓読・拙訳が載せてあるので、是非、本篇と対照して読まれたい。私の言ってきた意味が納得されるはずである。そこでは姉妹ではないし、亡霊でもない。女は二人の分身なのだ。それが、互いに寄り合って合体するのだ! 四十年も昔のことだが、初任校で半強制でやらさせられた漢文の補習で、「やるんなら、面白いやつをやってやる!」とこれを採用したのを懐かしく思い出す。考えてみると、あれっきり、不思議なことに、後に一度も授業では採り上げなかったな。私の中では遂に「奇特な例」だったわけだ。

2021/04/09

芥川龍之介書簡抄32 / 大正三(一九一四)年書簡より(十) 二通

 

大正三(一九一四)年十一月一日・田端発信・井川恭宛

 

拜啓今般左記へ轉居致候間御通知申上候 敬具

    北豐島郡瀧野川町字田端四百三十五番地

   大正三年十月

                芥川 道章

                芥川龍之介

   銀杏落葉櫻落葉や居を移す

 

[やぶちゃん注:住所と二名連記署名は下方にあるが、引き上げた。この大正三年十月末に新築中の田端(現在の北区田端)の家が竣工し、転居した。ここ(グーグル・マップ・データ。「芥川龍之介旧居跡」標識のあるストリートビュー画像)。新全集宮坂覺氏の年譜によれば、『この地は、道章の一中節仲間だった宮崎直次郎(自笑軒主人)の紹介によるもので、芥川にとっては終生の住居となった。当時の田端には、小杉放庵、香取秀真』(芥川家の隣り)、『石井柏亭らが住み、近くには美術クラブ「ポプラ倶楽部」があり、美術家村の観があった』とされ、附記されて、田端が『文士村になるのは、芥川文壇登場以後』とする。なお、同日発信のこの前(旧全集書簡番号一四三)の浅野三千三宛転居通知では、住所の上部に『田端停車場上白梅園向ふ橫町』と記している。]

 

 

大正三(一九一四)年十一月十四日・田端発信・原善一郞宛

 

原君 大へん長い間御無沙汰をしました

いろんな面倒な事や忙しい事があつたので時々頂くはがきの返事がのびのびになつてしまひました相不變御壯健の事と思ひますがのすたるじあも起りませんか此十月の末に僕は田端へ越しました小野のうちから七町[やぶちゃん注:約七百六十四メートル。]ばかり雛れた靜かな所です其内に先生も丁度小野のうちと僕のうちとの中間位な所へ越してお出になる筈です

學校へは相不變出てゐますが講義のつまらないのには閉口です此頃は文科の講義をそつちのけにして波多野さんの希臘哲學の講義を休まずきいてゐます大塚さんと波多野さんは僕の一番尊敬してゐる先生です

白樺ではブレークの展覽會をやるさうです日本ではブレークがはやつてゐるんです尤も詩の方も抒情詩人のブレークだけでミスチックとしてのブレークは本がないので誰もやらないやうです僕の友だちの一人も卒業論文をブレークにするつもりだつたのですがブレークの Complete Works を取寄せようとしたら絕版で一册85圓になつてゐるのでとうとうお流れになりました

戰爭が始まつてから獨乙の本が來ないので少しこまります現に學校で KANT の講義をするのに本がなくつてよわつてゐる位です本と云ふ點では戰爭と云ふ氣もしますが其外の點では僕などは全[やぶちゃん注:「まつたく」。]戰爭があるやうな氣がしませんそれに獨乙に可成同情がありますこの夏一の宮にゐた時分はアメリカと戰爭が始まると云ふやうな風說がありましたが今では完く太平な氣がします

戰爭の記事をよんでしみじみさう思ふのは英國の弱い事です今度の戰爭に勝つても英國はきつとバルカン問題でロシアに甘くみられるでせう少し可哀さうな氣もします尤もアメリカと英國文明の繼承者がある以上はもう亡びてもいゝんですが

戰爭があつたので日本へ來る筈のオイケンが來なくなりました年よりですから早く來ないと死にやしないかと思つて心配です何にしても戰爭はよくないものです

アメリカのセイゾンは面白ござんせう僕もどつかアメリカの大學の日本文學の敎授の助手か何かになつて行きたいと思ひます尤も之はさう思ふだけでそんな甘い口のないのはわかつてゐるんですが

アメリカの詩人で日本で今はやつてゐるのはホイットマンですホイットマンばりの散文のやうな詩が澤山出ます其癖日本の詩人は Leaves of the Grass も碌によめない位英語が出來ないんですが

もうそろそろ冬が來ます冬になると日本人はよけいきたならしくなります自分もそのきたならしい仲間だと思ふと少しがつかりしますどうも冬は西洋人にかぎるやうです毛皮の外套の襟にうづめるには黃色い顏ぢやあ幅がきゝません

いつぞや頂いた Poor の本は面白く拜讀しました(大分むづかしい本でしたけれども)けれどもあの著者のやうに立體派や未來派に贊成する事は僕には出來ませんそれは理論は認めますしかし藝術は認められません(ピカソなぞは全くわからない繪が澤山あります)畫かきでは矢張マチスがすきです僕のみた少數な繪で判斷して差支へないならほんとうに偉大な藝術家だと思ひます、僕の求めてゐるのはあゝ云ふ藝術です日をうけてどんどん空の方へのびてゆく草のやうな生活力の溢れてゐる藝術です其意味で藝術の爲の藝術には不贊成です此間まで僕のかいてゐた感傷的な文章や歌にはもう永久にさやうならです、同じ理由で大抵の作者の作には不質成至極です、鼻息が荒いなんてひやかしちやあいけませんほんとうにさう思つてゐるんです

此頃はロマン・ロオランのジヤン・クリストフと云ふ本を愛讀してゐます

咋日逗子の海岸からかへつて來ました其處ででたらめに作つた歌を御らんに入れます創作と主張とはうまく一致しないものなんですからまづくつても笑つちやいけません

   烏羽玉の烏かなしく金の日のしづくにぬれて潮あみにけり

   眠(ね)まくほしみ睫毛のひまにきらめける海と棕櫚とをまもりけるかも

   きらめくは海ぞも棕櫚の葉の下に目路のかぎりを鍍金するぞも

                   龍

 

[やぶちゃん注:「原善一郞」既出既注

「小野」小野八重三郎。既出既注

「先生」三中の恩師廣瀨雄(たけし)。既出既注。二〇〇三年翰林書房刊「芥川龍之介新辞典」の「広瀬 雄」の項(内藤淳一郎氏執筆)によれば(そこには広瀬は大正二年『末頃から田端に住む』とあるが、これはこの書簡から大正三年の誤りと思われる)、大正一〇(一九二一)年に、『同郷』(広瀬は金沢の旧加賀藩士の次男であった)『の室生犀星が広瀬の隣に越し』て来て、三者は『家族ぐるみで交際』が始まったとし、『田端文士村の人々の関係は指定隣人ではなく、その人々の生涯を左右するものであった。その中にあって文士でも芸術家でもない一教育者広瀬雄は、三中生の芥川・堀辰雄・平木二六・山崎喜作や、金沢や金沢の四高に係わる犀星・多田不二・中野重治・窪川鶴次郎・宮木喜久雄・吉田三郎・尾山篤二郎。高柳真三など数多い田端文士村の住人がつながりを持つ鍵となる人物である』とある。

「波多野さん」哲学史家・宗教哲学者波多野精一(明治一〇(一八七七)年~昭和二五(一九五〇)年)。当時は東京帝国大学文科大学講師であった。後に玉川大学第二代学長となった。西田幾多郎と並ぶ京都学派の立役者で、東京帝大での教え子には石原謙・安倍能成が、京都帝大では田中美知太郎らがいる。また、指導学生ではなかったが、波多野の京都帝大での受講者で彼から強い影響を受けたとされる人物に、かの三木清がいる。

「大塚さん」美学者で当時は既に東京帝国大学教授であった大塚保治(やすじ 明治元(一八六九)年~昭和六(一九三一)年)。夏目漱石や正岡子規との交友で知られる。芥川龍之介が大正一三(一九二四)年四月に『アルス新聞』に連載した「正岡子規」(リンク先は「青空文庫」の新字旧仮名版)を参照されたい。

「白樺」白樺派。岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)の注によれば、『『白樺』同人主催第七回美術展覧会は』、この翌大正四(一九一五)年に、『ブレークの複製版画六〇枚を展示した』とある。武者小路実篤の年譜を確認したところ、展示会は大正四年一月に東京で行われ、翌月には京都でも展示している。

「ブレーク」芥川龍之介が偏愛したイギリスの詩人で画家・銅版画家であったウィリアム・ブレイク(William Blake 一七五七年~一八二七年)。

「ミスチック」mystic。神秘的な。

「僕の友だちの一人も卒業論文をブレークにするつもりだつた」彼の友達で詩と絵画趣味があったという条件からは、成瀬正一ではないかと私は思う。

「85圓」総合的換算で大正初期の一円は現在の四千円ほどに当たるので、三十四万円相当となる。それも一冊が、である。仮にさすがの成瀬だったとしても(彼は十五銀行頭取成瀬正恭(せいきょう)の長男であった)、二の足を踏むどころではないだろう。

「バルカン問題」十九世紀後半から二十世紀初頭、トルコ支配下にあったバルカンの領土及び民族問題を巡って生じた国際的諸問題。一方にはセルビア・ギリシアに始まった非イスラム諸民族の独立運動があり、他方には南下政策と汎スラブ主義をとるロシア、東進政策を推進するオーストリア、東方植民地の経営と拡大を推進するイギリスとフランスなど、列強の帝国主義的利害が複雑に対立していた。後には三B政策(ドイツの行った近東政策。ベルリン(Berlin)・ビザンティウム(Byzantium:イスタンブールの旧名)・バグダッド(Baghdad)の頭文字をとったものであるが、反ドイツ陣営で用いられた語であるので注意)を始めたドイツも加わって、第一次世界大戦の要因となった(以上は平凡社「百科事典マイペディア」を主文とした)。

「戰爭があつたので日本へ來る筈のオイケンが來なくなりました」「芥川龍之介書簡抄29 / 大正三(一九一四)年書簡より(七) 井川恭宛」の私の注を参照。

「セイゾン」saison。セゾン。フランス語で「季節・時候・時期・シーズン」で、ここは「時機・時宜」の意で、日本で言うところの「芸術の秋」といった限定的な謂いである。

「僕もどつかアメリカの大學の日本文學の敎授の助手か何かになつて行きたい」これは、ある意味で芥川龍之介が小説家以外の人生の選択肢として本気で考えていた希望であったと思われる。後に龍之介は海軍機関学校教官を辞する当たって、慶応大学の英文科の教授職を選択肢の一つとしており、その実際運動も図られている。芥川龍之介が内外の教授になっていたとしたら?……「もしも」はやめておこう……

「ホイットマン」アメリカの詩人ウォルター・ホイットマン(Walter Whitman 一八一九年~一八九二年)。ロング・アイランドの大工の子に生まれ、多くの職業を転々とした。エマーソンの著作に刺激され、一八五五年に詩集「草の葉」(Leaves of Grass )を発表して反響を呼んだ。南北戦争が始まると、奴隷制に反対して傷病兵の看護に努め、一八六五年には予言的な戦争詩集「軍鼓の響き」(Drum-Taps )を纏めた。一八七一年に未来への確信に満ちた文学論「民主主義の将来」(Democratic Vistas )を出版した後は「自選日記」(Specimen Days :一八八二年)を書き、静かな晩年を過ごした。個人主義と民主主義、同性愛的同胞愛、肉体賛美と神秘主義といったテーマを大胆な自由詩形で謳いあげ、アメリカ詩の伝統の大きな潮流を作り上げた詩人である(以上は平凡社「百科事典マイペディア」を主文とした)。私は「草の葉」にのめり込んだ(哀しいかな、和訳本(長沼重隆氏訳)だったが)中学二年の時を思い出す。私が最初に愛した詩人は、日本人ではなく、ホイットマンだったのだ。

「Poor」未詳。筑摩全集類聚版脚注も『未詳』。石割氏は注せず。以下の龍之介の感想から現代美術評論らしい。

「藝術の爲の藝術には不贊成です」おや? まあ!

「ロマン・ロオランのジヤン・クリストフ」フランスの作家ロマン・ロラン(Romain Rolland 一八六六年~一九四四年)の全十巻からなる長編小説「ジャン・クリストフ」(Jean Christophe )。一九〇四年から一九一二年まで、実に八年の歳月をかけて文芸評論誌『半月手帖』(Cahiers de la quinzaine )に発表された。シノプシスは当該ウィキがよい。彼はこの作品によってノーベル文学賞を授与されている。私は青少年向けに縮訳された本(文学好きの同級生の女の子の松本さんから借りた。誰の訳だったかは判らない)を小学六年の時に読んで、心打たれた(特にそのコーダに)のを遠く思い出す……ロランにホイットマン……遠い遠い少年の僕の後ろ姿…………

「咋日逗子の海岸からかへつて來ました」新全集宮坂年譜に、この月の『中旬 逗子(成瀬正一の別荘か)に滞在する』とある。

「烏羽玉の」「うばたまの・ぬばたまの・むばたまの」。枕詞ではなく、原義のままに「黒い色をした」とカラスに続く。

「眠(ね)まくほし」「眠まく欲し」。眠りたい。

「み睫毛」「みまつげ」。「み」は美称の接頭辞。

「棕櫚」単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科シュロ属 Trachycarpus のワジュロ(和棕櫚)Trachycarpus fortunei か、トウジュロ(唐棕櫚)Trachycarpus wagnerianusウィキの「シュロ」によれば、ワジュロは『日本では九州地方南部に自生する。日本に産するヤシ科の植物の中ではもっとも耐寒性が強いため、東北地方まで栽培されている』とあるし、トウジュロの項には『中国大陸原産の帰化植物で』あるが、『江戸時代の大名庭園には既に植栽されていたようである』とある。

「鍍金」「めつき」。鍍金。]

芥川龍之介書簡抄31 / 大正三(一九一四)年書簡より(九) 井川恭宛(詩「ミラノの画工」及び短歌十四首収録)

 

大正三(一九一四)年九月二十八日(受印)・京都市吉田京都帝國大學寄宿舍内 井川恭樣 親展・府下豐多摩郡内藤新宿二ノ七一 芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:以下詩篇及び短歌本文は底本(岩波旧全集)では全体が三字下げであるが、総て引き上げた。]

 

井川君に

 

  ミラノの畫工

ミラノの画工アントニオは

今日もぼんやり頰杖をついて

夕方の鐘の音をきいてゐる

 

鐘の音は遠い僧院からも

近くの尼寺からも

雨のやうにふつて來る

 

するとその鐘の音のやうに

ぼんやりしてゐるアントニオの心に

おちてくるものがある

 

かなしみかもしれない

よろこびかもしれない

唯アントニオはそれを味はつてゐる

 

〝先生のレオナルドがゐなくなつてから

ミラノの畫工はみな迷つてゐる〟

かうアントニオは思ふ

 

〝葡萄酒をのむ外に

用のない人間が大ぜいゐる

それが皆 畫工だと云つてゐる

 

〝レオナルドのまねをして

解剖圖のやうな画を

得意になつてかく奴もゐる

 

〝モザイクの壁のやうな

色を行儀よくならべた画を

根氣よくかいてゐる奴もゐる

 

〝僧人のやうな生活をして

聖母と基督とを

同じやうにかいてゐる奴もゐる

 

〝けれども皆画工だ

少くも世間で画工だと云ふ

少くも自分で画工だと思つてゐる

 

〝自分にはそんな事は出來ない

自分は自分の画と信ずる物を

かくより外の事は何も出來ない

 

〝しかしそれをかく事が又中々出來ない

何度も木炭をとつてみる

何度も繪の具をといてみる

 

〝いつも出來上るのは醜い画にすぎない

けれども画は画だ

いつか美しい画がかける時がくる

 

〝かう思ふそばから

何時迄たつてもそんな時來ないと

誰かが云ふやうな氣がする

 

〝更になさけないのは

醜い画が画でない物に

外の人のかくやうな物になつてゐる事だ

 

〝己はもう画筆をすてやうか

どうせ己には何も出來ないのだ

かう思ふよりさびしい事はない

 

〝同じレオナルドの弟子だつた

ガブリエレはあの僧院の壁に

ダビデの像をかいたが

 

〝同じレオナルドの弟子の

サラリノはあの尼寺の壁に

マリアの顏をかいたが

 

〝己はいつ迄も木炭を削つてゐる

いつ迄も油繪具をとかしてゐる

しかし己はあせらない

 

〝己はダビデよりマリアより

すぐれた繪をかき得る人間だ

少くもあんな繪はかけぬ人間だ

 

〝たゞ繪の出來ぬうちに

己が死んでしまふかもしれぬ

己の心が凋んでしまふかもしれぬ

 

〝たゞ画をかく

之より外に己のする事はない

之ばかりを己はぢつと見つめてゐる

 

〝この企てが空しければ

己のすべての生活が空しいのだ

己の生きてゐる資格がなくなるのだ〟

 

アントニオはかう思ふ

かう思ふと淚がいつとなく

頰をつたはつて流れてくる

 

アントニオは今日もぼりやりと[やぶちゃん注:ママ。]

夕月の出た空をながめながら

鐘の音をきいてゐる

 

[やぶちゃん注:以下、追伸行までは書信。短歌群の前後は一行空けた。]

君にあつて話したいやうな氣がする

此頃は格別不愉快な事が多い

 

  追伸 出來るに從つてかく 唯今ひま

 

あざれたる本鄕通り白らませて秋の日そゝぐ午後三時はも

紅茶の色に露西亞の男の頰を思ふ露西亞の麻の畑を思ふ

秋風は南瞻(ぜん)部洲のかなたなる寂光土よりかふき出でにけむ

黃埃にけむる入り日はまどらかにいま南蠻寺の塔に入るなり

秋風は走り走りて鷄の風見まはすとえせ笑ひすも

ゼムの廣告秋の入日に顏しかむその顏みよとふける秋風

おちこちの家根うす白く光るあり秋や滅金をかけそめにけむ

ごみごみと湯島の町の屋根黑くつゞける上に返り咲く櫻

遠き木の梢の銀に曇りたる空は刺されてうち默すかも

あはたゞしく町をあゆむを常とする人の一人に我もあり秋

かにかくにこちたきツエラアの書(ふみ)をよむこちごちしさよ圖書舘の秋

日の光「秋」のふるひにふるはれて白くこまかくおち來十月

木乃伊つくると香料あまたおひてゆく男にふきぬ秋の夕風

秋風の快さよな佇みて卽身成佛するはよろしも

 

                   龍

 

[やぶちゃん注:詩篇の作品内の画工アントニオ(明らかに作家を志す芥川(アクタガハ)龍之介自身の分身であり、アナグラムである)の語る時制は、レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci 一四五二年~一五一九年)がミラノ公国で活動した(一四八二年から一四九九年まで。彼の円熟期で名作「岩窟の聖母」や、かのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の壁画「最後の晩餐」もこのミラノ公国滞在中に描かれた作品である。退去は第二次イタリア戦争が勃発し、イタリアにフランス軍が侵攻したためで、レオナルドが故郷フィレンツェに帰還したのは翌一五〇〇年のことであった。以上は当該ウィキに拠った)後の一四九九年以降のある日という設定である。なお、丁度、この年辺りに、芥川龍之介が英語から重訳したものと思われる、未定稿「レオナルド・ダ・ヴインチの手記 芥川龍之介譯 ――Leonardo da Vinci――(抄訳)があり(リンク先は私のサイト版)、この詩篇と内容がすこぶるリンクしている。是非、読まれたい。

「レオナルドの弟子だつた/ガブリエレはあの僧院の壁に/ダビデの像をかいたが」このような弟子は私は知らない。しかし、気になることがある。それは、古代イスラエルの第二代の王ダビデ(ラテン語表記:David 紀元前一〇四〇年:ベツレヘム~紀元前九六一年:イェルサレム/在位:紀元前一〇〇〇年~没年:この名は「愛された人」の意)は、ウィキの「ダビデ」によれば、しかも「バビロン捕囚」『以後、救世主(メシア)待望が強まると、イスラエルを救うメシアはダビデの子孫から出ると信じられるようにな』り、「新約聖書」では『イエス・キリストはしばしば「ダビデの子」と言及され』ているとあり、「新約聖書」の「マタイによる福音書」の冒頭第一章で、聖母マリアの夫ヨセフの家系の祖先をダビデとすることである。さらに言うと、「ガブリエレ」(イタリア語:Gabriele)という弟子の名は言わずもがな、「旧約聖書」の「ダニエル書」にその名が出る大天使由来であり、ウィキの「ガブリエル」によれば、西方キリスト教美術の主題の一つであるマリアの「受胎告知」などに於いて優美な青年として描かれるガブリエルは、聖書においてガブリエル(ラテン語:Gabriel)は「神のことばを伝える天使」であって、『ガブリエルという名前は「神の人」』『という意味』なのである。しかも、我々は大天使「ガブリエル」と「受胎告知」と聞けば、レオナルド・ダ・ヴィンチとアンドレア・デル・ヴェロッキオ(Andrea del Verrocchio 一四三五年頃~一四八八年)が一四七二年から一四七五年頃に描いた共作の「受胎告知」(イタリア語:Annunciazione)を直ちに想起するであろう。則ち、その字背を透視した時、次の以下の一連がこの連とただの字面や音声上の対句どころではなく、非常に深い意味で対句になっていることを見出すのである。

「同じレオナルドの弟子の/サラリノはあの尼寺の壁に/マリアの顏をかいたが」この「サラリノ」(イタリア語:Salaino)は別に「サライ」(Salaì:孰れもイタリア語で「小悪魔」の意)の通称名でも知られるレオナルドの弟子ジャン・ジャコモ・カプロッティ(Gian Giacomo Caprotti 一四八〇年~一五二四年)が思い浮かぶ。レオナルドの「洗礼者聖ヨハネ」(San Giovanni Battista:一五〇八年~一五一三年作)のモデルとされ、レオナルドが偏愛した少年であった。当該ウィキによれば、『レオナルドが所有していたワイン畑で働いていた人物で、十歳(一四九〇年頃)の時に『住み込みの徒弟としてレオナルドに入門した。マニエリスム期のイタリア人芸術家で美術史家としても知られるジョルジョ・ヴァザーリ(Giorgio Vasari  一五一一年~一五七四年)は、『その著書』「画家・彫刻家・建築家列伝」で『サライについて「優雅で美しい若者で、レオナルドは(サライの)巻き毛を非常に好んでいた」と記している』。『レオナルドがサライのことを「盗人、嘘吐き、強情、大食漢」と表現している通り、サライはレオナルドの金銭や貴重品を少なくとも五回は盗んだことがある。しかしながら』、『レオナルドはサライを』二十五年以上乃至三十年に亙って『自宅に住まわせて、絵画技法を教え込み続けた』。『特筆に値しないまでも画家としてのサライはそれなりに有能で』、レオナルドの「モナ・リザ」(La Gioconda :一五〇三年~一五一九年頃)の『ヌード・ヴァージョン(現存せず)を模写した』「モナ・ヴァナ」(Mona Vannna)を『始め、数点の絵画作品が現存している』。彼は一五一八年に『レオナルドのもとを去り』、『ミラノに戻』り、『父親が働いていたレオナルド所有のワイン畑で芸術活動を続けた』。『レオナルドが死去した』際には、その『ワイン畑の半分を』、『遺言によってサライが相続している』。『また、サライは遺産としてワイン畑だけではなく』、「モナ・リザ」など『複数の絵画作品も同時に相続したと考えられている』。『サライは』一五二三年に、四十三歳で結婚した』が、その『翌年』、『決闘で負った矢傷がもとで死去し』ている。彼はミラノ生れであり、ミラノで亡くなっている。彼が聖母マリアの顔を描いたかどうかは知らないが、あったと仮定して何の不思議もない。

「南瞻(ぜん)部洲」(通常は清音だが、サンスクリット語「ジャンブー・ドゥヴィーパ」の音写。閻連濁しても違和感はない)仏教の世界観に於いて現世の人間の住む広大な大陸の名。私が最近作成した「芥川龍之介 孤獨地獄  正字正仮名版+草稿+各オリジナル注附」(リンク先はサイト版。ブログ版ならこちら)の「南瞻部洲下過五百踰繕那乃有其獄」の後ろの方の注で詳しく述べてあるので見られたい。

「南蠻寺」これは筑摩全集類聚版脚注の言うように、東京都千代田区神田駿河台にある正教会の大聖堂「ニコライ堂」正式名称「東京復活大聖堂」)であろう(グーグル・マップ・データ)。

「ゼム」筑摩全集類聚版脚注に、『GEM 口中香料で仁丹のようなもの。その広告は菱形の中に女お顔が描いてある』とある。さまざまなフレーズで画像を検索したが、遂に見当たらなかった。なお、石割透氏は岩波文庫「芥川龍之介書簡集」で『ジャムの広告』とするが、採れない。

「おちこち」はママ。「遠近」のそれは歴史的仮名遣は「をちこち」。

「家根」誤字ではない。「屋根」はこうも書く。

「滅金」「めつき」で「鍍金」の本字。本邦で古代に於いて仏像に金メッキをするのに用いた金のアマルガムを滅金(めっきん)と和製漢語で呼んだことによる。

「こちたき」「言痛(こちた)き」で「こといたし」の音変化。ここは「ことごとしい・大袈裟だ・事大主義的な」の意。

「ツエラア」ドイツの新カント派の哲学者エドゥアルト・ゴットローブ・ツェラー(Eduard Gottlob Zeller 一八一四年~ 一九〇八年)チュービンゲン神学学校のプロテスタント神学者にしてソクラテス以前の古代ギリシャ哲学を専門とした。なお、彼は哲学に「超人」(übermensch:音写:ウーバァーメンシュ)という言葉を最初に使用した一人であった。

「こちごちしさ」「骨々しさ」。見た目上がごつごつしてぎこちないこと。無骨(ぶこつ)。無風流。

「おち來十月」「おちくじふぐわつ」であろう。

「木乃伊」「ミイラ」。]

2021/04/08

只野真葛 むかしばなし (27)

 

 忠山樣、御國にてよほどの御不例のこと有りしに、ぢゞ樣、

「上(あげ)て見たき、藥法、有(あり)。」

とて、願の上、御下被ㇾ成、藥、上られしに、しるし有て御快氣被ㇾ遊しより、倍の御加增にて、四百石になりし。是は運のむきしなり。

 それより御奉藥にて、年々、御上下(おじやうげ)の御供被ㇾ成しなり。御かくれ後は、御免有て、また、觀信院樣御下りの時分、奧の御奉藥に被仰付し。十年餘り御つとめ被ㇾ成しに、永井養庵といふ山師醫、同役にいでゝより、奧中を自由にかきまわし、ぢゞ樣を、むたいにいぢめしにより、つとめ、なりかね、隱居ねがひいだされしに、ことなくすみて、築地に御普請有て、御《おん》うつり被ㇾ成し。月に兩三度、御機嫌伺にあがらせられし。

 七十餘にて御かくれ被ㇾ成し。ワ、十三の時なりし。源四郞、二(ふたつ)にて有し。御引込ぎわは、おもはしからねど、御一代、仕合(しあはせ)よく、榮花なる御人にて有し。面(おも)やはらかに、笑み、はなさず、人柄よく、少しも、にく氣(げ)なき御人なりし。隱居後は庭の世話をたのしみ、手づから、掃除被ㇾ成て有し。

 御かくれの頃は六月十一日なりし。其頃迄は早咲の朝顏はなく、六月末、七月にかゝりて花のさくものなりしを、手づから、垣を、ゆわせられしに、花のさかぬ間に御過(おすぎ)被ㇾ成しを、七月、初立日(しよたちび)のあたり、御ばゞ樣の、花に付(つけ)て母樣のもとへ、御文、有し。哀なることにて有つらんを、そのほどは、何の心もなくて見もせざりし。

[やぶちゃん注:「忠山樣」既出既注。仙台藩第六代藩主伊達宗村(享保三(一七一八)年~宝暦六(一七五六)年)の諡号。

「御奉藥」「御奉藥方」。御側医師の内で薬の処方使用を許されている者。

「御上下」参勤交代の行き帰り。大名家が二年毎に江戸に参覲し、一年江戸に滞在して自分の領地へ引き上げる交代制度(寛永一二(一六三五)年に第三代徳川家光によって徳川将軍家に対する軍役奉仕を目的に制度化されたものであり、則ち、それは軍事演習の行軍なのであった)。しかも、参覲から下がった時点から二年毎であるため、結果として一年おきに江戸と国元を莫大な費用を用いて行き来せねばならなかったのである。

「觀信院」「信」は「觀」の誤字。宗村の次男で第七代藩主の伊達重村(寛保二(一七四二)年~寛政八(一七九六)年)の正室観心院(延享二(一七四五)年~文化二(一八〇五)年)。関白近衛内前(うちさき:後陽成天皇の男系六世子孫)の養女で公卿広幡長忠の娘。御存じの通り、大名の正室と世継は江戸に常住しなくてはならなかった。

「永井養庵」不詳。

「山師醫」卑称としての「偽医者」「藪医者」の意。

「没後の最初の月命日。初月忌(しょがっき)。]

芥川龍之介書簡抄30 / 大正三(一九一四)年書簡より(八) 藤岡蔵六宛(戯曲「路(對話)」収録)

 

[やぶちゃん注:これは恐らく多くの方が読んだことがない、芥川龍之介の初期作品の一つである。この書簡以外には掲載されず、活字化されることも極めて少ないからである。にしても、友人にポンと書き送っちゃうところが凄いわ、やっぱ、我鬼先生。]

 

大正三(一九一四)年八月三十一日(月推定)・新宿発信」藤岡藏六宛

 

路(對話)

  霧ふかき日暮 中央に靑銅の SPHINX あり

  人の身長程の PEDESTAL 霧に遮られて此外には何も見えず

  學生 二十一二歲 金鈕の制服 OVER-COAT 手に洋傘をもつ

     第一節

學生 うす暗くなつた所を見ると日がくれるにも間がないと見える何と云ふひどい霧だらう何處を見ても一面に灰色をしてゐる三十分ばかり前まではあの敎會の塔の下をあるいてゐたんだがもう今ではまるで路がわからなくなつてしまつた何の事はない灰汁の中を喘ぎながら泳いでゐる魚の樣なものだ(SPHINX を見る)おゝ こゝに何か立つてゐる(近づきて前に立つ)SPH1NX らしいな。まてまて何か PEDESTAL にかいてある(かゞみてよむ)ふん伊太利亞語だな E MANGIA E BEE E DORME E VESTE PANNI どういふつもりでこんな事を書いたのだらう惡い洒落だ(PEDESTAL に腰をかく)何しろつかれた此分では中々急にはうちへかへれさうもない第一今俺が何處にゐるのだかそれさへわからないのだからな(煙草に火をつけてすふ)一體俺は何處から來たのだつたかなえゝと朝十時に起きて飯をくつてそれから學校へ行つた學校では哲學史の講義を少しきいたと講議は SPINOZA で(微笑)NOTWENDIGE FREIHEIT ときたものだ NOTWENDIGE FREIHEIT がいゝ(微笑)それから晝飯をくつて本屋へ行つて KANT を二册もらつて(ポツケツトをさぐる)あの本はこゝにあるとそれから友だちと動物園へ行つて猩々と天狗猿とを見てかへりに珈琲をのんで四つ角にわかれたあの時から霧がふかくなつて五六町あるくうちにあの敎會の塔がぼんやり頭の上できえかゝつてゐたつけさうすると結局俺は今何處をあるいてゐる事になるんだらうB町の通りかなそれともK橋の大通かないやいやあすこいらにはこんな SPHINX なんぞなかつた筈だまてよ一體この市にこんな SPHINX なんぞがあつたかしらどうも俺は初めて見たやうな氣がするさうすると俺は道を間違ヘて一度も來た事のない所へ來てゐるのかもしれないそれぢあ愈うちへかへる事が覺束なさうだ

[やぶちゃん注:ト書きはベタで二行書き二字下げであるが、かく書き代えた。

「PEDESTAL」円柱台座を指すことが多いが、ここは台座でよいだろう。

「E MANGIA E BEE E DORME E VESTE PANNI」書簡末の芥川龍之介の注にを参考にすれば、「食って、飲んで、寝て、服を作って」か。

「講議」ママ。

「SPINOZA」オランダの哲学者バールーフ・デ・スピノザ(Baruch De Spinoza 一六三二年~一六七七年)。ラテン語名ベネディクトゥス・デ・スピノザ(Benedictus De Spinoza)でも知られる。デカルト・ライプニッツと並ぶ十七世紀の近世合理主義哲学者で、その哲学体系は代表的な汎神論と考えられてきた。また、カント(以下に出るイマヌエル・カント(Immanuel Kant 一七二四年~一八〇四年:プロイセン王国(ドイツ)の哲学者でケーニヒスベルク大学哲学教授。「純粋理性批判」・「実践理性批判」・「判断力批判」によって批判哲学を提唱し、認識論に於ける「コペルニクス的転回」を齎した)・フィヒテ・シェリング・ヘーゲルらのドイツ観念論及びマルクスを始めとした後の現代思想へ強い影響を与えた。にしても、一読、私はこれは「SPHINX」のアナグラム(anagram)ではないかと思ったことを言い添えておく。

「NOTWENDIGE FREIHEIT」ネットの機械翻訳で「必要な自由・必須の自由」か。

「五六町」約五百四十五~六百五十四メートル。]

     第二節

  牧師 長き黑色の上衣 黑きSOFT-HAT 少しく跛なり

牧師 かう霧がふかくてはまるで方角がわからんて(PEDESTAL に近づく)はれるまでこゝにまつてゐる事にしよう(學生をみる)やあ失禮あなたもここで霧のあがるのを待つて御出かな

學生 えゝまあくたびれたから休んでゐるんです

牧師 (腰を下ろす)何にしろひどい霧ぢや一寸さきも見えぬ位ぢやて

學生 一體こゝは何處になるんですか御存知ありますまいか

牧師 此處かな此處は君B町の通りだて

學生 B町の通りにはこんな SPHINX なんぞなかつた筈ですが

牧師 いやいや わしが覺えてから何時もこの像は立つてゐるがなよくわしなぞは若いうちにこの下で說敎をしたものぢやわしは牧師ぢやからな(學生を見る)

學生 私は一度もこんな SPHINX を見た事はありません何かあなたの御覺えちがひではありませんか失禮ですが

牧師 (不機嫌に)わしの記憶は確ぢやこゝはB町の通りで之をまつすぐにゆけば電車のある通りへ出られる筈ぢやいや此處がどこであつてもこれをまつすぐに行けば其處へ出なければならぬ筈ぢや

學生 そんなら矢張私の思ひちがひかもしれません(微笑)

牧師 失禮ぢやが多分さうであらう(空をあふぐ)まだ中々はれさうもないてもう彼是午(ひる)になるぢやらうが………

學生 午(ひる)? 冗談云つちやいけませんもう彼是四時すぎますぜ(笑)

牧師 四時すぎ?(學生を見る)君はどうかしてゐるやうぢやこれ見なさい(ポツケツトより時計を出す)この通り十一時四十七分ぢやて十一時………

學生 私は生憎時計をわすれて來たのですがそれにしてももう午飯はとうにくつたのですから今十二時前だなんと云ふ事はある訣がありません

牧師 (立上る)しかし君時計の針が十一時四十七分を示してゐるのぢや時計の針が(腹立たしげに)君は頭がくるつてるやうぢや今が日暮だなぞと途方もないことを云ふ 氣狂ひでなければわしを愚弄してゐるのぢや(去る)

學生 (見送りつゝ笑ふ)自分の方が餘程どうかしてゐるんだ

[やぶちゃん注:「跛」「びつこ」。

「わしが覺えてから」「儂が物心ついてから」の意であろう。

「御覺えちがひ」「見覺え違ひ」の誤記であろう。]

     第三節

  敎授 鼻眼鏡 杖 白き髯

敎授 (ゆきすぎんとす)

學生 (よびかく)先生ぢやありませんか

敎授 やあ(立ち止る)

學生 (立ちて帽をとりつゝ)ひどい霧です

敎授 さうさね君はそこで何をしてゐるのだい(微笑)

學生 路がわかりませんしつかれたししますから休んでゐるんですが

敎授 道がわからない? これは君K橋の大通りぢやないか

學生 しかしこゝにこんな SPHINX がありますから

敎授 あるさ昔からある SPHINX だから

學生 K橋の大通りにこんなものはなかつたと思ひますが

敎授 あるとも(杖で地に線をひきつゝ)第一わしは今O町から三百步ほどまつすぐにあるいて來たそれから左へ九十度にまがつて又七百步ほどあるいたいゝかねそれから博物館の角をまがつてこゝまで來たのだから SPHINX の有無にかゝはらず此處はK橋の大通りでなくてはならぬ事になる

學生 しかし………

敎授 まあ待ち給へそれでも不慥ならもう少しこゝにゐて見給へそのうちに霧がはれたら空がみえるにちがひない空がみえたらもう彼是日がくれるから金牛星座が見えるだらう君は金牛星座の見方を知つてゐるかね

學生 しりません

敎授 ぢやあわしが敎へておかう(杖にて地を査す)よいかねこれが………

學生 まあ待つて下さい一劈その金牛星座をしるとどうかなるんですか

敎授 方角がわかるさ從つてこゝがK橋の大通りだといふ事の澄明になる訣だ

學生 しかし先生霧がはれ九ば金牛星座なんぞをさがさずとも何處できいたつて路はわかります差當り困つてるのは霧がふかいからで霧がはれるのを待つ位なら心配はありません

敎授 (眉をひそむ)君は惡い性質を持つてゐる目前の事實に拘泥するさうして眞理の追求を疎かにする甚いかん兎に角ぢやあ勝手に考へるさ(去る)

學生 (見送りつゝ)のんきなものだな(微笑)

[やぶちゃん注:「金牛星座」牡牛座。黄道(こうどう:天球上に於いて太陽が見かけ上で通るように見える大円のルート(ecliptic)。黄道の上下に九度の幅をとって空に出来る帯上の区画を、獣を象った星座を多く通ることから、獣帯(じゅうたい:Zodiac)とも呼ぶ)十二星座の一つ。獣帯の黄経三十度から六十度までの領域で、牡牛座α星は全天二十一の一等星の一つである「アルデバラン」(Aldebaran)。因みにこの星座には「プレアデス星団」(Pleiades:和名「昴(すばる)」)を始めとして有名な天体が多いことでも知られる。]

     第四節

  女 羽襟卷(ボア) 鳩羽鼠の上衣 脊高し

女 (學生をみてよびかく)失禮で御坐いますが あの S町の方へまゐりますにはどちらへまゐりましたらよろしう御座いませう

學生 (ふりむく)さあ私も自分のゆく方角がわからないんですからとてもあなたの御役にはたちますまいよ(微笑)

女 (微笑)まあ困りましたのねえ

學生 大に困つてるんです(元氣よく)この通りどちらをむいても霧の壁がたつてゐるんですからね

女 ぢやあなたはどうなさらうと仰有るの

學生 まあこゝにすわつてゐるんですね路がわかるまで

女 だつて何時までこゝにゐたつてわかりやうはないではありませんか

學生 しかしわからなければと云つて無暗にあるくわけには行きませんよ

女 あるくうちにはわかるかもしれませんわ

學生 〝かも〟でせう

女 えゝだつてそんな穿鑿は何にもなりませんわ此處がどこだか考へてるひまに一足でもあるいた方がいゝと思ひますわ

學生 あなたは中々理窟やですね

女 (微笑)第一そんな事を考へてゐる中には日がくれてしまひますもの日がくれないうちに一足でもおあるきなさいましさうなさらないと今にきつと後悔なさいますわ

學生 しかしわからずにあるくのは危險ですよ

女 臆病ですわねあなたは(間)ぢやああたしと一緖にいらつしやい二人で路をさがせばきつとわかりますわ

學生 盲目(めくら)が盲目の手をひいてあるくのは猶危險でさあ

女 そんなら御勝手になさいまし私は私でまゐります(去る)

學生 (見送りつゝ)ふん(肩をそびやかす)

     第五節

  MASK をかぶつた人 DOMINO

M 霧がふかいんで困つてゐるのだね(學生のそばへ腰を下ろす)

學生 誰だい君は(不思議さうに見る)

M 君の友達だよ僕がこんななりをしてるもんだから君にわからないのだらうこれから僕は假裝舞踏會(フアンシーボール)へゆくのだ

學生 どこにそんなものがあるのだい

M どこでもいゝよ

學生 どうも僕には思ひうかばないが君は一體誰だいPかねLかね

M 僕かね(笑)僕は君と始終一緖にゐるぢやあないか

學生 それがどうもわからないのだが

M ぢやあわからないにして置くさ人によつて僕にいろんな名前をつけるからね

學生 僕は路がわからなくつてよわつてゐるんだが君はしらないかね

M それはしりやうはないさしかし僕と一緖にこれから步いたらわかるだらう

學生 君は今の女のやうな事を云ふね

M 今の女と云ふのはしらないがわかる事は確にわかるよ其女と云ふのは何だい

學生 今通りがゝりの女が僕にさう云つたのさ考へてるひまに一足でもあるけつて

M うんあの女か あれは僕もしつてゐるよしかし奴のは僕のと全ちがつてゐるよ

學生 何故

M 奴はあるくのを目的にしてゐるんだからねあるくのが面白いあるいてるうちに路もわかるかもしれないさうなるとどつちもいゝと云ふのさ僕のはさうぢやない路がわかる爲にあるくのだよ

學生 それは贊成だね

M 君は僕に贊成しなくてはならない筈なのだからね

學生 何故

M まあそれはそれさとにかくわからせる爲に路を正しく一つ一つあるくのが必要だらう君のうちへかへると云ふ事がなくつちやあ路がわかる事が何の意味もないし路をわからせる事がなくつちやああるく事が何の意味もない事になるさうきまつたら一緖にあるかうぢやないか

學生 うんあるかう

M (PEDESTAL の銘をよむ) E MANGIA E BEE E DORME E VESTE PANNI かこの SPHINX より外に何もしらなくなつては大變だからね兎に角路をしる事が必要だよそれから早くうちへかへるがいゝこの近所にうろついてるやうぢやあ生きがひがないからねぢやあ出かけよう(二人去る)

  SPHINX 霧 夜 幕

上記の E MANGIA E BEE E DORME E VESTE PANNI かは「のみくひして眠り衣つくるのみ」の意

    卅一日夜       芥 川 生

   藏 六 兄 案下

[やぶちゃん注:「DOMINO」ここは仮面舞踏会用の着用着である「ドミノ」のこと。フード付きの衣装で、顔の上半部が隠れており、目の部分だけが開いたマスクが附いているもの、或いは、そのマスクだけを指す(ここは最後)。ラテン語由来の英語。「DOMINUS」(MASTER OF THE HOUSE:家(domus)・主人)が語源とされる。

「M」即座に想起されるのは、ドイツのファウスト伝説や、それに材を取った文学作品(ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの長編悲劇「ファウスト」(Faust :第一部は一八〇八年、第二部はゲーテの死の翌年一八三三年に発表)が最も知られる)に登場する悪魔「メフィストフェレス」(Mephistopheles:略称でメフィスト(Mephisto))の頭文字である。芥川龍之介は、好んでこうした悪魔らしき者との問答形式の作品を書いている。一番知られるものは遺稿の「闇中問答」(昭和二(一九二七)年九月発行の『文藝春秋』九月号(芥川龍之介追悼号)に発表された)であろう。

「假裝舞踏會(フアンシーボール)」fancy-dress ball。 ‘fancy-dress’は「気まぐれで自由な空想的な衣装」で、‘ball’ は「盛大な舞踏会」(古フランス語の「踊る」が語源)。]

大和本草附錄巻之二 魚類 クチミ鯛 (フエフキダイ)

 

クチミ鯛 本編不載形狀大抵不異于鯛只口尖リ

テ小ナリ目高クツキ色淡褐紅色味亦頗似鯛而

○やぶちゃんの書き下し文

くちみ鯛 本編に載せず。形狀、大抵、鯛に異ならず。只、口(くち)、尖りて、小なり。目、高くつき、色、淡褐紅色。味、亦、頗る鯛に似て、而〔れども〕劣れり。

[やぶちゃん注:「クチミダイ」という異名は現在、以下の二種に与えられている。

スズキ目スズキ亜目フエフキダイ科フエフキダイ属フエフキダイ Lethrinus haematopterus

フエフキダイ属ハマフエフキ Lethrinus nebulosus

しかし、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のフエフキダイのページの画像と、同サイトのハマフエフキのページの画像とを比べ(この比較だけでも明らかにマダイ類に似ているのはフエフキダイである)、さらに両種の学名の画像検索をそれぞれ掛けてみると、ハマフエフキの方は、体色が黄緑色に偏位して金属光沢を持つ個体が圧倒的に多いのに対し、フエフキダイの方は個体差があるものの、まさに「淡褐紅色」に相応しいことが判った。されば、フエフキダイに同定する。前者「フエフキダイ」のリンク先には、『あまりまとまって取れることはない』。『西日本の暖かい海域にいるもので、定置網などでとれ、産地などでは食用白身魚として普通に利用している。希に関東などにも入荷してくるが』、『認知度が低くて安い』。『西日本では少ないながら流通。あまり高くない』とあり、益軒の根拠地福岡と親和性があることが判る。「産地」の項には『長崎県、熊本県、鹿児島県』とある。「味わい」の項に、『旬は夏だと思われる』が、『個体によっては磯臭い』とされ、『透明感のある白身で、透明感は比較的長く続く。ほどよく繊維質で身離れがいい』が、『皮や内臓、身から強くはないが』、『磯臭さを感じる』とあるのも、益軒の評価を裏付けると言える。「くちみだい」という異名は「口美鯛」か。キュートな尖った口には「チュ♡」をしたくはなりそうだ。]

大和本草附錄巻之二 魚類 ヲコゼ (オニオコゼ)

 

ヲコゼ 長八九寸アリワカキハ色黑シ老タルハ紅シ口

廣クシテ。メバルノ形ノ如シ又背ハ杜父魚ニ似タリ目ハ

高ク出ツ背高シ背筋ニヒレアリ其ヒレニハリ十六ア

リ皆人ヲサス人ヲサセバ毒アリテクサル他所ニハハリ

ナシ尾ハ杜父魚ニ似タリ海魚ナリ所々ニ小イホアリ

腹ハ土スリノ如クニシテヒロシ

○やぶちゃんの書き下し文

をこぜ 長さ、八、九寸あり。わかきは、色、黑し。老いたるは紅(あか)し、口、廣くして、「めばる」の形のごとし。又、背は杜父魚(かじか)に似たり。目は、高く出づ。背、高し。背筋(せ〔すぢ〕)に、ひれ、あり、其のひれに、はり、十六あり、皆、人を、さす。人をさせば、毒ありて、くさる。他所〔(たしよ)〕には、はり、なし。尾は杜父魚に似たり。海魚なり。所々に小〔(ちさき)〕「いぼ」あり。腹は「土すり」のごとくにして、ひろし。

[やぶちゃん注:当初は新鰭亜綱棘鰭上目カサゴ目カサゴ亜目ハオコゼ科ハオコゼ属ハオコゼ Paracentropogon rubripinnis を考えたが、サイズが大き過ぎる(「八、九寸」は二十四~二十七センチメートルで、ハオコゼは大きくても十センチメートル前後にしかならない。但し、毒は強烈)ので、これは面の醜いことが書かれていないのが気になるが、最大長が三十センチメートルに達する個体もある(実際に私はそのサイズの巨大個体を唐揚げで食べたことがある。私はオニオコゼが大好物である)、

カサゴ亜目フサカサゴ科 (又はオニオコゼ科)オニオコゼ亜科オニオコゼ属オニオコゼ Inimicus japonicus

に同定する。益軒は既に「大和本草卷之十三 魚之下 をこぜ (オニオコゼ)」を出しており、その記載はオニオコゼ以外には考えられないのだが(そこでも益軒は顔が不細工とは言っていないのだが)、本「附錄」は以前から感じているのだが、本巻を書くために認(したた)めた原資料集からの抜粋附録(益軒がやや疑問を持った資料の抄出添付)のように思われ、されば、重複があってもおかしくないと考えている。WEB魚図鑑」の「オニオコゼ」によれば、『背鰭棘は16-18棘からなり、その鰭膜は棘の半分くらいまでの深さである。胸鰭の軟条のうち、下部の2本は長く、遊離している。体色は黒っぽいもの、灰色っぽいものから鮮やかな黄色、橙色まで様々なものがいる。体長20cmほどに達する』(と小振りに記す)。『青森県~九州までの日本各地沿岸、小笠原諸島』及び『朝鮮半島沿岸、渤海、中国沿岸、台湾』に棲息し、『沿岸の浅い砂泥底に生息する普通種』であり、『温帯性で』、普通に『浅所でみられる。海水浴が行われるようなごく浅い場所』でも見出せるとある。『主に小魚や甲殻類、イカ類などの動物を捕食している』。『見た目はよくないが、肉は白身で美味、現在は高級魚として知られるようになった。また、本種は養殖も盛んに行われている』。『本種の背鰭には大きく長い棘があり、それらには強い毒をもつので、取り扱う際には十分注意する必要がある』とある。なお、背鰭の軟条の形態や鰭膜の切れ込みの形状が異なる、近縁種に、

ヒメオニオコゼ Inimicus didactylus(オニオコゼに比して鰭膜が深く切れ込み、吻がやや長い。分布域も琉球列島以南)

及び、

セトオニオコゼ Inimicus joubini(胸鰭の下から第三と第四軟条間の鰓膜が深く切れ込み、背鰭起部付近で体が著しく盛り上がり、目の前がくぼんでおらず、丸く盛り上がっているといった記載をネット上にはあるものの、採取個体(瀬戸内海)が二体程度しか確認されておらず、オニオコゼと同一種とする見解を示す人もいるようである)

がある。因みに、オニオコゼの刺毒の成分は単離されていないようであるが、猛毒のレベルで、重症になると、刺された部分の壊死の他に嘔吐・下痢・腹痛・神経麻痺・関節痛の全身症状が発症し、呼吸困難・心臓衰弱によって死に至ることもあるとされる。

「杜父魚(かじか)」カサゴ目カサゴ亜目カジカ科カジカ属カジカ Cottus pollux に代表されるカジカ類。種によっては似ていると言えなくもない。「大和本草卷之十三 魚之下 杜父魚 (カジカ類)」を参照。本属は日本固有種で、北海道南部以南の日本各地の主に淡水に棲む(カジカ Cottus pollux は一生を淡水で過ごす)が、両側回遊する種もある。但し、陸封型もあり、さればこそ益軒はこの後に「海魚なり」と言っているものと思われる。

「いぼ」「疣」。

「土すり」「腴(つちすり・つちずり)水底の土を磨(す)る意から、一般に魚の腹の太った部分、「砂摺(すなずり)」を指すが、ここはその部分が有意に広いことを言っている。]

伽婢子卷之二 十津川の仙境

 

伽婢子卷之二

 

   ○十津川(とつがは)の仙境(せんきやう)

 和泉の堺に藥種をあきなふ者あり。その名を長次〔ちやうじ〕といふ。久しく瘡毒(さうどく)をうれへて、紀州十津川に湯治しけり。病に相當せしにや、十四、五日の間に平復し侍べり。

 長次、或日、思うやう、

『年比、聞傅へし、「十津川の溫泉(いでゆ)の奧には、人參(にんじん)・黃精(わうせい)といふもの、生(おひ)出〔いで〕て、尋ねあたれば、多く有り」といふ。此〔この〕なぐさみに、近き所を搜し見ばや。』

と思ひ、僕をば、宿にとゝめ、唯一人、山深く入〔いり〕しかば、道に、ふみ迷へり。

[やぶちゃん注:「十津川」現在の奈良県の最南端に位置する吉野郡十津川村(グーグル・マップ・データ航空写真)。現在の正式な読みは「とつかわ」である。面積は奈良県で一番大きく、紀伊半島の内陸にある山村で、南東端のごく一部で三重県と、南西で和歌山県と県境を接する。本文で「紀州十津川」と出ることを「新日本古典文学大系」版脚注は殊更に採り上げて、『「和州」が適するか』とするが、確かに大和国の圏内とは言え、南東端には知られた有意に広大な和歌山県飛地(私は地理が大好きで、小学三年の頃、これを地図上に見出して驚いたのを忘れない)と接していることからも判る通り、当時の実生活の経済上の関係を考えても、十津川の水運がその生命線の重要な導線であったのであり、私はここで「紀州」と言っていることには違和感を全く覚えない。

「瘡毒」「新日本古典文学大系」版脚注は単に『かさ。腫れもの』とするが、通常、江戸期にかく言った場合は、ほぼ梅毒(実際には正確に分類されていたわけではないその他の性感染症群をも多量に含む)を指していると考えてよい。無論、湯治ごときで治るものではないが、梅毒の発症機序や進行様態は時間的に数十年に及ぶ場合も珍しくなく、初期症状の発生後に疑似的な緩解期が何度も起るから、何ら不思議ではない。そもそもが、この主人公は薬種屋であるから、相応な治療薬も自ら服用していたものとも思われる。

「十津川の溫泉」この場合は、十津川の温泉で最も古い歴史がある現在の湯泉地温泉(とうせんじおんせん)に限定されるので注意(他の「十津川温泉」と「上湯(かみゆ)温泉」は源泉の発見が本書刊行よりも後であるからである)当該ウィキによれば、単純硫黄泉で、 源泉温度六十度。湯は無色透明。『十津川の湯が文献に現れるのは』、天文二二(一五五二)年の本願寺第八世蓮如の『末子の実従の湯治』が「私心記」に載るのが最初とされ、その後も天正九(一五八一)年に佐久間信盛(?~天正一〇(一五八二)年:元織田家家老。初め、織田信秀に仕え、後に信長に従って「近江佐々木氏討伐」・「比叡山焼打」・「三方ヶ原の戦い」・「朝倉攻め」や一向一揆の鎮圧及び松永氏の討伐などに功があったが、天正八(一五八〇)年に信長に追放され、高野山に入って落飾した。湯治の記載は「多聞院日記」に拠る)が、天正一四(一五八六)年には顕如上人(「宇野主水記」)が、文禄四(一五九五)年に大和中納言秀保(大名。豊臣秀吉の姉の子で後に豊臣秀長の婿養子となり、彼を嗣いで大和国国主となった人物。湯治は「多聞院日記」に拠る)が『訪れている。信盛、秀保はどちらも療養のため』に『訪れたこの地で亡くなったため』、『十津川の湯が文献に残された』とある。『十津川には泉脈も多く』、『湧出地は変わるため』、『前述の十津川の湯が』現在の湯泉地温泉と『同じ場所とはいいきれないが』、宝徳二(一四五〇)年に『温泉が湧出した』(「東泉寺縁起)『という湯泉地付近と推定され』ており、『当地には佐久間信盛の墓も残る』(ここ)とある。『かつてこの地には薬師如来を本尊とする東泉寺という寺があった。今も残る』「東泉寺縁起」に『よると、役行者が十津川の流れを分け入ったところにある霊窟で加持祈祷を行ったところ』、『湯薬が湧出し、弘法大師が大峯修行の際に湯谷の深谷に先蹤をたずね』、『薬師如来を造顕した』とされ、宝徳二(一四五〇)年に地震が発生し、『湯脈が変わり』、『武蔵の里』(現在の十津川村武蔵はまさに佐久間信盛の墓のある場所である)『に湧出し、いつしか』、『十津川沿いの現地に移ったとされている』。『なお』、『湯泉地温泉の名は東泉寺に由来する』とある。

「人參」「朝鮮人參」。セリ目ウコギ科トチバニンジン属オタネニンジン Panax ginseng

「黃精」漢方生剤「オウセイ」。単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科アマドコロ(甘野老・萎蕤)連アマドコロ属アマドコロ Polygonatum odoratum或いは同属ナルコユリ(鳴子百合)Polygonatum falcatum の根茎を用いる。降圧・強心・抗血糖作用などがあるとされるが、生で用いると、咽を刺激するため、蒸した「熟黄精」を使用する。漢方では他に補気・潤肺・強壮・胃腸虚弱・慢性肺疾患・糖尿病・病後の食欲不振・咳嗽・栄養障害などに用いられ、砂糖とともに焼酎に漬けた黄精酒は古くから愛飲されている。]

 

Totugawa

 

 一つの谷に、くだりて見れば、美くしき籠(こ)[やぶちゃん注:人の作った籠(かご)。]の流れ出〔いで〕ければ、

『此水上に、人里あり。』

と思ひ、水にしたがうて、のぼるに、日は、すでに暮かゝり、鳥の音〔こゑ〕、かすかに、ねぐらを爭ふ。

 かくて、十町ばかり[やぶちゃん注:凡そ一キロメートル。]行(ゆく)かと覺えし。

 岩をきりぬきたる門に致り、内に入〔いり〕て見れば、茅葺(かやぶき)の家、五、六十ばかり、軒を並べて立〔たち〕たり。

 家々のありさま、石(の)垣、苔、生(おひ)て、壁、みどりをなし、竹の折戶(おりど[やぶちゃん注:ママ。])、物淋しく、蔦かづら、冠木(かぶき)をかざる。

 犬、ほえて、砌(みぎり)をめぐり、鷄、鳴(なき)て、屋(いへ)にのぼる。桑の枝、茂り、麻の葉、おほひ、誠に住ならしたる村里也。樵(こり)つみける椎柴(しゐしば)、舂(うす)つきてほす粟(あは)・粳(うるしね)、さすがに、わびしからずぞ、見えたる。

 人の形勢(ありさま)、古風ありて、素袍(すはう)・袴に、鳥帽子、着〔き〕て、行還(ゆきゝ)しづかに、威儀、みだりならず。

[やぶちゃん注:「冠木」左右の門柱を横木(冠木)によって支えた門。古くは下層階級の家に用いられた造りであったが、後に諸大名の外門などにも盛んに用いられた。

「砌(みぎり)」ここは「庭」の意。以下、明らかに陶淵明の「桃花源記」の「有良田美池桑竹之屬。阡陌交通、鷄犬相聞。」(良田・美池・桑竹(さうちく)の屬(ぞく)有り。阡陌(せんぱく)交はり通じ、鶏(けい)・犬(けん)相ひ聞ゆ。)を確信犯で意識させる。

「樵つみける椎柴」木を樵(こ)りて積み上げられた椎や柴の薪(たきぎ)。

「粳(うるしね)」通常の主食とする粳米 (うるちまい) がとれる稲。

「素袍」直垂 (ひたたれ) の一種。裏をつけない布製で、菊綴 (きくとじ) や胸紐に革を用いる。略儀の装束で、室町時代には庶民も日常用として着用した。江戸時代には形式化し、ここに出る通り、長袴 (ながばかま) を穿くのが普通となり、大名の礼服である大紋(だいもん)と同じように定紋(じょうもん)を附け、侍烏帽子 (さむらいえぼし) に熨斗目 (のしめ) 小袖を併用し、平士 (ひらざむらい) や陪臣の礼服とされた。]

 

 長次が、立やすらひたる姿を見て、大〔おほき〕に怪(あやし)み、驚きて、問ひけるやう、

「如何なる人なれば、此里には、さまよひ來〔きた〕れる。世の、常にして知るべき所にあらず。」

といふ。

 長次、ありのまゝに語る。

 こゝに、ひとりの老人、衣冠正しきが、蓬(えもぎ)の沓(くつ)をはき、藜(あかざ)の杖をつきて、みづから、

「三位中尉。」

と名のり、長次に向ひて日(いはく)、

「こゝは、山深く、岩ほ、そばだち、熊・狼、むらがり走り、狐・木玉(こだま)のあそぶ所にして、日は暮たり、此まゝ打捨なば、是ぞ、水に溺れたるを見ながら、拔(すく)はざるに、おなじかるべし。こなたへおはせよ。宿、かし侍らん。」

とて、家に連れて歸りぬ。

 内〔うち〕のてい、きたなからず、召使はるゝ男女〔なんによ〕、更に、みだりならず。

 既に一間の所に呼びすゑ、ともし火をかゝげ、座、定りてのちに、長次、問けるやう、

「此〔この〕所は、ありとも知らぬ村里也。如何に住そめ給ひしやらん。」

といふ。

 あるじ、眉をひそめて、

「是は浮世の難を逃れし人の、隱れて住〔すむ〕ところなり。若〔もし〕、しひて[やぶちゃん注:ママ。「强(しい)て」。]そのかみの事を語らば、徒らに愁(うれへ)を催すなかだちならん。」

といふ。

 長次、あながちに、其(その)住初(すみそめ)し故をとふに、あるじ、語りけるは、

「我は、平家沒落して西海の浪に沈みける比より、此所に住初たり。

 我は是、小松の内府(だいふ)重盛公の嫡子三位中尉維盛と云ひし者也。祖父(おほぢ)大相國淸盛入道は、惡行重疊(ぢうてう)して、人望にそむき、父内府は、世を早うし給ひ、伯父宗盛公、世を取〔とり〕て、非道不義なる事、法に過ぎたり。

 一門のともがら、多くは皆、奢りを極め、榮花にほこり、家運、たちまちに傾き、東國には兵衞の佐(すけ)賴朝、譜代の家人〔けにん〕を催して、義兵をあげ、北國には木曾の冠者義仲、一族郞等〔らうどう〕をすゝめて、謀反(むほん)す。

 其外、諸國の源氏、蜂の如くに起り、蟻の如くに集(あつま)りけるを、玆(こゝ)に、はせむかひ、かしこに、責寄(〔せめ〕よ)するに、更に軍(いくさ)の利なく、味方の軍兵〔ぐんぴやう〕、たびたびに打れて、終に、木曾がために都を追落(をひをと)され、攝津國一の谷に籠り、暫く心も安かりしに、九郞義經が爲に、こゝをも破られ、一門の中に、通盛(みちもり)・敦盛以下、多く亡び給ひ、まの當り、魂(たましゐ[やぶちゃん注:ママ。])を消し、胸をひやし、うきめを見聞(みきく)かなしさ、生〔しやう〕をかゆるとも、忘るべき事かや。

 とかくする程に、讃岐國八嶋の州崎に城郭を構へ、一門の人々、楯籠(たてこも)りしかば、故鄕は雲井の餘所(よそ)に隔り、思ひは妻子の名殘〔なごり〕に止(とゞ)まり、身は八嶋に在りながら、心は都に通ひければ、萬(よろづ)につけて、あぢきなく、『行末とても賴みなし』と、うかれ果たる心より思ひ立〔たち〕て、譜代の侍〔さぶらひ〕與三兵衞重景(〔よさうびやうゑ〕しげかげ)、石童丸(いしどう〔まる〕)といふわらは、武里(たけさと)といふ舍人(とねり)は、舟に心得たる者なれば、此三人を召具〔めしぐ〕して、忍びて、八嶋の内裏を出〔いで〕て、阿波の由木(ゆうき)の浦につきて、

 をりをりはしらぬうらぢのもしほ草

   かきおく跡をかたみともみよ

 重景、返しとおぼしくて、

  我おもひ空ふく風にたぐふらし

   かたぶく月にうつる夕ぐれ

石童丸、淚をおさへて、

 玉ぼこの道ゆきかねてのる舟に

   心はいとゞあこがれにけり

 それより、紀伊國、和歌・吹上の浦をうち過〔すぎ〕て、由良(ゆら)の湊より、舟をおりて、戀しき都をながめやり、高野山にまうでて、瀧口時賴入道にあうて、案内せさせ、院々、谷々、をがみめぐり、

「これより、熊野に參詣すべし。」

とて、三藤(とう)のわたり、藤代(ふぢしろ)より、「和歌の浦」、「吹上の濱」、「古木〔ふるき〕の杜」、「蕪坂(かぶらざか)」・「千里(ちさと)の濱」のあたり近く、岩代(いはしろ)の王子〔わうじ〕をうちこえ、岩田川にて垢離(こり)をとりて、

 岩田川ちかひの舟にさほさして

   しづむ我身もうかびぬるかな

 それより、本宮(ほんぐう)にまうでつゝ、新宮・那智、のこりなくめぐりて、「濱の宮」より、舟に乘り、磯の松の木をけづりて、

 

  權亮(ごんのすけ)三位中尉平惟盛

  戰場を出(いで)て那智の浦に入水す

  元曆元年三月廿八日 惟盛 廿七歲

  重景 同年  石童丸 十八歲

 生れてはつひに死(しぬ)てふことのみぞ

   定なき世にさだめありける

 

と書〔かき〕て、世には「入水〔じゆすい〕」と知らせけれども、今、この山中に隱れしかば、肥後守貞能(さだよし)、跡をもとめて尋ね來れり。

「平氏の一門、沒落して、皆、ことゞく、壇の浦にて、水中に入給ふ。都に隱れし平氏の一類も、根を斷ち、葉を枯らしけり。」

と、貞能、かたり侍べるにぞ、

「よくこそ、のがれけれ。」

と、かなしき中に、心を慰め、田をうゑ、薪(たきゞ)とり、みずから、淸風朗月に心を澄まし、物靜(〔もの〕しづか)にして、たましひを、やしなふ。人里絕〔たえ〕て、音づれも、なし。

 花の咲くを春と思ひ、木の葉のちるを秋と知り、月のいづるを、かぞへ盡して、月なき時を晦(つごもり)と、あかし暮らす身と、なり侍べり。

 貞能・重景・石童丸が子孫、ひろごりて、家居を並べて住〔すみ〕ける也。

 さだめて、賴朝、世をとりぬらん、今はこれ、誰〔たれ〕の世ぞ。願くは、物語せよ。」

とあり。

[やぶちゃん注:贋の遺書は前後を一行空け、句読点を附さなかった。維盛の語りは非常に長いので、シークエンスごとに段落成形した。

「蓬の沓」「えもぎ」はヨモギ(本邦の狭義のそれは中央アジア原産と考えられているキク目キク科キク亜科ヨモギ属ヨモギ変種ヨモギ Artemisia indica var. maximowiczii )の別称。「新日本古典文学大系」版脚注は『不詳』とするが、ウィキの「靴」によれば、『これまでに発見された世界最古の靴は』一九三八『年に米国オレゴン州のフォートロック洞窟にあったもので、紀元前』七千『年頃に』、『ヨモギの樹皮で作られたサンダルである』とある。参考元の英文記事はこちらであるが、この左の写真キャプションにある‘Sagebrush’というのは、ヨモギ属オオヨモギ(ヤマヨモギ) Artemisia montana で、本邦でも近畿地方以東の本州・北海道・南千島などに分布し、名の通り、草丈が高くなり、時として二メートルを超えるという。されば『樹皮』というのは違和感がない。私は文字通り、「蓬の繊維で編んだ沓」でよいと思う。因みに、七千年前の日本は縄文時代前期で縄文海進の最盛期に相当する。

「藜」ナデシコ目ヒユ科 Chenopodioideae 亜科 Chenopodieae 連アカザ属シロザ変種アカザ Chenopodium album var. centrorubrum である。本邦には北海道から沖縄まで全国に分布し、畑地・荒地に最も普通に見られる雑草で、長ずると一メートル以上になる。意外に思われるかも知れないが、本種は秋になって枯れた茎を乾して老人用の杖にした。軽くてしかも強く、使い易い杖になったのである。「笈日記」の芭蕉の句「宿りせん藜の杖になる日まで」の伊藤洋氏の「芭蕉DB」のこちらの解説を参照されたい。

「三位中尉」これは平清盛の嫡孫で平重盛の嫡男であった、名将にして享年二十六で壇の浦に散った平小松三位中尉維盛(これもり 平治元(一一五九)年~寿永三(一一八四)年)の別名である。平家一門の嫡流として出世したが、治承四(一一八〇)年の源頼朝挙兵の際、追討大将軍として東国に発向したものの、「富士川の戦い」では、夜、水鳥の羽音に驚いて、戦わずに逃げ帰った情けなさで知られる。翌年三月の「尾張墨俣の戦い」では源氏を撃破し、その功により、右近衛権中将・従三位となったが、翌寿永元(一一八二)年、木曾義仲追討では「倶利伽羅合戦」で大敗、義仲が上京し、平家一門が西国に没落した折りには、一時は都落ちしたらしいが、その後、消息不明となった。物語類では「屋島の戦い」の最中に平家の陣を抜け出し、高野山で出家し、熊野灘へ舟を出して、入水して果てたとされる。なお、私は鎌倉史を趣味で調べている関係上、以下の面子はほぼ顔見知りで、注の必要を感じない者が多い。教科書的に総てを等し並みにいりもせぬ注をすることはしないことをここで断っておく。

「通盛」(仁平三(一一五三)年?~元暦元(一一八四)年)平清盛の異母弟である権中納言平教盛と藤原資憲の娘との嫡男。弟に私の好きな能登守教経がいる。「一の谷の戦い」で討死した。「平家物語」では、「平家都落ち」の直前に宇治橋を固めて応戦し、都落ち以後も西国で戦う様子が記されてある。また、愛人小宰相が後を追って入水する悲話が描かれ、二人の馴れ初めも描かれる。二人の恋は「建礼門院右京大夫集」にも載る。

「生をかゆるとも、忘るべき事かや」「仮に輪廻転生したとしても、いっかな、忘れることなどできようものか!」。

「興三兵衞〔よさうびやうゑ〕重景」彼の父平景康(景泰・景安とも)は平重盛の家人で、「保元の乱」に参戦し、「平治の乱」では主君を守り、二条堀河の辺りで鎌田兵衛と組み合いとなったところを、頼朝の兄悪源太義平に討たれてしまったため、維盛に育てられて、名も彼から与えられた。父子ともに重盛父子の乳母子(めのとご)となったのである。乳母子は当時、主君と命をともにするのが倣いであった。読みは「新潮日本古典集成」版の「平家物語」の「巻第十」の「横笛」のルビに従った。

「石童丸」維盛の臣下の少年であるが、出自不詳。

「武里」不詳。

「舍人」牛車の牛飼や、馬の口取りなどを担当した下人。

「阿波の由木(ゆうき)の浦」阿波国海部(かいふ)郡三岐(みき)村由岐(ゆき)。現在の徳島県海部郡由岐町(ゆきちょう)

「をりをりはしらぬうらぢのもしほ草かきおく跡をかたみともみよ」整序すると、

 折々は知らぬ浦路の藻鹽草かきおく跡を形見とも見よ

で、塩を作るための海藻を「搔き」集めるに、辞世の歌を「書き」置くに掛けたもの。これらの歌のシークエンスは「源平盛衰記」の巻三十九巻の「維盛屋嶋を出でて高野に參詣付けたり粉川寺(こかはじ)法然房に謁する事」に出る。国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像を見られたい。そこでは、

 折々はしらぬ浦路のもしほ草(くさ)書置(かきをく)跡を形見共(とも)見よ

とある。

「我おもひ空ふく風にたぐふらしかたぶく月にうつる夕ぐれ」整序する。

 我れ思ふ空吹く風に比(たぐ)ふらし傾(かたぶ)く月に移る夕暮れ

で、「……私の今のこの限りなき切なき思いは、虚空を吹き退(すさ)ってゆく風にでも比える得るものだろうか――傾く月に漆黒の闇へと移ってゆくこの夕暮れの間合いには……」と言った謂いか。「源平盛衰記」では、

 我(わが)戀(こひ)は空吹(ふく)風にさも似たり傾(かたふ)く月に移ると思へは

とある。これは「源平盛衰記」の方が遙かにいい。

「玉ぼこの道ゆきかねてのる舟に心はいとゞあこがれにけり」同前。

 玉鉾(たまぼこ)の道行き兼ねて乘る舟に心はいとど憧(あこが)れにけり

で、「玉ぼこの」は「道」の枕詞。「……道中、いかにも心から赴こうとする意志もなく、行きかねてかくも乗った舟ではあるけれど――でも――この行く先が西方浄土ならんかと思えば――いよよ、心が憧(あくが)れることです……」の謂いか。「源平盛衰記」では、

 玉鉾(たまぼこ)や旅行(たびゆく)道のゆかれぬはうしろにかみの留(とゞま)ると思へば

とある。こちらは本篇の方がずっと上出来。

「紀伊國、和歌・吹上の浦」「和歌」「の浦」は和歌山市の歌枕である「和歌の浦」。古くはこの中央の海岸一帯を指した。「吹上の浦」は現在の紀ノ川河口の和歌山城附近の当時の海浜の貫入していた部分から(砂丘状になってた。吹上の地名が残る)、南西の雑賀崎附近を指すが、ここは「和歌の浦」の後背部北側に当たる。

「由良(ゆら)の湊」和歌山県日高郡由良町。順序にちょっと違和感がある。但し、これは参考にした「平家物語」の巻十の「横笛」や「源平盛衰記」の先の箇所の叙述に従ったまでのことであり、都の方を遠望するには、まあ、少し戻るものの、違和感はない。でも、私は『僕なら、せめて今の大阪湾口が開ける加太(かだ)を北に回り込んだ和歌山市大川辺りまで出向くけどな』とは思う。

「戀しき都をながめやり」見えるわけでは無論、ない。遠く見やるのである。

「瀧口時賴入道」平重盛に仕え、宮中の「滝口の武士」をも勤めた齋藤時頼。芥川龍之介の「芋粥」で知られる藤原利仁の子孫の疋田(ひった)斉藤茂頼(もちより)の子。彼と、建礼門院の雑仕女(ぞうしめ)横笛の悲恋と、まさにここに語られる維盛の入水を描いた歴史小説高山樗牛の「瀧口入道」は私の偏愛する作品である。時頼は横笛の死後、出家して高野山に入っていた。

「三藤(とう)」「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『和歌山市山東中(さんどうなか)近辺。熊野街道が通り、高野山から下る道筋との合流地域』とある。ここ

「藤代(ふぢしろ)」現在の海南市藤白

「古木〔ふるき〕の杜」不詳。「新日本古典文学大系」版脚注では、かなり突っ込んで同定比定可能性を探っているが、私には興味がないので引かない。

「蕪坂(かぶらざか)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『海草郡下津町。有田市との境に』ある『蕪坂峠』(現在は「かぶらさかとうげ」と清音)。『峠を越えた所に蕪坂塔下(とうげ)王子がある』とあるが、現在は海南市下津町になった。蕪坂塔下王子はここ

「千里(ちさと)の濱」「新日本古典文学大系」版脚注に、『日高郡南部町。千里王子社がある』とあるが、現在は和歌山県日高郡みなべ町と表記が変わっており、王子社社跡とする。

「岩代(いはしろ)の王子」現在の日高郡みなべ町西岩代。また、今は岩代王子跡とする。「新日本古典文学大系」版脚注には、『この拝殿の板に熊野参詣者名前や和歌を書きつけて奉納した』とある。

「岩田川」「新日本古典文学大系」版脚注に、『西牟婁郡富田川中流、岩田付近の呼称。』水『垢離場として著名』だった場所で、『歌枕』とある。ここ

「岩田川ちかひの舟にさほさしてしづむ我身もうかびぬるかな」整序すると、

 岩田川誓ひの舟に棹さして沈む我が身も浮かびぬるかな

で、やはり「源平盛衰記」の巻四十巻の「維盛入道熊野詣付けたり熊野大峯の事」に出る。国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像を見られたい。そこでは、

 岩田川誓(ちかひ)の舩(ふね)にさほさして沈む我(わが)身も浮(うかび)ぬる哉

の表記である。「誓ひの舟」とは、「弘誓(ぐぜい)」(菩薩が自らの悟りと、ありとある衆生の済度を願って立てた広大なる誓願)を煩悩の大海から総ての衆生を救い揚げて西方浄土へ向かう「船」に喩えたもの。

「本宮」熊野本宮大社

「新宮」熊野速玉神社

「那智」熊野那智大社。以上で熊野三山を成す。神道嫌いの私が例外的に敬虔に総て参詣した人生唯一の三社である。私は後、出雲大社だけはちゃんと参拝したいと考えている人種である。

「濱の宮」和歌山県東牟婁郡那智勝浦町浜ノ宮。「源平盛衰記」の巻四十巻の「中將入道水に入る事」を見よ(国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像)。ここはまさに無謀な補陀落(ふだらく)渡海信仰のメッカで(私の「北條九代記 卷第七 下河邊行秀補陀落山に渡る 付 惠蕚法師」を参照)、天台宗熊野山補陀洛山寺(ふだらくさんじ)があり、私も参り、裏にある平維盛供養塔も墓参した。

「元曆元年三月廿八日惟盛廿七歲」これが実遺書でないことは、元号でバレバレ。平家政権はは後鳥羽天皇の即位を認めず、「元曆」(げんりゃく)を用いず、「壽永」を引き続いて使用していたからである。則ち、ここは「壽永三年」でなくてはならないのである。この日附や維盛の年齢は「源平盛衰記」のままであるが(国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここ)、重景と石童丸の年齢は記されていない。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、「公卿補任」『記載の維盛』の『年齢に従うと』、『二十五歳に当た』り、合わないことが示されてある。なお、「源平盛衰記」の同前の終わりの方(左ページの五行目から次の頁にかけて、維盛の生存説が複数、附されてある。しかし、こういうところは、私が「源平盛衰記」の致命的な瑕疵部分と考えている、厭なところである。

「生れてはつひに死(しぬ)てふことのみぞ定なき世にさだめありける」前のリンクで「源平盛衰記」のそれが見られるが、特段の異同はない。因みに、実際の維盛は、生活史の孤立感からみても、かなり早期に、かなり重い鬱病、或いは強い抑鬱症状をきたす重度に精神疾患に罹患していたのではないかと私は考えている。

「肥後守貞能」伊賀国を本拠とする平氏譜代の有力家人であった平貞能(さだよし 生没年不詳)。父は平氏の直参の郎等であった平家貞。当該ウィキによれば、『保元の乱・平治の乱に参戦し、平清盛の家令を勤め』、『清盛の「専一腹心の者」』(「吾妻鏡」元暦二(一一八五)年七月七日の条)『といわれた』。仁安二(一一六七)年五月、『清盛が太政大臣を辞任して嫡男の平重盛が平氏の家督を継ぐと、平氏の中核的な家人集団も清盛から重盛に引き継がれた。同じ有力家人の伊藤忠清が重盛の嫡男・平維盛の乳父であったのに対して、貞能は次男・平資盛の補佐役を任された。忠清は「坂東八カ国の侍の別当」として東国に平氏の勢力を扶植する役割を担ったが、貞能は筑前守・肥後守を歴任するなど』、『九州方面での活動が顕著である』。治承四(一一八〇)年十月、『平氏の追討軍は富士川の戦いで大敗し、戦乱は全国に拡大』し、十二月に『資盛が大将軍として近江攻防に発向すると、貞能も侍大将として付き従った。畿内の反乱はひとまず鎮圧されたが、翌治承五年閏二月に『清盛が死去し』、『後継者となったのは清盛の三男・平宗盛であり、重盛の小松家は一門の傍流に追いやられることになる。同じ頃、九州でも反乱が激化しており』、『肥後の豪族・菊池隆直らは大宰府を襲撃した』。四月十日、『宗盛の強い推挙で原田種直が大宰権少弐に補され』て、すぐに『菊池隆直追討宣旨が下され』、同年八月に『貞能は反乱鎮圧のため』、『一軍を率いて出発』した。『備中国で兵粮の欠乏に直面し』、『追討は困難を極めたが、翌』養和二(一一八二)年四月、『ようやく菊池隆直を降伏させることに成功した』。寿永二(一一八三)年六月、『貞能は』一千『余騎の軍勢を率いて帰還するが』翌七月には、『木曾義仲軍の大攻勢という局面に遭遇する。貞能は資盛に付き従い』、『軍勢を率いて宇治田原に向かったが、この出動は宗盛の命令ではなく』、『後白河法皇の命令によるものだった。小松家が平氏一門でありながら、院の直属軍という側面も有していたことが伺える。宗盛は都落ちの方針を決定するが、貞能は賛同せず』、『都での決戦を主張した。九州の情勢を実際に見ていた貞能は、西国での勢力回復が困難と認識していた可能性もある』。二十五『日の夕方、資盛・貞能は京に戻り、蓮華王院に入った。一門はすでに都落ちした後で、後白河法皇の保護を求めようとしたが』、『連絡が取れず、翌』二十六『日の朝には西海行きを余儀なくされる』。「平家物語」の『一門都落の章段によれば、貞能は逃げ去った一門の有様を嘆き、源氏方に蹂躙されぬように重盛の墓を掘り起こし』、『遺骨を高野山へ送り、辺りの土を加茂川へ流して京を退去したという』。『平氏は』八『月中旬に九州に上陸するが、豊後国の臼杵氏、肥後国の菊池氏は形勢を』傍観するばかりで『動かず、宇佐神宮との提携にも失敗するなど』、『現地の情勢は厳しいものだった。特に豊後国は院近臣・難波頼輔の知行国であり、後白河法皇の命を受けた緒方惟栄』(これよし)『が平氏追討の準備をして待ち構えていた。惟栄が重盛の家人だったことから』、『資盛・貞能が説得に赴くが、交渉は失敗に終わる。平氏は』十『月に九州の地を追われるが、貞能は出家して九州に留まり』、『平氏本隊から離脱した』。『また』、「玉葉」の寿永三(一一八四)年二月十九日の条には、『資盛と平貞能が豊後国の住人によって拘束された風聞が記されている』。『平氏滅亡後の』元暦二(一一八五)年六月、『貞能は縁者の宇都宮朝綱を頼って鎌倉方に投降する。朝綱は自らが平氏の家人として在京していた際、貞能の配慮で東国に戻ることができた恩義から源頼朝に助命を嘆願し』(「吾妻鏡」七月七日の条)。『この嘆願は認められ、貞能の身柄は朝綱に預けられた。北関東に那須塩原市の妙雲寺、芳賀郡益子町の安善寺、東茨城郡城里町の小松寺、そして南東北でも仙台市の定義如来など』、『貞能と重盛の伝承をもつ寺院が多く残されているのは、貞能の由緒によるものである』とある。

「淸風朗月」さわやかな涼しい風と、明るく清らかな月。風雅な遊びや、自然をこころゆくまで嘆賞するさま。]

 

 長次、大に驚き恐れ、

「『只、かりそめの山住(やまづみ)、世の常の事』にこそ思ひ奉りしに、かゝる止事(やごと)なき御身とは、露も思ひよらざりけり。」

とて、首を地につけ、禮義をいたす。

 三位中尉、

「いやとよ、今は然〔しか〕るべからず。それそれ。」

と、の給ふに、貞能・重景・石童丸、立出たり。

 いづれも、その歲、六十ばかりに見えたるが、貞能いふやう、

「迚(とても)うちとけ給ひたる御事也。その世の移り替りし事共、語りてきかせ給へ。」

と也。

[やぶちゃん注:この展開は読者にとって、ネガティヴな貴種流離としての維盛の諸々のイメージを破壊し、面白い予感を引き出させる。或いは、他の作家(例えば後のお喋りな曲亭馬琴)なら、ここに出たバイ・プレイヤーらにじゃかじゃか語らせるところだが、そもそもが、貞能を除く、肝心の重景・石童丸の史実的認識が読者には不足している。さればこそ、ここで本当に読者のようにエキサィテイングになれるのは、主人公である長次自身であることに了意は気づくのだ! そこが素晴らしい! もし、読者が「自分がここで長次なら、どう答えて語るだろう?」というミソを、しっかり受けて以下が開陳されるのである。しかもそれは在野の史家でもある了意の独擅場とも言えるのである。

「いやとよ、今は然るべからず。それそれ。」「いや、そんな風にされては困ったことじゃて! 今はもう、そのように畏まられてしまうは、慮外のことじゃによってのぅ。そうじゃ! お~い、皆々、出でて、参れぇ!」。]

 

 長次、居なほりて、

「さらば、あらあら、聞〔きき〕つたへし事、かたり侍べらむ。

 扨も、平氏の一門、西海の波に沈み給ひ、兵衞佐〔ひやうゑのすけ〕賴朝、天下ををさめ、いくばくもなく、病死し給ふ。

 蒲冠者(かばのくわんじや)範賴・九郞判官義經、みな、賴朝にうたれ、賴朝の子息賴家、世をとり、子なくして、病死あり。賴朝の二男賴家の舍弟、跡を治め給ふ。

 賴家の妾(おもひもの)の腹に子あるよし、聞つたへ、尋出して鶴岡〔つるがをか〕の別當になさる。禪師公曉(ぜんじくげう)と號す。

 和田・畠山・梶原等が一族、此君の時、うちほろぼさる。

 実朝卿、鶴岡社參の夜〔よ〕、かの禪師の公(きみ)、實朝を殺す。

 北條義時、その跡を奪ひて、天下の權を、とる。

 是より、九代にいたり、相撲守高時入道宗鑑(そうかん)、大に奢りて、國、亂れ、新田義貞、鎌倉をほろぼす。

 足利尊氏と新田と、いくさあり。足利、つひに、義貞をほろぼし、その子息義詮(よしのり)を京の公方と定め、二男左馬頭基氏を鎌倉の公方と定め、天下、暫く、しづかなりしかども、王道は地に落〔おち〕て、あるかなきかの有さま也。

 武家、世をとりて、權威、たかし。

 後に、京都・鎌倉の公方、不會〔ふくわい〕になりて、鎌倉の執權上杉の一族、公方を追おとす。

 此時に當りて、京都の公方も權威を失なひ、諸國の武士、たがひに、そばだち、天下、大〔おほき〕に離れて、合戰、やむ時、なし。

 三好修理(しゆりの)大夫、其家人(けにん)松永彈正は、畿内・南海に逆威(ぎやくゐ)をふるひ、今川義元は駿河・遠州をしたがへ、國司源具敎(とものり)は勢州にあり、武田睛信、甲・信兩國にはびこり、北條氏康は關八州にまたがり、佐竹義重は常陸にあり、蘆名(あしなの)盛高は會津を領じ、長尾景虎は越後より、おし出〔いづ〕る。朝倉義景、越前を守り、畠山が一族は河内にあり、陶(すゑ)尾張守は、周防長門を押領(あふりやう)し、毛利元就、安藝におこり、尼子(あまこ)義久は、出雲・隱岐・石見・伯耆にひろごり、豐後に大友、肥前に龍造寺、その外、江州に淺井〔あざゐ〕・佐々木、尾州に織田、濃州に齋藤、大和に筒井、其外、諸國群邑(ぐんゆう)の間〔かん〕に黨を立て、兵を集め、たがひに、村里をあらそうて、攻戰(せめたゝか)ひ、奪ひ、とる。

 古へ、安德天皇、西海に赴き給ひし、壽永二年癸卯(みづのとう)より、今、弘治二年丙辰(ひのへたつ)の歲まで、星霜三百七十四年、天子、すでに二十六代、鎌倉は、賴朝より三代、北條家九代、足利家十二代、京都の足利、今すでに十三代、新將軍源義輝公と申す也。」

と、語りしかば、三位中將、これを聞き給ひて、不覺の淚を流し給ふ。

 夜、すでに更〔ふけ〕ゆけば、山の中、物しづかに、梢をつたふ風の音、軒近く聞えて、長次が魂(たましゐ[やぶちゃん注:ママ。])、すみわたり、凉しく覺えたり。

 あるじ、さまざま、酒をすゝめらる。

 夜、すでにあけて、山の端(は)あかく、橫雲、たなびきて、鳥の聲、定かになれば、長次、

「今は。是までなり。」

とて、拜禮、つゝしみて立出〔たちいづ〕れば、あるじ、のたまはく、

「我ら、更に、仙人にもあらず、幽靈にもあらず。おほくの年を重ねし事、思はざる外の幸ひなり。なんぢ、歸りて、世に語る事、なかれ。」

とて、

 みやまべの月は昔の月ながら

   はるかにかはる人の世の中

と、よみて、わかれをとり、内に入給へば、長次は、切通しの門を出て、一町[やぶちゃん注:百九メートル。]ばかりに一所づゝ、竹の杖をさして、記(しるし)とし、十津川の宿に歸る事を得て、來年の春、酒・さかな、とゝのへつゝ、又、かの山路に分入〔わけいり〕て尋ぬるに、たゞ、古松・老槐(らうくわい)に橫たはり、岩ほ、そばだち、茅(ちがや)・薄(すゝき)しげり、樵(きこり)の通ふところ、鳥の聲、かすかに、草刈りの行〔ゆく〕ところ、谷の水、流れ、しるしの竹も見えねば、たずねわびつゝ立〔たち〕かへる。

 そもそも、これは、仙境の道人(だうにん)なりけん。その類(たぐひ)、しりがたし。

[やぶちゃん注:鎌倉時代の部分は先に述べた如く、注する気はまるでない。不明な委細があれば、私のカテゴリ『「北條九代記」【完】』(同じ浅井了意の作と推定される)を読まれたい。ただ、ここでの鎌倉史概説部に大きな不満が残るとすれば、維盛の子六代(ろくだい 平高清(承安三(一一七三)年?~?)のことが全く語られていないことであろう。「平家物語」の「六代斬られ」で人口に膾炙している彼のことを、了意が忘れていたことなど、到底、考えられず、そもそも維盛が個人的に後のことを知りたいと思うた中に、一番のそれは、六代をおいて他にはないはずだからである(言っておくが、この六代を最後として清盛の嫡流は完全に断絶しているのである)。しかし、それは、語れば、維盛にとって非常に重鬱な思いをさせざるを得ず、これから超時空を経ねばならぬ、縮圧したドライなドライヴの出鼻を、これ、挫くことになることは明白である。さればこそ、了意の判断は正しいと言えるのである。なお、南北朝から戦国に至る部分も一部を除いて多くの読者には不要であろうからして、注は附さない。

「賴朝の子息賴家、世をとり、子なくして、病死あり」言わずもがな、事実は初代執権北条時政による凄惨な謀殺である。「北條九代記 賴家卿薨去 付 實朝の御臺鎌倉に下向」参照。

「義詮(よしのり)」読みはママ。「よしあきら」が正しい。

「不會〔ふくわい〕」仲違(たが)い。不和。

「三好修理大夫、其家人松永彈正は、畿内・南海に逆威をふるひ」前話「黃金百兩」で詳注。

「國司源具敎」北畠具教(享禄元(一五二八)年~天正四(一五七六)年)は北畠晴具の長男。伊勢国司。織田信長に攻められ、永禄一二(一五六九)年伊勢大河内(おおこうち)城を捨てて降伏し、信長の次男信雄(のぶお)を長男具房の養嗣子とし、国司を譲った。塚原卜伝に学んだ剣客としても知られる。信長の命をうけた旧家臣に襲われて自刃した。彼を以って北畠家は滅亡している。

「押領(あふりやう)」(現代仮名遣「おうりょう」)元来、律令制下にあっては「兵卒を監督・引率すること」を意味し、令外官(りょうげのかん)の一つである「押領使」の名もこれに由来したが、平安中期頃以降は「他人が正当な権利に基づいて知行している所領・諸職などを強引に侵害して奪うこと」を意味するようになり、中世になると、専ら、この意味で用いられるに至った。

「古へ、安德天皇、西海に赴き給ひし、壽永二年癸卯(みづのとう)より、今、弘治二年丙辰(ひのへたつ)の歲まで、星霜三百七十四年」「壽永二年」は一一八三年。「弘治二年」は一五五六年。数えで起点の年を入れるので計算に誤りはない。陶淵明の「桃花源記」は作品内時制を晋の太元年中(東晋(三一七年~四二〇年)の孝武帝の時の年号(三七六年~三九六年)の出来事とし、桃花源の人々は秦代(紀元前二二一年~紀元前二〇六年)の乱を避けてここに入ったと述懐するから、彼らの方は、最大六百十九年、最小で五百八十二年の超時空を隔てていることになる。

「天子、すでに二十六代」実際には数えてみると安徳天皇を入れて当代の後奈良天皇までは三十代である。但し、安徳の四代後の仲恭天皇(在位期間は天皇の中で最短の七十八日間)。は江戸以前は九条廃帝として数えないのが普通だったこと、さらに、平家政権が認めなかった後鳥羽天皇の在位の初めは安徳天皇とダブることから、これを憚って後鳥羽を数えないとしても、二十八である。或いは、「承久の乱」でごたついた平家にとって不快な後鳥羽天皇及び、後鳥羽と同様にあろうことか配流されてしまった土御門天皇・順徳天皇と九条廃帝の四人をカットした数字を指すか。よく判らない。なお、この「弘治二年」の翌年、弘治三年十月二十七日に後奈良天皇から正親町(おおぎまち)天皇に譲位されている。

「新將軍源義輝」室町幕府第十三代征夷大将軍足利義輝(天文五(一五三六)年~永禄八(一五六五/在職:天文一五(一五四七)年~永禄八年)。天文二三(一五五四)年二月に従三位に昇叙するとともに名を義藤(よしふじ)から義輝に改めている。永禄八年五月十九日に松永久秀長男久通と三好三人衆(三好長慶の死後に三好政権を支えて畿内で活動した三好氏の一族或いは重臣であった三好長逸(ながやす)・三好宗渭(そうい)・岩成友通(ともみち))が主君三好義継(長慶の養嗣子)とともに清水寺参詣を名目に集めた約一万の軍勢を率いて、二条御所に押し寄せ、「将軍に訴訟(要求)あり」と偽って、取次ぎを求め、御所に侵入し、義輝は殺された(「永禄の変」)。享年三十。

「三位中將、これを聞き給ひて、不覺の淚を流し給ふ」ここで実は維盛はそこに語られなかった実子六代の末路もそこに感じて、涙したのではなかったろうか。

「我ら、更に、仙人にもあらず、幽靈にもあらず。おほくの年を重ねし事、思はざる外の幸ひなり。なんぢ、歸りて、世に語る事、なかれ」陶淵明の「桃花源記」のコーダ「不足爲外人道也。」(外人の爲めに道(い)ふに足らざるなり。)とあるように、諸話に於いて仙境や桃源郷を去る当たっての戒めの御約束事である。

「みやまべの月は昔の月ながらはるかにかはる人の世の中」「新日本古典文学大系」版脚注によれば、原話である「剪灯新話」の巻之二の二話目「天台訪隠録」の中の『詩句「時移リ事変ジテ太ダ怱忙」を和歌にしたもの』とある。「太ダ」は「はなはだ」、「怱忙」は「そうばう(そうぼう)」で「忙しくて落ち着かぬこと」を意味する。

「わかれをとり」別れを交わし。

「古松・老槐(らうくわい)に橫たはり」「老槐」マメ目マメ科マメ亜科エンジュ属エンジュ Styphnolobium japonicum 。中国原産で当地では神聖にして霊の宿る木として志怪小説にもよく出る。ただ、この助詞「に」は戴けない。これでは文字列上は「枯れた古い松が、年経て倒れた槐の倒れた上に横たわっていて」という意味になるが(「生きている古松が、年経た巨木の槐に倒れ掛かるように生えており」という意には流石に私はとれない)、どうも、いただけない。「の」か、助詞なしで「古松や老いた槐が半ば朽ちて横たわって行く手を塞ぎ」でいいのではないかと思う。

「道人」世俗の事を捨てて、しかも、驚異的寿命が得られる神仙の道を修得した人。]

2021/04/06

伽婢子卷之一 黃金百兩 / 伽婢子卷之一~了

 

  黃金百兩

 河内國平野と云所に、文(あやの)兵次とて、有德(うとく)人あり。しかも、心ざし、情ある者也。

 同じ里に、由利(ゆりの)源内とて、生才覺(なまさいかく)の男、兵次と親しき友だち也。松永長慶(ながよし)に召抅(めしかゝへ)られ、代官になり、老母・妻子共に、大和國に引〔ひき〕こしけり。其(その)まかなひに詰(つま)り、兵次に黃金百兩を借(かる)。元より、親き友なれば、借狀・質(しち)物にも及ばず。

[やぶちゃん注:「黃金百兩」の標題は目録の読みに従うと(言い忘れたが、目録は本文のそれとは孰れも一致せず、説明的な長いもので、例えば、本篇の場合は「文兵次黃金をかして損却する事過去物語」である。いちいち頭で出してもいいが、これで内容が判ってしまうのはちょっと私には面白くないので、敢えて添えない)、「わうごんひやくりやう」である。

「河内國平野」大阪府柏原市(かしわらし)平野(グーグル・マップ・データ。以下同じ)かと思ったが、「新日本古典文学大系」版脚注では、その北に接する『山ノ井町』とする。

「有德」ここは裕福なこと。

「生才覺」中途半端な才能。生半可な知恵。猿知恵。

「松永長慶」戦国から安土桃山時代の武将松永弾正(だんじょう)久秀(永正七(一五一〇)年~天正五(一五七七)年)を、当初に仕えた主君三好長慶(大永二(一五二二)年~永禄七(一五六四)年)と混同した誤りであろう。堺代官となり、永禄二(一五五九)年に奈良に入部して多聞城,・信貴山城などを築き、山城の国人を追い出した。三好家家老となるに及び、勢力を伸張して三好義継に足利義輝を殺害させ、畿内に実権を揮った。同十年、三好三人衆と戦い、東大寺大仏殿を焼き、翌年に織田信長が入京するや、これに従って大和信貴山を安堵された。しかし、その後の信長の天下統一の政策に対し、足利義昭を挟んで、表裏のある行動を重ねたために信長の攻撃にあって信貴山城で自害した。

「まなかひ」「賄料(まかなひれう)」の略。「ある事柄にかかる経費」。ここはその引っ越しに掛かった総額費用。

「借狀」借用証文。

「質物」(しちもつ)は担保物件のこと。]

 

 こゝに、此ころ、細川・三好の兩家、不和にして、河内・津の國わたり、騷動す。兵次は一跡(せき)殘らず、亂妨(らんばう)せられ、一日を送る力も、なし。

[やぶちゃん注:「細川」戦国大名で室町幕府第三十四代管領にして山城国・摂津国・丹波国守護であった細川晴元(永正一一(一五一四)年~永禄六(一五六三)年)。彼の武将となっていた三好長慶が将軍を巻き込んで反逆に及び、天文一六(一五四七)年以降、摂津・河内で断続的に戦さを交え、永禄四(一五六一)年に当主に代えていた次男細川晴之が三好軍に敗退して戦死し、三好長慶と和睦したものの、摂津の普門寺城に幽閉された。

「津の國」「攝津」。

「一跡」後継者に譲るべき跡目一式で全財産の意。

「亂妨」暴力を揮って物を奪い取ること。]

 

 弘治年中、暫らく、物靜(しづか)に成ければ、三好は京都にあり、其〔その〕家老松永は和州に城を構へ、大〔おほき〕に、民百姓を貪る。

 去〔さる〕ほどに、兵次は妻子をつれて、和州に行き、源内を尋ぬるに、松永が家にして、權威高く、家の内、賑々(にぎにぎ)し。兵次、おとろへて、形、かじけ、おもがはりしたり。その近きあたりに宿かりて、妻子を置き、我身ばかり、源内に逢て、

「かうかう。」

といふ。

 源内、初めは忘れたりけるが、故鄕・名字、こまごまと聞て、

「誠に。」

と驚き、酒、進めて、飮ませながら、借金の事は、一言も、いはず。

 兵次も、いふべき序(つゐで)なく、立歸る。

[やぶちゃん注:「弘治」一五五五年から一五五八年まで。室町幕府将軍は足利義輝。天文二二(一五五三)年三月に義輝と三好長慶が決別し、七月に細川晴元が義輝から赦免されると再び義輝とともに長慶と交戦した。しかし、翌月、義輝方の霊山城が三好軍に落とされると、晴元は義輝と一緒に近江国朽木へ逃亡した。播磨国では香西元成が明石氏と結んだが、弘治元(一五五五)年に明石氏が三好軍に攻撃されて降伏、丹波国でも元成や三好政勝らが波多野元秀と手を結び、長慶派の内藤国貞を討ち取ったものの、国貞の養子で長慶の武将であった松永長頼に反撃され、弘治三(一五五七)年頃には丹波は総てが三好の領国となってしまい、晴元は勢力拡大した長慶の前に手も足も出せない状態になっていたのであった(ウィキの「細川晴元」に拠った)。

「松永は和州に城を構へ」ウィキの「松永久秀」によれば、天文二四(一五五五)年に『久秀は六角義賢の家臣・永原重興に送った書状の中で、将軍・義輝を「悪巧みをして長慶との約束を何度も反故にして細川晴元と結託しているから、京都を追放されるのは『天罰』である」と弾劾して』おり、『また』、『長慶の書状も併せて送り、長慶が天下の静謐を願っていることを伝えている』。久秀は弘治二(一五五六)年には『奉行衆に任』ぜられ、同年六月には長慶とともに『堺で三好元長の二十五回忌に参加して』おり、翌月には、『久秀の居城滝山城へ』『長慶が御成し』、『歓待され』、『久秀が千句連歌で、そして観世元忠の能で長慶をもてなした』とある。

「かじけ」「悴け」痩せ細って衰え弱る。

「おもがはり」「面變り」。

「序」機会。きっかけ。]

 

 妻、いふやう、

「是まで流浪して來〔きた〕るも、『源内が惠(めぐみ)あるべきか』と思ふに、僅(わづか)の酒、飮(のみ)たるとて、百兩の金に替て、一言をもいはずして歸る事や、ある。斯くの如くならば、我らは頓(やが)て、道の傍(かたはら)に飢(うへ)て死すべし。」

といふ。

 兵次、これを聞〔きく〕に、理(ことわり)に過〔すぎ〕て覺えしかば、夜明(あく)るを待かね、又、源内がもとに行たれば、源内、出〔いで〕て、對面して、

「誠に、其かみ、金子を借(かり)たる事、今も忘れず。その恩を、おろそかに思はんや。其時の手形あらば、持來り給へ。數の限り、返し參らせむ。」

といふ。

 兵次、答(こたへ)ていふやうは、

「同じ里に親しき友と、互に住たる契り、淺からねば、手形・質物にも及ばず、借(かし)奉りし金子なり。今、我、刧盜(ごふたう)の爲に一跡を、うばひとられ、身のたゝずみなき故に、如何にも此金子を給はらば、然るべき商買(しやうばい)をもいたして、妻子を養ひ侍べらばやと思ふなり。只今、我を『とり立るよ』とおぼして、右の金子を惠み返し給へ。」

といふ。

 源内、打笑ひ、

「手形なくしては、算用、なり難し。されども、思ひ出さば、數の如く、返し侍らん。」

とて、兵次を歸らせたり。

[やぶちゃん注:「數の限り」その手形・証文に記されただけの金子をきちっと耳を揃えて。

「刧盜」元禄版もこれで、読みは「こうだう」。「强盜」の当て字であろう(「新日本古典文学大系」版脚注もそう注する)。

「身のたゝずみなき」「身の佇(たたず)み無き」衣食住の立てようが全くなく。

「商買」「買」は「賣」と通義。

「とり立るよ」「新日本古典文学大系」版脚注に、『面倒をみて立ち直らせ』やろうぞ! との意とある。

「算用」借金の返済決算。

「思ひ出さば、數の如く、返し侍らん」「いや、拙者は借りたことは覚えて御座るが、それが幾らだったかを覚えておらぬのじゃ。まずまず、思い出したならば、しっかとお返し申すほどに。」とうそぶいているのである。]

 

 かくて、半年ばかりを經て、極月[やぶちゃん注:「ごくげつ」。十二月。]になりぬ。古年をば、送りけれ共、新しき春を迎ゆ[やぶちゃん注:ママ。]べき手だて、なし。

 食、ともしく、衣、うすければ、妻子は飢凍(うゑこゞえ)て、只、泣〔なく〕より外の事なし。

 兵次、これを見るに、堪がたくて、源内が許に行〔ゆき〕いたり、淚を流していふやう、

「年、すでに推(おし)つまり、新春は近きにあれ共、妻子は飢凍えて、又、一錢の貯へなく、炊(かしぎ)て食すべき米(よね)もなし。假令、借(かし)奉りし金子、皆、返し給はらずとも、年を迎ゆるほどの妻子のたすけをなし給はゞ、是に過(すぎ)たるめぐみはあらじ。」

といふ。

 源内、うち聞て、

「誠に痛はしく思ふといへども、我さへ、僅(わづか)の知行なれば、今、皆、返し參らせむ事は、叶ふべからず。明日、まづ、米二石・錢二貫文を奉らん。是(これ)にて、兎も角(かう)も、年、とり給へ。」

といふ。

[やぶちゃん注:「米二石」一石は一合の一千倍で、約三百キログラム相当。

「錢二貫文」一文銭を紐に一千枚通したものが一貫文で千文が一貫。換算サイトで戦国時代の一貫文を現在の十五万円相当とするとあったので、三十万円相当。]

Oh1

 兵次、大に悅び、我家に歸り、

「明日、かならず、惠、つかはされん。侍まうけて、此程のわびしさを慰まん。」

といふに、妻子、限りなく『嬉し』と思ひ、夜の明(あく)るを遲しと、其子を門に出して、

「錢・米をもちて來る人あらば、『こゝぞ』と敎(をしへ)よ。」

とて、待せておく。

 須臾(しばらく)ありて、内に走り入て、いふやう、

「米を負(をひ)たる人こそ來れ。」

と。

 急ぎ出〔いで〕て見れば、其家の門は、見向きもせずして、打過〔うちすぐ〕る。

『もし、家を忘れて打通るか。』

と思ひ、

「其米は文(あやの)兵次が家に給はるにてはなきか。」

と問へば、

「いや。是は城の内より、肴(さかな)の代(かはり)に遣はさるゝ米也。」

といふ。

 又、しばしありて、其子、走り入て、

「只今、錢をかたげたる人こそ來れ。」

と。

 兵次、かけ出て見るに、その門口をば、空知らずして、打通る。

 是も『家を知らざるか』とて、引き留めて、

「此錢は由利源内殿より兵次が許へ遣はさるゝにや。」

と問(とへ)ば、

「是は弓削(ゆげ)三郞殿より、矢括(やはぎ)の代物〔だいもつ〕に送らるゝ。」

とて過行けば、兵次、耻しき事、いふばかりなし。

 正月まかなひの用意とて、錢・米持運ぶ事、急がはしきを、引とめ、引きとめ、尋問〔たづねとふ〕に、いづれも、源内がもとより出る錢・米ならで、一日のうち、待暮し、漸(やうやう)人影も見えざりければ、内に入ぬ。

 油もなければ、燈火(ともしび)たつべき樣もなく、いとゞ闇き一間の内に、妻子、打向ひ、今は賴もしき事もなし。

 米・薪〔たきぎ〕」を求むべきたよりもなければ、夜もすがら、寢もせず[やぶちゃん注:「いねもせず」。]、泣(なき)あかす。

[やぶちゃん注:「代」代金の代わりとすること。

「空知らずして」全く気にかける様子もなくして。

「弓削三郞」これは皮肉にも松永久秀を裏切って自害に追い込むことになった人物である。彼は久秀の若党として仕えていたが、実は久秀の宿敵筒井順慶が放った忍びの者であったとされる。久秀が和泉の堺の人脈を介して石山本願寺に加勢を頼むのにこの男を選んだが、三郎はここぞと、順慶と図って順慶の手下を加勢の軍勢に加えて、信貴山城内に紛れ込ませ、各所に放火して回り、落城する、文字通りの、導火線となったというのである。個人ブログ「fumi1202のブログ」の「久秀の言い分」を読まれたい。

「矢括」「括」は「やはず」で「矢の上端の弦を受ける所」を言う漢字であるから誤字。「矢作・矢矧」が正しく、これで「やはぎ」と読み、「矢を矧 () ぐこと」、矢竹に矢羽根を装着する職人、矢師のことを指す。

「正月まかなひ」正月用の祝い品や料理のこと。]

 

 兵次、いよいよ、堪かね、

『口惜しき事かな。さしも、堅く契約しながら、我を欺(あざむき)けることよ。唯、源内を指殺(さしころ)して、此欝忿(うつぷん)をはらさん。』

と思ひ、夜もすがら、刀を硏ぎ、源内が門に忍び居(ゐ)たりしが、又、思ひ返すやう、

『源内こそ、我に不義を致しけれ、また、源内が老母・妻子は何の咎(とが)もなし。今、源内を殺さば、家、忽ちに滅して、科(とが)もなき老母・妻子は路頭に立〔たつ〕べし。人こそ我に不義ありとも、我は人をば倒さじものを。天道、まこと有らば、我には惠もあるべきものを。』

と、思ひ直して、家に立ち歸り、兎角して小袖・刀、賣しろなして、正月元三〔がんざん〕のいとなみは、いたしぬ。

[やぶちゃん注:「我に不義を致しけれ、また……」ここは『「こそ」~(已然形)、……』の逆接用法。本篇のコペルニクス的展開点として、非常に重要な箇所である。

「賣しろなして」売り払う品物にし成して。売って金に代えて。

「元三」一月一日元日、或いは、元日からの三日間の「三が日」。

「いとなみ」「營み」。仕度。]

 

 かくて、兵次、或(ある)朝(あした)、家を出て、泊瀨(はつせ)の觀音にまうで、行末ふかく祈り申〔まうし〕て、山の奧にわけ入しが、覺えず、ひとつの池の邊(ほとり)に到り、誤ちて、池の中に落ちたりしに、其水、兩方に別れて、道、あり。

[やぶちゃん注:「泊瀨(はつせ)の觀音」奈良県桜井市初瀬(はせ)にある真言宗豊山(ぶさん)神楽院(かぐらいん)長谷寺。本尊は十一面観世音菩薩。創建は奈良時代の八世紀前半と推定されるが、詳しい時期や経緯は不明。寺伝では天武天皇の朱鳥元(六八六)年に僧道明(どうみょう)が初瀬山の西の丘に三重塔を建立し、神亀四(七二七)年に僧徳道が聖武天皇の勅命により東の丘(現在の本堂位置)に本尊十一面観音像を祀ったとするが、これらは正史に見えない。八百年代中頃には官寺と認められて別当が置かれたものと推定される。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、先に示された弘治の次の『永禄年間』(一五五八年~一五七〇年)『には戦乱のため衰微していた』とある。]

 

 道をつたうて、二町ばかり行ければ、城(じやう)の惣門にいたる。

 樓門の上に「淸性舘(せいせいくはん)」と云ふ額をかけたり。

 内に入て見れば、人氣もなく、物しづかにて、幾年(いくとせ)經たりとも知られぬ、古木の松、枝をかはして、生並〔おひなら〕べり。

 廊下めぐりて、奧の方にいたり、御殿の階(きざはし)にのぞめども、人も見えず、とがむる者、なし。

 只、鐘の聲、遙に、振鈴(しんれい)の響(ひゞき)に加(くは)して聞えたるばかり也。

 兵次、餘りに、飢つかれて、石礎(いしづゑ)を枕として、臥(ふし)て休み居(ゐ)たり。

[やぶちゃん注:「二町」二百十八メートル。

「惣門」外構えの大きな正門。

「振鈴」密教の修法で諸尊を勧請する際などに仏呪具の金剛鈴(こんごうれい)を振り鳴らすこと。]

Oh2

 かゝる所に、眉・髯(ひげ)、長く生(はひ)のび、頭(かしら)には、帽子、かづき、足には、靴をはき、手に白木(しらき)の杖をつきたる老翁、來りて、兵次を見て、打笑ひ、

「如何に久しく對面せざりしや。昔の事ども、覺えたるか。」

といふ。

 兵次、おきあがり、跪(ひざまづい)て、

「我、更に、此所に來れる事は、今ぞ、初なる。如何でか、昔の事とて、知べき道、侍らん。」といふ。

 老翁、聞て、

「げにも。汝は飢渴の火にやかれて、昔を忘れたるも理り也。」

とて、懷より梨と棗(なつめ)とを取出して、食はしめたるに、兵次、胸、凉しく、心さわやかに、雲霧(くもきり)のはれ行(ゆく)空に、月の出るがごとく、まよひの暗(やみ)、みな、除(のぞこ)りて、過去の事共、猶、きのふの如くに覺えたり。

 老翁の曰、

「汝、昔、過去の時、初瀨(はつせ)の近鄕を領ぜし人なり。觀音を信じて花香(けかう)・灯明(とうみやう)をそなへ、常に步みをはこびしか共、只、百姓を貪り、賦斂(ふれん)をおもく、課役を茂くして、人の愁(うれへ)を知らず。此故に、死して、惡趣に落つべかりし處に、觀音の大悲をもつて、惡を轉じて、二たび、この人間に返し給へり。しばらく富貴(ふうき)を極めしかども、昔の業感(ごうかん)に困りて、今かく貧(まずしく)なれり。然るを、汝、源内が不義を怒(いかり)て、一念の惡心を起せしかば、惡鬼、たちまちに、汝が後にしたがひ、妻子一家(け)、跡なくほろぶべかりしを、又、忽ちに、心を改めしかば、神明(しんめい)、已に、是をしろしめし、福神(ふくじん)、これに立添ひて、惡鬼は遠く逃去ぬ。すべて、惡業(あくごふ)・善事、其むくひある事は、形に影のしたがひ、聲の響きに應ずるが如し。今より後も、苟且(かりそめ)の事といふとも、惡を愼しみ、善を求むべし。然らば、かならず、安樂の地に一生を送らん。」

と敎へられたり。

[やぶちゃん注:「賦斂」税を割り当てて取り立てること。

「惡趣」「三惡趣」。生命あるものが、生前の悪い行為の結果として死後余儀なく赴かなければならない地獄・餓鬼・畜生という三悪道の世界。連声(れんじょう)して「さんなくしゅ」「さんまくしゅ」「三悪道 (さんまくどう)」とも読む。

「人間」「人間道(にんげだう)」。六道の内のこの世。]

 

 兵次、

『さては。此所〔このところ〕は人界(にんかい)にあらず、神聖の住所(ぢうしよ)なり。』

と思ひつけて、事のちなみに、當世の事をさして、問けるやう、

「今、世の中、絲の亂れのごとくにして、諸方に側起(そばだち)る者、蜂の如し。いづれか、榮え、いづれか、衰へん。願くは、その行先を示し給へ。」

といふ。

 老翁、答へられけるは、

「人の心、更に豺狼(さいらう)の如く、彼を殺して、我、立ち、餘所(よそ)を打て、おのれに合(あは)せんとす。此故に、王法、ひすろぎ、朝威、衰へ、三綱五常の道、斷えて、五畿七道、互に爭ひ、國々、亂れざる所、なし。臣としては、君を謀(はか)り、君としては、臣をそむけ、或は、父子の間と雖も、快からず、兄弟、忽ちに敵〔かたき〕となり、運つよく、利に乘る時は、いやしきが、高くあがり、小身なるが、大に、はびこり、運、衰へ、勢、つきては、大家・高位も、おし倒され、聟(むこ)を殺し、子を殺せば、一家一族のわりなきも、只、危きにのみ、心を碎きて、安き暇(いとま)、更になし。」

とて、當時諸國の名ある輩、

「それ、かれ。」

と指を折り、其身の善惡と行末の盛衰を、鏡に懸(かけ)て語られたり。

 兵次、重ねていふやう、

「由利源内、今、すでに、人の債(おひもの)を返さず、己(おのれ)、威を保ち、勢(いきほひ)に誇る。此者とても、行末、久しかるべしや。」

と。

 老翁の曰、

「源内が主君、まづ、大なる不義を行ひ、權威、よこしまに振うて、民を虐(しへたげ)、世を貪る。冥衆(みやうしゆ)、是を疎み、神靈これを惡(にく)み、福壽の籍(ふだ)を削られて、其身、杻(てかせ)・械(くびかせ)にかゝり、其首に累紲(るゐせつ)の繩をかけて、肉(しゝむら)を腐(くたし)、骨を散されん事、何ぞ遠からん。源内、又、是に隨ひ、惡逆無道(ぶたう)なる事、譬ふるに、言葉なし。人の債(おひもの)を返さゞる、かれが財物(ざいもつ)は、皆、これ他(た)の寳也。己(をのれ)、いたづらに、守護するのみ。今、見よ。三年を出ずして、家運つきて、災(わざはひ)、來るべし。汝、必ず、その災を恐るべし。源内が家近く住〔ぢゆう〕せば、惡〔あし〕かりなむ。京都も靜(しづか)なるべからず。早く歸りて、山科の奧、笠取(かさとり)の谷に移り行け。」

とて、黃金十兩を與へ、道筋を敎へて、出し返す。

[やぶちゃん注:「豺狼」「犲」はこれで「やまいぬ」と訓ずる。山犬と狼(おおかみ)であるが、ここは転じて「残酷で欲深い人。惨(むご)いことを平気でする悪者」を言う。前二者の博物誌は私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 豺(やまいぬ)(ドール(アカオオカミ))」と、「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 狼(おほかみ)(ヨーロッパオオカミ・ニホンオオカミ・エゾオオカミ)」を読まれたい。

「王法」国主の政治。

「ひすろぎ」「磷(ひすろ)ぎ」。「ひすらぐ」とも読む。薄れて弱まる。

「三綱五常」儒教に於いて人として常に踏み行い、重んずべき道のこと。「三綱」は君臣・父子・夫婦の間の道徳。「五常」は仁・義・礼・智・信の五つの道義。

「五畿七道」古代日本の律令制での広域地方行政区画名。「五畿」は「畿内」と同じで、大和・山城・摂津・河内・和泉の五国。「七道」は東海道・東山道・北陸道・山陽道・山陰道・南海道(現在の四国四県に三重県熊野地方・和歌山県・淡路島を合わせた地域)・西海道(現在の本土九州七県)。

「君を謀り」主君を騙し。

「臣をそむけ」忠誠な家臣を蔑(ないがし)ろにし。

「わりなき」「理無(わりな)き」。「その対象が理性や道理では計り知れない」ことを意味し、ここでは「冷たい理屈・分別を超えて親しい・非常に親密である」ことを言う。

「危きにのみ」個人に関わる災難にのみ限って。

「安き暇」心落ち着けていられる時空間。

「輩」連中。

「鏡に懸て語られたり」あたかも鏡に映し出すかの如くにはっきり判るように語って下さ「人の債」人に掛けた負債。

(おひもの)を返さず、己(おのれ)、威を保ち、勢に誇る。此者とても、行末、久しかる「よこしま」「邪」。

「虐(しへたげ)」現在の「虐(しいた)げる」の古語「しひたぐ」の古い原発音。惨い扱いをして苦しめる。虐待する。虐(いじ)める。

「冥衆」閻魔王・鬼神・梵天・帝釈天などの人の目には見えない鬼神や諸天。

「福壽の籍(ふだ)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『冥府で衆生の行いを考課して福分と寿命を定め、それぞれを』予め『記しとどめおくという札』とある。

「杻(てかせ)・械(くびかせ)」手の自由や人体の動きを奪う首に打った木や金属で出来た監禁具。

「累紲(るゐせつ)の繩」「縲絏」とも。歴史的仮名遣は「るいせつ」でよい。「縲」は「罪人を縛る「黒い繩」。「絏・紲」はやはり「繩」又は「繋ぐ」の意で、これで「罪人として捕らわれること」をも意味する。

「笠取の谷」現在の京都府宇治市の西笠取川の流域であろう。山科の南東域。]

 

 『一里餘りをゆくか』とおぼえて、山の後(うしろ)なる岩穴より出づることを得たれば、家を出てより、三十日に及ぶ、といふ。

 妻子、待受けて、喜ぶ事、かぎりなし。

 やがて緣(たより)を求め、山科の奧、笠取の谷に引こもり、商人となり、薪を出〔いだ〕し、賣(うり)て、世を渡る業(わざ)とす。

 家、やうやう、心安く、妻子も緩(ゆる)やかなる心地す。

 その後、永祿庚午の年、松永、反逆(ほんぎやく)の事ありて、織田家のために、家門、滅却せらる。

 由利源内、此時に生捕(いけど)られて、殺され、日比(ひごろ)、非道に貪り貯へし財寳、みな、敵軍(てきぐん)の得物となれり。

 是を聞傳へて、年月を數ふれば、僅に三年に及べり。

 兵次は、今も其末、殘りて、住(すみ)けりといふ。

 

伽婢子卷之一終

 

[やぶちゃん注:「緣」当地を知れる人のあるのに頼ること。

「商人」「あきんど」と読みたい。

「永祿庚午」(かのえうま)「の年」永禄十三年。一五七〇年。「新日本古典文学大系」版脚注に、『「弾正は永禄十三年に腹かき切て死けり」(古老軍物語六・三好修理大夫松永弾正が事)。「永禄十三年庚午年、松永弾正切腹す」(甲陽軍鑑二・信玄公御時代諸大将之事)。ただし甲陽軍鑑の写本に当該箇所を「天正七年己卯』(つちのとう)『に、筒井むほんにて松永せつぷく』とるす』と注し、更に「松永、反逆の事ありて」のところに注して、『永禄十一年に織田信長に服従して領国を安堵されたが』、『元亀三年〔一五七三〕に離反、この時は許されたが、天正五年〔一五七七〕に再度謀反を企てて自滅した』とする。松永弾正久秀は天正五年十月十日(ユリウス暦一五七七年十一月十九日)に自死している。因みに、この五年後の天正一〇(一五八二)年に、ヨーロッパで用いられる西暦は、カトリック教会が主導してユリウス暦からグレゴリオ暦へ改暦された。機械換算で上記の没日を換算すると、グレゴリオ暦では一五七七年十一月二十九日となる。久秀の焚死は既に寒い中であったと思われる。]

芥川龍之介書簡抄29 / 大正三(一九一四)年書簡より(七) 井川恭宛

 

大正三(一九一四)年八月三十日・島根縣出雲國松江市内中原町 井川恭君・消印三十一日 八月卅日 東京新宿二ノ七一 芥川龍之介

 

僕は一月ばかり一の宮へ行つてゐた 每日義務のやうに泳いだりひるねしたりしてゐた その癖ひまが少しもなかつた 運動をしつゞけにするので うちにゐるときは新聞をよむのも臆劫な程くたびれてゐたのである 一の宮ヘゆく前に藤岡君から長い手紙をかけと云ふ註文があつた 所が長いにも短いにもペンをとるのがいやさにとうとう御免を蒙つてしまつた 君になると第一土佐にゐるんだか出雲にゐるんだか判然しなかつたので餘計手紙が出しそびれた 尤もこつちから出す前に何とか君の方から云つてくるだらうと云ふ橫着な了間も大分手傳つてゐたのである

今日で東京へかへつてから一週間ばかりになる 体は大分いゝ 胃病も癒つたし可成(僕としては)肥つた 瘦せまいと思つて此頃は体操もしてゐる

一の宮の町は不景氣な退屈な町だつた 僅に三里をへだてた大原[やぶちゃん注:一の宮の南方の、現在の千葉県いすみ市大原(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。夷隅地域の実質的中心地。]でさヘ一の宮にくらべると餘程潑辣としてゐる

町の中央に玉前(サキ)神社[やぶちゃん注:上總國一之宮玉前(たまさき)神社。]と云ふ玉依姬の命をまつつた社があつて その左右に五六町[やぶちゃん注:約五百四十六~六百五十五メートル。]づゝ町が開展してゐるのだが 夕方散步をすると澤蟹が砂地の往來をもぞもぞと這つてあるく程さびれてゐる 家も大抵藁葺で瓦屋根は數へる程しかない 昔の本陣だつた家の前を通ると門の金具が綠靑にまみれて 倒れかゝつた黑塀の中には棕櫚がいつも五六本そよりともせずに立つてゐる 夜はどこの家も早く戶をしめてねてしまふらしい 僕のとまつてゐた家はその數の少い瓦葺の中で更に數の少い二階家で且一の宮の町に三軒しかない土藏づくりの家であつた 商賣は麻問屋で家族は十七になる娘を頭に弟が二人ゐるきりである 兩親は二年前に前後してなくなつたさうで 御飯をたくのでも洗濯をするのでも その娘が一人でやる 一寸見ると白兎のやうな氣のするおとなしい女だがその内に中々しつかりしてゐる所があるらしかつた 第一夜十一時にねて朝四時半におきる それから御飯をたいて 家中の拭き掃除をする 家と云つても可成廣いのだから 容易な事ではない それから洗濯をする 庭の掃除をする 店の用をする 仕事をする 風呂をくみこむ 殆間斷なく働く あんなに働いてばかりゐて何か考へるひまがあるかと思ふ程働く 其おかげで僕も大分早起きになつた

[やぶちゃん注:この記載によって、この時に芥川龍之介らが泊まった離れは、未だ旅館でではなく、麻問屋のそれであったことが判る。

「土佐」この時期に井川は土佐に旅行すると先便で言っていたようである。

「澤蟹」位置的には淡水産の日本固有種である甲殻亜門軟甲(エビ)綱十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目短尾(カニ)下目サワガニ上科サワガニ科サワガニ属サワガニ Geothelphusa dehaani の可能性もなくはない(紀州の熊野新宮で海岸から近い位置で現認したことがある)が、海浜に近いここの「砂地の往來をもぞもぞ這」っているとなると、短尾下目イワガニ上科イワガニ科モクズガニ属モクズガニ Eriocheir japonica の幼体か、イワガニ上科ベンケイガニ科アカテガニ属アカテガニ Chiromantes haematocheir である可能性がより高い。]

ある時二三日腹の具合が惡くつてねた事があつた その初めの夜に夜中に便所へゆきたくなつてふと眼をさました さうしていきなり蚊帳をとび出した所が戶まどひ[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]をして 何處へ何う行つたらいゝのだかわからなつて弱つた 手さぐりをすると三方に壁があつて何方へも出られない 暫く蚊に食はれながら壁をなでまはしてゐたが やつと掛物へ手がさはつたので 自分が床の間へ上つてゐたのがわかつた そこでやつと見當がついて滿足にくらい所を便所へたどりつく事が出來た それが晚の二時と一時の間であつた だから僕の行動は僕以外に誰もしる筈はないと思つてゐた 所が次の晚に又便所へ行きたくなつて(斷つておくが妙な腹下りで晝は一度もゆきたくないが夜になると大抵三度位ゆくのだ)眼をさました 見ると枕下にランプがついてゐる 今度は戶まどひをしずにすんだ それからあくる日その娘に「あなたは一昨日の晚僕が夜中におきたのをしつてますね」つて云つたら笑つて返事をしなかつた 何にも云はずにランプをつけておいたのは今でも僕の氣に入つてゐる 戶まどひをせずにすんだのが嬉しいからぢやあない 氣がついて ついた所を見せびらかさないのが奧床しかつたのである 東京の女どもも少しかう云ふ眞似をするがいゝと思ふ

そこにゐる間中 本は殆どよまなかつた 歌も殆つくらなかつた 唯ごろごろして論語をよんでゐた 時々淚が出る程感心した所があつた(けれどもさう云ふ所の近所には又きつと道學者のすきさうな文句が澤山あつた)孔子の弟子では子路も無邪氣でかはいゝ 顏囘も殆孔子の壘を摩する位えらいらしい 子貢も頭がいゝ 原憲もしつかりしてゐる けれどもなつかしさから云ふと曾點が一番なつかしいかと思ふ 僕は孔子が弟子をあつめて爲さむとする所を訊ねると 外の奴が 大政治家になるの 功名を千載の後にのこすのと云ふ中に 曾點が獨り「暮春には春服既に成る 冠者五六人 童子六七入 沂に浴し 舞雲に風し 詠じて歸らん」と答つた[やぶちゃん注:「いつた」か。]のを何よりもゆかしく思つてゐる 孔子が喟然[やぶちゃん注:「きぜん」。溜息をつくさま。]として「我點に吳せん」と云つたのも無理はない あすこをよむと何とも云へず難有い氣がする すべての煩惱を脫離した 淸淨な心もちが何時となく心の寂からにじみ出すやうな氣がする 論語のおかげで僕も大分MORALIST[やぶちゃん注:縦書き。]になつた

[やぶちゃん注:実際には年譜を見ると、他にも、八月九日にはアイルランドの劇作家・詩人でケルト文学復興運動の中心人物の一人でアイルランドの民間伝承の収集でも知られたイザベラ・オーガスタ・グレゴリー夫人(Isabella Augusta Gregory 一八五二年~一九三二年522日)のアイリッシュ・フォークロアである‘Cuchulain of Muirthemne : the story of the men of the Red Branch of Ulster (「ムルセヴネのクーフリン:『アルスターの赤い枝の男たち』の物語」一九〇二年刊)を読了しており、さらに十一日には十二首の短歌「客中戀」(「やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集 附やぶちゃん注」参照)を脱稿(大正三(一九一三)年九月発行の『心の花』に載った)し、十五日には戯曲「靑年と死と」(リンク先は私の古い電子テクスト)をも脱稿している(大正三(一九一四)年九月一日発行『新思潮』第一巻第八号に発表)。

「原憲」子思の本名。

「曾點」曾晳(そうせき)の本名。曾子(そうし)の名で知られる。

「暮春には春服既に成る 冠者五六人 童子六七入 沂に浴し 舞雲に風し 詠じて歸らん」原文は、

莫春者、春服既成。冠者五六人、童子六七人、浴乎沂、風乎舞雩、詠而歸。

訓読すると、

莫春には、春服、既に成りて、冠者、五、六人、童子、六、七人、沂(き)に浴し、舞雩(ぶう/ぶむ)に風(ふう)し、詠じて歸らん。

「莫春」は暮春・晩春。「舞雩」は「天を祭って雨乞いをする祭壇」。ブログ「温故知新 故きを温め新しきを知る」の「子路・曾晳・冉有・公西華待坐す 論語 孔子」の現代語訳によれば(前後を含めた)、『孔子は最後に「点よお前はどうじゃ」と問われた。曾晳はいままで先生と兄弟弟子三人の問答を聞きながら、静かに琴をぽつんぽつんと弾いていた。コトリと音をさせて琴を置いて立ち上がり、「私は三君の抱負とはおよそ種類を異にしていますから」と遠慮した。ところが、孔子は、「めいめい思ったことを言ったのだから、なにも遠慮することはいらないよ」とおっしゃった。そこで、曾哲は答えて、「晩春の好時節に、春服に軽く着替えをして、元服したばかりの二十歳ぐらいの青年五六人と、十五、六歳のはつらつとした童子六、七人を連れて郊外に散策し、沂の温泉に入浴し、舞雲の雨乞い台で一涼みして、歌でも詠じながら帰ってきたいと存じます」と申し上げた。これを聞いた孔子は、深いため息をつきながら、「わしも点の仲間入りがしたいものだなあ」と言われた』とある。]

海は大へん浪が荒い 少し風がある日は二三間[やぶちゃん注:三・六四~五・四五メートル。]の奴が澎湃[やぶちゃん注:「はうはい」水が漲(みなぎ)って逆巻くさま。]としてよせてくる 始めての日にははいるとすぐ浪にひつくりかへされた 水の中で恐ろしく体をもまれる 之は死ぬかなとさへ思つた やつと水の外へ頭が出たら腰までしかない所まで押かへされてゐた 頭へかぶつてゐた手拭も何もその時どこかへ持つてかれてしまつた それからも同じやうな目に二三度あつたが そのうちに浪をくゞる術をおぼへて少し位な狂瀾怒濤は何でもなくなつた

一の宮には蔭山金左エ門も堀内利器と云ふ專賣特許の井戶堀り機械のやうな名の友だちもゐたが 君のしつてる上瀧嵬[やぶちゃん注:「かうたきたかし」。複数回既出既注。]も八月の始めにはやつて來た 所が之も第一の日に浪にひつくりかへされて やつと浮いてみると眼鏡がどこかへ行つてしまつたので常人ばかりか僕たちまで大分迷惑した 近眼も五度となると大分不便なものだ 第一眼鏡屋へ行つてもそんな度のつよいのはない その上眼鏡をかけずにゐると何も見えないで 頭痛計りするさうだ そこでその日の中に東京へひきかへした あとで「一の宮の海を一眼みる爲に金を三圓つかつて一日むだにくらしたと思ふとがつかりする」とかいて來たのは滑稽だつた

一の宮は加納子爵の領國だが今の子爵のおぢいさんの何とか院殿が大へん明君だつたさうだ 前にかいた堀内と云ふ男のおぢいさんの堀内村次と云ふのが家老で 加藤藤内と云ふ男と一緖に殿樣の御前へ出てゐると 歌が出來たと云つてかう云ふ歌をかいてみせたさうである(丁度黑船が日本へ來た時分である)

   黑船ヘ一番槍を九十九(つくも)潟先を爭へ村次藤内

そこで村次が聲に應じて

   我こそは一番槍を九十九潟藤内などは及び申さぬ

とやると藤内もまけぬきになつて

   及ばぬか及ぶか今度九十九潟一番槍は加藤藤内

とやつたので君臣三人相顧みて一笑したさうだ

村次氏はまだ健在で刀劍と歌と西瓜が大すきだと云つてゐる 一度歌のお相手をして「おち方の峯の霞もほのぼのと櫻にあくる志賀の山越」「立田川鹿のなく音のしげゝれば紅葉は枝にたへずやありけむ」と云ふ定家鄕のやき直しのやうな歌をつくつたら大へんほめられて恐縮した

一の宮の町から少しはなれた所に洞庭と云ふ湖があるがこの名もその何とか院殿がつけたんださうだ 岸に櫻が澤山あつてその中に壺の石文に擬した石碑が立つてゐる 刻してあるのは櫻樹百五十株を天女に獻ずる文で之も亦その何とか院殿の風流の餘戲である事は云ふ迄もない

[やぶちゃん注:「加納子爵」加納久宜(ひさよし 嘉永元(一八四八)年~大正八(一九一九)年)は最後の上総国一宮藩主。

「おぢいさんの何とか院殿」先々代の上総一宮藩第二代藩主加納久徴(ひさあきら 文化一〇(一八一三)年~元治元(一八六四)年)。但し、第三代目も四代目久宜も孰れも養子で直系血族ではない。当該ウィキによれば、『若くして山鹿流軍学を学ぶとともに、歴史・文学・芸術を愛する教養人でもあり、文武に優れた藩主であった』。天保一五(一八四四)年、『領地の一宮にあった灌漑貯水池を拡張し、中国の洞庭湖の名をとって「洞庭湖」と名づけ、記念碑を建てた』(ここ)。『内憂外患の幕末動乱においては、領地の海岸に武士溜陣屋を設けて藩兵の訓練を行ない』、天保一五(一九四四)年には『高島秋帆の指導で大砲を鋳造させ』、弘化二(一八四五)年には『他藩に先駆けて』、『九十九里浜に砲台を建設』し、『さらには家臣のみならず』、『町民や農漁民を募り、オランダ式の部隊編成や練兵訓練を施して「加納の陣立て」と評判を呼んだ』。文久三(一八六三)年十一月に「真忠組(しんちゅうぐみ)の乱」(房総半島・九十九里浜片貝地方で蜂起した攘夷派の民間集団による決起)が『起こると、下総佐倉藩や多胡藩、陸奥福島藩と協力して』文久四(一八六四)年一月に『鎮圧するという功績を挙げた』とある。

「堀内」既に出た芥川龍之介をここ一の宮に誘った堀内利器。

「堀内村次」不詳。

「加藤藤内」不詳。

「おち方の峯の霞もほのぼのと櫻にあくる志賀の山越」元歌は定家の「櫻花ちらぬこずゑに風ふれて照る日もかをる志賀の山ごえ」か。

「立田川鹿のなく音のしげゝれば紅葉は枝にたへずやありけむ」同前で「龍田川紅葉亂れて流るめり渡らば錦中や絕えなむ」か。]

東京へかへつてからも何にもしない 折角肥つたのがやせやしないかとそれのみ心配してゐる 何でも烏啄骨の胸に接してゐる端より肩胛骨に接してゐる端の方が上つてゐればいゝのださうだ 下つてゐれば肺病で平ならば用心する必要があると云ふのだからおそろしい 鏡へむかつてみると僕のは平よりも少し上つてゐる位だ 君もやつて見給へ これが何でも一番確に呼吸器の强弱をみる方法なんださうだ 下の圖をみるべし

[やぶちゃん注:「烏啄骨」「うたくこつ」と読む。「烏口骨」(うこうこつ)とも呼ぶ。脊椎動物の肩帯にある骨。両生類・爬虫類・鳥類に発達し、哺乳類では退化して、肩甲骨の上部にカラスの嘴のように体側方向に突き出た烏口突起として残存する。]

Utakukotu

[やぶちゃん注:底本の岩波旧全集よりトリミングした。キャプションは、右が、「これがそれ」、左が、「より上つてゐればいゝのだ」である。]

僕は卒業論文に W. Moris をかかうと思つてるんで本をとりよせたいんだが戰爭でお斷りを食つてる 前にたのんだ本も來るか來ないかわからないさうだ 何より之が悲觀だ 事によるとプリラフアエライト ムーブメント全体にするかもわからないが

[やぶちゃん注:「W. Moris」イギリスの詩人・工芸家・思想家(マルクス主義者)ウィリアム・モリス(William Morris 一八三四年~一八九六年)。初め、建築家を志したが、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの勧めで画家志望に転ずる。一八五〇年代の終わりには、広く生活環境の美化を目ざすようになり、一八六一年に知人たちとともに「モリス・マーシャル・フォークナー商会」を設立(一八七五年には「モリス商会」となった)、壁面装飾からステンドグラス・家具・金工に至る室内装飾の一切に取り組んだ。一八七七年には最初の講演「装飾芸術」を行い、また、「古代建築保存協会」を設立するなど、対社会的なアピールが始まった。詩人としても、すでに「ジェイソンの生涯と死」(The Life and Death of Jason :一八六七年)などで知られていたが、文学に於けるその唯美主義的傾向は、工芸家としてのモリスの中世礼讃と交錯しつつ、やがては十九世紀文明への批判という形をとることになる。則ち、モリスが相対する社会とは、産業革命が招来した愚かしい機械の時代、そして貧富の差が極端な時代であった。日々の労働が創造の喜びに包まれたかつての時代を復興するため、彼としては社会変革にとりかかる必要があり、社会主義を宣言して政治活動に身を投じることになった。「ユートピア便り」(News from Nowhere :一八九〇年)はこの時期の文学作品である。工芸方面の仕事も多くの領域に亙って続けられたが、彼の仕事そのものが二十世紀に向けての工芸の道を切り開いたとは言い難く、多分に懐古的な傾向さえ見られる。しかし、一八八〇年代に入ってモリスの教えに刺激された各種工芸家の組織が形成され、近代デザイン運動の発端を開いた。この動きは「アーツ・アンド・クラフツ運動」(Arts and Crafts Movement)と呼ばれる。晩年は「ケルムスコット・プレス」を設立(一八九一年)、印刷・造本の仕事に没頭し、ここでケルムスコット版チョーサーとして知られる「カンタベリー物語」(一八九六年)などが印刷・製本された。モリスの思想は大正から昭和初期にかけて日本にも紹介され、各方面に大きな影響を与えた。柳宗悦(やなぎむねよし)らによる日本の「民芸運動」もモリスの理念の展開として捉えられる(以上は主文を小学館「日本大百科全書」に拠った)。芥川龍之介の卒業論文は「ウィリアム・モリス研究」(『文藝消息』(大正五(一九一六)年六月三日発行)では「詩人ウヰリアム、モリス」とある)であったが、龍之介の執筆活動が盛んになった中、内容は「Young Morris」に縮小化された(卒論の完成は大正五年四月月末で、五月下旬に卒論の合格が出、六月六日に口頭試験、十五日に卒業試験が終わり、七月十日卒業した。卒業成績は二十人中二番であった。以上は新全集宮坂年譜に拠った)。なお、同論文は戦災で焼失し、残念ながら、現在、我々はその完成論文を読むことは出来ない。]

この頃フランシス上人の傳記を讀ながらよんでゐるが時々妙な事がかいてあるので面白くつていゝ 何でもフランシスと弟子のマセオと二人で旅をしてゐると道が三つになつてゐる所へ出た 一つはフイレンツエヘ 一つはシエナヘ 一つはアレツオヘゆく道である そこでマセオがどつちへ行かうと云ふとフランシスが己がいゝと云ふ迄小供のやうにどうどうめぐりをしろと云ふ それからマセオは一生懸命になつてぐるぐるまはつたがいつ迄たつてもフランシスがいゝと云はない 何度も眼がまはつて地びたへ倒れたが又立つてぐるぐるまはる とうとうしまい[やぶちゃん注:ママ。]にフランシスが「よし」と云つた時に顏がシエナの方へむいてゐたので 二人共そつちへゆく事にしたさうである これが神の示した方角だつてフランシスが云つてゐるが唯マセオが弱つたらうと思ふとおかしくなる 北伊多太利亞[やぶちゃん注:ママ。]の街頭で坊主がぐるぐる獨樂のやうにまはつてるのは誰が見ても滑稽にちがひない

[やぶちゃん注:「フランシス上人の傳記」小鹿原敏夫氏の論文「菊池寛『真似』について」(PDF・『京都大学國文學論叢』二〇一二年九月発行所収)によれば、この時、芥川龍之介が読んでいた聖フランチェスコの伝記は、『英訳されたサバティエの『聖フランチェスコ伝』(1912)か、カスパート著『アッシジの聖フランチェスコ伝』(1912)であったと思われる』とあった。]

新思潮の連中は成瀨と久米と菊池と山宮氏とはたつしやなんだらうと思ふ 豐島君は肺尖がよくなつたかどうかしらない 山本や土屋は多分旅に出てゐるんだらう 石田君が九州や木曾から二三枚たよりをよこした 谷森君も京都からたよりがあつた あとは誰が何をしてゐるんだかちつともしらない

いよいよ城下良平氏が京都へゆく。お世話になる機會があるかもしれないからよろしく願ふ 僕も來年の春休みには櫻をみにゆかうかと思ふ さうしたら僕もよろしく願ふ

[やぶちゃん注:「城下良平」(?~昭和四六(一九七一)年)は三中の芥川龍之介の三年後輩。大正二(一九一三)年卒。新全集の「人名解説索引」によれば、『一時』、『芥川の淡い同性愛の対象とされた』とある。]

田端のうちは十月初めに引こせる程度に出來た 二階の設計は君と二人で考へたのと大体同じだ 圖の如し

Tabataakutagawake2kai

[やぶちゃん注:同前。上図のキャプションは中央上が「書棚」、右手上から「壁」・「障子」、中央に「八疊」、下方中央に「廊下」、左上から「戸棚」・「板の間」、その左に「窓」、下方に「戶袋」。下図は上の左部分の側面立体図であろう。]

炬燵もきつた 今年の冬やすみに東京でお正月をするといゝ 今度は今よりひろいから君がゐるのにも萬事に大分便利だ 二階が二間あるから一間づゝ一人でゐる事が出來る

シユレーデルさんの奧さんの事が朝日に出てた 日本の子供をよくそだてゝてえらいと云ふだけにすぎない ユンケルはどうしたかわからない あいつは愛國家だからこんな時に困るだらう

オイケンがこなくなつたので三並さんもがつかりしたらう

[やぶちゃん注:「シユレーデル」ドイツ人牧師エミール・シュレーデル(Emil Schroeder)。新全集の「人名解説索引」によれば、『普及福音新教伝道会教師』で、明治四一(一九〇八)年に『来日』し、『小石川上富坂町に』、三田の統一教会牧師で一高のドイツ語教師でもあった『三並良』(みなみはじめ)『の協力を得て』、『日独学館寄宿舎を開設した』人物で、『井川恭』・『長崎太郎』・『藤岡蔵六らが寄宿しており』、『芥川もたずねたことがある』とある。]

「ユンケル」既出既注。「あいつは愛國家だからこんな時に困るだらう」ドイツが一九一四年七月二十八日に勃発した第一次世界大戦で、本邦は八月二十三日、ドイツと国交を断絶していた。

「オイケン」ドイツの新理想主義の哲学者ルドルフ・クリストフ・オイケン(Rudolf Christoph Eucken 一八四六年~一九二六年)。既出既注。筑摩全集類聚版脚注に、『来日予定だったが、世界大戦が起こり』、『中止となったことをさす』とある。

 この後は一行空けとなっている。]

 

最後に別封小包は君の妹さんに差上げて頂きたい もつとずつと早く送るのだが君が京都や土佐にゐたのでかへるのを待つてゐたのだ ずつと早くではわからないかもしれない いつか綿を頂いた時に差上げるつもりで買つて來ておいたのだ つまらないものなんだからお禮なんぞ云つて來ちやあいけない 勿論僕の家から差上るので僕からぢやあない

  ユンケル先生を憶うてうたへる

    先生の忠實なる門弟 壽陵余子

今ぞかも頭禿げたるユンケルはゆたにたゆたにものおもふらむ

ユンケルよ時こそ來ぬれ「ラインヘ」の歌高らにうたひ出よかし

國がため思ひなやせそ帶皮もカラアもゆるくなりにけらずや

眉目(まみ)靑く頭禿げたる獨乙びとその獨乙びと見ればかなしも

日本に住みもはつべき望さへあちこちとしもなりにけらしな

[やぶちゃん注:最後の部分(前書と短歌)は全体が三字下げであるが、ブラウザの不具合を考えて引き上げた。「先生の忠實なる門弟 壽陵余子」は前書の下方に九字下げで配されてある。太字「あちこち」は底本では傍点「○」である

「壽陵余子」芥川龍之介の号の一つ。既注であるが、後に龍之介が書いた「骨董羹 ―壽陵余子の假名のもとに筆を執れる戲文―」(大正九(一九二〇)年四・五・六月発行の雑誌『人間』に「壽陵余子」の署名で(芥川龍之介のクレジットなしに)連載されたもの。リンク先は私の電子化注)を参照されたい。]

芥川龍之介書簡抄28 / 大正三(一九一四)年書簡より(六) 井川恭宛短歌二十五首

 

大正三(一九一四)年七月(年月推定)・井川恭宛(転載)

 

麥畑の萠黃天鷲絨芥子の花五月の空にしら雲のわく

うかれ女のうすき紫よりかきつばたうす紫ににほひそめけむ

  京都旅情 三首

春漏の水のひゞきかあるはまた舞姬のうつ遠き皷か

燕の半剝げたる金泥の欄に糞する春の夕ぐれ

四條橋ロマンチツクの少年は千鳥をきゝて淚しにけり

  奈良卽興 二首

春雨の朱雀大路をゆくときはうすむらさきのおほがさもがな

しろがねの目貫の大刀をはきし子の行方しらずも春の雨ふる

  潮來 二首

あそび屋の瓦にふりし屋根の棟たんぽぽさけり春やいづこに

三味線の音こそ流るれ曇り日の廓の裏の玉葱の畑

カンフルのあはきうれひに櫻さく白しまばゆし病室の窓

かはたれの櫻はさびしうす黃なる水藥のめばしらしらとちる

草よ草よすゝびし町の屋の棟に小さく黃いろき花つけにけり

ロザリンの白きジユポンをなつかしむ五月の朝のひなげしの花

空色のうすものしたる洋妾がバルコンにかふ桃色いんこ

  歌舞伎座三月狂言所見 二首

獨吟の春になやめるけはひより舞臺の櫻ちりそめにけむ

ほの赤く岐阜提燈もとぼりけり「吉野靜」の春の夕ぐれ

なやましく春はくれゆく踊子の金紗の裾に春はくれゆく

刈麥のにほひに雲もうす黃なる野薔薇のかげの夏の日の戀

薔薇の風 DURIAN GRAY の頰をふくうらわかき日のかなしみをふく

やわらかくふかむらさきの天鵞絨をなづるこゝちか春のくれゆく

若き日の朽つるにほひかあるはまたさうびの花のしぼむにほひか

紅き薔薇胸にはさめるみやび男が靴をぬらしてはるゝ雨かな

たよりなく日ごとにふるふ春淺き黃水仙(ナツシイアス)の戀ならなくに

白芥子の花もなつかし丈長の髮つやゝかに君のゆふ時

夕つゞや露臺に白き芥子おきて君まつ宵は近づくらしも

 

[やぶちゃん注:これはまず、転載(底本の「後記」によれば、以降の井川からの書簡は一部を除いて、角川書店版「芥川龍之介全集別巻」に拠ったものである旨が記されてある)であることから、書簡本文がカットされている可能性が高いと思われる。また、これは底本に岩波旧全集では、一の宮滞在中の書簡群の間に挿入されてあるのだが、これは七月と推定されたことから、日付確定書簡の最後にこれを配置したに過ぎないと判断され、そもそもこの二十五首の中に、一首たりとも一の宮での詠と思しきものが全く見当たらないことからも、これは一の宮に出発する以前の七月上・中旬或いはそれ以前のものと考えられる。しかも、少なくともこれらの短歌群の作品内時制には激しい時制の隔たりがある。例えば、「京都旅情」「奈良卽興」とあるが、芥川龍之介はこの直近に京都・奈良には旅していない。確認し得るそれは、五年も前の府立三中五年時の明治四二(一九〇九)年七月のことであり、「潮來」とある旅も、明治四十三年三月末の三中卒業直後に三中の友人砂岡豊次郎と遊んだ時のことである(未定稿紀行「潮來行」有り)。則ち、これらは古い手帖に記した初期形はあったのかも知れないが、高い確率で回想吟として詠まれたものと私は考えている。だいたいからして、後で個々に示すが、何よりもこの二十五首の内の七首は既に述べた大正三(一九一四)年五月発行の『心の花』に「柳川隆之介」の署名で掲載された「紫天鵞絨(むらさきびろうど)」十二首の中の相同歌及び改稿された相似歌なのである。

「麥畑の萠黃天鷲絨芥子の花五月の空にしら雲のわく」「やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集 附やぶちゃん注」と対照されたいが、『心の花』の「紫天鵞絨」の、

 麥畑の萌黃天鵞絨芥子(けし)の花五月の空にそよ風のふく

の相似歌。

「うかれ女のうすき紫よりかきつばたうす紫ににほひそめけむ」同じく「紫天鵞絨」の掉尾、

 うかれ女のうすき戀よりかきつばたうす紫に匂ひそめけむ

の表記違いの相同歌。

「春漏の水のひゞきかあるはまた舞姬のうつ遠き皷か」同じく「紫天鵞絨」中の、

 春漏の水のひゞきかあるはまた舞姫のうつとほき鼓か(京都旅情)

の表記違いの相同歌。

「カンフル」kamfer(オランダ語)・Kampfer(ドイツ語)。樟脳の医薬名。中枢神経興奮薬。局所刺激作用を持ち、強心・血圧上昇・呼吸増大をきたす。嘗ては衰弱時の興奮剤としてカンフル注射液はよく用いられたが、作用が不確実なことから、現在では殆んど用いられない。なお、カンフル自体はそのままでは心拍運動への抑制作用を有するが、体内で酸化されると、逆に強い強心作用を呈するものである。なお、この一首と次の一首は、病床のそれで、特に次のものは、描写は龍之介自身のように読める。但し、これ以前、春の桜時節に彼が病臥・入院した記録は年譜上は見出せない。

「ロザリン」ウィリアム・シェイクスピア作の喜劇「お気に召すまま」(As You Like It :初演一六〇〇年頃)の主人公で前公爵の娘ロザリンド(Rosalind)。

「ジユポン」ズボン。フランス語の jupon(ジュポン)が語源。但し、jupon は女性がスカートの内側に履くペチコートのことであり、男性が身に纏うゆったりとした衣服を言うアラビア語の「djubba」が語源。但し、ここは男性用のぴっちりしたズボン(今で言う気持ちの悪い発音の「パンツ(↗)」である)のことである。同戯曲でロザリンドは男装する。当該英文ウィキのこの画像を参照。

『ほの赤く岐阜提燈もとぼりけり「吉野靜」の春の夕ぐれ』同じく「紫天鵞絨」中に、

 ほの赤く岐阜提燈もともりけり「二つ巴」の春の夕ぐれ(明治座三月狂言)

という

確信犯の改変相似歌がある。そこで注したが、「紫天鵞絨」の方に出る「二つ巴」は歌舞伎の外題で、木村円次作「増補双級巴」(ぞうほふたつどもえ)のことで、幾つかのピカレスク石川五右衛門を扱った作品の名場面を繋ぎ合わせた狂言である。岩波版新全集第一巻の清水康次氏の注解に、昭和三(一九二八)年歌舞伎出版部刊の木村錦花「明治座物語」によれば、当時、日本橋久松町にあった明治座では大正三(一九一四)年三月に「増補双級巴」他を公演しているとある。但し、こちらは「歌舞伎座三月狂言所見」とあって、劇場が異なる。「吉野靜」とは、義経と別れた後の静の物語を描いた能を元にした歌舞伎狂言かと思われるが、私は文楽好きの歌舞伎嫌いなのでよく判らない。能の「吉野靜」も桜が絡むものだから、問題はないが、こういうゲスな改変は詩歌として品位が著しく下がるもので、やるべきではない。しかも、一回、公にした短歌を、である。ちょっと失望した。

「なやましく春はくれゆく踊子の金紗の裾に春はくれゆく」同じく「紫天鵞絨」中に、

 なやましく春は暮れゆく踊り子の金紗の裾に春は暮れゆく

とあるものの相同歌。」「やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集 附やぶちゃん注」で私はこの歌に注して、

   *

底本後記によれば、掲載された『心の花』では、

なやましく春は暮れゆく踊り子の金紗の裾に春は暮れにけり

となっているとあり、『小型版全集に據り改む。』とあるのであるが、そう改めた根拠が全く示されていない。これはおかしな校訂である。短歌の苦手な私でさえ初読時――「暮れゆく……暮れゆく」とは拙いな――と感じた。字余りであっても断然、「暮れにけり」の方がいい。私はこちらを芥川の真作と採るものである。

   *

としたが、あくまでここで龍之介が『心の花』掲載形に反してこう書くということは、この原歌はやはりこの「春は暮れゆく」のリフレインだったらしい。これはしかし、短歌と言うよりは、定型詩の印象だが、しかし、まさにそこが龍之介の新短歌の確信犯だったものらしい。

「刈麥のにほひに雲もうす黃なる野薔薇のかげの夏の日の戀」同じく「紫天鵞絨」中の、

 刈麥のにほひに雲もうす黄なる野薔薇のかげの夏の日の戀

の完全相同歌。

「DURIAN GRAY」オスカー・ワイルド(Oscar Wilde 一八五四年~一九〇〇年)唯一の長編幻想小説にして私の好きな「ドリアン・グレイの肖像」(The Picture of Dorian Gray :一八九〇年刊)の主人公。

「やわらかくふかむらさきの天鵞絨をなづるこゝちか春のくれゆく」「やわらかく」はママ。同じく「紫天鵞絨」の巻頭を飾る、

 やはらかく深紫の天鵞絨をなづる心地か春の暮れゆく

表記違いの相同歌。

「若き日の朽つるにほひかあるはまたさうびの花のしぼむにほひか」私の号「心朽窩主人」は偏愛する中唐の詩人李賀の「贈陳商」の冒頭の一節「二十心已朽」(二十にして 心 已に朽ちたり)に拠るものだ。私の「心朽窩主人印 謝李賀」を見られたい。

「たよりなく日ごとにふるふ春淺き黃水仙(ナツシイアス)の戀ならなくに」「ナツシイアス」のルビはママ(判読の誤りが疑われる)。これは、こちらの大正二(一九一三)年三月二十六日附山本喜誉司宛書簡に、

 たよりなく日ごとにふるふ春淺き黃水仙(ナツシイサス)の戀ならなくに

として既に出現している。]

2021/04/05

大和本草附錄巻之二 魚類 ヲキメバル (ウスメバル? 同定不能)

 

ヲキメバル 長不過數寸メバルニ似テ肥厚ナリ味メバル

ヨリ美シ傍ノヒレ色純黑ニシテ長シ不然モ亦アリ目

ハ。メバルヨリ小シ又黑㸃多キ者アリ其形狀ハ頗同シ

テ其色異リ○ヲキメバル二種アリ一種ハ其形モ目ノ

大ナル事モ常ノ目バルノ如シ目ノ緣赤ク背ノ色紅ナ

リ黑キヲキ目バルトハ異なり細鱗ナリ是亦長事

數寸ニ不過

○やぶちゃんの書き下し文

をきめばる 長さ數寸に過ぎず。「めばる」に似て、肥厚なり。味、「めばる」より美〔(よ)〕し。傍〔(かたはら)〕のひれ、色、純黑にして、長し。然ざるも亦、あり。目は、「めばる」より小(ちいさ)し。又、黑㸃多き者あり。其の形狀は、頗る同〔じく〕して、其の色、異〔(ことな)れ〕り。

○「をきめばる」〔は〕、二種あり。一種は、其の形も、目の大なる事も、常の「目ばる」のごとし。目の緣(ふち)赤く、背の色、紅なり。黑き「をき目ばる」とは異〔(こと)〕なり、細鱗なり。是れ亦、長き事、數寸に過ぎず。

[やぶちゃん注:まずは、既に「メバル」類について私が既に概略を注した「大和本草卷之十三 魚之下 目バル (メバル・シロメバル・クロメバル・ウスメバル)」を参照されたい。名称のみから考えると、現在も俗称で「沖メバル」と呼ぶ、

条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目カサゴ目カサゴ亜目フサカサゴ科又はメバル科メバル属ウスメバル Sebastes thompsoni

となるのだが、幾つかの点で激しい疑問がある。益軒の記載の順に挙げると、まず、

✕サイズ

「長さ數寸」は六掛け超でも十センチメートルに足らないが、ウスメバルは外洋性で、所謂、「メバル」類の中でも成魚は最も大型(三十センチメートル)になる

✕身の厚さ

「肥厚」と言っているが、ウスメバルは側扁して平たい

✕味

個人差があるが、恐らくは標準的にはメバル一種時代の学名を引き継いだアカメバル(Sebastes inermis )の評価が一番高いと思われる。

✕胸鰭

「色、純黑にして、長し」とし「然ざるも亦、あり」とするものの、前者であれば、胸鰭は明らかに赤或いは赤黄色を帯びており、ウスメバルではない。はっきり言って「純黑」となると、外洋に面した岩礁部に多いクロメバル(Sebastes ventricosus )に限定される。但し、シロメバル(Sebastes cheni )も生時ではやや黒っぽい。

✕眼球の大きさ

「目は、「めばる」より小(ちいさ)」いとするが、同一サイズならば、特に小さいとは言えない。ただ、そもそもが、頭から個体長が短いとしているのだから、相対的に小型個体の目が小さくなるのは当然であり、これは同定属性としては無効と言える。そもそも長くメバルが一種とされてきた経緯には「眼張」という共通性があったからで、小さなものはメバルでさえないのである。

△斑紋

「黑多き者あり」というのを、かなりはっきりした波型の相応に部分的に固まった暗色斑紋の意でとるなら、ウスメバルに合う。ところが、よりそれがウスメバル以上に目立つとなると、今度は新手の、

トゴットメバル Sebastes joyneri

の方が分がよくなるのである。

 しかも、益軒は分類を混乱させるように、「をきめばる」には別に「二種あ」るとして、その新たな「一種は、其の形も、目の大なる事も」、『常の「目ばる」のごとく』だが、『目の緣(ふち)赤く、背の色、紅なり』と言いつつ、『黑き「をき目ばる」とは異〔(こと)〕なり、細』い鱗で、しかもまたしても「是れ亦、長き事、數寸に過ぎず」と小型だというのである。前者の眼の縁が赤く、背部が斑点状に紅く、背鰭の中部も赤く見えるというのは、もう「アカメバル」の特徴である。細い鱗というのは私にはよく判らない。個体が小さければ、鱗は相対的に細くなるから、これは識別根拠としてやはり無効ではないか? 万一、有意に細いとなれば、それは「メバル」類とは異なる別な種ではないか? ともかくも、限定出来ると思っていたこれが、意想外の同定不能となってしまった。悔しい。]

浅井了意「伽婢子」電子化注始動 / 序(二種)・巻之一「竜宮の上棟」

 

[やぶちゃん注:満を持してカテゴリ「伽婢子」を始動する。カテゴリ「怪奇談集」は一千記事を超えてしまい(現在、千百八十五件)、過去記事の全表示が出来なくなっていることと、本篇が有意に長いことから、独立させた。

 「伽婢子」(とぎはうこ・おとぎはうこ)は御伽婢子とも表記する、寛文六(一六六六)年に板行された仮名草子の怪奇談集で、全十三巻。作者である仮名草子作家浅井了意(?~元禄四(一六九一)年)は元武士で、後に浄土真宗の僧。号は瓢水子松雲(ひょうすいししょううん:現代仮名遣)・本性寺昭儀坊了意など。初め、浪人であったが、後に出家し、京都二条本性寺の住職となった。仮名草子期における質量ともに最大の作家であるが、その生涯は不明な点が多い。「堪忍記」・「可笑記評判」・「東海道名所記」・「浮世物語」・「狗張子(いぬはりこ)」(本篇の続編。本電子化の後に電子化注を行う予定)などの他に、古典注釈書である「伊勢物語抒海」・「源氏雲隱抄」や、地誌「江戶名所記」・「京雀」、仏教注釈書「三部經鼓吹」・「勸信義談鈔」など、その著述範囲は多岐に亙る。本書は江戸前期に数多く編まれた同種の怪奇談集の先駆けとなった著名なものである。なお、私は既に、限りなく彼の著作と考えられている壮大な鎌倉通史史話「北條九代記」の全電子化注を二〇一八年に終わっている。因みに、題名は、ネットの社団法人日本人形協会社団法人日本人形協会編「人形辞典」によれば、『ほうこ〔這子・婢子〕』で、『平安時代』『からある小児の遊び物。はじめは天児』(あまがつ:祓(はらい)に用いる人形の一種。平安時代からあり、形代(かたしろ)から進歩したもので、十文字形に作った棒の上部に、きれでくるんだ顔をつけた小児の祓いに用いられるもので、日本の人形の祖型の一つ(ここも同辞典の記載を参照した))『と同様、小児の祓いの人形だった』。『首と胴は綿詰めの白絹、頭髪は黒糸、這う子にかたどってあるので、こう名付けられた。別名をお伽婢子』(おとぎぼうこ)『ともいう』とあるのに由来する。怪談集の標題にこれを配して、魔除けと洒落たものであろう。]

 底本は所持する昭和二(一九二七)年刊の日本名著全集刊行會編になる同全集の第一期の「江戶文藝之部」の第十巻である「怪談名作集」(正字正仮名)に拠ったが、不審な箇所は早稲田大学図書館「古典総合データベース」の元禄一二(一六九九)年の版本画像と校合した。注は私の躓いた部分を中心にストイックに附すこととし、判り切った箇所には附さない(つもりだが、若い読者を考えて老婆心から添えてしまうことは今まで同様に多いであろう。元高校国語教師時代のくどさが抜け切らぬのである)。また注によっては、所持する岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」(一九八九年刊)及び岩波書店「新 日本古典文学大系」の第七十五巻の松田・渡辺・花田校注「伽婢子」(「おとぎぼうこ」と訓読している。二〇〇一年刊)他を一部で参考にした(抄訳を含め、訳本は数十冊所持する。引用する場合はそれぞれ示した)が、安易な引用は厳に押さえ、私自身の探索と理解と納得によってオリジナルな言葉で記すことを心掛ける。なお、底本では目次で『とぎはふこ』と訓じているものの、序では原本を見るに『とぎぼうこ』と振ってある。なお、「上智大学木越研究室」の新字の全データ(但し、序の漢文部は訓読されてしまっている)を本文の加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる(但し、底本の質が悪いのか、誤字或いは判読・翻字の誤りと思われるものが、相当数、ある。しかし、最後の奥付を見るに、底本は私のものと全く同じ版本である。頗る不審である)。

 読み易さを考えて、シークエンスごとの改行や、句読点・記号等をオリジナルに追加した。振り仮名は一種目の「序」などでは、かなり多く附されてあるが、( )表記では五月蠅くなるので、読みが振れると私が判断したものや、難読と思われるもの、特異な読みを施してあるものに限って〔 〕で私が推定で読みを歴史的仮名遣で附した(【2021年10月17日追記】なお、まことにお恥ずかしいこと乍ら、「伽婢子卷之七 死亦契」以降、私の推定読み挿入を〔 〕でなく、《 》にしてしまい、それに気づいていなかった(他の複数の電子化で統一しているわけではないため、うっかりそれでずっと続けてしまい、最早、修正が甚だ面倒なほどに先までやってしまったので、悪しからず、ご了承戴きたい。心朽窩主人敬白)。本文でもそうすることとする(但し、底本本文はあまり振られていない)。逆に底本に振られていなくても、若い読者が読み誤りそうな単純な読みについては、本文の平仮名書きの箇所が遙かに多い早稲田大学図書館「古典総合データベース」の元禄版で補った(その違いは表示していない)。ママ注記はこれも五月蠅くなるばかりなので、原則、しないこととした。また、序の後に配されてある「目錄」は本文電子化注を完了した後に配することとする。正字か略字か迷ったものは正字を採用した。踊り字「〱」「〲」は正字化した。挿絵は所持する諸本を比較して最良のものを毎回選んだため、引用元は一定していない。なお、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の元禄版は絵が綺麗だが、明らかに書き変えられているので、比較して見られんことをお薦めする。

 長年、偏愛してきた作品であるが、あまりに著名であることと、分量が多いことから、躊躇してきたが、ここで一念発起し、オリジナルな注を心掛けて始動することとした。注は短くて済むものは文中に、纏めて附したものは、ソリッドなシークエンスと判断した後に附して、その後を一行空け、本文だけを読みたい方の便宜を図ったつもりである。【二〇二一年四月四日 藪野直史】]

 

  伽婢子

 

伽婢子序

 夫、聖人は、常(つね)を說(とい)て、道ををしへ、德をほどこして、身をとゝのへ、理(り)をあきらかにして、心をおさむ。天下國家、その風(ふう)にうつり、その俗(しよく)を易(かふ)ることを宗(むね)とし、總て、「怪力亂神をかたらず」といへ共、若(もし)止(やむ)ことを得ざるときは、亦、述著(のべあらは)して、則(のり)をなせり。

 こゝをもつて、「易」には龍(れう)の野(や)に戰かふといひ、「書」には鼎(かなへ)の中に雉の鳴(なく)ことをしるし、「春秋」には亂賊の事をしめし、「詩」には「國風鄭風(こくふうていふう)」の篇を載(のせ)て、後世につたへて、明らけき鑑とし給へり。

 況や、佛經には、三世(ぜ)因果の理ををしへて、四生流轉(ししやうるてん)の業(たね)をいましめ、或は神通(じんづう)、或は變化(へんげ)の品(しな)品を說(とき)給へり。

 又、神道の幽微なる、草木土石にいたるまで、みな、その神靈ある事をしるして、不測(しき)の妙理をあらはせり。

 三敎(げう)、をのをの、靈理(れいり)・奇特(きどく)・怪異・感應(かんをう)の、むなしからざることを、をしへて、其道にいらしむる媒(なかだち)とす。

 聖經(せいけい)・賢傳、諸史百家の書、すでに牛(うし)に汗(あせ)し、棟(むなぎ)に充(みつ)といふ。

 是、本朝記述の編、古今筆作(ここんひつさく)の文(ふみ)、何ぞ、只、五車(しや)に積(つむ)のみならんや。

 中にも花山法皇の「大和物語」、宇治大納言の「拾遺物語」、其外、「竹取」、「うつほ」の「俊景(としかげ)」の卷をはじめて、怪(あやし)く奇特(きどく)の事共をしるせるところ、手を折て數(かぞふ)るに遑(いとま)あらず。

 然るに、此「伽婢子(とぎぼうこ)」は、遠く古へをとるにあらず、近く聞つたへしことを載(のせ)あつめて、しるしあらはすもの也。

 學智ある人の、目をよろこばしめ、耳をすゝぐためにせず。只、兒女の聞(きく)を、おどろかし、おのづから、心をあらため、正道におもむく、ひとつの補(をきぬい)とせむと也。

 その目をたつとびて、耳を信ぜざるは、古人のいやしむ所也。

 陰陽五行(いんやうぎやう)、天地の造化は廣大にして測(はかり)がたく、幽遠にして知がたし。

 時(とき)、面(まのあたり)見ざるをもつて、今、聞所を疑(うたがふ)ことなかれと、云尒(しかいふ)。

 干時寬文六年正月日

         瓢水子松雲處士自序

 

[やぶちゃん注:底本には原本の影印があるので、それを判読した(上部に活字に起こしてあるが、それは敢えて参考にしなかった)。

「夫」「それ」。発語の辞。

「聖人」以下の筆者の解説で判る通り、儒教のそれを限定する。

「その風(ふう)にうつり、その俗(しよく)を易(かふ)ることを宗(むね)とし」この「風」は人々に影響を与えてなびかせるところの感化力で、転じて永くその地で行われ、守られている規範的「風」習・様式を指し、「俗」(音「ショク」は漢音。我々が普通に使っている「ゾク」は呉音)その影響を受けて正しく変化するところの下位の民間習「俗」を指す。

「怪力亂神をかたらず」「論語」の「述而篇」の「子不語怪力亂神」(子、怪力亂神(かいりきらんしん)を語らず)を指す。「怪」は「尋常でない事例」を、「力」は「粗野な力の強さを専ら問題とする話」を、「亂」は「道理に背いて社会を乱すような言動」を、「神」は「神妙不可思議・超自然的な人知では解明出来ない、理性を以ってしても、説明不能の現象や事物」を指す。孔子は「仁に満ちた真の君子というものは怪奇談を口にはしない、口にすべきではない」と諭すのである。しかし、この言葉は実は逆に、古代から中国人が怪奇現象をすこぶる好む強い嗜好を持っていたことの裏返しの表現であることに気づかねばならぬ。

「則(のり)をなせり」これは反面教師としての手本とした、という謂いであろう。以下に出る四書のそれがまさにそうした例となっているのである。

『「易」には龍(れう)の野(や)に戰かふといひ』「易経」に、『龍戰于野。其血玄黃』、『龍戰于野、其道窮也』(龍、野に戰ふ。其の血は玄黃(げんわう)なり。「龍、野に戰ふ」とは、其れ、道、窮まればなり)とある。不測の悪しき事態の出現のシンボライズ

『「書」には鼎(かなへ)の中に雉の鳴(なく)ことをしるし』「書經」第十五の「高宗肜日」(こうそうゆうじつ)の冒頭の一節。殷の高宗が先祖を祀る祭りを行ったところ(「肜」は「本祭の翌日に行う祭り」の意)、「有飛雉升鼎耳而雊。」(飛べる雉、有りて、鼎(かなへ)の耳に升(のぼ)りて雊(な)けり。)という不吉が予兆される出来事が起こった。「高宗」は殷朝の第二十二代の王であった武丁(ぶてい)のこと。当該ウィキによれば、『殷墟(大邑商)の地に都を置いた』とし、『また』、『甲骨文はこの武丁の時代から見られる』とあり、『鬼方という異民族を』三『年かけて討ったと』「易経」に『あり、軍事的にも』、『殷の勢力を四方に拡大した。夫人の婦好も自ら軍を率いて敵国を征伐したという』とある。

『「春秋」には亂賊の事をしめし』「春秋」の三伝を調べたが、この「亂賊」という文字列は見当たらない。「新日本古典文学大系」版脚注では「春秋」の教科書的な判り切ったそれだけで、出典や意味をスルーしてしまっている。これは恐らく、後代の「孟子」などが頻りに示すところの「春秋」が本来謂わんとするところの義理とする「周室を尊び、乱賊を誅伐する」という解説に基づいた謂いであろう。「亂賊」は万民の生活基盤である自然及び日常生活を乱す悪者・反逆者のことであろう。

『「詩」には「國風鄭風(こくふうていふう)」の篇を載(のせ)』「詩経」(三百余篇)(重複がある)は風・雅・頌(しょう)の三つのジャンルから成り、「風」とは「民謡」の意(因みに「雅」は「天子諸侯が賓客をもてなす際の楽歌」を、「頌」は「祭儀の折りの楽歌」を指す)。「詩経国風」は各地に発生したそれぞれの国或いはある地方の民謡を集めたもの。「鄭風」は「国風」の中の一つである。従って四字でセットとした。並列ではおかしく(「新日本古典文学大系」は中黒で『国風・鄭風』としてしまっている)、敢えて言うなら、「國風に鄭風などあり」であるべきところであろう。優れた中国詩詞サイト「詩詞世界 二千六百首詳註 碇豊長の漢詩」の鄭風の一詩「狡童」の語釈によれば、『東周のころの鄭の國の歌。男女の情愛を歌ったものが多い。鄭は、現・河南省黄河南岸の鄭州市あたりになる』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「三世(ぜ)因果」過去・現在・未来の三世(但し、この場合は、前世・現世・後世(ごぜ)と同義。本来のそれはこの「因果」律による個的な衆生の「輪廻」の閉鎖的循環系ではなく、三世は全時間軸に於けるそれである)に亙って、善悪の報いを受けるということ。過去の「因」により、現在の「果」を生じ、現在の「因」によって未来の「果」が生ずることを説いたものである。

「四生(ししやう)」仏教に於ける生物の出生・発生様態によって分類した分類法。「胎卵湿化」などとも呼ぶ。「胎生」(たいしょう:現代仮名遣。以下同じ)は「母親の胎内から出生するもの」を、「卵生」(らんしょう)は「卵殻様物体から出生するもの」を、「湿生」(しっしょう)は「湿潤なじめじめした場所から出生するもの」(広義の卵のごく小さな昆虫類などをそう捉えた)を、最後の「化生」(けしょう)は「純然たる業(ごう)によって何も存在しない時空間で、如何なる親子や血族関係もない状態で、忽然と突如、出生するもの」(天人・地獄の亡者などをそれとした)を指した。最後の「化生」は無生物から有情物が生まれるケース(山芋が鰻となる例)にも用いられる。

「業(たね)」所謂「業(ごふ)」に当て訓したもの。

「神通(じんづう)」如何なることも自由自在になし得る、人智を超えた計り知れない不思議な能力。

「變化(へんげ)」ここは仏教でのそれで、人間以外の、より高位の霊的存在が、本来の形を変えて、種々の姿や人間の形をとって現われることを指す。但し、ここでは本書の内容に関わって、それらが神から零落した際の謂い方、則ち、動物などが姿を変えて異形の「物の怪(け)」や人の姿に変じて現れる「化け物」「妖怪変化」の意味も字背に嗅がせていると読んでよい。

「品(しな)品」「しなじな」。

「三敎(げう)」以上の儒教・仏教・神道。

「感應(かんをう)」(現代仮名遣:かんのう)は「人に対する仏の働きかけと、それを受け止める人の心」が原義で、そこから「信心が神仏に通じること」及びそれによって生じる「超自然的な奇蹟や怪奇な事件が発生すること」を指す。これも本書用の嗅がせ薬。

「聖經(せいけい)・賢傳」聖人の述作した書物と、それに基づいて賢人の書き伝えた書物。

「牛(うし)に汗(あせ)し、棟(むなぎ)に充(みつ)」「汗牛充棟」(かんぎうじゆうとう(かんぎゅうじゅう)。「引っ張れば、牛馬が大汗をかき、積み上げれば、家の棟木(むなぎ)にまで届くほどに多い量」の意で、蔵書が非常に多いことの喩え。柳宗元の銘文「唐故給事中陸文通墓表」の「其爲ㇾ書、處則充棟宇、出則汗牛馬。」(其れ、書を爲すこと、處(お)けば、則ち、棟宇に充ち、出ださば、則ち、牛馬、汗す。)が典拠。

「編」編著書。書物の意。

「五車」五台の荷車。

『花山法皇の「大和物語」』平安中期の和歌説話集である「大和物語」(全二巻。約百七十三段。天暦五(九五一)年か翌年頃には現存本に近い形態が成立していたと推定されている。全体は大きく二部に分かれ、主として宇多上皇を中心とする廷臣や女性たちに関する和歌説話を集めた部分と。「葦刈り説話」・「菟原処女 (うないおとめ)」 説話などの伝承的な和歌説話を集めた部分から成る)の一伝本である狩谷本系統の「静嘉堂文庫所蔵狩谷棭斎旧蔵本」の奥書に「花山の院の御つくりものがたりなりとある本にあり」とあり、予想外に近代まで、かの花山院が書いたとする説が信じられていた。

『宇治大納言の「拾遺物語」』鎌倉前期の建暦二(一二一二)年から承久三(一二二一)年頃の成立と推定される説話物語集「宇治拾遺物語」であるが、これは、同書が平安後期の公卿であった『「宇治大納言」源隆国(寛弘元(一〇〇四)年~承保四(一〇七七)年)が編纂したとされる説話集「宇治大納言物語」(現存せず)から漏れた話題を拾い集めたもの』という意味であるとする説に拠った謂いで、誤りに近い。しかも、他に全く異なる「拾遺(侍従の別官名)俊貞のもとに原本があったことからの呼び名」ともされ、編著者も未詳である。

『「うつほ」の「俊景(としかげ)」の卷』「俊景」は「俊蔭」の誤り。「うつほ物語」(「宇津保物語」とも書く)は平安中期に成立した長編物語。全二十巻。著者不詳だが、「和名類聚抄」の作者として知られる源順(したごう)とする説などがある。「竹取物語」の伝奇的性格を受け継いだ、日本文学史上、最古の長編物語で、「枕草子」に優劣論争が記され、「源氏物語」の「絵合」の帖にも「竹取物語」と「宇津保物語」の比較論が展開されている当該ウィキによれば、最初の第一パートである「俊蔭」のシノプシスは、『遣唐使清原俊蔭は渡唐の途中で難破のため』、『波斯国(ペルシア)へ漂着する。天人・仙人から秘琴の技を伝えられた俊蔭は』、二十三『年を経て』、『日本へ帰着した。俊蔭は官職を辞して、娘へ秘琴と清原家の再興を託した後に死んだ。俊蔭の娘は、太政大臣の子息(藤原兼雅)との間に子をもうけたが、貧しさをかこち、北山の森の木の空洞』(うつほ)で『子(藤原仲忠)を育てながら』、『秘琴の技を教えた。兼雅は二人と再会し、仲忠を引き取った』とあるのを指す。異国での長年の遍歴と在野の死、秘められた琴の奥義の奏法伝授、木の洞(うろ)で育てられる稚児と、奇譚的内容が色濃いことで、本書の内容と親和性を嗅がせてある。

「奇特(きどく)」ここは仏教のそれではなく、フラットな「非常に珍しく不思議なさま」の意。

「耳をすゝぐ」「耳を漱ぐ」。「耳を洗い清める」の謂いだが、これは「潁川(えいせん)に耳を洗ふ」に基づく。聖王の堯が、潁川の畔(ほとり)に隠れ住んでいた賢人許由に「天下を譲ってやろう」と言ったを聴くや、「汚ない話を聞いて耳が穢れた」と潁川で耳を洗ったとする故事によるものである(これには、後段があって、牛に水を飲ませようとしてたまたまそこに来ていて、その許由の言葉を聴いた高潔の士巣父(そうほ)は、「そんな汚れた話で穢れた川の水は牛に飲ませられぬ」といって牛を牽いて帰った)。ここには、了意が怪力乱神を聴ことしない、インキ臭い学智ある人は、恐らく本書のてんこ盛りの怪力乱神話に「目」は「よろこばしめ」ても、必ずや、「耳を洗う」だろうと言い放っているのである。しかも、それでこそ、後の対句である「兒女の聞(きく)を、おどろかし、おのづから、心をあらため、正道におもむく、ひとつの補(をきぬい)とせむと也」との謂いを、正当なる見解として胸を張って述べている矜持が逆に感じられるように書かれてもあるのである。

「その目をたつとびて、耳を信ぜざるは、古人のいやしむ所也」「新日本古典文学大系」版脚注では、『元来は、「耳を信じて目を疑ふは、俗の常のへい(弊)也」(平家物語・法印問答)と言われ、人の言うことは信ずるが、自分が実際に見た者は信じないという態度が批判された。出典「耳ヲ貴ビテ目ヲ賤ム者ナリ」[やぶちゃん注:「者」はママ。](文選。東京賦、顔氏家訓。慕賢)。ここでは、その逆を言い、自著等』、『書きものの有用性を説こうとしたもの』とある。

「云尒(しかいふ)」。「尒」は「爾」の異体字。

「干時」訓じて「ときに」。

「寬文六年」「丙午」(ひのえうま)は影印では横に一列に小文字で表記されているが、ブログでは表記不能なので、一般に普通に見られ、また、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の元禄本でもそうなっているところの形に従って示した。一六六六年。

「瓢水子松雲處士自序」の署名位置も元禄本に従った。底本ではクレジットの真下にダラダラ続いている。

 以下は二種目の擬古漢文の真名序。同じく底本の影印のみを判読した(句読点のみ仮りに附した)。訓点附きであるが、白文で示し、後に訓点に従った訓読文を附した。]

 

 

伽婢子序

伽婢子、松雲處士之所監者也。凡若干卷、槩言神怪奇異之事。言辭之藻麗也、吟咏之繁華也、也、膾炙人口者不可勝言焉。論語說曰子不語怪神矣。玆書之作不免懷詐欺人之謗乎。云不然。厥士之志于道者搜載籍之崇阿、涵禮法之淵源、擇云擇行、積善累德而施不滅之名。若夫庸人孺子之不知讀詩書、耳無博聞之明、身無貞直之厚。虛浮之俗、日々以長。偶聞精微之言疾首蹙顙啾〻焉退。經典沉源、載籍浩瀚、譬如會聾鼓。之何益之有。伽婢子爲書、言、摝新奇、義、極淺近。怪異之驚耳、滑𥡞之說人寐得之醒焉、倦得之舒。是庸人孺子之所好讀易解也。男女淫奔、則念深誡。幽明神恠、欲則覈理。雖非君子達道之事、願欲便庸孺之監戒而已。

寬文六年龍集丙午正月下澣

      雲樵 

○やぶちゃんの書き下し文(〔 〕は冒頭注で述べた通り、私が推定で補った読み)

「伽婢子」序

 「伽婢子」は松雲處士の著はす所ろなり。凡て、若干卷、槪むね、神怪奇異の事を言ふ。言辭の藻麗なるや、吟咏の繁華なるや、人口に膾炙する者の、勝〔あげ〕て言ふべからず。

 「論語說」に曰く、『子、怪神を語らず』と。茲〔こ〕の書の作、詐〔うそ〕を懷〔いだき〕て人を欺くの謗〔そしり〕を免れざらんか。

 云く、然らず。

 厥〔そ〕れ、士の、道を志す者の、載籍〔さいせき〕の崇阿〔すうあ〕を搜り、禮法の淵源に涵〔かむ〕し、言を擇び、行を擇び、善を積み、德を累〔かさね〕て、不滅の名を施す。若〔も〕し、夫れ、庸人・孺子〔じゆし〕の詩書を讀むことを知らざる、耳、博聞の明〔めい〕無く、身、貞直の厚〔こう〕無し。虛浮〔こふ〕の俗、日々に以〔もつて〕長ず。偶〔たまたま〕、精微の言〔げん〕を聞〔きき〕て、首を疾〔しつ〕して、顙〔ひたひ〕を蹙〔しか〕め、啾々焉〔しうしうえん〕として退〔しりぞ〕く。經典の沈深なる、載籍の浩瀚なる、譬へば、聾〔ろう〕を會して鼓〔こ〕するがごとし。之〔これ〕、何の益か、之、有〔あら〕ん。

「伽婢子」の書たる、言〔げん〕、新奇を摝〔ふるひ〕、義、淺近を極む。怪異の、耳を驚〔おどろか〕し、滑稽の、人を說〔よろこば〕しむること、寐〔いね〕て、之を得れば、醒め、倦〔うみ〕て之を得れば、舒〔よろこ〕ぶ。是れ、庸人・孺子の、好みて讀み易く解する所なり。男女の淫奔を言ふがごときは、則ち、深く誡〔いまし〕めんことを念ず。幽明神恠は、則ち、理を覈〔あきら〕めんと欲す。君子達道〔くんしたつだう〕の事に非ずと雖も、願くは、庸・孺の監戒に便〔びん〕せんと欲するのみ。

  寬文六年龍集〔りゆうしふ〕丙午正月下澣〔げかん〕

                                  雲樵

 

[やぶちゃん注:「藻麗」「麗藻」に同じ。詩や文章などが麗しくて見事なこと。

「吟咏」「吟詠」に同じ。

「論語說」不詳。「新日本古典文学大系」版脚注に、『「論語説」は同名の書が多く、誰の編著のものか明らかにし難いが、論語本体を引かなかったの了意』の『自序との重複を避けたもの』とある。

「茲〔こ〕の書」本「伽婢子」全体を指す。

「士の、道を志す者」日本文学が江戸以前に手本とした中国文学は基本的に〈士官の文学〉であり、人格と地位ともに一致した「仁者」としての「君子」へと一途に向かうことが理想とされた。

「載籍〔さいせき〕」多様な事柄を記載した多量の書物。

「崇阿〔すうあ〕」「隅から隅まで」の意。

「禮法の淵源に涵〔かむ〕し」儒教の基本規定であるところの礼法の根源まで遡って、十分にそれに浸って。

「庸人」一般普通の凡庸なる常人。

「孺子〔じゆし〕」小僧っこ。子ども。

「貞直」正しく真っ直ぐな人柄。

「虛浮〔こふ〕の俗」「新日本古典文学大系」版脚注に、『行動や態度がおろそかない下俗の風体』(ふうてい)とある。

「精微の言」詳しく、且つ、緻密な言説(ディスクール:フランス語:discours)。

「首を疾〔しつ〕して、顙〔ひたひ〕を蹙〔しか〕め」「新日本古典文学大系」版脚注に、『頭痛のために顔をしかめ、額に皺をよせる』とある。

「啾々焉〔しうしうえん〕」小声でしくしくと泣き続けるさま。

「聾〔ろう〕を會して鼓〔こ〕するがごとし」耳が聴こえない人々を集めて、そこで如何に大太鼓をどろどろと鳴らしても、何の意味も効果もないこと。「新日本古典文学大系」版脚注では、『「聾」はここは無知者の喩え』とある。

「摝〔ふるひ〕」音「ロク」。「振る・揺らす・ゆり動かす」(他に「水中のものを取る・掬い取る」の意がある)で、「揮ふ」に同じ。発揮する。

「龍集」「りようしふ」とも読む。「龍」は星の名で、「集」は「宿る」の意。この星は一年に一回周行するところから、「一年」の意。多くの場合、年号の下に記す語して「歳次」を示す語である。

「下澣〔げかん〕」「下浣」とも書く。月末の十日間。下旬。

「雲樵」不詳。「新日本古典文学大系」版脚注も『未詳』とするのみ。仮名序を意識した内容といい、どうも怪しい。これは号(「雲」が同じで何となく似ている感じを与える)を変えて、実は了意が他人を装って書いたものではなかろうか?]

 

伽婢子卷之一

 

    ○龍宮の上棟(むねあげ)

 江州勢多の橋は、東國第一の大橋(けう)にして、西東にかゝれり。橋より西の方、北には滋賀辛崎もまのあたりにて、山田・矢橋(やはせ)の渡し舟、鹽津・海津(かいづ)の、上り舟に帆かけて走るも、得ならず、見ゆ。南の方は石山寺、夕暮つぐる鐘の音に、山づたひ行く岩間寺(いはまでら)も程近く續きたり。橋より東のかた、北には「任那(しな)の里」、ここは名におふ蓮の名所にて、六月(みなつき)の中比より、咲きみだるゝ、蓮花(はちす)匂ひは四方に薰じて、見に來る人の心さへ、自ら濁りにしまぬ、たのしみあり。橋の南には田上(たなかみ)山の夕日影、鳴送る蟬の聲に、夏は凉しさ、勝りけり。うしろは伊勢路に續き、前には湖水の流れながく、「鹿飛(しゝとび)の瀧」より宇治の川瀨に出るといふ。その北には「螢谷(ほたるだに)」とて洞(ほら)あり。四月(うづき)の初かたより、五月(さつき)の半ばに至るまで、數(す)百萬斛(ごく)の、螢、湧出て、湖水の面に集り、或は鞠の大さ、或は車の輪のごとく、かたまり、圓(まる)がりて、雲路遙かにまひあがり、俄に水の上に、「はた」と、おち、「はらはら」と碎けて水に流るゝ有さま、點々たる柘榴花(せきりうくは)の五月雨(さみだれ)にさくが如くにて、光りさやかにみだれたるは、又、すてがたき眺めなり。されば、世の好事(かうじ)の輩(ともがら)、僧俗ともに遊び來(き)て、歌、よみ、詩、つくる、其言葉、多く、口につたへ、書に記(しる)せり。

[やぶちゃん注:長いので注を挟み、その後は一行空けた。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、本篇は『俵藤太の龍宮伝説を背景として、若干を剪灯新話』(明の瞿佑(くゆう)撰の志怪小説集。一三七八年頃の成立。三遊亭円朝「牡丹灯籠」の原話としてよく知られる。本「御伽婢子」は同書を原拠としたものが多い)『一ノ一「水宮慶会録」に負いながら、その殆んどの構想を』、別に同書に依って書かれたかと思われる『金鰲新話』(きんごうしんわ:朝鮮李朝前期の漢文伝奇小説集。金時習撰。執筆年代は一四六六年から一四七一年頃と推定される。完本は失われ、「万福寺樗蒲記」・「李生窺牆伝」・「酔遊浮碧亭記」・「南炎浮洲志」と、この「竜宮赴宴録〉の五編のみが伝わる)『「竜宮赴宴録」に基づき、上棟の慶事を明るくにぎやかに述べて』本「御伽婢子」の『冒頭を飾る一話』とある。私は原拠考証には踏み込むつもりはまるでないので、比較考証に興味のある方は、同書を購入し、その注及び附録の影印「剪燈新話句解」を参照されたい

「江州勢多の橋」瀬田唐橋(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「東國」ちょっと戸惑うが、「新日本古典文学大系」版脚注に、『近江国逢坂の関』(ここ)『以東』を言ったとある。

「滋賀辛崎」現在の大津市唐崎の唐崎神社のある琵琶湖西岸。

「山田」現在の滋賀県草津市北山田町。以下、多くは琵琶湖水上交通の要所や景勝地の命数で疑似的な道行文となっている。

「矢橋(やはせ)」「近江八景」の一つとして知られる琵琶湖の名勝「矢橋帰帆」の地。旧栗太郡老上(おいかみ)村で現在の草津市八橋町(やばせちょう)

「鹽津」滋賀県長浜市西浅井町塩津浜。琵琶湖の北端奥。

「海津(かいづ)」滋賀県高島市マキノ町海津。琵琶湖の北端の西部にある。

「得ならず」連語で「何とも言えないほど、すばらしい」の意。中世以降の用法。

「石山寺」滋賀県大津市の唐橋の下流一キロメートル半ほどの瀬田川右岸にある真言宗石光山(せっこうざん)石山寺(いしやまでら)。標高二百三十六メートルの伽藍山南東山麓の瀬田川直近にある。聖武天皇の発願(ほつがん)により天平一九(七四七)年に東大寺開山で別当であった良弁が聖徳太子の念持仏であった如意輪観音をこの地に祀ったのが始まりとされる。

「岩間寺(いはまでら)」滋賀県大津市石山内畑町にある真言宗岩間山(いわまさん)正法寺(しょうほうじ)の別称。開山は加賀国白山を開いた泰澄。岩間寺(いわまでら)。西国三十三所第十二番札所。十三番の石山寺の南西約四キロメートルの、滋賀県と京都府との府県境の一部をなす岩間山(標高四百四十三メートル)南腹の標高三百九十メートル付近にある。

「任那(しな)の里」滋賀県草津市志那町(しなちょう)。ここ志那浜のハスは既に室町時代には景勝地として知られていた。

「田上(たなかみ)山」滋賀県大津市南部の田上(たなかみ)地区から大石地区に連なる標高四百から六百メートルの山塊の総称。主峰は不動寺のある太神山(たなかみやま)

「鹿飛(しゝとび)の瀧」琵琶湖から南流した瀬田川が西へ折れ曲がる、現在の滋賀県大津市石山南郷町に瀬田川の奇岩の景勝地の一つである鹿跳渓谷(グーグル・マップ・データ航空写真)のこと。「瀧」は滝があるのではなく、両岸が迫って、川幅が狭まり、水の流れも急に激しくなることから、その水勢が激しいことによる呼称である。より詳しくは、「譚海 卷之三 鹿飛口干揚り(雨乞の事)」の本文及び私の注を参照されたい。

「螢谷(ほたるだに)」石山寺の北北西五百メートルほどの位置(瀬田川右岸)に現在、滋賀県大津市螢谷という地名及び同名の公園がある。私の「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 螢」にも記載があるので、参照されたい。

「數百萬斛(ごく)」一石(斛は平安末頃までの古い表記)は十斗で百升。誇張表現。

「柘榴花(せきりうくは)」ザクロの花。]

 

 橋の東南のかた、湖水の渚(みぎは)にそふて、子社(こやしろ)あり。

 むかし、俵藤太秀鄕(たはらとうだひでさと)、此あたりより龍宮に行て、三上の嶽の「むかで」を退治し、絹と俵と鍋と鐘(つりかね)とを得て歸る。中にも、鐘は三井寺に寄付して、今も其名、高く、世にのこれり。

[やぶちゃん注:「子社」現在の瀬田唐橋の東詰を少し下ったところに勢多橋龍宮秀郷社と、その東北直近に秀郷を祀る雲住寺がある。

「俵藤太秀鄕」藤原秀郷(生没年未詳)は平安中期の貴族で武将。下野大掾藤原村雄の子とされる。平将門追討で知られるが、室町時代になって「俵藤太絵巻」が完成し、近江三上山(みかみやま:現在の滋賀県野洲市三上にある標高四百三十二メートルの山。「近江富士」と称される)での百足退治の伝説の方でも知られるようになった。「柴田宵曲 妖異博物館 百足と蛇」の最初の私の注辺りを参照されたい。個人的には、そのパロディであるが、私の『小泉八雲 鮫人(さめびと)の感謝 (田部隆次訳) 附・原拠 曲亭馬琴「鮫人(かうじん)」』がすこぶる面白いと思う。

「鐘(つりかね)」は何故か人気の部分で、怪奇談にこれだけが独立して後日談形式で語られることが甚だ多い。例えば私の「諸國里人談卷之五 三井鐘」を参照されたい。]

 

 後柏原院の朝(てう)、永正年中に、滋賀郡(しがのこほり)松本といふ所に、眞上阿祇奈君(まがみ あきな きみ)といふ人、あり。

 もとは禁中に伺公して、文章生(もんしやうがく)の官職にあづかりし人なれども、世の怱劇をいとひて、冠(かふり)をかけて、引きこもり、此所に跡をとゞめ、心しづかに月日をぞ過されける。

[やぶちゃん注:「後柏原院の朝」後柏原天皇の在位は戦国時代の明応九(一五〇〇)年から大永六(一五二六)年。

「永正」一五〇四年から一五二一年まで。

「滋賀郡松本」滋賀県大津市松本。琵琶湖南西岸で瀬田唐橋の北西四キロメートル強。

「眞上阿祇奈君」「新日本古典文学大系」版脚注に、「阿祇奈」について、『古事記・孝元天皇の条に見える阿芸奈(あぎな)臣』(のおみ)『に発する姓(かばね)』。但し、『拾芥抄・中にこれに属する氏として二百氏弱を記すが、真上氏は見えない』とする。「君」尊称の接尾辞。

「伺公」「伺候」に同じ。

「文章生」古代から中世にかけて、律令制の大学寮で紀伝道(大学寮内の学科四道(他に「論語」・「孝経」などの経書(けいしょ)を講究した明経(みょうぎょう)道・古代の律・令・格(きゃく)・式など法律を講究した明法(みょうぼう)道・算道)の一つ)の学生。中国の史書・詩文を講究した。当初は「文章道 (もんじょうどう)」と呼ばれたが、平安時代に入って、「紀伝道」が公称となり、四科の中で最も重んぜられるようになった。天平二(七三〇)年に設置された。明経生が貴族の子弟に限られていたのに対し、庶人にまで門戸を開いたものであったが、紀伝道の地位上昇に伴って結局は貴族化してしまい、また、当該道(課程)の下位に学生(がくしょう)・擬文章生などの予科課程を持つに至り、寮試・省試などの科挙試のまがいものの試験を通過して、初めて与えられるという閉鎖的な地位となってしまった。文章得業生となって対策に及第して晴れて任官するのが本来であるが、文章生から直ちに対策となったり、或いは文章生を経ただけで任官するケースもあった。読みは「もんぞうしょう」「もんじょうのしょう」もある。ここでは底本にある音をとった。

「怱劇」「そうげき・そうけき」は「忩劇」とも書く。孰れの字も「慌ただしく急ぎ、忙しいこと」を指す字)で「忙しく落ち着かぬこと」・「混乱すること」・「いざこざなどによって発生する世の中の種々の厭な騒ぎ」の意。

「冠(かふり)をかけて」漢語「掛(挂)冠」を訓読した慣用句である「冠を掛く」(かうぶりをかく)は中古からあった連語で、官人の正装の象徴である冠を脱いで掛けてしまう、「官職を辞する」の意。

「過されける」私は「すぐされける」と読みたい人種である。]

 

 或日の夕暮に、布衣(ほい)に烏帽子着たる者、二人、來り、庭の前に跪きて、

「これは、水海底(すいかいてい)の龍宮城より、迎え奉るべき事ありてまゐり侍べり。」

といふ。

 眞上、おどろき、色を替(かへ)て、

「龍宮と、人間と、道へだたり、異なり、如何でか行〔ゆき〕いたるべき。『いにしへは、其道ありし』と聞つたへしかども、今は絕へて、其跡を知らず。」

といふ。

 使者のいふよう、

「よき馬に、鞍おきて、門外に繫ぎおきたり。これにめして赴き給はんには、水漫々として波高くとも、少しも苦しき事あらじ。」

といふ。

 眞上、怪しみながら、座を立〔たち〕て、門に出たれば、その長(たけ)七寸(なゝき)ばかり、太逞(ふとくたくま)しき驪(くろ)の馬に、金幅輪の鞍おき、螺鈿(らでん)の鐙(あぶみ)をかけ、白銀〔しろがね〕の轡(くつわ)をつかませて、引〔ひつ〕たて、白丁(はくてう)、十餘人、

「はらはら」

と立て、眞上を馬にかきのせ、二人の使者は、前にはしり、馬は、虛空にあがりとぶがごとし。

[やぶちゃん注:「布衣(ほい)」六位以下の者が着す無紋(無地)の狩衣。

「長(たけ)七寸(なゝき)」「寸(き)」馬の大きさを示す数詞。跨ぐ背までの高さが四尺七寸(一・四二メートル)の馬。四尺を標準としてそれよりも高いものを寸単位で示し、読む場合には「寸(き)」と読んで弁別したもの。これは作品内時制では、かなり大きい馬である。

「驪(くろ)の馬」黒毛の馬。

「白丁(はくてう)」底本にはルビがなく、元禄版で添えた。しかし、「新日本古典文学大系」は『はくちやう』と振り、歴史的仮名遣はこれが正しい。小学館「日本国語大辞典」の「はくちょう」「白張・白丁」の二番目の意で、『白布の狩衣を着た下男。かさ・くつなどを持ったり、馬の口取などをするもの』とある。]

 

Rm1

[やぶちゃん注:画像元の「新日本古典文学大系」版脚注の挿絵解説には、『宮殿は極彩色の壁画』で、『中に象の画も見えるか』とある。]

 

 眞上、

「眞下。」

と見おろせば、足の下は、たゞ雲の波、煙(けふり)の苒々(ぜんぜん)として、其外には何も見えず、しばしの間に宮門に至り、馬より下りて立てり。

 門まもる者共は、蝦魚(えび)のかしら、螃蟹(かに)の甲(から)、辛螺(さゞい)、貝蛤(はまぐり)の殼に似たる、甲(かぶと)の緖をしめ、鎗・長刀(なぎなた)を立ならべ、きびしく、番をつとむる。眞上を見て、皆、ひざまづき、頭(かうべ)を地につけて、敬ひつゝしめり。

 二人の使者内に入て後、しばらくありて、綠衣の官人とおぼしきもの、二人、出(いで)て、門より内に、引て、あゆむ。

 門の上には、「含仁(がんじん)門」といふ額をかけたり。門に入りて、半町[やぶちゃん注:五十四・五メートル。]ばかり行ければ、水精(すゐしやう)の宮殿あり。

 階(みはし)を登りて入りければ、龍王、すなはち、彩雲(さいうん)の冠(かぶり)をいたゞき、飛雪(ひせつ)の劍(けん)を帶(をび)、笏を正しくして、立出つゝ、眞上を延(ひき)て白玉(はくぎよく)の床〔ゆか〕に座をしめたり。

 眞上、大に敬ひ、禮拜して、

「我は、これ、大日本國の小臣なり。草木と共に腐(くち)はつべき身なり。いかでか、神王の威を冐(をか)して、上客(しやうかく)の禮をうけ奉らんや。」

といふ。

 龍王のいはく、

「久しく名を聞〔きき〕て、今、尊顏をむかへ侍り、辭退し給ふにおよばず。」

とて、强て、床の上にのぼせ、自ら、又、七寶の床にのぼり、南に差し向うて、座したり。

 かゝる所に、

「賓客、入來り給ふ。」

といふ。

 龍王、又、座をくだり、階に出てむかえ入れたりければ、三人の客、あり。

 いづれも、氣高(けたか)きよそほひ、此世の人とも、覺えず。

 玉の冠をいたゞき、錦の袂をかひつくろうて、威儀正しく、七寶の手ぐるまより下りて、靜(しづか)に殿上(てんしやう)にのぼり、床に坐したり。

 眞上は床を退〔しりぞ〕きて、金障(きんしやう)のもとに隱れうづくまる。

 巳に、座、定まりて、龍王語りけるは、

「人間世界の文章生をむかへ奉れり。君たち、これを疑ひ給ふな。」

とて、眞上をよびて、すゝめしかば、眞上、出て、禮拜するに、三人の客、また、禮をいたす。

「前の玉座に上り給へ。」

と云(いふ)に、眞上、辭して曰く、

「我は、これ、一个〔いつこ〕の小臣也。いやしきが、貴族に對して、床にのぼらん事、おそれあり。」

と。

 三人の客(かく)、おなじく曰く、

「誠に人界(にんがい)と龍城と、其境、隔ちて、通路、絕えたれども、神王、已に人間をかんが見る事、明らけし。君、これ、たゞ人ならんや。こゝに請じ奉れり。何ぞ辭するに及ばん。早く床に坐し給へ。」

と。

 眞上、すなはち、床に座す。

 龍王かたりけるは、

「朕(われ)、此程、新たに一つの宮殿をかまへ造る。木工頭(もくのかみ)・番匠(たくみ)の司(つかさ)あつまり、玉のいしずゑをすゑ、虹(にじ)のうつばり・雲のむなぎ・文(あや)の柱、皆、具(そな)はり、もとめしかども、只、ともしきものは、上梁(むねあげ)の文(ぶん)・祝拜(しゆくはい)のことば也。ほのかに聞つたふ、眞上の阿紙奈(あきな)君は、學智道德の名、かくれなし。此故に、遠く招きて、請じ奉る。幸(さいわい[やぶちゃん注:元禄版のママ。])に、朕、爲に、一篇をかきて給(たべ)。」

といふに、二人の童子、十二、三ばかりなるが、髮、からわにあげて、一人は碧玉の硯に、湘竹(しやうちく)の管(ぢく)に文犀(ぶんさい)の毛さしたる筆、とりそへ、神苓(しんれい)の灰に、紅藍(こうらん)・麝臍(じやさい)を和(くは)したる墨、すり湛えてさゝげ、一人は鮫人(かうじん)の絹一丈をもちて、眞上にすゝむ。

 阿祇奈君、辭するに言葉なく、筆をそめて、書きたり。

[やぶちゃん注:「苒々(ぜんぜん)」巡り進み、次第にのびやかになるさま。

「螃蟹(かに)」「螃」もカニの意。

「辛螺(さゞい)」現行では、狭義には腹足綱吸腔目アッキガイ科 Rapana 属アカニシ Rapana venosa 等を指し、広義には外套腔から浸出する粘液が辛味(苦味)を持っている腹足類のニシ類を指す語であるが、辛味を持たない種にも宛てられている科を越えた広汎通称である。詳しくは「大和本草卷之十四 水蟲 介類 蓼蠃」の私の注を見られたいが、さらにここは「大型の巻貝」の意で用い、それに「さざい」、則ち、腹足綱古腹足目リュウテン(龍天)科リュウテン属サザエ亜属サザエ Turbo sazae (タイプ種)を当て訓したもの。

「貝蛤(はまぐり)」ここは取り敢えず、斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ科ハマグリ亜科ハマグリ Meretrix lusoria としておく。

「含仁(がんじん)門」「新日本古典文学大系」版脚注に、『竜王の仁徳に満ちている』という意を持つ『命名か』とある。

「水精(すゐしやう)」水晶に同じ。

「飛雪(ひせつ)の劍(けん)」剣の刃紋からの呼称であろう。

「延(ひき)て」連れ導いて。

「手ぐるま」貴人用の乗り物。屋形に車輪を附けた車で、前後に突き出ている轅 (ながえ) を人の手で引く輦(てぐるま)。輦車 (れんしゃ) 。

「金障(きんしやう)」金箔を張った衝立。

「木工頭(もくのかみ)」律令制で宮内省に属し、宮中の殿舎の造営や木材の伐採などを司った木工寮(もくりょう)の長官。龍宮が現実の禁中と相同に構成されているのである。

「番匠(たくみ)」ここは木工寮に所属する龍宮禁中の大工・工匠。

「虹(にじ)のうつばり」「虹の梁(うつばり)」。虹の如く、天井を上方に向かって、なだらかに湾曲した反りを与えてある梁(はり)のこと。或いは実際に虹色に七色に輝いていたものとイメージすると、龍宮が総天然色となって、よりよい。

「雲のむなぎ」雲形の棟木。ここも同前で、実際、雲で出来ていると思うのも一興。

「文(あや)の柱」精緻で美しい模様を彫り出した柱。

「ともしきもの」足りない物。

「髮、からわにあげて」「からわ」は「唐輪」。髪の結い方の一つ。髻(もとどり)から上を二つに分けて、頂きで二つの輪に作ったもの。鎌倉時代の武家の若党や、元服前の近侍の童児の髪形である。唐輪髷(からわまげ・からわわげ)。

「湘竹(しやうちく)」伝説の聖王舜の妃であった湘夫人が舜の死を悲しんで泣いた涙が竹に滴ったところ、その竹が斑(まだら)になったという「博物志」の「史補」に見える伝説からの命名。特に中国産の斑竹(はんちく)。斑紋のある竹。

「管(ぢく)」筆の筆先を除く本体部。

「文犀(ぶんさい)」「新日本古典文学大系」版脚注に引かれた「天中記」の引用を見るに、サイの体毛らしいが、実際にサイであったかどうかは怪しい。

「神苓(しんれい)の灰」「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『藜(あかざ)』(ナデシコ目ヒユ科 Chenopodioideae 亜科 Chenopodieae 連アカザ属シロザ変種アカザ Chenopodium album var. centrorubrum )『の灰は古く染料に用いた(本草綱目七・冬灰)。「神藜」は神聖な藜の意か』とある。

「紅藍(こうらん)」紅花(キク亜綱キク目キク科アザミ亜科ベニバナ属ベニバナ Carthamus tinctorius )の異名。「新日本古典文学大系」版脚注には、『墨にいれると強い光を出すという(万金産業袋一)』とある。

「麝臍(じやさい)」麝香。ヒマラヤ山脈・中国北部の高原地帯に生息するジャコウジカ (或いはジャコウネコ) の雄の生殖腺分泌体。包皮小嚢状の腺嚢を乾燥した暗褐色粒状物に約一、二%程度ばかり含有される高価な動物性香料。アルコール抽出により「ムスクチンキ」として高価な香水だけに利用される。近年、希少動物保護の立場から、香科用目的の捕獲は制限されており、殆んど同一の香気を有する合成香料で代用されている。芳香成分はムスコンと呼ぶ。詳しくは私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 麝(じやかう) (ジャコウジカ)」及び「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 靈貓(じやかうねこ) (ジャコウネコ)」を参照。「新日本古典文学大系」版脚注に、『韋仲将』(三国時代の魏(二二〇年~二六五年)の書家)『合墨法の中に、真朱一両麝香一両を鉄臼の中で合わせる法が見えている』とある。魏の一両は十三・九二グラム。

「鮫人(かうじん)」中国で南海に棲むとされた人魚に似た想像上の生き物。常に機 (はた)を織り、しばしば泣き、その涙が落ちて玉となるとされた。]

 

「天地(あめつち)の間(あひだ)には蒼海(あをうなはら)を最(いと)大(おほい)なりとし、生物(いけるたぐひ)のなかには、龍神(わたつみ)を殊に靈(くしみ)とす。已に世を潤すの功(いさをし)あり。いかでか、福(さいはひ)をのぶるの惠(めぐみ)なからんや。この故に、香をたき、燈をかゝげて、依(より)、いのる。飛(とぶ)龍(たつ)は、大〔おほい〕なる人をみるに利(とき)こと、あり。又、もちひて不測(はからざる)の迹(あと)に象(かたど)れり。維(これ)、歲次(としのやどり)今月今日(このつきこのひ)、新(あらた)に玉の殿(みあや)をかまへ、昭(あきら)けく精(くはし)き華(かざり)を營めり。水晶・珊瑚のはしらをたて、琥珀・琅玕(らうかん)の染(うつはり)を掛(かく)。珠(たま)の簾(すだれ)をまきぬれば、山の雲、靑くうつり、玉の戶を開けば、洞(ほら)の霞、白く、めぐる。天(あめ)、高く、地(つち)、厚(あつう)して、南溟(みなみのうみ)八千里(やちさと)をしづめ、雨順風調(あめ したがひ かぜ とゝのふり[やぶちゃん注:ママ。])て、北の渚、五百淵(いほふち)を、をさむ。空にあがり、泉に下りては、蒼生(かんたがら)の望みをかなへ、形を現はし、身を隱しては、上帝(かんすべらぎ)の仁(あはれみ)を祐(たす)く。その威(いきほ)ひ、古(いにしへ)・今(いま)にわたり、その德(さいはひ)、磧礫(せゝなぎ)に曁(およ)ぼす。玄龜(くろきかめ)・赤鯉(あかきこひ)をどりて祝ひ、木魅(こだま)・山魅(びこ)、あつまりて、賀(よろこ)ぶ。こゝに歌一曲(ふし)を作りて、雕(ちり)ばめたる梁(うつばり)のうへに揭(あらは)す。

 

 扶桑海淵落瑤宮

 水族駢蹎承德化

 萬籟唱和慶賛歌

 若神河伯朝宗駕

 

をさまれるみちぞしるけき龍の宮の

  世はひさかたのつきじとをしる

 

伏てねがはくは、上棟(むねあげ)の後、百(もゝ)の福(さいはひ)、共に臻(いた)り、千(ちゞ)の喜(よころび)、偏(あまね)く來り、瑤(たま)の宮、安くおだやかにして、溟海(わだつうみ)平(たいら)けく治〔をさま〕り、天つ空の月日に齋(ひと)しく、その限(かぎり)、有べからず。

 

と書て奉る。

[やぶちゃん注:阿祇奈のものした「上梁文」は前後を一行空け、さらに漢詩と和歌も同様の処置を施した。なお、これらは底本では全体が一字下げである。漢詩は訓点附きであるが、きなたくなるだけなので、本文では白文で示し、以下の注で訓読することとした。

「龍神(わたつみ)」「海神」と同義。

「靈(くしみ)」「奇し御魂(くしみたま)」の略。万葉時代に既にある語。「神秘な力をもつ霊魂」或いは「そのような霊魂の宿るもの」を指す。江戸後期の即席の神道概説などに引っ張られる定義的なそれではない。但し、この文章は原話の漢文に基づきながらも、徹底した和文和訓文脈で読まれてあり、神道の祝詞や祭文のそれに似せた形に成形されてはある。

「依(より)、いのる」この「依り」はただ一つ信じ得る依り所としての謂いであり、祀り祈るに際して、神霊が確かに依り憑いて下さることを念じた祈りの含みもあろう。

「不測(はからざる)の迹(あと)に象(かたど)れり」飛龍のそうした類まれな鑑識眼の超能力を、「飛ぶ龍」の造形を想起することによって、それを霊験あらたかな奇瑞の、そして永遠に龍宮宮殿の不滅のシンボルとするといった意味か。

「歲次(としのやどり)」ここには人間世界では本来は元号や干支が前に付随するものであるが、ここは異界の龍宮であるから、「この年」の意で添えたものである。

「殿(みあや)」この訓は不詳。意味不明。識者の御教授を乞う。「御阿屋」(「阿」には「軒・廂」の意がある)か。

「昭(あきら)けく」見た目もはっきりくっきりと。

「琅玕(らうかん)」現行の博物学的見解では、本邦では「翡翠石」(ヒスイ)の最上質のもの、或いは「トルコ石」又は「鍾乳状孔雀石」、或いは青色の樹枝状を呈した「玉滴石」と比定するのが妥当と考えられている。しかし、この場合は龍宮の宮殿の装飾物であるから、嬉しくないが、青系の珊瑚の可能性を排除は出来ない。私の微妙な不満は『「和漢三才圖會」巻第六十「玉石類」「珊瑚」』を参照されれば、判って戴ける。だが、正直言えば、前で並列されている「琥珀」は陸産の宝石であるからして、珊瑚の可能性に拘る必要は実は、ないのである。

「南溟(みなみのうみ)」この場合の「溟」は大海原の意。

「八千里(やちさと)」後の「五百淵(いほふち)」ともに大数表示に過ぎない。

「雨順風調(あめ したがひ かぜ とゝのふり)」元禄版と「新日本古典文学大系」版では「調」の読みは「とゝのをり」である。

「蒼生(かんたがら)」人民。蒼氓。訓は「神寶」(かんだから)としての神・天子(=「上帝(かんすべらぎ)」)の赤子のこと。

「磧礫(せゝなぎ)に」河原の小石にまでも。

「曁(およ)ぼす」「及ぼす」に同じ。

「玄龜(くろきかめ)」はここでは明らかに四神の一つである玄武の属性を示唆していよう。

「山魅(びこ)」言わずもがなであるが、「やまびこ」(「木霊」)である。龍宮は海底でも異界という点で人間界とは違って通底連絡性が極めて近いのである。本邦の龍宮説話は山中の渓流や池沼にも通じているのである。

 

●漢詩訓読と語釈:先に述べてしまうと、「新日本古典文学大系」版脚注によれば、この『漢詩は、「剪灯新話の上梁の文より語句を抜き出して、新御殿の落成と竜宮の繁栄を祝う』ものに作り成したものである。

扶桑海淵落瑤宮

水族駢蹎承德化

萬籟唱和慶賛歌

若神河伯朝宗駕

 扶桑(ふさう)の海淵 瑤宮(ようきう)を落(はじ)む

 水族(すいじよく) 駢蹎(べんてん)として 德化(とくくわ)に承(したが)ふ

 萬籟(ばんらい) 唱和す 慶賛(けいさん)の歌

 若神(じやくしん) 河伯(かはく) 朝宗(てうそう)の駕(が)

・「扶桑」中国神話に現われる「太陽の昇る木」。幻想地誌「山海経」の「海外東経」には、「東方の海中に黒歯国があり、その北に扶桑という木が立っており、そこから、太陽が昇る」とする。当該ウィキによれば、『古代、東洋の人々は、不老不死の仙人が棲むというユートピア「仙境=蓬莱山・崑崙山」にあこがれ、同時に、太陽が毎朝若々しく再生してくるという生命の樹「扶桑樹」にあやかろうとした。「蓬莱山」と「扶桑樹」は、古代の神仙思想が育んできた幻想である。海東のかなたには、亀の背に乗った「壺型の蓬莱山」が浮ぶ。海東の谷間には、太陽が昇る「巨大な扶桑樹」がそびえる。古代の人々は「蓬莱山に棲む仙人のように長生きし、扶桑樹に昇る太陽のように若返りたい」と強く願い、蓬莱山と扶桑樹への憧憬をつのらせてきたという』。後に「梁書」が書かれて『以降は、東海上に実在する島国と考えられるようになった。実在の島国とされる場合、扶桑の木は特に巨木というわけではなく「その国では扶桑の木が多い」という話に代替されており、この場合の「扶桑」とは実在のどの植物のことかを』巡る論争が、これまた、比定地の一つの論点ともなっている(引用元に詳しい)。ともかくも、『扶桑は東海の海上にあるとされ』たことから、後に『日本の異名となった』。

・「瑤宮」「瑤」は「美しい珠玉」で、美麗な宮殿のこと。

・「落む」落成する。

・「水族(すいじよく)」この読みは不審。「族」に「ジヨク(ジョク)」の音はない。「屬」と勘違いしたものか?

・「駢蹎」「新日本古典文学大系」版脚注には『連なり、並ぶこと』とあるのだが、不審。「駢」の意はそれでいいが、「蹎」は「躓(つまず)く」の意しかないからである。

・「萬籟」風が物にあたって発するあらゆる音。ここは海中なれば、「風波」の意か。

・「若神」海神の異名。「楚辞」の「遠遊」に「東海若」は「東海の神」とし、「海若」とも記すとある。

・「河伯」中国神話に現われる黄河の神。しばしば、日本の在来妖怪である「河童」を同一とする説を見るが、私は断固、反対する。その主張は、最近、「怪談老の杖卷之一 水虎かしらぬ」で注したので繰り返さない。

・「朝宗」「朝」は「春に天子に謁見する」、「宗」は夏のそれの意で、古代中国に於いて「諸侯が天子に拝謁すること」を指す。

 切り張り細工の漢詩というのが気になった。そこで一応、平仄と韻を調べてみた。

○○●○●○○
●●○○○●◎
●●●●●●○
●○○●○○◎

であった。これが七律であるとするなら、起句末の「宮」と承句末の「化」及び結句末の「駕」が押韻していなくてはならないが、「化」と「駕」は同韻であるが、「宮」は韻を踏んでいない。それだけでも致命的だが、さらに、これは起句の二字目が平声の正格である平起式となるが、起・承句はいいものの、転句は二・五・六字目が、結句は二・四・六字目がアウトで、拗体もいいところで、話にならない。「韻ぐらい合わせろよ!」と了意に突っ込みたくなった。

「をさまれるみちぞしるけき龍の宮の世はひさかたのつきじとをしる」整序すると、

 治まれる道ぞ著(しる)けき龍の宮の世は久方のつきじとを知る

で、「久方の月路」と「盡じ」が掛詞となっている。こちらも、いやさかに龍宮の繁栄を永久(とわ)に言祝ぐ歌である。]

 

Rm2

 

 龍王、大〔おほきに〕に悅び、三人の客に見せしむるに、皆、感じて、ほめたり。

 則ち上梁(むねあげ)の宴を開きて曰(いはく)、

「阿祇奈君は人間にありて、末だ終に知り給はじ。一人(ひとり)は『江(え)の神』、一人は『河の神』、一人は『淵の神』なり。君と友となり、今日のあそびには、更に心を、とけ給へ。何か憚ることあらん。」

とて、盃をめぐらし、酒(しゆ)を勸む。

 廿〔はたち〕ばかりの女房、十餘人を出〔いだ〕し、雪の袖を飜(かへ)し、歌ひ、舞(まふ)。

 その面(かほ)かたち、世に未だ見ず、うるはしく、たをやかにして、玉の釵(かんざし)に花を飾り、白き羅(うすもの)に、袖つけて、歌ふ聲、雲に響きつゝ、少時(しばし)、舞て、退きければ、又、びんづら、結(ゆう)たる童子、十餘人、其うつくしさ、雛(ひいな)の如くなるが、繡(からぬひ)のひたゝれに、錦の袂を翻(ひるがへ)す。哥(うた)の聲、すみのぼり、梁(うつばり)の塵や、飛ぬらん。糸竹(いとたけ)の音に和(くわ)して、面白さ、限りなし。

 舞、巳にをはりければ、主(あるじ)の龍王、よろこびに餘り、盃(さかづき)を洗ひ、銚子を更(あらた)め、阿祇奈君が前に置(をき)、みづから、玉の笛を吹鳴らし、「嶰谷吟(かいこくぎん)」を歌ひいて後、

「其座に有ける者共、まかり出て、客(かく)の爲に戯(たはふれ)の藝を盡せ。」

とあり。

 畏(かしこま)りて出たる人、みづから、

「郭介子(くわくかいし)。」

と名のる。

 これ、蟹の精也。

 其うたひける詞に、

「我は谷かげ・岩まに隱れ、桂(かつら)の實のる秋になれば、月淸く、風凉しきに催され、河にまろび、海に泳ぐ。腹には、黃(き)を含み、外は、まどかに、いと堅く、二(ふたつ)の眼(まなこ)、空に望み、八(やつ)の足、またがり、其形は、乙女の笑(わらひ)を求め、其味(あじはひ)は、兵(つはもの)のかほばせを喜ばし、甲(よろひ)をまとひ、戈(ほこ)を取り、沫(あは)を噴(ふき)、瞳(ひとみ)を廻らし、『無腸公子(ぶちやうこうし)』の名を施し、つな手の舞けらし。」

とて、前に進み、後に退(しりぞ)き、右に駈(かけ)り、左に走りければ、其類(るい[やぶちゃん注:ママ。])の者、拍子をとる。

 座中、笑壺(ゑつぼ)に入〔いり〕て、笑ひ、にぎはふ。

[やぶちゃん注:底本では「郭介子」の歌は全体が一字下げである。

「びんづら」「みづら(みずら)」の音変化。「角髪」「角子」「鬟」「髻」などと書く。上代の成人男子の髪の結い方で、髪を頭の中央から左右に分け、両耳の辺りで先を輪にして緒で結んだもの。平安以後は主として少年の髪形となった。

「雛(ひいな)」雛人形。

「繡(からぬひ)」縒(よ)り糸で紋様を刺繡したもの。

「ひたゝれ」「直垂」。男性用和服の一種。平安末期に庶民の労働着として発達し、筒袖の垂領(たりくび)の上衣に、丈の短い四幅袴(よのばかま)姿であった。これを武士が鎧の下に着用するようになり、鎌倉時代には武士の日常着となり,袖も広袖となった。袴と合せて用いる二幅の身に一幅半の袖を附け、衽(おくみ)がなく、闕腋(わきあけ)を特色とした。武士の台頭につれ、公家にも私服として着用されるようになり、武士の場合は袷(あわせ)であったが、公家の場合は単(ひとえ)で、袖に袖くくりの紐を通し、先が露として垂れていた。従来の直垂は「鎧直垂」と称されて、専ら軍陣用のものとなった。室町時代には上級武士の礼服となり、袴も長袴となって、地質も綾などの絹が使用された。江戸時代になると、直垂は将軍以下諸大名、三位以下侍従以上の大礼服となり、白小袖に直垂・風折烏帽子(かざおりえぼし)というのが武家の最上の礼装となった(ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った。各語の意味が判らない方は、幾つかはリンク先にリンクがある)。

「梁の塵や、飛ぬらん」歌が上手いことの喩え。漢の虞公という歌の名手が歌うと、その声が響き渡って、梁の上の塵まで動いた、という故事(「劉向(りゅうきょう)別録」)に由来する。

「糸竹」管弦楽器。

「嶰谷吟(かいこくぎん)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『「嶰谷」は崑崙の北谷の名。黄帝の時、伶倫』(「伶」自体が「楽人」を指す漢字)『がここの竹を取って吹き』、中国音楽の最初の十二律の『音律を定めたという』とある。ここはそれに擬えて了意が勝手に創作した管楽曲名であろう。

「郭介子」「新日本古典文学大系」版脚注によれば、原話「金鰲新話」に『郭介士』の名で出るとし、『蟹が』ガサゴソと『動くことを』漢語で『「郭索」と言い、蟹の異名でもあることによる命名か。「介子」は介士、甲冑を着た武人』とある。私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類」の「かに 蟹」にも、異名として「郭索」「橫行介士」「無腸公子」が載り、「本綱綱目」から引いて、『蟹は池澤諸水の中に生ず。此の物、亦、蟬のごとく、秋の初め、殻(から)を脫(ぬ)ぐ。蟹と名づくの意、此の義を取る。其の橫に行くを以て螃䲒と曰ふ。其の行く聲を以て郭索と曰ふ。其の外骨を以て介士と曰ふ。其の内の空なるを以て無腸公子と曰ふ』とあるので、是非、参照されたい。

「桂(かつら)の實のる秋」これは実際のユキノシタ目カツラ科カツラ属カツラ Cercidiphyllum japonicum ではなく(同種の花期は三月から五月で、秋に合わない。因みに同種は雌雄異株である)、月世界に植わっているとされた理想を体現した「月の桂」のこと。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『「他の事はともあれ、月の桂ばかりは、花をば貫之の歌を証歌にし春とし、桂は実る三五の秋と詩にも侍れば、実をば秋に定度(さだめたき)もの也」(俳諧御傘四・月の桂の花)』とある。ただ、この「月の桂」の伝承元は中国で、中国の「桂」はカツラではなく、秋に結実して冬を越し、春に熟すシソ目モクセイ科オリーブ連モクセイ属モクセイ Osmanthus fragrans である辺りに、この「ややこしや」はあるんではなかろうか?

「腹には、黃(き)を含み」卵巣の肥大を指す。

「無腸公子(ぶちやうこうし)」底本は「ぶ」は清音。元禄版も同じ。ここは躓くので、「新日本古典文学大系」版で訂した。摂餌不足や産卵直後のカニ類の内臓は空っぽに見えることに由る。

「つな手の舞」何時もは天敵である漁師が舟を引く「綱手」の姿を「舞」いとして、カリカチャライズしたものか。

「笑壺(ゑつぼ)に入て」上機嫌になって笑い転げ。鎌倉時代以降の連語。]

 

 其次に、

「玄先生(げんせんじやう)。」

と名のりて駈(かけ)出つゝ、袖を飜(かへ)し、拍子をとり、尾をのべ、頚(くび)を動かす。

 是、龜の精也。

 其歌ひける詞に、

「我は、これ、蓍(めどき)の草むらに隱れ、蓮(はちす)の葉に遊び、書(ふみ)を負(おう)て、水に浮び、網をかぶりて、夢をしめす。殼(から)は人の兆(うらかた)を現はし、胸に士(つはもの)の氣を含む。世の寳(たから)となり、道の敎(をしへ)をなす。六の藏(かく)して伏し、千年(ちとせ)の壽(ことぶき)を保つ。氣を吐けば、糸筋のごとく、尾を曳(ひき)て、樂(たのしみ)を極む。靑海(あおうみ)の舞を舞(まふ)べし。」

と、頭(かしら)を動かし頚(くび)をしゞめ、目をまじろき、足をあげ、しばし、かなでゝ引入〔ひきいり〕ければ、滿座の輩〔ともがら〕、聲をあげ、腹をさゝげ、おきふして、笑ひどよどみ、興を催す。

[やぶちゃん注:「玄先生」の歌は底本では全体が一字下げである。

「蓍」これは本邦では、バラ亜綱マメ目マメ科ハギ属メドハギ亜種メドハギ Lespedeza juncea var. subsessilis である。ここで、この植物を出したのには大きな意味がある。何故なら、このメドハギという和名は「目処萩」であり、これは元は「筮萩(めどぎはぎ)」と言ったのが訛ったものとされるからである。則ち、本家中国以来、このメドハギの茎を乾燥させたものを、占いをするための筮竹(ぜいちく)の替わりに用いたことによるからである。但し、これは了意のオリジナルではなく、「爾雅」の「六曰筮龜」の注で「常在蓍叢下潛伏。見龜策傳。」(常に蓍(し)の叢下に在りて潛伏す。「龜策傳」を見よ。)とある。この「龜策傳」とは、「史記」の列伝中にある、前の「日者列傳」とともに占卜者群の包括的解説が成されてある「龜策列傳」である。但し、「常在蓍叢下潛伏」の文字列は「史記」の「龜策列傳」にはなく、「爾雅」の注に拠るものの、それと同内容の「能得百莖蓍、幷得其下龜以卜者。百言百當、足以決吉凶。」(能く百莖の蓍を得ば、幷びに其の下に以つて卜者とする龜を得。百言百當して、以つて吉凶を決するに足る。)がある(以上の訓読は私の自然流で、原文は「中國哲學書電子化計劃」の同列伝を参考にした)。意外に思われるのは、ここには「龜卜」の語は出現せず、その代わりとなっているのが「蓍龜」(しき)、蓍(し)の茎と亀甲なのであった。ただ、ここでどうしても追加を必要とする記載を見出した。それはウィキの「蓍亀」で、そこには『ノコギリソウと亀甲を指し、昔は占いに用いていた』とあるからである。則ち、中国で「蓍」が指すのはメドハギではなく、キク亜綱キク目キク科ノコギリソウ属ノコギリソウ Achillea alpina であるということである。則ち、中国ではメドハギとは全くの別種であるノコギリソウの茎を、同様に乾燥させて筮竹の代わりにしていたという事実を確認しておく必要があるのである。この決定的違いは「新日本古典文学大系」版脚注にも記されていないので、注意を要する。

「蓮の葉に遊び」同じく、「龜策列傳」に「余至江南、觀其行事、問其長老、云龜千歲乃遊蓮葉之上、蓍百莖共一根。又其所生、獸無虎狼、草無毒螫」(余、江南に至り、其の行事(亀の甲羅を用いた卜占)を觀て、其の長老に問ふに、云はく、「龜の千歲にして、乃(すなは)ち蓮の葉の上に遊び、蓍(し)百莖と共に一根たり。又、其の生ずる所、獸、虎・狼無く、草、毒・螫(どくむし)無し」と。)とある。蓮の葉の上にいるカメは既にして、霊亀なのである。「本草綱目」の「介之一」冒頭の「水龜」にも「在山、曰靈龜」、「『抱朴子』云。『千歲靈龜、五色具焉。』。」とある。

「書を負て」「尙書中候」(「後漢書」の注)に、「堯率羣臣東沈璧于洛。退候至于下稷。赤光起。元龜負書出。背甲赤文成字止壇。」(堯、羣臣を率いて東し、璧を洛に沈む。退きて下稷に至りて候すに、赤光、起り、元龜、書を負ひて出で、背甲に赤文あり、字して「止壇」と成す。)。因みに、仏教では有難い書物どころか、須弥山や我々の住む世界全体を背中に支えているではないか。

「網をかぶりて、夢をしめす」「新日本古典文学大系」版脚注に、『漁師の網にかかった神亀が夢枕に立ったので都に召し寄せ、国の繁栄を計ったという宗の元王の故事』が「史記」の同じく「龜策列傳」に載るとあるが、この「宗」は「宋」の誤りである。この「元王」とは春秋時代の宋(紀元前一一〇〇年頃~紀元前二八六年)の第二十七代君主。当該部は「中國哲學書電子化計劃」の「龜策列傳」(全文)のタイトル「11」から「27」と長い。

「殼は人の兆を現はし」言わずもがな、亀卜のそれを指す。

「胸に士の氣を含む」亀甲を甲冑に擬えてその属性を述べたもの。

「六の藏(かく)して伏し」カメは一般に頭・尾及び前足・後足二対の六つの体躯の肢を総て亀甲に内蔵させる(それが出来ない種もいる)ことから、別名を「六藏」と称した。ただ、この部分、歌詞として表現が不全である。「六藏(ろくざう)して伏し」の方がいい。

「尾を曳て、樂を極む」知られた私の好きな「壯子」の「秋水」の一節。

   *

莊子釣於濮水。楚王使大夫二人往先焉。曰「願以境内累矣。」。莊子持竿不顧曰、「吾聞楚有神龜、死已三千歲矣。王巾笥而藏之廟堂之上。此龜者、寧其死爲留骨而貴乎、寧其生而曳尾於塗中乎。」。二大夫曰、「寧生而曳尾塗中。」。莊子曰。「往矣。吾將曳尾於塗中。」。』

   *

 莊子、濮水(ぼくすい)に釣す。楚王、大夫二人をして往かせ先(みちび)かしむ。曰はく、

「願はくは境内(けいだい)[やぶちゃん注:楚の国内。]を以つて累(わづら)はさん。」

と。莊子、竿を持ちて顧みずして曰はく、

「吾れ、聞く、『楚に神龜有り、死して已に三千歲。王、巾笥(きんし)して[やぶちゃん注:絹の袱紗にうやうやしく包んで。]之れを廟堂の上に藏す』と。此の龜は、寧ろ、其れ、死して、骨を留(とど)めて貴(たふと)ばるるを爲さんか。寧ろ、其れ、生きて、尾を塗中(とちゆう)[やぶちゃん注:泥の中。]に曳(ひ)かんか。」

と。二大夫曰はく、

「寧ろ、生きて尾を塗中に曳かん。」と。

莊子曰はく、

「往け。吾れ、將に尾を塗中に曳かんとす。」

と。)

「靑海の舞」「源氏物語」の「紅葉賀」のシークエンスで知られる雅楽の「青海波」の舞い。本来は二人舞いで、最も優美なものとされる。特別な装束を用い、青海波と霞の模様が刺繍された下襲に、牡丹などが織られた半臂を纏い、千鳥が刺繍された袍の右肩を袒(はだぬ)ぎ、太刀を佩き、別甲を被る。龍宮での披露は如何にもしっくりくる選曲ではあるが、ずんぐりむっくりのカメが六肢を出したり、引っ込ませたりするそれは、確かに一座の大爆笑を受けたに相違ない。

「腹をさゝげ、おきふして」腹を抱えて、文字通り、腹の底から波状的に笑わさせられるために、尺取り虫のように起き伏しを繰り返すことになるのである。何気ない描写だが、シークエンスが髣髴とされる優れた描写である。] 

 

Rm3

[やぶちゃん注:「新日本古典文学大系」版脚注の絵の解説によれば、『竜宮城内を巡覧の場面。室内にあるのが、右より雷公の鼓、電母の鏡、哨風の革袋、洪雨の箒』(上に載っているもの。取っ手ではない)、『先導するのが吹雲の官人。蜃の精として頭部の甲は水管など貝の内臓の一部を模したものか。真上は狩衣、指貫』とある。]

 

 其外、蝦・蜊(はまぐり)・木玉(こだま)・山びこ、よろづの魚(うを)、おのれおのれが能(のう)をあらはし、藝をつくす。

 巳に酒酣(たけなは)にして醉(ゑひ)に和(くわ)しつゝ、三神の客座をたち、拜謝(をがみまうし)てかへりしかば、主の龍王、階(みはし)のもと迄、送られたり。

 眞上(まがみ)、袖、かきをさめて、たのしみは、こゝに極めぬ。

「願はくは、龍宮城の有樣、あまねく見せたまへ。」

と望みしに、

「いと易き事。」

とて、階を下り、庭に出て步(あゆま)せらるゝに、雲とぢて、何も見えず。

 龍王、則ち、吹雲(すいうん)の官人(くはんにん)を召されたり。

 其姿、首(かしら)に七曲(なゝわた)の甲(かぶと)を着し、鼻高く、口大なるもの、これ蜃(おほはまぐり)の精なるべし。

 口をしゞめて、天に向ひ、吹〔ふき〕ければ、世界、ひろく、平かに、山もなく、岩(いはほ)もなし。

 霧雲(きりくも)、數(す)十里、はれひらけ、玉の樹(うゑき)、庭に、列(つらね)うえ、金のいさごを敷渡し、梢に五色の花開け、池には四色の蓮(はちす)さきて、匂ひ、又、こまやかなり。

 廻(めぐ)れば、金(こがね)の廊(わたどの)あり。庭には、瑠璃の塼(かはら)をしきたり。

 官人を差副(さしそ)へ見せしめらる。

 一つの樓閣あり。坡梨(はり)・水晶にて造りたて、珠(たま)をちりばめて飾りたり。是に登れば、虛空を凌ぐ心地して、一の重(ぢう)には、あがり得ず。

「こゝは、下輩凡人(げはいぼんにん)の登る事、協(かな)はず。神通(じんつう)のものこそ、行至〔ゆきいた〕れ。」

と。

 それより又、ひとつの樓臺(たかどの)に登れば、側(かたはら)に圓〔まろ〕き鏡の如くなるものあり。

「きらきら」

と、光かゝやき、睛(ひとみ)を、くるめかして、立向ひ難し。

 官人いふやう、

「これは『電母(でんぼ)の鏡』とて、少し動せば大なる電(いなびかり)出て、世の人の目を奪ふ。」

といふ。

 又、かたはらに太鼓あり。大小、その數、多し。

 眞上、『これをうちてみん』とす。

 官人、とゞめていふやう、

「若〔もし〕、强く打ならせば、人間界の山川・谷・平地(ひらち)、震鳴(ふるひなり)はためき、人みな、膽(きも)を失ひ、命を亡(ほろぼ)し、死なずとも、耳を失はん。これは『雷公のつづみ』也。」

といふ。

 又、かたはらに橐籥(ふいご)の如くなるものあり。

 眞上、『これを動かさん』とす。

 官人、又、とゞめていふやう、

「是は『哨風(さうふう)の革嚢(かはぶくろ)』なり。これを强くうごかさば、山、くづれ、岩石、飛(とび)て空にあがり、人の家は皆、吹破〔ふきやぶ〕れて、四方に散亂(ちりみだ)れん。」

といふ。

 その傍(そば)に水瓶(みづがめ)あり。箒(はゝき)のごとくなる物を上にのせたり。

 眞上、『是をとり、水に差し入れて打ふらん』とす。

 官人、おし留(とゞ)めて、

「是は、『洪雨の瓶(みずがめ)』なり。此箒に浸(ひた)して、强く打(うち)ふらば、人間世界は、大雨洪水、押流(をしなが[やぶちゃん注:ママ。])され、山もひたり、陸(くが)は海にぞ、なりなん。」

といふ。

 阿祇奈君、とひけるやう、

「扨、これらを司る官人は、いづくにありや。」

と。

 答(こたへ)て云(いふ)やう、

「雷公・電母・風伯・雨師は、極めて物あらき輩〔ともがら〕なれば、常には獄(ひとや)に押籠(をしこ[やぶちゃん注:ママ。])められ、心の儘に振舞ふ事、かなはず。若し、出〔いだ〕して、其役を勤むる時は、比所に集(あつま)り、雨風[やぶちゃん注:「あめかぜ」。]・いかずち・電(いなびかり)、みな、分量ある事にて、それより過(すぎ)ぬれば、科(とが)に行はれ、侍べる。」

 凡そ、あらゆる宮殿樓閣は、見盡す事、かなはず。

 それより立歸れば、龍王、さまざま、もてなし、瑠璃の盆に眞珠二顆(くは)、氷の絹二疋を、歸るさの餞(はなむけ)とし、禮儀あつく、龍王、階(みはし)に送り出て、官人に仰せて、送り返さる。

 阿祇奈君、目をふさげば、空をかける心地して、勢多の橋の東なる龍王の社の前に出(いで)たり。

 珠と絹をもちて歸り、寳とす。

 其後〔そののち〕、名を隱し、道を行ひ、其終る所を、知らず。

[やぶちゃん注:「蜊(はまぐり)」当て訓はママ。龍宮到来の折りに「貝蛤」で「はまぐり」と振っている(そこでは私は「取り敢えず」と添えて斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ科ハマグリ亜科ハマグリ Meretrix lusoria とした)から、ここは或いは、漢字の方の「蜊」を意識するなら、マルスダレガイ科アサリ亜科アサリ属アサリ Ruditapes philippinarum 及びアサリ属ヒメアサリ Ruditapes variegatus(アサリよりも殻幅や套湾入が、若干、小さい)、さらには全くの別種であるが、アサリに似るも、それより少し大きくて厚いマルスダレガイ科フキアゲアサリ属オキアサリ Gomphina semicancellata 或いは遺伝的に近似しているために自然環境化では雑種化することがあるとされる同フキアゲアサリ属コタマガイGomphira melanegis 及びその雑種を同定候補と出来る。それに真正のハマグリの小型個体も含めねばならない。そもそもが、こんなおかしな表記をするということは、当時の庶民レベルではハマグリの小型個体やアサリの大型個体は区分認識などされていなかったと考えた方がいいからである。

「木玉(こだま)」「木靈」。

「山びこ」「山彥」。木霊に同じ。前に述べた通り、龍宮でも異界性で地下で山の異界とは通底している。いや、寧ろこの木霊類は海底の岩の洞の中や、嵐の海潚(かいしょう)の齎す反響や轟音を齎す妖怪を想起して構わぬように私には思われる。

よろづの魚(うを)、おのれおのれが能(のう)をあらはし、藝をつくす。

 巳に酒酣(たけなは)にして醉(ゑひ)に和(くわ)しつゝ、三神の客座をたち、拜謝(をがみまうし)てかへりしかば、主の龍王、階(みはし)のもと迄、送られたり。

「七曲(なゝわた)の甲(かぶと)」幾重にも曲がりくねった奇妙な兜。これは正体から蜃気楼の幻の天をつんざく妖しい幻しの楼閣のシンボライズである(次注のリンク先及び次々注を参照)。

「蜃(おほはまぐり)」私の「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 蜃」の私の考察をお読み戴きたい。中日孰れも貝類の二枚貝の分類と、妖怪としての蜃気楼の発生源生物に関しては、博物学的知識のレベルが頗る低いのである。私の「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部」の「わたりかひ 車螯」=「蜃」も併せて見られたい。

「口をしゞめて、天に向ひ、吹ければ」蜃気楼とは蜃(おおはまぐり:正式和名にこの種はない。一部でウチムラサキ(斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ目マルスダレガイ超科マルスダレガイ科マツヤマワスレ亜科ウチムラサキ属ウチムラサキ Saxidomus purpurata :本種はオオアサリの異名も持つ)・コタマガイ(マルスダレガイ科リュウキュウアサリ亜科Macridiscus属コタマガイ Macridiscus melanaegis )や外来移入種であるホンビノスガイ(マルスダレガイ科ビノスガイ属ホンビノスガイ Mercenaria mercenaria )の異名で今も使われることがある。但し、貝殻を見た瞬間に素人でもハマグリとは全く異なることが判る)が吐き出す気によって海上に現われる幻しの楼閣である。

「いさご」「砂・沙」。

「匂ひ」古語では視覚的な、美しい色合い・色艶や、輝くような艶やかな美しさ、及びそうした視覚的綜合的に完成された魅力・気品が嗅覚よりも優先する。ここもそれ。

「塼(かはら)」瓦。塼(音「セン」)は本来は焼成した煉瓦のことを広く指す語。中国では塼の出現以前に日乾煉瓦が用いられていたことは殷・周の建築址で確認されている。恐らくは屋根瓦の出現が契機となって塼が焼かれ始めたと推定されるが、確実な実例が確認出来るのは春秋時代からとされる。

「坡梨(はり)」玻璃。現行はガラスを指すが、ここは後の水晶と同義。質や色や採取地或いは加工した厚さや大きさで水晶と区別したものであろう。

「一の重(ぢう)には、あがり得ず」もう一階上の階があったが、どうしても、体が動かず、そこに上がることは出来なかった。

「光かゝやき」底本は「かゞやき」であるが、私はこの「かがやく」という濁音が生理的に嫌いなので、元禄版を採った。「新日本古典文学大系」版も清音である。

「睛(ひとみ)を、くるめかして」前に立った阿祇奈の瞳を勝手にぐるぐると回して。

「電母(でんぼ)」道教の雷神の名にある。「閃光娘娘(にゃんにゃん)」とも称す若い女性神。雷帝の命を受けて雷公とともに雲を起こし、雨を降らせるとする。

「橐籥(ふいご)」「鞴(ふいご)」に同じ。

「哨風(さうふう)」「哨」(ショウ)は「見張る」の意。

「箒(はゝき)」挿絵では板切れのようにしか見えないが、瓶の中の水に浸けて振るわけだから、実際には先は非常に細かなブラシ上になっているものであろう。それが細かいから遠目にはただの板にしか見えぬということで私は納得した。

「雷公・電母・風伯・雨師は、極めて物あらき輩なれば、常には獄(ひとや)に押籠(をしこ)められ、心の儘に振舞ふ事、かなはず」激烈な気象現象を支配する彼らが龍王の支配下にあるというのは少しも違和感がない。何故なら風水を支配するのは龍だからである。

「分量ある事にて」人間を含む生物界全体にとっての適切な分量・程度・限度があるのであって。

「眞珠二顆(くは)」非常に巨大なものであろう。

「氷の絹」「氷綃」(ひようせう(ひょうしょう)で「薄い白絹」。「氷綃」という漢語が見慣れないものであるから、かく書き変えたもの。

「二疋」布地でも特に絹織物を「二反(たん)」を「一疋」として数える数詞が「疋」。一疋は古くは四丈(約十二メートル)、後に鯨尺で五丈六尺(約二十一メートル)である。ここは読者の日常から後者。

「其後、名を隱し、道を行ひ、其終る所を、知らず」中国でも古来より、桃源郷や仙界・異界を知ったものは現世の穢れを嫌って行方不明となるのはお約束である。]

2021/04/02

芥川龍之介書簡抄27 / 大正三(一九一四)年書簡より(五) 吉田彌生宛ラヴ・レター二通(草稿断片三葉・三種目には七月二十八日のクレジット入り)

 

[やぶちゃん注:以下は葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」(岩波書店一九七八年刊)の「書簡補遺」に載るものを底本とした。本書簡の最初のものは、実際に送られたものではなく、葛巻氏によって『大正三年夏上総一宮にて』とし、書簡の『草稿断片』記されたもので、クレジットはない。既に述べたが、この年の七月二〇日頃から八月二十三日(帰宅)まで、友人の堀内利器(りき 明治二四(一八九一)年~昭和一七(一九四二)年:府立三中の龍之介の一年先輩の友人。一高を経て、京都帝国大学理科を卒業後、「高砂香料」・「台湾有機合成会社」等を創立した。国立国会図書館デジタルコレクションに没年に刊行された「アセチレン工業に就て」(講演速記版)がある)の紹介で彼の故郷千葉県一宮海岸(現在の千葉県長生(ちょうせい)郡一宮町(いちのみやまち)一宮の現在の「一宮海水浴場」(グーグル・マップ・データ航空写真。以下同じ)。に行き、約一ヶ月滞在している。新全集宮坂年譜によれば、『滞在中は、読書はあまりせず、海水浴や午睡が日課だった』とあり、この前の七月十六日附の、三中の三中の後輩で親しかった浅野三千三宛書簡の末尾にも、『廿日から僕は一の宮へゆく 神經衰弱をすつかり療』(いや)『さうと思ふ』『試驗成績は僕も餘りよくなささうだ』と記している。ここは現在、長生郡一宮町一宮字林下の旅館「一宮館」の離れとして、泊まった時のままに残されて「芥川荘」(「千葉県教育委員会」公式サイト内)と呼ばれてある。因みに、「芥川龍之介 愛の碑」(グーグル・マップ・データのサイド・パネルの碑の裏面)なる吉田弥生の名を記したものが、この海岸線のここに建っている。無論、この「愛」というのは、後の大正五(一九一六)年八月二十五日の、ここへの二度目の止宿の際の、後に妻となる塚本文へのよく知られた求婚書簡が書かれたというハイブリッドの意味があり、それが碑文にもあるのだが、これ、吉田(金田一)弥生が生きていたら、驚愕卒倒するに違いない。だいたいからして妻文と並んで刻まれてあるというのは、如何なものか? しかし、この碑の建立は昭和四九(一九七四)年十月。弥生は前年の昭和四八(一九七三)年二月に亡っている。満を持して建てたということか。少し、複雑な座りの悪い感じがする文学碑である。芥川龍之介も微苦笑すること、間違いない。

 この「神經衰弱」というのは、広義の心身疲労・持続的不安・抑鬱及び心身症としての頭痛・神経痛・勃起不全などを総称したもので、一八六九年(明治二年)にアメリカの神経内科医ジョージ・ミラー・ビアード(George Miller Beard 一八三九年~一八八三年)が、過労を主とする日常生活のストレスによる中枢神経系の減衰症状として「ニュラスティニア」(Neurasthenia:神経衰弱症)を造語したものである。二十世紀初頭に、この概念は世界的に広く受け入れられたが、西洋では比較的早くに(一九三〇年代以降)徐々に使用されなくなった。しかし、本邦では、好んで使われ(漱石は盛んに用い、この年に発表された「こゝろ」でも「先生」は遺書の中で(リンク先は私の初出復元版)、Kのことを『彼は寧ろ神經衰弱に罹つてゐる位(くらゐ)なのです』と言わしめている。私がKなら、強迫神経症の猛者である漱石なんぞには、そう言われたくはない気が大いにする)、精神科医が殆んど使用しなくなったのは戦後であるが、今でも一般の日本人の中には、手軽で安易な精神的疲労を示す語として生き残ってしまっている。DSM-IV(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders:「精神障害の診断と統計的便覧」。現在は第五版まで出ている)では、「鑑別不能型身体表現性障害」(Undifferentiated Somatoform Disorder)とされる。英語圏では俗称で「ナーバス・ブレイクダウン」(nervous breakdown)と呼ばれる。また、「慢性疲労症候群」の旧称と言い換えることは一面的には妥当とも言えるが、重篤な統合失調症などの精神疾患の初期症状をそれで見過ごすことが多く、また、一部では不定愁訴型の「慢性疲労症候群」の病原として何らかの病原体感染が疑われている昨今では、私は最早、隠れた差別語として死語とすべきものと考えている。

 ここでの龍之介のそれも、そうした抑鬱的な精神状態の不定愁訴的なニュアンスを指していると考えてよいが、敢えて原因を考えるならば、帝国大学入学後、山本喜誉司や井川恭のような親友が身近になかなか出来ず、講義にも有益性を殆んど認めぬために出ても面白くなく、サボることも多くなって、『新思潮』の同人活動以外には(それ自体も初期には同人間では相対的に見て必ずしも積極的ではなかった)、まるで先験的な希望が見出せない大学生活そのものがこの頃の彼にとっては完全に乖離した世界として意識されていたこと、そして、そこにここに見られる本格的な結婚を想定した吉田弥生(彼女についてはこちらの私の注を参照)への強い恋慕の情が強く絡んできたことによる焦燥に起因するものであろう。但し、それが、心身症のレベルでないことは、この一の宮での健壮な河童生活でも明らかである。というよりも、寧ろ、最後の弥生へのもやもやこそが「神經衰弱」というメランコリーの核心にあり、それが、以下のラヴ・レターの発信により、解消されたとも言える程度にごく軽い精神不安に過ぎなかったもののようにも私に窺われるのである。

 最初に掲げた草稿断片の前の二葉の頭その他には「・・・」とあるが(全三ヶ所)、これは葛巻氏が省略に用いるものであるので、除去した。また、ここでは途中に注を挟んだ。]

 

大正三(一九一四)年七月:吉田彌生宛(日付不詳であるが、葛巻氏の提示が順列であるとすれば、二十日以降から二十八日までとなる)。上総一宮にて執筆された書簡草稿断片三葉。間に「*」を施した)

 

氣になつて 同じ豆らんぷの下で ペンをとりました これで彌ちやんへ手紙をあげるのが 二度になるのですが 二度とも ある窮屈さを惑じてゐるのは事實です それはやゝもすると 餘り自由に書きすぎはしないかと云ふ掛念[やぶちゃん注:「懸念」に同じい。]があるのです むづかしく云ふと 社會の不文律がきめてゐる制限を 知らず知らず乘越えてゐはしないかと云ふ疑懼[やぶちゃん注:「ぎく」。]の心が一行書くうちにも つきまとつてゐるのです(少し大袈裟ですが) それも社交上の修辭に富んだ人だと こんな心配はないのですが僕は其點で 單語もSYNTAX[やぶちゃん注:縦書。「構文」の意。]も非常に貧少な惡文家ですから どうも此塀を飛び越えさうな氣がして仕方がありません 其爲に僕の手紙は甚 手數のかゝつた よみ惡いもの

   *

と茄子の畠との間へ 四分板[やぶちゃん注:「しぶいた」。厚さ約一・二センチメートルの板。]を一枚 敷いて流しにした 無造作なものですが 風呂はそれでも 鐡砲のついた 小判なり[やぶちゃん注:「形(なり)」。]の風呂桶がありますから 行水ですます必要もありません うすい月が出で 豆、黍、茄子 さゝげ 甘藷などの葉が 靄の中にうなだれてゐるのを見ますと 久しぶりで 漢詩でも作つて見たくなります 「種豆南山下 辨盛豆苗稀」と云ふ 名高い陶淵明の雜詩を思ひだすのも此時です 時々僕は 厄石湖の田園詩集を 忘れて來たのを 殘念だと思ふ事があります

[やぶちゃん注:「彌ちやん」芥川龍之介との幼馴染みという関係がよく見てとれる呼びかけである。

「鐡砲」「鐡砲風呂」。木の風呂桶の中に「鉄砲」と呼ばれる鋳鉄製の筒を入れ、その筒の中に、上から、薪などの燃料をくべて湯を沸かしたもの。鉄器の及源鋳造(おいげんちゅうぞう)株式会社公式サイト「OIGEN」内の「五右衛門風呂と鉄砲風呂-昔なつかしいお風呂の鋳物-によれば、『西日本で長州風呂』(風呂釜全体が鋳鉄製の風呂。恐らくは殆んどの人が「五右衛門風呂」と考えているものが長州風呂である。底が直接釜になっているため、底板が用いられる点では同じだが、五右衛門風呂は全側面の中・上方は総て板で出来ており、側面の下方に少し鉄釜の縁が内側に迫り出しているものを言うのが本当である)『が一般的だったのに対し、東日本ではこの鉄砲風呂が昭和の時代まで普及していました』。『そしてここ水沢』(岩手県奥州市水沢羽田町)『の鋳物産地が江戸時代の頃から長らく「鉄砲」の一大生産地として名を馳せていました。及源でも昭和』三十『年代まで盛んに「鉄砲」を生産していました。水沢の近辺では江戸の頃までは風呂はそれぞれの村のお風呂屋さんにしかありませんでしたが、戦後になると鉄砲風呂が一般家庭にも広がっていきました』。『しかし鉄砲風呂は五右衛門風呂と比べるとなかなか馴染みがなく、その姿を見かけることすらありません。鉄砲風呂の沸かし方や』、『入り心地が実際どうだったのか、というのが気になるところ。まだ鉄砲風呂が現役だった昭和』三十『年代に水沢近郊の街で家業の桶屋で鉄砲風呂を作っていた石田繁さんが、鉄砲風呂の思い出を語ってくれました』。『お風呂は離れにあったので、冬場は風呂に行くまでも寒い思いをしていました。風呂桶は鉄砲が入るスペースが必要になるというのもあり、人が入る空間は狭く、膝を抱えて湯に入ります。また、同じ風呂桶のなかで薪を焚いているので、灰が湯に飛んできてしまうこともしばしばありました』。『水を汲むのと、湯を沸かすのが子どもたちの仕事でした。水汲みは何度も何度も往復して風呂桶に入れるので大仕事。湯が沸くのに鉄砲風呂はわりに早く、』一『時間弱もすれば』、『あったかいお湯になりました』。『このあたりでは、終戦後から』二十『年くらいかな、亜炭っていう炭の一種がよく採掘されて、それも燃料になりました。焚きつけは薪をつかっていたけど、お湯を保温するには亜炭がよかったんです』。『いまみたいに毎日お湯を替えるなんてことはなく、一回の湯を一週間は使います。なので次第に湯が濁ってきて、風呂から出るときは垢がつかないように気をつけました。それでも、鉄砲で火を焚いて、ヒバの香りがする風呂桶につかるのはなかなかよいものでした』。『鉄砲風呂は昭和30年代を境に家庭から消えていきました。浴槽は木桶から、ホーロー浴槽、強化プラスチック、ステンレスなどに置きかわり、燃料も薪や炭からガスの時代に変わっていきました。水沢の鋳物産地でも「鉄砲」はそれ以降、特別なことを除けば作られることはありませんでした』とある。私はこの正真正銘の鉄砲風呂に小学校三年生の頃に入ったことがある。祖母が住んでいた鵠沼の貸家で、大家と祖母の部屋の間の室内にあった。鉄に触れると、火傷するのではないかと思って、とても怖かったことを覚えている。大家さんのおじさんが親切に入り方を教えて呉れた。]

海へは 半里ばかりありますが 舟で行きますから 餘り苦になりません川の兩岸は蘆と松です 海岸は 九十九里だけに 見渡す限り 砂がついてゐますが 海は 見た所より はいつた方が遙に野蠻で のべつに一間[やぶちゃん注:一・八一メートル。]位な波がよせて來ます 泳ぐと云ふより波になぐられにはいると云つた方が適當かもしれません 海水浴場の揭示にも 泳げとは書いてないで 波に背部を打たすべしと書いてあります 始めての日には 油斷をしてゐた所を 波にひつくり返されて 頭にかぶつてゐた手拭を流されてしまひました 二日目の日には 波を越しそくなつて[やぶちゃん注:「そこなつて」に同じい。] 鹹い[やぶちゃん注:「しほからい」。]水を大分のまされました 今でもまだ 波に對する僕の抵抗力は甚 貧弱です 僕たちの連中での餓鬼大將は 工學士ですが 生憎泳ぎは拔手も碌に切れない方なので 波が來ると 僕以上に狼狽します 二人ゐる一高生の一人は蔭山金左衞門と云ふ 封建時代の名前を今日でも恥しげなく名乘つてゐる男で 一人は堀内利器と云ふ 專賣特許の井戶堀機械のやうな名の男ですが 一人は五里何町の遠泳をした事のある男ですし一人は一の宮の生れで波に慣れてゐる男ですから 二人共後鉢卷[やぶちゃん注:「うしろはちまき」。]をして泳ぐ所は 漢語で形容すると 壯士慘として驕らずと云つた調子です 其代[やぶちゃん注:「そのかはり」。] 一日に十里步いたり高い崖の上から飛び下りたりするのを得意にしてゐる人間ですから 國家圭義を標榜して僕を攻擊するのを 義務の如く心得てゐます 其おかげで 此間も學生となつては不成績なるべし 功名を望む可らずと云ふやうな議論を一時間ばかり 謹聽させられました 其癖二人とも 僕のゐた中學を首席で卒業してゐるから滑稽です 近々 此二人の志士の案内で 高藤山と云ふ山へ上る筈ですが 嘸[やぶちゃん注:「さぞ」。]豆が出來るだらうと思つて 今から大に弱つてゐます

[やぶちゃん注:「蔭山金左衞門」府立三中の二年後輩の友人。浜崎隆氏の論文「芥川龍之介研究」に拠った。

「壯士慘として驕らず」杜甫の五言古詩「後出塞五首其五」の一節。「壯士慘不驕」「壯士(さうし) 慘(さん)として驕(おごら)ず」。「血気盛んな青年兵士ももの哀(がな)しくなり、意気消沈してくる。」の意。全詩は紀頌之氏のサイト「杜甫詳注 杜詩の訳注解説 漢文委員会」のこちら(訓読表記に一部誤りがあるので注意されたい)を参照されたい。]

ダンヌンツヨのこはいろを使ふと五人共「OLIVE[やぶちゃん注:縦書。]のやうに」黑くなりました 消化もいゝと見えて 食慾が旺盛です 勉强はあまり出來ませんが 朝のうちだけは 感心に本を少しよみます 夜もよくねます 眠る前に時々東京の事や 彌ちやんの事を思ひ出します

[やぶちゃん注:「ダンヌンツヨ」はファシスト運動の先駆とも言える政治的活動を行ったことで知られるイタリアの詩人で作家のガブリエーレ・ダンヌンツィオ(Gabriele D'Annunzio 一八六三年~一九三八年)。本名はガエターノ・ラパニェッタ(Gaetano Rapagnetta)。本邦では「ダヌンツィオ」「ダヌンチオ」とも表記する(以上はウィキの「ガブリエーレ・ダンヌンツィオ」に拠る)。何の作品の登場人物の「こはいろ」(聲色)かは不明だが、私の『芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「五」』で全文を示した(この「芥川龍之介書簡抄」では採用していない)大正二(一九一三)年八月十六日附のもので「島根縣松江市内中原町 井川恭樣」宛てで「八月十六日朝」と添書のある「靜岡縣安倍郡不二見村新定院内 芥川龍之介」という差出人住所署名を持った芥川龍之介の書簡に、ダヌンツィオの代表作で一八九四年発表の小説「Triumph of Death」(Il Trionfo della Morte :「死の勝利」)の話が出、また、この書簡の直近では、新全集宮坂年譜を見ると、ここ一の宮に来る直二週間ほど前の七月五日に、新宿の自宅で、ダヌンツィオの悲劇「ラ・ジョコンダ」(La Gioconda :一八九九年)のドイツ語訳を読み終えているから、或いは後者か。

「五人共」ママ。後の二人は誰なのか不明。但し、これは「三人」の誤記や誤判読ではなく、実際に一の宮で外に二人の人物と交流があったことは、後の八月六日附小野八重三郎宛書簡で判る。それによれば、『三中の人に二人あつた 蔭山が紹介してくれたので大分いろんな事を話した あとで「あれは何と云ふ人だね」と蔭山にきいたら「僕も知らない」と答へた 自分も知らない人間を人に紹介するのは亂暴である』とあるのがそれである。

『「OLIVEのやうに」黑くなりました』言わずもがな、オリーブ(シソ目モクセイ科オリーブ属オリーブ Olea europaea 。誤訳で「橄欖」。真正の橄欖はムクロジ目カンラン科カンラン Canarium album でインドシナ原産。種を食用にしたり、油を搾ったりするので利用法がオリーブに似ているため、に誤って漢字訳された)の実は秋になって熟すと濃い紫色を経て、黒くなる。]

   *

  彌生樣    七月廿八日、一の宮にて

御手紙拜見致し候 二度も三度も御返事認め候へども皆意に滿たねばやめに致し候

〝赤百合〟の中によひどれの詩人出で來り候ふべし 杖に女の首を刻みて〝人道〟とかなづくる男に候 これぞヴルレーヌを描けるものに候なる わかき彫刻家も その戀人も 皆まことありし人々の由に候

この地の自然の手ざはりのあらきにはおどろかれ候 松脂のにほひと砂と海とのみ 砂丘には月見艸の花さへつけず 弘法麥と濱防風と 僅に靑を點ずるのみに候

海には每日 ひたり候へば橄攬の如く黑み候 一高生二人 常に共に泳ぎ候

都の夜など思出でられ 時にはかへりたくなり候 何となく心おちゐぬ事多く候

書くべき事多けれど 書き得ざるを如何にせむや これにて御免蒙る可く候

                龍之介

 

[やぶちゃん注:これは短い乍ら、書信の体を完全に成しており、また、龍之介宛で吉田弥生の方から前の二種の草稿以前に、書信が既にあったことが判る。にしても、草稿とは打って変わって、何か妙に硬い。

「〝赤百合〟」芥川龍之介の好きなフランスの詩人・小説家・批評家のアナトール・フランス(Anatole France 一八四四年~一九二四年)が一八九四年に発表した恋愛長編小説「紅い百合」(Le Lys Rouge )。十九世紀末のパリとフィレンツェを舞台として軽薄奢侈な社交界に飽きて真実の愛と自由を求めた貴婦人テレーズの官能的で儚い恋愛模様を描いたもの。パリ社交界の芸術サロン主催者でアナトールの愛人でもあったアルマン・ド・カイヤベ夫人(本名レオンティーン・リップマン Léontine Lippmannmadame Arman de Caillavet 一八四四年~一九一〇年)との交際体験に基づいて書かれた作品であった。「芥川龍之介書簡抄15 / 大正二(一九一三)年書簡より(2) 三通」の一通目の大正二(一九一三)年八月四日附山本喜誉司宛の中で、『杖をこしらへた 紫檀で、もつ所は黑檀のだ あんまりよくないけど學生だからこれでがまんする 紫檀の所へ何か羅甸語の銘を刻つて貰はうかとも思つてる 赤百合か何かの中に杖の頭へ女の泣顔を刻んで MISERY OF HUMANITY て云つてる詩人の事を思ひ出す』と言及している。今回、今一度、「Internet archive」にある英訳本(発行は原作と同年)を調べたところ、この話は、恐らく、「90」ページの頭がそれで、‘human misery’と出現するものであることが判った。

「ヴルレーヌ」言わずもがな、フランスのかの詩人ポール・マリー・ヴェルレーヌ(Paul Marie Verlaine  一八四四年~一八九六年)。

「月見艸」バラ亜綱フトモモ目アカバナ科 Onagroideae 亜科 Onagreae 連マツヨイグサ属ツキミソウ Oenothera tetraptera 或いはマツヨイグサ属マツヨイグサ Oenothera stricta 。私は可憐で清楚な前者をはなはだ偏愛するが、恐らくは太宰治「富嶽百景」の錯誤と同じく、後者であるのかも知れない。

「弘法麥」単子葉植物綱イネ目カヤツリグサ科スゲ属コウボウムギ Carex kobomugi 。かなりよく発達した砂浜海岸に植生する代表的海浜植物である。

「濱防風」セリ目セリ科ハマボウフウ属ハマボウフウ Glehnia littoralis である。食用として新芽を軽く茹でて酢味噌和えにしたり、天麩羅や刺身のツマ等に利用される。なお、狭義の漢方の生薬に使われる「防風」はセリ科ボウフウ属ボウフウ Saposhnikovia divaricate で、中国原産で別属で植物学的にも薬用としても無関係である。

「高藤山」「たかとうさん」と読む。ここ。標高八〇・四メートル。

【2021年5月18日追記】新全集まで誤って配されていた、この前後に入れらるるべき書簡を、こちらで電子化した。是非、見られたい。

2021/04/01

芥川龍之介書簡抄26 / 大正三(一九一四)年書簡より(四) 六月二日井川恭宛 長編詩篇「ふるさとの歌」

 

大正三(一九一四)年六月二日・井川恭宛・封筒欠

 

  ふるさとの歌

      TO MR.IKAWA

人がゐないと女はしくしくないてゐる

葉の黃いろくなつた橡の木の下で

白い馬のつないである橡の木の下で

 

何故なくのだか誰もしらない――

葉の黃色くなつた橡の木の下で

日の沈んだあとのうす赤い空をみて

女はいつ迄もしくしくないてゐる

 

お前が大事にしてゐる靑瑪瑙の曲玉を

耳無山の白兎にとられたのか

お前の夫の狹丹塗の矢を

小田の烏が啣へ行つたのか

 

何故なくのだか誰もしらない――

兩手を顏にあてゝしくしくと

すゝなきながら女は

とほい夕日の空をながめてゐる

 

そんなにお泣きでない

腕にはめた金の釧が

ゆるくなるほどやせたぢやあないか

そんなにお泣きでない

 

女はなきやめるけしきはない

それもそのはづだ

とほい夕日の空のあなたには

六人の姊妹(きやうだい)がすんでゐる

 

六人の姊妹は女の來るのを待つてゐる

一番末の妹の女の來るのを待つてゐる

空のはてにある大きな湖で

 

湖の上にういてゐる六羽の白鳥が

女の來るのを待つてゐる

 

靑琅玕の水にうかびながら

妹の來るのを待つてゐる

 

七年前に七人で

この國の海へ遊びに來たときに――

海の水をあびて

白鳥のうたをうたひに來たときに――

 

海の水はあたゝかく

砂の上には薔薇がさいて

五月の日の光が

眞珠の雨のやうにふつてゐた――

 

七人とも白鳥の羽衣をぬいで

白鳥のうたをうたひながら

海の水をあびてゐた時に――

七人の少女(をとめ)が水をあびてゐた時に

 

卑しいこの國の男が砂山のかげヘ

そつとしのびよつて羽衣の一つを

知らぬ間にぬすんだので

――何と云ふきたないふるまひだらう――

 

卑しい男のけはひに七人ともあはてゝ

羽衣をきるのもいそがはしく

白鳥に姿をかへてとび立つと

――丁度櫨弓の音をきいたやうに――

 

空にとび立つたのは六羽

羽衣を着たのは六人――

一番末の妹は羽衣をとられて

裸身(はだかみ)のまゝ砂の上に泣きながら立つてゐた

 

その時その卑しい男にかどわかされた

一番末の妹を思ひながら

六羽の白鳥は湖の空に

七つの星をかぞへながら待つてゐる

 

一番末の妹は夫になつた卑しい男が

ゐなくなると何時でもしくしくと

泣きながら夕日の赤い空をながめてゐる

葉の黃いろくなつた橡の木の下で

 

卑しい男の妻になつた女は

何時空のはてにあるあの大きな湖ヘ

六人の姊がまつてゐる湖ヘ

歸ることが出來るだらう

 

女の夢には湖の水の音が

白鳥の歌と共にきこえてくる

なつかしい湖の水の音が

月の中に睡蓮の咲く湖の水の音が

 

卑しい男の妻になつた少女は

湖の水を戀ひて

每日ひとりでないてゐるが

何時あの湖へかへれるだらう

 

耳をすましてきけ

おまへのたましひのたそがれにも

しくしく泣く聲がするのをきかないか

 

耳をすましてきけ

お前の心のすみにも

白鳥の歌がひゞくのをきかないか

 

人がゐないと女はしくしくないてゐる

葉の黃いろくなつた橡の木の下で

白い馬のつないである橡の木の下で

           (一九一四・六・二)

             R.AKUTAGAWA

 

[やぶちゃん注:御覧の通り、書信はなく、この詩篇のみである。筑摩全集類聚版脚注では、『(写)』とあり、これは原書簡に当たることが出来ず、先行する従来の全集からの「写し」の意である。所持する筑摩全集類聚版「芥川龍之介全集」の第七巻は昭和四六(一九七一)年刊であるが、これは概ね岩波書店の第三次「芥川龍之介全集」新書版全集(昭和三〇(一九五五)年刊。岩波の編集者は『小型版全集』と呼びならわしている)を親本としているのだが、私の所持する一九七八年版はその後の第四次である。そこには「轉載」の文字はないので、原書簡を確認していることが判る。しかし、『封筒缺』というところが怪しく、実際には井川に当てた書信があった可能性も捨てきれない。或いは、井川が誰れかに提供する際、そこに書かれた内容が芥川龍之介自身にとって不名誉な内容であるか、或いは、提供当時には未だ生存している誰彼(井川自身を含めて)に対して問題がある内容が書かれてあったために、書信部分をそっくり除外して示したものとも、とれる、ということである。詩篇の持つ意図しない男と結ばれるという辺りで憶測では複数の念頭に置いている実在のの女性の可能性は考え得るが、この時期の年譜的事実自体が乏しい状態なので、控えておく。

「橡」ムクロジ目ムクロジ科トチノキ属トチノキ Aesculus turbinata 。東京帝大の庭にあったこと以外に、どうも芥川龍之介自身が好きな木だったように思われる。特徴のある花をまさにこの五月から六月頃にかけて咲かせる。葉の間から穂のようになった有意に長く高く立ち上がる花で、穂は一つ一つの花と花弁(白或いは薄い紅色)はさほど大きくないが、雄蘂が伸び、全体として賑やかで目立つものである。或いはこの漢字「橡」或いはその「とち」という響きを彼は愛していたのかも知れない。手っ取り早い解釈としては、トチノキの近縁種でヨーロッパ産のセイヨウトチノキAesculus hippocastanum のフランス名が「マロニエ」(marronnier)であり、フランスの象徴派詩人たちが、よく詩篇中に点描したことも挙げられるかも知れない。或いはここでも「マロニエ」と読んでいないとは言えない。但し、筑摩全集類聚版では編者は『とち』と振っている。

「靑瑪瑙の曲玉」「あをめなうのまがたま」。

「耳無山の白兎にとられたのか」この「耳無山」(みみなしやま)は特定の固有山名ではなく、耳の長い御伽噺しの中の「白兎」の「兎」に掛けた洒落であろう。

「夫」「をつと」。

「狹丹塗の矢」「さいにぬりのや」。赤い土や顔料で塗った特別な神聖を持つ矢。「古事記」の神武天皇の皇后の出生譚が〈丹塗矢(にぬりや)〉型の本邦の神婚説話の初期形で、三輪山の大物主神が美女勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)に思いをかけ、彼女が廁で「糞まるする時」、「丹塗矢」と化して「そのほと(火登:女性生殖器)を突」いた結果、妊娠するという判り易いファルスのシンボルである。

「小田の烏」「小」は「小さな」とする必要はなく、詩語として豊饒の稲田の美称ととるべきである。

「啣へ」「くはへ」。

「何故」「なぜ」。

「誰」「たれ」。

「すゝなきながら」ママ。啜り泣きながら。筑摩全集類聚版では、勝手に『すゝりなきながら女は』と書き変えてある。個人的には私は龍之介の脱字だとは考えていない。無論、「すす泣く」という語はないけれども、龍之介は万葉語として存在した、「すす」(爲爲)という連語を想起したのではなかったかと考えるからである。動詞「す(爲)」の終止形を重ねたもので、「~しつつ・~しながら」で、畳語となるものの、「すすりなきながら」という弛んだ音形より遙かに美しいと私は思うからである。

「金」「きん」。

「釧」「うでわ」であろう。腕輪。筑摩全集類聚版は龍之介の本文に勝手にルビを振っているものだが、そこでも『うでわ』である。

「はづだ」ママ。「筈」は「はず」でよい。

「靑琅玕」「あをらうかん」。暗緑色又は青碧色の半透明の硬玉。碧玉に似た美しい宝石。江戸時代以来の本邦では、多く濃緑色の硬玉の勾玉(まがたま)を指すが、一般には同色の硬玉・軟玉を広く指し、本邦では、専門家によって、これは現在の「翡翠石」(ヒスイ)の最上質のもの、或いは「トルコ石」又は「鍾乳状孔雀石」、或いは青色の樹枝状を呈した「玉滴石」と比定するのが妥当と考えられている。私の『「和漢三才圖會」巻第六十「玉石類」「珊瑚」』の私の注を参照されたい。

「羽衣」所謂、「羽衣」伝説である。これは、本邦だけでなく、世界各地に存在する伝説の一類型で、本邦の「天の羽衣」の現在に残る最古のそれは「風土記」の逸文として残っており、現在の滋賀県長浜市の余呉湖を舞台としたものが、「近江國風土記」に、京都府京丹後市峰山町を舞台としたものが「丹後國風土記」にそれぞれ見られ、日本の他の地方に広く見られる「羽衣」伝説は、これら最古の伝説が、各地に周圏的に広まり、その地に根づいて変形されたものと考えられる。天女はしばしば「白鳥」と同一視されており、神話学では「白鳥」処女説話(Swan maiden)系の類型と考えられている。則ち、これは異類婚姻譚の類型の代表的な一つであり、日本のみならず、広くアジアや世界全体に見られ、天女を、その部族の祖先神と見做す小規模な創世神話の一型としての大切な属性を持ったものであ、一説にその起原はインドのプルーラブアス王の説話であるとされる。詳しくは参照したウィキの「羽衣伝説」を見られたい。

「あはてゝ」はママ。「あわてゝ」でよい。

「櫨弓」筑摩全集類聚版では『はじゆみ』とルビするが、私は音数律から、「はじ」と読みたい。「波自由美」「黄櫨弓」「波士弓」とも書き、辞書等では、一律にハゼノキで作った弓とするのだが、廣野郁夫氏の素晴らしいサイト「木のメモ帳」の『木の雑記帳 「はじ弓」には何の木を使ったのか』を見ると、この辞書記載は甚だ怪しいものであることが判る。そこで廣野氏は、これを「広辞苑」第六版の記述例を引かれ、『この中で』『櫨(山漆)で造った弓』『波自由美、波士弓の表記を見る』が、『はじゆみ(櫨弓)の説明として、「櫨(山漆)」の説明はどう理解すればよいのであろうか』とされ、『「櫨」は普通はハゼノキ』(ムクロジ目ウルシ科ウルシ属ハゼノキ Toxicodendron succedaneum )『を指し、括弧書きの「山漆」(ヤマウルシ)』(ムクロジ目ウルシ科ウルシ属ヤマウルシ Toxicodendron trichocarpum )『とは明らかに種類が違う。しかも、ハゼノキはわが国に本来の自生はなく、古代から中古にハゼ(櫨)、ハジ(櫨)、ハニシといったものは、わが国に自生する別種のヤマウルシ又はヤマハゼ』(ウルシ属ヤマハゼ  Toxicodendron sylvestre )『である【木の大百科】というから』、『ややこしい』と述べられた上で、『また、例えば古い時代の染色の黄櫨染(こうろぜん)についても、ハゼノキを使用したものとする説明が多いが、先に紹介した説明のとおり、本当はヤマハゼを使用したもののようである』。『歴史的な経過としては、ハゼノキの名は元々』、『現在』の『ヤマハゼと呼んでいる種に対する呼称であったとされ、蝋の採取を目的に栽培がより拡大した自生種ではない種が』、『いつのまにか名前を奪ってしまって、自生種はこれと区別するために新たにヤマハゼと呼ばれるようになったといわれている』。『こうした事情を念頭に置くと、「はじゆみ」とは』、『やはり「ヤマハゼ」を素材としたものなのであろう。ただ』、『気になるのは、ハゼノキは大径木になるのに対して、ヤマハゼやヤマウルシは大きくなる木ではないから、素性のよい素材を手に入れるのは』、『なかなか』、『難儀であろうと思われる点である。あるいは、仮に弓の呼称が各素材に対して共通的な認識の下に使用されていなかったとすれば、遺跡出土品のみからその歴史を知るしかないということになる』。『現在でも見られる弓道のための和弓は、宮崎県の都城市において』、『木刀と併せて生産が盛んで、古くからの技術が継承されていると思われるが、弓本体の積層構造の部材を構成する広葉樹として一般的に使用されているのは、皮肉なことに』、『側木としてのハゼノキがほとんどで、かつて丸木弓として利用されたと思われるヤマハゼの出番はないようである。側木を使用する弓の構造は江戸時代以降とされるから、導入栽培されたハゼノキの利用に関しては当時から利用されていたとしても不自然なことはない。ただし、ハゼノキを弓の芯材の一部(側木)として使用することに特別こだわる理由があるのかについては謎である。ハゼノキの利用に関しては、多くの樹種を試用した結果というよりも、はじ弓(もちろんこれはヤマハゼであるとして)の歴史がある中で、ハゼノキの材色の魅力がデザインとして有用であることから利用が定着したものなのではないだろうか』と考察しておられる。]

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