○鬼谷(きこく)に落(おち)て鬼(をに)となる
若州(じやくしう)遠敷郡(をにふのこほり)熊川(くまかは)といふ所に、蜂谷(はちや)孫太郞といふ者あり。家、富み榮えて、乏(ともし)き事、なし。この故に、耕作・商賣の事は心にも掛けず、只、儒學を好みて、僅(わづか)に其(その)片端(かたはし)を讀み、
「是に過〔すぎ〕たる事、あるべからず。」
と、一文不通(〔いち〕もんふつう)の人を見ては、物の數ともせず、文字學道(もんじがくだう)ある人を見ても、
「我には優(まさ)らじ。」
と輕慢(けうまん)し、剩(あまつさ)へ、佛法をそしり、善惡因果のことわり、三世流轉の敎(をしへ)を破り、地獄・天堂・裟婆・淨土の說をわらひ、鬼神(きじん)・幽靈の事を聞〔きき〕ては、更に信ぜず、
「人、死すれば、魂(こん)は陽に歸り、魄(はく)は陰にかへる。形〔かたち〕は土となり、何か、殘る物、なし。美食に飽(あき)、小袖着て、妻子ゆたかに、樂(らく)をきはむるは、佛よ。麁食(そしい)をだに、腹に飽(あか)ず、麻衣(あさぎぬ)一重(え)だに、肩を裾に、妻子を沽却(こきやく)し、辛苦するは、餓鬼道よ。人の門〔かど〕にたち、聲をばかりに、物を乞(こふ)て、わけをくらひて、きたなしとも、思はず、石を枕にし、草に臥(ふし)て、雪、降れども、赤裸(あかはだか)なる者は、畜生よ。科(とが)を犯し、牢獄に入られ、繩をかゝり、頚(くび)をはねられ、身をためされ、骨を碎かれ、或は、水責(〔みづ〕ぜめ)・火刑(ひあぶり)、磔(はりつけ)なんどは、地獄道也。これを取扱ふ者は、獄卒よ。此外には、總て、何も、なし。目にも見えぬ來世の事、まことにもあらぬ幽靈の事、僧・法師・巫(かんなぎ)・神子(みこ)のいふ所を信ずるこそ、おろかなれ。」
と云ひ罵り、たまたま諫むる人あれば、四書六經(りくけい)の文(もん)を引出(ひき〔いだ〕)し、邪(よこしま)に義理をつけて、辨舌にまかせて、いひかすめ、放逸無慚なる事、いふばかりなし。
時の人、「鬼孫太郞」と名付て、ひとつ者にして、取合(とりあは)ず。
或時、
「所用の事に付〔つき〕て、敦賀に赴く。」
とて、唯一人、行けるが、日〔ひ〕たけて家を出たりければにや、今津川原(いまづ〔かはら〕)にして、日は暮(くれ)たり。
江州北の庄、兵亂(ひやうらん)の後なりければ、人の往來(ゆきき)も、まれなり。たやすく宿かす家も、なし。
河原おもてに出〔いで〕て、見渡せば、人の白骨(はくこつ)、ここかしこに亂れ、水の流(ながれ)、ものさびしく、日は暮はてゝ、四方〔よも〕の山々、雲、とぢこめ、立寄るべき宿も、なし。
「いかゞすべき。」
と思侘(おもひわ)びつゝ、北の山ぎはに、少し茂りたる松の林あり。
こゝに分入〔わけいり〕て、樹の根をたよりとし、すこし、休み居(ゐ)たれば、鵂鶹(ふくろう)の聲、すさまじく、狐火(きつねび)の光り、物凄く、梢に渡る夕嵐〔ゆふらん〕、いとゞ、身にしみて、何となく心細く思ふ所に、左右を見れば、人の死骸、七つ、八つ、西枕・南かしらに、臥(ふし)倒れてあり。
蕭々(せうせう)たる風のまぎれに、小雨(こさめ)、一とほり、音づれ、電(いなびかり)、ひらめき、雷(いかづち)、なり出〔いで〕たり。
かゝる所に、臥倒れたる尸(しかばね)、一同に、
「むく」
と起(おき)上り、孫太郞を目掛けて、よろめき、集(あつま)る。
恐ろしさ、限りなく、松の木に登りければ、尸(しかばね)ども、木のもとに立寄り、
「今宵の内には、此者は、取るべき也。」
と、のゝしる間(あひだ)に、雨、ふり止み、空、晴れて、秋の月、さやかに輝き出たり。
たちまちに、ひとつの夜叉(やしや)、走り來れり。
身の色、靑く、角(つの)、生(おひ)て、口、廣く、髮、亂れて、兩の手にて、尸をつかみ、首を引拔き、手足をもぎ、是をくらふ事、瓜(うり)をかむが如くにして、飽(あく)までくらひて後(のち)、わが登り隱れたる松の根を枕として臥(ふし)たれば、鼾睡(いびき)の音、地に響く。
孫太郞、思ふやう、
『此〔この〕夜又、睡り覺めなば、一定〔いちぢやう〕、我を引おろして、殺し、くらはん。たゞ、よく寢入たる間に、逃げばや。』
と思ひ、靜かに樹(き)をくだり、逸足(いちあし)をいだして、走り逃げければ、夜叉は目を覺(さま)し、隙間(すきま)もなく、追(をひ)かくる。
山の麓に古寺あり。軒、破れ、壇、くづれて、住僧もなし。
うちに、大體(〔だい〕たい)の古佛(こぶつ)あり。
こゝに走入(はしり〔いり〕)て、
「助け給へ。」
と佛に祈り、後(うしろ)に廻(まは)りたれば、佛像のせなかに、穴、あり。
孫太郞、此穴のうちに入て、腹の中に、忍び隱れたり。
夜叉は、あとより駈(かけ)入て、堂の内を搜しけれども、佛像の腹までは思ひ寄らざりけむ、出て去(さり)ぬ。
『今は、心安し。』
と思ふ所に、この佛像、足拍子、ふみ、腹をたゝきて、
「夜叉は、是を求めて、とりにがし、我は、求めずして、おのづから得たり。今夜の點心、まうけたり。」
と、うたふて、
「からから」
と打笑ひ、堂を出て、步みゆく。
かしこなる石に躓きて、
「はた」
と倒れ、手も足も、うちくだけたり。
孫太郞、穴より出て、佛像にむかひ、
「我をくらはんとして、禍ひ、其身にあたれり。人を助くる佛の結構。」
と罵りながら、堂より東に行けば、野中に、ともしび、かゞやきて、人、多く、坐〔ざ〕してみゆ。
是に力を得て、走り赴きければ、首なきもの、手なき者、足なきもの、皆、赤裸にて、並び坐したり。
孫太郞、きもをけし、走りぬけん、とす。
ばけもの、おほきに怒りて、
「我等、酒宴する半(なかば)に、座〔ざ〕をさます事こそ、やすからね。とらへて、肴(さかな)にせむ。」
とて、一同に立〔たち〕て、追(をひ)かくる。
[やぶちゃん注:上が岩波文庫版、下が「新日本古典文学大系」版。下は清拭が面倒なので、荒い粒子が見えたままに添えてある。悪しからず。]
孫太郞、山ぎはにそふて、はしりければ、川、あり。
ながるゝともなく、渡るともなく、向(むかひ)にかけあがれば、妖(ばけもの)は立〔たち〕もどりぬ。
孫太郞、足(あし)にまかせて、ゆく。
耳もとに、猶、どよみのゝしる聲、きこえて、身の毛(け)よだち、人心〔ひとごこ〕ちもなく、半里ばかりゆきければ、月、すでに、西にかたふき、雲、くらく、草しげりたる山間(〔やま〕あい[やぶちゃん注:ママ。])に行〔ゆき〕かゝり、石につまづきて、ひとつの穴に、落入〔おちいり〕たり。
その深き事、百丈ばかり也。
やうやう、落〔おち〕つきければ、なまぐさき風、吹〔ふき〕、すさまじき事、骨(ほね)に、とをる[やぶちゃん注:ママ。]。
光り、あきらかになりて、見めぐらせば、鬼(おに)のあつまりすむところなり。
あるひは、髮、赤く、兩の角(つの)、火のごとく、あるひは、靑き毛、生(をい)て、つばさあるもの、又は、鳥のくちばしありて、牙(きば)、くひちがひ、又は、牛の頭(かしら)、けだものゝおもてにして、身の色、あかきは、靛(べに)[やぶちゃん注:ママ。]のごとく、靑きは藍(あゐ)に似たり。目の光は、いなびかりの如く、口より、火焰を吐く。
孫太郞が來るを見て、互(たがひ)に曰く、
「これ、此國の障(さは)りとなる者ぞ。取逃(とりにが)すな。唯、つなげよや。」
とて、鐵(くろがね)の杻(くびかせ)[やぶちゃん注:ママ。]をいれ、銅(あかゞね)の手械(てかせ)さして、鬼の大王の庭の前に、引すゆる。
鬼の王、大きに怒りて、曰(いはく)、
「汝、人間にありて、漫りに三寸を動かし、唇を飜(ひるが)へし、『鬼神(おにがみ)・幽靈、なし』といふて、さまさま、我等をないがしろにし、辱(はぢ)をあたふる、いたづら者也。汝、書典(しよでん)に眼(まなこ)をさらす。
「中庸」に曰(いはく)、『鬼神の德、それ、盛(さかん)なるかな』と。
「論語」に曰、『鬼神を敬して、之を遠ざく』と。
「易」の「暌卦(きのくわ)」に曰、『鬼を一車にのす』と。
「詩」の「小雅」に日、『鬼(き)をなし、蜮(こく)をなす』と。
その外、「左傳」には晉の景公の夢、鄭(てい)の大夫(たいふ)伯有(はくいう)が事、皆、鬼神をいへり。
唯、「怪力亂神を言はず」と云へる一語を、邪(よこしま)に心得て、みだりに鬼神(きしん)を悔る事は、何のためぞ。」
とて、則ち、下部(しもべ)のおにゝおほせて、散々に打擲〔ちやうちやく〕せしむ。
鬼の王のいはく、
「その者の長(たけ)、たかく、なせ。」
と。
鬼ども、あつまりて、くびより手足まで、ひきのばすに、にはかに、身の長(たけ)三丈ばかりになり、竹の竿(さほ)のごとし。
鬼ども、笑ひ、どよめき、をしたてゝ、あゆまするに、ゆらめきて、打〔うち〕たをれたり。
鬼の王、又、いひけるは、
「其者を、身の長(たけ)、短かく、せよ。」
と。
鬼ども、又、とらへて、團子(だんご)のごとく、つくね、ひらめしかば、にはかに、よこはたがりに、みじかくなる。
突立(つきたて)て、あゆまするに、
「むぐむぐ」
として、蟹(かに)のごとし。
鬼共、手を打て、大〔おほき〕に、わらふ。
こゝに、年老たる鬼の云ふやう、
「汝、常に鬼神(きしん)をなきものと、いひやぶる。今、この形〔かたち〕を、長く、みじかく、さまざま、なぶり、もてあそばれ、大なる辱(はぢ)を見たり。まことに不敏(びん)[やぶちゃん注:ママ。「不憫」の当て字。]の事なれば、宥(なだめ)あたへん。」
とて、手にて提(ひつさげ)、なげしかば、孫太郞、もとのすがたに、なる。
「さらば、是より、人間〔にんげん〕に返すべし。」
といふ。
鬼ども、みな、いはく、
「此者を、只、返しては、詮(せん)なし。餞(はなむけ)すべし。」
とて、ある鬼、
「われは、雲路を分(わく)る角(つの)を、とらせん。」
とて、兩(ふたつ)の角を、孫太郞が額(ひたひ)に、をく。
ある鬼は、
「われ、風にうそぶく嘴(くちばし)を、あたへん。」
とて、鐡(くろがね)のくちばしを、孫太郞がくちびるに、くはへたり。
ある鬼、
「我は、朱(あけ)にみだれし髮(かみ)を、ゆづらん。」
とて、紅藍(べに)の水にて、髮を、そめたり。
ある鬼、
「我は、みどりにひかる晴(まなこ)を、あたへん。」
とて、靑き珠(たま)、ふたつを、目の中に、をし入〔いれ〕たり。
[やぶちゃん注:これは、「新日本古典文学大系」版であるが、これはかなり限界まで拘って、清拭しておいた。]
すでに送られて、あなを出〔いで〕つゝ、
『家に、かへらん。』
と思ひ、今津川原(いまづかはら)より、道にさしかゝれば、雲路を分る、兩の角、さしむかひ、風にうそぶく、くちばし、とがり、朱(あけ)にみだれし髮、さかしまにたちて、火のごとく、碧(みどり)の光りをふくむ、まなこ、輝き、さしも、おそろしき、鬼のすがたとなり、熊川にかへり、家に入たれば、妻も下人も、おそれ、おどろく。
孫太郞、なみだを流し、
「かうかうの事ありて、此すがたになりしか共(ども)、心は、ゆめゆめ、かはらず。」
といふに、妻は、
「中々。此有樣、目の前に直(ぢき)に見るも、なさけなく、悲し。」
とて、孫太郞がかしらに、かたびら、打掛(うちか)けて、唯、なき、悲しむより外はなし。
幼(いとけ)き子供は、怖れ、なきて、逃げ、あたりの人、集りて、手をうちて、恠しみ、見る。
孫太郞も、物憂く覺え、戶を閉ぢて、人にも逢はず、物をも食(くは)ず、打籠(うちこも)り、思ひに亂れて、煩(わづら)ひ付き、遂に、むなしくなりぬ。
そののち、時々は、元の孫太郞が姿にて、幻の如く、家のめぐりを步(あり)きけるを、佛事、營みければ、二たび、見えずとぞ。
[やぶちゃん注:本篇では挿絵(全四部七幅)の内、幾つかを「新日本古典文学大系」版ではなく、岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」(一九八九年刊。国立国会図書館本底本)のそれを用いてみた。汚損の印象が前者よりも軽く、清拭が遙かに簡単だからである。但し、「新日本古典文学大系」版とは、少し異なっており、そちらでは、三枚目の河原の亡者のそれは、中央奥と手前の灯明台の右横の亡者の首が存在しない。筆のタッチを見るに、これは旧所蔵者のものを、子ども辺りが付け加えてしまったもののように見える。それはそれで、却って透けてみる頭部のようで面白い。しかし、本文と矛盾するので、その一枚のみ前者の版を並置した。また、最終画は後者が蜂谷の子どもと小者の顔が白くとんでしまっていることから、前者を採用した。なお、元禄版では閻魔庁の一枚しか載っていない。
「若州(じやくしう)遠敷郡(をにふのこほり)熊川(くまかは)」現在の福井県三方上中郡(みかたかみなかぐん)若狭町(わかさちょう)熊川(くまがわ)(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。現在の三方上中郡若狭町の南端に当たり、山間部であるが、福井県と滋賀県の境にあり、小浜と近江・京都を結ぶ「若狭鯖街道」の宿場熊川宿として栄えた地である。
「蜂谷(はちや)孫太郞」不詳。
「一文不通(〔いち〕もんふつう)」無学文盲。
「文字學道(もんじがくだう)」学識を持ち、学問の道に志していること。「學道」は、特に「仏道を学んで修行すること」を指すことが多い。
「破り」否定し。
「天堂」ここでは前後から、六道の最上位で、人間道(にんげんどう)の上に位置する三善道のトップである天上道(他に天道・天上界・天上・天有(てんぬ)・天界(てんかい/てんがい)・天趣などの異名有り)のことであろうが、あまり聴かない異名ではある。我々のいる人間道の地上から遙か上方にあると考えられており、六道の中では相対的には最も苦悩の少ない世界とされ、輪廻の中にあって最高最勝の果報を受ける有情が住む清浄な世界とされる。そこに住むのは天人であり、長寿にして空を飛ぶなどの神通力も有し、六道の中では、相対上、最も快楽に満ち、苦しみは殆んどないとされる。但し、天道も所詮、輪廻のサイクルとしての六道の一つに過ぎず、天人も衆生であって、悟りを開いているわけではなく、而して当然、煩悩からも解放されてはいない。従って、何時かは死に、また、輪廻転生せねばならぬのである(その天人が死ぬ前に現われる穢れの予兆現象を「天人五衰」と呼ぶのである)。
「裟婆」人間道と同義。
「魂(こん)は陽に歸り、魄(はく)は陰にかへる」古代中国では、人間の霊的存在は「魂」と「魄」の二様があり、死ぬと「魂」は空に消え、「魄」は地深くに去るとされた。
「小袖」大袖(朝廷の即位・朝賀等の最も重要な儀式に用いる礼服(らいふく)の上の衣。小袖の上に着し、袖口が広く、袂が長い)或いは広袖(平袖(ひらそで)。袖口の下を縫い合わせていない袖。長襦袢・丹前・夜着などに用いる。)。の着物に対して、袖口が縫い詰まった着物を指す。当初は筒袖で、平服或いは大袖の下着として用いられたが、鎌倉・室町頃から表着とされるようになり、袂の膨らみのついた現在の着物のような形となり、衣服の代表的種別となった。縫箔・摺箔・絞染・友禅染など、あらゆる染織技術が応用され、桃山・江戸時代を通じ、最も華やかな衣服となった。
「麁食(そしい)をだに、腹に飽(あか)ず」「粗食をさえも、口にして、腹を満たす暇(いとま)さえ惜しんで」。後半部は原文自体の表現が意味上は上手くない。
「麻衣(あさぎぬ)一重(え)だに、肩を裾に」「麻一重の粗末な着物をさえ、肩を裾と間違えて結んでいるのにも気づかぬほどに、馬車馬のように働き」。同前。
「妻子を沽却(こきやく)し」以上で注したように、生活をぎりぎりまで詰まらせて刻苦勉励して働いても、結果、金に困って、妻や子を女衒(ぜげん)に売り払うこととなり。
「わけ」「分」。これで既に「少しばかりの食い残し。残飯」の意。分け与えた物の意ではないので注意!
「これを取扱ふ者」獄吏だけではなく、刑事事件を扱う奉行などの上下官吏全般を指す。則ち、蜂谷は仏教の地獄思想は現実社会の表象、喩え以外の何物でもないと喝破しているのである。現在の地獄思想は中国で、偽経を元にまさしくそうした現世の辛苦の鏡としての世界として形成され、浄土教がそれを体系化し、本邦でも広く信ぜられるようになったのであって、この蜂谷という男は、如何にもしったかぶった感じで厭な奴であるが、その言っているところはある意味で如何にも腑に落ちると言える。或いは、浄土真宗の僧であった作者浅井了意も、どことなく、そうした考えを持っていはしなかったろうか、と、ふと、思わせる蜂谷の口つきではある。
「六經(りくけい)」儒教の基本的な教学書としては「五経」が知られるが、古くは六つあったとされ、既知のそれに儀礼に関わる音楽について述べたものとされる「楽経」(がっけい)が挙げられていた。しかし、これは命数のみで、当該書は全く伝わっておらず、一説には秦の「焚書」で失われたとも、また、もともと存在しなかったともされる。但し、「楽経」の注釈書とされる「楽記」(がっき)なるものが、前漢の戴聖によって「礼記」(らいき)の中に所収されてはいる。そもそも「六経」は、先秦の儒家系の知識人が必須教養としたジャンルとしての詩・書(君子思想)・礼・楽(がく)という文学・政治及び規範的文化的素養を兼ね備えた四つの科(学問分野)は、戦国時代から漢代にかけて、儒教の正統的文献として次第に経典化されて整備されていったが、その過程で儒家はそれに加えるに、春秋 (歴史学・政治学)と易 (哲学・修身) の二つの教科をつけ加え、この命数としての「六経」を基本経典をシンボライズするものとして絶対定義させたのであった。後、武帝の「経学博士」の設置の際、「楽」を除いた五経、「易」・「書」・「詩」・「礼」・「春秋」がその必須教学の対象となったのである。
「いひかすめ」「言ひ掠め」上手く誤魔化して言いくるめ。
「放逸無慚」我儘で恥知らずなこと。
「ひとつ者」小学館「日本国語大辞典」に『誰も相手にしてくれないもの。仲間はずれ』とある。
「今津川原(いまづ〔かはら〕)」滋賀県高島市今津町。琵琶湖の北西岸。熊川から敦賀に行くのは、若狭湾を北右回りに廻るルートよりも、一度、琵琶湖に出て、塩津を経て、北上するコースの方が、遙かに整備されていたものと思われる。以下、初期設定のロケーションは今津川沿いであるから、こことなる(国土地理院図)。
「江州北の庄、兵亂(ひやうらん)の後なりければ」「新日本古典文学大系」版脚注に、『天正十一』(一五八三:グレゴリオ暦改暦の年。その実施が最も早かった国々ではユリウス暦一五八二年十月四日(木曜日)の翌日を、グレゴリオ暦一五八二年十月十五日(金曜日)とした)『年、秀吉軍により北庄城』が『落城(太閤記六)』しているので、了意は本篇の作品内時制を『この時の兵乱に託すか。柴田勝家も、その豪胆さから「鬼柴田」と称された(同)』とある。越前の北庄城(きたのしょうじょう)は、サイト「城郭放浪記」の「越前 北庄城」を参照されたい(地図有り)。現在の福井駅の南西直近にあった。
「鵂鶹(ふくろう)」これはちょっと問題がある。読みに従うなら、
フクロウ目 Strigiformes(メンフクロウ科 Tytonidae(二属十八種・本邦には棲息しない)及びフクロウ科 Strigidae(二十五属二百二種)の二科二十七属二百二十種が現生)
或いはそのフクロウ科 Strigidae に属する種群
或いは種としては、
フクロウ属フクロウ Strix uralensis
がいるものの、この漢字表記の方は、
フクロウ目フクロウ科 Strigidae の中で、羽角(うかく:所謂、通称で「耳」と読んでいる突出した羽毛のこと。俗に哺乳類のそれのように「耳」と呼ばれているが、鳥類には耳介はない)を有する種の総称俗称である「ミミヅク」を指す
からである。さらに面倒なのは、「ミミヅク」類をフクロウ類に含める場合と、含めずに区別して独立した群のように用いる場合があるが、鳥類学的には単一の分類群ではなく、幾つかの属に分かれて含まれており、しかもそれらはフクロウ科の中で、特に近縁なのではなく、系統も成していない非分類学的呼称であるからである(但し、古典的な外形上の形態学的差異による分類としては腑に落ちる)。則ち、「ミミズク」として代表的な種を示すことが難しいのである。人によっては、「『ふくろう』てルビするんだから、フクロウでいいじゃん。」と言う御仁がいるかも知れぬが、それは出来ない相談なのである。まず、フクロウとするならば、「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鴞(ふくろふ) (フクロウ類)」の私の注を見て戴きたいが、本州中部に分布する
フクロウ属フクロウ亜種モミヤマフクロウ Strix uralensis momiyamae
とすればいいように思われるかも知れぬけれども、そうは問屋は卸さないわけで、今度は「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鴟鵂(みみづく) (フクロウ科の「みみづく」類)」の方の、まず、本文をしっかり見て貰いたいわけだ。そこに、江戸時代の本草学のバイブルである明の「本草綱目」の引用の最後の部分で、
*
鴟鵂の小さき者、「鵂鶹〔いひとよ〕」と爲す。
*
(「いひとよ」の読みは私が附した和訓。以下を参照)とあるからだ。則ち、時珍は――「鵂鶹」とは現在のミミズクの小型の種を言う――とわざわざ限定して言っているからである。そこで私は以下のように注を附した。
*
「鵂鶹〔いひとよ〕」(音「キウリユウ(キョウリュウ)」)小学館「日本国語大辞典」に「いいとよ」(歴史的仮名遣「いひとよ」)の項を設け、この「鵂鶹」の漢字を当て、『「いいどよ」とも』(こちらの濁音形が古形)とした上で『「ふくろう(梟)」の古名』とし、「日本書紀」の皇極天皇三(六四四)年三月の条を引き、「岩崎本」訓読で『休留(イヒトヨ)<休留は茅鴟なり>子を豊浦大臣の大津の宅の倉に産めり』と出すのに従ってルビを振った。但し、「本草綱目」はこれを、「ミミズクの小型種」の名としていると読めるが、前注で出した大修館書店「廣漢和辭典」の「鵂」の使用例を見ても、「鶹」の字を単独で調べてみても、孰れもミミズクのことを指すだけで、特別な小型の限定種を指しているようには思われない。
*
とした。されば、私はどちらとも言い難いのである。ただ「フクロウ」と無批判に注するわけにはいかないのである。これは私の全くのオリジナルな伝統的古典的博物学趣味に基づく注であり、これは私の注の特色としてどうしても省略出来ない部分なのである。
「夜叉(やしや)」サンスクリット語の「ヤクシャ」及びパーリ語の「ヤッカ」の漢音写で、インド古代から知られる半神半鬼。本来は「光のように速い者」、「祀られる者」を意味し、神聖な超自然的存在と捉えられていたらしい。しばしば、悪鬼羅刹(らせつ)とも同一視される。後に仏教では毘沙門天の従者として仏法を守護する八部衆の一神に位置づけられた。人に恩恵を与える寛大さと、殺害する凶暴さとの両極属性を併せ持つところから、その信仰には、強い祈願と慰撫の儀礼を伴う場合が多い。なお、「夜叉女」(やしゃにょ:「ヤクシニー」の漢音写)も、地母神としての優しさと同時に残忍さを持つことで知られる。
「一定〔いちぢやう〕」必ずや。
「逸足(いちあし)をいだして」脱兎の如くに速走(はやばし)りをして。
「隙間(すきま)もなく」間髪を入れず。直ちに。
「大體(〔だい〕たい)」大振りであること。
「『助け給へ。』と佛に祈り、後(うしろ)に廻(まは)りたれば、佛像のせなかに、穴、あり。孫太郞、此穴のうちに入て、腹の中に、忍び隱れたり」羅刹(らせつ)に追われた肥後の書生が、心中観音を祈請し、墓穴(実は遠い有難い上人のそれ)に逃げ込んで、難を逃れるという構成がかなり酷似した話がある。「今昔物語集」巻第十二の「肥後國書生免羅刹難語第廿八」(肥後國に書生、羅刹の難を免れたる語(こと)第二十八)がある。「やたがらすナビ」のこちらで、新字の原テクストが読める。
「夜叉は是を求めてとりにがし、我は求めずして、おのづから、得たり。今夜の點心、まうけたり。」「夜叉は、こ奴を求めつつも、取り逃がし、儂(わし)は、欲しがってもおらぬに、自然と、まあ! ここに〈仏、自分の腹を指さして〉、瓢箪から駒で、貰うたわい! 今宵の非時(ひじ)の軽食を、さあぁて! いただくとしよう」。脚本風に訳した。「非時」とは、本来、仏僧は一日に午前中に一食しか食事を摂ることは許されないが、それでは身が持たないので、午後に非公式の食事を摂る。それを、かく呼ぶ。
「我をくらはんとして、禍ひ、其身にあたれり。人を助くる佛の結構。」「我を喰らわんとした故、かくなり災いが、その身に降りかかったればこそじゃて。よく言うであろう、『人を助くるが仏の路』と。その伝家の宝刀のお蔭で我は救われたというわけさ。」という皮肉を言っているのである。夜叉の実在を恐れながら、それを棚上げして、あくまで仏法を蔑ろにする立場を崩さない蜂谷は、救いようがない中途半端な毀仏無鬼論者と言える。
「座〔ざ〕をさます」座の興を醒ます。
「やすからね」「とんでもなく面白くない奴じゃ!」。
「ながるゝともなく、渡るともなく、向(むかひ)にかけあがれば」今津川の川波にすっかり流されたというわけでもなく、かといって、しっかり徒渉したという感じでもないままに、向こう岸に駆け上がるところ。しかし、この川は最早「今津川」ではなかった。図らずも「三途の川」を蜂谷は渉ってしまったのであった。
「どよみ」「響み」。大声で騒ぎ。
「百丈」三百三メートル。ここでそれを示すのも阿呆臭いほどに地獄にしては、しょぼい距離だ。『「和漢三才圖會」巻第五十六「山類」より「地獄」』の私の注を参照されたい。
「とをる」「徹(とほ)る」。
「靛(べに)」読み不審。この「靛」の字は「青色・藍色」を指す。
[やぶちゃん注:ママ。]のごとく、靑きは藍(あゐ)に似たり。目の光は、いなびかりの如く、口より、火熖を吐く。
「此國の障(さは)りとなる者ぞ」勘違いしてはいけない。鬼の獄卒が言うのであるから、現世の人間界を「此」の「國」と言っているのではない。「此國」とは取りも直さず、「地獄」である。地獄にとってさえ、「蜂谷は地獄にとって大いなる禍いとなる禍々(まがまが)しき者だ!」と叫んでいるのである。
「杻(くびかせ)」これは「手械(てかせ)」を指す漢語である。「新日本古典文学大系」版脚注でも問題としてあり、了意は本書の中でも頻繁に用い乍ら、統一した訓を附しておらず、ブレが生じていることを指摘されておられる。なお、「かせ」は「枷」(音「カ」)とも書くが、この本来の訓の「かし」が音変化「かせ」である。
「引すゆる」他動詞ヤ行下二段活用「据ゆ」の連体形。既に鎌倉時代に用例がある。ここは余情を込めた連体止めとなっている。
「三寸」舌。「舌先三寸」で承知。
「唇を飜(ひるが)へし」口角、泡を飛ばして、論難することを指す。
「汝、書典(しよでん)に眼(まなこ)をさらす」「お前は、常に書物に眼を通しておるな。」という確認。
『「中庸」に曰(いはく)、『鬼神の德、それ、盛なるかな』と』「中庸」第十六章に、
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子曰、鬼神之爲德、其盛矣乎。視之而弗見、聽之而弗聞、體物而不可遺、使天下之人、齋明盛服、以承祭祀、洋洋乎、如在其上、如在其左右。詩曰、神之格思、不可度思、矧可射思。夫微之顯、誠之不可掩、如此夫。
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既存の訓読は「詩経」の「大雅」の「抑編」の引用部が気に入らないので、我流で示す。
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子曰く、「鬼神の德、其れ、盛んなるかな。之れを視れども、見えず、之れを聽けども、聞えず、物を體(たい)して、遺すべからず、天下の人をして齋明盛服(さいめいせいふく)させ、以つて祭祀を承(う)けしめ、洋々乎(やうやうこ)として、その上に在るがごとく、其の左右に在るがごとし。「詩」に曰く、『神の格思(いたること) その思(こと)度(はか)るべからず 矧(いはん)やその思(こと)射(いと)ふべけんや』と。夫れ、微(び)の顯(けん)にして、誠(せい)の掩(おほ)ふべからざる、此くのごときかな。
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「怪力亂神を語らず」と豪語した孔子にして珍しく鬼神を解説した部分、と言ってもそれは、御覧の通りの、「不可視にして、何時もそれを超感覚として天地・周囲に感ずる対象であると」する。「洋洋乎」は広々としたさま・ゆったりしたさま・限りないさま。「詩経」のそれは、「鬼神の至るのは何時のことなのか知ることは出来ない」し、「ましてや、鬼神を「射(いと)ふ」=「厭(いと)う」=嫌がって無視することは、それ、不可能なことだ」という意であろう。以下、『鬼神とは、不可視の「微」なる本体が、たまたま、示現して「顕」かなものになったかのように見えたものに過ぎず、鬼神の真の徳であるところの「誠」(まこと)は人間如きの知によって解明し得るような対象ではない。さても、鬼神とは、そのような対象なのである』と言っているものと私は解する。そもそもが中国の「鬼」は、本源的にフラットな「死者」の意であり、それは概ね「古えの人々或いは自身の先祖の死者の霊」の意であることを押さえておかずに、専らおぞましいモンスターとしての邪鬼としての鬼しかイメージ出来ない日本人には、これらの漢籍を理解することは出来ない。
『「論語」に曰、『鬼神を敬して、之を遠ざく』と』「論語」「雍也(ようや)第六」の一節。
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樊遲問知。子曰、務民之義、敬鬼神而遠之。可謂知矣。
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樊遲(はんち)、「知」を問ふ。子曰く、「民の義を務め、鬼神を敬して、之れを遠ざく。これ、『知』と謂ふべし。」と。
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孔子の「知」の理解は、「人民が、日常を保つために、やるべきことを総て行い、死者の御霊(みたま)は敬いつつも、それは日常にあっては遠いところに置いておく」というのである。「鬼神」、則ち、超自然的現象や対象はこれを否定せず、謙虚に敬いはするけれども、現実の生活には、これらを拘わらせないことが、人知のあるべき姿である、とするのである。
『「易」の「暌卦(きのくわ)」に曰、『鬼を一車にのす』と』「易經」の「火澤暌」(かたくき)の一節の「上九 暌孤。見豕負塗。載鬼一車。先張之弤。後說之弤。」(上九 睽(そむ)きて孤(ひとり)なり。豕(ゐのこ)の塗(どろ)を負(を)うを見、鬼(き)を一車に載(の)す。先には之れに弤(ゆみ:弓)を張り、後には之れに弤を說(と)く。)。私は四書五経中、最も「易経」に興味がないので(暗示が過剰で、諸解釈が横行しているからである)解説する気にならないが、引用部は、諸解説を見るに、判り易いものによれば、「鬼神が車に乗っているように見えた。まずはそれを弓で射殺そうとしたが、よくよく見れば、それは錯覚であり、それは鬼神ではなかった。されば、疑い晴れ、弓を捨てた」ということか。本邦の「幽霊の正体見たり枯れ尾花」的な感じか。
『「詩」の「小雅」に日、『鬼(き)をなし、蜮(こく)をなす』と』「詩經」の「小雅」の以下。
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爲鬼爲蜮、則不可得。有靦面目、視人罔極。作此好歌、以極反側。賦也。蜮、短狐也。江淮水皆有之。能含沙以射水中人影。其人輒病。而不見其形也。靦、面見人之貌也。好、善也。反側、反覆不正直也。○言汝爲鬼爲蜮、則不可得而見矣。女乃人也。靦然有面目與人相視、無窮極之時。豈其情終不可測哉。是以作此好歌、以究極爾反側之心也。
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鬼たり、蜮たらば、則ち、得べからず。靦(てん)たる面目(めんぼく)有りて、人を視ること、極まり、罔(くら)し。此れ、好(よ)き歌を作りて、以つて、反側を極む。賦なり。蜮は「短狐」なり。江淮の水に、皆、之れ、有り。能く沙を含みて、以つて水中の人影を射る。其の人、輒(すなは)ち病む。而して、其の形は、見えざるなり。「靦」は、面(むか)ひて人を見るの貌(かたち)なり。「好」は、善きなり。「反側」は反覆して正直ならざるなり。
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私の「和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蜮(いさごむし) 附 鬼彈」が参考になる。私はそこで、この「蜮」を、通常は目に見えない(見えにくい或いは、たまに奇体な虫として見える)種々の人体寄生虫症、卵や幼虫・成虫の経口感染のみならず、皮膚から直接侵入するタイプのフィラリア症、及び、日和見感染でも重篤な症状を引き起こす他生物の寄生虫の感染症などを含むものが、この「蜮に射られる」ことの正体なのではないかと確信的に考えた。さすれば、それは事実に於いては真の「鬼神」の範疇からは外れることになる。
『「左傳」には晉の景公の夢、鄭(てい)の大夫(たいふ)伯有(はくいう)が事、皆、鬼神をいへり』前者は「病、膏肓(こうこう)に入る」(「肓」は横隔膜の上の部分、「膏」はその上方にある心臓の下の部分。実際の臓器ではない)の原拠。「春秋左氏傳」の「成公十年」(紀元前五八一年。「新日本古典文学大系」版脚注では『成公十三』とするが、誤りであろう。「成公」は春秋時代の「晉」(晋)(しん 紀元前十一世紀~紀元前三七六年)の)の君主(在位:紀元前六〇〇年~紀元前五八一年)。
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晉景公疾病。求醫于秦。秦伯使醫緩爲之。未至、公夢、疾爲二豎子、曰、「彼良醫也。懼傷我。焉逃之。」其一曰、「居肓之上、膏之下、若我何。」醫至曰、「疾不可爲也。在肓之上、膏之下、攻之不可。達之不及、藥不至焉。不可爲也。」公曰、「良醫也。」厚爲之禮而歸之。
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晉の景公[やぶちゃん注:晋の王(在位:紀元前五九九年~紀元前五八一年)。]、疾(やまひ)病(へい)なり。醫を秦に求む。秦伯醫(しんぱくい)緩(かん)をして、之れを爲(をさ)めしむ。未だ至らざるに[やぶちゃん注:その医師緩が来国する前に。]、公の夢に、疾(やまひ)、二豎子(にじゆし)[やぶちゃん注:二人の子ども。]と爲(な)りて、曰はく、
「彼は良醫なり。我を傷つけんことを懼(おそ)る。焉(いづ)くにか、之れを逃(のが)れん。」
と。
その一(いつたり)、曰はく、
「肓(こう)の上、膏(こう)の下に居(を)らば、我を若何(いかん)せん。」
と。
醫、至りて曰はく、
「疾、爲むべからざるなり。肓の上、膏の下に在りて、之れを攻むるは不可なり。之れに達せんとするも、及ばず、藥、至らず。爲むべからざるなり。」
と。
公曰はく、
「良醫なり。」
と。
厚く之れが禮を爲(な)して之れを歸(かへ)らしむ。
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後者は、同書の「昭公七年」(紀元前五三五年。昭公は魯の第二十五代君主。在位は紀元前五四一年から紀元前五一〇年)の以下。
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鄭人相驚以伯有曰、「伯有至矣。」。則皆走。不知所往、鑄刑書之歲二月、或夢伯有介而行曰、「壬子、余將殺帶也。明年壬寅、余又將殺段也。」。及壬子、駟帶卒、國人益懼。齊燕平之月、壬寅、公孫段卒、國人愈懼。其明月、子產立公孫洩及良止以撫之、乃止。子大叔問其故、子產曰、「鬼有所歸、乃不爲厲、吾爲之歸也。」。大叔曰、「公孫洩何爲。」。子產曰、「說也。爲身無義而圖說、從政有所反之以取媚也。不媚不信、不信、民不從也。」。及子產適晉、趙景子問焉曰、「伯有猶能爲鬼乎。」。子產曰、「能。人生始化曰魄、既生魄、陽曰魂、用物精多、則魂魄强、是以有精爽、至於神明。匹夫匹婦强死、其魂魄猶能馮依於人、以爲淫厲。況良霄。我先君穆公之冑、子良之孫、子耳之子、敝邑之卿、從政三世矣、鄭雖無腆、抑諺曰、『蕞爾國』、而三世執其政柄、其用物也弘矣。其取精也多矣。其族又大、所馮厚矣,而强死、能爲
鬼、不亦宜乎。」。
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紀元前五四三年に鄭の貴族伯有が反乱を起こし、国の武器庫を押さえたものの、彼の兄弟によって殺される(襄公三十年)。それから八年後、鄭の国内に伯有の霊の噂が流れ、鄭の人々が恐怖に襲われ、慄いたというのである。長いので訓読しないが、廣野行雄氏の論文「誰が賈探春の母か―「紅楼夢」読解の一前提―」(PDF・『駿河台大学論叢』第三十七号・二〇〇八年)の「Ⅲ」に非常に分かり易い全訳が載るので参照されたい。そこでは、恨みを持って死んだ者は貴賤を問わず、祟りを成すことが語られてあり、それを祀って遠ざけるという、本邦の御霊信仰と同義の内容が記されてある。
「つくね」「捏(つく)ねる」。手で捏(こ)ねて丸く団子のように固めること。
「ひらめしかば」平たく潰したところ。
「よこはたがり」「新日本古典文学大系」版脚注では、『足を広げて立つ』とするが、どうもイメージし難い。寧ろ、用法としては、やや難があるが(「がり」は人或いは代名詞について「その人の方」という方向を指す接尾語だからである)、「橫側許(よこはたがり)」か。横側面方向に向かって、ぺったりと平たくなったのである。
「いひやぶる。」「論難しよったな。」。
「宥(なだめ)あたへん。」「ここらで許してやろうぞ。」。
「人間〔にんげん〕に返すべし」老婆心乍ら、これは、「人間の姿に戻してやろう」ではなくて、「人間道に帰してやろう」の意である。
「詮(せん)なし」折角の仕置きも無駄になる。
「餞(はなむけ)」地獄へ来たことを証する餞別。
「うそぶく」ここは「息を吹きかけて大音を発する」の意。
「くはへたり」「加へたり」でもいいが、ここは「啣へ」させ「たり」の方が面白い。
「紅藍(べに)」二字への読み。紅色と青色。又は紫色。植物の「茜(あかね)」の古名や「紅花(べにばな)」の異名でもあるが、ここは地獄の一丁目、相応しくない。亡者の垂らした血のりで出来たどす赤いそれである。
「晴(まなこ)」この漢字は「眼晴」で瞳(虹彩)を限定する。
を、あたへん。」
「かたびら」「帷子」。「袷(あわせ)」の「片枚(かたひら)」だけの意で、裏を附けない衣服の総称。単衣(ひとえ)。
「手をうちて」嘗ては盛んに用いられた、何かを初めて見た時の驚きを表わす動作である。必ずしもポジティヴなものだけでなく、こうしたまがまがしいものに対しても用いた。]