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2021/04/30

伽婢子卷之四 入棺之尸甦恠

 

    ○入棺之尸甦恠

[やぶちゃん注:標題は「につくわんのしかばね、よみがへるあやしみ」とルビがある。以下の挿絵は「新日本古典文学大系」版を用いた。]

 

Yomigaeri

 

 いにしへより、今につたへて、世にいふ。

「およそ、人、死して、棺にをさめ、野邊におくりて後に、あるひは、うづむべき塚の前に甦り、或は、火葬する火の中より、甦るものあり。皆、家に歸さず、打殺(〔うち〕ころ)す事、若(もし)は、病(やまひ)重くして絕死(ぜつし)する者、若(もし)は、氣のはずみて、息のふさがりし者、或は、故ありて、迷塗(めいど)を見る者あり。是等は、定業(ぢやうごふ)、天年、未だ盡ず、命籍(みやうじやく)、未だ削(けつら)ざる者なれども、本朝の風俗は、『死する』とひとしく、尸(かばね)を納(おさ)め、棺に入て、葬禮をいそぐ故に、たとひ、甦(よみがへ)るとても、葬場(さうば)にて、生(いき)たるをばもどさずして、打殺す。」

 誠に殘りおほし。

 されば、異國にしては、人、死すれば、まづ、「殯(かりもがり)」といふ事をして、直(すぐ)に葬送は、せず。

 此故に、書典(しよでん)の中に、死して、三日、七日、十日ばかりの後に甦り、迷途(めいど)の事共、語りけるためしを、多く記(しる)せり。

 それも、十日以後は、また甦るべき子細も、なし。

 頓死・魘死(おびへしに)などは、心すべし。

 されば又、

「葬禮の場にて甦りしをば、家にもどさず、打殺すものなりといひ傳ふる事も、故あり。」

といふ。

 京房(けいばう)が「易傳」に、

「至陰爲陽下人爲上、厥妖人死復生」(至陰(しいゐん)、陽と爲り、下人(かじん)、上(かみ)と爲る。厥(これ)、妖人(えうじん)死(し)せり、復(ま)た生(よみが)へる。)

と、いへり。

「死人、久しくありて後に甦る事は、これ、下剋上の先兆(せんてう)なり。」

といふ。

 此故に、甦りても、打殺す事なりと聞こゆ。

 大内義隆の家の女房、死(しに)けるを、野に送り出し、埋(うづ)まんとせしに、俄に甦りぬ。

「打殺さんは、無下〔むげ〕に、かはゆし。」

とて、連れて歸りしに、髮は剃り落としぬ。

 是非なく、尼になり、衣を着て、半年ばかりありて、又、死たり。

 其年、果して、家臣陶(すゑ)尾張守がために、義隆は國を追出〔おひいだ〕されたり。

 永祿年中に、光源院殿の家の下部(しもべ)、俄に死〔しに〕けるを、二日迄、置(をき)けれども、生出(いきいで)ざりければ、若き下部(しもべ)ども、尸(かばね)を千本に送りて埋まんとするに、忽(たちまち)に甦る。

「打殺して埋まん。」

といふに、此者、手を合せ、泣き叫びて、

「助けよ。」

といふ。

 さすがに、

「不敏(〔ふ〕びん)の事。」

とて、つれてかへり、部屋に置ければ、四、五日の内に、日ごろの如くなりたり。

 その年、五月に三好・松永、反逆(ほんぎやく)を起しぬ。

「尸(かばね)は陰氣にして、甦れば、陽に成りたる也。是れ、下として上を犯す先兆也。」

といふが故に、

「葬所(さうしよ)にて甦りし者は、二たび、家にもどさず、打殺す。」

と也。

 此(この)理〔ことわり〕は、ある事歟(か)、なき事歟。

 さもあれ、死人(しにん)の一族は、殘り多く侍らんものを。

 

[やぶちゃん注:漢文部は白文を示し、訓点に従って読んだものを後ろに附した。これは怪奇談というよりも、寧ろ、蘇生を凶兆とする言い伝えを評釈(それを示すために多く鍵括弧を附した)という体裁で示したもので、怪奇譚としては、今一つ、面白味を欠く。この手のものは枚挙に暇がなく、私も好むことから、複数の類型怪談を電子化しているが、私は断然、三坂春編(みさかはるよし 元禄一七・宝永元(一七〇四)年?~明和二(一七六五)年)が記録した会津地方を中心とする奇譚(実録物も含む)を蒐集したとされる寛保二(一七四二)年の序を持つ「老媼茶話(らうあうさわ(ろうおうさわ))」の「入定の執念」を推す。私の偏愛する一篇で、ブログ新翻刻注版と、古いサイト版訳注版があるので参照されたい。

「棺」江戸時代の土葬の場合の棺桶は、樽や桶のような縦型の「座棺」で、遺体は手足を折り曲げた「体育座り」のような状態で納められた。これは二人いれば、担いで埋葬することが出来るという、至って実用的意味が、まず、あったものであろう。

「皆、家に歸さず、打殺(〔うち〕ころ)す事、」文章としては以下への繋がりが悪い。後で述べる通り、これ(その場で打ち殺すこと)が通例であったのだから、「打殺す事を常軌とす。」とでも添えて切って解釈するべきところである。実際、江戸時代、こうした仮死状態で葬送されてしまい、その途中で生き返るケースは、ままあった。その場合、放逐されるのはいい方で(その場合、当時は被差別民となることになる)、実際に打ち殺されたという事例も知っている。その場合、被差別民であった穢多・非人が打ち殺す役を命ぜられ、最悪の場合、蘇って殺された者の死体は埋葬もされず、刑場や牛馬の死体置き場に捨てられたという記事も読んだことがある。特に公儀の「仕置き」(死罪ではないレベルのそれ)の結果として「死んでしまった」と見做された者が蘇生してまった場合は、後者の処理が必ず行われたようである。信じられない方のために因みに言っておくと、氏家幹人氏の「武士道とエロス」(一九九五年講談社刊)によれば、かの知られた高田馬場が、『ふだんは白骨の捨場になっていると、延宝八年(一六八〇)に天野弥五右衛門』長重(旗本・先手鉄炮頭・知行二千五百石余)が記した「思忠志集(しちゅうししゅう)」に『高田馬場、馬乗之儀遠ク、白骨捨場ニ成候事』と『書きとめているのである。一口に「白骨」といっても、必ずしも人骨とは限らず牛馬犬猫の骨も含まれていたとは思われるが、それにしても、将軍代替りの折にハレの流鏑馬が華々しく催されるその同じ場所が、あたかも無縁墓地のようであったとは……。すくなからぬ驚きを感じないではいられな』い、と記しておられるのである。本「伽婢子」の刊行は寛文六(一六六六)年で、かく天野が記す僅か十四年前である。既に白骨の放置は始まっていたのではあるまいか? ともかくも、身分によるであろうが、「葬送のシステム」が既に起動してしまって、相続などの後処理が進行している中では、「甦(よみがえ)り」は決して歓喜すべきものではなかったことが多いことは認識しておく必要がある。

「絕死(ぜつし)」「氣のはずみて、息のふさがりし者」孰れも仮死状態(一過性の呼吸停止・呼吸減衰・心停止などの心肺機能の一時的低下)になることを言う。

「故ありて、迷塗(めいど)を見る者あり」本書でも「地獄を見て蘇(よみがへる)」の孫平のように、蘇生後に「冥途を見てきた」と語り出す事例である。怪奇談には仮死まで行かなくとも、人事不省中に地獄に行って帰ってきたとするものは、これまた、枚挙に暇がない。一つ、私の「小泉八雲 閻魔の庁にて  (田部隆次訳) (原拠を濫觴まで溯ってテツテ的に示した)」をリンクさせておこう。

「定業(ぢやうごふ)」前世から定まっている善悪の業報 (ごうほう) 。決定業 (けつじょうごう) 。定まった「生死」(「天年」天然自然と正法(しょうぼう)があらかじめ定めた命数・生存期間)から外れれば、それは、無効である。

「命籍(みやうじやく)」「死籍(しせき)」に同じ。地獄の閻魔王のところに保管されているとされた、死者の名と死すべき命数を記した帳籍。「未だ削(けつら)ざる者」とあるからには、死がその帳簿通りに正しく発生し、地獄の審判が終了すれば、その名は削除されるということになる。

「殘りおほし」「親しい親族にとっては、情の上では、やはり心残りが多い」というのであろう。心情的には非常に納得出来る。

「異國」先に「本朝」として述べたから、この場合は外国、中国(後注参照)を指すと考えてよい。但し、「殯(かりもがり)」=「殯(もがり)」の習俗は本邦にも古代からある。高貴な人物は、蘇生を望む残された者たちの気持ちもあって、天皇の「殯宮」(もがりのみや:「万葉集」には「あらきのみや」とする)はよく知られているから、この限定は不審である。

「死して、三日、七日、十日ばかりの後に甦り、迷途(めいど)の事共、語りけるためしを、多く記(しる)せり。それも、十日以後は、また甦るべき子細も、なし」「新日本古典文学大系」版脚注に、『蘇生説話の多くは十日以内。中には塚中より十数年後に蘇り、父に帰還を拒絶された話(太平広記三七五・崔涵)もある。「趙簡子死シテ七日ニシテ甦ル。…程子ノ曰ク、死シテ復(また)甦ル者有リ。故ニ礼ニ三日ニシテ斂』(れん)『ス。イマダ三日ニナラズシテ斂スルハ皆之(これ)殺スノ理有リ遺書』事文前集五十一・死・七日復甦」。』とある。「太平広記」の「再生一」の「崔涵」は「中國哲學書電子化計劃」のここから(「塔寺」を出典とする。影印本を選んだ)。「趙簡子」は春秋時代の晋の政治家趙鞅(ちょうおう ?~紀元前四七六年)のこと。

「頓死」急死。予兆のない俄かな異常な死の意。

「魘死(おびへしに)」恐懼のためのショック死。但し、この語は古くは「睡眠中に魘魅(えんみ:物の怪・夢魔・恐ろしい夢)に襲われたまま、眠りから目覚めないこと」を指す語であるから、この場合の仮死状態に非常によく合致する。

「葬禮の場にて甦りしをば、家にもどさず、打殺すものなりといひ傳ふる事も、故あり」この理由は以上の文脈では必ずしも明らかでない。寧ろ、古い汎世界的な信仰としての、死んだ者の死骸は、文字通り、魂が抜けてしまった「骸」=「から」=「空」であり、そこには邪悪な悪霊や魔の物が入り込んで、生き返ったように見せ、禍いを齎すとしたもので説明されるべきである。了意は敢えて意味深長に「故あり」とのみ出して、以下の凶事の予兆説を展開する枕としたのである。

「京房(けいばう)」京房(紀元前七七年~紀元前三七年)は前漢の「易経」の大家。元の姓は「李」であったが、自ら「京」氏に改姓した。

「易傳」ウィキの「京房」によれば、『京房の著作として『京房易伝』が残っているが、これは『漢書』五行志にしばしば引用されている『京房易伝』とはまるで一致せず、『漢書』の引用の方が信頼できるものであるとされている』とある。

「至陰爲陽下人爲上、厥妖人死復生」前注引用に従い、「中國哲學書電子化計劃」で「漢書」の当該部を見つけた。影印の後ろから二行目と最終行にかけて類似する文字列を見る。

   *

「不則爲私、厥妖人死復生。」。一曰、「至陰爲爲陽、下人爲上。」。「六月、長安女子有生兒、兩頭異頸面相鄕、四臂共匈俱前鄕。」。

   *

この前半の二つの異文を、了意は恣意的に合成したものと思われる。

「至陰(しいゐん)、陽と爲り、下人(かじん)、上(かみ)と爲る。厥(これ)、妖人(えうじん)死(し)せり、復(ま)た生(よみが)へる。」意味はよくは判らぬが、

   *

「死」という究極の「陰」が変じて、真逆の「陽」として「生」者に戻るということは、陰陽説から見れば、あってはならない異常な事態であり、さればこそ、人間社会に喩えれば、身分が「下」の人間が何らの理論的裏付けなしに、突如、「上」となることに外ならない。これは、妖しげな人間が既に死んだのに、再び蘇るように見えるということで、確かに予兆されることである。

   *

という意味で了意は採っていると私は思うのである(本当にそうかどうかはよく判らぬが、引用した後半部は明らかに先天性奇形の双頭型の結合双生児の出生を示しているが、それも凶兆の最たる現われとするものなのであろう。さすれば、チェルノブイリ原発の事故後の出来事ははまさに「ニガヨモギ」の星の落下による致命的な汚染の「黙示録」の再来と言えるであろう)。「新日本古典文学大系」版脚注には、『京房易伝第二句「下の者が上に剋(か)つ」の思想。鎌倉中期から応仁の乱の最盛期を経て、戦後時代を通じる時代精神となった』とある。

「大内義隆」(永正四(一五〇七)年~天文二〇(一五五一)年)は既出既注だが、再掲しておく。戦国武将。大内義興の長男。周防・長門・安芸・石見・筑前・豊前の守護。大友氏・少弐(しょうに)氏と戦い、九州北部を掌握した。文学・芸能を好み、明・朝鮮と交易し、また、フランシスコ・ザビエルに布教の許可を与えた。重臣陶晴賢(すえはるかた)の謀反に遭い、長門の大寧寺で自刃した。

「家の女房」「新日本古典文学大系」版脚注には、『侍女、もしくは側室。後者とするなら、義隆の最初の正妻は万里小路』(までのこうじ)『殿の息女で、次いでそのお付きであった』「おさいの方」『が、さらに広橋殿の息女も側室であったという(大内義隆記)。なお、室町殿物語一・大内義隆、九州発向の事では、持明院基規の息女も妻とされ、義隆自害後、入水したと記す』とある。

「無下〔むげ〕に」捨てて顧みないでいるには。

「かはゆし」見るに忍びない。可哀そうで見ておられぬ。

「義隆は國を追出〔おひいだ〕されたり」注した通り、追い出されるどころか、追い詰められて自害している。

「永祿」一五五八年~一五七〇年。室町幕府将軍は足利義輝・足利義栄(よしひで)・足利義昭であるが、実際には以下から「永禄の変」の年であるから、永禄元年から永禄八(一五六五)年四月以前の閉区間となる。

「光源院殿」第十三代将軍足利義輝(天文五(一五三六)年~永禄八(一五六五)年/在職:天文一五(一五四七)年~没年)の戒名「光源院融山道圓」の院号。松永久秀の長男久通と三好三人衆(三好長慶の死後に三好政権を支えて畿内で活動した三好氏の一族或いは重臣であった三好長逸(ながやす)・三好宗渭(そうい)・岩成友通(ともみち))が主君三好義継(長慶の養嗣子)とともに清水寺参詣を名目に集めた約一万の軍勢を率いて、二条御所に押し寄せ、「将軍に訴訟(要求)あり」と偽って、取次ぎを求め、御所に侵入し、義輝は殺された(「永禄の変」)。享年三十。討死とも自害とも語られており、定かではない。

「千本」「新日本古典文学大系」版脚注に、『京都市上京区今出川町から北の地域。蓮台野の墓地を控え、閻魔堂や釈迦堂があった』とある。この附近

「不敏(〔ふ〕びん)」「不憫」「不愍」の当て字。可哀そうなこと。憐れむべきさま。

「その年、五月に三好・松永、反逆(ほんぎやく)を起しぬ」「永禄の乱」は永禄八(一五六五)年五月十九日(ユリウス暦一五六五年六月十七日/グレゴリオ暦換算六月二十七日)で、この日に義輝は没している。

「さもあれ」「然もあれ」。それにしても。ともかくも。ままよ。さもあらばあれ。ここは「それにしても」がいい。何故なら、やや判りにくい「死人(しにん)の一族は、殘り多く侍らんものを」というのは、「死んじまった者の遺族や一族当人どもは、皆、平然と、永く生き残っているというのに強い疑義と批判である。これは、「蘇生した人間を残ってぴんぴんしている連中が、打ち殺すということは人道に悖る」ということを最後に了意は述べているのだと思うからである。了意は「悪人正機」を奉ずる浄土真宗の僧である。基本に於いて、正法(しょうぼう)が認めた命数に満ちていないのだからこそ正当に甦ったのであり、その者を打ち殺すということは仏法の絶対の「理」に於いて認められないからである。仮に、悪しき霊が憑依して生き返ったかのように見えている物の怪であっても、それは、そもそも、正しき阿弥陀如来の不可思議な光=力によって調伏されるはずのものなのであって、人が安易に殺すべきものではあり得ないし、正真正銘の物の怪ならば、寧ろ、物理的に殺すことは凡人には出来ないはずだ、というような疑義が漏れ出たもののようにも、私には思われるのである。

2021/04/29

伽婢子卷之四 一睡卅年の夢

 

   ○一睡卅年の夢

 亨祿四年六月に、細川高國と同名(どうみやう)晴元と、攝州天王子にして合戰す。

 高國、敗北して、尼が崎まで落行〔おちゆき〕つゝ、道、せばくして、自害したり。

 家人(けにん)遊佐(ゆさの)七郞は、牢浪して、芥川の村に隱れ居たりしが、

『京都に上りて、如何なる主君にも仕へ奉らん。』

と思ひ、中間(ちうげん)一人、めし連れて、都に赴く。

 山崎の寶寺(たからてら)にまうでゝ、やすみ居たるに、しきりに、ねふり、きざしければ、東の廊下に、暫く、臥(ふし)侍べりし。

 夢に……見るやう……

……寺の門前に出〔いで〕ければ、一人の夫男(ぶをとこ)、一つの籃(かご)に楊梅子(やまもゝ)を入れて、休み居たり。

 遊佐、立寄りて、

「誰(たれ)が家の者ぞ。」

と問(とへ)ば、

「山崎の住人交野(かたのゝ)次左衞門が家に召つかはるる者也。交野殿は、將軍家に屬(しよく)して、打死し給ひ、一人の娘、おはします。西の郊(をか)の石尾(いしをの)源五殿は、三好に打たれ給ひ、今は孀(やもめ)にて、歸り住み給ふ。年、いまだ、廿一也。母は六十有餘にて、才覺、すぐれ給へり。『一門の末ならば、重ねて、聟に取り、家督を讓り參らせむ』と仰せあり。」

と語る。

 遊佐、これを聞て、吃(きつ)と思ひめぐらせば、

『交野が妻は、我が姨(をば)也。久しく、便り、うしなひ、何方〔いづかた〕にありとも聞かざりける。扨は。山崎に住給ふか。尋行〔たづねゆ〕きて、名のらばや。』

と思ひ、男に具(ぐ)して尋行たりければ、姨(をば)に、まがひもなく、互ひに名のり合ひけるに、姨、嬉しさのあまり、淚を流し、内に呼び入れて、一族の行衞を尋ね問ふに、それかれ、多くは、皆、打死して、七郞ばかり、わづかに、ながらへたり。

 姨のいふやう、

「我が賴りとては、娘、たゞ一人、あり。和殿〔わどの〕は又、みづからが甥也。睦(むつ)まじく、戀しきぞや。京にのぼらずとも、あれかし。聟になして、心安く見ばや。」

といふ。

 遊佐、嬉しく思ひ、やがて約束し、

「明日(あす)こそ吉日なれ。」

とて、親しきともがらを呼び集めて、さまざま、調(とゝのへ)て、緣を結ぶ。

 妻の女房を見れば、顏かたち、みやびやかに美くしかりければ、いとゞ嬉しさ、限りなし。

 婚禮の用意、はなはだ、花麗なり。

 日ごとに、客を集めて、酒宴におよぶ。

 遊佐も樂しみにほこりて、思う事もなし。

 或日、京都より、兩使あり、將軍より召給ふ。

 急ぎ、上洛しけるに、公方(くばう)の御氣色、こゝろよく、すなはち、一萬貫の所知(しよち)を下され、河内守に任ぜらる。

 かくて、京都に伺公(しこう)する事、二年、其の間(あひだ)に、公方の相伴衆(しやうばんしゆ)になされ、威勢高く、肩を並ぶる人、なし。

 すでに御暇(いとま)給はりて、山崎に歸り、要害の地を點じて、家、造り、夥しう取り立〔たて〕たり。召使ふ上下の侍、出入〔いでいる〕ともがら、數しらず、門外には、繋ぎ馬の、たゆる隙〔ひま〕もなく、諸方より、つどひ來る使者、日ごとに多し。

 早や、三十年の星霜(せいざう)を經て、男子(なんし)七人・女子三人をもちたり。

 男子四人をば、京都にのぼせて、將軍家に奉公せしむ。

 女子二人は、津國(つのくに)・河内の間(あひだ)に遣はして、武家の名高き細川なにがしの新婦(よめ)となし、兄弟を聟とす。

 内外(うちど)にかけて、八人の孫をまうけ、一家の繁昌、この時にあたれり。

 かゝる所に、思ひかけず、敵三千餘騎にて押寄せ、四方より、要害に火をかけ、閧(とき)をつくりて、せめ入〔いつ〕たり。

 妻子、驚きて、泣き叫び、家人は恐れて、落ちうせければ、防ぐべき力なく、腹を切らんとする所に、敵、はや、打入〔うちいつ〕て、引〔ひつ〕くみ、いけどるほどに、これに組みあふて、押し返し、刎(は)ね返す……と覺えて……

……汗水になりて……

……夢は、さめたり。

 遊佐、起きあがりて、中間に、

「今は、何時(〔なん〕どき)ぞ。」

と問ふに、

「日は、未だ、未(ひつじ)の刻。」

と答ふ。

 只、一時のあひだに、卅年を經たり。

「思へば、是れ、『邯鄲一炊(かんたん〔いつ〕すい)の夢』、よきもあしきも、此世は夢也。」

と、さとりて、中間には、いとま取らせ、我身は、直(すぐ)に發心(ほつしん)して、高野山に籠りて、道心堅固(けんご)の修行者(しゆぎやうじや)となりぬ。

 

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[やぶちゃん注:夢落ちであるので、特定的に「……」を使用した。挿絵は「新日本古典文学大系」版をトリミング補正した。幅は前後していない。左幅は夢から醒めたシーンを描いている。最後に述べている通り、中唐の伝奇小説沈既濟撰の「枕中記」をコンパクトにした感じの話である。私のサイトには、『芥川龍之介「黃粱夢」 附 藪野直史注・附 原典 沈既濟「枕中記」全評釈・附 同原典沈既濟「枕中記」藪野直史翻案「枕の中」 他』という強力なページがある。

「亨祿四年六月に、細川高國と同名(どうみやう)晴元と、攝州天王子にして合戰す。高國、敗北(はいぼく)して、尼が崎まで落行〔おちゆき〕つゝ、道、せばくして、自害したり」戦国初期の享禄四年六月四日(一五三一年七月十七日)に摂津大物(現在の兵庫県尼崎市大物町。グーグル・マップ・データ。以下同じ)で行われた合戦「大物崩(だいもつくず)れ」。赤松政祐・細川晴元・三好元長の連合軍が、細川高国・浦上村宗(うらがみむらむね)の連合軍を破った戦い。「天王寺の戦い」「天王寺崩れ」とも呼ぶ。当該ウィキによれば、「桂川原の戦い」(大永七(一五二七)年二月京の桂川原一帯で行われた戦い。詳しくは当該ウィキを読まれたいが、これが後注する「堺公方」誕生の契機となった)で『敗れて近江に逃れた管領細川高国は、伊賀、伊勢、備中、出雲を巡ったが』、『救援を拒絶された。管領の権威が失墜した高国に援軍を差し向ける勢力が』ない中で、『備前守護代の浦上村宗が要請に応じた。高国と村宗の関係は赤松氏の庇護下に在った』室町幕府第十二代将軍『足利義晴の身柄を拘束するなどの協力関係にあり、村宗は管領である高国の権勢を借りて播磨統一を果たしたいという野心があり、桂川原で敗北した窮状を打開したい高国との利害は一致していた』。享禄三年七月に『村宗の念願であった播磨統一を成し遂げると、今度は高国の宿願を果たすため、摂津へ侵攻、池田久宗(信正)が守備する池田城を翌』享禄四年三月六日に陥落させ、その翌日には、『京都を警護していた晴元派の木沢長政が突然の撤退』をし、『代わって』、将軍山城(しょうぐんやまじょう)にあった『高国の兵が京に侵攻』して京を『奪回した』。『堺公方』(大永七(一五二七)年から享禄五(一五三二)年にかけての足利義維(よしつな:室町幕府第十一代将軍足利義澄の次男(実際には足利義晴より年長で長男とされる)で第十代将軍足利義稙の養子。後の第十四代将軍足利義栄(よしひで)の父。「堺公方」「平島公方」「堺大樹(さかいたいじゅ)」(「大樹」は「将軍」の意)とも呼ばれた。義維はこの時期、和泉国堺にあって、異母兄の将軍足利義晴と対峙し、堺公方の奉行人はほとんど幕府同様に文書を発給していたことから、その体制を「堺幕府」と呼ぶ研究者さえいる)『側は、三好元長を総大将に立て直しを図り、三好軍』一万五千名と、『阿波から堺に上陸した細川持隆の援軍』八千名が、『摂津中嶋に陣取った細川・浦上連合軍を攻撃し』(「中嶋の戦い」)、『一進一退の攻防が続いていた』。『ここで播磨守護の赤松政祐』(まさすけ)『が高国の援軍として同年』六月二日に『西宮の六湛寺に着陣したが、神呪寺(兵庫県西宮市)に陣変えを行い』『同日晩、高国と村宗から直々に着陣の挨拶をうけ』た。しかし、六月四日、『神呪寺にいた赤松政祐が晴元方に内応して高国・村宗軍を背後から攻撃したため、勝敗が決した。赤松政祐は以前から父・赤松義村の仇を討つために村宗を狙っていたのである。政祐は出陣する前から』、『堺公方の足利義維へ密かに質子』(ちし:人質)『を送って裏切りを確約していた。この赤松軍の寝返りは細川軍の動揺をもたらし、浦上軍に従っていた「赤松旧好の侍、吾も吾もを神呪寺の陣へ加わり」(『備前軍記』)と寝返りを誘発した』。『そのような状況で赤松軍が中嶋の高国陣営を奇襲すると、それに呼応して三好軍が攻撃をしかけたので、村宗とその宿老島村貴則を始め、侍所所司代松田元陸・伊丹国扶・薬師寺国盛・波々伯部兵庫助・瓦林日向守ら主だった部将が戦死した。中嶋の野里川』(この「野里川」は恐らく、淀川の分流か支流の名であろう。消滅したその名残が判る「今昔マップ」の当該地をリンクしておいた。現在の淀川(旧地図では「新淀川」とある)の左岸の、封じられて、片方が新淀川に開いた不全な三日月湖のようなその岸辺に「野里」の地名が認められ、現行も地名の「野里」は残っている)『は死人で埋まり、「誠に川を死人にて埋めて、あたかも塚のごとく見ゆる、昔も今も末代もかかるためしはよもあらじと人々申也」(『細川両家記』)と書かれるほどの敗戦であった』。『三好元長が前線に出てくる「中嶋の戦い」からの』二『ヶ月間こそ膠着状態に陥ったものの、それまでの細川・浦上連合軍は連勝を重ねて戦意も高く、有利であった。だが、新たに参戦した赤松政祐には細川・浦上連合軍の背後(西宮方面)から、続いて正面(天王寺方面)の三好軍からも攻撃されたことによって打撃を受けた』。『この結果、それまでの膠着状態から戦局が崩れて』、高国の滅亡に繋がった。そこから地名と相俟って「大物崩れ」と呼ばれるようになった。『敗戦の混乱の中、高国は戦場を離脱。近くの大物城への退避を行おうとしたが、既に赤松方の手が回っていたため』、『尼崎の町内にあった京屋という藍染屋に逃げ込み』、『藍瓶をうつぶせにして』、『その中に身を隠していたが、三好一秀に』六月五日に『捕縛された』。『尼崎で高国を捜索した一秀は』、「まくわ瓜」を『たくさん用意し、近所で遊んでいた子供達に「高国のかくれているところをおしえてくれたら、この瓜を全部あげよう」と言うと』、『子供達はその瓜欲しさに高国が隠れていた場所を見つけたという計略が逸話として伝わっている』。『そして同月』八日、『仇敵晴元の命によって高国は尼崎』の広徳寺で『自害させられた』。『一方、破れた浦上軍の将士達は生瀬口(兵庫県宝塚市)から播磨に逃げ帰ろうとしていたところを赤松軍の追撃に遭い、ほぼ全滅したと伝えられる。赤松政祐は伏兵を生瀬口や兵庫口に配置し、落ち延びる兵を攻撃したからである』。「永正の錯乱」(永正四(一五〇七)年に室町幕府管領細川政元が暗殺されたことを発端とする管領細川氏(細川京兆家)の家督継承を巡る内訌。背景には京兆家を支えてきた内衆などの畿内の勢力と、政元の養子の一人細川澄元を擁する阿波の三好氏などとの対立があり、これに将軍足利義澄に対抗して復権を目指す前将軍足利義稙の動きも絡んでいた。複雑な情勢の推移を経て、政元の暗殺から一年後に畿内勢が支持する別の養子細川高国が家督に就き、足利義稙が将軍に返り咲いたが、これに逐われた足利義澄・細川澄元・三好氏の勢力が巻き返しを図り、畿内に於いて長期に亙って抗争が繰り返されることとなった)から始まった、細川家の養子三兄弟の争いは、この「大物崩れ」によって、最後の養子であった細川高国が自害させられて、終焉を遂げた。

「家人(けにん)遊佐(ゆさの)七郞」言わずもがな、細川高国の家人だったという設定。「新日本古典文学大系」版脚注には、『管領畠山氏の家臣で、代々河内の守護代を勤めた遊佐氏の名を利用したか』とあり、『享禄以前に畠山尚順(ひさのぶ)は細川高国方についている』とする。

「芥川の村」現在の大阪府高槻市芥川町(あくたがわちょう)。

「山崎の寶寺(たからてら)」京都府乙訓郡大山崎町銭原(ぜにはら)にある真言宗天王山宝積寺(ほうしゃくじ:古くは山号は「補陀洛山」)のこと。本尊は十一面観音。七二四年に聖武天皇の勅命を受けた行基による開基と伝える。聖武天皇が、夢で竜神から授けられたという「打出」と「小槌」(打出と小槌は別々のもの)を祀ることから、「宝寺」(たからでら)の別名があり、「銭原山宝寺」「大黒天宝寺」とも呼ぶ。この寺は天王山(標高二百七十メートル)の南側中腹にあるが、この附近は山城国(京都府)と摂津国(大阪府)の境に位置しており、古くから交通・軍事上の要地でもあった。

「夫男(ぶをとこ)」「夫」は「人夫」で、「雇われ人夫風の男」の意。

「楊梅子(やまもゝ)」ブナ目ヤマモモ科ヤマモモ属ヤマモモ Morella rubra の果実。六月頃に黒ずんだ赤い色の実を結ぶ。甘酸っぱくて美味い。結実期から、少なくとも遊佐は一年以上は浪人して芥川に潜んでいたということになる。

【翌朝追記】Facebookで読者の方から『たのしみに拝読しています。楊梅になにか典拠はあるのでしょうか。楊梅ですから季節は初夏か中夏の頃おいですね。』と戴いたので、今朝、以下のように、それに答えた。

   *

 原拠は明代の叢書「五朝小説」(魏・晋・唐・宋・明の小説を所収)の中の伝奇小説「夢遊録」の「桜桃青衣」で、「中國哲學書電子化計劃」のこちらで、原本影印が読めます(右手のは機械翻字で誤りが多いですから、画像を視認して下さい。上記リンクの「55」から「62」までです)。

 その冒頭の「55」(主人公は科挙に受からぬ范陽の盧子で、遊んだ道端の寺に入って説経を聴きつつ、倦んでしまい、講莚で居眠りをして見る夢という設定ですが、その最終行に夢の始まりのところで、「夢に精舎の門に至り、一靑衣を見る。一籃の櫻桃を携へて下坐に在り。」(訓読は私の勝手流)とあります。以下の展開はその青衣(婢女(はしため))の主家が親族で、娘が孀となっているのを妻として、有力な縁戚の力で大出世をします。そして、たまたま、嘗ての寺の見かけて懐かしく思い、中に入ってみると……という感じです。「枕中記」のコンセプトも大枠は同じで、波乱はあるものの、大往生で終わるのは、「仕官の文学」である中国文学では、喩え、伝奇小説でも、これが正統な形と言えます。原拠でも本篇のような急転直下の修羅場などはありません。こうしたコペルニクス的転回を示す思想は、正道の「仕官の文学」から漏れた大多数の文士が、逆に「遊仙の文学」へと転じ、それに仏教の無常観が強い影響を与えた結果と私は思っています。

 「櫻桃」は文字通り「サクランボ」ですが、ウィキの「サクランボ」を見ると、『中国には昔から華北・華中を中心に、カラミザクラ(シナノミザクラ、支那桜桃、 Prunus pseudocerasus )がある。口に含んで食べることから一名を含桃といい』、『漢の時代に編纂された礼記『月令』の仲夏(旧暦』五『月)の条に』「是月也、天子乃以雛嘗黍、羞以含桃、先薦寢廟」『との記述がある。江戸時代に清から日本に伝えられ、西日本でわずかに栽培されている』。『これは、材が家具、彫刻などに使われる。暖地桜桃とも呼ばれる。「桜桃」という名称は中国から伝えられたものである』とあり、今、我々が食べている『セイヨウミザクラが日本に伝えられたのは明治初期で、ドイツ人のガルトネルによって北海道に植えられたのが始まりだとされる』。『その後、北海道や東北地方に広がり、各地で改良が重ねられた』とありますから、了意は馴染みのない「桜桃」を「楊桃子」に変えたものでしょう。ヤマモモは本邦では関東以南の低地や山地に普通に自生していますから。

   *

私は本書の電子化では、原則、原拠考証は避けることにしているが、以上はそれなりに面白味がある注になろうかと思ったので、ここに添えることとした。

「山崎の住人交野(かたのゝ)次左衞門」不詳。「新日本古典文学大系」版脚注に、『近くの地名交野(大阪府枚方市)より命名したか』とある。現在の大阪府枚方市及び交野市の広域旧地名ということ。

「西の郊(をか)」不詳。「新日本古典文学大系」版脚注も同じ(以下の人物も含めてのようである)。

「石尾(いしをの)源五殿」不詳。

「三好」三好元長であろう。

「吃(きつ)と」素早く。即座に。

「和殿〔わどの〕」「わとの」とも。二人称代名詞。対等以下の相手に向かって親愛の気持ちをこめて用いる語。「そなた」。

「京にのぼらずとも、あれかし。」「何も、未だ落ち着かぬ都へなぞ上らずとも、よろししゅう御座いましょうほどに。」。

「聟になして、心安く見ばや。」「娘婿となして、何の心配もないように、ご面倒を見ましょうぞ。」。

「兩使」正使と副使の二名。

「公方(くばう)」第十二代将軍足利義晴(在職:大永二(一五二二)年~天文一六(一五四七)年)。

「一萬貫」あるQAサイトの答えを参考にすると、戦国時代の米一万貫は三千トン、銭一万貫をそれで換算すると、約九億円とあった。

「所知(しよち)」知行地。

「伺公(しこう)」「伺候」に同じ。

「相伴衆(しやうばんしゆ)」室町中期以降、宴席などで将軍の相伴役として伺候した者。山名・一色・細川・畠山・赤松・佐々木などの有力な諸家から特に選ばれた。

「點じて」地勢的・軍事的によく調べて。

「夥しう取り立〔たて〕たり」目的語が欠けているように見えるが、知行地の農地をも、よく差配して、莫大な収穫と利益を得、いやさかに豊かになったということであろう。

「繋ぎ馬の、たゆる隙〔ひま〕もなく」各地からの名士の到来、引きを切らず。

「津國(つのくに)」「攝津國」。「新日本古典文学大系」版脚注に、『代々細川家の所領であった』とある。

「武家の名高き細川なにがし」宗家(京兆家)の傍流。和泉上守護家(後に細川幽斎(養子)が出る)辺りか。

「内外(うちど)」内孫と姻族の外孫。

「敵」夢であるから、対象の事実候補を想定すること自体が無駄である。戦国好きの方なら、誰彼を想定仮定して挙げられるのかも知れぬが、生憎、私は戦国には全く冥い。悪しからず。因みに、「新日本古典文学大系」版脚注は、この「一一四」ページの脚注の番号に錯雑がある。

「未(ひつじ)の刻」午後二時前後。]

大和本草附錄巻之二 介類 葦蟹(あしがに) (アシハラガニ)

 

葦蟹 仙覺カ萬葉集ノ註ニ云海邊ニ人馬ナドノ音ヲ

キヽテハシリ出ル白キカニナリ○篤信謂凡如此非

常ノ產物非佳品其性モ亦不好不可食

○やぶちゃんの書き下し文

葦蟹(あしがに) 仙覺が「萬葉集」の註に云はく、『海邊に、人馬などの音を、きゝて、はしり出づる、白き「かに」なり。』と。

○篤信〔(あつのぶ)〕、謂はく、「凡そ、此くのごとく、非常の產物、佳品に非ず、其の性も亦、好からず。食ふべからず。」と。

[やぶちゃん注:これは、まず、和名から(近年、以下の三属に分離された)、

甲殻亜門軟甲(エビ)綱十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目短尾(カニ)下目イワガニ上科モクズガニ科 Cyclograpsinae 亜科アシハラガニ属アシハラガニ Helice tridens(甲幅三センチメートルほど。干潟を徘徊するカニとしては大型。甲羅は僅かに横長の長方形で厚みがある。両眼の間が窪み、甲側縁には三個の鋸歯を有する。鉗脚は左右同大で、太くて丸っこく、表面は滑らかである。生体の体色はほぼ全身が青緑色だが、鉗脚は淡黄色で白っぽくも見え、甲も淡黄色の縁取りがある。鉗脚は左右同じ大きさである。本邦では本州以南に分布する。河口や内湾の砂泥干潟や、その上側にある塩沼に生息する。砂泥に直径三~四センチメートル、深さ四十センチメートルほどの巣穴を掘って生活するが、海から遠く離れることはない。また和名に「アシハラ」とあるが、ヨシ原より、やや海側に多い。潮の引いた砂泥上で活動するが、昼よりも夜が活発である。食性は雑食性であるが、主食はヨシの葉などの植物質の分解過程のデトリタスとする。繁殖期は夏で、この時期には抱卵した♀が見られる。孵化して海中に放出されたゾエア幼生は三週間ほどでメガロパ幼生に成長し、海岸へ戻ってくる。成熟するのに二年、寿命は数年ほどとみられている)

或いは、

Cyclograpsinae 亜科 Pseudohelice 属ミナミアシハラガニ Pseudohelice quadrata (甲幅二センチメートルほど。アシハラガニに似るが、小型で、体格も丸みがある。体色は濃褐色で、白黒の斑点が散在する。本邦では伊豆大島以南の西日本に分布する。アシハラガニと異なり、砂泥地ではなく、礫地や転石地を好み、巣穴からはあまり出てこない)

Cyclograpsinae 亜科 Helicana 属ヒメアシハラガニ Helicana japonica (甲幅二センチメートルほど。生体の体色は緑褐色で、全身に細かい白斑がある。相模湾以西の西日本に分布し、河口域の軟泥干潟に巣穴を掘って生息する。アシハラガニに比べて肉食性が強く、ハクセンシオマネキやチゴガニ等を捕食する)

となろう(以上は概ねウィキの「アシハラガニに拠った)。

「萬葉集」巻十六の「乞食者(ほかひびと)の詠(うた)二首」の二番目(三八八六番)に、

   *

おし照るや 難波の小江(をえ)に 廬(いほ)作り 隱(なま)りて居(を)る 葦蟹(あしがに)を 大君召すと 何せむに 吾(わ)を召すらめや 明(あけら)けく 吾が知ることを 歌人(うたびと)と 吾を召すらめや 笛吹きと 吾を召すらめや 琴弾きと 吾を召すらめや かもかくも 命(みこと)受けむと 今日今日と 飛鳥に到り 立てれども 置勿(おくな)に至り 築(つ)かねども 都久野(つくの)に至り 東(ひんがし)の 中(なか)の御門(みかど)ゆ 參り來て 命受くれば 馬にこそ 絆(ふもだし)掛くもの 牛にこそ 鼻繩(はななは)はくれ あしひきの この片山の もむ楡(にれ)を 五百枝(いほえ)剝ぎ垂れ 天光(あまて)るや 日の異(け)に干し 囀(さひづ)るや 唐臼(からうす)に搗(つ)き 庭に立つ 手臼(てうす)に搗き おし照るや 難波の小江の 初垂(はつたり)を 辛く垂れ來て 陶人(すゑひと)の 作れる瓶(かめ)を 今日行き 明日取り持ち來(き) 吾が目らに 鹽塗り給ひ 腊(きたひ)賞(はや)すも 腊賞すも

 右の歌一首は、蟹の爲に痛(いたみ)を述べて作れり。

   *

講談社文庫の中西進全訳注版によれば、『蟹運びの集団が所作をもって歌った歌謡で、蟹の立場に立つ痛みを述べる要素と、貢上者への奉仕とを謳う。蟹踊りは応仁記』にもあるとする。以下、同注やその他を参考に、私の感想も交えて簡単に語注する。

・「廬(いほ)」蟹の掘った巣穴。「ほかいびと」のあばら家も暗示させて、自らを献上する葦蟹にも喩える導入である。

・「隱(なま)りて」「なばりて」と同じで「隠れて」。

・「吾(わ)を召すらめや」雌(めす)の蟹は「ししびしお」(塩漬け)の食材として召すとして、儂は「蟹踊り」の技芸を見せるために召されたか? という洒落とする。

・「飛鳥」は河内飛鳥(現在の大阪府羽曳野市東部・南河内郡太子町などを指す旧地域。この中央附近。グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

・「置勿」は奈良県大和市奥田かとする。

・「都久野」は奈良県橿原市の桃花野(つきの)とするが、これは鳥屋ミサンザイ古墳(宣化天皇身狭桃花鳥坂上陵(むさのつきさかのえのみささぎ)附近のことか。

・「絆(ふもだし)」馬を使役するために胴回りを縛る腹掛けか。

・「鼻繩(はななは)」牛を繩で繋ぐための牛の鼻に通した輪状の「はなぐり」と繩。思うに、献上する葦蟹は逃げ出さないように藁で脚と腹とを藁で縛られていることをも以上で匂わせているように私は感じる。それは「ほかいびと」の蟹踊りの召し出しの「縛り」にも繋がるであろう。

・「はくれ」「佩くれ」。

・「もむ楡(にれ)」「延喜式」に、ニレ(バラ目ニレ科ニレ属ハルニレ Ulmus davidiana var. japonica )の皮を揉んで粉にしたもを使った「楡木(にれぎ)」という名の漬物が記録されている。

・「五百枝(いほえ)剝ぎ垂れ」先の調味料を作るために「五百枝も剥いで」(乾すために)「吊り垂らして」。

・「囀(さひづ)るや」以下の臼音の比喩。

・「唐臼(からうす)」は足踏み式だから「手臼」が応じる。

・「初垂(はつたり)」砂で雑物を漉した最初の精製された「辛く」濃い潮水。これで葦蟹を漬ける。

・「腊(きたひ)」本来は「ほじし」と訓じ(音は「セキ・シャク」)、「保存用に重ねた干し肉」の意だが、ここは蟹を細かく擂り潰して塩漬けにしたものを指している。所謂、佐賀の郷土料理として知られる私の好きな「蟹(がん)漬け」である。今や、中国産の蟹で作られている。

   *

『仙覺が「萬葉集」の註』仙覚(建仁三(一二〇三)年~文永九(一二七二)年以後)は鎌倉時代の天台僧で「万葉集」の研究者。俗姓未詳。東国生れ(常陸国とする説有り)で、北条時政に滅ぼされた豪族比企氏の出身であるとされる。「万葉集」を研究し、まず、諸本の校訂に努め、無点歌に新点を加えて後嵯峨天皇に奏上し、また、書写本を宗尊親王に奉っている。さらに万葉注釈書の先駆(古注と称する)をなす「万葉集註釈」を文永六(一二六九)に完成させた。比企一族所縁の妙本寺でこの古注の研究に励んだことから、本堂左手に顕彰碑が建つ。

「篤信」貝原益軒の本名。

「非常の產物」救荒時の食料。

「其の性も亦、好からず。食ふべからず」モクズガニ(短尾下目モクズガニ科モクズガニ亜科モクズガニ属モクズガニ Eriocheir japonicus )とは異なり、淡水域には立ち入らないので、ウェステルマン肺吸虫症(扁形動物門吸虫綱二生亜綱斜睾吸虫目住胞吸虫亜目住胞吸虫上科肺吸虫科Paragonimus 属ウェステルマン肺吸虫 Paragonimus westermanii :ヒトを最終宿主とする)の危険性は低い。]

大和本草附錄巻之二 介類 片貝(かたがひ) (クロアワビ或いはトコブシ)

 

片貝 䗩ノ類ナリヨメノサラニ似テ少大ニシテ㴱シ味

ヨシ鰒ノ如クフタナシ故ニ片貝ト云其肉モ亦蚫ニ似

タリ貝ノ色内外黑シ味ヨシ頗佳品ナリ毒ナシ。ナシ

モノトス海岸ニ附生ス。其大七八分䗩ハ本書ニ載タ

リ又福州府志曰老蜯牙似䗩而味厚シ一名牛蹄

以形名是片貝乎

○やぶちゃんの書き下し文

片貝(かた〔がひ〕) 䗩(よめのさら)の類なり。「よめのさら」に似て、少し大にして、㴱〔(ふか)〕し。味、よし。鰒(あはび)のごとく、ふた、なし。故に「片貝」と云ふ。其の肉も亦、蚫〔(あはび)〕に似たり。貝の色、内外〔(うちそと)〕、黑し。味、よし。頗る佳品なり。毒、なし。「なしもの」とす。海岸に附〔きて〕生〔(しやう)〕ず。䗩は、本書に載せたり。又、「福州府志」に曰はく、『老蜯牙、䗩に似て、味、厚し。一名「牛蹄」。形を以つて、名づく』〔と〕。是れ、「片貝」か。

[やぶちゃん注:これはなかなか悩ましい。同定は最後に回す。

「片貝(かた〔がひ〕)」所謂、アワビのような腹足類の巻が極度に緩んで、貝口が大きく開き、外蓋(がいさい)がなく、軟体部で直接に岩礁面に吸着している貝類を広範に指す語である。なお、未だにアワビやトコブシ及びカサガイの類を「一枚貝」と平然と呼称している記載が甚だ多いが、真の一枚貝の多くは、古生代(約五億四千百万~約二億五千百九十万年前)の化石種で絶滅種であり、我々一般人が真の「一枚貝」の生体を見ることは、まず、あり得ない。「生きた化石」として現生種の棲息が確認された最初は、軟体動物門貝殻亜門単板綱 Monoplacophora Tryblidiida Tryblidioidea 上科ネオピリナ Neopilinidae 科ネオピロナ属ネオピリナ Neopilina galatheae で、一九五二年にデンマークの海洋調査船「ガラテア」号がパナマ沖の深海底から発見し、それ以降、現在では南・北アメリカ西岸及びアラビア半島のアデン沖や、大西洋南部や南極海の深海から七属二十種ほどが知られている。厳密には単板類(正真正銘の唯一の「一枚貝」類である)は古生代カンブリア紀からデボン紀に栄えた原始的形態をもつ軟体動物で、殻は笠形を成し、殻頂は前方に位置してやや高く、前方に尖る。軟体部は眼や触角を欠き、外套腔には五~六対の鰓を有し、肛門は後方にある。足は大きく、収足筋痕は左右に八対を有する(太字部は概ね「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「䗩(よめのさら)」「䗩は、本書に載せたり」とある通り、「大和本草卷之十四 水蟲 介類 ヨメノサラ(ヨメガカサ)」で、腹足綱前鰓(始祖腹足)亜綱笠形腹足上目カサガイ目ヨメガカサ(嫁が笠)上科ヨメガカサ科ヨメガカサ Cellana toreuma のことである。詳しくはリンク先の本文及び私の注を読まれたい。なお、本種は別名を「ヨメノサラ」(嫁の皿)とも呼ぶが、これは貝殻を皿に喩えて、「平たい皿で食い扶持を減らす」という「嫁いびり」に繋げた呼称である。

「㴱〔(ふか)〕し」「深」の異体字。殻高が高いことを言っている。

「鰒(あはび)」「蚫〔(あはび)〕」現行の和名「アワビ」自体は腹足綱原始腹足目ミミガイ科 Haliotidae のアワビ属 Haliotis の総称である。当該種一覧は「大和本草卷之十四 水蟲 介類 石決明 (アワビ)」を見られたい。

「なしもの」塩辛或いは魚醤(うおびしお)

「福州府志」清の乾隆帝の代に刊行された福建省の地誌。同書の「乾隆本」を見ると。

   *

老蜯牙、似蟲戚而味厚、一名牛蹄、以形名。

   *

とあるものの、同書の「萬歷本」では、

   *

老蚌牙【「閩書」。】 似蟲戚而味厚。一名牛蹄、以形似之。

   *

とあって、「閩書」(びんしょ:明の何喬遠(かきょうえん)撰になる福建省(閩は福建省の旧名)の地誌「閩書南産志」)からの引用である。

「老蜯牙、䗩に似て」「老蜯」は老蚌」に同じだが、これは非常にまずい。何故なら、この老蚌は二枚貝である斧足綱古異歯亜綱イシガイ目イシガイ科ドブガイ属 Sinanodonta に属する大型のヌマガイ Sinanodonta lauta(ドブガイA型)及び、小型のタガイ Sinanodonta japonica(ドブガイB型)の二種が「ドブガイ」、及び、全くの別種であるイシガイ科イケチョウ亜科カラスガイCristaria plicata を指すからである。これについては、『「大和本草卷之三」の「金玉土石」より「眞珠」』の私の注で詳しく書いたのでそちらを見られたいが、そうなると、同定に向けてきたかのように見えた流れが、一挙に瓦解してしまうからである。この場合の「牙」は「ガ」と読んで、「天子や将軍の旗。或いは、その旗の立っている陣営」の意で、「䗩に似て」とは、カサガイの類と同じく、殻の頂きが明瞭に軍旗のように立ち上がって見えることを言っているのではなかろうか。一方で、叙述から見るに、この「牙」というのは貝柱のことと採ると、これ、非常に腑に落ちる

「味、厚し」「濃厚」の意。

「牛蹄」中国では腹足類の内で殻頂が鋭く尖っている貝類にこの名を冠することが多い。その中には、腹足綱古腹足目ニシキウズガイ目ニシキウズガイ上科 Trochoidea の種が含まれており、例えば「牛蹄鐘螺」=ニシキウズガイ科ニシキウズ亜科ダルマサラサバテイラTectus niloticus や、お馴染みのサザエまでがそこに出てくる。これは、またまた、厄介な謂いである。但し、所謂、カサガイ類の大型種を「牛蹄」というのは腑に落ちはする。

 さて。これは如何なる種か? 当初、私は、「鰒(あはび)のごとく、ふた、なし。故に「片貝」と云ふ。其の肉も亦、蚫〔(あはび)〕に似たり」「味、よし。頗る佳品なり」という部分から、

古腹足目ミミガイ上科ミミガイ科トコブシ属フクトコブシ亜種トコブシ Sulculus diversicolor supertexta

に比定しようと思ったのだが、その後の「貝の色、内外〔(うちそと)〕、黑し」というのが気になった。しかし、これを「牛蹄」から連想して、「シッタカ」で知られる古腹足亜綱ニシキウズ上科クボガイ科コシダカガンガラ属バテイラ Omphalius pfeifferi pfeifferi なんぞに比定することは、見た目が全くの巻貝であって、美味いものの、アワビには味も形も似ちゃいない、外蓋がないとするのも外れで、全く不可能だ。されば、「貝の色」は「貝殻」の色ではなく、生体のトコブシの「裏表」の謂いならば、黒くてもおかしくない。無論、単純に、

ミミガイ科クロアワビ Haliotis discus discus

としても、問題はない。寧ろ、「頗る佳品なり」と言い切るところは、こっちに分があるように見えはする。]

大和本草附錄巻之二 蟲類 蝦苗(あみ) (アミ) / 蟲類~了

 

蝦苗 和名 アミ泥海ニ生ズ生ナルヲナシ物トス乾

タルヲモ食フ有小毒孕婦不可食堕胎產婦及金

瘡アル人不可食又發瘡疥性不良食スベカラズ猫

クラヘバ不產子

○やぶちゃんの書き下し文

蝦苗〔(かべう)〕 和名「あみ」。泥海に生ず。生なるを「なし物」とす。乾したるをも食ふ。小毒、有り。孕婦〔(はらめ)〕、食ふべからず。胎〔(こ)〕を堕〔(おろ)〕す。產婦及び金瘡〔(きんさう)〕ある人、食ふべからず。又、瘡疥〔(さうかい)〕を發す〔る〕性〔(しやう)あるもの〕、良〔から〕ず。食すべからず。猫、くらへば、子を產まず。

[やぶちゃん注:甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱フクロエビ上目アミ目 Mysida 及びフクロエビ上目ロフォガスター目 Lophogastrida に属する膨大な種(アミ類は全世界で約一千種が知られ、本邦近海でも約二百種は棲息する)を含む小型甲殻類の総称。ウィキの「アミ(甲殻類)」によれば、によれば、『体は頭胸部・腹部・尾部に分かれる。頭部には発達した』二『対の触角と、可動』する『柄の先についた眼を持つ。また、尾部の先端は扇状に発達し、全体としてエビ類に酷似した外見であるが、アキアミ』(軟甲綱十脚目根鰓亜目サクラエビ科アキアミ属アキアミ Acetes japonicus )『のような小型のエビ類やオキアミ』(軟甲綱真軟甲亜綱ホンエビ上目オキアミ目 Euphausiacea のオキアミ類)『とは分類学上』、全く『異なるグループに属する。一般には「イサザ」「イサダ」とも呼ばれる』が、『この呼び名も、例えばツノナシオキアミ』(オキアミ目オキアミ科オキアミ属ツノナシオキアミ Euphausia pacifica )『のようなオキアミ類などに使われる場合があるので注意を要する。体長は最小種で』二ミリメートル『程度、最大種であるロフォガスター目』オオベニアミ科オオベニアミ属『オオベニアミ Gnathophausia ingens では』三十五センチメートルを超える。一般には五ミリメートル程度から三センチメートル前後までの小型種が殆んどである。

「蝦苗」形状からエビの子どもと中国で言ったもの。

「なし物」塩辛或いは魚醤(うおびしお)。現在でもよく見かける。

「小毒、有り」摂餌対象の植物プランクトン由来の毒性は否定出来ない。一個体の濃縮含有量は微々たるものであろうが、同一箇所で毒化した個体を多量に採取して食えば、中毒する可能性はある。それ以外に、益軒の言うように、「瘡疥〔(さうかい)〕」(ここは広義のでき物や発疹・湿疹の類)「を發す〔る〕性〔(しやう)あるもの〕、良〔から〕ず。食すべからず」で、甲殻類アレルギのある者はちょっと食しただけでくるだろう。

「孕婦〔(はらめ)〕、食ふべからず。胎〔(こ)〕を堕〔(おろ)〕す」思うにこれは実際の作用ではなく、「猫、くらへば、子を產まず」と同じで、「蝦苗」という名の類感呪術的ニュアンスを私は感ずる。

「金瘡〔(きんさう)〕」刃物などで生じた傷。]

大和本草附錄巻之二 蟲類 海馬(かいば) (タツノオトシゴ)

 

海馬 入門云背カヾマリ如竹節紋長二三寸色黃

褐ナリ。シヤコト云說アリ。シヤコニハアラズ別也此物ザ

コノ内ニマジリテ有之

○やぶちゃんの書き下し文

海馬(かいば) 「入門」に云はく、『背、かゞまり、竹の節〔(ふし)〕の紋のごとし。長さ、二、三寸。色、黃褐なり。』と。「しやこ」と云ふ說あり。「しやこ」にはあらず。別なり。此の物、ざこの内にまじりて、之れ、有り。

[やぶちゃん注:トゲウオ目ヨウジウオ亜目ヨウジウオ科タツノオトシゴ亜科タツノオトシゴ属 Hippocampus のタツノオトシゴ類。外見の形態分類に従った伝統的博物学や本草学では、「蟲類」は現行の昆虫類よりも遙かに範疇が広い。概ね水産・陸産を問わず、無脊椎動物大部分や、魚やその他の尋常生物には見えない奇体な印象を与える生物群もここに体よく押し込まれた。既に益軒は「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 海馬」で挙げている。本邦の当該標準和名種はタツノオトシゴ Hippocampus coronatus 。中国では全長が二十から三十センチメートルに達するような大型種である、タカクラタツ Hippocampus trimaculatus ・クロウミウマ Hippocampus kuda ・オオウミウマ Hippocampus kelloggiなどの一個体或いは雌雄個体の全乾燥品が漢方薬「海馬(かいま)」として珍重されてきた歴史がある(如何にもな強精・強壮剤としてである。現在、そのためにこうした大型種は激減してしまった)。私の『神田玄泉「日東魚譜」 海馬 (タツノオトシゴ)』と、サイト版の栗本丹洲(「栗氏千蟲譜」巻七及び巻八より)「蛙変魚 海馬 草鞋蟲 海老蟲 ワレカラ 蠲 丸薬ムシ 水蚤」も見られたい。

「入門」明の李橚(しゅく。但し、李梃(てい)ともする)「醫學入門」。一五七五年成立。中国古今の医説の要説を述べ、経絡から臓腑の解説、諸科の診断と治療法、本草の性質概説、歴代医学者の名まで網羅する。全七巻。「内集」の巻二「本草分類」内に、

   *

海馬 出西海。大小如守宮蟲、首若馬、身如蝦、背傴僂有竹節紋、長二三寸、色黃褐、以雌雄各一爲對。

   *

とある。

「しやこ」甲殻亜門軟甲綱トゲエビ亜綱口脚目シャコ上科シャコ科シャコ Oratosquilla oratoria「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 蝦蛄」を参照。博物画は『毛利梅園「梅園介譜」 蝦蛄』にトドメを刺す。

「ざこ」「雜魚」。]

2021/04/28

大和本草附錄巻之二 魚類 すず (ダツ) / 大和本草附錄巻之二 魚類~了

 

スヾ ハ海魚也二尺許橫セバクタテ長シ馬鮫魚ノ

形ニ似タリ色モ亦似タリ○漁人ノ曰骨多ク味不好

且有小毒非佳品

○やぶちゃんの書き下し文

「すゞ」は海魚なり。二尺許り。橫、せばく、たて、長し。馬鮫(さはら)魚の形に似たり。色も亦、似たり。

○漁人の曰はく、「骨、多く、味、好からず。且つ、小毒、有り。」〔と〕。佳品に非ず。

[やぶちゃん注:大きさから、

条鰭綱ダツ目ダツ亜目ダツ上科ダツ科ダツ属ダツ Strongylura anastomella (全長一メートルほど。日本海と東シナ海を含む西太平洋の温帯域に分布する。日本でも北海道南西部以南で見られるが、南西諸島と小笠原諸島には分布しない。私は刺身を食べたことがあるが、まあ、美味くも不味くもなかった)

の他、本邦近海には、同属の、

リュウキュウダツ Strongylura incisa (全長七十センチメートルほど。ダツに比べて頭部の鱗が大きい。日本では南西諸島に分布する)

や、

ハマダツ属ハマダツ Ablennes hians (全長一・二メートルに達し、体側に黒っぽい横縞模様が出ることで他の種類と区別できる。全世界の熱帯・温帯域に広く分布し、本邦では本州以南の沿岸に分布する)

ヒメダツ属ヒメダツ Platybelone argalus(全長五十センチメートルほどで、ダツ類の中では小型種。尻鰭が背鰭よりも前にあること、目が体長の割には大きいことで他の種類と区別する。本邦では南西諸島・小笠原諸島に分布する)

テンジクダツ属テンジクダツ Tylosurus acus (全長一メートルほど。本邦の沿岸表層域で普通に見られる。下顎に角のような下向きの突起が出ることが多い)

テンジクダツ属オキザヨリ Tylosurus crocodilus(全長一・三メートルに達する。生きている時は鰓蓋に青い横縞が一本入り、背面は濃紺、側面は銀白色、腹面は白い。他のダツ類に比べて、より太く、頭部が短い。明瞭な尾柄隆起があり、尾鰭は強く二叉する。最大全長一・五メートル、最大重量六・三五キログラムの記録があるという。私は高校時代(一九七二~一九七四年)に高岡市伏木の国分港と小矢部川の間の防波堤上から、本種の超巨大個体を目撃した。恐らくは一・五メートルはあった。体を悠々と優雅にくねらせて、私の目の下水面を通って行った。鰓の青い横縞をはきり覚えており、背部の紺色が、秋の陽に虹色に輝いて見えた。大きさに慄然としつつも、どこかで幻界にあって時空が止まったのような気持ちを味わったのを忘れない。友人も父母も全く信じてくれなかったが

である。なお、本種は物理的な海産の超危険動物としてよく知られている当該ウィキによれば、『捕食の際』には、『小魚の鱗で反射した光に敏感に反応し、突進する性質がある。暗夜にダツが生息する海域をライトで照らすと、ダツが激しく突進してきてヒトの体に突き刺さることがある』『ので』、『夜間の潜水はとくに注意が必要である。実際にダツが人体に刺さって死傷する事故も発生しており』、『沖縄県の漁師には、鮫と同じくらいに危険視されている』。『ダツが刺さった時は』、『むやみに抜くと』、『出血多量に陥る場合があるので、抜かずにダツを殺してから慎重に病院に行く』とあるほどである。なお、サヨリ(ダツ目トビウオ亜目サヨリ科サヨリ属サヨリ Hyporhamphus sajori )や、時にサンマ(トビウオ亜目サンマ科サンマ属サンマ Cololabis saira )も異名で「スズ」と呼ぶが、ここはサイズと、本巻で「大和本草卷之十三 魚之下 鱵魚(さより)」が出ていること(サンマが出ていないのはちょっと不審だ)、及び、スズキ目サバ亜目サバ科サバ亜科サワラ族サワラ属サワラ Scomberomorus niphonius に似ているとあること、食味を評価していないことから、総合的にダツの異名ととった。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のダツのページに、岡山県笠岡市採取で「スズ」の異名を掲げる。

「小毒、有り」不審。ダツに毒性があるというのは聴いたことがない。]

大和本草附錄巻之二 魚類 ふなしとぎ (コバンザメ)

 

フナシトギ ハ海魚也長二尺許其形頭ヨリ下ハ不扁

シテ而圓シ頭ハ少シ扁シ背ノ近首處多橫文シテ而

促レリ橫文二十三アリ橫ニ連レリ其間三寸許背

ノ橫文ヲ以船板ニ付テ不離生ナルヲ爼上ニヲケバ

取付テ難分

○やぶちゃんの書き下し文

「ふなしとぎ」は、海魚なり。長さ、二尺許り。其の形、頭より下は扁〔(ひらた)〕からずして、圓〔(まろ)〕し。頭は、少し、扁〔(ひらた)〕し。背の首に近き處、橫文〔(わうもん)〕多くして、而して促(しま)れり。橫文、二十三あり。橫に連なれり。其の間、三寸許り。背の橫文を以つて、船板に付(つ)きて離れず。生〔(なま)〕なるを爼上〔(そじやう)〕にをけば、取り付きて、分れ難し。

[やぶちゃん注:「サメ」とつくが「鮫」とは全く無縁な、軟骨魚類でない、

条鰭綱スズキ目コバンザメ科コバンザメ属コバンザメ Echeneis naucrates

である。この一篇のために、先に『栗本丹洲「栗氏魚譜」より「小判鮫」 (コバンザメ)』を図附きで電子化注しておいた。また、ちょっと奇体な絵だが、私の「栗本丹洲 魚譜 白のコバンザメ」も見られたい。

「ふなしとぎ」この異名も『栗本丹洲「栗氏魚譜」より「小判鮫」 (コバンザメ)』の注で考証しておいた。

「促(しま)れり」これは「促音」という語で判る通り、「迫る・隙間がなくなる)」の謂いで、細かな横紋が相互にキュッと締まっているというのである。最初のリンク先の引用で示されている通りの吸盤部の構造と非常にマッチした簡便にして正しい表現と言える。

「橫文、二十三あり」前記引用に『十八から二十八枚の明瞭な隔壁がある』とあるから、この数字もいい。

「橫に連なれり」ここは「橫」ではなく、「前後」とすべきところかも知れぬが、前記引用でも『横(背骨と垂直方向)』とあるから問題ない。]

栗本丹洲「栗氏魚譜」より「小判鮫」 (コバンザメ)

 

[やぶちゃん注:底本は国文学研究資料館所蔵「祭魚洞文庫旧蔵水産史料」の中の「栗氏魚譜 錦■翁蔵巻」(「■」は判読不能字か。「巢」或いは「窻」に近いか。こちらの二コマ目を参照されたい。刊記は文政二(一八一二)年で栗本丹洲は宝暦六(一七五六)年生まれで、天保五(一八三四)年に没しているから、生存中の写本であり、これは「栗本魚譜」の原図の筆致を最もよく伝えている第一級の資料とされるものである)の画像を使用し、視認して文字を起した。以下に示した画像は同館所蔵資料のそれ(当該画像はこれ)であり、オープン・データであるので、使用可能である。まず、「翻刻1」でそのままのものほぼ原型通りに起こし、「翻刻2」では文章として繋げ、概ねカタカナをひらがなとし、句読点・記号・濁点を施し、一部で推定で送り仮名を施し(原本には訓点や読みは一切振られていない)、漢文部は推定訓読した。また、一部の難読と思われる箇所に推定で歴史的仮名遣で読みを添えた。]

 

0319_007

 

[やぶちゃん注:「国文学研究資料館所蔵」のもの。補正・トリミング等は加えていない。言わずもがな、中央下方の左右対称の黒いそれは虫食いの穴である。]

 

□翻刻1

                 咽機那

小判鮫

 越中ニテ小判イダヽキト云[やぶちゃん注:「イダヽキ」はママ。]

 筑前ニテフナシドキト云至

 大者ハ二三尺アリ極テ腥気

 アリシカモ粘滑甚シ

 

此魚性喜ンデ頭上ノ印ノ如キ処ニテ

物ニ吸着テハナレズ大者ハヨク舶底

着テ動カサズ舟ニアヤカシノ付キタ

ル云ハ是ナリ因テ此魚をアヤカシ𪜈

云ルヨシ假令死シテモ頭上ノ平ナル

処ヲ盆或板ナトノ平ナルモノヽ上

ニ着ケ尾ヲ引立レハ板スイツキ離レ

ズモチ上ルモノナリ是他魚ト異ナリ水府漁人

草履鮫ト云頭上艸鞋ノ状アル故ニ此名ヲ得又

大魚ヲ獲ル前ニ此魚先得ラルヽヿアリ大魚ノ

先駆ナリトテ神棚ニ上ケ供祭ス是ニ因テ漁人

告ノ神ノ甚四郞ト云大平御覧引臨海異物志有印魚即是也大魚將死印魚先封之ト云

ト符合ス此魚大魚口邉ニアリテ他ノ食ヲ止テ餓サシムル故ニ遂ニ人ノ為ニ得ラル

トナリ利瑪竇坤輿図云咽機那魚生海中好粘着舩底不動ト亦此物ナリ

 

 

□翻刻2

                 咽機那(いんきな)

小判鮫

 越中にて「小判イダヽキ」と云ひ、筑前にて「フナシドキ」と云ふ。至つて大なる者は、二、三尺あり。極めて腥(なまぐさ)き気(かざ)あり。しかも、粘滑、甚し。

 

此の魚、性、喜んで頭上の印のごとき処にて、物に吸ひ着きて、はなれず。大なる者は、よく舶底に着きて、動かさず。「舟に『アヤカシ』の付きたる」と云ふは、是なり。因りて、此の魚を「アヤカシ」とも云へるよし。假令(たとひ)死しても、頭上の平なる処を、盆或いは板などの平なるものゝ上に着け、尾を引き立つれば、板、すいつき、離れず、もち上がるものなり。是れ、他魚と異(い)なり。水府(すいふ)の漁人、「草履鮫(ざうりざめ)」と云ふ。頭上に艸鞋(わらぢ)の状(かたち)ある故に、此の名を得。又、大魚を獲る前に、此魚、先づ、得らるゝこと、あり。「大魚の先駆なり」とて、神棚に上げ、供(そな)てへ祭(まつり)す。是に因りて、漁人、「告(つげ)の神(かみ)の甚四郞(じんしらう)」と云ふ。「大平御覧(たいへいぎよらん)」に「臨海異物志」を引き、『印魚、有り、即ち、是れや、大魚、將に死せんとするに、印魚、先づ、之れを封(ふう)ず』と云へると符合す。「此の魚、大魚の口の邉(あたり)にありて、他(ほか)の食を止(とど)めて、餓ゑさしむる故に、遂に人の為めに得らる」となり。利瑪竇(りまとう)の「坤輿図(こんよず)」に云はく、『咽機那魚、海中に生(しやう)ず。好んで、舩底に粘着して、動かず』と。亦、此の物なり。

[やぶちゃん注:スズキ目コバンザメ科コバンザメ属コバンザメ Echeneis naucrates である。荒俣宏氏の「世界大博物図鑑2 魚類」(平凡社一九八九年刊)の「コバンザメ」の記載によれば、属名「エケネイス」は、ギリシャ語で「船を引き止めるもの」の意とある。我々の世代では「コバンイタダキ」(小判戴(頂)き)の異名の方が親しいが、あくまで標準和名は「コバンザメ」である。当該ウィキによれば、『コバンザメ属 Echeneis は、全世界の熱帯・亜熱帯域に分布し、最もよく見られるコバンザメ類であるEcheneis naucrates と、メキシコ湾から南米北岸にかけて分布する Echeneis neucratoides (英名:Whitefin sharksucker)の』二種から構成される。英名は「白い鰭を持ったサメの乳飲み子(或いは「鮫に吸い付く者」。‘sucker’にはズバリ「吸盤」の意もある。但し、「白い鰭」というのは実際には、本邦のコバンザメと同じく体側の上下にある目立つ白線模様を指しているものと思われる)」。最大で一メートル強で二・三キログラムになるが、通常は七十センチメートル程度。体長は体高の八~十四倍程あり、背鰭は三二から四十二の軟条で、臀鰭は二十九~四十一の軟条からなる。頭部の背面に背鰭の変化した『小判型の吸盤があり、これで大型のサメ類やカジキ類、ウミガメ、クジラなどに吸い付き、餌のおこぼれや寄生虫、排泄物を食べて暮らす(片利共生)。吸盤には横(背骨と垂直方向)に』十八から二十八枚の明瞭な『隔壁がある』。『この隔壁は』吸着せずに泳いでいる際には、『後ろ向きに倒れており、動いている大きな魚の体表などの面に吸盤が接触すると』、『これら』が『垂直に立ちあがる』ようになっている。この時、『隔壁と隔壁の間の水圧が』、『周囲の海水の圧力より小さくなり、これによって吸盤は』対象物に『吸いつく。吸いついたコバンザメを後ろに引くと』、『隔壁の間の水圧はさらに小さくなるので吸盤はさらに強く吸いつく。反対にコバンザメを前に押すと隔壁がもとの位置に倒れるとともに』、『吸盤内の水圧が上がり、吸盤は』吸着物から『はずれる。このしくみによって、彼らは自分がくっついた大きな魚などが速く泳いでも』、『振り払われずにすみ、また』、『離れたいときは大きな魚などより』も、少しだけ『速く泳ぐ』ことで『簡単に離れることができる。また、隔壁には』〇・一ミリメートル『ほどの細かい骨が付いており、吸盤で吸い付くとともに骨が滑り止めともなっている』。『体側には太い黒線と、その上下を走る細い白線がある』。『生息深度は』二十~五十メートルで、『大型の海洋生物・船などに付着して生活するが、サンゴ礁の沿岸では単独で見られることも多』く、『幼魚はサンゴ礁域で掃除魚』(Cleaner fish:他種の魚の古い傷んだ皮膚組織や外部寄生虫を食べる習性をもつ魚類の総称)『として生活することもある』。『成魚に付着することもある』。『また、付着せずに砂地に集まって近くの生け簀の餌のおこぼれを食べるものが奄美大島で確認されている』。『一般に食用にされることはないが、まれに定置網などに入り、産地や漁業者などは食用にする。白身魚であり』、『美味と言われている』とある。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のコバンザメのページでも、食味を非常に高く評価しておられる。一度、食べてみたいものだ。私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「舩留魚(ふなとめ)」も参照されたい。なお、変わったところでは、コバンザメを懐にしていると裁判に勝てるという驚きの風習が、「南方熊楠 西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語 (異れる民族間に存する類似古話の比較硏究) 7」に出る。本文及び私の「印魚(コバンフネ)」(コバンザメのこと)の注を見られたい。

「咽機那(いんきな)」現代中国語では「イェンヂィーナァー」。但し、小野蘭山の「重修本草綱目啓蒙」の巻三十の「無鱗魚」の「鮫魚」の中のここ(国立国会図書館デジタルコレクションの当該原本画像)に(推定(「肉几(まないた)の」以外の読みも)訓読した)に、

   *

咽機哆魚【「坤輿地圖」。】「コバンザメ」。一名「コバンウヲ」・「コバンイタダキ」・「フナシトギ」・「アヤカシ」・「ワラジザメ」【水戶。】・「フナシトギ」【丹後。】・「フナスイ」【能州。】 「舟トリ」【薩州】・「舟トメ」・「ヤスタ」【土州。】。長さ、二、三尺、皮に細沙あり、形、圓(まどか)にして、黃・赤・微黑色。頭は微(かすかに)扁(ひらた)く、上、平(たひら)にして、二十三の橫刻、連ること、三寸許り、小判の形のごとし。刻(きざみ)ごとに刺沙(しさ)あり、この處、よく物に粘著(ねんちやく)して、離れず。故に此の魚、數多く船底に粘する時は、舟、動かずして害を爲す。已に死する者も、肉几(まないた)の上に粘著す。肉は食ふべし。

   *

と三字目が違う。「哆」は音「シ・シャ」で中国の文語で「ドゥオ」。調べたところ、勝負は蘭山にあった。田中茂穂著の「日本產魚類圖說」第二十一巻(大正(一九一六)刊)の「137.コバンザメ 咽機哆魚」の標題(国立国会図書館デジタルコレクションの当該部画像)がそうなっているからである(同書には同種の図版も載る。時計回り回転ボタンを押されたい)。なお、ここでは蘭山も食用を推奨していることが判る。

『越中にて「小判イダヽキ」と云ひ』写本時の誤りと思われる。同じ栗本の「異魚図纂」(国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像。なお、その書誌データから、絵師(本図の上の一尾を除いたもので、それ以外のタッチは酷似する)は奥倉辰行(おくくらたつゆき)とある。これは江戸神田多町で青物商(八百屋)を営んでいた甲賀屋長右衛門と通称した人物で、安政六(一八五九)年に没しているが、優れた魚類図譜を残している)では、正しく「小判イタゞキ」となっている。他に富山では「コバンカジキ」(「小判舵木」であろう)「フナドメ」とも呼ぶ。

『筑前にて「フナシドキ」と云ふ』意味不明。一つ考えたのは「船足(ふなあし)を退(ど)く」或いは「船足を研(磨)ぐ」で、船足を削(そ)ぐの謂いか。後者の方が無理がない気はする。なお、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のコバンザメのページには他に別名として、丹洲と蘭山が挙げた以外には、「コバニオ」「コバンウオ」「コバスイツキ」「スナチドリ」「スナジドリ」「ゾオリツベタ」「ソロバンウオ」「ツチウオ」「ハダシタビ」「ピンピ」「フナイタ」「フナイトル」「フナエトリ」「フナスイツキ」「フナスリ」「フナツキ」「フナドメ」「フナヒッツイ」「フナヤトリ」「ヤイチャ」「ヤスダ」「ヤスダイ」「ヤスダノコバン」「ヤスナ」「ヤスラ」がある。しきりに出る「ヤス」は思うに、魚体と、吸着したそれが突き刺さったように見えることから、漁具の一種である長い柄の先に数本に分かれた鋭い鉄鎗をつけた魚介を突いて捕らえる「簎・矠」(やす)由来のように感じられた。なお、先の荒俣宏氏のそれによれば、「コバンウオ」は和歌山・広島の地方名とし(コンマを読点に代えた)、『茨城でワラジザメ、福島でゾウリベッタ、富山でハダシタビ』、『新潟のフナスイ、フナスツキや』、『出雲のフナツキ』、『高知のスイツキ』を挙げられ、『この魚が船を止めると言う俗信から、富山でフナドメ、高知でフナトメ、鹿児島でフナトリなど』と呼ぶとある。

「極めて腥(なまぐさ)き気(かざ)あり」釣り人のブログ記事で内臓が非常に臭いとあったが、これは必ずしも全体言える属性ではないようである。雑食性であるから、摂餌物によっては強い磯臭さを放つことは、コバンザメに限らず、内湾系の魚類ではまま見られる現象である。

「粘滑、甚し」不審。コバンザメが粘液を多量に出すとする記載は見当たらない。

「アヤカシ」現行では不思議な対象や「妖怪」の意で広く用いられることが多くなったが、第一義としては、本来は「狭義に海の怪異や海の妖怪の名」として用いるのが正しく、「船が難破する際に海上に現れるという化け物」で、「舟幽霊」や「海坊主」に強い親和性を持った海産妖怪を指す。私の「怪談登志男卷第四 二十、舩中の怪異」などを参照されたい。

「他魚と異(い)なり」異様な吸着器を持っているから、他に見られない異魚だというのである。

「水府」水戸の唐風の呼び方。

「艸鞋(わらぢ)」「草鞋」に同じ。

「大平御覧」「太平御覽」が正しい。宋初期の第二代皇帝太宗の命により李昉(りぼう)・徐鉉(じょげん)ら十四名による奉勅撰になる全一千巻に及ぶ膨大な類書(百科事典)。九七七年から九八三年頃の成立。同時期に編纂された「太平広記」・「冊府元亀」・「文苑英華」と合わせて「四大書(宋四大書)」と称される。引用は「鱗介部十二」の「印魚」で、

   *

臨海異物志曰、印魚、無鱗、形似䱜【音錯】。形、額上四方如印、有文章。諸大魚應死者、印魚先封之。

(「臨海異物志」に曰はく、『印魚、無鱗にして、形、䱜(さく)に似る【音、「錯」。】。形、額の上の四方に印のごとくなる文章(もんしやう)有り。諸々の大魚、應に死せんとすべき者は、印魚、先づ、之れを封(ふう)ず。』と。)

   *

「臨海異物志」は正確には「臨海水土異物志」で、三国時代の呉の武将沈瑩(しんえい ?~二八〇年)の撰になる博物学的地誌。「䱜」は鮫(サメ。或いはその中の一種)を指す。なお、現代中国語では「コバンザメ」は「鮣」「長印魚」「吸盤魚」と呼ばれている。

「印魚、有り、即ち、是れや、大魚、將に死せんとするに、印魚、先づ、之れを封(ふう)ず」まあ、丹洲の解釈するように、「この小判鮫は、大きな魚の口辺部に強力に附着し、その大魚の摂ろうとする餌を、皆、食ってしまって、大魚を餓えさせてしまうがために、吸着している大魚が弱ってしまい、同時に小判鮫自身も弱ることとなり、ために、人に捕獲されてしまう」という意味でよかろう。あまり理解されているとは思われないので言っておくと、コバンザメは大型のサメ類の外部体表のみでなく、口腔内にも吸着する内部寄生もする。私は実際に映像で見たが、多数のコバンザメが口腔内壁に附着しているのを見た。あれは、相応に寄生されたサメにとってはかなりの負担であろうと思われるほどにいたのである。されば、彼らが寄生した大魚を弱らせるというのは必ずしも誤りとは言えないと思われる。ただ、大きなサメの胃から明らかに捕食されたコバンザメが見つかっており、一方的にコバンザメの一人勝ちというわけではないらしい。但し、吸着寄生は幼魚・若魚の時とし、成魚は自由生活する個体も多いともあり、必ずしも何時も人の褌というわけでもないようである。

「利瑪竇」イタリア人イエズス会司祭で宣教師であったマテオ・リッチ(Matteo Ricci:中国名「利瑪竇」(Lì Mǎdòu) 一五五二年~一六一〇年)。ゴア・マカオを経て、一六〇一年に北京に入り、漢文教書「天主實義」や世界地図「坤輿萬國全圖」などの出版を通じて布教を図った人物として知られる。

『「坤輿図」に云はく、『咽機那魚、海中に生(しやう)ず。好んで舩底に粘着して、動かず』』かの「坤輿万国全図」のどこにそれが書いてあるのか、私は探し得ていないが、平野満氏の論文「『芝陽漫録』とその著者松平芝陽」(PDF・一九九八年三月発行『明治大学図書館紀要』所収)の「『芝陽漫録』にみえる本草記事と芝陽の本草学」の中に『⑴』として、

   《引用開始》

大槻玄沢は『蘭婉摘芳』(第三編巻八)「○印魚集説」として印魚(コバンザメ・アヤカシ)についての栗本丹洲の論稿「アヤカシノ図説並二其考証」(文政四歳次辛巳七月念八日誌)を収めている。その中で丹洲は、「アヤカシ」について西洋の説や谷川淡斎(士清)の『和訓栞』の説などの諸説とともに「源芝陽紀聞ノ随筆アリ」といい、「松平芝陽貞幹随筆曰」として芝陽の説にふれている。また「芝陽氏紀聞中ノマンボウニ附ク云々」として、印魚がマンボウに付いた例を「芝陽氏紀聞」から引用する。「冬月ニハ偶東都魚肆ヘモ持来ルコトアリ。去年庚辰ノ冬、飯田町中坂ノ魚店ニ釣リテアリ。長二尺許、人々奇観トスト、芝陽語リキ」あるいは「予懇友芝陽去年飯田町中坂魚店ニテ親ク賭ラレ、珍奇ナリトシテ予ニ語リシ時又右ノ奇話ヲ以テ演説シタリキ。速ニ随筆ニ収入スヘシト悦ハレシ」という。

『芝陽漫録』には「咽機那魚 和名コバン魚、又アヤカシ」[春―十九オ]の記事はあるが、ここにいわれるような魚店での見聞ではなく利瑪竇(マテオリッチ)[やぶちゃん注:ルビではなく、本文。]の『坤輿万国図』中の「咽機那魚」を引用したごく短い記事である。丹洲に語ったとおり芝陽が随筆に収めたとすれば、それは未発見の巻ということになる。あるいは、宍戸が編集の際に捨て去った可能性も皆無ではないが、宍戸の関心が本草学にあった

ことを考慮すればあり得ないだろう。宍戸の入手した『芝陽漫録』の中には上記の逸話がなかったと考える。やはり『芝陽漫録』には「アヤカシ」説を含む未発見の巻があると思う。

   《引用終了》

と述べておられる。]

2021/04/27

伽婢子卷之四 夢のちぎり

 

        ○夢のちぎり

 大永の比ほひ、舟田左近(ふなたさこん)といふ者あり。武門を出〔いで〕て、凡下(ぼんげ)となり、山城の淀といふ所にすみけり。心ざま、優(ゆう)にして、なさけ深く、しかも無雙(ぶさう)の美男(びなん)なり。家、富(とみ)て、ゆたかなりければ、人みな、あしくもいはず。年廿二になるまで、妻をもむかへず、たゞ色好みの名をとりたり。

 橋本といふ所に田地(でんぢ)をもちければ、秋のすゑつかた、

「田を、からせむ。」

とて、舟にのりつゝ、ゆくゆく、橋本の北に酒賣る家ありて、住居(すまひ)、にぎにぎしう、内の躰(てい)、奇麗に見ゆ。

 舟田は、舟(ふね)を家のうしろの岸につけて、酒を買(かふ)て、のまんとす。あるじ出て、

「こなたへ。」

とて、よび入しに、かけづくりにしたる亭(てい)に、のぼる。

 亭の西の方には、ふりたる柳、枝たれて、紅葉にまじはり、嵐〔あらし〕にちりおち、下葉うつろふ萩が露、枝もと、をゝに、おもげなり。秋をかなしむ蟲のこゑ、をばながもとに、よはりゆき、籬(まがき)の菊は咲き匂ひ、袖のかほりを誰(たれ)ぞとも、あだにゆかしき心地ぞする。

 北の方を見渡せば、淀の川波、浮きし沈む、鷗の聲は、をちこちに、あそぶ心ぞ、しらまほし。「楊枝(やうじ)が島」もほどちかく、「渚(なぎさ)の院」もこゝなれや。水野を過〔すぎ〕て山崎や、「うど野」につゞく三嶋江まで、たゞ一目にぞ見わたさるゝ。

  あるじ、盃(さかづき)出し、酒すゝめて、

「是は松江(ずんがう)の鱸魚(ろぎよ)にはあらねども、かの玄惠(げんゑ)法印が庭(には)の訓(をしへ)に名をほめたる淀鯉(よどごい)の鱠(なます)とて、とりそなへて出したり。又、これは吳中(ごちゆう)の蓴菜(じゆんさい)には侍べらねど、貫之(つらゆき)が、詠〔なが〕めにつみたる、水野の澤(さは)の根芹(ねぜり)にて侍べる。」

など、心ありげにもてなしければ、舟田、あるじの心を感じて、數盃(すはい)をかたぶけたり。

 その家に、むすめあり。年十八ばかり、未だいづかたにも緣を結ばず、亭に續きたる一間(ま)の部屋に住みけり。親、もとより、ゆたかなりければ、哥雙紙(〔うた〕さうし)なんど、おほくもとめてよませ、手はすぐれねども、物かく事、流るゝが如し。心ざま、やさしく、なさけあり。舟田が、亭にありけるを見て、心惑ひしつゝ、帳(ちやう)の隙(ひま)よりさしのぞき、或は、顏を、皆ながら、さしあらはし、或は帳の外に立ち、又、内に引籠り、又、帳より外に出つゝ、耻かしさも忘れて、こがるゝばかり、なまめきたり。

 舟田、これをみるに、女のかほかたち、世にたぐひなく美しく、輝(かゝや)くばかりに覺えて、知らず、わが魂(たましゐ)も、女のたもとに入〔いり〕ぬらん、たがひに心を通はせて、目と目を見合せ侍べりしか共、更に一言葉(〔ひと〕ことば)をいふべきよしもなく、日、すでに、傾(かたふ)きしかば、舟田は、暇乞(いとまごひ)し、座を立〔たち〕て、舟に乘り、我が宿に歸りしかども、たゞ、その人の面影のみ、身にしむ秋の、風さえて、ひとり、まろねの床の上、しらぬ淚ぞ、おちにける。

 その夜〔よ〕の夢に、橋本の酒うる家にゆきて、後(うしろ)の川岸より、門に入〔いり〕、直(すぐ)に女の部屋にいたりぬれば、部屋の前には、小さき「つくり庭」ありて、さまざまに疊(たゝみ)たる岩組(〔いは〕ぐみ)、峯よりくだる谷のよそほひ、ふもとよりつたふ道の續き、風情おもしろく、山より山のかさなれるに、洲濱(すはま)の池は、水淸く、さゝやかなる魚、おほくあそび、汀(みぎは)に生(おふ)る忍草(しのぶ〔ぐさ〕)、窓に飛びかふ螢火の、消え殘りたる秋の暮、鈴虫の聲、かすかなり。

 軒には、小鳥の籠、ひとつかけて、たきしめらかしたる香のにほひ、心もつれて、こがるらむ。つくえには、うつくしき甁(かめ)に、菊の花、すこしさして、硯箱あり。床(とこ)には「源氏」・「伊勢物語」、其外、おもしろく書(かき)たる双紙(さうし)を積み重ね、壁に寄せたる東琴(あづまごと)は、思ひをのぶるなぐさめかと、目とまる心地して立たりければ、女は、是れを見て、嬉しげに近づき、うち笑みて、舟田が手をとり、閨(ねや)に入て、

「心に積もる言の葉、百夜(もゝよ)も盡きじ。」

と、うち佗び、

「互ひに契りをかはしまの、水のながれて終(つゐ)にまた、末は逢瀨(あふせ)をならしばや、しばし人目を忍ぶ草、その關守こそつらからめ。」

など、さまざま語らひけるほどに、人の別れを思ひ知らぬ、八聲(〔や〕こゑ)の鳥もけうとげに、はや、『明がた』と打ちしきれば、灯火(ともしび)の色、いとしろく、窓の本(もと)に、夢はさめたり。これより、每夜、夢のうちに行通〔ゆきかよ〕〕ひて、契りをなさぬ夜は、なし。

 ある夜の夢には、女、琴をひきて「想夫戀(さうふれん)」の曲をなす。その爪音(つまをと)、たえにして、ひゞきは雲路(くもぢ)にいたるらむと、いとゞ情(なさけ)ぞ色まさりける。

 ある夜の夢には、又、かの家に行たりければ、女、白き小袖を縫(ぬひ)たりしに、舟田、ともし火をかきあぐるとて、小袖のうへに燈花(ちやうじがしら)をおとして、痕(あと)、つきたり。

 又、ある夜の夢には、女、白かねの香合(かうばこ)を、をくる。舟田、水精(すいしやう)の玉を、あたへたり。夢、さめぬれば、香合は舟田が枕もとに、あり。わが水精の玉は、なし。大きにあやしみ思ひて、

 君にいま逢ふ夜あまたのかたらひを

   夢としりつゝさめずあらなむ

とうち詠(なが)めて、あまりに堪(たへ)がたかりければ、舟に棹さして、橋本にゆきつゝ、かの家に立〔たち〕いり、酒を求めしに、あるじ、出て、舟田をみて、はなはだ喜び、内に呼びいれて、殊更に、もてはやす。

 かくて、物語しけるやう、

「それがし、たゞひとりの娘を持つ。年いまだ甘(はたち)に足らず。去年〔こぞ〕、秋の暮に、君、こゝに酒飮み給ふ時、娘見まゐらせしより、思ひ初めて、終(つゐ)に病(やまひ)となり、たゞ欝々として、ねぶれるが如く、ひとり言(ごと)するありさま、酒に醉(ゑひ)たるに似たり。醫師をたのみて治(ぢ)すれども、露ばかりのしるしも、なし。陰陽師(をんやうじ)にはらひせさするに、猶、おもくわづらひて、心地、たゞしからず。折々は『舟田左近』と、名をよぶ事、あり。しかも、昨日、いふやうは、『明日(あす)は君、必ず、こゝにおはしまさん』と、いひけれども、『例の狂氣より、いふ事ならん』と思ひ侍べりしが、君、けふ、來り給へり。これ、ひとへに、神の告(つげ)給ふ所ならん。願はくは、君、これを妻とし給へ。侘びてすむ、それがしの跡、殘りなく、參らせむ。」

といふ。

 

Yumeenotigiri

[やぶちゃん注:以上の挿絵は「新日本古典文学大系」版を用いた。左近が娘との婚意を告げ、主人がそれを受け入れて、やおら、娘の部屋で対面した大団円シーンである。小さくて分かりにくいが、左幅の棚の上に積まれた草紙に「古今」「万や」(万葉)の題箋が貼られているのが見える。但し、怪奇談集の挿絵としては、頗るつまらぬものである。]

 

 たがひに名字をあらはし、やがて領掌(れうじやう)して、娘(むすめ)の部屋に入ければ、部屋の躰(てい)、庭の面(おも)、みな、夢に見たるに違(たが)はず。

 女、其のまゝ枕をあげ、心地、たゞしくなりぬ。

 その顏容(かほかたち)・ものいひ・聲(こは)つき、聊(いさゝか)も、夢にかはらず。

 かくて、女、かたるやう、

「去〔さん〕ぬる秋のころ、君を見そめまゐらせしより、その物思ひ、むねに塞がり、面影、すでに、身をはなれず、夜ごとに君に契るといふ夢をみる事、いかにとも、いはれを、しらず。」

といふに、舟田が夢も、そのごとくに、小袖に灯花(とうくわ)の落〔おち〕たる痕あり。琴を彈きたる曲の名、香合(かうばこ)の事、みな、夢は、同じ夢也。

 是れを聞〔きく〕に、おどろき、あやしまずといふこと、なし。

 まことに、神(たましゐひ)の行〔ゆき〕かよふて、ちぎり、あさからず、「わりなきなからひ」とぞ聞えし。

 

[やぶちゃん注:今回は底本の漢字表記を元禄版のかな書きと対照し、敢えて漢字をひらがなに直した箇所が有意にある。流れの美しい和歌的な文脈のリズムをなるべく澱ませぬようにしたいと考えたからである。挿絵は底本のものを用いた。

「大永」戦国時代の一五二一年から一五二八年まで室町幕府将軍は足利義稙(よしたね)・足利義晴。

「舟田左近(ふなたさこん)」不詳。

「凡下(ぼんげ)」中世に於いて、侍身分に属さない一般庶民の称。「甲乙人」「雑人 (ぞうにん)」などとも呼んだ。

「山城の淀」京都府京都市伏見区の南端に当たる淀地区(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。桂川・宇治川・木津川が合流して淀川となる部分で、水運の要衝であった。

「橋本」京都市八幡市橋本。三川の合流点の左岸の船泊りで、石清水八幡宮の門前町及び京阪を結ぶ大坂道の宿場町として栄えた地でもある。

「田をからせむ」使役になっているのは稲刈りを雇いの百姓に刈らせるのを監督するためである。

「ゆくゆく」副詞で「行く道すがらに」の意。

「にぎにぎしう」「賑ぎ賑ぎしく」。

「かけづくり」「懸造」。水辺(川岸・池沼・湖・海岸・人口の庭の池など)の岸や崖などの高低差が有意にある土地に、長柱や貫(ぬき:柱等の垂直材間に通して支える水平材)で床下を固定し、その上に建物を建てる建築様式。「崖造」「舞台造」などとも呼ぶ。ここは挿絵では、川から水を引き込んで作った庭の泉池の上に張り出してあるように見える。立地場所から見て、相当に管理をちゃんとしないと、水害に襲われると話柄に関係ないことを危ぶむのは、僕の悪い癖。

「下葉うつろふ萩が露」「古今和歌集」の巻第四の「秋歌 上」の詠み人知らず(後書に一説に柿本人麻呂とする)の一首(二一一番)に、

 夜(よ)を寒み衣(ころも)かりがねなくなべに

    萩の下葉(したば)もうつりひにけり

とあるのに基づくか。「夜(よ)を寒み衣」までが「衣を借りる」と同音異義となって「かりがね」の序詞となっている。

「枝もと、をゝに、おもげなり」「をゝに」は「ををる」という動詞を形容動詞化したもので、元は「撓(をを)る」で、「枝や葉が撓(たわ)む」の意であるが、多くの場合、「花が枝もたわわに咲いているさま」を表わすのに用いる。万葉以来の古語である。「後撰和歌集」の巻第六の「秋 中」の詠み人知らずの一首(三〇四番)に、

 秋萩の枝もとをゝになり行くは

    白露重く置けばなりけり

があるが、これはしかし、萩の枝が花が咲く前から伸びてたるんで撓(しな)るようになる生態を、花の重さではなく、白露の重さのせいであったのだった、と風雅に意味づけしたものであり、而して、この一首は「万葉集」の巻十の大伴宿禰像見(おおとものすくねかたみ)の一首(一五九五番)、

 秋萩の枝もとををに置く露の消(け)なば消(け)ぬとも色に出(い)でめやも

のインスパイアともとれる。こちらの歌は明らかに恋歌で、露のように儚く消えてしまっても、この想いを人に知られたりはすまい、その恋心を顔色に表わしたり、そんな素振りを見せたりはするまい、という意味で、それを元歌とするならば、本編の伏線となっている。

「秋をかなしむ蟲のこゑ、をばながもとに、よはりゆき」「新後拾遺和歌集」の巻第五の「秋歌下」の津守国冬の一首、

   嘉元の百首の歌奉りけるに

 浪を越す尾花がもとによわるなり

    夜寒の末の松蟲のこゑ

に基づく。

「籬(まがき)の菊は咲き匂ひ、袖のかほりを誰(たれ)ぞとも」「新千載和歌集」の伏見院の一首、

 咲き匂ふ菊の籬(まがき)の夕風に

    花の宿かす袖の白露

に基づく。「袖のかほりを誰(たれ)ぞとも」は未だ現れない娘の伏線を感じさせる。

「あだにゆかしき心地」儚くもなんとなく心惹かれる心地。

「淀の川波、浮きし沈む、鷗の聲は、をちこちに」「新日本古典文学大系」版脚注では、筆者浅井了意の地誌「出来斎京土産」の七に載る、

 雲雀あがるみづ野うへ野を詠(なが)めれば

    霞流るゝ淀の河波

を参考歌として挙げる。

「あそぶ心ぞ、しらまほし」「浮きたってくるこの風流の思いを、しっかりと味わってみたいものだ」の意か。

「楊枝(やうじ)が島」「新日本古典文学大系」版脚注に、『改修前の宇治川が淀川に合流する淀小橋近くにあった小島。千鳥の名所』とある。橋本の北で見える位置となると、「今昔マップ」のここの砂州が切れた細長い楊枝のようなそれ(現在の淀川河川公園内)らしく思われる。

「渚(なぎさ)の院」「伊勢物語」の第八十二段、通称「渚の院」の舞台となるそれだが、大阪府枚方市渚に比定されており、位置的には橋本より四キロメートル以上も下流であるので、不審だが、ここは道行文(次注参照)の調子で、旧跡の名勝跡を読み込むことのみが念頭におかれているのであろう。

「こゝなれや」「新日本古典文学大系」版脚注に、『道行文によく使われる言い回し』とある。

「水野」現在の京都市伏見区淀美豆町(よどみづちょう)。

「山崎」橋本の淀川対岸に当たる大阪府三島郡島本町(しまもとちょう)、及び、その北に接する京都府乙訓郡大山崎町(おおやまざいちょう)の広域地名。

「うど野」大阪府高槻市鵜殿。淀川左岸で先の渚の対岸の少し上流。

「三嶋江」高槻市三島江。橋本からは十キロメートル以上下流の淀川左岸。

「松江(ずんがう)の鱸魚(ろぎよ)」蘇軾の「後赤壁賦」の一節に、

客曰、「今者薄暮、舉網得魚、巨口細鱗、狀似松江之鱸。顧安所得酒乎。」。

(客、曰はく、「今は薄暮、網を舉げて、魚を得たり。巨口・細鱗、狀(かたち)、松江の鱸(すずき)に似たり。顧ふに、安(いづ)くの所にか、酒を得ん。」と。)

とある通り、松江(ずんごう)、則ち、江蘇省の呉淞江(ごしょうこう:江蘇省南東部から上海西部を流れる黄浦江の支流。全長百二十五キロメートル。太湖の瓜涇口(かけいこう)に発し、呉江県北部を東に流れ、上海に入り、蘇州河とよばれ、外白渡(がいはくと)橋に至り黄浦江に注ぐ。太湖流域の主排水路であり、同時に内陸水路として太湖東岸と上海とを結び、長江三角州の東西幹線交通路の一つ)は古来より、高級食材の一種に挙げられている「松江鱸魚」(スンジャンルユイ:或いは「四鰓鱸」とも呼ばれる)の獲れる川として知られていた(現在の呉淞江では水質汚染によって激減しており、「幻しの魚」となっている)。確かに本邦の「鱸」、

スズキ目スズキ亜目スズキ科スズキ属スズキ Lateolabrax japonicus

も想像を絶する内陸の上流域まで遡上は出来る。詳しくは私の「大和本草卷之十三 魚之下 鱸魚(スズキ)」を見られたいが、実はスズキは本邦以外には朝鮮半島東部及び南部と沿海州にしか分布しない。則ち、呉淞江にいる「松江鱸魚」は本種スズキではあり得ないのである。では「松江鱸魚」は何かというと、スズキとは似ても似つかぬ、異形と言ってもいい、

スズキ目カジカ科ヤマノカミ属ヤマノカミ Trachidermus fasciatus

なのである。同種は「降河回遊」の生活史を持つ中型のカジカ類の一種であり、東アジア沿岸に広く分布するものの、本邦では有明海奥部と筑後川を始めとする、その流入河川に限られている(本邦では汚染により激減して絶滅危惧IB (EN)に指定されている)。されば、「後赤壁賦」(湖北省黄岡市黄州区にある赤壁は長江を河口から遡ること、実に九百キロメートル弱も上流の左岸に位置する)の「巨口・細鱗、狀(かたち)、松江の鱸(すずき)に似たり」というのも、そのヤマノカミか、或いはその近縁種の淡水カジカではないかと思われる。しっかりした漢詩紹介のサイトなどでも、無批判に鱸(スズキ)と訳して、何の注も附さないものが多いので、一言、言っておく。

「玄惠(げんゑ)法印」玄慧(?~正平五/観応元(一三五〇)年)は「玄惠」とも書き、「げんね」とも読む、鎌倉末期から南北朝時代にかけて活躍した天台宗の僧侶で儒者。「元亨釈書」を著した禅僧虎関師錬の弟とする説もあるが、不詳。延暦寺で修学し、法印権大僧都にまで昇った。禅にも深い関心を寄せ、また、程朱学にも詳しく、後醍醐天皇の侍読となって、天皇や側近の公卿たちに古典を講じた。その講義の席が後醍醐天皇を中心とする鎌倉幕府転覆計画の場であったという話があるが、これは「太平記」によって流布したものである。「建武の新政」の瓦解後には、足利氏に用いられて「建武式目」の起草に関与したとも伝えるが、これも不詳である。「源平盛衰記」の編者の一人ともされ、彼は等持院で足利直義の前で「太平記」を朗読したともされる。「太平記」の第二十七巻には「玄慧法師末期事」が記されてあるのだが、一説には「太平記」の四十巻本の内、巻初の第一巻から第十巻までは玄慧の作であり、第十一巻と第十二巻も玄慧が関わったのではないかという説もあるが、これもまた、不詳である。

「庭(には)の訓(をしへ)」寺子屋で習字や読本として使用された「庭訓往來(ていきんわうらい)」の作者が玄慧という説がよく言われるものの、これも確証に乏しい。擬漢文体で書かれ、衣食住・職業・領国経営・建築・司法・職分・仏教・武具・教養・療養など、多岐にわたる一般常識を内容とする実用書であるが、内容は一年十二ヶ月の往信・返信各十二通と八月十三日の一通を加えた二十五通から構成されており、多くの単語と文例が学べるように工夫されている。「手本系」・「読本系」・「注釈本系」・「絵入り本系」の多種が多く存在し(古写本で三十種、板本で二百種に達する)、時代を超えて普遍的な社会常識も多く扱ってあるため、江戸時代に入っても寺子屋などでの教科書としてよく用いられた。「庭訓」とは、「論語」の「季子篇」の中にある、孔子が庭を走る息子を呼び止めて詩や礼を学ぶよう諭したという故事に因んだもので、父から子への教訓や家庭教育を意味している(以上は当該ウィキに拠った)。

「淀鯉(よどごい)」読みはママ。国立国会図書館デジタルコレクションの榎本直衛編「繪入 庭訓徃来」(明治一四(一八八一)年刊)の四月復状の諸国名産の列挙部分のここ(左ページ四行目)に「淀鯉(よどのこひ)」とある。また、後代のものだが、寛政九(一七九七)年刊の平瀬徹斎著になる諸国物産書の「日本山海名物図会」の巻五の「淀鯉」(早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原本の当該部画像。それを視認して以下に起こした。読みは一部に留め、一部に濁点・記号を打った。標題は底本では囲み文字であるが、太字に代えた。■は判読出来なかった字)に、

   *

淀鯉

鯉は河魚(かはうを)の㐧一上品。「神農本草」に「鯉を魚の王とす」といへり。山城國淀の產を名物とす。中にも淀城の水車(みづくるま)のあたりに住(すむ)鯉、一(ひと)しほ、賞翫する也。しかれども、水車の邊(ほとり)にて網打(あみうつ)ことは、淀の御城より御制■(せいたう)あれば、猟師、みだりに魚を取(とる)こと、叶はず。鯉の大小は「一年物」・「二年物」・「三ねんもの」とて、年にとりて、高下(かうげ)を、わかつ。年久しくへたるほど、魚は、おほきし。

   *

とある。なお、淀城はここにあった。

「鱠(なます)」切り分けた魚肉に調味料を合わせて生食する料理を広く指す。全くの刺身の他、本邦では後代には酢漬けにしたものが専ら言われるようになった。

「吳中(ごちゆう)の蓴菜(じゆんさい)」「蓴羹鱸膾」(じゅんこうろかい)の頭の部分を指す。「晉書」の「文苑傳」の「張翰」に「翰、因見秋風起、乃思吳中菰菜、蓴羹、鱸魚膾、曰、人生貴得適志、何能羈宦數千里以要名爵乎。遂命駕而歸。」(翰、秋風の起こるを見るに因りて、乃(すなは)ち、吳中の「菰(まこも)の菜(さい)」・「蓴(じゆんさい)の羹(あつもの)」・「鱸魚(ろぎよ)の膾(なます)」を思ひ、曰はく、『人生は、志しの適(かな)ひて得るを貴(たふと)ぶ。何ぞ能く宦(くわん)に羈(つな)がる數千里を以つて、名爵(みやうしやく)を要せんや。』と。遂に駕を命じて歸る。)とあるのに基づく(「宦」は「官」に同じ)。ウィキの「張翰(晋)」が上手く前後を含めて解説に代えてあるので、参考にすると、晋(二六五年~四二〇年))の文人張翰(生没年不詳)は呉の大鴻臚の張儼の子として生まれた。文章を得意とし、任官に拘らなかったため、当時の人に「江東の歩兵」(歩兵校尉だった竹林の七賢の一人で代表的詩人阮籍のこと)と称された。洛陽に行った際、斉王司馬冏(けい)に認められて大司馬東曹掾となったが、秋風が立つのを見て、故郷呉郡呉県の真菰(単子葉類植物綱イネ目イネ科エールハルタ亜科 Ehrhartoideae Oryzeae族マコモ属マコモ Zizania latifolia 。水辺に群生し、成長すると大型になり、人の背丈程まで高くなる。その新芽に黒穂菌(くろぼきん)の一種である Ustilago esculentaが寄生して肥大したものを「真菰筍(まこもだけ)」と呼んで食用にする。古くは「万葉集」にも登場し、中国や東南アジア諸国でも食用・薬用とされる。私も一度、食したことがあるが、とても美味しい)料理・蓴菜(私の好きな淡水水草であるスイレン目ハゴロモモ科ジュンサイ属ジュンサイ Brasenia schreberi 。天然の菱の実や蓴菜を採ったことがある私は私の世代(昭和三十二年生まれである)では珍しいであろう。本邦では以前は「めなは」「ぬなは」などもと呼んだ)の吸い物・鱸魚の膾(先に見た通り、ヤマノカミ Trachidermus fasciatus のそれ)を思い出し、「人生は心に満足を得られるのが大切なのだ。どうして数千里の異郷で官につながれて、名利や爵位を求められようか!」と言い放ち、故郷への思いを述べた「首丘の賦」(惜しくも本文は現存しない)を書くと、官を捨てて故郷に帰った。まもなく司馬冏が敗れたことから、人々は皆、張翰が時機をよく見ていたと讃えたという。

「貫之(つらゆき)が詠〔なが〕めにつみたる」「新日本古典文学大系」版脚注に、『貫之集他に見出せないが「沢の根芹」は、恋の歌に用いられる』とある。「根芹」セリ目セリ科セリ属セリ Oenanthe javanica のこと。同種は別名を「シロネグサ」(白根草)。今は多くの人が緑の葉ばかりを食するものと思い込んでいるが、若い白い茎や根に独特の香りがあって美味いのである。私は昔、今は消えてしまった裏山の農業用水池の湿地で、よく、亡き母と、初春、二人で摘んだ……バスケットいっぱいに……あの時だけが、私は真に幸せだった気がする……

「水野」不詳。「新日本古典文学大系」版脚注は、「本草綱目啓蒙」の第二十二巻の「水斳」(「セリ」のこと)の最後の箇所を引いて(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの原本の当該画像。左頁四行目から)、根芹は『城州宇の産、根、最(もつとも)長』く、名の通り、『莖・葉を去(さり)て根を賞す』とあるから、この「水野」は地名ではなく、一般名詞であって「水」気の多い「野」、湿地のことを言っているのかも知れない。

「心ありげに」如何にも彼を気に入ったと見えて(或いはある種の目論見を持ってか)非常に手厚く。娘の存在を事前に匂わせる仕掛けという感じがするが、ややこれ見よがしで、私は好まぬ形容である。

「哥雙紙(うたさうし)」例えば「源氏物語」や七代集などから和歌を抜き出した歌の本。或いは和歌についての初心者向けの歌学書。

「手はすぐれねども」手跡は決して上手くはなかったけれども。

「物かく事、流るゝが如し」文章を書くことにかけては、まさに「流麗」と評するに足る力を持っていた。

「なまめきたり」意識してではなく、自然と艶っぽい表情となった。

「知らず、わが魂(たましゐ)も、女のたもとに入〔いり〕ぬらん」倒置法によって強調してあり、ここが本篇の展開点となっていることが判る。実際には「たがひに心を通はせて」とあって、この瞬間、魂が相互に憬(あくが)れ出でて、交感してしまったのである。

「しらぬ淚ぞ、おちにける」「人知れず、涙を落した」、誰にも語れぬ、しかも、相手にも自身のこの切ない思いを伝えられぬ、という多重な動機に基づく落涙である。

「つくり庭」所謂、坪庭に人工的に作った、自然をコンパクトに模したパロラマ風の小庭(と言っても次の池の叙述からは、かなり大きい)。

「洲濱(すはま)の池」その「つくり庭」に、これまた、人工的に作った池。それは河川・湖・海の洲や浜や岸に想像の中で読み換えられる。

「忍草(しのぶ〔ぐさ〕)」特定の植物を指していない。本来は「偲(しの)ふ種(くさ)」で、ある過去の時間を懐かしむ種(たね)の意。思い出すための縁(よすが)で、後に「忍ぶ草」と混用して盛んに歌や文に読み込まれた。

「たきしめらかしたる香のにほひ、心もつれて、こがるらむ」敢えて他動詞「薰(た)きしめる」にさらに他動詞を作る接尾語「かす」を添えて「如何にも~そのようにさせる」という強調形にすることで、単なる事実のそれを、燃えて燻(くすぶ)り立つ「縺(もつ)れ」るように燃え上がる「心」が恋「焦(こが)」れるのであろう、と畳みかけた表現となっている。

「東琴(あづまごと)」和琴(わごん)の別名。中国から渡来した琴(きん:長さ約一・二メートル。弦は七本。琴柱(ことじ)は用いずに左手で弦を押さえて右手で弾く。上代に日本に渡来したとされるが、現在は絶えた)・箏(そう:長さ一・八メートル前後の中空の胴の上に絹製の弦を十三本張って柱(じ)で音階を調節し、右手の指に嵌めた爪で演奏する。奈良時代に中国から伝来した。雅楽用の楽箏(がくそう)の他に箏曲用の筑紫箏(つくしごと)や俗箏(ぞくそう)等が生き残っている)の唐琴(からごと)に対して、日本式の琴(こと)をいう。古代に早くに生まれた。六弦で、右手に琴軋(ことさき)を持って弦を搔き鳴らし、また、時として左手指で弦を弾いて鳴らす。神楽や雅楽などを奏する時に用いた。弦を束ねる尾部が猛禽の鵄(とび)の尾に似ているので、別名を「鵄尾琴(しびごと)」とも呼ぶ。後には七弦・八弦のものも生まれた。倭琴(やまとごと)とも言う。言っておくと、私の妻は五歳から琴を習い、日本初の「邦楽研究所」第一期生であった(高校教師をしながらであったため、練習が足りず、演奏に満足出来なかったために、仲間に迷惑をかけるからと、私が止めるのも聴かずに卒業演奏直前に自ら退学してしまった)。

「互ひに契りをかはしまの」「新日本古典文学大系」版脚注に、『「契りを交はす」に「川島」を掛ける。川島は』一般名詞の『川中島のことで、二分された流れが』、『やがて合流するごとく、離れ離れになった二人が末に再会する喩えに使われる。「この河島の行末は逢ふ瀬の道になりにけり」(謡曲・加茂物狂)』とある。「加茂物狂(かもものぐるひ)」は四番目物。宝生・金剛・喜多流。作者不詳。三年振りに東国から都に戻った男が、賀茂明神の社前で物思いに沈んだ妻と再会する筋立て。

「末は逢瀨(あふせ)をならしばや」「新日本古典文学大系」版脚注に、『「逢ふ瀬を為す」に「楢柴』(ならしば)『を掛ける。楢柴はナラ』(ブナ目ブナ科コナラ属 Quercus の落葉性の広葉樹の総称。本邦の自生種は以下の六種。クヌギ Quercus actissima ・ナラガシワ Quercus aliena ・ミズナラ Quercus crispula ・カシワ Quercus dentata ・コナラ Quercus serrata ・アベマキ Quercus variabilis )『の枝を集めた薪』(たきぎ)『ともコナラの別称とも言う。ここでは』次の文の頭の『「しばし」と言うための序詞』に過ぎないとある。

「關守こそつらからめ」二人の逢瀬を妨げんとする者は、さぞ、情け容赦もないであろうけれど、そんなことは何のことなく無意味だ、という逆接の反語である。

「八聲(〔や〕こゑ)の鳥」朝を告げる鷄(にわとり)のこと。

「けうとげに」「気疎氣に」。如何にも面白くない、「聴きたくもない!」という感じで。

「『明がた』と打ちしきれば」「明け方だよ!」と嫌らしく続けざまに繰り返し鳴くので。

「想夫戀(さうふれん)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『「想夫恋」と書いて、「夫をもふてふとよむ想夫恋といふ楽」(平家物語六・小督)の意とするが』(誰が?)、『もとは「相府恋蓮」(徒然草二一四段)、また「想夫憐」(白氏文集六十七)という唐楽の曲名。「想夫恋 さうふれん」(大全)』と注する。「徒然草」のそれは(前半のみ引く)、

   *

 想夫戀といふ樂(がく)は、女、男を戀ふる故の名にはあらず。本(もと)は「相府蓮(さうふれん)」、文字の通へるなり。晉の王儉(わうけん)、大臣として家に蓮(はちす)を植ゑて愛せし時の樂なり。これより、「大臣」を「蓮府(れんぷ)」といふ。

   *

「たえ」ママ。「妙(たへ)」。

「いとゞ情(なさけ)ぞ色まさりける」ひどく彼女への情が激しく燃え上がったことだった。

「燈花(ちやうじがしら)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『行灯(あんどん)の灯心の先端にできることのある黒いかたまり。これを吉兆とした』とある。

「白かねの」銀製の。

「侘びてすむ、それがしの跡」謙遜もいい加減にしてほしいね!

「領掌(れうじやう)」相手の申し出や事情などを納得して承知すること。

『「わりなきなからひ」とぞ聞えし』「超自然の神仏の御縁によって決し断ち切れることのあに永劫の契りの仲じゃて!」と大いに評判となったということじゃった。]

2021/04/26

大和本草附錄巻之二 魚類 穴きすご (トラギス或いはシロギスの大型個体)

 

穴キスゴ 既ニ本編ニ記セリ常ノキスゴヨリ甚大ナリ

凡キスゴ漢名未詳以膾殘魚キスゴトスベカラス

○やぶちゃんの書き下し文

穴きすご 既に本編に記せり。常の「きすご」より、甚〔だ〕大なり。凡そ、「きすご」、漢名、未だ詳らかならず。「膾殘魚」を以つて「きすご」とすべからず。

[やぶちゃん注:益軒の言っているのは、「大和本草卷之十三 魚之下 きすご (シロギス・アオギス・クラカケトラギス・トラギス)」のこと。詳しくは、そちらの本文と私の注を見られたいが、そこで私は最終的にそこに出る「穴きすご」をスズキ目ワニギス亜目トラギス科トラギス属トラギス Parapercis pulchella に比定した。しかし、ここでは『常の「きすご」より、甚〔だ〕大なり』とのみ言っているだけで、リンク先のようには、体色が赤いことを言っていないのである。そうなると、ちょっと問題が違ってくる。益軒が『常の「きすご」』と言った場合、それはスズキ目キス科キス属シロギス Sillago japonica 或いは アオギス Sillago parvisquamis ということになる。そのデカい奴はトラギスではない。想像するにシロギスの大型個体である。さて、「アナキスゴ」で検索を掛けてみた。すると、グーグルブックスで小田淳著「『何羨録』を読む―日本最古の釣り専門書」(一九九九年つり人社刊)の「釣り方のこと」の173ページが掛かってきた。そこにキス(これは釣り人の本であるから基本、正統のシロギスをまず比定してよい。ただ、後文ではアオギス或いはトラギスの名も出るには出る)『三歳以上は腹は黄色で赤みがあり、背は黒く目立ち大きいものは鱗が荒く、大サイ(ニゴイ)』(コイ目コイ科カマツカ亜科ニゴイ属ニゴイ Hemibarbus barbus )『などのようである』とあって、「大和本草」の「アナキスゴ」とは『これがそうであろう』と述べた上で、『ある人、十一月末の暖かい日に三枚洲(中川「荒川」の南の沖辺り)辺りへカレイ突きに行って、引き潮に舟を流していって、浅場の深さ七、八寸あるところを見ると、大小のキスが数多くいた。川のキスは沖へ出ずに、穴を掘って附して暖かい日にはでるのだろうという』。『根釣りの人がいうのには、柾木(鈴ヶ森の沖辺り)で水が澄んでいる時、水底を見ると、ことごとく穴があり、その穴からキス、ハゼなどが頭を出し』ていたとある。これで「穴」の意が判った。されば、二種を比定しておくこととした。

『凡そ、「きすご」、漢名、未だ詳らかならず』シロギスは中国東部の海辺にも分布しているから、漢籍に載らないというのはおかしい。当該種の中文ウィキを見ると、「青沙鮻」「沙腸仔」の別名を見るが、古い本草書では今のところ見当たらない。発見したら、追記する。なお、中国でも「キス科キス属」を「鱚科鱚属」とするが、この「鱚」は日本からの逆輸入の和製漢字であるから、これで漢籍を調べるのは徒労である。

『「膾殘魚」を以つて「きすご」とすべからず』益軒先生の指摘は正解。では、「膾殘魚」とは何か? それはまた、迂遠な説明が必要なのだ。私の「大和本草卷之十三 魚之上 鱠殘魚(しろうを) (シラウオ)」の「鱠殘魚(しろうを)」の私の注を参照されたい。]

大和本草附錄巻之二 魚類 (魚類の食に於ける属性論)

 

生魚ハ食シテ不泥滯消化シヤスシ煮モ炙ルモ皆ヨシ

鹽淹乾燥日久或爲鮓者皆消化シ難シテ滯ル譬

ヘバ生地黃ハ大寒トイヘ𪜈宜通シテ不泥熟地黃ハ

卻テ泥滯スルガ如シ葢生物ハ陽氣猶殘リテ化シヤ

スク熟物ハ既ニ生氣ヲ失テ化シガタシ生物ヲ畏レ

テ拘ハリ泥ムベカラズ然レ𪜈毎物生ヲ好ミ熟ヲ忌ニハ

非ズ食物ノ性ヲ辨ズルニ此理ヲ知ベシ

○やぶちゃんの書き下し文

生魚〔なまうを〕は食して泥滯〔(でいたい)〕せず、消化しやすし。煮(に)るも、炙(あぶ)るも、皆、よし。鹽淹〔(しほづけ)〕・乾燥、日、久しく、或〔いは〕鮓〔(すし)〕と爲す者は、皆、消化し難くして、滯〔(とどこほ)〕る。譬(たと)へば、生地黃〔(しやうぢわう)〕は大寒といへども、宜〔(よろ)しく〕通じて、泥〔(なづ)〕まざれども、熟地黃〔(じゆくぢわう)〕は卻〔(かへつ)〕て泥滯〔(でいたい)〕するがごとし。葢〔(けだ)し〕、生物〔(なまもの)〕は陽氣、猶ほ、殘りて、化〔(くわ)〕しやすく、熟物〔(じゆくもつ)〕は既に生氣を失つて、化しがたし。生物〔(なまもの)〕を畏れて、拘〔(こだ)〕はり、泥〔(なづ)〕むべからず。然れども、毎物〔(まいぶつ)〕、生を好み、熟を忌〔(い)む〕には非ず。食物〔(しよくもつ)〕の性〔(しやう)〕を辨ずるに、此の理〔(ことわり)〕を知るべし。

[やぶちゃん注:「泥滯〔(でいたい)〕」腹中にあって滞留して消化が上手く進まないこと。

「鹽淹〔(しほづけ)〕」塩漬け。

「乾燥」干物。

「日、久しく」上の二種を受けて、「塩蔵及び乾燥させて有意な長い日数を経た」は、「鮓〔(すし)〕と爲す」と並列であって、ともに「者は」に掛かる。

「生地黃〔(しやうぢわう)〕」キク亜綱ゴマノハグサ目ゴマノハグサ科アカヤジオウ(赤矢地黄)属アカヤジオウ Rehmannia glutinosa の根を陰干しした生薬。

「大寒」漢方で体を冷やす作用が最も強いことを指す。

「泥〔(なづ)〕まざれども」「泥滯」に同じで体内で滞留してしまい、排出されずに、却って悪い証を呈したりすることを指す。

「熟地黃〔(じゆくぢわう)〕」生地黄を酒と一緒に蒸して作った生薬。但し、酒が含まれるため、性は寒が殺がれて温に近くなる。

「卻〔(かへつ)〕て」「却つて」に同じ。

「毎物〔(まいぶつ)〕」どんな摂餌対象であっても。]

大和本草附錄巻之二 魚類 油ばゑ (アブラハヤ・タカハヤ)

 

油ハヱ 形ハハエヨリマルク小鱸ニ似タリ長二三寸ウロ

コニヌメリアリ油イロナリ味ヨシ油多ク常ノハエニ異

リ山川ニアリ又黑㸃處々ニアル者有之是吹鯋ナ

ルベシ

○やぶちゃんの書き下し文

油はゑ 形は、「はえ」より、まるく、小〔さき〕鱸〔(すずき)〕に似たり。長さ二、三寸。うろこに、ぬめり、あり。「油いろ」なり。味、よし。油、多く、常の「はえ」に異なり、山川〔(さんせん)〕にあり。又、黑㸃、處々にある者、之れ有り、是れ、吹鯋〔(すなふき)〕なるべし。

[やぶちゃん注:純然たる淡水魚で、下線の中・上流域に棲息するウグイ亜科アブラハヤ(油鮠)属アムールミノー亜種アブラハヤ Rhynchocypris logowskii steindachneri となるが、実は私は「大和本草卷之十三 魚之上 モロコ (アブラハヤ)」で既に「もろこ」を本種に比定してしまっている。体表のぬめりが強く、油を塗ったようにぬるぬるするというのが「油」の由来らしい。また、益軒も言っている通り、見た目の背部の色が鬱金色で油っぽい色にも見える。ここでは序でに、同種との識別が難しいチャイニーズミノー亜種タカハヤ(高鮠) Rhynchocypris oxycephalus jouyi も挙げておくこととする。両者の識別は「大阪府立環境農林水産総合研究所」こちらが詳しいが、それでも、『これらの』識別『特徴は個体差が大きく、産地によっても異なるため』、『完全な区別点とはいえない』とある。なお、タカハヤも「大和本草卷之十三 魚之上 ※(「※」=「魚」+「夏」)(ハエ) (ハヤ)」の本邦の代表的な「はや」(本邦に「ハヤ」という和名種はいない)六種の中には既に挙げてある。

『形は、「はえ」より、まるく』この場合、益軒はコイ科Oxygastrinae 亜科ハス属オイカワ Opsariichthys platypus・Oxygastrinae 亜科カワムツ属ヌマムツ Nipponocypris sieboldii・Oxygastrinae 亜科カワムツ属カワムツ Nipponocypris temminckii を「ハエ」と認識している可能性が高い。これら三種は口吻部がアブラハヤやタカハヤよりも相対的に尖って見えるからである。

「小〔さき〕鱸〔(すずき)〕に似たり」いや、似てないと思いますよ! 益軒先生! スズキ(スズキ目スズキ亜目スズキ科スズキ属スズキ Lateolabrax japonicus )の幼魚でも、成魚と同じで口が大きくて下顎が上顎より前に出てますぜ?

「黑㸃、處々にある者、之れ有り、是れ、吹鯋〔(すなふき)〕なるべし」「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のタカハヤのページを見ると、全身に細かな斑模様が見えるのは、タカハヤの特徴とするが、同じサイトのアブラハヤのページの画像を見ると、「う~ん」と唸りたくなる。しかし、ともかくも「吹鯋〔(すなふき)〕」=「大和本草附錄巻之二 魚類 吹鯋 (「ゴリ」類或いはカジカ・ウツセミカジカ等)」というのは勘弁してほしいです! 益軒先生! ただ、先に示したは「大阪府立環境農林水産総合研究所」の「アブラハヤの吻」のキャプションに『河床を掘り起こすためノミ状となる』とある写真を見ると、「砂」をぶいぶい「吹き」そうな感じには見えはする。]

芥川龍之介書簡抄51 / 大正四(一九一五)年書簡より(十七) 山本喜誉司宛

 

大正四(一九一五)年十一月二十一日・牛込區赤城元町竹内樣方 山本喜譽司樣 直披・十一月廿一日夜 芥川龍之介

 

 喜譽司樣

 上瀧の妹をもらへない譯――⑴僕に愛のない事 興味さへない事 ある同情だけしかない事 ⑵僕のうちで必反對する事 ある點で上瀧をこの頃 僕のうちで好かない事 ⑶その後 どんどん上瀧の方の緣談が進行してゐる事 ⑷貰ふ事からの幸福の豫感が少い事

 僕の手紙をかいた譯――⑴僕のハイラアテンに關するいろいろな事は君に知つて貰ふ必要があると思つた事 云ひかへれば ハイラアテンの問題に關して何にも(今後も)君にかくさないつもりでゐた事 ⑵僕にその時の心理をかく事を强いる半藝術的要求があつた事 ⑶殆 無意志的に 僕の愛を文ちやんに向けるものを要求(特に君からと云ふ譯でなくとも)してゐた事 そして之は その話のあとの寂しさから 生まれた要求だと云ふ事

 ⑴⑵⑶は原因の大さに比例する番号

追伸一 この事は一切誰にも(おばあさんや姊さんは勿論)云はない事 云ふと間違が起りやすいから さうして存外大きな不幸が生れ得る事だから

                   龍

追伸二 僕に全然 この前の手紙で implicit に何か云はうとしてゐる氣のない事 さう云ふ事を明に出來なかつたのは 僕の失策だと思つて後悔してゐる事 しかし もし その上にも 僕が何か implicit に云はうと思つてゐると考へる人があつたら その人は僕を侮辱する人だと信ずる事

追伸三 僕の手紙をかいた譯の⑵と⑶とは入れかはつた方がよささうだと思ふ事 もらへない理由の⑴と⑷とはいつか詳しく話したいと思ふ事

追伸四 とにかく 全然 この話は 單なる一事件として 僕に起つた事 さうして それは 僕の生活の進路をかへる 何の力も持つてゐなかつた事

追伸五 この手紙の返事をなる可く早く貰ひたい事(返事と云ふ程の事はなくとも)(來ればなほいゝ 火曜の午後の外は大抵ゐるつもり)それからくれぐも 追伸一に氣をつけてくれる事

                   龍

 

[やぶちゃん注:底本は岩波旧全集に戻る。「龍」の署名は実際には前の行の下方にある。

「上瀧」複数回既出既注。

「ハイラアテン」Heiraten。ドイツ語。「ハイラーテン」。「結婚」。

「implicit」英語。「暗に示された・暗黙の」。]

芥川龍之介書簡抄50 / 大正四(一九一五)年書簡より(十六) 谷森饒男宛

 

大正四(一九一五)年十月六日・田端発信・牛込區辨天町 谷森饒男宛(葉書)

 

 1 平安朝にて無位無官の人間が佩きたる太刀はどんなものに候や。矢張後鞘などかけたるもに候や。柄は葛卷か鮫か又は柄糸にてまきしものに候や。

 2 無位無官の人間のかぶりものはどんな物に候や。普通の折鳥帽子に候や。

 3 同上の人間のはき物はどんなのか。普通に候や。藺の履などは少し上等すぎまじくや。

 右三件、國史大辭典にては埒あかず候間御尋ね申上候。何とぞ御敎示下され度願上候。匁々。

   五日

         田端四三五 芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:本書簡は岩波版旧全集には所収しない。岩波新全集で初めて公にされたものらしく、岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)に載る(私は新全集の書簡部を所持しない)。ここでは恣意的に漢字を正字化して示した。私がこれを採ったのは、前にも述べたが、現在、かの「羅生門」(大正四年十一月一日発行『帝国文学』初出)の脱稿が、この書簡を出した前の九月と推定されているからである。底本の石割氏の「佩きたる太刀」への注に、『これら谷森への問いは、「羅生門」発表直前に平安時代の風俗を確認しようとしたのか、新たな作品の構想に必要であったのかは不明。因みに「羅生門」では「聖柄の太刀が鞘走るらないやうに」とある』とあり、「折鳥帽子」の注にも、『「羅生門」では「揉烏帽子が」とある』とされるのである。私にはこれが「羅生門」と無関係とは、到底、思えないのである。実際の「羅生門」の決定稿の脱稿はこの書簡の直後だったのではあるまいか?

「谷森饒男」既出既注であるが、再掲する。谷森饒男(にぎお 明治(一八九一)年~大正九(一九二〇)年)は一高時代の同級生。一高への入学は芥川龍之介の入学の前年であるが、同期となった。非常な勉強家で卒業時の成績は官報によれば、井川・芥川に次いで三番で、東京帝大入学後は国史学を専攻し、大正五年七月に論文「検非違使を中心としたる平安時代の警察状態」を提出して東京帝国大学文科大学史学科を卒業、その後、東大史学会委員として編纂の任に当たり、優れた平安時代研究をもものしたが、惜しくも、結核のために満二十八で夭折した。芥川龍之介との交流を考証したものは、高重久美(くみ)氏の論文「歴史学者谷森饒男と芥川龍之介 ―第一高等学校時代の交友と文学―」(大阪市立大学国語国文学研究室文学史研究会『文学史研究』二〇一七年三月発行。PDFでこちらで読める)が恐らく唯一である。

「後鞘」不詳。読みも不詳。「あとざや」か。所謂、太刀の鞘の先の部分の石突(いしづき)金物のことを指しているか。刀剣用語でもヒットしない。

「柄糸」「つかいと」。刀の柄に巻く組糸(平たい紐)のこと。

「藺の履」「ゐのくつ」。「藺履(ゐぐつ)」。藺草(いぐさ)で編んで紙の緒を付けた裏張のない草履。

「國史大辭典」底本の石割氏の注に、明治四一(一九〇八)年に『八代国治らの編集で吉川弘文館刊』で、大正二(一九一三)年には『増補改訂版が刊行された。日本最初の本格的な日本史辞典』とある。]

芥川龍之介書簡抄49 / 大正四(一九一五)年書簡より(十五) 井川恭宛夢記述

 

大正四(一九一五)年十月一日・田端発信・井川恭宛(転載)

 

井川君

黑い古ぼけた門をくゞると 凸凹した敷石が不景氣な玄關迄つゞいてゐる 間口は三間もあるだらう 柱が腐つて床板が土につく位根太[やぶちゃん注:「ねだ」。]の下つた玄關である その玄關に小學校の敎壇にあるやうな机と倚子を据ゑてかち栗のやうな窮屈な顏をした男が端然とひかえてゐる 患者はすべて この男の前へ出て恭しく 病狀をのべ立てなければならない 僕は一寸 區役所へ税をおさめに行つた時の事を思ひ出した

審問がすむと古曆や廣告で穴をふさいだ襖をあけてその男が「どうかあちらへ」と云つた そこでその「あちら」へ來た 來て見ると「あちら」と「こちら」とは非常な相違である 第一「あちら」では天井が高くつて疊が新しくつて根太が丈夫さうで その上 庭に大きな金網の小屋があつて小屋の中に小鳥が二三十匹飼つてあつて――かう觀察の步(?)をすゝめて來た時に突然「どうもいけませんねえ」と云ふ聲がした その聲は又舌のたりないやうな 鼻のつまつたやうな妙な聲である 君はこれが如何なる人間の口から發音されたと思ふ? 恐らく次の行をよむ迄は見當がつかないのに相違ない この聲の所有者は朱ぬりの鳥籠に飼はれた一羽のかけすである かけすはそれから「まあ御養生なさい」とつけ加へた かちぐりの書生よりは遙に氣が利いてゐる 僕は大きな机の前へ尻を据えてこのかけすの慰安の辭をきゝながら氣長に朝日の煙を鼻の穴から出してゐた すると又妙な男が出て來て前のかちぐりと少しもちがはない審問を開始した 唯この男は頗[やぶちゃん注:「すこぶる」。](?)慓悍な獰猛な顏をしてゐる 鬚髮逆指瞋目閃々とでも形容したら 或はこの男のむかつぱらを立つたやうな顏つきが幾分でも眼底に彷弗するかもしれない 一通り審問がすむと男は「ぢやあこちらへ」と云つて一段高い次の間へ僕をつれて行つた今度は「こちら」が甚堂々としてゐる 西洋風に白い漆喰をぬつた天井でアッカンサスの葉が輪になつたまん中から電[やぶちゃん注:ママ。「電球」「電燈」の脱字か。]が根のやうにさがつてゐる 廣さは三十疊もあるかもしれない 壁には陳其美の額と東鄕大將の額とが日支の國威を爭つてゐる 僕はこの部屋の寢臺の上にねかされた 寐ると云つても僕のの外に二つあつてその上にはどこかの奧さんと血色の惡い待合のおかみのやうな女とがねてゐるのである そこで僕は帶をといて腹を出しておとなしくあをむけにねた するとその男が僕の腹にうち粉をふつて それから 勿体らしい顏をして 按腹をやり始めた その時僕の寢臺のそばヘ來て立つた男がある 上衣をぬいでゐるからホワイトの胸が楯のやうに光つてゐる その上に緣の少し脂づいた折襟がある その襟の上には馬鹿のやうな泰平な顏がある その顏はうすい髭をはやしてゐる 僕はねながらその顏をみてゐた するとその顏が微笑した さうしてうすい髭が動いた その男はかう云ふのである「醫者はきゝません胃病と云へば曹達[やぶちゃん注:「ソーダ」。]ばかりのませます」僕はその時これが高野太吉氏だなと思つた「どうもいけませんねえ まあ御養生なさい」かけすが又かう云ふ 僕はいゝ心もちになつて眼をつぶつた

    一九一五年十月一日夜

 

[やぶちゃん注:「三間」五・四五メートル。

「かけす」本邦の本州産はスズメ目カラス科カケス属カケス亜種カケス Garrulus glandarius japonicus。漢字表記は「橿鳥」(かしどり)「懸巣」「鵥」がある。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 橿鳥(カケス)」を参照されたい。

「かちぐりの書生」おせちの「搗ち栗・勝ち栗」で、古武士のように高慢な感じの書生の謂いか。

「鬚髮逆指瞋目閃々」「鬚髮(しゅはつ)逆指(げきし)し 目を瞋(いか)らこと 閃々(せんせん)」か。「鬚(ひげ)も髪も、空を指して逆立ち、ぎらぎらと目を怒らしている」と謂った形容であろう。

「アッカンサス」シソ目キツネノマゴ科ハアザミ連ハアザミ属 Acanthus 。アザミ(キク目キク科アザミ亜科アザミ連アザミ属 Cirsium )に似た形の葉は、代ギリシア以来、建築物や内装などの装飾のモチーフとされる。特にギリシア建築のオーダー(円柱)の一種であるコリント式オーダーは、アカンサスを意匠化した柱頭を特色としており、ギリシアの国花でもある。大型の常緑多年草で、地中海沿岸(北西アフリカ・ポルトガルからクロアチア)の原産。葉には深い切れ込みがあり、光沢があって、根元から叢生して長さ一メートル、幅二十センチメートルほどになる。晩春から初夏に高さ二メートルほどの花茎を出し、緑又はやや紫がかった尖った苞葉とともに花をつける。花弁は筒状で、色は白・赤など。乾燥・日陰・寒気にも強い。その名はギリシア語で「棘(とげ)」の意である(以上はウィキの「アカンサス」に拠った)。

「陳其美」(ちん きび)は清末民初の政治家・軍人・革命家で、上海の革命派「中国同盟会」に属した(庶務部長)。一九一一年の「辛亥革命」に於いて、十月の武昌起義の勃発とともに、上海での蜂起を計画し、十一月三日に決起、成功して滬(こ)軍都督となった。その後の十二月二日には南京を占領、孫文を迎え入れ、中華民国の成立に大きく貢献した。中華民国時代となって一九一三年七月の「第二革命」では上海討袁軍総司令に推戴され、同月十九日に上海独立を宣言したが、陸海軍の正規部隊の支持を得られず、9月に敗北、11月に日本へ亡命した。一九一四(大正三)年七月に東京で「中華革命党」が成立すると、陳其美もこれに加わり、総務部長に任命された。その後、帰国して袁世凱討伐活動に従事し、上海で蜂起を画策するも、失敗に終わった。一九一六年からは「護国戦争」(第三革命)に呼応して、引き続き、上海等で反袁活動を続けが、資金不足などが原因で活動は停滞、同年五月、北京政府側の軍人張宗昌が放った刺客によって暗殺された(以上は当該ウィキに拠った)。

「東鄕大將」「日本海海戦」の連合艦隊司令長官東郷平八郎(弘化四(一八四八)年~昭和九(一九三四)年)。

「ホワイト」ワイシャツのことか。

「高野太吉」大分出身の医師で亡命中の孫文の胃病の治療を担当した。大正五(一九一六)年に「抵抗養成論」を著している。参照した立命館アジア太平洋大学 孔子学院」のこちらには、『孫文はその著書の中で高野を名医と紹介している』とある。]

芥川龍之介書簡抄48 / 大正四(一九一五)年書簡より(十四) 矢羽真弓宛(当時の田端駅が現在位置にはなかったことが判る自宅の案内図附き)

 

大正四(一九一五)年九月二十一日・田端発信・矢羽眞弓宛

 

Akutagawaketizu

 

勿論いゝ加減な地圖です動坂からなら←[やぶちゃん注:上向き矢印。]の通りにお出でになるのが一番近い筈です私自身は先輩の所へ行くと氣がつまつていやですからあなたもさうぢやあないかと思つて心配してゐますそれさへなければ遊びに來て下さい

    廿一日夜       芥川龍之介

   矢羽眞弓樣梧下

 

[やぶちゃん注:本書簡は既に述べた田端駅が現在地になかったことを示す芥川家への詳細な地図が載るので採った(再度、「今昔マップ」の大正後期の比較地図を掲げておく)。龍之介の自筆の地図のキャプションは、中央に、

「僕の家」(旧宅跡はここ。グーグル・マップ・データ(以下同じ))

とあり、その右手奥(南東方向)に、

「白梅園」(龍之介が三年後に結婚式(内祝言。よく出る近くの天然自笑軒は披露宴が行われた場所)を挙げた料亭。大正二年に泉鏡花の「紅玉」が野外劇として上演された(既出既注)のもここ)

とあり、その下方に、

「交番」・「そばや」(蕎麦屋)・「肴屋」(魚屋)

とあり、その「肴屋」の右手のは、

「薬屋」

で、その「肴屋」の左手に、

「小料理屋」

とある。左下方は、

「廣瀨先生」(既出既注の三中の恩師(当時の近々に転居してきたもの)の家)

「瀧の川小学校」(瀧野川小学校。ここに現存するが、ここで龍之介が指示するのは、位置的に見て、同小学校の田端分教場だったのではないかとも思われ、後に同小学校から分割されて滝野川東高等小学校となり、それが現在の北区立田端中学校となっているもののように私は推理した)

で、右下方は、

「至動坂」(「至る動坂」の意。「動坂」はここ

河川名と橋名は、

「音無川」(石神井(しゃくじい)用水のこの附近での別名。現在は下水道となって完全に暗渠化している)

「谷田橋」(交差点名として残る)

である。而して、上部(西方向になる)の左手から、

「新ステ」(ー)「シヨン駅」

「旧ステーシヨン駅」

とあるのが判る。

「矢羽眞弓」(明治二九(一八九六)年~昭和五八(一九八三)年)は長野生まれ。後に瀧澤姓に改姓。三中及び一高の龍之介の四年後輩で、後に東京帝大建築科を卒業し、数件の建築をしたが(現存建築は皆無)、後は建築学者として教職者となった。神戸高等工業学校教授。]

芥川龍之介書簡抄47 / 大正四(一九一五)年書簡より(十三) 井川恭宛

 

大正四(一九一五)年九月二十一日・消印二十二日・京都市吉田町京都帝國大學寄宿舍内 井川恭君・九月廿一日夜 田端四三五 芥川龍之介

 

あれ以來每日平凡にくらしてゐる 學校は今學年から火木金土の午前だけしか出ない だから大分ひまだ 論文がこだはつてゐて何をしても氣になつていけない 尤も氣になつても何かしてゐるがトーデの本でミケルアンジエロのシスチナのチヤペルの画をみて感心した 感心したでは足りない 頭から足の先までふるひ動かされたとでも云つたらいゝかもしれない あゝ行かなくつちやあ噓だと思つた 何しろ今の所画ではミケロアンジエロほど僕の心を動かす人はない あればたつた一人レムブランドだ レンブランドは二度目のおかみさんの肖像のColour reproductionを手に入れてよかつた レムブランドが落魄した時に自画像なんかたつた三ペンスでうつたさうだ 今はどんな復製でも三ペンスよりは高い 次いではゴヤだ ゴヤはドンナイサベラと云ふのに感心した かう云ふ偉大な作家は皆人間の爲に最後の裁判の喇叭のやうな聲をあげて自分の歌をうたつてゐる その爲にどの位僕たちは心安く生きてゆかれるかしれない この頃は少し頭から天才にのぼせてゐる

櫻の葉が綠の中に點々と鮮な黃を點じたのを見て急に秋を感じてさびしかつた それからよく見ると大抵な木にいくつかの黃色い葉があつた さうしたら最[やぶちゃん注:「もつとも」。]的確に「死」の力を見せつけられたやうな氣がしたので一層いやに心細くなつた ほんとうに大きなものが目にみえない足あとをのこしながら梢を大またにあるいてゐるやうな氣がした

新聞は面白くよんだ(自分のはあまり面白くもよまなかつたが)「秋は曆の上に立つてゐた」と云ふのに感心した まつたく感心してしまつた 定福寺の詩は未に出來ない その代り竹枝詞を一つ作つた

   黃河曲裡暮烟迷

   白馬津邊夜月低

   一夜春風吹客恨

   愁聽水上子規啼

あまりうまくない

矢代幸雄氏は美術學校の講師になつた 西洋繪画史と彫刻史の講義をやるのだから盛である そこで彫刻の本をさがしに美術學校の圖書館へはいつたらたつた一册うすい本があつた しかもそれが Famous Tales of ltalian Sculptors と云ふのだからふるつてゐると思ふ 尤も美術學校の先生中でABC[やぶちゃん注:縦書。]がよめる人は矢代氏獨りなのださうだ すべての方面で隨分いろんな事がいゝ加減に行つてゐるらしい いつまでそれですんでゆくわけもなからうからその内にどうとかなるのだらうが それにしても大分呆れ返る

   わが指の爪のほそさに立つ秋のあはれはいとゞしみまさりけむ

   秋風はふきぬべからし三越の窓ことごとく白く光れる

   ふき上げの水もつめたくおつるおつる橡(マロニエ)の葉のわらけちるあはれ(これは大分窮した)

   橡(マロニエ)の黃なる木ぬれにゆきかよふ風をかなしときゝつ行くも(同上)

どうも今日は歌をつくるやうな氣分になつてゐなさうだからやめる又かく

   廿日夜             龍

  恭   君

 

[やぶちゃん注:「學校は今學年から火木金土の午前だけしか出ない」言わずもがな、最終学年で講義自体が減ったからである。今までのようにサボっているわけではない。

「論文がこだはつてゐて何をしても氣になつていけない」既出既注。芥川龍之介の卒業論文はイギリスの詩人・工芸家・思想家(マルクス主義者)ウィリアム・モリス(William Morris 一八三四年~一八九六年)を対象とした「ウィリアム・モリス研究」であった。

「トーデ」ドイツの美術史家ヘンリー・トーデ(Henry Thode 一八五七年~一九二〇年)。イタリア・ルネサンスと当時のドイツ芸術(因みに彼はリヒャルト・ワーグナーの二番目の妻コジマの生んだ長女が妻であった)を専門としたが、第三帝国の政策に加担したため、現在は殆んど評価されていない。

「ミケルアンジエロのシスチナのチヤペルの画」言わずもがな、ミケランジェロの代表作で、バチカン宮殿のシスティーナ礼拝堂の祭壇に描かれたフレスコ画「最後の審判」(Giudizio Universale )。

「レムブランド」ネーデルラント連邦共和国(現在のオランダ)の画家レンブラント・ハルメンソーン・ファン・レイン(Rembrandt Harmenszoon van Rijn 一六〇六年~一六六九年)。

「二度目のおかみさんの肖像」私の好きなレンブラントは、私生活は放縦にして病的な浪費家で、特に女性関係が複雑と言うより泥沼であったのではっきりと限定は出来ないが(詳しくは当該ウィキを参照されたい)、思うに、「ヘンドリッキエ・ストッフェルドホテル・ヤーヘルの肖像」(英語:The Hendrickje Stoffels :一六五五年)ではないかと推定する。同ウィキに当該画像があるのでリンクさせておく。但し、彼女は元家政婦で愛人の一人であり、法的にレンブラントの妻とされたのは彼女の死(一六六三年七月末・三十八歳)の数年前だったと推定されている。

「Colour reproduction」色再現。原色版。

「レムブランドが落魄した時に自画像なんかたつた三ペンスでうつたさうだ」当該ウィキの「無一文へ」を参照されたい。現行のレートで三ペンスは四円弱である。

「ドンナイサベラ」スペインの画家フランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス(Francisco José de Goya y Lucientes 一七四六年~一八二八年)の「ドーニャ・イサベル・デ・ポルセルの肖像(Retrato de Isabel Porcel :一八〇五年)ではないかと推定する。英語版ウィキの“Portrait of Doña Isabel de Porcel ”にある画像をリンクさせておく。

「かう云ふ偉大な作家は皆人間の爲に最後の裁判の喇叭のやうな聲をあげて自分の歌をうたつてゐる その爲にどの位僕たちは心安く生きてゆかれるかしれない この頃は少し頭から天才にのぼせてゐる」「羅生門」の脱稿(但し、決定稿ではないと考える)はこの書簡を出した九月と推定されており、「鼻」の脱稿は翌五年一月であった。

「新聞」『松江新報』。既注。私の注の『但馬の何とか溫泉は大へんよささうな氣がする そこでぼんやり一日二日くらして それから「やくもたつ出雲」へはいりたい』を見られたい。

は面白くよんだ(自分のはあまり面白くもよまなかつたが)「秋は曆の上に立つてゐた」と「定福寺」「常福寺」の龍之介の記憶違い。既出既注

「竹枝詞」個人サイト「詩詞世界 碇豊長の詩詞」のこちらに、『竹枝詞とは、民間の歌謡のことで、千余年前に、楚(四川東部(=巴)・湖北西部)に興ったものといわれている。唐代、楚の国は、北方人にとっては、蛮地でもあり、長安の文人には珍しく新鮮に映ったようだ。そこで、それらを採録し、修正したものが劉禹錫や、白居易によって広められた。それらは竹枝詞と呼ばれ、巴渝の地方色豊かな民歌の位置を得た。下って唱われなくなり、詩文となって、他地方へ広がりをみせても、同じ形式、似た題材のものは、やはりそう呼ばれるようになった。現在も「□□竹枝」として、頭に地名を冠して残っている』。『竹枝詞をうたうことは、「唱竹枝」といわれ、「唱」が充てられた』。『後世、詩をうたいあげることを「賦、吟、詠」等というのと大きく異なる』。『竹枝詞という呼称は、詩題に似ているが違うものである。強いて言えば、形式を表す点では詞牌に列するものであり、実際にその扱いを受けているものである』。『竹枝詞の形式は、七言絶句と似ているものがほとんどである』。『竹枝を七絶と比較して見てみると、七絶との違いは、平仄が七絶より緩やかであって、あまり気にしていない。謡ったときのリズム感を重視するためか、同じことば(詩でいえば「字」)が繰り返してでてくることが屡々ある。また、一句が一文となっている場合が多く、近体詩の名詞句のみでの句構成などというものはあまりない。聞いていてよく分かるようになっている。これらが文字言語としての詩作とは、大きく異なるところである。また、白話が入ってくることを排除しない』。『共通する点は、節奏は、七絶のそれと同じで、押韻も第一、二、四句でふむ三韻。この形式での作詞は根強く、現代でも広く作られている。現代の作品は、生活をうたった、典故を用いない、気軽な七絶という雰囲気である』。『竹枝詞の内容は、男女間の愛情をうたうものが多く、やがて風土、人情もうたうようになる。用語は、伝統的な詩詞に比べ、単純で野鄙であり、典故を踏まえたものは少ない。その分、民間の生活を踏まえた歌辞(語句)や、伝承は出てくる。対句も比較的多い。男女関係を唱うものは、表面の歌詞の意味とは別に裏の意味が隠されている。似たフレーズを繰り返した、言葉のリズム、言葉の遊びというようなものが感じられる』。『これらの特徴は、太鼓のリズムに合わせ、楽器の音曲にのり、踊りながら唱うということからきていよう』とある。以下の芥川龍之介の「竹枝詞」は「芥川龍之介漢詩全集 附やぶちゃん訓読注+附やぶちゃんの教え子T・S・君による評釈」の「九」を見られたい。

   黃河曲裡暮烟迷

   白馬津邊夜月低

   一夜春風吹客恨

   愁聽水上子規啼

「矢代幸雄氏」既出既注

「Famous Tales of ltalian Sculptors」「イタリアの彫刻家の有名な物語」。

「橡(マロニエ)」フランス名の「マロニエ」(marronnier)。但し、既出既注の「橡」を参照のこと。]

久しぶりに書きたい夢を見た

私は教員になった二十二で、ひどく田舎の地に赴任することになった。私は友人家族の世話で、一面の畑の奥の山渓の古アパートに入った。そこは鉄道が敷かれているものの、一時間に一本しか(それも蒸気機関車)来ない。アパートの大家は川漁の達人だった。

引越の日には近くに住む友人の母と娘(少女)が手伝いに来てくれ、一晩、泊まっていった。ところが、翌朝、目覚めて見ると、少女一人しかいなかった。私が尋ねると、

「私は、初めから、一人でした。」

と平気な顔をしている。

 汽車の汽笛が聴こえた。少女が、

「あれに乗らないと遅れてしまうわ!」

と言った。[やぶちゃん注:ここまでは総てにつけて「つげ義春」風。]

 私は大急ぎで背広に着替えて、それを翼のように翻しながら、畑の中を突っ切って、線路を跨ぎ、何んとか間に合って、汽車に飛び乗った。昇降口から身を乗り出して背後を見ると、少女が手を振っている。私は、

「今夜は料理を作るから、待っていて!」

と叫ぶ自分を、俯瞰で撮っていた。[やぶちゃん注:このシーンは唐突に「誓いの休暇」風。]

 その晩、私は豪華なパエリアを作って少女と食事をした。

 翌朝は日曜日で、少女を家まで歩いて送り届けた。そこは昔の大船の山間であった。私は少女にいろいろな場所を案内しつつ、この少女と別れるのがひどく淋しい気がしていた。

 その時、気がついたのだ。

『この少女は友人の母親の少女時代の姿だ。』

 しかし、それを口に出そうとした時、少女は右手の人差し指を立てて、私の唇に押し当てた。[やぶちゃん注:ここでまた、突然、「つげ義春」風。]

 少女の家に着いた。しかし、母はいない。老いた父親が迎えて呉れた。私はそこの厨房を借りて再び渾身のパエリアを作り、三人で黙って食べた。

 少女は涙を流しながら。…………

   *

 何か哀しい気持ちになって目が覚めた。因みに、この少女は「北の国から」の中嶋朋子の螢にそっくりだった。

2021/04/25

伽婢子卷之四 地獄を見て蘇

 

伽婢子卷之四

 

    ○地獄を見て蘇(よみがへる)

 

 淺原新之丞は、相州鎌倉の三浦道寸が一族の末なり。才智ありて、辯舌人にすぐれ、儒學を專らとして、佛法を信ぜず、迷塗流轉(めいどるてん)の事・因果變化(へんげ)のことわりを聞いては、さまざま、言(いひ)かすめて、誂(そしり)あなどり、僧・法師と雖も、うやまはず、口にまかせて、誹謗し、理を非にまげて、難じ破る。

 其隣に、孫平とて、有德(うとく)なる者あり。若かりし時より、欲心深く、慳貪放逸(けんどんはういつ)にして、更に後世〔ごぜ〕を願はず、川狩(かはかり)を好みて、常の慰みとす。

 ある時、心地わずらひて、俄にむなしく成りたり。

 妻子・一門、驚き歎きて、願(ぐわん)、たて、祈禱しけり。

 胸のあたり、末(ま)だ溫かなりければ、まづ、葬禮をば、せず、まづ、僧を請じ、佛前を飾り、經、よみけるに、三日といふ暮方(くれがた)に、よみがえりて語りけるやう、

「我、死して、迷塗(めいど)に赴きしに、其道、はなはだ、暗し。又、こととふべき人も、なし。かくて、『一里ばかり行〔ゆく〕か』と覺えし、一つの門にいたり、内に立入しかば、一つの帳場(ちやうば)あり、冥官(みやうくわん)、きざはしに出て、我を招きて、

『汝、死してこゝに來る。妻子、歎きて、金銀を散らし、祈禱・佛事、とりどりに營む故に、此功力(くりき)によつて、二たび、娑婆に歸し遣(つかは)す也。』

と、のたまふ。我、嬉しくて、門を出〔いで〕て歸ると覺えて、よみがへりたり。」

といふ。

「まことに祈禱・佛事の功力(くりき)は、むなしからざりけり。」

とて、喜ぶ事、限りなし。

 淺原、是を聞て、大〔おほき〕に嘲り笑ひて、曰く、

「世のむさぼり深き邪欲・奸曲の地頭・代官どもは、賄(まひなひ)得ては、非道をも正理(しやうり)になし、物を與へざれば、科(とが)なきをも罪におとす。此故に、富(とめ)る者は非公事(ひくじ)にも勝(かち)、貧き者は道理にも負(まけ)を取る。これ、此世ばかりの事かと思ふに、迷塗の冥官も私(わたくし)あり。金銀だに、多く散じて佛事をだに、よく營めば、或は死しても、よみがへり、或は地獄もうかぶとかや。貧(まづし)きものは、力、なし。善惡のむくひは、多く錢金を散らす人こそ、來世も心安けれ。むかし、漢の韋賢(ゐけん)が言葉に、『子に黃金萬贏(まんえい)をのこさむより、如(しか)じ、子に一經(けい)を敎へんには』と、いへり。地獄の沙汰も錢によるべし。閻魔王も、金だにあれば、罪は赦す。韋賢が言葉は詮(せん)なし。」

と、いひて、手をうちて、笑ひ、あざける。

 扨、かくぞ、よみける。

 おそろしき地獄の沙汰も錢ぞかし

   念佛〔ねぶつ〕の代〔しろ〕に欲をふかかれ

家に歸り、ともしびのもとに、唯、獨り、坐し居たりけるに、怱ちに、二(ふたり)の鬼、來れり。

 其有樣、すさまじく、身の毛よだちけるに、

「これは閻魔王よりの使(つかひ)なり。急ぎ、參るべし。」

とて、淺原が兩の手を引〔ひつ〕たて、門を出〔いで〕て、走る。

 步むともなく、飛〔とぶ〕ともなく、須臾(しばし)の程に、一つの帳場にいたりぬ。

 世間の評諚場(ひやうぢやうば)の如し。

 

Jigoku1

[やぶちゃん注:閻魔大王の前に巻物(浅原の生前の記録)を広げているのが、地獄の書記官の一人(一般には「倶生神(ぐしょうじん)」と呼ばれる、個々の人間の一生に於ける善行と悪行の一切を記録し、その者が死を迎えた後に、生前の罪の裁判者たる地獄の十王(特に本邦ではその中の閻魔大王に集約されることが多い)に報告するという書記官で、有名どころでは司命神(しみょうじん)と後で出てくる司録神(しろくじん)などがいる)。閻魔の右手の方にいる同様の服を着ているのが、同じ書記官の一人。左手に卒塔婆(上に「シ」と書かれている)のようなものを抱えている。「新日本古典文学大系」版脚注ではこれが『命のふだか』とされる。なによりも私がそのフォルムを偏愛する地獄のアイテム「人頭杖(にんとうじょう)」が、左幅の右手に配されてあるのがいい(右幅の楕円形のそれは今一つの必須アイテムである死者の生前の善悪の行為を映し出すという鏡「浄玻璃」である)。女の首と鬼の首が高台の上に置かれている。この首は生きており、前に亡者を控えさせると、生前の善行と悪行を総て喋るのである。どっちがどっちかって? それは意想外に女の首が悪事を、鬼の首が良い行いを語るんさ!

 

 御殿の奧には、大王と覺しき人、玉の冠(かふり)を載き、絪(しとね)の上に坐(ざ)し、冥官は、その左右に、位に依りて、坐せり。

 二の鬼、淺原を其前の庭に引〔ひき〕すゆる。

 大王、いかれる聲を出して、

「汝は、儒學を縡(こと)として、佛法を異端と貶(おとし)め、深き道理をしらずして、みだりに誹(そし)り、あざける。いでや、『迷塗の事は、なし』といふ、此科(とが)、口より出たり。速く、拔舌奈梨(ばつぜつないり)に遣(つかは)し、その舌を拔き出し、犁(からすき)を以て、鋤返(すきかへ)せ。」

と、の給ふ。

 淺原、首(かうべ)を地につけて、

「我、更に非道の罪なし。儒の敎を守りて、『君臣・父子・夫妻・兄弟・朋友の五倫(りん)の道、よこしまならじ』と、たしなみ、天理性分(〔てん〕りせいぶん)の本然(ほんぜん)を說(とき)て、其德を仰ぐ。更に佛道を修(しゆ)せずといふとも、地獄に落〔おつ〕べき、いはれ、なし。」

といふ。

 大王、のたまはく、

「『冥官も私あり、善惡のむくひは貧富(ひんふう)による』とて、『念佛の代に、欲を深かれ』といふ歌は、誰(た)が詠みしぞ。」

と怒り給ふ。

 淺原、答へていふやう、

「古しへ、三皇五帝の世には、天堂(〔てん〕だう)・鬼神の事を述べず。三代の時に至りて、山川(さんせん)の神をまつる事、初めて、これ、あり。後漢(ごかん)の世に、佛法、傳り、夫より、天堂・地獄・因果の理を示す。こゝに於て、山川にも靈(れい)あり、社頭にも主(ぬし)あり、木佛・繪像(ゑぞう)、みな、奇特(きどく)を現(げん)ず。世の人、是に溺れて、性理(せいり)を失ひ、惡をなして、改めず、科(とが)を犯して、ほしいまゝ也。つよきは弱(よわき)を凌(しの)ぎ、富るは貧しきをあなづり、親に孝なく、君に忠なく、一家(〔いつ〕け)、睦(むつま)しからず、財寶をむさぼり、邪欲をかまへ、義を知らず、節をまもらず、利に走りて、恩を忘れ、唯、『金銀だに散(ちら)して、佛事供養を營めば、罪深きも、科重きも、地獄をのがれて、天堂に生ず』といふ。若〔もし〕、よく、かくの如くならば、惡人といふとも、富貴(ふうき)なれば、天上に生れ、貧者は善人も地獄に落〔おつ〕べし。閻魔の廳と雖も、富貴なる惡人、大佛事をなせば、淨土に遣すといはゞ、貧者のうらみ、なきにあらず。是、廉直の批判にあらず。私(わたくし)と言〔いふ〕べし。我、この事を思ふが故に、一首の狂歌を詠みて、此責(せめ)に遇ふ。大王、深く察し給へ。」

といふ。

 大王。聞て、宣はく、

「此理、よこしまならず、陳(のぶ)るところ、實(まこと)也。みだりに罪を加へ難し。此誹(そし)りある事は、孫平が佛事・祈禱に金銀多く散じたる故に、二たび、娑婆に歸されたりと沙汰せし故也。急ぎ、孫平を召來れ。」

と、の給ふ。

 須央(しばらく)の間に、孫平を召し來〔きた〕る。

「手杻・首械(てかせ・くびかせ)を入れて、直(すぐ)に地獄に遣はし、淺原をば、娑婆に送り歸せ。」

とあり。

 二人の、冥官、座を立〔たち〕て、淺原を連れて、庭を出〔いづ〕る。

 淺原、言ふやう、

「我、人間にありて儒學をつとめ、佛經に說(とく)ところ、地獄の事を聞ながら、信(しん)を起さず。今、すでに、こゝに來〔きた〕る。願くは、地獄の有樣を見せて、我に、いよいよ、信を起さしめ給へかし。」

といふ。

 冥官、聞て、

「さらば、司錄神(しろくじん)にとふべし。」

とて、西のかた、廊下を過〔すぎ〕て、一つの殿(でん)に行く。

 善惡二道の記錄、山の如くに積たり。

 冥官、

「しかじか。」

といふに、司錄神、簿(ふだ)を出〔いだ〕したり。

 冥官を、これ、とりもち、淺原を連れて、北のかた、半里ばかり行けるに、銅(あかがね)の築地(ついじ)高く、鐵(くろがね)の門、きびしき城に至る。

 黑煙、天におほひ、叫ぶ聲、地を響かす。

 午頭・馬頭(ごづ・めづ)の鬼、あまた、鐡棒・鐡叉(てつしや)を橫たへ、門の左右に立たり。

 二人の冥官、さきの簿(ふだ)を渡し、淺原を連れて、内に入て、見せしむ。

 罪人、數知らず、獄卒、捕へて、地に伏せ、皮を剝ぎ、血を絞り、腹をさき、目を剜(くじ)り、耳をそぎ、鼻を切り、手足をもぎて、肉をそぐ。

 罪人、泣き叫び、苦(く)を悲しむ聲、地にみちたり。

「これは、むかし、人間にありし時、山海に、獵(かり)、漁(すなどり)、殺生を營みし者也。」

 

Jigoku2

[やぶちゃん注:この絵師はかなり律儀で、以下のそれぞれの悲惨な各々の地獄の内容を描き込んである。]

 

 又、或所には、銅(あかゞね)の柱を二本、立〔たて〕並べ、男と女と二人を傑(はりつけ)にして、獄卒、劍(けん)をもつて、腹を斷(たち)さき、銅の湯を、銚子(てうし)に盛(もり)て、流しかくるに、五臟六腑、爛れ燃(もえ)て、わき流るゝ。

 男も女も、只、首ばかり、柱に殘りて、泣き叫ぶ。

 淺原、其故をとふに、冥官、答へて曰く、

「是は娑姿にありし時、この男は藥師(くすし)なり。此女の夫(をつと)、病深きを療治せしむるに、藥師と女と、まさなきみそかごとして、夫に惡しき藥を與へ、女、あらけなく當りて、殺しつゝ、夫婦(ふうふ)となりき。二人ながら、死して今、此苦(く)を受(うく)る。」

といふ。

 又、或所には、尼・法師、多く、裸にて、熱鐵(ねつてつ)の地に蹲(うづく)まり居たるを、獄卒、來りて、牛馬(ぎうば)の皮を着(きせ)、履(おほ)ふに、尼も法師も、そのまゝ牛馬になる。是に、磐石(ばんじやく)を負(おふ)せ、くろがねの鞭(むち)を以て、是を打つに、皮、破れ、肉(しゝむら)、そげて、血の流るゝ事、瀧の如し。

 淺原、又、問うて、曰く、

「これ、人間にありし時、尼となり、法師となりて、田、作らずして、飽まで食(くら)ひ、機(はた)おらずして、暖(あたゝか)に着て、形は出家ながら、戒律を守らず、心に慈悲なく、學道なくして、徒らに施物(せもつ)もらひける者共也。此故に、畜生となりて、信施(しんせ)を償ふ。」

と云(いふ)。

 又、或所を見れば、俗人、多く、牛馬となりて、苦を受く。

「これは、昔、代官として百姓を取り倒し、妻子を沽却(こきやく)せしめたり。百姓辛苦の脂(あぶら)を、はたりとる、是も施物に同じからずや。」

と云。

 最後に、ある地獄に至る。

 猛火(みやうくわ)、殊更にもえあがり、數百人、くろがねの地に坐し、手杻・首械をさされ、五體、さながら、もえこがれ、焰(ほのほ)、みちみちたり。

 毒蛇(じや)來りて、其身をまとひ、血を吸ふ。

 又、鐵(くろがね)の嘴(くちばし)ある鷹、飛び來り、罪人の肩を踏(ふま)へて、眼(まなこ)を喙(つい)ばみ、肉(しゝむら)を引き裂き、食(くら)ふ。

 泣き叫ばんとすれば、猛火のけふり、咽(のど)に迫り、苦しみ、いふばかりなし。

 肉、盡きて、骨、現はれ、死すれば、凉しき風、吹き來り、又、元の如くにして、蘇(よみがへ)る。

 淺原、其故をとふに、曰く、

「是は、往昔(そのかみ)、鎌倉の上杉則政(のりまさ)の子息龍若(りうわか)殿のめのとご妻鹿田(めかた)新介、その弟長三郞、同三郞助、その外、親類、都合廿人、すでに則政沒落の時、主君龍若殿をつれて、敵(かたき)北條氏康(うぢやす)に渡して、降人(がうにん)に出たり。主君を殺したる天罸、あたり、此廿人、みな、氏康に殺され、死して、此地獄に落ちて、億萬劫(おくまんごふ)を經(ふ)るといふとも、浮ぶ時、あるべからず。其外の輩(ともがら)も、皆、主君を殺し、不忠を抱き、國家を亡ぼしける者共也。」

と、こまごまと語る。

 其より、淺原、冥官につれて、門を出〔いづ〕る、と覺えしかば、忽ちに蘇り、

「隣の孫平は如何に。」

と問ければ、其夜、又、むなしくなれり。

 是れによりて、淺原、儒學を捨てて、建長寺にいたり、參學して、醒悟發明(せいごはつめい)の道人(だうにん)となりけり。

 

[やぶちゃん注:挿絵は「新日本古典文学大系」版のものを使用した。

「淺原新之丞」不詳。

「三浦道寸」三浦義同(よしあつ 宝徳三(一四五一)年或いは長禄元(一四五七)年~永正一三(一五一六)年)は戦国初期の武将で東相模の大名。一般には出家後の「道寸」の名で呼ばれることが多い。北条早雲の最大の敵であり、平安時代から続いた豪族相模三浦氏の事実上の最後の当主。鎌倉前期の名門三浦氏の主家は、宝治元(一二四七)年に北条義時の策謀による「宝治合戦」で滅亡したが、その後三浦氏の傍流であった佐原氏出身の三浦盛時によって三浦家が再興され、執権北条氏の御内人として活動し、「建武の新政」以後は足利尊氏に従い、室町時代には浮き沈みはあったが、三浦郡・鎌倉郡などを支配し、相模国国内に大きく勢力を拡げた。道寸は扇谷上杉家から新井城(三崎城とも)主三浦時高の養子に入る(先に義同の実父上杉高救(たかひら)が時高の養子であったとする説もある)。しかし、時高に高教(たかのり)が生まれたために不和となり、明応三(一四九四)年に義同は上杉時高及び高教を滅ぼし、三浦家当主の座と、相模守護代職(後に守護。時期不明)を手に入れた。その後、北条早雲と敵対するようになり、道寸父子は新井城(グーグル・マップ・データ)に籠城すること三年、家臣ともども凄絶な討ち死をした。なお、この落城の際、討ち死にした三浦家主従たちの遺体によって城の傍の湾が一面に血に染まり、油を流したような様になったことから、同地が「油壺」と名付けられたと伝わる(以上は所持する諸歴史事典とウィキの「相模三浦氏」及び「三浦義同」を主に参考にした)。

「迷塗」「冥途」の当て字。

「言(いひ)かすめて」「言ひ翳めて」。言葉巧みに誤魔化して。

「理を非にまげて」道理を、無理矢理、へし曲げて。しかしそれで相手を必ず論難して勝ったわけだから、この浅原という男は相当に狡猾な悪智慧者ではあったのである。

「慳貪放逸(けんどんはういつ)」「慳貪」は吝嗇(けち)で欲深く、しかも思いやりがなく、邪見なこと。「放逸」勝手気儘に振舞い、且つ、その行いが常識や道徳から外れていることを言う。

「川狩(かはかり)」川漁。

「帳場(ちやうば)」「廰場」の当て字であろう。冥府の役所。

「奸曲」「姦曲」とも書く。心に悪巧みを持っていること。

「非公事(ひくじ)」道理を全く外れた著しく不当で非論理的な裁判。

「漢の韋賢(ゐけん)」韋賢(紀元前一四三年~紀元前六二年)は前漢の政治家。儀礼や「書経」・「詩経」に通暁し、「鄒魯の大儒」(彼は魯国の騶(すう)県の出身)と呼ばれた。中央に徴用されて博士となって第八代皇帝昭帝に「詩経」を教授した。昇進して大鴻臚(九卿(きゅうけい)の一つ。帰順した周辺諸民族(「蛮夷」)を管轄した)に至り、昭帝が跡継ぎなしに崩御したことから、大将軍霍光らとともに宣帝(武帝の曾孫であったが、在野していた)を皇帝に擁立し、その功績で関内侯を賜り、後に長信少府・扶陽侯に封ぜられた。紀元前六七年に高齢を理由に丞相を引退することを申し出て許され、金百斤と屋敷を賜った。丞相が自ら引退するようになるのは彼が最初であった。参照した当該ウィキによれば、子は四人おり、『長男の韋方山は早くに死に、次男の韋弘は東海太守となり、三男の韋舜は魯の父祖の眠る墳墓を守』って『出仕せず、四男の韋玄成は丞相になった。漢において親子』二『代で丞相となったのは韋賢・韋玄成と』、『周勃・周亜夫、曹操・曹丕の計』三『組だけである』。『故郷の騶では、韋氏が経書』(五経のこと)『を学んで栄えたことから、「子孫に金を遺すよりも経書を遺す方が良い」という諺が生まれたという』とある。

「萬贏(まんえい)」稼いだあり余らんばかりの数万の大金。

「おそろしき地獄の沙汰も錢ぞかし念佛〔ねぶつ〕の代〔しろ〕に欲をふかかれ」「ふかかれ」は「深くあれ」の縮約だろう。上句は所謂、「地獄の沙汰も金次第」で、下句は、「念仏なんぞ、役には立たぬ、その代わり、しっかり、がっつり、欲深(ぶか)であれ!」という謂いであろう。

「絪(しとね)」縄を編んだ敷物。

「縡(こと)として」それだけを唯一正当なものと心得て。

「いでや」感動詞。「あろうことか、何んと!」。

「迷塗の事は、なし」冥途(あの世)などというものは存在しない。

「拔舌奈梨(ばつぜつないり)」「地獄」を意味するサンスクリットには「ナラカ」の「ニラヤ」があり、後者の漢音写に「泥梨・奈利」がある。一般的にはポピュラーな地獄の責め苦ではあるが、名前として「抜舌地獄」というのは私は聴いたことがない。「新日本古典文学大系」版脚注には、『地獄絵に亡者を柱に縛り付け、引き出した舌をたたき広げて杭で固定し、その上を牛にひかせた犁(からすき)で鋤き直す図として描かれる』とあった。

「たしなみ」「嗜み」。好んでそのことに励んで修行し。

「天理性分(〔てん〕りせいぶん)の本然(ほんぜん)」天道が我々に生得的(アプリオリ)に与えている生来の正しい精神の本来の姿。

「冥官も私あり。」「まあ、冥途の審判官の中にも、ひそかに悪巧みをする者がおる。」閻魔の突然の衝撃の告白じゃて!!! 分が悪いと判断したものか、指弾の切り口を狂歌批判にスライドさせて、お茶を濁そうとする。

「三皇五帝」中国古代の伝説上の聖天子八名の総称。「三皇」は「燧人 (すいじん) 」・「伏羲 (ふっき) 」・「神農」(或いは伏羲の妻女媧 (じょか) を数えることもあり、「五帝」との互換が行われるケースもある。また、全く別に「天皇」・「地皇」・「人皇」とするものもある)。「五帝」は「黄帝 (こうてい) 」・「顓頊(せんぎょく)」・「帝嚳 (こく)」・「堯 (ぎょう)」・「舜 (しゅん)」(その後の「禹」を含めることも多い)であるが、これも命数に異同がある。この伝承は戦国時代に纏められたものである。

「天堂(〔てん〕だう)」天上界にあって神・仏・神仙が住むという殿堂。具体に言ってしまうと矛盾が生じるので言わない。言うべきでないと思う。所謂、漠然とした超自然的な「天道」の世界・存在である。

「三代」中国の古代国家である夏(か 紀元前一九〇〇年頃~紀元前一六〇〇年頃:史書に記された中国最古の王朝。殷の湯王に滅ぼされたとされるが、長らく伝説とされてきたが、近年の考古学資料の発掘により実在の可能性が出てきた)・殷・周。

「後漢(ごかん)の世に……」「新日本古典文学大系」版脚注に、『仏教の中国伝来は諸説あるが、後漢の』第二代皇帝『明帝』(在位:五七年~七五年)『の時とするのが通説』とある。

「天堂」この場合は、「地獄」と対として「因果の理」に搦められるならば、六道輪廻の最上位である「天上道」を示すことになる。但し、そもそもが浅原は仏教をてんで信じていないわけだから、この「天堂」は彼にとっては別に輪廻から解脱して行く永遠の「極楽浄土」でも、これ、全然、問題ないことになるのである。

「性理(せいり)」人の本性。「朱子学」では「人間の本性又は物の存在原理」も含む。浅原は性善説に立っているようである。

「あなづり」〕「侮り」「あなどる」の古形。軽蔑し。

「廉直の批判」心が清らかで私欲がない誠実な裁決。

「此誹(そし)りある事は、孫平が佛事・祈禱に金銀多く散じたる故に、二たび、娑婆に歸されたりと沙汰せし故也。急ぎ、孫平を召來れ」ここには誤魔化しがある。というより、閻魔が「冥途にだって私的忖度はある」と告白したことから判る通り、実は閻魔自身が孫平のケースの生還に関わっていることを強く疑わせるのである。その証拠に、そうした忖度をした冥官を調べ上げようとしていないことから明らかだ。どこかの「桜」の国の首相と同じ穴の貉というわけである。

「人間」六道の人間道(にんげんどう)。

「簿(ふだ)」地獄を自由に行き来出来る特別見学許可証である。

「銅(あかがね)の築地(ついじ)高く、鐵(くろがね)の門、きびしき城に至る」「新日本古典文学大系」版脚注には、『高々と続いた銅の城壁。等活地獄』(八大地獄の第一で、殺生を犯した者が落ちるとされ、獄卒の鉄棒や刀で肉体を寸断されて死ぬが、涼風が吹いてくるとまた生き返り、同じ責め苦にあうとされる)『の二番目刀輪処(とうりんしょ)は鉄壁で囲まれ、内に猛火が燃えさかっている』とある。

「鐡叉(てつしや)」鉄でできた「刺股・指叉」。江戸時代、罪人などを捕らえるのに用いた三つ道具の一つで、二メートル余りの棒の先に、二又に分かれた鉄製の頭部を附けたもの。これで喉首を押さえるもの。

「これは、むかし、人間にありし時、山海に、獵(かり)、漁(すなどり)、殺生を營みし者也」再召喚された孫平が送られる地獄を最初に示す。

「まさなきみそかごと」尋常ならざる秘密の関係。不義密通。

「あらけなく當りて」ひどく粗暴に扱って。

「そげて」「削げて」。

「畜生となりて、信施(しんせ)を償ふ」しかし、これは結局、六道の「畜生道」と同じで、今一つ、ピンとこない。同様に、次の場面も同じ。しかし、芥川龍之介の傑出した児童文学「杜子春」(リンク先は私の古い電子テクスト)の地獄のラスト・シークエンスでは、私は何らの違和感を抱かないから、不思議。

「沽却(こきやく)」女衒や女郎屋に売り払うこと。

「鐵(くろがね)の嘴(くちばし)ある鷹、飛び來り、罪人の肩を踏(ふま)へて、眼(まなこ)を喙(つい)ばみ、肉(しゝむら)を引き裂き、食(くら)ふ」叫喚地獄のメインの他に同時語句には十六種の辺縁地獄あり、その一つの「髪火流処(はっかるしょ)」は五戒を守っている人に酒を与えて戒を破らせた者が落ちる地獄とされ、熱鉄の犬が罪人の足に噛み付き、鉄の嘴を持った鷲が、頭蓋骨に穴を開けて脳髄を啄み、狐たちが内臓を食い尽くすとされる。

「鎌倉の上杉則政(のりまさ)」正しくは、上杉憲政(天正七(一五七九)年~大永三(一五二三)年)。戦国時代の武将で関東管領。山内上杉家憲房の長子。大永五(一五二五)年に父憲房が病没した際、未だ幼少であったため、一時、古河公方足利高基の子憲寛が管領となり、享禄四(一五三一)年九歳の年、同職に就任したが、奢侈放縦な政治で民心を失った。天文一〇(一五四一)年、信州に出兵し、同十二年には河越の北条綱成を攻めるなど、南方の北条氏と戦ったが、相次いで敗れ。同十四年の「河越合戦」でも、北条氏康に敗れて上野平井城に退く。この戦いでは倉賀野・赤堀など有力な家臣を失い、上野の諸将は出陣命令に応じず、同二十一年には平井城を捨てて、越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼った。永禄三(一五六〇)年、景虎に擁されて、関東に出陣し、翌年三月には小田原を囲んだ。帰途、鶴岡八幡宮で上杉の家名を景虎に譲り、剃髪して光徹と号した。しかし、天正六(一五七八)年三月に謙信が病没すると、その跡目を巡って、上杉景勝は春日山城本丸に、同景虎は憲政の館に籠って相争うこととなり、城下は焼き払われ、景虎方は城攻めに失敗して敗北、翌年三月に憲政の館も攻められ混戦の中、殺害され(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)、

の嫡子龍若は小田原で斬首された。

「妻鹿田(めかた)新介」前注の通り、憲政の嫡子龍若を自身の存命をかけて裏切って北条氏康に引き渡した元上杉家家臣。

「醒悟發明(せいごはつめい)」迷いが晴れて悟りを得ること。]

芥川龍之介書簡抄46 / 大正四(一九一五)年書簡より(十二) 井川恭宛献詩

 

大正四(一九一五)年九月十九日・田端発信・井川恭宛(転載)

 

  詩四篇

 井川君に獻ず

 

   I 受胎

いつ受胎したか

それはしらない

たゞ知つてゐるのは

夜と風の音と

さうしてランプの火と――

熱をやんだやうになつて

ふるへながら寢床の上で

ある力づよい壓迫を感じてゐたばかり

夜明けのうすい光が

窓かけのかげからしのびこんで

淚にぬれた私の顏をのぞく時には

部屋の中に私はたゞ獨り

いつも石のやうにだまつてゐた

さう云ふ夜がつゞいて

いつか胎兒のうごくのが

私にわかるやうになつてくると

時々私をさいなむ

胎盤の痛みが

日ごとに强くなつて來た

あ神樣

私は手をあはせて

唯かう云ふ

 

   Ⅱ 陣痛

海の潮のさすやうに

高まつてゆく陣痛に

私はくるしみながら

くりかへす

「さはぐな 小供たちよ」

早く日の光をみやうと思つて

力のつゞくだけもがく小供たちを

かはゆくは思ふけれど

私だつてかたわの子はうみたくない

まして流產はしたくない

うむのなら

これこそ自分の子だと

兩手で高くさしあげて

世界にみせるやうな

子がうみたい

けれども潮のさすやうに

高まつてゆく陣痛は

何の容赦もなく

私の心をさかうとする

私は息もたえだえに

たゞくり返す

「さはぐな 小供たちよ」

 

   Ⅲ めぐりあひ

何年かたつて

私は私の子の一人に

ふと町であつた事がある

みすぼらしい着物をきて

橦木杖をついた

貧弱なこの靑年が

私の子だとは思はなかつた

しかしその靑年は

挨拶する

「おとうさまお早うございます」

私は不愛相に

一寸帽子をとつて

すぐにその靑年に背をそむけた

日の光も朝の空氣も

すべて私を嘲つてゐるやうな

不愉快な氣がしたから

 

   Ⅳ 希望

こんどこそよい子をうまうと

牝鷄のやうに私は胸をそらせて

部屋の中をあるきまはる

今迄生んだ子のみにくさも忘れて

 

こんどこそよい子を生まうと

自分の未來を祝福して

私は部屋のすみに立止まる

ウイリアム・ブレークの銅版畫の前で

          一九一五 九月十九日

                龍 之 介

 

[やぶちゃん注:全体が四字下げであるが、これは私には、芥川龍之介の新生、それも作家芥川龍之介の新生を予告する詩篇のように思われる。

「橦木杖」は「しゆもくづゑ(しゅもくづえ)で普通は「撞木杖」と書く。頭部が丁字形になった杖。但し、「橦」も音が「シュ」であり、「天秤棒や旗竿などの真っ直ぐな棒」・「鐘を撞(つ)く棒」の意や、動詞で「突く・突き破る」の意があるから違和感はない。]

芥川龍之介書簡抄45 / 大正四(一九一五)年書簡より(十一) 井川恭宛夢記述

 

大正四(一九一五)年八月三十一日(年月推定)・田端発信・井川恭宛(転載)

 

車が止つたから下りて見ると内中原町の片側が燒けて黑く焦げた柱が五六本立つてゐる間から煙が濛濛と立つてゐた 火は見えない 燒けた所の先は大へん賑な通りで淺黃のメリンスらしい旗に賣出しと書いたのが風に動いてゐる そのわきに稻荷の鳥居がたくさんならんでゐる そこで「なる程 桑田變じて海となる だね 大へんかはつたね」と云ふと格子戶をあけて立つてゐた君が「うん變つたよ」と云つた

すると車夫がまだ立つてゐたから蟇口を出して「いくらだい」ときくと「三十錢頂きます」と云ふ 生憎細いのがないので五十錢やるとおつりを三十錢よこした「これでいゝのかい」と云ふと「この通り三十錢頂きました」と云つて車夫が掌をひろげて目の前へ出した 見ると成程十錢の銀貨が三つ日に燒けた皮膚の上に光つてゐる「さうさう三十錢と三十錢で五十錢だつた」と思ひながら うちへはいつた 見るとうちの容子も大へん變つてゐる 濠の水が緣側のすぐ先まで來ておまけにその水の中から大きな仁王の像が二つぬいと赤い半身を出してゐるから奇拔である「これは定福寺の仁王かね」「あゝ定福寺の仁王だよ」

こんな會話を君と交換してゐる内に外で誰か君をよぶ聲がした「春木の秀さんがよびに來たから一寸失禮する」かう云つて君が出て行つたあとでさうつと懷の短刀を拔いてみた さうして仁王の肩の所を少し削つてみた すると果して豫想通りこの仁王は鰹節の仁王であつた

それから その短刀を持つて外へ出ると長い坂が火事のある所と反對の方角につゞいてゐる その上の方に杉の皮で張つた堺があつて その塀の所に君が小指ほどの大きさに立つてゐる「おおい」と云ふと君の方でも「おおい」と云ふ 何でもあの家の向ふが海で海水浴をやつてゐるのにちがひない そこで一生懸命に走つてその坂を上り出した 坂は長い いくら上つても上の方に道がつゞいてゐる 始は短刀を拔き身のまゝぶら下げて登つた 中ごろでは口へ啣へながら登つた 最後に鞘へおさめて 元の通り懷へ入れた 坂はのぼつてものぼつてもつきない この坂をのぼつてから汽車へのると今度はトンネルが澤山あるんだなと思つた 來るときにはさう苦にならなかつたがかへりは大へんだなと思つた すると眼がさめた

ゆうべねる前によんだ君の手紙がこんぐらかつてこんな變な夢になつたのである

詩は當分出來ない 從つて定福寺の老佛へ獻じる事も先づ覺束かないだらう

そゞろに松江を思ふにたへない

   粽解いて道光和尙に奉らむ

   馬頭初めて見るや宍道の芥子の花

   武者窓は簾下して百日紅

    卅一日早曉       芥川龍之介

   井 川 恭 樣

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介の残した筆記の中でも特異点と言える非常に興味が満載の夢記述である。夢記述のチャンピオンを自負する自分としては、井川の前書簡が読めないのが、非常に惜しい。

「定福寺」島根県松江市法吉町にある曹洞宗の常福寺(グーグル・マップ・データ。以下同じ)の誤り。本尊は十一面観世音菩薩。私の『井川恭著「翡翠記」二十三』『二十四』『二十五』『二十六』を読まれたい(「翡翠記」の最後を飾る場面であるが、ここの和尚と奥方に優しくされたことと合わせて爽やかなコーダとなっている。実はその『二十六』で既にこの書簡は私がその注で電子化しているが、今回は全くゼロから新たに起こした決定版である)。ここから北に向かった「新山城跡」とあるのが、この寺を中継地として以上のリンク先の中で井川と龍之介が登ったのが、この「眞山」なのである(国土地理院図で山名を確認出来る。標高は二百五十六・二メートル)。「やぶちゃん版芥川龍之介句集 二 発句拾遺」の「松江連句(仮)」にも、

   *

  定福寺

禪寺の交椅吹かるゝ春の風  阿[やぶちゃん注:芥川龍之介。]

   *

そこで私は協力者とともに、『「定福寺」は「常福寺」の誤りである。松江市法吉にある曹洞宗の寺。「交椅」は寺院に見かける上位僧の座る背もたれのついた折り畳み式の椅子のこと。なお、この誤りについては旧全集書簡番号一八九井川恭宛の大正四(一九一五)年十二月三日付芥川龍之介書簡に「定福寺へはまだ手紙を出さずにゐる 中々詩を拵へる氣にならない「定」の字はこの前の君の手紙で注意されたが又わすれてしまつた「定」らしいから「定」とかく それとも「常」かな「淨」ではなささうだ」とあって、芥川の思い込みの頑なさが面白い。とりあえず芥川龍之介これが誤字と認識していたという事実を示しておく』と注した。さらに、

   *

   直山

蕨など燒く直山の烽火かな  井[やぶちゃん注:井川恭。]

   *

とある。そこで私は協力者とともに、『当初、私は無批判に、この「直山」は、石見銀山の産地であった御直山(おじきやま)と呼ばれた代官所直営の操業地のことを言うか、等と言う好い加減な注を附していた(ここに石見銀山では如何にも場違いであった)。その後、この「直山」について、極めて大切な情報を入手した。「松江一中20期ウェブ同窓会・別館」を運営されている知人からの指摘である。以下にそのメールの一部を引用する。

   +

これは「眞山」のことではないでしょうか? 少し後に、「再 眞山」、さらに「三度 眞山」とありますが、それ以前には「眞山」がなく、この「直山」しかないようです。眞山は松江の市街地の北側にあって、市民に親しまれている山です(私は登ったことがないのですが……)。井川と芥川も登っています(『翡翠記』五十七ページ)。また、「定福寺」と「三度 眞山」に出てくる定福寺やそこの梵妻の話も『翡翠記』の同じ場所に出てきます。

   +

気がつかなかった! 一応、私のタイプ・ミスかもしれないと思い、確認してみたが、岩波版新全集は確かに「直山」としており、他はすべて「真山」(しんやま)である(私のポリシーで旧字に変換してあるが)。これは間違いなく芥川か井川の「真山」の誤記もしくは新全集編集上の誤判読である。井川が出身地の地名を誤記することは考えにくいから、誤記(または誤転写)したのは芥川龍之介である可能性が高い(実際、本連句でも芥川は「常福寺」とすべきところを「定福寺」と記している)。更に言えば、本作が山梨県立文学館所蔵の原稿写真から起こされたものである以上、旧字の「眞」と「直」の類似性からも新全集編者の判読ミスも充分ありうると思われる。言わば、最新の岩波版新全集の校訂を、この知人と私はやったことになる。快哉! 真山は「しんやま」と読み、「新山」とも書く。平安時代末期、平忠度の築城と伝えられ、永禄六(一五六三)年、毛利軍が、尼子氏の拠点白鹿(しらが)城攻略ために、吉川元春をここに布陣した。現在は本丸・一の床・二の床・三の床・石垣の一部を残すのみである。

   +

この「松江連句(仮)」は新全集で初めて公開されたものであるが、「眞(=真)山」の誤判読であり(致命的に三ヶ所もある)、現地居住の井川が誤ることはあり得ず、芥川龍之介の誤記か、または旧新編集者の誤判読である。これは今後、訂正されるか、注記を施さなければ、鑑賞出来ないレベルの誤りである。他に、

   *

梵妻(だいこく)の鼻の赤さよ秋の風

  (この句を定福寺の老梵妻にささげんとす)   阿

   *

この句の「梵妻」とは「僧侶の妻」を言う語。嘗ては僧侶の「隠し妻」を指した。「ぼんさい」とも読み、また「大黒」とも書く。大黒は厨房に祀られる神であることから、寺院の「飯炊き女」を指したが、そこから転じて、妻帯を認められない宗派に於いて、世を憚って「飯炊き女」と偽って隠し持ったことによる。

「老佛」「老仏爺」の意であろう。中国語では「ラァォフォーイエ」で、この呼称は中国史上の悪女西太后が周囲に自分のことをかく呼ばせたことで専ら知られる悪名であるが、原義は「仏のように慈悲深い人」という尊称で、ここは世話になった常福寺の和尚のことを指している。

「そゞろに松江を思ふにたへない」芥川龍之介が如何にこの松江旅行に心打たれかがよく伝わってくる。この旅を経てこそ、吉田弥生との破恋からの龍之介の新生があったと言ってよい感懐であると言える。

「粽解いて道光和尙に奉らむ」「粽」は「ちまき」。「道光和尙」は江戸時代前期の黄檗宗の禅僧鐡眼道光(てつげんどうこう 寛永七(一六三〇)年~天和二(一六八二)年)。当該ウィキによれば、『畿内の飢えに苦しむ住民の救済にも尽力し、一度は集まった蔵経開版のための施財を、惜しげもなく飢民に給付し尽くした。しかも、そのようなことが、二度に及んだという』。『鉄眼の主著である』「鐡眼禪師假名法語」は、元来は』、『ある女性に向けて法を説いたものであった』。『はわかりやすく平明な表現で仏教の真理を説き明かした、仏教の最良の入門書と言える。終生、法嗣をたてず、弟弟子に当たる宝洲に寺を付嘱した。その奇特な行ないによって』、「近世畸人傳」(江戸後期の歌人で文筆家伴蒿蹊(ばんこうけい 享保一八(一七三三)年~文化三(一八〇六)年)が書いた奇人伝の傑作)の『巻二に立伝されている』とある。同項は「日文研」のこちらで挿絵とともに原文(新字)が読める。ここは、自由闊達な常福寺の和尚を彼にカリカチャライズしたものであろう。

「馬頭初めて見るや宍道の芥子の花」「松江連句(仮)」では、

 馬頭初めて見るや馬潟(まがた)の芥子の花

と推敲している。「馬頭」は馬頭観音であろう。但し、音数律から「めづ」と読ませているかと思われる。「馬潟」(島根県松江市馬潟町(まかたちょう))。このルビは芥川が附けたものと思われるが、「まかた」が正しい。

「武者窓は簾下して百日紅」「松江連句(仮)」では、

 武者窓に簾下ろして百日紅

となっている。「武者窓」は「武家窓」とも呼び、天守や櫓又は大名屋敷の長屋門の武家長屋などに用いられた太い竪格子の窓。格子が横に入った窓は「与力窓」と呼ぶ。

 なお、新全集宮坂年譜には、この八月の条の冒頭に、『この頃、塚本文への想いが芽生え始める。山本喜誉司に「正直なところ時々文子女史の事を考へる」などと書き送っている【190】』とあるのだが(最後の数字は新全集書簡番号)、私は新全集の書簡部を所持しておらず、旧全集には八月のパートにはそのような書簡なく、調べてみると(こういう時には一九九四年に岩波書店から出た宮坂覺氏の旧全集を対象とした強力な「芥川龍之介全集総索引」の「人名索引」が甚だ便利である。この本のお蔭でどれほど調査時間が短縮できたことか「芥川文」の「文子女史」で一発で判った)、「正直なところ時々文子女史の事を考へる」と言う文字列は底本の旧全集書簡番号「二一六」の山本宛書簡であることが判った。ところが、この書簡は旧全集では翌年の大正五年八月一日として入れてある。しかし、確かに「Y」というイニシャルでしめす明らかな吉田弥生に纏わるそれは、大正四年のものとする方がしっくりくる内容ではあるように見える。新全集では確認がなされて、移動したものであろう。但し、私はその移動理由などの理由も判らないので、そのまま大正五年の部分で電子化することとする。

2021/04/24

芥川龍之介書簡抄44 / 大正四(一九一五)年書簡より(十) 井川恭宛松江招待旅行感謝状

 

大正四(一九一五)年八月二十三日・井川恭宛・(封筒欠)

 

大へん御世話になつて難有かつた 感謝を表すやうな語を使ふと安つぽくなつていけないからやめるが ほんとうに難有かつた

難有く思つただけそれだけ胃の惡い時には佛頂面をしてゐる自分が不愉快だつた だからさう云ふときは一層佛頂面になつたにちがひない かんにんしてくれ給ヘ

汽車は割合にすいてゐたが京都へはいる時には非常な雷雨にあつた それから翌日は一日雨でとうとうどこへもよらずにどしや降りの中を東京へかへつた 途中で根岸氏が東京へゆく人を一人紹介してくれたので大抵その人と一しよにだべつてゐた 大分おんちだつた

非常にくたびれたので未に眠いが今日は朝から客があつて今まで相手をしてゐた それで之をかくのが遲れしまつた 詩を作る根氣もない 出たらめを書く 少しは平仄もちがつてゐるかもしれない

     波根村路

   倦馬貧村路

   冷煙七八家

   伶俜孤客意

   愁見木綿花

     眞山覽古

   山北山更寂

   山南水空𢌞

   寥々殘礎散

   細雨灑寒梅

     松江秋夕

   冷巷人稀暮月明

   秋風蕭索滿空城

   關山唯有寒砧急

   擣破思鄕万里情

     蓮

   愁心盡日細々雨

   橋北橋南楊柳多

   櫂女不知行客淚

   哀吟一曲采蓮歌

君にもらつた葡萄がいくら食つても食ひつくせなくつて弱つた 最後の一房を靜岡でくつた時には妙にうれしかつた 桃は橫濱迄あつた 旅行案内のすみヘ

   葡萄嚙んで秋風の歌を作らばや

と書いた まだ駄俳病がのこつてゐると思つた

京都では都ホテルの食堂で妙な紳士の御馳走になつた その人は御馳走をしてくれた上に朝飯のサンドウイツチと敷島迄贈つてくれた さうして画の話や文學の話を少しした わかれる時に名をきいたが始めは雲水だと云つて答へない やつとしまひに有合せの紙に北垣靜處と書いてくれた「若い者はやつつけるがいゝ 頭でどこ迄もやつつけるがいゝ」と云つた 後で給仕長にきいたら男爵ださうである 四十に近いフロツクを着た背の高い男だつた 一しよにのんだペパミントの醉で汽車へのつてもねられなかつた すると隣にゐた書生が僕に話しかけた 平凡な顏をした背のひくい靑年である 一しよに音樂の話を少しした 何故音樂の話をしたかは覺えてゐない 所がその靑年はシヨパンの事を話し出した シヨパンの數の少い曲のうつしくさ[やぶちゃん注:ママ。]は音と音と間にある間隙に前後の音が影響するデリカシイにあると云ふのである あとでその人のくれた名刺をみたら高折秀次としてあつた 僕はこの風采のあがらない靑年がシヨルツと一しよにシヨパンのノクテユルヌを彈いたのをきいた事がある 高折秀次氏は昨年度の音樂學校卒業生の中で一番有能なピアニストなのである

僕はこの二人の妙な人に偶然遇つた事を面白く思つた 何となく日本らしくない氣がするからである

うちへかへるとアミエルがきてゐた

皆樣によろしく 殊にわが敬愛する完ちやんによろしく云つてくれ給へ もう一つの手紙は公[やぶちゃん注:「おほやけ」。]の御礼の手紙だ

    廿三日夜九時     芥川龍之介

   井 川 恭 樣

 

[やぶちゃん注:書簡中の漢詩四首は既にサイト版の芥川龍之介漢詩全集 附やぶちゃん訓読注+附やぶちゃんの教え子T・S・君による評釈」で総て訓読して注釈も附してあるのでそちらを見られたい。

「根岸氏」不詳。しかし、かく井川に書き送っているからには、井川の知っている人物である。しかし、京都に一人で一泊したはずの龍之介が、この井川と共通の知人「根岸氏」なる人物に、どこでどうやって逢い、東京まで行くという、その「根岸氏」の知り合いを紹介してくれるという事実は、何か妙におかしい気がする。一番、自然なのは、松江を立つ際にこの、井川の知人である根岸氏が京都まで同行し、二人は京都で降りたが、その根岸氏の会社関係等の知人で翌日東京に立つ人物がいたことから、話し相手として紹介しておいて、そこで別れたというシチュエーションである。ともかくも、この根岸なる人物が判らないのはちちょっと痛い(筑摩全集類聚版脚注には注がない)。

「大分おんちだつた」この一文、筑摩全集類聚版ではカットされている。この「音痴」は自分の能力や他人の思惑にお構いなく、何かというと熱くなって喋りまくる人という意味であろう。

「都ホテル」明治二三(一八九〇)年に油商西村仁兵衛が華頂山麓に保養遊園地「吉水園」を創業し、十年後の明治三十三(一九〇〇)年にその園内に「都ホテル」を創業、以来、日本最大の観光地京都の迎賓館として最高級ホテルとして君臨し続けたそれ。現在の正式名称はウェスティン都ホテル京都」(グーグル・マップ・データ)。

「敷島」当時の煙草の銘柄。多くの作家の小説に登場する。明治三七(一九〇四)年六月二十九日から昭和一八(一九四三)年十二月下旬まで生産・発売された。参照した当該ウィキによれば、『発売当初は国産の高級たばこであった。なお、「口付」は現在のフィルターとは異なり、紙巻きたばこに「口紙」と呼ばれるやや厚い円筒形の吸い口を着けたもので、喫煙時に吸いやすいようにつぶして吸ったものである。敷島には、江戸時代から高級葉として知られる国分種など鹿児島産在来葉と水府葉(茨城県久慈地方で産した良質の葉)が』六十%『も使用されていた(同じ口付銘柄の朝日は』『四十%)』(「朝日」は私も大学生の初めの頃に吸ったことがある。口付は二箇所で互い違いに十字に潰すのが正統と教わった記憶がある)。

「雲水」行脚僧。

「北垣靜處」北垣確(読み及び生没年未詳)は画家で第三代京都府知事で当時は枢密顧問官を勤めていた北垣国道(くにみち天保七(一八三六)年~大正五(一九一六)年)の長男。同志社予備校に明治二〇(一八八七)年九月入校するも、翌年には同志社英学校を退校して慶応中学に転校、その後、京都市立工芸美術学校を出て、日本画家となり、「北垣静處」と号した。大礼使典儀官(天皇の即位の儀式の執行担当官)も務め、父と同じく男爵であった。以上は国立国会図書館の「レファレンス協同データベース」のこちらと、父親北垣国道のウィキを参考にした。当時、「四十に近」かったとすれば、明治一〇(一八七七)年前後の生まれか。

「ペパミント」リキュールの一種であるペパーミント酒(Peppermint liquor)。ペパーミント(シソ目シソ科ハッカ属ペパーミント Mentha × piperit の花を枝ごと、水蒸気蒸留して抽出した精油)をアルコール液に溶かして砂糖及び各種の芳香油エッセンスなどを加え、緑色色素で着色したもの。

「高折秀次」高折宮次(たかおりみやじ 明治二六(一八九三)年~昭和三八(一九六三)年:龍之介より一つ年下)。この大正四(一九一五)年に東京音楽学校器楽科を卒業し、大正十四年にドイツに留学して、レオニード・クロイツァー(Leonid Kreutzer ロシア語: Леонид Давидович Крейцер/ラテン文字転写:Leonid Davidovič Krejcer/カタカナ音写:レオニート・ダヴィードヴィチ・クレーイツェル 一八八四年或いは一八八三年~昭和二八(一九五三)年:ドイツと日本で活躍したロシア・サンクトペテルブルク生まれのピアニストで指揮者。昭和八(一九三三)年の再来日後、近衛秀麿の求めに応じてドイツに帰らず、死去するまで東京音楽学校(現在の東京芸術大学)教授を勤め、茅ヶ崎市に定住した)に師事し、翌大正十五年以降は母校で教えた。戦後の昭和二五(一九五〇)年に北海道大学教授となり、以後、北海道学芸大学教授・洗足学園大学教授を歴任した。演奏活動の他にウィーンやワルシャワでの国際音楽コンクールの審査員を務め、皇太后美智子にもピアノを教えている。著書に「ショパン名曲奏法」がある(以上は日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠った)。

「シヨルツ」パウル・ショルツ(Paul Scholz 一八八九年~昭和一九(一九四四)年)はドイツのピアニスト・音楽家。ライプツィヒ生まれ。既出既注であるが、再掲すると、ハンブルク音楽院からベルリン高等音楽学校に進み、一九一二年卒。翌大正二(一九一三)年に来日し、東京音楽学校でピアノ教師として多くの弟子を育てた。九年後の退職の後も東京高等音楽学院(現在の国立音楽大学)教師などを務め、東京を拠点にピアニスト・音楽教師としての活動を続けて演奏活動や後進の育成を行った。東京で亡くなった。

「ノクテユルヌ」フランス語「ノクチュルヌ」(nocturne)。夜想曲。ショパンの全二十一曲がピアノ曲のそれとして最も知られる。

「アミエルがきてゐた」人ではない。スイスの哲学者・詩人で文芸評論家でもあったアンリ・フレデリック・アミエル(Henri Frédéric Amiel 一八二一年~一八八一年)の三十年に渡って書かれ、死後に出版された「アミエルの日記」のことである(Tagebuch :「ターゲブー」ドイツ語で「日記」。一八三九年~一八八一年)。一万七千ページに及ぶもの)。ウィキの「アンリ・フレデリック・アミエル」によれば、これは彼の死後、発見されたもので、発見されて間もなく、二巻本として刊行されるやいなや、『その思想の明晰さ、内省の誠実さ、個々の正確さ、実存の諦念的な幻想や自己批判的な傾向などにより、世間の耳目を引き寄せた。この日記は』十九世紀末から二十『世紀の』、『スイスのみならず』、『ヨーロッパの作家たちにも大きな影響を及ぼした。その影響をこうむった作家の中には、レフ・トルストイも挙げられる。日本でも戦前から翻訳され、河野与一訳(岩波文庫全』四『巻)や土居寛之抄訳(白水社)で長く読まれている。「心が変われば行動が変わる/行動が変われば習慣が変わる/習慣が変われば人格が変わる/人格が変われば運命が変わる/運命が変われば人生が変わる」が有名である』とある。私も二十代前半に岩波版を買ったものの、一巻目でリタイアした。

「完ちやん」井川の下の弟。末っ子。関口安義氏のシンポジウム記録・論文「文学青年から法科志望へ―恒藤恭の新たな出発―」(PDF)の注の⑴に、井川恭は八人兄弟の第五子で、上に三人の『姉(フサ(房)、シゲ(繁)、セイ(清)と一人の兄、亮ががおり、下に一人の妹、サダ(白)と二人の弟、真と完がいた』とある。彼自身の名からみて、「かん」と読んでよかろう。

「もう一つの手紙は公の御礼の手紙だ」こちらの方は旧全集には載らない。

「廿三日夜九時」帰宅した翌日の夜である。]

芥川龍之介書簡抄43 / 大正四(一九一五)年書簡より(九) 松江便り三通

 

大正四(一九一五)年八月六日・松江発信・芥川道章宛・(絵葉書)

 

松江へ安着いたしましたから御安心下さいまし

汽車の中では天氣が惡かつたおかげで少しも暑い思をしずにすみました

松江は川の多い靜な町で所々に昔の土塀がそのまゝのこつてゐます 雨の中を井川君と車で通つた時にその土塀の上に向日葵の黃色い花のさいてゐるのが見えました

井川君の家は御濠の前で外へ出ると御天主が頭の上に見えます

 

[やぶちゃん注:先の八月二日の葉書通りの行程と時程で芥川龍之介は松江に着いた。松江では井川恭の配慮で、気兼ねなく滞在出来るように、借家が用意されていた。その位置と志賀直哉との奇縁は「芥川龍之介書簡抄41 / 大正四(一九一五)年書簡より(七) 井川恭宛」の私の注で記してあるので参照されたい。松江には十七日間滞在し、八月二十一日に松江を出発し、当日は京都のホテルに一泊して、翌二十二日に田端に帰宅している。]

 

 

大正四(一九一五)年八月十四日・松江発信・藤岡藏六宛(自筆絵葉書)

 

松江へ來てからもう十日になる大抵井川君とだべつてくらしてゐる湖水や海で泳いだりもした本は殆よまない少し胃病でよわつてゐる松江は川の多い靜な町である町はづれのハアン先生の家もさびしい井川君のうちは濠の岸にある濠には蘭や蒲が茂つてゐる中で時々かいつぶりが鳴く丁度小さな鳴子をならすやうな聲だ廿日頃に東京へかヘる 匆々

    十四日午後      芥 川 生

 

[やぶちゃん注:「ハアン先生」言わずもがな、小泉八雲(出生名:パトリック・ラフカディオ・ハーン Patrick Lafcadio Hearn 一八五〇年六月二十七日~明治三七(一九〇四)年九月二十六日:帰化(入籍)は明治二九(一八九六)年二月十日)である。彼は、明治二三(一八九〇)年八月末に松江に到着し、島根県尋常中学校英語教師となったが、翌年十一月に熊本の第五高等学校に転出した。ここで龍之介の言っているハーンの旧宅はここ(現在の小泉八雲記念館。グーグル・マップ・データ。以下同じ)。因みに、私は小泉八雲の来日後に刊行した作品の総ての作品の訳(全て私のオリジナル注釈附き)をブログカテゴリ「小泉八雲」で公開している。これは私の電子化注の特異点と自負している。

「カイツブリ目カイツブリ科カイツブリ属カイツブリ亜種カイツブリ Tachybaptus ruficollis poggei 。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鸊鷉(かいつぶり)」を参照されたい。YouTube miyakowasure001氏の「カイツブリの鳴き声(パラボラ集音マイク使用)」をリンクさせておく。]

 

 

大正四(一九一五)年八月二十一日・松江発信・淺野三千三宛・(絵葉書)

 

出雲は楯縫秋鹿(アイカ)十六(ウプ)類などとゝふ地名から中海にあるそりこ舟まで何となく神代めいてゐますこの大社も社殿の建築が上代の住宅の形式と一つになつてゐるので一層古事記めいた興味を惑じます杵築は靑垣山をうしろに靜な海にのぞんだ神さびた所です

 

[やぶちゃん注:「楯縫」(たてぬひ)は出雲国(島根県)にあった旧郡名。明治中期まであった郡域は現在の出雲市の一部に当たる。当該ウィキの地図を参照。宍道湖の西岸で出雲大社の東方までが相当する。

「秋鹿(アイカ)」現在の島根県松江市秋鹿町(あいかちょう)。宍道湖の中央北に縦にある。

「十六(ウプ)類」島根県出雲市十六島町(うっぷるいちょう)の誤り。島根半島西北端に当たる。岩海苔の一種である十六島海苔(紅色植物門紅藻亜門ウシケノリ綱ウシケノリ目ウシケノリ科アマノリ属ウップルイノリ Porphyra pseudolinearis の産地として知られる。貝原益軒は「大和本草卷之八 草之四 紫菜(アマノリ) (現在の板海苔原材料のノリ類)」で『「ウツフルヒ」とは海中の苔をとり、露を打ちふるひてほす故に名づくと云ふ。この苔の名によりて、其の島の名をも「うつふるひ」と云ふ』などと、まことしやかに記しているものの、私はその注で述べた通り、他の海藻類だとするならまだしも、この岩礁にへばり付いているウップルイノリは、摘み採って「笊で水切りする」のであって、「打ち振って」処理するタイプの海藻ではないから、私は信じ難い。現在も朝鮮語の古語で「多数の湾曲の多い入江」という意とする説、アイヌ語説(発音的にはそれらしく、アイヌ語では一説に「松の木が多いところ」若しくは「穴や坂や崖の多いところ」という意味である可能性が高いとされる)、十六善神(じゅうろくぜんしん:四天王と十二神将とを合わせた計十六名の、「般若経」を守る夜叉神とされる護法善神のこと)信仰と関連するなど、諸説あるものの、定かでない。なお、この話をすると「島が十六あるんじゃないの?」と聴かれることしばしばであるが、ご覧の通り(グーグル・マップ・データ航空写真)、島や岩礁は十六どころじゃない、もっといっぱいある。私の寺島良安の「和漢三才圖會 卷第九十七 水草 藻類 苔」の「雪苔(ゆきのり)」及び「大和本草卷之八 草之四 黑ノリ (ウップルイノリ)」も参照されたい。

 なお、芥川龍之介松江滞在中の様子は既に述べた通り、私の、

ブログ・カテゴリ「芥川龍之介」で、二十六回分割で『井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む)』

を、さらに、

サイト版『芥川龍之介「松江印象記」初出形』

も公開している。また、他に、

「やぶちゃん版芥川龍之介句集 二 発句拾遺」の「松江連句(仮)」

なども、是非、見られたい。これは松江の方の非常な協力を得て注を施したもので、岩波新全集にまで誤って活字化されている井川の句の前書の誤り(「直山」は「眞山」(しんやま)の旧全集編集者の判読の誤りで、それが現在までそのままとなっているのである)を発見しているのである。

芥川龍之介書簡抄42 / 大正四(一九一五)年書簡より(八) 井川恭宛三通

 

大正四(一九一五)年七月二十一日・消印二十六日・出雲國松江市内中原御花畑一八七 井川恭樣・七月二十一日 田端四三五 芥川龍之介

 

出かけるのが遲れたのは實はたのまれた飜譯物があつてそれが出來上るまでは東京をはなれられないからである この月末迄にまだ百五十枚はかかなければならない 考へてもいやになる

出雲は涼しいかね 東京の暑さは非常なものだ 大抵九十度以上になる 裸でじつと橫になつてゐても汗がだらだらでる だから弱つた事も一通りではない これで二十何時間も汽車へのつてゐたら茹り[やぶちゃん注:「ゆだり」。]はしないかなどゝも思ふ 兎に角出雲へゆく迄の間が大分暑さうだが今をはづすと一寸行く機會もないだらうと思ふから事故の起らない限り八月一日か二日位に東京をたたうと思ふ 八月上旬は僕が每年東京を出る時になつてゐるのである

實はしばらく手紙がこなかつたので或は都合が惡くなつたのかと思つて中途半ぱな心配も少しした、

何にしてもかう暑くつてはやり切れないから用のすみ次第出たいと思ふ その爲に吳々も出雲の湖水の上のすゞしからむ事を祈る

   八雲たつ出雲の國ゆ雲いでて天ぎらふらむ西の曇れる

   はろかなる出雲の國ゆ天津風ふきおこすらむ領巾(ひれ)なす白雲

   そのむかし出雲乙女は紅の領巾(ひれ)ふりふりて人や招(ま)ぎけむ

   紅の領巾ふる子さへ見えずなりて今あが船は韓國に入る

   いづちゆく天の日矛ぞ日の下に目路のかぎりを海たゝヘけり

   こちごちのこゞしき山ゆ雲いでて驟雨(はやち)するとき出雲に入らむ

   その上の因幡の國の白兎いまも住むらむ氣多の砂山

    七月廿一日

   井 川 君 案下

 

[やぶちゃん注:「出かけるのが遲れたのは實はたのまれた飜譯物があつてそれが出來上るまでは東京をはなれられないからである この月末迄にまだ百五十枚はかかなければならない 考へてもいやになる」前回分の私の「今月の末までは手のぬけない仕事がある」の注を参照。

「九十度」華氏。摂氏三十二・二度。

「韓國」「からくに」。この前後の歌は、雲の形容としての「領巾(ひれ)」(古代の服飾具の一つ。女性が首から肩に掛けて左右に垂らして飾りとした布帛(ふはく))の連想から、かなり自由勝手な想像を働かせてシチュエーションを複数の和歌や伝説伝承に合成して詠んでいる。最初に、男にあどけなく美しく領巾振る出雲の純真な乙女のイメージは万葉世界に遡り、次いで、この三韓征伐の出征兵士との別れに領巾振る女、それは再び「万葉集」にフィード・バックし、肥前国松浦の東に住んでいたという伝説の美女松浦佐用姫(まつらさよひめ:任那救援に赴く途中の大伴狭手比古と契り、その離別に際して山に登って領巾を振り続けて遂に石に化したという)のイメージを出雲に移したかと思えば、またまた遡っては、「天の日矛」(あめのひぼこ)の渡来シーンにすげ替えている。「天の日矛」は「天日槍」とも書き、記紀の伝承に登場する新羅からやってきた王子の名で、「古事記」には「天之日矛」として出、他に「海檜槍」「天日桙」とする。伝承では以下の通り。彼の男根に日が当たり、女が赤い玉を生む。天之日矛がそれを手に入れると、赤い玉は女と化したので彼は彼女を妻としたが、女は祖国であった日本の難波へ逃げ帰ったので、天之日矛はそれを追って来日する。しかし、難波へは入れず、但馬の出石(いづし)に留まって多遅摩俣尾(たぢまのまたを)の娘前津見(まへつみ)を娶り、子孫を成したという(その後裔の一人が神功皇后)。「日本書紀」は渡来時期は垂仁三年(機械換算紀元前二四)とし、播磨・淡路・山背(現在の京都府)・近江・若狭、そして但馬への歴訪を語ってる(後裔に田道間守(たじまもり))。天日槍伝承は「播磨国風土記」・「筑前国風土記逸文」などにも多様な構成で見え、早い段階から各地に浸透したことが推定されている。天日槍は数種の神宝を招来するが、ともに但馬の出石神社との関りを示唆している。伝承の基礎は出石神社を奉斎する一族の始祖伝承に、矛槍を祭具とする太陽信仰・各地の渡来系氏族伝承が融合して形成されたものと考えられている(以上の「天の日矛」以下は主文を「朝日日本歴史人物事典」に拠った。思うところあって人名は歴史的仮名遣で附した)。兵庫県豊岡市出石町宮内にある但馬國一宮出石(いずし)神社(グーグル・マップ・データ)が「天の日矛」伝説と深い関わりを持つが、ここは龍之介が今回の旅でプレに宿泊することとなる城崎の十七キロメートルほど南南東の奥の位置にあり、近い。

「氣多」(けた)は「古事記」の大国主命の伝承で語られる「因幡の白兎」の舞台で、現在の鳥取県鳥取市白兎周辺(グーグル・マップ・データ)。]

 

 

大正四(一九一五)年七月二十九日・出雲國松江市内中原御花畑 井川恭樣・自筆絵葉書

 

Iwa
 
 

Mouh

 

差支へさへなければ三日に東京をたつ

五日には松江へゆけるだらう

よろしく御ねがひ申します

                   龍

 

[やぶちゃん注:ルノアール風の絵。この年の春、ルノアールの原画を見て、龍之介はいたく感動している。「大正四(一九一五)年四月十四日・田端発信・井川恭宛(転載)」を見られたい。画像は底本(岩波旧全集)のもの(上)と、所持する「もうひとりの芥川龍之介展」の冊子「もうひとりの芥川龍之介」(一九九二年産經新聞社発行)のもの(下)とをトリミングして補正せずに示した。後者の方が地塗りのタッチは比較的よく判るか(後者ではキャプションに『泣く女』とするが、まあ、そうだろうが、これは同図録の編者の施したものである。なお、同冊子は末尾に「禁無断転載」とするが、パブリック・ドメインの作品を単に平面的に撮影したものに著作権は発生しないというのが文化庁の正式見解である)。]

 

 

大正四(一九一五)年八月二日・田端発信・井川恭宛・(葉書・転載)

 

明三日午後三時廿分東京驛發

 四日午前五時廿七分京都驛着

 〃 〃 七時廿分 〃  發

 〃 午前十一時卅九分城崎着(一泊)

 五日午前九時八分    發

 〃 午後四時十九分松江着

大體右の如き豫定にてゆくべく候 匆々

 

2021/04/23

大和本草附錄巻之二 魚類 吹鯋 (「ゴリ」類或いはカジカ・ウツセミカジカ等)

 

吹鯋 別是一種山谿小魚也大如指狹圓而長身

有黑㸃嘗張口吹沙其味美故魚麗之詩稱馬鱨

鯊コレ也ゴリ。ウロヽコ。ハゼ。ドンホ。カジカノ類也

○やぶちゃんの書き下し文

吹鯋 別に是れ、一種、山谿〔(さんけい)〕の小魚なり。大〔いさ〕、指のごとく、狹く、圓〔まる〕くして、長し。身に黑㸃有り。嘗つて、口を張りて沙を吹く。其の味、美〔(よ)〕し。故、「魚麗」の「詩」に稱す「馬鱨鯊」、これなり。「ごり」「うろゝこ」「はぜ」「どんほ」。「かじか」の類なり。

[やぶちゃん注:渓谷に棲息する淡水魚で、食用とされ、しかも味がよく、円(頭部)くて長く、黒点を有し、異名に「ごり」「うろゝこ」となると、これは「大和本草卷之十三 魚之上 ゴリ」の注で示した、広義の「ゴリ」類(多数の縁遠い種群を多数含む)或いは、そこで限定同定候補とした、所謂、金沢料理の至宝「ゴリ料理」の材料となる、

条鰭綱カサゴ目カジカ科カジカ属カジカ Cottus pollux (日本固有種。体長は15~17cm前後。北海道南部以南の日本各地に分布。「ドンコ」の異名でも知られ、ここに出る「杜父魚」(とふぎょ)も現行ではこのカジカの異名とされることが多い。「大和本草卷之十三 魚之下 杜父魚 (カジカ類)」も参照されたい)

カジカ属ウツセミカジカ Cottus reinii (日本固有種。体長は10~17cm程度。北海道南部・本州・四国・九州西部の分布(主に太平洋側とも)。嘗ては琵琶湖固有種とされたが、全国的に広がっている小卵型の個体群と琵琶湖産のそれは遺伝的な差が僅かにしかないことが判明している)

カジカ属アユカケ Cottus kazika (日本固有種。体長は5~30cm程度で上記二種よりも大型個体が出現する。「カマキリ」は異名。胸鰭は吸盤状ではなく、分離している。鰓蓋には一対の大きい棘と、その下部に三対の小さい棘を持ち、和名は、この棘に餌となる鮎を引っ掛けるとした古い伝承に由来する)

等が挙げられる。私は富山に六年間居住していた関係上、三種孰れも食したことがあるが、孰れも美味い。特に正月の甘露煮でアユカケ(頭部が非常に巨大であった)を食べた時のそれは忘れられない。現在はどれも個体数が激減し、「ゴリ料理」は幻しの域に入りつつある。先の本巻分では、かなり細かく考証したので、詳しくはリンク先を見られたい。

「吹鯋」原本の国立国会図書館デジタルコレクションの当該部の画像を視認しても判るが、この二字の右手には熟語を示す「-」が引かれてある。しかも当て訓がないとなれば、これは「スイサ」と音読みするべきであろうか。或いは訓じて「すなふき」でもよいか。「鯋」は「鯊」(はぜ)と同字であるから、「川床の砂を吹くハゼ様(よう)の魚」の意である。但し、彼らは純然たるベントス食ではなく、摂餌対象は底生生物の他に水棲昆虫や小魚である。

「嘗つて」意味不詳。或いは、過去の幼魚期に川底の砂を吹いて水棲昆虫の幼体などを食すことを言っているものか? アユカケではそれが確認されていることが、当該ウィキで判る。

『「魚麗」の「詩」に稱す「馬鱨鯊」、これなり』これは「詩経」の「小雅」の「白華之什」の中にある詩「魚麗」篇を指す。

   *

 魚麗

魚麗于罶鱨鯊

君子有酒旨且多

魚麗于罶魴鱧

君子有酒多且旨

魚麗于罶鰋鯉

君子有酒旨且有

   *

 魚麗

魚麗(うをやな)に罶(か)かるは 鱨(ぎばち)に鯊(すなふき)

君子に酒有り 旨(うま)く 且つ 多し

魚麗に罶かるは 魴(おしきうを)に鱧(やつめうなぎ)

君子に酒有り 多く 且つ 旨し

魚麗に罶かるは 鰋(なまづ)に鯉

君子に酒有り 旨く 且つ 有り

   *

訓読は田中和夫氏の論文「『毛詩正義』小雅「魚麗」篇譯注稿――毛詩注疏 巻第九 九之四 魚麗」――」(二〇一一年十二月宮城学院女子大学発行『日本文学ノート』所収。こちらからPDFをダウン・ロード出来る)を参考にした。通釈と解説は個人ブログ「温故知新 故きを温め新しきを知る」の「魚麗(ぎょろ) 詩経」が明治書院「詩経」からで、手っ取り早いかとは思われる。「魚麗」は魚を捕るための仕掛けである竹で編んだ籠状の梁(やな)。「罶」は本来は梁を指すが、それを動詞化した。「鱨(ぎぎ)」は訓からナマズ目ギギ科ギバチ属 Tachysurus の類であろう(毒針を有する)。「魴(おしきうを)」条鰭綱コイ目コイ科コイ亜科 Megalobrama 属ダントウボウ Megalobrama amblycephala 。中国名は「武昌魚」。中国では属名はまさに「魴属」である。なお、本種は霞ケ浦に中国から移植されている。「鯊(すなふき)」は、しかし、カジカとは異なる。何故なら、カジカ類はそもそもが、日本固有種だからである。中国の淡水産のそれを同定することは私には出来ない。悪しからず。ともかくも、益軒が鬼の首捕ったようにブチ挙げているのは、誤りであるとはっきり言える。というより、もうお判りかと思うが、益軒は本詩篇をちゃんと読めてないのである。彼は「鱨鯊」を三文字で、魚の名前とやらかして(稱」が確信的な証拠)、しかも「」を馬と誤読するという致命的な多重の誤りをやらかしてしまっているのである。完全な外れとは言えないものの、はっきり言うと、書かない方がよかった部類だと私は思う。前の二字をないものとしてあげたい気持ちが強く働く。

『「ごり」・「うろゝこ」・「はぜ」・「どんほ」。「かじか」の類なり』「どんほ」は恐らく「杜父(とほ)魚」の訛りであろう。大和本草卷之十三 魚之下 杜父魚 (カジカ類)」で広義の「かじか」類の、益軒の挙げている異名を列挙した。

   *

「川(カハ)ヲコゼ」・「石(イシ)モチ」・「チンコ」・「子(ネ)マル」・「ドンホ」・「杜父(トホ)」・「道滿(ダウマン)」・「河鹿(カジカ)」・「ゴリ」・「ダンギボフズ」

   *

で、さらに標題の「杜父魚」がある。しかし実はそれ以外にも、「石伏(イシブシ)」・「石斑魚(イシブシ)」・「霰魚(アラレウオ)」・「川鰍(カワカジカ)」・「グズ」・「川虎魚(カワオコゼ)」など多彩である。川魚は内陸性であるから、地方名が相互に関わりを持つことが海水魚に比べて非常に低い(閉鎖的命名)とは言えるけれども、かく異名が異常に多いこと自体が「かじか」と呼ばれる魚が実は多岐の種に及んでいることの一つの証左ともなると私は考えている。]

伽婢子卷之三 梅花屛風 / 伽婢子卷之三~了

 

   ○梅花屛風(ばいかのびやうぶ) 

 天文のすゑ、京都の兵亂、打續き、三好と細川家、年を重ねて合戰に及び、その時の公方(くばう)は光源院源義輝公、しばしば、是を鎭めんと謀(はかり)給へども、威、輕く、權、薄くして、更に是を用ひ奉る人、なし。

 こゝに周防の國山口の城主太宰大弐義隆は、そのころ、從二位の持從に補任せられ、兵部卿を兼官して、權威高く西海に輝きしかば、公卿・殿上人、多く、義隆を賴みて、周防の國に下り、山口の城に身を隱し、世の亂(みだれ)を逃れ、京の騷ぎを免がれ給ふ。

 然るに、義隆、久しく武道を忘れ、詩歌風詠の遊びを事とし、侫人(ねいじん)を近づけ、國政をないがしろにし、物の上手と言えば、諸藝者、多く集めて、晝夜、榮耀をほしいまゝにせられしかば、その家老陶(すへ)尾張守晴賢、謀反して、義隆を追出し、長門の大亭寺に押詰め、義隆、つひに自害せらる。

 尾張守は、豐後の國主大友入道宗麟が舍弟三郞義長を、山口の城に迎へて、主君とし、政道、執(とり)行ふ。

 此時に當つて、前〔さきの〕關白藤原尹房(たゞふさ)、前左大臣藤原公賴(きんより)は、山口の城を迯出〔にげいづ〕るに度(ど)を失ふて、流矢にあたりて、薨じ給ふ。從二位藤原親世(ちかよ)は髮を剃りて逃れ出給ふ。

 其中にも、中納言藤原基賴卿は、謀〔はかりごと〕逞しく、しかも諸藝に渡り、繪、よく書給ひ、手跡・哥の道に賢きのみならず、武道を心に掛け、馬にのりて手綱の曲(きよく)を究め、水練に其術を傳へ、半日ばかりは、水底〔みなそこ〕にありても、物とも思はず、又、よく、水を泳ぎ、潜る事、魚の如し。

 これは殊更に、義隆、都に上りける時は、官加階の事、よろず、執(しつ)し申給ひて、禁中の事、とかく懇ろに取まかなひ給ふ故に、此度〔このたび〕、京都の兵亂にも、別義を以て、山口によびくだし參らせ、かしずき、もてなし、城の外に家造りして置き奉らる。

「此上は。」

とて、妻妾(さいせう)・奴婢(ぬび)まで、よびくだし、暫くは心安くおはしけるに、俄に、陶(すゑ)が謀反、起こりしかば、中納言殿は北の方・家人(けにん)等、重寶(ちやうはう)の道具ども、船に取積み、夜もすがら、山口の城を迯げ逃れて、京都を心ざして上られたり。

 安藝の國に入て、「高砂(たかさご)」・「たゞの海」まで漕つけて、風あしければ、鹽がゝりし給ふ。

 北の方、なくなく、かくぞ、聞えし。

  たゞの海いかにうきたる船のうへ

   さのみにあらきなみまくらかな

 夜ふけがた、月、傾(かたふ)きけるに、中納言殿、酒、取りいださせ、北の方もろともに、少しづゝ打飮み、破子(わりご)やうの物、取開らき、舟人にも食はせなむど、し給ふ。

 舟人は、こゝより一里ばかり東のかた、能地(のうち)といふ所の者なるが、船に積みたる諸道具・財寶、皆、金銀をちりばめ、絹・小袖、多く見えしかば、舟人、忽ちに惡心をおこし、

『今宵、此ともがらを殺し、財寳を奪ひとり、德つかばや。今の世は、所々、みだれ立〔たち〕て、さして咎むる人も有まじ。』

と思ひ、夜、いたく更て、月も入はて、暗き紛れに、家人等男女三人は、海へ投げ入たり。

 

Bb1

 

 中納言殿、聞付けて、起立ち給ふ所を、後(うしろ)にまはりて、はねあげ、海に投げ入たり。

 北の方、

「これは、いかに。」

と、のたまふを、舟人、捕へていふやう、

「心安く思ひ給へ。君をば殺すまじきぞ。わが子、二人あり。太郞には新婦(よめ)迎えて、次郞には、まだ、妻もなし。わが新婦にすべし。」

とて、舟を出し、能地の家に歸り、財寳・小袖やうの物、出し、賣りけり。

 北の方、

「心地、少しあしければ、よくならんまで、待給へ。次郞殿と夫婦になり侍べらん。」

とありしに、舟人、嬉しげ也。

 九月十三夜、舟人、子ども・新婦・姑、打つれて、舟に乘りつゝ出て遊び、夜ふけ方、皆、酒に醉(ゑひ)て、前後も知らず、臥たりけるを、中納言殿の北の方、ひそかに岸にあがり、足に任せて、夜もすがら、走り迯げつゝ、夜の明方に狐崎(きつねさき)の「かれいの山」もとに、かゝぐりつき給ふ。

 步みもならはぬ濱路・山道を凌ぎ越ゆるに、

「跡より、追手(おうて)やかゝるらん。」

と、悲しく、怖ろしく、足は、ちしほのくれなゐの如く、茨(いばら)に搔破(かきやぶ)り、石に損ぜられ、兎角して、明〔あけ〕はなれたる霧のまぎれより見れば、林の中に、家あり。

 

Bb2

 

 門の内に走り入ければ、經讀み、念佛する聲、聞え、尼一人、立出て、

「是は。こゝもとには見馴れぬ人なり。如何なれば、朝まだきに、かちはだしにて、是へは、おはしける。」

と問に、北の方、

「みづからは、和布苅(めかり)のとまりに住ものにて侍べり。我夫は、去年、都に上りて、うたれ、孀(やもめ)となりて、姑(しうとめ)に仕へ參らするに、姑の心、はしたなく、又、小姑、つらく當り、剩へ、あらざる濡衣、着せて、浮き立ち、よる晝、ものうき事、いふばかりなし。今夜、『十三夜の月見に』とて、家内、舟に乘りて、酒、飮みつゝ、みづからに、酌、取らせ侍べり。過ちて、盃を海に落しぬ。さだめて恐ろしき責(せめ)に逢ひ侍べらん事の悲しさに、夜に紛れて逃げ走り、是(これ)まで、さまよひ參りて侍べり。」

といふて、淚を流す。

 尼のいふやう、

「同じくは是より家に歸り給へ。我等、送りて、姑の託言(わびこと)すべし。若し又、ここもとにして夫(をとこ)持ち給はんには、然るべき媒(なかだち)を賴みて參らせむ。とにかくに、世の常ならぬ御有さまの、痛はしさに申すぞや。」

といふに、北の方、更に受(うけ)こはず、唯、

「尼になして、たべ。」

とばかり仰せけり。

 尼のいふやう、

「此所は、昔、淳和天皇の后、出家して武庫(むこ)の山に籠り、『如意比丘尼』と申き。此人、修法のいとま、こゝに來り、浦島子(うらしまがこ)が箱を納め、空海和尙を以て、供養したまへる寺なれども、時世移りしかば、幽かなる跡となり、其時作り給へる、櫻木の如意輪觀音の胸の内に、かの箱を納められ、靈佛にておはしけるに、國の守(かみ)、掠め取り、其家、共に燒(やけ)、亡(ほろ)び給へり。然るに、此寺は、濱近くして、波の音、騷がしく、人影まれに、蓬・葎(よもぎ・むぐら)しげりつゝ、たまたま友とするものは、うしろの山に叫ぶ猿の聲、前なる潮(しほ)に千鳥のなく音〔ね〕、松吹く風、岸うつ波、これより外には、言問(ことゝ)ひ交(かは)す者、なし。同行〔どうぎやう〕の尼三人、何れも五十ばかりの年にて、召使はるゝ侍者(じしや)の尼も、齡(よは)ひは若かけれども、おこなひは、愼めり。今、君、美しき花の姿を墨染にやつし、柳の髮を剃り落として、尼となり給はんは、いと惜しき事ながらも、愛着・執心を切り離れて、誠の道に入ぬれば、身は幻の如く、命は露に似たり。今、出家し給はゞ、坐禪の床に妄念の雲を拂ひ、燈明の光に無明の闇を照し、香の煙は、おのづから心法の穢(けがれ)を拂ひ、花を摘めば、ひたすら煩惱の焰、凉くなり、朝(あした)には、粥を食(じき)し、午(むま)の剋(こく)に齋(とき)を行ひ、緣に隨ひ、あるに任せて、年月を送る。恨もなく、嫉みもなし。心靜かに、身穩か也。徒(いたづら)に世にかゝはりて、苦しき物思ひに來世の愁へを求めむよりは、世を厭うて出離(しゆつり)の道を行はんには、まさるべからず。」

と述べられたり。

 北の方、やがて、佛前にまうで、髮切りて剃らせ、法名「梨春」とぞいひける。

 もとより、此女房は、いとけなき時より、歌・草紙讀み、手ならふ事を、のみ、書典(しよでん)を讀みては、文字(もんじ)、ことごとく覺えし人なりければ、出家して幾程もなきに、内典(ないでん)・經論の深き理〔ことわり〕を悟れり。

 院主の尼公も、後には皆、此梨春に尋ねてこそ、佛法の理、經論の文義(もんぎ)をも會得せられけれ。

 梨春、かくぞ、口すさびける。

 中々にうきにしづまぬ身なりせば

   みのりの海のそこをしらめや

まことに、「佛種は緣より起る」とは、これらぞ、ためし也ける。

 常には奧深く引籠り、聖敎(しやうげう)に眼(まなこ)をさらし、容易(たやす)く人にも、逢ふ事、なし。

 或日、一人の俗、來りて、院主の尼公に、

「心ざす事、侍べり。經讀みて給(たべ)。」

とて、布施物(ふせもの)參らせ、一幅の梅の繪を、

「供養のため。」

とて、佛前に打置たり。

 尼公、是を取りて、屛風におされたり。

 梨春、是を見るに、まさしく、我箱に入〔いれ〕たる繪なり。

 尼公に、

「如何なる者の、奉りし。」

と、とふに、

「是は能地の舟人、此寺の檀那にて、來〔きた〕る。世にいふ、『此者は、人を殺し、剝掠(はぎかすめ)て世を渡る』といふ、誠か、知らず。」

と語る。

 梨春、

『さては。疑ひなく、彼(か)の舟人よ。』

と、思ひながら、色にも出〔いだ〕さず、筆を取りて、繪の上に書けるは、

 わがやどの梅の立枝〔たちえ〕を見るからに

   思ひの外に君や來まさむ

 尼公、更に其下心(した〔ごころ〕〕を知らず、唯、美しき筆の跡を譽めたるばかり也。

 古歌の言葉を少し引直しける、いと思ひ入りたる心、ありけむ。

 備後の國鞆(とも)の住人品治(ほんぢ)九兵衞といふ者、子細ありてこの寺に來り、

「屛風の繪と歌と。何れも、不思議の筆跡なり。」

と、見咎め、尼公に請(こひ)受けて歸り、わがすむ所に立〔たて〕て、もてあそぶ。

 こゝに中納言基賴卿は、敢(あえ)なく、水中に突落され給ひしか共、元より、水練の達者なれば、波をくゞり、潮(うしほ)をしのぎて、十町許りの末にて、岸にあがり、それより、足に任せて、備後の國鞆の浦まで落ち來り、山名玄番頭(げんばのかみ)が家にいたり、

「奉公せん。」

と、のたまふを、人々、世の常ならぬ有樣を見咎め、山名に、

「かうかう。」

と、いひければ、出〔いで〕て對面し、奧に呼入て、こまごまと、とひ聞けるに、ありの儘に語り給ふ。

「扨は。痛はしき御事かな。京都も未だ靜かならねば、上り給ふとも住所(すみ〔どころ〕)あるべからず。暫くこれにおはして、世の變をも見給へ。」

とて、とゞめおく。

 品治九兵衞は玄番頭が家人なりければ、

「かやうの物、求めたり。」

と物語するに、中納言殿、心もとなく、取寄せて見給ふに、覺えず、淚ぞ、流されける。

 山名、あやしみて、問ければ、中納言殿、

「是は某(それがし)の書きたる繪なり。此歌は、まさしく、我妻の手跡也。『たゞの海』にて、妻子・家人、皆、水中に沈められし。財寶は、殘らず、舟人の爲に取られぬらん。妻は如何にして、命、生(いき)けん。此畫(ゑ)は、何の故に、此歌をかきて出〔いだ〕しぬらん。」

と、のたまふ。

 山名、則ち、品治(ほんぢ)をめして、つぶさに尋ねければ、院主の尼公(あまぎみ)、はじめよりの事を語りけり。

 梨春に對面して、

「ありの儘に語り給へ。」

といふに、

「今は何をか包み侍べらん。」

とて、舟人の有樣、語り給ふにぞ、疑ひもなく、中納言殿の北の方とは知られけれ。

 

Bb3

 

「扨は。」

とて、鞆の浦へ呼び迎へ參らせ、中納言殿と對面しては、たゞ夢のやうにぞ覺え給ひける。

 かはる姿とて、互ひに衰へ給ふ有さま、今更、哀れぞ、まさりける。

 暫く、鞆におはしける間(あひだ)に、京都の世の中、移り替り、三好・松永、滅びて、義昭將軍、武運、開けしかば、都に上らむとし給ふ處に、中納言殿、俄に、いたはりつき、て空しくなり給ふ。

 梨春は直(すぐ)に尼になり給ひ、廿日ばかりののち、打續きて、夢に、『中納言殿、さそひ來り給ふ』と見て、程なく、北の方も、むなしくなり給ふ。

 山名、是を、同じ所に埋み奉りけり。

 中陰のはての日、二つの塚より、白き雲、立のぼり、西をさして行くか、と見えし。

 異香(いきやう)、すでに山谷〔さんこく〕にみちみちたり。

 時の人、奇特(きどく)の思ひを、なしけり。

 

伽婢子卷之三終

 

[やぶちゃん注:本篇の挿絵は特異的に底本の昭和二(一九二七)年刊の日本名著全集刊行會編「江戶文藝之部」第十巻「怪談名作集」を用いた。「江戸怪談集」及び「新日本古典文学大系」版は擦れ・白飛びや、人物の顔が潰れていたりで、見るに堪えないからである。

「天文のすゑ……」既に同一の作品内時制で歴史的な内乱の事実やそれに関わった武将らについては、さんざん注してきたので、ここでは省略する。話柄そのものに関わらない歴史上の人物も省略するか、簡単なものに留めた。最後に「三好・松永、滅びて、義昭將軍、武運、開けしかば」とあることから、本話柄内時制は歴史的には天文一七(一五四八)年頃(翌天文十八年六月末には三好長慶が主筋である管領細川晴元に逆らって三好政長(宗三)を討伐した「江口の戦い」が起こっている)から天正六(一五七八)年頃までという、特異的に三十年という長い設定となることになる。室町幕府第十五代にして最後の将軍となった足利義昭は、混迷する京都の統御力を完全に失い、天正四(一五七六)年二月に西国の毛利輝元を頼って、その勢力下にあった備後国の「鞆の浦」に移った(ここは嘗て足利尊氏が光厳上皇から新田義貞追討の院宣を受けた由緒ある場所であり、第十代将軍足利義稙(よしたね)が大内氏の支援の下で京都復帰を果たした地でもあった)。義昭はこの地から京都への帰還や信長追討を目指して全国の大名に御内書(室町幕府の将軍家が発給した文書の名称。様式は公式文書の御教書(みぎょうしょ)に対して、私的な普通の書状の形ではあるが、次第に公的意義を持つようになった。将軍以外の関係者の副状(そえじょう)が添えられた場合もあった。なお、徳川将軍家もこの御内書を用い、花押の代りに印を押しているものもある)を発給した。天正四(一五七六)年に三好長治が自害に追い込まれて阿波の三好家中が混乱すると、天正六(一五七八)年、輝元は三好義堅(十河存保)を三好氏の当主と認めて和睦し、連合して織田氏に対抗しようとした。義昭自身は当初、和睦に反対であったが、最終的に同意して近臣真木島昭光(まきしま あきみつ)に仲介を命じた。しかし、織田氏と結んだ土佐の長宗我部元親の讃岐・阿波侵攻によって、目論見は水泡と化したのであった(後半部分はウィキの「足利義昭」に拠った)。

「太宰大弐義隆は、そのころ、從二位の持從に補任せられ」大内義隆(永正四(一五〇七)年~天文二〇(一五五一)年)は天文一七(一五四八)年に従二位に昇叙した。兵部卿・大宰大弐・侍従は如元。

「物の上手と言えば」何につけ、「これこれの物の上手がおります」と御注進されるや。

「長門の大亭寺」大寧寺の誤り。現在の山口県長門市深川湯本にある曹洞宗瑞雲萬歳山大寧(たいねい)護国禅寺(グーグル・マップ・データ)。

に押詰め、義隆、つひに自害せらる。

「藤原尹房」(明応五(一四九六)年~天文二〇(一五五一)年)は天文一四(一五四五)年以降、次男良豊とともに大内義隆を頼って周防国山口に滞在していたが、陶晴賢の謀反事件に遭遇し、陶の兵によって殺害された。

「藤原公賴」三条公頼(明応四(一四九五)年~天文二〇(一五五一)年)は天文二〇(一五五一年)八月に大内義隆を頼って下向していたが、直後、同じく陶晴賢の謀反に巻き込まれて殺害された。

「度(ど)を失ふ」ひどく慌てて心の平静を失う。周章狼狽する。

「從二位藤原親世」「新日本古典文学大系」版脚注に、『正しくは従三位。「従三位藤親世五十八、右兵衛督。九月日於防州落髪云云」』(「公卿補任」天文二十年)とある。

「中納言藤原基賴卿」本話の男の主人公であるが、「新日本古典文学大系」版脚注には、『京都将軍家譜・下・義輝に「中納言基頼従二位藤親世等剃髪逃走」とする人物の名を借りるが、これは陶晴賢謀反のとき山口にあって落髪した(公卿補任・天文二十年)という権中納言藤原(持明院)基規を誤ったものか』とある。但し、後者はサイト「公卿類別譜」のこちらによれば、持明院基規(本名は家親とし、「系図纂要」では『名は基親』ともある)は明応元(一四九二)年生まれで陶晴賢の謀反の際に死亡したとある。

「謀〔はかりごと〕逞しく」智謀術数に長け。

「手綱の曲(きよく)」手綱捌き。

「殊更に、義隆、都に上りける時は、官加階の事、よろず、執(しつ)し申給ひて、禁中の事、とかく懇ろに取まかなひ給ふ故に、」大内義隆のこの時の従二位昇叙というのは、武家では将軍以外には例のないことで、それについて、この主人公基頼が、万事万端の執り回しを――特に禁中に対する細かな配慮などを綿密に執り賄い申し上げた、という業績を指している。

「高砂(たかさご)」「新日本古典文学大系」版脚注では、『安芸国の高崎浦(現広島県竹原市高崎町)か』とされる。ここ

「たゞの海」現在の広島県竹原市忠海町(ただのうみちょう)。ここ

「鹽がゝり」「潮係り」。潮目が変わるのを待って舟を岸近くに係留すること。

「破子(わりご)」「破籠」とも書く。食物を入れて携行する容器。檜の白木の薄板を折って円形・四角・扇形などに造り、中に仕切りをつけて蓋をしたもの。平安時代、主に公家の携行食器として始まったが、次第に一般的になり。曲物(まげもの)による「わっぱ」や「めんぱ」などの弁当箱へと発展した。

「能地(のうち)」広島県三原市幸崎町(さいざきちょう)能地(のうじ)(国土地理院図)。岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」(一九八九年刊)の注には、『海賊の寄港地であったことがある』とあり、この舟人もその血を臭わせているとも読める。

「はねあげ」抱えた状態から前方へ向かって放り投げ。

「狐崎(きつねさき)」広島県福山市鞆町(ともちょう)後地(うしろじ)にある狐崎(国土地理院図)。

「かれいの山」「新日本古典文学大系」版脚注に、「大道中名所鑑」の下より引いて、『「きつねさきより三町ほど下にかれいと申山あり」』とし、『「下」は西の方角を意味する』とのみある。この距離と方位に従えば、山という感じではないが、国土地理院図の「室浜」という鼻がそれらしい。グーグル・マップ・データ航空写真で同じ場所を見ると、狐崎から小室浜海岸を挟んで西の、こんもりとした三崎であり、背後にはお誂え向きに寺もある。

「かゝぐりつき」やっとの思いで到着し。迷ったあげくに辿りつき。

「和布苅(めかり)のとまり」現在、尾道から向島を経て因島に架かる因島大橋(グーグル・マップ・データ)の下の海峡は「和布瀬戸(めかりせと)」と呼ばれ、国土地理院図で調べると、向島のここに「布刈鼻」を見出せる。この附近か。

「浮き立ち」乱れて、騒がしくなり。

「同じくは」「それならいっそのこと」。

「受(うけ)こはず」孰れの提案も受け入れようとせず。

「此所は、昔……」「新日本古典文学大系」版脚注に、『以下は元亨釈書十八、本朝神社考五、本朝烈女伝九等に伝える如意尼の伝承を備後鞆の海辺に立つこの尼寺に付会する』とある。鎌倉末期の禅僧虎関師錬が書いた日本初の仏教通史「元亨釈書」(元亨二(一三二二)年上呈)にのそれは、ここ(国立国会図書館デジタルコレクション。右頁二行目から)。但し、全漢文。しかし、以下の注の引用と対応すれば、概ね読める。

「淳和天皇の后、出家して」天皇の没したのは承和七(八四〇)年で、次の注を見る通り、出家は全くの自身の意志である。

「武庫(むこ)の山」現在の六甲山系。具体には以下の甲山(かぶとやま)。「新日本古典文学大系」版脚注には、『元亨釈書に如意尼の籠った地を「号此地神呪寺」とする』とある。この寺は兵庫県西宮市甲山山麓に真言宗神呪寺(かんのうじ:神咒寺とも表記する)として現存する。当該ウィキによれば、『寺号の「神呪寺」は、「神を呪う」という意味ではなく、甲山を神の山とする信仰があり、この寺を神の寺(かんのじ)としたことによるという。なお、「神呪」(じんしゅ)とは、呪文、マントラ、真言とほぼ同義で、「仏の真の言葉」という意味がある。開山当時の名称は「摩尼山・神呪寺(しんじゅじ)」であり、「感応寺」という別称もあったようだ』。「元亨釈書」の『「如意尼伝」に神呪寺の開基について、載っている』。『それによると、神呪寺は第』五十三『代淳和天皇の第四妃(後の如意尼)が開いたとする。一方』、「帝王編年記」(神代から鎌倉後期の後伏見(退位一三〇一年)に至る年代記。成立は南北朝中期(一三六四年~一三八〇年)と考えられている。撰者は僧永祐と伝えが確証はない)には、『淳和天皇皇后の正子内親王が』天長四(八二七)年に『橘氏公、三原春上の二人に命じて真言宗の寺院を造らせた』。『皇太子時代の淳和天皇は夢告に従い、四天王寺創建に伴って聖徳太子が開基した京都頂法寺にて、丹後国余佐郡香河(かご)村の娘と出会い、これを第四妃に迎えた。香河では小萩(こはぎ)という幼名が伝わり、この小萩=真名井御前をモデルとした小萩観音を祀る寺院がある。古代、丹後の国は中央氏族とは別系統の氏族(安曇氏などの海人系氏族)の勢力圏であり、大王家に対し』て『后妃を出す氏族であった。この余佐郡の娘、小萩は日下部氏の系統である可能性が高い』。『『元亨釈書』によれば、淳和天皇第四妃真名井御前=如意尼は、如意輪観音への信仰が厚く、念願であった出家するために』天長五年に『ひそかに宮中を抜け、頂法寺=六角堂で修行をしてその後、今の西宮浜(御前浜)の浜南宮(現西宮神社)から廣田神社、その神奈備山、甲山へと入っていった。この時、妃は空海の協力を仰ぎ、これより満』三『年間、神呪寺にて修行を行ったという』。天長七年に『空海は本尊として、山頂の巨大な桜の木を妃の体の大きさに刻んで、如意輪観音像を作ったという。この如意輪観音像を本尊として』天長八(八三一)年十月十八日に『本堂は落慶した。同日、妃は空海より剃髪を受けて、僧名を如意尼とした。如意尼が出家する以前の名前は、真井御前(まないごぜん)と称されていた』。『この時、如意尼と一緒に出家した二人の尼、如一と如円は和気清麻呂の孫娘であった』。『空海は海人系の氏族の出身だったといわれる』。元天長(八二三)年、『空海は雨乞い争いで、妃の水江浦島子の筐を借り受けて、勝ちを得たという。また、神呪寺の鎮守は弁才天であるが』、「元亨釈書」にも『登場するこの神とは』、『六甲山系全体を所領とする廣田神社祭神、撞賢木厳魂天疎向津姫(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ)またの名瀬織津姫のことであり、水を支配する神でもあり、水運に関係のある者は古来より信仰を深めてきた』。『鎌倉時代初期には、源頼朝が再興する。境内の近くには源頼朝の墓と伝えられている石塔がある』。『戦国時代には兵火により、荒廃した。現在の本堂は江戸時代の再建』。『当初の寺領は淳和天皇より』、百五十『町歩の寄進があり、合わせて』二百五十『町歩となったが、現在は境内地の』二十『町歩』のみである。『山号は「武庫山」(六甲山のこと)であったが、光玄大和尚が現在の「甲山」に変更し』た。『神呪寺の本尊・如意輪半跏(はんか)像は、河内観心寺、大和室生寺の如意輪観音像と合わせて、日本三如意輪と呼ばれている。家業繁栄・商売繁盛のご利益があるとされ、秘仏となっている。融通さん、融通観音とも称されている』とある。この本尊は『平安』『当時の本尊』ではあるが、『寺伝にいう空海の時代の作ではなく』、十『世紀後半から』十一『世紀前半の作とされる。如意輪観音像には』六臂像と二臂像が『あるが、この像は』六臂像で、しかも、『通常の如意輪観音像は右脚を立て膝とするが、本像は右脚を斜めにして左脚の上に乗せた珍しい形をしており、頭部が斜め上向きになっている点と合わせ、図像的に』は非常に『珍しい作例である』。

「浦島子(うらしまがこ)」前記引用で意味が判る。

「心法(しんほう)」心。正確な歴史的仮名遣は「ほふ」。「法」は普通は「はふ」であるが、仏教用語では「ほふ」と表記する慣例がある。

「朝(あした)には、粥を食(じき)し、午(むま)の剋(こく)に齋(とき)を行ひ」既に注したが、前者の粥のみが僧の食事(「齋」。食事も身を清める精進であるからこの漢字を使い、その正式な一回きりの「とき」料を「時」に掛けて、それ以外の非正式な食事を、意味も併せて「非時(ひじ)」と言う)の正式なもので、一日一回、午前中にしか食事は出来ない。「新日本古典文学大系」版脚注はあたかもこの後半のものもその正しい「齋」のように書いているが、これはおかしい。午前と午後のはざかいの午(うま)の時であろうと、これは既に二度目の食事となって紛れもない「非時」である。

「歌・草紙讀み、手ならふ事を、のみ」この「のみ」は非常に特殊な用法で、副助詞の限定強調を指示するそれを、「のむ」という動詞の連用形のように転じて、「専らにする」という意で使用しているようにしか見えない(「新日本古典文学大系」版脚注もそう理解して注されてある)。そうした識読と書写・書道をもっぱらの日常としてきたことを謂う。

「内典(ないでん)」ここは仏教の主要経典。

「經論」主に経典の内の「經」(仏説を文学的に表現したもの)と「論」(当該経典の内容を論理的に述べたもの)を教義には言う。ここは経の評註を言っていると考えてよい。

「佛種は緣より起る」「法華経」の「方便品第二」の「未來世諸佛 雖說百千億 無數諸法門 其實爲一乘 諸佛兩足尊 知法常無性 佛種緣從起 是故說一乘」(敢えて訓読すると、「未來世の諸佛 百千億 無數の諸々の法門を說くと雖も 其れ實(まこと)には一乘の爲(ため)なり 諸佛兩足の尊 法は常に無性(むしやう)なり 佛種は緣に從ひて起こる 是の故 一乘を說く」)に基づく。「無性」とは「無自性」の略で「現実的な儚い実体というあやふやな存在をもともと持っていないこと」を謂う。

「聖敎(しやうげう)」釈迦 の説いた仏教の正法 (しょうぼう)

「心ざす事」ここは「供養のため」と称しており、読経を所望して布施を出しているので、全く以って誠実な、当人が故人と認識している人物の追善供養を指している。

「屛風におされたり」屏風絵として押し張られた。屏風絵としてお仕立て(させ)なさった。挿絵のような大振りの屏風であったなら、これは尼らの手仕事では到底、無理である。

「わがやどの梅の立枝〔たちえ〕を見るからに思ひの外に君や來まさむ」言わずもがな、この「君」とは本来の元夫である中納言藤原基頼である。これに「古歌の言葉を少し引直しける、いと思ひ入りたる心、ありけむ」(これは作者の登場した語りと読むのは風情ぶち壊しである。言わずもがな、彼女を受け入れて呉れたここの庵主の尼の心内語である)とあるが、これは前記の岩波文庫の高田氏の注で「古歌」が判る。「拾遺和歌集」の巻第一の平安中期の貴族・歌人であった平兼盛の一首(番)、

    冷泉院御屛風の繪に、

    梅(むめ)の花ある家に

    まらうど來たる所

 わが宿の梅の立ち枝や見えつらむ

      思ひのほかに君が來ませる

である。この原歌を知らなくても、彼女の歌が既にして伏線となっていることが容易に伝わってくる。

「備後の國鞆(とも)」現在の広島県福山市鞆地区の沼隈半島南端にある港湾及びその周辺

通称「鞆の浦(とものうら)」で知られる。当該ウィキによれば、『瀬戸内海の海流は満潮時に豊後水道や紀伊水道から瀬戸内海に流れ込み瀬戸内海のほぼ中央に位置する鞆の浦沖でぶつかり、逆に干潮時には鞆の浦沖を境にして東西に分かれて流れ出してゆく。つまり』、『鞆の浦を境にして潮の流れが逆転する。「地乗り」と呼ばれる陸地を目印とした沿岸航海が主流の時代に、沼隈半島沖の瀬戸内海を横断するには』、この『鞆の浦で潮流が変わるのを待たなければならなかった。このような地理的条件から』、『大伴旅人などによ』り、「万葉集」に『詠まれるように、古代より潮待ちの港として知られていた。また、鞆は』「魏志倭人伝」に『書かれる「投馬国」の推定地の一つともなっている』。『江戸時代の港湾施設である「常夜燈」、「雁木」、「波止場」、「焚場」、「船番所」が全て揃って残っているのは全国でも鞆港のみであ』り、『江戸時代中期と後期の町絵図に描かれた街路も』、『ほぼすべて現存し、当時の町絵図が現代の地図としても通用する。そのような町は港町に限らず、全国でも鞆の浦以外には例がない』。以下、「歴史」の項。中世には『一帯は渡辺氏の支配下にあった』。建武三(一三三六)年には福岡の「多々良浜の戦い」に『勝利した足利尊氏が京に上る途中』、『この地で光厳上皇より新田義貞追討の院宣を賜る。南北朝時代には鞆の浦沖から鞆にかけての地域で北朝と南朝との合戦(鞆合戦)が幾度もあり、静観寺五重塔などの貴重な文化財が失われた』。『戦国時代には毛利氏によって鞆中心部に「鞆要害」(現在の鞆城)が築かれるなど』、『備後国の拠点の一つとなっていた』。『足利義昭は』天正二(一五七三)年に『織田信長に』よって、『京を追放された後、毛利氏などの支援のもと』、『渡辺氏の援助で』天正四(一五七六)年に『鞆に拠点を移し』、『信長打倒の機会を窺った。伊勢氏や上野氏・大館氏など幕府を構成していた名家の子弟も義昭を頼り』、『鞆に下向していたとされる。このことから「鞆幕府」と呼ばれることもある』。『また、前述のように足利尊氏が室町幕府成立のきっかけになる院宣を受け取った場所でもあるため、幕末の歴史家頼山陽は』「足利(室町幕府)は鞆で興り、鞆で滅びた」と『喩えた』。『尼子氏滅亡に際しては播磨国上月城より移送途中に誅殺された山中鹿之助の首級が鞆に届けられ』、『足利義昭や毛利輝元により実検が行われた。この遺構として首塚が現在も残されている』。「近世」の項。『江戸時代になると備後国を領有した福島正則によって鞆要害を中心に市街地を取り囲む大規模な城郭「鞆城」の築城が始まるが、これが徳川家康の逆鱗に触れ工事は中止された。その後、福島氏に代わり、徳川家康の従弟水野勝成が備後福山藩の領主となり、鞆城跡には奉行所(鞆奉行所)が設置された。このとき勝成の息子で』二『代藩主である水野勝俊は鞆に住んでいたため「鞆殿」と呼ばれた。また、朝鮮通信使の寄航地にも度々指定され』、正徳元(一七一一)年の第八回『通信使では従事官の李邦彦が宿泊した福禅寺から見た鞆の浦の景色を「日東第一形勝」(朝鮮より東の世界で一番風光明媚な場所の意)と賞賛した(この文を額にしたものが福禅寺対潮楼内に掲げられている)』。『しかし、航海技術が発達』するに伴い、「地乗り」(島々に沿って航行すること)から「沖乗り」(沖合を直行して航行すること)が『主流になったことにより』、『鞆の浦で潮待ちをする必要性』が『薄れていったことなどから、備後地方の港湾拠点は尾道に大きく傾いていった』とある。私は映像ロケ地としてのそれには一切、関心がないが、出不精の私でも、何時か行ってみたいところである。

「品治(ほんぢ)九兵衞」不詳。

「見咎め」単に「見て、何とも言えず、不審に思って」の意。絵が素人のものとも覚えず、添えられた歌が、これまた、意味深長な含みを持っていたからである。

「もてあそぶ」賞翫した。

「十町許り」千九十一メートルほど。

「山名玄番頭(げんばのかみ)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『未詳。備後国は康暦』(こうりゃく)『元年〔一三七九〕以来』、『山名氏が守護職に任じられたので、その一族であろう』とある。

「世の常ならぬ有樣を見咎め」海を凡そ一キロも泳ぎ渡って徒裸足のままに出現したのだから、恐ろしく汚れていたであろう。その見た目、乞食体(てい)の者が「奉公致したし」ときりり礼儀正しく落ち着き払って申し出るのを、よくみれば、どうも尋常の出自のものとは思われなかったので、山名へ言上に及んだのである。

「品治九兵衞は玄番頭が家人なりければ」『「かやうの物、求めたり。」と物語するに』という展開はジョイントを焦り過ぎた。暫くして、酒宴でも開いて、品治が気を利かせて屏風を持ち込むといった自然なスラーが欲しいところだ。

「心もとなく」何か妙に不安で落ち着かない気がして。「梅の花」の絵と含みある和歌に何やらん激しい胸騒ぎがしたのである。

「妻子・家人、皆、水中に沈められし」にも拘わらず、か弱き「妻は如何にして、命、生(いき)けん」!? 「財寶は、殘らず、舟人の爲に取られぬらん」はずにも拘わらず、「此畫(ゑ)は、何の故に」しかも、この「妻の手跡」の「此歌をかきて出〔いだ〕しぬらん」(最後の部分は「新日本古典文学大系」版脚注では『寺外へ持ち出すことを許したのか』と訳されてある。確かに逐語的な完全訳はそうだろうが、どうも台詞としては腰が砕ける。寧ろ、「この含みある歌を書いたものが、どうして、ここに出てきたのかッツ?!」という叫びであるべきである)!? という激しい不審と驚愕である。

「山名、則ち、品治(ほんぢ)をめして、つぶさに尋ねければ、院主の尼公(あまぎみ)、はじめよりの事を語りけり」こういうお手軽なカット・バック処理はちょっと勘弁だねぇ。

「中納言殿、俄に、いたはりつき、て空しくなり給ふ」この結末は話柄内時制が長いことも物理的に災いしている。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『大内氏滅亡以来二十五年を経過し、中納言殿のモデルが持明院基規とすると、八十五歳を越えている』とある。されば、ここはコーダを急いだというより、話柄内での時制上の非現実感を押さえようとするなら、かくせざるを得なかったとも言えるのである。寧ろ、続く夢見の誘いのシーンが私は上手いと思う。]

2021/04/22

大和本草附錄巻之二 魚類 「神仙傳」の「膾」は「鯔魚」を「最」も「上と爲す」とするに就いて「ぼら」と「いな」に比定 (ボラ) / 魚類 撥尾(いな) (ボラ)

 

神仙傳云介象與吳王論膾何者最美象曰鯔魚爲

上○ボラトイナトノ膾尤ヨシト也

撥尾 子魚之小者子魚一名鯔魚ボラ也【スバシリハイナヨリ大】

○やぶちゃんの書き下し文

「神仙傳」に云はく、『介象、吳王と論ず。「膾〔(なます)〕は何に者が最も美(よき)や。」。象、曰はく、「鯔魚〔(しぎよ)〕を上と爲〔(な)〕す。」と。』と。

○「ぼら」と「いな」との膾、『尤もよし』と、なり。

撥尾(いな) 子魚〔(しぎよ)〕の小者。子魚、一名「鯔魚〔(しぎよ/なよし)〕」。「ぼら」なり【「すばしり」は「いな」より、大〔なり〕。】

[やぶちゃん注:連関するので二項を纏めて示した。これは、言わずもがな、

ボラ目ボラ科ボラMugil cephalus

で、益軒は本巻の「大和本草卷之十三 魚之下 鯔魚(なよし) (ボラ・メナダ)」で既に出生魚としてのボラを詳述している。現行のボラの出世魚としての異名は、そちらの私の注を参照されたい。

「神仙傳」四世紀初めの晋(三一七年~四二〇年)の道士にして神仙道研究家であった葛洪(二八三年~三四三年:江南の貴族の出身)の著になる仙人の伝記集。全十巻。同人の名著道学書「抱朴子」(三一七年)と並ぶ、中国史上、最も重要な仙人伝で、広成子(こうせいし:古代の伝説的仙人)・老子以下 九十二名の神仙の道を極めたとされる人物及び伝承上の架空人物の伝記を収める。本書は理論書である「抱朴子」と表裏を成すもので、神仙の歴史的存在性を証明することと、先行する同種の書である劉向 (りゅうきょう) の「列仙伝」を補うことを目的として、仙書・諸子の書及び伝説を集めて著わしてある。但し、「漢魏叢書」や「説郛(せっぷ)」などの叢書に収められてある、現在、我々が読んでいるものは、葛洪と同時代の郭璞 (かくはく) の伝が入っていることなどから、後世の改編と考えられている。以下の引用は、巻九の「介象」の一節。介象は会稽出身の道士。邪気禁圧の術を得意とし、市中の人を総て座ったままで動けないさせたり、身を隠して草木鳥獣に変ずるなど、様々な仙術を使うことができた。三国時代の呉の初代皇帝孫権(一八二年~二五二年/在位:二二九年~二五二年:劉備と連合して曹操の南下を食止めた「赤壁の戦い」で知られる覇王)がいたく気に入り、かなり長い間、彼の元で厚遇されている。これはその中の一節であるが、あまりに部分的で「神仙伝」の趣がない。表記の関係から、「太平御覧」(北宋・九七七年~九八四年)の「飲食部二十」の「膾」に「神仙伝」からとして引くものを示す。

   *

與吳主共論膾魚何者最美、象曰、「鯔魚爲上。」。吳主曰、「論近魚耳、此海中出、安可得耶。」。象曰、「可得耳。」。乃令人於殿庭中作方坎、汲水滿之、幷求釣。象起餌之、垂綸於坎中、不食頃、果得鯔魚。吳主驚喜、問象曰、「可食否。」。象曰、「故爲陛下取以作生、安敢取不可食之物。」。乃使廚下切之。吳主曰、「聞蜀使來、有蜀姜作齏甚好、恨時無此。」。象曰、「蜀姜豈不易得。愿羌所使者幷付直。」。吳主指左右一人、以錢五十付之。象書一符、以著靑竹杖中、使行人閉目騎竹、竹止便買姜、訖、復閉目。此人承其言、騎竹、須臾已至成都、不知是何處、問人、人言蜀市、乃買姜。于時吳使張溫先在蜀、既於市中相識、甚驚、便作書寄其家。此人買姜畢、投書負姜、騎杖閉目、須臾已還到吳、廚下切膾亦適了。

   *

所持する平凡社「中国の古典シリーズ4 抱朴子 列仙伝・神仙伝 山海経」の沢田瑞穂先生(この方の著作は好きで多く所持している)の訳を引用する。

   *

 また呉王が、膾(なます)にする魚は何が最も美味(うま)いかということについて話しあったとき、介象は、「鯔(ぼら)の膾が最上です」と答えた。「いや、この近辺の魚についていっているのだ。あれは海でとれるもので、手に入るはずがない」と呉王がいった[やぶちゃん注:呉はが長江流域にあったが、首都は建業(現在の南京付近)で完全な内陸であった。]。すると介象は、「手に入りますとも」といって、戸前の庭に方形の穴を据らせ、それに水をいっぱい汲み入れさせた。そして釣鈎(つりばり)を請い受けると、介象は立ち上がってそれに餌をつけ、釣糸を穴に垂れた。しばらくすると鯔が釣れたので、呉王は驚喜して、「それは食べられるのか」と訊いた。「わざわざ陛下のために釣って膾にしようとしたものゆえ、食べられぬ物を釣るはずがござりましょうか」といって、台所へやって緋調理させることにした。

 呉王がいった、「蜀(しょく)からきた使者のいうには、蜀の生薑(しょうが)を刻んでヷ(あえ)ると、まことに美味(うま)いとのことであるが、こんな時にそれがないとは残念至極じゃ」すると介象が、「蜀の生薑を手に入れるくらい、わけはありませぬ。どうか使者に代金を渡してお差し遣わし願いたい」といったので、呉王は近習(きんじゅう)の一人を指名し、それに銭五十文を渡した。

 さて介象は一通の護符を認(したた)めると、これを青竹の杖の中に納め、使者には目を閉じて杖に跨(またが)らせ、杖が止まったところで生薑を買い求め、それが済めば再び目を閉じるように指示した。使者は教えられたとおり杖に跨ると、しばらくして止まった。見ると、すでに成都(せいと)に着いていたが、それが何処(どこ)だかわからない。人に訊ねて、やっとそれが蜀の市中であることを知ったので、生薑を買いととのえた。

 そのころ、呉の使者の張温(ちょうおん)というものが先に蜀にきていたのであるが、市中で出遇ってびっくりし、手紙を書いて、自分の家に届けてくれと託(ことづ)けた。使者は生薑を買ってしまうと、手紙をもち生薑を背負い、杖に乗って目を閉じると、程なく呉に帰り着いた。おりしも合所では魚を膾(なます)に刻み終ったばかりであった。

   *

なお、沢田先生は補注で、『膾にする魚を釣る話および生薑を蜀に買いにゆく話は、『後漢書』一一二左慈伝では、魏の曹操と左慈とのことになっている』とある。私もそちらで先に知っていた。

「ぼら」「いな」後者が成魚でも若いやや小さなものである。一般に「ボラ」の出世名は、

 「ハク」(約2㎝~3㎝)「シギョ」

   ↓

 「オボコ」「スバシリ」(約318㎝)「エブナ」

   ↓

 「イナ」(約1830㎝)「エブナ」「ナヨシ」

   ↓

 「ボラ」(約30㎝以上)=「クチメ」「コザラシ」

   ↓

 「トド」(特に大型の個体)

の順で、関東では一般には、「オボコ」→「イナッコ」→「スバシリ」→「イナ」「ボラ」→「トド」である。

「撥尾(いな)」ボラは成魚になると、尾で強く水面を叩いて飛び上がる習性がある(理由は不明。体表の寄生虫を除去すいるためとも言うが、怪しい)ことによる漢字表記。

「子魚〔(しぎよ)〕」『一名「鯔魚〔(しぎよ/なよし)〕」』音を別字で示したもの。孫権絡みであるから、「君子魚」の意味を込めたものとも思われる。

『「すばしり」は「いな」より、大〔なり〕』不審。これは現行のそれとは反対である。但し、これらの出生名には地方によってブレ(前後の入れ替え)があるので、当時の福岡ではそうであったものかも知れない。]

芥川龍之介書簡抄41 / 大正四(一九一五)年書簡より(七) 井川恭宛

 

大正四(一九一五)年七月十一日・田端発信・井川恭宛(転載)

手紙はうけとつた 早くと云ふ事だけれど 今月の末までは手のぬけない仕事がある それからでよければ早速ゆく 醫者にきいたら 日本中ならどこへでもゆくがいゝと云ふ事であつた 僕自身から云つても大分行つてみたい 今 かなり忙しくくらしてゐる 本もろくによめない ごくprosaic な用があるのだから困る

三並さんが小腦をいためて三學期中學校をやすんでゐた 今月末から諏訪へゆくさうだ

藤岡君はプラトン全集を懷にして御獄へ上つた

成瀨はローレンスに落されたので 奮然として信州白骨の溫泉へ思索にゆくさうだ

 

但馬の何とか溫泉は大へんよささうな氣がする そこでぼんやり一日二日くらして それから「やくもたつ出雲」へはいりたい「いづも」とかなでかいてみてゐると國中もぢやもぢやした毛が一ぱいはえてゐさうな氣がする 僕の「いづも」と云ふ觀念は甚あいまいである だから期待の大小によつて 印象を損はれやうとは思はれない 之に反して石見となると「つぬしはふ」と云ふ枕詞が災して 國中 一枚の岩で出來上つてゐてその上にやどかりがうぢやうぢやはつてゐるやうな氣がする 何にしても 縹渺としてさう云ふ遠い所へゆくんだと思ふと變な心もちがする 第一途中にあるトンネルと陸橋が少し氣になる 陸橋から汽車が落ちたら大へんだね 八十もあるトンネルだからその中の一つ位は雨がふるとくづれるかもしれなからう さう思ふと心ぼそい 一體江戶つ子と云ふものは 旅なれないものだからね

出まかせに詩をかく

      I

   こゝあはれはドンホアン

   紅いマントをひきかけて

   ひるはひねもすよもすがら

   市をひそひそあるきやる――

   市のおと女は窓のかげ

   戶のうしろからそつとみて

   こはやこはやとさゞめけど

   一どみそめた面ざしは

   終(つひ)の裁判(さばき)の大喇叭

   なりひゞくまでわすられぬ――

   こひとおそれの摩訶不思儀

 

   ドミニカ法師の云ふことにや

   羊の趾爪(けづめ)犬の牙

   地獄のつかひ惡魔(デアボロ)が

   紅いマントの下にゐて

   市のおと女を一人づゝ

   こひの彈機(はぢき)につりよせる――

   こゝにあはれはドンホアン

   心もほそく身もほそく

   ひるはひねもすよもすがら

   市をひそひそあるきやる――

   こひとおそれの摩訶不思儀--

 

      Ⅱ

   月輪は七つ

   日輪は十一

   その光にてらされて

   のそのそとあるいてく

   きりん 白象 一角獸

   地にさくのは百合と牡丹

   空にとぶのは鳳凰 ロック サラマンダア

   山は 靑い三角形をならべ

   その下に弓なりの海

   海には 金の雲が下りて

   その中にあそぶ赤龍白龍

   岸には 綠靑の栴檀木

   その下にねころぶパン人魚セントオル

   月輪は七つ

   日輪は十一

   荒唐の國のまひるを

   のそのそとあるいてく

   東洋は日本の靑年

 

      Ⅲ

   われは今桃花心木の倚子の上に

   不可思儀の卷煙艸をくゆらす

   その匂と味とは ものうき我をかりて

   あるひは 屋根うらのランプの下に

   あるひは ノオトルダアムの石像の上に

   あるひは 若葉せるプラターヌの

   ほのかなる木かげの上に(そとをゆくパラソルをみよ)

   あるひは 穗をぬける蘆と蘆薈と

   そことなくそよげる中に(そこになるタムボリンをきけ)

   あるひは ヘロヂアスの娘の饗宴に

   あるひはジアンダルクの火刑に

   ほしいまゝなる步みをはこばしむ

   不可思儀の卷煙艸をくゆらすとは

   わがオノーレ ド バルザックの語なり

                    龍

  井 川 君

 

[やぶちゃん注:前に一度注したが、この「転載」というのは、角川書店版「芥川龍之介全集別巻」からのそれである。既に述べた通りで、これも一度、『芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「十三」――注にて芥川龍之介井川恭宛書簡五通を電子化(龍之介作戯詩含む)――』で電子化しているが、今回は読み込みから総てゼロから起こしてある。

「今月の末までは手のぬけない仕事がある」新全集の宮坂覺氏の年譜の同年七月の頭に、『この月、第四次「新思潮」の刊行資金を工面するため、久米正雄、松岡譲、菊池寛』(当時は京都帝大文学部英文学科本科二年生)『らと分担して翻訳することを決める』。『月末の締切で、約百五十枚を引き受けた』というのがその顕在的な「仕事」の内容である。一九九二年河出書房新社刊の鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」によれば、その翻訳とは、ロマン・ロランの「トルストイ伝」であり、『本は成瀬正一訳として』この翌年の対象『五年三月、新潮社』から刊行され、『雑誌発刊にはその印税をあて、以後は会費制とした』とある。この翻訳のことは次の井川宛書簡(後日電子化する)の冒頭にごく手短かに記されてある。また、他にも、『この月、新原得二の受験勉強の世話をするため、二週間ほど芝の新原家に滞在する』とある。偶然ではあろうが、芝は通院にも近く、都合がよかったに違いない。また、更に別件もあって、七月二十三日には実は翌大正五年八月一日発行の第四次『新思潮』に発表する「仙人」を早くも脱稿しているのである。しかも、この作品、典拠をアナトール・フランスの「聖母の軽業師」に採り、舞台を昔の中国としたものであるが(「青空文庫」のここで読めるが、新字新仮名である)、かの「羅生門」(現在、最初期草稿執筆はこの大正四年中と推定されている)のための習作ともされる作品なのである。則ち、弥生との破恋をバネとして、まさに彼がそこで周囲に感じた「人間の中のエゴイズム」を主題とした具体的な小説創作への蠢動が、いやさかに燃え上がる前夜が、ここに既にあったのである。

「prosaic」散文的・殺風景な・面白くない。

「三並さん」龍之介と井川の共通の恩師である一高のドイツ語嘱託教師であった三並良。既出既注

「藤岡君」複数回既注の、一高以来の共通の友人で後の哲学者藤岡蔵六。

「御獄」「御嶽」(おんたけ)の誤りであろう。

「ローレンス」既出既注

「信州白骨の溫泉」長野県松本市安曇(あづみ)にある白骨(しらほね)温泉(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

『但馬の何とか溫泉は大へんよささうな氣がする そこでぼんやり一日二日くらして それから「やくもたつ出雲」へはいりたい』『芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「十三」』の本文出るように、龍之介は恐らく井川に勧められたのであろう、かの城崎温泉で二泊して松江に入った。なお、龍之介が、終生、畏敬した志賀直哉の名篇「城の崎にて」は、この二年後の発表されたものである(大正六(一九一七)年五月・白樺派同人誌『白樺』)。但し、志賀に関わって数奇な体験は松江であった。龍之介は松江に十六日も滞在したが、井川はそのために自分の実家に近い家を借りた。である。ところが、この家は前年の大正三年に作家志賀直哉が三ヶ月程滞在した家であり、志賀の小説「堀端の住まひ」の舞台でもあったのである。これは井川の特別な配慮によるものではなく、全くの偶然であったとされるが、まさにここで芥川は、松江の印象記を書いた。そしてそれを、龍之介に逢う以前から既にして山陰文壇の常連であつた井川が、予てより自分の作品発表の場としていた地方新聞『松江新報』に芥川来遊前後を記した随筆「翡翠記」を連載、その中に「日記より」という見出しを付けた芥川龍之介名義の文章を、三つ、離れて掲載したのであった(後にこれらを合わせて「松江印象記」として昭和四(一九二九)年二月岩波書店刊の第一次元版と通称する「芥川龍之介全集」の最終配本となった「別册」で公開された。従って、現在の「芥川龍之介全集」に作品の一つのように載っている「松江印象記」という日記或いは随想の題名は芥川龍之介自身によるものではないのである)。私は既にブログ・カテゴリ「芥川龍之介」で、二十六回分割で『井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む)』を、さらにサイト版『芥川龍之介「松江印象記」初出形』も公開している。

『「いづも」とかなでかいてみてゐると國中もぢやもぢやした毛が一ぱいはえてゐさうな氣がする 僕の「いづも」と云ふ觀念は甚あいまいである だから期待の大小によつて 印象を損はれやうとは思はれない 之に反して石見となると「つぬしはふ」と云ふ枕詞が災して 國中 一枚の岩で出來上つてゐてその上にやどかりがうぢやうぢやはつてゐるやうな氣がする 何にしても 縹渺としてさう云ふ遠い所へゆくんだと思ふと變な心もちがする 第一途中にあるトンネルと陸橋が少し氣になる 陸橋から汽車が落ちたら大へんだね 八十もあるトンネルだからその中の一つ位は雨がふるとくづれるかもしれなからう さう思ふと心ぼそい 一體江戶つ子と云ふものは 旅なれないものだからね』久しぶりに陽性の悪戯っ子っぽい龍之介の笑顔が見える! 座布団二枚!! なお「つぬしはふ」はママ。「つのさはふ」が正しい。「いは(岩・石)」「石見(いはみ)」「磐余(いはれ)」などに掛かる枕詞であるが、原語義や掛かる理由も未詳とされるが、一説に、「つの」は「綱」と同義で、「蔦(つた)」を指し、「蔦さ這ふ」ところの「岩」からというのは、私は違和感なく受け入れられる。

「こゝあはれはドンホアン」「ゝ」の右手に底本編者によるママ注記が打たれてある。確かにちょっと躓かないでもない。「こはあはれドンホアン」と勝手に脳内で文字を組み替えてしまった私がいるが、第二連七行目の「こゝにあはれはドンホアン」の龍之介の誤脱字である。「ドンホアン」は好色の姦計ドン・ファン(スペイン語:Don Juan)。当該ウィキをどうぞ。無論、自己をカリカチャライズしたもの。

「不思儀」ママ。芥川龍之介の書き癖。

「ドミニカ」ドミニコ会の創設者にしてカトリックの聖人でスペイン生まれの「グスマンの聖ドミニコ」(ラテン語:Dominicus/Dominico/スペイン語名:ドミンゴ・デ・グスマン・ガルセス(Domingo de Guzmán Garcés 一一七〇年~一二二一年)をカリカチャライズしたか。そもそも‘domingo’はスペイン語で「安息日」の意である。

「惡魔(デアボロ)」「デアボロ」はルビ。スペイン語で‘Diablo’(ディアブロ)は「悪魔」の意。ボローニャの方言ではディアベル(diavel)。

「彈機(はぢき)」バネ。発条(ぜんまい)。機械仕掛けの如き巧妙な誘惑って感じか。

「月輪」私が「がちりん」と読みたくなるが、まあ「げつりん」だろう。所謂、太陽や月にかかる淡い光の輪である「ハロ」(halo)・暈(かさ)・円光・光暈(こううん)で、それが七重・十一重に掛かるということか? しかし「七」と「十一」の命数は不明。識者の御教授を乞う。「Ⅰ」の最終行「東洋は日本の靑年」からは、龍之介が、新たに、ある種の聖なる光りに導かれて行く自分自身を擬えているようにも見える。

「ロック」ロック鳥(ちょう)。原語はペルシア語で、英語では‘roc’。中東・インド洋地域の伝説に登場する巨大な白い鳥。三頭のゾウを持ち去って巣の雛に食べさせほど、大きく、力が強い怪鳥と。「ルフ」とも呼ばれる。当該ウィキをどうぞ。

「サラマンダア」サラマンダー(ラテン語:salamandra/英語:salamander)は四大精霊の内で「火」を司る神獣・精霊・妖精(elementals)。サラマンドラ。手に乗る位の小さなトカゲもしくはドラゴンのような姿をしており、燃える炎の中や溶岩の中に住んでいるという。当該ウィキをどうぞ。

「栴檀木」「せんだんぼく」。ムクロジ目センダン科センダン Melia azedarachの別名。別名、楝(おうち)。五~六月の初夏、若枝の葉腋に淡紫色の五弁の小花を多数、円錐状に咲かせる(ここから「花楝」とも呼ぶ)。因みに、「栴檀は双葉より芳し」の「栴檀」はこれではなく全く無縁の異なる種である白檀の中国名(ビャクダン目ビャクダン科ビャクダン属ビャクダンSantalum album )なので注意(しかもビャクダン Santalum album は植物体本体からは芳香を発散しないからこの諺自体は頗る正しくない。なお、切り出された心材の芳香は精油成分に基づく)。これはビャクダンSantalum album の原産国インドでの呼称「チャンダナ」が中国音で「チャンタン」となり、それに「栴檀」の字が与えられたものを、当植物名が本邦に伝えられた際、本邦の楝の別名である現和名「センダン」と当該文字列の音がたまたま一致し、そのまま誤って楝の別名として慣用化されてしまったものである。本邦のセンダン Melia azedarach の現代の中国語表記は正しく「楝樹」である。グーグル画像検索「楝の花」をリンクさせておく。但し、ここでは明らかに聖なる異界のそれであり、他との並列を考えれば、仮想された実在しない芳香栴檀様の香りを放つ神仙の聖木(せいぼく)ととるべきである。芥川龍之介は晩年の詩稿でもこの実在する方の木を登場させている。私のサイト版芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯 澄江堂遺珠 Sois belle, sois triste.、或いは、ブログ版「やぶちゃん版「澄江堂遺珠」関係原資料集成Ⅳ ■3 推定「第二號册子」(Ⅱ) 頁12~34」を参照されたい。]

「パン」ギリシア神話に登場する牧人と家畜の神。神パーン(ラテン文字転写:Pān)。半獣神サテュロス(ラテン語:Satyrus)と同じく四足獣のような臀部と脚部及び山羊のような角に顎鬚を蓄えた獣神。山野を走り回っては好んで笛を吹く。好色で酒好きの暴れ者。

「人魚」ここのそれは西洋のマーメイド。

「セントオル」ギリシア神話に登場する半人半獣の種族ケンタウロス(ラテン語: Centaurus)馬の首から上が人間の上半身に置き換わったような姿をしている。パーンやサテュロスと同じような属性を持つが、中には出自の異なる知的な者もおり、医学の祖とされるケイローンやアスクレーピオスなどは賢者にして不死とされる。

「荒唐」「くわうたう(こうとう)」。「荒」も「唐」も「大きくて広いこと」の意。ここはそのままの意。なお、転じて「荒唐無稽」のように「言うことに根拠がなく、とりとめのないこと」の意で用いることの方が多い。

「桃花心木」ムクロジ目センダン科マホガニー属 Swietenia のこと。センダン科の常緑大高木。高さ約三十メートルになる。葉は羽状複葉。夏に黄緑色の花を咲かせ、卵形の実を結ぶ。材は紅黒色で堅く、磨くと、光沢が出るので、高級家具材などにする。北アメリカのフロリダ・西インド諸島の原産。龍之介も「マホガニイ」或いは「マホガニー」と読んでいる可能性が甚だ高い。

「プラターヌ」フランス語‘Platane’で、ヤマモガシ目スズカケノキ科スズカケノキ属スズカケノキ Platanus orientalis 。属の学名である「プラタナス」と呼ばれることが多いが、本邦で見かける「プラタナス」は、本種よりもスズカケノキ属モミジバスズカケノキ Platanus × acerifolia であることの方が多い。以前の電子化した書簡では「プランターン」「プランターヌ」と音写を誤っていたが、ここは正しい。

「蘆薈」「ろくわい(ろかい)」で、単子葉植物綱キジカクシ目ススキノキ科ツルボラン亜科アロエ属 Aloe のアロエのこと。但し、「蘆」との並置からこれは「アロエ」とは読んでいないと思われる。

「タムボリン」タンバリン(tambourine)。

「ヘロヂアスの娘の饗宴」不詳。一つ思いつくのは、古代イスラエルの領主(在位:紀元前四年~紀元後三九年)ヘロデ・アンティパス(紀元前二〇年?~?)で、彼は洗礼者ヨハネを処刑したことで知られるが、共観福音書に於いてはその理由を、存命中の兄弟の妻であったヘロディア(これは別表記で「ヘロディアス」とも呼ぶ)を妻に迎えたことををヨハネに非難されたからとする。この「娘」が「妻」だったならば、それで腑に落ちるのだが。他にヘロディアス(Herodias)は中世ヨーロッパの幾つかの文献で言及されている、夜に騎行する女たちが従う女神又は神話的女性の多様な名の一つであるが、これでは「娘の饗宴」の部分が説明不能となってしまう。やはり前者か。

「オノーレ ド バルザック」フランスの近代リアリズム小説の代表者オノレ・ド・バルザック(Honoré de Balzac 一七九九年~一八五〇年:「ド・バルザック」の「ド」は貴族を気取った自称)。当初、パリで法律を修めたが、文学を志して小説・戯曲を乱作した。一方で、さまざまな事業を興したものの、孰れも失敗して膨大な借金を背負い、これを賠償すべく決意も新たに初めて本名で書いた小説「梟(ふくろう)党」(Les Chouans :一八二九年)で認められる。以後、驚異的な多作ぶりを発揮し、「ウジェニー・グランデ」(Eugénie Grandet :一八三三年)・「絶対の探求」(La recherche de l’absolu :一八三四年~一八三五年)・「ゴリオ爺さん」(Le Père Goriot :一八三五年)などの傑作を次々と発表した。その間にも、新聞経営や土地投機を試みたり、代議士に立候補したりするが、またしても悉く失敗している。その後、欧州各地を旅行し、やがてジャンル群『人間喜劇』(La Comédie humaine :一八三一年~一八五〇年)という壮大な構想を発案して、「谷間の百合」(Le Lys dans la vallée :一八三六年)・「幻滅」(Illusions perdues:一八三七年~一八四三年)・「従妹ベット」(La cousine Bette :一八四六年)・『従兄ポンス或いは二人のミュジシャン』(Le cousin Pons ou les deux musiciens :一八四七年)などの著名な作品を書いた。しかし、長年に亙る心身の酷使のため、一八五〇年に十八年来の恋人であったハンスカ夫人と結婚して間もなく、亡くなった。生涯に渡って負債には悩まされ続けた。「小説の天才」・リアリズム小説の祖とされると同時に、悪徳から神性に至る人間社会の全的世界像を創造しようとした偉大なる「幻視家」(ボードレール評)としても評価されている(以上は主文を平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。

「語」これは「こと」と読みたい。]

2021/04/21

譚海 卷之四 越中國一村平氏子孫住居の事

 

○越中國に一村平家の餘類ばかり住(すめ)る所あり、其村の人俗名なし、今に名乘(なのり)をもつて稱する事なり。加賀守殿へ每年目見(めみ)へする時も、みな名乘をもちて謁する事也。重の字をなのる人多し、此村無役にて只(ただ)守(かみ)の乘馬の老(おい)たるを預け給はりて、飼(かひ)たつる事を勤(つとむ)る斗(ばか)り也とぞ。

[やぶちゃん注:越中五箇山(ごかやま)のこと。現在の富山県南西端に位置する南砺(なんと)市の旧・平(たいら)村と旧・上平村と旧・利賀(とが)村の三村を合わせた地域を指す。ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)。「譚海 卷之一 越中國五箇莊の事」の冒頭注参照。

「名乘」職業上など特別な用途のためにつけた本名以外の名や号。私は大学時分、五箇山の合掌造りの旧家羽馬家に泊まったことがあるが、羽馬(はば)姓は多く、概ね、住んでいる場所の地形などを添えて「~の羽馬」と名乗っておられたのを思い出す。

「重の字をなのる人多し」現在もそうかどうかは不明。

「たつる」「養う」の意であろう。]

只野真葛 むかしばなし (28)

 

「母樣の歌は、三島などは、殊に、ほめたりし。」

と、父樣被ㇾ仰し。書とめなども、なし。

○「春月おぼろなり」といふ題にて、

  名殘なく曇なはてそ月影のかすむは春のならへなりとも

といふ歌ばかり、いかがしてか、今も、おぼへたり。

[やぶちゃん注:「三島」江戸日本橋の幕府御用の呉服商にして国学者・歌人・能書家としても知られた三島自寛(享保一二(一七二七)年~文化九(一八一二)年)。本名は景雄。既出既注。]

大和本草附錄巻之二 魚類 かはごふぐ (イトマキフグ或いはハコフグ)

 

カハゴフグ 形如河魨魚長サ口ヨリ尾マデ八寸五分バカ

リ目ヨリ尾サキマテ左右ニカド有故ニ背ハ平ナリ其

形方也口ノ下ノヒレキハニイキ出シ左右ニアリ遍身

褐色有花紋花紋ノ色白シ腹ハ淡白ニシテ花紋ア

リ口小ナリ腹ノ内膓少クシテ空虛ナリスベテ肉ナク

骨ナシ尾ノミ有肉尾ハ別物ヲツギテ挾メルカ如シ

後門ハ甚小也針ヲ入ルホドアリ是スヾメブク[やぶちゃん注:ママ。]ノ類異

魚ナリ圖ハ別ニ載タリ

○やぶちゃんの書き下し文

かはごふぐ 形、河魨魚〔(ふぐ)〕のごとく、長さ、口(くち)より尾まで、八寸五分ばかり。目より尾さきまで、左右に「かど」有り。故に背は平〔(ひらた)〕なり。其の形、方なり。口の下のひれぎはに「いき出し」、左、右にあり。遍身、褐色。花紋有り。花紋の色、白し。腹は淡白にして花紋あり。口、小なり。腹の内、膓、少(すくな)くして、空虛なり。すべて、肉、なく、骨、なし。尾のみ、肉、有り。尾は、別物をつぎて挾(はさ)めるがごとし。後門は甚だ小なり。針を入〔(いる)〕るほど、あり。是れ、「すゞめぶく」の類〔にて〕、異魚なり。圖は別に載せたり。

[やぶちゃん注:サイズが「八寸五分」=二十五・七センチメートルとデカ過ぎるのがかなり気になるが、叙述内容はちょっと見には概ね、

フグ目フグ亜目イトマキフグ(糸巻河豚)科イトマキフグ属イトマキフグ Kentrocapros aculeatus

に同定出来るとも言えなくはない。当該ウィキによれば、『相模湾以南から東シナ海にかけて分布する。ハワイからも報告がある』。『砂泥の海底付近を遊泳して生活する底生魚で、分布水深は100-200mとやや深い』。『体は六角形の断面をもち、体長13-15cmほどに成長する。体は硬い甲板で被われる。尾鰭の主鰭条が11本であること(ハコフグ科は10本)、臀鰭の軟条数が10-11本であること(ハコフグ科は8-9本)、背鰭と臀鰭の後方には甲板が達しないことなどから、ハコフグ科と鑑別される。肉は無毒であるが、食用として利用されることはない』とある。

 食用にされないというのは、あらゆるネット記載で一致しており、そのためであろう、皮の毒性への言及はない。しかし、形の似ているフグ目モンガラカワハギ亜目ハコフグ上科ハコフグ科 Ostraciidae は一般的にフグ毒として知られているテトロドトキシン(tetrodotoxin)は持たない代わりに、皮に溶血性の神経毒パフトキシン(Pahutoxin)を持ち、個体によっては内臓に海産毒として悪名高い猛毒パリトキシン(palytoxin)に似たものを蓄積している。イトマキフグの皮にバフトキシンがないとは言えず、フグ類に共通する摂餌生物由来の毒がイトマキフグの内臓にないとも断言は出来ないので、一応、注意喚起はしておく。

 しかし、ここからがまた、問題なのだ。何故わざわざ、かく書いたというと、やはり大きさが不審だからである。ハコフグ類は辞書によって大きさがまちまちで、最大で四十センチメートル内外(「ブリタニカ国際大百科事典」)、最小で十五センチメートル内外(平凡社「百科事典マイペディア」)、小学館「日本大百科全書」で中をとって三十センチメートルに達するとあり、益軒のサイズに相応しい。さらに言えば、私の『毛利梅園「梅園魚譜」 ハコフグ』では、『皮籠海豚(カハゴフグ)』を標題とし、異名で『ハコフグ』を挙げており、絵を見れば一目瞭然、それは、

フグ目ハコフグ上科ハコフグ科ハコフグ属ハコフグ Ostracion immaculatus

以外の何者でもないのである。そして、ハコフグ派に寄って立って改めて益軒の叙述を見ると、「花紋」というのは、寧ろ、ハコフグ科 Ostraciidae の方に遙かに分(ぶ)がある(華麗な「花紋」という意味に於いて)叙述として見えてくるのである。

 しかし、だ。ハコフグだったら、食えるし、内臓はからっぽじゃないぞ?! う~ん……悩ましい!

「かはごふぐ」最後に「圖は別に載せたり」とある通り、「附錄卷」の図があるが(国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像。右頁下段。この巻は後に画像を添えて電子化する)、そこの標題に「皮籠海豚(カハゴフク)」(「海豚」はママ)とある。「皮籠」は革籠とも書き、竹や籐などで編んだ上に動物の皮革を張った蓋附きの籠(かご)を指す。後には紙張りした箱や行季(こうり)なども指した。小学館「日本国語大辞典」にも『「いとまきふぐ(糸巻河豚)」の異名』として載る。しかし、おかしい。そこで例として引用するのは、本書の後代の小野蘭山の「本草綱目啓蒙」の記載で(執筆動機の一つは本「大和本草」の誤りが多いことを指弾するだめとも言われている)、同四十八巻本の第四十巻「無鱗魚」の「河豚」はここからなのだが(国立国会図書館デジタルコレクション)、この箇所の左頁八行目から載るものの、そこで小野は、『一種カハゴフグ、一名ハコフグ 海スヾメ【阿州】 サメブクトウ【土州】』(以下略)とやらかしていて、どこにも「イトマキフグ」とは言っていなのだ。以下の記載はイトマキフグともハコフグともとれる内容であり、後者ならば、明らかな誤りである。私は天下の「日本国語大辞典」の載せる例としては、甚だ不適切であると思うのである。さて。よくその絵を見てみよう。

この附録の絵は「イトマキフグ」と「ハコフグ」と、どっちに、似ているか?

参考にするために、グーグル画像検索のKentrocapros aculeatus と、Ostracion immaculatus をリンクさせておく。イトマキフグは生体時は体躯の前後がハコフグに比して遙かに寸詰まっている。ここでも「ハコフグ」に分があるのである。

「河魨魚〔(ふぐ)〕」中国語。現在も同じ。「維基文庫」のこちらを参照。

「其の形、方なり」これは寸詰まっているだけ、今度は「イトマキフグ」に分がある

『口の下のひれぎはに「いき出し」、左、右にあり』「ひれぎは」は「鰭際」。「いき出し」は鰓孔のこと。「口の下」に胸鰭が近く、その前方に鰓孔があるという謂い方は、同前で、「イトマキフグ」に分がある

「花紋の色、白し」これは孰れも当たらない不審の特異点。

「腹は淡白にして花紋あり」これはハコフグに超有利。イトマキフグの背甲殼様部分は背鰭の起部後端辺りまでしか覆われていないで腹は真っ白で模様はないの対し、ハコフグ類は背鰭よりも後ろまで覆われているからである。

「尾は、別物をつぎて」(接ぎて)「挾(はさ)めるがごとし」これは観察者の印象によって異なる。「人工的にくっ付けたようだ」というと、ハコフグの方がそれらしく見えるが、しっかり寸詰まっている体に「チョコン!」出ているイトマキフグの尾もそう見えてくる。

「後門」肛門。

「すゞめぶく」現行では「スズメフグ」はフグ目フグ亜目フグ科トラフグ属ショウサイフグTakifugu snyderi の異名としてあるが、私は直ちに、ハコフグ科コンゴウフグ属ウミスズメ Lactoria diaphana を想起する。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページをリンクさせておく。但し、だからと言ってハコフグに有利とは言えない。これは「箱みたようなフグ」のことに違いなく、ならば、寧ろ、よりキューヴィクなイトマキフグの方がそれらしいからである。]

大和本草附錄巻之二 魚類 ぬめりごち (ネズッポ科或いはヌメリゴチ・ベニテグリ)

 

ヌメリゴチ 水フキノ兩ワキニ針二アリ○シヽゴチ色赤シ

頭ニイラサ有長四五寸アリ

○やぶちゃんの書き下し文

ぬめりごち 水ふきの兩わきに、針、二つあり。

○しゝごち 色、赤し。頭に「いらさ」有り。長さ四、五寸あり。

[やぶちゃん注:種としてなら、スズキ目ネズッポ亜目ネズッポ科ネズッポ属ヌメリゴチ Repomucenus lunatus を挙げてよい。秋田県以南の日本海側と、福島県から高知県に至る太平洋側、及び、朝鮮半島南岸・西岸に分布する。全体に縦扁(特に頭部が上下から潰されたような平らな形を成す)しており、細長い。釣り上げると、体表全面の皮膚から多量の粘液を出し、ヌルヌルしていることから、この和名となった。ネズッポ科 Callionymidae の最大の特徴は、上向に開いた小さな鰓孔の前鰓蓋骨に、大きくて強い棘があることであり、これが相似種の比較同定にも用いられ、ある種では交尾の際に相手を引っ掛ける鉤として使用するものあるという(引っ掛けると結構、痛い。私自身、手の甲を切って出血したことがあるので注意が必要)。♂は第一背鰭の第一棘が糸状に長く伸び、第四鰭膜の後端に半月形の黒斑を有する。尻鰭全体が黒い。成熟した♂には明瞭な生殖突起が確認出来る。♀の第一背鰭はどの棘も伸びず、一様に黒色を呈する。尻鰭の縁辺部が白い。産卵の際には雌雄各一尾で特定の行動をとるとされている。ネズッポ科の共通属性として、小型の甲殻類・多毛類などを摂餌するが、砂中に潜り込む習性はないようである。あまり大きくならず、概ね成体でも二十センチメートルほどの個体が多い。「ネズッポ」とも呼び、それを正式和名として載せる書籍やサイトが多いが、正規の魚類学論文で「ヌメリゴチ」を採用しているものが確認出来た岩坪洸樹・目黒昌利・本村浩之氏共著「鹿児島湾から得られたネズッポ科魚類 2 種チビヌメリ Paradiplogrammus curvispinnis とヌメリゴチ Repomucenus lunatus の南限記録PDFNature of Kagoshima Vol. 39, Mar. 2013)ので「ヌメリゴチ」を採る。広く「ネズッポ」はネズッポ科の海産魚の総称、或いは、同科の複数種の地方名として汎用されてはいる(同科の種は世界で百八十種以上、本邦だけでも三十八種が分布する。多くの種は沿岸の海域に見られるが、一部に淡水や汽水域を棲息域とする種もある)。さても。本種は私はキス釣りの外道としてよく知っている。ヌメリと臭みが仕掛けに附着するので嫌う釣り人が多いが、私は天ぷらや味噌汁にしたら、シロギスなどより遙かに美味いと感ずる好きな魚である。そうしたある程度まで共通した属性生態と奇顔とでよく知られているためか、ネズッポ科の総称には地方名・異名が非常に多い。鹿児島で「ゴツババ」「シックイ」、福岡で「メゴチ」(これと「ネズミゴチ」は他の地方でも広く用いられているが、これはネズッポ類で最も高価に取引されるネズッポ属ネズミゴチ Repomucenus curvicornis がいること、さらに「メゴチ」は全く無縁――「形状がちょっと似ている」と言う人もいるが、全然、違う――のスズキ目カサゴ亜目コチ亜目コチ科メゴチ属メゴチ Suggrundus meerdervoortii が正式和名としているので注意)、高知・大阪で「ノドクサリ」、浜名湖で「ネバリゴチ」、富山県新湊で「ベトゴチ」、小名浜で「ニガジロ」など、あまり彼らにとっては有り難くない名が多く、少し可哀そう。

「しゝごち」「色、赤し」とあるところからは、やや深海性のネズッポ科ベニテグリ属ベニテグリ Foetorepus altivelis に比定してよかろう。WEB魚図鑑」の同種を見られたい。そこに『体長17cmに達する』とあり、「長さ四、五寸あり」を体長ととれば、概ね一致をみる。「ししごち」とは「獅子鯒」で、異形の頭部と真っ赤なそれで甚だ腑に落ちるが、この異名は現在は確認出来ない。

「いらさ」「鹿児島弁ネット辞典」のこちらに、「いらさ」は原義は「枝のついた竹」の意とし、『「棘笹(いらささ)」の転訛です。「棘(いら)」とは、古語で「棘(とげ)」のことです』とある。前記「WEB魚図鑑」のリンク先に、本種は第一背鰭の第一棘が『雌雄ともに長く伸びている』とある。]

2021/04/20

芥川龍之介書簡抄40 / 大正四(一九一五)年書簡より(六) 井川恭宛

 

大正四(一九一五)年六月二十九日(推定) 田端から 井川恭宛(転載)

 

井川君

手紙はよんだ 色々有難う 僕はまだ醫者へ通つてゐる 四日目每に田端から高輪迄ゆくんだから大分厄介だ 生活は全然ふだんの通りだがあまりエネルギイがない 體の都合で七月の上旬か中旬迄は東京にゐなくてはいけないだらう それからでよければ出雲へは是非行きたい 尤も醫者にきいて見なければ 確な事はわからないけれど

試驗中は時間を醫者に切られたので大分忙しくてよはつた 十五日にすんだ時はせいせいした その時いゝ加減に字を並べて

   放情凭檻望  處々柳條新

   千里洞庭水  茫々無限春

と書いた それほど 樂な氣がしたのである

桑木さんの試驗には非觀した Begriff の價値と云ふ應用問題が出た この大問題を一頁で論じるのだから苦しい

そのあとですぐロオレンスの試驗があつた Dickens の月給と Dickens の親父のとつてゐる月給とどつちがどつちだかわからなくつて弱つた この前入れるのをわすれたから問題を入れておくる

每日ぶらぶら日を送つてゐる 碌に本もよまない

ジャン・クリストフは矢代君が橫濱から來て ミケルアンジェロやトルストイの一しよに持つて行つてしまつた[やぶちゃん注:「の」はママ。] 一册も今手許には殘つてゐない 矢代君は 桑木さんの試驗にしくぢつたので 銀時計が貰へさうもないつて非觀してゐた 之より先三井君や井上君のやうに二囘特待生になつてゐた人たちが 桑木さんに運動して 試驗にノートを持つてゆく連中と持つてゆかない連中とを拵へる事に成功した 所が桑木さんはノートを持つて行つた連中には大分問題を附加してハンディキャプをつけた そこで矢代君が非觀するやうな事になつたのである 笑止にも氣の毒な氣がする

僕の中學の先生が 僕のうちの近所に住んでゐるが二年許前に奧さんを貰つてからまるで前とはちがつた生活をして日を送つてゐる それをみると輕蔑するより先に自分もあゝなりはしないかと云ふ掛念が先きへ起る 本は一册もよまずものは一切考へず 唯「何と云つても飯を食はなければ」と云ふやうな漠然とした考へを持つてゐるだけでしかもその考を最[やぶちゃん注:「もつとも」。]實人生に切實な思想のやうに考へて すべての學問藝術を閑人の遊戲のやうに考へて 學校ヘ出る事と 菊を作る事とに一日を費して 誰でもいつか一度はさう云ふ考へになると云ふやうな事を仄めかして豫言者のやうに「さう云つてゐられる内が仕合せさ」と云ふやうな事を苦笑しながら云つて その癖全然パンを得る能力しかない人間を輕蔑して 細君に對しては細い事まで神經質に咎め立てゝ 愛することも出來ず 憎む事も出來ず 生ぬるい感情を持つてゐて 自分の生活には感覺の欲望が可成な力を持つてゐる癖に少しでもさう云ふ傾向のある人間の事を惡く云つて 一切の道德と外面的な俗惡な社會的な意味に解釋して 自分は一かどの道德家の如く心得て――血色の惡い奧さんと寒雀のやうにやせた赤ん坊とを見ると不快な感じしか起らない

僕の向ふの家――板倉と云ふ華族だが――では此頃每日 義太夫を語る 非常な熱心家でのべつに一つ所ばかり一週間も稽古するんだが 靜な語り物だといゝが。此頃は累身賣り[やぶちゃん注:「かさねみうり」。]の段で大きな聲で笑ふ所があるんだから耐らない 人爲的な妙な笑ひ聲を 午後一時から午後四時に亘つて每日「あはゝえへゝ」ときかされる 腹が立つがどうにも仕方がない そこへうしろの小山と云ふ畫かきのうちでは小兒が病氣なので 蓄音機をのべつにやる「はとぽつぽはとぽつぽお寺のやねからとんで來い」と云ふ奴を金屬性の音でつゞけさまにやられるのだから非觀だ とにかく鳴物は甚よろしくない

僕の弟が 勉强しすぎて 神經衰弱になりかゝつたのには弱つた 勉强する事は自分の弟ながら 感心する程するが 其割に出來ない事にも又自分の弟ながら 感心する程出來ない 試驗や何かで出來そくなふとしくしく泣き出すんで叔母や何か大分困つてゐる

帝劇で「わしもしらない」をやつてゐる 君の遂によまなかつた釋迦の芝居である 大へんに評判がいゝ 僕は文壇の全體に亘つて 何か或氣運のやうなものが動き出したやうな氣がする 自然主義以後の浮薄な羅曼主義のカッツェンヤムマアももうそろそろさめていい時分だ 何か出さうな氣がする 誰か待たれてゐるやうな氣がする 武者小路が 靴の紐をとく資格もないやうな人間が

こないだ戀愛三昧を見た パアフオーメーションはまるで駄目だがシュニツラアには感心する 人情ものもあゝなると實にいゝ あればかりでは少し心細いが大作のあひまに  Neben werk としてあゝ云ふものを書いてゆけるといいと思ふ ウィンナであの芝居を見たらさぞ面白からう

今更らしい事を云ふやうだが あゝ云ふ芝居をみるとその芝居に直接關係してゐる藝術家がかつた奴が實に癪にさはる その次にはあゝ云ふ芝居へ出る女優の旦那なる物が生意氣千萬な眞似をしてゐる その次に日本の劇曲家は悉くいやな奴である 西洋でも矢張さうかもしれないが

こないだワーグネルを五つ許りきいた 二つばかりよくわかつた トリスタン・ウント・イソルデはいゝな あんなものをかいてバイロイトに總合藝術の temple を建てやうとしたのだと思ふと盛な氣がする

ワーグネルと云へば獨文科の口頭試驗に上田さんがある學生に「君の論文の題は何だい」ときいたら その人が「ヴアハナアです」と云つたさうだ すると上田さんが「こんなえらい人の名前の發音さへさう間違つてる位ぢやあ落第させてもいゝ」と云つて怒つたのでその人が「ぢやあワグナアですか」と云ふと「ちがふちがふ」と云ふ又「ワグネルですか」と云ふと矢張「いかん」と云ふ とうとう「私にはわかりません」と云つたら「よく覺えておき給ヘワアグネルだ」つて敎へたさうだ そこで僕もワーグネルとかく 之は山本文學士にきいた話だ

山宮文學士は豫定通り文部省へ出るさうだ 僕が「何故あんな所へ行くんです」つてきいたら「あゝ云ふ所へ行つてゐると高等學校の口がわかりますしね それに官學に緣故がある 德ですよ 私立の學校へゆくと恩給がありませんからね」と答へた 山宮學士の百年子孫の計を立ててゐるのには驚嘆する外はない

 特に四の第二首に君に捧げて東京をしのぶよすがとする[やぶちゃん注:「第二首に」の「に」はママ。以下の短歌は評番号も含めて全体が三字下げであるが、引き上げた。]

   一

うき人ははるかなるかもわが見守(みも)る茄子の花はほのかなるも

   二

あぶら火の光にそむきたどたどといらへする子をあはれみにけり

庖厨の火かげし見ればかなしかる人の眉びきおもほゆるかも

   三

藥屋の店に傴僂(くぐせ)の若者は靑斑猫を數へ居りけり

   四

うつゝなく入日にそむきおづおづと切支丹坂をのぼりけるかも

流風入日の中にせんせんと埃ふき上げまひのぼる見ゆ

   五

思ひわび末燈抄をよみにけりかひなかりけるわが命はや

これやこの粉藥のみていぬる夜の三日四日(みかよか)まりもつゞきけらずや

 

[やぶちゃん注:実は本書簡以降(旧全集書簡番号で一六五(本書簡)・一六六・一六八・一六九・一七〇(以上は総て井川恭宛)及び松江到着の翌日に養父芥川道章に宛てた一通(一七一)までは、一度、『芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「十三」――注にて芥川龍之介井川恭宛書簡五通を電子化(龍之介作戯詩含む)――』で電子化しているが、今回は読み込みから総てゼロから起こしてある。

「僕はまだ醫者へ通つてゐる 四日目每に田端から高輪迄ゆくんだから大分厄介だ」かかっていた病院が高輪附近にあったようだ。先に示した新全集宮坂年譜の五月に、『中旬 体調を崩す。一時は結核ではないかと心配し、週に二回ほどの通院が翌月末まで続いた』とあるのと一致する。わざわざ遠くまで通院しているところから見ると、思うに、これは北里柴三郎が明治二五(一八九二)年に創設した「伝染病研究所」に、その二年後に附設された元「伝染病研究所附属病院」ではないか? ここはこの翌年の大正五(一九一六)年に「東京帝国大学附置伝染病研究所附属病院」に改められている。現在の東京大学医科学研究所附属病院(グーグル・マップ・データ)で港区白金台であるが、まあ、東で接する高輪と呼んでもおかしくない。

「體の都合で七月の上旬か中旬迄は東京にゐなくてはいけないだらう それからでよければ出雲へは是非行きたい 尤も醫者にきいて見なければ 確な事はわからないけれど」井川が失恋の痛手による芥川龍之介の精神状態を気にかけ、急遽、上京した際、彼の保養を兼ねて強く松江に来ることを慫慂したことは既に注したが、そこで引いた翰林書房刊の「芥川龍之介新辞典」の「松江」の項に、龍之介は『医者と相談し、途中』、『城崎(きのさき)で一泊するということで』、遂に彼の一高以来、井川から聴かされ、念願であった松江行が、この大正四年八月三日午後三時二十分『東京駅発の夜行で出発』することになるのである。

「試驗中は時間を醫者に切られたので大分忙しくてよはつた」ちょっと意味がとり難いが、一日の試験勉強の時間が制限されたという意味か。

「放情凭檻望  處々柳條新  千里洞庭水  茫々無限春」私が勝手に訓読したものは、

 放情 檻(らん)に凭(もた)れ 望めば

 處々 柳條(りふでう) 新たなり

 千里 洞庭の水

 茫々 無限の春

である。「芥川龍之介漢詩全集 附やぶちゃん訓読注+附やぶちゃんの教え子T・S・君による評釈」の「四」を参照されたい。

「桑木さん」哲学者で文学博士の桑木厳翼(くわき げんよく 明治七(一八七四)年~昭和二一(一九四六)年)であろう。帝国大学文科大学哲学科を首席卒業し、大学院に進学、東京専門学校講師・第一高等学校教授・東京帝大文科大学講師・同助教授を経て、明治三九(一九〇六)年に京都帝国大学文科大学教授(これで井川が知っていておかしくない)。大正二(一九一四)年東京帝国大学教授。専門はカントであった。

「非觀」ママ。何度も使っているので彼の当時の慣用語のようである。悲観と同義か、その重いものであろう。

「Begriff」ドイツ語。「ベグリッフ」。概念・観念。語源は「包括する」「把握する」。フランス語‘concept’。

「ロオレンス」既出既注

「Dickens」ヴィクトリア朝時代を代表するイギリスの小説家で、主に下層階級を主人公とし、弱者の視点で社会を諷刺したチャールズ・ジョン・ハファム・ディケンズ(Charles John Huffam Dickens  一八一二年~一八七〇年)であるが、この問題文は彼に就いての評伝か何かか。

「ミケルアンジェロ」前後、孰れもフランスの作家ロマン・ロラン(Romain Rolland 一八六六年~一九四四年)の作品。「ジャン・クリストフ」(Jean-Christophe )が一九〇四年から一九一二年の長編小説で、この「ミケルアンジェロ」は一九〇五年に書かれたイタリア・ルネサンスの名匠ミケランジェロ(Michelangelo)の芸術研究「ミケランジェロ」(Michel-Ange )であろう。但し、彼には翌年に書かれた「ミケランジェロの生涯」(Vie de Michel-Ange )もあるので確定は出来ない。「トルストイ」は、前に注で述べた、一九一一年に書かれた「トルストイの生涯」(La Vie de Tolstoï )である。

「矢代君」後の美術史家・美術評論家矢代幸雄(明治二三(一八九〇)年~昭和五〇(一九七五)年:龍之介より二歳年上)。横浜生まれ。横浜商業学校から神奈川県立第一中学校へ転校し、第一高等学校英法科を経て東京帝国大学法科大学に入学するも、文科大学英文科に転じ、この翌年大正四(一九一五)年に卒業。絵もよくし、一高時代から大下藤次郎主宰の日本水彩画研究所に通い、大学時代には第七回文展に入選している。実家があまり裕福でなく、自作の水彩画を売ったり、美術書の翻訳をしたりして、学費の足しにしていたが、成績優秀で学資免除の特待生となっている。結局、大学を首席で卒業、大学院に進み、東京美術学校(現在の東京芸大)・第一高等学校・東京師範学校で教職を務めた。大正一〇(一九二一)年から大正一四(一九二五)年にかけて欧州留学し、フィレンツェに住んでいたアメリカ人美術史家でイタリア・ルネサンス研究で著名だったバーナード・ベレンソン(Bernard Berenson 一八六五年~一九五九年:リトアニア出身に師事し、サンドロ・ボッティチェッリ(一四四五年~一五一〇年)の研究を行った。研究成果をまとめた英文の著“Sandro Botticelli ”(ロンドン:一九二五年)が国際的評価を得、その後も、華族らによって組織された学術振興のための財団法人「啓明会」から資金援助を得て、ボッティチェッリ研究のための現地調査を行っている。この欧州滞在の折り、川崎造船社長で美術収集家であった松方幸次郎のロンドン・パリでの絵画購入に同行し、印象派や当時評価を高めつつあったポスト印象派の作品購入にアドヴァイスし、「松方コレクション」の形成に関わった。帰国後、帝国美術院付属美術研究所主任・美術研究所主事・帝国美術院幹事・帝国美術研究所所員・美術学校教授を経て、昭和一一(一九三六)年に美術研究所(現在の東京文化財研究所)所長に就任した。戦後は文化財保護委員・東京国立文化財研究所所長を務めた。参照した当該ウィキによれば、『日本における西洋美術史研究の祖であると同時に、滞欧歴が長く海外の知己も多いコスモポリタンとしての立場から、日本美術の紹介と国際的認知にも努めた。戦後には、日本を世界の中の「文化国家」にしようという使命感のもと、美術・文化財にまつわる制度整備にも尽力している』とある。

「銀時計が貰へさうもないつて非觀してゐた」前記経歴から杞憂であったわけである。

「三井君」後のドイツ文学者三井光弥(明治二三(一八九〇)年~昭和二七(一九五二)年)。山形県鶴岡市生まれ。東京帝大独文科大正四(一九一五)年卒。大正六年に雑誌『思林』(後に『動静』から『文潮』へ改題)を創刊し、昭和一九(一九三四)年まで通巻百七十二号まで発行した。シュニッツラー・ストリンドベルヒ・ヘッセの作品などを多数紹介・翻訳した。著書に「独逸文学十二講」「独逸文学に於ける仏陀及び仏教」「父親としてのゲーテ」などがある。

「井上君」後の文部官僚で「日本国憲法」の審議に参加した井上赳(たけし 明治二二(一八八九)年~昭和四〇(一九六五)年)。島根県生まれ。一九三〇年代の国語読本である「小学国語読本」(通称「サクラ読本」)の中心編集者であった。県立松江中学校から一高(同期に近衛文麿・山本有三・土屋文明がいる)、東京帝大文科大学国文学科を卒業、大正一〇(一九二一)年、鹿児島県の第七高等学校造士館教授であった折り、大学の先輩であった国文学者で、当時、文部省図書監修官であった高木市之助に誘われ、同じ文部省図書監修官となり、以後、二十年に亙って、国定教科書の編集に関わった。大正一四(一九二五)年から一年刊、教科書研究のために欧米に留学している。昭和六(一九三一)年から「小学国語読本」編纂に着手し、従来、巻一の冒頭で「単語」から教えていたものを、井上は「サイタ サイタ サクラガ サイタ」に象徴されるように、「文」から習うように改めた。また、「源氏物語」や「東海道中膝栗毛」などを教材に取り入れるなど、文学教育の要素も強化した。この読本は昭和八年から実施された。昭和一六(一九四一)年の国民学校への移行に際し、「ヨミカタ」・「初等科国語」(通称「アサヒ読本」)を石森延男らと編集した。「アサヒ読本」は軍部からの圧力に屈せず、児童中心主義を守り通したことで知られる。昭和一九(一九四四)年、図書局廃止(国民教育局へ改組後、学徒動員局となる)に抗議して辞職した。戦後は昭和二一(一九四六)年から翌年まで、衆議院議員を務め、「日本国憲法」などの審議に参加し、その際、二十六条二項の正文中で、「children」の訳語に「子女」を提言したのは井上であった。後、東京文科大学(現在の二松学舎大学)・共立薬科大学の教授を務めた。当時の唱歌の教科書は「国語読本」と密接な関係にあったことから、井上は文部省唱歌の作詞も手がけており、人口に膾炙している「電車ごっこ」(「新訂尋常小学唱歌」所収・信時潔作曲)や「花火」(『うたのほん』所収・下総皖一(しもおさかんいち)作曲)などは、実に彼の作詞であった。

「僕の中學の先生」三中の恩師廣瀨雄(ひろせたけし 明治七(一八七四)年~昭和三九(一九六四)年)。既出既注こちらの注での引用では、田端文士村形成の重要人物として評価されているが、さても、彼がこの辛辣極まりない批評を加えている書簡を読んだとしたら(没年から見て、その可能性は非常に高い)、どう思ったであろう。かなり、気になるところだ。

「板倉と云ふ華族」調べれば、判るだろうが、その気にならない。悪しからず。

「累身賣りの段」歌舞伎の「薫樹累物語(めいぼくかさねものがたり)」(初演は明治三七(一九〇四)年、歌舞伎座)の一段。もとは新内節「鬼怒川物語」の一段で、こちらは安永 (一七七二年~一七八一年)頃に一世鶴賀若狭掾作曲とされる。

「小山と云ふ畫かき」小山栄達(明治一三(一八八〇)年〜昭和二〇(一九四五)年)。小石川生まれ。洋画と日本画の双方を学び、東京勧業博覧会・日本美術院等で褒状を受賞、明治三八(一九〇五)年、戦画博覧会を開催し、注目を集めた。大正六(一九一七)年に芸術社を創立し、文展・帝展で活躍した。大正三(一九一四)年頃に田端四三四番地に居住していた旨、サイト「田端文士村記念館」のこちらにあった。芥川家は田端四三五であるから、間違いない。

「僕の弟」新原得二(明治三二(一八九九)年~昭和五(一九三〇)年)。龍之介の七つ下の異母(実母フクの死後に後妻に入った道章・フクの末妹のフユ)弟。上智大学中退。父敏三に似た激しい性格で、岡本綺堂について、戯曲「虚無の実」を書いたりもしたが、本人自身が文筆への興味を失い、後には日蓮宗に入れ込んでしまい、後年の芥川を悩ませた。異母弟とはいえ、以上の通りで、血が濃い故に、龍之介はなんとかしてやろうという気持ちが強くあったに違いない。しかし、龍之介の遺書には、実姉ヒサ及びこの得二とは義絶するようにという指示があった伝えられている(芥川龍之介遺書全6通 他 関連資料1通 ≪2008年に新たに見出されたる遺書原本 やぶちゃん翻刻版 附やぶちゃん注≫」参照。但し、当該部は遺族による確信犯の部分的焼却によって現存しない)。

「わしもしらない」武者小路実篤による戯曲「わしも知らない」。釈迦と釈迦族滅亡を描いたもので、大正三(一九一四)年一月に『中央公論』に掲載され、翌年のこの年に帝国劇場で文芸座によって上演された。実篤の戯曲作品で初めての上演で、十三代目守田勘弥が釈迦、二代目市川猿之助が流離王を演じた。私は読んだことがない。詳しくは当該ウィキを参照されたい。

「カッツェンヤムマア」Katzenjammer。ドイツ語で「二日酔い」の意。

「武者小路が 靴の紐をとく資格もないやうな人間が」芥川龍之介は志賀直哉(作家になってからは常にその文体・表現には彼のそれを羨望し続けた)とともに武者小路の作品に親しんでいた。例えば、大正六(一九一七)年八月発行の『文藝俱樂部』に寄せた「私の文壇に出るまで」では(この注のために先ほどブログで電子化した)、「高等學校を卒業して大學に入つてからは、支那の小說に轉じて、『珠邨談怪』や、『新齋諧』や、『西廂記』、『琵琶記』などを無闇と讀んだ。又日本の作家のものでは、志賀直哉氏の『留女』をよく讀み、武者小路氏のものも殆ど全部讀んだと思ふ」と述べている。しかし、一方で大正八(一九一九)年一月の『中央公論』に発表した自伝的小説「あの頃の自分の事」では、『我々四人は、又久米の手製の珈琲を啜りながら、煙草の煙の濛々とたなびく中で、盛にいろんな問題をしやべり合つた。その頃は丁度武者小路實篤氏が、將にパルナスの頂上へ立たうとしてゐる頃だつた。從つて我々の間でも、屢氏の作品やその主張が話題に上つた。我々は大抵、武者小路氏が文壇の天窓を開け放つて、爽な空氣を入れた事を愉快に感じてゐるものだつた。恐らくこの愉快は、氏の踵に接して來た我々の時代、或は我々以後の時代の靑年のみが、特に痛感した心もちだらう。だから我々以前と我々以後とでは、文壇及それ以外の鑑賞家の氏に對する評價の大小に、徑庭があつたのは已むを得ない。それは丁度我々以前と我々以後とで、田山花袋氏に對する評價が、相違するのと同じ事である。(唯、その相違の程度が、武者小路氏と田山氏とで、どちらが眞に近いかは疑問である。念の爲に斷つて置くが、自分が同じ事だと云ふのは、程度まで含んでゐる心算ぢやない。)が、當時の我々も、武者小路氏に文壇のメシヤを見はしなかつた。作家としての氏を見る眼と、思想家としての氏を見る眼と――この二つの間には、又自らな相違があつた。作家としての武者小路氏は、作品の完成を期する上に、餘りに性急な憾があつた。形式と内容との不卽不離な關係は、屢氏自身が『雜感』の中で書いてゐるのにも關らず、忍耐よりも興奮に依賴した氏は、屢實際の創作の上では、この微妙な關係を等閑に附して顧みなかつた。だから氏が從來冷眼に見てゐた形式は、『その妹』以後一作每に、徐々として氏に謀叛を始めた。さうして氏の脚本からは、次第にその秀拔な戲曲的要素が失はれて、(全くとは云はない。一部の批評家が戲曲でないやうに云ふ『或靑年の夢』でさへ、一齣一齣の上で云へばやはり戲曲的に力强い表現を得た個所がある。)氏自身のみを語る役割が、己自身を語る性格の代りに續々としてそこへはいつて來た。しかもそこに語られた思想なり感情なりは、必然性に乏しい戲曲的な表現を借りてゐるだけ、それだけ一層氏の雜感に書かれたものより稀薄だつた。「或家庭」の昔から氏の作品に親しんでゐた我々は、その頃の――「その妹」の以後のかう云ふ氏の傾向には、慊らない[やぶちゃん注:「あきたらない」。]所が多かつた。が、それと同時に、又氏の雜感の多くの中には、我々の中に燃えてゐた理想主義の火を吹いて、一時に光焰を放たしめるだけの大風のやうな雄々しい力が潜んでゐる事も事實だつた。往々にして一部の批評家は、氏の雜感を支持すべき論理の缺陷を指摘する。が、論理を待つて確められたものゝみが、眞理である事を認めるには、餘りに我々は人間的な素質を多量に持ちすぎてゐる。いや、何よりもその人間的な素質の前に眞面目であれと云ふ、それこそ氏の闡明した、大いなる眞理の一つだつた。久しく自然主義の淤泥にまみれて、本來の面目を失してゐた人道(ユウマニテエ)が、あのエマヲのクリストの如く「日昃きて[やぶちゃん注:「かたぶきて」。]暮に及んだ」文壇に再[やぶちゃん注:「ふたたび」。]姿を現した時、如何に我々は氏と共に、「われらが心熱(もゑ[やぶちゃん注:ママ。])し」事を感じたらう。現に自分の如く世間からは、氏と全然反對の傾向にある作家の一人に數へられてゐる人間でさへ、今日も猶氏の雜感を讀み返すと、常に昔の澎湃とした興奮が、一種のなつかしさと共に還つて來る。我々は――少くとも自分は氏によつて、「驢馬の子に乘り爾[やぶちゃん注:「なんぢ」。]に來る」人道を迎へる爲に、「その衣を途に布き[やぶちゃん注:「みちにしき」。]或は樹の枝を伐りて途に布く」先例を示して貰つたのである』とも述べている(引用は岩波旧全集に拠った。全文は「青空文庫」のこちらで読めるが、新字体である)。翰林書房刊「芥川龍之介新辞典」の「武者小路実篤」の項(瀧田浩氏執筆)では、本書簡のこの部分について、『文意は明瞭ではないが、「あの頃の時分の事」同様、文壇の空気を大きく動かす者への評価と感謝、そしてある種の軽侮が見える。「待たれてゐる」「誰か」はむしろ芥川自身と意識されているようだ。「靴の紐をとく資格もない」は、キリストの先駆者、洗礼者ヨハネの自らに対することばだ。ヨハネの「後に来る者」=「メシヤ」の役目をも主体的に受けとめようとするかに見える文壇の先行者武者小路に対し、芥川はヨハネの位置を冷たく差し出している』と述べられ(非常に同感する)、続く「クリストと偶像」では、『芥川が文壇に登場する以前に、千家元麿や岸田劉生など後発の文学者・芸術家が武者小路のもとに集まり出していたためもあろうか、武者小路は芥川に冷談である。「芥川君の死」(『中央公論』1927・9)は、数少ない彼による言及であるが、「芥川君については正確な印象を得てゐない」「第一あまり読んでゐない」「五六の作品で見た処では真実さがいく分不足してゐるやうに思つた」と素っ気ないことばが並ぶ。それに対して、芥川は晩年の発言の中でも、武者小路を「道徳的な力」においてはホイットマンにたとえ、また晩年敬愛の深かった志賀直哉と「大小の比較はできない」と語っている(「新潮合評会」『新潮』1927・2)』。『武者小路は自身の創作の目標について「他人を描くのも自分を描くのも要するに唯自分のモヌメント[やぶちゃん注:底本では傍点「・」。以下同じ。]を立てる事に外ならない」(「作品上の自他」『文章世界』1912 ・ 6 傍点は引用者による、以下同じ)と書いたことがあったが、芥川は「闇中問答」』(遺稿。私の古い電子化がある)『の中で「僕」に「若し最大の多力者だつたとすれば、あのゲエテと云ふ男のやうに安んじて偶像になつてゐたであらう」(『文芸春秋』1927・9)と、語らせている。「西方の人・続西方の人」(『改造』1927・8~9)』(私の「西方の人(正續完全版)」がある)『で、芥川が自身をも投影しつつ「私のクリスト」と呼んだのは、「みづから燃え尽きようとする一本の蝋燭」のような無垢なロマン主義者であった(「ヨハネはロマン主義を理解出来ないクリストだつた」)。無垢なクリストたちの彼岸に、清濁併せのむ多力なゲエテたちがいる。「続西方の人」の末尾は、後代のクリストたちのゲエテヘの嫉妬であった。芥川の武者小路への思いは、偶像になりえる彼の多力さへの軽蔑と嫉妬ではなかっただろうか』と評しておられる。因みに私は、中学二年の時に「その妹」や「真理先生」を読んだが、全く感銘しなかった。今も彼の作品を読みたいとは毫も思わぬ。あ奴の色紙のお蔭で「日々是好日」という文字列には激しい嫌悪を感じるほど、嫌いである。

「戀愛三味」オーストリアの医師で小説家・劇作家でもあったアルトゥル・シュニッツラー(Arthur Schnitzler 一八六二年~一九三一年)の一八九六年戯曲(原題:Liebelei :「恋愛遊戯」)。森鷗外の訳(大正二(一九一三)年)が知られるから、これもそれか。

「パアフオーメーション」performance(演技)を performation(穿孔)という綴りを想起してしまった誤りか。

「Neben werk」作家の主な重厚なテーマ作品群とは別の傍系の気軽な感じで捜索した軽演劇的作品の意か。

「ワーグネル」楽劇王ヴィルヘルム・リヒャルト・ワーグナー(Wilhelm Richard Wagner 一八一三年~一八八三年)のネィティヴの音写は「リヒャルト・ヴァグナー」が近いか。

「temple」「殿堂」の意。

「上田さん」上田整次(明治六(一八七三)年~大正一三(一九二四)年)。石川県出身で明治二八(一八九五)年東京帝大独文科卒。文学博士。四高(金沢)・五高(熊本)教授を経て、明治四〇(一九〇七)年に母校東の助教授となった。明治四十二年にドイツに留学して帰国後、フローレンツの後任としてドイツ語学・ドイツ文学の講座を担当、この書簡の翌年の大正五年に教授に就任した。ヨーロッパの劇場史・戯曲論を研究し、没後、「沙翁舞台とその変遷」が刊行されている。

「山本文學士」山本有三のこと。但し、彼は一高時代に落第して中退し、東京帝大文科大学独文学科選科で龍之介らと同級になったのだが、選科生には学士号は与えられなかった。或いは本科転学していたかも知れないが、判らぬ。

「山宮文學士は豫定通り文部省へ出る」複数回既出既注の山宮允(さんぐうまこと)は大正四(一九一五)年に東京帝国大学英文科を卒業後、自身が言っている通り、大正八年には第六高等学校教授となっているから、文部省勤務(部局不詳)は四年ほどである。なお、後の大正十四年から翌年にかけて文部省在外研究員として渡欧しており、彼の経歴と立ち回り方を見るにまさに「官學に緣故があ」ったこと、「德ですよ 私立の學校へゆくと恩給がありませんからね」という孫子の計略ならぬ「百年子孫の計を立てて」生きたさまがよく判るね。

「うき人ははるかなるかもわが見守(みも)る茄子の花はほのかなるも」末句が六音であるため、底本では「も」にママ注記が打たれてある。「も」は、いいとは思わないが、「哉」の崩しの誤判読の可能性はある。弥生の面影。「かなしかる人の眉びきおもほゆるかも」も同じ。

「あぶら火の光にそむきたどたどといらへする子をあはれみにけり」弟得二がモデルであろう。

「傴僂(くぐせ)」脊柱奇形を主症状とする、所謂、「傴僂(せむし)」。

「靑斑猫」鞘翅(コウチュウ)目ゴミムシダマシ上科ツチハンミョウ科アオハンミョウ(青斑猫)Litta vesicatoria 。本邦には棲息しない。この種を乾燥させたものを漢方では「莞菁」(芫青:ゲンセイ)と称し、英名は虫名から「spanish fly」と称し、毒物「カンタリス」(cantharis/英名:cantharide)とも呼ぶ。日本産マメハンミョウ(豆斑猫)Epicauta gorhami や中国産のオビゲンセイ属 Mylabris の体内に一%程度含まれ、乾燥したものでは「カンタリジン」を〇・六%以上含む。不快な刺激臭を持ち、味は僅かに辛い。本品の粉末は皮膚の柔らかい部分又は粘膜に付着すると激しい掻痒感を引き起こし、赤く腫れて水疱を生ずる。発疱薬(皮膚刺激薬)として外用されるが、毒性が強いために通常は内用しない(利尿剤として内服された例もあるが、腎障害の副作用がある)。なお、カンタリジンは以前、一種の媚薬(催淫剤)「スパニッシュ・フライ」として使われてきた歴史がある。詳しくは、私の「耳囊 卷之五 毒蝶の事」の「莞菁(あをはんめう)」を見られたいが、このスパニッシュ・フライ、芥川龍之介の最晩年に彼が盛んに、盟友小穴隆一に対して、何度も「手に入れて僕に呉れ」と言っていたことが、『小穴隆一 「二つの繪」(11) 「死ねる物」』他に何度も出る。但し、彼は催淫剤としてではなく、自殺するための毒薬として所望しているのである(但し、それは表向きで、やはり、妻文との夜の営みのために催淫剤として求めていた可能性も私はあると考えている)。

「切支丹坂」現行では東京都文京区小日向のここに現存するが、その東側の庚申坂が本当の切支丹坂ともされる。

「流風」「ながれかぜ」か。突風。

「せんせん」シチュエーションから言って、「ひらひらと動くさま」或いは「光り輝くさま」の意の「閃閃」であろう。

「末燈抄」親鸞(承安三(一一七三)年~弘長二(一二六三)年)の書簡集。親鸞は長岡での配流が許されて後、東国に二十年留まって布教をし、文暦元(一二三四)年頃、京へ帰った。それ以後は、主に書簡を交換する形で門弟との連絡を密にしたが、親鸞の曾孫覚如の次男従覚(慈俊)が元弘三(一三三三)年四月(鎌倉幕府滅亡の前月)、諸国に散在する親鸞の書簡や短編の法語二十二通を集め、全二巻に纏めたもの。]

《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版) 私の文壇に出るまで

 

[やぶちゃん注:大正六(一九一七)年八月発行の『文藝俱樂部』に「私の文壇に出るまで」の標題を大見出しとして、「文壇諸家立志物語()」の副題で掲載され、初出誌では、『初めは歷史家を志望』との見出しが付されてあると、底本(以下)の後記にある。

 芥川龍之介は、この年の五月二十三日に、処女作品集「羅生門」(阿蘭陀書房)を刊行している。

 底本は一九七七年岩波書店刊の旧「芥川龍之介全集」第一巻を用いた。

 原本では傍点が「・」(人名・作家名)と「△」(書名・作品名)の二種が用いられているが、前者を下線で、後者を太字で示すことにした。また非常に多くのルビが振られてあるが、特に読みが振れるもの、難読と思われるもののみに附すこととした。「私」は途中で一箇所「わたし」と振られてあるので「わたし」で通読してよい。「德富蘆花」の「富」はママである。

 ブログで書簡を抄出して注釈を行っているうちに、本篇がネット上で電子化されていないことに気づいたので、急遽、行った。従って、注は附さない。]

 

  私の文壇に出るまで

 

 私は十位の時から、英語と漢學を習つた。高等小學の三年から第三中學に入つた。恰度上級には後藤末雄久保田萬太郞の兩氏があつた。私は大層溫和(おとな)しかつた。そして書くことは好きであつたけれども、五年の時に唯一度學校の雜誌に『義仲論』といふ論文を出したきりで、將來は歷史家にならうと思つてゐた。私が中學を卒業した年から、無試驗入學が始まつて、第一高等學校の英文科に入學した。その時分には、もう歷史をやるといふ志望は放擲してしまつた。それでは作家にならうといふ考があつたかといふと、さうではなかつた。まあどうかして英文學者にでもならうといふつもりでゐた。そして讀書をした。高等學校の三年間は、さうして過ぎた。その間にはまだ久米松岡成瀨菊池達と親しくしてはゐなかつた。

 大學一年の時、豐島だの、山宮だの、久米だので第三次の『新思潮』をやつた。その時短篇を初めて書いた。それは題を『老年』にといふのであつた。雜誌は一年ならずして廢(よ)した。三年になつてから、『新思潮』の次を出した。それから小說を書き出して、今日(こんにち)まで作家になるとも、ならないともつかずに小說を書いて來た。まづ本街道は右の通りである。

 少し脇道に入つて、私のこれまで讀んだものなどに就いて話せば、小學時代、私の近所に貸本屋(かしぼんや)があつて、高い棚に講釋の本などが竝んでゐたが、私はそれを端から端まですつかり讀み盡してしまつた。さういふものから導かれて、一番最初に『八犬傳』を漬み、讀いて『西遊記』、『水滸傳』、馬琴のもの、三馬のもの、一九のもの、近松のものを讀み初めた。德富蘆花の『思ひ出の記』や、『自然と人生』は、高等小學一年の時に讀んだ。その中で『自然と人生』は幾らか影響を受けたやうに思つた。中學時代には漢詩を可成り讀み、小說では泉鏡花のものに沒頭して、その悉くを讀んだ。その他夏目さんのもの、さんのものも大抵皆讀んでゐる。中學から高等學校時代にかけて、德川時代の淨瑠璃や小說を讀んだ。その時分から近松の中に出て來る色男、文化文政の色男といふものに對する同情は、決してもつことが出來なかつた。次には西洋のものを色々讀み始めた。當時の自然主義運動によつて日本に流行したツルゲネーフイブセンモウパツサンなどを出鱈目に讀み獵(あさ)つた。高等學校を卒業して大學に入つてからは、支那の小說に轉じて、『珠邨談怪』や、『新齋諧』や、『西廂記』、『琵琶記』などを無闇と讀んだ。又日本の作家のものでは、志賀直哉氏の『留女』をよく讀み、武者小路氏のものも殆ど全部讀んだと思ふ。殊にロマンローランの『ジヤン・クリストフ』には甚(ひど)く感動させられて、途中でやめるのが惜しくて、大學の講義を聽きに行かなかつたことがよくあつた。しかし、私は遂に藤村の詩だとか、『天地有情』といつたやうな日本の詩からは、何等の影響をも受けないでしまつた。かうして、今迄のところでは、甚(はなは)だ平凡な一介の讀書子として來た。それ以外に何にもありはしない。ただ夏目先生の許ヘ一年ばかり行つてゐるうちに、芸術上の訓練ばかりでなく、人生としての訓練を叩き起されたと云ふ氣がする。

 

2021/04/19

伽婢子卷之三 牡丹燈籠

 

   ○牡丹燈籠

 年每(としごと)の七月十五日より廿四日までは、聖靈(しやうりやう)の棚をかざり、家々、これを祭る。又、いろいろの燈籠を作りて、或は、祭の棚にともし、或は、町家(まちや)の軒にともし、又、聖靈の塚に送りて、石塔の前にともす。其燈籠のかざり物、或は、花鳥、或は草木、さまざま、しほらしく作りなして、其中に、ともし火、ともして、夜もすがら、かけおく。是を見る人、道も、さりあえず、又、其間(あひだ)に踊子どもの集り、聲よき音頭に、頌哥(せうが)、出〔いだ〕させ、振(ふり)よく、踊る事、都の町々、上下、皆、かくの如し。

 天文戌申(つちえさる)の歲(とし)、五條京極に萩原新之丞(おぎはら〔しんのじよう〕)といふ者あり。

 近きころ、妻に後(をく)れて、愛執(あいしふ)の淚、袖に餘り、戀慕の焰(ほのほ)、胸をこがし、ひとり淋しき窓のもとに、ありし世の事を思ひ續くるに、いとゞ悲しさ、かぎりもなし。

「聖靈祭りの營みも、今年はとりわき、此妻さへ、無き名の數(かず)に入〔いり〕ける事よ。」

と、經、讀み、囘向(ゑかう)して、終(つひ)に出〔いで〕ても遊ばず、友だちのさそひ來(く)れども、心、たゞ、浮立(うきた)たず、門(かど)にたゝずみ立〔たち〕て、うかれをるより、外は、なし。

 いかなれば立(たち)もはれなず面影の

   身にそひながらかなしかるらむ

と、うちながめ、淚を押拭(をしぬぐ)ふ。

Bd1
  

 十五日の夜、いたく更けて、遊びありく人も稀になり、物音も靜かなりけるに、一人(ひとり)の美人、その年、廿(はたち)ばかりと見ゆるが、十四、五ばかりの女(め)の童(わらは)に、美しき牡丹花(ぼたんくわ)の燈籠、持たせ、さしも、ゆるやかに打過〔うちすぐ〕る。

 芙蓉のまなじり、あざやかに、楊柳(やうりう)の姿、たをやかなり。

 かつらのまゆずみ、みどりの髮、いふばかりなく、あてやか也。

 萩原、月のもとに是を見て、

『是は。そも、天津乙女(あまつをとめ)の天降(あまくた)りて、人間〔じんかん〕に遊ぶにや、龍の宮の乙姬の、わたつ海(み)より出〔いで〕て慰むにや、誠に、人の種(たね)ならず。』

と覺えて、魂(たましゐ)、飛び、心、浮かれ、みづから、をさえとゞむる思ひなく、めで惑ひつゝ、後(うしろ)に隨ひて行く。

 前(さき)になり、後(あと)になり、なまめきけるに、一町ばかり西のかたにて、かの女、うしろに顧みて、すこし笑ひて、いふやう、

「みずから、人に契りて待侘(〔まち〕わび)たる身にも待べらず。唯、今宵の月に憧(あこがれ)出て、そゞろに、夜更け方、歸る道だに、すさまじや。送りて給(たべ)かし。」

と、いえば、萩原、やをら、進みて、いふやう、

「君、歸るさの道も遠きには、夜〔よ〕、深くして、便(びん)なう侍り。某(それがし)のすむ所は、塵(ちり)、塚たかく積りて、見苦しげなるあばらやなれど、たよりにつけてあかし給はゞ、宿かし參らせむ。」

と戲ふるれば、女、打笑(うちえ)みて、

「窓もる月を、獨り詠〔なが〕めてあくる侘しさを、嬉しくも、の給ふ物かな。情〔なさけ〕によわるは、人の心ぞかし。」

とて、立〔たち〕もどりければ、萩原、喜びて、女と手を取組つゝ、家に歸り、酒、とり出し、女の童に酌とらせ、少し打飮み、傾(かたふ)く月に、わりなき言の葉を聞くにぞ、「今日を限りの命ともがな」と兼(かね)ての後〔のち〕ぞ思(おもは)るゝ。

 萩原、

 また後のちぎりまでやは新枕(にひまくら)

   たゞ今宵こそかぎりなるらめ

と云ひければ、女、とりあえず、

 ゆふなゆふなまつとしいはゞこざらめや

   かこちがほなるかねごとはなぞ

と、返しすれば、萩原、いよいよ嬉しくて、互にとくる下紐(〔した〕ひも)の結ぶ契りや新枕(にゐまくら)、交(かは)す心も隔(へだて)なき、睦言(むつごと)は、まだ、盡きなくに、はや、明方にぞ、なりにける。

 萩原、

「その住(すみ)給ふ所はいづくぞ、『木の丸殿〔きのまるどの〕』にはあらねど、名のらせ給へ。」

といふ。

 女、聞て、

「みずからは、藤氏(ふぢうぢ)のすゑ、二階堂政行の後〔あと〕也。其比(そのころ)は、時めきし世もありて、家、榮え侍りしに、時世移りて、あるかなきかの風情にて、かすかに住侍べり。父は政宣、京都の亂れに打死(うちじに)し、兄弟、皆、絕(たへ)て、家、をとろへ、我が身獨り、女(め)のわらはと、萬壽寺のほとりに住侍り。名のるにつけては、耻かしくも、悲しくも侍べる也。」

と、語りける言の葉、優しく、物ごし、さやかに愛敬(あいぎやう)あり。

 すでに、橫雲、たなびきて、月、山の端に傾(かたふ)き、ともし火、白う、かすかに殘りければ、名ごり盡せず、起き別れて歸りぬ。

 それよりして、日、暮るれば、來たり、明がたには、歸り、夜每に通ひ來(く)ること、更に約束を違(たが)へず。

 萩原は、心、惑ひて、なにはの事も思ひ分けず、唯、女の、わりなく思ひかはして、

「契りは、千世〔ちよ〕も、變らじ。」

と通ひ來(く)る嬉しさに、晝といへども、又、こと人に逢ふ事、なし。

 斯(かく)て、廿日餘りに及びたり。

Bd2
 

 隣の家に、よく物に心得たる翁(おきな)のすみけるが、

『萩原が家に、けしからず、若き女の聲して、夜每に歌うたひ、わらひあそぶ事のあやしさよ。』

と思ひ、壁の隙間より、覗きて見れば、一具(〔いち〕ぐ)の白骨(はくこつ)と、萩原と、灯(ともしび)のもとに、さしむかひて、坐〔ざ〕したり。

 萩原、ものいへば、かの白骨、手あし、うごき、髑髏(しやれかうべ)、うなづきて、口とおぼしき所より、聲、響き出〔いで〕て、物語りす。

 翁、大〔おほ〕きに驚きて、夜の明くるを待ちかねて、萩原を呼びよせ、

「此程、夜每に客人(きやく〔じん〕)ありと聞ゆ。誰人〔たれぴと〕ぞ。」

といふに、更に隱して、語らず。

 翁のいふやう、

「萩原は、必ず、わざはひ、あるべし。何をか、包むべき。今夜、壁より、覗き見ければ、かうかう侍べり。凡そ、人として命〔いのち〕生きたる間〔あひだ〕は、陽分(やうぶん)、いたりて、盛(さかん)に淸(きよ)く、死して幽靈となれば、陰氣はげしく、よこしまにけがるる也。此故に、死すれば、忌(いみ)、ふかし。今、汝は、幽陰氣(ゆういんき)の靈(りやう)と、同じく座して、これをしらず。穢(けが)れて、よこしまなる妖魅(ばけもの)と共に寢て、悟(さとら)ず。忽ちに眞精(しんせい)の元氣を耗(へら)し盡して、精分を奪はれ、わざはひ來り、病(やまひ)出侍〔いでは〕べらば、藥石・鍼灸の、をよぶ所にあらず。傳尸癆瘵(でんしらうさい)の惡証(あくしやう)を受け、まだ、もえ出〔いづ〕る若草の年を、老先(をい〔さき〕)長く待〔また〕ずして、俄に黃泉(よみぢ)の客(かく)となり、苔(こけ)の下に埋〔うづ〕もれなん。諒(まこと)に悲しきことならずや。」

といふに、荻原、始めて、驚き、恐ろしく思ふ心づきて、ありの儘に語る。

 翁、聞て、

「萬壽寺のほとりに住〔すむ〕といはば、そこに行きて、尋ね見よ。」

と、敎ゆ。

  荻原、それより、五條を西へ、萬里小路(までのこうぢ)より、こゝかしこを尋ね、堤のうへ・柳の林に行きめぐり、人に問へども、知れるかた、なし。

 日も暮(くれ)がたに、萬壽寺に入て、しばらく、やすみつゝ、浴室(ふろや)の後ろを北に行きてみれば、物ふりたる魂屋(たまや)、あり。

Bd3
 

  差寄(さしよ)りてみれば、棺(くはん)の表(おもて)に、

「二階堂左衞門尉政宣が息女彌子(いやこ)吟松院(ぎんせうゐん)冷月禪定尼(れいげつぜんじやうに)」

と、あり。

 かたはらに、古き伽婢子(とぎぼうこ)あり。

 うしろに、

「淺芽(あさぢ)」

といふ名を書(かき)たり。

 棺の前に、牡丹花(ぼたんくは)の燈籠の古きを、かけたり。

『疑ひもなく、これぞ。』

と思ふに、身の毛のよだちて、恐ろしく、跡を見返らず、寺を走り出て歸り、此日比〔このひごろ〕、めで惑ひける戀も、さめ果て、我が家も、おそろしく、暮〔くる〕るを待かね、明(あく)るをうらみし心も、いつしか忘れ、

「今夜(こよひ)、もし、來らば、いかゞせん。」

と、隣の翁が家に行て、宿をかりて、明(あか)しけり。

 さて、

「いかゞすべき。」

と、愁へ歎く。

 翁、を敎へけるは、

「東寺(とうじ)の卿公(きやうのきみ)は、行學(ぎやうがく)、兼備(かねそなへ)て、しかも驗者(げんじや)の名あり。急ぎ、ゆきて、賴み參らせよ。」

といふ。

 荻原、かしこにまうでゝ、對面(たいめん)を遂げしに、卿公、仰せけるやう、

「汝は、妖魅(ばけもの)の氣に、精血(せいけつ)を耗散(がうさん)し、神魂(しんこん)を昏惑(こんわく)せり。今、十日を過〔すぎ〕なば、命は、あるまじき也。」

と、のたまふに、荻原、ありの儘に語る。

 卿公、すなはち、符(ふ)を書〔かき〕て與へ、門(かど)に、おさせらる。

 それより、女、二たび、來らず。

 五十日ばかりの後〔のち〕に、或日、荻原、東寺に行きて、卿公に禮拜〔らいはい〕して、酒に醉(え)ひて、歸る。

 さすがに、女の面影、戀しくや有〔あり〕けん、萬壽寺の門前近く、立寄〔たちよ〕りて、内を見いれ侍りしに、女、忽ちに前に顯はれ、甚(はなは)だ恨みて、いふやう、

「此日比、契りしことの葉の、はやくも僞りになり、薄き情(なさけ)の色、見えたり。初めは、君が心ざし、淺からざる故にこそ、我身を任せて、暮に行き、あしたに歸り、何時(いつ)まで草のいつ迄も絕(たへ)せじとこそ、ちぎりけるを、卿公とかや、なさけなき隔(へだて)のわざはひして、君が心を餘所(よそ)にせしことよ。今、幸(さいわい)に逢ひまゐらせしこそ、嬉しけれ。此方(こなた)へ、入給へ。」

とて、荻原が手を取り、門より、奥に、連れてゆく。

Bd4
 

 

 めしつれたる荻原が男は、肝を消し、恐れて迯げたり。家に歸りて、人々につげければ、人皆、驚き、行て見るに、荻原、すでに、女の墓に引込〔ひきこま〕れ、白骨と、うちかさなりて、死して、あり。

 寺僧(じそう)たち、大〔おほき〕に恠しみ思ひ、やがて、鳥部山に墓を移す。

 その後〔のち〕、雨降り、空曇る夜〔よ〕は、荻原と女と、手を取組み、女(め)の童(わらは)に牡丹花の燈籠、ともさせ、出〔いで〕てありく。

「是に行逢〔ゆきあ〕ふものは、重く煩(わづら)ふ。」

とて、あたり近き人は怖れ侍べりし。

 萩原が一族(ぞく)、これをなげきて、一千部の「法華經」を讀み、「一日頓寫(〔いちにち〕とんしや)の經」を墓に納めてとぶらひしかば、重ねて現はれ出〔いで〕ずと也。

 

[やぶちゃん注:挿絵は「新日本古典文学大系」版を用いた。恐らく、知られた「牡丹燈籠」の最初期の正統的翻案物の名篇として、本書の中でも最も人口に膾炙している一篇である。「伽婢子」という書名も私は了意が遺愛の本篇に基づいてつけたものと考えている。事実、本作は格段に詞章が選りすぐられて、漢籍の翻案を感じさせぬ、近世怪談の白眉の一つとしてよいと考えている。今回の電子化をしながら、私は新之丞ととりわけて彌子に強く感情移入してしまい、目頭が熱くなったことを告白しておく。私自身、高校時代より、原話の「牡丹燈記」(明の瞿佑の作になる志怪小説集「剪燈新話」中の一篇)から激しく偏愛し続けているもので、原本・関連書籍・評論など、特異的に多数所持している。本話譚は本書と同時代的な怪談集「奇異雑談(ぞうたん)集」(著者不詳・貞享四(一六八七)年板行であるが、ずっと以前から写本が残されており、実際の編著は明暦・万治・寛文(一六五八年~一六七三年)期とされる)の第六巻の「女人、死後、男を棺の内へ引込みころすこと」や、後の上田秋成の「雨月物語」の巻之三の「吉備津の釜」及び卷之四の「蛇性の淫」などのように、原話を素材転用したもの、大ヒットの火付け役となった三遊亭円朝の「牡丹燈籠」(後半は復讐譚に転じて原話全体は複雑である。円朝による創作は彼が二十三、四の頃、文久三(一八六三)年か翌年と推定され、最初の出版は速記本で明治一七(一八八五)年に東京稗史出版社から出た)はもとより、その後、明治二五(一八九二)年七月に三代目河竹新七により「怪異談牡丹燈籠」として歌舞伎化されて、五代目尾上菊五郎(天保一五(一九〇三)年~明治三六(一九〇三)年)主演で歌舞伎座で上演されて大当たりとなるなど、近代に至るまで実に枚挙に暇がない。ここでは、そうした中の本篇のインスパイアの一篇で、先般、電子化した「御伽比丘尼卷四 ㊀水で洗煩惱の垢 付 髑髏きえたる雪の夜」と、小泉八雲の『小泉八雲 惡因緣 (田部隆次訳) 附・「夜窓鬼談」の「牡丹燈」』を示しておくに留める。さて、そうした私には強い思い入れがあるものであるからして、今回は、特異的に底本のそれと、元禄本の影印とを細かく対照し、最良の校訂本文を目指し(但し、読み易さを考え、本文の漢字表記や和歌の濁点表記などは底本を概ね優先し、送り仮名を元禄本の表記をもとに添えた)、句読点もかなり考えて打って、電子化してある。以下、注はあくまでストイックに附すことにした。

「聖靈(しやうりやう)の棚」盂蘭盆会の精霊棚(しょうりょうだな)。

「しほらしく」歴史的仮名遣は「しをらしく」が正しい。華美でなく派手でもなく可憐な感じで。健気(けなげ)なさまに。

「踊子どもの集り」盆踊りである。「新日本古典文学大系」版脚注に、『天文から文禄年間』(一五三二年から弘治を挟んで一五七〇年)『にかけては、盆の前後に風流(ふりゅう)』(中世芸能の一つて、華やかな衣装や仮装を身につけて、囃し物の伴奏で群舞したもの。後には華麗な山車(だし)の行列や、その周りでの踊りを指すようになった。民俗芸能の「念仏踊り」・「雨乞い踊り」・「盆踊り」・「獅子舞い」などの元となった)『の灯籠踊が盛んとなり、公家方から、町へ繰り出されて、路次の万灯会とも称されて隆盛を見た。以後』、『様々な風流踊が出現し、盆の行事として継承された』とある。ここでは、しかし、その踊りや歌・囃子・音頭取り声などのそれは、決して読者の耳を騒がせず、寧ろ、新之丞には、そのざわめきがすうっと遠のくように、先年に妻を失った傷心の新之丞の心象を対位法的に描出する役割を担って、優れたSE(サウンド・エフェクト)としても効果をあげているのである。

「頌哥(せうが)」(現代仮名遣「しょうが」。私は清音の「せうか」の方が好みである)ここでは仏教の有難い德や、亡き人の功徳・功績などを偲んで礼讃した歌の意。

「振(ふり)」舞踊の所作。

「天文戌申(つちえさる)の歲(とし)」天文十七年。その七月十五日はユリウス暦で八月十八日で、グレゴリオ暦換算で八月二十八日に当たる。前後を見ると、二年前の天文十五年末に足利義輝が室町幕府第十三代将軍に就任しており、十七年の大晦日には長尾景虎(後の上杉謙信)が兄晴景に代わって家督を継いで越後春日山城に入城、翌十八年には美濃国斎藤道三の娘濃姫が尾張の織田信長に嫁いでいる。

「五條京極」現在のこの中心附近(グーグル・マップ・データ)。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、平安古来の本来の「五条通り」は、そこの二本北の「松原通」で、現在の京極町と接するところが当該地であったが(「平安条坊図」参照)、このまさに話柄内時制である天正一七(一五八九)年に、『秀吉が方広寺建立のために大橋を移築して以来、二筋南の通』(旧「六条坊門小路」)『を称するようになった』とある。なお、所持する太刀川清氏の論考「牡丹灯記の系譜」(一九九八年勉誠社刊)には、典拠との比較を通して、卓抜な見解が示しされてある。

   〈引用開始〉

 事件の展開と人物の関係をそのままにする翻案では、時代、場所そして人物の設定は重要である。それでも翻案は翻訳と違って漢臭があってはならない。「牡丹灯龍」の天文戊申の十七年(一五四八)は足利将軍義輝の時代、応仁の乱(一四六七-一四七七)後の疲弊した京の町の一圃、五条京極に設定された。原話で喬生の住む鎖明嶺下は『剪灯新話句解』によると鎖明嶺は寧波府の南にあって高さ数十丈の山らしいが、高田衛氏によると、そこは寧波府の明州の目抜き通りであった(『百物語怪談集成』月報 昭和六二年 国書刊行会)が、至正庚子の二十年二三六〇)頃は原話の冒頭の「方氏之浙束ニ拠ルヤ」とあって元末の群雄の一人方国珍がこの辺一帯を占拠していたらしく、応仁の乱後の京都もこの明州の事情に似たところがあったであろう。それでも五条京極は東西に通じる五条大路と南北に通る東京極通りの交叉する京の目抜き通りであったから孟蘭盆の精霊祭も賑やかであった。しかしそれよりもこの五条は『源氏物語』の夕顔の巻の舞台でもある。源氏が夏の夕暮、病の乳母を見舞ったとき、五条の大路のほとりのあやしい垣根のうちに見た女、それが落魄の美女夕顔である。了意は原話の符女にこの夕顔の女のイメージを重ねていたのではなかったか。十七歳で亡くなったあとは家人にも捨て去られ、いまだに仮殯のままであった原話の美女を、了意は弥子として、父は応仁の乱で討死し、兄弟みな絶えてひとり万寿寺の近くで詫び住居する女にかえたのは、確かに「夕顔」が関っている。しかもその万寿寺も、天正年間に京都の万寿寺町(束山区)に移る前は下京五条通りにあった寺である(江本裕『東洋文庫伽婢子』昭和六三年 平几社)から、これもその界隈である。

 弥子に夕顔の女のイメージがあるなら、金蓮を浅茅と名づけたことには、これまた『源氏物語』の「蓬生」の巻が関っていた。源氏の離京のあとも、ひたすらその米訪を信じて浅茅が原の故宮の屋敷に侘び住いして日を送る末摘花に、世に忘れ去られた符女の面影を見、さらにその侍女に及んだのである。「夕顔」に関って「五条」が、そして万寿寺という設定が出来上り、さらに金蓮を浅茅とすることで『源氏物語』を想定しながら、「牡丹灯籠」は始まるのである。

   《引用終了》

そうだ! 私がこの弥子に惹かれるのは、私の好きな夕顔の面影あればこそなのだ!

「うかれをる」ここは特異的にネガティヴな意味。空虚でアンニュイな喪失感に心を奪われて、ぼうっとしていて、やや正常でない気鬱なさまに陥っていることを指す。先に述べたように、盆踊りのさんざめきの「浮かれ居る」それと、真逆のコントラプンクト(Kontrapunktである。

「いかなれば立(たち)もはれなず面影の身にそひながらかなしかるらむ」岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」(一九八九年刊)の脚注によれば、「新拾遺和歌集」巻十四の「恋四」にある寿暁法師の一首、

    題しらず

 いかなれば立ちも離れぬ面影の身にそひながら戀しかるらん

を改変したものとされ、ここでの新之丞の込めた『歌意は「なぜだろう、亡き妻の面影がこんなにも側にありながら、こんなに悲しいのは」の意』とある。

「さしもゆるやかに打過〔うちすぐ〕る」雅びな女人であてもそれ以上にはとても出来まいというほどに緩やかに風雅に通り過ぎてゆく。既にして、彼女が実は現実の世界の女でないことが、ここで仄めかされているのだと私は思う。異界との接触のスイッチがここで起動して、画面がスローモションになるのである。

「芙蓉」読みは「ふよう」でよいが、ビワモドキ亜綱アオイ目アオイ科 Malvoideae 亜科フヨウ属フヨウ Hibiscus mutabilis ではなく、ここは古くから美女の形容として多用されたそれで、蓮(はす:ヤマモガシ目ハス科ハス属ハス Nelumbo nucifera)の花を指す。

「楊柳(やうりう)」キントラノオ目ヤナギ科ヤナギ属シダレヤナギ Salix babylonica

「かつらのまゆずみ」底本(昭和二(一九二七)年刊日本名著全集刊行會編「江戶文藝之部」第十巻「怪談名作集」)では「かづらのまゆ」であるが、どうもおかしい感じがした。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の元禄版に従った。「新日本古典文学大系」版も「かつらのまゆずみ」である。「桂の黛(まゆずみ)」で「桂」は中国の伝説で月の世界に生えているという木を指し、転じて、「月」を意味し、三日月のような形に細く引いた美しい眉墨を指す美称語である。「萩原、月のもとに是を見て」に応じている。

「あてやか」「貴やか」人柄や容姿・態度・物の様子などが上品で美しいさま。

「なまめきけるに」何気ないふうを装いながら、相手にそれとなく内心を仄めかしたところが。

「一町」百九メートル。

「そゞろに……」何とも言えず、「夜更け方」の暗い道を、かくも女二人で「歸る道」は、もうそれだけで「すさまじや」(「凄じや」)、「ひどく恐ろしゅう御座います」というのである。

「やをら」静かに。そっと。

「進みて」二人の前に進み出て。

「便(びん)なう侍り」とても貴女さまにとってよろしからざる危ういことにて御座います。

「たよりにつけて」私を頼りになろうかと思うて戴いて。

「戲ふるれば」好色の意図を内に秘めつつ、言いかけたところ。

「窓もる月を、獨り詠〔なが〕めてあくる侘しさを、嬉しくも、の給ふ物かな。情〔なさけ〕によわるは、人の心ぞかし。」「窓から漏れ来る月の光を、たった独り、眺めては、夜明けを迎えるは、まことに、侘しきもの……さても、まっこと、嬉しくも、お言葉をおかけ下さりました。人の優しさにほだされるのは……これ、また、人の心に常で御座いましょうほどに。」。

「わりなき言の葉を聞くにぞ」とても言いようもないほどに深い自分への思いを匂わせて語るのを聴くにつけても。

「今日を限りの命ともがな」「小倉百人一首」にも採られている「新古記和歌集」の巻第十三の「恋歌三」(同巻巻頭)の儀同三司母(ぎどうさんしのはは)の一首(一一四九番)、

    中關白通ひそめ侍けるころ

 忘れじの行く末まではかたければ

    今日(けふ)を限りの命ともがな

の下句を引いた。儀同三司母は中(なかの)関白藤原道隆の室で伊周・定子・隆家らの母。歌意そのものが、男の心の変わり易きを言い、だから、「今夜こうしてお逢しているこのままに死んでしまいたい」とする。しかし、そこには命をかけてもいいという女の激しい思いがある。が、しかし、同時にこれは、新之丞をも道連れにした本篇のカタストロフの不吉な予兆でもある。

「兼(かね)ての後〔のち〕ぞ思(おもは)るゝ」枕をともにした後、二人が深い縁(えにし)で結ばれるであろうという確信が、新之丞の腑に落ちてゆくのである。但し、次の一首からは、逢瀬自体の属性としての儚さを読みつつ、それへのやや臆病な気持ち(亡き妻への気持ちをもとにするのであろう)も含められた印象はある。但し、岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」の脚注では、『不吉な予兆にならねばいいがと、萩原の行く末が案じられることだ』と作者が直接に登場して伏線を張っていると解釈しておられる。確かに、ここは文章の流れから見ると、ちょっと澱みがあり、そう捉えると、腑に落ちるとも言える。

「また後のちぎりまでやは新枕(にひまくら)たゞ今宵こそかぎりなるらめ」「新日本古典文学大系」版脚注を見ると、原歌を山科言緒(ときお 天正五(一五七七)年~元和六(一六二〇)年:公家)編の歌学書(部立アンソロジー)「和歌題林愚抄」(安土桃山から江戸前期の成立)「恋二」の「初遇恋」の国冬(鎌倉中・後期の住吉神社神主で歌人の津守摂津守国冬(文永七(一二七〇)年~元応二(一三二〇)年)であろう)の歌を一部変えて用いたとする。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで後代の再板(寛政四(一七九二)板)であるが、原本に当たることが出来た。ここの「7」が「戀」の巻で、その全巻(PDF)だと、「21」コマ目、HTMLだと、ここの左頁の終わりから行目である。起こす。右頁に部立「戀部二」とあり、最上段に「初遇戀」とある。

   *

 又のちのちきりたのまぬ新枕たゝこよひこそかきりなるらめ

   *

本編のインスパイアと比較するために整序すると、

   *

 また後のちぎりたのまぬ新枕ただ今宵こそかぎりなるらめ

   *

である。了意の改変の方がぼかしが入っていて、この話柄中では寧ろ、違和感がない。

「ゆふなゆふなまつとしいはゞこざらめやかこちがほなるかねごとはなぞ」『「いつだって夕べに待っているよ」と言うて下されば、毎夕、来ぬことがありましょうや。そのように思い侘びて、不吉な前言をおっしゃるは、何故?』という謂いであろう。しかしこれも、実は不祥なる伏線となるのである。

「睦言(むつごと)は、まだ、盡きなくに、はや、明方にぞ、なりにける」「古今和歌集」の巻第十九の「雑体」(「雜躰(ざつてい)」)の凡河内躬恒の一首(一〇一五番)、

    題しらず

 むつごともまだ盡きなくに明けにけり

    いづらは秋の長してふ夜は

をインスパイアした。下句は「何処へいってしまったのか? 『秋の夜長』というその夜は?」の意。

「木の丸殿〔このまるどの〕にはあらねど、名のらせ給へ」切り出したままで加工していない丸木で造った粗末な宮殿。「きのまろどの」とも読む。普通名詞だが、一般には斉明天皇が百済支援の出兵に際し、筑紫の朝倉(現在の福岡県朝倉市山田。グーグル・マップ・データ。以下同じ)に造った行宮(あんぐう)(「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『のち天智天皇の御所と伝承され』、『用心のために往還の人々を名乗らせて通したという故事による』とあり、この新之丞の謂いの後半部はそれを受けたもの)を指すことが多い。高田衛氏は先の岩波の脚注で、これは「新古今和歌集」の巻十七の「雑歌 中」の天智天皇の歌とされる一首(一六八九番)、

 朝倉や木の丸殿(まろどの)に我がをれば

    名のりをしつつ行くはたが子ぞ

に基づくとされる。

「藤氏(ふぢうぢ)のすゑ、二階堂政行の後〔あと〕」二階堂氏は藤原姓で藤原南家乙麻呂流工藤氏の流れで、初代工藤行政(生没年未詳:母が源頼朝の外祖父で熱田大宮司であった藤原季範の妹であった)は文官として頼朝に仕え、建久三(一一九二)年十一月二十五日に中尊寺を模して建立させた永福寺(ようふくじ:二階建ての仏堂があった。現存しない)の近くに邸宅を構えたことから二階堂行政を称したとされる。建久四(一一九三)年に政所別当となり、強力な幕府ブレインであった大江広元の片腕として活躍、初期鎌倉政権を支えた実務官僚として知られる。ウィキの「二階堂氏」の「信濃流二階堂氏」によれば、『鎌倉時代の二階堂行政の子・行光の流れで、行盛の代から政所執事を独占した。相次ぐ当主の急逝や隠岐流』(二階堂行政の子行村流)『に執事職を奪われたことで衰退するが、室町時代になると再び勢いを取り戻し、室町幕府評定衆として活躍した。細かく分けると、行盛の子である行泰を祖とする「筑前家」』、『同じく行盛の子である行綱を祖とする「伊勢家」』、『同じく行盛の子である行忠を祖とする「信濃家」』『に分けられる』。三『家とも鎌倉幕府の滅亡や観応の擾乱で足利直義方に付いたことで大きな打撃を受けたが、赦された後は勢力を持ちなおして、康安元年』(一三六一年)『の畠山国清失脚後は、行春(筑前家)、行詮(伊勢家)、氏貞(信濃家)が備中家の行種と持ち回りで鎌倉府の政所執事に就任し、永享の乱による鎌倉府崩壊まで執事職を独占した』。『足利持氏期に執事を務め、その使者としてたびたび室町幕府と交渉した二階堂盛秀は系譜不明であるが、信濃守の受領名から伊勢家の行朝の系統と推察される』。『京都にいた信濃家の二階堂行直(高衡)・行元兄弟は政所執事を務めた。行元は叔父の高貞(行広)の養子となり、観応の擾乱では足利直義に従ったが、やがて京都に復帰する。政所執事は後に伊勢貞継に奪われたものの、子孫は評定衆として定着する』。『行元の系統は忠広(元栄)・之忠・忠行と継承され、忠行の代に再び政所執事となる。これは足利義政の元服を足利義満の先例を元に行おうとした際に、義満元服時の政所執事が二階堂行元であったことから、今回も二階堂氏の政所執事が相応しいと言う意見が出たことによる(当時の伊勢氏と二階堂氏は縁戚関係にあり、長く執事職を独占してきた伊勢氏が忠行に執事を譲ることを同意したのも大きい)』。『忠行の子である二階堂政行』(★☜これが彼★)『は足利義尚の腹心として伊勢氏・摂津氏と権勢を争った』。『だが、義尚が急死するとその反動で失脚に追い込まれ』た。『その後、嫡男である二階堂尚行が継承し、足利義澄の元服の際には義満・義政の例に倣うということで伊勢氏から』一『日だけ政所執事を譲られているが』、『父に先立って病死している』。『尚行の急死後は弟の有泰、その子とみられる晴泰に継承されている。晴泰は足利義昭の時代まで活動しているのが知られるが、義昭が織田信長に追放された後の消息は不明である』とある。以下、「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『室町幕府でも執事などをつとめた名家で、二階堂政行(山城守)は長享元年(一四八七)九月の足利義尚による近江出兵に随陣している』とある。二階堂政行については、忠行の子で、通称は左衛門、将軍足利義政より偏諱を賜ったとあり、その子に二階堂尚行(又三郎・室町幕府政所執事(将軍足利義澄元服の一日のみ)・将軍足利義尚より偏諱を賜う)と二階堂有泰(評定衆・中務大輔)とあるのみである。

「政宣」「新日本古典文学大系」版脚注には、『「政宣」の名は寛政重修諸家譜に見えない。政行の次は有泰。「有泰(ありやす) 天文五年正月二十日従四位下」(同)。戦死の記事もなく、この女(弥子)の父には相応しない』とある。

「京都の亂れに打死(うちじに)し」「新日本古典文学大系」版脚注には、『特定はできないが、本話の』時制の『二十年前の大永七年〔一五二八〕には、京都桂川で細川高国が柳本賢治』(たかはる)『方に敗北し、将軍足利義晴を奉じて近江に逃れるという大きな戦乱があった。以後、京都周辺は細川方と三好方の争いが続き、これらを背景としたか』とある。

「絕(たへ)て」表記はママ。

「萬壽寺」現在は移転して京都市東山区本町にある臨済宗で東福寺塔頭の万寿寺。嘗ては天龍寺・相国寺・建仁寺・東福寺とともに「京都五山」の一つとして栄えたが、永享六(一四三四)年)の火災後に衰微し、天正年間(一五七三年~一五九二年)には五山第四位の東福寺の北側にあった三聖寺の隣地に移転している。旧寺地はこの中央附近である。了意の語りでは、その衰微した末期をロケーションとすることになる。なお、この位置は新之丞に居宅からは実測でも六百メートルほどで、そう遠くはない。

「さやかに」はっきりとした。

「愛敬(あいぎやう)」可愛らしさ。魅力。

「なにはの事」「新日本古典文学大系」版脚注に、『事の次第。「難波」によく掛けられる』とある。前掲書で高田氏は『なにくれの事も』と訳された上で、「源氏物語」の「澪標」の一節を使用例として引いておられる。

「わりなく」「理無(わりな)く」。「その対象が理性や道理では計り知れない」ことを意味し、ここでは「冷たい理屈・分別を超えて親しい・非常に親密である」ことを言う。

「けしからず」怪しく奇妙なことに。妻の一周忌にして不思議なことではある。

若き女の聲して、夜每に歌うたひ、わらひあそぶ事のあやしさよ。』

「一具(〔いち〕ぐ)」一揃い。

「今夜」今朝未明。

「死すれば、忌(いみ)、ふかし」死んだ者が出れば、その穢れを厭うて、早々に遠く避けて、重く忌むのである。

「精分」健全な陽気に満ちた精気。元禄本や「新日本古典文学大系」版は「性分」であるが、気に入らないので、底本で採った。

「をよぶ」ママ。

「傳尸癆瘵(でんしらうさい)」漢方用語としてはそれぞれに意味を与えているが、「傳尸」も「癆瘵」も孰れも肺結核の古称である。

「惡証(あくしやう)」漢方では、自覚症状及び他覚的所見から、互いに関連し合っている症候を総合して得られた状態(体質・体力・抵抗力・症状の現れ方などの個人差)を意味する漢方独特の用語としてある。その甚だ悪性の様態を言う。なお、底本では「証」は「證」であったが、元禄本の判読を採用した。

「浴室(ふろや)」所謂、江戸時代の民間の営業用の「銭湯」ではなく、万寿寺の僧の浴室である。「新日本古典文学大系」版では右に『よくしつ』とルビし、左に『ふろや』と意解訓のルビを附す。同脚注に、『「ゆどの」「ゆや」とも。禅門では山門の右に位置し、跋陀婆羅』(跋陀婆羅尊者(ばったばらそんじゃ。跋陀婆羅菩薩とも呼ぶ。「水」によって悟りを開いたとされることから、浴室や水場で祀ることが多い)『の像を安置する「湯屋 風呂也。北嶺相国寺よりはじまる。鈸※(はつせ)菩薩は湯の音(こゑ)に得導(とくだう)するゆへ[やぶちゃん注:ママ。]にもちゆ」(新撰庭訓抄・九月往状)』(「※」=「方」+「它」。)とある。ウィキの「銭湯」によれば、『日本に仏教伝来した時、僧侶達が身を清めるため、寺院に「浴堂」が設置された。病を退けて福を招来するものとして入浴が奨励され、貧しい人々や病人・囚人らを対象としての施浴も積極的に行うようになった』。『鎌倉時代になると』、『一般人にも無料で開放する寺社が現れて、やがて荘園制度が崩壊すると入浴料を取るようになった。これが銭湯の始まりと言われている』。「日蓮御書録」によれば、文永三(一二六六)年に弟子の武士『四条金吾(四条頼基)にあてた書に「御弟どもには常に不便のよし有べし。常に湯銭、草履の値なんど心あるべし」とあることから、詳細は不明ながら、このころにはすでに入浴料を支払う形の銭湯が存在したと考えられている』。『なお、建造物として現存する最古の湯屋は東大寺に』延応元(一二三九)年再建、応永一五(一四〇八)年に『修復されたもので、「東大寺大湯屋」として国の重要文化財にも指定されている』。『室町時代、京都の街中では入浴を営業とする銭湯が増えていった。この頃、庶民が使用する銭湯は、蒸し風呂タイプの入浴法が主流だった』。『また、当時の上流階層であった公家や武家の邸宅には入浴施設が取り入れられるようになっていたが、公家の中には庶民が使う銭湯(風呂屋)を、庶民の利用を排除した上で時間限定で借り切る「留風呂」と呼ばれる形で利用した者もいた』。『なお、室町時代末期に成立した『洛中洛外図屏風』(上杉本)には当時の銭湯(風呂屋)が描かれている』とある。

「魂屋(たまや)」御霊屋(みたまや)。仏壇。前者は狭義には神道のそれだが、弥子は戒名で仏葬である。

「伽婢子(とぎぼうこ)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『原話は「盟器婢子」。「盟(明)器(めいき)」は中国古代からの習俗としての死者への副葬品。「婢子(ひし)」は婢女の意で、埋葬時に添えられた人形のことか。句解』(「剪燈新話句解」尹春年(一四三四年〜?:朝鮮朝の文人)訂正・林芑(生没年未詳:同前)集釈。慶安元(一六四八)年京都で板行された影印本が同岩波本の最後に総て画像で載る。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の同書の「巻二」の「牡丹燈記」がこちらPDF)の27コマ目からも総て視認出来る)『注「芻人」も葬具の人がた』(上記リンクの「30」コマ目。右頁の本文六行目の割注。但し、表記は「蒭人」(「芻」の異体字で「乾燥させた草」。それで作ったフィギアである))。『ここも弥子葬礼時に添えられた人形のこと。「伽婢子 トギボフコ〈又云露仏。本名天倪(アマカツ)〉(書言字考)、「ハウコ 大きな人形」(日葡)』とある。前掲書で高田氏は、『這う子にかたどった布製の呪術的人形』とされ、「はうこ(ほうこ)」の語源が明かされおり、さらに『江戸時代には庶民が幼児の祓(はら)いの具として用い、夜の守りとして犬張子を添えて飾った。又、嫁入りに持参したり、棺の中に入れていっしょに埋葬したりした』とあって目から鱗の注となっている。

「東寺(とうじ)」京都市南区九条町にある真言宗の根本道場で密教研学の中心拠点であった八幡山東寺(全ロケーションが入るように配した)。教王護国寺とも呼ぶ。

「卿公(きやうのきみ)」不詳。「新日本古典文学大系」版脚注には、『高僧を敬った言い方か』とある。

「精血(せいけつ)」漢方で人体を構成する基本物質とするもの。生命活動を維持するための肉体に必須な栄養物質及びそれに支えられた健常な精神も含むのであろう。正常な心身総体の生物的代謝と精神的エネルギを指すととっておく。

「神魂(しんこん)」生者の持つ正常な霊魂。

「昏惑(こんわく)」眩(くら)まされ、惑わされている状態。

「符(ふ)」護符。後の有象無象の牡丹灯籠譚では小賢しい展開のアイテムとして活用される。

「おさせらる」「押させらる」。「しっかりと貼り付けるように」と、お命じになった。

「禮拜〔らいはい〕」仏教では「らいはい」と読む。

「内を見いれ侍りしに」門外から寺の中を遠く覗いたのである。

「何時(いつ)まで草のいつ迄も」「何時(いつ)まで草(ぐさ)」は「何時迄草・常春藤」のなどと書き、セリ目ウコギ科 Aralioideae 亜科キヅタ(木蔦)属キヅタ Hedera rhombea のこと。当該ウィキによれば、常緑の蔓性木本。落葉性のツタ類(全く異なるブドウ目ブドウ科ツタ属 Parthenocissus tricuspidata 或いは同属種)に対し、常緑性で、冬でも葉が見られることから「フユヅタ」(冬蔦)とも呼ばれ、その葉をデザインした紋は、『ほかの樹木や建物などに着生する習性から』、「付き従うこと」に『転じて、女紋として用いられることがあった。蔦が絡んで茂るさまが』、『馴染み客と一生、離れないことにかけて』、『芸妓や娼婦などが用いたといわれる』ともあった。高田氏は前掲書脚注で、『「何時まで」の序詞。「いつまで草のいつまでも変らぬ友とこそ」(謡曲『松虫』)』と注されておられる。

「絕(たへ)」ママ。

「餘所(よそ)にせし」本来は「いい加減にして顧みないでいる・疎かにする・棚に上げる・放っておく」の意であるが、ここは新之丞の意識を、彼女から離させて、別な方へ向けたことを非難している。

「幸(さいわい)」ママ。

「恠しみ思ひ」奇体にして、まがまがしいことだと思い。弥子の霊を邪霊・悪鬼と断じて、体よく寺域から京の日常世界の辺縁へ追い出したのである。

「鳥部山」鳥辺野。京都市東山区の清水寺の南側に広がる野。「徒然草」の「化野(あだしの)の露、鳥部山の烟」で知られる通り、古く平安初期から京都近郊の葬送地の一つとして知られた。この附近(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「その後〔のち〕、雨降り、空曇る夜〔よ〕は、荻原と女と、手を取組み、女(め)の童(わらは)に牡丹花の燈籠、ともさせ、出〔いで〕てありく」『「是に行逢〔ゆきあ〕ふものは、重く煩(わづら)ふ」とて、あたり近き人は怖れ侍べりし』とは言わずもがな、鳥部山の墓地の近くでは、ない。五条・京極・万寿寺辺りの二人にとって懐かしい場所に、である。

「一日頓寫(〔いちにち〕とんしや)の經」追善供養のために大勢の者が集まって分担し、一部の経を一日で書写し終えること。多くは「法華経」を写す。「法華経」は二十八品、「一部八巻」と呼ばれ、総字数は六万九千三百八十四文字とされ、四百字詰の原稿用紙に換算すると、百七十三枚余となる。]

2021/04/18

大和本草附錄巻之二 魚類 フカノ類 (サメ類)

 

フカノ類スデニ本編ニ載タレ𪜈詳ナル事ヲ又コヽニ記ス

○ヲロカト云。フカアリ○一丁ト云。フカアリ○ウサメ○

白フカ○カセフカ右五種何レモ甚大キ也何モ人ヲ食

人ヲクラフ。フカハ油多シ不可食只油ヲ煎シ取○ツノ

ジハモダマニ似タリ只背スヂニ角ノ如ナル物二三アリ

是モダマニカハレリツノジモ。キモニ油多シ煎ジテ燈油

トス洋海ニアリ○ホウフカ色白シ○ス子ブカ色白し

○オホセ。尾ノキハニ角アリ性ツヨシ切テモ其肉生テ

ウゴク○サヾエワリ橫廣シヒキガヘルノ形ノ如シ○

ツノコ其形オホセニ似タリ腹ニ角アリ○ツマリフカ

頭ノ兩方ニ穴二アリ○カイメト云魚コチノ形ニ似タリ

長一二尺扁クウスシ頭ハスキノサキニ似タリウスシ

故ニ又スキノサキトモ云味ハフカニ似テカロシ生ニテモ

湯ビキテモ酢ミソニテサシ身ニシテ食ス肉白シ皮ニ

近所ハ赤シ口ハ腮ノ下ニアリ頭廣ク身ヨリ大ナリウ

スシ頭ノ兩ノ傍モヒレノ如シ形モ色モコチニヨク似タリ

頭ハコチヨリ廣ク大ニシテウスシ尾モコチノ如クニシテ

岐ナシ右ノフカノ類數品何モ味ハ相似タリ料理モ同シ

○やぶちゃんの書き下し文

「ふか」の類、すでに本編に載せたれども、詳〔か〕なる事を、又、こゝに記す。

○「をろか」と云ふ「ふか」あり。

○「一丁」と云ふ「ふか」あり。

○「うさめ」。

○「白ふか」。

○「かせふか」。

右五種、何れも甚だ大きなり。何れも人を食ふ。人をくらふ「ふか」は、油、多し。食ふべからず。只、油を、煎〔(せん)〕じ取る。

○「つのじ」は「もだま」に似たり。只、背すぢに、角のごとくなる物、二、三あり。是れも「もだま」に、かはれり。「つのじ」も、「きも」に、油、多し。煎じて、燈油とす。洋海(なだ〔うみ〕)にあり。

○「ほうふか」。色、白し。

○「すねぶか」。色、白し。

○「おほせ」。尾のきはに、角、あり。性〔(しやう〕〕、つよし。切りても、其の肉、生きて、うごく。

○「さゞえわり」。橫、廣し。「ひきがへる」の形のごとし。

○「つのこ」。其の形、「おほせ」に似たり。腹に角あり。

○「つまりふか」。頭の兩方に、穴、二〔(ふた)〕つあり。

○「かいめ」と云ふ魚、「こち」の形に似たり。長さ、一、二尺、扁(ひら)く、うすし。頭は、「すき」のさきに似たり。うすし。故に又、「すきのさき」とも云ふ。味は、「ふか」に似て、かろし。生にても、湯びきても、酢みそにて、さし身にして食す。肉、白し。皮に近き所は、赤し。口(くち)は腮〔(えら)〕の下にあり。頭、廣く、身より、大なり。うすし。頭の兩の傍〔(かたはら)〕も、ひれのごとし。形も色も「こち」に、よく似たり。頭は「こち」より廣く、大にして、うすし。尾も「こち」のごとくにして、岐(また)、なし。右の「ふか」の類數品〔(すひん)〕、何〔(いづ)〕れも、味は、相ひ似たり。料理も同じ。

[やぶちゃん注:★最初に注意喚起しておくと、底本としている「学校法人中村学園図書館」公式サイト内にある宝永六(一七〇九)年版の貝原益軒「大和本草」PDF版は、同学園の公式サイトが、先日、完全に大改造したため、リンク先が総て変更されている。私の膨大な過去記事のリンクを総て直すわけには行かないので、よろしくご理解あれ。ただ、旧リンクをクリックすると、同学園のホーム・ページに出るから、「検索」で「貝原益軒アーカイブ」で到達は出来る。★

 さて、益軒の言っている本編のそれは、「大和本草卷之十三 魚之下 フカ (サメ類(一部に誤りを含む))」であるが、それ以外にも、ここの記載と合わせて確認する必要があるものとして、「大和本草卷之十三 魚之下 鱧魚(れいぎよ)・海鰻(はも) (ハモ・ウツボ他/誤認同定多数含む)」がある。後者にはここに出る「つのじ」や「もだま」の名が出現するからである。まずはそちらの二項をお読み戴きたい。

「をろか」「大和本草卷之十三 魚之下 フカ (サメ類(一部に誤りを含む))」に『○「をろか」と云ふ大ぶかあり。人を食す。」あり』と出る(「をろか」の表記はママ)。そこで私は軟骨魚綱板鰓亜綱『メジロザメ目メジロザメ科イタチザメ属イタチザメ Galeocerdo cuvier としたい。「をろか」は不明(「愚か」は歴史的仮名遣では「おろか」で一致しない)』と注した。追加情報はない。

「一丁」同前で、『○「一(いつ)ちやう」と云ふ「ふか」あり。口、廣くして、人を喰〔(くら)〕ふ。甚だたけくして、物をむさぼる』とある。そこで私はかなり長い考証をしたので参照されたい。そこではいろいろ考えた末に、ネズミザメ目ネズミザメ科ホホ(ホオ)ジロザメ属ホホ(ホオ)ジロザメ Carcharodon carcharias を有力候補としたが、それに変更はない。

「うさめ」不詳。

「白ふか」「大和本草卷之十三 魚之下 フカ (サメ類(一部に誤りを含む))」に『「白ふか」、味、尤も美なり』と出、そこで私はメジロザメ目ドチザメ科ホシザメ属シロザメ Mustelus griseus に比定した。

「かせふか」同前で『○「かせぶか」。其の首、橫に、ひろし。甚だ大なるあり』と出、メジロザメ目シュモクザメ科シュモクザメ属 Sphyrna の別名として同定した。なお、ここでも益軒はシュモクザメが「人を食ふ」と述べているが、同前の「一(いつ)ちやう」の注で示した通り、シュモクザメが人を襲って食べるという実証事例は世界的にも全くと言っていいほどない(その姿の異様さから「人食い鮫」と思い込んでいる人は今も多いが)ことは、再度、言っておきたい。

『人をくらふ「ふか」は、油、多し。食ふべからず』本当にそうかどうかは不詳。そもそも「人食いザメ」はスティーヴン・スピルバーグ(Steven Spielberg)監督の映画“Jaws”1975年・アメリカ)以来の都市伝説と言ってよい。「講談社」公式サイト内の沼口麻子氏の『「人食いザメ」なんてこの世に存在しない、と断言できる理由 『ジョーズ』で貼られた悲しきレッテル』に、『世間でよく言われる「人食いザメ」とは、わたしたち人間がサメに対して抱いている勝手なイメージです。彼らが好んで人を食べるなんてことはありえません』。『データもそれを物語っています』。『アメリカ人の死因を調べた統計調査によれば、1959年から2010年までの約50年間で、サメに襲われて死亡した人は26人。年間平均で05人ほどです』。『ちなみに、同じ期間に落雷が原因で亡くなった人は1970人、年間平均で379人。サメに襲われて死ぬ確率は、実は雷に撃たれて亡くなるよりもはるかに低いのです』とあるのを読めば、一目瞭然である。既に書いたが、世界に棲息するサメの中で、人を積極的に襲い、捕食することがあることが確実とされている種は、実は、三種しかいない。まず、映画「ジョーズ」で知られる、

ネズミザメ目ネズミザメ科ホホ(ホオ)ジロザメ属ホホ(ホオ)ジロザメ Carcharodon carcharias

それと同様に危険度が高い以下の二種、

メジロザメ目メジロザメ科イタチザメ属イタチザメ Galeocerdo cuvier

メジロザメ目メジロザメ科メジロザメ属オオメジロザメ Carcharhinus leucas

だけであることを認識して戴きたい。また益軒の言う「人食い鮫は油(=脂)が多いので食ってはならない』というのは、本当にそうかどうかは判らぬ(恐らくは他のサメに比べてそんな特異性はない。言っとくが、私は深海底に適応したサメ類の肝臓の肝油のことを言っているのではない。脂が多くて食えないとなら、鯨やマンボウなんぞを食べる文化は日本では生まれるはずもないわ)。しかし少なくとも上記三種の内の前の二種は本邦でも盛んに食用にされている。

「つのじ」「大和本草卷之十三 魚之下 フカ (サメ類(一部に誤りを含む))」に、『○「つのじ」。「ふか」類なり。北土及び因幡・丹後の海にあり。其の皮、鮫のごとくにして、灰色。長さ三、四尺あり。筑紫にて「もだま」と云ふ魚に似たり。肝に、脂、多し。味よからず。賎民は食ふ。其の肝、大なり。肝に、油。多し。北土には是れを以つて燈油とす。西土にて「つの」と云ふも同物なるべし。背に刀のごとくなるひれあり』とあり、また、「大和本草卷之十三 魚之下 鱧魚(れいぎよ)・海鰻(はも) (ハモ・ウツボ他/誤認同定多数含む)」には、『或いは曰く、『丹後の海に「つのじ」と云ふ魚あり。これ、鱧なるべし』と云ふ〔も〕非なり。「つのじ」は「ふか」の類〔にして〕皮に「さめ」あり。筑紫にて「もだま」と云ふ魚に能く相ひ似たり。鱧とは別なり』と記している。それらでさんざん考証したが、「ツノジ」はメジロザメ目ドチザメ科ホシザメ属ホシザメ Mustelus manazo 或いは、ホシザメ属シロザメ Mustelus griseus の異名としてもあるのであるが、それ以上に実は、「サメ」とは遠い昔に分かれてしまった、現行の生物学上は狭義の「サメ」ではない、軟骨魚綱全頭亜綱ギンザメ目ギンザメ上科ギンザメ科ギンザメ属ギギンザメ類(軟骨魚綱全頭亜綱ギンザメ目 Chimaeriformes 或は代表種ギンザメ目ギンザメ上科ギンザメ科ギンザメ属ギンザメ Chimaera phantasmaの異名として、現在も広汎に見られる呼称である。私の『栗本丹洲 魚譜 異魚「ツノジ」の類 (ギンザメ或いはニジギンザメ)』(丹洲の同「魚譜」には六図に及ぶギンザメ類が描かれている。私のカテゴリ「栗本丹洲」を参照)や、『博物学古記録翻刻訳注 ■17 「蒹葭堂雑録」に表われたるギンザメの記載』を見られたい。ここで益軒が言っている「背すぢに、角のごとくなる物、二、三あり」というのはギンザメの様態記載として肯ずるものである(多くの種で第一背鰭が独立して一棘を成し(強くはないが有毒腺を持つ)、その背後の背鰭が高く突き出る)。ところが、それでは、実は決着しない。益軒の呼称と比定種には、彼自身の中で激しい混乱があって、彼の『「もだま」に似たり』という謂いもそれに拍車をかける。私は「大和本草卷之十三 魚之下 フカ (サメ類(一部に誤りを含む))」で、この「もだま」は当初、メジロザメ目ドチザメ科ホシザメ属ホシザメ Mustelus manazo と断定した(それに至るまでの考証では「1」から「5」までの候補とその理由を挙げたので見られたい)。ところが、他の益軒に記すそれらの属性を並べてみると、これが、ホシザメでもギンザメでもない感じがあるのである。而して私の結論としては、益軒が――「つのじ」や、それが似ている「もだま」――と言う場合、彼は実は、エイのように平たい、

軟骨魚綱板鰓亜綱カスザメ目カスザメ科カスザメ属カスザメ Squatina japonica

或いは、その近縁種の、

カスザメ属コロザメSquatina nebulosa

の類を念頭に置いていたように考えられるのである。

「ほうふか」不詳。

「すねぶか」不詳。

「おほせ」「大和本草卷之十三 魚之下 フカ (サメ類(一部に誤りを含む))」に、『○「をほせ」。其の形、守宮(やもり)に似て、見苦し。又、蟾蜍〔(ひきがへる)〕に似たり。海水を離れて、日久しく、死なず。首の、方大に、尾、小なり。其の肉を片々にきれども、死なず、猶ほ、活動す。味、よし。肉、白し』と出る。板鰓亜綱テンジクザメ目オオセ科オオセ属オオセ Orectolobus japonicus でよい。但し、益軒のその記載は、ここでも同じく、「切りても、其の肉、生きて、うごく」と記し、どうも怪しいものを感じる。そちらで、拘って考証したので、是非、参照されたい。

「さゞえわり」「榮螺割(さざゑわり)」で、ネコザメ目ネコザメ科ネコザメ属ネコザメ Heterodontus japonicus の異名としてよく知られる。「大和本草卷之十三 魚之下 フカ (サメ類(一部に誤りを含む))」で既注。

「つのこ」ウィキの「オオセ」を見ると、日本近海では上記の一科一属一種のみとあるから、近縁種ではない。学名のグーグル画像検索を見て戴くと判るが、口の辺縁には複数の皮弁(ぼよぼよした突起)がかなりあり(七~十本で、先端がこれまた二叉する)、特に大型になるとこれらが腹側に下がって見えるので、それを別種と見たものかも知れない。

「つまりふか」ツノザメ目ツノザメ科ツノザメ属ツマリツノザメ Squalus brevirostris であろう。漢字表記は「詰まり角鮫」かと思われる。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページを参照。但し、「穴、二〔(ふた)〕つあり」は不審。鰓孔が四対しかないサメはいない(サメ類のそれは五~七対)と思うが?

「かいめ」これはその益軒の詳述記載から、間違いなく、前の「大和本草附錄巻之二 魚類 エイノ類 (エイ類)」に出た、「すぶたゑい」(簀蓋鱝)、則ち、サメではなく、エイの一種である、

エイ上目サカタザメ目サカタザメ科サカタザメ属サカタザメ Rhinobatos schlegelii

或いは、同属の、

コモンサカタザメ Rhinobatos hynnicephalus

である。「カイメ」は福岡県の地方名として現在も現役である。語源は判らぬが、或いは、その形から「橈鮫」(かいさめ・かいざめ)が縮約したもののようにも思えた。]

芥川龍之介書簡抄39 / 大正四(一九一五)年書簡より(五) 山本喜譽司宛短歌三十首

 

大正四(一九一五)年・六月頃(年月推定)・山本喜譽司宛・(封筒欠)

ひたぶるに文かきつゞけ憂き事を忘れむとするわが身かなしも

ひたぶるにかくは何文(なにぶみ)鷄(くだかけ)のなくをもしらずかくは何文

文かけどかなしさ去らず灰皿のチユリツプの花見守(みも)りけるはや

夜もすがら露西亞煙艸をすひすひてあが泣き居れば口腫れにけり

ものなべてわれにつらかり消えのこる雪の光もわれにつらかり

かくばかり思ひなやむを誰か知るあが戀ふ人の目見しほりすと

ありし日の印度更紗の帶もなほあが眼にありにつげやらましを

あぶらびの光ほそけみあが見守(みも)る寫眞も今はせんなきものを

すべしらにあが戀ひ居ればしぬのめの光ひそかにふるへそめけり

ほのぼのといきづく春の水光(みづびかり)あが思ふ子ははろかなるかも

あさあけの麥の畑にほそぼそと鳥はなけどもなぐさめられず

どうにでもなれどうにでもなれとつぶやきて柳の花をむしりけるかも

ねころびてあが思(も)ひ居ればみだらなる女(をみな)のにほひしぬび來にけり

眼つぶれど肌のぬくもりかなしくもあにこそ通へいらがなしくも

ひとりゆく韮畑(かみらばたけ)の夕あかり韮(かみら)かなしもあがひとりゆく

鳥羽玉の夜さりくればかなしげに額(ぬか)をふせつゝ下泣ける子も

あが友は賢(さか)しかるかもわれを見てますらさびねと云ひにけるかも

垂乳根の母はいとしもあが戀を知らなくたゞに「な泣きそ」と云ふ

夜をこめてわがかく文の拙さにあが下泣けば鷄(くだかけ)もなく

わするべきたどきも知らず夜をこめてひそかに啜るベルモツトはや

せんすべもなければ君ゆおくり來し寫眞をみつゝ時かぞへけり

この寫眞かはゆかるかも木の下に童(わらべ)女童(めわらべ)笑みつどひけり

「夏なれば木の下の人一やうに團扇をもてり」とつぶやきしかも

忘れましさにこの女童を戀ひむとぞいく度ひとりつぶやきにけむ

みづからの頭(かうべ)をうちていらゝかに「しつかりしろ」と云ひにけらずや

折ふしは「世間しらず」をよみさしてさしぐむ我となりにけるはや

しかはあれどトルストイをよむ折ふしは淚はらひてますらをさぶれ

かにかくに心荒びぬあたゝかくこの心にもふりね春雨

この心よみがへるべきすべもがなあを戀ひぬべき淸(すが)し女(め)もがな

翠鳥(そにどり)のあをき帶してあに來けむ少女(むすめ)かなしもかなし少女も

  いい加減にずんずんかいた歌ばかり

  この次の水曜にドイツ語の試驗 あとはやすみ

  この手紙よみ次第やぶく事     龍

 

[やぶちゃん注:最後の書信は全体が二字下げでベタ表記二行であるが、字空け位置で分割した。

「鷄(くだかけ)」古式は清音で「くたかけ」。朝早くからやかましく鳴く鷄(にわとり)を罵って言った古い蔑称。語源は、「御伽比丘尼卷四 ㊄不思議は妙妙は不思議付百物語の注で私が引用した南方熊楠の話が面白い。

「ものなべてわれにつらかり消えのこる雪の光もわれにつらかり」この年(推定が正しければ)の年初の歌稿或いは追想吟。以下も初夏に至るまでのそれらは、そう捉えてよい。

「見しほりす」「見し欲りす」。「し」は文節強調の副助詞であろう。

「ありし日の印度更紗の帶もなほあが眼にありにつげやらましを」「ありに」はママ。「あるに」の意のつもりであろう。

「ほそけみ」「み」は原因・理由を添える接尾語。以下の係助詞「も」と対応する。

「すべしらに」「術知らに」。どうしようということも判らずに。

「しぬのめ」「東雲(しののめ)」に同じ。

「ねころびてあが思(も)ひ居ればみだらなる女(をみな)のにほひしぬび來にけり」北原白秋の明治四四(一九一一)年刊の第二詩集「おもひで」に載る、私の偏愛する「接吻」を想起させる(リンク先は私の「北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版)」のそれ)が、この前後三句は「柳」に「みだらなる女」――而して――「あに」(あそこに)「こそ通」ふのだ、「いらがなしくも」(苛立つような激しい哀しみ故に)――とくると、先に注で示した、吉田弥生との失恋の『破恋の痛手から逃れるため』に龍之介が頻繁に『吉原遊郭通い』をしたとする関口安義氏の見解が真実味を帯びてくる。

「韮(かみら)」「香(か)」おりの強いニラ(単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ネギ属ニラ Allium tuberosum )の古名「みら」で、「匂いの強い韮」の意。既に「古事記の「中つ巻」の歌謡に出る。半球形の散形花序で白い小さな花を多く咲かせるが、花期は八~九月でここでは花は咲いていないので想起映像に注意。

「下泣ける子」「人知れず、忍び泣く子」で龍之介の心象風景である。

「ますらさびね」「益荒(ますら)さびね」。「雄々しく立派であれ!」。

「母」養母芥川儔(とも)。

「たどき」「方便(たどき)」。「たづき」の上代の表現。手だて。

「ベルモツト」vermouth。フランス語。リキュールの一種。ワインにブランデーや糖分を加え、それに苦蓬(キク亜綱キク目キク科キク亜科ヨモギ属ニガヨモギ Artemisia absinthium )・りんどう・しょうぶ根などの香料や薬草によって香味をつけた混成ワイン。食前酒に用いられる。呼称自体はドイツ語のニガヨモギを指す“wermut”(ヴェーァモート)に由来する。

「君ゆ」君から。あなたより。

『「夏なれば木の下の人一やうに團扇を應てり」とつぶやきしかも』以下の二首とともに、所謂、ニューロシスな独語傾向が窺える。

「世間しらず」武者小路実篤が大正元(一九一二)年に洛陽堂から刊行した書き下ろしの恋愛小説「世間知らず」。私は読んだことがないが、楊琇媚氏の論文「武者小路実篤『世間知らず』論――主人公の自己成長に着目して(PDF・『日本研究』二〇〇八年三月発行)で梗概が判る。

「トルストイをよむ」直近では、既出の通り、「イワン・イリイチの死」を含む小説集を二月から三月にかけて読んでいる。

「さぶれ」そのものらしく振る舞う。已然形終止なのは、確定条件の逆接を示すためのもの。

「翠鳥(そにどり)」「翡翠(かわせみ)」の古名。ブッポウソウ目カワセミ科カワセミ亜科カワセミ属カワセミ亜種カワセミ Alcedo atthis bengalensis が本邦種。博物誌は和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴗(かはせび)〔カワセミ〕」を見られたいが、注には芥川龍之介に絡んだ、これから後の書簡に関わる添え書きとリンクをしてある。]

2021/04/17

伽婢子卷之三 鬼谷に落て鬼となる

 

    ○鬼谷(きこく)に落(おち)て鬼(をに)となる

 若州(じやくしう)遠敷郡(をにふのこほり)熊川(くまかは)といふ所に、蜂谷(はちや)孫太郞といふ者あり。家、富み榮えて、乏(ともし)き事、なし。この故に、耕作・商賣の事は心にも掛けず、只、儒學を好みて、僅(わづか)に其(その)片端(かたはし)を讀み、

「是に過〔すぎ〕たる事、あるべからず。」

と、一文不通(〔いち〕もんふつう)の人を見ては、物の數ともせず、文字學道(もんじがくだう)ある人を見ても、

「我には優(まさ)らじ。」

と輕慢(けうまん)し、剩(あまつさ)へ、佛法をそしり、善惡因果のことわり、三世流轉の敎(をしへ)を破り、地獄・天堂・裟婆・淨土の說をわらひ、鬼神(きじん)・幽靈の事を聞〔きき〕ては、更に信ぜず、

「人、死すれば、魂(こん)は陽に歸り、魄(はく)は陰にかへる。形〔かたち〕は土となり、何か、殘る物、なし。美食に飽(あき)、小袖着て、妻子ゆたかに、樂(らく)をきはむるは、佛よ。麁食(そしい)をだに、腹に飽(あか)ず、麻衣(あさぎぬ)一重(え)だに、肩を裾に、妻子を沽却(こきやく)し、辛苦するは、餓鬼道よ。人の門〔かど〕にたち、聲をばかりに、物を乞(こふ)て、わけをくらひて、きたなしとも、思はず、石を枕にし、草に臥(ふし)て、雪、降れども、赤裸(あかはだか)なる者は、畜生よ。科(とが)を犯し、牢獄に入られ、繩をかゝり、頚(くび)をはねられ、身をためされ、骨を碎かれ、或は、水責(〔みづ〕ぜめ)・火刑(ひあぶり)、磔(はりつけ)なんどは、地獄道也。これを取扱ふ者は、獄卒よ。此外には、總て、何も、なし。目にも見えぬ來世の事、まことにもあらぬ幽靈の事、僧・法師・巫(かんなぎ)・神子(みこ)のいふ所を信ずるこそ、おろかなれ。」

と云ひ罵り、たまたま諫むる人あれば、四書六經(りくけい)の文(もん)を引出(ひき〔いだ〕)し、邪(よこしま)に義理をつけて、辨舌にまかせて、いひかすめ、放逸無慚なる事、いふばかりなし。

 時の人、「鬼孫太郞」と名付て、ひとつ者にして、取合(とりあは)ず。

 或時、

「所用の事に付〔つき〕て、敦賀に赴く。」

とて、唯一人、行けるが、日〔ひ〕たけて家を出たりければにや、今津川原(いまづ〔かはら〕)にして、日は暮(くれ)たり。

 江州北の庄、兵亂(ひやうらん)の後なりければ、人の往來(ゆきき)も、まれなり。たやすく宿かす家も、なし。

 河原おもてに出〔いで〕て、見渡せば、人の白骨(はくこつ)、ここかしこに亂れ、水の流(ながれ)、ものさびしく、日は暮はてゝ、四方〔よも〕の山々、雲、とぢこめ、立寄るべき宿も、なし。

「いかゞすべき。」

と思侘(おもひわ)びつゝ、北の山ぎはに、少し茂りたる松の林あり。

 こゝに分入〔わけいり〕て、樹の根をたよりとし、すこし、休み居(ゐ)たれば、鵂鶹(ふくろう)の聲、すさまじく、狐火(きつねび)の光り、物凄く、梢に渡る夕嵐〔ゆふらん〕、いとゞ、身にしみて、何となく心細く思ふ所に、左右を見れば、人の死骸、七つ、八つ、西枕・南かしらに、臥(ふし)倒れてあり。

 蕭々(せうせう)たる風のまぎれに、小雨(こさめ)、一とほり、音づれ、電(いなびかり)、ひらめき、雷(いかづち)、なり出〔いで〕たり。

 かゝる所に、臥倒れたる尸(しかばね)、一同に、

「むく」

と起(おき)上り、孫太郞を目掛けて、よろめき、集(あつま)る。

 

Kikoku1

 

 恐ろしさ、限りなく、松の木に登りければ、尸(しかばね)ども、木のもとに立寄り、

「今宵の内には、此者は、取るべき也。」

と、のゝしる間(あひだ)に、雨、ふり止み、空、晴れて、秋の月、さやかに輝き出たり。

 たちまちに、ひとつの夜叉(やしや)、走り來れり。

 身の色、靑く、角(つの)、生(おひ)て、口、廣く、髮、亂れて、兩の手にて、尸をつかみ、首を引拔き、手足をもぎ、是をくらふ事、瓜(うり)をかむが如くにして、飽(あく)までくらひて後(のち)、わが登り隱れたる松の根を枕として臥(ふし)たれば、鼾睡(いびき)の音、地に響く。

 孫太郞、思ふやう、

『此〔この〕夜又、睡り覺めなば、一定〔いちぢやう〕、我を引おろして、殺し、くらはん。たゞ、よく寢入たる間に、逃げばや。』

と思ひ、靜かに樹(き)をくだり、逸足(いちあし)をいだして、走り逃げければ、夜叉は目を覺(さま)し、隙間(すきま)もなく、追(をひ)かくる。

 山の麓に古寺あり。軒、破れ、壇、くづれて、住僧もなし。

 うちに、大體(〔だい〕たい)の古佛(こぶつ)あり。

 こゝに走入(はしり〔いり〕)て、

「助け給へ。」

と佛に祈り、後(うしろ)に廻(まは)りたれば、佛像のせなかに、穴、あり。

 孫太郞、此穴のうちに入て、腹の中に、忍び隱れたり。

 夜叉は、あとより駈(かけ)入て、堂の内を搜しけれども、佛像の腹までは思ひ寄らざりけむ、出て去(さり)ぬ。

 

Kikoku2

 

『今は、心安し。』

と思ふ所に、この佛像、足拍子、ふみ、腹をたゝきて、

「夜叉は、是を求めて、とりにがし、我は、求めずして、おのづから得たり。今夜の點心、まうけたり。」

と、うたふて、

「からから」

と打笑ひ、堂を出て、步みゆく。

 かしこなる石に躓きて、

「はた」

と倒れ、手も足も、うちくだけたり。

 孫太郞、穴より出て、佛像にむかひ、

「我をくらはんとして、禍ひ、其身にあたれり。人を助くる佛の結構。」

と罵りながら、堂より東に行けば、野中に、ともしび、かゞやきて、人、多く、坐〔ざ〕してみゆ。

 是に力を得て、走り赴きければ、首なきもの、手なき者、足なきもの、皆、赤裸にて、並び坐したり。

 孫太郞、きもをけし、走りぬけん、とす。

 ばけもの、おほきに怒りて、

「我等、酒宴する半(なかば)に、座〔ざ〕をさます事こそ、やすからね。とらへて、肴(さかな)にせむ。」

とて、一同に立〔たち〕て、追(をひ)かくる。

 

Kikoku3

Kikou32

[やぶちゃん注:上が岩波文庫版、下が「新日本古典文学大系」版。下は清拭が面倒なので、荒い粒子が見えたままに添えてある。悪しからず。] 

 

 孫太郞、山ぎはにそふて、はしりければ、川、あり。

 ながるゝともなく、渡るともなく、向(むかひ)にかけあがれば、妖(ばけもの)は立〔たち〕もどりぬ。

 孫太郞、足(あし)にまかせて、ゆく。

 耳もとに、猶、どよみのゝしる聲、きこえて、身の毛(け)よだち、人心〔ひとごこ〕ちもなく、半里ばかりゆきければ、月、すでに、西にかたふき、雲、くらく、草しげりたる山間(〔やま〕あい[やぶちゃん注:ママ。])に行〔ゆき〕かゝり、石につまづきて、ひとつの穴に、落入〔おちいり〕たり。

 その深き事、百丈ばかり也。

 やうやう、落〔おち〕つきければ、なまぐさき風、吹〔ふき〕、すさまじき事、骨(ほね)に、とをる[やぶちゃん注:ママ。]。

 光り、あきらかになりて、見めぐらせば、鬼(おに)のあつまりすむところなり。

 あるひは、髮、赤く、兩の角(つの)、火のごとく、あるひは、靑き毛、生(をい)て、つばさあるもの、又は、鳥のくちばしありて、牙(きば)、くひちがひ、又は、牛の頭(かしら)、けだものゝおもてにして、身の色、あかきは、靛(べに)[やぶちゃん注:ママ。]のごとく、靑きは藍(あゐ)に似たり。目の光は、いなびかりの如く、口より、火焰を吐く。

 孫太郞が來るを見て、互(たがひ)に曰く、

「これ、此國の障(さは)りとなる者ぞ。取逃(とりにが)すな。唯、つなげよや。」

とて、鐵(くろがね)の杻(くびかせ)[やぶちゃん注:ママ。]をいれ、銅(あかゞね)の手械(てかせ)さして、鬼の大王の庭の前に、引すゆる。

 

Kikoku4

 

 鬼の王、大きに怒りて、曰(いはく)、

「汝、人間にありて、漫りに三寸を動かし、唇を飜(ひるが)へし、『鬼神(おにがみ)・幽靈、なし』といふて、さまさま、我等をないがしろにし、辱(はぢ)をあたふる、いたづら者也。汝、書典(しよでん)に眼(まなこ)をさらす。

 「中庸」に曰(いはく)、『鬼神の德、それ、盛(さかん)なるかな』と。

 「論語」に曰、『鬼神を敬して、之を遠ざく』と。

 「易」の「暌卦(きのくわ)」に曰、『鬼を一車にのす』と。

 「詩」の「小雅」に日、『鬼(き)をなし、蜮(こく)をなす』と。

 その外、「左傳」には晉の景公の夢、鄭(てい)の大夫(たいふ)伯有(はくいう)が事、皆、鬼神をいへり。

 唯、「怪力亂神を言はず」と云へる一語を、邪(よこしま)に心得て、みだりに鬼神(きしん)を悔る事は、何のためぞ。」

とて、則ち、下部(しもべ)のおにゝおほせて、散々に打擲〔ちやうちやく〕せしむ。

 鬼の王のいはく、

「その者の長(たけ)、たかく、なせ。」

と。

 鬼ども、あつまりて、くびより手足まで、ひきのばすに、にはかに、身の長(たけ)三丈ばかりになり、竹の竿(さほ)のごとし。

 鬼ども、笑ひ、どよめき、をしたてゝ、あゆまするに、ゆらめきて、打〔うち〕たをれたり。

 鬼の王、又、いひけるは、

「其者を、身の長(たけ)、短かく、せよ。」

と。

 鬼ども、又、とらへて、團子(だんご)のごとく、つくね、ひらめしかば、にはかに、よこはたがりに、みじかくなる。

 突立(つきたて)て、あゆまするに、

「むぐむぐ」

として、蟹(かに)のごとし。

 鬼共、手を打て、大〔おほき〕に、わらふ。

 こゝに、年老たる鬼の云ふやう、

「汝、常に鬼神(きしん)をなきものと、いひやぶる。今、この形〔かたち〕を、長く、みじかく、さまざま、なぶり、もてあそばれ、大なる辱(はぢ)を見たり。まことに不敏(びん)[やぶちゃん注:ママ。「不憫」の当て字。]の事なれば、宥(なだめ)あたへん。」

とて、手にて提(ひつさげ)、なげしかば、孫太郞、もとのすがたに、なる。

「さらば、是より、人間〔にんげん〕に返すべし。」

といふ。

 鬼ども、みな、いはく、

「此者を、只、返しては、詮(せん)なし。餞(はなむけ)すべし。」

とて、ある鬼、

「われは、雲路を分(わく)る角(つの)を、とらせん。」

とて、兩(ふたつ)の角を、孫太郞が額(ひたひ)に、をく。

 ある鬼は、

「われ、風にうそぶく嘴(くちばし)を、あたへん。」

とて、鐡(くろがね)のくちばしを、孫太郞がくちびるに、くはへたり。

 ある鬼、

「我は、朱(あけ)にみだれし髮(かみ)を、ゆづらん。」

とて、紅藍(べに)の水にて、髮を、そめたり。

 ある鬼、

「我は、みどりにひかる晴(まなこ)を、あたへん。」

とて、靑き珠(たま)、ふたつを、目の中に、をし入〔いれ〕たり。

 

Kikoku5

[やぶちゃん注:これは、「新日本古典文学大系」版であるが、これはかなり限界まで拘って、清拭しておいた。] 

 

 すでに送られて、あなを出〔いで〕つゝ、

『家に、かへらん。』

と思ひ、今津川原(いまづかはら)より、道にさしかゝれば、雲路を分る、兩の角、さしむかひ、風にうそぶく、くちばし、とがり、朱(あけ)にみだれし髮、さかしまにたちて、火のごとく、碧(みどり)の光りをふくむ、まなこ、輝き、さしも、おそろしき、鬼のすがたとなり、熊川にかへり、家に入たれば、妻も下人も、おそれ、おどろく。

 孫太郞、なみだを流し、

「かうかうの事ありて、此すがたになりしか共(ども)、心は、ゆめゆめ、かはらず。」

といふに、妻は、

「中々。此有樣、目の前に直(ぢき)に見るも、なさけなく、悲し。」

とて、孫太郞がかしらに、かたびら、打掛(うちか)けて、唯、なき、悲しむより外はなし。

 幼(いとけ)き子供は、怖れ、なきて、逃げ、あたりの人、集りて、手をうちて、恠しみ、見る。

 孫太郞も、物憂く覺え、戶を閉ぢて、人にも逢はず、物をも食(くは)ず、打籠(うちこも)り、思ひに亂れて、煩(わづら)ひ付き、遂に、むなしくなりぬ。

 そののち、時々は、元の孫太郞が姿にて、幻の如く、家のめぐりを步(あり)きけるを、佛事、營みければ、二たび、見えずとぞ。

 

[やぶちゃん注:本篇では挿絵(全四部七幅)の内、幾つかを「新日本古典文学大系」版ではなく、岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」(一九八九年刊。国立国会図書館本底本)のそれを用いてみた。汚損の印象が前者よりも軽く、清拭が遙かに簡単だからである。但し、「新日本古典文学大系」版とは、少し異なっており、そちらでは、三枚目の河原の亡者のそれは、中央奥と手前の灯明台の右横の亡者の首が存在しない。筆のタッチを見るに、これは旧所蔵者のものを、子ども辺りが付け加えてしまったもののように見える。それはそれで、却って透けてみる頭部のようで面白い。しかし、本文と矛盾するので、その一枚のみ前者の版を並置した。また、最終画は後者が蜂谷の子どもと小者の顔が白くとんでしまっていることから、前者を採用した。なお、元禄版では閻魔庁の一枚しか載っていない。

「若州(じやくしう)遠敷郡(をにふのこほり)熊川(くまかは)」現在の福井県三方上中郡(みかたかみなかぐん)若狭町(わかさちょう)熊川(くまがわ)(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。現在の三方上中郡若狭町の南端に当たり、山間部であるが、福井県と滋賀県の境にあり、小浜と近江・京都を結ぶ「若狭鯖街道」の宿場熊川宿として栄えた地である。

「蜂谷(はちや)孫太郞」不詳。

「一文不通(〔いち〕もんふつう)」無学文盲。

「文字學道(もんじがくだう)」学識を持ち、学問の道に志していること。「學道」は、特に「仏道を学んで修行すること」を指すことが多い。

「破り」否定し。

「天堂」ここでは前後から、六道の最上位で、人間道(にんげんどう)の上に位置する三善道のトップである天上道(他に天道・天上界・天上・天有(てんぬ)・天界(てんかい/てんがい)・天趣などの異名有り)のことであろうが、あまり聴かない異名ではある。我々のいる人間道の地上から遙か上方にあると考えられており、六道の中では相対的には最も苦悩の少ない世界とされ、輪廻の中にあって最高最勝の果報を受ける有情が住む清浄な世界とされる。そこに住むのは天人であり、長寿にして空を飛ぶなどの神通力も有し、六道の中では、相対上、最も快楽に満ち、苦しみは殆んどないとされる。但し、天道も所詮、輪廻のサイクルとしての六道の一つに過ぎず、天人も衆生であって、悟りを開いているわけではなく、而して当然、煩悩からも解放されてはいない。従って、何時かは死に、また、輪廻転生せねばならぬのである(その天人が死ぬ前に現われる穢れの予兆現象を「天人五衰」と呼ぶのである)。

「裟婆」人間道と同義。

「魂(こん)は陽に歸り、魄(はく)は陰にかへる」古代中国では、人間の霊的存在は「魂」と「魄」の二様があり、死ぬと「魂」は空に消え、「魄」は地深くに去るとされた。

「小袖」大袖(朝廷の即位・朝賀等の最も重要な儀式に用いる礼服(らいふく)の上の衣。小袖の上に着し、袖口が広く、袂が長い)或いは広袖(平袖(ひらそで)。袖口の下を縫い合わせていない袖。長襦袢・丹前・夜着などに用いる。)。の着物に対して、袖口が縫い詰まった着物を指す。当初は筒袖で、平服或いは大袖の下着として用いられたが、鎌倉・室町頃から表着とされるようになり、袂の膨らみのついた現在の着物のような形となり、衣服の代表的種別となった。縫箔・摺箔・絞染・友禅染など、あらゆる染織技術が応用され、桃山・江戸時代を通じ、最も華やかな衣服となった。

「麁食(そしい)をだに、腹に飽(あか)ず」「粗食をさえも、口にして、腹を満たす暇(いとま)さえ惜しんで」。後半部は原文自体の表現が意味上は上手くない。

「麻衣(あさぎぬ)一重(え)だに、肩を裾に」「麻一重の粗末な着物をさえ、肩を裾と間違えて結んでいるのにも気づかぬほどに、馬車馬のように働き」。同前。

「妻子を沽却(こきやく)し」以上で注したように、生活をぎりぎりまで詰まらせて刻苦勉励して働いても、結果、金に困って、妻や子を女衒(ぜげん)に売り払うこととなり。

「わけ」「分」。これで既に「少しばかりの食い残し。残飯」の意。分け与えた物の意ではないので注意!

「これを取扱ふ者」獄吏だけではなく、刑事事件を扱う奉行などの上下官吏全般を指す。則ち、蜂谷は仏教の地獄思想は現実社会の表象、喩え以外の何物でもないと喝破しているのである。現在の地獄思想は中国で、偽経を元にまさしくそうした現世の辛苦の鏡としての世界として形成され、浄土教がそれを体系化し、本邦でも広く信ぜられるようになったのであって、この蜂谷という男は、如何にもしったかぶった感じで厭な奴であるが、その言っているところはある意味で如何にも腑に落ちると言える。或いは、浄土真宗の僧であった作者浅井了意も、どことなく、そうした考えを持っていはしなかったろうか、と、ふと、思わせる蜂谷の口つきではある。

「六經(りくけい)」儒教の基本的な教学書としては「五経」が知られるが、古くは六つあったとされ、既知のそれに儀礼に関わる音楽について述べたものとされる「楽経」(がっけい)が挙げられていた。しかし、これは命数のみで、当該書は全く伝わっておらず、一説には秦の「焚書」で失われたとも、また、もともと存在しなかったともされる。但し、「楽経」の注釈書とされる「楽記」(がっき)なるものが、前漢の戴聖によって「礼記」(らいき)の中に所収されてはいる。そもそも「六経」は、先秦の儒家系の知識人が必須教養としたジャンルとしての詩・書(君子思想)・礼・楽(がく)という文学・政治及び規範的文化的素養を兼ね備えた四つの科(学問分野)は、戦国時代から漢代にかけて、儒教の正統的文献として次第に経典化されて整備されていったが、その過程で儒家はそれに加えるに、春秋 (歴史学・政治学)と易 (哲学・修身) の二つの教科をつけ加え、この命数としての「六経」を基本経典をシンボライズするものとして絶対定義させたのであった。後、武帝の「経学博士」の設置の際、「楽」を除いた五経、「易」・「書」・「詩」・「礼」・「春秋」がその必須教学の対象となったのである。

「いひかすめ」「言ひ掠め」上手く誤魔化して言いくるめ。

「放逸無慚」我儘で恥知らずなこと。

「ひとつ者」小学館「日本国語大辞典」に『誰も相手にしてくれないもの。仲間はずれ』とある。

「今津川原(いまづ〔かはら〕)」滋賀県高島市今津町。琵琶湖の北西岸。熊川から敦賀に行くのは、若狭湾を北右回りに廻るルートよりも、一度、琵琶湖に出て、塩津を経て、北上するコースの方が、遙かに整備されていたものと思われる。以下、初期設定のロケーションは今津川沿いであるから、こことなる(国土地理院図)。

「江州北の庄、兵亂(ひやうらん)の後なりければ」「新日本古典文学大系」版脚注に、『天正十一』(一五八三:グレゴリオ暦改暦の年。その実施が最も早かった国々ではユリウス暦一五八二年十月四日(木曜日)の翌日を、グレゴリオ暦一五八二年十月十五日(金曜日)とした)『年、秀吉軍により北庄城』が『落城(太閤記六)』しているので、了意は本篇の作品内時制を『この時の兵乱に託すか。柴田勝家も、その豪胆さから「鬼柴田」と称された(同)』とある。越前の北庄城(きたのしょうじょう)は、サイト「城郭放浪記」の「越前 北庄城」を参照されたい(地図有り)。現在の福井駅の南西直近にあった。

「鵂鶹(ふくろう)」これはちょっと問題がある。読みに従うなら、

フクロウ目 Strigiformes(メンフクロウ科 Tytonidae(二属十八種・本邦には棲息しない)及びフクロウ科 Strigidae(二十五属二百二種)の二科二十七属二百二十種が現生)

或いはそのフクロウ科 Strigidae に属する種群

或いは種としては、

フクロウ属フクロウ Strix uralensis

がいるものの、この漢字表記の方は、

フクロウ目フクロウ科 Strigidae の中で、羽角(うかく:所謂、通称で「耳」と読んでいる突出した羽毛のこと。俗に哺乳類のそれのように「耳」と呼ばれているが、鳥類には耳介はない)を有する種の総称俗称である「ミミヅク」を指す

からである。さらに面倒なのは、「ミミヅク」類をフクロウ類に含める場合と、含めずに区別して独立した群のように用いる場合があるが、鳥類学的には単一の分類群ではなく、幾つかの属に分かれて含まれており、しかもそれらはフクロウ科の中で、特に近縁なのではなく、系統も成していない非分類学的呼称であるからである(但し、古典的な外形上の形態学的差異による分類としては腑に落ちる)。則ち、「ミミズク」として代表的な種を示すことが難しいのである。人によっては、「『ふくろう』てルビするんだから、フクロウでいいじゃん。」と言う御仁がいるかも知れぬが、それは出来ない相談なのである。まず、フクロウとするならば、「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鴞(ふくろふ) (フクロウ類)」の私の注を見て戴きたいが、本州中部に分布する

フクロウ属フクロウ亜種モミヤマフクロウ Strix uralensis momiyamae

とすればいいように思われるかも知れぬけれども、そうは問屋は卸さないわけで、今度は「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鴟鵂(みみづく) (フクロウ科の「みみづく」類)」の方の、まず、本文をしっかり見て貰いたいわけだ。そこに、江戸時代の本草学のバイブルである明の「本草綱目」の引用の最後の部分で、

   *

鴟鵂の小さき者、「鵂鶹〔いひとよ〕」と爲す。

   *

(「いひとよ」の読みは私が附した和訓。以下を参照)とあるからだ。則ち、時珍は――「鵂鶹」とは現在のミミズクの小型の種を言う――とわざわざ限定して言っているからである。そこで私は以下のように注を附した。

   *

「鵂鶹〔いひとよ〕」(音「キウリユウ(キョウリュウ)」)小学館「日本国語大辞典」に「いいとよ」(歴史的仮名遣「いひとよ」)の項を設け、この「鵂鶹」の漢字を当て、『「いいどよ」とも』(こちらの濁音形が古形)とした上で『「ふくろう(梟)」の古名』とし、「日本書紀」の皇極天皇三(六四四)年三月の条を引き、「岩崎本」訓読で『休留(イヒトヨ)<休留は茅鴟なり>子を豊浦大臣の大津の宅の倉に産めり』と出すのに従ってルビを振った。但し、「本草綱目」はこれを、「ミミズクの小型種」の名としていると読めるが、前注で出した大修館書店「廣漢和辭典」の「鵂」の使用例を見ても、「鶹」の字を単独で調べてみても、孰れもミミズクのことを指すだけで、特別な小型の限定種を指しているようには思われない。

   *

とした。されば、私はどちらとも言い難いのである。ただ「フクロウ」と無批判に注するわけにはいかないのである。これは私の全くのオリジナルな伝統的古典的博物学趣味に基づく注であり、これは私の注の特色としてどうしても省略出来ない部分なのである。

「夜叉(やしや)」サンスクリット語の「ヤクシャ」及びパーリ語の「ヤッカ」の漢音写で、インド古代から知られる半神半鬼。本来は「光のように速い者」、「祀られる者」を意味し、神聖な超自然的存在と捉えられていたらしい。しばしば、悪鬼羅刹(らせつ)とも同一視される。後に仏教では毘沙門天の従者として仏法を守護する八部衆の一神に位置づけられた。人に恩恵を与える寛大さと、殺害する凶暴さとの両極属性を併せ持つところから、その信仰には、強い祈願と慰撫の儀礼を伴う場合が多い。なお、「夜叉女」(やしゃにょ:「ヤクシニー」の漢音写)も、地母神としての優しさと同時に残忍さを持つことで知られる。

「一定〔いちぢやう〕」必ずや。

「逸足(いちあし)をいだして」脱兎の如くに速走(はやばし)りをして。

「隙間(すきま)もなく」間髪を入れず。直ちに。

「大體(〔だい〕たい)」大振りであること。

「『助け給へ。』と佛に祈り、後(うしろ)に廻(まは)りたれば、佛像のせなかに、穴、あり。孫太郞、此穴のうちに入て、腹の中に、忍び隱れたり」羅刹(らせつ)に追われた肥後の書生が、心中観音を祈請し、墓穴(実は遠い有難い上人のそれ)に逃げ込んで、難を逃れるという構成がかなり酷似した話がある。「今昔物語集」巻第十二の「肥後國書生免羅刹難語第廿八」(肥後國に書生、羅刹の難を免れたる語(こと)第二十八)がある。「やたがらすナビ」のこちらで、新字の原テクストが読める。

「夜叉は是を求めてとりにがし、我は求めずして、おのづから、得たり。今夜の點心、まうけたり。」「夜叉は、こ奴を求めつつも、取り逃がし、儂(わし)は、欲しがってもおらぬに、自然と、まあ! ここに〈仏、自分の腹を指さして〉、瓢箪から駒で、貰うたわい! 今宵の非時(ひじ)の軽食を、さあぁて! いただくとしよう」。脚本風に訳した。「非時」とは、本来、仏僧は一日に午前中に一食しか食事を摂ることは許されないが、それでは身が持たないので、午後に非公式の食事を摂る。それを、かく呼ぶ。

「我をくらはんとして、禍ひ、其身にあたれり。人を助くる佛の結構。」「我を喰らわんとした故、かくなり災いが、その身に降りかかったればこそじゃて。よく言うであろう、『人を助くるが仏の路』と。その伝家の宝刀のお蔭で我は救われたというわけさ。」という皮肉を言っているのである。夜叉の実在を恐れながら、それを棚上げして、あくまで仏法を蔑ろにする立場を崩さない蜂谷は、救いようがない中途半端な毀仏無鬼論者と言える。

「座〔ざ〕をさます」座の興を醒ます。

「やすからね」「とんでもなく面白くない奴じゃ!」。

「ながるゝともなく、渡るともなく、向(むかひ)にかけあがれば」今津川の川波にすっかり流されたというわけでもなく、かといって、しっかり徒渉したという感じでもないままに、向こう岸に駆け上がるところ。しかし、この川は最早「今津川」ではなかった。図らずも「三途の川」を蜂谷は渉ってしまったのであった。

「どよみ」「響み」。大声で騒ぎ。

「百丈」三百三メートル。ここでそれを示すのも阿呆臭いほどに地獄にしては、しょぼい距離だ。『「和漢三才圖會」巻第五十六「山類」より「地獄」』の私の注を参照されたい。

「とをる」「徹(とほ)る」。

「靛(べに)」読み不審。この「靛」の字は「青色・藍色」を指す。

[やぶちゃん注:ママ。]のごとく、靑きは藍(あゐ)に似たり。目の光は、いなびかりの如く、口より、火熖を吐く。

「此國の障(さは)りとなる者ぞ」勘違いしてはいけない。鬼の獄卒が言うのであるから、現世の人間界を「此」の「國」と言っているのではない。「此國」とは取りも直さず、「地獄」である。地獄にとってさえ、「蜂谷は地獄にとって大いなる禍いとなる禍々(まがまが)しき者だ!」と叫んでいるのである。

「杻(くびかせ)」これは「手械(てかせ)」を指す漢語である。「新日本古典文学大系」版脚注でも問題としてあり、了意は本書の中でも頻繁に用い乍ら、統一した訓を附しておらず、ブレが生じていることを指摘されておられる。なお、「かせ」は「枷」(音「カ」)とも書くが、この本来の訓の「かし」が音変化「かせ」である。

「引すゆる」他動詞ヤ行下二段活用「据ゆ」の連体形。既に鎌倉時代に用例がある。ここは余情を込めた連体止めとなっている。

「三寸」舌。「舌先三寸」で承知。

「唇を飜(ひるが)へし」口角、泡を飛ばして、論難することを指す。

「汝、書典(しよでん)に眼(まなこ)をさらす」「お前は、常に書物に眼を通しておるな。」という確認。

『「中庸」に曰(いはく)、『鬼神の德、それ、盛なるかな』と』「中庸」第十六章に、

   *

子曰、鬼神之爲德、其盛矣乎。視之而弗見、聽之而弗聞、體物而不可遺、使天下之人、齋明盛服、以承祭祀、洋洋乎、如在其上、如在其左右。詩曰、神之格思、不可度思、矧可射思。夫微之顯、誠之不可掩、如此夫。

   *

既存の訓読は「詩経」の「大雅」の「抑編」の引用部が気に入らないので、我流で示す。

   *

 子曰く、「鬼神の德、其れ、盛んなるかな。之れを視れども、見えず、之れを聽けども、聞えず、物を體(たい)して、遺すべからず、天下の人をして齋明盛服(さいめいせいふく)させ、以つて祭祀を承(う)けしめ、洋々乎(やうやうこ)として、その上に在るがごとく、其の左右に在るがごとし。「詩」に曰く、『神の格思(いたること) その思(こと)度(はか)るべからず 矧(いはん)やその思(こと)射(いと)ふべけんや』と。夫れ、微(び)の顯(けん)にして、誠(せい)の掩(おほ)ふべからざる、此くのごときかな。

   *

「怪力亂神を語らず」と豪語した孔子にして珍しく鬼神を解説した部分、と言ってもそれは、御覧の通りの、「不可視にして、何時もそれを超感覚として天地・周囲に感ずる対象であると」する。「洋洋乎」は広々としたさま・ゆったりしたさま・限りないさま。「詩経」のそれは、「鬼神の至るのは何時のことなのか知ることは出来ない」し、「ましてや、鬼神を「射(いと)ふ」=「厭(いと)う」=嫌がって無視することは、それ、不可能なことだ」という意であろう。以下、『鬼神とは、不可視の「微」なる本体が、たまたま、示現して「顕」かなものになったかのように見えたものに過ぎず、鬼神の真の徳であるところの「誠」(まこと)は人間如きの知によって解明し得るような対象ではない。さても、鬼神とは、そのような対象なのである』と言っているものと私は解する。そもそもが中国の「鬼」は、本源的にフラットな「死者」の意であり、それは概ね「古えの人々或いは自身の先祖の死者の霊」の意であることを押さえておかずに、専らおぞましいモンスターとしての邪鬼としての鬼しかイメージ出来ない日本人には、これらの漢籍を理解することは出来ない。

『「論語」に曰、『鬼神を敬して、之を遠ざく』と』「論語」「雍也(ようや)第六」の一節。

   *

樊遲問知。子曰、務民之義、敬鬼神而遠之。可謂知矣。

   *

樊遲(はんち)、「知」を問ふ。子曰く、「民の義を務め、鬼神を敬して、之れを遠ざく。これ、『知』と謂ふべし。」と。

   *

孔子の「知」の理解は、「人民が、日常を保つために、やるべきことを総て行い、死者の御霊(みたま)は敬いつつも、それは日常にあっては遠いところに置いておく」というのである。「鬼神」、則ち、超自然的現象や対象はこれを否定せず、謙虚に敬いはするけれども、現実の生活には、これらを拘わらせないことが、人知のあるべき姿である、とするのである。

『「易」の「暌卦(きのくわ)」に曰、『鬼を一車にのす』と』「易經」の「火澤暌」(かたくき)の一節の「上九 暌孤。見豕負塗。載鬼一車。先張之弤。後說之弤。」(上九 睽(そむ)きて孤(ひとり)なり。豕(ゐのこ)の塗(どろ)を負(を)うを見、鬼(き)を一車に載(の)す。先には之れに弤(ゆみ:弓)を張り、後には之れに弤を說(と)く。)。私は四書五経中、最も「易経」に興味がないので(暗示が過剰で、諸解釈が横行しているからである)解説する気にならないが、引用部は、諸解説を見るに、判り易いものによれば、「鬼神が車に乗っているように見えた。まずはそれを弓で射殺そうとしたが、よくよく見れば、それは錯覚であり、それは鬼神ではなかった。されば、疑い晴れ、弓を捨てた」ということか。本邦の「幽霊の正体見たり枯れ尾花」的な感じか。

『「詩」の「小雅」に日、『鬼(き)をなし、蜮(こく)をなす』と』「詩經」の「小雅」の以下。

   *

爲鬼爲蜮、則不可得。有靦面目、視人罔極。作此好歌、以極反側。賦也。蜮、短狐也。江淮水皆有之。能含沙以射水中人影。其人輒病。而不見其形也。靦、面見人之貌也。好、善也。反側、反覆不正直也。○言汝爲鬼爲蜮、則不可得而見矣。女乃人也。靦然有面目與人相視、無窮極之時。豈其情終不可測哉。是以作此好歌、以究極爾反側之心也。

   *

 鬼たり、蜮たらば、則ち、得べからず。靦(てん)たる面目(めんぼく)有りて、人を視ること、極まり、罔(くら)し。此れ、好(よ)き歌を作りて、以つて、反側を極む。賦なり。蜮は「短狐」なり。江淮の水に、皆、之れ、有り。能く沙を含みて、以つて水中の人影を射る。其の人、輒(すなは)ち病む。而して、其の形は、見えざるなり。「靦」は、面(むか)ひて人を見るの貌(かたち)なり。「好」は、善きなり。「反側」は反覆して正直ならざるなり。

   *

私の「和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蜮(いさごむし) 附 鬼彈」が参考になる。私はそこで、この「蜮」を、通常は目に見えない(見えにくい或いは、たまに奇体な虫として見える)種々の人体寄生虫症、卵や幼虫・成虫の経口感染のみならず、皮膚から直接侵入するタイプのフィラリア症、及び、日和見感染でも重篤な症状を引き起こす他生物の寄生虫の感染症などを含むものが、この「蜮に射られる」ことの正体なのではないかと確信的に考えた。さすれば、それは事実に於いては真の「鬼神」の範疇からは外れることになる。

『「左傳」には晉の景公の夢、鄭(てい)の大夫(たいふ)伯有(はくいう)が事、皆、鬼神をいへり』前者は「病、膏肓(こうこう)に入る」(「肓」は横隔膜の上の部分、「膏」はその上方にある心臓の下の部分。実際の臓器ではない)の原拠。「春秋左氏傳」の「成公十年」(紀元前五八一年。「新日本古典文学大系」版脚注では『成公十三』とするが、誤りであろう。「成公」は春秋時代の「晉」(晋)(しん 紀元前十一世紀~紀元前三七六年)の)の君主(在位:紀元前六〇〇年~紀元前五八一年)。

   *

晉景公疾病。求醫于秦。秦伯使醫緩爲之。未至、公夢、疾爲二豎子、曰、「彼良醫也。懼傷我。焉逃之。」其一曰、「居肓之上、膏之下、若我何。」醫至曰、「疾不可爲也。在肓之上、膏之下、攻之不可。達之不及、藥不至焉。不可爲也。」公曰、「良醫也。」厚爲之禮而歸之。

   *

 晉の景公[やぶちゃん注:晋の王(在位:紀元前五九九年~紀元前五八一年)。]、疾(やまひ)病(へい)なり。醫を秦に求む。秦伯醫(しんぱくい)緩(かん)をして、之れを爲(をさ)めしむ。未だ至らざるに[やぶちゃん注:その医師緩が来国する前に。]、公の夢に、疾(やまひ)、二豎子(にじゆし)[やぶちゃん注:二人の子ども。]と爲(な)りて、曰はく、

「彼は良醫なり。我を傷つけんことを懼(おそ)る。焉(いづ)くにか、之れを逃(のが)れん。」

と。

 その一(いつたり)、曰はく、

「肓(こう)の上、膏(こう)の下に居(を)らば、我を若何(いかん)せん。」

と。

 醫、至りて曰はく、

「疾、爲むべからざるなり。肓の上、膏の下に在りて、之れを攻むるは不可なり。之れに達せんとするも、及ばず、藥、至らず。爲むべからざるなり。」

と。

 公曰はく、

「良醫なり。」

と。

 厚く之れが禮を爲(な)して之れを歸(かへ)らしむ。

   *

後者は、同書の「昭公七年」(紀元前五三五年。昭公は魯の第二十五代君主。在位は紀元前五四一年から紀元前五一〇年)の以下。

   *

鄭人相驚以伯有曰、「伯有至矣。」。則皆走。不知所往、鑄刑書之歲二月、或夢伯有介而行曰、「壬子、余將殺帶也。明年壬寅、余又將殺段也。」。及壬子、駟帶卒、國人益懼。齊燕平之月、壬寅、公孫段卒、國人愈懼。其明月、子產立公孫洩及良止以撫之、乃止。子大叔問其故、子產曰、「鬼有所歸、乃不爲厲、吾爲之歸也。」。大叔曰、「公孫洩何爲。」。子產曰、「說也。爲身無義而圖說、從政有所反之以取媚也。不媚不信、不信、民不從也。」。及子產適晉、趙景子問焉曰、「伯有猶能爲鬼乎。」。子產曰、「能。人生始化曰魄、既生魄、陽曰魂、用物精多、則魂魄强、是以有精爽、至於神明。匹夫匹婦强死、其魂魄猶能馮依於人、以爲淫厲。況良霄。我先君穆公之冑、子良之孫、子耳之子、敝邑之卿、從政三世矣、鄭雖無腆、抑諺曰、『蕞爾國』、而三世執其政柄、其用物也弘矣。其取精也多矣。其族又大、所馮厚矣,而强死、能爲

鬼、不亦宜乎。」。

   *

紀元前五四三年に鄭の貴族伯有が反乱を起こし、国の武器庫を押さえたものの、彼の兄弟によって殺される(襄公三十年)。それから八年後、鄭の国内に伯有の霊の噂が流れ、鄭の人々が恐怖に襲われ、慄いたというのである。長いので訓読しないが、廣野行雄氏の論文「誰が賈探春の母か―「紅楼夢」読解の一前提―」PDF・『駿河台大学論叢』第三十七号・二〇〇八年)の「Ⅲ」に非常に分かり易い全訳が載るので参照されたい。そこでは、恨みを持って死んだ者は貴賤を問わず、祟りを成すことが語られてあり、それを祀って遠ざけるという、本邦の御霊信仰と同義の内容が記されてある。

「つくね」「捏(つく)ねる」。手で捏(こ)ねて丸く団子のように固めること。

「ひらめしかば」平たく潰したところ。

「よこはたがり」「新日本古典文学大系」版脚注では、『足を広げて立つ』とするが、どうもイメージし難い。寧ろ、用法としては、やや難があるが(「がり」は人或いは代名詞について「その人の方」という方向を指す接尾語だからである)、「橫側許(よこはたがり)」か。横側面方向に向かって、ぺったりと平たくなったのである。

「いひやぶる。」「論難しよったな。」。

「宥(なだめ)あたへん。」「ここらで許してやろうぞ。」。

「人間〔にんげん〕に返すべし」老婆心乍ら、これは、「人間の姿に戻してやろう」ではなくて、「人間道に帰してやろう」の意である。

「詮(せん)なし」折角の仕置きも無駄になる。

「餞(はなむけ)」地獄へ来たことを証する餞別。

「うそぶく」ここは「息を吹きかけて大音を発する」の意。

「くはへたり」「加へたり」でもいいが、ここは「啣へ」させ「たり」の方が面白い。

「紅藍(べに)」二字への読み。紅色と青色。又は紫色。植物の「茜(あかね)」の古名や「紅花(べにばな)」の異名でもあるが、ここは地獄の一丁目、相応しくない。亡者の垂らした血のりで出来たどす赤いそれである。

「晴(まなこ)」この漢字は「眼晴」で瞳(虹彩)を限定する。

を、あたへん。」

「かたびら」「帷子」。「袷(あわせ)」の「片枚(かたひら)」だけの意で、裏を附けない衣服の総称。単衣(ひとえ)。

「手をうちて」嘗ては盛んに用いられた、何かを初めて見た時の驚きを表わす動作である。必ずしもポジティヴなものだけでなく、こうしたまがまがしいものに対しても用いた。]

2021/04/16

芥川龍之介書簡抄38 / 大正四(一九一五)年書簡より(四) 井川恭宛一通短歌三十二首

 

大正四(一九一五)五月十三日・消印十四日・京都市吉田京都帝國大學寄宿舍内 井川恭樣 親剪・五月十三日 田端四三五 芥川龍之介

 

熱があつてねてゐる なほつたら君の手紙の返事をかかうと思つてゐたが急になほりさうもないから之をかく ねながらかくんだから長い事は書けない 肺かと思つて大分心配した 試驗のしたくが出來ないんでこまる 大へん不愉快だ

 

枕邊の藤の垂(たり)花ほのぼのと計溫表にさき垂りにけり

かすかるかなしみ來る藤浪のうすむらきをわが見守る時[やぶちゃん注:「かすかる」はママ。]

水藥の罎にかゝれる藤の花わが知らなくにこぼれそめけり

人妻の上をしぬびて日もすがら藤の垂花わが見守るはや

ほのぼのと戀しき人の香をとめば藤はかそけく息づきにけり

うすくこくにほへる藤の花がくり NOTE-BOOK に塵おける見ゆ

むらさきの藤さく下にちらばへるオブラードこそやらはましけれ

[やぶちゃん注:ここに抹消された一首があるが、判読不能の旨、底本「後記」ある。]

ひたものにたへがたければ藤の花花つみにつゝわが戀ふるなる

したしかる人みなとほしひえびえと夕さく藤はほのかなるかも

[やぶちゃん注:同前で、ここに抹消された二首があるが、判読不能。]

はつ夏の風をゆかしみ窓かけをひけばかつちる藤の垂り花

藤の花ゆりゆるゝむたほそぼそ香こそとひ來れ物思(ものも)へとふごと

のみすてしコツプの水にほのかなる藤のむらさきちれりけるかも

心ぐし藤の垂り花たまさぐりたまさぐりつゝもの思ひにけれ

床ぬちに汗を流してわがあれば額かいなづる藤の花かも

熱いでゝやゝ汗ばめるわが肌をかいなづる風は藤のした風

うつゝなく眼を細むれば藤の花睫毛のひまにさゆらげるかも

[やぶちゃん注:同前で、ここに抹消された一があるが、判読不能。]

さきのこる鉢の藤はも夕かけてほの白みたる鉢の藤はも

やゝ疼(うづ)む注射のあとをさすりつゝわがひとり見る藤の花房

しくしくと注射の針のわが肌を剌すがに來るかなしみもあれ

日和雨ふりやまなくにしくしくと注射のあとの痛みやまずも

日和雨しくしくふりて濡椽の藤に光るとかなしきものか

きらゝかに日和雨ふる濡椽の藤はいつしかうなだれてけり

熱臭き小床ゆ出でゝ濡椽の藤の虫とる午のつれづれ

灯ともせば藤の垂り花ひそひそと NOTE-BOOK に影おとしけり

月かげと灯(ほ)かげとさして藤の影敷布(シート)にさすはあはれなるかも

あが友はいかにかあらむ入澤の池の藤浪みつゝかあらむ

春日野の藤の花さき春日野の松の葉もえて夏づきにけむ

すくよかにあが友ありね此日頃あがいたつきは未怠らず

むらさきの藤散り散れどこの日頃わがいたつきは未怠らず

 

試驗注射をしてみたが反應がない 肺ではなささうだ もうぢきなほるだらうと思ふ 心配する程の事はない ゑはがきを難有う 皆大へんよろこんだ

あが父は眼鏡を二つかけにけり都踊りの画はがき見ると

豚(ぶた)じもの父は寢吳蓆(ねござ)にはらばひて都踊りの画はがき見たり

[やぶちゃん注:同前で、ここに抹消された一があるが、判読不能。]

打日さす都踊りの繪はがきをあがながむれば祇園ししぬばゆ

打日さす都大路の遲櫻誰が木履(こぼこぼ)ゆちりそめにけむ

 

    十三日            龍

   恭   樣 梧下

 

[やぶちゃん注:短歌群と書信の間は一行空けた。抹消部分は底本の「後記」に従って、注記挿入及び再現を行った。既に述べた通り、吉田弥生の結婚式は四月月末、金田一光男と弥生の婚姻届はこの二日後の五月十五日に届け出された。新全集宮坂年譜では、この五月の頭に『初旬 吉田弥生への思いが薄れ始め、次第に落ち着きを取り戻す。「Yの事は一日一日と忘れてゆきます」』(この前の大正四(一九一五)年五月二日・牛込荻赤城元町竹内樣方 山本喜譽司樣 直披・五月二日朝 田端四三五 芥川龍之介」参照)『などと記している』とする。しかし、一方で、続けて同月の『中旬 体調を崩す。一時は結核ではないかと心配し、週に二回ほどの通院が翌月末まで続いた』とあり、その後に丸括弧補足で、『破恋の痛手から逃れるための吉原遊郭通いの影響も指摘されている』(関口安義氏の説)ともある。ここに記した歌群にも「人妻」として弥生の影は、未だ全体に色濃く、ナーバスでメランコリックである。私が「吉田弥生恋情歌群」と呼んだ一連の短歌も「やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集 附やぶちゃん注」で参照されたい。

「試驗のしたくが出來ないんでこまる」学年末試験は六月十日から十六日であった。

「ほのぼのと戀しき人の香をとめば」の「とめば」は「尋・求・覓めば」で、「さがしもとめんとすれば」の意。

「オブラード」薬包のオブラート。

「やらはましけれ」「遣らはましけれ」「やる」は「追いやる・追放する」で、「打ち払って捨ててしまいたくなることだ」の意。

「ひたものに」「直物に」。副詞」一途に。只管(ひたすら)。矢鱈と。

「むた」不詳。或いは、「むた(共・與)」で、形式名詞で、「~と一緒にあること」「~とともにしていること」の意を作るそれか。「搖り搖るる」とともに「ほそぼそ」と微かに「香」を送って、の意で、納得は出来るが、しかし、この語は名詞又は代名詞に格助詞「の」「が」を添えた語に接続して、全体を副詞的に用いるものであり、もしそうだとしたら、用法としては全くの誤りである。「やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集 附やぶちゃん注」を見られると判るが、龍之介は初期作品にこの「の」+「むた」を複数回使用している。

「心ぐし」心が晴れずに鬱陶しい。切なく苦しい。万葉以来の古語。

「床ぬち」「とこぬち」病臥の床の中。

「額」「ぬか」。かいなづる藤の花かも

「剌すがに」この「がに」は接続助詞で、この場合は、動詞の連体形に付いて、程度・状態について「~そんなふうに・~のほどに」の意。万葉以来の古語であるが、この用法は上代の接続助詞「がね」の東国方言とも考えられている。中古以降は和歌に、また、東国地方以外でも用いられた。「終助詞」とする説もある。以上は「学研全訳古語辞典」の解説に拠った。

「日和雨」「ひよりあめ」。天気雨。

「濡椽」「ぬれえん」。芥川龍之介に限らず、明治の作家の多くは「緣」とすべきところを、「椽」と書く傾向が甚だ多い。これは完全な誤用であるが、慣用語として広く使用されてしまっている。「椽」は「たるき」で屋根を支えて棟から軒に渡す建材を指す語であって、縁側を指すことはないし、音も「テン・デン」であって「エン」ではない。

「敷布(シート)」sheet。シーツ。

「入澤の池」不詳。次の一首の「春日野の藤の花さき」は奈良の藤の花の美しさで知られる春日大社であるが、この名の池は確認出来ない。単なる一般名詞としての用法か。京や奈良には私は冥いので判らぬ。識者の御教授を乞う。

「いたつき」「勞(病)き」で病気のこと。

「試驗注射」ツベルクリン皮膚検査のことであろう。

「豚(ぶた)じもの」「じもの」は接尾語。名詞に付いて「~のようなもの」「~のように」の意を表わす上代語。

「木履(こぼこぼ)ゆ」「ゆ」は自発の意を表わす上代の助動詞。「木履(こぼこぼ)」は底が深く彫り込んである丸下駄である、主に幼女が履く木履(ぼくり・ぼっくり)から、それで歩く際の擬音語「こぼこぼ」で、ここは「自然にぽっとりと落ちて」の意であろう。]

2021/04/15

伽婢子卷之三 妻の夢を夫面に見る

 

伽婢子卷之三

 

    ○妻の夢を夫(をつと)面(まのあたり)に見る

 周防山口の城主大内義隆の家人(けにん)、濱田(はまたの)與兵衞が妻は、室(むろ)の泊(とまり)の遊女なりしが、濱田、これを見そめしより、わりなく思ひて、契り深く語らひ、つひに迎へて本妻とす。

 かたち、うつくしく、風流(ふうりう)ありて、心ざま、情(なさけ)深く、歌の道に心ざしあり。

 手も、うつくしう、書きけるが、然るべき前世の契りにや、濱田が妻となり、互に妹脊の語らひ、此世ならずぞ、思ひける。

 主君義隆、京都將軍の召によりて上洛し、正三位の侍從兼(けん)太宰(だざいの)大貳に補任せられ、久しく都に逗留あり。濱田も、めしつれられ、京にありけり。

 妻、これを戀て、間(ま)なく時なく、待ちわび侍べり。

 比は八月十五夜、空くもりて、月の見えざりければ、

 おもひやる都の空の月かげを

    いくへの雲かたちへだつらむ

と、うちながめ、ねられぬ枕を、ひとり、傾(かたふ)けて、あかしかねたる夜を恨み、臥したり。

 其日、義隆、國にくだり給ひて、濱田も、夜、更(ふく)るまで、城中にありて、漸(ようや)く、家に歸る。

 その家は惣門(そうもん)の外(そと)にあり。

 

Hamada

 

 雲、おほひ、月、くらくして、さだかならざりける道の傍ら、半町[やぶちゃん注:五十四メートル半。]ばかりの草むらに、幕、打まはし、燈火(ともしび)あかくかゝげて、男女十人ばかり、今宵の月にあこがれ、酒宴する、と見ゆ。

 濱田、思ふやうは、

「國主歸り給ひ、家々、喜びをなす。誰人〔たれぴと〕か、こよひ、こゝに出〔いで〕て遊ぶらん。」

と恠しみて、ひそかに立寄り、白楊(やなぎ)の一樹(き)繁げりたる間に、隱れてうかゞひ見れば、わが妻の女房も、その座にありて、物いひ、笑ひける。

「是は。そも如何なることぞ。まさなきわざかな。」

と怨み深く、猶、その有樣をつくづくと見入たり。

 座上にありける男、いふやう、

「如何に。こよひの月こそ殘り多けれ、心なの雲や。是に、など、一詞(〔ひと〕ことば)のふしも、おはせぬか。」

といふ。

 濱田が妻、辭しけれども、人々、しひて、

「哥〔うた〕、よめ。」

と、すゝむれば、

 

 きりぎりす聲もかれ野の草むらに

    月さへくらしこと更になけ

 

と、よみければ、柳陰にかくれて聞ける濱田も、あはれに思ひつゝ、淚をながす。

 座中の人は、さしも、興じて、さかづきを、めぐらす。

 かくて、十七、八と見ゆる少年の前に、さかづきあれども、酒を受けざりしを、座中、しひければ、

「此女房の哥あらば、飮(のみ)侍らん。」

といふ。

 女房、

「一首こそ、思ふ事によそへても、よみけれ、免し給へ。」

といふに、きかず。

 さて、かくなむ。

 

 ゆく水のかへらぬけふをおしめたゞ

    わかきも年はとまらぬものを

 

 さかづき、あるかたにめぐりて、濱田が妻に、

「又、歌うたひ給へ。」

といふに、今樣一ふしを、うたふ。

 

 さびしき閨(ねや)の獨ねは

 風ぞ身にしむ荻(をぎ)はらや

 そよぐにつけて音づれの

 絕ても君に恨はなしに

 戀しき空にとぶ雁に

 せめて便りをつけてやらまし

 

その座に儒學せしとみえし男、いかゞ思ひけん、打淚ぐみて、

 

 螢火穿白楊

 悲風入荒草

 疑是夢中遊

 愁斟一盃酒

[やぶちゃん訓読文:底本には結句に返り点がないので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の元禄本で補った。承句は底本の読みは『うたがふらくはこれむちうのあそび』であるが、気に入らないので、手を加えた。

   *

 螢火(けいくわ)は白楊(はくやう)を穿(うが)ち

 悲風 荒草(くわうさう)に入る

 疑ふらくは 「是れ 夢中の遊びか」 と

 愁へ 一盃の酒を斟(く)む

   *]

 

と吟詠するに、

「いかで今宵ばかり夢なるべき。すべて、人の世は、皆、夢なるものを。」

とて、濱田が妻、そゞろに淚を流す。

 座上の人、大〔おほき〕に怒りて、

「此座にありて、淚を流す、いまいましさよ。」

とて、濱田が妻に、盃を投げかけしかば、額にあたる。

 妻、怒りて、座の下より、石をとりだし、投(なげ)たりければ、座上の人の頭(かしら)にあたり、血、走りて、流るゝ事、瀧のごとし。

 座中、驚き、立騷ぐか、と見えし。

 ともしび、消えて、人もなく、唯、草むらに、蟲のみぞ、殘りたる。

 濱田、大に怪しみ、

「さては、我妻、むなしくなりて、幽靈の顯れ見えけるか。」

と、いとゞ悲しくて、家に歸りければ、妻は臥してあり。

「如何に。」

と驚かせば、妻、起あがり、喜びて語るやう、

「餘りに待わびてまどろみしかば、夢の中に十人ばかり、草むらに酒飮み遊びて、歌を望まれ、其中にも、君のみ戀しさをよそへて、うたひ侍べり。座上の人、みずからが淚を流す事を忌みて、盃を投げかしを、みずから、石を取(とり)て、打ち返すに、座中、さはぎ立〔たつ〕、と覺えて、夢、さめたり。『盃の額に當りし』と覺えしが、夢、さめて、今も頭(かしら)の痛くおぼゆ。」

とて、歌も詩も、

「かうかう。」

と語る。

 白楊(やなぎ)の陰にして見きゝたるに、少しも、違はず。

 濱田、つらつら思ふに、

『白楊陰(やなぎかげ)に隱れてみたりし事は、我妻の夢のうちの事にてありける。』

と、なむ。

[やぶちゃん注:詩歌は総て前後を一行空けた。「今樣」(室町小歌。後注参照)は句分けを並列させた。

「大内義隆」(永正四(一五〇七)年~天文二〇(一五五一)年)戦国武将。大内義興の長男。周防・長門・安芸・石見・筑前・豊前の守護。大友氏・少弐(しょうに)氏と戦い、九州北部を掌握した。文学・芸能を好み、明・朝鮮と交易し、また、フランシスコ・ザビエルに布教の許可を与えた。重臣陶晴賢(すえはるかた)の謀反に遭い、長門の大寧寺で自刃した。

「濱田與兵衞」不詳。

「室(むろ)の泊(とまり)」旧兵庫県揖保郡室津(むろつ)村、現在の兵庫県たつの市御津町室津(みつちょうむろつ。グーグル・マップ・データ。以下同じ)。播磨灘に面する港町。湊町として実に約千三百年もの歴史を持ち、奈良時代に行基によって五つの湊が整備され、江戸時代には栄華を極め、宿場町としても栄えた。近代に至るまで多くの文人墨客を魅了した景勝地でもある。

「わりなく」この上もなく。どうしようもないほどに。

「此世ならずぞ、思ひける」の主語は二人である。二世・三世の契りの意を添えて、相思相愛のさまを言う。

「將軍」室町幕府第十二代将軍足利義晴(永正八(一五一一)年~天文一九(一五五〇)年/在職:大永二(一五二二)年~天文一五(一五四七)年)。義澄の子。細川高国に擁立されて将軍となったが、実権がなく、その後、三好氏に圧倒され、しばしば近江国に逃れ、天文十五年に将軍職を長子義輝に譲り、四年後に病死した。

「主君義隆、の召によりて上洛し、正三位の侍從兼(けん)太宰(だざいの)大貳に補任せられ」「新日本古典文学大系」版脚注に、義隆の『正三位昇位は』「本朝将軍記」では、『天文十六年二月』『とするが』、「公卿補任」『では天文十五年』とあるとする。前者では、義晴が将軍職を退いており、史実に合わない。後者ならば、義晴の譲位は天文十五年十二月(一五四七年一月)であるから、問題ない。

「間(ま)なく時なく」絶える間もないほどに。

「おもひやる都の空の月かげをいくへの雲かたちへだつらむ」岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」(一九八九年刊)では、「新葉和歌集」の『巻三に「菖蒲ひく今宵ばかりや思ひひやる都も草の枕なるらむ」とあり、そのすぐ後に「君があたり幾重の雲か隔つらむ伊駒の山の五月雨の頃」の歌がある』。この『傍線部を合せて、新作した歌であろう。旅の夫を恋』慕う『歌で、歌意は、「都の夫をしのんで月を見ようとしたが、その月さえ、多くの雲がおしつつんで見せてくれないことよ」。』とある。

「比は八月十五夜」仮に天正十五年のこととするならば、ユリウス暦一五四六年の九月九日、グレゴリオ暦換算で九月十九日に当たる。

「城中にありて」大内氏の居館(守護館)であった大内氏館は現在の山口県山口市大殿大路(おおどのおおじ)附近にあった。浜田与兵衛は重臣の一人であるから、その居館の「惣門(そうもん)」(居城外郭の表大門)の外のごく近くに住まいを構えていたのである。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『大内氏の惣門は、館跡の南』西『方』の『下堅小路』(しもたてこうじ。ここ)と『久保小路』(下堅小路の南。ここ)『の交わる辺りに位置した。門以南が町地であった』とあるから、浜田の屋敷はこの附近にあったか。

「國主歸り給ひ、家々、喜びをなす。誰人か、こよひ、こゝに出て遊ぶらん。」「国主様がお帰り遊ばされて、民草は家々で心静かにそれを喜んでおる。にも拘わらず、それを『我、関せず』のふうを見せて、浮かれ出ておる! これ、一体、何者が、かくも、御城の近くにて、無礼にも遊びほうけておるのか!?!」と、甚だ「恠」(あや)しみ、憤っているのである。

「白楊(やなぎ)」ここは挿絵からも通常のキントラノオ目ヤナギ科ヤナギ属シダレヤナギ Salix babylonica ととってよい。

「まさなきわざかな」「国主の足下であってはならない濫り事じゃ!」。

「など」「どうして」「何故に」。ここは反語である。

「一詞(〔ひと〕ことば)のふしもおはせぬか。」「この残念なる景色のさまに対し、どうして、誰も、歌の一つなりと、ものさぬとは、これ、いかがなものか?」。

「きりぎりす聲もかれ野の草むらに月さへくらしこと更になけ」「かれ野」は「聲も嗄(か)れ」と「枯れ野」に、また、「かれ」は「枯れ」に「離(か)れ」も掛けられている。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、これは原拠である「五朝小説」に所収されてある「夢遊録」の中の「張生」の『原話の張生の妻の』詠んだ詞の『翻案歌』であるとされる。』「五朝小説」は明代に編集された伝奇・志怪小説の叢書で、魏・晋・唐・宋・明のそれらが収められているもので、「伽婢子」の原拠としては、最近になって判ったものである(「新日本古典文学大系」の解題に拠る)。私は基本的に本書の原拠考証には手を出さない(手を出すと、注がエンドレスになるからであり、そもそも私は私の奇体な怪奇談集蒐集癖に従って成しているのであって、学術的なものとして本電子化注を目指そうなどとはさらさら思っていないからである。関心のある方は「新日本古典文学大系」版で詳細に考証されてあるので、そちらを参照されたい)つもりだったが、ここはそこを少しだけ覗き見しておく。原拠のそれは、「中國哲學書電子化計劃」のここで電子化されており(但し、本サイトは校訂を経ていない機械判読の電子化がそのまま出されてあり、とんでもない誤判読が頻繁にあるので注意。ここでもそれがシッカリ恐ろしくある)、そこでは影印本も見ることが出来る(これ)。さて、この短歌の原拠となったそれは、

   *

衰草絡緯聲切切

良人一去不復還

今夕坐愁鬢如雪

   *

である。本篇の原拠との精密な対比分析が行われてある花田富二夫氏の論文「近世初期翻案小説『伽婢子』の世界 〈遊女の設定〉」PDF)の冒頭に、本話の全編の訓読文が載るので、それを参考に訓読すると、

   *

衰草(すいさう)に歎ずる絡緯(たくゐ)の聲 切切たり

良人 一(ひと)たび去つて 復た還へらず

今夕(こんせき) 愁ひに坐して 鬢(びん) 雪のごとし

   *

「衰草」は枯れかけた弱った草でいいが、「絡緯」は一筋繩ではいかない。これは、漢籍に出るのであるからして、現代の中国と同じく「広義のキリギリス」を指すが、現行では、

◎直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目キリギリス下目キリギリス上科キリギリス科キリギリス亜科 Tettigoniinae の中国産種

であって、本邦のキリギリス

○キリギリス亜科 Gampsocleidini 族キリギリス属ニシキリギリスGampsocleis buergeri (近畿地方から九州地方に棲息)

及び、

○ヒガシキリギリスGampsocleis Mikado (青森県から岡山県に棲息。詳しくは「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 莎雞(きりぎりす)」私の注を参照)

とは全く異なり、本邦の、キリギリス亜科ヤブキリ族ヤブキリ属ヤブキリTettigonia orientalis と同属の

Tettigonia chinensis などが「中国のキリギリス」

であるようである。

「でも、ここは山口が舞台なんだから、ヒガシリキリギリスでええんでないの?」

という方がいるかも知れないが、それはさても――致命的に二重に――誤っている

一つは、彼女は兵庫の室津の遊女だったからで、仮にここで鳴いているは確かにニシキリギリスであっても、

彼女のイメージの中のそれはヒガシキリギリスのそれである可能性が高い

という仮定に加え、さらに困ったことに、実は、

彼女だけではなく、作者の浅井了意や出版当時の江戸時代の読者全員が、この「きりぎりす」を現在のキリギリスではなく、現在のコオロギだと認識していたというとんでもない大問題

が後に控えているからなのである。先リンク先の私の注の最後を見て戴きたいのだが、

「きりぎりす」は古典文学研究者の間では、まことしやかに、一律に――「きりぎりす」は「キリギリス」ではなく、「こほろぎ」、則ち、現在の蟋蟀(コオロギ)だ――とされている

からなのである。

但し、私は、この、生物学に疎い上に頭の硬い非博物学的な文学者が、明治になって突如、《「鈴虫」相互交換「松虫」説》と一緒に、伝家の宝刀の如く、この《「螽斯」相互交換「蟋蟀」説》をぶち上げたことを致命的な誤りと考える人種である。それについては、「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蟋蟀(こほろぎ)」で芥川龍之介の「羅生門」の『唯、所々丹塗(にぬり)の剝げた、大きな圓柱(まるばしら)に、蟋蟀(きりぎりす)が一匹とまつてゐる』を例に、硬直したアカデミズムが如何なる誤った見解を教育で植え込んでいたかを指弾してあるので、そちらを見て戴くこととし、ここでは繰り返さない。

個人的には、確かに、ある種の和歌の中で「きりぎりす」の鳴き声とあるのは、あの、やや喧(やかま)しく感じるキリギリスのそれよりも、ある種の淋しさをも感じさせる「こおろぎ」の方が相応しいと感覚的に感ずるケースは、ままある。しかし、それも私の個人的な感性上のものに過ぎないであって、近世までの標準的日本人の一般的な秋の虫に対する汎日本的な感じ方が、今の私の感じ方と全く同じであったなどとは、毫も思いはしない。ただ、では、どこぞの学者先生の誰かの意見こそ絶対に正しいというわけにも、これ、ならないのは明白である。則ち、この論争や同定比定に決着をつける者は未来永劫、出てこないということである。さすれば、この本篇の和歌の「きりぎりす」は、

直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科コオロギ亜科 Gryllinae に属するコオロギ類

である可能性もまた、どうしても挙げねばならないということなのである。

「さしも」その歌のなんともしみじみとした風情に。

「しひければ」「强ひければ」。

「一首こそ、思ふ事によそへても、よみけれ、免し給へ。」「先ほどは『一首だけ』とのことなればこそ、気ののらぬままに、仕方なく、今の私の憂えた心にことよせて、詠んだまでのことですのに、もう、どうか、まず、ご勘弁下さいまし。」。

「さて、かくなむ」そこで、仕方なく、次のように詠んだ。

「ゆく水のかへらぬけふをおしめたゞわかきも年はとまらぬものを」同前なので同じ仕儀で示す。原話のそれは、

   *

落花徒繞枝

流水無返期

莫恃少年時

少年能幾時

   *

落花 徒(いたづ)らに 枝を繞(めぐ)り

流水 返るに 期(とき)無し

恃(たの)む莫(な)かれ 少年の時

少年 能く幾時(いくばく)ぞ

   *

である。

「さかづき、あるかたにめぐりて」盃の酒がその場にある会衆方総てに一巡したところが。

「今樣」ここは平安末のそれではなく、室町時代に上方を中心に流行した「室町小歌」。「小歌」とは本格的で伝統的な歌曲「大歌(おおうた)」に対して、民間で歌われる世俗的な歌謡や「猿楽能」や「田楽能」の「謡(うたい)」及び「狂言小歌」などを指す。永正一五(一五一八)年にはこの「小歌」に関する最も古い文献である「閑吟集」(作者はある「桑門」(遁世者)とあるのみで未詳。三百十一首を収録)が成立している。詩型は「七五七五」形・「七七七七」形・「七五七七」形など、雑多。「狂言小歌」の中には、当時、流行していた歌謡を劇中歌の形でそのまま取り入れたものもある(以上は主文を「文化デジタルライブラリ―」のこちらに拠った)。

「さびしき閨(ねや)の獨ねは 風ぞ身にしむ荻(をぎ)はらや そよぐにつけて音づれの 絕ても君に恨はなしに 戀しき空にとぶ雁に せめて便りをつけてやらまし」同前なので同じ仕儀で示す。原話のそれは、

   *

怨空閨

秋日亦難暮

夫婿斷音書

遭天鴈空度

   *

空閨を怨み

秋日 亦 暮れ難し

夫婿(ふせい) 音書を斷ち

遙天の鴈(がん) 空を度(わた)る

   *

後の二句とインスパイアされた「今樣」も蘇武の「雁書」(がんしょ)の故事を示し、それが「その座に儒學せしとみえし男、いかゞ思ひけん、打淚ぐみて」を引き出すようになっている。

「螢火穿白楊……」の五言絶句は原拠に従うが、結句が改変されてある。原拠のそれは、

   *

螢火穿白楊

悲風入荒草

疑是夢中遊

愁迷故園道

   *

「愁迷故園道」は「愁ひて迷ふ 故園の道」。「故園」は故郷に同じ。しかし、またしても了意の改変は、前例と同様、漢詩を弄ることに於いて初歩的な致命的なミスを犯している。鉄則の押韻が「酒」では「草」と合わないのである。

「そゞろに」感極まって。ひどく。「何とはなしに」の意もあるが、このシークエンスには前の意の方がよい。

「驚かせば」眼を醒まさせたところが。

「みずから」二箇所ともに自称の一人称。]

芥川龍之介書簡抄37 / 大正四(一九一五)年書簡より(三) 山本喜譽司宛二通(塚本文初出書簡)

 

大正四(一九一五)年四月二十三日(推定)・山本喜譽司宛・(封筒欠)

 

相不變さびしくくらしてゐます

すべての剌戟に對して反應性を失つたやうな――云はゞ精神的に胃弱になつたやうな心細さを感じてゐます この心細い心もちがわかりますか(僕は誰にもわからないやうな又わからないのが當然なやうな氣がしますが)私は今心から謙遜に愛を求めてゐます さうしてすべてのアーテイフイシアルなものを離れた純粹な素朴なしかも最も恒久なるべき力を含んだ藝術を求めてゐます 私は隨分苦しい目にあつて來ました 又現にあひつゝあります 如何に血族の關族[やぶちゃん注:ママ。]が稀薄なものであるか 如何にイゴイズムを離れた愛が存在しないか 如何に相互の理解が不可能であるか 如何に「眞」を見る事の苦しいか さうして又如何に「眞」を他人に見せしめんとする事が悲劇を齎すか――かう云ふ事は皆この短い時の間にまざまざと私の心に刻まれてしまひました 言語はあらゆる實感をも平凡化するものです かうならべて書いた各の事も文字の上では何度となく私が出合つた事のある思想です しかし何時でもそれは單に所謂「思想」として何の痕跡も與へずに私の心の上を滑つて行つてしまひました 私は多くの大いなる先輩が私よりも幾十倍の苦痛を經て捉へ得た熾烈なこれらの實感を輕々に看過した事を呪ひます(同時に又現に看過しつゝある輕薄なる文藝愛好者を惡み[やぶちゃん注:「にくみ」。]ます)さうして一足をそれらの大なる先輩の人格に面接する道に投じた事を祝福したいと思ひます しかしそれは曙でも「寂しい曙」でした 山脈と云ふ連鎖なくして孤立してゐる峯々はとりもなほさず私たちの個性です 成程日の上る時にそれらの峯の頂は同じやうに輝くでせう しかしそれは峯の相互に何等の連絡のある事をも示しては居ないのです 美に對し善に對し眞に對しひとしく惝悅の心があるにしても個人は畢境[やぶちゃん注:ママ。]個人なのと同じやうに私は二十年をあげて輕薄な生活に沒頭してゐた事を恥かしく思ひます さうしてひとり藝術に對してのみならず生活に對しても不眞面目な態度をとつてゐた自分を大馬鹿だと思ひます はじめて私には藝術と云ふ事が如何に偉大な如何に嚴肅な事業だかわかりました そして如何にそれが生活と密接に連絡してしかも生活と對立して大きな目標を示してゐるかわかりました 私にどれだけの創作が出來るか私がどれだけ「人間らしく」生きられるかそれは全くわかりません 唯今の私には醉生夢死しさうな心細い氣がするだけです 願くはこの心細さが來るべき力に先立つものであつてくれる事を 來るべき希望に先立つものであつてくれる事を私はこのさびしさを何かによつて忘れ得やうとするのを卑怯だと思ひます しかしたえず私がこのさびしさから逃れやうとしてゐる事も亦止むを得ない事實です 私には誰もこの service をしてくれる人がないとしか思はれません そして唯之を誰かに訴へる事によつてのみ少しは慰められる事がありはしないかと思ひます たびたび君に長い手紙をかくのはその爲です ですからよんでもよまなくつてもかまひませんもうやめます それからうちでは私に誰かきめておかないとあぶないと思ふものですからしきりに候補者を物色してゐます 私の母は文ちやんの推賞家で私の從姊は上瀧の妹の推賞家で私のうちへよく來る女の人は私の一番嫌な馬鹿娘の推賞家です 私はあまりその相談には與りません[やぶちゃん注:「あづかりません」。]

二三日前に芝へ行つたらYが來てゐました 私は居ないふりをしてあはずに次の部屋で聲ばかりきいてゐました

Yが「此頃はどちらへも出ませんの」と云つてゐました 姊の話ではYが急にふけたと云ふ事です あとで隨分心細そござんした[やぶちゃん注:ママ。]

私は學校を出ても二三年は獨りでゐるつもりです さうして誰でも私の家族の中で賛成者の多い女を貰ひます それがうまく私のすきな人と一致すれば格別ですがさもなければ一生を comedy にして哂つて[やぶちゃん注:「わらつて」。]くらしてしまひます

しかしその comedy は私にとつて眞劍な tragic‐comedy ですけれど

おばあさまと姊さまとには是非お出でになるやうに申上げて下さい 私のうちのものは文ちやんの一度お出でになる事を希望してゐるやうです 私に一度君を通じておばあさまや姊さまと一しよにお出でなる事をすゝめろと云ふ hint を吳へますから それから又八洲さんも大へん皆見たがつて居ます これは僕がよく出來るつて吹聽するからです 兎に角おばさまたちに是非お出下さいましと申上げて下さい ほんとうに是非それとは別にひまだつたら來ませんか 來月になると試驗勉强で忙しくなりますから

    廿三日            龍

   喜 誉 司 樣 梧下

 

[やぶちゃん注:以上の内、「Y」という人物の話が出るが、これはまさに失恋の相手吉田彌生のことである。次の書簡も同じ。

「惝悅」「しやうえつ(しょうえつ)」と読み、「驚いてエクスタシーからぼんやりすること」を意味する。

「service」助力・援助。

「私の母」養母芥川儔(とも)。

「文」塚本文(あや 明治三三(一三〇〇)年七月四日~昭和四三(一九六八)年九月十一日)は長崎県の生まれ。父塚本前五郎は海軍軍人で、「日露戦争」に於いて、軍艦初瀬の参謀(海軍少佐)として参戦し、戦死した。そのため、母の鈴は、娘文と弟八洲(やしま 明治三六(一九〇三)年~昭和一九(一九四四)年)を連れて母の実家であった本所相生町(現在の墨田区両国三丁目)の山本家に寄寓していた。そこに住んでいた山本喜誉司が鈴の末弟であり、近所に住んでいた芥川の親友であったことから、二人は幼馴染みであったのである。最初に対面したのは明治四〇(一九〇七)年で、初対面の時は龍之介は満十五、塚本文は七歳であった。この書簡時は龍之介二十三、文十四歳であった。

「私の從姊」実の姉ヒサのこと。芥川龍之介は自分が養子であることを公には取り立てて言っていない。「芥川龍之介 孤獨地獄 正字正仮名版+草稿+各オリジナル注附」を参照。同テクストはサイト版及びPDF縦書版もある。

「上瀧」「かうたき」と読む。上瀧嵬(こうたきたかし)は龍之介の江東小学校及び府立三中時代の同級生で、当時は東京帝大医科大学学生。既出既注。

「私のうちへよく來る女の人」不詳。

「私の一番嫌な馬鹿娘」不詳。]

 

 

大正四(一九一五)年五月二日・牛込荻赤城元町竹内樣方 山本喜譽司樣 直披・五月二日朝 田端四三五 芥川龍之介

 

此頃は少しおちついてゐます

しかし やつぱり淋しくつて仕方がありません 何時この淋しさがわすれられるか 誰がこの淋しさを忘れさせてくれるか それは僕にとつて全く「鎖されたる書物」です

僕は社會に對してエゴイストです(愛國心と云ふやうなものも僕にはエゴの擴大としてのみ意味があると思はれます)そしてその主張の中に强みも弱みもあると思つてゐます その弱みと云ふのは個人の孤立(イゴイズムから來る必然の歸結としではないのですが[やぶちゃん注:ママ。])と云ふ事で强みと云ふのは個人の自由と云ふ事です 僕はこの弱みを――孤立の落莫をみたしてくれるものは愛の外にないと思つてゐます すべての屬性を(位爵 金力 學力等の一切)離れた靈魂そのものを愛する愛の外にないと思つてゐます この愛の焰を通過してはじめて二つの靈魂は全き融和を得る事が出來るのではないでせうか この愛の焰に燃されてはじめて個人の隔壁は消滅する事が出來るのではないでせうか 僕が「餓え渴く如く」求めてゐるのはこの愛です

しかし果してかう云ふ愛がこの世で得られるでせうか 相互の完き理解――しかも理知を超越した不可思儀な理解が女の人の手から求める事が出來るでせうか――不幸にも僕はネガチフにしか答へられません しかし僕は心からこのネガチフがアツフアマチブになる事を望んでゐます さうする事の出來る事實が現れる事を望んでゐます

この愛がなくして生きるのにはあまりに若い「自分」です この愛以外の愛に安んじて生きるのに餘りに年をとつた「自分」です 僕は心からこの愛を求めてゐます

この愛を求めるさびしさがわかりますか 世間と隔離した個性の國に「自分」と「藝術」とのみを見て捗どらない修業道を步いてゆくさびしさがわかりますか

所詮僕は幸福にはなれない人間なのかもしれません この意味で 偉大な先輩の中には不幸な生涯を送つた人が澤山あります 殊にゴツホ――しかし僕は幸福になる事を求めます この愛の淨罪界へはひる事を求めます

 

紀念祭の時はあへないでがつかりしました あの時しみじみ日本の SEX は外光の下にみるべきものではないと思ひました あさましい程おしろひのはげた知つてゐる人の顏をみた時にはたまらなく下等な氣がしました

僕のすきな人が一人あるんです 名前も所もしらない人なんですがもうどこかの奧さんなんでせう 少しはいからからな會では時々あひます 昨夜も人道會の慈善演藝會であひました 大へんにSeelen‐haftig  な顏をしてゐます さうして大へんにじみななりをしてゐます 尤も昨夜は異人とうまく話をしてゐるのをみて少しいやになりましたが此頃は大抵な人が嫌です(自分もきらひ)電車へのると右のすみから左のすみまでいやな奴ばつかりです 馬鹿男と馬鹿女が日本中に充滿してゐるやうな氣がします 大學は生徒も先生も低能兒ばかり

文ちやんは勿論僕の所へ來る人ではないでせう しかしその理由は君の云ふ正反對です 僕の方が無資格です 僕は身分のひくい敎育のあまりない僕だけを愛してくれる そして貧しい暮しになれた女がゐる事を夢みます(そのくせその結局夢なのもよく知つてゐるんですが)それほど僕は女の人から理解は望めないと云ふ事を信じるやうになつてゐるんです 云ひかへると唯愛だけ――普通の愛だけで滿足しなくてはならないと思つてゐるんです(さう思ふとほんとうにひとりぽつち[やぶちゃん注:半濁点であることに注意。]でさみしくなります)さうしてその愛を求める資格が又大抵な人に對して僕には缺けてゐるのです 文ちやんの塲合もその通り

たゞ淋しいので僕のゆめにみてゐる人の名を時時文ちやんにして見るだけ その外に何にもありません しかし文ちやんは嫌な方ぢやありません ゆめにみてゐる人の名につけてみる位ですから

目下の僕には從つて文ちやんを理解する必要もありません しかしイマヂナリイにある位置へ自分を置いて考へると少しはさびしさを忘れるので高輪へはゆくかもしれません(極稀に)但僕のうちでは僕の持つてゐる興味の三倍位の興味を文ちやんに持つてゐます

これでおしまひ。Yの事は一日一日と忘れてゆきます

正直に云へば僕は反省的な理性に煩される事なしに――云はゞ最も純に愛する事が出來たのは君を愛した時だけだつたと云ふ氣がしてゐます

夜はいつでもゐます(來週の土曜は例外)ひまがあつたらいらつしやい

    一日夜            龍

   喜 譽 司 樣 梧下

 

[やぶちゃん注:この手紙の直前の四月末に吉田彌生は金田一光男と結婚式を挙げているが、新全集宮坂年譜には、この『結婚式の前日に中渋谷の斎田家で』彌生と『最後の会見をする』とある。この斎田家というのは、以前の私の注で富田砕花の箇所に添えた「シオン教会」と同義で、「白鳥省吾を研究する会」のサイトの「白鳥省吾物語 第二部 会報十一号」の「一、対立する新進詩人たち 大正四年~六年」の一節に、『「斎田武三郎氏 この人は小生の青年期の庇護者で小著第一詩集(大正4年)を献呈した在阪の事業家で、基督教の篤信家でしたが、東京の假寓を解放?して基督の説教所用に充てるほどの篤志家でした」』とあり(これは『富田砕花の手紙の下書き』によるものとある)、『この東京渋谷にあった斎田家は「シオンの家」と呼ばれていたらしい。そこには、吉井勇、森戸辰男、中川一政、金子光晴、福田正夫、白鳥省吾他の人々が訪ねている』とあり、さらに驚くべきことに、『この斎田家の令嬢の女学校友達に帝大一年生の芥川竜之介が初恋をして、彼女の実家の千葉県一の宮に訪ねたりしたらしい』(これは不審。彌生の実家が千葉一宮であるというのは初耳で、或い既に示した通り、彌生にラヴ・レターを書いた場所を誤認混同しているように思われる)。『そして相手の女性の結婚式の前日に、富田砕花のところで会見したらしい。この女性は芥川を嫌っていたらしく』(原記者白鳥省吾の又聴きの憶測)、『ヒコポンデリックになり、不眠症になったようである。それでも芥川はなかなかこの女性を諦めきれなかった様子が『文人今昔』』(白鳥省吾著の随筆。昭和五三(一九七八)年新樹社刊)『には紹介されている。省吾は後に』、『室生犀星を通じて芥川竜之介と「句会などで一緒になり、酒席を田端の自笑軒や竹むらで二三回」同席しているらしい』。なお、『この斎田家を富田砕花は翌年には出ていたようである』とある。

「アツフアマチブ」affirmative。肯定的な。

「紀念祭」不詳。以下の下劣なシークエンスからは一高か帝大の何らかの紀念祭か。

「人道會」この年に設立された日本に於ける動物愛護運動団体の先駆けとなった「日本人道会」であろう。ブログ「帝國ノ犬達」のこちらによれば、『鍋島侯爵を会長として、動物虐待防止会や動物愛護会に続いて』、『大正4年に設立され』、『主力メンバーの多くが』、『新渡戸万里子(メアリー・パターソン・エルキントン。新渡戸稲造夫人)やアメリカ領事館附武官バーネット大佐夫人などといった』、『在日外国人で占められており、我が国に欧米式の動物愛護精神を広める上で大きな役割を果たし』たとあり、『活動内容は少年少女、女学校生徒、警察官に対する動物愛護教育、ボーイスカウトやミッションスクールとの交流、荷役牛馬用飲料水槽の増設、野犬安楽死処分用炭酸ガスチャンバーの寄付、捨犬猫の救護所設置など、多岐に亘』ったとある。

「Seelen‐haftig」「ゼーレン・ハフティク」か。岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)の注では、『誠実な』とある。因みに同書の本文ではハイフンを除いた「Seelenhaftig」で載る。ドイツ語の辞書を引いても、私にはどうしてこういう意味になるのか、よく判らない(私はドイツ語は全く分からない)。「haftig」が「附帯性の」の意味でネットで機械翻訳されるところをみると、寧ろ、「Seele」(人・人間)のそれで、「如何にも人道的で御座います的な面相」であるということを言っているのではなかろうか?

「高輪」この時、塚本鈴と文はここにいたか。

「正直に云へば僕は反省的な理性に煩される事なしに――云はゞ最も純に愛する事が出來たのは君を愛した時だけだつたと云ふ氣がしてゐます」この「君」とは無論、この書簡を宛てている山本喜誉司のことである。]

ブログ・アクセス1,520,000アクセス突破記念 梅崎春生 ある顚末

 

[やぶちゃん注:昭和二二(一九四七)年十月号『文芸』初出。翌昭和二十三年二月思索社刊の作品集「日の果て」に収録された。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第二巻」を用いた。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。一部、文中に注を附した。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが昨日の初更に1,520,000アクセスを突破した記念として公開する。【2021415日 藪野直史】]

 

 あ る 顚 末

 

 彼は先刻ついでに買い求めて来た風邪マスクを顔にかけ、そして立ち上って背広の上に釣鐘マントを羽織った。マントは今日同僚の家を訪ねて借りて来たものである。母親が急病で北海道まで帰るからと嘘(うそ)をついて、それと共にスキイ帽まで借用して来たのだった。スキイ帽はかなり古びていて、縁についた兎の皮は白っぽく汚れていた。彼は壁からそれを取りおろして目深に冠った。机の上に斜に立てた卓鏡に彼の頰がぼんやり映った。彼は一寸身体を構えて、暫(しばら)くの間鏡面に眼を据(す)えていた。風邪マスクはおそろしく大型で、手術する時お医者さまがつけるような、頰も唇も鼻も一緒におおってしまう式のものだった。だから目深な廂とマスクのために顔はほとんど隠されて、彼が鏡で見ているのは自分の眼だけであった。眼のいろは暗く、その癖きらきら光っていた。彼はそれに視線を固定させたまま、此のたくらみが実は残酷で野卑な所業であることを、膜を隔てたようにうすうすと感じ始めていた。

 突然脅(おび)えたように彼は顔を動かした。境の唐紙(からかみ)が幽(かす)かに鳴ったからである。マスクを素早くむしり取って、身体をそちらに構えた。音はそれ切りで止んだ。マントをずり落しながら彼は忍び足で唐紙に近づいた。そして指をかけて音のしないように少し開(あ)けた。

 細長い四畳の部屋には薄暗い電燈がぼんやり点(とも)っていて、部屋のすみに積み上げた蒲団に背をもたせ、老婆がうとうとと居眠りをしていた。老婆の重みが唐紙にかかったものらしかった。彼の気配で老婆はふと眼をひらいた。まぶしげな顔で彼を見たが、直ぐ何時もの愛想笑いが皺(しわ)になって彼女の頰に浮び上って来た。

「ついうとうとしちまって」老婆は弁解するように呟(つぶや)いた。そして背を起して坐りなおした。「いいあんばいに今夜は暖くてねえ」

「いや別に用事はなかったんだよ」彼は老婆が座蒲団を動かそうとするのに、少しあわてて掌を振った。「一寸出掛けようと思ったんでね」

 此の薄暗い部屋には、蒲団と炊事道具と壁にかかった二三枚の着物だけしか無かった。着物は赤い裾裏を見せてだらりとぶら下っていた。彼の視線は二三度そこに走った。

「で、泉(せん)さんも留守なんだね」

 彼はふと苦しそうな声でそう訊ねた。泉が留守なことは、彼は先刻からはっきり知っていたのである。老婆の浮べた愛想笑いに、光線の加減かへんに狡猾な影が走ったようだった。心を見抜かれたように彼はすこし赧(あか)くなった。老婆がぼんやりした声で答えた。

「ほんとに、あの子も貴方さまにも失礼ばかり申し上げて、昔から聞かない子でござんしてな、内地に帰ってからというものは、ほんとに片意地なふるまいばかりで」

 今朝起きぬけに聞いた泉の尖った声を彼は想い出していた。それは老婆をなじる声音だったが、隣室の彼をはばかってか低く押殺した調子であった。老婆はそれに二言三言抗弁した。抗弁というより哀願するような口調だった。顔を枕につけたまま彼はその会話を聞いていた。老婆は電気按摩器を買って呉れといっているのだった。そこの露店で売っていて、売子が老婆の背中に試みて呉れたがそれがほんとに具合が良かったという話だった。泉の声が少し荒くなると老婆の声はぽつんと消えて、暫(しばら)くして寝返りを打って黙り込んだ気配であった。此の老婆は何故聞きわけのない子供のように寝覚めに物をほしがるのだろう。二三日前は洗濯盥(たらい)だった。その前はラジオに衣裳簞笥(たんす)だった。

「食べるものにも事欠いているのに、そんなもの買えるわけないじゃないの」

 洗濯盥をほしがった朝は老婆は何時になく頑強であった。小さなバケツでは洗濯し切れないというのである。着物など丸洗いする時は少しずつ漬けて、部分部分を揉み洗うから、老婆の力ではうっかりすると二三時間も一枚にかかるのだった。いくら貧乏しても盥ぐらい買えない筈はないというのが老婆の言い分であった。

 だから昨日彼が紙幣を包んで泉に渡そうとしたのは、これで盥を買うように、というつもりであった。しかし彼は黙ってそれを差出した。上げるとも貸すのだとも言わなかった。それはどちらでも彼にはよかった。泉が受取って呉れさえすれば良かった。それが紙幣であることを知った時、泉は突然硬い顔になってそれを押返そうとした。

「こんなもの頂けません」

 包みを渡そうとする手と押戻そうとする手がもつれて、泉が立ち上ろうとした時、泉の掌がはずみで彼の頰に触れたのだ。それは平手打のような音を立てた。金包みは掌から離れて畳の上に落ちた。彼は始めて真蒼な顔になった。泉は立ち上ったまま、いじめられた幼児のような切ない表情をたたえて彼を見おろしていた。そして絞り出すように叫んだのだ。

「それは侮辱というものよ。ほんとに侮辱というものよ」

 打たれた部分が熱くなって来るのを感じながら、彼はじっとその言葉に堪えていた。老婆が泉の片意地なふるまいと言ったのは、具体的にはこれを指しているに違いなかった。その時老婆はびっくりしたような顔でその争いを見ていたのだった。――

 薄笑いを浮べた老婆の顔に、では頼みます、と低く言い残して彼は再び音を立てないように唐紙をしめた。自分の部屋の風景がまた彼に戻って来た。畳にすべり落ちていたマントを拾い上げながら、彼はも一度部屋の中を見廻した。低い机が一脚と座蒲団と、洗濯した靴下をかけた衣桁(いこう)、此の部屋に見えるものはそれだけだった。壁にかかった古い星座表の真下の部分が白くなっているのは、本箱のあった跡だった。彼はそれを中身もろとも、一週間ほど前に売飛ばしていたのだった。泉に渡そうとしたのもそれの一部分であった。

 彼はマントを背にかけ、釦(ボタン)をひとつひとつとめた。修道僧が着るような長いマントで、裾は足首の近くまで垂れていた。スキイ帽を先刻から冠ったままであることに、彼はその時気付いた。老婆がへんな薄笑いを浮べていたのも、部屋の中でこんなものを冠っている彼をおかしく思ったのかも知れなかった。ふとそんなことを考えながら、彼は机の上から此の間の金包みを拾い上げ、丸めてマスクと一緒に、マントをはねて上衣のポケットに収めた。鏡の中に再び彼の顔が映った。彼は瞬間それに視線を止めた。そして呟いた。

「――囚人みたいな眼をしている」

 眼は少し血走っていて、顔を鏡に近づけると、白眼の部分に糸蚯蚓(みみず)のように走る細い血管がはっきり見えた。眼球は茶色に透っていて、電球の形が小さく映っていた。彼は手を伸ばして鏡をパタリと倒した。

 へんに荒々しい精気が身内にあふれていたにも拘(かかわ)らず、彼の気分はむしろ沈欝に折れ曲っていた。机の上に残っていた配給の焼酎の残りをコップにうつすと、彼は静かにそれをあおった。匂いのある熱い液体が咽喉(のど)を焼いて、そのまま拡がるように胃の方におちて行った。庭に出る縁側から彼は靴をつけて地面に降りた。ぼこぼこした土を踏んで表の方に廻ろうとすると、井戸端に泉の小さなバケツが置いてあって、中には布片が黒く沈んでいるのだった。月の光が水の中にも射していた。手押ポンプの木の台に、真中の部分が凹型に磨(す)り減った洗濯石鹸が置き忘れられていた。地面に溜った水たまりに靴を入れないように注意しながら、そこを廻り抜けると門をくぐって露地に出た。長い片側塀に沿って二三度折れ曲り、彼は明るい広い道に出た。生ぬるい夜風の中を、彼は顔を上げてまっすぐ駅の方にすすんで行った。

 街の両側には明るい店舗が並んでいて、人通りも可成り多かった。月は出ていたが、西の空に黒い雲がひろがるらしく、風はなまぬるく湿気を帯びていた。どの店舗にも二三人お客が入っていて、品物を眺めたり金を渡したりしていた。ラジオ屋からは音楽が街に流れ出ていた。彼が耳にとめたのは女声合唱のアンニイロウリイの終末の旋律であった。すぐそれは終ってアナウンサーの声がし、にぎやかな別の歌が始まった。彼は顔を上げたまま、急ぎ足で舗道を歩いた。靴の踵(かかと)の触れる音がカツカツと身体に響いて来た。

(あんな店に入って食事をするのは、どういう人達だろう?)

 戦争が終ってから出来た二階建の支那料理屋で、内部は八分通り客が詰って莨(たばこ)を喫ったり食事をしたりしていた。白い服を着た給仕人が調子をつけたような歩き方で皿を運ぶのも眺められた。

(こんな場所ではこんなに沢山紙幣がやりとりされているのに、何故自分たちの方には廻って来ないのだろう?)

 彼は突然、それは侮辱というものだ、と叫んだ泉の語調を鋭く思い出していた。その時泉の顔は歪(ゆが)んで今にも泣き出しそうだったが、眼だけはぎらぎらと獣のようにひかっていたのであった。憎しみに満ちたその瞳を、彼は血の気を失った顔で受止めていたのだ。

(金を融通しようとするのが、何故侮辱ということになるのか?)

 見ず知らずの男からも金を受取っているのではないかと思うと、急に不快な濁った焦噪が胸いっぱい拡がって来るのを感じながら、彼は急ぎ足で中華飯店や麻雀荘や果物屋の前を通り抜けた。釦をとめてあるので、マントの裾だけが変な形に風にふくらんだ。道の果てる処に省線の駅の燈が見えた。彼はそれに向ってまっすぐ進んで行った。

 灰色の駅の建物に彼は入って行った。まだお客が出入りしたり黒い制服の駅員が動いたりしているのに、荷受台の下にはもはや浮浪児が二人抱き合って寝込んでいたりするのだった。駅の時計は八時三分前を指していた。彼は窓口の人造石の台に金を出しながら、小さな声で或る駅名を言った。そして切符とつり銭を受取った。白い小貨幣が石の台にふれてカチカチ鳴った。

 それは十日程前、泉がそこの陸橋に居るのを彼が見た、その駅の名であった。それは此処から電車で二十分位かかる小さな駅だった。彼は役所の所用で、その方面に行き、そして遅くなったのだった。はじめ彼が泉を見つけたのは遠くからだった。少くとも車道ひとつをななめに隔てていた。泉は向う側の歩道の、燈をちょっと避けた場所にぼんやり立っていたのである。彼はふと眼を疑ったが、それは首にかけたショールの色で泉に紛れもなかった。黒い生地に暗赤色の花模様が浮き出たものであった。彼はゆっくり陸橋を渡り終えると、突然立ち止った。そして外套の襟を立て、反対側のたもとに背をもたせ、悟られないようにちらちら横目で泉のいる方を眺め始めた。何故泉がこんなところに立っているのか。ある予感のために彼の胸はすでにしめつけられていたのだ。この予感が当らないようにと、彼は心の中で何度も繰り返しながら、もし泉が何でもなくあそこに立っているものとしたら、俺はこの予感を持ったということだけであの女を侮辱した事になる、と彼はまた考えた。そう思うと急に甘い切なさが彼の胸にのぼって来た。しかし泉があそこに立っているとしても、俺までが何のために物蔭にひそんでそれを監視しようとするのか。そんな思いが胸をかすめるのを感じながら、それでも彼は頑固にそこから離れないでいた。そして彼は引下げた帽子の廂(ひさし)から、燃えるような眼で時々小さな泉の姿を眺めた。泉はショールがなびくのを気にしながら、時々不安そうに位置を換えた。陸橋の下から吹上げて来る風は冷たくて、やがて彼の足尖(あしさき)から背筋まで鈍痛を伴った冷感がひろがって来た。陸橋の下を電車が通り、歩廊の前に軋(きし)みながら止ると、暫くして階段をのぼって来た降客が次々に改札口から流れ出て、駅の前で四方に散って行った。それでも泉はぼんやり佇っていた。何か終末を見届けようとするための不安が、しきりに彼の心をおびやかしていたが、彼もまたじっと背をもたせ、そしてしんしんと長い時間が経った。電車のつくのが段々間遠になり、降りる客も次第にまばらになって行った。改札に立っている駅員が鋏をかちゃかちゃ鳴らしながら、勤め終えて帰り仕度した同僚とふざけているのが、彼の眼に小さく見えた。それは非常に平和な情景に見えた。彼の心にさむざむと喰入った想念から、へんに遠くかけ隔たっていた。彼は何となく舌を鳴らして唾をはいた。そして彼がも一度顔を泉のいる方に向けたその時、彼は全身の血がひとつに凝集したような衝動を受けて立ちすくんだ。

 泉が男と話していたのだ。彼の眼には男の幅広い後姿が見えた。薄色の春外套を着たその姿は、たしかにちょっと前改札口を抜げて来た降客の一人に違いなかった。泉の姿はそのかげにかくれていて、ショールの端だけがちらと見えた。それは極く短い時間だった。ふっと泉が先に立って歩き出すと、男の身体があわてたようにそれに続いた。二人の姿はもつれながら陸橋をむこうに渡り、そして線路の崖の上に沿った道に折れた。

 そこまで見届けた時、彼は背を冷たい橋欄から離して歩き出した。彼は駅の建物の方には行かず、ぼんやり彼等が消えた方に陸橋を渡ろうとしていたのだ。しかし彼は突然せき止められたように立ち止った。

(俺はあとをつけようとまでする積りなのか?)

 彼は歩道と車道の間に立ちすくんだまま、そう考えた。ひややかな戦慄がその時彼の背筋を奔(はし)り抜けた。あとをつけずともすべては明白な筈だった。彼が此処で監視していたのが既に一時間に近かったから、泉はその前の時間を加算すると、相当長い間立っていたことになるのだ。人と待合せるのに、こんな寒いのに、一時間以上も待っている筈がない。彼は凝然とそんな事を考えた。それはあの肩幅の広い男が行きずりの男であるに違いないということだった。

 暫くして彼はゆっくり車道を横切り、さっき泉の佇っていた場所に来た。手すりに掌をのせると、ひやりと冷たかった。彼はそして身体をのりだして線路の谷間を見下した。幾条ものレエルがキラキラ光りながら走っていた。歩廊の側は明るかったが、反対側は暗い崖になっていて、その上の道を彼等が歩いて行った筈だった。そこらあたりに燈が見えないところを見ると焼跡に違いなく、暗い空には星がいくつも光っていた。何か荒涼たるものが次第に彼を満たし始めていたのである。明るい駅の歩廊に電車を待つ人が思い思いの姿勢で動いたり立ち止ったりしていた。皆暖かそうな服装をしているようであった。そして暗い崖の上ではどんなことが起っているのか。手袋をつけていない掌に、しんしんと冷たさが沁み入って来るのを堪えながら、彼はしばらく暗い崖の上を見詰めていた。やがて彼の顔は土偶のように血の気を失い始めて来た。……

 

 改札を通る時歩廊に電車は入ってした。マントの裾が脚にからまるので急げないうちにベルが鳴って、彼が歩廊に来た時は扉がしまったばかりのところだった。電車は彼一人を残して静かに動き出した。

 それからいくらも待たないうちに、また次の電車が入って来た。今度のはかなり空いていたけれども、彼は腰掛には掛けず柱のところに立った。動き出して歩廊を拔けると、扉の外は闇となり、扉の硝子は暗く鏡のように車内を映し出した。彼は白いエナメル塗(ぬり)の支柱を握って立っている自分の姿をその硝子鏡の中に認めた。硝子の中の彼はスキイ帽をまぶかに乗せ、大きなマントをゆったりとまとっていた。彼は暗い笑いを頰に走らせた。

(これでマスクを掛けたら、泉には俺だということが判らないだろう!)

 出がけにあおった一杯の焼酎が、今ほのぼのと廻って未るらしく、兇暴な欲念がともすれば腹の底から湧き上って来るようであった。彼はひそかにそれを押殺しながら、硝子扉の中の自像に見入っていた。マントはだらりと垂れてほとんど足首までおおっていた。あいつは大男だからな、彼はぼんやり呟いた。今日会った同僚のことを彼は考えていたのだった。その同僚は畳んだマントの上に兎の皮のついたスキイ帽をのせ、彼の方に押しやりながらこんなことを聞いた。

「で、病気の方はもう良いのかね」

 もう大丈夫なんだと彼は答えた。あの日陸橋の上で長いこと立っていたからそれで風邪を引いたらしく、彼はずっと欠勤をつづけていたのである。同僚は更に重ねて言った。

「北海道に帰るのも良いが、出来るだけ早く戻って来るが良いよ」

「何故?」

「行政整理があるらしいのだ」

 此の男は彼と同じく都庁につとめていた。

「行政整理って、そんな事が出来るのか。組合があるんだからそんな一方的なことは出来ないだろう」

「ところが財政がおそろしく詰っているらしいんでね」

 同僚はそこでいろいろ説明をして、結局組合もそれを承認するだろうということを付け加えた。彼はそれを聞きながら次第に不安になって行った。

「それで具体的に言うと、どんな連中が整理されるんだね」

「そりや先ず出勤などの成績が良くないものが先になるだろうな。任意に辞表を出させる形にしてしまうのさ」

「出さねばどうなるんだね」

「それはどうなるだろう。僕は知らん。しかしその時出せば退職金がぐんと多くなるのだ。あとで整理されるより得になるように出来てるんだ」

「そいつに皆、ひっかかるんだな」と彼はその時厭な顔をして呟いた。今年に入ってからも彼は口実をつけて何や彼やと休暇ばかり瑕っていた。こんなことが整理に影響するに違いなかった。今度の風邪にしても本当は始め二日ほど寝ただけで、あとはごろごろ寝たり起きたりして暮していた。役所のことが気懸りでないことはなかったが、どうにも出勤する意力が湧いて来なかったのである。食物のせいか身体が変にだるいからでもあったが、陸橋の上で見たあの光景が少からず影響をあたえていることも彼には否定出来なかった。あの夜泉は十二時頃戻って来たのだ。土を踏む幽かな跫音(あしおと)がして玄関をそっとあける音がつづいたのを、まだ眼を覚ましていた彼ははっきり聞いたのだった。寝床の中で彼は全身を緊張させて、泉の気配を感じ取っていた。隣室でそっと床をのべる衣ずれの音がして泉はかるいせきをした。そして床にすべり込んだらしかった。そのせきの音が妙に泉の肉体を歴然と感じさせた。彼は嫉妬に似たものがありありと胸中に燃え出すのを感じながら、寝床の中の泉の白い肉体を思い浮べていた。今まではそういう想像が湧いて来ると、彼は強いてそれを打消していたのだったが。……

 泉たちが隣室に入って来て、もう半年近くなるのであった。それまでは此の六畳と四畳という二部屋の変な造りの家を、彼ひとりで占領していたのだ。家主の話では、泉たちは家主の遠縁にあたるということだった。だから彼も一部屋さく気になったのだった。あとで泉に聞くと、親類でも何でもなく、此の部屋に入るために家主に沢山の権利金を払ったという話であった。大陸から引揚げて来たばかりで、泉は髪を切って総髪にしていたが、それがかえって女らしい効果を上げているように彼には思えた。眼が大きく濡れた感じで、ちょっと映画女優のマアゴという女に似た顔立ちをしていると彼は思った。老婆と弟と三人で引揚げて来たのだが、弟は船の中で病死して、その水葬礼の話を泉は彼にして聞かせた。それは弟を思う純粋な気持にあふれていて、彼は思わず感動した。キヤンパスに包んだ屍体が青い海に沈められようとする時、老婆が惑乱して手すりを越えようとして、船員たちが背中からしっかり抱きかかえていなければならなかったことなどを、泉は少し亢奮(こうふん)した口調で彼に話して聞かせていた。[やぶちゃん注:「映画女優のマアゴ」メキシコ生まれのアメリカの女優マーゴ(Margo 一九一七年~一九八五年:本名はマリア・マルゲリタ・グアダルーペ・テレサ・エステラ・ブラド・カスティーリャ・オドネル(María Marguerita Guadalupe Teresa Estela Bolado Castilla y O'Donnell)。代表作で私が見たことがあるのはフランク・キャプラ(Frank Russell Capra)監督作品の空想冒険映画「失はれた地平線」(Lost Horizon :一九三七年)。ハリウッドの「赤狩り」で苦しめられた。当該ウィキを読まれたい。]

「お婆さんはそれからがっくり、歳を取んなすったのよ」

 大陸ではどんな暮しをしていたのか知らないが、持って来た荷物もほとんど無く、男手の弟が病死したとあっては、たちまち生活に困るのは目に見えていた。しかし泉たちは内地にたどりついたということだけで、その時は満足しているように見えた。それから唐紙ひとつ隔てて二つの生活が始まった。彼も縁側から出入するようにしたし、泉たちも唐紙をみだりに開くことなどはなく、ひっそり暮している風だった。そして半年近く経ったのだ。――

 電車がガタンととまって、彼の姿をうつした硝子扉が軋(きし)みながら開いた。身をひるがえして彼は扉の外に出た。長い歩廊にはなまぬるい風が吹いていた。彼は階段の方に歩きながら、ぼんやりと斜を見上げた。そこには陸橋が黒々とかかっているのだった。橋梁(きょうりょう)の下は暗く沈んでいたが、陸橋の上にはちらほら人や自転車が通るのが小さく見えた。泉はいないかも知れない。そんな疑念がふとその時彼の心に浮んでいた。彼女は今日黄昏(たそがれ)時に家を出て行ったのである。彼は階段を一歩一歩登りながら、ポケットからマスクを取出し、それでいそいで顔をおおった。そしてスキイ帽の廂(ひさし)をぐいと引下げた。マスクを出す時彼はポケットの中の、あの金包みにもふと触れていたのだ。

(あの時泉は、俺の顔を意識して打ったのか?)

 どんな表情をして自分があの金包みを差出したかを考えると、彼は思わずマスクの中で、后を嚙んだ。あの日以来思い出すたびに自己嫌悪に陥るのは、泉から頰を打たれたということではなくて、すべてその一点にかかっているのだった。盥(たらい)を買うように、と思って差出したけれど、それは自分の心への言訳にすぎなくて、泉が見抜いたのは彼の表情にぎらぎら露呈していた欲望であるのかも知れなかった。それは侮辱だと泉が叫んだのも、金を出そうとした彼の心をそんな風に受取ったからに違いなかった。それを思う度に何ものへとも知れぬ痛烈な憤怒が、彼の心をしたたか衝き上げて来るのであった。今夜の此の野卑で残酷なたくらみも、その底に此の気持を根深くひそめていることを、彼は始めからはっきりと意識していたのである。しかし此の卑しい所業が今度首尾よく完了したところで、自分も泉も今よりは一層惨めになるだけの話で、二人とも決して幸福になる筈がないことを考えると、背骨が冷たくなるような深い絶望感が、ふと彼を摑んで来るのだった。

 階段を登り切ると彼はマスクの中で青ざめたまま、切符を若い駅員に渡して改札を通り抜けた。そこの売店を曲ったところから陸橋が始まるのである。マントの裾を身体を曲げてはばたくと、彼はまっすぐ立って陸橋の歩道をあるき出した。さっき部屋にいた時のあらあらしい精気が、その時再び身内によみがえって来た。十五米おき位に燈が点っていて、歩いて行く彼の顔は暗い隈をつくったり又ぼうと明るみに浮んだりした。彼はするどく気を配りながら、一歩一歩すすんで行った。三分の二を渡り終えても彼は泉の姿を認めなかったのだ。あとの三分の一はしらじらと風が吹きぬけていて、人影はひとつも見当らなかった。彼は身体全体がふくれ上って来るような妙な衝動に襲われながら、それでも歩調をみださず、橋を渡り終えた。たもとの影にも誰もいなかったのだ。彼はそこで愕然としたように立ち止った。そして湧き上って来るはげしいものを押潰して呟いた。

「これは一体どうした事だろう」

 頭の内側に弾(はじ)け散る火花みたいなものを感じながら、暫(しばら)く彼は首を廻して暗い崖沿いの道を見詰めていた。突然ある言いようのない汚辱感が彼の胸にひろがって来たのである。此の場末の駅の陸橋に、借物の帽子とマントをまとい大きなマスクをかけてやって来た自分の姿が、それも只みにくい交尾慾のためはるばるやって来た自分のあり方が、我慢出来ない醜悪なものとして彼の意識に鋭く折れ込んで来たのだった。彼は微かな呻きを洩(も)らしながら短い間をそれに堪え、そして靴を鳴らして廻れ右をした。靴は舗石にすれてギシギシと厭な音を立てた。そして今来た道を戻り出した。夜風が頰をかすめた。

 半分も渡らない時、彼はふと反対側の歩道のたもとに、見覚えあるショールが風をはらんでなびいたのを視野の端にとらえて、ぎくりとして立ち止った。立ち止ったのは瞬間だけで、彼は直ぐぎごちない足どりを踏み出していた。それはあの夜彼がひそんでいたあたりであった。彼は顔をまっすぐ立てたまま、眼だけを最大限に横に廻して進んで行った。泉はあそこにいたのだ。何気ない風(ふう)に手すりにより、ぼんやり線路の谷間を見おろしている風であった。彼は動悸が高まって来るのを意識に入れながら、そして陸橋を渡り終えた。もはや先刻の汚辱感が、次第に他のものと交替して行こうとするのを、嘔(は)きたいような抵抗と一緒に感じ取りながら、彼は明るい売店の前に立ち止って顔を硬ばらせたまま、並べてある雑誌などに暫く無意味な眼を走らせていた。

(此のまま電車に乗って戻ってしまおうか)

 彼は胸の奥を吟味するようにそんなことを考えた。しかしその考えは唇の先だけで果敢なく消えた。彼はマスクの上の眼を急にたけだけしく光らせながら、泉のいる方向にゆっくりむき直った。泉の姿は先刻の位置からやや移動していた。淡い燈の光が斜に彼女の頬を照らし出していた。泉は掌を上げてほつれ毛を整えるような仕草を二三度くり返した。彼はマントの中で手を組合せると、あらあらしい動作で歩道に戻り、両側に注意するふりを装いながら車道を一気に通り抜けた。そしてふと顔を背(そむ)けて泉の側(そば)に立ち止った。腕をマントの間から出して、予定していたような動作で軽く泉の肩にふれた。

 泉はぎょっとしたように肩を引いたが、ふと彼を見た瞳が大きく濡れたように輝いて、直ぐ低い声で早口にささやいた。

「こっちよ」

 粟立つような緊迫の中で、彼はその声をはっきり捕えていた。

 泉は肩をふってショールを引上げると、そのまま小刻みな足どりで歩き出した。彼も黙ってそれに続いた。泉の髪の匂いが幽(かす)かにただよった。それは泉の部屋の匂いと同じものだった。彼は老婆ひとりがいるあの四畳間を、突然頭によみがえらせていた。泉は外套を着ていなくて、赤い毛糸の上衣だけだった。そして脚は素足だった。白いふくら脛が光をかげらせながら小刻みに動いた。ある生理的な予感が歪んだ形のまま幽かに高まって来るのを感じながら、彼はマントの釦(ぼたん)を内側からひとつ外していた。夜の塵を集めて風が走るらしく、舗石にかさかさと鳴った。

 陸橋のたもとから直角に折れると、暗い瓦礫(がれき)の散らばった凸凹道になるらしかった。千切れた黒雲の断(き)れ目から、月の光は青く落ちるのだが、道は凸凹のまま少しずつ登り坂になるらしい。泉に遅れまいと道を歩き悩みながら、彼はちらちらと眼の下の線路を隔てた歩廊に視線をおとしていた。歩廊に佇(た)つ人々は此の前見たと同じようにおだやかな形で電車を待っているのだが、此の暗い坂路をのぼる彼の今の眼には、何故かそれがおそろしく無感動な重圧となってのしかかって来るように見えるのであった。それに堪えながら、彼は瞼をあげた。ここらはずっと焼跡らしく、やがて目慣れて来た彼の視野に、瓦礫の暗みからそこだけ残った白い門柱や立ち枯れた樹々の形がぼんやり浮び上って来た。先に立った泉の後姿がほっと肩を落すと、一寸佇ちどまって彼を待ち、いきなり彼の脇に身を寄せて来た。

「風邪でもひいたの?」

 それは柔かく屈折した声だった。すべてをあずけたように身体をもたせて来て、そのまま歩調がゆるんで来た。彼はマントをはねて右手で泉の身体を半分抱きながら、その安心し切ったような泉の肉体のゆるみに、ふと激しい嫉妬がのぼって来るのを意識した。彼が黙っていると泉は首を廻して彼の顔を見上げた。

「だって、そんなマスクをかけているからさ」

 投げやりな調子だったけれども、顔は何か戸惑った表情だった。彼は次第に指先に力をこめながら、此の肉体が今日の昼間、隔絶された存在として彼の身辺にあった事を考えていた。泉が今身体の重みを彼にあずけるのも、彼を見知らぬ男と信じているからこそだと思うと、彼は二重にも三重にも錯綜(さくそう)した不思議な感情がはげしくひろがって来るのを感じてレた。しかしその情感は何か不倫の臭いを伴っていて、それが暗く歪んだまま彼の欲望をそそるらしかった。破局的な予感に脅えて、彼はその瞬間背筋をぶるっと慄わせた。泉は急に身体をはなして、危いわよ、とささやいた。道が尽きてこわれた石の階段になっていたのである。

 階段の両脇には四角な混凝土(コンクリート)の門柱が立残っていて、細長い白いエナメル塗りの門標がはめこんであるのを彼は見た。階段を登るとひろびろとした廃址(はいし)の感じは、此処はたしかに学校の跡にちがいなかった。崖に沿って茂みがつづき、やがてそれが断(き)れた処に奇蹟のようになだらかに凹んだ場所があって、泉はそこに入って行った。そして泉はぎごちなくそこにすわった。月の光は此処にも静かに落ちていた。彼は凹地の縁に立って、黙って泉を見下していた。彼は泉の顔に、ある苦痛のいろが漲(みなぎ)って居るのを見ていたのである。泉はやがて力尽きたように仰向けに上半身をたおした。彼はそれに視線を据え、悔恨に似た痛切なものをひとつひとつ潰しながら、静かにマントの釦をゆるめ始めていた。

 時間がしゅんしゅんと流れた。

 泡立った擾乱(じょうらん)が彼の意識をひたし始めていた。さまざまの想念や記億が千切れ雲のように彼の頭をよぎった。彼は泉の肉体に、感覚の全体を集中しようと努力しながら、それを邪魔する黒い影のようなものをひしひしと感じていた。それが何であるのか判らなかったが、それは冷たく確実に彼の背をおびやかしていた。彼はそれから逃れる為に、意識をぼんやりした一つの流れに乗せようとした。彼は過去に眺めた泉の影像を思い浮べた。弟の水葬礼を物語る泉の表象が、その時浮び上って来た。それを聞いた時の感動が匂いを伴うようにしてよみがえって来た。

(俺は何時から泉にある感情を持ち始めたのだろう)

 それは彼の記憶になかった。極めて徐々に確実にその感情は彼の意識下にはぐくまれていたらしかった。あの夜薄色の春外套を着た男の後姿を見た瞬間、それは嫉妬という形ではっきり彼の心に浮んで来たのだった。泉の不幸を実体として目撃した一瞬が、彼が愛情と自認するものの起点になっていた。そこに何か錯乱があるらしかった。意識下にひそんでいた泉への愛情と、不幸の形式への彼の傾倒が、何か乱れた交叉をつづけていて、彼は静かに身体を動かしながら、突然今日の同僚のことを思い出した。

(あの時の不安が尾を引いているんだな?)

 同僚の口ぶりは何気ないようでいて、どこか故意に彼をおびやかす調べを帯びていたのだ。まだ一度も欠勤した事のないという血色の良い同僚の顔には、絶えず冷たい薄笑いが浮びつづいていたのだった。暗い坂路をのぼる時歩廊を眺めおろしたあの漠然たる畏怖も、今彼の胸の中でそこに結びついていた。世俗の軌道から正に外(はず)れかかろうとしている自分が、何故泉の不幸を自ら確めようとして、マントやマスクを用意したのか。今夜のことは俺が案出した陰惨な遊びに過ぎなかったのではないか、という荒涼とした思いが突然彼の胸をいっぱい満たしてきた。彼はにがいものを口の中に感じながら、大きく瞼を見開いて泉の顔貌を真下に見詰めた。泉は眼を閉じて、薄い眉根を寄せていた。それは明かに陶酔の表情ではなかった。何かを堪え忍ぶ表情だった。月の光の中で、泉の顔は暗く歪んでふと別人に見えた。泉はその時うすく眼をひらいて彼を見た。疑惑がふと眼の中に浮んだようだった。彼はあの何物へとも知れぬ憤怒が俄(にわか)に再び胸を貫くのを感じながら、清らかなものがすべて死滅したことをその瞬間ありありと知覚した。

(泉への愛情を俺が抱いていたとしても、それはマスクを買求めた瞬間で終ってしまったのだ!)

 風がそうそうと茂みをゆるがせていた。凹地の中からはもはや柔かい若草の匂いが立っていたけれども、地面は冷たく湿気を帯びていた。崖の下の線路の遠くから、貨物列車の音らしい鈍重な響きが、幽かに空気をゆるがせて伝わって来た。それは幽かに幽かにゆっくりと、そして次第に力を増しながら調子を早めて、空気と地面をゆるがせて彼の身体に伝わって来た。彼はその時彼の感覚がひとつの流れにのって、ようやくある陶酔の座に入って行くのを自覚した。若草の匂いにまじって、茴香(ういきょう)に似た甘い体臭が大気にひろがった。貨車の響きは段々早く、段々音律を強めて近付いて来る。それは極めて徐々に。徐々に力強く。そそるような甘美な響きとなり、そして顔を反らした彼の表情に、貨物列車の前燈が血のように赤い光茫を突然投げかけた。その光茫は段々強ぐなる。タンタンタンと響く格調が、俄に轟然たる音の流れとなって、彼の全細胞を満たした時、泉の右手が豆蔓(つる)のように伸びて、彼のマスクを指にからめたと思うと、白い布片は生き物のようにひらめいて地面に落ちた。それはおそろしい瞬間だった。彼はその姿勢のまま甘美な Orgasm が急激に凝集した苦痛に取って代られるのを直覚した。赤光にまみれた表情を外らす間もなく、彼は病獣のようにうめき声を立てた。口辺に泡をふきながら彼は、その瞬間総身の苦痛をひとところに絞り上げて Spermatism 完了した。腕の下から必死に身をよじって逃れ出る泉の肉体を感じながら、彼の身体からやがて苦痛は潮のようにゆるやかに引いて行った。彼は芝草に掌を支え、凝然と瞼を上げた。貨車の響きは崖下を通過した瞬間から、急速に衰え薄れて行くらしかった。[やぶちゃん注:「茴香」セリ目セリ科ウイキョウ属ウイキョウ Foeniculum vulgare はフェンネル(Fennel)のこと。当該ウィキによれば、『ウイキョウの若い葉および果実は、甘い香りと苦みが特徴』とするが、『この芳香は女性ホルモン(エストロゲン)』(Estrogen)『と同じ働きをする』『植物性エストロゲン』である『フィトエストロゲン』(Phytoestrogens:内分泌系により産生されたものではなく、フィトエストロゲン植物を摂取したことによる外因性の物質が内分泌された女性ホルモンのように機能するところの外因性エストロゲン様の振る舞いをする物質を指す語)『が豊富に含まれている』とある。]

 泉は凹地の縁に身をもたせて、乾き切った眼を大きく見開いて彼を凝視していた。月光を正面に受けたその顔は、紙のように蒼白かった。眼だけがするどく彼の顔に突刺さって来たのだ。それは憎悪とか驚愕をのり越えた空虚な眼のいろだった。かぎりなく深く、無量のむなしさをたたえた挑線であった。彼は必死になって、それに堪えていた。錯乱しようとするものを全身で支えていた。突然表情を全く喪ったその顔は、やがてくずれ始めて来た。泉は子供のように行儀よく両掌を顔に当て、静かに泣き始めた。その頃になって彼はやっと立ち上っていた。ねばねばした感触に堪えながら、彼はすべり落ちたマントを拾い上げていた。マスクは白い塊りになって、芝草の上に転がった。

(結局俺は始めから泉の肉体がほしかっただけの話なのさ!)

 彼はよろめきながらマントを羽織ると、身体をこごめてマスクを拾い上げ、顔をゆっくりおおった。泉の肉体をそっと盗んで、代償として此の間の金包みを置いて来る。始めから漠然と計画していたのはそれであった。そうすることで彼の気持は全部整理がつく筈であった。ところがマスクを剥ぎ取られるという茶番が入ったばかりに、何か順調に行っていたものがばらばらに乱れてしまったのだ。彼は強いて自分の心にそう言い聞かせようとした。

(そんな事はざらにある話じゃないか。引揚げ娘が生活に困って淫売になったというだけの話じゃないか。隣室の小役人がそれを知って仮装してその娘を買ったというだけの事じゃないか。まったく何でもない愚劣な話じゃないか)

 彼は凹地を出て崖の鼻に立った。崖は石垣を畳んで垂直に切り立っていた。遙(はる)か下方をくろぐろとレエルが幾条も走っているらしかったが、彼の眼に映るものはただ黒い闇の茫漠とした拡がりだけであった。身体がばらばらに千切れそうな深い疲労が彼に起って来た。Spermatism はあったにも拘らず充足感は少しも残っていなかった。彼はじっと闇の底に眼を放っていた。眼球だけが脱落してその中に沈んで行くようで、彼はその感じを忍びながら、ふと太古から俺はこんな姿勢で此処に立っていたのではないか、という錯覚に落ちていた。そして此のたくらみの最初から、此の終末を予感しつづけていたことを、彼は今判然と思い起していた。彼は更に身体をすすめた。靴の先は両方とも二寸位ずつ、崖の鼻から宙に浮いた。その時冷たい笑いが自ずと彼の鼻の辺にのぼって来た。

(俺の身体は今、背中を指一本で押しても、他愛なく此の闇の中に転落してしまうじゃないか)

 背後の凹地は颶風(ぐふう)の眼のように静まりかえっていた。泉の嗚咽(おえつ)は今までとぎれながら続いていたのだが、それすらも聞えなくなってしまった。粘ったものが一滴脚をつたって流れ落ちた。彼はふと身慄いしながら、あのポンプ台の上に置き忘られた石鹸のいろを聯想(れんそう)した。月の光に照らされて、それは白っぽく透きとおっていた。側にはバケツが黒い布を沈ませていた。戸板ひとつ隔てたところでは電気按摩器の夢を見ながら老婆がうとうとと眠り呆けているのだろう。……[やぶちゃん注:「颶風」ここは台風と同義。]

 彼は背面に神経を集めながら、まだ泉は立ち上らないのかと、頭の片すみでぼんやり考えあせっていた。あの泉の眼のいろをのぞいた瞬間のおそろしさは、まだなまなましく残っていた。頭を烈しく振って彼はその感覚から逃げようとした。そして乱れた頭で彼は自分の位置を手探りしているのだった。ただ一突きで俺は飛翔(ひしょう)出来る。その時俺にはとても良いことが起るに違いない。早く辞表を出せぱどっさり退職金が貰えるように、何か素晴らしいものが俺に落ちて来るだろう。すべてはそれからの話だ。――

 崖の鼻にあやうく安定を保ち、彼はしきりにそんなことを呟きながら、そのまま瞳を定め、闇の中の虚ろな一点に見入って行った。

 

2021/04/14

芥川龍之介書簡抄36 / 大正四(一九一五)年書簡より(二) 失恋後の沈鬱書簡四通

 

大正四(一九一五)年三月九日・京都市吉田京都帝國大學寄宿會内 井川恭君 直披・田端四三五 芥川龍之介

 

イゴイズムをはなれた愛があるかどうか イゴイズムのある愛には人と人との間の障壁をわたる事は出來ない 人の上に落ちてくる生存苦の寂莫を癒す事は出來ない イゴイズムのない愛がないとすれば人の一生程苦しいものはない

周圍は醜い 自己も醜い そしてそれを目のあたりに見て生きるのは苦しい しかも人はそのまゝに生きる事を强ひられる 一切を神の仕業とすれば神の仕業は惡むべき嘲弄だ

僕はイゴイズムをはなれた愛の存在を疑ふ(僕自身にも)僕は時々やりきれないと思ふ事がある 何故こんなにして迄も生存をつゞける必要があるのだらうと思ふ事がある そして最後に神に對する復讐は自己の生存を失ふ事だと思ふ事がある

僕はどうすればいゝのだかわからない

君はおちついて画をかいてゐるかもしれない そして僕の云ふ事を淺墓な誇張だと思ふかもしれない(さう思はれても仕方がないが)しかし僕にはこのまゝ囘避せずにすゝむべく强ひるものがある そのものは僕に周圍と自己とのすべての醜さを見よと命ずる 僕は勿論亡びる事を恐れる しかも僕は亡びると云ふ豫感をもちながらも此ものの聲に耳をかたむけずにはゐられない。

每日不愉快な事が必起る 人と喧嘩しさうでいけない 當分は誰ともうつかり話せない そのくせさびしくつて仕方がない 馬鹿馬鹿しい程センチメンタルになる事もある どこかへ旅行でもしやうかと思ふ 何だか皆とあへなくなりさうな氣もする 大へんさびしい

    三月九日           龍

   井 川 君

 

 

大正四(一九一五)年三月九日・田端発信・藤岡藏六宛

 

わが心ますらをさびね一すぢにいきの命の路をたどりね

かばかりに苦しきものと今か知る「淚の谷」をふみまどふこと

ほこらかに恆河砂びとをなみしたるあれにはあれどわれにやはあらぬ

かなしさに淚もたれずひたぶるにわが目守(まもる)なるわが命はも

罌粟よりも小(ち)さくいやしきわが身ぞと知るうれしさはかなしさに似る

われとわが心を蔑(なみ)しつくしたるそのあかつきはほがらかなりな

いやしみしわが心よりほのほのと朝明(あさあけ)の光もれ出でにけり

わが友はおほらかなりやかくばかり思ひ上がれる我をとがめず

いたましくわがたましひのなやめるを知りねわが友汝(な)は友なれば

やすらかにもの語る可き日もあらむ天つ日影を仰ぐ日もあらむ

あかときかはたたそがれかわかねどもうすら明りのわれに來たれる

わが心やゝなごみたるのちにして詩篇をよむは淚ぐましも

 

少しおちついてゐる今日にも君の所へ行かうかと思ふがもう少しまつ事にする自分がもがいてゐる時に人が落ちついてゐるのを見るのは苦しいから

 

[やぶちゃん注:短歌群は三字下げであるが、引き上げた。書信本文との間を一行空けた。

「藤岡藏六」一高以来の友人。当時、東京帝大哲学科在籍。後に哲学者となった。複数回既出既注。吉田弥生とのことは、ある程度まで彼に話してあるのであろう。

「淚の谷」後の歌に出る「旧約聖書」の「詩篇」の第八十四章六節に出る。「明治元譯(もとやく)聖書」を引く。

   *

かれらは淚の谷をすぐれども其處をおほくの泉あるところとなす また前の雨はもろもろの惠をもて之をおほへり

   *

「恆河砂びとを」「ごうがしやびと(ごうがしゃびと)を」。恒河(ガンジス川)の砂のように沢山の人々を。

「なみしたる」「無(なみ)したる・蔑したる」。「なみする」は「無(な)し」の語幹に、形容詞・形容動詞の語幹に付いて名詞をつくる接尾語「み」の付いた「なみ」に、動詞「す」の付いたもので「そのものの存在を無視する・ないがしろにする・あなどる」の意。

「あれ」心理的・空間的・時間的に自分からも相手からも遠い対象を指し示す代名詞。

「われにやはあらぬ」反語的疑問であろう。

「罌粟」「けし」。]

 

 

大正四(一九一五)年三月九日・京都市吉田京都帝國大學寄宿會内 井川恭君 直披・三月十二日 東京田端四三五 芥川龍之介

 

井川君         十二日夜十二時

僕は愛の形をして hunger を恐れたそれから結婚の云ふ事に至るまでの間(可成長い 少くとも三年はある)の相互の精神的肉體的の變化を恐れた 最後に最[やぶちゃん注:「もつとも」。]卑むべき射倖心として更に僕の愛を動かす事の多い物の來る事を恐れた しかし時は僕にこの三つの杞憂を破つてくれた 僕は大体に於て常にジンリツヒなる何物をも含まない愛を抱く事が出來るやうになつた 僕はひとりで朝眼をさました時にノスタルジアのやうなかなしさを以て人を思つた事を忘れない そして何人[やぶちゃん注:「なんぴと」。]にも知らるゝ事のない何人にもよまるゝ事のない手紙をかいてひとりでよんでひとりでやぶつたの事[やぶちゃん注:ママ。]も忘れない

僕は今靜に周圍と自分とをながめてゐる 外面的な事件は何事もなく平穩に完つて[やぶちゃん注:「をはつて」。]しまつた 僕とその人とは恐らく永久に行路の人となるのであらう 機會がさうでないやうにするとしても僕は出來得る限りさうする事につとめる事であらう 唯恐れるのは或一つの機會である しかしそれは唯運命に任せるより外はない

僕は霧をひらいて新しいものを見たやうな氣がする しかし不幸にしてその新しい國には醜い物ばかりであつた 僕はその醜い物を祝福する その醜さの故に僕は僕の持つてゐる、そして人の持つてゐる美しい物を更によく知る事が出來たからである しかも又僕の持つてゐる そして人の持つてゐる醜い物を更にまたよく知る事が出來たからである

僕はありのまゝに大きくなりたい ありのまゝに强くなりたい 僕を苦しませるヴアニチーと性慾とイゴイズムとを僕のヂヤスチファイし得べきものに向上させたい そして愛する事によつて愛せらるゝ事なくとも生存苦をなぐさめたい

この二三日漸[やぶちゃん注:「やうやく」。] chaos をはなれたやうなしづかなそのわりに心細い狀態が來た 僕はあらゆる愚にして滑稽な虛名を笑ひたい しかし笑ふよりも先[やぶちゃん注:「まづ」。]同情がしたくなる 恐らくすべては泣き笑ひで見るべきものかもしれない

僕は僕を愛し僕を惜むすべての STRANGERS[やぶちゃん注:縦書。]と共に大學を出て飯を食ふ口をさがしてそして死んでしまふ しかしそれはかなしくもうれしくもない しかし死ぬまでゆめをみてゐてはたまらない そして又人間らしい火をもやす事がなくては猶たまらない たゞあく迄もHUMAN[やぶちゃん注:縦書。]な大きさを持ちたい

かいた事は大へんきれぎれだ 此頃僕は僕自身の上に明な[やぶちゃん注:「あきらかな」。]變化を認める事が出來る そして偏狹な心の一角が愈 sharp なつてゆくのを感じる 每日學校へゆくのも砂漠へゆくやうな氣がしてさびしい さびしいけれど僕はまだ中々傲慢である

                  龍

 

[やぶちゃん注:複数個所で行末詰めで、字空けとした方がよいと判断した箇所に一字空けを施した。今まで、その都度、この注を入れてきたが、これを以って以下同前とし、この注は省略する。

「愛の形をして hunger を恐れた」『愛というイメージの中に、「飢えた感じ・異様なひもじさ・強過ぎる熱望や渇望」といった過剰な属性が加わることを恐れた』の意か。

「可成長い 少くとも三年はある」吉田弥生は同い年の幼馴染みであった(「芥川龍之介書簡抄25 / 大正三(一九一四)年書簡より(三) 五月十九日井川恭宛」の鷺只雄氏の引用「破れた初恋」を参照)から、初対面からは長い。「少くとも三年はある」というのは、鷺氏が言っておられるように、『龍之介は新原の実家を通して』彼女に『なじんではいたが、中学以後』(龍之介の府立第三中学校入学は明治三八(一九〇五)年四月で十三歳)『は交渉がなく、ふたたび弥生の家を訪ねるようになるのは大学一年の五月頃』(ともに二十一歳。この大正四年は二十四であるから、「三年」が腑に落ちる)『からとみられる』と言う内容と合致する。

「射倖心」「射幸心」とも書く。幸運や偶然によって何の苦労もなくして思いがけぬ利益を得ることを期待する心理。ここは、そのよう特に性的な媚の射幸心を以って意識的或いは無意識的に芥川龍之介に向かって作用する或いは作用を仕掛けようとする対象の動きを指している。

「ジンリツヒ」sinnlich。ドイツ語「ズィンリヒ」。ここは「性的な・官能的な・肉感的な」の意。

「ノスタルジア」英語‘Nostalgia’ はギリシャ語(ラテン文字転写:nostos(return home)+algos(pain))が語源で「故郷をかえりみることの痛み」であり、それは日本人の考ええいる「ノスタルジック」という語の軽さとは大いに異なり、嘗ては「懐郷病」とも訳された「死に至るほどの郷愁」の謂いである。

「ヴアニチー」vanity。ヴァニティ。虚栄心。自惚(うぬぼ)れ。

「ヂヤスチファイ」justify。「正しいとする・正当だと理由附ける・自分の行為を正当に弁明する・正当性を示す・正当な理由とする・罪がないとして許す」。

「chaos」混沌。無秩序。大いなる混乱。

「STRANGERS」見知らぬ人・他人・不慣れな人・未経験者。]

 

 

大正四(一九一五)年四月十四日・田端発信・井川恭宛(転載)

 

 うちへかへつて「丁度うまく汽車が間にあつてね、十時五十何分かに品川から立ちましたよ」と云つたら「さうかい」と云つて、母や伯母が淚を流した。おやぢまで泣いてゐる。年をとるとセンチメンタルになるものだなと思つた。

 それから午少しすぎに、三並さんと藤岡君が來た。三並さんと畫や漢學の話をした。

 三並さんのやうに、いい加滅な所で妥協してゆくのが現代の日本では一番安全な道だらうと思ふ。

 少しとぶ。

 昨日帝劇へ行つた。梅幸のお園、お富、松助の蝙蝠安に感心して歸つて來た。

 行くときに警視廰の前を通つたら、何となく芝居へゆく事が惡いやうな氣がした。飯も食へなくて泥棒をしてつかまつて、ここへつれて來られる人がゐる事を考へたからである。しかし十步ばかりあるく中に、そんな事は全然氣にならなくなつた。それから芝居をみてゐる中に、自分は何を見てゐるのだらうと思つたら急に心細くなつた。芝居でなくて役者を見るより外に仕方のない事を知つたからである。しかし松尾太夫の冴えた肉聲をきいてゐる中に、これも亦何時の間にか忘れてしまつた。

 又とぶ。

 博物館へ來てゐるルノアルの石版やエチングを見て又可成感心した。

 畫をみるのに文學的内容を入れてみるのはまだいい、一番愚劣なのは、描かれてゐる對象を實世界に引入れて、その中へ自分を置いて考へる奴である。バアの石版畫をみて、かう云ふ所でパンチをのんだらいいだらうと思ふ男が可成ゐる。賞際もゐた。おかげで、踊子やオーケストラのうつくしい畫をおちついて見てゐる事が出來なかつた。

 又とぶ。

 浮世繪の會へ行つて、廣重を可成みて來た。そのあくる日、本所へ行つてかへりに一の橋のわきの共用便所へはいつた。あの便所は橋の側の往來よりは餘程ひくい河岸にある。丁度、夕方で、雨がぽつぽつふつてゐた。便所を出ると、眼の前に一の橋の橋杭と橋桁が大きく暗い水面に入り違つてゐる。河は夕潮がさして、石垣をうつ水の音がぴちやぴちやする。橋の上を通る傘や蓑、西の空のおぼつかない殘照、それから河を下つて來る五大力――すべてが廣重であるのに驚いた。

 ぐづぐづしてゐると、今人は古人に若かずと云つて笑はれるだらうと思ふ。

 又とぶ。

 僕はよく獨りでぶらぶらあるく。東京の町をあるく。三越へはいつたり、丸善に入つたりする。

 さうすると時々とんでもないものを見る事が出來る。さうして、さう云ふもののつくる mood に沒入して、暫すべてを忘れてしまふ事が出來る。

 さういふ mood をつくるものにはいろいろある。家、空、人、電車、並木――それらのすべての雜多なコムビナチオンに加へられる光と影とのあらゆるグラード。その代りに、之は獨りでないとうまく行かない。すきな人も、嫌な人も、同樣に二つの異つた方面からこの興味を破壞するから。

 又とぶ。

 櫻がよくさいた。櫻の歌四首。

 

ひなぐもる空もわかなく櫻花ををりにををりさきにけるはや

これやこの道灌山の山櫻ちりたまりたる下水なるかも

あしびきの尾の上の櫻ひえびえと夕かたまけて遠白みたれ

遲櫻夕ひそかにさきてありこの畫室(アトリエ)に人の音せず

 

 又とぶ。

 時々大へんさびしくなる。

 こんな事は云つてもはじまらないからとばす。

 ビアズレーの畫をかなり澤山まとめてみて感心した。ビアズレーの畫は感受的にのみ興味があると君は云つたかと思ふ。僕はその意味がわからない。(内容の上の興味がないと云ふのなら反對)ひまな時でいいから、もう少しくはしくその事をかいて貰へるといいと思ふ。とぶ。

 のどをいためて濕布をしてゐた。鏡で朝、顏をみたら、頸のまはりへ白い布をまきつけてゐるのが、非常に病人らしくみえた。そこで濕布をやめにしてしまつた。さうして帝劇へ行つて、夜の冷い空氣を吸ひながらうちへかヘつて來た。そのせゐで又のどが痛くなつた。のど佛の中に八面體の結晶が出來たやうな氣がするのには困る。

 又とぶ。

 今日も電車の中の顏が悉く癪にさはつた。sinnlich と云ふ顏に二種類ある。こつちにsinnlich な心もちを起させる顏と、顏そのものが sinnlich な顏と。――電車の中の顏は皆後者である。

 帝劇でもいやな奴に澤山あつた。貧乏ないやな奴よりは、金のあるいやな奴の方が餘程下等な氣がする。

 みんなからよろしく

    四月十四日午後

 

[やぶちゃん注:短歌四首は全体が三字下げだが、引き上げ、前後を一行空けた。この書簡は底本の岩波旧全集の「後記」によれば、恒藤(井川が婿養子に入って改姓した)恭著の「旧友芥川龍之介」(昭和二七(一九五二)年河出書房刊)からの転載とある。冒頭の一段は、何故か判らぬが、新全集の宮坂年譜に漏れているものの、先行する一九九二年河出書房新社刊の鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」によれば、この四月上旬、『春休み中』、『恒藤』(この時はまだ「井川」)『恭が芥川家に滞在』したのであり、その帰りを見送った後に家に帰ったところのシークエンスを語ったものである。流石! 井川! 傷心の芥川龍之介のために京から遙々、やってきていたのだ! 翰林書房刊の「芥川龍之介新辞典」の「松江」の項に、三月九日附(差出三月十二日)の吉田弥生との失恋告白以降の書簡に井川は『危機を感じ、三月二十二日に『上京し、田端の芥川家に行く』とあり、しかも、その時、井川から傷心を慰める方途として、『松江行きの話が出るのは、この夜が最初であった』とある。

「三並さん」三田の統一教会牧師で、一高のドイツ語嘱託教師でもあった三並良(みなみはじめ 慶應元(一八六五)年~昭和一五(一九四〇)年)。愛媛県生まれ。独逸学協会・新教神学校卒。ドイツ人シュレーダーと小石川上富坂に日独学館を創立し、若き学生らの教育に尽くした。

「藤岡君」前の書簡の藤岡蔵六。

「梅幸のお園」六代目尾上梅幸(明治三(一八七〇)年~昭和九(一九三四)年)。帝国劇場の落成(明治四四(一九一一)年)ともに女形としては異例の座頭(劇場専属の興行責任者)格として迎えられ、以降、帝劇を中心として活躍した名女形である。「お園」は心中物の「艶容女舞衣」(はですがたおんなまいぎぬ)。栢莚氏のブログ「栢莚の徒然なるままに」の「大正44月 帝国劇場 宗十郎大奮闘」の演目から確定出来た。

「お富、松助の蝙蝠安」通称「切られ与三(よさ)」「お富与三郎」「源氏店(げんやだな)」などの名で知られる世話物の名作「与話情浮名横櫛」(よわなさけうきなのよこぐし)。主人公与三郎に悪事を仕込むのが無頼漢の蝙蝠安(こうもりやす)で、右頰に蝙蝠の刺青を入れているのが通称の由来。「松助」は四代目尾上松助(天保一四(一八四三)年~昭和三(一九二八)年)。

「松尾太夫」三代目常磐津松尾太夫(明治八(一八七五)年~昭和二二(一九四七)年)。本名は福田兼吉。逗子生まれ。明治三九(一九〇六)年に三代目を襲名。明治四四(一九一一)年に帝国劇場の専属、昭和五(一九三〇)年には松竹専属となった。

「バアの石版畫をみて、かう云ふ所でパンチをのんだらいいだらうと思ふ男が可成ゐる」ルノアールのどの石版画を指すのかは不詳。

「本所」「一の橋」一之橋。サイト「東京の橋」のこちらを参照。地図リンク有り。

「五大力」(ごだいりき)は元は江戸時代に主として関東・東北地方で使われた百石乃至三百石程度の小回しの荷船。本来は海船だが、ある程度まで河川を上れるように喫水の浅い細長い船型とし、小型は長さ三十一尺(約九・四メートル)、幅八尺(約二・四メートル)、大型は長さ六十五尺(約十九・七メートル)、幅十七尺(約五メートル)ほどで、河川航行に備え、棹が使えるように、舷側に長い「棹走り」(板張りの台)を設けるのを特徴とする。海から直ちに河川に入れるので、江戸湾の内外では米穀・干鰯(ほしか)・薪炭などの商品輸送に重用された。「木更津船」はその代表的なもので、単に「五大力」とも呼ぶ。関西では「イサバ」がこれに当たる。この大正の末年頃には姿を消したという。

「コムビナチオン」ドイツ語の‘Kombination’か。結合。

「グラード」フランス語の「grade」か。階梯。

「ひなぐもる」「日曇る」。

「ををりにををり」「ををる」は「撓(をを)る」で、枝や葉が撓(たわ)むの意であるが、多くの場合は、花がいっぱいに咲いた様子に用いる。万葉以来の古層の古語である。

「道灌山」現在の東京都荒川区西日暮里四丁目(グーグル・マップ・データ)にある高台である。田端・王子へ連なる台地の中でも、一際狭く、少し高い場所にある。名称の由来は、江戸城を築いた室町後期の武将太田道灌の出城址という説、鎌倉時代の豪族関道閑(せきどうかん)の屋敷址という説、狐が住んでいた又は稲荷が祀られていたことから「稲荷山」(とうかやま)と呼ばれたものが訛ったという説があると当該ウィキにあった。

「ビアズレー」既注のワイルドの戯曲「サロメ」の挿絵で知られるヴィクトリア朝の世紀末美術を代表するイギリスのイラストレーター(詩人・小説家でもあった)オーブリー・ヴィンセント・ビアズリー。

「のど佛の中に八面體の結晶が出來たやうな氣がするのには困る」座布団一枚!]

芥川龍之介書簡抄35 / 大正四(一九一五)年書簡より(一) 井川恭宛 龍之介の吉田彌生との失恋告白書簡

 

大正四(一九一五)一月二十八日・京都市京都帝國大學寄宿舍内乙一八 井川恭君 直披・二月廿八日朝 龍

 

ある女を昔から知つてゐた その女がある男と約婚をした 僕はその時になつてはじめて僕がその女を愛してゐる事を知つた しかし僕はその約婚した相手がどんな人だかまるで知らなかつた それからその女の僕に對する感情もある程度の推側以上に何事も知らなかつた その内にそれらの事が少しづゝ知れて來た 最後にその約婚も極大体の話が運んだのにすぎない事を知つた

僕は求婚しやうと思つた そしてその意志を女に問ふ爲にある所で會ふ約束をした 所が女から僕へよこした手紙が郵便局の手ぬかりで外へ配達された爲に時が遲れてそれは出來なかつた しかし手紙だけからでも僕の決心を促すだけの力は與へられた

家のものにその話をもち出した そして烈しい反對をうけた 伯母が夜通しないた 僕も夜通し泣いた

あくる朝むづかしい顏をしながら僕が思切ると云つた それから不愉快な氣まづい日が何日もつゞいた 其中[やぶちゃん注:「そのうち」。]に僕は一度女の所へ手紙を書いた 返事は來なかつた

一週間程たつてある家のある會合の席でその女にあつた 僕と二三度世間並な談話を交換した 何かの拍子で女の眼と僕の眼とがあつた時僕は女の口角の筋肉が急に不隨意筋になつたやうな表情を見た 女は誰よりもさきにかヘつた

あとで其處の主人や細君やその阿母さんと話してゐる中に女の話が出た 細君が女の母の事を「あなたの伯母さま」と云つた 女は僕と從兄妹同志だと云つてゐたのである

空虛な心の一角を抱いてそこから歸つて來た それから學校も少しやすんだ よみかけたイヷンイリイツチもよまなかつた それは丁度ロランに導かれてトルストイの大いなる水平線が僕の前にひらけつゝある時であつた 大ヘんにさびしかつた

五六日たつて前の家へ招かれた禮に行つた その時女がヒポコンデリツクになつてゐると云ふ事をきいた 不眠症で二時間位しかねむられないと云ふのである その時そこの細君に贈つた古版の錦繪の一枚にその女に似た顏があつた 細君はその顏をいゝ顏だ云つた[やぶちゃん注:ママ。] そして誰かに眼が似てゐるが思出せないと云つた 僕は笑つた けれどもさびしかつた

二週間程たつて女から手紙が來た 唯幸福を祈つてゐると云ふのである

其後その女にもその女の母にもあはない 約婚がどうなつたかそれも知らない 芝の叔父の所へよばれて叱られた時にその女に關する惡評を少しきいた

不性な[やぶちゃん注:ママ。「無精(ぶしやう)な」の慣用。]日を重ねて今日になつた 返事を出さないでしまつた手紙が澤山たまつた 之はその事があつてから始めてかく手紙である 平俗な小說をよむやうな反感を持たずによんで貰へれば幸福だと思ふ

東京ではすべての上に春がいきづいてゐる 平靜なるしかも常に休止しない力が悠久なる空に雲雀の聲を生まれさせるのも程ない事であらう すべてが流れてゆく そしてすべてが必[やぶちゃん注:「かならず」。]止るべき所に止る 學校へも通ひはじめた イヷンイリイツチもよみはじめた。

唯かぎりなくさびしい

    二月廿八日          龍

   恭   君 梧下

 

[やぶちゃん注:非常に変則的な形で悪いのだが、前回と同様、この失恋の相手である吉田彌生については「芥川龍之介書簡抄25 / 大正三(一九一四)年書簡より(三) 五月十九日井川恭宛」の私の冒頭注の太字より後の部分でこの前後の経緯をコンパクトに記しておいたので、そちらを読まれたい。ここでは基本、繰り返さない。なお、この翌三月一日、芥川龍之介は二十四歳になる。この年は閏年ではないから、この日が二月の晦日であった。

 ここに書かれた出来事どもについても、例えば、現在、最も纏まった新全集の宮坂覺氏の年譜でも、同年一月具体な日付け等は、一切、判っていない。同年譜には、この大正四年一月に纏めた形で(実はこの一月部分は一月十一日に彼の好きなアイルランドの作家ジョージ・バーナード・ショー(George Bernard Shaw 一八五六年~一九五〇年)の戯曲『セント・ジュアン』(Saint Joan: A Chronicle Play in Six Scenes and an Epilogue :「聖ジュアン:六場とエピローグから成る史劇」。ジャンヌ・ダルクとその処刑を、客観的に、社会と葛藤する一人の人間としてのジャンヌと、その審判を巡る当時の社会と人々の在り方を描いたもの。一九二三年初演で、一九二五年にショウはこれを以ってノーベル文学賞を受賞している。この時、彼がそれを読んだというのはちょっと不審なのだが、ショウは既に一九一三年にこの戯曲を書こうと思い立っているから、或いはその構想を記したもの或いはシノプシスを記したものを既に書いていたものか? しかし当該作品の英文ウィキには初演以前に書かれたものがあったり、それが出版された事実は見出せない。やはり不審)を読了したという記事一つきりで、その後に、纏めた文章で、『この頃、吉田弥生との恋が破恋に終わる』。『求婚まで考えたが。家族中の反対を受け、結局は断念することとなった。この破恋は、直接的にも間接的にも以後の人生に大きな影響を及ぼした』。『翌月』二十八日には『破恋後、初めて井川恭に初恋と破恋の経緯を書き送り』(以上の書簡がそれ)、『また』三月九日『には、井川や藤岡蔵六に破恋の痛手と寂しさを告白している』(後に電子化する)。『そして』四月二十三日、『山本喜誉司に「イゴイズムを離れた愛」の不在を確信したことを伝えることになる』(後に電子化する)とある。則ち、宮坂氏はここに書かれた総ての事件は一月中に起ったものと解しておられる。当該年譜の二月には、ここに出るトルストイの「イワン・イリッチの死」を含む英訳本の作品集( Lyof N, Tolstoy IváIlyich, and other stories”。英訳者不詳)の読了記事のみが載りしかし、言っておくと、不思議なことにその日附は二月二十二日である。書簡末尾の日付は「二月廿八日」と書かれている。しかも本書簡の最後は「イヷンイリイツチもよみはじめた」である。不審である。この日の深夜に読み終えたとしても、この年譜の日付はおかしい、龍之介の受けたダメージが異様に大きく、仮定推定であるが、一ヶ月弱か一ヶ月半ばかりもかかってやっとこの井川宛書簡が書けるまでに落ち着いたということが判る。

 この井川宛の衝撃的告白は、当然、この前回に電子化した僅か二ヶ月ほど前の大正三年十二月末の吉田弥生宛のラヴ・レター(私は下書きと推定する)との極端な変容に驚かされると同時に、そのラヴ・レターにある、ある特殊に微妙な雰囲気が、ここで、気になり出す。再掲すれば、

   *

こは人に御見せ下さるまじく候

YACHANとよびまつらむも

かぎりあるべく候 いつの日か

再 し・ゆ・う・べ・る・とが哀調を 共

にきくこと候ひなむや

   *

(「YACHAN」は縦書き)であるが、この

――幼馴染みで、昔から「やっちゃん」と愛称で呼んでおりましたが、そう、親しみを込めてあなたを呼べるのは、もう、限りのあることとなったように思います。しかし、何時の日か、また、再び、ともに寄り添ってシューベルトの哀しい調べを一緒に聴いて下さりはしまいか?――

という書面の持つニュアンスである。

 吉田弥生に陸軍中尉金田一光男との縁談の話が持ち込まれたことが記されてあるのは、私の持つ古い年譜では、一九九二年河出書房新社刊・鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」で、そこで鷺氏は、『龍之介は新原の実家を通して』弥生に『なじんではいたが、中学以後は交渉がなく、ふたたび弥生の家を訪ねるようになるのは大学一年の五月頃からとみられ』、しかも『気の弱い龍之介は一人では行けず、友人の久米や山宮などを連れて行ったが、文学や美術や音楽など共通の話題があるので』、『話ははずみ、訪問は楽しかった』。ところが、『大正三年の秋頃』(☜)、『弥生に縁談がもちあがり、その時龍之介は弥生を愛していることを知り、求婚の意志を芥川の家族に話すと猛烈に反対され、あきらめることになる』「芥川龍之介書簡抄25 / 大正三(一九一四)年書簡より(三) 五月十九日井川恭宛」の私の注の鷺氏の引用参照)とある。鷺氏は弥生への恋心が、縁談話が持ち上がったことによって急激に顕在化したとする。

 一方、新全集宮坂年譜で吉田弥生の記事を調べると、大正三年七月の五月の項に冒頭に文章で、『この頃、吉田弥生への恋心が芽生え始める。井川恭には「僕の心には時々恋が生まれる」と書き送っており』(「芥川龍之介書簡抄25 / 大正三(一九一四)年書簡より(三) 五月十九日井川恭宛」がそれ)、『久米正雄、山宮充』(さんぐうまこと)、『富田砕花』((明治二三(一八九〇)年~昭和五九(一九八四)年)は後の詩人。岩手県盛岡市生まれ。本名は富田戒治郎(かいじろう)。日本大学植民学科卒。明治四四(一九一一)年に与謝野鉄幹の門下に入り、清新な短歌で歌壇の俊英として注目を浴びた。後に詩作に移り、ホイットマンを本邦に紹介した一人でもあった。恐らく龍之介と知り合いになったのは、弥生絡みであって、弥生の女学校時代の同級生斉田文子の家が、砕花が寄寓しており、しかも龍之介も出入りしていた「シオン教会」であったことに拠るものと思われる(これは二〇〇三年翰林書房刊関口安義編「芥川龍之介新辞典」を参考にした)。また、後には谷崎潤一郎と富田と龍之介と三人で親しい交流があった)『らと連れ立って弥生の家へ遊びに行ったという』とあって、鷺氏よりもワン・シーズン強早い。しかもこれは、芥川龍之介の短歌で大正三(一九一四)年五月発行の『帝國文學』に「柳川隆之介」の署名で掲載された十一首からなる「桐 (To Signorina Y. Y.)」によって強い確実性が証明される。この添え辞「Signorina Y. Y.」の「Signorina」はでイタリア語‘signorina’(シニョーラ)で、「~嬢」「令嬢・お嬢さん」の未婚女性の意であり、「Y. Y.」のイニシャルはほぼ確実に吉田弥生に同定してよいからである。さらに言えば、この短歌の末尾には『(四・九・一四・)』とあって、これは一九一四(大正三)年四月九日を意味するから、実は宮坂年譜の五月よりも一ヶ月も前に本歌群が書かれていることを思えば、この大正三年の春には既に龍之介の吉田弥生への恋慕は顕在的に固まっていたことが証明されるのである。試みに頭の四首のみを示す。

   *

 君をみていくとせかへしかくてまた桐の花さく日とはなりける

 君とふとかよひなれにしあけくれをいくたびふみし落椿ぞも

 廣重のふるき版畫のてざはりもわすれがたかり君とみればか

 いつとなくいとけなき日のかなしみをわれにおしへし桐の花はも

   *

全篇は「やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集 附やぶちゃん注」を参照されたい。

 一方、出版としては、新全集刊行後である二〇〇三年翰林書房刊の「芥川龍之介新辞典」の「失恋事件」の項では(栗栖真人筆)、先に私が挙げた「桐」歌群の存在を掲げ、『同年の』後の短歌雑誌『『心の花』にも何度か恋歌を寄稿している』とされ(上記の私の歌集を参照)、『同年秋頃、弥生に縁談が持ち込まれたことを知った芥川は、弥生に求婚したいと家人に話すが猛反対を受け遂に断念する。家人の反対の理由は吉田家が士族ではなかったこと、弥生が非嫡出子であったこと』(「芥川龍之介書簡抄25 / 大正三(一九一四)年書簡より(三) 五月十九日井川恭宛」の私の注の鷺氏の引用により詳しく載る)、『当時の赤新聞』(現在で言うゴシップ専門の真実性の怪しい低級新聞の通称)『に取り上げられた女学生の中に弥生の名もあったことが挙げられるが』(これはしかし本書簡の終わりの方の、『芝の叔父の所へよばれて叱られた時にその女に關する惡評を少しきいた』がそれではないかと思われ、それは最初の家人の猛反対の理由には含まれていなかったのではないかと私は考えている)、『婚約の話進行中の相手に求婚するという芥川の姿勢が旧時代的な養家の反発を買った面もある』という『指摘や』、『芥川が実家に奪還されることへの養家の危惧という見方もある』(既に述べた通り、吉田の父吉郎と龍之介の実父新原敏三は親しかった)とある。特にここには新しい情報はないが、秋に弥生に金田一光男との縁談が起こり、それが現に進行している中で、十二月末の龍之介が彼女にラヴ・レターを送り、一月になるや、弥生への求婚・結婚の宣言を龍之介は養家にしたのである。本文に従えば、しかし、この求婚宣言を弥生に直接逢って伝えようとしたことは判り、呆れた糞事情によって会えなかったものの、その後に弥生からのきた「手紙だけからでも僕の決心を促すだけの力は與へられた」とあることから、ある程度(求婚宣言許諾の具体ではなく、弥生がそれなりに龍之介のことを大切に思っているという確信に過ぎない。それを龍之介は自己の中で過剰に肥大させて彼女は私との結婚を望むはずだと勝手に思い込んだ可能性の方が大きい気もする)の弥生の理解はあったものらしい。龍之介だけの一方的な突っ走りであったというわけではないようではある。しかし、直接逢ってはっきり言わずに宣言するというのは、やはり甚だ無謀(縁談進行中の女性に対して)であるし、少なくとも私には、養家の反対もまた、決して理不尽とは思われない

 なお、宮坂年譜によれば、陸軍将校金田一光男と吉田弥生の結婚式は同年四月末で、婚姻届が届け出されたのは同年五月十五日のことである。

「伯母」芥川フキ(安政三(一八五六)年~昭和一三(一九三八)年)は実母の姉で、道章の妹。幼少時に片眼を傷つけ、そちらの視力は失われていたらしい。生涯、独身を通し(彼女は婚期に於いて失恋を体験しており、それが未婚であった理由ともされる)、養子となった龍之介の養育に当たった。龍之介にとっては生涯を通じて影響を与えた人物であり、文との新婚時代の一時期を除いて一緒に暮らした。彼はこの伯母の愛情を「有り難い」と感じながらも、時には苦痛や嫌悪を抱くこともあったようである。大正七(一九一八)年一月発行の雑誌『文章倶樂部』に発表された「文學好きな家庭から」(リンク先は私の古い電子化)では、「伯母が一人ゐて、それが特に私の面倒を見てくれました。今でも見てくれてゐます。家中で顏が一番私に似てゐるのもこの伯母なら、心もちの上で共通點の一番多いのもこの伯母です。伯母がゐなかつたら、今日のやうな私が出來たかどうかわかりません」と述べる一方、遺稿「或阿呆の一生」(同前)の「三 家」では、『彼は或郊外の二階の部屋に寢起きしてゐた。それは地盤の緩い爲に妙に傾いた二階だつた』。『彼の伯母はこの二階に度たび彼と喧嘩をした。それは彼の養父母の仲裁を受けることもないことはなかつた。しかし彼は彼の伯母に誰(たれ)よりも愛を感じてゐた。一生獨身だつた彼の伯母はもう彼の二十歲の時にも六十に近い年よりだつた』。『彼は或郊外の二階に何度も互に愛し合ふものは苦しめ合ふのかを考へたりした。その間も何か氣味の惡い二階の傾きを感じながら』とも述べているのを見ても、そのアンビバレントな感覚が見てとれる。サイト「芥川龍之介人物録」の彼女の項によれば、『芥川の妻文も「めったに私どもに土産など買って来たことはありませんでした。それでも伯母には、本当によく気がついて土産を買ってかえりました」とその気遣いの様を述べて』おり、『関口安義氏は、芥川にとって老人たちの目が「監視の眼」として写り、「いつも養父母と伯母に遠慮がちな生活を送っていた」としている』。『フキは、芥川の死後』、『痴呆症になって、死去した』とある。何より、龍之介は自死する直前、辞世とした、

    自嘲

 水涕や鼻の先だけ暮れのこる

を主治医で俳人でもあった下島勳(いさおし(歴史的仮名遣「いさをし」):俳号は空谷)に渡すようにと頼んだ相手が、このフキであったのである。私の『小穴隆一 「二つの繪」(3) 「Ⅳ」』及び「やぶちゃん版芥川龍之介句集 四 続 書簡俳句(大正十二年~昭和二年迄) 附 辞世」の最後尾も参照されたい。

「ある家のある會合」不詳。可能性の一つとして先に注で示した「シオン教会」が挙げられ得るか。

「イヷンイリイツチ」ロシアの巨匠レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ(Лев Николаевич Толстой/ラテン文字転写:Lev Nikolayevich Tolstoy 一八二八年~一九一〇年)が一八八六年に発表した「イワン・イリイチの死」(Смерть Ивана Ильича)。岩波文庫の解説に、『一官吏が不治の病にかかって肉体的にも精神的にも恐ろしい苦痛をなめ』、『死の恐怖と孤独にさいなまれながら』も『諦観に達するまでを描く』。『題材には何の変哲もないが』、『トルストイの透徹した観察と生きて鼓動するような感覚描写は』、『非凡な英雄偉人の生涯にもまして,この一凡人の小さな生活にずしりとした存在感をあたえている』とある。因みに、私はまさにこの岩波文庫の米川正夫訳を高校一年の時に読み、激しく感動した。私は中学一年の時に「復活」でのめり込み、貧しい私の机の前には、トルストイの肖像写真が貼られてあった。

「ロラン」既出既注のフランスの作家ロマン・ロラン(Romain Rolland 一八六六年~一九四四年)。彼は一八八七年には「戦争と平和」を読み、トルストイと文通までしており、一九一一年には大著「トルストイの生涯」(La Vie de Tolstoï )をもものしている。

「ヒポコンデリツク」hypochondriac。心気症。医学的な診察や検査では明らかな器質的身体疾患がないにも拘わらず、ちょっとした身体的不調に対して自分が重篤な病気に罹患しているのではないかと恐れたり、既に重篤な病気にかかってしまっているという強い思い込み(観念連合)に捉われる精神疾患。一種のノイローゼで、「不眠症」は典型的なその症状の一つである。

「芝の叔父」不詳。養家の芥川家ならば、道章の弟芥川顕二がおり、実父の新原家ならば、慶太郎と元三郎(彼が本家を嗣いでいる)がいる。芝というと、実父敏三の居宅であるから、後者のどちらかである可能性が強い。

「その女に關する惡評を少しきいた」冒頭注の太字部を参照。

「學校へも通ひはじめた」講義に何の価値も見出せなかった彼が大学に通い始めたというのは、新規巻き直しどころではなく、『どうともなれ』的なやけのやんぱちの様相にあることを感じさせる。実際、立ち直るのは五月の初旬頃とされる(宮坂年譜)。]

2021/04/13

芥川龍之介書簡抄34 / 大正三(一九一五)年書簡より(十二) 吉田彌生宛ラヴ・レター

 

[やぶちゃん注:以下の手紙の相手である吉田彌生については、非常に変則的な形で悪いのだが、「芥川龍之介書簡抄25 / 大正三(一九一四)年書簡より(三) 五月十九日井川恭宛」の私の冒頭注の太字より後の部分でこの前後の経緯をコンパクトに記しておいたので、そちらを読まれたい。ここでは繰り返さない。これは葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」(岩波書店一九七八年刊)の「書簡補遺」の中にあるもので、葛巻氏の割注解説は『大正三年末、詩稿と共に』とだけある。しかし、この葛巻氏の説明には私は甚だ不審を抱いている。何故なら、これはそのまま引用書の「書簡補遺」の解説と軌を一にしたものとして理解するなら――大正二年の年末に詩稿と一緒に芥川龍之介が吉田彌生に当てて送った書簡原本――ということになるからである。例えば、先の彼女宛の芥川龍之介のそれである「芥川龍之介書簡抄27 / 大正三(一九一四)年書簡より(五) 吉田彌生宛ラヴ・レター二通(草稿断片三葉・三種目には七月二十八日のクレジット入り)」は、標題でも示した通り、葛巻氏が割注解説ではっきりと『草稿断片』と明記しているから、現存(「芥川龍之介未定稿集」刊行当時)していても何ら、問題ないし、不思議でも何でもないのであるが、この解説には「草稿」とか「下書き」という言葉がないのが極めて不審なのである。そもそもが、現在まで、芥川龍之介が吉田彌生に送った書簡というのは全集には載っていないのである。最初のリンク先の注で私が纏めたように、後の吉田彌生、結婚してからの金田一彌生は、その後、終生、芥川龍之介に関連した談話をすることはなかったとされており、夫光男に至っては、戦後、龍之介に関わるインタビューをしに来た記者を邪見に追い返してさえいるのである。さすれば、岩波の第一次以降の「芥川龍之介全集」に彼女宛の書簡が載らないのも、恐らくは当時の編集者が求めた書簡貸与依頼にも一切、終生、応じなかったし、今もそんなものが現存するという話は、この葛巻氏の「未定稿集」以外には私は知らないのである。第一次の編集者の一人であった葛巻が、その時か、或いはその後、個人的に彼女に接触し、借り受けたものという可能性も全否定は出来ないものの、知る限りの彌生の様子や金田一家の雰囲気からして、私は芥川龍之介の生前のとっくの昔に原書簡は廃棄されている気がするのである。寧ろ、これは詩稿が含まれているため、芥川龍之介が下書きしたものを筐底に詩稿用の保存として残していたものを、葛巻は実際に送られた書簡のように出したのではないか? と考えた方が、遙かに現実的で自然なのである、とだけは、どうしても言っておかねばならない。そもそもが、この解説の「詩稿」がどのようなものなのかも葛巻は言っていないし、同「未定稿集」の「詩」のパートにもそれと確かに名指し示すことが出来得るものは載っていないと私は断言してよいと考えている。或いは、私の「やぶちゃん版芥川龍之介詩集」の中の未定稿詩篇の中にはあるのかも知れないし、ないのかも知れない。それは判らぬ。だいだいからして、詩稿と一緒に送られたものならば、詩を添えて示すか、同書の「詩」のパートに載せてこの吉田宛書簡に添えてあった詩だと示しておくべきであろう。既に全集に収録されているのであれば、それを名指すべきで当然である(こうした不全性や怪しい感じ(資料を恣意的に小出しにしているのではないかという疑惑)が葛巻氏が芥川龍之介研究者から甚だ不人気な理由なのである)。或いは、単に、葛巻は、この『詩稿』という言葉で、詩稿の断片に中に彌生宛の草稿らしきもの・下書きらしきものがあった言ったつもりだったのかも知れぬが、それはそれで、甚だ致命的な手抜かりであると言わざるを得ぬのである。

 

大正三(一九一五)年十二月末・吉田彌生宛

 

こは人に御見せ下さるまじく候

YACHANとよびまつらむも

かぎりあるべく候 いつの日か

再 し・ゆ・う・べ・る・とが哀調を 共

にきくこと候ひなむや

 

[やぶちゃん注:「YACHAN」は縦書き。]

大和本草附錄巻之二 魚類 エイノ類 (エイ類)

 

エイノ類 スブタヱイ。カイメニ似タリカイメヨリヒラタ大

ナリ目口ヒレ尾カイメニ同○ウシヱイノ色黑シ○

トビヱイ子ヅミ色龜ノ頭ノ如シ○鳥エイ味赤エイ

ニマサル味カロクヨシ○カラスヱイ是モ色黑シ○コンヒ

ラエイ形ヨコヒロシ○サエイ色赤黑右何レモ味同シ

○やぶちゃんの書き下し文

「えい」の類

すぶたゑい 「かいめ」に似たり。「かいめ」より、ひらた〔し〕。大なり。目・口・ひれ・尾、「かいめ」に同じ。

○「うしゑい」の色、黑し。

○「とびゑい」 ねづみ色。龜の頭のごとし。

○「鳥えい」 味、「赤えい」にまさる。味。かろく、よし。

○「からすゑい」 是れも、色、黑し。

○「こんぴらえい」 形、よこ、ひろし。

○「さえい」 色、赤黑。

右、何れも、味、同じ。

[やぶちゃん注:「エ」と「ヱ」の混用はママである。但し、「鱝・鱏」(エイ類)の「えい」は歴史的仮名遣では「えひ」が正しく、これらは総て誤表記であるので注意されたい。「大和本草卷之十三 魚之下 海鷂魚(ヱイ) (アカエイ・マダラトビエイ)」があるが、そこで私が注した通り、その記載は概ね、軟骨魚綱板鰓亜綱エイ上目エイ亜区トビエイ目アカエイ科アカエイ属アカエイ Dasyatis akajei 及び、「鳥ゑい」とするトビエイ目トビエイ科マダラトビエイ Aetobatus narinari の記載と読んだ。さすれば、この二種以外のものにここでは同定を試みることとするが、なかなか手強い。

「すぶたゑい」「簀蓋鱝」でこの異名を、魚類異名表(PDF)に見出せるのだが、種同定されていない。意味は「簀の子板で出来た鍋の蓋のようなエイ」のように思われる。しかし、それは概ね一般的なエイを呼んでも通じる。さて、そこでいろいろ探ってみたところが、「重修本草綱目啓蒙」の巻四十の「無鱗魚」の「海鷂魚」(エイ)の一節に(国立国会図書館デジタルコレクションの当該部画像。左ページの一行目)、

   *

一種「スブタエイ」は犂頭鯊(カイヅブカ)に似て扁大なり。目・口・鰭・尾、皆、犂頭鯊におなじ。

   *

と出るのを見つけた。この犂頭鯊(カイヅブカ)は、

サカタザメ(エイ区エイ上目サカタザメ目サカタザメ科サカタザメ属サカタザメ Rhinobatos schlegelii :「坂田鮫」と書くが、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のサカタザメのページを見ると、この『「さかた」は「逆田」なのではないか? すなわち』、『田を耕す「鋤」に似たサメという意味』とあって、目から鱗であった)

の異名である。所謂、尖頭状を呈し、ちょっと左右に開いた後頭部分がエイっぽいが、胴体が細長く超スマートなエイとサメの合いの子みたような種である。小野蘭山の謂いなら、そいつか、その近縁種としか読めないのだが、「スブタエイ」に似たものとしては「サカタザメ」の中には「テンガイエブタ」(和歌山県湯浅)ぐらいしか見当たらない。そもそもが形態からして、彼はエイの名を附さない異名が圧倒的に多いのである(脱線だが、この仲間は、古くから、乾して加工し、腹部側(奇体な顔にシミュラクラ(simulacra)する)を見せて「怪物」「宇宙人の死体」などとして好事家に取引されていたのを思い出す。「devilfish」或いは「ジェニー・ハニヴァー」(英語:Jenny Haniver)と呼ぶ。「栗本丹洲 魚譜 カツベ (メガネカスベの腹部か?)」の私の注を参照されたい)。ところが、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のアカエイのページを見るに、「マエノエブタ」(三重県・和歌山県など紀州)・「ブタ・チャンガラブタ」(岡山県)・「エブタ」(和歌山県紀の川市・和歌山市雑賀崎・湯浅・和深)や「カセブタ」などスブタに親和性のある異名が見出せるのである。ところがどっこいで、益軒は続けて『「かいめ」に似たり。「かいめ」より。ひらた』く、「大」きく、ところが、『目・口・ひれ・尾、「かいめ」に同じ』とのたもうているのだ。この「かいめ」というのは

九州・福岡志賀島・長崎でサカタザメの異名

としてあるのである。若い頃を除いて福岡藩から殆んど出なかった益軒のフィールド内である。さればこそ、これはもう、サカタザメに比定するしかないのではなかろうか? 当該ウィキによれば、『大韓民国、中華人民共和国、台湾、朝鮮民主主義人民共和国、日本』、『太平洋北西部(茨城県および新潟県以南から東シナ海・南シナ海にかけて)』に分布する温帯の南方系種である。『三角形に突出した吻を有する。前方に延びた胸びれと吻が融合し』、『体板を形成する。胸びれの後縁と腹びれの前縁は密接する』。『第一背びれの基部が腹びれよりもかなり後方にあることで、他属と識別できる』。『他のエイ同様に体は扁平であり、長い尾部を有する』。『上面から見ると、菱形の体に尾がついたような姿をしており、サカタザメ科の仲間はこの外見上の特徴からギターフィッシュ(guitarfish)の英名を持つ』。『分類上の問題があり、おそらくは太平洋北西部のみに分布し』、『他の地域からの報告は誤同定であること・日本近海でも吻の形状から二型に分かれること・仮にこの二型が独立種となった場合に東アジアの他地域での分布状況がわからないなどの問題点がある』。『近海の砂底に生息し、冬場はやや深い場所に移動する』。『卵胎生で』、六月頃に六~十尾ほどの『胎児を産む』。『サカタエイ(和歌山県)、サカタ(関西・長崎県)、スキ(関西・鳥羽市)、スキサキ(高知県・宇和島市・小野田市・島根県)、コオト(松山市)、カイメ(福岡県)、トオバ(東京都)など』。『上記のように分類上に問題があることと、生息数の推移に関するデータが不足していることから』、『本種の生息状況に関しては不明とされている』。『底引網で漁獲される。魚肉練り製品の原料のほか、ふかひれとしても利用される』。『鮮魚は関西では刺身にもされ』、『湯引きや洗いにして酢味噌でも食される』とある。因みに、「カイメ」の語源は不明である。

「うしゑい」トビエイ目アカエイ科アカエイ属ウシエイ Dasyatis ushiei 。本邦産のエイの中では巨大種で、二メートル以上になる。アカエイよりも体色が黒い。種小名がアカエイと同じくズバリ、「ウシエイ」というのも珍しいが、実際、日本近海でしか見られないようである。

「とびゑい」「ねづみ色」で「龜の頭のごとし」で、軟骨魚綱板鰓亜綱トビエイ目トビエイ科マダラトビエイ Aetobatus narinari でよかろうか(斑であることを言っていないのは気にはなる)。私の『毛利梅園「梅園魚譜」 海鷂魚(マダラトビエイ?)』を参照されたい。

「鳥えい」益軒は別種としたいらしいが、これも私はマダトビエイとするしかない。個体観察を述べずに、味のことしか言っていないから、生体や解体前の個体を見ていない可能性があり、この同定でいいと思う。本文の「大和本草卷之十三 魚之下 海鷂魚(ヱイ) (アカエイ・マダラトビエイ)」でもそう同定したからである。

「からすゑい」名と色から、トビエイ目アカエイ科カラスエイ属カラスエイ Pteroplatytrygon violacea でよかろう。当該ウィキによれば、『カラスエイ属は単型』(たんけい:monotypic:一属一種)『体盤は横長でくさび型。鋭い歯と鞭のような尾、長い毒針を持つ。体色は紫から青緑。体盤幅59cm程度まで成長する。水温19°C以上の外洋域に生息し、季節回遊する。外洋に生息する唯一のアカエイ類で、通常は100m以浅で見られる。底生のアカエイ類と異なり、羽ばたくように泳ぐ』。『餌は遊泳性の無脊椎動物や小魚。活発な捕食者で、胸鰭で獲物を包み込む。産卵期のイカのような季節性の餌も利用する。無胎盤性胎生で妊娠期間は短く、年間2回・4-13匹の仔魚を生む。出産は赤道付近で、時期は場所によって異なる。漁業者を除いて遭遇することは少ないが、尾の棘は危険である。経済価値はあまりなく、混獲されても捨てられる。捕食者の減少により』、『個体数は増えている』。『ほぼ世界中の熱帯から暖帯、緯度52°N-50°Sの外洋域に生息している。西部大西洋ではグランドバンクからノースカロライナ・メキシコ湾・小アンティル諸島・ブラジル・ウルグアイ、東部大西洋では北海からマデイラ諸島・地中海・カーボベルデ周辺・ギニア湾・南アフリカ沖、西部太平洋では日本からオーストラリア・ニュージーランド、東部太平洋ではブリティッシュコロンビアからチリ、また、ハワイ・ガラパゴス・イースター島からも報告されている。インド洋からはあまり報告がないが、インドネシア南西部では一般的である』。『外洋で見られるほぼ唯一のアカエイ類で』、『海底より』も『外洋に生息するのが特徴で、通常100m以浅で見られる』。『海底に近づくこともあり、九州パラオ海嶺の330-381mの深度でも捕獲されている』。『水温19°C以上を好み、15°Cを下回ると死滅する』。『暖水塊を追って季節回遊を行』ない、『北西大西洋では、12-4月はメキシコ湾流の近くで、6-9月は北方の大陸棚で見られる。地中海でも同じような回遊を行うと考えられているが詳細は分かっていない。太平洋では冬季を赤道の近くで過ごし、春になるとより高緯度の沿岸部に移動する』。『太平洋には2つの個体群が存在し、1つは中米からカリフォルニア、もう1つは中央太平洋から日本・ブリティッシュコロンビアまで回遊する』。『南東ブラジルのカボ・フリオ沖では晩春から夏に冷たい湧昇流が見られるため、深度45mより上の暖水塊が存在する領域に閉じ込められる』。『横長でくさび型の体盤、突出しない眼、紫の体色が特徴』(これは水揚げされた場合、明らかに黒っぽく見える。後の「★☜部★」も参照)。『体盤は厚くくさび型で、長さは幅の約3/4。前縁は弧を描き、後縁はほぼ真っ直ぐに尾に続いている。吻は短く先端は丸い。眼は小さく、他のアカエイ類と違い突き出さず、すぐ後方に噴水孔がある。鼻孔間に短くて広い鼻褶があり、口は小さく少し曲がる。口角に深い溝があり、下顎の凹みに合わせて上顎の中央が少し突出する』。『口底を横切って、0-15に分岐した乳頭突起の列がある。上顎には25-34、下顎には25-31の歯列がある。雌雄共に鋭く尖った歯を持つが、雄の方が長く鋭い』。『腹鰭の縁はほぼ真っ直ぐで両端は少し丸くなっている』。『鞭のような尾は体盤の2倍の長さになる。根元は太いが、急激に細くなり非常に長い。前方から約1/3の場所に、鋸歯状の棘が尾に沿って生えている。先の棘が抜ける前に次の棘が生えることがあり、この場合は2本存在する。低い皮褶が棘の基部から尾の先端の手前まで伸びる。若魚の皮膚は完全に滑らかだが、年と共に背面中央に小さな棘が現れ、眼の間から棘の基部にかけてを覆う』。『背面は暗紫色から青緑色、腹側はそれより少し明るい色である。捕まえたり触ったりすると、濃い黒の粘液』(★☜★)『が滲み出し体を覆う』。『体長1.3m・体幅59cm程度』で、『1995-2000年にかけて行われた飼育実験での最大個体は、雄は体幅68cm・体重12kg、雌は体幅94cm・体重49kgであった』。『羽ばたいて泳ぐ』。『遊泳性であるため、底生の近縁種とは様々な点で異なっている。ほとんどのアカエイ類は体盤をうねらせることで推進するが、この種はトビエイと同じように胸鰭を羽ばたかせることで泳ぐ。この泳ぎ方は小回りが効かないが、揚力が発生し』、『推進効率が高い』。『後ろ向きに泳ぐこともでき、小回りの効かなさを補っている』。『獲物を視覚に頼って見つけると考えられている。他のアカエイ類と比べ』、『ロレンチーニ器官』(Ampullae of Lorenzini:微弱な電流を感知する電気受容感覚(英語版)の一種で、サメ類の頭部に広く分布し、摂餌対象を探す方法の一つとして利用している)『の密度が1/3以下であり、覆っている面積も少ない。だが、背面・腹面共に同数程度存在し、トビエイ類よりは多い。30cmまでの距離で1nV/cm以下の電場を感知でき、海水の動きによって発生する電場を捉えられる可能性もある。機械受容器である側線は、他のアカエイ類に似て背面・腹面の広範囲を覆っている』。しかし、『機械刺激より』、『視覚刺激の方に敏感である』。『雄は雌よりも深い場所に生息し、おそらく水平方向にも棲み分けていると考えられる』。『捕獲個体は空腹時にマンボウを攻撃することが観察されている』。『ヨゴレ』(汚。「ヨゴレザメ」とも呼ぶ。軟骨魚綱メジロザメ目メジロザメ科メジロザメ属ヨゴレ Carcharhinus longimanus )『・ホホジロザメ・ハクジラなどの大型捕食者の獲物となる』。『体色は特徴のない背景の中で保護色となる』。『尾の毒針は潜在的に他魚を遠ざけている』。『活発な捕食者であり、獲物を胸鰭で包み込んでから口に運ぶ。滑らかな獲物を捉えて切断するため、アカエイ類には珍しく鋭く尖った歯を持つ』。『餌の種類は多様であり、端脚類・オキアミ・カニの幼生などの甲殻類、イカ・タコ・翼足類などの軟体動物、ニシン・サバ・タツノオトシゴ・カワハギなどの魚類、クシクラゲ、クラゲ、多毛類などを食べる』。『11-4月のカリフォルニア沖では、繁殖のために集まった大量のイカを捕食する』。『1-2月のブラジル沖では、小魚に引き寄せられて沿岸に集まったタチウオの群れを捕食する』。『幼体は1日に体重の6-7%の餌を消費するが、成体では1%程度になる』。『他のアカエイ類のように、無胎盤性の胎生である。胚は卵黄栄養で育ち、その後組織栄養(タンパク質・脂質・粘液で構成された"子宮乳")に移行する。子宮乳は妊娠子宮絨毛糸(trophonemata)と呼ばれる、多数の糸状に伸長した子宮上皮から分泌され、胎児の広がった噴水孔から給餌される。卵巣・子宮は左側のみが機能し、年2回繁殖可能である』。『繁殖行動は、北西大西洋では3-6月、南西大西洋では晩春に見られる』。『雌は1年以上精子を蓄えることができ、適切な環境を選んで妊娠することができる』。『受精卵の塊は両端が先細りになった被膜に包まれているが、皮膜はすぐに破れ卵を子宮内に放出する』。『妊娠期間はエイの中で最も短い2-4か月であり、その間に胚の重量は100倍にもなる』。『人が遭遇することは少なく、攻撃的ではないが、扱う際には尾の棘に注意しなければならない。死亡例が2例あり、マグロ延縄漁従事者が捕獲個体に刺された例、別の漁業者が刺されて数日後に破傷風で死亡した例がある』。『水族館では長い間』、『飼育されてきた』。『インドネシアなどでは肉や軟骨を利用することもあるが、ほとんどの場合はその場で投棄される。延縄・刺し網・巻き網・底引き網などで大量に混獲されていると考えられている。延縄で混獲された場合、漁業者は棘を警戒し、舷側に叩きつけることで釣り針を外す。このことで口や顎に深刻なダメージを受け死ぬ個体が多い。この混獲量に関しては未だデータがない』。『だが、太平洋での調査では1950年代から個体数は増え続けている。これは商業漁業によってサメやマグロのような高次捕食者が減少したためだと考えられている』とある。

「こんぴらえい」不詳。エイ類の大型個体か。金毘羅なら、金毘羅権現で海神・水神の信仰対象であるから、魚の異名についていて不思議じゃないのだけれど、意外なことに、探してみたが、見当たらない。逆に恐れ多いのか?

「さえい」不詳。]

伽婢子卷之二 狐の妖怪 / 伽婢子卷之二~了

 

   ○狐の妖怪

 

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 [やぶちゃん注:右図から左図へと絵巻風に展開する。]

 江州武佐(むさ)の宿(しゆく)に、割竹(わりたけの)小彌太といふものあり。元は甲賀(こうか)に住(すみ)て、相撲(すまふ)を好み、力量ありて、心も不敵なりけるが、中比〔なかごろ〕、こゝに來り、旅人に宿(やど)かし、旅館(はたご)を以つて、營みとす。

 ある時、所用の事ありて、篠原堤(しのはらつゝみ)を行きけるに、日すでに暮かゝり、前後に人跡〔じんせき〕もなし。

 只、我獨り、道をいそぐ其間(そのあひだ)、道の傍らに、一つの狐、かけいでゝ、人の曝髑髏(しやれかうべ)を戴き、立あがりて、北に向ひ、禮拜(らいはい)するに、かの髑髏、地に落(おち)たり。

 又、とりて、戴きて、禮拜するに、又、落たり。

 落れば、又、戴く程に、七、八度に及びて、落ざりければ、狐、すなはち、立居(たちゐ)心のまゝにして、百度ばかり、北を拜む。

 小彌太、不思議に思ひて、立とまりて見れば、忽に、十七、八の女〔をんな〕になる。

 その美しさ、國中には並びもなく覺えたり。

 日は暮はてゝ、昏(くら)かりしに、小彌太が前(さき)に立(たち)て、聲、打あげ、物哀れに啼きつゝ、行く。

 元より、小彌太は不敵者なれば、少しも怖れず、女のそばに立寄り、

「如何に。これは誰人(たれ〔びと〕)なれば、何故に、日暮て、たゞひとり、物悲しく啼(なき)叫び、いづくをさして、おはするやらん。」

といふ。

 かの女、なくなく答へけるは、

「みづからは、是より、北の郡(こほり)余五(よご)といふ所の者にて侍べり。このほど、『山本山(〔やま〕もと〔やま〕)の城を責(せめ)とらん』とて、木下藤吉郞とかや聞えし大將、はせむかひ、其引足〔ひきあし〕に、余五・木下(きのもと)のあたり、皆、燒拂ひ給へば、みづからが親兄弟は、山本山にして、打死(うちじに)せられ、母は、おそれて、病出〔やみいで〕たり。かゝる所へ、軍兵〔ぐんびやう〕、打入〔うちいり〕て、家にありける財寳は、一つも殘さず、奪ひ取たり。母、聲をあげて恨みしかば、切殺(〔きり〕ころ)しぬ。みづから、怖ろしさに草むらの中に隱れて、やうやうに命をつぎけれ共、親もなく、兄弟もなし。賴む陰(かげ)なき孤子(みなしご)となり、いづくに身をおくべき便りもなければ、『今は唯、身を投げて死なばや』と思ひ侍べるに、悲しさは堪えがたくて、人目をも知らず、啼侍べるぞや。」

といふ。

 小彌太、聞て、

『まさしく、狐の化けて、我をたぶらかさんとす。我は又、此狐をたぶらかして、德、つかばや。』

と思ひ、

「げにげに、哀れなる御事かな。親兄弟も、皆になりて、立よるかげもおはしまさずは、幸(さいわひ)に、それがしの家、まことに貧しけれ共、一人を養ふほどの事は、ともかうも、し侍べらん。我(わが)家の事、心にしめて、まかなひ使はれ侍べらば、賴もしく見とゞけ侍べらん。」

といふ。

 女、大〔おほき〕によろこびて、

「あはれみ思召し、やしなうて給らば、みづからがため、父母の生れかはりと思ひ奉らん。」

とて、打連れて、武佐の宿(しゆく)に到り、小彌太が妻に對面して、さきのごとくに、かきくどき、なきければ、妻もあはれに思ひ、ことさら、形の美くしきを見て、いたはり、いつくしむ。

 小彌太、露ばかりも、妻に、狐の事を語らず。

[やぶちゃん注:「江州武佐(むさ)」現在の滋賀県近江八幡市武佐町(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。中山道の六十六番目の宿で、この後、「守山宿」・「草津宿」・「大津宿」を経て京都(三条大橋)に着く。

「割竹(わりたけの)小彌太」「新日本古典文学大系」版脚注に、『竹を割るほどの強力の持ち主の意を込めた命名か。あるいは「割竹」は丸竹の先を割った、罪人をたたく刑具』に使用したもの(箒尻(ほうきじり)と称し、江戸時代に敲(たたき)や拷問に用いた棒で、割竹二本を麻糸で包み、その上を観世紙縒(かんぜこより:和紙を細長く裂いて縒(よ)ったもの、或いはその「紙縒り」を縄状に縒り合わせたもの)で巻く)であるから、『情け容赦を知らないの意か』とある。

「中比〔なかごろ〕」「語り物」にあって「執筆時制からあまり遠くない昔」の意を示す語として頻繁に用いられる語であるが、ここは小弥太の生活史を語っている中での用法であるから、『「中年」になってから』の謂いである。

「篠原堤(しのはらつゝみ)」近江八幡市の南西隣りの滋賀県野洲市の大篠原に今もある、中山道沿いの西池の西北の堤。ここがそれであること、この堤が平安末期には築かれてあったことが判る「公益財団法人滋賀県文化財保護協会」公式サイト内の「新近江名所圖会 第68回 現代に残る「過去」-大篠原の西池と堤」を読まれたい。

「一つの狐、かけいでゝ、人の曝髑髏(しやれかうべ)を戴き、立あがりて、北に向ひ、禮拜(らいはい)するに、かの髑髏、地に落(おち)たり。又、とりて、戴きて、禮拜するに、又、落たり。落れば、又、戴く程に、七、八度に及びて、落ざりければ、狐、すなはち、立居(たちゐ)心のまゝにして、百度ばかり、北を拜む。小彌太、不思議に思ひて、立とまりて見れば、忽に、十七、八の女〔をんな〕になる」これは妖狐が人間に化ける呪法の定規法である(なかなか手間がかかることが判る)。江戸前・中期の俳人岡西惟中(いちゅう 寛永一六(一六三九)年~正徳元(一七一一)年:鳥取生まれ。後に岡山から大坂に移り住んだ)の随筆「消閑雑記」に(「国文学研究資料館」公式サイト内の「電子資料館」内の影印本の当該部を視認し、漢文部は訓読(一部推定)した)、

   *

○狐はあやしきけもの也。常に人にばけて、たふらかし、また、人の皮肉(ひにく)に入てなやまし、あらぬ妙をなす事多し。「抱朴子(はうぼくし)」に曰はく、『狐(こ)、壽は八百歳也。三百歳の後(のち)、變化(へんげ)、人の形と為る。夜、尾を撃(うつ)て、火、出だし、髑髏を載(いたゝ)き北斗を拜み、落ちざるときは、則ち、人に變化(へんげ)す』と。これほと、修行(しゆぎやう)なり、功、つみたるものなれども、一旦、やき鼡(ねつみ)の香くはしきを見て、たちまち、わなにかゝり、命をうしなふ。人も、また、おなし。智惠・才覚(かく)、拔群(ばつぐん)のうまれつきにて、かくのことくの人も道にまとひ、利にまとひて、生涯(しやうがい)をうしなふ事、狐に同しきものなり。「人、以つて、狐にしかざるべし」か。

   *

ここの出る「やき鼡」(「燒鼠」)は鼠をあぶって焼いたもの或いは油で揚げたもので、狐の好物とされ、罠の餌に用いた。最近の私のものでは、「奥州ばなし おいで狐の話幷ニ岩千代權現」に妖狐が「油鼠(あぶらねづみ)に通(つう)を失ふ」とある。これは道教・神仙道の理論実践書「抱朴子」(東晋の葛洪(かっこう)撰。四世紀初頭の成立)の引用で判る通り、中国伝来で、後の晩唐の官僚文人段成式(八〇三年~八六三年)撰の荒唐無稽な怪異記事を蒐集した膨大な随筆「酉陽雜俎」(ゆうようざっそ:八六〇年頃成立)の「巻十五 諾皋記(たくこうき)下」の一節にも、

   *

舊說野狐名紫狐、夜擊尾火出。將爲怪、必戴髑髏拜北斗、髑髏不墜、則化爲人矣。

(舊說に、『野狐は「紫狐」と名づく。夜、尾を擊ちて、火を出だす。將に怪と爲(な)るに、必ず、髑髏を戴き、北斗を拜し、髑髏、墜ざれば、則ち、爲して人と化す』と。)

   *

ちなみに、「しゃれこうべ」という語は「されかうべ」の転化で、「され」は動詞「曝(さ)れる」の連用形からで「風雨に曝(さら)されて肉が落ちた頭骨」の意。「野曝(晒)(のざら)し」である。なお、当初は「女」を「むすめ」と読もうと思うたが、「十七、八」とする年齢、後の段で男と契ってからも、読みが一斉に振られていないことから、「をんな」とした。「心のまゝにして」は変化叶ったことから、「思う存分」歓喜して例謝(恐らくは北斗七星)しているのである。

「小彌太が前(さき)に立(たち)て」小弥太の行く道の先に立って。騙さんとすること、明白。化けざまを総て見られていて気づかなかったこと、なかなか化けられなかったことからみて、未だ若い狐で、これが人に化けた始めでもあったか。

「余五(よご)」旧伊香郡(いかぐん:古くは「いかご」)の余呉地区は現在は長浜市であるが、かなりの広域である。南部は琵琶湖の最北端で、羽衣伝説で知られる余呉湖付近であるが、北部は岐阜・福井県境まで殆んどは峡谷を伴う険しい山岳地帯である。

「山本山(〔やま〕もと〔やま〕)の城」滋賀県長浜市湖北町山本にあった。サイト「城郭放浪記」の「近江 山本山城」によれば(地図有り)、『築城年代は定かではない。平安時代末期に山下兵衛尉義経が籠った山下城がこの城であったと云われる。その後』、『京極氏の被官阿閉』(あつじ)『氏の居城となったが、永正年間』(一五〇四年〜一五二一年)『頃には浅見氏の居城となっていた。 浅見氏は一時期』浅井亮政(あざいすけまさ)と『対立したが』、『後にその傘下に組み込まれ』、『再び阿閉氏が城主となった』。『織田信長による』主城『小谷城攻撃では、阿閉』淡路守貞征(さだゆき)の『籠る山本山城が天正元』(一五七三)『年』、『羽柴秀吉』の『謀略によって開城となり、小谷』(おだに)『城は孤立し』、『落城した』とある。この部分、ウィキの「阿閉貞征」を見ると、実は貞征は秘かに『信長に内応し』て『山本山に織田軍を引き入れたため、小谷城は孤立し』、『主家滅亡の遠因をつく』り、貞征は八月八日には子とともに『信長に降参し、後』、『すぐに朝倉攻めの先手を務め』ているとある(その後、天正一〇(一五八二)年の「本能寺の変」の後、彼は『明智光秀に加担して、秀吉の居城・長浜城を占領し』、「山崎の戦い」に参加して『先鋒部隊を務めるが、敗戦。秀吉方に捕縛され』、『一族全て処刑された』とある)。「新日本古典文学大系」版脚注によると、「木下藤吉郞」は『この合戦の戦功を認められ』、『浅井氏の旧領を得て、木下から羽柴に改姓』したとある。さて、本文では、山本山城へ「木下藤吉郞」が「はせむかひ、其引足〔ひきあし〕」をした(一回、兵を撤退させた)とあるのは、実は、その内応を受けての「やらせ」のポーズであり、さればこそ、貞征は直ぐに投降し、山本山城は落城ではなく、開城となり、信長の配下となったことが判る。

「余五」これは琵琶湖北岸の余呉湖周辺。

「木下(きのもと)」現在の長浜市木之本町(きのもとちょう)

「おそれて、病出〔やみいで〕たり」恐ろしさのあまり、気分が悪くなり、病み臥せってしまった。

「德、つかばや」『一つ、こちらが知らんふりをし、上手く扱って、なんでもいいから、逆にこやつを上手く使って、逆にこっちが何かせしめてやろう!』。

「皆になりて」皆、死んでしまって。

「我(わが)家の事、心にしめて、まかなひ使はれ侍べらば」「我が家の家政(旅宿経営)に就いて、性根を据えて、なにくれとなく学び励み、使用人となるということを厭わぬとのことでありますならば」。

「賴もしく見とゞけ侍べらん。」「まずは、そなたを信頼して、暫くは、これ、様子を見てやろうとは存ずる。」。

「小彌太、露ばかりも、妻に、狐の事を語らず」この措置はなかなか思い切れるものではない。下手をすれば、小弥太の家産そのものを乗っ取られたり、潰されたり、命を失わぬとも限らぬのだから。彼の深謀遠慮は阿閉貞征も舌を巻くとも言えようか。

 

 天正のはじめ、江州、漸(やう)やく靜(しづか)になり、北の郡(こほり)は木下藤吉郞、是を領知し給ふに、石田市令助(いちのすけ)、京より下りける次に、武佐の宿、小彌太が家に留(とゞ)まり、かの女を見て、限りなく愛(めで)まどひ、

「如何にもして、此女を我に與へよ。」

と、いはれしかば、小彌太いふやう、

「歷々の諸大名、みな、望み給へども、今に、いづかたへも、參らせず。それがし、身すぎのたより、よろしく宛(あて)おこなひ給はゞ、奉らん。」

といふ。

 石田、聞て、金子百兩を出し與へ、女を買(かい[やぶちゃん注:ママ。])とり、打ちつれて、岐阜に歸られたり。

 女、いと、才覺あり、よろづにつきて、さかざかしう利根(りこん)にして、人の心にさきだち、物をまかなふ事、石田が思ふ如くなれば、本妻をも、かたはらになし、只、此女を寵愛す。

 されども、女は、少〔すこし〕も、高ぶるけしきもなく、本妻の心をとりて、

「みづからは妾(おもひもの)なり。いかでか、本妻の心をそむき奉らんや。」

とて、夜晝、まめやかに仕へ侍べりしかば、本妻も、さすがに憎からず、ねんごろに、いとほしみけり。

 出入〔いでいる〕ともがらにも、ほどほどにつきて、物なんど、取らせけり。あるひは、絹小袖・ふくさ物・針・白粉(おしろい)やうの類(たぐひ)、いつ、もとめおくとも見えねど、取出(とり〔いだ〕)して、賦(くばり)つかはす。

 しかも、其身、麻績(をうみ)つむぎ・物縫ひ・ゑかき・花結び迄、くらからず、侍べり。

「石田が家にこそ、賢女を求めけれ。」

と取沙汰あり。

 半年ばかりの後、石田、又、京都に上る。

 女、いふやう、

「必ず、忠義をもつぱらとして、私を忘れ、千金より重き御身を、小細(ささい)の事に替(かへ)給ふな。御内(みうち)の事は、みづからに任せ給へ。」

とて出〔いだ〕し立て、京にのぼらせたり。

[やぶちゃん注:「北の郡(こほり)」「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『近江国琵琶湖北岸』の『諸郡の総称』で、旧『浅井氏の領国にほぼ重なる』とある。

「石田市令助(いちのすけ)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『市令は市正(いちのかみ)の唐名。「市令」も漢名のつもりであろうが、市司(いちのつかさ)の次官』は「助」ではなく、『市佑(いちのすけ)』であるとあった。目から鱗。岩波文庫の高田衛氏の注では、『石田三成の父』(石田正継(?~慶長5(1600)年)。近江国坂田郡石田村(現在の滋賀県長浜市石田町)出身の地侍或いは京極氏の被官であったか。「関ヶ原の戦い」で息子に先んじて自害した)『を連想させる設定』とある。

「歷々の諸大名、みな、望み給へども、今に、いづかたへも、參らせず」時間経過から見ても、これは完全な噓としか読めない。「德」「つかばや」の小弥太の意識が敏感に感応して始動したのである。

「それがし、身すぎのたより、よろしく宛(あて)おこなひ給はゞ、奉らん。」「拙者の世過ぎの糧につき、よろしく、何かあてがって差配し下さるとなら、差し上げましょう。」。「新日本古典文学大系」版脚注には、『「宛(充)て行ふ」は多く』、『役職や知行を下し与える場合に用いる語で、ここは、戯れて主従関係に擬しおもねっている』と注しておられる。

「さかざかしう利根(りこん)にして」非常に賢く、それはまた、生まれつきの利発さであり、口のきき方も上手であったがため。

「百兩」ウィキの「両」によれば、天正年間の「一両」=「米四石」=「永楽銭一貫文」=「鐚銭(びたせん)四貫文」とほぼ等価であったとある。先にある換算サイトでは、戦国時代の一貫文を現在の十五万円相当とするとあったので、これを永楽銭で換算すれば、一千五百万円相当、鐚銭では三百七十五万円相当となる。お好みで解釈されたい。

「岐阜」「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『信長は、美濃稲葉城を攻略した翌年の永禄十一(一五六八)年に「井ノ口」を旧名の「岐阜」に復したという』とある。

「人の心にさきだち、物をまかなふ事、」人がどう考え、感じているかを事前に素早く察知して。この場合は、直後に「石田が思ふ如くなれば」とするものの、「本妻の心をとりて」(察して)常に彼女を立てたが故に、「本妻も、さすがに」(夫の言う好評化や想像した以上の仕え方をしたので(「夜晝、まめやかに仕へ侍べりしかば」)、改めて感心し)、この女を「憎からず」思ったというのであればこそ、不特定多数の人間に対してもそうであったと考えてよかろう。妖狐ならではの読心術による、そつのない仕舞わしと言える。

「かたはらになし」そっちのけにして。

「出入〔いでいる〕ともがら」石田市令助の屋敷に出入りする武士の配下の下男・下女及び御用伺いの商人や家作の者たち。

「ほどほどにつきて」その身分や立場に応じた相応な。

「ふくさ物」「袱紗・服紗・帛紗」は、ここは「茶の湯」で、茶道具を拭い清めたり、茶碗その他の器物を扱うのに用いたりする、縦九寸(約二十七センチメートル)・横九寸五分(約二十九センチメートル)の絹布。

「針」身分の低い女性には有難かったであろう。

「いつ、もとめおくとも見えねど」何時、何処で買い求め、何処に蓄えておいたものかもまるで判らぬのだが。

「賦(くばり)つかはす」配り、与えるのである。

「麻績(をうみ)つむぎ」「苧績紡(をうみつみ(おうみつみ))ぎ」は苧(からむし:イラクサ目イラクサ科カラムシ属ナンバンカラムシ変種カラムシ Boehmeria nivea var. nipononivea)の繊維を撚り合わせて糸にすること。ウィキの「カラムシ」によれば、『茎の皮から採れる靭皮繊維は麻などと同じく』、『非常に丈夫である。績(う)んで取り出した繊維を、紡いで糸とするほかに、糾綯(あざな)って紐や縄にし、また荒く組んで網や漁網に用い、経(たていと)と緯(よこいと)を機(お)って布にすれば』、『衣類や紙としても幅広く利用できる。分布域では自生種のほかに』六千『年前から』、『ヒトの手により』、『栽培されてきた』古代からの長い利用の歴史がある。なお、同ウィキによれば、カラムシの花言葉は「あなたが命を断つまで」「ずっとあなたのそばに」』そして、『他にも「絶対に許さない」がある』とある。病的に執拗(しゅうね)きものである。

「ゑかき」「繪描き」。「新日本古典文学大系」版脚注に、次の『花結びとともに女性の嗜みとされた手芸』とある。この場合の「手芸」は広義の「手先の技術」としての絵描きであると思われるが、女性のそれは大和絵の一種である葦手絵(あしでえ:樹木・草花・岩などの一部を図案化したものに、さらに文字を装飾的に組み込んだ絵)のように、装飾的な料紙の下絵にしたり、それが発展して次第に装飾的模様へと変化し、工芸品としての蒔絵や服飾などに用いられるようになったのであった。

「花結び」「飾り結び」とも。紐を使って装飾的に結ぶ手法。当該ウィキによれば、『日本では、そのうち特に、中国から伝わった結びをもとに発達したものを指』し、「花結び」とも『呼ばれる。一般に』「組み紐」と『呼ばれることも多いが』、「組み紐」の方は『糸を組んで紐を作る工芸であり、紐を結んで作る』「飾り結び」とは『別である』。『日本の』「飾り結び」は、『仏教とともに伝わったいくつかの結びと、遣隋使が持ち帰った下賜品に結ばれていた紅白の麻紐が起源とされる(水引と同じ)』。『飾り結びは中国のものと共通するものも多いが、日本で独自に考案されたものも数多くある。特に茶道においては、仕服(茶碗・茶入れなどを入れる袋)を封じる紐に飾り結びを施すことで、装飾性を増すとともに、知らぬ者が開封した場合に元通りにしにくくすることで、みだりに開封できないようにする鍵の役目を持つ結びが多数』、『考案された。これらを特に』「花結び」と『呼ぶこともある』とる。

「小細(ささい)な事に替(かへ)給ふな」「小細」は「些細」の当て字。「採るに足らぬことに気をとられてはなりませぬ」。既にして後にくる事態を予知していたのである。

「みづからに」「みづから」には前に出た一人称自称である。]

 

 京にして、高雄の僧、祐覺(ゆうがく)僧都に對面す。

 祐覺、つくづくと見て、

「石田殿は、妖恠に犯されて、精氣を吸れ給ふ。はやく療治し給はずは、命を失ひ給ふべし。此相(さう)、それがし、見損ずまじ。」

といふに、石田、更に信ぜず、

「我をあざむく賣僧(まいす)の妄語、今に始めず。」

とて、打笑ひしが、程なく、心地、わづらひ付き、面(おもて)の色、黃に瘦(やせ)て、身の肉(しゝむら)、かれて、膏(あぶら)、なし。唯(たゞ)、

「うかうか」

として、物事、正しからず。

 家人等、驚き、さまざま醫療すれども、しるしなし。

 此時に、高雄の僧のいひし事を思ひ出して、祐覺を請じて、見せしむ。

 僧のいはく、

「此事、我、更に見損ずまじ。初め、わがいふ事を信ぜずして、今、この病、現れたり。佛法の道は慈悲をさきとす。祈禱を以て是を治(ぢ)せむ。早く國に歸りて待(まつ)べし。我も下りて、しるしを、あらはさん。」

と、いはれしかば、家人等、驚き、祐覺ともろ友に、夜を日につぎて、岐阜に歸り、壇を飾り、廿四行(がう)の供物、二十四の燈明、十二本の幣をたて、四種の名香(めいかう)をたきて、一紙の祭文(さいもん)をよみて、禳(はらひ)して、いはく、

 

「維年(これとし) 天正歲次(としのやどり)甲戊(きのへいぬ[やぶちゃん注:ママ。])今月今日 石田氏某 妖狐の爲に惱さる

 夫(それ) 二氣 はじめて別れ 三才 巳にきざし 物と人と おのおの 其類(たぐひ)にしたがうて 性分(せいぶん) その形をうけしよりこのかた 品位(しなくらゐ) みな ひとしからず

 こゝに狐魅の妖ありて 恣まゝに恠をなし 木の葉を綴りて衣とし 髑髏(しやれかうべ)をいたゞきて鬘(かつら)とし 貌(かたち)をあらため 媚(こび)を生ず

 渠(かれ) 常に氷(こほり)を聽〔きき〕て水を渡り 疑(うたがひ)を致す事 時として忘れず 尾を擊(うつ)て 火を出〔いだ〕し 祟(たゝり)を作(なす)こと 更に止(やま)ず

 此故に 大安(〔だい〕あん)は羅漢の地に奔(はし)り 百丈は因果の禪を詰(なじ)る 千年の恠(くわい)を兩脚(〔りやう〕きやく)の譏(そしり)にあらはし 一夫の腹を双手の賜(たまもの)に破らしむ

 粤(こゝ)に石田氏某(それがし)は軍戶(ぐんこ)の將師 武門の命士也

 何ぞ妄りに汝が腥穢(せいゑ)を施して其精氣を奪ふや

 身を武佐の旅館によせて 愛を良家の寢席に興(おこ)さしむ

 汝が狀(かたち)は綏々(すいすい) 汝が名は紫々(しゝ)

 式(もつ)て 其醜(みにくき)をいひ 唱(となへ)て 其恧(はぢ)を示す者也

 首丘(しゆきう)は其本(もと)を忘れざる事をいふと雖も 虎威(こゐ)を假(かる)の奸(かたましき)ことは 隱すべからず

 汝 今 すみやかに去(され) 速かに去(され)

 汝 知らずや 九尾 誅せられて 千載にも赦(ゆるし)なき事を

 誰か 汝が妖媚(えうび)を いとひにくまざらん

 もし すみやかにしりぞき去(さら)ずば 州郡(しうぐん)大小の神社を驚かし 四殺(せつ)の劔(けん)を以て殺し 六害(りくがい)の水に沈めん」

 

Youko2

 [やぶちゃん注:上の挿絵は、左右はシークエンス上は繋がるように描かれているが、同一場面ではないので注意。]

と、讀(よみ)終りしかば、俄に、黑雲(くろくも)、棚引(たなび)き、大雨、降り、雷電、夥しく鳴渡りければ、女、はなはだ、恐れまどひ、そのまゝ倒れて、死(しゝ)けり。

 家人等〔けにんら〕、驚き、立〔たち〕よりて見れば、大なる古狐(ふるきつね)なり。

 首(かしら)に、人のしやれかうべを戴きて、落〔おち〕ずして、あり。

 此女の手より、人に遣はし與へたる物ども、取よせて見れば、「絹小袖」と見えしは、皆、芭蕉の葉、「白粉」といひしは、糠埃(ぬかほこり)也。「針」かとおもひしは、松の葉也けり。

 石田氏が心地、快然と凉(すゞ)やかになり、忽(たちまち)に平復して、此物どもを見るに、恠しき事、限りなし。

 狐の尸(かばね)をば、遠き山の奧に埋み、符(ふ)を押(をし[やぶちゃん注:ママ。])て、跡を禳(はら)ひ、丹砂(たんしや)・蟹黃(かいわう)なんど、調合の藥を服(ぶく)せしめて、その根本(こんぽん)を補ひ、さて、武佐の小彌太を尋ねさするに、女を賣(うり)て、德つき、家を移して、いづち行けるとも、知らず。

 まさに、狐魅(こみ)、よく人を惑はし、祐覺僧都の法驗(はうけん)を感歎しけるとぞ。

 

伽婢子卷之二終

 

[やぶちゃん注:佑覚僧都の祭文は底本では全体が一字下げ(元禄本は三字下げ)であるが、引き上げて、その代わり、前後を一行空け、句読点をわざと振らずに、読み易く区切れるところで改行を施した。この方が呪文らしい感じが出ると感じたからである

「高雄」京都府京都市右京区梅ヶ畑付近を指す地名で、ここはそこにある真言宗高雄山(たかおさん)神護寺。

「祐覺(ゆうがく)僧都」不詳。「新日本古典文学大系」版脚注では、源頼朝に決起を促した『神護寺の文覚に重ねるか』とされ、『文覚は法力ある験者で、優れた相人』(そうにん:人相見)『ともされ』、文覚を主人公とした『幸若』舞『の「文学」』(もんがく)『では、壇を築き、一八〇本の幣串(へいかん)』(神に供える幣帛を挟んだ串。祓(はらえ)に用いる。多くは本体に白木の棒を用いる)『を立てて平氏に対する調伏の法を行っている』とある。私もこの意見には賛同する。

「我をあざむく賣僧(まいす)の妄語、今に始めず。」「儂(わし)を欺(ざむ)く売僧(まいす)の妄言、出鱈目じゃ! んなことは、今に始まったこっちゃ、あ、る、ま、い、よ、ってえんだ!!」。「賣僧」の「まい」は「賣(売)」の慣用音、「す」は「僧(僧)」の唐宋音。特に禅宗に於いて同宗の中の僧形で物品の販売などをした堕落僧のことを指した。転じて、「一般に僧としてあるまじき行為をする僧」、また、僧侶を罵って言う卑語。「糞坊主」に等しい。

「唯(たゞ)うかうかとして、物事、正しからず」常に異様にぼんやりとした感じで、見当識がない、生気がない、正気を失ったような感じで、することなすこと、これ、尋常普通でない。

「思ひ出して、祐覺を請じて見せしむ」市令助の一の家臣が主語であろう。その場にいなかったとしても、直後に市令助が腹を立てて、そうしたことを周囲に語ったことは容易に想像される。

「此事、我、更に見損ずまじ」「この有様(病態)は、どうじゃ! 我ら、やはり、最早、見損じたのではなかったわッツ!」。

「廿四行(がう)の供物」「新日本古典文学大系」版脚注は『未詳』とするが、岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」(一九八九年刊)では、『阿弥陀の二十四本願(等覚経)にもとづく、二十四種の供物』とある。腑に落ちる。一般に阿弥陀は如来となるに当たって四十八誓願を立てて、それが成就されない限り、自分は如来とならないと言っていることは存知であろう(因みに、その第十六誓願では、「たとひ、われ佛を得たらんに、十方の衆生、至心信樂して、わが國に生ぜんと欲(こ)ひて、乃至十念せん。若(も)し、生ぜずは、正覺を取らじ。ただ、五逆と誹謗正法(しやうほふ)とをば除く。」という核心のそれで、ここでは阿弥陀は生きとし生ける全衆生を救うことが出来ぬとなら、私は如来とならないと言っているのであり、これは絶対の予定調和であって、阿弥陀が既に如来となっているおいうことは、我々衆生(あらゆる時空間に於ける人間)は既に極楽往生が定まっているといことを指しているという真理が示されているわけである。なお、例外の「五逆」は「殺父」・「殺母」・「殺阿羅漢」(聖者を殺すこと)・出仏身血)(仏の身を傷つけ、血を流させること)・「破和合僧」(仏弟子の集団を乱すこと)の罪を犯す者、「誹謗正法」は「唯一真実の正法(しょうぼう)である仏法を謗(そし)る者を指す)。ところが、この阿弥陀の誓願の数は初期の漢訳経では「二十四誓願」であるものが、「無量寿経」などでは倍の「四十八誓願」となって、そちらの方が今に説かれる命数として有名になってしまったのである。これは、その二十四誓願に応じた数の種類の供物ということである。それぞれが何か特定のものであった可能性が高いがそれは私には判らない。

「祭文(さいもん)」通常は祭りの際に神に捧げる祝詞(のりと)の意であるが、「新日本古典文学大系」版脚注では、特にここでは、『祝詞に対し、個人的或いは中国伝来の祭などの読まれる』とある。この注は中国由来の漢文訓読型の文体「祭文(さいぶん)」、祭時に於いて神霊に対して誦される文章で、中国では死者葬送・雨乞・除災・求福を目的とするそれが存在し、以下の冒頭の「維年(これとし)」(いねん)は必ずその発語の辞とされるものである。

「天正歲次(としのやどり)」「さいじ」。古くは「さいし」と清音。「歳」は「歳星」、則ち、木星、「次」は「宿り」の意。昔、中国では木星が十二年で天を一周すると考えられていたところから、「としまわり」「とし」「干支」の代語・指示語となったもの。

「二氣 はじめて別れ」混沌(カオス)の原初態から陰陽の気が天地開闢の時に分離し。

「三才 巳にきざし」天・地・人の三つの「働き」(「才」)を現わし、そこから転じて「宇宙の万物」を現わす。ここはその三者それぞれの全時空間の境界的上の差別化が生ずることを謂う。

「物と人と おのおの