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2021/04/14

芥川龍之介書簡抄35 / 大正四(一九一五)年書簡より(一) 井川恭宛 龍之介の吉田彌生との失恋告白書簡

 

大正四(一九一五)一月二十八日・京都市京都帝國大學寄宿舍内乙一八 井川恭君 直披・二月廿八日朝 龍

 

ある女を昔から知つてゐた その女がある男と約婚をした 僕はその時になつてはじめて僕がその女を愛してゐる事を知つた しかし僕はその約婚した相手がどんな人だかまるで知らなかつた それからその女の僕に對する感情もある程度の推側以上に何事も知らなかつた その内にそれらの事が少しづゝ知れて來た 最後にその約婚も極大体の話が運んだのにすぎない事を知つた

僕は求婚しやうと思つた そしてその意志を女に問ふ爲にある所で會ふ約束をした 所が女から僕へよこした手紙が郵便局の手ぬかりで外へ配達された爲に時が遲れてそれは出來なかつた しかし手紙だけからでも僕の決心を促すだけの力は與へられた

家のものにその話をもち出した そして烈しい反對をうけた 伯母が夜通しないた 僕も夜通し泣いた

あくる朝むづかしい顏をしながら僕が思切ると云つた それから不愉快な氣まづい日が何日もつゞいた 其中[やぶちゃん注:「そのうち」。]に僕は一度女の所へ手紙を書いた 返事は來なかつた

一週間程たつてある家のある會合の席でその女にあつた 僕と二三度世間並な談話を交換した 何かの拍子で女の眼と僕の眼とがあつた時僕は女の口角の筋肉が急に不隨意筋になつたやうな表情を見た 女は誰よりもさきにかヘつた

あとで其處の主人や細君やその阿母さんと話してゐる中に女の話が出た 細君が女の母の事を「あなたの伯母さま」と云つた 女は僕と從兄妹同志だと云つてゐたのである

空虛な心の一角を抱いてそこから歸つて來た それから學校も少しやすんだ よみかけたイヷンイリイツチもよまなかつた それは丁度ロランに導かれてトルストイの大いなる水平線が僕の前にひらけつゝある時であつた 大ヘんにさびしかつた

五六日たつて前の家へ招かれた禮に行つた その時女がヒポコンデリツクになつてゐると云ふ事をきいた 不眠症で二時間位しかねむられないと云ふのである その時そこの細君に贈つた古版の錦繪の一枚にその女に似た顏があつた 細君はその顏をいゝ顏だ云つた[やぶちゃん注:ママ。] そして誰かに眼が似てゐるが思出せないと云つた 僕は笑つた けれどもさびしかつた

二週間程たつて女から手紙が來た 唯幸福を祈つてゐると云ふのである

其後その女にもその女の母にもあはない 約婚がどうなつたかそれも知らない 芝の叔父の所へよばれて叱られた時にその女に關する惡評を少しきいた

不性な[やぶちゃん注:ママ。「無精(ぶしやう)な」の慣用。]日を重ねて今日になつた 返事を出さないでしまつた手紙が澤山たまつた 之はその事があつてから始めてかく手紙である 平俗な小說をよむやうな反感を持たずによんで貰へれば幸福だと思ふ

東京ではすべての上に春がいきづいてゐる 平靜なるしかも常に休止しない力が悠久なる空に雲雀の聲を生まれさせるのも程ない事であらう すべてが流れてゆく そしてすべてが必[やぶちゃん注:「かならず」。]止るべき所に止る 學校へも通ひはじめた イヷンイリイツチもよみはじめた。

唯かぎりなくさびしい

    二月廿八日          龍

   恭   君 梧下

 

[やぶちゃん注:非常に変則的な形で悪いのだが、前回と同様、この失恋の相手である吉田彌生については「芥川龍之介書簡抄25 / 大正三(一九一四)年書簡より(三) 五月十九日井川恭宛」の私の冒頭注の太字より後の部分でこの前後の経緯をコンパクトに記しておいたので、そちらを読まれたい。ここでは基本、繰り返さない。なお、この翌三月一日、芥川龍之介は二十四歳になる。この年は閏年ではないから、この日が二月の晦日であった。

 ここに書かれた出来事どもについても、例えば、現在、最も纏まった新全集の宮坂覺氏の年譜でも、同年一月具体な日付け等は、一切、判っていない。同年譜には、この大正四年一月に纏めた形で(実はこの一月部分は一月十一日に彼の好きなアイルランドの作家ジョージ・バーナード・ショー(George Bernard Shaw 一八五六年~一九五〇年)の戯曲『セント・ジュアン』(Saint Joan: A Chronicle Play in Six Scenes and an Epilogue :「聖ジュアン:六場とエピローグから成る史劇」。ジャンヌ・ダルクとその処刑を、客観的に、社会と葛藤する一人の人間としてのジャンヌと、その審判を巡る当時の社会と人々の在り方を描いたもの。一九二三年初演で、一九二五年にショウはこれを以ってノーベル文学賞を受賞している。この時、彼がそれを読んだというのはちょっと不審なのだが、ショウは既に一九一三年にこの戯曲を書こうと思い立っているから、或いはその構想を記したもの或いはシノプシスを記したものを既に書いていたものか? しかし当該作品の英文ウィキには初演以前に書かれたものがあったり、それが出版された事実は見出せない。やはり不審)を読了したという記事一つきりで、その後に、纏めた文章で、『この頃、吉田弥生との恋が破恋に終わる』。『求婚まで考えたが。家族中の反対を受け、結局は断念することとなった。この破恋は、直接的にも間接的にも以後の人生に大きな影響を及ぼした』。『翌月』二十八日には『破恋後、初めて井川恭に初恋と破恋の経緯を書き送り』(以上の書簡がそれ)、『また』三月九日『には、井川や藤岡蔵六に破恋の痛手と寂しさを告白している』(後に電子化する)。『そして』四月二十三日、『山本喜誉司に「イゴイズムを離れた愛」の不在を確信したことを伝えることになる』(後に電子化する)とある。則ち、宮坂氏はここに書かれた総ての事件は一月中に起ったものと解しておられる。当該年譜の二月には、ここに出るトルストイの「イワン・イリッチの死」を含む英訳本の作品集( Lyof N, Tolstoy IváIlyich, and other stories”。英訳者不詳)の読了記事のみが載りしかし、言っておくと、不思議なことにその日附は二月二十二日である。書簡末尾の日付は「二月廿八日」と書かれている。しかも本書簡の最後は「イヷンイリイツチもよみはじめた」である。不審である。この日の深夜に読み終えたとしても、この年譜の日付はおかしい、龍之介の受けたダメージが異様に大きく、仮定推定であるが、一ヶ月弱か一ヶ月半ばかりもかかってやっとこの井川宛書簡が書けるまでに落ち着いたということが判る。

 この井川宛の衝撃的告白は、当然、この前回に電子化した僅か二ヶ月ほど前の大正三年十二月末の吉田弥生宛のラヴ・レター(私は下書きと推定する)との極端な変容に驚かされると同時に、そのラヴ・レターにある、ある特殊に微妙な雰囲気が、ここで、気になり出す。再掲すれば、

   *

こは人に御見せ下さるまじく候

YACHANとよびまつらむも

かぎりあるべく候 いつの日か

再 し・ゆ・う・べ・る・とが哀調を 共

にきくこと候ひなむや

   *

(「YACHAN」は縦書き)であるが、この

――幼馴染みで、昔から「やっちゃん」と愛称で呼んでおりましたが、そう、親しみを込めてあなたを呼べるのは、もう、限りのあることとなったように思います。しかし、何時の日か、また、再び、ともに寄り添ってシューベルトの哀しい調べを一緒に聴いて下さりはしまいか?――

という書面の持つニュアンスである。

 吉田弥生に陸軍中尉金田一光男との縁談の話が持ち込まれたことが記されてあるのは、私の持つ古い年譜では、一九九二年河出書房新社刊・鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」で、そこで鷺氏は、『龍之介は新原の実家を通して』弥生に『なじんではいたが、中学以後は交渉がなく、ふたたび弥生の家を訪ねるようになるのは大学一年の五月頃からとみられ』、しかも『気の弱い龍之介は一人では行けず、友人の久米や山宮などを連れて行ったが、文学や美術や音楽など共通の話題があるので』、『話ははずみ、訪問は楽しかった』。ところが、『大正三年の秋頃』(☜)、『弥生に縁談がもちあがり、その時龍之介は弥生を愛していることを知り、求婚の意志を芥川の家族に話すと猛烈に反対され、あきらめることになる』「芥川龍之介書簡抄25 / 大正三(一九一四)年書簡より(三) 五月十九日井川恭宛」の私の注の鷺氏の引用参照)とある。鷺氏は弥生への恋心が、縁談話が持ち上がったことによって急激に顕在化したとする。

 一方、新全集宮坂年譜で吉田弥生の記事を調べると、大正三年七月の五月の項に冒頭に文章で、『この頃、吉田弥生への恋心が芽生え始める。井川恭には「僕の心には時々恋が生まれる」と書き送っており』(「芥川龍之介書簡抄25 / 大正三(一九一四)年書簡より(三) 五月十九日井川恭宛」がそれ)、『久米正雄、山宮充』(さんぐうまこと)、『富田砕花』((明治二三(一八九〇)年~昭和五九(一九八四)年)は後の詩人。岩手県盛岡市生まれ。本名は富田戒治郎(かいじろう)。日本大学植民学科卒。明治四四(一九一一)年に与謝野鉄幹の門下に入り、清新な短歌で歌壇の俊英として注目を浴びた。後に詩作に移り、ホイットマンを本邦に紹介した一人でもあった。恐らく龍之介と知り合いになったのは、弥生絡みであって、弥生の女学校時代の同級生斉田文子の家が、砕花が寄寓しており、しかも龍之介も出入りしていた「シオン教会」であったことに拠るものと思われる(これは二〇〇三年翰林書房刊関口安義編「芥川龍之介新辞典」を参考にした)。また、後には谷崎潤一郎と富田と龍之介と三人で親しい交流があった)『らと連れ立って弥生の家へ遊びに行ったという』とあって、鷺氏よりもワン・シーズン強早い。しかもこれは、芥川龍之介の短歌で大正三(一九一四)年五月発行の『帝國文學』に「柳川隆之介」の署名で掲載された十一首からなる「桐 (To Signorina Y. Y.)」によって強い確実性が証明される。この添え辞「Signorina Y. Y.」の「Signorina」はでイタリア語‘signorina’(シニョーラ)で、「~嬢」「令嬢・お嬢さん」の未婚女性の意であり、「Y. Y.」のイニシャルはほぼ確実に吉田弥生に同定してよいからである。さらに言えば、この短歌の末尾には『(四・九・一四・)』とあって、これは一九一四(大正三)年四月九日を意味するから、実は宮坂年譜の五月よりも一ヶ月も前に本歌群が書かれていることを思えば、この大正三年の春には既に龍之介の吉田弥生への恋慕は顕在的に固まっていたことが証明されるのである。試みに頭の四首のみを示す。

   *

 君をみていくとせかへしかくてまた桐の花さく日とはなりける

 君とふとかよひなれにしあけくれをいくたびふみし落椿ぞも

 廣重のふるき版畫のてざはりもわすれがたかり君とみればか

 いつとなくいとけなき日のかなしみをわれにおしへし桐の花はも

   *

全篇は「やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集 附やぶちゃん注」を参照されたい。

 一方、出版としては、新全集刊行後である二〇〇三年翰林書房刊の「芥川龍之介新辞典」の「失恋事件」の項では(栗栖真人筆)、先に私が挙げた「桐」歌群の存在を掲げ、『同年の』後の短歌雑誌『『心の花』にも何度か恋歌を寄稿している』とされ(上記の私の歌集を参照)、『同年秋頃、弥生に縁談が持ち込まれたことを知った芥川は、弥生に求婚したいと家人に話すが猛反対を受け遂に断念する。家人の反対の理由は吉田家が士族ではなかったこと、弥生が非嫡出子であったこと』(「芥川龍之介書簡抄25 / 大正三(一九一四)年書簡より(三) 五月十九日井川恭宛」の私の注の鷺氏の引用により詳しく載る)、『当時の赤新聞』(現在で言うゴシップ専門の真実性の怪しい低級新聞の通称)『に取り上げられた女学生の中に弥生の名もあったことが挙げられるが』(これはしかし本書簡の終わりの方の、『芝の叔父の所へよばれて叱られた時にその女に關する惡評を少しきいた』がそれではないかと思われ、それは最初の家人の猛反対の理由には含まれていなかったのではないかと私は考えている)、『婚約の話進行中の相手に求婚するという芥川の姿勢が旧時代的な養家の反発を買った面もある』という『指摘や』、『芥川が実家に奪還されることへの養家の危惧という見方もある』(既に述べた通り、吉田の父吉郎と龍之介の実父新原敏三は親しかった)とある。特にここには新しい情報はないが、秋に弥生に金田一光男との縁談が起こり、それが現に進行している中で、十二月末の龍之介が彼女にラヴ・レターを送り、一月になるや、弥生への求婚・結婚の宣言を龍之介は養家にしたのである。本文に従えば、しかし、この求婚宣言を弥生に直接逢って伝えようとしたことは判り、呆れた糞事情によって会えなかったものの、その後に弥生からのきた「手紙だけからでも僕の決心を促すだけの力は與へられた」とあることから、ある程度(求婚宣言許諾の具体ではなく、弥生がそれなりに龍之介のことを大切に思っているという確信に過ぎない。それを龍之介は自己の中で過剰に肥大させて彼女は私との結婚を望むはずだと勝手に思い込んだ可能性の方が大きい気もする)の弥生の理解はあったものらしい。龍之介だけの一方的な突っ走りであったというわけではないようではある。しかし、直接逢ってはっきり言わずに宣言するというのは、やはり甚だ無謀(縁談進行中の女性に対して)であるし、少なくとも私には、養家の反対もまた、決して理不尽とは思われない

 なお、宮坂年譜によれば、陸軍将校金田一光男と吉田弥生の結婚式は同年四月末で、婚姻届が届け出されたのは同年五月十五日のことである。

「伯母」芥川フキ(安政三(一八五六)年~昭和一三(一九三八)年)は実母の姉で、道章の妹。幼少時に片眼を傷つけ、そちらの視力は失われていたらしい。生涯、独身を通し(彼女は婚期に於いて失恋を体験しており、それが未婚であった理由ともされる)、養子となった龍之介の養育に当たった。龍之介にとっては生涯を通じて影響を与えた人物であり、文との新婚時代の一時期を除いて一緒に暮らした。彼はこの伯母の愛情を「有り難い」と感じながらも、時には苦痛や嫌悪を抱くこともあったようである。大正七(一九一八)年一月発行の雑誌『文章倶樂部』に発表された「文學好きな家庭から」(リンク先は私の古い電子化)では、「伯母が一人ゐて、それが特に私の面倒を見てくれました。今でも見てくれてゐます。家中で顏が一番私に似てゐるのもこの伯母なら、心もちの上で共通點の一番多いのもこの伯母です。伯母がゐなかつたら、今日のやうな私が出來たかどうかわかりません」と述べる一方、遺稿「或阿呆の一生」(同前)の「三 家」では、『彼は或郊外の二階の部屋に寢起きしてゐた。それは地盤の緩い爲に妙に傾いた二階だつた』。『彼の伯母はこの二階に度たび彼と喧嘩をした。それは彼の養父母の仲裁を受けることもないことはなかつた。しかし彼は彼の伯母に誰(たれ)よりも愛を感じてゐた。一生獨身だつた彼の伯母はもう彼の二十歲の時にも六十に近い年よりだつた』。『彼は或郊外の二階に何度も互に愛し合ふものは苦しめ合ふのかを考へたりした。その間も何か氣味の惡い二階の傾きを感じながら』とも述べているのを見ても、そのアンビバレントな感覚が見てとれる。サイト「芥川龍之介人物録」の彼女の項によれば、『芥川の妻文も「めったに私どもに土産など買って来たことはありませんでした。それでも伯母には、本当によく気がついて土産を買ってかえりました」とその気遣いの様を述べて』おり、『関口安義氏は、芥川にとって老人たちの目が「監視の眼」として写り、「いつも養父母と伯母に遠慮がちな生活を送っていた」としている』。『フキは、芥川の死後』、『痴呆症になって、死去した』とある。何より、龍之介は自死する直前、辞世とした、

    自嘲

 水涕や鼻の先だけ暮れのこる

を主治医で俳人でもあった下島勳(いさおし(歴史的仮名遣「いさをし」):俳号は空谷)に渡すようにと頼んだ相手が、このフキであったのである。私の『小穴隆一 「二つの繪」(3) 「Ⅳ」』及び「やぶちゃん版芥川龍之介句集 四 続 書簡俳句(大正十二年~昭和二年迄) 附 辞世」の最後尾も参照されたい。

「ある家のある會合」不詳。可能性の一つとして先に注で示した「シオン教会」が挙げられ得るか。

「イヷンイリイツチ」ロシアの巨匠レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ(Лев Николаевич Толстой/ラテン文字転写:Lev Nikolayevich Tolstoy 一八二八年~一九一〇年)が一八八六年に発表した「イワン・イリイチの死」(Смерть Ивана Ильича)。岩波文庫の解説に、『一官吏が不治の病にかかって肉体的にも精神的にも恐ろしい苦痛をなめ』、『死の恐怖と孤独にさいなまれながら』も『諦観に達するまでを描く』。『題材には何の変哲もないが』、『トルストイの透徹した観察と生きて鼓動するような感覚描写は』、『非凡な英雄偉人の生涯にもまして,この一凡人の小さな生活にずしりとした存在感をあたえている』とある。因みに、私はまさにこの岩波文庫の米川正夫訳を高校一年の時に読み、激しく感動した。私は中学一年の時に「復活」でのめり込み、貧しい私の机の前には、トルストイの肖像写真が貼られてあった。

「ロラン」既出既注のフランスの作家ロマン・ロラン(Romain Rolland 一八六六年~一九四四年)。彼は一八八七年には「戦争と平和」を読み、トルストイと文通までしており、一九一一年には大著「トルストイの生涯」(La Vie de Tolstoï )をもものしている。

「ヒポコンデリツク」hypochondriac。心気症。医学的な診察や検査では明らかな器質的身体疾患がないにも拘わらず、ちょっとした身体的不調に対して自分が重篤な病気に罹患しているのではないかと恐れたり、既に重篤な病気にかかってしまっているという強い思い込み(観念連合)に捉われる精神疾患。一種のノイローゼで、「不眠症」は典型的なその症状の一つである。

「芝の叔父」不詳。養家の芥川家ならば、道章の弟芥川顕二がおり、実父の新原家ならば、慶太郎と元三郎(彼が本家を嗣いでいる)がいる。芝というと、実父敏三の居宅であるから、後者のどちらかである可能性が強い。

「その女に關する惡評を少しきいた」冒頭注の太字部を参照。

「學校へも通ひはじめた」講義に何の価値も見出せなかった彼が大学に通い始めたというのは、新規巻き直しどころではなく、『どうともなれ』的なやけのやんぱちの様相にあることを感じさせる。実際、立ち直るのは五月の初旬頃とされる(宮坂年譜)。]

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