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2021/04/25

伽婢子卷之四 地獄を見て蘇

 

伽婢子卷之四

 

    ○地獄を見て蘇(よみがへる)

 

 淺原新之丞は、相州鎌倉の三浦道寸が一族の末なり。才智ありて、辯舌人にすぐれ、儒學を專らとして、佛法を信ぜず、迷塗流轉(めいどるてん)の事・因果變化(へんげ)のことわりを聞いては、さまざま、言(いひ)かすめて、誂(そしり)あなどり、僧・法師と雖も、うやまはず、口にまかせて、誹謗し、理を非にまげて、難じ破る。

 其隣に、孫平とて、有德(うとく)なる者あり。若かりし時より、欲心深く、慳貪放逸(けんどんはういつ)にして、更に後世〔ごぜ〕を願はず、川狩(かはかり)を好みて、常の慰みとす。

 ある時、心地わずらひて、俄にむなしく成りたり。

 妻子・一門、驚き歎きて、願(ぐわん)、たて、祈禱しけり。

 胸のあたり、末(ま)だ溫かなりければ、まづ、葬禮をば、せず、まづ、僧を請じ、佛前を飾り、經、よみけるに、三日といふ暮方(くれがた)に、よみがえりて語りけるやう、

「我、死して、迷塗(めいど)に赴きしに、其道、はなはだ、暗し。又、こととふべき人も、なし。かくて、『一里ばかり行〔ゆく〕か』と覺えし、一つの門にいたり、内に立入しかば、一つの帳場(ちやうば)あり、冥官(みやうくわん)、きざはしに出て、我を招きて、

『汝、死してこゝに來る。妻子、歎きて、金銀を散らし、祈禱・佛事、とりどりに營む故に、此功力(くりき)によつて、二たび、娑婆に歸し遣(つかは)す也。』

と、のたまふ。我、嬉しくて、門を出〔いで〕て歸ると覺えて、よみがへりたり。」

といふ。

「まことに祈禱・佛事の功力(くりき)は、むなしからざりけり。」

とて、喜ぶ事、限りなし。

 淺原、是を聞て、大〔おほき〕に嘲り笑ひて、曰く、

「世のむさぼり深き邪欲・奸曲の地頭・代官どもは、賄(まひなひ)得ては、非道をも正理(しやうり)になし、物を與へざれば、科(とが)なきをも罪におとす。此故に、富(とめ)る者は非公事(ひくじ)にも勝(かち)、貧き者は道理にも負(まけ)を取る。これ、此世ばかりの事かと思ふに、迷塗の冥官も私(わたくし)あり。金銀だに、多く散じて佛事をだに、よく營めば、或は死しても、よみがへり、或は地獄もうかぶとかや。貧(まづし)きものは、力、なし。善惡のむくひは、多く錢金を散らす人こそ、來世も心安けれ。むかし、漢の韋賢(ゐけん)が言葉に、『子に黃金萬贏(まんえい)をのこさむより、如(しか)じ、子に一經(けい)を敎へんには』と、いへり。地獄の沙汰も錢によるべし。閻魔王も、金だにあれば、罪は赦す。韋賢が言葉は詮(せん)なし。」

と、いひて、手をうちて、笑ひ、あざける。

 扨、かくぞ、よみける。

 おそろしき地獄の沙汰も錢ぞかし

   念佛〔ねぶつ〕の代〔しろ〕に欲をふかかれ

家に歸り、ともしびのもとに、唯、獨り、坐し居たりけるに、怱ちに、二(ふたり)の鬼、來れり。

 其有樣、すさまじく、身の毛よだちけるに、

「これは閻魔王よりの使(つかひ)なり。急ぎ、參るべし。」

とて、淺原が兩の手を引〔ひつ〕たて、門を出〔いで〕て、走る。

 步むともなく、飛〔とぶ〕ともなく、須臾(しばし)の程に、一つの帳場にいたりぬ。

 世間の評諚場(ひやうぢやうば)の如し。

 

Jigoku1

[やぶちゃん注:閻魔大王の前に巻物(浅原の生前の記録)を広げているのが、地獄の書記官の一人(一般には「倶生神(ぐしょうじん)」と呼ばれる、個々の人間の一生に於ける善行と悪行の一切を記録し、その者が死を迎えた後に、生前の罪の裁判者たる地獄の十王(特に本邦ではその中の閻魔大王に集約されることが多い)に報告するという書記官で、有名どころでは司命神(しみょうじん)と後で出てくる司録神(しろくじん)などがいる)。閻魔の右手の方にいる同様の服を着ているのが、同じ書記官の一人。左手に卒塔婆(上に「シ」と書かれている)のようなものを抱えている。「新日本古典文学大系」版脚注ではこれが『命のふだか』とされる。なによりも私がそのフォルムを偏愛する地獄のアイテム「人頭杖(にんとうじょう)」が、左幅の右手に配されてあるのがいい(右幅の楕円形のそれは今一つの必須アイテムである死者の生前の善悪の行為を映し出すという鏡「浄玻璃」である)。女の首と鬼の首が高台の上に置かれている。この首は生きており、前に亡者を控えさせると、生前の善行と悪行を総て喋るのである。どっちがどっちかって? それは意想外に女の首が悪事を、鬼の首が良い行いを語るんさ!

 

 御殿の奧には、大王と覺しき人、玉の冠(かふり)を載き、絪(しとね)の上に坐(ざ)し、冥官は、その左右に、位に依りて、坐せり。

 二の鬼、淺原を其前の庭に引〔ひき〕すゆる。

 大王、いかれる聲を出して、

「汝は、儒學を縡(こと)として、佛法を異端と貶(おとし)め、深き道理をしらずして、みだりに誹(そし)り、あざける。いでや、『迷塗の事は、なし』といふ、此科(とが)、口より出たり。速く、拔舌奈梨(ばつぜつないり)に遣(つかは)し、その舌を拔き出し、犁(からすき)を以て、鋤返(すきかへ)せ。」

と、の給ふ。

 淺原、首(かうべ)を地につけて、

「我、更に非道の罪なし。儒の敎を守りて、『君臣・父子・夫妻・兄弟・朋友の五倫(りん)の道、よこしまならじ』と、たしなみ、天理性分(〔てん〕りせいぶん)の本然(ほんぜん)を說(とき)て、其德を仰ぐ。更に佛道を修(しゆ)せずといふとも、地獄に落〔おつ〕べき、いはれ、なし。」

といふ。

 大王、のたまはく、

「『冥官も私あり、善惡のむくひは貧富(ひんふう)による』とて、『念佛の代に、欲を深かれ』といふ歌は、誰(た)が詠みしぞ。」

と怒り給ふ。

 淺原、答へていふやう、

「古しへ、三皇五帝の世には、天堂(〔てん〕だう)・鬼神の事を述べず。三代の時に至りて、山川(さんせん)の神をまつる事、初めて、これ、あり。後漢(ごかん)の世に、佛法、傳り、夫より、天堂・地獄・因果の理を示す。こゝに於て、山川にも靈(れい)あり、社頭にも主(ぬし)あり、木佛・繪像(ゑぞう)、みな、奇特(きどく)を現(げん)ず。世の人、是に溺れて、性理(せいり)を失ひ、惡をなして、改めず、科(とが)を犯して、ほしいまゝ也。つよきは弱(よわき)を凌(しの)ぎ、富るは貧しきをあなづり、親に孝なく、君に忠なく、一家(〔いつ〕け)、睦(むつま)しからず、財寶をむさぼり、邪欲をかまへ、義を知らず、節をまもらず、利に走りて、恩を忘れ、唯、『金銀だに散(ちら)して、佛事供養を營めば、罪深きも、科重きも、地獄をのがれて、天堂に生ず』といふ。若〔もし〕、よく、かくの如くならば、惡人といふとも、富貴(ふうき)なれば、天上に生れ、貧者は善人も地獄に落〔おつ〕べし。閻魔の廳と雖も、富貴なる惡人、大佛事をなせば、淨土に遣すといはゞ、貧者のうらみ、なきにあらず。是、廉直の批判にあらず。私(わたくし)と言〔いふ〕べし。我、この事を思ふが故に、一首の狂歌を詠みて、此責(せめ)に遇ふ。大王、深く察し給へ。」

といふ。

 大王。聞て、宣はく、

「此理、よこしまならず、陳(のぶ)るところ、實(まこと)也。みだりに罪を加へ難し。此誹(そし)りある事は、孫平が佛事・祈禱に金銀多く散じたる故に、二たび、娑婆に歸されたりと沙汰せし故也。急ぎ、孫平を召來れ。」

と、の給ふ。

 須央(しばらく)の間に、孫平を召し來〔きた〕る。

「手杻・首械(てかせ・くびかせ)を入れて、直(すぐ)に地獄に遣はし、淺原をば、娑婆に送り歸せ。」

とあり。

 二人の、冥官、座を立〔たち〕て、淺原を連れて、庭を出〔いづ〕る。

 淺原、言ふやう、

「我、人間にありて儒學をつとめ、佛經に說(とく)ところ、地獄の事を聞ながら、信(しん)を起さず。今、すでに、こゝに來〔きた〕る。願くは、地獄の有樣を見せて、我に、いよいよ、信を起さしめ給へかし。」

といふ。

 冥官、聞て、

「さらば、司錄神(しろくじん)にとふべし。」

とて、西のかた、廊下を過〔すぎ〕て、一つの殿(でん)に行く。

 善惡二道の記錄、山の如くに積たり。

 冥官、

「しかじか。」

といふに、司錄神、簿(ふだ)を出〔いだ〕したり。

 冥官を、これ、とりもち、淺原を連れて、北のかた、半里ばかり行けるに、銅(あかがね)の築地(ついじ)高く、鐵(くろがね)の門、きびしき城に至る。

 黑煙、天におほひ、叫ぶ聲、地を響かす。

 午頭・馬頭(ごづ・めづ)の鬼、あまた、鐡棒・鐡叉(てつしや)を橫たへ、門の左右に立たり。

 二人の冥官、さきの簿(ふだ)を渡し、淺原を連れて、内に入て、見せしむ。

 罪人、數知らず、獄卒、捕へて、地に伏せ、皮を剝ぎ、血を絞り、腹をさき、目を剜(くじ)り、耳をそぎ、鼻を切り、手足をもぎて、肉をそぐ。

 罪人、泣き叫び、苦(く)を悲しむ聲、地にみちたり。

「これは、むかし、人間にありし時、山海に、獵(かり)、漁(すなどり)、殺生を營みし者也。」

 

Jigoku2

[やぶちゃん注:この絵師はかなり律儀で、以下のそれぞれの悲惨な各々の地獄の内容を描き込んである。]

 

 又、或所には、銅(あかゞね)の柱を二本、立〔たて〕並べ、男と女と二人を傑(はりつけ)にして、獄卒、劍(けん)をもつて、腹を斷(たち)さき、銅の湯を、銚子(てうし)に盛(もり)て、流しかくるに、五臟六腑、爛れ燃(もえ)て、わき流るゝ。

 男も女も、只、首ばかり、柱に殘りて、泣き叫ぶ。

 淺原、其故をとふに、冥官、答へて曰く、

「是は娑姿にありし時、この男は藥師(くすし)なり。此女の夫(をつと)、病深きを療治せしむるに、藥師と女と、まさなきみそかごとして、夫に惡しき藥を與へ、女、あらけなく當りて、殺しつゝ、夫婦(ふうふ)となりき。二人ながら、死して今、此苦(く)を受(うく)る。」

といふ。

 又、或所には、尼・法師、多く、裸にて、熱鐵(ねつてつ)の地に蹲(うづく)まり居たるを、獄卒、來りて、牛馬(ぎうば)の皮を着(きせ)、履(おほ)ふに、尼も法師も、そのまゝ牛馬になる。是に、磐石(ばんじやく)を負(おふ)せ、くろがねの鞭(むち)を以て、是を打つに、皮、破れ、肉(しゝむら)、そげて、血の流るゝ事、瀧の如し。

 淺原、又、問うて、曰く、

「これ、人間にありし時、尼となり、法師となりて、田、作らずして、飽まで食(くら)ひ、機(はた)おらずして、暖(あたゝか)に着て、形は出家ながら、戒律を守らず、心に慈悲なく、學道なくして、徒らに施物(せもつ)もらひける者共也。此故に、畜生となりて、信施(しんせ)を償ふ。」

と云(いふ)。

 又、或所を見れば、俗人、多く、牛馬となりて、苦を受く。

「これは、昔、代官として百姓を取り倒し、妻子を沽却(こきやく)せしめたり。百姓辛苦の脂(あぶら)を、はたりとる、是も施物に同じからずや。」

と云。

 最後に、ある地獄に至る。

 猛火(みやうくわ)、殊更にもえあがり、數百人、くろがねの地に坐し、手杻・首械をさされ、五體、さながら、もえこがれ、焰(ほのほ)、みちみちたり。

 毒蛇(じや)來りて、其身をまとひ、血を吸ふ。

 又、鐵(くろがね)の嘴(くちばし)ある鷹、飛び來り、罪人の肩を踏(ふま)へて、眼(まなこ)を喙(つい)ばみ、肉(しゝむら)を引き裂き、食(くら)ふ。

 泣き叫ばんとすれば、猛火のけふり、咽(のど)に迫り、苦しみ、いふばかりなし。

 肉、盡きて、骨、現はれ、死すれば、凉しき風、吹き來り、又、元の如くにして、蘇(よみがへ)る。

 淺原、其故をとふに、曰く、

「是は、往昔(そのかみ)、鎌倉の上杉則政(のりまさ)の子息龍若(りうわか)殿のめのとご妻鹿田(めかた)新介、その弟長三郞、同三郞助、その外、親類、都合廿人、すでに則政沒落の時、主君龍若殿をつれて、敵(かたき)北條氏康(うぢやす)に渡して、降人(がうにん)に出たり。主君を殺したる天罸、あたり、此廿人、みな、氏康に殺され、死して、此地獄に落ちて、億萬劫(おくまんごふ)を經(ふ)るといふとも、浮ぶ時、あるべからず。其外の輩(ともがら)も、皆、主君を殺し、不忠を抱き、國家を亡ぼしける者共也。」

と、こまごまと語る。

 其より、淺原、冥官につれて、門を出〔いづ〕る、と覺えしかば、忽ちに蘇り、

「隣の孫平は如何に。」

と問ければ、其夜、又、むなしくなれり。

 是れによりて、淺原、儒學を捨てて、建長寺にいたり、參學して、醒悟發明(せいごはつめい)の道人(だうにん)となりけり。

 

[やぶちゃん注:挿絵は「新日本古典文学大系」版のものを使用した。

「淺原新之丞」不詳。

「三浦道寸」三浦義同(よしあつ 宝徳三(一四五一)年或いは長禄元(一四五七)年~永正一三(一五一六)年)は戦国初期の武将で東相模の大名。一般には出家後の「道寸」の名で呼ばれることが多い。北条早雲の最大の敵であり、平安時代から続いた豪族相模三浦氏の事実上の最後の当主。鎌倉前期の名門三浦氏の主家は、宝治元(一二四七)年に北条義時の策謀による「宝治合戦」で滅亡したが、その後三浦氏の傍流であった佐原氏出身の三浦盛時によって三浦家が再興され、執権北条氏の御内人として活動し、「建武の新政」以後は足利尊氏に従い、室町時代には浮き沈みはあったが、三浦郡・鎌倉郡などを支配し、相模国国内に大きく勢力を拡げた。道寸は扇谷上杉家から新井城(三崎城とも)主三浦時高の養子に入る(先に義同の実父上杉高救(たかひら)が時高の養子であったとする説もある)。しかし、時高に高教(たかのり)が生まれたために不和となり、明応三(一四九四)年に義同は上杉時高及び高教を滅ぼし、三浦家当主の座と、相模守護代職(後に守護。時期不明)を手に入れた。その後、北条早雲と敵対するようになり、道寸父子は新井城(グーグル・マップ・データ)に籠城すること三年、家臣ともども凄絶な討ち死をした。なお、この落城の際、討ち死にした三浦家主従たちの遺体によって城の傍の湾が一面に血に染まり、油を流したような様になったことから、同地が「油壺」と名付けられたと伝わる(以上は所持する諸歴史事典とウィキの「相模三浦氏」及び「三浦義同」を主に参考にした)。

「迷塗」「冥途」の当て字。

「言(いひ)かすめて」「言ひ翳めて」。言葉巧みに誤魔化して。

「理を非にまげて」道理を、無理矢理、へし曲げて。しかしそれで相手を必ず論難して勝ったわけだから、この浅原という男は相当に狡猾な悪智慧者ではあったのである。

「慳貪放逸(けんどんはういつ)」「慳貪」は吝嗇(けち)で欲深く、しかも思いやりがなく、邪見なこと。「放逸」勝手気儘に振舞い、且つ、その行いが常識や道徳から外れていることを言う。

「川狩(かはかり)」川漁。

「帳場(ちやうば)」「廰場」の当て字であろう。冥府の役所。

「奸曲」「姦曲」とも書く。心に悪巧みを持っていること。

「非公事(ひくじ)」道理を全く外れた著しく不当で非論理的な裁判。

「漢の韋賢(ゐけん)」韋賢(紀元前一四三年~紀元前六二年)は前漢の政治家。儀礼や「書経」・「詩経」に通暁し、「鄒魯の大儒」(彼は魯国の騶(すう)県の出身)と呼ばれた。中央に徴用されて博士となって第八代皇帝昭帝に「詩経」を教授した。昇進して大鴻臚(九卿(きゅうけい)の一つ。帰順した周辺諸民族(「蛮夷」)を管轄した)に至り、昭帝が跡継ぎなしに崩御したことから、大将軍霍光らとともに宣帝(武帝の曾孫であったが、在野していた)を皇帝に擁立し、その功績で関内侯を賜り、後に長信少府・扶陽侯に封ぜられた。紀元前六七年に高齢を理由に丞相を引退することを申し出て許され、金百斤と屋敷を賜った。丞相が自ら引退するようになるのは彼が最初であった。参照した当該ウィキによれば、子は四人おり、『長男の韋方山は早くに死に、次男の韋弘は東海太守となり、三男の韋舜は魯の父祖の眠る墳墓を守』って『出仕せず、四男の韋玄成は丞相になった。漢において親子』二『代で丞相となったのは韋賢・韋玄成と』、『周勃・周亜夫、曹操・曹丕の計』三『組だけである』。『故郷の騶では、韋氏が経書』(五経のこと)『を学んで栄えたことから、「子孫に金を遺すよりも経書を遺す方が良い」という諺が生まれたという』とある。

「萬贏(まんえい)」稼いだあり余らんばかりの数万の大金。

「おそろしき地獄の沙汰も錢ぞかし念佛〔ねぶつ〕の代〔しろ〕に欲をふかかれ」「ふかかれ」は「深くあれ」の縮約だろう。上句は所謂、「地獄の沙汰も金次第」で、下句は、「念仏なんぞ、役には立たぬ、その代わり、しっかり、がっつり、欲深(ぶか)であれ!」という謂いであろう。

「絪(しとね)」縄を編んだ敷物。

「縡(こと)として」それだけを唯一正当なものと心得て。

「いでや」感動詞。「あろうことか、何んと!」。

「迷塗の事は、なし」冥途(あの世)などというものは存在しない。

「拔舌奈梨(ばつぜつないり)」「地獄」を意味するサンスクリットには「ナラカ」の「ニラヤ」があり、後者の漢音写に「泥梨・奈利」がある。一般的にはポピュラーな地獄の責め苦ではあるが、名前として「抜舌地獄」というのは私は聴いたことがない。「新日本古典文学大系」版脚注には、『地獄絵に亡者を柱に縛り付け、引き出した舌をたたき広げて杭で固定し、その上を牛にひかせた犁(からすき)で鋤き直す図として描かれる』とあった。

「たしなみ」「嗜み」。好んでそのことに励んで修行し。

「天理性分(〔てん〕りせいぶん)の本然(ほんぜん)」天道が我々に生得的(アプリオリ)に与えている生来の正しい精神の本来の姿。

「冥官も私あり。」「まあ、冥途の審判官の中にも、ひそかに悪巧みをする者がおる。」閻魔の突然の衝撃の告白じゃて!!! 分が悪いと判断したものか、指弾の切り口を狂歌批判にスライドさせて、お茶を濁そうとする。

「三皇五帝」中国古代の伝説上の聖天子八名の総称。「三皇」は「燧人 (すいじん) 」・「伏羲 (ふっき) 」・「神農」(或いは伏羲の妻女媧 (じょか) を数えることもあり、「五帝」との互換が行われるケースもある。また、全く別に「天皇」・「地皇」・「人皇」とするものもある)。「五帝」は「黄帝 (こうてい) 」・「顓頊(せんぎょく)」・「帝嚳 (こく)」・「堯 (ぎょう)」・「舜 (しゅん)」(その後の「禹」を含めることも多い)であるが、これも命数に異同がある。この伝承は戦国時代に纏められたものである。

「天堂(〔てん〕だう)」天上界にあって神・仏・神仙が住むという殿堂。具体に言ってしまうと矛盾が生じるので言わない。言うべきでないと思う。所謂、漠然とした超自然的な「天道」の世界・存在である。

「三代」中国の古代国家である夏(か 紀元前一九〇〇年頃~紀元前一六〇〇年頃:史書に記された中国最古の王朝。殷の湯王に滅ぼされたとされるが、長らく伝説とされてきたが、近年の考古学資料の発掘により実在の可能性が出てきた)・殷・周。

「後漢(ごかん)の世に……」「新日本古典文学大系」版脚注に、『仏教の中国伝来は諸説あるが、後漢の』第二代皇帝『明帝』(在位:五七年~七五年)『の時とするのが通説』とある。

「天堂」この場合は、「地獄」と対として「因果の理」に搦められるならば、六道輪廻の最上位である「天上道」を示すことになる。但し、そもそもが浅原は仏教をてんで信じていないわけだから、この「天堂」は彼にとっては別に輪廻から解脱して行く永遠の「極楽浄土」でも、これ、全然、問題ないことになるのである。

「性理(せいり)」人の本性。「朱子学」では「人間の本性又は物の存在原理」も含む。浅原は性善説に立っているようである。

「あなづり」〕「侮り」「あなどる」の古形。軽蔑し。

「廉直の批判」心が清らかで私欲がない誠実な裁決。

「此誹(そし)りある事は、孫平が佛事・祈禱に金銀多く散じたる故に、二たび、娑婆に歸されたりと沙汰せし故也。急ぎ、孫平を召來れ」ここには誤魔化しがある。というより、閻魔が「冥途にだって私的忖度はある」と告白したことから判る通り、実は閻魔自身が孫平のケースの生還に関わっていることを強く疑わせるのである。その証拠に、そうした忖度をした冥官を調べ上げようとしていないことから明らかだ。どこかの「桜」の国の首相と同じ穴の貉というわけである。

「人間」六道の人間道(にんげんどう)。

「簿(ふだ)」地獄を自由に行き来出来る特別見学許可証である。

「銅(あかがね)の築地(ついじ)高く、鐵(くろがね)の門、きびしき城に至る」「新日本古典文学大系」版脚注には、『高々と続いた銅の城壁。等活地獄』(八大地獄の第一で、殺生を犯した者が落ちるとされ、獄卒の鉄棒や刀で肉体を寸断されて死ぬが、涼風が吹いてくるとまた生き返り、同じ責め苦にあうとされる)『の二番目刀輪処(とうりんしょ)は鉄壁で囲まれ、内に猛火が燃えさかっている』とある。

「鐡叉(てつしや)」鉄でできた「刺股・指叉」。江戸時代、罪人などを捕らえるのに用いた三つ道具の一つで、二メートル余りの棒の先に、二又に分かれた鉄製の頭部を附けたもの。これで喉首を押さえるもの。

「これは、むかし、人間にありし時、山海に、獵(かり)、漁(すなどり)、殺生を營みし者也」再召喚された孫平が送られる地獄を最初に示す。

「まさなきみそかごと」尋常ならざる秘密の関係。不義密通。

「あらけなく當りて」ひどく粗暴に扱って。

「そげて」「削げて」。

「畜生となりて、信施(しんせ)を償ふ」しかし、これは結局、六道の「畜生道」と同じで、今一つ、ピンとこない。同様に、次の場面も同じ。しかし、芥川龍之介の傑出した児童文学「杜子春」(リンク先は私の古い電子テクスト)の地獄のラスト・シークエンスでは、私は何らの違和感を抱かないから、不思議。

「沽却(こきやく)」女衒や女郎屋に売り払うこと。

「鐵(くろがね)の嘴(くちばし)ある鷹、飛び來り、罪人の肩を踏(ふま)へて、眼(まなこ)を喙(つい)ばみ、肉(しゝむら)を引き裂き、食(くら)ふ」叫喚地獄のメインの他に同時語句には十六種の辺縁地獄あり、その一つの「髪火流処(はっかるしょ)」は五戒を守っている人に酒を与えて戒を破らせた者が落ちる地獄とされ、熱鉄の犬が罪人の足に噛み付き、鉄の嘴を持った鷲が、頭蓋骨に穴を開けて脳髄を啄み、狐たちが内臓を食い尽くすとされる。

「鎌倉の上杉則政(のりまさ)」正しくは、上杉憲政(天正七(一五七九)年~大永三(一五二三)年)。戦国時代の武将で関東管領。山内上杉家憲房の長子。大永五(一五二五)年に父憲房が病没した際、未だ幼少であったため、一時、古河公方足利高基の子憲寛が管領となり、享禄四(一五三一)年九歳の年、同職に就任したが、奢侈放縦な政治で民心を失った。天文一〇(一五四一)年、信州に出兵し、同十二年には河越の北条綱成を攻めるなど、南方の北条氏と戦ったが、相次いで敗れ。同十四年の「河越合戦」でも、北条氏康に敗れて上野平井城に退く。この戦いでは倉賀野・赤堀など有力な家臣を失い、上野の諸将は出陣命令に応じず、同二十一年には平井城を捨てて、越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼った。永禄三(一五六〇)年、景虎に擁されて、関東に出陣し、翌年三月には小田原を囲んだ。帰途、鶴岡八幡宮で上杉の家名を景虎に譲り、剃髪して光徹と号した。しかし、天正六(一五七八)年三月に謙信が病没すると、その跡目を巡って、上杉景勝は春日山城本丸に、同景虎は憲政の館に籠って相争うこととなり、城下は焼き払われ、景虎方は城攻めに失敗して敗北、翌年三月に憲政の館も攻められ混戦の中、殺害され(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)、

の嫡子龍若は小田原で斬首された。

「妻鹿田(めかた)新介」前注の通り、憲政の嫡子龍若を自身の存命をかけて裏切って北条氏康に引き渡した元上杉家家臣。

「醒悟發明(せいごはつめい)」迷いが晴れて悟りを得ること。]

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